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2016年06月05日

金谷街道(静岡県島田市、菊川市、牧之原市)


・前文
*住所地は目的地を探すためのものなので、分からない時は附近のものを指し示すことが多い。
*未発見や誤解曲解している箇所が多いと思われるので、コメントをいただくか、その人なりの発表方法で公表していただけると、ありがたいです。
 特に牧之原台地上での発見できた石造物の少なさは、気になるので、まだたくさん未発見物があると思われます。公表されることで保存へ弾みがつくことでしょう。

~金谷街道(静岡県島田市、菊川市、牧之原市)~
現地調査:’16 4/9,10,16
~『定本静岡県の街道』より~
金谷街道は牧之原市仁王辻から島田市金谷宿までの道である。しかし今回は変則版として仁王辻から島田市金谷の諏訪原城や島田市菊川の中山新道、遠江三十三所観音霊場24番から25番への霊場道に接続するまでを紹介する。
 
 仁王辻附近の牧之原小学校・中学校門前の東照宮からスタートする。
○東照宮神社(牧之原市東萩間2082⁻13)
 ・説明:徳川家康公座像:牧之原市指定 工芸品:1869明治2年徳川の家臣、福井某等20名が牧之原に移住の時江戸から持ってきて、菊川町沢水加に神社を建てて御神体とし、1942昭和17年に現在の位置に移された。座像の開眼主は日善、日宗吉、大仏師、尾崎義定と書かれている。
・コンクリ石柱2、・狛犬2、・手洗石:大正四、・石鳥居:昭和十七年、・?基準点:測量用、
 ちょうど学校の正門前に神社があり、駐車場もないので正門横に乗り付け隣の神社をうろちょろすることになるが、何かしらの学校行事があるらしく、校舎の曲がり角で先生らしきが出入りする自動車を案内している。その先生が明らかに不審者として私の方に注目しているので、はやいとこ調べてすたこらさっさと逃げてきた。毎度のことながら私は不審者です。
 次は同じ地区の八十原観音を見たいので、学校前を北に出て右折(東)し300m東進し、右折(南)し400m南進する。
○八十原観音(牧之原市東萩間、八十原2092) 
 ・堂、・石碑:礎2000、・手洗石、・手洗石:明治九子年、・献燈2、、・フジ棚、
 再度牧之原小学校前の交差点に戻る。北西の丸顔橋を渡り交差点に出る。ここに馬頭が祀られている。
・馬頭観音:明治三十二年五月立承(東萩間、仁王辻2360⁻1)
 1.4㎞北上する。現在沢水加から上ってくる県道掛川榛原線がある。
 この坂道の途中に戦争遺跡がある。下りだして1.1㎞、上りだして300mである。
・大井航空隊洞窟(菊川市沢水加)
 県道から沢沿いに30m歩くと洞窟がある。どうも防空壕として掘られたようだ。牧之原台地の布引原には大井航空隊基地があった。
 再度国道473号線に戻る。国道を北上するか、1本東側(100m先)の道に出る。600m北上して矢崎部品工場:布引原、矢崎206⁻1とスーパーマーケット:220⁻3の間で右折する。種苗管理センター金谷農場と谷地の間の道に右左折を繰り返して出る。出るとそこからは住宅が切れて茶畑の細尾根道を南東に道なりに500m進む。
左に標識:勝間田城跡→があり、左折(東)し茶畑を200m進む。ここで車は進めない。あとは歩きで進む。300m山道を下っていくと城跡を示す標識が出てくる。
○勝間田城跡(牧之原市勝田2160⁻1)
  ・説明:静岡県指定史跡:勝間田氏は、当地方を拠点とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌抄」を編纂している。元弘の乱1331には、河内(大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録に見える。
 室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱1399や永享の乱1439に活躍し、応仁の乱が起るや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に1476文明8年ついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられる。
 応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は、中世の代表的山城で、牧之原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。
 ・説明:勝間田氏について:勝間田氏は平安末期から室町中期まで約340年間この地方を領有した豪族である。勝間田氏が史上に登場してくるのは『保元物語』からである。
『保元物語上』に
「義朝甲の緒をしめ、即うちいでけるが、義朝馬をひかえて紅の扇を開つかいて申されけるは………相随ふ輩は誰ぞ………遠江國には横地、勝田、井八郎、駿河國には………とあり、時は保元元年1156のことである。」
 平治の乱後、『吾妻鏡』に勝田平三郎成長かつまたへいさぶろうしげながというものがでてくる。成長は治承5年1181壬2月安田義定の招集に応じて史上に現れ鎌倉幕府の御家人やまた玄蕃助げんばのすけなどにもなり、以来建久6年1195まで15年間活躍した。その後健保4年1216源実朝が送った宋使節団の一行に勝田兵庫頭かつまたひょうごのかみが参加している。
 建長2年1250閒院殿造営のため京に供出される材木等の分担目録の中に勝田兵庫助かつまたひょうごのすけの名が見える。鎌倉末期に参議冷泉為相の門下となった勝田長清は17300余首の歌数を収録した『夫木和歌抄』を編纂し、「下萩もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月」「置く露は袖にこぼれて夕暮れの萩の上葉に残るあきかぜ」等の秀歌を残している。
 南北朝期に入ると、勝間田氏は再び史上に現れる。元弘元年1331足利尊氏に従った勝間田彦太郎入道や赤坂城の攻防で有名な楠正成に従った勝田左エ門尉直幸等が見え、南朝方、北朝方の双方に分かれて活躍していたことが分かる。正平3年1348足利尊氏は諏訪神社の笠懸の神事を行い射手に勝田能登守佐長、勝田二郎丞長直等がこれに参加している。勝田氏は足利義満の代になると、次第に中央に進出し奉公衆となり、文中元年1372勝田三河□太郎や勝田修理亮は、将軍の近習となり幕府の役人として活躍した。
 室町初期の応永の乱で今川泰範の軍に加わった勝間田遠江守は、丹波の追分の合戦で討死にしている。応仁の乱で全国的に動乱化した中で、国人として生き残る道を探していた勝間田修理亮は、横地氏とともに今川義忠軍と戦い敗れ、この結果勝間田一族は四散した。
 その後明応5年1496勝田播磨守が志戸呂の城主鶴見因幡守とともに城飼郡松葉城を攻め落としたが、これより後、勝間田一族は史上から姿を消してしまう。このように340年間もの長きにわたって当地を根拠地として活躍した勝間田氏は、中世の末、当地から姿を消してしまうが、敗亡当時の城と思われる勝間田、湯日、穴ヶ谷、滝堺、飯田等の城跡の他榛原町道場の清浄寺の裏手の供養塔や坂口の石雲院、中の長興寺また桃原の瑞昌院等には今も勝間田氏の位牌が残されている。
 ・説明:礎石建物:自然石の平坦面を表にして据え、これに柱を立てた建物。縄文時代以来の竪穴住居建物とは違い、寺院や宮殿等長年月の保存を必要とするものに限って、礎石の上に柱を立てる建築法が用いられた。
 二ノ曲輪には、11棟の掘立柱建物跡と1棟の礎石建物跡が確認されている。中世の山城で、礎石を持った建物が確認されたのは非常に珍しく、当時どのような用途に使われたのか興味あるが、礎石を使った理由として、床張りで重量物例えば、兵糧米等を収納していたことが考えられる。この建物の周りには、溝が廻り、出土物としては、すり鉢、青磁、白磁、染付、天目茶碗等種類、内容とも豊富な食器が発見されている。この建物は、勝間田城の兵糧庫または貯蔵庫等の用途に使われ、城の中でもとても重要な建物だったと考えられる。
 ・説明:掘立柱建物ほったてはしらたてもの:土台を設けないで、直接に地面を掘って柱を立てた簡単な建物。縄文時代から弥生時代を経て、古墳時代を過ぎ奈良、平安時代まで一般の住居の基本だった竪穴住居が、生活様式の変化から掘立柱建物に変わっていた。
 勝間田城跡の建物は、掘立柱建物がほとんどで、二ノ曲輪には11棟の掘立柱建物跡が確認されている。1棟の規模は平均2間×3間で、柱穴の深さは40~50㎝、穴の直径は20~25㎝だ。建物跡を掘ると、当時使われていた皿や碗、擂鉢等の食器のかけらが沢山出てきた。また建物の周辺には鉄釘や鎹カスガイが出土し、当時掘立柱建物の周辺を垣根や塀等が囲み、建物と建物を隔てていたことが分かる。特に麻ひもに通された二十数枚の銅銭(中国銭)は、当時ここに居住していた人々の所持品できっと貴重品だったに違いない。人々の暮らしぶりを垣間見る一品だ。
 ・説明:掘立柱建物:この掘立柱建物跡は、東西3間(5.7m)×南北3間(4.2m)の規模を持つものだが、それほどがっしりした建物ではなく、屋根も草葺きと考えられる比較的簡単なものだ。土塁等の在り方から見て、西三ノ曲輪と「馬洗い場」との間に出曲輪方向からの出入口の存在が想定され、この出入口を守る見張小屋的なものではないかと考えられる。なお多量の炭化物や焼土の在り方から見て、この建物は火災を受けている可能性がある。
 出土遺物は、土師質土器、陶磁器等が出土しているが、いずれも破片で、器形の分かる物はわずかだ。また銭貨(至大通宝)が4枚出土している。至大通宝は中国の元の時代のものであり、1310年からの鋳造とされる。これら勝間田城跡からの出土品は、牧之原市榛原郷土資料館に展示してある。
 ・石碑:城跡寄進の碑:故村松半之助氏は郷土の豪族勝間田氏の城跡の亡失破壊を惜しみ、これを後世に伝えようと大正12年私有地1反歩を勝間田村に寄附をした。これにより城跡の本曲輪が確保されたばかりでなく城跡保存の気運を生み永く郷土の史跡として伝えることができた。
・歌碑:藤原長清:下萩もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月:玉葉集巻十四雑一、
・石柱:勝間田城址:大正十三年、・献燈2:昭和五十年、・コンクリ手洗石、・祠:神社、・石碑:勝間田城跡:昭和六十一年、
・南曲輪、土塁、堀切、本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、西三ノ曲輪、出曲輪、
再度矢崎部品工場前まで戻り国道473号線を600m北進する。
○西光寺(嶋956⁻3) 
 ・きく地蔵:平成19年、
 国道を100m北進する。途中で県道菊川吉田線を横断する。
○大国神社(嶋955) 
 ・石鳥居:昭和三年、・鐘、・手洗石、・石柱、・コンクリ石柱:昭和十二年、・コンクリ石柱2、・献燈2、・石柱:横倒し、
 国道を300m北進する。落合刃物とアイアンドエム(株)の間の道を右折し30m進む。
・馬頭観音3(切山2968⁻1) 
 刻字は磨滅して読めない。所在地は後記、高塚氏より知った。
 国道に戻り100m北進する。左に狭い土道が見える。
・六尺道路:県道菊川吉田線の旧道(菊川市倉沢1706⁻3:高塚氏宅と1706⁻1:鈴木氏宅の間の道)
 この道がどうも現在の県道菊川吉田線の旧道にあたるようだ。土道は300mほど続くが、その先で国道473号線バイパス用地になって消滅したようだ。以前は先で坂を下り、県道吉田大東線につながっていたようだ。高塚氏談。高塚氏に感謝いたします。

~~~県道菊川吉田線~~~
 金谷街道は北進するが、ここで県道菊川吉田線を進む。国道473号線の交差点からスタートする。坂を800m下っていく。途中頭上を国道473号線バイパスの高架橋がよぎっていく。
 右に上っていく廃道化したコンクリ石段がある。
・かつての、高野山弘法大師堂跡地(菊川市沢水加1406⁻33) 
  現在は移転したか廃止したかであるようだ。頭上は先ほどのバイパス高架橋である。
  さらに100m下ると大きく左カーブする。ここにかつての六尺道路は下ってきたようだ。
 更に300m西に進む。右(北)上に祠がある。
・祠:神(倉沢、下倉沢)
 100m西に進む。右に祠がある。
・祠:馬頭観音か、布に覆われて姿が分からない(倉沢、下倉沢) 
 300m西に進む。左上に祠がある。
・石祠:道祖神、・献燈(倉沢、下倉沢)
 道はこの先、吉沢を通過し、途中和田から沢水加に向かう県道とも交差し、菊川駅前に達するが、金谷街道の周辺ということでここまでにする。
~~~~~~
 国道473号線六尺道路前に戻る。200m北進し、左(西)120m先に六本松の公園と集会所、そして神社がある。
・神社(菊川市倉沢、六本松698) 
 国道に戻り2㎞北進する。猪土居交差点を過ぎ70m進むと右に入る小道がある。猪土居公民館と公園があり、神社もある。
○津島神社(島田市金谷3509) 
 ・コンクリ石柱2、・石鳥居、・手洗石:平成二年、
 国道に戻り600m北進する。右折(東)し100m先に農業用水タンクがある。
・石碑:疎水:平成十年(島田市金谷3272⁻5) 
国道に戻り、国道を渡り、北200m先を目指す。
○お茶の郷(金谷3149⁻1) 
 ・小堀遠州式日本庭園、・御茶室、・茶関係資料室、レストラン、・土産物、
 ・説明:小堀遠州1579~1647は、京都御所や駿府城を始めとする、江戸幕府のかかわる主だった建築工事の作事奉行を勤めて活躍した。また茶人としてもよく知れレ、島田市金谷の志戸呂窯は、遠州が諸国に好み道具を焼かせた、いわゆる遠州七窯の一つである。
 そのゆかりをもって、ここに小堀遠州が営んだ庭園と建築が復元され、遠州の「綺麗さび」の世界が合成的に再現されている。
 大きな①中の島を築いた築地を中心におく庭園と②築地を隔てて塀沿いに設けられて、『伊勢物語』にちなむ⓷八つ橋の流れに、寛永11年1634遠州が後水尾院の仙洞御所の東庭に作庭した姿を復元する。自然と人工、直線と曲線といった、反響的な要素がここには鮮やかな対比の中に融和しており、また平安時代の王朝文化を憧憬する趣向豊かな構成に遠州の庭園の特色が示されている。⑤書院・⑥鎖の間・⑦茶屋・⑧数寄屋からなる茶室は、書院部分に遠州が親交していた松花堂昭乗のために建てた、京都石清水八幡宮滝本坊の書院を復元して組み込んでいる以外は伏見奉行を勤めた遠州が、寛永2年1625奉行屋敷に営んだ座敷の一部を復元している。書院・鎖の間・数寄屋という3様の茶室を連ねるのは、真・行・草の茶の湯を一体的に展開した遠州の茶を反映している。書院・鎖の間の室内は、 塀や欄間・金具にいたるまでことごとくが意匠されており、この遠州において数寄屋造りとして、日本住宅におけるインテリアが、総合性をもって大成されたことが知られよう。
 ここには江戸時代初期の寛永文化の粋が凝縮されている。

 国道に戻って進む。左カーブしつつ北へ進むと、道は右下の金谷中心街へ下る道と、左上に進み牧之原台地状をなおも進む北進道に分かれる。今回は左上道を選ぶ。というのは金谷街道は本当は右下道がメインである。しかし今回は台地状をもっと北進したいためである。
 右上道を進むとお茶の郷の東側に公園がある。
○牧之原公園(金谷3120) 
 ・石碑:記念碑、・栄西像、・石碑2:合一之碑、杉山賞記念、・新:石畳、
 直線距離150m、道の距離450mで東下に富士見展望広場がある。
 また牧之原公園から道を西に横断するとお茶の郷の庭園入口になる。
 牧之原公園からスタートしカーブする道なりに1.4㎞北進する。
○石碑、道しるべ(菊川?金谷1738₋2) 
 ・芭蕉句碑:馬に寝て残夢月遠し茶の烟、・明治天皇御駐輦阯、・道しるべ類
*注:輦レン、人の引く車、天子の車、鳳輦ホウレン、
  北30mに旧東海道の金谷坂の石畳があり、上りきった所に石仏類がある。
○石塔類(金谷1738₋2)   
・祠:三面観音、・地蔵、・馬頭観世音、・石塔、・九十丁目 濱浜川上古右まつ
・旧東海道:金谷坂:石畳道 
 ・説明:この石畳道は江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると云われている。近年わずか30mを残す以外はすべてコンクリート等で舗装されていたが、平成3年町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元された。今街道の石畳で往時をしのぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の3か所だけとなった。
・旧東海道ルート 
ここから先の北進する道は旧東海道である。と言っても自動車用に拡幅され舗装されている。しかしルートは東海道そのものであろう。
 400m進むと広い県道吉沢金谷線に合流する。その手前右に城跡入口がある。
○諏訪原城跡(島田市菊川、牧之原1172⁻1) 
 ・説明:諏訪原城は武田勝頼、徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代の過程を理解するうえで重要な遺跡として国史跡指定された。
 当城は天正元年1573武田勝頼が東海道沿いの牧之原台地上の金谷台に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍艦』等に記されている。城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」の名がついたと云われる。この城は大井川を境として駿河から遠江に入る交通、軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(掛川市)を攻略するための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担った。
天正3年1575に、徳川家康によって攻め落とされた後「牧野城(牧野原城)」と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための陣城(攻めの城)として活用された。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請等度重なる改修が行われたことが記されている。天正9年1581に、高天神城が落城し、翌年武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなった。その後徳川家康が関東に移ったことから、天正18年1590頃廃城になったと考えられる。
・説明:諏訪原城跡:国指定史跡:諏訪原城は天正元年1573武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として金谷台に築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害であった。
 遺構は、本丸、二の丸、三の丸、、大手郭帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の8郭から成る特徴のある縄張により配置形態のうえから扇城とも呼ばれた。自然堀と人工の大小堀が13本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祀ったことから諏訪原城と呼ばれたが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。
 ・大手口:城の表玄関に当たる所、・十二号堀:半月状水堀で三の丸を守る、長さ89.7m、幅15.3m、・壁立:壁立とは壁の如く切り立った構造を言う、特に堀と堀との直結した間隙に構え堀を伝っての直接の敵の侵入を防ぐためのもの、・三の丸:この茶園一帯が三の丸、二の丸に次ぐ一郭で食糧、武器、弾薬庫を備える重要な所、・カンカン井戸、・十五堀:規模:長さ31.0m、幅6.0m空堀、・十六号堀:規模:長さ90.0m、幅6.0m空堀、・搦手口:搦手外郭は食料、衣料、飲料水、武具等の運送に使われた主要な役割の地点、一般家庭での勝手口、裏口に相当、・天守台地:この城は山城で天守閣はなく、二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐して敵の動きを監視していた、・本丸跡:本曲輪:城主の居住する所で軍政を司る所、・本曲輪虎口、・六号堀:長さ85.0m、幅14.5m空堀、この堀切は城内に谷沢(東沢)が続き自然の地形(谷沢)を利用した堀、・五号堀:この堀は三段堀といい底部は三段になっている、これは甲州流の特徴の一つで階段状になることで敵の侵入に足あり、珍しい構の空堀、長さ40.0m、幅13.0m、・二の丸:副将またはそれに準ずる武士の詰所で武器保管や他の城からの来城者の控所、武士の家屋敷もあった、・大手外丸馬出、大手曲輪、・大手南外堀、・大手北外堀、・二の曲輪大手馬出、・外堀、・二の曲輪南馬出、・二の曲輪東馬出、・二の曲輪東内馬出、・水の手曲輪、・内堀、・二の曲輪、・二の曲輪中馬出、・二の曲輪北馬出、・本曲輪、・出曲輪、・惣曲輪、・武家屋敷跡、
・墓石3:明和四年、五年、・墓石3、
・単制無縫塔4:明和、・手洗石:明治□年、・墓石3:安政二、寛延元、・祠:地蔵2、五輪塔、観音「七十番」、
諏訪神社
・板碑:諏訪原城跡県指定史跡昭和二十九年指定、・石鳥居:昭和三十四年、・庚申塔、
・石碑:今福浄閑戦死墓塚:武田方当城主、
 旧東海道は県道と交差し横断すると、向こうは菊川坂入口となる。
・菊川坂(島田市菊川、牧之原1172⁻1) 
 ・説明:菊川坂と金谷坂:江戸時代、東海道を行きかう旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしたいた。このため近郷近在からの助郷役により石畳を敷いて旅人の難儀を救ったと云われている。この故事にちなんで菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再びよみがえらせた。
 菊川坂は21世紀の幕開けの事業として平成13年静岡県内の東海道21宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち500名を超えるみなさんの力で道普請に着手。平成12年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約700mの石畳が完成した。
金谷坂は町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって平成3年子供たちからお年寄りまで500余名の町民の力で道普請に着手、翌年3月400m余の石畳ができた。江戸時代後期の石畳そして平成の道普請のよりできた石畳に、それぞれ、昔の旅人へのあるいは平成助郷役の人たちへの思いを馳せながら、この石畳をかみしめてください。

 菊川坂入口から東海道ではなく、県道を150m北進する。道祖神がある。
・石祠:道祖神 
 250m北進すると現在の県道島田金谷線と交差し、ラブホテルがあり、この峠を割石峠という。
・割石峠、中山新道(島田市菊川371⁻16)  
 そしてこの峠道(東西に横断する県道島田金谷線)はかつての旧国道1号線で、その前は日本初の有料道路、中山新道である。この峠に石塔がある。
・石仏:南無阿弥陀佛、自然石3(島田市菊川371⁻16) 
 この交差点を横断し北に500m進み茶畑を200m西に進むと、遠江三十三所観音霊場道の24番と25番への巡礼道と合流することになる。
・巡礼道:遠江三十三所観音霊場24番←→25番 
 
ここで今回の金谷街道:変則版を終える。

・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年
 ・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、静岡新聞社、’05



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