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2011年10月02日

古代の東海道(静岡市→焼津市)、万葉の東路

古代の東海道(静岡市→焼津市)、万葉の東路 
 静岡市から西の日本坂峠を越え焼津市の花沢の里へ向かう古代の道が推定されているので紹介する。推定ルートは以下である。
駿河国府→舟山→猿郷→手児の呼坂→宗小路→細工所→谷津神社→谷津峠→的山峠→井尻峠→大和田→小坂→日本坂峠  
 このコースは丸子の下流平野部を避けて山際を通るようになっていて、増水したときや古代以前の弥生期にも使われていたのではないかとさえ思われる。古代以前には丸子下流平野は入り江だったかもしれない。
・駿河国府→舟山  
 実は駿河国府は確定地がない。推定では長谷通りの静岡高校辺り(国府跡の石碑があるが、あくまで推定地の一つ)、あるいは横内・横田辺りだろうとされている。まあ広く見て浅間神社から駿府城跡周辺だろう。しかし片山廃寺の件から駅南の小鹿辺りという説まである。ここでは浅間神社から駿府城跡周辺として舟山に出る。現在の本通りと安西通りの間を通り、田町で現在の安倍川を渡ると途中の中洲に舟山がある。確たる道筋は不明だ。ここに安倍川があるのは、江戸時代初期に家康が薩摩土手を作らせたからで、それまでは藁科川下流だったはずで、安東と安西の間を安倍川は幾筋かに分流して流れていたろう。舟山までに安倍川分流を数本渡るはずだろう。なおさら道筋は分からない。
・舟山→猿郷  
 多分ここで藁科川を渡ったのだろう。舟山には現在舟山神社がある。80年代には祠が一つあるだけだった。なお舟山に行くには安倍川を徒歩で渡るしかないので、水が減ったときを見て渡るしかない。増水時は渡渉不可能。猿郷からは陸路となる。
・猿郷→手児の呼坂  
 猿郷から山際を南下していく。昔の道らしきは、山際をたどれば概ねよいようだ。ただし通れないところもあり、古道は消失していく。
底本とした「ふるさとの東路 知られざる万葉の道」滝本雄士と「古街道を行く」鈴木茂伸の南藁科街道に詳しい説明があるので参照するとよい。
 徳願寺前を通過してしばらくすると手児の呼坂の入口となる。
・手児の呼坂  
入口に西国順礼塔や他の石塔が立つ。道は舗装された農道となっている。最後は歩道を歩き峠となる。記念碑等がある。下ればまた農道となり、宗小路という辺りになる。
・宗小路→細工所  
 古く狭い道が山ろくにあったようだが、不明なので、平野の北丸子工業団地に出る。大きな工場敷地が四角く区分されていて、新道を通る。
・(周辺紹介)龍国寺(戸斗ノ谷、北丸子二丁目27)   
 駿河一国百地蔵第十二番、「南無観世音」、庚申塔、「三界萬霊」、菩薩、石灯籠、六地蔵3×2、石塔、地蔵4、馬頭観音、鐘楼、
・(周辺紹介) 戸斗ノ谷公民館(戸斗ノ谷、北丸子二丁目26)   
 古い墓石が多数集まっている。
・津島神社(戸斗ノ谷、北丸子二丁目10)   
 北丸子工業団地の大きな工場を過ぎた直後山際に神社への参道入口となる。
 創建不詳、再建天正二年。手洗石、石段「昭和9」、狛犬「昭和46」、石灯籠「寛政五」。
 津島神社参道入口から丸子の平野部を南へ渡る。現在の国道1号線や江戸期旧東海道(県道)も渡る。古道ははっきりしないが、ここから丸子幼稚園に行く道と考えると割合古道らしいところを通れる。新興住宅地内の新しい道をそれなりに曲がっては丸子幼稚園方向を目指す。戸斗前公園の東を通過し橋を渡り南下する。国1手前でアパート西の道らしくない道で空き地のようなところ(多分古道)を通過すると国1向かいに丸子幼稚園がある。
・丸子幼稚園東側の古道(丸子六丁目7)  
 丸子幼稚園東の路地が古道らしい。多分この道は丸子幼稚園園長:野上氏(宝台院別院)の善意で残されているのだろう。この路地を抜けると旧東海道に出る。2軒分東に行きそこの路地を南に進むと丸子川の土手に出て、川向こうに谷津神社がある。
・(周辺紹介)丸子一里塚(丸子六丁目6)  
 旧東海道をもう数十m東に進むと一里塚跡になる。
・(周辺紹介)地蔵堂(丸子六丁目13)  
 駿河一国百地蔵第十一番、石地蔵3、庚申塔3「昭和55」「大正9」、
・(周辺紹介)文殊堂(丸子)  
 智恵文殊菩薩、石塔。丸子川沿い谷津神社少し南。
・谷津神社(丸子4970、芹ヶ谷)  
 創建不詳、再建永禄九年。静岡市指定天然記念物:クスノキ(幹直径1.9m、樹齢約千年)、手洗石「明治30」、石鳥居「明治39」。 
・谷津峠 谷津神社から芹が谷に山越えする峠を谷津峠という。標識は一切ないので周辺住民に聞いてから上ったほうがよい。しかし住民にもあまり周知されていないので情報は得にくいだろう。谷津神社前の道を左の畑に沿って山奥に入っていく。距離300m約5分も上れば切通しの峠である。11年5月現在ここに朽ちかけた「谷津峠 標高71.9m」の標識があり、間違いなく峠であることが分かるが、将来はやめに朽ち果てるだろう。さてここから杉檜の植林が数十m下り続けてからみかん畑になっているが、植林地内は道が分からない。適当に下ってみかん畑に降り、あとは歩きやすいところを下った。山を降り切る手前に階段になり、平野部には芹が谷の住宅地が広がっていた。下りも約5分。左に2階建てアパート(丸子芹が谷町5)があるところに出て町となる。ここにも標識はない。
・的山峠マトウトウゲ、マトヤマトウゲ  
 芹が谷から井尻へ山越えしていける道があり、この峠を的山峠という。
 やなぎだ眼科医院(丸子芹が谷町9-1)を目指し、やなぎだ眼科医院から南の山あいの谷地に入っていく。谷地の農地に入っていくところに朽ちかけた「谷津峠↓←→的山峠」標識がある。谷地に入っていいのだが、この先の谷地の農地から峠のある山腹に取り付く所には標識はないので、住民に聞くしかない。最後の住宅も過ぎ農地だけになって川が広がって水を溜めている池みたいなところの2箇所過ぎたところを左に曲がり、川に架かる板橋を渡る。草刈もしていないので草だらけの斜面をモノラックのレール(索道)を横目に見つつ、「もとは道だなあ」と思いつつ約5分上ると、頂上に「井尻←的山峠→芹が谷」標識がある。頂上部の尾根は歩きやすく眺めもよい。井尻への下り道は草もなく快適である。5分下ると平坦な車道に接続する。ここに「井尻峠←→的山峠」標識がある。車道へ出ず細い野良道をさらに行くと井尻の集落内に出る。ここにも「井尻峠←→的山峠」標識がある。いったん集落内の小野寺参道の車道に出て小野寺方向を目指す。すぐに神社がある。
・八幡神社(丸子井尻)  
 手洗石、石灯籠「昭和18」「大正3」、小野寺への丁石「一丁目」が横倒し。
 小野寺参道麓に位置する。ここから裏山の井尻峠を越え向こうの大和田に行くことができる。この神社の左手(南)に小野寺とは別方向に上る道がある。左手奥の低い所が井尻峠で向こうは大和田である。神社手前を左に上る。
・(周辺紹介)小野寺(丸子3877)  
 この山腹に古い五輪塔が散在し、手越河原の戦いの死者を弔うものといわれている。石塔類多数。丁石は八丁目まである。寺から西尾根を進めば朝鮮岩である。
・井尻峠  
 井尻と大和田を結ぶ古道で、万葉の東路として紹介されている。井尻と大和田を最短で結ぶ道である。上り下りにきつくない峠なので生活道路としても便がよかったろう。尾根を西に上れば小野寺で東に進めば渭川寺裏山イセンジである。八幡神社から約5分で峠である。下りも約5分で農道に出る。農道の分岐点に「井尻峠←→大和田」標識がある。
ただ大和田から上る場合、畑内で2~3箇所山道が分岐するが標識が無いので2~3回道迷いして約10~15分かけて上ったので、住民に聞いてから上ったほうがよい。ヒントは大和田の農道から山の畑に入る標識のある所のやや左上の低い所が峠であるので、そちらを目指すと思えばよい。
農道を下って行けば大和田集落である。途中農道は左右に分岐するが、左は神社経由で下り、右は直接下る道で、どちらも麓で合流する。 
・大和田神社(大和田101)  
 農道の途中、集落よりやや上にある。創建不詳、再建文化十一年。手洗石、石鳥居「昭和60」、樹木:200~500年。大和田の地名は水が淀むまたは溜まる所を意味し、地形からも古くは入り江の内浦だったと推定されている。集落を下りきり麓の山際道に出るとお堂がある。
・馬頭観音堂、地蔵(大和田204)  
 双体馬頭観音、地蔵3、庚申塔3「昭和55」「大正9」、標識「万葉の東路 大和田→井尻峠」。
・墓地(大和田78)  
 馬頭観音堂を山際に沿い東に70m進むと、朽ち欠けた約50の墓石が道路から見える。またお堂のほうに戻り、西の小坂方面に進む。
 はじめ「この先行き止まり」と標識のある山際の未舗装路を西に進むが、そのうち城山中学前辺りで山際の古い道が遮断されるので、いったんまっすぐで広い道路に迂回する。しばらく古道は通れない。
・板碑4(小坂橋南たもと)  
 耕地整理等記念碑。
・庚申塔(小坂JA支店前バス停)  
 「庚申供養塔 昭和55」、「庚申供養塔大正九年 右用宗停車場十三丁 左静岡縣廰二里 西花澤一里五丁」。
・御所の前(小坂1424) 石碑「御所の前」。日本武尊伝説の地で、ここで休憩したという。用宗・石部からの古道もここで合流した。ここから古道である。
・  神社、地蔵(小坂1280)  
 御所の前の北東にある。手前に地蔵もある。
・満願寺(小坂1336)  
 建武五年国宣状を賜う、曹洞宗、本尊:千手観音。「三界萬霊等」、近くに「一宮随波斎供養塔」があるらしい。寺は無住らしい。
 御所の前から安養寺前を目指すと、途中左に石塔あり。瑞應寺を示す。
・地蔵、新・石道標「南無延命地蔵菩薩 雲梯山瑞應禅寺」。
・瑞應寺(小坂1076)  
 開山行基、開基日本武尊、臨済宗、子安観音地蔵堂、手洗石、観音、地蔵、石灯籠、新・地蔵:多数、金比羅宮。
 寺の裏(南)を通っていくと熊野神社、さらには峠越えで石部に通じていた。
・熊野神社(小坂赤坂)  
 創建天正年中。巨木。石塔類。石部から峠越えで行ける。そして御所の前に出られる。
・安養寺(小坂1426)  
 安養寺前バス停に戻る。参道入口に石塔がある。自然石2、庚申塔2「昭和55」、庚申像、新・地蔵・馬頭観音。
建立文治三年、本尊:阿弥陀如来、家康お手植えの蜜柑の樹がある。「不許葷酒入山門」、「下馬」石、新・地蔵、句碑:多数、板碑、土肥7騎の墓、鐘楼、水琴窟、榧の巨木、半僧坊社、
・日枝神社(小坂1433-2)  
 元山王社、明治5年日枝神社。手洗石、石灯籠2、石鳥居:近代、堂、樹木:900年?
安養寺の隣にある。
・祠(小坂1407)   
 街道沿いにある。
・日本坂の磐座イワクラ(小坂1673)  
 祠の向かい側の道を入る。もと日本坂にあった磐座だが崩落したので所有者の自宅に展示した。
・石塔、土蔵(小坂公民館前バス停)  
 庚申供養塔「昭和55」「大正9」、「奉納大乗妙典経日本回□供養塔 天明二」、新・地蔵3、老人つどいの家の横に土蔵がある。
・石造物(小坂2149)  
 秋葉山常夜燈、地蔵堂:地蔵3.
・山ノ神(小坂2176)  
 祠2、石灯籠「安政三」。
・花立観音
 座っている地蔵像である。
・「庚申供養塔」(日本坂と満願峰の分岐点)  
 「庚申供養塔 右十一番観世音二丁半 左日本坂頂上迠十二丁」、他には破損した石塔類。
・観音堂(分岐点より満願峰方向へ250m)   
 観音堂、三十三観音(破損したもの含め約26体)、堂5、石塔「安政六」、祠、不動尊、ひすいの滝、
・庚申塔(分岐点より日本坂方向へ300m)  
 「庚申塔」、「庚申供養塔 右日本坂道 左小坂道」。
・蛙石、子持石、小滝(日本坂への途中)  
 自然石、滝。
・日本坂峠(静岡市小坂、焼津市花沢)  
 古代東海道の峠道。穴地蔵。

・(周辺紹介)渭川寺裏山→井尻峠→小野寺→→朝鮮岩→→丸子富士(高山、蔵王権現)→水来頭峠→満願峰→小布川峠→雨乞神→日本坂峠(尾根道縦走路)  
 渭川寺裏山や井尻小野寺から尾根伝いに満願峰を経由し日本坂に行くことができる。今はハイキングコースであるが、昔も使われたと思われる。



 新考察・古代官道(佐渡交差点、西之宮神社→大和田)
* ここまで万葉の東路を紹介してきたが、近年の研究で古代の官道:東海道が、JR東静岡駅・グランシップ(曲金北遺跡)で発見される等、古代官道を訂正する方向に動かざるをえなくなってきている。この考え方では西は佐渡交差点、西之宮神社から東は横砂の盧崎神社までを直線で結ぶ古代条里制による道である。途中で曲金北遺跡の官道を通過することになる。
 丸子側は佐渡交差点、西之宮神社を起点にして大和田までのルートを考えることになる。大和田から日本坂峠までは同一と考える。西之宮神社から大和田に行くルートは2つ、1つ目は、西之宮神社から近世東海道筋を通過し、井尻に出て井尻峠を越えて大和田に出る山越えコースである。2つ目は、西之宮神社から長田・鎌田方向を南下し渭川寺・巴川製紙工場で西に曲がり大和田に出る平野コースである。2つとも記述する。


1、佐渡交差点、西之宮神社→井尻峠→大和田

・佐渡交差点、西之宮神社(丸子)サワタリ  
 古代官道はこの西之宮神社から東は清見寺方向、横砂の盧崎神社イヲサキにまっすぐ突き当たるようだ。佐渡山は古墳群で、縄文や弥生期からの遺跡が出土する。
 創建不詳、再建明和三年。「遷宮記念碑 昭和60年」、石鳥居「明治22年」、石灯籠、「庚申塔」3「大正九」「昭和55」、
・福泉寺(手越14)   
 石塔類。徳川秀忠の付き人の墓もあるなど由緒がある。
・佐渡の子授地蔵堂(丸子一丁目10)、「佐渡の手児万葉歌碑」(丸子一丁目8)  
 近世東海道のコースと一緒である。駿河一国百地蔵尊第十番。
この先の小豆川を渡ったところで近世東海道を左折し西の井尻を目指す。丸子川に架かる井尻橋を渡ると井尻地区である。小野寺のある山を目指すと麓に八幡神社がある。
 堂の向かい側が佐渡公民館で「佐渡の手児万葉歌碑 昭和57」がある。
・石塔、石道標(昔は近世東海道の小野寺への分岐点にあったが今は丸子4丁目にある)  
 
・八幡神社(丸子井尻)  
 手洗石、石灯籠「昭和18」「大正3」、小野寺への丁石「一丁目」が横倒し。
 小野寺参道麓に位置する。ここから裏山の井尻峠を越え向こうの大和田に行くことができる。この神社の左手(南)に小野寺とは別方向に上る道がある。左手奥の低い所が井尻峠で向こうは大和田である。神社手前を左に上る。
・(周辺紹介)小野寺(丸子3877)  
 この山腹に古い五輪塔が散在し、手越河原の戦いの死者を弔うものといわれている。石塔類多数。丁石は八丁目まである。寺から西尾根を進めば朝鮮岩である。
・井尻峠  
 井尻と大和田を結ぶ古道で、万葉の東路として紹介されている。井尻と大和田を最短で結ぶ道である。上り下りにきつくない峠なので生活道路としても便がよかったろう。尾根を西に上れば小野寺で東に進めば渭川寺裏山イセンジである。八幡神社から約5分で峠である。下りも約5分で農道に出る。農道の分岐点に「井尻峠←→大和田」標識がある。
ただ大和田から上る場合、畑内で2~3箇所山道が分岐するが標識が無いので2~3回道迷いして約10~15分かけて上ったので、住民に聞いてから上ったほうがよい。ヒントは大和田の農道から山の畑に入る標識のある所のやや左上の低い所が峠であるので、そちらを目指すと思えばよい。
農道を下って行けば大和田集落である。途中農道は左右に分岐するが、左は神社経由で下り、右は直接下る道で、どちらも麓で合流する。 


2、長田街道(手越原→鎌田→大和田)  
 佐渡交差点の西之宮神社(佐渡山あるいは徳願寺山南端で近世東海道と近代国道1号線の通過する要衝の地)から手越原交差点方向へ東に向かい進み、手越原交差点で南下する道をたどる平野部コースである。長田街道とも鎌田街道とも言う。
 ・佐渡交差点、西之宮神社(丸子)サワタリ  
 古代官道はこの西之宮神社から東は清見寺方向、横砂の盧崎神社にまっすぐ突き当たるようだ。佐渡山は古墳群で、縄文や弥生期からの遺跡が出土する。
 創建不詳、再建明和三年。「遷宮記念碑 昭和60年」、石鳥居「明治22年」、石灯籠、「庚申塔」3「大正九」「昭和55」、
・福泉寺(手越14)   
 石塔類。徳川秀忠の付き人の墓もあるなど由緒がある。
・白髭神社(手越239)   
 創建不詳、伝創建永禄元年、再建寛保二年。石造物:石鳥居、手洗石、古代官道に面していたと思われる。
・手越原交差点   
 江戸期東海道と旧国道1号線及び、ここで取り上げる長田街道(県道用宗停車場・丸子線、鎌田街道)と、その向かい側で北進する南藁科街道(県道奈良間・手越線)が交差する。
 手越は手越少将や手越河原の戦いで有名である。手越少将を祀った少将井神社は江戸期東海道に沿い、東進するとある。手越河原の戦いの記念碑はこの先紹介する。
 古い街道はこの交差点より少し東から南に入る路地ではないかと推定される。170m南進すると道が途絶える。おそらくこの先に流れていく水路に沿って昔は道もあったのだろう。次に道が現れるのは無量寺横である。
・中央消防署鎌田出張所(鎌田54)  
 長田村役場跡。長田村の中心地だった。
・無量寺(鎌田56)  
 本尊:阿弥陀如来、創立天正年間、地蔵堂、板碑、新・石仏。
 寺の東から南へ300m進む。この先未舗装の路地裏が現れたら、道を右折(西) し2軒分進んだらまた左折(南)し50m進む。左に神社がある。この道は寺田と鎌田の境界線になっている。
・八幡宮(寺田79)  
 創建不詳、伝創建元亀元年、再建天保十一年。祠。
鎌田と寺田の地区境がかつての旧道ではないかと推定される。この境に沿って南下する。途中で道ではなく家境が境界線となるので付近を迂回する。丸子川手前で広い通りに出る。公園の横で丸子川に出る。川向こうに青木天満宮が見える。今の化粧橋はもっと西なのでいったんそちらに迂回する。
・八幡神社(寺田74)  
 創建天正元(1573)年。手洗石「文化二」、他石造物:近代。樹木:300~600年?
・明光寺(寺田61)  
 創立永禄十二年、本尊:阿弥陀如来、駿河一国百地蔵第八番、地蔵堂、「庚申塔」、「西国三十三所供養塔」。 
・化粧橋(寺田)  
 昔の橋はもう少し東の青木天満宮のところだったろう。
・化粧坂(寺田)  
 手越河原の戦いのとき、この坂に陣を敷いたという。寺田と青木の境の丘らしい。化粧橋近辺と思われるが詳細不明。
・青木天満宮(青木227)  
 創建不詳、再建天保十三年。手洗石「文化貳」、石造物:近代。元は青木270番台の地にあったそうなので、新幹線で用地を取られたのだろうか。今は移転して当地である。
かつての旧道はこの天満宮(当時はない)の横を通過したのではなかろうか。このまま南下すると道は西を向き、今の長田街道に出て向こうに渭川寺が見える。 
・渭川寺イセンジ(青木435)  
 開礎天正十五年、「庚申供養塔」2、「一国三十三所」、新・石仏。
裏山は遺跡である。南の巴川製紙工場敷地内からも遺跡が発掘された。
・渭川寺裏山、神社(青木626)   
 裏山南側のお宅横から登れる。石仏:三面八手、台石「第二十二番」、手洗石:近代、石鳥居「昭和10」、本殿祠、道祖神、祠。遺跡でもあり、南の巴川製紙工場敷地内も遺跡が出土した。
 道をここで西に変え、山際に沿い進む。ここからは長田(鎌田)街道をはずれる。
・みずほ公園(みずほ5丁目12)  
 手越河原の戦いの記念碑。
・墓地(大和田78)  
 大和田を山際に沿い進むと、朽ち欠けた約50の墓石が道路から見える。70m進むとお堂がある。
・馬頭観音堂、地蔵(大和田204)  
 双体馬頭観音、地蔵3、庚申塔3「昭和55」「大正9」、標識「万葉の東路 大和田→井尻峠」。


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