さぽろぐ

文化・芸能・学術  |

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2011年04月29日

大谷街道

大谷街道
 大谷街道の出発点をどこと捉えるか決定打はないが、池田街道分岐点と捉えよう。今の池田街道から分岐するのが、今の大谷街道(県道大谷古庄線)の分岐出発点でもある。ただ古い池田街道は今の分岐点より30m南の路地のようであり、今の池田街道の1本南に平行して通っている。
池田街道の詳細は『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)の「平沢観音道、曲金コース」を参照されたい。
・寺田博士記念碑(池田1086-4)
 大谷街道の出発点からはずれるが、この付近なので紹介しておく。場所は東豊田幼稚園東で川を渡った向こうである。寺田氏とは近代における近辺の有力者で郷土発展に尽力した方のようだ。この記念碑の東200mの交番前(聖一色46-1)にも寺田博士記念碑がある。
・庚申塔(池田733、池田バス停)
 さて県道の大谷街道南下する。150mで消防分団を通過する。ここに「庚申塔 大正九年…」がある。ここから東200mに池田神社がある。
・池田神社 
 由緒あり、池田の地名になっている。隣に豊川稲荷がある。
・本覚寺(池田1379)
 さて県道の南下を続ける。300mで交差点があり、本覚寺参道入口標識がある。寺へは東300mである。寺には石塔類豊富である。寺には幕末の侠客:安東文吉や徳川家康に嫌われた孕石主水、高天神城を守った岡部丹波守の墓がある。
・法伝寺(小鹿1610-3) 
 近年移転してきた寺である。
・龍雲寺(小鹿866)
 500m南下すると、龍雲寺が見える。明治になって話し合いをして檀家が離れたため墓地だけの寺になっている。境内は月ぎめ駐車場である。曹洞宗。地蔵堂:本尊:阿弥陀如来、子安地蔵菩薩、他2基。古い石塔類が多い。「庚申供養塔」2基、石塔10基、「豊田小学校発祥の地記念碑」、「牛供養」、新・地蔵。
・小鹿氏居館跡(小鹿866) 
 殿屋敷といわれる龍雲寺近辺が小鹿氏の居館跡。
・伊勢神明神社(小鹿886)
 150m南下し二つ池手前を東へ150m。巨木があり、古くから神社のある地と考えられる。この小鹿の地が古くから開けていたことはこの後の史跡からも分かる。創立1590年。楠(静岡県指定天然記念物)樹齢千数百年。
・二つ池(小鹿)
 小鹿公園もあり、憩いの地。溜池のようだが今は公園の一部となっている。
・若一王子神社(小鹿370)
 池から50mないし150m進み、堀の内バス停付近の路地を西へ向かい再度折れ曲がると付近に小さな神社がある。1625年にはすでにあったようだ。手水鉢「慶応二年」。石灯籠1基。石鳥居「大正六年」。
・山神社(小鹿)  
 
・七面堂(小鹿)  
 本覚寺の境外仏堂。北原山にある。
・山の神古墳  

・駿河堀の内山古墳群  

・長沢地蔵(大谷448)
 150m進んだ長沢川手前にある。11年4月付近を改修中らしく地蔵もない。
・日本平公園遊歩道と駐車場(小鹿2237)
 街道をそれ、長沢川を東に1km詰めていくと遊歩道と駐車場の標識がある。11年3月には整備工事中であった。
・西教寺(大谷5105)
 人気のない寂しい道を500m奥に進むと梅林があり、白梅がきれいに咲き梅の花の香りに包まれた。ここを過ぎると寺がある。かつて市内人宿町か新通あたりにあった寺のようだ。古い石塔類も移転されている。ちなみに寺を過ぎると下り坂となり、静岡大学グラウンド前に出て急に明るくなる。
・長沢川(小鹿と大谷の境)
 西教寺手前の道を奥深く進むと長沢川上流に行ける。行くなら冬場に限る。600m奥の日本平パークウェイ手前で登山道も崩壊していて進めないが、ここまででもちょいとした冒険探検気分が味わえる。
・西教寺墓地横の尾根道、かつてのハイキングコース?かもしれない
 農園の畑となっている。この尾根に沿って奥へ進むのがかつての大谷からの日本平へのハイキングコースかもしれない。だとすれば遊木の森(かつてのボーイスカウトキャンプ地)で日本平パークウェイを越える歩道橋につながり、日本平と大谷をつなぐコースだったかもしれない。なお下記のコースかもしれない。
・池ノ谷沢川(大谷)、かつてのハイキングコース?かもしれない
 静大グラウンド前の自然観察実習室横の沢に沿って奥へ1km進む。道はでこぼこだが一応コンクリ舗装されている。畑に出て終点だが、かつてはこの沢奥に進め、遊木の森(かつてのボーイスカウトキャンプ地)で日本平パークウェイを越える歩道橋につながり、日本平と大谷をつなぐコースだったかもしれない。
・静岡大学、旧・大段(大谷)
 静岡大学が大岩から移転する前は、大段といわれ、一面の畑であった。
・片山公民館(旧・子安堂)   
 静大入口交差点を静大方向の東名ガードに向かい進み、一つ目の右折路を曲がる。石塔類。「葷酒不入山門」、庚申塔「昭和五十五年」、他1基、地蔵、石塔、六地蔵「元禄五」、「記念碑 永徳寺子安堂と公民館の沿革」によれば、永徳寺開山1675年、廃寺1871年、
・片山廃寺跡(大谷)
 話を長沢川の大谷街道に戻す。300m進むと東名高速道路高架橋下に出る。新・地蔵も祀られている。この辺りが片山廃寺跡である。本格的寺院で国分寺かそれに匹敵する寺院と考えられるが、決定的証拠はない。この地が古代から開けていたことは明らかである。礎石の跡などが例示されていて、建物が想像できる。
・白山神社(大谷596)
 隣に神社がある。記念碑がある。
・諏訪神社(大谷4475)、古墳
 400m進むと左(東)に広い通りがある。これを50m進み右の坂を上ると神社がある。古墳である。
・池ヶ谷池(大谷1424)
 諏訪神社の道向かいにあり、かつての溜池である。
・宮川の子授け地蔵、庚申塔(大谷)   
 静大への広い取り付け道路交差点の次の狭い交差点にある。「庚申塔 大正九年 宮川區…」。
・大正寺(大谷3660)
 600m進み大谷小学校を通過し、大正寺沢川を渡ると東に大正寺参道入口がある。古い石塔類もある。諏訪大明神のお堂もある。これは麻端沼の婆さんを祀ったものである。当寺は麻機の岩崎家や分家が関係する旦那寺であるため、ここに沼の婆さんを祀っているのだ。
 「庚申塔 萬延元年」「庚申供養塔」「奉順礼西国四国…」、ぽっくり地蔵尊・他4基(大正寺末寺 大谷海雲寺より移転)、姿見の井戸(朝比奈弥太郎泰能が自害する前に身支度を整えた井戸である。彼は今川氏真部下で武田氏に駿府を攻められたとき氏真を掛川に逃し、婦女子を高松海岸の船に乗せるよう手はずを整えたのち、この寺で自害した。しかし婦女子は乗船できず入江の渕:上臈渕に身投げしたという。) 隣に雷が岩を引っかいたという筋模様の岩がある。
・旧大谷街道、八坂神社、大谷不動(大谷2781)
 大正寺参道入口から大谷街道を30m南下すると左(東)に細い道がある。これが旧大谷街道の残存部と考えられている。薄暗い道を進むと八坂神社があり、神社の上には大谷不動が祀られるお堂もあり、アスレチック広場にもなっている。
・八坂神社(大谷) 
創建不詳、棟札1672,1854年、元牛頭天王社、樹木100~300年、石鳥居:明治二十九年建造昭和六十二年再建、石灯籠:元和三1617年、慶安元1648年、手水舎:文化三1806年。
・海岸山大谷不動明王、加羅倶利堂(大谷) 
 参道途中に庚申塔等の石塔14基、地蔵7基が安置されている。大谷不動の由来は漁師が漁をしていて網にかかったのが石仏で、それを祀ったものだという。大谷不動の西側には地蔵堂(地蔵、大日如来)がある。歯痛封じの地蔵である。倶利伽羅堂という。石灯籠:元和二年、六地蔵、80cm×1.5mの台石。
・地蔵堂(大谷2651)
 薄暗い旧大谷街道を下りきると、旧久能街道と交差する。そこに石仏が祀られている。大谷街道は久能街道に合流して終点である。なお個人的にはもっと古い久能街道はもう少し北寄りの路地だったのではないかと考えているので、ここの石仏も移転されてここにあるのだろうと勝手に考えている。
 11年4月細かった道は広く付け直され周辺も区画整理されて新しい家ばかりで、旧態がほぼない。地蔵もない。  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 23:07Comments(0)古道

2011年04月04日

推定平安鎌倉古道、三嶋大社~箱根・芦ノ湖高原別荘地

・推定平安鎌倉古道、三嶋大社~箱根・芦ノ湖高原別荘地、標高850m (三島市)   
 江戸時代の東海道による箱根越え道は今の国道1号線に付かず離れずに山中新田や山中城辺りの尾根を辿って行く道である。それ以前の道は足柄峠越えということになっている。しかし鎌倉時代の「十六夜日記」に箱根越えの記述があり、山中新田の尾根のもう1ぽん北の尾根(小沢、元山中、五輪)を通ったものと推定されている。
 まず出発点であるが、三嶋大社の東側の暦を作った家(河合氏宅)前から東に進み、大場川に架かる下神川橋を渡り左カーブを道なりに進むと正面に「願成寺」がある。源頼朝所縁の寺でここからかつての箱根越えの坂道がはじまるのが分かる。道なりに奥へ進む。基本的に尾根の中心部に沿って進むものと考えればよい。鉄道高架橋(高さ1.9m制限、東に小さな天神社があるようだ)を渡り、すぐ右に曲がり道なりに進むと新幹線の高架橋を渡る。旭ヶ丘という新興住宅団地の土真ん中を突っ切って行く。この辺りから古色が失せ現代的な山の手風景となるが、この新しい尾根道は古い古道を拡幅したものと思われる。山田小中学校や老人センターを過ぎゴリラマークのゴルフ練習場向かいに古びた「元山中、青少年センター、箱根」の標識がある。その標識奥の暗い道に入る。清掃工場の裏口になるようだ。それを過ぎるととたんに道が劣化しでこぼこ道となる。暗く淋しい所を過ぎ尾根上を上って右方向に進むと畑をいくつか過ぎ、「小沢の里、トイレ←→鎌倉古道」の標識がやっとある。ただし小沢の里に下りるのは正規コースではなくトイレ休憩用であるので、道はそのまま尾根上を上って行く。広々と区画整理された畑に出る。そのまま直進すると元山中集落に越えていくことになるので、その手前を左折し尾根上を上って行く。その曲がる所の奥に地蔵石仏がある。左折し500m進むと左に「山神社」があり、「復元された平安鎌倉古道」の云われの看板がある。山神社少し先からゴルフ場用地内に標識があって古道が進んでいて、さらに先で舗装路に戻るが、柵が張られていて進むことはできない。しかし山神社奥にもピークヲ反対側から巻く別の山道があり、この山道もどうも鎌倉古道の成れの果てと思われる。山神社前の舗装路をもう300m進むと左に石階段があり、上に諏訪神社がある。これまた諏訪神社奥の堀切のような空堀は鎌倉古道の成れの果てと思われる。しかしいったんゴルフ場(グランフィールズカントリークラブ)横の舗装路に戻り、200m奥に進むと左手上に進む山道があり、標識「元山中、箱根」がある。笹や草が繁っているが、かつて道幅は1間(1.8m)あったと思われる。ここから先ほどのピークの反対側に行く別山道に分かれる分岐点もあった。300m進むと幅1mのコンクリ舗装と出会う。これは下の先ほどの舗装路から分岐し30m伸びる道でちょうどここで幅1mのコンクリ舗装が切れる。ここにも標識「元山中、箱根」がある。古道を100m進むと草の繁り方がひどくなり笹と草と蜘蛛の巣をかきわけることになる。200mもかきわけると突然幅1.8mだけ草が切れる。これまた先ほどのゴルフ場横の舗装路から草刈りして進む作業道のようだ。どうしても進みたくなければ草刈した道を右に行けばすぐに出発点につながる舗装路に出られる。草刈した道を横断しまた笹と草の中に埋没していく。500mがまんし踏み跡を辿りかき分けていくと突然道幅1.8mの扇平ハイキングコースに出る。標識に従い箱根方向を目指す。地面は赤土の溶岩で濡れていると滑りやすい。なぜ江戸期の東海道箱根路が石畳かというと、この赤土の滑りやすさとぬるぬるさのためである。300mで舗装路に出る。ここにも看板「復元された平安鎌倉古道」がある。舗装路を横断し再度古道に入る。入り口は木の柵があり、入れないかと思ったら二重になっていて人なら入れるようになっていた。おそらく二輪車進入を防ぐためだろう。道は格段に歩きやすく幅が広い。ただし赤土なのですべらないように。途中でピークを左に巻いて道が行く所があるのだが、右に巻く廃道もあり、ピークの先で合流する。古道も時代で付け替えられ左右を見渡すと幾本もの道筋がつけられている。1kmも進むと林道を横断するところが2箇所出てくる。また林道のすぐ横を通る所もある。林道を2箇所横断すると道は尾根上から沢筋になり、道に水たまりが見られる所も出てくる。芦ノ湖高原別荘地に近づいた証拠である。500m進むと前方に柵とコンクリ壁が見える。鉄塔である。その向こうに別荘がある。道をさらに100m進むと別荘地のCエリア前に出る。「鎌倉古道入口」標識がある。別荘地内をさらに上る古道はすでにない。おそらく家々の境やその先の上って行く道が古道を元にした道と推定されるが、もはや古色はない。かつて古道は別荘地になった所を上り有料道路を横断し箱根に下っていったはずだ。部分的には切通しが残存しているかもしれない。
 車での帰路、小沢から清掃工場裏への道を2回間違え、3回目でやっと山田中方面へ出られた。林道の分岐点を間違えやすい。来るときは上りの右方向へ行けばよかったが、下りはそうはいかない。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 00:28Comments(0)古道