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2011年04月29日

大谷街道

大谷街道
 大谷街道の出発点をどこと捉えるか決定打はないが、池田街道分岐点と捉えよう。今の池田街道から分岐するのが、今の大谷街道(県道大谷古庄線)の分岐出発点でもある。ただ古い池田街道は今の分岐点より30m南の路地のようであり、今の池田街道の1本南に平行して通っている。
池田街道の詳細は『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)の「平沢観音道、曲金コース」を参照されたい。
・寺田博士記念碑(池田1086-4)
 大谷街道の出発点からはずれるが、この付近なので紹介しておく。場所は東豊田幼稚園東で川を渡った向こうである。寺田氏とは近代における近辺の有力者で郷土発展に尽力した方のようだ。この記念碑の東200mの交番前(聖一色46-1)にも寺田博士記念碑がある。
・庚申塔(池田733、池田バス停)
 さて県道の大谷街道南下する。150mで消防分団を通過する。ここに「庚申塔 大正九年…」がある。ここから東200mに池田神社がある。
・池田神社 
 由緒あり、池田の地名になっている。隣に豊川稲荷がある。
・本覚寺(池田1379)
 さて県道の南下を続ける。300mで交差点があり、本覚寺参道入口標識がある。寺へは東300mである。寺には石塔類豊富である。寺には幕末の侠客:安東文吉や徳川家康に嫌われた孕石主水、高天神城を守った岡部丹波守の墓がある。
・法伝寺(小鹿1610-3) 
 近年移転してきた寺である。
・龍雲寺(小鹿866)
 500m南下すると、龍雲寺が見える。明治になって話し合いをして檀家が離れたため墓地だけの寺になっている。境内は月ぎめ駐車場である。曹洞宗。地蔵堂:本尊:阿弥陀如来、子安地蔵菩薩、他2基。古い石塔類が多い。「庚申供養塔」2基、石塔10基、「豊田小学校発祥の地記念碑」、「牛供養」、新・地蔵。
・小鹿氏居館跡(小鹿866) 
 殿屋敷といわれる龍雲寺近辺が小鹿氏の居館跡。
・伊勢神明神社(小鹿886)
 150m南下し二つ池手前を東へ150m。巨木があり、古くから神社のある地と考えられる。この小鹿の地が古くから開けていたことはこの後の史跡からも分かる。創立1590年。楠(静岡県指定天然記念物)樹齢千数百年。
・二つ池(小鹿)
 小鹿公園もあり、憩いの地。溜池のようだが今は公園の一部となっている。
・若一王子神社(小鹿370)
 池から50mないし150m進み、堀の内バス停付近の路地を西へ向かい再度折れ曲がると付近に小さな神社がある。1625年にはすでにあったようだ。手水鉢「慶応二年」。石灯籠1基。石鳥居「大正六年」。
・山神社(小鹿)  
 
・七面堂(小鹿)  
 本覚寺の境外仏堂。北原山にある。
・山の神古墳  

・駿河堀の内山古墳群  

・長沢地蔵(大谷448)
 150m進んだ長沢川手前にある。11年4月付近を改修中らしく地蔵もない。
・日本平公園遊歩道と駐車場(小鹿2237)
 街道をそれ、長沢川を東に1km詰めていくと遊歩道と駐車場の標識がある。11年3月には整備工事中であった。
・西教寺(大谷5105)
 人気のない寂しい道を500m奥に進むと梅林があり、白梅がきれいに咲き梅の花の香りに包まれた。ここを過ぎると寺がある。かつて市内人宿町か新通あたりにあった寺のようだ。古い石塔類も移転されている。ちなみに寺を過ぎると下り坂となり、静岡大学グラウンド前に出て急に明るくなる。
・長沢川(小鹿と大谷の境)
 西教寺手前の道を奥深く進むと長沢川上流に行ける。行くなら冬場に限る。600m奥の日本平パークウェイ手前で登山道も崩壊していて進めないが、ここまででもちょいとした冒険探検気分が味わえる。
・西教寺墓地横の尾根道、かつてのハイキングコース?かもしれない
 農園の畑となっている。この尾根に沿って奥へ進むのがかつての大谷からの日本平へのハイキングコースかもしれない。だとすれば遊木の森(かつてのボーイスカウトキャンプ地)で日本平パークウェイを越える歩道橋につながり、日本平と大谷をつなぐコースだったかもしれない。なお下記のコースかもしれない。
・池ノ谷沢川(大谷)、かつてのハイキングコース?かもしれない
 静大グラウンド前の自然観察実習室横の沢に沿って奥へ1km進む。道はでこぼこだが一応コンクリ舗装されている。畑に出て終点だが、かつてはこの沢奥に進め、遊木の森(かつてのボーイスカウトキャンプ地)で日本平パークウェイを越える歩道橋につながり、日本平と大谷をつなぐコースだったかもしれない。
・静岡大学、旧・大段(大谷)
 静岡大学が大岩から移転する前は、大段といわれ、一面の畑であった。
・片山公民館(旧・子安堂)   
 静大入口交差点を静大方向の東名ガードに向かい進み、一つ目の右折路を曲がる。石塔類。「葷酒不入山門」、庚申塔「昭和五十五年」、他1基、地蔵、石塔、六地蔵「元禄五」、「記念碑 永徳寺子安堂と公民館の沿革」によれば、永徳寺開山1675年、廃寺1871年、
・片山廃寺跡(大谷)
 話を長沢川の大谷街道に戻す。300m進むと東名高速道路高架橋下に出る。新・地蔵も祀られている。この辺りが片山廃寺跡である。本格的寺院で国分寺かそれに匹敵する寺院と考えられるが、決定的証拠はない。この地が古代から開けていたことは明らかである。礎石の跡などが例示されていて、建物が想像できる。
・白山神社(大谷596)
 隣に神社がある。記念碑がある。
・諏訪神社(大谷4475)、古墳
 400m進むと左(東)に広い通りがある。これを50m進み右の坂を上ると神社がある。古墳である。
・池ヶ谷池(大谷1424)
 諏訪神社の道向かいにあり、かつての溜池である。
・宮川の子授け地蔵、庚申塔(大谷)   
 静大への広い取り付け道路交差点の次の狭い交差点にある。「庚申塔 大正九年 宮川區…」。
・大正寺(大谷3660)
 600m進み大谷小学校を通過し、大正寺沢川を渡ると東に大正寺参道入口がある。古い石塔類もある。諏訪大明神のお堂もある。これは麻端沼の婆さんを祀ったものである。当寺は麻機の岩崎家や分家が関係する旦那寺であるため、ここに沼の婆さんを祀っているのだ。
 「庚申塔 萬延元年」「庚申供養塔」「奉順礼西国四国…」、ぽっくり地蔵尊・他4基(大正寺末寺 大谷海雲寺より移転)、姿見の井戸(朝比奈弥太郎泰能が自害する前に身支度を整えた井戸である。彼は今川氏真部下で武田氏に駿府を攻められたとき氏真を掛川に逃し、婦女子を高松海岸の船に乗せるよう手はずを整えたのち、この寺で自害した。しかし婦女子は乗船できず入江の渕:上臈渕に身投げしたという。) 隣に雷が岩を引っかいたという筋模様の岩がある。
・旧大谷街道、八坂神社、大谷不動(大谷2781)
 大正寺参道入口から大谷街道を30m南下すると左(東)に細い道がある。これが旧大谷街道の残存部と考えられている。薄暗い道を進むと八坂神社があり、神社の上には大谷不動が祀られるお堂もあり、アスレチック広場にもなっている。
・八坂神社(大谷) 
創建不詳、棟札1672,1854年、元牛頭天王社、樹木100~300年、石鳥居:明治二十九年建造昭和六十二年再建、石灯籠:元和三1617年、慶安元1648年、手水舎:文化三1806年。
・海岸山大谷不動明王、加羅倶利堂(大谷) 
 参道途中に庚申塔等の石塔14基、地蔵7基が安置されている。大谷不動の由来は漁師が漁をしていて網にかかったのが石仏で、それを祀ったものだという。大谷不動の西側には地蔵堂(地蔵、大日如来)がある。歯痛封じの地蔵である。倶利伽羅堂という。石灯籠:元和二年、六地蔵、80cm×1.5mの台石。
・地蔵堂(大谷2651)
 薄暗い旧大谷街道を下りきると、旧久能街道と交差する。そこに石仏が祀られている。大谷街道は久能街道に合流して終点である。なお個人的にはもっと古い久能街道はもう少し北寄りの路地だったのではないかと考えているので、ここの石仏も移転されてここにあるのだろうと勝手に考えている。
 11年4月細かった道は広く付け直され周辺も区画整理されて新しい家ばかりで、旧態がほぼない。地蔵もない。  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 23:07Comments(0)古道

2011年04月24日

麻機街道(静岡市葵区宮ヶ崎町浅間神社←→北)

麻機街道(静岡市葵区宮ヶ崎町浅間神社←→北)  
 麻機街道は浅間神社前から麻機(北)までの約7km区間の道である。浅間神社近辺の紹介から街道沿い、麻端の沼周辺一帯を紹介する。
・浅間神社(宮ヶ崎町) 
 静岡市最大の神社にして文化財も多い。実はいくつかの神社の総合体である。文化財資料館もあり、市の歴史を一望できる。裏山には古墳もある。保存状態のよい石造物は多数存在する。そして浅間神社前の水路を流れる水は北を向いて流れていく。海は南なのに北の麻機を水は目指すのだ。
・小安観世音(西草深町23番地―5) 
 浅間神社手前になるが、ちょうど麻機街道が分岐しだす所にある。ビルの2階に祀られている。
・西草深公園(西草深町27番地) 
 名のある武家の屋敷跡である。
・石鳥居(西草深町と浅間町の境、長谷通り起点) 
 浅間神社南の浅間通り先の中町交差点前にある赤い鳥居を赤鳥居と言い、神社東の長谷通り起点の石造りの鳥居を石鳥居と言う。
・しき化粧品店、志貴氏宅(浅間町1丁目36) 
 長谷通りを50m入ると、左にしき化粧品店がある。志貴氏は浅間神社の神主の家柄である。
・天神湯(浅間町1丁目29)  
 もう50m進むと左に銭湯がある。
・若宮八幡宮、巨木(浅間町1丁目) 
 先のしき化粧品店や天神湯の北側にある。入口は天神湯先を左折し5軒ほど先をまた左折するとある。古くから巨木として知られていた。
・東雲神社(丸山町13)  
 浅間神社すぐ北の賎機山斜面にある。数年前に火災後の復興がなったばかりだ。その北隣にはかつて喜久屋割烹があり、庭が見事だった。
・安西寺(丸山町23)、日切地蔵尊 
 北に100m行くと左に安西寺参道入口となる。石塔類。この寺前を南北に走る路地がもしかすると旧麻機街道かもしれぬ。
・地蔵堂か観音堂(丸山町) 
 丸山町バス停近くにある。
・静岡高校、旧制静岡中学(長谷町) 
 丸山町の麻機街道から東へ300m。県内最古の旧制中学から続く高校。
・松源寺(大岩本町26-1) 
 安西寺の北50mに松源寺がある。石塔類。七夕豪雨による土砂崩れ被害者の供養塔もある。
・富春院(大岩本町26-23) 
 石塔類。静岡の名付け親の中村尚志の「尚志の碑」が門前にある。
静岡の名の由来は、中村が考えた。静岡は府中という名で徳川幕府の代官領だったが、それでは明治新政府に不忠のようなので新しい名を付けようとした。ヒントは浅間神社の裏山の賎機山から付けた。賎機山を別名:賎ヶ丘とも呼んだ。賎では賤しい賊に似ているので静に変え、ヶを削り、丘を岡に変えて「静岡」の名ができた。
・城北公園、旧静岡大学跡地、旧制静岡高校跡地(大岩本町29)  
 今は市民憩いの場で市立図書館もある。かつては国立静岡大学があり、戦前の旧制高校からこの場所だったが、今は駿河区小鹿に移転した。かつてはこの界隈は学生街で学生下宿も多かったが、今はその雰囲気は一掃された。公園北東端に記念碑が建立されている。なお公園北側に今は静岡大学付属の幼稚園と特別支援学校があるのは、もともと静大の土地だからだ。
・臨済寺(大岩町7)  
 今川義元の墓、石塔類。かつては雪斎(今川義元の軍師、徳川家康の教師)を輩出するなどした。今も僧侶の修行寺のため観光用に解放しない。寺内の開放は限られている。
 城北公園向かいの大岩交番前から麻機街道を左に分岐し参道が伸びてくるが、これが旧街道かと思う。寺前で右折し今の街道の左を平行して北上する細い道が旧街道に近い道だろう。ただ細くともまっすぐなので曲がりくねった古道は区画整理され直してまっすぐな新道になったのだろう。古道そのものの残存部はほぼ見当たらないと見たほうがよい。
・賎機山城跡  
 臨済寺裏山が賎機山城本丸である。駿府公園(駿府城跡)にあった今川館の詰めの城で市内防衛の拠点である。付近に堀切、土塁、記念碑がみられる。
・天徳院(大岩3丁目30)  
 臨済寺から1kmで天徳院である。石塔類(「禁葷酒…」「奉順礼善光寺…」、地蔵、延命地蔵、石塔)。
・天神社(大岩3丁目30)  
 天徳院隣にある。創建不明だが、大岩天神といわれかなり古くからあるようだ。
・大岩公民館、石塔類(大岩4丁目35)  
 バイパス手前にある。庚申塔2基、石塔2基、地蔵がある。付近に馬頭観音も祀られている。この近辺はバイパス工事による区画整理で古い道はほぼ付け替えられている。
strong>・池ヶ谷のトーツバキ(池ヶ谷150) 
 橋本耕一氏所有。静岡県指定天然記念物。樹周囲55cm、樹高7m、樹齢推定200年。しかしすでに橋本氏宅と樹もなく、11年4月に新興住宅地となっている。
・桂林寺(池ヶ谷字西ノ谷153) 
 石塔類5基(「庚申塔」「庚申供養塔」、地蔵、他)、六地蔵。開創寛永2年。本尊:11面観世音菩薩。
・天満宮(池ヶ谷47) 
 例祭日:10月16日。棟札:安永5年。山の中腹で農道を上っていくのがよい。
・荒神社(池ヶ谷枇杷沢141) 
 天保5年再建。
<・石塔、墓地(唐瀬1丁目、谷久保) 
 バイパス高架下から500mである。墓石以外に石塔類もある。「庚申供養塔」「庚申塔 善光寺供養塔 大正十年」8基。
・石道標(唐瀬3丁目) 
 街道沿いの家の横に建っている。自然石の左側に刻字「マツドミニ至ル」。楷書でカタカナ表記されている。近代のものだろう。賎機山越えで松富に出られることを示している。 裏山を少し上ると子育て地蔵がある。
・神明宮(唐瀬3丁目、時ヶ谷、南645) 
 街道すぐ横山斜面上。時ヶ谷バス停近く。例祭日:10月16日。文政5年再建。手洗石「明治三年」。
・春日神社(南405、唐瀬) 
 元亀年間創建。文化14年再建。
・御岳神社(南2632-2、深山) 
 例祭日:10月23日。元禄13年再建。
・麻機遊水池(芝原) 
 かつての麻機沼そのものではないにせよ、一応沼として残っている所である。沼の婆さんの伝説もある。ただ川が氾濫するとこの一帯は沼と化す。かつて沼と化した道路の上を魚が泳ぎまわるのを見たし、水が引くと、田の片隅に魚がうじゃうじゃ集まってもいたが、最近は災害対策が進みひどい氾濫が減った。遊水池周辺では伝統の柴上げ漁が行われることがある。
 遊水池は一部グラウンドになり、スポーツが行われる。遊歩道もあり、ビオトープのようになっている。植物や昆虫の宝庫である。
周辺は現在でも湿地帯に近いが、大正期ごろまでは本物の湿地帯で鹿などもいたようだし、舟で通行できた。縄文期までは海の入り江にして干潟の湿地であった。海抜高度も低いので、浅間神社前の水路の水が、この沼目指して下ってくるのだ。巴川の流れはかつての入り江の名残である。
・伝説『沼の婆さん』 
 南北朝期、おそらく安倍手越河原の戦いの頃だろう。南朝方の統領:新田義貞の弟:脇屋儀助が、麻機に陣どった。そこの家の娘と仲がよくなった。儀助は戦いのためこの地を離れたが、娘は儀助の子を産んだ。女の子であった。娘は産後のひだちがよくなく、ほどなく亡くなった。その家の婆さまが孫娘を育てた。孫娘はすくすく育ったが、婆さまは病にかかった。婆さまの容態を心配した孫娘は、浅間神社への連日のお参りを決意し、沼を舟で渡り浅間神社へお参りした。沼には魔物(河童)がいるといわれていた。満願になるその日、孫娘を乗せた舟に魔物が襲いかかり、孫娘を沼に引きずり込んだ。婆さまは悲しみ怒りに燃え、魔物に復讐を誓い沼に入水した。沼は荒れ狂い、龍に化身した婆さまと魔物の戦いがくりひろげられた。ほどなく沼は静かになり、魔物はいなくなった。そして沼に蓮の花が咲くのだった。この蓮が麻機名物:麻機蓮根のはじまりだといわれる。
・旧街道(南、草葉バス停から谷津口バス停まで) 
 今の街道より1本山側の路地が旧街道かもしれない。
・石塔(南、谷津口バス停近く) 
 高架橋下の旧街道付近にある。「庚申供養塔」
・八幡宮(南1485、谷津口) 
 高架橋より2本先の路地左折。例祭日:10月16日。文政年間再建伝承。手洗石、常夜灯2基、大木。
・竹林寺(南字中村1824、中村バス停先左折) 
 石塔類「庚申供養文銘石 寛文六」「南無阿弥陀仏 寛保三」「坂道改修記念碑」、石塔。開創寛永2年。本尊:聖観世音菩薩。
・石塔(麻機小学校正門前) 
 3基(「庚申供養」2基、「順礼一国三十三所…」)
・聖楽寺(有永453、南、麻機小学校より2~3本先の道左折) 
 門前、六地蔵、庚申塔(青面金剛)、6基、板碑。
 観音堂境内、「庚申供養塔」、
開創享禄年前。本尊:聖観世音菩薩。
・大音寺廃寺跡(有永728)  

・大御戸神社(南、聖楽寺少し下左折、有永893) 
 力石「元禄十六癸未年三月吉日」重さ68.6kg。 例祭日:10月16日。創建不詳。再建享保11年。参道入口、「庚申」5基(「日本廻□供養塔」「奉巡礼□明供養塔」「□□供養塔文政」「庚申」、地蔵)、
・旧街道(有永、羽高) 
 現街道より1本山側に細く曲がりくねった道が出はじめる。旧街道の名残かもしれない。
・琴弾きの松(福成神社) 
 有永の裏山山頂。かつてこの周辺で楽音がしたという。この松は漁師のあて山になった。戦時中枯れた。賎機山最高地点。
・石塔(北78、消防分団) 
 破損した石塔「…神道」は、この先の神社への参道を示すのか。「庚申塔」、石仏。
・乾楽寺、羽高公会堂(羽高字久保232)  
 開創正保2年。本尊:木像阿弥陀如来像。5基(「庚申塔」「奉待鶏庚申」「…萬延元年…」石塔2基)、地蔵、常夜灯、六地蔵。
・津島(嶌)神社(羽高158、当目)  
 創建不詳。伝再建享保年間。例祭日:7月15日。常夜灯(「文久三」「明治十一」)、近代の石碑、イチイガシ、ナギの樹、イチョウ。
・桜峠への旧道(羽高、北、北五反田団地内を北上) 
 奥に詰めると今は藪となるが、かつては桜峠旧トンネル手前の県道に出られそこからその上の峠にも行けた。桜峠は今は鯨が池側から簡単に上れる。地蔵が祀られている。
・円光院(北) 
 家康が駿府に施楽院を設けたその跡地にできた寺である。かつては旧東海道沿いの久能街道分岐点辺りにあったようだ。今の横田・日の出・栄町辺りのようだ。火災や戦災により全焼、都市計画により寺域縮小、1970年麻機北に移転。この寺以外にも戦後かなりの寺が市中心部から移転した。特に移転先で集中しているのは市内長沼愛宕山霊園周辺が知られている。現代浪曲元祖武藤屋嘉兵衛の墓がある。寺の裏手にも別のいわれのあるものがあったようだが見つからない。本尊:阿弥陀如来、他に不動尊、阿弥陀如来立像、家康拝領薬研。
・麻機温泉(北) 

・滝の谷温泉センター(北) 
 
・石塔類(北、第二東名横)、旧・光明寺跡地? 
 開創不詳。中興正徳年中。本尊:石仏不動明王。
滝の谷温泉センターに向かう道をさらに奥に進むと第二東名の真横に着き、道は左右に分岐する。ここに今石塔が安置されている。この近辺にかつて山寺の跡があり、石垣もあったが、第二東名の下になってしまい消滅した。石塔類だけは付近のここに移転された。付近に滝がある。
この山寺及びこの上はかつて北沼上への峠道だったようだ。北沼上には麻機を示す石道標が2つある。峠には八幡神社のお堂があったが、近年お堂が取り壊されたようだ。北沼上の峠真下は完全な廃道で歩けない。
・霊仙寺跡地?(北769、谷津) 
 谷津トンネル手前の墓地である。石塔類「奉待鶏庚申」、他1基。かつて密教真言の寺でもっと東の峰、般若平という場所にあったという。本尊:阿弥陀如来、他に栗葉師:桜峠にあったという。開創不詳。中興天正19年。
・北浅間神社(北1762、道八ツ) 
 かつて山城があった場所らしいが、新興住宅地で残存部は消滅しただろう。
 石塔「奉崇庚申塔」、鰐口「天文3(1534)年」(静岡県文化財指定)。例祭日:10月16日。創建不詳。棟札修造慶長16年。板碑「紀元二千六百年」。入口左右の大石は石塔の残骸か。
・智徳院、麻機不動尊(北字大日前440) 
 開創正徳元年。本尊:最勝不動明王。石塔類。
・秋葉山常夜灯(北235)  
 村の中心地に祀り秋葉神社方向を示していたようだ。
・板碑、神社(北223)  
 板碑の残骸、家型道祖神2基。入口に赤鳥居がある。
・瑞雲寺(北字中条277-1) 
 開創不詳。1957年喜相院と霊仙寺合併。本尊虚空蔵菩薩。石塔(「駿河一国三十三所…」)。地蔵。
・喜相院廃寺(北字中条276)…開創不詳。元亀2年中興。
・西光寺廃寺跡(垣ノ内) 

・石塔(県道 巴川橋袂) 
「奉待庚申供養塔」
・岩崎家(東183) 
 堀と塀で囲まれかつての豪農の雰囲気を残す。沼の婆さんは岩崎家の先祖ということになるのだろうか。高松の岩崎氏によれば違うとのことだったが。
岩崎家の家がある場所より南には古い農家はなく、新興住宅地だけなので、かつてはこの辺りが沼と陸地の境だったのだろう。
・石塔(東111)
 「鳥獣供養塔」、地蔵、石塔。
・日加美神社(東123、天王山) 
 例祭日:10月17日。創建不詳。伝再建宝永年間。常夜灯、台石。
 神社南側に郷倉。
・東林寺(東字奥ノ谷1344) 
 開創:永享七(1435)年、開基:元亀二(1571)年、阿弥陀如来。六地蔵、水子地蔵、板碑、大師堂。
・石塔類(東222) 
 「葵 四月十四日 養塔」、他。破損がひどいが捨てずによく残してある。
・宇津木沢荒神山経塚遺跡(東) 

・鈴石天神(東、麻機配水池タンクや老人ホームから山へ上る農道の途中) 
 大岩の中に小石を入れると音が鳴ることから鈴石という。天神も祀られていたが日加美神社に合祀された。
・地蔵、大石(赤松、老人ホーム前) 
 地蔵はかつて、静岡北特別支援学校前の山の先端部上の旧道に安置されていたが、車道の拡幅により現在地に移転された。この地蔵は村外から病気を移す疫病神を退散させる目的で村の出入り口に置かれた。こういった風習はかつてよくあった。今の車道より上に旧道があったことも示唆している。
 この大石は「肥付石」というものかもしれない。触ると足や身体が腫れるといわれた。かつては山の中腹にあったが、下におろされたようだ。 
 ここは船着場といわれている。かつて広大な沼地でここが船着場の一つだったのだ。『沼の婆さん』の伝説でも、浅間神社へのお参りに舟が使われていたことが分かる。
・おたつ火(漆山西北、多分赤松 老人ホーム近辺)  
 昭和5~6年頃まで初夏の日暮れから1時間ほど赤色の火が動き回ったという。
・浄祐寺浄心苑、墓地(東) 
 新たに移転してきた墓地。とくに古い石塔類はない。
・馬頭観音(南沼上、薬師) 
 市営沼上霊園手前の農道沿いにある。
・諏訪神社(南沼上994) 
 流通センター北でヘリポート南の小高い丘上にある。沼の婆さんを祀る。流通センター側から上れる。
ちなみに駿河区大谷の大谷小学校裏の大正寺のお堂と南沼上の大安寺上のお堂にも、沼の婆さんは祀られている。岩崎家は大正寺の檀家である。
・七天白(麻機周辺) 
池ヶ谷242番地、

・八天神(麻機周辺)?七天神 
 ・松下天神、・平柳天神(南の八幡宮合祀)、・麻機漆山天神、・三杉天神、・東村石亀天神(鈴石、日加美神社合祀)、・北安東村安東天神、・
漆山の静岡北特別支援学校と国立神経医療センターの東側低地を天神前と称するので、漆山東先端部に麻機漆山天神が祀られていたのかもしれない。
・「庚申塔」(平山) 3基 
 石塔類。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 17:24Comments(0)

2011年04月04日

推定平安鎌倉古道、三嶋大社~箱根・芦ノ湖高原別荘地

・推定平安鎌倉古道、三嶋大社~箱根・芦ノ湖高原別荘地、標高850m (三島市)   
 江戸時代の東海道による箱根越え道は今の国道1号線に付かず離れずに山中新田や山中城辺りの尾根を辿って行く道である。それ以前の道は足柄峠越えということになっている。しかし鎌倉時代の「十六夜日記」に箱根越えの記述があり、山中新田の尾根のもう1ぽん北の尾根(小沢、元山中、五輪)を通ったものと推定されている。
 まず出発点であるが、三嶋大社の東側の暦を作った家(河合氏宅)前から東に進み、大場川に架かる下神川橋を渡り左カーブを道なりに進むと正面に「願成寺」がある。源頼朝所縁の寺でここからかつての箱根越えの坂道がはじまるのが分かる。道なりに奥へ進む。基本的に尾根の中心部に沿って進むものと考えればよい。鉄道高架橋(高さ1.9m制限、東に小さな天神社があるようだ)を渡り、すぐ右に曲がり道なりに進むと新幹線の高架橋を渡る。旭ヶ丘という新興住宅団地の土真ん中を突っ切って行く。この辺りから古色が失せ現代的な山の手風景となるが、この新しい尾根道は古い古道を拡幅したものと思われる。山田小中学校や老人センターを過ぎゴリラマークのゴルフ練習場向かいに古びた「元山中、青少年センター、箱根」の標識がある。その標識奥の暗い道に入る。清掃工場の裏口になるようだ。それを過ぎるととたんに道が劣化しでこぼこ道となる。暗く淋しい所を過ぎ尾根上を上って右方向に進むと畑をいくつか過ぎ、「小沢の里、トイレ←→鎌倉古道」の標識がやっとある。ただし小沢の里に下りるのは正規コースではなくトイレ休憩用であるので、道はそのまま尾根上を上って行く。広々と区画整理された畑に出る。そのまま直進すると元山中集落に越えていくことになるので、その手前を左折し尾根上を上って行く。その曲がる所の奥に地蔵石仏がある。左折し500m進むと左に「山神社」があり、「復元された平安鎌倉古道」の云われの看板がある。山神社少し先からゴルフ場用地内に標識があって古道が進んでいて、さらに先で舗装路に戻るが、柵が張られていて進むことはできない。しかし山神社奥にもピークヲ反対側から巻く別の山道があり、この山道もどうも鎌倉古道の成れの果てと思われる。山神社前の舗装路をもう300m進むと左に石階段があり、上に諏訪神社がある。これまた諏訪神社奥の堀切のような空堀は鎌倉古道の成れの果てと思われる。しかしいったんゴルフ場(グランフィールズカントリークラブ)横の舗装路に戻り、200m奥に進むと左手上に進む山道があり、標識「元山中、箱根」がある。笹や草が繁っているが、かつて道幅は1間(1.8m)あったと思われる。ここから先ほどのピークの反対側に行く別山道に分かれる分岐点もあった。300m進むと幅1mのコンクリ舗装と出会う。これは下の先ほどの舗装路から分岐し30m伸びる道でちょうどここで幅1mのコンクリ舗装が切れる。ここにも標識「元山中、箱根」がある。古道を100m進むと草の繁り方がひどくなり笹と草と蜘蛛の巣をかきわけることになる。200mもかきわけると突然幅1.8mだけ草が切れる。これまた先ほどのゴルフ場横の舗装路から草刈りして進む作業道のようだ。どうしても進みたくなければ草刈した道を右に行けばすぐに出発点につながる舗装路に出られる。草刈した道を横断しまた笹と草の中に埋没していく。500mがまんし踏み跡を辿りかき分けていくと突然道幅1.8mの扇平ハイキングコースに出る。標識に従い箱根方向を目指す。地面は赤土の溶岩で濡れていると滑りやすい。なぜ江戸期の東海道箱根路が石畳かというと、この赤土の滑りやすさとぬるぬるさのためである。300mで舗装路に出る。ここにも看板「復元された平安鎌倉古道」がある。舗装路を横断し再度古道に入る。入り口は木の柵があり、入れないかと思ったら二重になっていて人なら入れるようになっていた。おそらく二輪車進入を防ぐためだろう。道は格段に歩きやすく幅が広い。ただし赤土なのですべらないように。途中でピークを左に巻いて道が行く所があるのだが、右に巻く廃道もあり、ピークの先で合流する。古道も時代で付け替えられ左右を見渡すと幾本もの道筋がつけられている。1kmも進むと林道を横断するところが2箇所出てくる。また林道のすぐ横を通る所もある。林道を2箇所横断すると道は尾根上から沢筋になり、道に水たまりが見られる所も出てくる。芦ノ湖高原別荘地に近づいた証拠である。500m進むと前方に柵とコンクリ壁が見える。鉄塔である。その向こうに別荘がある。道をさらに100m進むと別荘地のCエリア前に出る。「鎌倉古道入口」標識がある。別荘地内をさらに上る古道はすでにない。おそらく家々の境やその先の上って行く道が古道を元にした道と推定されるが、もはや古色はない。かつて古道は別荘地になった所を上り有料道路を横断し箱根に下っていったはずだ。部分的には切通しが残存しているかもしれない。
 車での帰路、小沢から清掃工場裏への道を2回間違え、3回目でやっと山田中方面へ出られた。林道の分岐点を間違えやすい。来るときは上りの右方向へ行けばよかったが、下りはそうはいかない。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 00:28Comments(0)古道