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2013年05月03日

大川街道、静岡県道南アルプス公園線

大川街道(静岡市八幡~湯ノ島、大間、笠張峠)県道60号線南アルプス公園線     
        調査:2013年2/24~4月
静岡市羽鳥で国道362号線を上り昼居渡八幡で国道362号線から右分岐し、県道南アルプス公園線を遡上し、笠張峠までの区間とする。八幡から湯の島の近代道路は1916年開通。
 *なお静岡市安西・羽鳥から昼居渡八幡までの区間(この区間の近代道路は1903年開通)は、『古街道を行く』(静岡新聞社)の川根街道を参照してください。
・(八幡)  
 70m進むと道は右カーブになる。そこの岩上に石塔あり。
・馬頭観音:明治四十五年六月廿二日 
・庚申塔 大正九庚申年 
・石灯篭:大正十二年 
・(赤沢)  
 赤沢の休憩所を過ぎ、集落右上に神社がある。上っていく途中の家の石垣庭先に石塔あり。
・農道建設碑 昭和三十二年 
???・対岸の峠は櫛筐峠クシゲ(クシバコ)トウゲというそうだが、具体的にどこなのかわからない。わかる方お知らせください。
集落左手上に神社あり。
・山神神社(赤沢)  
 神社拝殿の額には山之神社と書かれている。
・手洗石:昭和三十四年 
・鳥居・金属製 
県道に戻り北上。のがたけへの分岐より手前に祠があり、祠内に3つのものが祀られている。
・弘法大師 
・観世音菩薩 
・黒田渕稲荷 
 ここの渕を黒田渕というようだ。
・(のがたけ) 
 のがたけへの分岐には東海自然歩道標識あり。吊り橋で藁科川を渡り、標識に従い山に取り付けば尾根まで行ける。尾根上の道は古い川根街道であり今の東海自然歩道である。ちょうどのがたけからの上り口は裏川根街道上り口のようだ。
のがたけの集落の庭先に石塔あり。
・石塔?:摩滅して刻字等不明、細長い60~70×20cm、庚申供養塔?か 
・石塔?:摩滅して刻字等不明、背が低く幅広40~50×30cm、 
 集落を上がっていくと分岐点あり。東海自然歩道標識と石道標あり。
・石道標:従是 右 相又 左 村中 道:行書で書かれており幕末から明治初期のものか。摩滅していて判読しにくい。右が東海自然歩道・川根街道方向で相又である。左は集落で吊り橋を渡れば赤沢や寺島に行ける。
 また県道に戻り北上。
・(寺島 市ノ瀬) 
 寺島中心集落手前カーブ地点上に神社あり。
・行春社(市ノ瀬)  
・石鳥居:刻字?だいぶ摩滅しているものばかりで判読不能。 
・手洗石2:刻字?
・石燈篭:?
・地蔵:? 
・馬頭:?
・石仏:?
・如来:?
・祠:
・石塔:生祠 
 この上に神社あり。
・白髭神社 
・鳥居:木製 
・手洗石:明治十四年 
・石製家型道祖神: 
・奉供養庚申之塔 文政九丙戌年 
 県道に戻り北上。寺島集落で右折して坂本へ行くルートがある。東海自然歩道も同じく右折である。
・弥助桜、伝説「約250年前村が貧しく年貢を払えないとき、山杢弥助は役人とトラブルを起し桜の大木に上って隠れていたが役人に見つかり、富沢の六郎兵衛が鉄砲で撃ち落とした。そのとき弥助は六郎兵衛を七代祟ってやると叫んだ。その通り六郎兵衛の子孫は肉体的不具合が多かった。また弥助には二人子供がいたが賢かったので弥助のようになることを案じ殺してしまった。桜の木は弥助桜と呼ばれた。昔子供を祀ったものが田の中にあったという。」
???弥助桜はどこにあったのか?
・弥助観音、伝説「寺島新宮にあり、山杢弥助にまつわるものである。形は直径約15cmの円盤状の石で割れたものを継ぎ直したようになっている。昔弥助観音がある辻の辺りが子供の遊び場で、子供が弥助観音を割ってしまったので、武士が子供をたしなめていると、観音がせっかく子供と楽しく遊んでいたのにと武士に注意したといわれる。」、子供と遊ぶ地蔵伝説は各所にある。
???弥助観音はどこにあるのか?

○~寺島で坂本(東海自然歩道)への分岐。~
 200m進むと右に石仏あり。
・地蔵 
 さらに進むと坂本集落が見えてくる。
・坂本  
 坂本集落橋手前の右民家前に石仏あり。
・庚申塔 大正九年 
・南無馬頭観世音 大正六年 
 清沢本橋を渡ると集落中心部だ。すぐ橋周辺が坂本川砂防公園で右に看板あり。
・看板説明版:河原施餓鬼:鎮魂の碑:大昔に遡る約三百年前享保六丑(1721)年閏七月十六日異常な大雨が降り続き、字姉山沢の奥が山崩れとなり、人家へ押し寄せる土石流に、一瞬にして泥中に埋没した家屋数三戸、五郎兵衛方男女四人、助蔵方男女二人、権四郎方男女三人が、家と共に山なす泥土の下深く埋まる大惨事となった。また周囲の屋敷、田畑、山林も埋め尽くし、大きな爪跡を残した。
それより百三十三年後の安政大地震により、再び山崩れを起こし、家屋敷に被害が発生したが、人的災害がなく、不幸中の幸いであった。
 貴い人命と共に被害、損傷を受けた我々の先祖の苦難の歴史をたどる時、霊の鎮魂の為、三年に一度、この地で川原施餓鬼を行い、犠牲になられた緒人をはじめ、受難の時代を乗り越えた古人の冥福を祈り、祈願を続けている。

*注釈:閏ウルウ七月とは、七月の翌月が閏七月となり、七月を2回行ってから、その翌月が八月であり、1年が13ヶ月になることもある旧暦のシステムである。約3年に一度13ヶ月になる。以下の崩野の延命地蔵箇所で旧暦一口メモとして簡単に紹介する。

メインストリートの林道坂本線に沿い上っていくと公園内に祀られているものに出会う。
・地蔵:光背付き 
・句碑:とつさきに山霊導くわか泉 昭山 
 公園を過ぎ茶畑右に石碑あり。
・句碑: 
 更に進み左が崖になると、その崖に祀られている。
・馬頭観音: 
 メインストリートを清沢本橋手前まで戻り、集落内旧道を上る。すぐ左に石仏あり。
・馬頭観音 昭和十四年:朝風という馬を祀っている。
 寺に向かう。
 ○清源寺 
・大カヤ:説明版:樹高30m、目通り周囲3.7m、枝張18m、このカヤの木は樹勢が良好で樹齢約450年にも達する巨樹である。カヤの木は山地に自生しているが、庭樹としても植えられている常緑の高木である。種の胚乳は食用になりまた油を採る。材は基盤、将棋盤として有名である。
・馬頭:明治六年 
・石仏:他2つ付き 
・西国三十三所:他に馬頭と如来付き 
・地蔵: 
・西国三十三所  
・西国三十三所 寛政戌辰年 
・庚申供養塔 文政七年 
・八幢しょう: 
・地蔵:祠 
もう少し山上に神社あり。
○清沢神社 
・石鳥居:大正十三年 
・石灯籠:  
・石灯籠:  
・石灯籠:  
・石灯籠:昭和十二年  
・手洗石:慶応四年 
・石塔:奉献 伊津奈大権現 寛政八丙辰歳九月吉祥日 
・奉献 御神燈 寛政八辰年九月□ 
・かまど 
 奥に奥宮がある。
・石灯籠: 
・結界石 
・祠 
・石塔 
・鳥居:金属製 
 元来た道を戻り下ると途中に四十一坂(肘打峠)上り口表示がある。 
・四十一坂(肘打峠、肘打嶺)、静岡市駿河区坂本、国土地理院2万5千分1地図「牛妻」
 ’13 3/17 坂本より二十数年振りに登った。登山道は整備され標識も多い。集落上はずれから畑次いで森を通り峠まで15分。道は狭いところもあるがかつては道幅1間1.8mあったと思われる。一部崩壊していて道の付け直しがされている。集落はずれと畑の境辺りに石ころの道祖神がある。かつて登ったとき峠は平坦な茶畑でそのときはちょうどおじさんとおばさんが茶畑の世話をしていたが、今は植林と雑木が一面を覆っている。峠には石仏の観音2基と説明看板がある。
・西国一国三十三所 萬延元年 
・□国一国三十三所 宝暦四年  
・説明看板:肘打峠は大昔より藁科街道往来の道として栄えてきた。峠にはかつて大樫の大木が繁り峠越えの旅人の休息の場所となっていた。また鎌倉時代源頼朝の希望により栃沢の米沢家の老女が永年手塩にかけた愛馬:摺墨(磨墨)の手綱を頼朝の家来赤沢入道、小島三郎、日向太郎の高名な三勇士に名馬摺墨の手綱を手渡し、しばしの別れを惜しんだ峠と伝えられる。坂道の曲がり多く狭く険しく肘を突く峠の道、坂道を上りきるとそこに石仏二体苔むした観音菩薩が静かに時の流れを見守っている。(清沢村誌引用) 
 
 峠から更に坂の上に向かい下る。初めは見事な切通しで道幅1.8mが確保されていたことがよく分かる。ただしこの道を見ていきなり近世の古道をイメージしてはいけないのだろう。たいていの古道が、少なくとも昭和の戦後期まで現役の道として使われ補修を受けてきたのだろうから、戦後期の姿と受け止めたほうがいいのだろう。ニホンカモシカに会った。体長1.5m以上で立派な体格だ。このところ里山でも数多く見受けられる。天然記念物がこんなに人里にいていいのかと思う。被害は出ているのだろうか。逃げていくとき「キー」という甲高い声で鳴いていた。見受けることはしばしばあるが声を聞いたのは初めてだ。周囲に知らせるかのように鳴いていたので付近に仲間がいたのだろうか。しばらく下るとガレているところがあり道は崩壊していくようだ。15分で下りきり茶畑の農道終点に出る。ここから坂の上に出られる。なお農道は低いところを通って坂の神に出るが古道はもっと高いところを通過していたのだろう。
 以下に以前の文章を載せる。
  静岡市羽鳥で藁科川を遡る国道362号線を北上、八幡にて県道で藁科川を北上、市ノ瀬で東海自然歩道の標識あり、750m北上で寺島集落に出る。東海自然歩道標識は県道を右折し坂本集落に向かう。1kmで坂本へ、集落西端の家から裏山に登る登山道あり。分からなければ地元の人に聞くべし。道はやぶっていてよくないが、何とか通れる。標高差70mで尾根の峠到着、石造物が2体あったはず。昔は茶畑などでもっと通りやすかっただろう。確認89年頃なのでいつか再確認をしたい。ルートと名称は国土地理院2万5千分1地図に記載があるが、下り道未確認。西に下れば藁科川沿いに坂の上集落から延びる農道に出られるようだ。農道から登山道に入る付近に架かる吊り橋手前県道に「古道、四十一坂、肘打峠」の標識あり。農道からの標高差150m。坂本集落内にも標識あり。この道はかつての藁科街道のはずである。

 ~坂本から寺島の藁科川沿いへ戻り県道を北上する。~
 鍵穴バス停付近で鍵穴橋を渡り、向こう岸の本村へ行く。
 集会所のある墓地はおそらくかつての寺院跡だろう。
・奉一国三十三所供養塔 天保五申午年 
・庚申塔 天保五年 
・石塔2基 
集会所裏手に神社がある。
・八幡神社(鍵穴本村) 
 石鳥居:大正十四年 
・手洗石:大正十四年 
・石灯籠2基: 
~県道に戻り北上する。~
○大瀬戸 
 大瀬戸の県道カーブ地点上の山にお堂がある。かつての寺だ。
参道入口は集落内である。
・門柱:コンクリ製:昭和拾壱年 鍵穴同志會 
・石灯籠:剥離ひどし 
・手洗石:明治□二年 
・手洗石:文久二歳正月 
 大瀬戸の県道より川に下っていくと道祖神と桜がある。
・石製家型道祖神:隣は枝垂桜である。
~県道に戻り北上する。~
県道沿いに祠がある。
・地蔵(新) 
・天満宮(小島) 
・石鳥居:昭和五十一年 
・石灯籠:明治二十七八年 
・石灯籠:昭和54年 
・手洗石: 
・五輪塔:4基、古い、壊れている、
 小島橋を渡った向こうの集落はじめの家先に石塔がある。
・庚申塔 大正十四年 
その上の方に小島の墓地がある。
・地蔵 
・西国三十三所供養塔 
・庚申供養塔 
・地蔵 
・奉西国三十三所 
・?西国三十三所 
 ~県道に戻り北上する。~
・木製標識:交通安全供養塔 
・山王峠 
 休憩所:「樅の樹」前の道を上って曲がると坂の上方向が見える。ちなみに曲がるところで川に向かって降りていくと大川自然広場でキャンプ場。 
・四十一坂 
 上り口標識 
・唐沢橋を渡ったところに観光案内図看板と記念碑「大川 在来そばの里 大川100年そばの会」がある。その先の川の右崖淵カーブ上に石仏がある。
・馬頭観世音 昭和十五年 
 その先右カーブ左崖下に祠がある。
・地蔵 

~坂の上集落に入る。
・石塔(坂ノ上 東)さかのかみ 
・庚申塔:天保五年 
・庚申塔:大正九年 
・薬師堂(坂ノ上 東) 
 近くの墓地前に石塔が3つある。堂内には木製仏像群、建穂寺に次ぐ規模、:本尊薬師如来等:推定平安期。五智如来、観音菩薩、十一面観音、天部七体、僧形、神像。
眼病に効くそうだ。
この裏山を上っていった先を兜巾山というようだ。
・右:地蔵 
・中:有縁無縁三界萬霊等 
・左:葷酒不入門内月向山主□國□□ 
・坂ノ上神社(坂ノ上 東) 
石造物
・石灯籠:安永九年×2 
・狛犬:平成三年×2 
・石鳥居:昭和六十三年 
・手洗石:明治二十九年 
・句碑:昭和三年 
・割れ目のある石 
・御即位紀念:大正四年 
・天盃拝領 御即位記念 昭和三年 
・改修道路 昭和三年 
~ 町内の裏を藁科川が流れ宅地と畑の境の土手際に耳地蔵がある。
・耳地蔵、田の中にあるという。お果たしは穴の開いた石を祀る。今は藁科川の土手際に祀られている。3基石塔が祀られ、
・右が地蔵で穴あき石を首にかけているので、これが耳地蔵だろう。
・中央は「有縁無縁三界萬霊塔」、
・左は地蔵。

???・清名塚、戦で死んだ武者を埋葬したところに五輪塔を祀ったというが不明。分かる方お知らせください。
・陣場河原:かつて戦があったところで、町内を流れる藁科川の河原のこと。
・机平ツクエダイラ:平和協定を結んだところをいい藁科川の向こう側で、吊り橋を渡った先の左上の平坦な大地である(平原氏談)。今は廃棄茶畑と建築業の資材置き場、携帯電話の電波塔らしきがある。おそらく古道は机平上端を水平に通過し、坂の上集落と四十一坂を下った先の茶畑を結んでいたのだろう。 

~坂の上集落で公民館横の道を進み、橋を渡り向こう岸へ出て、四十一坂入口方向を目指す。
途中左民家裏に屋敷墓があり、庚申塔もある。(道からは見えない。)
・庚申塔:大正九年 
~一旦集落北に向かい、大川保育園横を通過したカーブに石塔がある。小字の南と高沢の境あたりなのか。
・庚申塔:昭和三年 
・庚申塔:昭和十年九月宗野ひさ 
・庚申塔:大正九年 
・石塔?:昭和三年□月吉日 
・手洗石:
・花挿し用の石3:中村辰也 

~方向を変えて南に向かう。集落南はずれの民家に地蔵がある。
・地蔵 
・丸石:道祖神か?
古道はもっと高いところを通っていたのだろうが、自動車道は中腹を通過し途中机平の平坦地を抜け、河原に広がる畑に向かい降りて行き、方向を下流の四十一坂入口方向に変える。ちょうどそこに13基の石仏が合祀されている。ちなみに畑や道ごと金属ネットの檻のような柵で囲われ中へ入れない。平原氏の地所だそうである。 
・地蔵: 
・奉納 一国三十三所 西国三十三所 文政六年  
・西国一国善光寺三十三所供養塔  
・庚申供養塔 天明ニ壬寅年  
・?観音  
・?西国三十三所  
・西国三十三所 天明二年 
・西国一国三十三所 文政  
・西国一国三拾三所供養塔  
・?石塔 
・?石塔  
・?観音  
・三拾三所供養塔    

 ~県道に戻り北上する。~
 坂ノ上神社山下の道を抜けると宇山集落である。ここからも坂ノ上神社の裏から上る道がある。
・坂ノ上神社への参道(坂ノ上 宇山) 
 古かった参道は新たにコンクリート舗装され神社まで車で行けるようになったが、古道の赴きは消失。神社のある尾根付近で畑色へ向かいさらに洗沢峠を目指す古道(秋葉街道の枝道)があるはずだが、新しい参道から分岐点目視判別不能なので、よじ登ってみたが、新道から尾根に上がったところは炭焼き小屋跡で尾根上に踏み跡はあるが、特に分岐点を示す石道標や歴史遺物は見られない。
 ~県道に戻り、宇山集落、宇山バス停付近、「八幡まで8.5km 笠張峠まで24.0km」標識のある所に石塔物がある。
・奉 
・庚申塔 
・奉納 森藤□□蔵 
・馬頭 
・石塔 
・手洗石:奉納 永野  
・地蔵 
???・平石:バス停より徒歩2分上に、名馬摺墨と老婆の足跡がついているという。かつてあったようだが今はない。分かる方お知らせください。
・この先「巽荘」という看板の?元酒屋がありその先は茶畑で、その茶畑を上っていき北の尾根を目指す登山道がある。かつては畑色や上杉尾を経て洗沢峠にいけたようなので
秋葉街道の枝道として登山口を調べてみた。登山道入口付近に石道標や遺物は見られない。

○~坂の上から県道北上し、この先で立石橋を渡ると左川沿い道が本道で右上に上る道が栃沢への道~ この道は県道大川静岡線。
 かつては奥長島から栃沢に抜け坂ノ上等に出るのが本道だったようだが、自動車道が川沿いに作られて一変した。
 この分岐点のカーブミラーの真下の暗がりに石造物がある。
・石道標:とちさわみち 
・馬頭: 
・□□□観世音:壊れて横倒し 

 ~栃沢を目指し上っていく。~ 
○栃沢 
 左が山の崖になると石仏がある。
・庚申供養塔 大正九年 
 栃沢の家が見え出すと神社入口がある。
・子安神社(栃沢) 
・祝大正十五年車道改鑿 
・火坊鎮守 
・板碑: 
・石灯籠2:昭和三十(廿の三本)七年 
・鳥居:金属製 
・石鳥居:? 
・板碑: 
・石灯籠2:弘化四年 
・狛犬2:昭和四十二年 
・手洗石:明治三十二年 
・手洗石:慶応四戌辰 
・手洗石: 
・祠2 
 主要道を奥へ進むと米沢家で聖一国師碑がある。
・米沢家(栃沢)  
 ???聖一国師生家、摺墨の馬蹄石(見られない)、
・聖一神光国師誕生地 昭和七年 
・句碑:昭和三十八年 
・三夜燈 安政四年 
・三夜燈 寛政十一年 
・庚申塔 大正九年 
・?庚申塔 
・石塔:家の門前 
・石灯籠2:弘化四年:家の裏 
・祠 
・五輪塔 
・墓石2 
 裏に自宅墓地がある。
 手前のお宅の庭にも石塔がある。
・石塔:記念 
 更に主要道を奥に進むと寺がある。
・竜珠院(栃沢)  
 木像:薬師如来 
・六地蔵:? 
・手洗石: 
・有縁無縁三界萬霊等 
・三界萬霊塔 
・有縁無縁先祖代々精霊等三界萬霊 
・祠、小さい地蔵多数 
・割れ石 
・□神山 
・鎮守 
・割れ石 
・祠:弘法大師 
・観世音 
・水差し石 
・花挿し石2: 
・如意輪観世音 大正十二年 
寺を過ぎもう少し進むと岩の上に石仏がある。
・馬頭観世音 
 更に奥に進むと突先山ハイキングコース、ティーロード入口標識となる。この道が釜石峠を経て足久保に至る古道といえる。釜石峠には通称:歯痛地蔵といわれる如来(石道標にもなっている)が祀られる。
3月にはこの入口付近に淡い黄色あるいはカスタードクリーム色といった色合いの花が冬枯れした野に咲いている。近づくとほんのり上品な花の香りが漂ってくる。枝先が3つに分かれていてミツマタの花だ。枯れ枝に似たような色合いのため地味で目立たず、遠目にはあまり綺麗とは感じられないが、香りはよく春を感じさせる。この時期各所で遅咲きの梅の花や桃花、早咲き桜とともに遭遇した。

○釜石峠 (*美和街道を参照) 
 奥長島と栃沢の峠。歯痛地蔵と呼ばれる大日如来が祀られる。かつてはお堂もあったようだ。大川から静岡市街に出るにはこの道を通った。
峠から南尾根を通ると突先山に至り、さらに大山を経て坂本に出られた。
峠から北尾根を通ると中村山△1007.0mを経て樫の木峠に出られ、玉川または大川に下れた。現在樫の木峠から中村山方向への尾根道は、一見すると藪道のように見受けられる。
 釜石峠H820m。以前と峠の位置が変わったような気がする。この峠、平で広く東西50m幅ある。以前標識や歯痛地蔵は東端だったと思うが、今は西端である。歯痛地蔵(大日如来像)「是より 右ハ美和村あしくぼ 左ハ玉川村たくみ」となっていて、東の足久保奥長島と北の中村山・樫の木峠経由内匠へのコースを示す。西へ下る道は栃沢へである。
・歯痛地蔵:大日如来「是より 右ハ美和村あしくぼ 左ハ玉川村たくみ」 
 この先は美和街道・足久保街道である。*玉川村は安倍街道を参照。釜石峠や突先山周辺に関しては兵藤庄左衛門・Seeesaブログ・スポーツ・玉川トレイルレースを参照。

~県道の栃沢分岐点に戻り日向に遡上する~ 
バス停「森林組合前」の日向集落手前に橋がある。この辺りを森の腰というらしく、人家や石垣がある。かつて日向の白髭神社ははじめ松の平にあったが、次に森の腰に遷座した。その後今の場所に移転したようだ。石垣は近代のものだろうが人が生活していた家や畑の証拠とも言える。橋があり対岸に渡ると切杭である。橋を渡った正面に小長井宅(屋号ヨコベエ)があり、このお宅に許可をもらい家の横から裏山に上らせてもらう。家のすぐ裏には屋敷神の祠があり、裏山急斜面を3分も登ると祠がある。
・切杭天神が祀られている。さらに裏山を上っていき畑色に至るだろう切通しの旧道が伸びている。きっと途中で廃道だろう。ただ地図上ではそれほどの距離ではなく上の畑色の舗装道路に至れるようだ。上に道があるだけでなく、今の舗装された平地の道より上の山斜面上の今の道より20mほど上の植林地内を等高線に並行した旧道が付いていることも確認できた。 またこの上の方に池の段という昔の池の跡があるようだ。伝説ではこの池から土石流が流れ地形を変えたようだ。池の主の蛇が出て行ったというのは土石流の流れ跡をさすようだ。切杭には土石流が流れる前まで生えていた大木の根株が時々露出することがあり、まさに切杭である。

 もう少し切杭側の藁科川を上流側に畑に沿い舗装道路をつめていくと行き止まりとなる。行き止まりの10m手前から山に取り付く登山道があるので上っていくと5分で、切り立った細尾根先端部に出られ向こうはフドウボツの沢である。細尾根先端部山頂には祠がある。
・不動明王(石仏)が祀られている。藁科川対岸はちょうど福田寺のある丘が正面に見える。

・伝説「切杭本社の木魂明神」
 日向に原坂宅に美しい娘がいた。ここに毎夜美少年が通ってくるようになった。どこの少年か不明で、母は娘に少年の袴の裾に針で糸を縫いつけるよう指示し、そうしたところ、糸は大木まで続いていた。少年は大木の精だった。大木を切ることにしたが、切っても切っても翌日元通りになっていた。そこで切った屑をすぐ焼き捨てては切っていったところ、木はキリクイという異様な音を立て倒れた。ここをキリクイという。
その大木で空船ウツロブネを作り、娘を乗せ川に流した。安倍川の舟山で船が転覆したので、そこを舟山という。途中赤沢の対岸に娘の櫛が落ちたのでそこを櫛筐峠クシゲ(クシバコ)トウゲというそうだ。
 この大木は高さが33間、梢を杉尾村で望めたので、そこで杉尾という名になった。原坂家では麻を作らないようになった。またこの家で生まれる女子は美人だといわれる。この大木老杉を木魂明神という。

~ 集落入口の県道に戻る。
 日向 小向の集落入口に達する。崖上の2箇所に石仏を祀っている。日向の地名は日当たりがよい東または南向きの場所を指すそうだ。ここの地形は古くからのものではなく川の流れの変容により変化したと考えられている。
 またこの藁科川と籠沢が合流する辺りには大木の根元の株が出現することが近年まであり、キリクイ切杭の伝説となっている。イケノダンが決壊しマコモノハラを押し流したという。その土地には大木の切り株(切杭)が今でも出るというので切杭という。
・マコモノ原:日向字堂上で大川小学校前の平坦地を指すようだ。
・小長井家屋敷跡:大川小学校の辺りのようだ。

○石塔(日向 小向) 
 ○馬頭観音8基 
・大正十五年 
・大正十年 
・大正十三年 
・大正十三年 
・為紀念征露 
・明治二廿一年 
・明治四十年 
・明治二十一年 
かつて字(アザ)チャアラと字ヤスミイシの境である。ここに馬頭観音を祀ってあるのは、昔から急カーブ地点で馬がよく落ちたからだそうである。
○庚申塔7基 
 年号は明治38(1905)年から昭和12(1937)年まで。
・昭和十年 
・明治四十二年 
・ 
・ 
・昭和十二年 
・昭和十□年 
・明治 
川沿いに通過するのが新県道であるが、集落内に入る道が旧道であり、旧道に沿い進む。
集落内に張り出した舌状大地の上が神社と寺である。そしてそこへ上って向こうの小学校に下る道が古道である。
ちなみに手前右に林道起点ある。
○~林道:樫の木峠線、この龍沢を奥に詰めて行くと樫の木峠に至り玉川内匠に昔は出られた。幕末明治期探検家:松浦武四郎「東海道山すじ日記」はこのルートを通過している。~
・樫の木峠 
 途中、祠(剣宝社、けんぷん様)、萩多和城跡石碑通過。峠には幕末期石地蔵1基。そこから林道で川島に出られる。地蔵近くから旧登山道を下り白石沢沿いに内匠に出られたが、おそらく廃道同然か。

・飛神天神:日向集落出口から樫の木峠へ向かう旧道付近を指すようだ。今の林道より20mほど上になる。集落上部から山の中に入る旧道と推定される人為的平坦地の幅1~1.5mが部分的に残存しているので、これが旧道(古道)と推定される。この道を松浦武四郎も通ったはずだ。かつては何かが祀られていたのかもしれない。ただ地元でもトビガミテンジンといっても不明で、集落と山の境付近の上(林道出入り口より真上)の天神テンジンといえばわかる人がいる。ただテンジンと言うと、けんぷん様の先にある天神を示されることが多いので混同注意である。集落の人への言い方としては、昔山の畑に行く時に通った村集落と山の境の天神はどこかと聞いたほうがいいかも。
 このトビカミテンジンの旧道(藪で道とは思えないが、人為的平坦地なので、かつての古道と判断できる)を奥に10mも進むと開墾された茶畑上部南端に出る。ここで一旦旧道は消失するが、茶畑を北へ水平移動していくと、北端の動物用罠の檻上部に平坦地があり、奥に進める。すぐに建物の後背部に到達し後背部に沿って平坦地が続いている。更に進めそうだがここでやめた。地図上ではあと数十mで沢に達するのでそこで道は消失するだろう。 
・祠(剣宝社、けんぷん様):昔女性の修験者(巫女)が、この先、於万津ケ淵の滝壺で亡くなり、里人がここに祀ったという。歯の神(山里に多い)・山の神と里人に祈願崇拝された。歯の痛いとき、けんぷん様を拝むと治ると昔から言われている。治ったお礼として剣を奉納した。~「野山の仏」戸塚孝一郎より、取付:城北、坂本~ 
 現在林道脇に祠と説明書きが見られる。
・お松が淵:けんぷん様の先にあるらしい。於万津ケ淵。
・天神:けんぷん様より更に先で旧道が籠沢沿いから尾根道に移る辺りで、林道が籠沢からヘアピンカーブして沢をまたぐ橋を渡り沢から離れ山斜面に急激に登り出すところで、ちょうど「夕暮れ山・樫の木峠登山道」が山斜面に取り付くところで登山標識がある。林道より高いところを通っていた旧道が一旦沢に降り沢を渡る辺りを指すようで、林道をまたぐ橋のすぐ横の茶畑付近を天神というようだ。かつては何かが祀られていたのかもしれない。
 
 *以下に、樫の木峠や一本杉峠の参照用に、兵藤庄左衛門、Seeesaブログ、「夕暮山、中保津山、樫の木峠」を全文掲載する。
・夕暮山、標高1,026m(静岡市葵区内匠と大川の境、樫の木峠の北1km、一本杉峠・天狗岳の南2km)及び、中保津山、樫の木峠
 夕暮山への場所は上記の通り。登るには林道樫の木峠線を使い樫の木峠を目指すか、一本杉峠を目指すかである。大川・日向で林道樫の木峠線へ入り3km進むと大きく広く右カーブする所がある。ここに標識「樫の木峠、夕暮山」がある。徒歩ならここから登るのがよいが、道の状態は知らない。植林内で踏み跡はし
っかりしているかもしれないが、雑草はあるだろう。車なら林道を詰めたほうがよい。登山道もこの上で林道に合流し林道歩きになるので。
林道をさらに2kmも行くと先ほどの登山道と合流する。林道をなお進み夕暮山の南西尾根の△769.3mより上の辺りで「萩田和城址記念碑」と説明版がある。これを過ぎて0.5kmで切通しをくぐる。ここの左(北東)尾根に標識「夕暮山→」がある。ここから登るのが最短なようだが、いきなり雑草だらけなのでやめたほうがよいかも。この上で林道一本杉線も横切っているので、その林道を行ってからこの尾根に取り付く手があるかも。林道樫の木峠線をさらに200mも進むと左に林道一本杉線があり、工事中となっている。上を仰ぐと先ほどの尾根を上で横切っている。ここを通って上で尾根に取り付けそうだが、未実施。林道樫の木峠線をさらに進む。10年9月林道が急に荒れギャップがひどい所があったが、500mで樫の木峠へ出た。ここに石仏一つと樫の木がある。ここから北西尾根へ標識「夕暮山・造林展示林→」があり、もっとも無難な尾根コースだろう。夕暮山からさらに北へだらだらの平坦尾根を通って天狗岳や一本杉峠へ縦走できる。展示林となっているから少しは道が整備されているかもしれないが、未確認。樫の木峠から南へ尾根を伝うと中村山へ通じるが、峠から南へは雑草だらけで、踏み跡をたどるのはきつそうだ。標識も無い。
 一本杉峠・天狗岳へは玉川・横沢から井川・富士見峠への県道を行き、権現(臥竜)の滝を過ぎ500mで一本杉峠登山道がある。これを詰めるか、反対側の大川・諸子沢を詰めるかである。しかし一本杉峠の南西尾根を詰めることもできる。横沢から井川・富士見峠への県道を富士見峠手前の笠張峠で大間へ曲がるか、大川・湯島から大間を経て笠張峠方向に行く。切通しの分水嶺を横切ると、林道一本杉線の看板があり、南東尾根に沿い林道が延びている。左に別の作業道も分岐している。林道はそれほどアップダウンはないが、ギャップなどが多く荒れている。3km進み△1013.3mのピーク(中保津山)手前500mで林道が2つに分岐する。
右は別の林道で4.5km尾根を進んだ諸子沢の上辺りで行き止まりである。が、工事中で延伸するのかもしれない。
左の林道を進む。中保津山を右へ巻くようにして平坦な尾根に出る。ここも道が分岐し左は私有地でチェーンが張られている。右にまたピークを巻き尾根道が下りだす。この下に一本杉峠があると思われるが、夕方で引き返す。後日再調査予定。峠までは林道はあると思われる。
先ほど樫の木峠の近くにも林道一本杉線の看板があったので、そことつながるはずだ。10年10月、大間の県道から一本杉峠辺りまで林道はついているようだ。この先天狗岳や夕暮山の尾根の西を通過してつながるものと思われる。

△1013.3mのピーク(中保津山)へは林道の雑草の切れた辺りからピークを目指せばよいと思われる。諸子沢上への林道しか無い頃は林道がピークを巻く辺りから踏み跡をたどって登れた。今も草を掻き分ければ標高差わずか30mほどで登れるだろう。

 樫の木峠へ話を戻す。樫の木峠の石仏の左横に下る踏み跡がある。かつての「白石沢ルート」である。林道が開通した今となっては使う人はまれだろう。80年代末に通ったことを報告する。内匠の白石沢の横を通る林道白石沢線を2.5km詰めると行き止まりで堰堤となるが、登山道は奥に続くので徒歩で沢沿いを行くとすぐに石仏がある。自分では道なりに進んだつもりが、この石仏の所で道は分岐していて本当は右に行くのだが、間違って直進した。樫の木峠への沢より1本南の沢を詰めてしまった。沢沿いにきれいな林業用作業歩道が付いていてそれをひたすら詰めたが、何か変なので引き返し地元の人に話を聞いたところ、石仏のところで間違ったことを知った。
後日再アタック。今度は石仏で右折し沢横を詰めていく。峠直下と思われるところで、沢を渡る。ここにも石仏があるとのことだったが見ていない。渡ってしばらくすると急斜面を巻いて登りだす。登りきると峠である。
 これらのコースは、登るなら雑草や蜘蛛の巣が少ない11月下旬から6月初旬までが最適だろう。


~日向集落内旧道を進むと右上に寺と神社がある。
 ちなみに樫の木峠・籠沢から来た秋葉道(樫の木峠林道より20m上で集落最上部の家の裏山を下ってくる感じである)は今の集落や畑と裏山の境の辺りを回りこみ白髭神社・福田寺に上ったようだ。
 付近のお宅には屋敷墓があり、その中に供養塔が混じっていることもある。
付近の屋敷墓で
・先祖代々有縁無縁三界萬霊等 明治十九年七月日 
 上記を発見したが、まだまだ他のものはあろう。

○白髭神社、朝旭山福田寺観音堂(日向 千田) 
白髭神社はもとは能又川と藁科川が合流する手前の松ノ平にあったと伝えられる。松ノ平は下湯島手前から下に降りる林道を下ってすぐの茶畑のところである。本社白髭大明神、藁科八社ともいわれた。

・DVD「日向の七草祭(静岡市) 静岡県指定無形民俗文化財」静岡市教育委員会、ふるさと民俗芸能'ビデオNo.5、'93、27分 
 安倍川支流の藁科川を車で40分遡ると静岡市(旧大川村)日向集落で、日向は静岡市山間部の旧秋葉街道沿いで中世に城もあった大川地区の中心地で戸数88戸である。産業は水田、林業、茶、椎茸である。七草祭は旧暦1月7日の七草の夜に行われるための呼称である。場所は朝旭山福田寺観音堂境内の仮設舞台である。フクデンジ。
 川根本町田代・大井神社の神楽との類似性が指摘される。かつての領主土岐氏の勢力範囲に重なる。西遠州の猿楽・田楽の流れを汲む稲の豊作を祈願する田遊びである。付近には大間(福養)の滝(大間)、聖一国師の生家(栃沢)、(日向)陽明じには「木霊明神の縁起書」:切杭本社は川底に水没したが、庄屋の娘と木の精の大蛇との悲しい物語、大蛇の子を孕んだ娘は空ろ船で川に流され、あとを追った母が娘をこいこがれた場所が木枯らしの森という。藁科川流域には建穂寺(観音堂)という巨大寺院がかつてあり、福田寺とも関係していたと考えられる。
 祭りに先立ち毎年持ち回りの8軒の当番は様々な行事を行う。大浜海岸、潮花汲み:海水で祭りの場や家々を清める。浜石も採る。柳採り:柳の枝を切り取る。陽明寺和尚が絵馬札刷り「牛王法印」を行い、その紙を柳に挟む、札は祭り当日村人に配布される、札は豊作願い田の水口に挿す、舞練習は日向町内会集会所、大人に混じり子供たちも熱心に笛太鼓を行う。旧暦正月6日(この年は1月28日)、大日待頭屋:会食料理、床の間に浜石と潮花、境内では清掃と舞台作り、大日待の料理作り、各家々へ潮花配り:仏壇や家屋内を清める、頭屋では餅つき:丸餅とのし餅、水に漬けておいた米で「はたき餅(シットギ)」、大川地区連合町内会集会所:大日待行事、日向地区各家代表集まり会食、浜石、潮花、はたき餅、今は料理一部仕出しだがかつては割り子に詰められたもの、舞揃え:舞練習総仕上げ、旧暦正月7日(この年は1月29日)七草祭当日、町内会長が観音堂の厨子を開き掃き清める、福の種、お供物、万延の詞章本、寛永の詞章本、翁面箱、笹竹13本、3本使って舞台中央に組む、重しに浜石使う、舞台が神聖な場であることを示す結界、日の出祈祷、御詠歌、抹香を酒で溶いたものにネッキという棒で牛王の印をつき札作り、ネッキの一方「牛王」反対側「仏法僧」というが定かでない、参拝者の額にも押す、一年の無病息災、36本の御幣、小豆入り餓鬼の飯を境内各所に供える、境内清め、大地の神を鎮める、施餓鬼:観音堂裏山宝篋印塔、水垢離:一日7回水清め、今でも1回は藁科川で清める、夕方7回目の水垢離代わりに笹垢離をとり舞台に向かう、見物人いっぱい、
 構成は1、歳徳神礼拝トシトクシン、2、大拍子、3、申(猿)田楽:舞手6人輪、中に笹竹、幣の色で役割、笹持って回る、扇子で胸当て袖持って足挙げ、体を回す、拍子が速くなり扇子打って回る、笹竹13本舞台上げ、4、駒んず:笹竹根元足で固定し揺らし打ち合わせ詞章を囃す、春駒、繭豊作、馬と山鳥、馬は蚕の始まり伝説由来、山鳥は蚕のはきたてに羽を使うため取り入れたらしい、5、浜行:背負う桶に海の幸、潮花を神前に供え、滑稽に海幸配り、・若魚ワカイオ:近隣の神楽「オオスケ」と同じく神の一種、神聖な海水を祀り神々の祝福によりて五穀豊穣を約す、・(近年付加)女の子の舞、・順の舞、2回繰り返し、初めは試し上演と考えられる、浜行若魚2回目、滑稽バチ男根見立て、潮花振り掛け清め、(休憩)、後半が本上演と考えられる、翁面と詞章本を舞台上に出す、6、歳徳神礼拝、7、大拍子、8、駒んず、9、数え文カゾエモン:太鼓に米撒き田に見立てて、神歌、稲草、福の種、鳥追、田植、穂孕み、取り入れの内容で村の歴史とかかわるのだろう、福の種と鳥追に所作あり他は詞章のみ、、10、猿田楽、このあと一同本尊礼拝終了、
 このあと今は福引。
 旧暦1月15日(この年2月6日)、鈎取の佐藤家、太鼓の田に撒かれた米で粥作り、家屋内に供え、福田寺にも供え、粥を食べ、村人への活力を分け与える。

・朝旭山福田寺:建穂寺の奥の院。以下木製、千手観音坐像:推定江戸期前半、彩色なし菩薩像:推定平安期:欠損している、二天像:東方天・西方天:江戸期前半17世紀後期~18世紀初期、
・白髭神社:春祭り4月第1日曜日、秋祭り10月第3または第4日曜日、男女神像:江戸期後期、保存状態よくない、木製、
・石鳥居:大正十四年 
・石鳥居:平成八年 
・手洗石3: 
・石灯籠5:昭和九年…2、□永九年、 
・石碑:昭和十二年 
○庚申塔38基、割れ石 (44基?) 
 年号は宝暦二(1752)年から昭和三十(1955)年まで。日向では個人的に病気平癒の願果しとして建てることがあった。個人名を刻んだものも多い。造立数の多いのは大正九(1920)年の7基である。
*一般的には庚申塔は、更新講中により庚申縁年(60年に1回巡ってくる庚申年)に建てることが多く、他にも合力祈願や供養として建てることも多い。
 庚申講は、庚申の日が60日に1回巡ってくるので1年で6回は行った。庚申講は床の間に青面金剛の掛軸を掛け、全員で唱えごとを21回繰り返してから拝む。その後飲食をするのが楽しみであったようで、信仰心と、娯楽としての宴会、世間づきあいの世間話で盛り上がり、庶民の楽しみだったようだ。当番は輪番制であった。(「日向の七草祭」より引用を含む。) 
・大正五年:後列右より 
・大正八年 
・ 
・ 
・明治三十(廿の3本)六年 
・大正八年 
・ 
・大正四年 
・昭和十一年 
・明治三十(廿の3本)八年:後列2列目右より 
・ 
・明治十八年 
・明治三十(廿の3本)三年 
・大正元年 
・昭和四年 
・ 
・明治四十四年:後ろ3列目右より 
・明治四十年 
・大正九庚申年 
・大正九庚申年 
・大正九庚申年 
・大正九年 
・ 
・大正九年 
・昭和四十四年 
・割れ石 
・昭和十七年:最前列右より 
・昭和七年 
・大正九年 
・大正十二年 
・昭和八年 
・昭和十九年 
・昭和三十七年 
・昭和九年 
・昭和三年 
・□□□年 
・昭和十四年 
・大正十二年 
・昭和□□ 
裏山に上っていくと
・祠:弘法大師 
・秋葉山三夜燈 寛政十一年 
裏山の頂に立派な宝篋印塔がある。
・宝篋印塔 
またここは萩多和城の南朝方支城の一谷城跡である。尾根伝いに上っていくと萩多和城跡に行くし、夕暮れ山や樫の木峠にも行ける。尾根より下の神社から中腹を通っても行ける歩道がついている。一谷城用水路跡で樋道という。突き当りは樋口という。現在、尾根道には夕暮れ山ハイキングコースの標識がついている。
先ほどの尾根コースと反対に福田寺西側の丘上は畑と墓がある。どうもこの墓のことを
・ネギヤの屋敷墓というようだ。
 尾根と西側丘の間に空堀のような切通しの道が下っていく。
・古道  
 小学校方向へ下る古道をとる。御堂坂という。学校手前で旧道舗装路に出る。わずかな距離だが古道残存部である。学校前の平地の辺りをマコモノハラというらしい。学校前の旧道をたどると学校向こうで立派な門が見える。その先に寺がある。ちなみに古い秋葉街道は旧道より1本川寄り(新県道寄り)の狭い道である。
・農家の茅葺の門 
○陽明寺(日向 中村) 
 開基:雲叟、1510年、日向村に一草庵、
・六地蔵(新) 
・石製家型道祖神 
・石造物(古) 
・地蔵 
・地蔵 
・□□巡霊等 
・地蔵(新) 
・板碑 
・忠魂碑 
○1列に並ぶ石仏 
・地蔵:明治二十七年 
・?馬頭:明和七庚寅天 
・?馬頭:明治二十四年 
・?如来 
・?馬頭:法傳 諸子沢村 
・如来: 
・西国三十三所 
・十一面観音:諸子沢村 送精 
・馬頭:八手、?阿弥陀、大きい:大正十五年 
・馬頭:大正十年 佐藤善作 
・西国三十三所供養塔 明治十九年 
・馬頭:明治五□ 
・馬頭:八手、 
・?馬頭: 
・?馬頭:森下常吉立 
・観音: 
・馬頭:昭和十三年 
・地蔵: 
・地蔵: 
陽明寺前の旧道を下るとすぐに今の(新)県道に出る。その県道向こうの河原に向かうとすぐに石道標がある。掛川市在住の広谷氏の報告及び「日向の七草祭」所収されたものである。
・石道標:右湯島諸子沢 左洗沢秋葉山 道 
 近代のものであろうがルートとしては近世に準じたところにある。ただこの下につり橋があって渡れるがそこから先に道は消失している。この上の茶畑の石道標につながる道は新たに舗装路を作った際消失したようだ。広谷氏によれば東海道山筋日記コースを東京から西に向かってきて、初めて目にした秋葉山の道標だそうである。
~県道に戻り奥へ進む。~
・新しい地蔵(日向 中村)  
 八幡へ11.5km表示近く県道沿い。

○~この先、城山橋のところで右折で諸子沢、左折で城山橋渡ると畑色・杉尾に至る。いったん諸子沢に向かう。~
○諸子沢 モロコザワ ・大道島 
・白髭神社、大日堂 
右折してすぐに白髭神社、大日堂の標識がある。100m上ると境内である。神社の祭りは2月建国記念の日、10月第2日曜日。 
・石鳥居:昭和二十七年 
・手洗石:寛政十戌午十二月吉日 
・奉納大日如来 寛政十年 
・石灯籠:奉納白髭大権現 寛政十年 
・石製家型道祖神 
・馬頭観音 昭和廿二年 
・馬頭:享保二十年 
隣にお堂がある。
・大日堂:木製:大日如来、薬師如来、弥勒如来:江戸期 

~更に諸子沢を進むと時計台(新)や花壇を通過する。次に平の尾や地蔵堂への分岐点が上を目指すので地蔵堂へ行く。
○地蔵堂 
前に石仏が合祀されている。じぞう祭りが8月24日にある。
・手洗石:三角形 
・庚申塔 
・庚申塔 昭和十二年 
・庚申塔 
・庚申塔 昭和十五年 
・庚申塔 
・庚申供養等 
・庚申塔 大正九庚申年 
・?石仏: 
・?馬頭観世音: 
・西国三十三所 文久二壬戌七月 
・奉納西国三十三所 明治拾八戌年 
・石仏:□□二十二年十二月建 
・石仏:割れている 
・ほていさん(新) 
・西国三拾三所 
・?石仏:転倒 
・?石仏:割れている 
・西国三十三所 明和 
・?石仏:割れ 
・西国三拾三所 天保三壬辰 
 他にも割れたり崩れたりしていていくつあるか正確には不明。お堂の前を旧道(古道)が下っていくのが分かる。一部古道残存。
 ~また舗装路を戻り奥に進む。舗装路の上に寺が見える。日陰橋手前道沿いに石塔がある。
・庚申塔 
・庚申塔 明治四十二年 
・庚申塔 
 地蔵堂の上を目指すと平の尾集落である。
・平の尾:急斜面沿いに集落が展開している。この更に上に向かい林道が続いている。
・雨降松開拓地:林道が尾根に到達した所の平坦地で茶畑が続いている。無人だが家が1軒ある。かつて雨降り松なるものがあったようだが、今はない。そこはちょっとした空き地というか公園みたいな休憩所になっている。
  *この上の平の尾と大間方面は山越えの林道でつながっているが、そのことは「インターネット、兵藤庄左衛門、さぽろぐ、林道一本杉線」を参照してください。一応全文掲載します。
・林道一本杉峠線(静岡市葵区、大間~一本杉峠~天狗岳~夕暮山~樫の木峠~大川)まだ工事中でつながっていない、林道川久保線、林道峯諸子沢線、林道八重枯線、林道京塚線、及び付近の作業道
  実は(静岡市葵区、大間~△1013m「中保津山」~諸子沢平の尾~川久保)
 2010年10月、天狗岳から夕暮山区間は工事中で、一本杉峠付近はまったく手付かずであるらしい。
大間の南アルプス公園線県道分岐から一本杉峠の1km手前の△1013m「中保津山」までは林道になっているが路面はギャップ(クレバス、えぐれた溝)があり、通行しにくい。樫の木峠近くの林道樫の木峠線からの林道一本杉線への分岐は工事中通行止めである。おそらく夕暮山付近で工事中と思われる。
 大間の県道分岐へは藁科街道を上り、湯の島や大間集落を通過し福養の滝レストハウスを抜け、笠張峠方向へ県道を進む。地すべり箇所の赤い回転灯の1km手前の切り通し箇所で東に分岐する「林道一本杉峠線」標識がある。すぐ左に林道「京塚線」があり道も開いているが、どうも行き止まりらしい。途中いくつかの林業用の作業道も横切っていくが、多分どれも行き止まりだろう。直進で2km進むと右へ下る「林道八重枯線」がある。多分「国土地理院、地形図」の・1037mから・878m付近の尾根をたどる道と想定される(が間違っているかもしれない)。
 もう1km進むと道が平坦でY字に分岐する所に出る。分岐点の中央奥にあるピークが三角点所在地△1013.3m「中保津山」である。ただ山名が本当にこの名前なのかは不明である。十数年前に上ったときにこの山名のプレートがあった。ここから尾根沿いを歩いて上っても10分足らずだ。今回2度目に上ってみて三角点はあったが標識はなく、付近の様子も植林の暗い中でそのことは前回同様だが、測量されたらしき雰囲気がない。測量すると付近の樹木や草を刈り払い標識を立てるように見受けられるが、そういう痕跡がない。国土地理院は4等以下の三角点をあまり用いなくなってきているのか。登山道は送電線巡視路になっているので踏み跡はしっかりしていて草刈が行われているので信用度は高い歩道だ。中保津山を越えて尾根をさらに東へ1km歩けば一本杉峠に至るはずだが、今回は時間が無くあきらめた。
話をY字路に戻す。左の道は「私有地で立ち入り禁止」とあり、チェーンが張られている。この道は作業道で1km先の送電線まで進み下り出し、臥龍(権現)の滝のある井川へ行く県道方面へ下りかかって行き止まりになっている。
 Y字路を右にとる。500mも進むと道が下りだし、道がひどく荒れギャップ(クレバス、えぐれた溝)が多く、ダイハツ・ハイゼット660cc では道幅全体の中の通りやすい所を選んでゆっくり通過したが、たまに車底をこすった。オフロード車はがんがん通ったがこちらはまねできない厳しい道だった。4WDスイッチがあって助かった。この部分の道を上ることもしたが4WDでないと上れないだろう。1km下ると平坦になりついでに舗装までされている。見晴らしがよく送電線高圧鉄塔に沿って道は南南西に進む。舗装が切れるが道は直進している。そこの右から「川久保林道」が合流してくる。
 「川久保林道」は藁科川沿いの県道を湯の島から大間に向かい2km上って行くと、右に「川久保林道」の標識と上る道が見える。この林道は一応コンクリート舗装がだいぶされているが、クラック(割れ目)だらけででこぼこといっていい。しかし土道に比べればはるかに通行しやすい。4~5km上ると尾根の林道に合流する。途中幾度か作業道が分岐するが、そちらは通行禁止の標識があるので道を間違えにくいとは思う。(13年3月林道入口改修工事中で出入り不能。)
 話を尾根の林道の川久保林道合流点に戻す。さらに直進していくと送電線付近は眺めがよく高原の草原のようだ。草原を過ぎると道は下りだす。しばらく行くと「林道峯諸子沢線」の看板がある。しばらく下ると茶畑と人家のある所に出る。「雨降り松」の休憩所もある。ただ松の木は見当たらなかった。人家はあっても現在休憩作業用らしく無人である。ただここからの林道は道の状態がよくなる。普段から人が使っているからだろう。2~3km下ると平の尾集落に出る。ここからは急坂で狭いが舗装路となり、諸子沢の主要道に出て、藁科川沿いの県道に戻れる。
「平の尾」集落を下っていき大道島へ行く諸子沢本道に出る手前に「地蔵堂」があり、石仏も多数あり、古色が漂う。他にも藁科川沿いや諸子沢川沿いの道に石仏が見られ古色ゆかしい。

・吉祥寺(柿の平) 
・石塔(新) 
・石塔(新) 
・地蔵(新) 
・臼 
 大道島を目指す。自動車道の終点で堰堤の向こう岸がどうも峠入口らしい。
・一本杉峠上り口:はっきりしない 
???・頼朝石:未確認 
この奥?に頼朝石があるらしいが、20年以上前に上ったときもはっきりせず、堰堤工事が進み川岸がだいぶ削られ登山道もはっきりしない。わかる方お知らせください。

○~県道に戻り、城山橋を渡り、畑色方向に進む。~ 
城山橋を渡ったところですぐ右(北)に歩道を探す。畑色と能又川(よきまたがわ)の中腹にあった集落「藁山わらやま」、「道光どうこう」に向かう道であり洗沢峠に至るルートでもあるので、一応秋葉街道の枝道として何か道標等歴史遺物はないかということで探してみる。山尾根に向かう登山道の切通しを発見するが道標等はない。この登山道が今は廃村になった集落「道光」を通過しさらに畑色の別荘地奥の養鶏場に出られる道のはずであるが、今は手前集落「藁山」はなく、奥側集落「道光」も1軒と少しの畑だけが残っているようだ。
さて畑色方向へ舗装路を進む。さて藁科川に突き出すように丘がある。
・城山:藁科川に突き出す小山、城を築こうとしたが矢が対岸から行ききってしまうので築城をあきらめたという伝説がある。
・石道標(日向) 
掛川市在住の広谷氏や「日向の七草祭」で報告されているものである。対岸の中村の秋葉山道標と川を挟み対のようになっている。
城山橋より200m進み茶畑のある両側山のある城山の小さな峠を越えるところの右茶畑にある。
「従是 右往還 左秋葉道 天保五年甲午正月」。幕末明治期探検家:松浦武四郎「東海道山筋日記」はこのルートを通過している。この茶畑から尾根に取り付くが道は部分的にしか残存しておらず、強引に上る。途中滝を巻きその上部で沢を渡り上に上る。茶畑最上部の左下から作業道が伸びるのでそれを上る。そのうち作業道が下るので、尾根の旧道切り通しらしきを上る。廃屋小屋を通過すると上り道消失するので尾根を強引に上ると畑に出る。畑の左に上っていく道があるので行く。すぐ道は消失するが尾根を強引上りすると、畑色のメインストリート(主要道)舗装路に出る。10m先で舗装路は左に折れるが、尾根は正面なので正面上りの廃屋別荘地廃道に取り付く。右下に分岐する道もある。廃屋別荘地廃道を上って行くと新しい別荘地の道に出た。別荘地の道を上ると舗装路「林道畑色支線」に合流し、右(東)に養鶏場、左(西)に行くと山賊鍋ウッドカッター店前で主要道舗装路に出られる。どうも古道はこの合流点辺りで尾根に上っていったものと思われるが、現在まったくなし。山賊鍋店に行き舗装路に出て舗装主要道を東へ。尾根横に並行に進む。おそらく古道と同じルートではなかろうか。
話は変わるが、先ほどの養鶏場の下方向に行く道がかつてはあり、能又ヨキマタ川まで出られて途中に集落「道光」があった。昭和53年修正測量・国土地理院地図には人家があることが確認できる。現在、道は廃道か。
・蓄魂碑(日向 畑色)  
 別荘地の陽光台付近の尾根で別荘地入口横にある。かつては山神が祀られていたか。現在新しい「蓄魂碑」がある。隣に壊れた石があり山神なのか。もう1km尾根を進むと洗沢峠であるが、尾根下を通る舗装路があるので、尾根は廃道同然だが、私を含め物好きは強引に突っ切って峠に至れる。部分的には旧道切り通し残存。
この先で尾根に出て尾根左へ主要道、右に私有地林道、尾根の植林地内に取り付く。はじめは旧道切り通しがあるがそのうち消失、峠には1km。途中茶畑がある。
・大黒様、茶畑の神様(上杉尾) 
 尾根が茶畑になる箇所がある。真下に上杉尾の人家(おそらく上仲家、佐藤家)がある。茶畑に現代の大黒様があり、祀られたあとがある。設置は新しいが、祀られる行為は古くからあるのではなかろうか。あと500m強引にくぐっていくと、峠に茶畑、人家、お堂がある。
・洗沢峠(杉尾 洗沢) 
犬2匹にさんざん吠えられあとを付けられたが噛んでは来なかった。頂上にはお堂、三角点。北側の景色がよく見える。上ってきたのと反対方向の人家3軒(かつて2軒でもう1軒増えたという記事が東海道山すじ日記1869年に見えるので140年以上同一戸数ということか、現在住んでいるのは1軒だけらしい。1990年頃ここに住んでいる人と話をしたことがある。そのときは家の近くに地蔵が祀られていた。そのときは3軒とも住んでいたようだ。また2000年頃も話をしたことがあり、川根街道を調べるため茶畑から南の藪に入っていたことを思い出す。そのときは1~2軒住んでいたのかも。)の前を降りていくと峠の茶屋前に出て、国道362号線。国道を渡るとお堂があり、地蔵や秋葉山石道標が設置されている。ここからは川根街道主要ルートとなる。今までがサブルートといってよい。
*川根街道主要ルート近辺の歴史遺物紹介は「古街道を行く」鈴木茂伸(静岡新聞社)の川根街道を参照してほしい。
~上杉尾~ 
 先ほどの上仲家、佐藤家の下の方にお堂がある。
○観世音堂 
 堂内に多数の石仏が祀られており、境内に西国三十三所観音があるところをみると、三十三体の観音石仏ではなかろうかと思う。
・手洗石:佐藤 
・奉西国三十三所観世音菩薩 文化十□正大二月 
近くに火の見櫓もある。

~下杉尾~ 
 坂の上の県道から下杉尾に向かう舗装林道を2km進む。坂の上から杉尾を経て洗沢峠を目指す古いルートでもある。杉尾川を渡る橋と「杉尾川起点ここより300m上流」標識、この付近ヘアピンカーブにもなるところである。橋手前に川沿いに歩ける登山道が川に沿って上流を目指していく。これが下杉尾から上杉尾更には洗沢峠を越えて秋葉山に行けるルートの古道残存部である、そこで秋葉街道枝道の歴史遺物はないか入口付近を探すが何もない。すぐ奥は倒木で通行困難。引き返す。
舗装林道を1.5km進むと下杉尾に出る。その手前に古道から舗装路に出る登山道取り付き点らしきもあったが、特に道標等は見当たらない。橋手前右に高橋宅がある。ここに地蔵と七人塚がある。集落近辺の舗装路下に神社がある。
・地蔵:高橋宅前茶畑端にある。
・七人塚:高橋宅前茶畑に上るとすぐに屋敷墓4基があり、その近くに高さ70cmの石垣が縦50cm、横1.2m積まれている。上は小木が繁っているがかつては更地でその上にお供え物をしてお祀りをしたようだ。年2回春秋に行ったようだ。いわれは伝説「落武者七人が杉尾に落ち延び弓の稽古をしていたが切腹した。彼らを祀った所だと言う。みさきがりという。」、下の神社向こうは武者が弓の稽古をした的当て場という。
・子神社 
・石鳥居: 
・手洗石:昭和十八年 
・神社用地設置記念 昭和二十六年 
 神社前の道が旧道(古道)で川沿いを上りこの先の髙橋宅の裏に進み川沿いに上ると、この上の上杉尾に至るようだ。

???・池城、昔水があり池の主も住んでいたが、女性が汚れ物を洗い、大蛇と共に怒って流れ出ていった。どこか分かる方お知らせください。
・寺屋敷、小字マイガイト、278番地、畑の片隅に3つの石碑と一体の観音様があるそうだ。この近くに大きな杉の木があったそうで、安倍川から見ると尻尾のように見えたので、ここを杉尾という。坂の上の薬師様はこの木で彫ったという。杉尾集会所・火の見櫓より2箇所カーブを上ったところのカーブとカーブに挟まれた狭い所にありカーブ道の上下から見える。樹木の根元付近に石塔5基他破片がいくつかある。
・如来:文政三 
・石塔:安永五 
・石塔:元文五 
・石塔: 
・石塔: 
・石塔破片いくつか 


・道光 ドウコウ、藁山 ワラヤマ  
~城山橋まで戻り県道を遡上する。~
・松の平 
 下湯ノ島手前で林道入口が左にある。能又川(よきまたがわ)沿いの林道である。丸山橋を渡り進む。この辺はかつて日向の白髭神社(藁科八社、本社白髭大明神)があった松の平というところらしい。付近に地蔵型の墓石と四角柱型の墓がある。ここは能又川と藁科川が合流するところであることが河原に下りると一目瞭然である。

1.3km進むと右(北)の湯の島側の山に向かい上る林道がある。上っていくと、中腹の茶畑を経由しつつ行き止まりで、更に先を工事中である。ここで対岸(南)の日向・畑色の方を見ると昭和53年の地形図に載っている中腹の集落跡が分かる。東側集落「藁山」はすでになく植林ではないが枯草色で藪らしいことが分かり、*(これは間違いで藁山も家一軒と茶畑が健在である。)西側集落跡「道光」は家と畑がはっきりしていてまだ人の手が入っているらしい。では林道を下り能又川沿いの分岐地点へ戻り、奥を目指す。1km進むと橋を渡り家畜用飼料小屋があり、右へ本道で、左に作業道で関係者以外立ち入り制限になっている。
・道光 
元来た道を戻り、先ほどの林道分岐100m手前に川に降りていく歩道がある。これが西側集落跡に行く登山道で集落を越えて畑色の別荘地奥の養鶏場に至る道のはずであるということは、秋葉街道枝道でもあるので、何か歴史遺物はないか調べてみる。特に石道標等は見当たらないが、切通しだけははっきりついている。集落直前で竹林が繁りかいくぐることになる。1軒の家は閉まっているが作業小屋として常時使われているようだ。周辺の畑の一部も整備されている。まず集落西を確認する。城山橋から伸びてくるルートの確認である。はっきりしない。
茶畑の上に旧道登山道があるはずなので上ってみると切通しがついている。ここから上の畑色の養鶏場につながるはずだ。すぐに廃屋があり、それより上部は草木がかぶさるようになる。だいぶ廃道が進んでいるようだ。切通し以外遺物もないので引き返すことにする。
今度は先ほどの家の西側が道も広々して歩きやすそうなのでそちらに降りていくことにする。それにしても自動車が通る道だ。  
広い道に近づいて更にギョッ、すごい驚いた!!! 家の前にイノシシがいる。後ろ左足を縛られているが、道をほじくりやたらと動き回っている。なんとそいつが私に気付いた。私の方を見て私に近づこうと縛られた足でもがいている。ドキドキである。あいつに噛まれたりぶつけられたりしたら重症だ。でも顔をよく見ていると牙はなく、メスかな? 鼻がやけに大きい、イノシシってもっと鼻が細長いと違うんか? もしかしたら、イノブタか?イノシシと豚の合いの子?あいつジーと私を見てロープ目いっぱい伸ばし私に近づいてる。あのロープほどけませんように。おそるおそるかつ足早にあいつを無視するかのようにして家の反対側に回った。ほっとした。さっさと元来た道を早く戻ろう。きっとあいつこの家の番犬ならぬ番イノブタなのだろう。今思うと近づいたところで写真撮影しとけばよかった。このところニホンカモシカ、キジ、猿は見かけるがイノブタには驚いた。
ちなみに猿は川沿いの椎茸ホダギにかぶせてある金属ネットを器用に取り払い、中の椎茸を食いまくっていた。ホダギはすべて金属ネットがかぶせてあるにもかかわらず意に介してないというか、このネット代金とかぶせる手間ひまは大変だろうに、こりゃ農家はたまらん。ニホンカモシカは人と出会うととりあえずジーと見つめてきますので、動きを止めすばやくかつおどさぬようにカメラ等を準備し望遠で撮影しましょう。うまく行けば2~3m距離で出会うこともあります。ただ逃げるときはすばやいというか、あとでカモシカがいたところに自分で行ってどう動いて逃げたか同一ルートを少し試せたら試してみましょう。何を言いたいかというと、人が歩いたり立ったりするのも困難なところを平気で走っていくので、その能力の高さに驚きます。追いかけることは不可能です。あなたが転落死亡します。キジはとっとと逃げるので撮影できませんでした。猿もすばしっこいです。ただこのところカモシカとの出会いが多いですね。天然記念物こんなに増えて大丈夫なのでしょうか。今のところ熊との遭遇はありません。そのうちあるかな……。

 ちなみに後日ここでの茶園等畑の管理をしている湯の島の小沢氏に出会って道光と藁山を案内していただき、このイノシシ一件も聞いた。
あのときの動物間違いなく野生のオスイノシシだそうで、ちょうどこのときわなに掛かったイノシシを撃ちとめてもらうためハンターを呼びに行っていたそうである。夕方ハンターにより撃ちとめたそうで、肉はかたいので捨てたそうである。牙は小さいながらも確かにあったそうでオスである。イノシシに襲われていたら、今頃ここに私はいないかな…。
藁山と道光間のルートは沢の辺りで道はないそうである。どうしても沢で道は崩壊してしまう。
小沢氏の案内で道光の石造物所在地を確認できた。集落西側の作業道すぐ上であった。ここに隣り合った平地が2箇所あり、神明社と曹洞宗学恩寺があったところのようだ。その平地の上の隅に石塔が祀られている。(『日向の七草祭』p3「3 道光に残る石造物」と同じである。)ちなみにp2「2 道光の景観」に写っている小屋は小沢氏の休憩所で電気も通っている。茶園は同氏の管理であり、その中に墓石もある。
・地蔵:貞享五辰年十二月廿三日 □□村 佐藤、1688年元禄元年 
・不動明王:享保二十□□、 1735年
・馬頭観音: 
・壊れかけた石:おそらく五輪塔か宝篋印塔と思われる。
他に茶畑内にも墓がある。
・墓石:明治廿七年 徳巌良禅□ 徳應貞壽□  
 
 他の墓石は子孫が移転したそうで主に日向陽明寺だそうである。ちなみにこの石造物後ろに立てられている卒塔婆は小沢氏が陽明寺からもらってくるそうだ。
道光は天明八(1788)年の文書によれば家数15戸(一説に20余戸)とある。山田長政の母の出生地という伝承もある。宝暦六(1756)年、奉公人として落ちぶれた主家に尽くしたことで町内の推薦で駿府町奉行所から褒美をもらった忠僕八助も出身者である。(忠僕八助の碑はJR線隣の南安倍の八幡宮にある。)陽明寺の開山の雲叟も出身者である。しかし文化年間(1804~17)には滝右衛門一人在住で、その直後無住。明治初年日向村合併。昭和22(1947)年開拓入植開始、しかし以後無住で現在小沢氏が通いで管理。
・藁山 
この後、小沢氏に車で道案内してもらい藁山へ行く。途中城山から洗沢峠へ徒歩で上ったときに横断した林道がこの道であることを知った。藁山は現在無住だが1軒だけ残っていて、某氏息子が通いで茶畑等管理しているとのことだった。昔は20軒ほどあったが生活困窮で天明年間に6~7軒に減少し、以後無住。明治初年日向村合併。神明神社がある。
『駿河国新風土記』著者新庄道雄は萩多和城の藁科氏の居所が藁山だという説を述べている。
 藁山には墓石や地蔵、祠が残されている。車を駐車した藁山西側入口近くにある墓石から紹介する。これは『日向の七草祭』p16「1-2 藁山に残る墓石群である。
・宝篋印塔? 
・石塔 
・墓石:江戸期風 
そこから東に5mでまた墓石がある。
・墓石:小永井 明治廿二四月、四角柱連立式の近現代の墓石、 
・墓:小長井 
・墓:地蔵:童子 
そこから東10mで地蔵と祠がある。
・祠 
・日切地蔵 大正五年十一月:歯痛地蔵:あごなし地蔵  
・地蔵:右の日切り地蔵の左にもう1体安置されている。 
・手洗石: 
・焼香台のようなもの? 
そこより30m上 
・祠:多分、神明社 
神明社のすぐ手前を横切りアカミチが上の畑色に上っていく。しかしすぐ上で崩壊している。アカミチを下にたどっていくと植林内に入っていく。そこも平坦地がありかつての人家の跡である。ただその下へは道は不明である。横へ行く道も細い。

~林道から県道に戻り湯の島を目指す。~ 
○下湯ノ島 ゆのしま  
13年3月に県道集落手前に石塔類合祀場所が作られた。
○石塔類24基 
・庚申塔 昭和五年 
・庚申供養塔 天保四癸巳年 
・庚申塔 昭和参年 
・庚申塔 昭和三年 
・庚申塔 昭和二年 
・庚申塔 昭和八年 
・庚申塔 昭和四十四年 
・庚申供養塔 大正九年 
・庚申塔 明治四十一年 
・庚申塔 大正九庚申年 
・庚申塔 昭和十七年 
・馬頭:昭和十四年 
・馬頭観世音 大正十三年 
・庚申塔 昭和廿一年 
・庚申塔 昭和十七年 
・庚申塔 昭和二年 
・庚申塔 昭和三十九年 
・西国 奉納経 四国 安政(正が上、マイが下)  
・石灯籠:昭和五年 
・手洗石:昭和四年 
・地蔵:虫歯守護あごなし地蔵大菩薩:、子供の歯痛を治してもらった願果しに建立したもので、藁山のものの方が古い。 
・?馬頭:明治廿一年 
・?馬頭:湯本小太郎 
・馬頭観世音 昭和三年 
湯島橋を渡り左に石仏がある。
・馬頭観世音 昭和十二年 
 道を上っていくとお堂がある。
・琴比羅神社:金比羅堂  
 その先に墓地とお堂がある。
・玄国堂 宝積寺 
 虚空蔵菩薩:木製:江戸期、
・手洗石:明治廿一年 
・玄国堂紹介説明版:玄国和尚は明和安永の頃(1764~1780年)の湯島村宝積寺の住僧なり。生国は甲斐の国西八代郡大島村(身延町、JR身延線甲斐大島駅)なり。出家して晩年衆生済度のため諸国行脚の旅に出でたり。途中湯島村佐藤彦右衛門宅に止宿す。「やんれやんれ」と声をかけて歩く程なればこの時相当高齢なるべし。
 和尚の徳声まことに高く時には近縁の者集まりて法話を聞き、ますます信仰の念を深める者多し。和尚は又この里の人情厚きを喜びて静かに老後を宝積寺にて養い居たり。当主彦右衛門は和尚に随喜すること特に厚く風呂の沸く毎に請して優遇したり。又ある時は和尚自らそばを作付けしてその収穫を彦右衛門に依頼せり。「彦右衛門そば拾いに来たれり」と言いしに和尚は「そばを拾うと言わずそばを刈ると改むべし」と笑いて語りしとか。現在この土地にそば拾いの呼称あるを思えば他国より来たれる和尚にはこの方言奇異に感ぜられたるべし。和尚は一朝翻然として悟道するところあり。即ち信徒を集めて後事を託し「吾れ滅後に於いて浄心を専らにして吾名を唱うる衆生あらばもろもろの苦悩を解脱し必ず安心を得せしめんとの遺書を残して入定せり。(生きながら身を棺に入りて土中に埋葬すること)老若男女泣きて和尚の入定を止むれど決意の程固く如何とも止め難く如何とも止め難し。時に安永四(1754)年二月二十七日行年八十三歳なり。その後七日七夜墓の中より念仏唱名の鐘の音聞こえたりと。
 彦右衛門の悲嘆見るもあわれなり。終生只管和尚の意を守り供養を怠らざりき。嘉永元(1848)年七月二十日行年九十六歳を一期として逝く彦右衛門の法名潤屋百歳信士と号す。
 和尚の生前「彦右衛門よ、死後は吾傍に来たれ」と言われしとて和尚の墓近くに自ら墓所を定め家人に吾れ死後はここに埋葬することを話せり。現に和尚の墓近くに彦右衛門の墓あり。如何に追慕の情深きを知るべく吾里の信仰美談なり。
 玄国堂は和尚の祠堂にして現在の建物は明治三十五(1902)年の建立にしてもと宝積寺境内に在りしを遷せるものなり。此の祠堂に安置せる和尚の尊像は当村孫右衛門村民に謀り当時鍵穴村喜左衛門方に逗留せる仏師某に依頼彫刻せるものなり。明治初年に一度修理せしことなるものなり。
 往時病難災厄ありし時村民此の堂に参集し尊前にて光明真言を唱え一心に祈念せり。心願成就霊験あらたかなりと。
 今日尚玄国堂に香華の絶ゆることなきは昔より如何に栄誉の的なりしか推して知るべし。二月二十七日は毎年祥月供養せしが後に春彼岸中日に変更し今日に至る。当日は本寺陽明寺住職来堂し法要を営み併せて無縁仏の施餓鬼供養を行う。因みに当日信者に配る玄国和尚尊像のお札版は当村庄右衛門の作なりと。 

・和尚たちの墓:「潤屋百歳信士」墓石が右端にある。 

・墓地やお堂前の歩道が旧道(古道)残存部である。上湯の島に続いていて、約600mである。
はじめ200mは石垣で道の崩壊を防ぎ快適な道だが、それを過ぎると道が崩壊しかかっている沢を渡り、ガレかかったところを通過することになる。今のところは通過可能だが整備しないと徐々に崩壊が進むだろう。上湯の島の市営温泉駐車場の真上に出る。ここは峠みたいで急に上湯の島集落が見え、枝尾根をまたぐ形になる。炭焼き小屋跡の石垣を組んだ穴が見られる。標高はこの先の飯綱神社と同じぐらいの高さだ。集落に降りていくには林道の作業道に下りればよいが、かつては茶畑に付いている石垣のある道が本道だったのではなかろうかと思う。集落自体がかつては川や県道より離れたもう少し上にあったのだろう。裏山の飯綱神社程度の高さに村があったのかもしれない。今は川沿いの県道周辺に集落が移動したと考えたほうがよかろう。

○上湯ノ島 
市営湯の島会館前の民家に地蔵がある。
・地蔵:
民家裏山に神社がある。
・飯綱神社 
・石段:安政七年 
・石鳥居:□□□十三□□□ 
・手洗石:慶応戌辰 
・祠 
・五輪塔:宝篋印塔、これは古そうです。神社裏の周辺は畑でやや平坦で、ここに集落があったのかも。 
近くの墓地に石灯籠がある。
・石灯籠2: 
 県道川沿いの川に下る道があるところに石塔がある。
・庚申塔 昭和五年 
・渡河地点:上湯島と大間:なぜここに庚申塔があり、川に下る道があるかと考えると、ここで川に下り、ちょうどこの辺りの水流が弱く、渡りやすく、渡った先の対岸には茶畑があり、上って行ける歩道がついている。おそらくここがかつての渡河地点だったのだろう。今はここより100m上流に大間に行く湯島大橋がある。まあ庚申塔は川に下る道の横が空いていたのでたまたま祀っただけのことかもしれない。
・湯の島温泉の由来:大間に信州高遠から来た武士が住み着いた。藁科の村は羽鳥しかなく大間までは大きな距離があり大間ということになった。その弟が大間を訪ねる途中湯が湧くのを発見し温泉にした。江戸期繁盛したが、あるとき武士が遊女を切って首を温泉に投げ入れてから湯が止まった。地名は昔湯島だったが、同じ地名があることから、湯の島とした。

 ~県道はこの先湯島大橋手前で右:大間・笠張峠と左:楢尾・崩野・八草に分岐する。
左:楢尾・崩野・八草方面をとる。最初のカーブで石塔がある。
・庚申塔 道路開鑿記念 大正十三年 
すぐ次に右:楢尾への分岐があるが直進し崩野・八草方面をとる。

○崩野 くずれの 
崩野への中間辺りの沢横の道路沿いに石塔がある。
・弘法大師 道路開鑿記念 大正十五年
集落への一つ手前の泉沢橋のその手前のカーブ地点に祠がある。
・地蔵: 
崩野 登り尾集落直前の尾根途中にお堂があり、地蔵が祀られている。
・地蔵堂:延命地蔵:説明看板:昔、子供に幸せ薄い村人が、別の場所で朽ち果てていた地蔵を、この地に移し供養したところ、子宝に恵まれたといわれる。以来子供を守る地蔵と敬われている。縁日旧暦12月24日(現在の暦だと1月末から2月初め頃)

*旧暦について一口メモ
旧暦の日にちを今の暦に直すと毎年日付がずれるので毎年違う日になるはずです。単純に計算できません。およそ40日ずれるといわれますが、これもおよそで毎年こうとはいえません。旧暦は19年に7回、1年が12ヶ月ではなく、13ヶ月になるという大胆な暦で、こうでもしないと、真夏に冬のはずの正月になりかねないからです。旧暦は月の満ち欠けで数えていて、一ヶ月は平均29.5日で一ヶ月は29日か30日なのです。12か月分だと、今の暦より11日少ないので、これで15年も続ければ真夏が正月です。そこで19年に7回13ヶ月になる閏月という制度があり、季節と日付がずれないようにしてます。約3年に一度といえます。例えば七月が終わると閏七月になり、それが終わるとやっと八月になるわけです。この閏月も法則がありますが、例年同じ月ではなくもう少し複雑なのでややこしいです。詳しく知りたい方は。他を調べてください。ネットでも図書館でもどうぞ。ちなみに1年が13ヶ月だと月給取りのサラリーマンは1回得しますね、だからこそ明治5年明治新政府は財政難で、公務員への13回目の給料支払いをやめるために今の暦にしたといわれます。
 
~崩野の中心集落に入る。集会所先のカーブ崖上に石塔がある。 
・庚申塔 大正九庚申年 
・奉納 庚申供養塔 明治五年 
・庚申供養塔 昭和□年 
更に道を上っていくと
○宝光寺跡 
・(三)界萬霊塔 大正十四年 
・三夜燈 安政四年 
・石塔: 
・六地蔵:六体 
・地蔵: 
・五輪塔 
・馬頭: 
・石段改設 明治拾七年 
○観音堂 
金属製:千手観音像:江戸期:擬古作、
 かつて月小屋(女性が生理中こもる家)も付近にあったそうだ。
・手洗石: 
・石灯籠: 
○白髭神社 
・石鳥居:氏子安全 御大典記念 昭和三年 
・氏子安全 
・石鳥居の根元片側が埋もれている
・石段:昭和五年 
・手洗石:祈皇軍健捷 昭和十九年 
・石灯籠2:奉納 白髭神社 御宝前 明治廿七年 
・祠2: 
・手洗石:明治十一年 
この裏山を登っていくと智者山・天狗石山に至る。
崩野集落を下っていき、かつて楢尾に渡っていた所、今は朽ち果てた吊り橋の残骸があるところから上流を登っていくと、「崩野川右岸支流に朝日滝:落差30m、3段、別名:崩野滝」(ネットのサイト「静岡県の滝」より)というものがあるようだ。吊り橋のところから右岸の登山歩道は砂防ダムがいくつもできて消滅しているようだが、左岸に林道が出来ているので1kmほど遡行できる。林道1kmで終点でとくに標識等がないのでどこが朝日滝方向か不明。しかしその辺りから沢が3つに分かれているのが分かり、林道は左岸の支流砂防ダム前で終点であるが、対岸の右岸に流れ込む支流が3段ほどに分かれ滝状に落ちている様子が木の間がくれに見える。落差は合計30mほどかなと思える。もしかしたらあれが朝日滝かな。吊り橋残骸から1kmほど上流の右岸支流である。
またここからさらに1km沢奥を詰めると大野滝というものがあるように地形図では記入されているが、ネットのサイト「静岡県の滝」では消滅と記入されている。

○八草 やくさ 
 現在無住、かつて7軒あった。無人の民家が4軒ある。もう1軒はお堂である。集落手前に智者山登山口を示す標識があり、集落奥を指しているが、その前に自動車道舗装路終点地(未舗装道路は更に50m奥に進む。)の右上が山斜面で上って行く登山道がある。1分上ると杉桧植林地内に集落墓地があり、真下が自動車道舗装路終点地である。
・墓地:上湯ノ島の玄国茶屋に勤めている八草出身のご婦人の話によると、60基ほど墓石はあり、石碑を根元に抱えた栂の木があり、近くに女杉もあるとのことだ。しかし墓地は改変されていて、だいぶ空き地になっていてまとめて積まれた墓石や破片を含めて30基ほどと思われる。おそらく大半を移転したと思われる。しかも墓地周辺の古い樹木はことごとく伐採され、残っているのは植林ばかりである。
 無論根元に石碑を抱えた栂の木は不明であるというか、おそらく伐採されたものと思う。
女杉であるが、付近には植林された杉ばかりでいわれのありそうな木はないので、伐採されたものと思う。
????・女杉、池の段:杉と池の中に女の大蛇が住んでいたが、暴風雨か女が洗濯したため出て行ったという。どこ?池の段は裏山というか智者山登山口付近の平坦地のことか?女杉は墓の付近らしいが不明。
・旧道(古道):墓地の下で自動車道より上に道幅30cm~1mの登山道が水平についている。自動車道より10m上を水平についている。おそらく登り尾集落に向かう旧道であろう。自動車道ができる前の生活道路、旧道(古道)であろう。今は植林地内の作業道であろう。使われなくなり徐々に崩壊していくだろう。
~一旦墓地から無住集落に向かい進んでいく。
途中建物がありお堂である。 
・神明神社:お堂 
・手洗石: 
 この裏山の尾根先端頭頂部に神社があることに地形図ではなっているので行ってみると、参道は道がはっきりあり、頭頂部は平坦で建物跡が見られる。ちなみにこの尾根頭頂部と先ほどの崩野延命地蔵堂のある所は同一線上(東西方向)の尾根である。かつては尾根道でつながっていたのではなかろうか。この尾根を2~3分東に下ると先ほどの墓地に出ることができる。
・石段跡: 
・建物跡の礎石か周辺をかためた配列石: 
 
この裏山尾根を西に登っていくと尾根を一旦北に回り込むが、その先で尾根に取り付き西に上る道があり、そちらへ智者山登山用矢印が出ている。
 ちなみにそこから杉桧の植林された尾根を下に下る切通しがついていて、多分下の登り尾の集落につながっている旧道と思われる。
 八草内の植林地で智者山、崩野、八草民家の分岐点近くに植林より低い火の見櫓が見つかる。
・火の見櫓:今は周辺の杉植林より低い。かつてここが見晴らしよく周辺が畑か人家だったという証拠だろう。
 八草から智者山を目指すと直接智者山山頂ではなく、一旦智者山林道が通過する尾根に出るはずだ。そこから尾根を詰めるか、林道を少し詰めてから標識に従い尾根に取り付くかだと思う。そして林道に出る辺りに、四角柱の石道標があるはずだ。林道工事中に一旦不明となり、新聞記事まで出て所在確認が行われ、どなたかが預かっていたことが判明したそうだ。今はもとの場所にあるのだろうか。
 八草無住民家を詰めていくと最後の民家の奥は大きく崩壊していてもう進めない。最後の民家前も地滑りで地面に段差がいくつか生じている。さも地滑りの見本のようだ。
 無住民家の庭先に布団類を敷き並べて土に戻そうとしてある。子供用ビニールプールの破片もころがっている。別の植林内の家は開けっ放しで家屋内に古い大型のアナログテレビがぽつんとある。周辺には洗濯機やバケツがころがっている。かつてここに人々が生活し人の生活の営み、家庭の団らん、幸福が、子育てが、悲しみがあったのだろうに、こうして廃墟と化すと、寒々とした悲哀感が押し寄せてくる。
遠い未来、東京や静岡といった都市が廃墟と化したとき、それを探索する人は20世紀から21世紀の人々の営みの痕跡に人生の悲哀を感じるのだろうか。
*無住集落を訪ね歩くのはあなたの自由でしょうが、今でも所有者や管理者はきちんとあり、そこで生まれ育った人にとってはかけがえのないふるさとでしょうから、現状を改変したり汚したりする行為は一切しないようにしましょう。
無住集落内を一本の沢が流れ下っていくが、途中明らかに沢を付け替えてあり、本来の沢には石垣があり水が流れていない。おそらくわさび田として利用したため水量調節のため古タイヤを積み重ねて沢をせき止め、横に水路を掘り流れを変えたものと思う。
・昔髙橋家は井川金山の関所と智者山神社の別当(禰宜ネギ、神主)だったという。

八草から ~楢尾、川合、川合坂、本村への分岐に戻る~
○楢尾、川合、川合坂、本村 
 分岐を過ぎ楢尾への橋を渡る。橋の位置は改定されている。渡るとすぐに祠がある。
・地蔵:明治七戌年 
 ~道を上っていくと最初の集落:川合であり道端に石塔がある。
・石?
・地蔵: 
・墓石: 
~茶畑の上に石祠がある。
・石祠:
・石柱:奉納 稲荷神社之元屋敷 明治四十年 
  ここに稲荷神社があったということか、住民に聞いてみると、
???・住民によれば神社は林道をもっと上った山の中腹にあるそうだ。未確認。
~次の集落:川合坂の上に神社がある。神社に上る道の近くに石塔がある。
・庚申塔 昭和七年 
~上っていくと尾根付近に神社がある。
・稲荷大神 
・石鳥居:明治百年記念 
・手洗石:明治十五年 
・石灯籠2:昭和五十一丙辰年 
・祠:稲荷 
~楢尾への舗装路を進む。
・海前寺 
・地蔵: 
・板碑:この寺に学びし頃の思い出の歌 
 ~大間への舗装林道を進む。
・楢尾の石仏、ならおのいしぼとけ 
 舗装林道を尾根辺りまで出て尾根に杉巨木が見える所、大間や益田山への分岐200m手前である。林道は尾根より5m下を通過しているため、尾根伝いの旧道(古道)上の丸石を手向ける杉巨木のあるこの場所はそのままである。祠も祀られている。峠の語源には峠越えの安全祈願を手向ける→手向け→たうけ→たうげ→とうげ峠になったという説もある。柴を手向けることが多かろうが丸石を手向けることもある。この舗装林道が開通したことでかなり旧道は消失したようだ。丸石は願掛けやお果たしでもある。
 もう200m進むと分岐点がある。直進で益田山、七つ峰方向へのダートの楢尾智者山林道、右折で大間である。大間へは部分的に旧道が残存している。
・石道標:「これよりみぎ大まみち」四角柱で頭頂部は四角錐である。
???・益田山:どこの山? 七つ峰への前衛峰? 

○大間 
・大間の石仏、おおまのいしぼとけ、大間の古道(旧道) 
 石道標のある分岐点から、しばらく林道を下ると大間との境らしい。この辺り林道より5m上に丸石が見られたようで大間の石仏だそうだが、探しても一つも丸石は見つからなかった。意図的に移動されたものと思う。ただ林道より上部を探すと旧道(古道)残存部はあり、しっかりした道も部分的にある。その中に楢尾の石仏を彷彿とさせるような峠のような境目のような大きい木が4本ある場所があったので、私としてはそこを推定地としたい。先ほどの分岐点より700m進んだ林道地点の20mほど上の尾根である。旧道は上り下りの境目で道の左右に杉2本、モミかツガが2本で計4本大木である。祠や丸石は一つもないが、楢尾の石仏と風情は似ている箇所である。この近辺に古道らしさがよく残存している。ただ20~30年前まで子供が楢尾小学校に通う通学路として安全に整備されていたのだろうから、昭和期終わり頃の姿をとどめているという思いも必要だろう。
大間に向かい旧道切通しをたどると数回林道と交錯し断ち切られるが沢を2回またぎ林道と違う箇所へ向かうのが分かる。その先急斜面の尾根に出て真下に砂防ダムが見えるところで、旧道は崩壊していた。この急斜面では致し方ない。おそらくここで七曲りの巻き道になり急斜面尾根を下っていったのだろう。ちなみに大間の林道出口には砂防ダムがあるところは見当たらないが、1本北の沢は砂防ダムがあり、急斜面の尾根があるので、おそらくここの真上であろう。付近を探したが旧道出口らしきは不明である。崩壊しているのか、私の探し方がまずいのか。
 大間集落直前の福養橋手前に石塔がある。
・庚申塔 昭和九年 
 大間集落に神社がある。
・白髭神社 
 不動堂:木製:二体不動明王、
・石鳥居:昭和五十五年 
・祠2:  
・石製家型道祖神:明治□年 
・石灯籠:慶応四年 
・庚申供養□ 元治二□ 
・庚申供養塔 大正九庚申□年 
 まあ慶応四年(明治元年)も元治二年(慶応元年)も公式にはないが、石屋が彫ってしまってから年号が変化したと思えばよいのだろう。まあ昭和元年は1週間で終わり、昭和64年は1週間しかなかったしね。こういう年号違いは時々見られるが一つところで二つも見られるというのは初めてだ。ここではないが他には萬延二年(文久元年)もよくある。
・火の見櫓 
○福養の滝 
大間集落左上の沢というか先ほどの福養橋上流にある。安置されている石塔は2基である。
・大滝不動 
・不動明王 
・説明看板:昔、信州高遠乾の町(伊那市高遠町)から三人の落武者が逃れ、この地に住み着いたのが大間である。この地には滝があり高さ100m、幅4m(現在では高さ135m、幅3.3mとされる)の滝の水は滑らかに岩を這うように流れ飛び散る水玉は陽光に映えて、宝石を散りばめたように美しい。またこの辺りは不動尊が祀る神池とも伝えられる。この滝に毎年五月五日の午前十時頃一頭の馬が滝つぼに漬かり毛並みを整えていた。この馬はのちに栃沢の米沢家で飼われて宇治川の先陣争いをした俊馬「磨墨するすみ」となった。村人はそのためこの滝を「お馬が滝」と呼んだ。1909年当時の安倍郡長、田沢義鋪よしすけが井川村から郡内調査に来たとき、滝の確かな名称のないことを残念に思い、岐阜県養老町の養老の滝に似ているので「福養の滝」と名付けられた。(現在は似ていないといわれる)
 名馬「磨墨」伝説とも重なる伝説の滝であり、静岡市内では有名な滝である。

~湯島から大間に上る県道沿いにも石仏がある。
・?馬頭:古びていて判読不能。
・川久保林道分岐点:13年3月工事中、出入り不能。
・地蔵:おおはたけ橋袂にある。「大正十五丙寅年 霊峯山人建之」 
・林道野田平線分岐点:先ほどの楢尾大間の林道である。これより上はすでに記入済み。

~大間を越えて、この先、県道南アルプス公園線は、尾根を越していく。その尾根を右に進めば一本杉峠や諸子沢・平の尾方向に下っていける。その先で地すべり地帯を通過し笠張峠で県道井川湖御幸線に合流する~ 
*林道一本杉線に関しては、諸子沢の平の尾・地蔵堂辺りを参照してください。 

・参考文献 
・「静岡県指定無形民俗文化財調査報告書 日向の七草祭」静岡市教育委員会 ‘06 
   かなりの部分を引用させていただいた。
・「駿河の伝説」小山枯柴:編著、宮本勉:校訂 旧版:‘43 新版:‘94  
・「藁科物語 第3号 ~藁科の地名特集~」静岡市立藁科図書館 ‘94 
・「藁科物語 第4号 ~藁科の史話と伝説~」静岡市立藁科図書館 ‘00 


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 09:28Comments(0)古道