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2016年12月04日

北街道(県道静岡千代田清水線)中世東海道

北街道(県道静岡千代田清水線)中世東海道  
 北街道は、静岡市葵区伊勢丹前呉服町札の辻の里程元標址から、江川町交差点を通り清水区横砂西町までの区間とする。しかし札の辻から江川町交差点までは、江戸期東海道と同一ルートなのではずす。北街道は中世東海道で、江戸期東海道より北を通っているので北街道と呼ばれた。今の県道は大正期に作られ古道につかず離れずで進行していく。さらに平成にバイパスも作られた。中世の東海道はじめ近世以前の街道は、江戸ではなく鎌倉に向かっていたことや、鎌倉時代頃に起源をもつことが多く、鎌倉街道と総称されることが多く、北街道も鎌倉街道といわれることもある。
・江川町交差点(御幸町、追手町)  
 今は地下道歩道のある近代的で交通量の多い交差点である。古色はないが、堀端に小さな石塔が立つ。江戸期東海道はここから東南に向かう伝馬町通りである。
・石塔:「くがたか橋」(追手町2)  
 駿府城外堀の橋の名であって、おそらく橋の欄干だったのではなかろうか。
・駿府城外堀(駿府町1)  
 教育会館横に見える堀が外堀で、教育会館横から水落交番まで続く鷹匠町商店街北側の通りはすべて外堀を埋めてその上に商店が作られている。
・鷹匠1・2丁目  
 かつて少年期人質だった徳川家康(竹千代、三河岡崎出身)と隣人の孕石主水(今川家臣で後武田に仕える、掛川孕石城主)の屋敷があった。竹千代の鷹狩用鷹が隣の孕石家に迷惑をかけたらしく、主水は「三河の坊主」と怒鳴ることが多かったらしい。後年武田氏を滅ぼした家康は主水に会い、「今更三河の坊主になど仕えたくもなかろう。自害しろ。」と冷たく突き放したらしい。主水も「三度も主君を変えたくもない。切腹は望むところ」と虚勢を張ったようだ。彼の墓は駿河区小鹿本覚寺にある。
・水落交番(駿府町2)  
 裏の外堀から水が落ち暗渠に入っている。だから水落である。落ちた水は暗渠を通り東に進み巴川に落ちていく。水落から少し先の東を横内という。
・常葉学園高校(水落町1)  
 歌手:ピンクレディや女優:酒井美紀の出身校。
・横内町  
 かつての宿場の中心地といわれる。
・専長寺(横内町24-2)  
 現在墓地だけで建物はない。現北街道の1本南の通り沿いにある。
・先宮神社(横内町114)  
 石灯籠「稲荷大明神 文化二」、道祖神、石仏、手洗石2基、
・来迎院(横内町102)  
 創建1609年。家康によって開かれた寺院である。石塔類:観音、地蔵、新・動物彫刻石像、新・道祖神、新・筆塚、地蔵堂、
 来迎院門前の東西に向かう路地がかつての北街道ではないかという説もある。
・清水寺(音羽町8)  
 京から僧を招いて1559年創建、京の清水寺に似ているのでその名がついた。句碑が多い。門前に家康下乗の松がある。
 谷津山公園入口でもある。清水公園には板碑多数で、ラジオ放送記念碑の「JOPK」碑もある。
・元長寺(瓦場町151)  
 門前に石道標「庚申塔 南安東瓦場 右音羽町へ一丁 左沓谷へ三丁 大正十二年」がある。堂:地蔵・観音「明和六」、「  下耕地整理記念碑」、「禁葷酒」、地蔵、新・観音、
・白山神社(瓦場町151)  
 石鳥居「大正六」、手洗石「文化八」
・地蔵堂(沓谷1丁目23)  
 沓谷霊園入口にある。「三十三體金角尊」、板碑、道祖神、地蔵、手洗石。 
・妙法寺(沓谷1丁目23)  
 沓谷霊園の高いところに地蔵、新・ひげ題目塔、本堂がある。
・長源院(沓谷1丁目24)  
 朝比奈泰以が屋敷を提供して1487年建立した。伝説では、当山開基の旅の僧が、手越で杖の倒れた所に寺を建てようとして杖を立てると、杖から竜が飛び出し、この地に飛んで来たという。寺を立てる工事では、池を埋め立てるとき水が引かなかったが、福老人が現れ柄杓であっさり掬い取ったという。それから柄杓を持って踊る万福舞が起こったが、近代に廃れ、今では分からない。和尚が駿府城登城用に使った籠、長持ち、葵の印籠がある。石塔類:「葷酒不入山門」、「大森山脇」、「長源禅院」、新・仁王像、新・風神雷神、新・石仏、新・古・六地蔵、「萬霊塔」2基、「庚申塔 萬延元年」、句碑。祠。
・福寿稲荷神社(銭座町2)  
 銭座町集会所である。石鳥居、「庚申塔 嘉永」、手洗石「天保六年
・銭座町(銭座町)  
 かつて銭を作っていた所で、かつて巴マート(銭座マート、今はパソコン教室)のあった辺りから坩堝が出土するなど、銭の鋳造所があったことを示している。
・蓮永寺(沓谷2丁目7)  
 元は松野村(富士市富士川町松野)にあったが、徳川家康側室お万の方(水戸家、紀州家の母)により1615年現在地に移転した。家康崩御後お万の方はここで剃髪し菩提を弔い、のち息子の紀州家に身を寄せたようだ。お万の方の五輪塔、勝海舟の母妹の墓、山門、仁王門、鐘楼、石塔類多数:「貞松山」、「蓮永寺」、石灯籠、板碑、ひげ題目「天保二年」他多数、手洗石、道祖神 。寺は改築工事中で新築になっていくが、今なら少しは昭和レトロな建物が見られる。
・旧静岡陸軍墓地公園(沓谷2丁目7)  
 墓石多し、ドイツ海軍砲手の墓(ドイツ語)1基、板碑多し。ドイツ兵は、第一次世界大戦で日本軍がドイツと戦い、捕虜を捕らえたためである。板碑の中には「馬犬鳩供養塔」がある。これは軍事用の馬、犬、伝書鳩等だろう。墓は静岡連隊関係者のもので、かつて軍神といわれた橘中佐のものもある。
・須賀神社(沓谷3丁目8)  
 石鳥居、石段、手洗石「寛政四」、稲荷像、祠4、本殿、拝殿
・竜雲寺(沓谷3丁目10)  
 今川義元母、寿桂尼を祀っている。石塔類:地蔵3基、如来3基、庚申塔、石塔4基、大五輪塔2基(どちらかが寿桂尼墓)、小五輪塔3基。寿桂尼墓は墓地の少し奥で畑を数分歩いて上る。振り返ると少し入り組んだ所なので市街がまったく見えず樹木と畑だけで、いったいここはどこという気分になる。谷津山は市街地の只中にありながら、一歩踏み込むと市街地であることがまったく不思議に思えるところである。
・  神社(沓谷3丁目5)   
 人家の横から少し山を上ると祠が祀られている。
・来宮神社(沓谷)  
 愛宕神社参道途中にある。石灯籠、地蔵、地蔵の台石は「三丁」とあるので丁石のようだ。
・愛宕神社、愛宕山城跡(沓谷)   
 今川時代は城で、伊勢新九郎(北条早雲)の城だったときもある。その後家康が愛宕神社を招聘した。参道入口には、手洗石「寶暦」、石灯籠「享和元年」、「日独開戦記念碑 大正三年 青島陥落」がある。(日本は第一次世界大戦でドイツと戦っていることがあまり知られていないが、ドイツ兵捕虜は日本の文化に影響を与えている。例えばベートーヴェンの「第九」初演、敷島パン、バームクーヘンのユーハイム等。ウイキペディア「第一次大戦の日本」参照。陸軍墓地のドイツ兵墓もだからある。青島チンタオはドイツ租借地だからドイツ仕込の青島ビールを作ったのだ。)
 山頂の本殿近くには、石灯籠「延宝二年」、石塔「寄進 延宝三年」、手洗石「寛 」。曲輪や堀切のあとがあるし、説明見取り図看板もある。谷津山全体が縦走でき公園となっている。
 参道入口左の井上家はもと造り酒屋で煙突等もあったが、今は石蔵を残すのみである。馬頭観音がある。
・沓谷公民館、釈迦堂(沓谷3丁目3)   
 現北街道と北街道バイパスの間にある。釈迦、石地蔵2基、石塔類:「三界萬霊」、「西国順礼」、「南無阿弥陀仏 明和六」、「庚申塔 萬延元年」、石塔9基、
・愛宕霊園、寺街通り(沓谷)  
 戦後寺院がここに移転するものが多く、さも寺街通りとなっている。
・倉長寺… 
・妙像寺… 
・宗林寺… 
・安南寺… 
・少林寺… 
・松龍院… 
・浄祐寺… 
・摂取寺… 
・新善光寺… 
・蓮長寺… 
・菩提樹院…由井小雪首塚、 
・長沼砦跡(沓谷、長沼1丁目)  
 今平和観音が立つ。砦の遺構は分かりにくい。
・真勝寺(長沼町2丁目21)  

・八剣神社(長沼町1丁目12)  

・東禅寺(上土新田9)  
  「奉請庚申供養塔」2基、石仏「元文元」、「享保」、「西国巡礼、」
・庚申供養塔(上土新田19)   
 北街道巴橋袂。「庚申塔 大正九年」
・地蔵(上土新田29)  
 北街道バイパス巴大橋南。 
・庚申供養塔(上土新田72)  
 北街道バイパス巴大橋南の東橋袂。「庚申塔 昭和五十五年」、「安永七年」 
・鎌倉街道残存部(川合、上土新田)  
 北街道巴橋の北側の寺尾酒店と村上酒店北側の路地こそが古い北街道の残存部である。西へは150m先でたどれなくなる。東は100m先で上土交番に出て現北街道を渡り、北街道バイパスが長尾川に至る手前で古道が消滅する。古道はバイパスを横切りつつ川を渡り、西奈南小学校のグラウンドを東に横切り、高圧鉄塔前の東に向かう市道に出る。市道を東に向かい、広い新竜爪街道手前で、「矢射タン橋の碑」がある。
・矢射タン橋の碑、ヤイタンバシ(瀬名川178)  
 この碑前に分かりにくいが、小川が流れている。ここに小さな橋があり、矢射タン橋といった。理由は鎌倉時代初期、鎌倉幕府に反旗を翻し鎌倉から京都へ向かう梶原景時一行は、この駿河の地で地侍と決戦することとなった。一行は景時一騎(実際は連れの者もいて数騎と数人だったと思う。)を先駆けとして西進させたが、この橋の袂で地侍たちに矢を射掛けられたので、この名の橋になったという。私の憶測だが、ここで矢を射掛けられたことで景時はこれ以上鎌倉期東海道(北街道古道)を西進することは危険だと判断し、西南に分岐し古庄から曲金方面へ目指すルートに変更したのではないかと思う。そのため曲金に梶原氏の馬を祀る馬頭観音があり、その言い伝えもあるのだと解釈したい。しかし景時は曲金でも戦闘になり馬をいくつか失い、結局瀬名川辺りの本隊に戻り、梶原山で非業の最期を遂げることになるのだ。 今この碑前を過ぎるとすぐ広い竜爪街道を渡るが、この道は新しい街道で浄界寺よりあとの小さな交差点が古い竜爪街道である。
 曲金、梶原氏の馬頭観音その言い伝え:梶原氏は曲金の戦闘で馬を亡くし、地元民に金を与え馬の弔いを頼み立ち去ったという。これが史実かどうかは不明。現在の設置場所は曲金の西豊田小学校と法蔵寺の間の路地にある。
 矢射タン橋への道がかつての鎌倉期東海道の証拠で中世の人々が多く往来したのだ。
・浄界寺(瀬名川142)  
 金比羅権現堂、石塔類:「南無阿弥陀仏 西国順礼 正徳三年」、「大乗妙典石経書写塔」、石灯籠、新・六地蔵、「奉西国南無大悲観世音菩薩 安永三年」、地蔵「寶享二年」、新・地蔵多数、句碑。
・世尊寺(瀬名川523)  
 ひげ題目塔「天保二年」他3基、手洗石、「立正安国降誕七百年記念碑」、板碑
・菅原神社(瀬名川475)
 祠、道祖神、手洗石2基、
・間の宿アイノシュク:瀬名川(瀬名川)  
 浄界寺や世尊寺、菅原神社のある辺りには屋号の付く家がまだある。この辺りがかつての間の宿アイノシュク:瀬名川である。この通りを東に進むと東名高速ガード手前の交差点に出る。この先東へ古い道は消失する。
・竜爪街道(瀬名川)  
 古い竜爪街道は浄界寺より東の交差点を南北に渡る道の辺りと思われる。そこから北へ菅原神社や瀬名川公園横を通り今の北街道を渡りその先の路地を入り、今の竜爪街道へ出て途切れるルートとなる。南へは世尊寺前を通り巴川を渡り今の竜爪街道に沿うように国1中吉田交差点前に出てアピアと工場の間の細い道を抜け普済寺前、津島神社前を通過し、江戸期東海道に接続し、そのまま南下すれば平沢観音道へとつながるルートである。
・瀬名川公園(瀬名川272)  
 敷地はずれに石塔類があり、近代の石道標もある。近代の北街道と竜爪街道の分岐を示し、旧東海道(江戸期)への距離も示す。
・八幡神社(瀬名川680)  
 (神木)抱擁樹:二本の木が夫婦和合のように仲睦まじく絡み合っているのでこの名がある。祠4、本殿、拝殿、石臼、手洗石「天保十年」他、石鳥居「大正十三年」。
この先巴川の土手で川向こうには、若宮白髭神社があり、そこから道が東に向かっていき、能島や吉川に至る。一説にはこの吉川にむかう道が古い東海道だともいう。八幡神社と白髭神社は昔からまったく位置を変えていないか不明だが、おそらくこの辺りが川の渡渉点を示しているのだろう。ちなみに地図上の町内境界線が川を挟んで入り組んでいて、かつての川の流れを予想できる。
・稲荷神社(鳥坂5446)  
 常葉学園体育館下にある。祠、鳥居、稲荷の置物多数。
・浅間神社(鳥坂544)  
 現北街道脇にある。石塔「猿田彦大神」、石灯籠2、板碑。
振り返ってみると北街道古道ルートは、東禅寺付近の上土でいったん巴川を渡ると、そこからは巴川の北側に沿うように東進していき、二度と巴川を渡らない。
巴川の流路は現在すっきりした直線状だが、以前は巴川の九十九曲がりといわれるほど蛇行していた。その名残は地図を見ると地域の境界線が川を越えて複雑に入り組んでいるところにみてとれる。
・妙楽庵(鳥坂837)
 石塔類「庚申塔 元文五」、「庚申塔 昭和五十五年」、「庚申塔」3、地蔵の台石らしき物。
・大福寺(鳥坂785)  
 石塔類「大乗経一部書写」、六地蔵、観音2、新・観音・地蔵5。祠、鐘楼。
・石塔(鳥坂762)   
 道と山と誠成公倫会用地の境に安置されている。石塔「金比羅山 秋葉山」、「庚申塔 元文五」、「庚申塔」。
・石道標(鳥坂397)  
 現北街道の先ほどの浅間神社を過ぎて一つ目の信号の交差点にある。「開運大日如来道 大正十年」、妙立寺に向かう参道開始点を示す。
・石塔(鳥坂491)
 妙立寺に向かう参道途中に安置されている。「庚申塔 大正九年」、「庚申塔 昭和五十五年」、「庚申塔 萬延元年」、「  塔」。道の向かいの地域の集会所には石鳥居がある。
 妙立寺門前に刻字不明の石塔がある。家型道祖神もある。
・妙立寺(鳥坂457)  
 石塔類多数で宝庫といってよい。丸石道祖神2「新定塔」「喰杉塔」、板碑、六地蔵、手洗石、「三界萬霊塔」2、祠。地蔵・如来…多数で約53体、年号も多岐にわたりいくつか紹介する「寛元六、明和六、寛政、九、寶暦、四、寶元十三、寛延四、五、元禄六、寛保元、六、天明七、文政、元文」等。コンクリート製五重塔、石灯籠2、石灯籠「昭和59」、大日如来堂。寺の裏から梶原山に登れる。
・石塔(鳥坂22)  
 県道北街道信号交差点南西に石塔がある。「大乗経一部書写経 天明元」
・梶原堂、老人いこいの家(大内841-64)  
 梶原景時一行を祀る。昔は裏山の山腹にあったそうだが、山腹が開発され麓に降ろされた。五輪塔が多数ある。説明看板もある。板碑2、毘沙門天堂。山腹に祀られたのは没後かなり経ってからで鎌倉末か室町初期ごろ。
・桃林寺(大内788)  
 門前に石塔「桃林寺」、手前の民家に双体道祖神。
新・地蔵、板碑、石灯籠、六地蔵「 暦六」、地蔵3、庚申塔4「寛政七」「文政三」、石塔3「寛政七」。
・天白神社(大内739)  
 石塔類「猿田彦大神」、「庚申塔 昭和55」、「庚申塔 和政?」、石鳥居2、石灯籠「昭和55」、手洗石。
・大内公民館(大内662)  
 「庚申塔 昭和55」、「霊山寺一本松ハイキングコース」説明看板。
・浅間神社(大内6001)  
 石鳥居「平成17」、手洗石、石灯籠2「明治17」、板碑「猿田彦大神」、石段「大正4」、石塔。
・霊山寺(大内597)  
  現北街道の大内で石道標「大内観音」(新石塔「観音堂」に変わっていた)が見えたら左折(北)し山を目指す。山の中腹に寺の屋根が見える。途中石塔類もあろう。北街道は都市交通網のひとつでせわしないが、大内に入りちょいとした田舎びた雰囲気が味わえる。北進し浅間神社を過ぎると駐車場があり、参道の登山道となる。車で山門前に行けない。距離300m、標高差80mである。10~20分で上れるだろう。足の弱い人は参道入口で拝めばよい。
 古義真言宗、仁王門は重要文化財、開創行基といわれる、三十三曲がりの急な細い道は観音三十三身の化現を意味し、途中の6基の丁石は六波羅蜜を意味する。
 この裏山の山頂は帆掛山一本松公園で標高差150mである。
石塔類。仁王門。上り口に古い地蔵3ある。
 *安倍七観音霊場巡りコース参照
・保蟹寺(大内539)  
 「庚申供養塔 寛延ニ」、地蔵「元文」、「三界萬霊 明治19」、「禁葷酒 元文」、六地蔵、鐘楼、句碑、地蔵、石灯籠、板碑3、「高部小学校発祥の地」。
・静岡市清水区高部公民館(押切1115)  
 周辺地域の歴史資料情報が手に入る。
・墓石(押切)  
 塩田川内田橋西袂道路より一段上の山腹に江戸期の墓石がある。
・乾徳寺(押切1270-2)  
 堂:由成地蔵、子安地蔵。石灯籠2、巨大板碑、道祖神。
・八幡神社(押切1198)  
 巨木、石灯籠2、手洗石「文政五」、石鳥居「昭和54」、石灯籠「昭和42」。
・円通寺(押切1146-1)  
 「庚申塔」、「三界萬霊」、新・六地蔵。
・江月寺(押切1140-1)  
 「庚申塔」、「西国順礼」、「西国順礼供養塔 □暦七丁三」、「□国西国供養塔」、「東国百番供養塔」、「甲子 天保」、観音、地蔵、「善光寺如来」、「南無大慈悲観世音菩薩 延享」、「庚申塔」、石塔、五輪塔。
・牛欄寺(梅ヶ谷88-1)  
 大日如来、「三界萬霊塔」、(新・古)六地蔵。寺の裏に牛石があるというが分からない。
・お堂、石塔(梅ヶ谷88-1)   
 牛欄寺門前参道塩田川土手上にある。
・大内新田の北街道古道、鎌倉街道について  
 古道は間の宿瀬名川から鳥坂、大内を経て、「ホテル心の鍵」(堀込759)辺りで塩田川を渡ると推定されるが、ここまで一切古道はない。
 塩田川東側は再整備中でここの古道も消滅したが、11年現在杭が一列に打たれていて「ホテル心の鍵」向岸から、東の松谷氏宅(能島479-11)前の道までがかつての古道だったことが分かる。以前ここは田畑で農道が通っていた。この農道が古道の残存部であったがすべて埋め立てられた。
 松谷氏宅前の道から東に向かう細い舗装道路こそが鎌倉街道の残存部である。すぐ南には国道1号線静清バイパス高架線と側道、北には東名高速道路高架線が見えて、まるで道の今昔を一目で体験させられるかのようである。この古道上で能島、大内新田、押切の境界線となっている。古道を地域の境にすることはよくある。この近辺には屋号をもつ家があり、かつての街道だったことをうかがわせる。古道の中間辺り大内新田、押切、能島境に当たる交差点がある。この道を北進すると押切、梅ヶ谷に向かう道で、南進すると能島、吉川に向かう道である。この辺りが中心地だったようだ。さらにもう一つ先の交差点を南進しバイパス側道に当たった所に石碑「祀先祖岡村由衛門之碑 明治33年」がある。
古道を東に進むと今の県道北街道に合流する。ここに見にくいが「旧北街道」の標識がある。
・押切公園、大内新田老人憩いの家、墓地(押切909)
 旧北街道を少し北に入ったところにある。六地蔵3体×2、石灯籠、板碑「征露記念 明治37,8」、「庚申塔 万延元」その裏面「庚申供養塔 天明」、石仏事典等には表裏に別の機会に刻まれることはあると記載されているが、静岡市内で見られるのは珍しい。ここはおそらく昔、寺があったのだろう。
・桜木神社(天王東229-2)  
 手洗石、石灯籠、道祖神、石鳥居「昭和57」。
・五輪塔、山梨氏宅(高橋5丁目4)高橋西バス停近く  
 庭に多数の朽ちかけた五輪塔が集められている。この周辺の土中から頭のない人骨が出てきたという。おそらく梶原一族の胴体を埋めた所なのだろう。各所にあった五輪塔を今はこの一箇所に集めたようだ。
五輪塔前の庭内を東西に移動できる道こそが北街道古道残存部である。この付近、現県道北街道よりやや南に平行して古道が通過していたことが分かり、家々の境界線がその名残となっている。ほぼ通行不能である。古い住宅地図だとまだ北街道南面の家の裏に路地が残っているのが分かるが、住宅の立替でほぼ路地は全滅している。
・建徳寺(高橋5丁目3)  
 ひげ題目「文政十三」、「南無妙法蓮華経 文化七」、堂:金比羅明神、釈迦石像、諏訪明神。ポンプ井戸。
 寺は現県道北街道に門を向けているが、門の左右の県道沿いに各人のお宅が並んでいる。門は県道に開いているが、県道の一軒裏に寺があるようだ。この各宅と寺の間が古道と推定される。
・高源寺(高橋2丁目7)  
 梶原一族に関する石塔類やその他の石塔類。梶原一族を祀り、それに関する看板もある。中世史を専門とした皇太子が研究のため訪問したことがある。本堂(市指定文化財)、板碑「山本豊太郎顕彰碑」:郷土発展に尽くし自由民権運動も行ったが夭折した人、「浩宮徳仁親王殿下お成り記念」、ウナリジゾウ、レリーフ:下山昇作(梶原一族を描く)、「不盡乾坤燈外燈龍没」フジンケンコントウガイノトウリュウボッス:梶原一族を弔う供養塔で杜甫の詩が書かれている、鐘楼、新・六地蔵・観音・地蔵・百度石、地蔵、石灯籠、行岩観音、「庚申」、「奉順礼 秩父観世音菩薩 西国観世音菩薩 両国観世音菩薩」、「西国三拾三所 四国八拾八箇所 供養塔 明治七」、「百観世音 志みづミち くのをみち 弘化三」、
 梶原一族の首はこの付近にさらされたという。
 現県道はこの手前で南下しJR清水駅に向かってしまうので、これ以後今の北街道は県道ではなく市道となる。
・神明宮(高橋4丁目4)  
 石鳥居「昭和61」、狛犬、道祖神。常夜灯「大正12」、石灯籠2「大正15」、石灯籠4、社:白髭・天王社、樹木:樹齢200年? だるま石:村の力自慢二人が、違う村で持ち上げられたら土産にあげると言われたので、担いできた石という。
・結界石?(八坂西町1)
 結界か石道標と思われるが、詳細不明。
・和物所稲荷神社(八坂南町8)アイナンジョ  
 道祖神2、石祠、稲荷2「昭和15」、手洗石「奉納 山梨醤油屋 大正14」、破損した稲荷2、樹木3:200年?。
・秋葉山、秋葉神社、峰本院、栄松院、福昌院(西久保1丁目1、2)  
  山門入口付近では、石灯籠「文政五」、石段「昭和5」、常夜灯「明治14」、常夜灯。
福昌院:新・菩薩8.奉納巨大鉄スコップ。
栄松院:新・子育地蔵、祠。
峰本院:新・古・地蔵、レリーフが見事(中国の寺院と湖か? 他にも)。
秋葉寺:常夜灯「文政二」、手洗石「文化元」、石灯籠「昭和9」、開運地蔵堂、板碑多し、石灯籠、石塔、「消防殉職者顕彰碑」。
秋葉神社:奉納巨大鉄釜、奉納巨大鉄下駄、石灯籠「大正13」、狛犬2「天保十三」、常夜灯「秋葉大権現 天保九」、石造物多数。斜面上に黒い溶岩が多く、石塔類を固定するために持ち運ばれたものだろう。
 神社と修験の寺が混在し、あたかも近代以前の神仏混合、本地垂迹の雰囲気を味わえる。寺も仏教というより、日本古来の山岳修験道の雰囲気である。
 秋葉山を回りこみ、鹿島神社前を経て北東の庵原に向かう街道がある。古代には清水の地は海で秋葉山の南端が陸地の境だったことだろう。その頃の中心地は庵原であった。庵原中学校前辺りの道が古代東海道と思われる。
 中世東海道は秋葉山交差点の庵原に向かう街道をやり過ごし、次の五差路交差点の左から2本目の一方通行の出口に向かう。この道は今は直線になっていて、古さは微塵もなく、道から直接接しられる遺物もあまりない。
・矢倉神社(矢倉町5)  
 古くから神社があったことは確実である。日本武尊東征に関する伝説がある。軍の兵営地か武器庫だったという。この神社はこの周辺の要であった。
 手洗石「文化五」、猿田彦大神、手洗石「紀元2600(昭和15)年」、石灯籠「大正九」「紀元2600年」、板碑多し、合祀される神多し。祠多し。
・矢倉の辻、古代官道、中世北街道(矢倉町6-1)  
 神社のすぐ北の路地前に「矢倉の辻」の標識が出ている。この路地はいかにも古道ぽく、いつもなら古道だと喜ぶが、今回の官道は幅広で直進という近代的道路と共通項がある。そうなると中世北街道とされる、その北の五差路の右(東)、一方通行の出口になっている道がやはり官道ルートに似つかわしいのではなかろうか。この道はまた新幹線ガードと一定距離で並行して東進する。新幹線ルートを決める人の思惑とも偶然一致したようだ。
・八幡大神社(八幡様):袖師ふるさとの路41(西久保1丁目22)
 第三部公民館、簡易老人憩いの家。
・ひげ題目:南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 第六百御遠忌 明治十年 世話人
・手洗石:奉納、・神燈:文化十(破損)、
・本殿は拝殿の憩いの家の裏側となり、見えにくいが、石造りの六角形塔型洋風金属葺で戦前の建築かと思われる。神社の本殿がこのような形なのはとても珍しい。一見の価値ある洋風神社本殿である。’16 12/4
・墓地(西久保345)   
 ひげ題目「法界 弘化二年」、石塔2基、地蔵、祠。
・子育観音(天王さん) (袖師町365-3)    
 祠、石仏。’16 12/4、石仏は無く石祠になっていた。
・真如寺(袖師町365-3)  
 地蔵、金比羅宮、「庚申塔」、「金光明一千部供養塔」、岩松地蔵。
・旧道と旧国道1号線合流点(横砂西町11、12)  
 庵原川手前で旧国1に出て、北街道は終点となる。川に出る直前で道は曲がるが土手ができたため直線道路を曲げたのだろう。古代・中世には直線だったろう。ここより東は近世東海道となる。
横砂や興津でも近世と中世や古代の東海道は微妙に違うのだろうが、今のところはっきりしたルートが分からない。
・盧崎神社(横砂本町29)イヲサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
 おそらくこの神社を古代官道は目指したように、中世の東海道も目指したのだろう。
 「盧」の字はイホハラのイホと読むが漢和辞典ではロと読む。ここではイヲと読む。


=吉川街道(清水区楠~吉川、北脇新田、高橋)= キッカワ 
県立清水高等技能専門学校前から東に進み吉川に至る古くからの街道はある。一説に北街道の古道ともいわれるが違うと思う。しかし古くからの道で、北街道がどちらかというと巴川の北を通るのに対し、この街道は巴川の南を通る街道である。ちなみに吉川街道などという名称は聞いたことはないが、一応吉川を通り吉川にちなんだ遺物があるので、その名を冠した。
・若宮白髭神社(楠158)  
 石塔類。巴川の渡渉点にあるので、もとは水神などを祀っていたのではなかろうか。川向こうには抱擁樹のある八幡神社がある。
・興福寺(楠572)  
 石灯籠・板碑・地蔵:近代。「三界萬霊」?。
・石塔類(楠475)  
 古・石塔3、古・地蔵6。興福寺の向かい側にある。フェンスに囲まれ入口に鍵がかかっているので詳しく確認できない。
・東明寺(長崎410)  
 新しく建て直した。石塔類。鳥坂・大内と御門台を結ぶ街道脇にあった石塔も今ここにある。
・石塔類(長崎406か398)  
 かつては道の反対側にあったが、道が拡幅されここに移転した。東明寺入口のすぐ南である。「庚申塔」4.。
・長崎神社(長崎378)  
 鉄筋コンクリ作りの2階にある。1階は自治会館で隣は地域のグラウンドである。かつては牛頭神社といった。天神社を合祀する。梶原景時が梶原山に登ったとき、馬具を放って落ちた所に神社を祀ったという。鎧ヨロイは鳥坂の浅間神社になり、轡クツワは長崎の天神社になったという。ちなみに鞍クラを納めたのは南沼上の利倉神社だという。
・佐口神社(長崎新田370)  
 祠、手洗石、石鳥居「昭和3」、石灯籠:近代、板碑、樹木:市指定保存樹木:400年?。 
・若宮八幡宮、堀込薬師堂(堀込617)  
 薬師堂、新・六地蔵、手洗石:近代、狛犬「昭和17」、石鳥居「昭和16」、祠、板碑、水準点、樹木1本:200年?。
・吉川氏発祥の地記念塚(吉川1000)  
 昭和17年吉川子爵が吉川家先祖4代の墳墓をまとめて一つにした土と石による塚である。山口県岩国市が吉川氏発祥を記念して説明看板を立てた。鎌倉時代、吉川(吉香)小次郎は梶原一族討ち取りの功を立てたが亡くなった。子孫の吉川一族はのち岩国城主となり大名に出世した。手洗石。
・吉川館跡(吉川955)  
 説明看板がある。ここを北端として、南端の国1沿いの小糸製作所までの地に広がる広大な館があったと推定される。
 この辺りまで街道は続き、このあと巴川を渡り、高橋方面に出て別の道になるようだ。
・能島八幡神社(長崎378)  
別名糸繰り八幡といわれ、古くは巴川の両岸に綱を張り綱を手繰りながら渡船したためといわれる。その古い巴川は今、神社と吉川館跡看板の間を流れる小さな用水路となっている。石鳥居「昭和56」、石灯籠「昭和12」、樹木多し:300年。
・報恩寺(能島219)  
 記念碑:第二次大戦で当地に落ちた爆弾や二人の犠牲者の悲劇を語る。「庚申塔」、「三界萬霊等」、新・六地蔵・地蔵。
 能島八幡神社から報恩寺を通りさらに北に向かうと、大内新田、押切、能島の古北街道に出る。
・水之上神社(北脇新田371-7)  
 石鳥居「大正10」。
・稲荷神社、北脇新田公民館別館(北脇新田156)  
 「庚申塔 寛政十二」、稲荷「昭和53」。
・河岸地蔵堂(北脇新田63)  
 かつての川の渡渉点にある。堂:石地蔵4うち「明治23」2・「天明元」「文化五」、うち1つ小川地蔵。
・吉川館遺物跡(吉川642)  
 市立有度東保育所近辺に井戸や近習の武者の屋敷跡があるといわれるが、再整備されていて痕跡は分かりにくい。市指定保存樹木:イヌマキ。
・西照寺(北脇416)  
 新・穴地蔵・観音・石灯籠。
・白髭神社(北脇288)  
 眼病に効くといわれ、境内にある岩の上に溜まる水をつけるのだそうだ。無論今こんなことをしたらもっと目に悪いが、昔はそう言ったのだ。疣石:上の真ん中がくぼんだ石で水が溜まる、石鳥居「平成5」。
・金剛法寺(渋川2丁目8)  
 石塔類。
・渋川館跡土塁(渋川1丁目15)  
 なんてことないちょいとした高さ5mの丘で茶畑になっているのだが、これは人為的に積み上げた土塀の跡のごく一部が残存したのである。中世渋川氏の館を取り囲んだ土塀だったのだ。説明看板はあるが、古びてまったく読めなくなっている。
・吉川八幡神社(吉川43-3)  
 静鉄線狐ヶ崎駅裏にある。駅前が江戸期東海道であり、吉川という地名がいかに南北に長いか分かる。ここが吉川の南端である。岩国城主の大名吉川氏は参勤交代の度にこの神社に参詣し寄付をしていったといわれる。かつては境内はもっと広かったが、線路や駅舎にとられたという。建物は文化財である。かつて吉川氏というスポンサーがいたからなのか羽振りがよかったのだろう。地域が広いのもそのためか。
 本来は吉川館にあった氏神だが、当地に移転した。創建不詳、市指定保存樹林、石灯籠「文化三」、日待ち太鼓保存会、板碑、境内の2/3は線路で消失。市地域登録文化財(石造物)第1号・旧鳥居・寛政元(1789):吉川氏の由来等のことを書き付ける。昭和59年に書写された石鳥居が現在建つ。
 江戸期東海道からの参道を北に向かうと神社で、さらに北に向かうと吉川の地の中心地にむかうことになるようだ。
東海道からの分岐点の南向かい側はどうも久能寺観音道になるようだ。
 *「久能寺(観音)道」参照。


=西久保・庵原街道(清水区西久保~庵原)= イハラ 
 清水区西久保秋葉山前交差点を北東に曲がり庵原に向かう街道である。古代庵原の国イホハラノクニの中心地に向かう道であろう。矢倉神社から盧崎神社に向かう道が古代官道だろうが、それ以前から使われていた道の可能性があり、庵原川が増水すれば、この内陸側を通る道が使いやすかったであろう。一種のサブ東海道であろう。西久保の矢倉の辻辺りから庵原を経由して横砂の盧崎神社までの区間を扱う。一応「庵原街道」と名付けさせてもらう。
・鹿島神社(西久保509)  
 「大乗妙典六十六部 寶暦九」、「神社仏閣拝礼供養塔 安政五」、新・猿田彦大神、石塔「明治42」、常夜燈「大正13」、狛犬「昭和17」、板碑、手洗石。市保存樹木:くす・しい。要石:石工ののみのあとがついていて、のみで打つと石から血が流れたという。どんなに掘り起こそうとしても掘り出せないという。
・正一位稲荷神社(西久保498)  
 秋葉山裏山は古墳である。今は公園になっている。戦時中は砲台になっていた。頂上に祠。
・龍雲院(西久保82)  
 石仏2、石塔4、馬頭観音、板碑、新・石仏・石塔、市保存樹林:しい。
・八坂神社(八坂北1丁目2)  
 北東斜面が古墳だが、現在住宅や東名清水インターになっていて消滅しているのではなかろうか。石塔類:石鳥居、手洗石、石灯籠。
・神明宮(袖師町38)  
  石鳥居「昭和61」、常夜灯「嘉永九」、青銅製鳥居?、常夜灯2「昭和6」、「袖師相撲甚句記念碑」、記念碑、市保存樹林:くす・しい・もち・いしがし、奉納巨大鉄釜。
 裏山は5世紀末の前方後円墳で神明山1号古墳という。ちょうど外形に沿って石を並べてあるので分かりやすい。東側には細長くフェンスで囲ってある所があり、石室の横穴が見えるが、東半分は削られているようだ。また周辺を含めて4~5古墳があったようだが開発により消滅したようだ。この辺りに庵原の豪族が古墳を作ったということは、この辺りにムラがあったということか。ちょうど庵原街道も眼下を通るのだ。
・清水区庵原公民館(庵原町68)  
 石碑「庵原村役場跡」、石臼、手洗石、板碑。 
・神木神社(原8)  
 石碑「神木神社」。山岸氏宅門内にある。 
・お堂(庵原町449)  
 庚申塔3「大正9」「昭和55」。
・禅洞寺(庵原町477)  
 石塔「南無観世音菩薩」。 
 ・地蔵堂(原454)  
 地蔵多数。庵原街道から久林寺に上る参道入口の墓地横にある。  
・久林寺(原439)  
  朽ち欠けた石仏3、新・石造物。 
・砥鹿神社(原360)
 造営棟札1757年。石鳥居:近代、狛犬2:近代、石灯籠2:近代、新・手洗石、石灯籠脚部、石祠、樹木:250年?。  
・三池平古墳(原と山切の境、ナショナルトレセン入口横)  
 5世紀初期の前方後円墳で珍しい出土品があるようなので、イホハラ氏はかなりの力を持っていたということだろう。神明山古墳が5世紀末で数十年間で中心地が南下したのだろうか。現在復元整備され見やすくなっている。以前はみかん畑山の頂上の小屋の中にあり、そこの透明窓から石室の上部を覗くことができた。
・一乗寺(庵原町1937)  
 石塔類多し。庭も広く美しい。落ち着いた風情のある寺院。昔は豪族や武将の館があったと思われる。
・郷社豊由気神社(庵原町2894)  
 
・福泉寺(庵原町2579)  
 
・円応寺(庵原町2539)  
 
・蜂ヶ谷八幡宮(蜂ヶ谷306)  
 小丘上に神社がある。石塔類。隣に池がある。
・関田神社(山原343)  
 石塔類。
・大乗寺(草ヶ谷114)  
 「善光寺供養塔」3、石塔3、石塔2、石仏3、「庚申塔」、「三界萬霊塔」、延命地蔵、水子地蔵、鐘楼、新・南無虞遮那佛、新・観世音菩薩、新・五百羅漢:境内のあちこちにあり見事である。寺の境内から裏山は山城である。
 寺の門前から庵原中学前に出る道及び東久佐奈岐神社手前の道が古代東海道ではなかろうか。
・庵原城跡(草ヶ谷114)  
 庵原の地は豪族イホハラ氏の出身地で、この辺りに本拠地を構えていたと考えられる。城は中世の山城である。この麓辺りが旧清水の中心地だったのだ。縄文遺跡も出土し古くから人が生活していたことが分かる。
・式内久佐奈岐神社(東久佐奈岐神社)(山切102)  
  庵原街道より少し北に入るが、ここに日本武尊ヤマトタケルノミコトがかつて陣を敷いたという。その跡地を副将:吉備武彦命が社を造り日本武尊を祀ったのが創建という。昔は東久佐奈岐(草薙)神社といったようだが、今は正式名ではない。しかし東久佐奈岐神社と呼ぶ方が、草薙神社と区別しやすいので通称名を用いる。
 石鳥居「大正10」、石灯籠2「明治8」、古・石灯籠、石灯籠「平成14」、手洗石コンクリ製、狛犬2「昭和3」、石灯籠4、石鳥居「平成20」、手洗石「紀元2600年」、石灯籠2「寛政四」、祠多し、手洗石、石灯籠2「平成14」。
・若宮八幡神社(尾羽2)  
 創建不詳、石灯籠脚部「文政七」、石灯籠2「昭和46」、古・手洗石、石鳥居「昭和45」。
・松雲寺(尾羽22)  
 六地蔵、石仏、祠、石塔、市保存樹木:カシ。
裏の観音山に観音菩薩が安置されている。その光背のようにIAIという産業用ロボットの会社工場の高層建築物が後ろを覆っている。樹木の覆う山を上って寂しい場所にあるはずの観音の後ろに、モダンな高層ビルの壁や窓が白っぽく光り、そのミスマッチが唖然として妙におもしろい。最低を通り越し最高である。
・尾羽廃寺跡(尾羽22)   
 尾羽公会堂付近から礎石や瓦等が見つかったということらしい。近くにはその瓦を焼くための窯跡も発掘されたようだ。ここに大きな寺院があったということは、それだけ開けていた証拠である。付近のお宅の道沿いに礎石が露出している。尾羽公会堂、老人憩いの家周辺が寺の敷地である。
・石塔類、尾羽公会堂、老人憩いの家(尾羽355-6)  
 「庚申塔」2、「西国順礼」、石塔3、地蔵2「天明三」、准(月低、月偏に低つくりである)観音菩薩堂:石仏2。 
・盧崎神社(横砂本町29)イヲサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
おそらくこの神社を古代官道は目指したように、中世の東海道も目指したのだろう。
 「盧」の字はイホハラのイホと読むが漢和辞典ではロと読む。ここではイヲと読む。 
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 17:54Comments(0)古道