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2011年10月02日

「東海道山すじ日記」の通行ルート

・「東海道山すじ日記」、著:松浦武四郎、翻字・解説:宮本勉、羽衣出版、’01 原文、翻字、口語訳、原図付きで読みやすい。急いでいる人は口語訳だけでもよいし、他の部分も目を通すと、彼の時代にタイムスリップできる。生活事情がある程度分かる。ただもう少しエピソードがあると分かりやすいし、道の行程ももう少し記入されていると分かりやすいのだが、明治のごく初期にこのような山間部を通行したことで、歴史上に峠道のいくつかの状態を証明したことになり、私にとってなぞ貴重である。清水区宍原の椿峠、竜爪山北の駒曳き峠、樫の木峠、洗沢峠を通過している。そして珍しいのは権現峠という場所を通るのだ。その場所は、静岡新聞などで特定された。
 それにしても彼はこのような山間地を通りつつ地元の純朴な人たちと関わっていくのだが、決して彼らを見下さず、彼らの人情に敬意をもちつつ付き合っていけることがすばらしい。アイヌ人にも敬意をもって接することができる人で大きい心の持ち主といえよう。

・「東海道山すじ日記」通行ルート
 彼の通行ルートだけを取り出して一覧してみたい。
・江戸下谷三枚橋、青山通り→世田谷街道ニ里→宮益→一里→原口→世田谷(馬継場) →一里半→二子渡(六郷の川上舟渡) →18丁→溝の口(日本橋から四里)(世田谷廻りで太子堂経由で半里近くなる) →48坂→左右蠏(木ヘンに解、こく)柏(コクビャク)山、下にはツツジ、大山参詣頃人通り多し→二里→窪田→長津田→原道一里八丁→鶴間→細川渡り八丁→相模鶴間→二里→国部村(国分尼寺) →28~9丁→柏が谷村→馬入川の舟渡→→8丁→厚木宿→田んぼ道→上岡田、下岡田、酒井、小柳村→一里→愛甲(高麗寺山近く見えた){厚木から槽谷に行くにはここまで下らず、まっすぐに船子村を横切れば近かろう}、石田村→一里→糠谷→伊勢原村→一里→神渡→城の内村→18丁→前波マエナミ(善波?) →切通上り10丁→下る一里→十日市場→
増屋→上の道近道→沢間→畑道一里→千村チムラ→半里下る→川筋、48瀬→一里→  
↘下の道山坂ない遠い
神山村(向かい松田村) →十文字川(仮橋、酒匂川上流)越して→町屋、吉田島、延沢村
→坂道下る二里→関本→片上里、雨坪村、弘西寺村、苅岩村、一色村→一里八丁→矢倉沢
(関所)→20丁上り→16~7丁下り→地蔵堂村→険路上り一里→足柄峠(地蔵堂) →一里八丁下る→
一里で竹の下→4~5丁上り→並木通り、厩や村→一里→御殿場
→埃沢エンザワ通り→印野(光徳寺) →独鈷沢→須山口の鳥居→半里→印野から二里半で
    ↘本道は左:茱□(草カンムリに叟、ミ)原グミハラ、芹沢原、菱刈原、二里半遠い 
十里木(9軒)→一里下り→世古(勢子)辻→上の道→大宮道
                 →中道、大淵村→原まま沢に下り、十里木より
                 →下道→吉原道
三里、大淵村→杉谷村→甲州路二里半→大宮町
                ↘半里→万農原
・大宮(富士宮浅間大社)から野中村、治窪村を過ぎ、峠一つ越えて羽鮒村に下る。
治窪村は沼久保のことか? だとすると野中町から沼久保へ出て、安居山越えで羽鮒に至ったようだが、正確にはどこを越えたか不明。地元の人なら分かるのかもしれない。羽鮒山にはハイキングコースがあり、展望台もある。もしかするとそのハイキングコースの一部にも重なっているかもしれない。
・次に鮒川(芝川)の急流では藤縄を張った刳船で渡って、長貫村に出ている。釜口峡の藤縄の吊り橋に度肝を抜かれている。
・内房村、塩出組、境川村を通り宍原道、これは洪水のときに使う道で、または爪生島を通りしし原道となる。水廻り通りを行くとなっているので爪生島を通り途中で山に取り付き、今はゴルフ場となっている山を越して宍原に至ったのか。細谷川とは稲瀬川のことか。
・宍原から椿峠へ登る。峠からは大所へ下りている。今は大所入口に供養塔がある。桑又川に沿い下って小川村に出る。
・小川村から山を上って板峠(榎峠のことか?) 和田嶌に下る。しけの島村(茂野島)、とつら沢村(葛沢) 、土村、(布沢村)、黒川村、(河内村、大平村)、(竜爪山)、駒曳峠、
 黒川から駒曳峠へはおぼつかない危険な道だったようで、今ではさらに廃道化しているようだ。よほどの山慣れた人しか歩けないだろう。
・駒曳峠、俵峰村、俵沢村、油島村、安倍川、中沢村、桂山村、只間(唯間)村、落合村、寺尾村、内匠村、樫の木峠、
峠から俵峰へは今も道がある。俵沢へは舗装された新道となる。その付近に昔の廃道があるのだろう。中沢から安倍川や中河内川、西河内川沿いに歩いているが、河原道を通ったのか、古道があったかは不明。おそらく内匠村から白石沢に沿いに上って樫の木峠に出ている。1990年ごろこのルートは通れたが今通れるか不明。川島から林道で峠に出られるようになったため。樫の木峠直下から日向村に出る古道は林道により消失している。ただ林道の途中から古道登山ルートが一部残存している。
・日向村、藁科川、洗沢峠、峯(富士城?、平栗の枝村)、(榊尾峠?、高山・無双連山方向のことか)、真瀬マセの大橋(馬路マジ橋)、
 日向で藁科川を越え、後の開拓地:畑色(この時代は未開拓)付近を通り上杉尾を通過し洗沢峠に出たと思われる。
・藤川村、小永井村(小長井)、小長井神社(城)、岸村、田代村、坂本尾沢、青部村、沢間村、堀の内村(徳山)、庄島(正島)村、田の口(田野口)村、梅島、下長尾村、麦代村(向井、原山、久保尾?)、
 この辺り川根沿いの秋葉街道に当たり、そのルートそのままに通行している。(*川根沿いの秋葉街道については、「古街道を行く」鈴木茂伸、静岡新聞社、参照)
 麦代村はどこの村なのだろうか?
・麦代村(向井、原山、久保尾?)、権現峠(川根本町原山と浜松市田河内水舟、家山林道)、田河内村、越木平、花島村、
権現峠(川根本町原山と浜松市田河内水舟)家山林道
 権現峠は先の静岡新聞記事の推定で間違いなかろう。今は家山林道が尾根通しに通過していて峠という印象すらなかろうが、向井や田河内村に下る古道は残存している。
・越木平→花島村→右:春埜山道五十丁、杉野村
         ↘左:秋葉道→いさ川村(砂川) →半里→和泉平→半里→中谷→半里→平生
*なお上記の右左は私なりに考えてみると変な気がする。なぜなら村の名の順序からして南西方向に進行している(または西ないしは南向きと考えてもよい)はずだが、そうすると左に春埜山道、右に秋葉道になると思うのだが、私が変?
→半里→若之平→十丁→犬居村→左:和田ヶ谷→中沢、領家村→32丁→峯小屋、中小屋(横川
              ↘右:坂本道              ↘18丁→光明山
村) →只来村→50丁→山東村→48瀬→25~6丁18瀬越→二股村→小峠一つ越え→東鹿島村、船渡し場→西鹿島村→岩水村、岩水寺→宮の口→味方が原→右:都田村、初山鮭院寺、この上の山蓮華峯、前:瀬戸村、瀬戸ヶ淵→右:金指宿→気賀→引佐峠→二里→三ケ火→本坂越二里半→嵩山すせ→一里→長柄→三里→御油

*以下は松浦武四郎が考えたより合理的なルートの案として掲載されているものである。
・(案1)大井川梅島→篠原、平木□□、黒原→犬居
・(案2)上長尾→越木平、気田村、窪田村→秋葉の後山→雲名村の渡し→石打村→熊村→嶺→神沢→鳳来寺、新城



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Posted by 兵藤庄左衛門 at 10:38│Comments(0)古道
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