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2012年07月10日

☆VHS『歴史の道』日本通信教育連盟 全10巻

☆VHS『歴史の道』日本通信教育連盟 全10巻
 私も『古道を行く』という本を出版し、古道マニアの一人として、このようなビデオがあることはうれしい。とりあえず北海道から沖縄までにある古道をビジュアルに紹介した功績はあろう。この目で古道の一端を見られてうれしい。そしていつの日にかそこに自分がいることを念じていた。今後さらに古道はメジャーになっていくだろう。
映像内の浮世絵や写真が3D画像になり立体感が得られる。「アバター」より古いものなので、多少立体感は落ちるが、ごく初期の試験作品として、技術開発途上のものとして楽しめる。

○・VHS『歴史の道  第1巻 北海道・東北』55分 
・旧福山街道:松前町(福山)から松前半島の日本海沿岸沿い北上檜山郡上ノ国町に通ずる。中世北海道歴史資料勝山館遺構等残る。上ノ国~赤坂~虎ノ沢~松前(福山)~函館。
 虎ノ沢:昔はヒグマが見られた、幕府の巡検使が羆を見て騒ぎヒグマが虎の如く速く逃げたためといわれる、伝説:十兵衛石:彼が戦って勝てなかった相手。15世紀に和人ともめる、八幡牧野:八幡菩薩祈る、1457年アイヌのコシャマイン軍と武田信広の戦い、コシャマイン優勢だったが最終的に和人勝つ。赤坂:赤土はこの戦いの名残という、足洗川:旅人わらじ洗う、勝山館跡(武田信広館跡)、和人館12、客殿跡、館神八幡宮跡、鳥居跡、空堀、沢から用水でため池へ、3万点陶磁器かなり高い文明、数万点金属品木製品、夷王山、夷王山墳墓群:武田氏柿崎氏墓、大きな和人社会、武士中心、海産物本州必要で和人増加、上国寺: 武田信広菩提寺、上ノ国八幡宮、
・奥州街道:みちのくに通じる重要街道、簑ヶ坂の急坂は明治天皇行幸時近在青年が馬車押し上げたという。54宿。盛岡~簑ヶ坂~三戸~高山峠~五戸~青森~三厩。蝦夷地に通ずる。
 大蛇が簑に化け旅人を引きずり込んだという伝説。標高180m籠立場:岩手青森県境まで100m急坂、明治天皇巡幸記念碑、緩やか下り坂200m一里塚、三戸:南部藩発祥地のち盛岡へ、三戸城復元、宮坂、なだらか単調に続く長坂、一里塚残存多し:所有者不変でそのまま、高山峠H277m、展望名久井岳、長い下り坂、2km先で赤松古木、浅水城跡:南部氏、宝福寺、鳥内坂トリナイ、五戸町:宿場町・代官所、江渡家住宅:寄棟作り・国重要文化財・代官下役、追分石、
・羽州街道:~矢立峠越え~、秋田青森県境の矢立峠(杉峠:天然秋田杉)は急勾配、吉田松陰もその険しさを詩に詠む、碇ヶ関関所では米や物資の移動を厳しく検査した。秋田~能代~大館~矢立峠~碇ヶ関~弘前~青森。
 長走の風穴:気孔冷風真夏10度高山植物H165m、矢立峠H258m難所、矢立温泉、吉田松陰「漢詩」、相馬大作跡地:南部騒動、急な下り坂参勤交代有名人通過、碇ヶ関関所:口留番所:物資監視、遠見番所、下番所・上番所、碇ヶ関温泉入湯規則、
・秋田街道:~国見峠越え~、盛岡城下から雫石、仙岩峠、国見峠を越え秋田城下を最短で結んでいた。平泉藤原氏全盛時代は生活密着重要道。盛岡~雫石~仙岩峠センガン~田沢湖町~秋田、
 橋場宿(雫石町):番所、坂本川沿いに西、南部藩は馬名産地で藩直営牧場、馬買い衆往来、人馬通行為道整備、難所は南部領と秋田領境の南に仙岩峠:「是より南西秋田領」、北に国見峠:「是より北東南部領」で二つは国境山道でつながる、助小屋跡地:相互の荷物を信頼して預ける、盛岡城跡、仙北町、六枚野一里塚(田沢湖町)、田沢湖、
・北国街道:~三崎山越え~、山形県酒田から庄内地方の日本海沿岸沿いに秋田県象潟に通じる街道、県境の三崎山越えは芭蕉他多くの文人墨客が日本海の潮騒を聞きつつたどった峠道。酒田~遊佐~三崎山~象潟~秋田。
 最上川、酒田市、出羽随一港、吹浦海岸、十六羅漢岩:明治初期22体石仏刻む、奥の細道三崎峠、駒泣かせ、坂道、石畳、大師堂1493年建立、有耶無耶の関跡、タブの木、供養塔:領土争い死者、一里塚、象潟:天下の絶景:遠浅海に小島多数、向こうに鳥海山だが1804年海底隆起で陸地、カンマンジ(虫甘)満寺、「象潟や雨に西施がねぶの花」芭蕉、

○・VHS『歴史の道  第2巻 東北』60分 
・出羽・仙台街道:~中山越え・山刀伐峠越えナタギリ~、宮城県鳴子町から山形県最上町・尾花沢市に至る街道、奥の細道での通行している、中山越の先に山刀伐峠越えという難所、最上街道とも、仙台~鳴子~尿前~中山峠~最上~酒田
          ↘山刀伐峠~尾花沢~山形へ 
 鳴子温泉:こけし、尿前の関、松尾芭蕉「此道旅人稀なる所なれば関守にあやしめられて漸として関をこす」奥の細道、源義経を藤原秀平が迎えに来た伝説、コブカザワからオオブカザワへ、境田村、「大山のぼって日既暮れければ封人の家を見かけて舎を求む」芭蕉、封人の家(旧有路家住宅):国境守る役人:土間に三つ厩:「蚤虱馬の尿する枕もと」芭蕉、山刀伐峠:ハケゴという籠を二つに切った形の峠、10km、「高山森々として一鳥声きかず木の下閤茂りあひて夜る行がごとし」奥の細道、27曲がり、子持ち杉、子宝地蔵堂、代官領境、
・米沢・福島街道:~板谷峠越え~、米沢から板谷峠越えで福島につながる街道、米沢藩専用の参勤交代道として利用、板谷峠から李平の旧街道の石畳、米沢~板谷峠~李平~福島、
 米沢城跡、上杉家墓所、御霊屋:国史跡、米沢城下絵図、普門院、上杉鷹山:藩財政建て直し、板谷宿、本陣代わり板谷御殿、大野九郎兵衛の墓:伝説:赤穂浪士が上杉家に逃げる吉良を討つため待ち構えたが来なかったので死んだ、板谷峠H760m、米沢藩だけ参勤交代ここ通過、物資輸送、旧米沢街道石畳、李平宿場跡、李平村絵図、あべ家中心に40戸、人馬栄えたが今草むら、泉安寺跡の墓:森林内廃墟墓地・明治4年廃寺、明治32年鉄道開通・3年後大火で廃村、庭坂宿から先奥州街道合流。
・会津街道:~束松峠・滝沢峠越え~、会津若松から越後新発田へ至る道、海路佐渡に続く、会津若松では滝沢峠・戸ノ口原古戦場、戊辰戦争舞台:白川街道筋にもつながる。
 会津若松、鶴ヶ城、                 
 新発田~束松峠~会津若松~滝沢峠~(白河街道~)白河
                 ↘三春 
会津坂下アイズバンゲ、恵隆寺:仏像・立木観音:千手観音、天屋本名テンヤホンナ:道の左右別名、ホンナには肝煎斉藤家:肝煎は庄屋のこと、上り坂にかつて敷石だったが馬車邪魔で剥ぎ取られてない、地蔵の茶屋跡、石仏、石水槽、三本松、一里塚、束松:天然記念物、先300m束松峠、展望台:会津盆地、
白河街道、会津若松、旧滝沢本陣、戊辰戦争弾痕跡、滝沢峠道昭和40年代復元、石畳、参勤交代、佐渡金山運搬道、十八人之墓、戸ノ口原古戦場、白虎隊、
・八十里越え:越後吉ヶ平と会津、福島県只見町を結ぶ街道。平家追討失敗:以仁王、官軍に追われた長岡藩家老:河井継之助も通った。長岡~吉ヶ平ヨシガヒラ~鞍掛峠~木ノ根峠(八十里峠)~入叶津、26km、一里が10里に相当するといわれた、
以仁王流浪伝説(富士川戦死)、源仲綱墓:伝説(富士川戦死)、吉ヶ平山荘:かつて庄屋椿屋敷、河井継之助:武装中立主張するが賊軍として敗走、長岡城攻防絵図、守門川、八十里越え入る、2時間6.7kmで番屋乗越H895m:番屋は源仲綱設置伝説、空堀小屋跡:宿泊休憩食事、眺望・烏帽子山・岩肌剥き出し、鞍掛峠、小松峰・眺望、「八十里こしぬけ武士の越す峠」河井継之助、木ノ根峠(八十里峠)、庶民交流・生活道、入叶津(只見町):越後交流・越後弁、口留番所跡:会津藩監視用、医王寺(只見町塩沢:、河井継之助墓:北越の蒼き竜 
・下野街道:会津若松から田島・山王峠越えで下野・今市へ向かう道、参勤交代や東照宮参詣道としてにぎわった。大内宿は名高い。会津若松~栃沢~大内峠~大内宿~田島~糸沢~山王峠~今市へ、会津西街道ともいう、 
 栃沢、栃沢一里塚、大内峠、大内ダム:大内沼、地蔵「右若松」石仏、大内宿・本陣跡・参勤交代・回米(扶持米)運搬用・高倉神社、田島・宿駅、糸沢宿・口留番所・戊辰戦争の図・龍福寺:襖逆さ芸州弐番隊、山王茶屋(峠中腹)、日吉神社、山王峠:馬頭観音:H903m、

○・VHS『歴史の道  第3巻 関東』58分 
・陸前浜街道:~十王坂越え~、江戸と水戸を結ぶ実と街道の延長、陸前・岩沼で奥州街道と合流、伊能忠敬も歩いた道の十王町から高萩を行く。水戸~日立~十王坂~十王~伊師~高萩、磐城相馬街道とも、
 鵜の岬:ここで捕れた鵜を岐阜県長良川で使う、十王台遺跡:縄文弥生、十王台式土器:十王町民俗資料館:北関東弥生様式稲作文化、海岸段丘上通過、北方軍用道路の面、奥州街道脇往還、高萩の海見える、(十王町)伊師、一里塚、愛宕神社、馬頭観音:台座「右いぶき山 左いわき道」、長久保赤水:江戸中期地理測量学者・長久保赤水旧宅、伊能忠敬到着10日前亡くなる、  
・日光杉並木街道:日光街道・会津西街道・例幣使街道は世界最長杉並木道、砲弾撃ち込み杉・からかさ杉等ある。特別史跡・天然記念物。古くは樹齢350年、日光街道:宇都宮~大沢~今市~日光、例幣使街道:小倉~今市~日光~大 ~会津西街道、総延長37km、
 日光街道、並木寄進碑:1648年、日光東照宮、大沢御殿跡、今市宿、芋の木杉、砲弾打ち込み杉、神橋、並木寄進碑、
例幣使街道、並木寄進碑、
会津西街道、からかさ杉、
・中山道:~碓氷峠越え~、上州から信州に向かう道に難所:碓氷峠があり境に熊野神社社殿がまたがっている、妙義山・浅間山の展望がよい。碓氷峠関所跡(横川)、坂本~碓氷峠~軽井沢~追分~塩尻、
 坂本宿、「木曽街道69次・坂本宿:英泉」:本陣・脇本陣、碓氷峠、安政遠足トオアシ:安中城から碓氷峠、堂峰番所跡:遠見番所、覗ノゾキ:坂本宿見下ろせる・一茶「坂本や袂の下の夕ひばり」、馬頭観音、はね石坂、なだらか、唐松林、山中茶屋:峠真ん中・寺・13軒、H956m群馬長野県境、石風車、見晴台・眺望・浅間山、遊覧歩道軽井沢、碓氷峠越えは江戸防衛のため、二手橋、軽井沢・沓掛・追分宿、旅籠油屋、分(か)去れの石道標:中山道と北国街道分岐点、
・見沼通船堀:(浦和市)さいたま市、水運の堀、1721年開通、パナマ運河より183年前同一「閘門式コウモンシキ: 水のエレベーター」。見沼代用水路~東縁と西縁を結ぶ水路、下山口新田、芝川、浦和、見沼は広大沼地で干拓で新田、利根川取水口、西縁代用水路、東縁代用水路、4つの水門、江戸との物資輸送、
東縁仮締め切り、今は隣にふるさと歩道、東縁第二の関、東縁一の関、距離390m、芝川、水位差3m、、水門高さ九尺2.7m・板塀・鳥居柱・各落板、八丁橋、大正時代の八丁橋・写真、おやつもらって船通す、水神社、鈴木家:通船業務、西縁代用水路、654m、西縁第二の関:今ない、
・鎌倉街道:~上総道~、関東周辺から鎌倉に至る道を一般に鎌倉街道という。房総半島にも海路越しの道があり市原市・袖ヶ浦市を訪ねる。鎌倉~(海路)~木更津~三ツ作~立野~袖ヶ浦~市原~千葉、古代の官道、上総国分寺・国分尼寺、源頼朝、竜島(鋸南町):頼朝上陸地、飯香岡八幡宮、切替家:旗印を頼朝のものに切り替えたため、御所覧塚H3m:頼朝築かせた、須軽田坂、おみかり様:首狩の意、三ツ作神社、石道標「南たかくら道」・「北ちば道」、木更津たかくら観音霊場道、 

○・VHS『歴史の道  第4巻 関東・北信越』60分 
・浜街道:~鑓水峠越え・絹の道~、幕末から明治初期に桑都といわれた八王子から横浜まで、八王子と鑓水の商人が生糸や絹織物を運んだ道で絹の道とも浜街道ともいわれる。鑓水周辺は貴重な歴史の道として残存している。明治期写真「鑓水の風景」フェリックス・ベアト:撮影、八王子~大塚山~鑓水峠~(絹の道)~横浜へ、浜街道40km起点八王子は関東周辺生糸集散地で桑都といわれた、「新編武蔵風土記・八王子宿」、h213m大塚山周辺残存、八王子市、鑓水峠、絹の道→横浜、明治8年建立の大塚道了堂跡(大塚山公園)、「大塚山道了堂之図」、写真「八王子に向かう道」ベアト撮影、鑓水峠、江戸期・絹運送規制、明治開放、「神奈川横浜新開港図」、かつて裕福だった鑓水商人がたてた石塔多し、絹の道資料館:八木下要右衛門屋敷跡、旧小泉家:典型的なこの地域の農家の建て方、永泉寺、鑓水商人菩提寺、芭蕉像、慈眠寺、諏訪神社、彫刻見事、鑓水商人寄進、石灯籠、明治41年八王子~横浜鉄道開通により旧街道衰退。

・箱根旧街道:箱根山:関東と東海を分割する所、天下の険、沼津~三島~箱根峠・関所~湯本~小田原、箱根湯本温泉、早雲寺:北条氏菩提寺、一里塚:江戸から22番目、箱根旧街道入る、石畳、大澤坂、畑宿、駕籠かき中継地、寄木細工、茗荷屋跡:庭園、西海子坂(さいかちざか)、甘酒茶屋、赤穂浪士・神崎与五郎侘び証文、白水坂:進軍する豊臣方に北条側が攻撃し豊臣方が城を見ずに撤退したため、石畳残る、泥にすねまで漬かる坂を改良、斜めの排水路、箱根馬子唄の碑、二子山、権現坂(下り)、芦ノ湖・富士山、「東海道五十三次・箱根」広重画、箱根古道:鎌倉古道・湯坂道、浅間山・鷹巣山・精進ヶ池から芦ノ湖に下りる、杉並木、箱根関所跡、250年間、入り鉄砲出女改め、芦川の石仏群、向坂、兜石:秀吉が兜を置いて休んだという、

・松本・千国街道チクニ:上杉謙信が武田信玄に塩を送った話で有名な塩の道として知られる。ボッカ道であった。
~塩の道~、ボッカ:険しい山道の運搬人、松本~大町~白馬~千国~大網峠~大野~糸魚川120km、糸魚川市姫川上流に縄文期遡る、小滝川ヒスイ峡:ヒスイ原石:糸魚川・奴奈川姫伝説・古墳発掘品装身具、姫川氾濫考慮し東側高い所通る、大賽の神、道は急、角間の道標「右松本街道 大網 左中谷道 横川」、ウトウの道:ウトウはわらじ等で踏みつけU字型に窪んだ所、角間池、ブナ・ナラ・トチの原生林、大網峠h850m越後信州国境、ボッカの立ち休み:杖を背負子に当てる、牛方、牛の水飲み場、大日如来、横川の吊橋、小谷村大網、塩蔵:釘不使用・腐食防止、粗塩:水分多くニガリ、千国宿チクニ、千国番所、親坂:岩多い、牛つなぎ石:岩に穴、弘法清水:水飲み場が二段で上人・下牛用、小谷村沓掛、牛方宿:土間2階牛方・1階牛、白馬村・落倉の道標「右ゑちご 左やまみち」、信州越後物資運搬、参勤交代なし、

・臼ヶ峰往来:越中の氷見から臼ヶ峰を経て能登の志雄町を結ぶ。大伴家持が通行したことでも有名。氷見市日名田、臼ヶ峰往来、御上使往来、氷見~日名田~臼ヶ峰~下石~羽昨~金沢、岩盤露出しているところもある、杉や雑木の林の中、床鍋:小さな山間集落、かつては和紙作りだったが衰退し竹細工、竹林多し、臼ヶ峰h266m、奈良時代大伴家持(国司として29歳から5年間越中で暮らした)や御上使が通った。能登巡行で通過、万葉期には道があった、志雄路という、1250年前、「志雄路から直越え来れば羽昨の海朝なぎしたり船舵もがな」家持、富山県氷見市と石川県志雄町境、富山湾眺め、5年任期220首作る、親鸞聖人像、1207年流罪で通過、太子堂:親鸞が太子見たという伝説、中世合戦場1183年、江戸期流通道、

・白山禅定道:日本有数の山岳信仰の一つ、白山への登山道である。御前峰・大汝峰・剣ヶ峰の3つ合わせた山名、
石川県尾口~尾添~(加賀禅定道)~白山・室堂~石撒白~(美濃禅定道)~岐阜県白鳥・馬場・白山中居神社、               ↖~(越前禅定道)~福井県勝山
白鳥・馬場・白山中居神社、石撒白の大杉イトシロ、泰澄タイチョウ:白山に「上れとお告げ、千日白山で修行、その後一般修行僧も修験さらに一般人も、修験の山から禅定の山、禅定道:足跡をたどる道、石撒白・ちょうしが峰・さんが峰を越えると別山見える、別山平→別山山頂:別山社、おしゃり山、油坂、高山植物、畜生谷:この水飲むと苦しむ伝説、南竜ヶ馬場バンバ、御前坂、ハイマツの中、室堂、トンビ岩、室堂:3つの禅定道合流点、御前峰h2702m、十一面観音祀る、御来光、翠ヶ池: 泰澄が池のほとりで見た夢で神と仏を結びつける神仏混淆、大汝峰:阿弥陀如来祀る、千蛇ヶ池:千匹蛇が雪に閉ざされた伝説、ハイマツの中の道、御手水鉢の池オチョウズバチ:水量一定、加賀禅定道は石川県に伸びる、高山植物花々、

○・VHS『歴史の道  第5巻 中部』59分 
・棒道:甲斐の武田信玄が北信濃攻略のため八ヶ岳山麓に造った上中下3本の道筋をもち棒のようにまっすぐ伸びた最短距離の軍用道路だが、昇仙峡の御岳詣でや富士山詣でに使われた。甲府~韮崎~穴山~(下の棒道)~諏訪へ
      ↘若神子~~~(中の棒道)~~~湯川~大門峠~松本・長野へ
       ↘城南~小荒間~(上の棒道)~↗、  一般的には上の棒道が有名、
山梨県須玉町:若神子ワカミコ城跡狼煙台、上棒道起点、小荒間古戦場跡:村上氏との戦い、御座石、遠見石、馬蹄石、日本名水百選・八ヶ岳湧水群の一つ:三分一湧水:三角形の石柱を使う、小荒間口留番所跡、石道標「右すわ左むら」、直線に伸びる、石仏:坂東一番十一面観音立像:嘉永元年、道幅狭い、尾根道けもの道を発見されにくいように活用、川中島攻める前年に造る、武田氏が信州獲得後物資輸送路、石仏多し、坂東三番:千手観音立像、修行僧、御岳参り、生活道、道幅広い所あり防火帯16mとして、坂東七番:聖観世音文字塔、小淵沢、坂東十六番千手観音坐像、その後中山道甲州街道発達で使われなくなる、

・中山道・信濃路:中山道・信州芦田宿から和田峠を越え木曽路に至る部分を紹介する。江戸へ~芦田(江戸から27番目宿)~笠取峠~和田~下諏訪~塩尻~奈良井~鳥居峠~野尻~三留野~妻籠~馬籠峠~馬籠、笠取峠:松並木700本松、馬頭観音、和田峠:唐松・モミ・険しいというが谷沿い緩やかな道、春から秋は快適・冬雪で困難、和田施行所:焚き火・おかゆ一杯・馬にはかいば一杯恵む、木曽の木は尾張藩管轄・生一本首一つ、地元木曾の収入源ならず、近畿特に近江から人足雇い、収入源少ないので木曽の人は何でも食べた、木曽路十一宿、奈良井、杉並木、二百体地蔵、奈良井宿、2km保存、越後屋:旅籠、中村屋:櫛問屋、お六櫛:髪を梳くと頭痛治るといわれた、黄泉画:木曽街道六十九次、鳥居峠h1197m、鎮神社、石畳200m、峰の茶屋:馬方茶屋・句碑、円山公園、石碑多し、薮原宿、与川道:バイパス・野尻~上野原・三留野、妻籠宿:もっとも小さい宿・街並み保存、妻籠宿本陣:南木曾町博物館、中山道・飯田道分岐点、馬籠峠:木曽御木の原生林、「夜明け前」藤村、男滝・女滝、馬籠峠h801m、馬籠宿:藤村出生地、

・野麦道:信州松本と飛騨高山をつなぎ、乗鞍岳南の野麦峠を越える道、近代製糸工場に働きに行く飛騨の娘たちが通ったことで有名。奈川村川浦、石室:復元:文政8年、ボッカ・牛方避難所、松本~川浦~野麦峠~野麦~高山へ90km・野麦街道ともいう、岡船:牛:信州で活躍・飛騨には行かない、信州雪深いため牛がだめでボッカ活躍、最大50貫190kg、たいてい150kg、飛騨ブリ:富山のブリを飛騨高山から信州へ、h1500m越えるとモミ・ツガ等針葉樹林帯を折り返す、熊笹=野麦=ダンゴにして飢えしのぐ、飛騨郡代の江戸往来道で信仰の道、野麦峠、展望・乗鞍岳、飛騨の貧しい少女たち・明治期・信州の製糸工場へ、政井みなの碑:百円工女、当時日本の生糸生産量世界一、お助け小屋:復元、冬の野麦峠越え命がけ、雪道を歩くのは大変・滑落すると止まらない、地蔵堂、野麦:飛騨高根村

・本坂通:~姫街道~ともいわれ江戸幕府が東海道の脇街道として整備した。浜松で東海道から離れ浜名湖北を通過し御油宿で東海道に合流した。浜松~気賀~引佐峠~三ケ日~本坂峠~当古~御油、脇街道、浜名湖北岸、姫街道、気賀一里塚:江戸から69里、引佐峠h200m、時々石畳敷いて安全対策、コスモス、平石御休憩所、姫岩:湯茶接待用、浜名湖展望よし、「姫君様行列之図」、今切関:今切渡船、バイパス、姫街道由来:①姫通った・②ひねた・ひなびた、象鳴き坂:吉宗献上象通過、石投げ岩:岩に石投げすると峠越えが無事という、一里塚:江戸から72里、本坂峠へ、大師堂→山道・石畳、橘逸勢:伊豆流罪途中当地で没す、鏡岩:高さ3m・幅10m・昔は光って姿が映ったという、本坂峠h328m、林間下り坂、嵩山宿スセ:本陣・脇本陣、嵩山の蛇穴遺跡:縄文前期住居跡、豊川市当古豊川・渡船、

・下田街道:~天城越え~、東海道三島宿から天城峠を越え下田に至る道。幕末下田が開港されて重要となる。天城越えともいい、伊豆の踊り子等で有名。~天城越え~、天城峠、「伊豆の踊り子」、旧天城トンネル、三島~韮山~修善寺~湯ヶ島~天城峠(二本杉峠)~小鍋~下田、天城湯ヶ島町大川端・紀州尾鷲の炭焼き市兵衛の墓:石道標「右ハやまみち左ハ下田道」、二本杉峠40分、炭焼き技法を教えた、産業の道でもある、ワサビ田、天城峠頂上:広場・二本大杉、この道1819年私財を投じて完成、幕末外国人も通行、1853年黒船翌年下田函館開港、吉田松陰下田で密航企て捕縛遠丸籠で通過、宋太郎林道、タウンゼント・ハリス下田から江戸へ、釜滝カマダル、川横:川合野、慈眼院、小鍋峠への山道、小鍋峠:河津町と下田市境、「伊豆の踊り子」川端康成の一節朗読、


○・VHS『歴史の道  第6巻 近畿』62分 
・東海道:~鈴鹿峠越え~、伊勢と近江を分ける鈴鹿山脈の南に関町セキチョウ、古くは鈴鹿の関があった、伊勢神宮一の鳥居:東の追分、東海道と伊勢別街道分岐点、江戸から106里2丁、江戸時代宿場町街並み:江戸後期、中町:本陣・脇本陣・大旅籠、脇本陣:千鳥破風、関の地蔵院:建立・行基伝、中興・一休伝、門前町、つし二階建て:屋根裏を物置にし軒低い、西の追分:刑場・供養塔は石道標「左伊賀大和道」、関:47番目宿~坂下~鈴鹿峠~土山、転び石、筆捨山:安藤広重「東海道五十三次」にも描かれる、黄色い奇岩、狩野元信が山を描きえず筆を捨てた伝説、坂下宿、法安寺、庫裏は本陣移築、本陣3、脇本陣1、旅籠48、峠まで1里半、岩屋観音:江戸初期石仏、清滝、片山神社、ここから8丁27曲がり峠越え、燈籠坂、夜の旅人用に常夜灯、石畳、難儀、峠を境に天候も違うほどきつい、東の箱根に西の鈴鹿、鈴鹿山の鏡岩:三重県指定天然記念物、山賊は鏡岩に隠れ岩に映った旅人を襲ったという、東海自然歩道、峠は国境で近江側は緩やか下り坂、万人講常夜灯、土山宿、本陣跡、連子格子、二階の塗り込め壁、東海道反野畷タンノナワテ、松並木、
・熊野参詣道:伊勢路、紀伊路、和歌山-(紀伊路)-田辺-滝尻-(中辺路)-本宮-那智勝浦-新宮-(伊勢路)-熊野-八鬼山-尾鷲-馬越峠-海山、馬越峠道マゴセ、西国三十三所巡り第1番札所青岸渡寺巡礼道、八鬼山道ヤキヤマ、難所、石仏、滝尻王子、数多くの王子あり、王子ごと禊をして熊野に詣でる、熊野三山知られたは平安期、上皇たちが熊野詣をするようになってから、果無山脈ハテナシ(大和と紀伊を分ける)熊野山塊、花山上皇が木の枝を折って箸に使ったという箸折峠、牛馬童子像:19歳で譲位させられた花山上皇の姿伝、箸折峠下の近露集落の日置川ヒキ、かつては旅籠30軒一日800人宿泊したことあるという、近露王子、継桜王子・野中の清水、伏拝王子・小さな祠だけ、ここからかつて伏して熊野大社を拝めた・麓の窪地に明治22年まで社があったが洪水で移転、、熊野本宮大社、やた烏、山伏修験場、熊野にいます神社、熊野の本山、熊野川、上皇たちは船で熊野川を下り新宮目指した、新宮・熊野速玉大社、補陀洛渡海、夫婦杉:那智大社への入口、大門坂、那智の滝:落差133m日本一、滝をご神体にした原始信仰から始まる、熊野那智大社、社殿熊野作り権現作り構造、北に大雲取越・小雲取越の2つの道、上皇たちは京に帰るため通った、
・宮津街道:普甲峠越え、大江山越え、丹後の天橋立、宮津市、古い港町、京極氏、宮津城跡、京口橋:京に向かう宮津街道起点、石道標:観音霊場案内「左なりあい観音」、京極氏が参勤交代用に整備した道、ちりめん街道、糸の道・絹の道、石畳が道の半分、峠の茶屋跡、峠の石塔「ちとせ山」: 普甲峠はフコウに通じるのでちとせ山と呼ばせたことがある、天台密教の普甲寺跡、今は寺屋敷集落、普賢堂、最盛期一山百か寺、織田信長により焦土、峠の南側は緩やかで中茶屋集落ナカノチャヤ、昭和30年代まで小中学生登校路、峠越え最短路、二瀬川渓谷、鬼ヶ茶屋の石畳(復元)、遊歩道、大江山鬼退治伝説関連、鬼の足跡、大江山、頼光の腰掛岩、石仏「南無阿弥陀仏 文政六年六月」:道普請犠牲者出た、毛原の道標「右ふげん左なりあい」普甲寺道と宮津なりあい観音道分岐点、南に丹波の山々で京、
・竹内街道:二上山ニジョウサン、大阪と奈良境、竹内峠タケノウチ、最古の国道、613年「難波より京に至る大道を置く」日本書紀、難波-堺-太子-竹内峠-当麻-飛鳥、大阪府太子町「近つ飛鳥」、推古天皇陵、叡福寺「上の太子」推古天皇摂政聖徳太子祀る、聖徳太子廟、太子町・春日、白い塗り壁・板壁、大和川水運に使われた船の板、太子町・大道、餅屋橋の道標「左幸徳天皇御陵」名所旧跡案内、伊勢灯篭、大和棟、西国三十三所巡礼道・5番藤井寺・叡福寺・當麻寺・6番壷坂寺に向かう道、さらにお伊勢参り・長谷寺詣で、道端の地蔵堂「右大阪さかい」、役行者像、岩屋越との分岐点、地蔵「右つぼさか 左岩屋當麻の口」、岩屋越道、当麻寺タイマジ:聖徳太子弟創建、中将姫伝説、河内名所図会、遣隋使派遣で隋の使者を迎える外交路としての必要性、河内細見図、国道166号線、峠の手前草の道少し残る、十一面観音、宝篋印塔、「大峯山三十三度」、竹内峠:国境石「従是東 奈良縣管轄」
・山陰道:~蒲生峠越え~、鳥取県東部と兵庫県北部県境の山々、蒲生峠、鳥取-岩美-岩井温泉-塩谷-蒲生峠(蒲生トンネル)-温泉町・湯村温泉-春来峠-京都、山陰道は律令時代に定められた官道、岩井温泉・蒲生峠まで8km、塩谷、地蔵堂、因幡商人塩運送・但馬商人受け継ぐので塩谷、明治初年まで蒲生川の一番奥の沢が入口、羽柴秀吉も鳥取城攻撃に使った道、あまりに険しいので鳥取藩は参勤交代道からはずす、今は一番奥で崖になり不通、明治初期にその上に大八車用の国道できる、文化庁歴史の道百選指定、上り口から3km頂上見える、蒲生峠h356mには延命地蔵、国道9号線真下トンネル、旧国道通過、鳥取・兵庫県境、温泉町・千石チタニ宿場町、こうじ屋旅館「昭和八年四月宿泊人名簿」出稼ぎ商人・職人・馬喰、生業の道、千原の名号石「南無阿弥陀仏」、伊勢神宮常夜灯「大神宮 秋葉山 愛宕山 天保十四」、温泉町湯村温泉、慈覚大師:平安期発見伝、夢千代日記、春来川、春来峠・今は下をトンネル、榜示石「従是西豊岡藩」、因幡から蒲生峠を越えて但馬に入った山陰道は春来峠を越えて幾重にも連なる山々の先の京を目指す。

○・VHS『歴史の道  第7巻 近畿・中国』61分 
・柳生街道:奈良市北部を東の柳生まで結ぶ道、剣豪の道といわれるが信仰や奈良市内の大寺院とその荘園だった柳生周辺を結ぶ道。興福寺から見た奈良北部、春日山と高円山の窪みを越える道、奈良春日山南麓~石切峠~大柳生~柳生:5里20km、能登川、滝坂道、葬送の道、修行の道、大寺院の荘園への道(物資)、轍の跡:石畳、寝仏:崖上の大日如来の摩崖仏が落ちたもの、夕日観音:摩崖仏:弥勒菩薩、朝日観音: 摩崖仏:弥勒・地蔵、首切り地蔵:地獄谷と柳生への分岐点、石切峠:奈良大仏春日石切り出し、春日山石窟仏: 摩崖仏:平安後期:春日石切り出し、地獄谷石窟仏:線を刻んで彩色:薬師・る遮那仏・十一面観音:奈良期昨、峠の茶屋:武芸者の代金代わりの武具、誓多林、忍辱山円成寺:文化財・春日堂・白山堂:日本最古の春日造り、庭園:平安期の姿残す:国の名勝、大柳生への下り、大柳生集落内を街道通過、阪原峠:石畳残る、柳生:家老屋敷跡:小山田しゅれい:資料館、柳生陣屋跡、1万石、正木道場:復元:柳生新陰流、芳徳禅寺:沢庵和尚・柳生宗矩・柳生家菩提寺、

・大山道:中国地方屈指の名山で信仰の山、大山ダイセン。その麓の大山寺を目指す道。大山h1729m、伯耆富士、関金~(川床道)~大山寺・大山~(横手道)~釘貫小川~岡山へ、                             
大山道:大山寺目指す・大山参り:農業神、「六十余州名所図会・大山遠望」、瀬戸内からの横手道大山西側を南北に通過、ブナ林内古道、横手地蔵:18番1丁ごと置かれた、南からは荒々しい姿で西からは優しい姿、一の沢、大山は死霊のおもむく山:備中の人々は道に石仏祀る、川床道:風情残る・7km古道残る、地蔵峠:地蔵「萬延元年」、道は川沿い緩やか、大山滝、大休峠:急坂道1km、h1000m、川床まで4km:石畳、(岡山県:牛つなぎ石:穴あき石)、大山での牛馬市のため牛馬連れて行った、大山寺:宝牛像、

・智頭往来:~志戸坂峠越え~、平安期から因幡と上方を結ぶ道、参勤交代も使った。因幡→上方へ、平安期都からの国司往来・江戸期鳥取藩参勤交代、鳥取~市瀬~智頭チズ~志戸坂峠~京都へ、鳥取から智頭で一泊、鳥取から志戸坂峠越えで1日半40km、平時範「時範記」:旅日記、参勤交代用道178回、鳥取城、「鳥取城攻めの陣営図」:秀吉は堅固な鳥取城落とすため街道通過、千代川沿いに智頭往来あり、篠ヶホキ:山間の険しい所難所、六地蔵「寛政十二年」、(京・上方・馬方)(街道・往来)、智頭宿:石道標・備前街道分岐点、魚の棚、志戸坂峠:2km・積雪通行不可・「けふいなばそふの瀧山こえるなり都にかけよ夢のうきはし」、明治20年大改修・馬車道・改修碑、

・広瀬清水街道:山陰の鎌倉といわれる島根県広瀬と山陰道をつなぐ道、尼子一族ゆかりの地や安来の清水寺への参詣道。島根県広瀬町・山陰の鎌倉・富田トダ・月山ガッサン:尼子氏居城、尼子氏利用道、広瀬~鍵尾峠~清水峠~門生~(山陰道)~安来~松江
                   ↘京へ(山陰道)
「出雲国風土記」、月山:富田城跡1397年尼子氏入城11カ国領有・1566年毛利氏により陥落、意多岐神社オダキ:古代出雲四大社の一つ・能義神社…中心地、古道は草生し通う人なし、尼子時代の軍用道、鍵尾峠:石塔、能登?集落:竹やぶ、出雲巡礼21番札所11番清水寺巡礼道:信仰道、石道標「右きよみず左ひろせ」、弁慶坂:弁慶が釣鐘を担ぎ上ったという伝説、仁王門・清水寺キヨミズサン・尼子一族菩提寺・本堂:観音33図・尼子拾勇士絵:山中鹿之助等・弁慶絵図・三重塔1859年建立山陰唯一、追分:六地蔵・山陰道と合流、

・山陽道:~大山峠越え・玖波~、京都と九州大宰府を結ぶ最も重要な官道で、宮島厳島神社周辺に残存している箇所を紹介する。大化の改新以降、七つの道を官道:大中小区分:中国行程路:唯一の大路:都と大宰府を結ぶ道:大宰府は遠の朝廷ミカド:政治文化外交上重要な道、「中国行程図」、京~東広島市西条町~大山峠~広島~~~~大野町~玖波~大竹~大宰府
                       宮島厳島神社
安芸の国中心地:西条町:広島大学中心:四日市次郎丸という宿場町:西条駅北側:国分寺跡:仁王門・七重塔礎石・レンガ造り・煙突・白壁・造り酒屋・本陣跡:部屋数29、海岸に出た山陽道は展望よし、大野町:厳島神社展望よい、室町期今川貞世通行:幕府勢力権力拡大のため、宮島厳島神社:平安末期平清盛造営・塔の岡:五重塔・戦国期毛利が陶晴賢を破る1555年、毛利:要害山山頂のおとりの城、鼓ヶ浦、大野:四十八坂:49よりまし、つづらおり長洲戦争激戦地、残念神社:長洲戦争戦没者祀る、

○・VHS『歴史の道  第8巻 中国・四国』60分 
・萩往還:江戸期毛利氏が治めた長洲藩府・萩と瀬戸内の三田尻を結び参勤交代や多くのし志士達が通った道。
 萩城跡、「中国行程記」江戸中期宝暦・萩から京都伏見まで・第1巻は萩から三田尻まで、萩~明木アキラギ~一ノ坂~山口~防府(三田尻)、松下村塾・吉田松陰像・維新の志士輩出、涙松の遺址「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」松陰、萩から一里のオオヤ竹やぶ・首切り地蔵:刑場跡・石碑「栗山孝庵女刑屍体臓分之跡」日本で初めて女性遺体解剖、萩から五里・一升谷:石畳:一升の豆を食べつくすほど長い坂という、国境の碑「北長門國阿武郡 南周防國吉敷郡」、一ノ坂h差260m、曲がり角40以上、三田尻御船倉跡:参勤交代や旅人によっては船移動・毛利水軍、

・赤間関街道:~中道筋~、長洲藩府・萩と赤間関:下関を結ぶ3つの街道、その中でも美東・吉田を経て赤間関に至る中道筋は公用路として重視された。
 萩市、高杉晋作の生家:彼がよく通った道、
萩~明木~一ノ坂~(萩往還)~山口~防府(三田尻)
   ↘美東~絵堂~秋吉~(中道筋)~吉田~赤間関(下関):19里
 ↘~(北浦筋)~            ↗
  ↘~(北浦道筋)~           ↗
下ノ峠タオ、美東町、絵堂戦跡記念碑、長州藩政府軍本陣跡、戸に弾痕、大田・絵堂戦に使われた鉄砲、金麗社、「四境の役」、燈籠:小倉城のもの略奪、カルスト、大久保台、石畳、秋芳洞:滝穴32間、吉田宰判勘場跡:自治体の区役所、しみずやま:高杉晋作の墓「東行の墓」29歳、「六十余州名所図会・下の関」、壇ノ浦、赤間神宮、長洲砲、

・讃岐街道:~大坂峠越え~、讃岐高松から讃岐山脈越えで阿波徳島に至る道。鳴門市四国遍路一番札所霊山寺に向かう信仰の道で義経が屋島に駆け抜けた道でもある。
 讃岐山脈、讃岐街道:琴平へ~高松・屋島~引田~大坂峠~板野~徳島~勝浦~土佐へ
                        伊予へ↙ ↘鳴門
引田町ヒケタ、落ち着いたたたずまい、引田廻船、寿可多美の地蔵「右大坂道 左なる戸 文化十四年」、「六十余州名所図会・象頭山遠望」、信仰の地、阿波鳴門一番札所霊山寺、二番札所極楽寺、三番札所金泉寺、四国八十八箇所巡りの一番に行くため大坂峠は最初の難所、大坂峠への丁石、借耕牛、5丁目過ぎると急坂、800年前源義経一行通過:屋島の合戦、豆茶屋跡石垣、豆茶:半つき米と豆を一晩つけてから蒸して白湯をかけたもの、徳島城跡、蜂須賀氏、番所・村瀬家・大坂御番所跡:明治初期までの230年間・武具、遍路の通行手形「遍路」、近代大正昭和初期にトンネル・鉄道開通により大坂峠いなくなる、

・土佐北街道:~笹ヶ峰越え~、土佐高知を峻険な四国山地越えで瀬戸内と結んだ道。参勤交代120年ほど2000人ほど・信仰・物資輸送路として利用された道。土佐藩二十四万石山之内一豊:高知城、四国山地、高知~大豊~笹ヶ峰h1015m~新宮~川之江、はじめ参勤交代路は海路で20日ほどだが、潮待ちで50日、江戸中期に期日厳守となり陸路開発。碁石茶:発酵茶・筵に干した様子が碁石に似ている、笹ヶ峰、国境標:土佐伊予、しばらく尾根通し、杖立て地蔵・弘法大師像・安政九年1858・杖を立てて感謝、腹包丁h差400mで距離1500m続く急坂:腰にさした刀が地面につかえるので腹に抱えた、オハツキイチョウ樹齢300年・安産祈る・柱瘤、平安期:熊野神社信仰の道・参勤交代以前から、

・檮原街道ユスハラ:(檮トウ)、~韮ヶ峠越え~、高知城下から伊予の境・檮原を経て大洲城下を結ぶ道。坂本龍馬等勤皇志士脱藩して通ったことから(勤皇・脱藩)(街道・道)ともいう。
 高知~須崎~檮原~韮ヶ峠~大野ヶ原~泉ヶ峠~宿間~大洲・長浜、勤皇街道、坂本龍馬、高知城、桂浜・坂本龍馬像、1862年脱藩、澤村惣之丞:海援隊前身亀山社中、檮原:千枚田・那須俊平信吾・掛橋和泉邸:神官・勤皇志士かくまう、宮野々番所跡、韮ヶ峠:舗装道路・土佐伊予境、大野ヶ原・激戦地、男水:龍馬が水を飲んだという、榎ヶ峠、御幸の橋:屋根付き橋江戸中期休憩用に付けた、泉ヶ峠:かつて旅館や運送業でにぎわう・石垣跡、宿間、肱川、船で長浜へ下れる、

○・VHS『歴史の道  第9巻 九州』62分 
・長崎街道Ⅰ:~冷水峠越え~、鎖国の中唯一開かれていた天領・長崎と筑前小倉を結ぶ道。著名人が往来し海外文明を伝えた道。小倉~黒崎~木屋瀬~飯塚~内野~冷水峠h283m~山家ヤマエ~原田~長崎へ、筑前六宿チクゼンムシュク、エンゲルベルト・ケンペル1691年江戸旅行・「江戸参府道中の画」・オランダ商館長(カピタン)の駕籠、山家宿、「筑前六宿・山家宿」、追分石「右肥前大宰府長嵜原田 左肥後久留米柳川松崎」、西構口跡、恵比寿石神:江戸初期寛永年間建立:1611年山家宿開設理由記入され貴重、郡屋土蔵:参勤交代用品置いた、郡屋は近代取り壊し、冷水峠:九州の箱根、黒田長政整備・博多を通らせない、首無し地蔵堂:旅人の身代わり伝説、石畳、「南蛮屏風」:象通過、山間の低地伝いに内野宿へ、「筑前名所図会・往来の図」、「寂寥の山駅にして海遠く山深し」松陰、内野宿三叉路石道標「大宰府天満宮米山越道」:米山官道、老松神社、正円寺、長崎屋:脇本陣、小倉屋:脇本陣・荷物輸送中継の問屋場・両替商、

・肥前・筑前街道:~背振坂越えセフリ~、全長6里24km、肥前・佐賀県と筑前・福岡県を結ぶ道。平安末期平家の財源佐賀県神崎の年貢米を博多港へ運ぶ道。脊振坂越えは博多への最短ルート。吉野ヶ里遺跡、神埼宿:長崎街道合流、櫛田宮・肥前鳥居:複数の石組み合わせ、
佐賀~神埼~(坂本峠)~脊振坂~亀ノ尾峠~山田(那珂川)~博多、
                脊振山
脊振山地、脊振山頂・脊振神社:修験一大聖地・脊振千坊・修学院:脊振山下宮:鍋島家祈願所、一町宮:地蔵「右ちくぜん道 左山」、五町石、平安末期平家により信仰道から年貢米を運ぶ流通道へ発展、霊仙寺跡・石道標「右とうりみち 左坊中」、左へ行くと茶の木:栄西禅師が中国から持ち帰り植えた茶の木という、茶園上りきると乙護法堂、水上坊跡、千坊ほとんど消失、霊水石、自生白サザンカ名所、坂本峠の馬頭観世音、国境石:江戸期元禄1600年代末、那珂川中州石垣:國領示し石に触ること禁止旨刻む、南畑ダム、亀ノ尾峠:石畳残る、石垣:山城の家来屋敷跡、山田(那珂川町):農耕で栄える、裂田溝:用水路、那珂川、川港、

・太閤道:肥前・佐賀県唐津から鎮西町名護屋までの16kmの道。秀吉朝鮮出兵では名護屋城建築資材運搬や軍勢移動用に整備した道。
 唐津城「舞鶴城」:桃山様式模した昭和の復元、松浦潟、虹の松原:5km長さ・防風防砂林・国天然記念物、かつて遣唐使派遣港で唐の津、佐賀~(唐津街道)~佐志ノ辻~馬部~鎮西・名護屋城跡、1591年朝鮮出兵、近松寺キンショウジ:名護屋城一の門、浄泰寺前道通過、林の中、観音:道標、佐志ノ辻:太閤道一里塚、そば畑内一里塚石、石垣残存、西進むと野元神社、農道として北進む、名護屋城跡:大阪城に次ぐ規模で桃山様式五層天守閣・30万将兵、陣屋跡大小260箇所以上、草庵茶室の遺構、草庵茶室想像図:四畳半、「太閤が睨みし海の霞かな」青木月斗、

・長崎街道Ⅱ:~日見峠・井桶ノ尾峠越えイビノオ~、文明の道、異国情緒溢れる長崎から大村間に古道の面影多く残る。海外文明を伝播した道でシーボルトも通った。長崎市、孔子廟、オランダ坂、メガネ橋、出島(復元模型)、平戸オランダ商館を長崎出島移転、長崎~日見峠~矢上ヤガミ~井桶ノ尾峠~諫早~破籠井ワリゴイ~鈴田峠~大村~小倉へ、蛍茶屋、一瀬橋、「長崎近郊の貴族的な茶屋」F・ベアト撮影:幕末の蛍茶屋と一瀬橋写る、近くに鳴滝塾跡:医院・塾(現シーボルト記念館):医師・博物学者、アジサイをお滝さんからオタクサと命名、シーボルト旅日記、日見峠:由来:火見:戦でかがり火が見えた、日見峠の切通し、下りは通称七曲、芒塚:向井去来の句碑、長崎街道矢上宿跡、教宗寺・庭園、井桶ノ尾峠手前に天領と肥前佐賀藩領境石、井桶ノ尾峠:h100mほどの丘の連なり、長崎街道御籠立場、眼下に大村湾、諫早、破籠井:旅人がここで弁当箱を開けて食べた所なので、鈴田峠:深い山の中通過、大村の町眼下に見える、

・豊後街道:熊本市、熊本城、肥後・熊本城下から阿蘇外輪山北部通過し豊後・大分県鶴崎港に至る道。31里、加藤清正によって整備が始められた。左右を堤にし一段掘り下げて造られた清正公道セイショウコウドウが残る。熊本~大津オオヅ~二重峠~内牧~一の宮~滝室坂~大利~山鹿~鶴崎へ、                    阿蘇山
 整然と石垣、武蔵塚:宮本武蔵:細川氏庇護、大津街道杉並木:屋久杉、大津宿:熊本から五里、清正公道、路面土粘って滑る、二里半、二重峠、健磐龍命伝説:カルデラに水溜まる削ったが水抜けず見ると二重だった、大津から望む外輪山、上りきると石畳の下り坂、天草展望、阿蘇五岳展望、車帰坂クルマガエシ、牛王水ゴオウスイ・石畳斜め排水工夫、阿蘇谷、1km先・的石御茶屋跡、内牧ウチノマキ、一の宮、阿蘇神社、坂梨・大坂に坂無し坂梨に坂有り、滝室坂、乙護法堂オトゴホウ: 乙護法:子供姿の神:仏法守護、この先草地で一旦道消失、坂の上、大利の石畳、山鹿の石畳、坂上で国境、鶴崎から船で大坂へ、

○・VHS『歴史の道  第10巻 九州・沖縄』56分 
・日田・中津街道:江戸期西国郡代が置かれた天領日田と周防灘に面する中津藩十万石中津城下を結ぶ道。周防国・山口県から呼び寄せた石工が敷いた石畳が残る。日田~市ノ瀬~伏木峠~中津、日田市:天領九州政治経済金融中心地、永山布政所(郡代屋敷):西国郡代、豆田町・古い商家残る、掛屋:両替商:日田金、咸宜園跡カンギ:すべてよろしいの意で誰でも入門できた:広瀬淡窓: 掛屋:塾生:高野長英・大村益次郎・「休道他郷多辛苦 同胞有友自相親 柴扉暁出霜如雪 君汲川流我拾薪」、中津街道北東へ・石坂石畳道・1.3km・嘉永三年・信仰道・周防から石工呼ぶ・坂に石敷くのは高度技術、道の中央に滑りにくい石で両端は違う、石阪修治碑:石坂完成記念・碑文:淡窓、茶屋跡:石垣、物資輸送路、

・日田・竹田街道:滝廉太郎「荒城の月」の豊後・大分県竹田の岡城の城下町から久住高原南部を通過し、天領日田に至る道。九十九折の石畳を通って大量に物資が運搬された。岡城跡:鎌倉期・国史跡、久住高原クジュウ、日田往還、大分~竹田~曽田ノ台~出口イデグチ~台下~日田、                      久住山
 湯見岳ユノミh740mの麓で肥後方面の道と日田往還出合う、石道標「右つ  左小国 」その横にかつての旧道痕跡わずかに残る、曽田ノ池、曽田ノ台、下る石畳九十九折700~800m、物資輸送路、「五馬駄賃取り唄」、浄念寺(北平)、中村(出口駅):石垣、日田屋旅館「店」:茅葺、出口庄屋屋敷跡、文化九年:伊能忠敬宿泊記念碑、伊能忠敬、玉来神社・五馬媛イツマヒメ:土蜘蛛の意・老杉、薹(台)神社:江戸中期・前の坂道は舗装石畳、

・飫肥街道オビ:(飫ヨ・オ) 飫肥藩の日南市飫肥オビから北の宮崎や、南は薩摩や大隈へ通じた道。花立山近くに旧街道が残る。日南市飫肥オビ、飫肥城:伊東氏、鹿児島へ~都城~日南・飫肥~花立山~山仮屋~清武~宮崎、殿様街道:参勤交代用、「元禄十四年飫肥領国絵図」、伊東家邸宅:江戸期270年間伊東氏治める、本町通り、酒谷川、唐人、物資流通盛ん、振徳堂:藩の塾・儒学幕末には蘭学医学も、旧道は花立山を越えた辺りから山仮屋関所跡まで1.6km残存、桜名所、石仏、町指定史跡:山仮屋関所跡h400m、「山仮屋関所跡見取図」、汗道:険しい飫肥街道・佐々助三郎スケサン通過、安井息軒旧宅(復元・清武町)、

・東目筋・大口筋:薩摩藩城下町鹿児島を起点に宮崎に向かう道を東目筋、肥後・熊本に向かう道を大口筋という。勢力のある薩摩藩の道なので見事な整備がされている。錦江湾・桜島・鹿児島市、鹿児島~白銀坂~加治木~竜門司坂~(大口筋)~大口~熊本へ
         桜島            ↘(東目筋)~宮崎へ
                ↘宮崎へ
鶴丸城:館作り・櫓や天守閣なし:島津氏、白銀坂:錦江湾絶壁に道できず山坂道となる:石畳道幅広し・急勾配では段差設ける、布引(白銀)の滝:落差20m、展望よい、1km石畳国道合流、姶良町アイラ(姶オウ)、加治木町:隈姫神社クマヒメ:悲劇の姫祀る、田の神、龍門滝:落差46m、竜門司坂タツモンジ(ダシモン坂):酒樽等だしもんを運ぶ、長さ464m元文6年石畳敷く、加治木:焼き物・龍門司焼(黒もん)、明治5年国道10号線・明治34年鉄道近代開通旧道通らない、

・国頭・中頭方西海道クニガミ・ナカガミホウサイカイドウ:首里から座喜味城へ向かう中頭方西海道、さらに北の今帰仁城へ向かう国頭方西海道、首里城を出た道は琉球王朝時代の面影残す石畳道となって北へ延びる。
 琉球王朝時代の石畳道、守礼門、首里城、各城グスクからの道、歓會門、金城の石畳道カナジョウ、宿道シュクミチ:公用、那覇・首里~浦添~座喜味城跡~仲泊~恩納オンナ~名護~今帰仁ナキジン、中頭方西海道:安波茶橋アハチャ:500年前建造、浦添城跡:切石積石垣残存・薩摩藩征服により、史跡当山の石畳道:17世紀半ば作られる:馬転ばし、国頭方西海道:読谷山の道、宿道は間切マギリ:いくつかの集落を集めたもの:に行く道、多幸山のフェーレー岩:フェーレー=山賊、サトウキビ畑、海展望、本部半島: 今帰仁城、山田谷川矼: 矼コウ=石橋・かつて6枚の石橋・今4枚で復元、久良波の道:断崖の上道・下草刈ってもすぐ草むら、比屋根ヒヤネ坂:石畳、ペリーは浦賀来る前琉球国頭方西海道通る、「夕暮れの恩納番所:ハイネ画」、史跡仲泊遺跡:第三貝塚:沖縄海洋博国道拡張工事発見、海沿い道、今帰仁城跡:石垣、行程80km、
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:42Comments(0)古道