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2014年03月02日

古代官道:東海道、静岡市街

  古代官道:東海道、静岡市街
(佐渡交差点または手越原交差点から清見寺へ) 
・前説明
 古代東海道は、静岡市駿河区手越の佐渡交差点、西之宮神社から東へまっすぐ清水区興津清見寺方向へ伸びるものと推定されている。なお静岡市教育委員会『曲金北遺跡調査報告書』では西宮神社ではなく、もっと南の的山を名の通りマトとしたと考えている。現実にそのライン上のJR東静岡駅と隣のグランシップの間の歩道地面下に古代の官道:東海道が出現した。なぜ東西をまっすぐ貫くかというと、古代の条里制により、東西南北に区画がなされ、その延長線上に官道も敷かれていたようだ。静岡市の地図で確認するならば、西は佐渡交差点の西之宮神社で、東は興津手前の盧崎神社(横砂本町29)イホサキ辺りに定規を当てるとよいだろう。無論JR東静岡駅とグランシップを通過するようにする。また曲金の軍神社や矢倉町の矢倉神社付近も通るだろう。ちなみに現在、古代の官道に沿って通れるわけではないので、現地を通りたい場合は付近を迂回することが多いはずである。
もう少し詳しく見るなら、手越の佐渡交差点または手越原交差点から今の国1に沿い東進し、安倍川で線路をクロスし駅南の南安倍三丁目に渡る。ここで線路に並行して通る道を東進する。途中宮本町の神明神社横を通過し、稲川の浅間神社横を通る。もしかするともう少し南の伊河麻神社の境内地が北に広ければ隣接していたかもしれない。曲金の軍神社の北辺をかすめグランシップと線路の間を東進する。線路沿いに東進し、栗原の神明神社北を通り草薙駅西の熊野神社南に達する。ここから直線道路を東へ進み草薙駅前を通過し七つ新屋の春日神社までまっすぐ東に進める。もしかするとこの東西直線道路は古代条里制の名残を残した道だろうか。ということは古代官道:東海道残存部の可能性がある。しかしこの道は明治期の地図には存在していないので、後世の近代に鉄道線路に平行するよう作られたようだ。期せずして古代の道路設計者と近代の鉄道や道路の設計者の思惑が偶然一致したようだ。しかしそういう風に作るのが合理的だという証拠なのだろう。
ここから東への道はないが、およそ新幹線ガードと一定の距離で並行するように東に向かい国1を渡り渋川に達すると、ここで新幹線に並行する道路が出現する。これも官道の名残か。はじめ狭かった道は新たに拡幅された広い東進する道になり、巴川を渡り清水東高前で道はなくなる。地図上ではここからさらに東進すると矢倉神社横の矢倉の辻に達し、神社北の中世北街道とされる庵原川に達する道に接続したはずである。中世北街道が古代官道東海道残存部と推定される。中世北街道も直進道路であり、庵原川に達する部分のみ現在曲線になるが、古代は直進すれば盧崎神社により近かったであろう。ここが曲線なのは土手が作られたためだろう。

・的山マトウヤマ、的山峠マトウトウゲ、マトヤマトウゲ  
 名のように的山を目指したという考えもあるようだ。
芹が谷から井尻へ山越えしていける道があり、この峠を的山峠という。
 やなぎだ眼科医院(丸子芹が谷町9-1)を目指し、やなぎだ眼科医院から南の山あいの谷地に入っていく。谷地の農地に入っていくところに朽ちかけた「谷津峠↓←→的山峠」標識がある。谷地に入っていいのだが、この先の谷地の農地から峠のある山腹に取り付く所には標識はないので、住民に聞くしかない。最後の住宅も過ぎ農地だけになって川が広がって水を溜めている池みたいなところの2箇所過ぎたところを左に曲がり、川に架かる板橋を渡る。草刈もしていないので草だらけの斜面をモノラックのレール(索道)を横目に見つつ、「もとは道だなあ」と思いつつ約5分上ると、頂上に「井尻←的山峠→芹が谷」標識がある。頂上部の尾根は歩きやすく眺めもよい。井尻への下り道は草もなく快適である。5分下ると平坦な車道に接続する。ここに「井尻峠←→的山峠」標識がある。車道へ出ず細い野良道をさらに行くと井尻の集落内に出る。ここにも「井尻峠←→的山峠」標識がある。
・佐渡交差点、西之宮神社(丸子)サワタリ  
 古代官道はこの西之宮神社から東は清見寺方向、横砂の盧崎神社イホサキにまっすぐ突き当たるようだ。佐渡山は古墳群で、縄文や弥生期からの遺跡が出土する。
 創建不詳、再建明和三年。「遷宮記念碑 昭和60年」、石鳥居「明治22年」、石灯籠、「庚申塔」3「大正九」「昭和55」、今の国1と近世東海道が丸子方面へ分岐する所。
・福泉寺(手越14)   
 石塔類。徳川秀忠の付き人の墓もあるなど由緒がある。
・手越原交差点   
 長田西中学校のある今の国1と近世東海道が手越及び市中へ向かう分岐点
・国1:佐渡交差点、手越原交差点から安倍川を渡る駿河大橋手前まで  
 国1は直線状に西から東にむかっており、もしかすると古代東海道に一致するのではと思う。駿河大橋で安倍川を渡るとき道がやや北向きになるので、古代東海道は安倍川で南のJR線路をまたぎ駅南の南安倍3丁目に至るようだ。ただし安倍川がここを通るようになったのは、家康が駿府に隠居し、薩摩土手を築いてからなので、中世までは藁科川が流れていたし、安倍川はこれより東を幾筋かの分流になって流れていたはずである。
・南安倍3丁目、八幡神社(南安倍1丁目8)  
 ここからJR線路と南のカネボウ通りの間を東に向かえばよいが、正確なルートは不明だし、この辺りで古代東海道をしのべるものはない。
ただ線路北にすぐ見える1丁目の八幡神社がある。(古代とは関係なさそうだが周辺紹介として取り上げる。これからもそうしていく。)中世の源氏関係者により創建されたと推定される。地蔵堂:地蔵「昭和二十八年」、祠、板碑、石塔、与九郎稲荷の由来、義僕八助施義の碑:八助は暇を出されても主家に使え再興に尽くし評判を呼んだ。
 線路南を東へ向かう。   
・神明神社(宮本町9)  
 この神明神社の付近を東西に官道は貫いていたと思われる。
 創建不詳だが延暦三(784)年再建で1200年以上続くと思われる。手洗石「文化十一」、庚申塔2基「明治十三」「天保十一」、板碑、石塔類。
・聞信寺(宮本町11) (周辺紹介)  
 山門、庭、石塔、墓といったものはなく、モダンなというかビルそのものである。寺とは思えない。
・蓮久寺(南安倍1丁目8) (周辺紹介)  
 山門、庭、墓といったものはなく、街中の狭い1軒屋に見えるが、寺名の石碑が出ていて判別できる。
・兵庫浜地蔵尊(黒金町29) (周辺紹介)  
 元は南安東にあったがここに移転された。悲しい母子伝説がある。川を汚してはならぬ決まりだが、汚している妊婦がいて、とがめられ切り殺された。その妊婦とお腹の子を供養したものである。句碑、板碑、地蔵10基。
・山王寺(馬淵3丁目17) (周辺紹介)  
 石塔8基:江戸期、地蔵。道元と老翁の問答像。
・津島神社(馬淵3丁目15) (周辺紹介)  
 創建不詳、再建文化二年、樹木:樹齢300年以上、手洗石・石鳥居・石灯籠:近代。
・伊河麻神社(稲川1丁目10)   
 創建:白鳳四年、手洗石「寛政十二」、樹木:1本、800年以上?。北辺りを官道が通っていたかも。
・崇福寺鯖大師(稲川1丁目3) (周辺紹介)  
 古い石塔類。
・千勝浅間神社(稲川1丁目2)   
 創建不詳。狛犬(市指定文化財)「正和二」:直接見られない、境内にある狛犬は近代の物。手洗石:さざれ石で平安鎌倉期推定。この神社の北か南を官道は通っていたはず。
・軍神社(曲金2丁目7)   
 日本武尊伝説があり、ここで東征のおり戦勝祈願したという。樹木:樹齢800年以上?。石塔類:近代、板碑。
もしかすると北を通る線路南の江戸時代東海道は官道と一致するのかも。神社は古代官道の脇にあり、東征軍の陣か休憩地か。横田駅家との関連性だ取沙汰される。横田駅家だったかもしれない。
・法蔵寺(曲金2丁目7) (周辺紹介)  
 石塔類多し、「背くらべ」作詞者海野厚墓、千日地蔵、他いくつか、平澤観音道道標。近くに梶原一族の馬頭観音。
・龍泉寺(曲金2丁目8) (周辺紹介)  
 石塔。
・曲金北遺跡、JR東静岡駅・グランシップ間歩道、古代の官道:東海道(曲金6丁目8)   
 JR東静岡駅南口からグランシップに向かう歩道に説明看板あり。道幅9mの歩道が古代官道の幅を示し、周囲の植え込みが側溝を表すよう、分かりやすく歩道が作られている。官道は地下に保存されている。道はほぼ東西にまっすぐで歴史学者等の推定どおり発掘された。官道はまっすぐ東に向かうようだが、そのものずばりの道が現在無いので付近を東進する。
・神明神社(栗原276) (周辺紹介)  
 手洗石「萬延元年」、石鳥居・狛犬・祠:近代。
・江戸時代の東海道記念標識(栗原38) (周辺紹介)  
 線路の地下ガード手前にある。本来は踏み切りで向こうへ越すのが正しいのだろうが、少し位置を変えて地下ガードでくぐれるようにした。
・津島神社(中吉田41-10) (周辺紹介)  
 創建不詳、修造文政六(1823)、樹木1本:樹齢200年、手洗石「天保六」、常夜灯の脚「文政六」、石鳥居「」平成七」、「東源台小学校開校記念 平成七」、「やぶきた茶発祥地記念碑」。石灯籠:近代。
・普済寺(中吉田33) (周辺紹介)  
 石塔類:「庚申塔」など。
・東光寺(清水区谷田9) (周辺紹介)  
 石塔類、江戸期東海道に面する。
・谷田宮の後公園、熊野三柱神社、古墳(谷田26)   
 円墳がいくつかある。古代官道を見下ろす、または道から見上げられる位置にあったはず。
・鳳林寺(中之郷101) (周辺紹介)  
 石塔類:江戸期。
・桜井戸、桜井戸灸(中之郷425) (周辺紹介)  
 庚申塔4基、水神、板碑。桜井戸は清泉湧出していたが安政地震で減水、周辺開墾で枯渇し消滅したが記念碑を建立。桜井戸灸は倒れた行者を介抱しお礼に灸を教えてもらい人気になった話である。
・熊野神社(中之郷430) (周辺紹介)  
 手洗石「弘化五」、市指定保存樹木:楠:樹齢700年以上。薬師如来、新駿河十二薬師第八番札所、閻魔大王。稲荷・祠・手洗石・石灯籠:近代。この神社南の道が官道残存部と考えられ、この道をまっすぐ東に向かう。
・ひょうたん塚公園、前方後円墳(草薙20)   
 古代官道を見下ろす、または道から見上げられる位置にあったはず。
・冷泉寺(草薙175-1) (周辺紹介)  
 石塔類:江戸期。
・草薙神社(草薙349)   
 日本武尊伝説。日本平で火責めに遭うが、草薙の剣で薙ぎ払い難を逃れたという。その草薙剣を納めたという。道からは数km離れている。
・妙盛寺(草薙1973) (周辺紹介)  
 石塔類。
・春日神社、八幡神社(七つ新屋一丁目7) (周辺紹介)  
 春日神社:創建慶長期、八幡神社:創建安土~江戸初期、市指定保存樹木:楠。板碑・石灯籠・手洗石:近代。
 草薙の熊野神社前からこの神社までの東西を貫く道は官道残存部なのだろう。文化財級の道である。この先、東にはまっすぐ進む道はなくなるので、紆余曲折しながらも矢倉神社をめざす。ガイドにはこの北に見える新幹線高架ガードである。一定の距離で東に進めば間違いはない。
・八幡神社(吉川43) (周辺紹介)  
 本来は吉川館にあった氏神だが、当地に移転した。創建不詳、市指定保存樹林、石灯籠「文化三」、日待ち太鼓保存会、板碑、境内の2/3は線路で消失。市地域登録文化財(石造物)第1号・旧鳥居・寛政元(1789)吉川氏の由来等のことを書き付ける。昭和59年に書写された石鳥居が現在建つ。
  静鉄線狐ヶ崎駅裏にある。駅前が江戸期東海道であり、吉川という地名がいかに南北に長いか分かる。ここが吉川の南端である。岩国城主の大名吉川氏は参勤交代の度にこの神社に参詣し寄付をしていったといわれる。かつては境内はもっと広かったが、線路や駅舎にとられたという。かつて吉川氏というスポンサーがいたからなのか羽振りがよかったのだろう。地域が広いのもそのためか。
・達磨寺(追分四丁目273) (周辺紹介)  
 達磨を陳列してある。
・乳母が池、一本松、延寿院(追分四丁目2311) (周辺紹介)  
 伝説の残る池と石塔、お堂がある。追分と国1を結ぶ広い新道脇に見える。延寿院管轄のお堂になるらしい。
・春日神社(追分三丁目5) (周辺紹介)  
 創建:伝鎌倉期、手洗石・祠・石灯籠:近代。隣は近世東海道に面する延寿院である。ここから近世東海道の追分羊羹本店の赤のれんが見える。
・珠林禅寺(渋川544) (周辺紹介)  
 ショッテケ地蔵:狐にだまされた愉快な伝説である。馬頭観音「明治十七」、六地蔵・新。
・国1を渡る官道   
新幹線高架ガードと国1がクロスするすぐ東の北脇交差点を北に渡り東に曲がる道がある。これが官道残存部ではなかろうか。ちょうど新幹線高架ガードと並行していて今の都市計画の区画整理の思惑と一致し拡幅され、東に延伸することになり、結果として官道を甦らせることになったようだ。
・三島神社(馬淵3丁目15) (周辺紹介)  
 創建不詳、再建宝暦十三(1763)、伊豆一ノ宮三島大明神を遷した。石鳥居・石灯籠・狛犬・手洗石:近代。
・金剛法寺(渋川2丁目16) (周辺紹介)  
 石塔類:江戸期。寺の南を東西に通過する道路がたまたま官道残存部になるようだ。
・渋川館(渋川1丁目10) (周辺紹介)  
 中世豪族で梶原一族を討った駿河地侍一派の渋川氏の館の土塀の一部が残存している。 なんてことないちょいとした高さ5mの丘で茶畑になっているのだが、これは人為的に積み上げた土塀の跡のごく一部が残存したのである。説明看板はあるが、古びてまったく読めなくなっている。
・官道ルートを矢倉神社へ  
 官道は東に進みつつも徐々に北方向へ向かうというより、今の道が東に進むようでやや南へ曲がるというべきか。北脇新田から渋川にかけて新幹線ガードのすぐ南を平行して東をめざすのが、官道ルートに近いのだろう。金剛法寺のすぐ南の道を東に目指す。清水インター取り付け道路に出て清水東高前で直進不能となる。やや北の北街道へ出れば矢倉神社はすぐだ。ちなみに地図で確認すると、東高を貫いて直進すると矢倉神社にヒットするようだ。新幹線南の平行道路は官道ルートと一致するような気がする。高橋の辺りは以前この東西向きの道はまったく無かった。巴川河口付近の氾濫源のため、もっとも早く条里制が崩れ、官道も消失したのだろうか。
・矢倉神社(矢倉町5)  
 古くから神社があったことは確実である。日本武尊東征に関する伝説がある。軍の兵営地か武器庫だったという。この神社はこの周辺の要であった。
 手洗石「文化五」、猿田彦大神、手洗石「紀元2600(昭和15)年」、石灯籠「大正九」「紀元2600年」、板碑多し、合祀される神多し。祠多し。
・矢倉の辻、古代官道、中世北街道(矢倉町6-1)  
 神社のすぐ北の路地前に「矢倉の辻」の標識が出ている。この路地はいかにも古道ぽく、いつもなら古道だと喜ぶが、今回の官道は幅広で直進という近代的道路と共通項がある。そうなると中世北街道とされる、その北の五差路の右(東)、一方通行の出口になっている道がやはり官道ルートに似つかわしいのではなかろうか。この道はまた新幹線ガードと一定距離で並行して東進する。新幹線ルートを決める人の決断ともたまたま一致したようだ。
 この古い道が現代によく残っていたものだ。文化財級であろう。しかしこの道も古代道路とは一致しないらしく、別の道があったらしい。
・墓地(西久保345) (周辺紹介)  
 ひげ題目「法界 弘化二年」、石塔2基、地蔵、祠。
・子育観音(天王さん) (袖師町365-3)    
 祠、石仏。
・真如寺(袖師町365-3) (周辺紹介)  
 地蔵、金比羅宮、「庚申塔」、「金光明一千部供養塔」、岩松地蔵。
・旧北街道と国道1号線合流点(横砂西町11、12)  
 庵原川手前で国1に出て、北街道は終点となる。川に出る直前で道は曲がるが土手ができたため直線道路を曲げたのだろう。古代・中世には直線だったろう。
庵原川手前で近世東海道(今の国1)に合流する。横砂や興津でも近世と中世や古代の東海道は微妙に違うのだろうが、今のところはっきりしたルートが分からない。
・尾羽廃寺跡、庵原郡郡衙関連 
かつて廃寺周辺は郡衙だったかもしれない。
・東光寺(横砂本町20) (周辺紹介)  
東進すると寺がある。ここからは近世東海道紹介ともなる。
 六地蔵、手洗石、「青面金剛童子 嘉永七」、「萬霊塔」、石塔2基。ウスカンザクラ、新・観音多し。
・盧崎神社(横砂本町29)イホサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
 おそらくこの神社を西の西ノ宮神社から目指して古代官道は達したのだろう。
 「盧」の字はイホと読むが漢和辞典ではロと読む。
・延命地蔵堂、秋葉山常夜燈(横砂東町24) (周辺紹介)  
 近世東海道紹介。風情がよい。隣のコンクリート製建物も近代初期建築風でレトロ。近世東海道はここから近代の国1を離れより海岸線に近い細い道に入る。前方にJR東海道線の踏切があり渡る。ここから左を見ると国1のある所は丘上になるので、平坦な下の道が東海道なのが分かる。川を渡ると興津である。
・清見神社(興津清見寺町428) (周辺紹介)キヨミ  
  創建不詳、再建:文化三(1806)年、元は浅間神社と称していた。手洗石2・石灯籠2・石鳥居・狛犬:近代。板碑。祠。力石。
・瑞雲院(興津清見寺町420)  
 805年本尊如意輪観世音菩薩。性海庵の湧水ショウカイヤ。石塔多し。ウスカンザクラ。句碑、板碑。新・石仏。
・清見寺(興津清見寺町418-1)  
 奈良期に関所が作られそれを守護する仏堂から寺に発展した。鎌倉期1264年に足利尊氏が再興した。朝鮮通信使関連史蹟。家康手植えの臥竜梅、五百羅漢、石塔類多し。

*参考文献 
・「曲金北遺跡跡 第2・3・5・9次発掘調査報告書 静岡市埋蔵文化財調査報告」2008 
静岡市教育委員会




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Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:01│Comments(0)古道
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