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2016年12月04日

北街道(県道静岡千代田清水線)中世東海道

北街道(県道静岡千代田清水線)中世東海道  
 北街道は、静岡市葵区伊勢丹前呉服町札の辻の里程元標址から、江川町交差点を通り清水区横砂西町までの区間とする。しかし札の辻から江川町交差点までは、江戸期東海道と同一ルートなのではずす。北街道は中世東海道で、江戸期東海道より北を通っているので北街道と呼ばれた。今の県道は大正期に作られ古道につかず離れずで進行していく。さらに平成にバイパスも作られた。中世の東海道はじめ近世以前の街道は、江戸ではなく鎌倉に向かっていたことや、鎌倉時代頃に起源をもつことが多く、鎌倉街道と総称されることが多く、北街道も鎌倉街道といわれることもある。
・江川町交差点(御幸町、追手町)  
 今は地下道歩道のある近代的で交通量の多い交差点である。古色はないが、堀端に小さな石塔が立つ。江戸期東海道はここから東南に向かう伝馬町通りである。
・石塔:「くがたか橋」(追手町2)  
 駿府城外堀の橋の名であって、おそらく橋の欄干だったのではなかろうか。
・駿府城外堀(駿府町1)  
 教育会館横に見える堀が外堀で、教育会館横から水落交番まで続く鷹匠町商店街北側の通りはすべて外堀を埋めてその上に商店が作られている。
・鷹匠1・2丁目  
 かつて少年期人質だった徳川家康(竹千代、三河岡崎出身)と隣人の孕石主水(今川家臣で後武田に仕える、掛川孕石城主)の屋敷があった。竹千代の鷹狩用鷹が隣の孕石家に迷惑をかけたらしく、主水は「三河の坊主」と怒鳴ることが多かったらしい。後年武田氏を滅ぼした家康は主水に会い、「今更三河の坊主になど仕えたくもなかろう。自害しろ。」と冷たく突き放したらしい。主水も「三度も主君を変えたくもない。切腹は望むところ」と虚勢を張ったようだ。彼の墓は駿河区小鹿本覚寺にある。
・水落交番(駿府町2)  
 裏の外堀から水が落ち暗渠に入っている。だから水落である。落ちた水は暗渠を通り東に進み巴川に落ちていく。水落から少し先の東を横内という。
・常葉学園高校(水落町1)  
 歌手:ピンクレディや女優:酒井美紀の出身校。
・横内町  
 かつての宿場の中心地といわれる。
・専長寺(横内町24-2)  
 現在墓地だけで建物はない。現北街道の1本南の通り沿いにある。
・先宮神社(横内町114)  
 石灯籠「稲荷大明神 文化二」、道祖神、石仏、手洗石2基、
・来迎院(横内町102)  
 創建1609年。家康によって開かれた寺院である。石塔類:観音、地蔵、新・動物彫刻石像、新・道祖神、新・筆塚、地蔵堂、
 来迎院門前の東西に向かう路地がかつての北街道ではないかという説もある。
・清水寺(音羽町8)  
 京から僧を招いて1559年創建、京の清水寺に似ているのでその名がついた。句碑が多い。門前に家康下乗の松がある。
 谷津山公園入口でもある。清水公園には板碑多数で、ラジオ放送記念碑の「JOPK」碑もある。
・元長寺(瓦場町151)  
 門前に石道標「庚申塔 南安東瓦場 右音羽町へ一丁 左沓谷へ三丁 大正十二年」がある。堂:地蔵・観音「明和六」、「  下耕地整理記念碑」、「禁葷酒」、地蔵、新・観音、
・白山神社(瓦場町151)  
 石鳥居「大正六」、手洗石「文化八」
・地蔵堂(沓谷1丁目23)  
 沓谷霊園入口にある。「三十三體金角尊」、板碑、道祖神、地蔵、手洗石。 
・妙法寺(沓谷1丁目23)  
 沓谷霊園の高いところに地蔵、新・ひげ題目塔、本堂がある。
・長源院(沓谷1丁目24)  
 朝比奈泰以が屋敷を提供して1487年建立した。伝説では、当山開基の旅の僧が、手越で杖の倒れた所に寺を建てようとして杖を立てると、杖から竜が飛び出し、この地に飛んで来たという。寺を立てる工事では、池を埋め立てるとき水が引かなかったが、福老人が現れ柄杓であっさり掬い取ったという。それから柄杓を持って踊る万福舞が起こったが、近代に廃れ、今では分からない。和尚が駿府城登城用に使った籠、長持ち、葵の印籠がある。石塔類:「葷酒不入山門」、「大森山脇」、「長源禅院」、新・仁王像、新・風神雷神、新・石仏、新・古・六地蔵、「萬霊塔」2基、「庚申塔 萬延元年」、句碑。祠。
・福寿稲荷神社(銭座町2)  
 銭座町集会所である。石鳥居、「庚申塔 嘉永」、手洗石「天保六年
・銭座町(銭座町)  
 かつて銭を作っていた所で、かつて巴マート(銭座マート、今はパソコン教室)のあった辺りから坩堝が出土するなど、銭の鋳造所があったことを示している。
・蓮永寺(沓谷2丁目7)  
 元は松野村(富士市富士川町松野)にあったが、徳川家康側室お万の方(水戸家、紀州家の母)により1615年現在地に移転した。家康崩御後お万の方はここで剃髪し菩提を弔い、のち息子の紀州家に身を寄せたようだ。お万の方の五輪塔、勝海舟の母妹の墓、山門、仁王門、鐘楼、石塔類多数:「貞松山」、「蓮永寺」、石灯籠、板碑、ひげ題目「天保二年」他多数、手洗石、道祖神 。寺は改築工事中で新築になっていくが、今なら少しは昭和レトロな建物が見られる。
・旧静岡陸軍墓地公園(沓谷2丁目7)  
 墓石多し、ドイツ海軍砲手の墓(ドイツ語)1基、板碑多し。ドイツ兵は、第一次世界大戦で日本軍がドイツと戦い、捕虜を捕らえたためである。板碑の中には「馬犬鳩供養塔」がある。これは軍事用の馬、犬、伝書鳩等だろう。墓は静岡連隊関係者のもので、かつて軍神といわれた橘中佐のものもある。
・須賀神社(沓谷3丁目8)  
 石鳥居、石段、手洗石「寛政四」、稲荷像、祠4、本殿、拝殿
・竜雲寺(沓谷3丁目10)  
 今川義元母、寿桂尼を祀っている。石塔類:地蔵3基、如来3基、庚申塔、石塔4基、大五輪塔2基(どちらかが寿桂尼墓)、小五輪塔3基。寿桂尼墓は墓地の少し奥で畑を数分歩いて上る。振り返ると少し入り組んだ所なので市街がまったく見えず樹木と畑だけで、いったいここはどこという気分になる。谷津山は市街地の只中にありながら、一歩踏み込むと市街地であることがまったく不思議に思えるところである。
・  神社(沓谷3丁目5)   
 人家の横から少し山を上ると祠が祀られている。
・来宮神社(沓谷)  
 愛宕神社参道途中にある。石灯籠、地蔵、地蔵の台石は「三丁」とあるので丁石のようだ。
・愛宕神社、愛宕山城跡(沓谷)   
 今川時代は城で、伊勢新九郎(北条早雲)の城だったときもある。その後家康が愛宕神社を招聘した。参道入口には、手洗石「寶暦」、石灯籠「享和元年」、「日独開戦記念碑 大正三年 青島陥落」がある。(日本は第一次世界大戦でドイツと戦っていることがあまり知られていないが、ドイツ兵捕虜は日本の文化に影響を与えている。例えばベートーヴェンの「第九」初演、敷島パン、バームクーヘンのユーハイム等。ウイキペディア「第一次大戦の日本」参照。陸軍墓地のドイツ兵墓もだからある。青島チンタオはドイツ租借地だからドイツ仕込の青島ビールを作ったのだ。)
 山頂の本殿近くには、石灯籠「延宝二年」、石塔「寄進 延宝三年」、手洗石「寛 」。曲輪や堀切のあとがあるし、説明見取り図看板もある。谷津山全体が縦走でき公園となっている。
 参道入口左の井上家はもと造り酒屋で煙突等もあったが、今は石蔵を残すのみである。馬頭観音がある。
・沓谷公民館、釈迦堂(沓谷3丁目3)   
 現北街道と北街道バイパスの間にある。釈迦、石地蔵2基、石塔類:「三界萬霊」、「西国順礼」、「南無阿弥陀仏 明和六」、「庚申塔 萬延元年」、石塔9基、
・愛宕霊園、寺街通り(沓谷)  
 戦後寺院がここに移転するものが多く、さも寺街通りとなっている。
・倉長寺… 
・妙像寺… 
・宗林寺… 
・安南寺… 
・少林寺… 
・松龍院… 
・浄祐寺… 
・摂取寺… 
・新善光寺… 
・蓮長寺… 
・菩提樹院…由井小雪首塚、 
・長沼砦跡(沓谷、長沼1丁目)  
 今平和観音が立つ。砦の遺構は分かりにくい。
・真勝寺(長沼町2丁目21)  

・八剣神社(長沼町1丁目12)  

・東禅寺(上土新田9)  
  「奉請庚申供養塔」2基、石仏「元文元」、「享保」、「西国巡礼、」
・庚申供養塔(上土新田19)   
 北街道巴橋袂。「庚申塔 大正九年」
・地蔵(上土新田29)  
 北街道バイパス巴大橋南。 
・庚申供養塔(上土新田72)  
 北街道バイパス巴大橋南の東橋袂。「庚申塔 昭和五十五年」、「安永七年」 
・鎌倉街道残存部(川合、上土新田)  
 北街道巴橋の北側の寺尾酒店と村上酒店北側の路地こそが古い北街道の残存部である。西へは150m先でたどれなくなる。東は100m先で上土交番に出て現北街道を渡り、北街道バイパスが長尾川に至る手前で古道が消滅する。古道はバイパスを横切りつつ川を渡り、西奈南小学校のグラウンドを東に横切り、高圧鉄塔前の東に向かう市道に出る。市道を東に向かい、広い新竜爪街道手前で、「矢射タン橋の碑」がある。
・矢射タン橋の碑、ヤイタンバシ(瀬名川178)  
 この碑前に分かりにくいが、小川が流れている。ここに小さな橋があり、矢射タン橋といった。理由は鎌倉時代初期、鎌倉幕府に反旗を翻し鎌倉から京都へ向かう梶原景時一行は、この駿河の地で地侍と決戦することとなった。一行は景時一騎(実際は連れの者もいて数騎と数人だったと思う。)を先駆けとして西進させたが、この橋の袂で地侍たちに矢を射掛けられたので、この名の橋になったという。私の憶測だが、ここで矢を射掛けられたことで景時はこれ以上鎌倉期東海道(北街道古道)を西進することは危険だと判断し、西南に分岐し古庄から曲金方面へ目指すルートに変更したのではないかと思う。そのため曲金に梶原氏の馬を祀る馬頭観音があり、その言い伝えもあるのだと解釈したい。しかし景時は曲金でも戦闘になり馬をいくつか失い、結局瀬名川辺りの本隊に戻り、梶原山で非業の最期を遂げることになるのだ。 今この碑前を過ぎるとすぐ広い竜爪街道を渡るが、この道は新しい街道で浄界寺よりあとの小さな交差点が古い竜爪街道である。
 曲金、梶原氏の馬頭観音その言い伝え:梶原氏は曲金の戦闘で馬を亡くし、地元民に金を与え馬の弔いを頼み立ち去ったという。これが史実かどうかは不明。現在の設置場所は曲金の西豊田小学校と法蔵寺の間の路地にある。
 矢射タン橋への道がかつての鎌倉期東海道の証拠で中世の人々が多く往来したのだ。
・浄界寺(瀬名川142)  
 金比羅権現堂、石塔類:「南無阿弥陀仏 西国順礼 正徳三年」、「大乗妙典石経書写塔」、石灯籠、新・六地蔵、「奉西国南無大悲観世音菩薩 安永三年」、地蔵「寶享二年」、新・地蔵多数、句碑。
・世尊寺(瀬名川523)  
 ひげ題目塔「天保二年」他3基、手洗石、「立正安国降誕七百年記念碑」、板碑
・菅原神社(瀬名川475)
 祠、道祖神、手洗石2基、
・間の宿アイノシュク:瀬名川(瀬名川)  
 浄界寺や世尊寺、菅原神社のある辺りには屋号の付く家がまだある。この辺りがかつての間の宿アイノシュク:瀬名川である。この通りを東に進むと東名高速ガード手前の交差点に出る。この先東へ古い道は消失する。
・竜爪街道(瀬名川)  
 古い竜爪街道は浄界寺より東の交差点を南北に渡る道の辺りと思われる。そこから北へ菅原神社や瀬名川公園横を通り今の北街道を渡りその先の路地を入り、今の竜爪街道へ出て途切れるルートとなる。南へは世尊寺前を通り巴川を渡り今の竜爪街道に沿うように国1中吉田交差点前に出てアピアと工場の間の細い道を抜け普済寺前、津島神社前を通過し、江戸期東海道に接続し、そのまま南下すれば平沢観音道へとつながるルートである。
・瀬名川公園(瀬名川272)  
 敷地はずれに石塔類があり、近代の石道標もある。近代の北街道と竜爪街道の分岐を示し、旧東海道(江戸期)への距離も示す。
・八幡神社(瀬名川680)  
 (神木)抱擁樹:二本の木が夫婦和合のように仲睦まじく絡み合っているのでこの名がある。祠4、本殿、拝殿、石臼、手洗石「天保十年」他、石鳥居「大正十三年」。
この先巴川の土手で川向こうには、若宮白髭神社があり、そこから道が東に向かっていき、能島や吉川に至る。一説にはこの吉川にむかう道が古い東海道だともいう。八幡神社と白髭神社は昔からまったく位置を変えていないか不明だが、おそらくこの辺りが川の渡渉点を示しているのだろう。ちなみに地図上の町内境界線が川を挟んで入り組んでいて、かつての川の流れを予想できる。
・稲荷神社(鳥坂5446)  
 常葉学園体育館下にある。祠、鳥居、稲荷の置物多数。
・浅間神社(鳥坂544)  
 現北街道脇にある。石塔「猿田彦大神」、石灯籠2、板碑。
振り返ってみると北街道古道ルートは、東禅寺付近の上土でいったん巴川を渡ると、そこからは巴川の北側に沿うように東進していき、二度と巴川を渡らない。
巴川の流路は現在すっきりした直線状だが、以前は巴川の九十九曲がりといわれるほど蛇行していた。その名残は地図を見ると地域の境界線が川を越えて複雑に入り組んでいるところにみてとれる。
・妙楽庵(鳥坂837)
 石塔類「庚申塔 元文五」、「庚申塔 昭和五十五年」、「庚申塔」3、地蔵の台石らしき物。
・大福寺(鳥坂785)  
 石塔類「大乗経一部書写」、六地蔵、観音2、新・観音・地蔵5。祠、鐘楼。
・石塔(鳥坂762)   
 道と山と誠成公倫会用地の境に安置されている。石塔「金比羅山 秋葉山」、「庚申塔 元文五」、「庚申塔」。
・石道標(鳥坂397)  
 現北街道の先ほどの浅間神社を過ぎて一つ目の信号の交差点にある。「開運大日如来道 大正十年」、妙立寺に向かう参道開始点を示す。
・石塔(鳥坂491)
 妙立寺に向かう参道途中に安置されている。「庚申塔 大正九年」、「庚申塔 昭和五十五年」、「庚申塔 萬延元年」、「  塔」。道の向かいの地域の集会所には石鳥居がある。
 妙立寺門前に刻字不明の石塔がある。家型道祖神もある。
・妙立寺(鳥坂457)  
 石塔類多数で宝庫といってよい。丸石道祖神2「新定塔」「喰杉塔」、板碑、六地蔵、手洗石、「三界萬霊塔」2、祠。地蔵・如来…多数で約53体、年号も多岐にわたりいくつか紹介する「寛元六、明和六、寛政、九、寶暦、四、寶元十三、寛延四、五、元禄六、寛保元、六、天明七、文政、元文」等。コンクリート製五重塔、石灯籠2、石灯籠「昭和59」、大日如来堂。寺の裏から梶原山に登れる。
・石塔(鳥坂22)  
 県道北街道信号交差点南西に石塔がある。「大乗経一部書写経 天明元」
・梶原堂、老人いこいの家(大内841-64)  
 梶原景時一行を祀る。昔は裏山の山腹にあったそうだが、山腹が開発され麓に降ろされた。五輪塔が多数ある。説明看板もある。板碑2、毘沙門天堂。山腹に祀られたのは没後かなり経ってからで鎌倉末か室町初期ごろ。
・桃林寺(大内788)  
 門前に石塔「桃林寺」、手前の民家に双体道祖神。
新・地蔵、板碑、石灯籠、六地蔵「 暦六」、地蔵3、庚申塔4「寛政七」「文政三」、石塔3「寛政七」。
・天白神社(大内739)  
 石塔類「猿田彦大神」、「庚申塔 昭和55」、「庚申塔 和政?」、石鳥居2、石灯籠「昭和55」、手洗石。
・大内公民館(大内662)  
 「庚申塔 昭和55」、「霊山寺一本松ハイキングコース」説明看板。
・浅間神社(大内6001)  
 石鳥居「平成17」、手洗石、石灯籠2「明治17」、板碑「猿田彦大神」、石段「大正4」、石塔。
・霊山寺(大内597)  
  現北街道の大内で石道標「大内観音」(新石塔「観音堂」に変わっていた)が見えたら左折(北)し山を目指す。山の中腹に寺の屋根が見える。途中石塔類もあろう。北街道は都市交通網のひとつでせわしないが、大内に入りちょいとした田舎びた雰囲気が味わえる。北進し浅間神社を過ぎると駐車場があり、参道の登山道となる。車で山門前に行けない。距離300m、標高差80mである。10~20分で上れるだろう。足の弱い人は参道入口で拝めばよい。
 古義真言宗、仁王門は重要文化財、開創行基といわれる、三十三曲がりの急な細い道は観音三十三身の化現を意味し、途中の6基の丁石は六波羅蜜を意味する。
 この裏山の山頂は帆掛山一本松公園で標高差150mである。
石塔類。仁王門。上り口に古い地蔵3ある。
 *安倍七観音霊場巡りコース参照
・保蟹寺(大内539)  
 「庚申供養塔 寛延ニ」、地蔵「元文」、「三界萬霊 明治19」、「禁葷酒 元文」、六地蔵、鐘楼、句碑、地蔵、石灯籠、板碑3、「高部小学校発祥の地」。
・静岡市清水区高部公民館(押切1115)  
 周辺地域の歴史資料情報が手に入る。
・墓石(押切)  
 塩田川内田橋西袂道路より一段上の山腹に江戸期の墓石がある。
・乾徳寺(押切1270-2)  
 堂:由成地蔵、子安地蔵。石灯籠2、巨大板碑、道祖神。
・八幡神社(押切1198)  
 巨木、石灯籠2、手洗石「文政五」、石鳥居「昭和54」、石灯籠「昭和42」。
・円通寺(押切1146-1)  
 「庚申塔」、「三界萬霊」、新・六地蔵。
・江月寺(押切1140-1)  
 「庚申塔」、「西国順礼」、「西国順礼供養塔 □暦七丁三」、「□国西国供養塔」、「東国百番供養塔」、「甲子 天保」、観音、地蔵、「善光寺如来」、「南無大慈悲観世音菩薩 延享」、「庚申塔」、石塔、五輪塔。
・牛欄寺(梅ヶ谷88-1)  
 大日如来、「三界萬霊塔」、(新・古)六地蔵。寺の裏に牛石があるというが分からない。
・お堂、石塔(梅ヶ谷88-1)   
 牛欄寺門前参道塩田川土手上にある。
・大内新田の北街道古道、鎌倉街道について  
 古道は間の宿瀬名川から鳥坂、大内を経て、「ホテル心の鍵」(堀込759)辺りで塩田川を渡ると推定されるが、ここまで一切古道はない。
 塩田川東側は再整備中でここの古道も消滅したが、11年現在杭が一列に打たれていて「ホテル心の鍵」向岸から、東の松谷氏宅(能島479-11)前の道までがかつての古道だったことが分かる。以前ここは田畑で農道が通っていた。この農道が古道の残存部であったがすべて埋め立てられた。
 松谷氏宅前の道から東に向かう細い舗装道路こそが鎌倉街道の残存部である。すぐ南には国道1号線静清バイパス高架線と側道、北には東名高速道路高架線が見えて、まるで道の今昔を一目で体験させられるかのようである。この古道上で能島、大内新田、押切の境界線となっている。古道を地域の境にすることはよくある。この近辺には屋号をもつ家があり、かつての街道だったことをうかがわせる。古道の中間辺り大内新田、押切、能島境に当たる交差点がある。この道を北進すると押切、梅ヶ谷に向かう道で、南進すると能島、吉川に向かう道である。この辺りが中心地だったようだ。さらにもう一つ先の交差点を南進しバイパス側道に当たった所に石碑「祀先祖岡村由衛門之碑 明治33年」がある。
古道を東に進むと今の県道北街道に合流する。ここに見にくいが「旧北街道」の標識がある。
・押切公園、大内新田老人憩いの家、墓地(押切909)
 旧北街道を少し北に入ったところにある。六地蔵3体×2、石灯籠、板碑「征露記念 明治37,8」、「庚申塔 万延元」その裏面「庚申供養塔 天明」、石仏事典等には表裏に別の機会に刻まれることはあると記載されているが、静岡市内で見られるのは珍しい。ここはおそらく昔、寺があったのだろう。
・桜木神社(天王東229-2)  
 手洗石、石灯籠、道祖神、石鳥居「昭和57」。
・五輪塔、山梨氏宅(高橋5丁目4)高橋西バス停近く  
 庭に多数の朽ちかけた五輪塔が集められている。この周辺の土中から頭のない人骨が出てきたという。おそらく梶原一族の胴体を埋めた所なのだろう。各所にあった五輪塔を今はこの一箇所に集めたようだ。
五輪塔前の庭内を東西に移動できる道こそが北街道古道残存部である。この付近、現県道北街道よりやや南に平行して古道が通過していたことが分かり、家々の境界線がその名残となっている。ほぼ通行不能である。古い住宅地図だとまだ北街道南面の家の裏に路地が残っているのが分かるが、住宅の立替でほぼ路地は全滅している。
・建徳寺(高橋5丁目3)  
 ひげ題目「文政十三」、「南無妙法蓮華経 文化七」、堂:金比羅明神、釈迦石像、諏訪明神。ポンプ井戸。
 寺は現県道北街道に門を向けているが、門の左右の県道沿いに各人のお宅が並んでいる。門は県道に開いているが、県道の一軒裏に寺があるようだ。この各宅と寺の間が古道と推定される。
・高源寺(高橋2丁目7)  
 梶原一族に関する石塔類やその他の石塔類。梶原一族を祀り、それに関する看板もある。中世史を専門とした皇太子が研究のため訪問したことがある。本堂(市指定文化財)、板碑「山本豊太郎顕彰碑」:郷土発展に尽くし自由民権運動も行ったが夭折した人、「浩宮徳仁親王殿下お成り記念」、ウナリジゾウ、レリーフ:下山昇作(梶原一族を描く)、「不盡乾坤燈外燈龍没」フジンケンコントウガイノトウリュウボッス:梶原一族を弔う供養塔で杜甫の詩が書かれている、鐘楼、新・六地蔵・観音・地蔵・百度石、地蔵、石灯籠、行岩観音、「庚申」、「奉順礼 秩父観世音菩薩 西国観世音菩薩 両国観世音菩薩」、「西国三拾三所 四国八拾八箇所 供養塔 明治七」、「百観世音 志みづミち くのをみち 弘化三」、
 梶原一族の首はこの付近にさらされたという。
 現県道はこの手前で南下しJR清水駅に向かってしまうので、これ以後今の北街道は県道ではなく市道となる。
・神明宮(高橋4丁目4)  
 石鳥居「昭和61」、狛犬、道祖神。常夜灯「大正12」、石灯籠2「大正15」、石灯籠4、社:白髭・天王社、樹木:樹齢200年? だるま石:村の力自慢二人が、違う村で持ち上げられたら土産にあげると言われたので、担いできた石という。
・結界石?(八坂西町1)
 結界か石道標と思われるが、詳細不明。
・和物所稲荷神社(八坂南町8)アイナンジョ  
 道祖神2、石祠、稲荷2「昭和15」、手洗石「奉納 山梨醤油屋 大正14」、破損した稲荷2、樹木3:200年?。
・秋葉山、秋葉神社、峰本院、栄松院、福昌院(西久保1丁目1、2)  
  山門入口付近では、石灯籠「文政五」、石段「昭和5」、常夜灯「明治14」、常夜灯。
福昌院:新・菩薩8.奉納巨大鉄スコップ。
栄松院:新・子育地蔵、祠。
峰本院:新・古・地蔵、レリーフが見事(中国の寺院と湖か? 他にも)。
秋葉寺:常夜灯「文政二」、手洗石「文化元」、石灯籠「昭和9」、開運地蔵堂、板碑多し、石灯籠、石塔、「消防殉職者顕彰碑」。
秋葉神社:奉納巨大鉄釜、奉納巨大鉄下駄、石灯籠「大正13」、狛犬2「天保十三」、常夜灯「秋葉大権現 天保九」、石造物多数。斜面上に黒い溶岩が多く、石塔類を固定するために持ち運ばれたものだろう。
 神社と修験の寺が混在し、あたかも近代以前の神仏混合、本地垂迹の雰囲気を味わえる。寺も仏教というより、日本古来の山岳修験道の雰囲気である。
 秋葉山を回りこみ、鹿島神社前を経て北東の庵原に向かう街道がある。古代には清水の地は海で秋葉山の南端が陸地の境だったことだろう。その頃の中心地は庵原であった。庵原中学校前辺りの道が古代東海道と思われる。
 中世東海道は秋葉山交差点の庵原に向かう街道をやり過ごし、次の五差路交差点の左から2本目の一方通行の出口に向かう。この道は今は直線になっていて、古さは微塵もなく、道から直接接しられる遺物もあまりない。
・矢倉神社(矢倉町5)  
 古くから神社があったことは確実である。日本武尊東征に関する伝説がある。軍の兵営地か武器庫だったという。この神社はこの周辺の要であった。
 手洗石「文化五」、猿田彦大神、手洗石「紀元2600(昭和15)年」、石灯籠「大正九」「紀元2600年」、板碑多し、合祀される神多し。祠多し。
・矢倉の辻、古代官道、中世北街道(矢倉町6-1)  
 神社のすぐ北の路地前に「矢倉の辻」の標識が出ている。この路地はいかにも古道ぽく、いつもなら古道だと喜ぶが、今回の官道は幅広で直進という近代的道路と共通項がある。そうなると中世北街道とされる、その北の五差路の右(東)、一方通行の出口になっている道がやはり官道ルートに似つかわしいのではなかろうか。この道はまた新幹線ガードと一定距離で並行して東進する。新幹線ルートを決める人の思惑とも偶然一致したようだ。
・八幡大神社(八幡様):袖師ふるさとの路41(西久保1丁目22)
 第三部公民館、簡易老人憩いの家。
・ひげ題目:南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 第六百御遠忌 明治十年 世話人
・手洗石:奉納、・神燈:文化十(破損)、
・本殿は拝殿の憩いの家の裏側となり、見えにくいが、石造りの六角形塔型洋風金属葺で戦前の建築かと思われる。神社の本殿がこのような形なのはとても珍しい。一見の価値ある洋風神社本殿である。’16 12/4
・墓地(西久保345)   
 ひげ題目「法界 弘化二年」、石塔2基、地蔵、祠。
・子育観音(天王さん) (袖師町365-3)    
 祠、石仏。’16 12/4、石仏は無く石祠になっていた。
・真如寺(袖師町365-3)  
 地蔵、金比羅宮、「庚申塔」、「金光明一千部供養塔」、岩松地蔵。
・旧道と旧国道1号線合流点(横砂西町11、12)  
 庵原川手前で旧国1に出て、北街道は終点となる。川に出る直前で道は曲がるが土手ができたため直線道路を曲げたのだろう。古代・中世には直線だったろう。ここより東は近世東海道となる。
横砂や興津でも近世と中世や古代の東海道は微妙に違うのだろうが、今のところはっきりしたルートが分からない。
・盧崎神社(横砂本町29)イヲサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
 おそらくこの神社を古代官道は目指したように、中世の東海道も目指したのだろう。
 「盧」の字はイホハラのイホと読むが漢和辞典ではロと読む。ここではイヲと読む。


=吉川街道(清水区楠~吉川、北脇新田、高橋)= キッカワ 
県立清水高等技能専門学校前から東に進み吉川に至る古くからの街道はある。一説に北街道の古道ともいわれるが違うと思う。しかし古くからの道で、北街道がどちらかというと巴川の北を通るのに対し、この街道は巴川の南を通る街道である。ちなみに吉川街道などという名称は聞いたことはないが、一応吉川を通り吉川にちなんだ遺物があるので、その名を冠した。
・若宮白髭神社(楠158)  
 石塔類。巴川の渡渉点にあるので、もとは水神などを祀っていたのではなかろうか。川向こうには抱擁樹のある八幡神社がある。
・興福寺(楠572)  
 石灯籠・板碑・地蔵:近代。「三界萬霊」?。
・石塔類(楠475)  
 古・石塔3、古・地蔵6。興福寺の向かい側にある。フェンスに囲まれ入口に鍵がかかっているので詳しく確認できない。
・東明寺(長崎410)  
 新しく建て直した。石塔類。鳥坂・大内と御門台を結ぶ街道脇にあった石塔も今ここにある。
・石塔類(長崎406か398)  
 かつては道の反対側にあったが、道が拡幅されここに移転した。東明寺入口のすぐ南である。「庚申塔」4.。
・長崎神社(長崎378)  
 鉄筋コンクリ作りの2階にある。1階は自治会館で隣は地域のグラウンドである。かつては牛頭神社といった。天神社を合祀する。梶原景時が梶原山に登ったとき、馬具を放って落ちた所に神社を祀ったという。鎧ヨロイは鳥坂の浅間神社になり、轡クツワは長崎の天神社になったという。ちなみに鞍クラを納めたのは南沼上の利倉神社だという。
・佐口神社(長崎新田370)  
 祠、手洗石、石鳥居「昭和3」、石灯籠:近代、板碑、樹木:市指定保存樹木:400年?。 
・若宮八幡宮、堀込薬師堂(堀込617)  
 薬師堂、新・六地蔵、手洗石:近代、狛犬「昭和17」、石鳥居「昭和16」、祠、板碑、水準点、樹木1本:200年?。
・吉川氏発祥の地記念塚(吉川1000)  
 昭和17年吉川子爵が吉川家先祖4代の墳墓をまとめて一つにした土と石による塚である。山口県岩国市が吉川氏発祥を記念して説明看板を立てた。鎌倉時代、吉川(吉香)小次郎は梶原一族討ち取りの功を立てたが亡くなった。子孫の吉川一族はのち岩国城主となり大名に出世した。手洗石。
・吉川館跡(吉川955)  
 説明看板がある。ここを北端として、南端の国1沿いの小糸製作所までの地に広がる広大な館があったと推定される。
 この辺りまで街道は続き、このあと巴川を渡り、高橋方面に出て別の道になるようだ。
・能島八幡神社(長崎378)  
別名糸繰り八幡といわれ、古くは巴川の両岸に綱を張り綱を手繰りながら渡船したためといわれる。その古い巴川は今、神社と吉川館跡看板の間を流れる小さな用水路となっている。石鳥居「昭和56」、石灯籠「昭和12」、樹木多し:300年。
・報恩寺(能島219)  
 記念碑:第二次大戦で当地に落ちた爆弾や二人の犠牲者の悲劇を語る。「庚申塔」、「三界萬霊等」、新・六地蔵・地蔵。
 能島八幡神社から報恩寺を通りさらに北に向かうと、大内新田、押切、能島の古北街道に出る。
・水之上神社(北脇新田371-7)  
 石鳥居「大正10」。
・稲荷神社、北脇新田公民館別館(北脇新田156)  
 「庚申塔 寛政十二」、稲荷「昭和53」。
・河岸地蔵堂(北脇新田63)  
 かつての川の渡渉点にある。堂:石地蔵4うち「明治23」2・「天明元」「文化五」、うち1つ小川地蔵。
・吉川館遺物跡(吉川642)  
 市立有度東保育所近辺に井戸や近習の武者の屋敷跡があるといわれるが、再整備されていて痕跡は分かりにくい。市指定保存樹木:イヌマキ。
・西照寺(北脇416)  
 新・穴地蔵・観音・石灯籠。
・白髭神社(北脇288)  
 眼病に効くといわれ、境内にある岩の上に溜まる水をつけるのだそうだ。無論今こんなことをしたらもっと目に悪いが、昔はそう言ったのだ。疣石:上の真ん中がくぼんだ石で水が溜まる、石鳥居「平成5」。
・金剛法寺(渋川2丁目8)  
 石塔類。
・渋川館跡土塁(渋川1丁目15)  
 なんてことないちょいとした高さ5mの丘で茶畑になっているのだが、これは人為的に積み上げた土塀の跡のごく一部が残存したのである。中世渋川氏の館を取り囲んだ土塀だったのだ。説明看板はあるが、古びてまったく読めなくなっている。
・吉川八幡神社(吉川43-3)  
 静鉄線狐ヶ崎駅裏にある。駅前が江戸期東海道であり、吉川という地名がいかに南北に長いか分かる。ここが吉川の南端である。岩国城主の大名吉川氏は参勤交代の度にこの神社に参詣し寄付をしていったといわれる。かつては境内はもっと広かったが、線路や駅舎にとられたという。建物は文化財である。かつて吉川氏というスポンサーがいたからなのか羽振りがよかったのだろう。地域が広いのもそのためか。
 本来は吉川館にあった氏神だが、当地に移転した。創建不詳、市指定保存樹林、石灯籠「文化三」、日待ち太鼓保存会、板碑、境内の2/3は線路で消失。市地域登録文化財(石造物)第1号・旧鳥居・寛政元(1789):吉川氏の由来等のことを書き付ける。昭和59年に書写された石鳥居が現在建つ。
 江戸期東海道からの参道を北に向かうと神社で、さらに北に向かうと吉川の地の中心地にむかうことになるようだ。
東海道からの分岐点の南向かい側はどうも久能寺観音道になるようだ。
 *「久能寺(観音)道」参照。


=西久保・庵原街道(清水区西久保~庵原)= イハラ 
 清水区西久保秋葉山前交差点を北東に曲がり庵原に向かう街道である。古代庵原の国イホハラノクニの中心地に向かう道であろう。矢倉神社から盧崎神社に向かう道が古代官道だろうが、それ以前から使われていた道の可能性があり、庵原川が増水すれば、この内陸側を通る道が使いやすかったであろう。一種のサブ東海道であろう。西久保の矢倉の辻辺りから庵原を経由して横砂の盧崎神社までの区間を扱う。一応「庵原街道」と名付けさせてもらう。
・鹿島神社(西久保509)  
 「大乗妙典六十六部 寶暦九」、「神社仏閣拝礼供養塔 安政五」、新・猿田彦大神、石塔「明治42」、常夜燈「大正13」、狛犬「昭和17」、板碑、手洗石。市保存樹木:くす・しい。要石:石工ののみのあとがついていて、のみで打つと石から血が流れたという。どんなに掘り起こそうとしても掘り出せないという。
・正一位稲荷神社(西久保498)  
 秋葉山裏山は古墳である。今は公園になっている。戦時中は砲台になっていた。頂上に祠。
・龍雲院(西久保82)  
 石仏2、石塔4、馬頭観音、板碑、新・石仏・石塔、市保存樹林:しい。
・八坂神社(八坂北1丁目2)  
 北東斜面が古墳だが、現在住宅や東名清水インターになっていて消滅しているのではなかろうか。石塔類:石鳥居、手洗石、石灯籠。
・神明宮(袖師町38)  
  石鳥居「昭和61」、常夜灯「嘉永九」、青銅製鳥居?、常夜灯2「昭和6」、「袖師相撲甚句記念碑」、記念碑、市保存樹林:くす・しい・もち・いしがし、奉納巨大鉄釜。
 裏山は5世紀末の前方後円墳で神明山1号古墳という。ちょうど外形に沿って石を並べてあるので分かりやすい。東側には細長くフェンスで囲ってある所があり、石室の横穴が見えるが、東半分は削られているようだ。また周辺を含めて4~5古墳があったようだが開発により消滅したようだ。この辺りに庵原の豪族が古墳を作ったということは、この辺りにムラがあったということか。ちょうど庵原街道も眼下を通るのだ。
・清水区庵原公民館(庵原町68)  
 石碑「庵原村役場跡」、石臼、手洗石、板碑。 
・神木神社(原8)  
 石碑「神木神社」。山岸氏宅門内にある。 
・お堂(庵原町449)  
 庚申塔3「大正9」「昭和55」。
・禅洞寺(庵原町477)  
 石塔「南無観世音菩薩」。 
 ・地蔵堂(原454)  
 地蔵多数。庵原街道から久林寺に上る参道入口の墓地横にある。  
・久林寺(原439)  
  朽ち欠けた石仏3、新・石造物。 
・砥鹿神社(原360)
 造営棟札1757年。石鳥居:近代、狛犬2:近代、石灯籠2:近代、新・手洗石、石灯籠脚部、石祠、樹木:250年?。  
・三池平古墳(原と山切の境、ナショナルトレセン入口横)  
 5世紀初期の前方後円墳で珍しい出土品があるようなので、イホハラ氏はかなりの力を持っていたということだろう。神明山古墳が5世紀末で数十年間で中心地が南下したのだろうか。現在復元整備され見やすくなっている。以前はみかん畑山の頂上の小屋の中にあり、そこの透明窓から石室の上部を覗くことができた。
・一乗寺(庵原町1937)  
 石塔類多し。庭も広く美しい。落ち着いた風情のある寺院。昔は豪族や武将の館があったと思われる。
・郷社豊由気神社(庵原町2894)  
 
・福泉寺(庵原町2579)  
 
・円応寺(庵原町2539)  
 
・蜂ヶ谷八幡宮(蜂ヶ谷306)  
 小丘上に神社がある。石塔類。隣に池がある。
・関田神社(山原343)  
 石塔類。
・大乗寺(草ヶ谷114)  
 「善光寺供養塔」3、石塔3、石塔2、石仏3、「庚申塔」、「三界萬霊塔」、延命地蔵、水子地蔵、鐘楼、新・南無虞遮那佛、新・観世音菩薩、新・五百羅漢:境内のあちこちにあり見事である。寺の境内から裏山は山城である。
 寺の門前から庵原中学前に出る道及び東久佐奈岐神社手前の道が古代東海道ではなかろうか。
・庵原城跡(草ヶ谷114)  
 庵原の地は豪族イホハラ氏の出身地で、この辺りに本拠地を構えていたと考えられる。城は中世の山城である。この麓辺りが旧清水の中心地だったのだ。縄文遺跡も出土し古くから人が生活していたことが分かる。
・式内久佐奈岐神社(東久佐奈岐神社)(山切102)  
  庵原街道より少し北に入るが、ここに日本武尊ヤマトタケルノミコトがかつて陣を敷いたという。その跡地を副将:吉備武彦命が社を造り日本武尊を祀ったのが創建という。昔は東久佐奈岐(草薙)神社といったようだが、今は正式名ではない。しかし東久佐奈岐神社と呼ぶ方が、草薙神社と区別しやすいので通称名を用いる。
 石鳥居「大正10」、石灯籠2「明治8」、古・石灯籠、石灯籠「平成14」、手洗石コンクリ製、狛犬2「昭和3」、石灯籠4、石鳥居「平成20」、手洗石「紀元2600年」、石灯籠2「寛政四」、祠多し、手洗石、石灯籠2「平成14」。
・若宮八幡神社(尾羽2)  
 創建不詳、石灯籠脚部「文政七」、石灯籠2「昭和46」、古・手洗石、石鳥居「昭和45」。
・松雲寺(尾羽22)  
 六地蔵、石仏、祠、石塔、市保存樹木:カシ。
裏の観音山に観音菩薩が安置されている。その光背のようにIAIという産業用ロボットの会社工場の高層建築物が後ろを覆っている。樹木の覆う山を上って寂しい場所にあるはずの観音の後ろに、モダンな高層ビルの壁や窓が白っぽく光り、そのミスマッチが唖然として妙におもしろい。最低を通り越し最高である。
・尾羽廃寺跡(尾羽22)   
 尾羽公会堂付近から礎石や瓦等が見つかったということらしい。近くにはその瓦を焼くための窯跡も発掘されたようだ。ここに大きな寺院があったということは、それだけ開けていた証拠である。付近のお宅の道沿いに礎石が露出している。尾羽公会堂、老人憩いの家周辺が寺の敷地である。
・石塔類、尾羽公会堂、老人憩いの家(尾羽355-6)  
 「庚申塔」2、「西国順礼」、石塔3、地蔵2「天明三」、准(月低、月偏に低つくりである)観音菩薩堂:石仏2。 
・盧崎神社(横砂本町29)イヲサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
おそらくこの神社を古代官道は目指したように、中世の東海道も目指したのだろう。
 「盧」の字はイホハラのイホと読むが漢和辞典ではロと読む。ここではイヲと読む。 
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 17:54Comments(0)古道

2014年11月04日

安倍街道

○安倍街道
 2014、3/2(日)、安倍街道についてあまりに部分的過ぎて、将来少しずつでも書き足していこうと思っておりました。今回少しは調べられたので内容をリニューアルします。まだ未調査はありますので、今後ものんびりではありますが、改定していくつもりです。少しほっとしました。
3/15に井川に行けたので井川部分も改訂します。3/21           調査:13年11~12月、14年2~3月を含む版 
 さらに14年10~11月調査、改定’14 11/3
                                                        
・総説 
 一般的には静岡市中を安倍川沿いに遡り油島で安倍川支流の中河内川に沿い遡り、口坂本温泉を経由して大日峠を越えて井川に達する街道を本道とする。支線としては、先の油島でそのまま安倍川本流を遡り梅ヶ島温泉や安倍峠を越える梅ヶ島街道がある。また先の本道でも、玉川から口坂本側へ行かず、西河内川に沿い遡り大沢から笠張峠を越えて井川や大間に行く西河内川ルートもある。それらの本道や支線からさらに周辺へ分岐する峠道等は数多い。
一旦は2000年頃から12年まで少しずつ調べてはきたがあまりに部分的であった。そこで今回13年11~12月、14年2月
にかけ未調査だった主だったところだけでも一通り調査を試みた。すべてのルート及びその周辺地域の道路沿いとなると膨大すぎて手におえないのですべてのルートと遺物を調査紹介はできないが、調べられた範囲内でも発表し、今後の方たちへの調査研究への一助、および文化財や観光資源の発見につながれば幸いである。また間違いは多かろうが、今後ご指摘をお願いしたい。古街道研究が進むことを望む。

・用語説明 
・国、県、市=国、県、市指定、・有、無=有形、無形、・登=登録、・文=文化財、・天=天然記念物、・重=重要、・民=民俗、・石=石製、・家=家型、・新=近代から現代にかけて作られた新しいものと推定されるもの、・古=新しくなく古そうなもの、・欠:破損欠落しているもの、・馬頭=馬頭観世音菩薩、・コンクリ=コンクリート製、(2)=2基、
・古い用語説明 
廿=20、廿の縦線3本=30、等=塔、歳‣天‣月日=年、
美良または羊良=養(美や羊ではなく羊の下は大であり美ではなく横線3本である。狼という字に似ているが、その字がパソコンで出てこない。そういった字は多く他の現代的な字に切り替えたり注を施す)、クイズ:ちなみに養がなぜ美(横線3本)や羊(下は大)と良なのかはちょっと考えるとすぐ分かります。このように漢字の部分を上下左右に組み替えることは石塔への刻字ではよくあります。彫る時の字のバランスを考慮した石工さんたちの工夫です。ちなみにある石工さんはこういう字をお寺さんの字と言っていましたが寺院で使う字ではありません。この前見た字では政を上に正、下に政の正抜きの字を彫ったものを見ました。
*「石仏事典」類を参照してください。年号や干支もこれで分かります。
・住所について 
なお住所は正確に分からないものは多く、隣や付近の住居の番地号を用いているものが多い。

○本街道:静岡市中~井川 
 安倍街道の一般的な出発点と思われていたのは井宮神社と薩摩土手のある所かららしい。しかし現代の安倍街道「県道井川湖御幸線」は国道1号線静岡駅前からであり、旧東海道からの分岐点は呉服町の札の辻からとなる。そこで今回はその付近の周辺遺物も含むこととした。
 明治20年代の陸地測量部地図で確認すると、札の辻から北上し本通りで右折して、外堀からの通りと合流し安倍街道へつながっているので、外堀通り「県道井川湖御幸線」が安倍街道への直進路といえるのか。

~これより下 静岡市市街地内、静岡駅北西部を参照せよ~
*移動: 
~~これより上、静岡市市街地内、静岡駅北西部を参照せよ

・賤機稲荷神社(宮ヶ崎町)  
 かつては忠正酒造裏と紹介できたが解体されたので、自動車販売店裏の山際にある。隣は片羽町公民館である。
・神社名石碑:新:賎機稲荷神社、・木鳥居:昭和六十年、・手洗石:奉納 片羽町婦人會
・忠正酒造(材木町6)   
 かつて存在した造り酒屋、今は跡形もない。忠正酒造ビルと昔ながらの建物を解体してしまった。
・泰雲山瑞龍寺(井宮町48)  
・説明版:宗派:曹洞宗、寺系:静岡市葵区沓谷長源院末、開創:永禄3(1560)年室町戦国時代、本尊:聖観世音菩薩、開山:能屋梵藝大和尚のうおくぼんげい、開基:旭姫(徳川家康公夫人、豊臣秀吉公異父妹)、本山:大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)、大本山総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)、由来:永禄三年長源院第四世梵梅ぼんばい和尚の法嗣:能屋梵藝和尚が開山して旧寺址を広めた。当時は浅間山の西麓に位置し駿河七ヶ寺の一つであった。家康公は駿府在城の折度々住職を招集し曹洞の法門を聴聞された、当寺も七ヶ寺の一つとして家康公と深い縁に結ばれていた。天正十八(1590)年、旭姫没するや当寺に墓を建て、その時の法名「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」から当寺の名前が瑞龍寺となりました。この為豊臣家、徳川家両家より寺領を寄進せられた。戦災等で寺を消失し、のち昭和26年再建する。寺所有の重宝品:旭姫の小袖、秀吉公の朱印状、蝶足膳(桐紋蒔絵膳)、境内設置:旭姫の墓、切支丹灯篭、芭蕉の時雨塚、
開基は旭姫(豊臣秀吉妹で離婚させられ家康妻として嫁す)。
・観光案内版:しぐれ塚(芭蕉の句碑)
 ・キリシタン灯籠:竿石に舟形の囲みがあり、その中に浮き彫りされている。「1605年頃駿府城にフランシスコ会、イエズス会があって、城内、安倍川の2か所に南蛮寺があったといわれている。」
個人的には切支丹というより神仏関係と思われる。おそらく今後切支丹灯籠のいくつかは否定されると思われる。
’13年12月再見、案内表示の矢印や説明がなく、灯篭も各部がずれたまま中途半端に設置され一部損壊していて悲しくなった。私が否定したためだろうか。私見では否定したいが、だからといって灯篭をぞんざいに扱われることは悲しい。大切に保存し、説明版もつけ最後に一言否定説もあるとしてくれたらそれでよい。否定説も断定できないし、肯定説も断定できない。ただ今後否定説が有力になるだろうとは思います。 
*私見の「キリシタン灯篭疑問説と保存活用」についてはブログ内の別項目を御参照ください。文章が長引くのでここでは簡単に済ませました。
・しぐれ塚:松尾芭蕉の句碑。安東村長安寺が廃寺になったので明治十二年頃材木町の大村青渓氏が移したもの。石の右側に「芭蕉桃青居士ばしょうとうせいこじ」、左側に芭蕉の命日「元禄七年十月十二日」が刻まれていた。「きょうばかり人も年よれ初しぐれ」から時雨塚という。
・旭姫の墓:朝日姫とも書く。正式な墓所は大阪。こちらは家康が建てた墓。「豊臣秀吉の妹で徳川家康の正室であった。家康と駿府城に住んでいたが、京都に行き48歳で亡くなった。家康が東福寺から分骨してここに墓を作った。戒名:瑞龍寺殿」 
 ・説明版:豊臣秀吉公の異父妹で尾張の地士佐治日向守の妻、秀吉が小牧長久手の戦後家康と同盟関係を築くため妹を日向守と離別させ天正14(1586)年5月浜松城の家康の所へ嫁がせた。天正16年自分の母、大政所病気見舞いに上洛しそのまま天正18年1月自身も病気で没した。48歳。秀吉は京都東福寺に埋葬し「南明院殿光室総旭大姉」と諡(おくりな)し悲運な妹への供養を行った。家康と供に在った僅か2年、上洛後2年で病没し加えて前夫日向守は秀吉の仕打ちを憤り切腹し果てる誠に薄幸の身の上である。
一方家康は旭姫がしばし詣でていた当寺に墓を設け「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」と諡し祀った。
・新:燈籠(2)、・新:穏々の苑、・一石一字経寺塔、
・発掘された墓石:慶長十九甲寅~空風火水地本学~~~、・発掘された墓石:慶長十一丙午空風火水地笠岩~~~、
 説明版:この2本の石塔は昭和57年9月12日台風で墓地の一部が崩れ落ちてしまいました。その場所から掘り出されたものです。どなたのものか分かりませんが、今から約327年前に亡くなられた方と思われます。
・句碑:?、・板碑:宗季山本翁碑、・新:六地蔵、・新:南無釈迦牟尼仏、・新:水子地蔵尊、
・安倍軽便鉄道旧井宮駅前(井宮町6-1) (株)赤石工場前
・工場横の塀に旧井宮駅と山岡鉄舟邸址を示す看板が掛かっている。
・説明版:安倍鉄道跡、大正5(1916)年4月15日井宮から牛妻までの10㎞の軽便鉄道として開通。福田ケ谷ですれ違う単線で平日乗客は150人位。昭和7(1932)年に廃止された。
*安倍鉄道路線跡については別項目「安倍鉄道跡」を参照ください。
・山岡鉄舟邸址(水道町1-5) 魚仲増田商店(魚屋)前、先ほどの(株)赤石工場前に説明版  
・石碑:明治の初め徳川家について静岡に来て十分一の役人のいた家に住んだ、江戸城明け渡し等非常に功績のあった有名な人である。
 十分一:安倍川からいかだで運んできた木材、炭、杉皮等を十分一という役所で荷物の十分の一を税金として納めさせた所であったので、広い敷地建物があった。
・説明版:山岡鐵舟:鐵舟は戊辰戦争時、徳川慶喜の意を受け、江戸に迫る東征軍の陣地を突破して、大総督府の参謀西郷隆盛と駿府で直談判、江戸城無血開城への道を開き江戸を戦火の災厄から救うと共に徳川家の存続もなさしめた。後に西郷は、この時の山岡を「命もいらず名もいらず官位も金も要らぬ始末に困る人」と評して感嘆した。明治元(1868)年、駿府藩若年寄格幹事役、明治2年、静岡藩権大参事としてこの地に住み旧幕臣の無禄移住者の生計確保のために奔走し、城下の治安維持にも努めるなど八面六臂の活躍をした。さらに殖産興業にも意を尽くし、牧之原大茶園の実現や清水次郎長の富士の裾野開墾事業推進に尽力した。明治5年、西郷隆盛等の強い要請を受け、十年間の期限を切って明治天皇の侍従となり、青年天皇の人格形成に大きな影響を与え皇后からも絶大な信頼を得ていた。明治16年、清水区の補陀洛山鐵舟禅寺(元久能寺)建立を発願、明治43年、多くの人たちの支援により完成した。 平成22年4月吉日、静岡・山岡鉄舟会  山岡鉄舟邸址の記念石碑をここから北寄りの歩道上に再建した。
・石碑:山岡鐵舟:通称、鐵太郎、剣、禅、書の奥義を極めた明治の英傑。戊辰戦争時には、東征軍の参謀西郷隆盛と駿府で直談判し江戸城無血開城の合意を成した。明治2年には静岡藩権大参事としてこの地に住まい、藩政に多大な功績を残した。明治21年没、享年53歳従三位勲二等子爵、静岡市は鐵舟住居跡の記念碑を建てたが破損して撤去されたままであったため「静岡・山岡鐵舟会」の協力を得てこの碑を再建した。平成22年四月吉日、静岡市葵区水道町 町内会、
・大応国師産湯の井(井宮町76) 
1235年当地生まれ。1308年没。
・説明版:静岡市指定有形文化財(史跡) 、円通大応国師(南浦紹明なんぽじょうみょう)は1235年(嘉禎元年)旧駿河国安倍郡井宮村に生まれた。5歳の時服織村の建穂寺に入り、淨弁法師のもとで学び、鎌倉の蘭渓道隆禅師のもとでの修業を経て、中国(宋)に渡り臨済禅を修めた。帰国後は鎌倉の建長寺や九州大宰府の崇福寺等に住山し、大徳寺を開山した宗峰妙超や妙心寺を開山した法孫まごでしの関山慧玄かんざんえげんをはじめ、多くの弟子の育成に努めるなど、臨済宗の普及に功があった。この井戸は国師誕生のとき産湯の水を汲んだものと伝えられている。国師の遺跡として、郷土に残っている唯一のものである。平成13年8月、静岡市教育委員会、
・松樹院(井宮町248)(浄功院) 
・おみたらしの石仏 
・お薬師さん:薬師如来、善導大師作、 
・浄功院:家康長女死去により乳母が供養建立。明治期に合併。 
・燈籠、・祠石、・稲荷、・新:燈籠、・祠、・新:水子地蔵、・燈籠、・三界萬霊 元禄二己巳天、・新:燈籠、・新:永代供養塔、・常緑樹:大木1、中木1、
・松平忠明の墓(井宮町194-4)
 松樹院の少し北側の住宅地の路地を抜けた山腹斜面にある。
・説明版:九州の大名の子として生まれ、信濃の松平家の養子となる。信濃守。1798年幕府の命で北海道の奥地まで調査した。函館山頂に信濃守の詩碑がある。1802年駿府の城代となる。火災で粗末な仮の宮であった浅間神社再建の途中死去。駿府の人はありがたいご城代さんと呼んでいた。自分が死んだら浅間神社の木遣りの音頭の聴こえる所に葬ってほしいとの言葉に従ってここに墓を作った。
隣は古墓地である。・古墓地、
・静岡ホーム(井宮町183)(社会福祉施設)、
かつては井宮監獄、その後駿府城内の市民文化会館付近に移転、現在は静岡刑務所(東千代田3丁目) 
・井宮神社妙見宮(井宮町179) 
 一般的にはここからが安倍街道出発点となる。 
・籠鼻砦跡:賤機山城西端出丸、標高123m。 
・月承句碑、 ?句碑:辞世、
・保食稲荷:無実の女囚にまつわる悲しい物語が伝わる、井宮監獄が駿府公園に移転したためここに祀る、食べ物の神。、・祠:稲荷神社? ・稲荷(2):大正二年、 
・木鳥居、
・石碑:村社井宮神社 昭和十四年、・石碑:奉納 宅地拾壱坪 町内一同 大正拾年、
・石塔:(梵字)阿闍梨日海 雄大 僧林、・忠魂碑:明治四十年、・石階段:奉納 大正十年、・手洗石:、・手洗石:天保十一年、・石燈籠(2):、・狛犬(2):昭和六十年、
・石碑:天保六 雲泉~~~、・手洗石:明治九年・常夜燈:文政二、
・燈籠:文化十三、・燈籠:明治九年、燈籠:奉、・常緑樹:大木、
・石柵:(奉)納松永~~~、
・説明版:妙見山井宮神社:現在の拝殿は安永5(1776)年に再建されました。徳川家康が妙見菩薩(北斗七星の一つ破軍星)を祀ったので、妙見山の名の方が有名である。昔から妙見さんと呼ばれている。開運の神また薩摩土手の守護神でもある。北斗七星を祀ってあるので8月に七夕まつりをしている。
・説明版:徳川家康公跡地、安倍川石合戦見学地:臨済寺に人質の頃、山伝えに当社妙見宮に参拝され石合戦見学地と伝えられている。
・薩摩土手(籠上3-48) 
 徳川家康の命により薩摩藩が作った。家康からの命令だったためかなり気合を入れて作ったようだ。外様大名の薩摩藩の財力をそぎ落とす目的もあったようだ。これにより藁科川と安倍川が西で合流し今の安倍川東岸市中が安定することになり、現在の静岡市街のもとができた。
・薩摩土手の碑 
平成元年
・説明版:由来:薩摩土手は権現様堤つづみ、または一部ひやんどて火屋土手とも呼ばれ、江戸時代の始めに造られました。薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、旧静岡市史に掲載の天保13(1842)年に描かれた地図「駿府独案内すんぷひとりあんない」と言われています。静岡市史によると、慶長11(1606)年薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで約4㎞にわたって築堤したのが薩摩土手と言われています。この堤は、江戸時代以来、市民の生命と財産を守ってきましたが、今日都市化の進展の中で現存しているのはこの辺りだけとなっています。平成元年4月、静岡市、
・六部尊 
・堂、石塔、
・川除地蔵尊(水道町116)  
・地蔵:宝永四、・手洗石:昭和十七年、・堂、
・説明版:由来:水道町の川除地蔵尊は、井宮町にある泰雲山瑞龍寺の所属仏堂でありますが、水道町の「しばきり」即ち、最初から居住者であるといわれる故小林京作翁から私が聞いた川除地蔵尊の由来は次のとおりであります。
 今を去る780年前のこと、その年の9月9日(初9日)、19日(中の9日)、29日(弟9日)と3回にわたり、安倍川に大洪水がありました。その時はいわゆる「イノコナグラ」といわれる激浪が渦巻き、堅固であった一番水道の堤防も刻々危険に瀕しました。時の水利方役人松岡萬は、地蔵尊の仏体を菰に包んで堤防の上に安置し、治水を祈願しながら衆人を督励して、防水に専念していました。附近の住民はもとより、安倍川流域の、殊に一番水道より灌漑用水を取り入れている農民たちは非常に心配して地蔵堂に集まり、連日連夜の対策に協議を重ねました。しかしこの度重なる大出水に対しては施す術もなく、拱手傍観途方にくれておりました。そこへ一人の老僧(俗に六部さん)が現れ「この大難儀お察し申す。拙僧もはや老齢ゆえ、安倍川流域の人々のために人柱となってこの堤防を守り治水永久のご安泰を祈り申そう。」と申し出て、念仏を唱えながら従容として堤防の中に埋りました。その老僧が唱える念仏の鐘の音は、それから七日七夜、堤防の中から消えなかったといわれます。これに力を得た水利方を始め、衆人一体となっての防水作業が功を奏し、ついに事なきを得ました。この地蔵尊は、それまでは厄除地蔵尊として、地方の信仰が厚かったが、それ以来川除地蔵尊として衆人の信仰の的となったということです。現在の地蔵の尊体には、その背面に「宝永四(1707)年丁亥天二月吉日」と刻まれてあります。即ち今を去る277年前、中御門天皇の御代に再建されたものであります。昭和61年8月24日、水道町町内会、
・湯浅堤の碑(柳町161)  
・板碑:大正十三年、湯浅県知事が音頭をとって築いた堤防なのでこの名がある。
・洋館(籠上1)  
古橋氏邸宅、13年12月に見たところ、塗り直したばかりで新しく見える。
・安倍鉄道線路跡(籠上1と7)  
井宮小学校と古橋氏邸宅の間の道がかつての安倍鉄道線路跡である。
・賤機山城 
 標高173m頂上本丸、土塁、堀切が残存。徳川家康支配後廃城。 
・(周辺紹介)賎機温泉 美人の湯(籠上15) 
 近年採掘された温泉、日帰り温泉。賎機山山麓と平地の間に温泉が出ることを証明したといえる。理屈上は出やすいようですが、ただ温泉採掘は1回1億円で2回かかったので2億円経費がかかったということのようです。
・難波神社 
 明治以前、小字の難波(どうも円成寺の南側)にあったが、1909年白髭神社に合祀。 
・円成寺(籠上18) 
 1720年頃創建。仏堂内成庵と種徳院が合併し臨済宗妙心寺派となる。本尊:薬師如来。 
・新:狛犬(2対):、・庚申塔:□政十二年、・地蔵:法華一千部之塔 文政三歳庚辰、・新:子育水子地蔵尊、・新:福神堂(大黒様、布袋様コレクション200~250体):大黒様布袋様好きなら一見の価値あり、おもしろ~い、・句碑:、・庭に新諸石仏多数、
・地蔵堂(籠上21) 
 長栄寺参道入り口 
・玉井山長栄寺(籠上24) 
1597年開基。本尊:聖観音。
・説明版:宗派:曹洞宗(禅宗)、当山は慶長2(1597)年に開創され、禅宗三派中の曹洞宗み属し、御本山は福井県の永平寺と、横浜市鶴見区の総持寺の両大本山であります。寺名の由来は、開基甫庵長栄の法名により、長栄寺と称されました。当山、本堂に安置されるご本尊は、古来より信仰深く衆生済度の仏様であります聖観世音菩薩でございます。境内には本堂、位牌堂、庫裏、山門と、夢のお告げによる井戸の中より出現された千手観音様を祀る観音堂と、その井戸が山裾にあります。また駿河一国札所の地蔵様が祀られております。なお著名人の墓も数基あり、本堂前左側には珍しい菩提樹の木があります。
・井戸観音:伝説では今川義元が桶狭間で討ち死に後、婦人が家宝の千手観音を敵に渡さぬため、この井戸に沈めた。後に僧が夢のお告げにより拾い、堂を建てて祀った。 
・説明版:井戸出現観音の由来(聖観音菩薩様):その昔、永禄十(1568)年武田信玄が駿河に侵攻し、今川家七代目氏親うじちかが滅ぼされた。その折賎機山の砦におられし姫君が重臣と供に狩野城麓の菩提寺慈悲山増善寺に庇護を頂くよう尾根伝いに当地へ降りられました。しかし昔は賎機山と対岸慈悲尾の間がすべて安倍川の河川敷であったため対岸まで家宝を持っては渡れなかった。そこで姫君は今川家の家宝、聖観音像を何人かに託したいとの思いで、この井戸に投入されました。後年幸いにもその観音様がこの井戸より発見され井戸出現観音様と称され、金色に輝くご本尊様として、深く信仰を頂き現在に至っております。平成22年12月吉日、玉井山長栄寺、
・玉の井:寺の裏にあり、伝説では弘法大師作の観音がこの井から出現した。出現井戸、 
・(欠):馬頭11基以上すべて欠損、如来:けっか座位2、・コンクリ手洗石:、・玉井山長栄寺本堂建設記念碑 昭和四十九年、・石塔:△寛文十二ニ壬子 一郷心信(行人偏に奇の字)庚申~(1672)、・新:燈籠2、・石塔:観世音出現之井 西国三十三所 秩父三十三所 観世音菩薩 天明六、・新:家石道祖神、・新:厄除平和観音、・新:慰霊塔 永代供養の塔 安らぎの塔、・新:水子地蔵尊、・西国秩父供養塔 文化六己巳、・菩提樹、
・新:六地蔵:説明版:お地蔵様の信仰は、中国では1340年ほど前、日本ではおよそ1240年前のようです。その中で六地蔵様の信仰は約890年前に始まったとされております。お地蔵さまは、この世の中のすべての人を極楽に送り届けるということを請願されました。この世というものは、仏教では六道、つまり六通りの世界のことを言います。六通りの世界が色々組み合わされてできあがっているので、ある時は争い、ある時は苦しみ、ある時は笑いあって人々は生活しているのです。六地蔵様は、それぞれ六つの世界を、一つずつ分担して救い守って下さるのです。延命地蔵様、水子地蔵様、六地蔵様と、名前はそれぞれ異なっても、後生、現世、来世にわたり、長い間救い続けて下さる仏様です。一回でも多くの御縁を結び、お参り下さることをお勧めいたします。
・白髭神社(籠上28) 
1812年再建。1846年白髭神社と改称。・コンクリ鳥居:昭和五十八年、・手洗石:昭和弐年、 
・貴庵寺、地蔵尊堂(昭府町、昭府2丁目32) 
 寺山峰への登山口。・西国秩父壱国供養塔 施主勘四郎 □(長反)安□四月、・庚申供養 寛延四辛未、・石塔:?読、・奉巡礼西国秩父坂東南無観世音菩薩供養(羊良) 寛政九、・板碑:新:寄贈檀徒一同、・新:地蔵、・新:五輪塔:海野家遠祖各霊菩提、・馬頭観世音菩薩 籠上新田望月清作建之、・新:燈籠2、・六地蔵+地蔵 寛永五年?、・新:手洗石:、・新:合葬塔、
・菖蒲神社(昭府町、昭府2丁目32)  
・コンクリ鳥居、・変形家コンクリ道祖神、
・白髭神社(新伝馬3丁目14) 
・石鳥居:御大典記念 昭和三年、・手洗石:平成23年、
・説明:略記:祭神:建内宿弥命たてうちのすくねのみこと、八街比古命やちまたのひこのみこと、八街比賣命やちまたのひめのみこと、所在地:静岡市新伝馬3丁目14番3号、祭儀:元旦祭1月1日、茅の輪くぐり祭6月30日、例大祭(日待祭)10月中旬、七五三祭11月中旬、由緒:創建の年月は不明であるが駿河志料等によると伝馬町新田は宝永年間(1704~1711)に開村され、貴庵寺(現、昭府町)境内に鎮座する左口神社を氏神として奉祭してきた。弘化3(1846)年に現所在地に新殿を建て、建内宿弥命を奉祀し併せて従来信仰してきた左口神社の祭神、八街比古命、八街比賣命を祀って白髭神社と称して以来、一村の氏神として信仰した。明治8(1875)年伝馬町新田全域の氏神として村社に指定され県の神社明細帳に登載された。本殿、拝殿は昭和16年に改築され、現在のものは平成16年に町民、氏子の浄財寄進により再建したものである。祭神のご神徳:①建内宿弥命は国の政治に非常に功績があり日本の国で初めて大臣となされた方で出世の神、長寿の神、子孫繁栄の神、として信仰される。②八街比古命と八街比賣命は夫婦の神で共にこの町内に外部から悪い病気や災害が入ってくるのを防ぎ氏子の安全を守って下さる神様である。
・松富団地入口(松富上組、松富1丁目) 
 現街道(県道井川湖御幸線)より東の山側にほんの少し狭い道跡がある。これが近代の道だろう。再整備されつつあり近代あるいは街中に残る古街道の景色は消えうせるようだ。13年12月に山側の古く狭い道跡は道路拡幅工事により完全消滅した。
・石塔:天下泰平 宝暦八戌寅 駿州安倍郡松富村 ○日本廻国六十六部供養塔 国土安全十月吉祥日 願主 藤浪定右衛門 
・石塔:△ □□□ 
・白髭神社(松富2丁目-8) 
・手洗石:、・石鳥居:大正十年、・石碑:、・神社名碑:村社白髭神社、・石柱:明治四十二年八月指定神饌幣錦(金なし)料供進指定社 
説明版:お祀りしてある神様:祭神名:武内宿祢命たけのうちすくねのみこと(長生の神様)、品陀和気命ほんだわけのみこと(武運の神様)、須佐之男命すさのおのみこと(農業の神様)、菅原道真公すがわらみちざねこう(学問の神様)、瀬織津姫命せおりつひめのみこと(水の神様)、例祭日:10月17日、由緒:創建年月は不詳であるが、慶長2(1597)年2月に再建された。
・板碑(松富3丁目2、町内公民館)  
・板碑:合併記念碑 昭和七年、・板碑:耕地整理碑 昭和五年、
・富慶寺(松富3丁目7)  
・新:永代供養塔、・石燈籠、・新:子持地蔵尊、・新:六地蔵、・新:延命地蔵尊、・不動明王堂、・五輪塔:土水火、・地蔵、・地蔵か墓石?
・地蔵堂、白髭神社(上伝馬26-10) 
・地蔵堂裏に墓石4基、・石塔:七世父母六観音□為 正慎六亥辰七月(正徳六丙申七月なのか?)、・石塔:読?、・石塔、
・木鳥居、・石:家:道祖神:稲荷、
・白髭神社(与一6丁目13‐16) 
・木鳥居:平成二十四年、・庚申塔:昭和五十五年、・小川地蔵尊 海蔵寺、・庚申塔:文政石?年、・手洗石2:明治三十一年十月、神木2:杉、
・與一右衛門新田開発人 與一右衛門碑 平成十二年:説明版:わが町与一は宝暦元(1751)年奥津与一右衛門の手により開基、以来250年間、度重なる安倍川水禍をも克服し、今や戸数1400、ますますの飛躍疑いなく、ここに与一開基250年を記念し、奥津家継嗣にして志太郡大井川町宗高より移り越したる池ヶ谷一門によりこの碑を建立するものなり。平成12年10月吉日、
・石仏(松富上組4‐3、運転免許試験場入口バス停近く、水神橋近く)  
・馬頭:天保十二年、山際に祀られている。 
・道祖神、水神宮(松富4丁目9)
・石:家:道祖神、・水神宮 松富講中 明治二拾七年、市立北部体育館方面入口手前
・恩愛の像(与一6丁目17 市立北部図書館) 
・恩愛の像:元駿府公園内設置:説明版:この像は昭和37年児童会館の開館5周年を記念して建てられたものです。本文:しろがねもくがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも 銀母金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米弥母  山上憶良「万葉集」より  意味:金や銀や宝石なんて何の役に立つのでしょう。それよりすぐれた宝としては、自分の子にかなうものはありません。」といった意味で、わが子を思う親の気持ちをみごとに歌い上げています。 
・川除地蔵堂、石塔類(福田ヶ谷328)、福田ヶ谷公民館東側丘上  
・川除地蔵堂、・地蔵、・庚申供養塔 安永三、・庚申塔 昭和五十五年、石塔?、・馬頭?、・地蔵?欠、・観音?欠、・観音?欠、・馬頭、・如来?座像、・妙法馬頭観音、・馬頭 昭和二年一月 川村浅左エ門、・馬頭:?天明二、馬頭:昭和二十二年二月建之 川村兼吉 
・日枝神社(福田ヶ谷779)  
・コンクリ鳥居、・手洗石、
 説明版:鎮座地:静岡市葵区福田ケ谷779番地、神社名:日枝神社(宗教法人登記昭和27年元月)、創建不詳、安永七年四月二日再建、旧社格村社明治8年2月、現在の拝殿は昭和53年新築、祭神名:大山咋命おおやまくいのみこと(山を支配し平野の繁栄を守る大神)、御神徳:聡明長寿、家内安全、五穀豊穣、産業繁栄、例祭日:10月17日、神社有地1254平方m、工作物:本殿、拝殿、その他、
隣の大塚氏裏山畑で白ヤギ飼育中(13年12月)
・石仏(福田ケ谷52)  
・六地蔵、・三界萬霊等 文化四年、
・諸岡山(下122)  
・「有功堤之碑、明治26年(1893)」、
説明版: 有功堤之碑:この石碑は明治26(1893)年従一位勲一等近衛忠煕篆額このえただひろてんがく、権中教正祝部宿祢生源寺平格ごんのちゅうきょうはふりべすくねしょうげんじへいかく、撰文静岡県知事従四位勲四等小松原英太郎書による記念碑である。この有功堤というのは山脇から諸岡山に繋がる堤防の内、諸岡山の自然堤を利用して、仮定(ヒジマガリ)という堤防の作りによって、そこに一旦水を溜めて水流の勢いを弱めて下流に流す仕組みの堤防である。この仕組みの堤防が安政元(1854)年に駿河国に大地震が生じ大谷崩れが生じた上に翌年6月30日の大洪水によって堤防は決壊して流域の町村の人々と田畑に多大の損害を与えた。明治七年稲葉利平が中心となって工役を督し、元の堤防に復旧した。それ以来一度も水害がなくなった。明治26年11月にこの堤防と人々の功績を讃えて建立された。下郷土誌作成委員会、
・「文化五□□年 奉納百八十八番供養塔 □本清拾郎」、「文化二年十一月吉日 庚申塔」、「文政五歳□年 奉納百八十八番供養塔 七月吉日 願主幸四」、「紀元二千六百年記念 庚申供養塔 昭和十五庚辰年三月 上之谷講中」、「昭和五十五年 庚申塔」、文殊地蔵、三十三身観音、普賢菩薩、観音堂、「忠魂ノ碑」、「戦没者慰霊碑」、・地蔵?欠:寛政十二歳、 
・養秀寺(下122)  
・「東宮殿下御成婚奉祝記念、大正13年」(13年12月未発見)、・馬頭観音「」(13年12月未発見)、・庚申塔 文化二、・庚申供養塔 □□歳、・禁葷酒(埋設)、・新:地蔵:杉村隆風、・如来?観音?墓石?:寛政十二年、・新:水子地蔵、
 養秀寺門前石垣は鯨陽学校跡の石垣である。この学校が賤機南小学校前身で、この地域の近代教育の礎である。鯨陽学校より前には積善舎という私塾があった。 
・石碑(下134-2) 
・石碑:幕末志士稲葉彦兵衛出生地 大正十三年、
・上之谷、堂の藪跡地(下77)
・「庚申塔 吉文政七(1824)歳□ 甲申二月二十六日」、・他墓石4基、 
・三輪神社(下226)  
・鰐口「永正3(1506)年」、・コンクリ鳥居:昭和八年、・石燈籠2、・手洗石、・狛犬2、 
・福成神社(下)  
 賤機山最高地点、近世には神社が祀られていたようだ。近年整備され整っている。
・新:狛犬2:、 
・南無観世音菩薩、馬頭観音(下1088)、安倍街道土手の切通し  
観音「文政四(1821)」、馬頭観音「明和六(1769)年、九月建之」、「十一面 馬頭観音 供養塔」
・説明版:南無聖観世音菩薩(土手観音様)由来:昔旧安倍郡賎機村下字山脇地域において、流行病(悪熱)が発生したといわれている。それゆえ当地域では病を退治するため、文政4(1821)年巳七月、聖観音を土手の上に建立し祀り悪病を防いできた。それ以来当地域は健康で明るい地として栄え以来180余年にわたり土手の観音様と崇められ、皆に親しまれている。このたび第二東名工事が行われることから、やむなくこの地に観音様を移すこととした。 
・鯨ヶ池(下)、御用水(下284)  
 鯨ヶ池八景(福成の秋月、鴻巣の夜雨、窪田の落雁、大平の暮雪、御殿場の晴嵐、山田の帰帆、和田の夕照、諸岡の晩鐘)
 湧き水を元にする。戦前菱が生えていて食用にしていた。
 安倍街道鯨ヶ池出入口前に鯨ヶ池から流れてきた用水がある。これが街道に沿って南下し駿府城堀の水になったので、御用水という。この地点から堤防が賤機中学校東側を通り南から諸岡山北につながっていた。これを「有功堤」という。 
御用水 
・弁財天、宗像神社(下544)、鯨ヶ池脇  
 弁天様「明治3年」
・桜峠、地蔵(下554、北)  
 地蔵「明和3(1766)年」 
・昼井戸(下832)  
 稲葉家横、道路から見られる。単なる側溝として見落としてしまうほど、地味で目立たないが、ちょろちょろと今でも少しずつ透明な清水が湧くようだ。 
・石碑(下714-4)  
・石碑:大平農道完成記念碑 昭和五十六年、
門屋からの鼓平農道と山頂鼓平で合流して門屋までつながっている。13年12月俵峰までの林道開設中。
・水天神(門屋99、静岡市水道局門屋浄水場敷地内) 
・鳥居、社、
・門屋番所関所(門屋387)  
 街道横の白鳥家の辺りがかつての関所番所らしい。
・宝寿院(門屋639)  
 曹洞宗、本尊:阿弥陀如来、かつては地蔵堂と大日堂もあった。本堂北側は改修されてしまったが、かつてここに勝海舟の別荘の海舟庵があった。
・内野紀伊守藤原宗重 寛政十戌午歳、・庚申供養塔 文政十三、・奉待庚申供養塔 享保五、・観音、・地蔵:文化□、・六地蔵、・燈籠、・石碑3、・新:百観音、・板碑:忠魂碑、・欠:宝篋印塔か五輪塔の相輪か空輪らしき?
・勝海舟屋敷跡:説明版:勝海舟(1823~1899)は、江戸末期の幕臣として生まれ、通称麟太郎といった。幕末の騒然とした時世にあって、蘭学、兵学に通じ、幕府海軍の育成に尽力した。万延元(1860)年咸臨丸艦長として、遣米使節を乗せ我が国で初めて太平洋を横断した。そして明治維新の際には、幕府の陸軍総裁として山岡鉄舟を使者に立て、官軍の参謀であった西郷隆盛と会見し、江戸城の無血入場、徳川家の家名存続、慶喜助命に成功したことはあまりにも有名である。明治維新後、多くの幕臣は、元将軍慶喜の後を追って静岡へ移り住んだが、海舟一家も静岡市鷹匠町に居を構えた。海舟は旧幕臣の面倒を見る傍ら新政府の仕事をするなど、多忙な日々を過ごしていた。この頃ここ門屋の名主、白鳥惣左衛門と親交が始まり、頻繁に門屋を訪れた海舟は、この地の美しい自然に強く心をひかれ、母信子の隠居所として白鳥家の一寓を借りて孝養をしたいと念願した。しかし母は息子の孝心にもかかわらず間もなく他界した。その後海舟は少しの暇を見つけてはここ門屋の家に来て、秘かに要人と会い、また村人と肩の凝らないひと時を楽しんだ。この家屋は、その後白鳥家の屋敷内に移されていたが、昭和32年宝寿院境内に再度移築され現存されている。昭和60年1月、静岡市、
 *宝寿院和尚榑林雅雄氏によれば、その後息子夫婦の家として新築し直したそうだ。昔の家屋は消失したようだ。
・八幡神社(門屋542‐1) 
 創建不明、1713年再建、・コンクリ鳥居、・コンクリ燈籠2、・手洗石、・石:家:道祖神、 
・石碑:鼓平農道完成記念 昭和51年7月(門屋) 
 門屋奥から鼓平山頂まで舗装され下の昼井戸からの大平農道とつながる。13年12月俵峰までの林道開設中。
・三味線滝、小僧沢、御殿場の御殿石、鼓平、ばんば、 
滝や沢は門屋前を流れる沢を奥に詰めたところで途中まで農道で遡れる。皷平は農道を上り詰めて昼井戸との境の尾根の平らな茶畑の辺りで、かつて家康が鼓を打ったという伝説がある。
・三峯講(門屋390)  
・祠:三峯講、・祠:地蔵2、
・天神(門屋381) 
・観音、・天神之宮:祠、・新:燈籠、天神橋近く
・白澤神社(牛妻1139)  
 創建不明、1805年再建、付近に鉱泉、宝物跡、・石鳥居:大正五年、
・説明看板:延喜式内白澤神社 静岡市牛妻1139番地:鎮座、御祭神:伊邪那美命いざなみのみこと、建御名方命たけみなかたのみこと(諏訪神社)、大雀命おさざぎのみこと(若宮八幡)、木花佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと(浅間神社)、例祭日:10月17日、御由緒:当神社創祀年月不詳。牛妻の開村と共に祀り始められたものと思われます。惣国風土記という古い書物に「白澤神社伊邪那美尊を祭る。和銅三(710)年元明天皇の御代に諏訪神社を添えて祭る。」という意味のことが書かれてあり、更に延喜五(905)年醍醐天皇の勅命に依り編纂された延喜式神名帳には「駿河国安倍郡白澤神社国幣小社。」と登載されています。これにより1200余年の昔には既に存在したことが証明され、また1090年の古より延喜式内の神社として、毎年の大祭に駿河の国府より国幣が献納された静岡市でも最も古い貴い神社であることが分かります。而して当神社は牛妻の氏神、産土神として村人を始め遠近の多くの人々の敬慕、信仰を集めて参りました。明治38年に牛妻地内の若宮八幡宮と浅間神社を合祀致しました。現在の社殿は昭和13年に改築したものであります。御神徳: 伊邪那美命=母性愛の神、安産の神、寿命を司る神、建御名方命=開拓の神、殖産興業の神、大雀命=富国救民の神、慈悲の神、木花佐久夜毘売命=美の神、婦徳の神、
・日陰山、観音滝 
・牛妻原会館(牛妻625) 
・祠、
・牛妻不動ノ滝、不動尊(牛妻丹野)、少女滝、聖滝、扇窪 
・庚申供養塔 寛政十二年、丹野集落内、彫りが立派である。(牛妻1564‐1) 
・丹野会館(牛妻1957):地蔵、
・不動の滝:不動堂、
・稲荷神社(牛妻) 
 
・安倍鉄道旧牛妻駅跡(牛妻) 
・県道沿い小萩橋より西の安倍川側の細い道で北へ向かうのが鉄道跡で牛妻保育園辺りが駅構内と思われる。小萩橋より南は県道より東側の道で門屋との境の天神橋辺りまでである。それより南は今の県道の西沿いを下の堤防(新東名)まで行くと思われる。
*詳細は別項目「安倍鉄道跡」を参照ください。
・牛妻水神社(牛妻2252) 
・曙橋袂:東海自然歩道標識や説明版等、
・祠:地蔵(大2、小多数)三界萬霊、・馬頭:欠、・馬頭:昭和四年、・不動明王?、・馬頭:昭和四十四年、・地蔵、
・水神祠、・コンクリ鳥居、・石:家:道祖神2、
・板碑:東西両岸道路開通 静岡県知事斎藤滋与志
・福寿院(牛妻2233) 
 曹洞宗、1619年開基、かつては行翁山奥のごうりんにあったが移転したらしい。ごうりんから五輪塔を移したといわれる。寺門前に石塔がある。
・「葷酒不入寺内」、・石塔:東海自然歩道十二支観音 第一番札所龍爪山福寿院、・石塔、・石塔、・観音、・石仏:欠、・新:石仏、・句碑、・観音堂、・燈籠4、・新:六地蔵、・地蔵、 
・津島神社(牛妻2233) 
 福寿院墓地横で祠3、祠手前に神木の杉大木2本。
・コンクリ鳥居:昭和三年、
・説明版掲示:国幣小社津島神社本社由緒略(田と各を上下に記述)記:所在地:愛知県海部郡津島町向島、名古屋より西へ五里、東海道線名古屋駅前柳橋より津島電車にて約40分、尾交一之宮駅より尾西電車にて約40分、関西線麗?富駅を電車にて約20分、御祭祀、御祭神:素鳶鳴尊すさのおのみこと、天照皇大御神の御弟袖にまします世俗□唱へ奉る大神なり、相殿 大冗牟遅命、またの御名大国主命と申し素鳶鳴尊の尚女神にまして世俗大国様と唱へ奉る大神なり、二柱の大神の御神秘の大要を称へ来れば武運長久勝利開運の神として
○方除厄除殊に悪病退治除去の守護神として
○縁結び及家庭円満の守護神として
○文学の祖神、特に歌道の守護神として
○造酒の守護神として偉大なる御神秘を題し給ふ
由緒:欽明天皇元年庚申六月朔日の御鎮座にして古来日本総社津島牛頭天王と称し皇室の崇敬は固より部門武将殊に織田信長豊臣秀吉徳川家康の崇敬最も厚く四条天皇の仁治年中本社造営遷宮の事あり、後亀山天皇の弘和元年辛酉冬大橋三河守貞省勅を奉じて本社を造営し永享九年丁巳十二月五日足利六代将軍義教続いて造営し文明四年壬辰六月六日足利八代将軍義政の命により又永禄八年乙丑十一月二十日足利十三代将軍義輝の命により造営遷宮の事あり天正の頃伊田信長殊に尊崇して本殿を始め楼門回廊に至るまで屡々修復を加え或は神領神器を寄付し奉れり文禄二年己巳豊臣秀吉又造営し慶長十年乙巳清州城主松平忠吉殿舎を修理し元和五年己来徳川二代将軍秀忠再び修理を加えらる慶安三年己丑尾張僕義直厠御神供所及橋等を造営し爾来必要に応じ修理材料及料銀等寄付あり、又尾張僕に祖先以来正月九日代参使を立てられ幣□料を奉納せらるるを恒例とせらる、亦者府よりは向島一園の地石一千二百九十三石九斗六合を寄付して神領に充て、其の他の待遇も熱田神宮眞清田神社と同格に受け給ひ後世に到り尾張五社の一つとして四氏の奉紫驚く神威林如として近きは関苅、遠きは樺太興料満州及宗邦人に並び参拝者は四対陸続として絶ゆることなし。
建物:本殿、渡殿、祭文殿、廻廊、拝殿、楼門、神庫、遂箱、絵馬堂、神水授与所、社務所、神水調整所、神苑亭等にして現在の本殿は特別保護建築物なり、其他の建物も本殿に準ずべき優秀な建築にて何れも朱塗宏麗を極む。
攝末社:約四十社ありて重なるは攝社居森社に御魂社と称し元此地に鎮り給ひしと云い傳ふ、攝社称五郎殿併堀田弥五郎正兼の建立にかかる故に此称あり。攝社八柱社、和御魂社、荒御魂社にして境内境外に奉斎す。
寶物:古鏡数十面、霊元天皇御直筆、後桃園天皇御□筆、織田信長書、国宝太刀大原真守作、国宝剣長船□党を初め多数の宝物、古文書を蔵す。
氏子:津島町約参千五百戸当社の氏子に属し殊に大宮向島に古来より神領として縁故最も多し。
附属講社:神社直轄の講社ありて太々講とす津島神社、宮司是が総理となり社殿一切を統括し神社を□□□の間に結社使ありて一カ事を称□を何人にても入社して社□たることと殊に神社は謙社の島の毎年一月十五日併に四月一日より三十一日間とに家運長久家内安全の□□を執行し四月中は毎日二回神□を勤行す。講社員は毎年金五拾銭を奉納し参拝なべる様に程々の待遇を受け現在□□は約参拾五□金に□□、益々隆昌に向ひつつあって菱大なる御神従に浴す。
附近名所:天王川、天王池とも称す。  有名なる銘祭は毎年陰暦六月十四日十五日此の池にて執り行はせらる車案の妙音は神入共に感動、万燈の蝋燭に天を発し地に転じて社麗□なし、遠近より宿でも拝観するも無慶数十等、名古屋鉄道社終夜間断なく運転池辺の公会堂には無料宿泊所を設け貧者に便宜を與ふ。  池の周囲の根上には桜楓満開春秋は美観を極め殊に或夏の候は納涼絶好の池なり。池の附設地に大スタンドあり。當に重要せらる。  昭和四年五月二十一日 本社参拝(参詣)記念  奉納  荻野力蔵  
 *撮影した写真の具合がよくなく読めない字があり、適当に字を当てたため意味不明な個所が多い。済みません。といってやり直す気にならないのでこのままです。 
・石塔:?読、神社より北50m、
・石:家:道祖神2、集落内、
・石塔(牛妻公民館2215-2) 
・馬頭:昭和五年六月、・有縁無縁□□等、・?馬頭:、・庚申塔:昭和五十五年、・石塔:?読、・庚申供養塔 大正九庚申年、・庚申供養塔 寛政十二年、
・森谷沢 
・道路開通之碑 昭和二十七年、
・馬頭、・馬頭大正十年:、・石塔、
・火の見櫓
・地蔵:森谷沢公民館横(牛妻2694)
・えんま淵、鬼穴:現在「安倍ごころセンター」に改変され消失したろう。 
・四足門 
 松永家、徳川家拝領の茶碗 
・地蔵:旧街道道端側壁
・樽下滝、昇竜滝、 
・石:家:道祖神(牛妻3108)
・泣姫、恋の淵、コンクリ家型道祖神、椿の木、(牛妻3108)
・付近に案内板:泣姫、鳴沢の滝、行翁山、案内板より右折50m、
・説明版:泣姫の由来についていくつかの話が伝わっている。漣昇山武昇院院主連昇氏が泣姫さんについて書いたものの中では、「武田勝頼公の奥方清州姫は慶長17年、子供と別れ別れになり行方を尋ね安倍奥地に向かう途中、勝頼公自害の報を聞き53歳で後を追った。」と記されています。いずれにしても泣姫伝説には子供を想う母の姿が語られており、それが夜泣きを治してくれるという信仰になっていったと思われます。
・説明版:泣き姫:樹齢数百年の椿の古木と大きな岩石、早春には見事な花が咲き満開となります。「小萩」は祖益の悶死後、その後を追い「恋の淵」に身を投げたので淵にその名がつけられ、また小萩を憐れんで「なきひめ」として祀ったといわれています。また武田の残党某が行翁山に逃れてきて、行者として仏門に入りましたが、後を追ってきた妻は夫に会えないため、恋の淵に身を投じ、里人は美人の人妻を憐れんで祀ったともいいます。また行方不明になった夫を探して行き倒れになった美人の人妻を祀ったともいいます。
 このように三つの説がありますが、この世の離別の悲しみのあまり、無常をうらんで死んでいった同情すべき女性であったことは、三者共通しています。この泣き姫は夜泣きの児を治す霊験はあらたかで、遠くの静岡の方からも伝え聞いて参詣に来たといいます。願いが成就すると、そのおはたしとして人形やお菓子を供えて帰ります。今行っても必ず一つ二つの人形があげられています。泣きひめの 碑にしみとおる 春しぐれ   海哉、牛妻町内会
・鳴沢滝、行翁二の滝、行翁一の滝、垢離の淵、 
・説明版:鳴沢は行翁山から沢を登った山腹にゴウリンと呼ばれる所が伝えられ、かつて寺があったといわれています。この寺の鐘が山津波によって押し出され鐘が鳴りながら下った沢が鳴沢といわれています。
・上記案内板より奥に直進100m、そこから更に奥に徒歩300m、
・行翁山、ごうりん 
・案内板より泣姫過ぎて自動車道500m、そこから更に徒歩で登山道40分、
・説明版:昔この山に行翁という行者が住んでいました。行翁は第49代光仁天皇の宝亀9(778)年6月、京都の音羽の滝を出て衆生済度のため、この地にやって来たと伝えられています。洞窟に住み、その跡は現在もあり頂上の行翁堂には翁が履いていた鉄下駄と鉄の杖が残されており、山岳宗教修験道の場所と伝えられています。
行き方は、泣き姫前農道を上り農道終点に至る。そこから奥へ登山道を7分登って分岐点に最初の石仏がある。
・観音:「左ワ行園山」の文字が観音の左、見ている人からは右に記入されている、牛妻分岐点にある。更に山腹の斜面を左に横平行に20分歩くと二番目の石仏がある。
・地蔵:「左ワ行園山」の文字が観音の左、見ている人からは右に記入されている、牛妻分岐点から3分の2ほど行った尾根をまたぐ所にある。
そこから15分で沢場に到着するが、そこが頂上ではなく、もう3分登るとお堂があり頂上である。
・行翁山の碑:行翁山 弘化二乙巳(1845)年三月建立之府中安西□屋安全 南無阿弥陀佛 平森谷澤安全、 刻字が綺麗で四面とも書体を変え見事な彫りで美術的価値がある。
・石祠:家型道祖神:「阿弥陀佛」、
・地蔵:天明二年、
・石塔:開山行翁 明治十八年、本堂裏側安置、 
・木祠:
牛見石、掛軸(望月家)、鉄下駄、鉄杖、 
・行者穴:人為的に彫られた穴で堂の右崖下に横穴がある。穴を掘ること自体が修業だったのだろうか。この穴の大きさだと人が寝泊まり可能であろう。
・三界の滝:滝が3段に落ち見事である。・説明版:滝の悲話:武田の武人の妻が修業中の夫を尋ねて当山へ来たが落人狩りに襲われ死亡したと聞き、悲しみ入水したという。
・本堂裏に細い登山道が続き竜爪山に至るようだ。その途中にかつて寺のあったごうりんという場所もあるようだ(未調査)。寺のすぐ裏は切り立った崖上の細尾根登山道で、いかにも修験者の修験道という趣である。こういう切り立った細尾根道をよくきん冷やしとかきん縮みということがある。肝を冷やすと同意味であり、きんはきんたまの意である。行翁山周辺はいかにも修験場にふさわしい。
・庚申塔(森谷沢、平、丹野、中沢)? 
 
・養福寺(油山1295)、 
 本尊:観世音菩薩、開山:1601年、・石塔、・石塔、・石燈籠、 
・白髭神社(油山945) 
 寺の手前の尾根先端丘上にある。・板碑:耕地整理、・手洗石、・石鳥居、
・油山温泉 
 油山より奥へ1.5km。
*地名の「油山」の油等の「油~」は「湯」と同義である。つまり「油山」は「湯山」の意で湯のある山で、文字通り温泉のある山で油山温泉である。
・油山山日月龍神社(油山1836) 
 湯の島分岐点手前道路横の山腹斜面にある。・石塔3「龍爪安倍川 元主、龍爪油山之光、龍爪松野大怨霊」、木鳥居、
・栗島峠(湯の島峠)H450m 
 湯の島と栗島を結ぶ峠道で国土地理院地図上ではルートが示されているが、12年1月2日廃道、湯の島よりH300m辺りで倒木や道不明で通行不可。
 この峠道を再生し使えるようになると、1本北側の峠道「油山峠(相沢峠)(東海自然歩道)」とともに使えるようになり、油山温泉やホテルりんどうを含み、油山温泉―油山峠―相沢―栗島―栗島峠―油山温泉という周回往復ルートになって同じ道をピストンせずに往復できてハイキングコースとしては使い勝手がよくなる。相沢や栗島の集落は古い石仏、お堂、優秀賞花壇、足様神社等があってそこもハイキングコースとしてよい。 
・油山峠(相沢峠)(東海自然歩道)H400m 
 油山温泉より200m奥の沢を渡り(H180m)南西に進む。東海自然歩道なので標識、道の安全状態はよい。多分迷いにくい。一部急坂やガレ場はあるが登山初心者向き、家族向きハイキングコース。峠(H400m)は植林で展望なし、ベンチあり。油山峠からトワ山東ピークに尾根沿いに行けるはずだが不明。(’12 10/14 玉川トレイルレースコースとして復活。)相沢側はさらに補修された安全なコースだが、一部沢沿いのガレ場上コースなのでちょくちょくガレるのだろう。豪雨や地震直後はコースがガレやすいだろう。相沢のホテルりんどう前に出る。
・油山稲荷神社(松野30)、
・祠:平成24年、
・板碑:農道完成記念 平成8年竣工、
・石塔(松野187、県道側壁) 
・馬頭:昭和三年、・?地蔵:□□□十年、・石塔:?大乗経典か庚申か
・薬師堂(松野813、阿弥陀仏像、木像、平安後期) 
 河段段丘の茶畑内墓地の横。河段段丘になっている茶畑の辺り一面は別所平遺跡という。この岡上の平地は河段段丘といって、かつての河原が隆起したものである。この仏像はかつて200m西の山に寺があり、そこにあったという。この河段段丘にかつて文化の華が開いたのだ。石塔:「瀬川氏之碑 松野区 昭和三年十一月」「信州善光寺 西国三十三所 四国八十八箇所 供養塔 安政三」「庚申供養等 安永五」、句碑。
・「やくさんの井戸」、地蔵。
・松源寺(松野148) 
・板碑:西国三十三所観世音菩薩 大正十年、・地蔵、・地蔵、・(梵字)地神塔、新・六地蔵、・殉国英霊の碑、・新:永代供養塔、
・松野城跡(松野) 
 河段段丘の西の山で農道を詰めた所。
・石造物(松野1040‐1)  
・石塔、・庚申供養塔 大正六庚申年、
・白髭神社(松野1350) 
 丘上、灯篭2、
・三島神社(津渡野198‐3) 
 蔵王権現も祀る、神社の裏山を津渡野遺跡といい、さらにその上が城跡である。
・石鳥居:、・石碑:竣工記念 昭和五十九年、
・石造物(津渡野248) 
・庚申塔 安永十年、・欠:観音、・○三界萬霊等 文政三、
・寶津院(津渡野328) 
 臨済宗、・堂、・地蔵、・新:地蔵、・石仏、板碑:静霊、・燈籠、・六地蔵+1、・地蔵、・新:聖母観音、・首なし:地蔵、・?観音、・三界萬霊。
・近くに木の祠:稲荷、
・津渡野城跡(津渡野) 
 城跡の東側は津渡野遺跡といい、その下に三島神社がある。
・水除地蔵(津渡野) 
 かつての竜西橋北袂に安置。小川地蔵。 
・新:地蔵(郷島1210-2) 
 郷島入口側壁安置。 
・郷島浅間神社(郷島373) 
・説明版:静岡市指定天然記念物(植物)郷島浅間神社の大クス:指定年月日平成七年一月二十三日、所在地静岡市郷島373番地、樹高43m、幹周(目通り)13m、枝張40m、樹齢約千年、この大クスは市内でも屈指の大きさ、樹齢を誇る巨樹です。樹勢も良好で、またクスノキに見られる美しい樹形を呈しています。クスノキは、各地の暖地に多く自生する常緑高木で、木全体に特有の良い香りがあります。静岡県では、伊豆をはじめとして駿遠地方の暖地に多くみられます。材は、建築、造船、楽器、彫刻など多様に使われます。以前は防虫剤の代表だった樟脳もクスノキ材から作られました。平成12年3月静岡市教育委員会。
・金属鳥居:昭和六十一年、
・秘在寺(郷島518) 
 13年12月、元は茶畑で次に薬師庵があった所に移転したばかりで新しい2階建てビルとなっているので寺院とは思われない。・新:永代供養墓、新:石碑数基、・新:句碑多数「しずおか句碑の郷サト」、
・元の秘在寺の場所(郷島506) 
元寺があった所は空地だが手前に石塔類がある。・石碑:□□□□秘在禅寺 平成元年、・新:六地蔵、・?庚申供養塔、・庚申塔、
・古い酒屋の名残の建物(郷島246) 
 昭和の雰囲気のある建物だが、壊れそうなのでそのうち解体されるだろう。
・石仏(郷島5)、消防分団小屋横 
 道より低くなった畑の北端にある。・地蔵、・?観音、・地蔵:元禄六癸酉□月二十四日造□塔 文化□□?十十月~~~~~□天明、・石碑:土地改良記念碑 平成四年、 
・石仏(郷島) 
 郷島出口県道右側壁安置。・?観音、 
・釈迦堂(野田平242) 
・鰐口、・石塔7(地蔵1、如来1、他不明)、これより奥へ上ると墓地でその手前で尾根に到達し俵沢方向へ下る登山道あり。そこに峠の石仏が安置されている。
・石仏(野田平242) 
・地蔵:安倍郡野田平村善男善女□□亥四月吉祥日、・馬頭:明治三十一年四月、・地蔵:大正十三年七月建之、野田平と俵沢の境の峠に祀られていることになる。
尾根を登ると静清庵自然歩道の一本杉及び竜爪山穂積神社に至り、尾根を下るとすぐに墓地で、さらに下ると県道梅ヶ島線及び俵沢に出られたはずだ。13年12月現在一本杉のすぐ下には林道門屋俵峰線が通過していて、そこに野田平へ下る登山道と標識があり、おそらくこの石仏地点へ至ると思われる。
・神社(野田平242)  
釈迦堂の少し横にある。・石鳥居:昭和二十九年、・石:家:道祖神、・杉:大木7、・常緑広葉樹:大木:1、
・石碑(野田平) 
野田平から野田平公園へ降りる道沿い。・道路開通記念 静岡市長小島善吉、・野田平一号線開通記念、・石、
・石碑:野田平公園 平成7年、 
・石造物(俵沢236)  
賎機北小学校南口付近、・二宮金次郎像:薪を背負い読書、・板碑:併合碑、
・石塔(俵沢365)   
賎機北小学校から俵峰に向かう道を進み、坂道の直登道と左に迂回しつつ登る道の分岐点に出る。そこを坂道直登道を進むと右にある。
・祠:・庚申供養塔:、・?墓石、・地蔵:弘化三、・?地蔵、・地蔵、・?地蔵、・墓石:□□□居士 文亀元 □□□大姉 永正二 □□□居士 憲徳(延徳か正徳の間違い?)元 □□□居士 文□二 □□□大姉 慶長四、・一字一石法華経塔 □□□居士 明和九、この祠の横は墓地で墓石の後方には三十三観音が墓石と同じように祀られている。
・神社(俵沢400-1) 
 先ほどの左の迂回道を進み、左にカーブしていた道が右カーブに変わる所で左の沢横の道を沢沿いに詰めていく。
・石鳥居:大東亜戦争講和調印記念昭和二十六年、・杉:大木2、・赤橋、
・石碑(俵沢334) 
 俵峰への道を進み俵沢集落を過ぎ、茶園ばかりになると道路脇にある。
・石碑:静岡県棚田等十選に認定する 静岡市俵沢のつづら折り茶園、
・石塔類(俵峰400-1)  
 俵峰集落へ入る道は直前で左への広めの新道迂回路と右への旧道となる。どちらを行っても集落の中央で合流する。その合流地点に石塔類がある。
・板碑:道路開通記念碑 昭和三十一年、・簡易水道通水記念碑 峰の水みち 平成十六年、・馬頭:大正十一年、・観世音、・?観音:天保十三、・庚申供養、・馬頭:欠、・その他5~6基、
・玉宝寺(俵峰625)  
・?立像:半僧坊大権現、・地蔵、
・水月院(俵峰) 
・石塔2、・石垣、
・白髭神社(俵峰)  
・石鳥居:平成十八年、・手洗石:昭和十五年、・杉:巨木7~8、・祠2、・旗指石:昭和廿五年、
・農道和田線完成記念碑(水月院奥)  
 この農道を奥に進んでいくと林道俵峰門屋線終点に至る。
農道の反対側の道はすぐに真富士山登山口となって自動車道は行き止まりとなる。
・天神山△724.5m登山口(俵峰)  
 集落北にある山が天神山724.5mであるが、集落から直接登る登山口はなく、真富士山登山道を利用し、引き落とし峠で西尾根をたどると天神山に行けることになる。地図では集落から山の東側鞍部を越す道が記載されているが全くの廃道で道はない。
・竜爪山登山口、静清庵自然歩道(俵峰323)  
 穂積神社や一本杉に繋がっている。
・駒引(曳)峠への登山口(俵峰323)  
 先ほどの竜爪山登山口、静清庵自然歩道入り口に至る舗装された農道の1本手前に左折する舗装農道がある。これを100mも詰めると道は消失するが、その先に登山道がある。これがどうも駒引(曳)峠への登山口と推定される。広岡氏「東海道山筋紀行」にも記述されている道である。松浦武四郎も通過したのだろう。この登山道を登っていくと茶畑に出て、先ほどの農道和田線に出る。付近の茶畑2箇所には道祖神や石塔が祀られている。
・石:家:道祖神2、・石塔 
 道祖神がある辺りに松浦武四郎も通過した古い道があったのだろう。
更に先で林道俵峰門屋線終点看板があり、その横に石道標がある。
・石道標:右くろ川みち 左やまみち、  *刻字書体は楷書に近い少し崩しただけの行書で字の大きさも一定であることから、作られたのは近代の大正から昭和初期と推定したい。
農道和田線と林道俵峰門屋線終点脇に祀られるが、多少なりとも移転されてのことだろうから、こことは限らない。しかし300mほど林道を上ると小さな沢を渡った所で登山道が斜面を直登していく。これが現在の駒引峠への登り口で古道もこの付近を通過していたものと思われる。そこで先ほどの石道標も移転されたにせよ近い所にあったと思われる。
右の黒川道が駒引峠道であろうが、左の山道はどこの道か不明。
・駒引(曳)峠 
・地蔵:「文政六未歳四月初八日 炭焼邑 俵峯 大平村」 *施主名略、1823年
・一本杉、  静清庵自然歩道、富士見峠の西側、一本杉の巨木 
・地蔵:「文政六癸未年八月二十吉日 河内村」 1823年 

~俵沢に戻る~
・常夜灯(俵沢28) 
 クリーニング屋の前にある。
・祠(俵沢25)
 安倍街道新道と六番への旧道分岐点近く。
・石造物(油島22)  
 今の県道より上の集落内の旧道沿いに朽ち果てた石仏が設置されている。また油島公民館前にも石像物がある。よくぞ古びても安置してあるものだ。地元民の信仰心のあらわれだろう。 
・石仏と石塔:欠:6、
 安倍街道は玉機橋を渡り、梅が島街道(後述)は渡らず川沿いに北上する。 
・菜流寺(油島122)  
・石碑:菜流禅寺、・庚申塔 昭和五十五年、・庚申供養塔 文政六年、・燈籠4、・新:観音立像、・戦殉碑、・六地蔵 大正十辛酉年 延命地蔵尊、・三界萬霊塔、
・歯痛地蔵(中沢189-1) 
 玉機橋を渡ってすぐ左にある。右土手先に土手の神様(石仏)。その先を寺屋敷跡という。 
県道は直進するがここで右の中沢集落、永倉栄太郎氏宅庭先の石は縄文石である。明治43年畑で見つけたものだそうだ。さらに奥の相淵集落を紹介する。
・白髭神社(中沢215)  
 杉の木は最高樹齢500年以上らしい。500年前に中沢には人が住んでいたらしい。神社裏山左斜面に穴がある。
・石鳥居、・杉:巨木、・社、
・白髭神社(相淵168-2)  
・石鳥居、・杉:巨木、
・大志野山、中沢・池ヶ谷峠(中沢、池ヶ谷) 
 中沢からはかつての静清庵自然歩道コースとほぼ一緒であるが、峠付近で自然歩道コースは峠に向かわず、隣の鞍部の鉄塔のあるところを通る。つまり電線巡視路にそって自然歩道がついているので、昔の峠道とは違う。奥池ヶ谷へは昔の道は沢沿いに下るのに対し、電線巡視路コースは尾根沿いを下りまったく違うコースとなる。昔の道は今はおそらく廃道だろうし、静清庵自然歩道コースも今は使われず廃道寸前かもしれないが、電線巡視路なので通れるかもしれない。昔の道はかつての生活道路。なお石仏等昔のなごりは無いと思われる。大志野山へは峠や鞍部から稜線上を南に上ればよい。稜線上を北に上ると見月山に行けるはずだが、どれほどきれいか汚いかは不明。 
 中沢から県道に戻り西進する。県道北側尾根先端を中沢遺跡という。西山橋手前に馬頭観音。西山橋を渡った先、左にも石仏。
・新:地蔵(中沢27-1) 
・石造物(金久保)  
・?馬頭 明治□□、・庚申塔 萬延元年、・石塔:たぶん庚申系金剛像、七月吉日、・?馬頭:□□二、
・石碑(桂山649-1) 
県道と集落内に入る道の分岐点にある。
・原の道 昭和四十二年 西一九六七年 お茶は本山桂山にかぎる 特に優れた味香り 玉川の流れの如く清らかに一致協力明日にそなえて 昭和四十二年一月開通 飛出すな一度とまって又あるけ、
・地蔵:山伏塚 昭和五十九年再建(桂山365-1)  

・天桂山長光寺(佳山220)  
・新:石:家:道祖神、・新:如来、・地蔵、・新:動物慰霊碑、・新:六地蔵、・鐘楼、・?青面金剛?不動、・新:水子地蔵、・公孫樹の木、・無縁萬霊等 寛政八丙辰天、・石塔、
・白髭神社、桂山神社、大吾上人、たんごさん(佳山56-2)  
・石鳥居、・板碑:殉国英霊、・忠魂碑、
・板碑(佳山139)玉川公民館  

・細木峠  
 桂山と湯の島を結ぶ峠で、それぞれの麓から車で林道をたどり、途中で登山道に切り替えて徒歩十数分の上りで到着できる。現在は杉檜の植林地で薄暗い。石仏があったかどうか覚えていない。 

 玉川橋を渡ると大日峠に行く旧街道と横沢経由で富士見峠に行く新街道に分岐する。 

~落合経由大日峠、旧街道~ 
・石造物(佳山片瀬) 
 玉川中学手前左にある。 13年12月工事中で見つからない。下記石塔類と同一かもしれず、移転したのかもしれない。
・石塔類(奥ノ原737) 
・燈籠、・△庚申 寛政八丙辰天、・?如来か観音、・常夜灯、
・石塔類(森越587)
・庚申塔、・□供養庚申文□、・石塔:無縁塔、
・旧道:596番地付近から奥の原に向けて山斜面中腹を回り込む登山道がある。墓地に向かう道で、多分奥の原と森越を結ぶ旧道と思われる。現在の県道より20mほど上である。
・潭月寺跡(森腰) 
 本尊:十一面観世音菩薩、
・石塔類(長熊上平700) 
・?石塔3?墓石、
・白髭神社(長熊上平773) 
・石鳥居:昭和十二年、・手洗石:昭和三年、・祠、・杉:巨木、・杉巨木切り株の中から樹齢50年ほどの杉が生えている。神社横は崖で崩れかかっている。
・普門寺跡 
 本尊:聖観世音菩薩、開山:1580年、 
・林道栃木線、舗装されていて起点より1.4㎞先で行き止まり、
・祠:?馬頭:明和三丙戌□月吉日(堂原1998)  
・堂原の長熊橋袂より2168番地に向かう歩道が山を回り込むように付いている。
・かつての静清庵自然歩道であり電線巡視路でもある登山道がある(長熊から奥池ヶ谷に至る手前)
 現在自然歩道としては使われず、舗装県道を迂回して中沢から奥池ヶ谷に向かうよう標識が出ている。この電線巡視路が古道ではないが、その近くを通過できる道として参考になる。
・奥池ヶ谷城址(奥池ヶ谷54) 
 高圧鉄塔のある川に挟まれた丘上である。 
・向陽寺跡(奥池ヶ谷) 
 本尊:阿弥陀如来、 
・朝倉館跡(柿島) 
 かつて安倍七騎の一人、朝倉氏の出身地とされる。
・定林寺跡(柿島492)柿島公民館横  
 ・お堂:本尊:瑠璃光薬師如来、 ・社、
・お堂(柿島530)  
・地蔵:明治四十一年六月廿日  
・曹源寺(長妻田25)  
 曹洞宗、本尊:聖観世音菩薩、開創:1508年、本寺:長源院(沓谷)。山門の仁王像はユーモアたっぷりなひょうきんな立像で独自の価値がある。
・新:観音像、・新:供養碑、・板碑?、・石塔?庚申塔?、・燈籠2:昭和十五年、・鐘楼、・新:石仏9、・石塔:曹洞宗松尾山曹源寺 平成二十年、・胸像:得仙大和尚、
・中平との峠道、旧道、古道(長妻田25)  
 曹源寺の裏の墓地上から電線巡視路が見月山稜線に向かい上っていく。かつて中平とを結ぶ峠道だった。中平から峠のある鉄塔までは行ける。稜線も歩いたという山行を聞くことはあるが、現在相当な藪と思われる。反対に柿島方面に行く道もある。 
・祠(長妻田151‐1)  
・地蔵、・六地蔵、・石仏、
・布沢滝  
 布張沢の奥にあるはずだが、直接行きやすい道がない。近くに高圧鉄塔があるので電線巡視路で近くまで行けるのではなかろうか。
・白髭神社(長妻田764)  
・コンクリ鳥居:、
・養福寺跡(油野)  
 本尊:地蔵菩薩、 
・白髭神社(上落合157)  
・石鳥居:昭和八年、・手洗石:水の溜まる所の形が扇形である、・岩2、・祠2、・石柵:平成元年、
・石塔類(上落合149)  
向坂橋袂。・地蔵、・庚申塔:明治三十八年、・岩、 

~ここから仙俣、奥仙俣へ行く。~
・精進滝(口仙俣) 
 上落合から口仙俣への3分の2程の所の道路左沢崖上らしい。
・白髭神社(口仙俣) 
 仙俣川を渡った先で橋はなく丸太橋を通して渡るようだ。道路から川向こうの鳥居と石段が見える。
・涌泉寺跡(口仙俣256) 
・お堂:本尊:薬師如来、市指文:鰐口:写真展示、・木魚、・鐘、
・分校跡(口仙俣)  
 口仙俣から奥仙俣方向へ向かってすぐ左、
・林道黒川線 
・記念碑 
 奥仙俣の手前の吊り橋袂の岩上、
・祠2:水神(奥仙俣59)  
 仙俣川沿いの主要道から川を渡った向うの集落にある。10月7日が祭りだそうだ。
・石塔(奥仙俣180)  
 主要道沿いの集落入口、
・大石、・庚申塔 昭和五十年十月、
・白髭神社と記載されているが山神社(奥仙俣) 
 まだ再建間もない神社で本殿拝殿等新しい。10月7日祭り、ここに至る自動車道もできたばかりのようだ。
・祠2、・山神社参道開設記念碑 平成十六年九月吉日、・木鳥居、
・不動尊滝(奥仙俣) 
 奥に詰めていく林道とは別の北東に向かう沢奥にあるようだ。

~~~落合に戻る。~~~
・石仏(明ケ島76)   
 県道沿い民宿明ケ島への分岐点、
・石仏、・馬頭、・地蔵、・庚申塔、・馬頭、
・石:ペイントで記入:明ケ島、・石:ペイントで記入:♨口坂本温泉→ 民宿明ケ島、
・石仏(口坂本630)  
 口坂本温泉集落の橋手前分岐点に安置。
・口坂本温泉浴場:説明版:清らかに流れる渓流と緑まぶしい山々に囲まれ、市営浴場を中心に民宿、旅館が点在する静かな温泉地です。市営浴場には30人が入れる広い浴槽の他、日本庭園の中に露天風呂も整備され、日頃の疲れを癒す人たちが世間話に花を咲かせます。所在地:静岡市口坂本、利用時間:9:30~16:30(16:00札止め)、休館日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日)年末年始12/29~1/2、料金:大人¥280、小人¥100、泉質:ナトリウム‐炭酸水素塩温泉(重曹泉)、
・八王子神社(口坂本527) 
・説明版:鎮座地:静岡市口坂本527、御祭神:建速須佐之男命たけはやすさのをのみこと、例祭日:7月15日、由緒:創建不詳、元禄17(1704)年再建、更に寛政9(1797)年再建、昭和27年同地区鎮座の白髭神社を合併し現社殿の造営をした、元無格社、毎年7月15日安倍川まで神輿の渡御がある。安倍神楽の伝承がある。
・金属鳥居、・手洗石:大正十一年、・手洗石:苔むしている、・常夜灯2:御宝灯 慶應元年、
・宝積寺(口坂本53) 
 本尊:延命地蔵菩薩、開山:1347年、門前に地蔵祠ともう一つ祠がある。
・祠2:地蔵、・燈籠:元治二乙丑、・燈籠:道路改修 昭和四十二年 地蔵平より、・手洗石:水たまり扇形、・自然石石仏、・三界萬霊塔 昭和四十七壬子年、 
~・口坂本から大日峠への旧道(大日古道)、稲荷神社祠及び井川本村まで~  
・説明版:①歴史と文化の街道大日古道:大日古道は口坂本から井川に通ずる唯一の大切な昔の道でした。上り下り3里(12km)の細い山道で1町(109m)ごとに一尺三寸ほどの観音様が通行人の無事を願って立てられていた古い街道です。我々はこの先人たちの思いのこもった道を偲び、次世代へ伝えていきたいと願っています。
②井川に縄文人が住んでいたことは驚きだが、脈々と伝えられてきた多くの歴史がある。例えば中野の千手観音、田代の諏訪神社、薬師堂、小河内の金山、大井川の刎橋。そして数々の例祭、そこで舞われる神楽、暮らしの中の伝承から民話まで数えきれないほどです。たった半世紀前まで、こうした井川を支えた唯一の道が大日古道でした。
 口坂本―十六番―水呑み跡―大日峠―一里塚―二本松―登山口―渡船・井川ダム湖―井川、
 坂本から井川までの旧道にはかつて66の観音像(口坂本~大日峠33体、大日峠~井川33体、井川側33体は井川大日堂に全て安置保存。口坂本側は6体確認という。)が安置されていた。現在復活作業中で、この区間での旧道が通れる。この旧道は1958年に林道が作られるまで本道であった。口坂本村内に観音像1、庚申塔1、村入口の民宿明ヶ島前に石仏5(庚申塔、観音2、地蔵1、不明1、)、
 入口は市営口坂本温泉前で先の歩道橋で川を渡り、民宿羽根田前を上り、人家はずれで左の畑に入る。
・一番観音跡:口坂本の人家のはずれから山に入る境目にある。石仏(観音、地蔵)が2つ安置されている。13年12月には石仏は移転した。多分明ケ島道路脇に移転合祀したものと思われる。
・二番~五番までは口坂本集落上に巻いて大日峠へ上る県道に寸断されるまでの500m区間にある。県道に出るとしばらく県道を歩き、この上の空人家の先で山に取り付き古道に入ることになるが、県道に出た所の延長線上に古道の跡は電柱と電線に沿い進んで行き、空人家手前の県道の辺りで消失する。なお県道に出た辺りの上に鳥居があり、稲荷神社の参道がある。やや古道からははずれている。
・人家の先で山に取り付く。ここから先にはまだ観音跡の標識は未設置。500m先でまた県道を横断し山に取り付く。しばらくすると十五番観音跡がある。この手前に左へ分岐し大草利に向かう山道が地図上ではあるはずだが不明。十五番を過ぎると植林地内に石垣がいくつか見られ、「十六番」である。老夫婦経営の茶店と田があった。うどんや惣菜を売っていた。700m進むと林道に出て、その先に石垣と水が湧き出る所がある。「水呑み茶屋跡」で確か二十三番?だったように思う。この先30番まである。林道右手裏はすぐに県道との合流点でゲートで閉じられている。湧き水横を上り、三十番までたどる。しばらく観音跡がないなと思えると、稜線に出て左(南)に「富士見峠、大日山ハイキングコース」と分岐し、それを過ぎるとすぐ先に、「お茶壷屋敷跡石碑」がある。
・大日峠、お茶壷屋敷跡、石造物  
「富士見峠、大日山ハイキングコース」:富士見峠から大日峠までの稜線上の山道。途中三等三角点、大日山△1200.6mを通過する。またもう少し南の昔の大日峠跡も通過する。 「お茶壷屋敷跡」はかつて徳川家康が茶会用の茶を保存するために作らせた蔵である。実務を担当したのは柿島の庄屋、朝倉氏と井川の庄屋、海野氏である。この茶を駿府に運ぶための道中を再現したお茶壷道中が近年実施されている。なお蔵については再現か否か不明だが、このすぐ先のピクニック広場に近年蔵が建てられた。
 ピクニック広場手前に「三十三番観音跡」、「大日如来堂跡」があり、石仏が祀られている。駐車場・公衆トイレ分岐にも「三十三番観音跡」がある。この33番は井川側の33番で大日如来堂側の33番は口坂本側のものだろう。
・井川側の大日古道~大日峠から井川渡船場~ 
ピクニック広場を下ると井川の三十二番、ピクニック広場入口で三十一番がある。舗装県道の大日峠から井川へのルートを横断する辺りが一里塚で二十五番となり地蔵が祀られている。さらに下の井川少年自然の家正門前の道を進んだ所は二本松という所でこの辺りに十七番と十六番があり、十八番観音が祀られている。この下は大日作業道に付かず離れずに古道は下っていく。大日作業道と数回交差して4番まで至る。この100m下が井川湖で渡船場になる。ここに一応1~3番標識があるが、説明看板には水没となっている。井川湖は井川ダムによりできた現代の人工湖なので、昔は存在しなかった。この湖の下に村が古道が遺跡が沈んでいる。井川側の古道は静清庵自然歩道、井川少年自然の家ウォークコース等に利用されているので道自体はほとんど利用されて残っている。すばらしいことだ。
 かつて村の女たちも背負子や持ち子として30~50kgの荷物を背負って歩いた。


~井川近くの県道等主要道沿いを紹介し、井川につなげる~
・慰霊碑、地蔵(井川3179)  
 県道の富士見峠を井川ダムに向け下り、大沢度橋を約1㎞過ぎた道路脇。
・慰霊碑:地蔵:昭和41年4月1日 行年49才 故関谷正重霊(車需)之地 故森竹さわ江跋畢之地 行年17才
・井川五郎ダム(井川1955)  調査:’14 3/15
 昭和32年完工、コンクリート代を節約するため、ダム内部は空洞で中空式と言われる。
・井川展示館:水力発電の仕組み、井川地区紹介、井川地域の筏流しや電源開発の歴史等紹介。展望もよい。ダムが昭和の資料といえる。
 展示館内にパネル写真の展示あり。09年2月公開映画『ヘブンズ・ドア』監督:マイケル・アリアス、主演:長瀬智也、福田麻由子、106分、厳寒2月の3日間、井川ダムにてロケ、公開が2月なのでロケは多分08年2月と思われる。井川ダム内部が数分にせよ見られるようだ そのパネル写真展示。  
・井川水神社{祠、鳥居}、・石碑:井川湖、・板碑:慰霊碑:昭和三十二年、
・井川遊歩道  
 井川ダム建設時に使われた線路跡を遊歩道として13年秋に再現開設された。井川ダムから井川本村堂平まで歩ける。距離800m。近くに夢の吊橋がある。
・井川駅(井川1959) 
 ダム建設のために作られた鉄道で、一回り小さなトロッコ機関車の終点駅、もはやこれも昭和の生き証人か。この駅の奥にはかつてトンネルがあり、トンネルを抜けた先が堂平への遊歩道となっている。 
~川根路~
・大井神社(井川閑蔵2246⁻3) 
 かつての閑蔵林道今は県道を川根本町千頭方面へ下り閑蔵駅前で閑蔵の集落へ下っていくとある。
・金属鳥居:、・子安観世音:大正十五年七月、
・説明版:鎮座地:静岡市井川2246‐3、祭神:岡象女命みづはのめのみこと、例祭日:1月2日、由緒:元禄元年創建と伝えられる。
~井川に戻る~ 
・石仏(井川西山平1850) 
・石仏:青面金剛?、丸石:道祖神?、休憩所の横の交差点にある。
・井川大仏(井川1551) 
・井川大仏、・毘沙門天立像、・石碑:大仏開眼:油山寺貫主、・コンクリ石碑:昭和五十五年、
・説明版:一刀二礼仏の手法にならい一言一言唱えて作像された。一切如来、井川大仏は昭和55年11月1日湖畔の丘、金畑山公園望寿台標高772m、日本地図の中心部に誕生した。
毘沙門天は福の神として七福神に数えられまた四天王として仏法の守護神とされ古くより親しまれてきた神であり仏である幸運守護の御尊体であります。
・庚申塔:天明五 門間 青面金剛 
 井川大仏分岐点と門間の間の県道側壁にある。
・龍泉院(井川582) 
・石碑:曹洞宗龍泉院:平成十四年、・燈籠、・板碑5、・新:葷酒山門に入るを許さず、・禁葷酒、・山門、・新:句碑:多数、・仁王像2、・故篠原荘夫翁記念碑、・・新:無縁菩提供養塔、・石家道祖神、・鐘楼、・新:常夜灯5、・新:六地蔵+1、・新:子育地蔵、・新:観音、・青面金剛、・新:地蔵、
・説明版:開基は1504年(永正元年)賢窓常俊禅師に依る。草創期の頃は現在地より約200m「薬澤」寺地の一角に建てられていたと言われる。崇信寺末寺の平僧寺として創建されたものだが、その後災禍等もあり、また適地として現在地に室町末期1544年(天文13年)頃移築された。長歳月の中では老朽化激しく、寺歴に残るような修復等を重ね現在のような姿で承継されている。開基禅僧の賢窓常俊は、怒忠天誾(信濃の人) 崇信寺。洞慶院の開山僧に得度し、後に石叟三派の名僧を育成されたといわれる大厳宗梅禅師(崇信寺3世、本院隠居寺の千光寺開山僧)に師事し後に宗派最高の総持寺貫主に昇り、その後崇信寺。洞慶院4世等の住職になった高僧である。かような高僧開基による本院も戦国末期から徳川初期にかけ代々受け継がれた高僧たちにより、大井川流域に本院の流れを汲む末寺九ヶ寺を有する(うち五ヶ寺は現在廃寺)格式の高い寺院にまで発展した。本院も、かつては信州今川氏に仕え後に井川領主となった安倍大蔵守一族の手厚い保護や檀徒(500有余)の貢献等によるものが大きく、今や草創期以来500年近い歳月を経て今日に至っている。
2002年2月吉日建立  龍泉院29世王竜徳潭比丘謹書
本寺院の概観
本尊:聖観世音菩薩 昭和53年修復、脇仏:地蔵菩薩 平成12年修復、大権修理菩薩
開山堂 当山開山賢窓常俊像、宗祖 道元禅師像 聖観世音菩薩像、達磨大使象、
大日如来像
建造物 山門 寛保3年建立、鐘楼堂 昭和30年3月建立。大鐘 昭和30年3月、
六地蔵菩薩像。堂。平成12年、無縁墓地造成 平成12年秋彼岸吉日、 
・門間地蔵堂(井川門間557)  
 門間の集落内の旧道沿いにある。
・常夜灯、・常夜灯、・地蔵:元禄三、・地蔵、・二地蔵:六地蔵の一部?、・三地蔵:六地蔵の一部?、  
・井川神社(井川1467) 
・コンクリ鳥居2、・燈籠2、・燈籠2、・狛犬:立太子20年記念、・手洗石:嘉永六、
・説明版:鎮座地:静岡市井川1467⁻2、御祭神:瀬織津比(口偏に羊)神せおりつひめのかみ、外19柱、例祭日:1月3日、由緒:昭和33年4月14日井川ダム築造により、次の5社を合併して井川神社を設立した。①大井神社、嘉禎4年創建、②浅間神社、創建年不詳、③大頭龍神社、創建年不詳、④山神社、創建年不詳、元禄7年再建、⑤十二神社、創建年不詳、元禄13年12月再建。井川神楽の伝承あり。
・大日院、中野観音堂(井川1120) 
 大日古道の33観音が保存されている。
・金属鳥居、・祠:八幡宮:、・祠:秋葉大權現 神明大神宮 津嶌牛頭天王、・燈籠:秋葉大權現、・燈籠:津嶌牛頭天王、・地蔵5、・観音:約40(三十三観音とその他、大日古道の33観音?)、・石塔:欠:多数、
・中野観音堂:説明版:中野は、江戸時代には井川七ヶ村の一つに数えられ、古くから砂金の採取が盛んな集落として知られていた所です。この観音堂は別当、副別当の2軒を中心とした中野地区の人々によって大切に守られてきました。堂内にはご本尊である「千手観音立像」の他4体の仏像が安置されています。いずれも針葉樹による一木造りで、平安時代中期に制作されたものです。仏像の由来についてははっきりしたことが分かっていません。地元では先祖が井川まで背負って運んできたと伝えています。その際里芋を食べながら峠を越えたとも云われており、観音堂のお祭りでは今でも里芋に味噌をつけた芋田楽が参詣者に振舞われます。観音堂のお祭りは1月6日と2月7日の2晩行われます。かつては一晩中お堂で過ごしたことから、このお祭りのことを「お籠り:おこもり」と称しています。そのうち1月6日は1年に1度、ご本尊が御開帳される日です。今では6日の晩に御開帳が行われていますが、かつては一晩おこもりをしたのち、1月7日の早朝、太陽の光が射し込むわずかな時間だけご本尊を拝むことが許されたそうです。その他、中野観音堂に残る応永31年(1424)の鰐口も静岡市の有形文化財に指定されています。
静岡県指定有形文化財:「木造千手観音立像・木造伝十一面観音立像・木造伝十一面観音立像・木造菩薩立像・附木造菩薩立像」、指定年月日:平成17年11月29日、制作年代:平安時代中期(10世紀後半から11世紀前半)、指定理由:いずれも平安時代中期の作で、後補も見られるが、全体的に古い様式を残している。駿河山間部における古代の仏教文化を考える上でも貴重な彫刻である。
静岡市指定有形文化財「鰐口:わにぐち」、指定年月日:平成20年3月26日、内容:面径22.0㎝、厚さ9.5㎝、銘文によれば応永31年(1424)11月に中野観音堂に施入された。指定理由:現在所在が明らかで銘文に静岡市内の地名が見られるものとしては最も古く、静岡市の文化史上貴重なものであると共に、歴史的意義と価値を有するものと判断される。
  平成23年3月  静岡市(文化財課)  
・井川メンパ(井川971) 
 海野宅 
・南アルプス絵本館(井川991)  
 新しい公共施設なのでそれ自体が古道と関係しているわけではないが、井川地区の資料が手に入る。 
・交通事故供養塔(井川中野) 
 県道沿い中野、登沢橋より北へ500m。
・事故多発所 南無妙法蓮華経 交通事故 遭難者 供養塔 安全運轉 昭和四十年
・石碑(井川)
 さらに北上すると県道沿い。
・石碑:滝浪兼政青山之地
・不動尊堂(井川岩崎中山680)  
 県道沿い、中山バス停近くの沢滝横にあり。
・お堂:不動尊
・地蔵堂(井川大島54)  
 大島バス停前県道沿い。
・地蔵4、・祠:不動明王、
・大島神社(井川・田代・割田原260) 
 割田原の井川湖湖底に縄文期の割田原遺跡がある。他にも遺跡跡がいくつかある。 
大島橋を渡った先にある。現在の橋の隣に以前のコンクリ製橋脚が残っている。
・金属鳥居、・燈籠、・祠2、
・説明版:鎮座地:静岡市田代260、御祭神:素戔嗚命すさのおのみこと、例祭日:1月11日、由緒:通称お天王さん。慶長9年創建、元禄13年、宝永、嘉政、文政と再建造営のあと、現社殿は明治35年総欅材を以て造営された。元無格社。境内は「鎮守の森」に相応しく古木が生い茂っている。井川神楽が伝承されている。
・大井神社(井川・田代・割田原329⁻2) 
 県道沿い階段上にある。この上の台地にかつて井川北小学校があった。
・金属鳥居:平成三年、・燈籠1、・祠、
・説明版:鎮座地:静岡市田代329⁻2、御祭神:岡象女命みづはのめのみこと、瀬織津姫命せおりつひめのみこと、例祭日:1月15日、由緒:文禄元年勧請、同3年8月大井川大増水により流失し、寛永5年新社地に再建、宝永、明和と再建したるも、明治20年3月4日出火による類焼、仮社殿にて奉祀し、昭和35年4月26日井川ダム築造により湛水池に入り、本殿、拝殿、社務所造営の上現地に遷座した。元無格社。田代、岩崎両集落の産土神であり明治維新までは大村家が祠官職にあり、井川神楽発祥のお社である。
・田代集落内外の道(井川・田代) 
 オーミチ(大道)、梅の坂、堂の坂、南坂、別当坂、菅山街道、集落南旧道入口には秋葉常夜灯がある。集落西には天神2つあり。福寿院跡。手洗い井戸。旧道と新道北側出会いを薬師道。集落北東に共同墓地と水神。集落南端からの旧道は南坂で山へ続く。西の沢へ入る辺りに山神を祀る。  
・秋葉常夜灯(井川田代762)  
 集落入口にある。形は常夜灯というより燈籠型だが常夜灯と刻まれている。
・常夜灯:大正十四年、
・石仏(井川田代681)  
 集落北端近くの辻
 ・二地蔵、・二地蔵か双体道祖神
・諏訪神社(井川田代855) 
 集落北端に鳥居と湧き水があって諏訪神社への参道入口となっている。また自動車道とは別に薬師堂に向かう歩道が延びている。この歩道は旧道(古道)と思われる。
小無間山登山口、県・無・ヤマメ祭り、神楽、雨乞い踊り。8km奥に普段禁猟区の明神谷があり、ヤマメ祭り用のヤマメを釣りに行く。市・建・田代の一間造りの民家、 
 ・石鳥居:昭和四十八年、
・説明版:鎮座地:静岡市田代855、御祭神:建御名方命たけみなかたのみこと、八坂刀賣命やさかどめのみこと、例祭日:8月26・27日、由緒:信濃諏訪大社の御分社、嘉禎4年創建、神主諏訪權守が奉祀、享徳2年再建諏訪刑部奉祀、文禄、延享と再建、諏訪近江守が奉祀、現社殿は明治36年の造営総欅八棟造本格的神社建築である。閏年毎例祭日に神輿の渡御あり、特殊神饌魚釣祭、ヤマメ(魚に完)の粟漬、元郷社、明治維新までは海野家氏神であった。信州遠山より大井川支流信濃俣川を経て当地に来たと伝えられる。
・駿河田代諏訪の霊水:説明:この湧水は静岡市指定無形民俗文化財当社特殊神饌ヤマメの漁場明神澤水源御住池よりの伏流水にて4年に一度閏年毎8月26日神輿渡御の際右側の石積みは御旅所の台座であり、ここにて大神に霊水を献ずる。
昔からどのような渇水にもこの湧水は絶えたことはなく、里人はここにて若水を汲み年始となす貴重な生活用水でお井戸と称し親しまれ、また大小無間の登山者の必需水である。 
水質検査の結果最優良水と確認されており、呑めばまろやか活力を生み、井川銘茶をこの水でたて、或は冷凍の上水割等に用ふれば、その味また格別なり。広く御愛用をお奨めします。
神社はここから徒歩にて約20分諏訪山頂にあり、この霊水にて身を浄め清々しいお気持ちにて御参詣下さい。
 氏子は常に神社の護持運営に努めております。その費の一部として霊水御愛用の方々より何分の御奉賛を賜りますれば幸甚の至りに存じます。  諏訪神社社務所 
・集落北端から山に向かって参道登山道が続くが、先ほどの常夜灯地点から林道で山上の諏訪神社本殿にも行ける。参道は一旦林道で断ち切られるが、林道を横断して又歩いて登れる。
 ・第二木鳥居:平成六年、・手洗石:一九二六年、・常夜灯2:大正十五年、・祠5、・杉巨木:御神木、・参道途中から大無間山、小無間山への登山道が分岐する。もしも車で来て登山するなら、神社本殿横の駐車場が広いので、そこに車を置くとよい。
・薬師堂(井川田代855)  
 集落北端より100m北。歩道もここに出る。
 ・常夜灯:昭和四年、・祠、
・外山沢山神社(井川田代) 
 県道南アルプス公園線沿い、畑薙6号トンネルと外山沢橋の間。

・石塔類(井川小河内)  
 小河内大橋を渡って小河内集落入口手前、
 ・地蔵2、・燈籠、・庚申塔:昭和五十五年、・道しるべ:静岡小河内雨畑線 山伏峠まで17㎞昭和55年、
・井川・小河内集落内外の道 
堂の坂、井戸坂(井戸道)、イワン(ニワン)坂、上の道、下の道、コーギ道(ダシ山街道)、金山道(金沢金山道)などがある。南甲斐への道、南信濃への道、梅が島温泉への道がある。建正寺跡。 
・井戸(井川・小河内) 
 湧き水、生活用水。 
 
・阿弥陀堂(井川・小河内)、三十三観音、無縫塔 
 集落北端の共同墓地近く。三十三観音と無縫塔、他2体は埋もれていたのを掘り起こした。年号は「享保十年」「嘉永六年」「嘉永七寅」で1725、1853、1854年である。近くに八幡社。市・地登・小河内のヒヨンドリ、 
 ・庚申塔、・燈籠、・地蔵2、・無縫塔、・三十三観音35、丘上で展望所。
・大井神社(井川・小河内32) 
 ・石鳥居:昭和六十三年・平成元年、燈籠2:昭和十三年、
 昭和46(1971)年遷座。 
 ・説明版:鎮座地:静岡市小河内32、御祭神:弥都波能賣命みづはのめのみこと、例祭日:2月11日、由緒:創建不詳。棟札によれば、天正12年霜月火災により社殿焼失、87年後の寛文4年、宝暦3年、嘉永2年再建造営された。旧鎮座地井川ダム築造により、境内南側に崩潰を起こし危険な状態になり、昭和46年現地に移転した。元村社。閏年毎に例祭日に神輿渡御あり、井川神楽の伝承あり。
・小河内橋(井川・小河内)  
 現在の小河内大橋は昭和43(1968)年からでその少し下流に残る橋がこれで昭和28(1953)年から43年までとなる。その前は2つの橋の中間に昭和5(1930)年~28年まであったようだ。2014年3月この橋はない。この橋に行く袂付近に石塔類がある。 
・石塔(井川・小河内)  
 ・供養碑:昭和八年~昭和五十年、・板碑:遭難碑:明治四十年、・地蔵6:明治二十二・三十・三十九・四十二・昭和十二年・不明、
・地蔵:明治七□年弐月   
 集落奥はずれの林道井川雨畑線と林道小河内川線に分岐する手前の橋「小河内橋」(先ほどの橋と同名だが別橋)袂に安置。この背後の山上にも2通りの山道が分岐している。
・「林道井川雨畑線」の思い出  
 かつての静岡市の小中学校社会科用補助教材郷土資料冊子には林業や観光の為この林道を作った旨が記されている。それ相応の期待があって作られたようだ。
1980年代末、当時まだ舗装されていない頃、この林道をオフロードバイクで突破して山梨県側に抜けるのは至難の業というか、よほど運がよくないとできないことだった。四輪車では更にチャンスが減ってしまう。例えばこんな具合だった。林道に入って進んでいくと崩壊崩落していて道幅が1mしかない所がある。(だから四輪車ではチャンスが減るのです。)ある所では前方の道が島に見えた。どういうことかというと側壁上の崖が塊のまま崩落して道路上に塊のまま落ちているというか、樹木や草が生えたまま地面ごと道路上に載っているのでまるで道路上に島が浮かぶかのようだったのだ。数本の樹木は倒れていたが、数本は立ったままでいた。それをかいくぐるのが大変だった。それやこれやで県境の峠を越えて山梨県側に抜けてホッとしていたら、前方の橋手前の道路が、何か変なのだ。ブレーキをかけつつ進んで驚いた。橋手前の道路がすっぽり抜けて、道路や橋地面と同じ色の川水が流れているのが見えていて、何か道路の地面が波立つような乱反射するように見えたわけだ。それにしても道路の色と川水の色が全く同一に見えることも驚きである。橋の手前に河原に降りていく非常用道路が造られていて、川水のある所は土管を通して水を流し、その上を通過できるようになっていた。とても道路と言えた代物ではない状況が多かった。それがひとたび土建業者が入って道路整備すると、全く別物の道路のように快適に走れるのだ。ただそのように快適に整備されるのは少ない機会だし、ひとたび豪雨や台風が来ればあっさり半年や1年は通行不能の崩落崩壊である。近年静岡県側は舗装したが、だからと言って崩落崩壊が起きにくくなるとは思えないので大変なことだろう。山梨県側も大丈夫とは限らないのでいつ全線通行できるかははっきりしないだろう。県境の峠は大笹峠または山伏峠ヤンブシH1850mという。峠から山伏山頂△2013mへは徒歩20~30分であり最短時間登山路である。使用オートバイ:HONDA XL200R  
・供養塔:昭和五十九年12月21日遭難 瀧浪武雄  
 林道小河内川線を1㎞進んだ所。
・雷神社(井川・上坂本239)いかづちじんじゃ 
 ・金属鳥居、・祠2、・石家道祖神2、
 ・説明版:鎮座地:静岡市上坂本239、御祭神:別雷神わけいかづちのかみ、例祭日:1月7日、由緒:永政元年正月17日創建と伝えられる。元村社。江戸時代笹山金山の守護神として崇敬された。昭和36年11月27日同地区鎮座の山神社を法人合併されている。
・八幡神社(井川・岩崎) 
 ・祠、・石碑:高祖王様:昭和三十□年、一王様は八幡神社に奉戴来~~~
 14年3月岩崎地区には2軒家があるが住んでいる気配がない。
・井川峠(県民の森) 
 かつての生活道路。 現在ハイキングコース。

 
~横沢経由富士見峠、新街道~ 
・地蔵4(下平瀬) 
 下平瀬手前県道右上に安置。
・林道日蔭山線
・白髭神社(下平瀬) 
・石鳥居:昭和四十八年、・岩、
・新:地蔵2(下平瀬1349)玉川園  
・白髭神社(川島1434⁻2) 
・石鳥居、・手洗石:明治十四年、・コンクリ燈籠、
・林道樫の木峠線(川島) 
 現在川島より起点となり、樫の木峠を越えて大川日向に至る。古道ルートについては下記の林道白石沢線を参照。
・玉川西公民館(大和8⁻5)  
・二宮金次郎像(薪背負って読書)、・石碑:玉川西小学校跡、・卒業制作石膏像、
・?祠か社(大和951)   

・石:家:道祖神(大和838)   

・林道権七峠線(大和1037)起点  
 林道を300mも登ると愛宕神社がある。林道は3~4kmも進むと工事中で、その先を作っている最中だった。14年2月。
・愛宕神社(大和1037)    
・手洗石:文政十二丑年(1829)五月吉日、・石鳥居、1829年、祠、
・馬頭(大和1037)   
道路脇茶畑上に立つ。
・馬頭:明治十一年 岡田彦太夫建之、隣の家が岡田家である。1878年、
・庚申供養塔(大和1029)  
・庚申供養塔 安永八巳年 亥十月吉日 安倍郡 寺尾邑中、1779年、
・石塔類(内匠256) 
大和から内匠に進み、白石沢に架かる白石橋の手前県道左に安置。
・西国、・?、・庚申供養塔 安永七(1778)、・?馬頭、・?馬頭、・?観音:安政四(1857)、・?馬頭、・地蔵、・?観音:文政十弐(1829)、・奉巡礼、・南無阿弥陀佛、・馬頭、・石塔、
・林道白石沢線、樫の木峠(内匠256、白石沢) 
 県道の白石橋を渡るとすぐ左に林道白石沢線の道と標識があり、そこに海野家がある。
 1980年代末、林道白石沢線を進み、行き止まりから徒歩で進み、丸彫りの石地蔵を右折し進み、沢へ出て地蔵(不明、海野家の老女が話していた、登山後私が見ていないというと、無くなったのかもしれないと言った、沢沿いにあったのなら流されたのかもしれない)を横目に渡り、斜面を上れば樫の木峠で、樫の木と石地蔵がある。現在林道樫の木峠線ができたのでこの旧登山道は使われずほぼ廃道と推定される。林道樫の木峠線は内匠手前の川島から上って峠を経て大川につながっているが、峠手前が厳しい斜面で崩れやすく車でいつも通れるとは限らない。なお峠から大川までには萩多和城址石碑、宝剣神社祠が見られる。林道なので旧登山道ではないが、峠よりかなり下の方の旧登山道は現在も使われている。かつては大川と内匠を結ぶ生活道だったろう。
 上述は1980年代末の記述で2013年12月には現状が改変された。林道白石沢線は100mほど延長され、かつての石地蔵のあった分岐点が林道終点広場のようになった。ここに林道入口一軒家の海野氏により観音を幅50㎝の土管に入れ祀り直した。
 20年以上前に見たのは確かに丸彫りの石地蔵もあったはずだが、今回観音(観音か馬頭)像しかないのはなぜなのか海野氏に聞くことができなかった。県道沿いの石塔類の中にもなかった。
・?観音か馬頭:□□□□(?右わらしな)ミち □□□□ミち:多分右左の行き先を明示していると思われるが判読不能、多分右が樫の木峠で大川日向村、藁科川、左は中村山、釜石峠、長嶋、栃沢、美和、足久保方面である。
 このルートでの遡行を近年(2000年代)行ったものでは、広岡氏「東海道山筋紀行」に詳しい。峠直前は完全な薮だったようで大変苦労したようだ。帰路は二度と通過したくないのであえてこのコースをやめているほどだ。広岡氏が通過したのは松浦武四郎が通過しているからである。
樫の木峠より向うのコースは別項目「大川街道」を参照してください。
・白髭神社(内匠648)  
・コンクリ鳥居、・手洗石、・公孫樹、
 県道から東橋を渡ると下腰越集落である。
・馬頭(下腰越43) 
・?馬頭、・?馬頭、
 この馬頭の祀られている所から歩道が川沿いに延び吊り橋を渡って奥腰越につながっている。ちょうど県道とは反対岸である。このルートが古道と思われる。
・白髭神社(下腰越90) 
・石鳥居:紀元二千六百年紀念 大正十五年、・燈籠:昭和十五年、常夜灯:安政四(1857)、・手洗石:文政六(1823)、・杉:巨木切株、
・神社(奥腰越639) 
・お堂:地蔵、・常夜灯:安政五(1858)、・石塔、・供養□□、
・白髭神社(大沢259) 
・石鳥居:平成十八年、・杉:大木数本、巨木ほどではない、
・寺院跡(大沢286)大沢公民館   
・葷酒不入寺内、・四国西国秩父□□八十八所供養塔 明治二十亥(1887)年四月癸日、・?青面金剛か不動明王:文化二(1805)年丑二月吉日、・庚申供養塔 皇紀二千六百年記念、
・大沢縁側カフェマップ(大沢)  
 大沢ではおもてなしとして大沢縁側カフェを毎月第2,4日曜日に開催している。集落入口にそのマップが掲示されている。
・祠:馬頭(大沢)  
・馬頭:明治四十四(1911)年十月、・馬頭:文化十弐(1829)年、・馬頭:明治三□□年十二月、
大沢集落を過ぎ茶畑農道を一番上の奥に詰めた所に祠と石仏がある。
かつてはここ大沢から上り大岳の鉱山や笠張峠に出ていた。今でも登山道はあるが、車では行けない。なお大岳へ直登する道は頂上間近でなくなり、あとは稜線を行く。
この馬頭観音がある所を直登するのが多分旧道古道と思われる。これより上には登山道が延びていて、登りきると笠張峠から伸びてくる林道大岳線に接続するかと思われる。そのルートが旧道と重なると思われる。
この馬頭観音こそが大沢から笠張峠を越えて馬で井川に通じていた証拠である。 
・石造物(横沢61)横沢集会所、小学校跡地  
・地蔵2、・石碑:静岡市在住横澤會、・大石3、
・御嶽神社(横沢156⁻1)  
東側から上った所。
・石塔、・地蔵、・(梵字)庚申供養塔、
西側から上った所。
・馬頭、・馬頭:明治五年、・馬頭:辰八月、
 手前は墓地で神社は本殿があるだけ。
・燈籠(横沢291) 
 以前の長倉商店前の5m丘の上、以前の横沢バス停前。 
・臥龍(権現)滝 
 県道から見られる。水量が豊富である。臥龍滝と名づけたのはかつての県知事である。 
・一本杉峠 
県道をさらに上った左手に電線巡視路、一本杉峠線があり、大川諸子沢に出られる。かつての生活道であり、今は登山道、電線巡視路である。 
・笠張峠 
 大日峠に変わって使われるようになった。今では大川大間への分岐点となっている。尾根を通って林道大岳線沿いに大沢に出るのが古道ルートである。明治以前にも使われていたようであるが、発祥や推移は不明で、笠張峠からいかにして井川に出たか不明? おそらく三ツ峰付近へ出て井川または梅地方向へ尾根伝いに下ったのだろうか。また三ツ峰付近から大日峠へ尾根伝いに行くルートもあったと思われる。笠張峠から三ツ峰を省略して大日峠に行こうとすると大体今の自動車道ルートと同一化するので旧道を改変することで今の自動車道ができているのではなかろうか。 
 地図上での記載は標高1057mだが、大間と横沢、富士見峠に県道が分岐する地点では標高1100m。かつては大沢、大間、井川への分岐点であったし、今も分岐点である。標高がずれるように今と昔では分岐地点が違っている。
・富士見峠(井川3115) 
 現在の県道の峠で、休憩所、トイレ、駐車場がある。現在はここから尾根上の遊歩道で大日峠に行けるし、少し西下に自動車道も通じている。ここから登山道で三ツ峰にも行くルートがある。三ツ峰から七つ峰にもルートが延びている。
 笠張峠と大日峠を最短で結び三ツ峰を省略するとおよそこの富士見峠を経由することになるので、この辺りを旧道は通過していたのではないか。
 県道「南アルプス公園線」沿い、標高1184m、駐車場とトイレがあり、展望所にシンボル碑あり。三ツ峰(H1350m)へのハイキングコース入口があり、ほどほどの登りなので自然散策を楽しみたい初心者向けである。ちなみに北方にある現在の大日峠(口坂本温泉から井川へ行く県道越え)は標高1150m。

~油島からの梅が島街道~ 
・旧県道舗装街道(油島と蕨野の間) 
 河原土手の今の県道右崖上に昭和期に使われていたアスファルト舗装県道が一部残存している。不動沢橋付近に道祖神が祀られている。 
・本山茶の茶祖 聖一国師墓所(蕨野24) 
 説明版:聖一国師は藁科川の上流栃沢の米沢家に生まれ神童の誉れが高く、栃小僧(頓智)と呼ばれていました。五歳の時久能寺堯弁の弟子となってから、蕨野仲野播摩正の家にしばしは手習いに来ていました。嘉禎元(1235)年宋に渡り禅を究め、仁治元(1240)年帰国しました。その時茶の種を持ち帰り足久保や蕨野に植えました。当時僧の中には医療に携わる者もあって喫茶が養生法の一つにあげられ、茶は医薬としてたいへん珍重されました。江戸時代には将軍家の御用茶として、茶壺に納めて、お茶壺屋敷に保管し、お茶壺道中で警護されながら駿府や江戸に運ばれました。安倍川上流一帯は茶の適地として良質の茶を産するので、つくり初め本、味の本場であるということから「本山茶」の名が自然に生まれました。このように聖一国師は「本山茶」の種を安倍川筋にまいて、静岡茶を日本一にする基をつくったのです。国師墓所の寺号「医王山回春院」は茶の医療効果と結び付けて付けられたのでしょう。ここに「本山茶」の茶祖として聖一国師を讃え顕彰いたします。昭和54年4月、聖一国師顕彰会 平成21年1月改修、 
・回春院(蕨野103) 
 無住、聖一国師墓。 
・地蔵、・尼□□□申塔、・三界萬霊十方至、・當院開山救證(了不)聖一国師大和尚 弘安三庚辰(1280):この墓石が1280年のものではなく数回再建されてきたのだろう、
・城山(蕨野)  
蕨野から吊り橋を渡った対岸の山は中世山城跡。
・大聖不動明王堂(横山)  
八重沢川を500m遡ると左(南)岸にある。
・白髭神社(横山75⁻2) 
・石鳥居:昭和五十八年、・手洗石:昭和十五年、・燈籠2:昭和十年、・燈籠:昭和十一年、・燈籠:昭和五年、・燈籠2:昭和十一年、・板碑、
・石塔、墓石(横山35⁻3)  
・?墓石、・庚申供養塔 文政八(1825)、・祠、・地蔵、・?馬頭、
・小川地蔵(横山) 
 水難除けの地蔵で焼津市小川が発祥のものを分祀してある。 
・馬頭観音(平野) 
 平野入口県道右側壁安置。今はない。引き揚げたようだ。下記観音堂入口に再設置。 
・観音堂(平野) 
原橋手前東側に近年設置された。
・馬頭:昭和十四年、・馬頭:昭和十八年、・燈籠、・紅葉、・樹木
・手作りの石灯籠:説明版:この石灯籠は長い歴史をもった由緒のあるものです。代々栄えた大家の庭にあったものです。石工がタガネを打って造形した手作りで見事な風格をたたえています。お堂との落ち着いた風情が庭園の見どころとなっています。
・観音堂:説明版:聖観音菩薩像:江戸初期1600年頃:堂の中央に安置するのは聖観世音菩薩の像です。眼光の鋭い目から放つ光は苦しみ悲しみ悩み事など苦労の様々を観音様自身が受け止めて下さり、慈悲に溢れたひとすじの光となって私たちの心の中に力強い力を与え下さるのです。観音様はいつまでも健康長寿、安らかな永遠の旅路まで加護下さいます。阿弥陀如来:室町1540年頃:堂の右側に安置する阿弥陀如来様は体長60㎝と小柄ですが、なんと重さは70㎏もある像です。この如来様は日頃の悩みや苦しみの一つ一つを重い体重で踏みつぶして取り去ってくれるのです。この如来様は踏みつぶし如来と呼ばれ穏やかに見守って下さっています。心からの礼拝で必ずや願い事が叶えられるでしょう。
・地蔵(平野164)    
集落内分岐点の祠に安置。
・大村家住宅、カブト造り(平野1052)  
・国登録有形文化財 文化庁、・景観重要建造物、茅葺屋根の一風変わった屋根の形をしている。兜に似ているのでカブト造りと言われるのだろう。カブト作りの屋根は見応えがある。
 手前の道路脇に五輪塔2基の古い墓石がある。
・平野の盆踊り
平野の盆踊りは県指定無形文化財。
・石碑(平野481⁻2)
・石碑:礼場椿道 開通記念 平成元年、
・白髭神社(平野112) 
・石鳥居:大正十五年、・角柱型燈籠3、・燈籠2:大正十年、・板碑、・社、・祠、・杉:巨木、
・少林院(平野504) 
 境内入口に石道標(再建)「右ひらの 左もろおかむら」とある。もろおかむらは末高山周辺の村岡村むらおかむらのことだろう。 
・庚申供養塔、・庚申塔 昭和五十五年、・新:百度石、・新:経塚、・燈籠:大‣中、・燈籠4、
・仏足石、・真富士観音第一番、第二十九番、・不許葷酒入山門、・学校発祥地、・石道標:少林禅院 左もろおかむら 右よこやまむら、・その他、
・真富士三十三観音 
 少林院に第一番があり、第二真富士山山頂に第三十三番が安置されている。第一真富士山山頂に第三十一番で、第二真富士への途中に三十二番がある。第二番は寺を出てすぐに曲がった所にある。登山道沿いにあるため、林道だけを通過してもすべて見られるわけではない。戦後の昭和三十年代にハイキングコースが設置されたのを機に安置された。第一真富士山頂の手前に真富士神社がある。 
 14年10月現在、第一番は県道沿い平野バス停横に安置されていた。
 ふりかけ食品メーカーに真富士屋があるが、経営者が当地出身だからである。
平野集落を出て真富士山方向へ林道を進むとすぐに左下に茶畑がある平坦地がある。黒部沢河口の平坦地でもともと集落はここにあったと言われているが、黒部沢に土石流が押し寄せたため上に集落を移したらしい。
・朝日滝(平野) 
 集落県道から対岸に見えるが、滝に行く道はない。 
・不動滝、不動尊堂(平野) 
 中学校裏手にあり、歩道がついていたが、崖崩れ対策で不動滝周辺一帯を高いコンクリ壁で覆い尽くしたため、全く滝を見ることができなくなった。もはや見たり遊んだりすることは不可能である。よじ登りかいくぐれば可能ですが…
不動明王堂はコンクリ壁手前に再建されてある。
・?角柱型燈籠、・石:奉納、 
・末高五輪塔、末高館跡(平野) 
 大河内小中学校右手(北側)の山上(末高山)の茶畑内にあり、歩道がついている。館跡という。末高氏は安倍七騎の一人。子孫は東京在住という。この下の県道カーブを地元民は末高山のカーブと呼ぶ。
・五輪塔2、その他の墓石多数、 
・白髭神社(中平343) 
 中平の集落は現在の県道より上の旧道(通行不可)のそのまた旧旧道沿い及びそれより高所にあるため県道からは一部しか見られない。現在の県道がほぼ河原に作られたため人が居住できる場所ではないからだ。街道が新しくなるたびに下に移転したため街道のダウンムーブメント現象の好例として観察できる場所である。
・石鳥居、・白髭神社 紀元弐千六百年弐月、・手洗石:昭和十五年奉納、・板碑:頌徳碑しょうとくひ 立浪碑、・燈籠2:奉納弐千六百年、・祠、・社、・手洗石:明□奉納安倍郡中平村観音講中、・燈籠:大正十年、・杉:巨木、
・お堂、公民館(中平61)  
 かつて臨済宗の寺院で移転したがお堂は保存した。
・庚申塔 安政(併のイなし?)年如月吉日、お堂の門前にある。この上の斜面に切通しらしきがあり、かつての古道かと思われる。
・古い墓石群(中平23)   
・三界萬霊無縁塔、・他墓石多数、江戸時代年号あり、
・学校跡地(下渡493) 
・心の碑 昭和四十三年 大河内北小学校、・石碑、・コンクリ像、
・しだれ桜(上渡185) 
 県道沿いに咲き見事。 
・全福寺(上渡4) 
寺の参道入口にある。・水難除供養(美良)塔 地蔵3、
寺の門前墓地にある。・六地蔵、地蔵、
寺の上のお堂横にある。・庚申塔 享和二年(1802)、・?石塔?庚申 元禄二己巳幸(1689)、・庚申塔 大正九年、・庚申塔 昭和五十五、
・石造物(渡本5) 
・記念碑:孝子白鳥文八居住之跡 東宮殿下御成婚奉祝記念 大正十三年一月二十六日建之 安倍郡、・燈籠:奉納、
・東雲寺(有東木776)uto-giうとうぎ  
 曹洞宗。子安観音、大日如来、山葵田がある。
・堂、・庚申塔、・石塔、・新:六地蔵、
・白髭神社(有東木597) 
・祠、・新:燈籠2、・新:手洗石、・石:家:道祖神、・大杉10:高さ45m、隣に祠:仏像:天保三(1832)、
・有東木白髭神社の大スギ:説明版:樹高35m(新説明45m)、目通り周囲6.6m、枝張15m、この神社の境内には樹齢約720(新説明750)年にもなる樹勢の良好なスギが十本程あります。有東木に集落ができたのは500年ぐらい前といわれており、このスギはもともと天然林であったと思われます。静岡市。
・有東木の無形文化財 
 国・無・有東木の盆踊り、市・地登・有東木のギリッカケ、市・無・有東木の神楽、
・石塔(有東木267) 
・馬頭、・祠、・?観音:天保四(1833)、
・辻の地蔵(有東木691)  
 寺の手前の住宅の辻。別名:しょんべん地蔵、長いいわれがある。
・分校跡(有東木751)  
 寺の裏の空き地で消防分団小屋の横。昭和44年廃校。
・ワサビ発祥の田(有東木734)   
 有東木公民館の先。
・地蔵:行山安全:えぼし岩(有東木734)   
 有東木公民館の先。
・火の見櫓(有東木767)    
 寺の裏の分校跡地横。
・たかんば:凧揚げ場がなまった、景色のよい所・山の神:山の神がくれた景色が見える所、・そらんだん:空の段がなまった、展望がよい。・山葵栽培発祥の碑、
・山葵高原(有東木)、正木峠、地蔵峠、成島峠、細島峠 
 有東木の奥に山葵(ワサビ)高原があり、山葵発祥の地という。さらに奥に正木峠があり、藤代への道である。また地蔵峠を越えると山梨県の月夜の段に出られる。他にも成島峠や細島峠を越えて山梨県側に出られる。特に細島峠や成島峠越えが使われていたようだ。地蔵峠越えは新しいようだ。主にかつての生活道路である。今はいくつかが登山コースとして歩けるが、廃道もある。 
・石造物(大和田523⁻4) 
 かつては有東木園という蕎麦屋があり石造物を置いていた。蕎麦屋がなくなった後もしばらくは石造物があったが13年12月現在は何もない。 
・コンクリ製橋桁(大和田、瀬戸橋手前) 
 かつての吊り橋用橋脚と思われる。
・(藤代) 
 かつては正木峠で有東木とつながっていた。川が増水したときの山越えコースになっていたようだ。この集落はかつて土石流により壊滅的打撃を受けたことがある。
 集落入口手前に藤代の滝がある。
・庚申塔(藤代329)   
 集落入口手前の道路脇に新しい祠設置。
・庚申塔 寛文八(1668)、・庚申塔 天保十五(1844)、
・桜(入島・数珠窪) 
 今は県道から外れたが、かつては県道沿いに桜がかかり見事。 
・石仏(入島) 
 2010年以前集落入口の県道沿いに安置されていたが、13年12月現在は入島公民館の下記地点に安置。 
・指月院跡(入島220)入島公民館  
 草創:1506年、本尊:聖観世音菩薩、
・堂、・奉請庚申待一結之衆中敬為延宝八庚申(1680)、・地蔵2、・石塔2、・石塔の笠部分、・石破片、
・祠:地蔵(入島289) 
 農協の茶工場や茶畑のある辻に祀られている。
・土砂崩れで崩落した昭和期の県道(入島) 
 昭和期に使われていた県道は、入島から湯の森への長大なスロープ橋の左のがけの中腹に見える。一応崖は修復されているが、根本的に処置できないためこの長大な橋を通した。
・神社(湯の森1029⁻4)  
・木鳥居、・常夜灯2:明治三歳、・燈籠2、・観音:延宝三(1675)、・石塔:見ざる言わざる系の浮彫りなので庚申塔系と思われる、神社の社殿は彫りが見事である。
・石碑(湯の森1029)  
・忠魂碑、・大東亜戦争戦没者芳名、・御大典記念、・平和、
・石碑:渡辺柔郎 髯先生の碑(六郎木1327)   
 梅ヶ島小中学校前の校門橋を渡った公衆トイレ横。
・梅島山宝月院(関の沢、梅が島545)、 
 本尊:釈迦牟尼佛如来、開山:1968年、宝珠院と指月院が併合、 
・新:不許葷酒入山門、・新:六地蔵、・新:地蔵、
・関の沢の水力発電所跡(関の沢) 
 静岡新聞13年12月に掲載。関の沢川沿いに水力発電所が戦前あったが戦後役目を終えた。取水口や発電施設跡が残る。
・(大代) 
 井川峠とつながっている。ハイキングコース通行可能。 
・石塔類(大代3083)   
 大代集落内の峠越えのような高所にまとめて祀られている。おそらく近年移転合祀されたのではなかろうか。
・祠、・庚申供養塔、・石塔、・地蔵、・三地蔵、・石塔、・石塔、・石塔の笠部分、・丸石、・穴あき石、
・御巣鷹山853.8m、天神山826m (大代)
 大代集落東側の双耳峰(山頂が二つある山)の名前は南の三角点のある高い山が御巣鷹山853.8m、北の低い山が天神山836mだそうだ。どうも登れるらしく、集落の山頂真下の森下(地名)716mに登山標識がある。標高差137mなので20~30分で登れて両山廻って1~2時間ではないでしょうか。
・(本村)
 バス停のある家の裏から戸持集落に上れる。かつての古道で昭和期まで子供たちの通学路であった。下るときは約15分だったそうだ。またバス停横の川向こうの林道(この林道は500mも進むと行き止まり)入口から真上に向けて上る登山道も東峰に上る旧道(古道)であり、現在も大光山登山コースとして使われる。そしてこのコースも東峰の通学路だったのだろう。
 「古道は通学路として近年まで残存しやすかった」といえる法則が成り立つ。そして古道は登山コースや自然歩道に選定されると残存しやすいともいえる。
・石塔類、神社(戸持3477)、兎作  
 集落内の戸持公会室横に祠や石塔が安置されている。
・祠、・稲荷神社、・?天神、・奉請庚申供養塔、・地蔵2、
 戸持は急峻な山の斜面に茶畑が広がっていて、今は畑になっている所のいくつかで金の露天掘りがかつて行われていたという。今は茶畑ばかりだが焼畑農業との関係性もあるだろう。
 戸持の一番北の高所の集落裏山に昭和40年代の地図上では鳥居マークがついているので、かつてはそこに神社があったと思われるが、現在は東峰に稲荷大明神があり、戸持の神社は湯の森の白髭神社に合祀された。かつての鳥居マークのあった所は調べたが何もない。
そこへ行く自動車道は裏山の下で舗装が終わるが、その奥には無舗装の道が続き、立ち入り禁止となっている。
・兎作    '14 11/3
 その500m先にはかつて兎作という集落があった。兎作は廃村となっている。壊れかけた廃村の家の庭に、すり潰し用の自然石:30㎝四方で上部真ん中がへこんでいて、鉱石をすりつぶすのに用いたのかもしれない。他に15㎝四方と10㎝四方の丸石自然石が2つあった。
兎作の住人は最後3軒となり、大野木、古庄、末広町へ出ていったという。最後に残った2軒は、清水区の人が1軒を買い取り別荘にしているという。もう1軒はどうも吾作小屋というようで、大野木から戸持に来るとき通る舗装道から登山道が分岐しているようだ。
・神社、古道(東峰1959⁻2)  
・赤祠、赤鳥居: 稲荷大明神、
神社横に標識:「日本一高い茶畑海抜1000m」、地図で確認すると標識のある神社前で標高900mで目の前の斜面の上に続く茶畑の最高所で1000mと推定される。その横を登山道は進むと思われる。登山標識「東峰←→大光山」があり、上る道は茶畑横を上り大光山に至り、ここから下山する道が本村バス停に続くことが分かる。
13年12月付近で飼われている犬が人懐こく近づいてきて癒された。
ただこの道がいつから使われているか証明がないので古道と言い切れるかは不明だが、旧道であることは言い切れる。もっと古い古道があるかないかは今後の調査研究を待つ。一応この旧道を古道と推定したい。
東峰も金の露天掘りとの関係がいわれる。焼畑農業とも関係あるだろう。
・(孫佐島) 
 井川峠とつながっている。ハイキングコース通行可能。現在市営キャンプ場。
 孫佐島に渡る橋の手前に祠がある。橋を渡った所の山に取り付くと井川峠コースとなる。
・祠:金谷山神社、 
・(大野木、戸持、東峰) 
 現在梅園、テニスコート、温泉民宿の地。この裏から戸持、東峰集落に行ける。この集落はかつて金の露天掘りをしていたと推定されている。なお六郎木集落の一つ上流の本村から徒歩で上って行ける。それが旧道(古道)である。 
・刈安峠(草木) 
 東峰同様、刈安峠越えで山梨県につながっていたが、崩落だらけの危険なコースなので現在通行禁止となり廃道である。私も滑落しかかったことがあった。刈安峠そのものへは草木から大光山経由で稜線へ出て歩ける登山コースが設定されたので、稜線をたどり稜線上の鞍部として通過できる。なお山梨県側も廃道である。石仏やいわれのある樹木等はない。かつての生活道路。 
・赤水の滝(赤水) 
 増水したとき水が赤く(赤茶色)濁るためである。この上流に大谷崩れがあるので土砂を含みやすかったのだろう。展望所が県道下にある。県道は滝の真上を通過する。自転車で上るとこの街道中もっともきつい上りである。 
・(新田) 
 大谷崩れにより大量の土砂が集積し、金が取れなくなった日陰沢金山から鉱夫たちが移転し開拓した土地。市・無・梅が島の舞。 
・稲荷大明神(新田5554) 
 この裏から登山すると、七人作りの尾根という安倍奥三大遭難地帯の稜線をたどれるようだが、すさまじい藪を通過する危険地帯なので素人は行かないように。
以前は小さな祠しかなかったが、13年11月現在、参道や社殿が新しくなっていた。
・赤鳥居:幾つか、・板碑、・新:燈籠2、・手洗石、・石碑:奉納正一位稲荷大明神百五十年祭記念碑、・石段、・燈籠2:昭和~、  
・願勝寺分院(新田) 

・大谷崩れ 
 日本三大崩れの一つ。扇の要から新窪乗っ越しを経て大谷嶺(三角点所在地△1997.7mだが三角点がすでにない、崩落したようだ)や山伏岳に上れる。一面のガレ場は見応え十分。 
・日陰沢金山跡、奉行所跡、鉱夫たちの墓 
 魚魚(トト)の里の奥でハイキングコースになっている。入口の奉行所跡は休憩所になっている。近くには遊郭もあった。河原を数分歩くと集落跡の様子を石垣や段差等でつかむことができる。古い道もあり墓は山の稜線上にある。この街道中もっともスリリングなコース。一見の価値あり。墓石は小振りで甲州(山梨県)側で彫ってもらい鉱夫たちが背負って山越えしてきたものだ。もっとも新しいもので天保期(幕末)のものである。墓石が甲州のものということでいかに甲州とつながりがあるかが分かる。
入口周辺には市営黄金の湯、金山温泉、魚魚の里があり、レジャーに最適。 
・宝珠院跡(梅が島本村) 
 本尊:釈迦牟尼佛、草創:1558年、 
・市営温泉黄金の湯(新田)  
 日帰り温泉で土産物屋、公衆トイレ、無料駐車場がある。
温泉前の土手に梅ヶ島観光看板、砂防ダム説明版、三河内川床固め工群完成記念碑及びモニュメント付石庭がある。
川向うは魚魚の里と奉行所跡である。川の水量が少なければ靴や足がずぶ濡れになるのを覚悟すれば徒歩で渡河できる。ただし夏でも冷水で冷える。
・安倍の大滝(三河内) 
 最初の梅が島温泉民宿を右に入っていく。徒歩十数分。落差が多きく安倍川流域中最大の滝である。 
・梅が島温泉 
 かつて市営温泉があった所は源泉取水場、湯之神社、公園になっていて、説明版等が多い。
・梅ヶ島温泉の歴史:説明看板:梅ヶ島温泉は、静岡市の北部、安倍川源流に近い安倍峠の麓に位置し標高1000m(級)の雄大な山々に囲まれた静寂な自然環境の中にあります。その歴史は古く、一説には約1700年前に遡るとも言われています。三人の狩人により発見された説、砂金採りにより発見された説、或は仙人が三匹の蛇が遊んでいる泉を見つけて発見された説など、梅ヶ島温泉にまつわる逸話が多数あります。
 戦国期には信玄の隠し湯とも言われ、古くから美人づくりの湯と知られるこの温泉は、単純硫黄温泉で神経痛、関節痛、うちみ、痔、冷え性、疲労回復、皮膚病などに効能があり、ツルツルとした感触の良い温泉は清く澄み、時として黄金色に輝き、湯の花を浮かべ、長い間、湯治場として多くの人々に親しまれてきました。
 昭和四年の大火、昭和四十一年の大水害等の苦難もありましたが、現在は旅館、民宿、土産物屋など十数軒が軒を連ね、その歴史を今なお継承しています。
 この地、「おゆのふるさと」は、昭和四十五年に開設した市営浴場が平成十一年四月に梅ヶ島新田へ移転新築されたことに伴い、再整備したものです。梅ヶ島温泉の泉質を感じていただくお湯に触れる施設や湯之神社、岩風呂、湯滝等を回遊散策し、展望デッキからは梅ヶ島温泉街も一望でき、梅ヶ島の魅力を垣間見ることができます。
・湯之神社:猟師たちにより発見されたという。源泉上にある。・石塔:読めそうだが刻字不明、
・湯之神社の由来:説明版:正保二(1645)年初夏の頃、甲州天目山に治療中の良純親王は西方に霊泉ありとの夢のお告げを受け、それを尋ねて甲州路を安倍の峠へと辿られました。親王が重い足を引きずって頂上近い逆川のほとりで休息していますと赤い小蛇三匹が道に出て親王を導きました。(親王が持っていたお酒を盃につがれ差し出されると、それをなめられたといいます。)そして道なき道を西方に導かれ、やっとのこと温泉にお着きになりました。親王がこの温泉に入浴なさいますと三日で痛みもとれ、十数日で難病もすっかりご快癒になりました。
親王はこれを日頃崇拝する御仏が、権(かり)の姿でおいでになりお救いしてくれたものであると信じ、仏恩報謝の御心から持っていたお守り刀の備前長船祐定と紺紙金字の願経と水晶八房の御数珠を捧げられ三蛇大権現としておまつりしました。
 しかるに、古来より「湯之宮三社(蛇)権現」と称されていましたが、明治に入り政府の神仏分離政策により湯之神社と改称、春秋年二回の祭典を行い現在に至っております。
・湯滝:説明版:湯之神社の脇にあるこの滝は、古くから人々の心を清め、和ませてくれる温泉の守り滝として奉られており、新緑青葉の時期に岩肌を滑り落ちる水しぶきは、昔と変わらぬ清涼感を今でも私たちに与え続けています。
・岩風呂:説明版:このお風呂が造られた時期は定かではありませんが、古くから美人づくり、子作り、長生き、健康づくりに御利益がある湯として人々に親しまれてきました。現在はここに湧き出ているお湯も含め、各旅館等に、源泉湯として供給されています。
・歌碑:あめつちの大き心にしたしむと駿河の山の湯どころに来し 勇 
 温泉旅館街から三段の滝へ行く道脇に慰霊碑がある。
・台風被害者慰霊碑:遭難者慰霊塔。慰霊碑、昭和41年9月25日台風26号による遭難者、遭難者個人名。水難地蔵慰霊菩薩 昭和四十一年九月二十五日水難犠牲者二十六名、増田。 
・三段の滝:温泉街の上流、徒歩5分。 
 温泉街から安倍峠方向またはバス停のある方に向かうとバス停前にある。
・文学碑、吉井勇、あめつちの大きこころにしたしむと駿河の山の湯ところに来し、昭和十四年初夏。バス停前。
・摺石:武田信玄公の時代、新田部落付近に日影沢金山あり、其の当時金鉱を入れて摺り潰して□に流して金を得たものです。梅薫楼
・南無妙法蓮華経、昭和十四年、ひげ題目、
*山の中の地名になぜ「~島」が多いのか。島はシマで縄張り領分の意味があるようだが、一般的に島は水に囲まれた所である。この水は客観的に四方を囲まれた海(湖、池、沼、川)だけでなく、主観的に囲まれている、あるいは水のある所を渡って行く所も含むようだ。そうすると山の中でも川の向こうは「~島」である。
梅ヶ島温泉を三段の滝方向ではなく右折(東)してバス停方向へ行きさらに奥を目指すと、林道入り口ゲートと手前に八紘嶺安倍峠登山道入り口がある。古道は登山道であろう。ただし古式ゆかしいものは登山道沿いには見当たらない。以下は林道沿いのものも紹介する。林道豊岡梅ヶ島線は5月下旬開通、12月初め閉鎖となる。ただし林道が災害で通行不可能になることは多い。14年11月現在山梨県側は復旧工事中でここ3年ほど通行不可である。
・安倍の大滝の展望所、
 梅ヶ島温泉より林道豊岡梅ヶ島線で1㎞進んだところ。標識「ここより安倍の大滝が見えます」、確かに滝の上部が見える。
・安倍の大滝への近道登山道、
 梅ヶ島温泉より林道豊岡梅ヶ島線で1.5㎞進んだところ。標識「安倍の大滝入口、500m、安倍の大滝から民宿へ1.5㎞」
・鯉ヶ滝(恋仇)
 梅ヶ島温泉より林道豊岡梅ヶ島線で1㎞進んだところ。看板標識がある。
「1、昔、安倍郡梅ヶ島村に住む百姓の三郎左衛門と湯治場の湯女(ゆな)のおよねとは、いいなずけの間柄だった。ある日、府中より馬場新之助という若侍がこの湯治場の腰痛の治療に来て、いつしかあ、およねと深い恋に落ちた。
2、二人の関係を知った三郎左衛門は、ショックの余り殺意を覚え、二人のいる湯治場に火を放ち山へ逃げ込んだ。そして、滝の上まで来た三郎左衛門は、湯治場にいるはずの二人の逢瀬の場を見つけ、逆上し背後から二人を滝下へ突き落してしまった。
3、住み慣れた村の空が湯治場の焼ける炎で赤く染まるのを見た三郎左衛門は、自戒の念にかられ、二人の後を追い滝下へ身を投げた。しかし、このとき彼が見た空は、火事の炎ではなく晩秋の美しい梅ヶ島の紅葉に彩られたものだった。
4、その後、三郎左衛門とおよねは緋鯉と真鯉に化身して結ばれ、仲良く滝に住んだという。爾来、この滝は「恋仇」(鯉ヶ滝)と呼ばれているが、事実は定かではない。」
 滝は林道橋の上流側に見える。大岩の中を豪快に水が下っていく。
・八紘嶺登山口
 温泉の林道ゲート付近からの登山道がまた林道と交差し、再び登山道に分岐する。付近に駐車場もある。
・安倍峠旧登山道
 峠1㎞手前で林道からはずれた旧登山道入り口がある。沢沿いを進める。
・駐車場、公衆トイレ、富士見台の下
 13年11月現在、梅ヶ島温泉よりここまで車で来られる。山梨県側が復旧工事中のためバリケードで車は進入できない。あと500mで安倍峠である。
・ハイキングコース案内標識:安倍峠~八紘嶺~梅ヶ島温泉 八紘嶺~安倍峠 八紘嶺~大谷崩、
・安倍峠、標高1488m、     '14 11/3
 山梨県との生活道路で、かつては静岡市街側に行くより使われていた。川沿いまたは山また山を越えて歩く方が大変で、安倍峠等を越えて身延町側に出る方がましだった。オオイタヤメイゲツ等、秋に黄葉し更に紅葉する落葉樹が見事で、秋10月中旬に黄色というより午後の日差しを反射した黄金色の絶景は極楽のようだった。しかし地球温暖化の現在は10月下旬がピークである。14年10月25日はまだ緑、黄色、赤がぼちぼちでこれから1週間後がピークかと思われたが、11月3日に来たら紅葉を通り越し枯れ木となり葉は茶色く地面に積もって初冬景色となっていた。おそらく10月27~29日がピークで、あっという間に散ったようだ。
どうも地球温暖化で紅葉時期が遅れたが、終了は後ろにずれず、あっという間に散ることになったようだ。葉の紅葉の仕方は緑、黄色、赤、更には木についたままの葉が茶色く変色していくという、汚い紅葉いや紅葉しないで茶色く朽ち果てる葉がでる始末のようで、鮮やかな紅葉ではなくなっていくようだ。地球温暖化で夏が長期化したが、冬は例年通り来るので、秋が短期間化し、紅葉しきれず朽ち果てるという情けない紅葉になるようだ。 
 オオイタヤメイゲツ(カエデ科カエデ属):一般的には散生するが、このように群落をなすことが珍しいので学術参考林(昭和56年)となっている。そのため林道を峠から少し外れた箇所に作り県境を越すようにした。工事費がけた違いにはねあがったそうだ。
 峠を旧道に沿って梅ヶ島方向に下ると500mほどで水が湧き出し川になるところを見られる。安倍川水源地の標識がある。まあ安倍川の最初の1滴といったところでしょうか。 更に1㎞沢沿いに下れる旧道がある。その先は林道に合流する。
林道合流をやめさらに道なき沢沿いを下ると、鯉が滝と安倍の大滝にはまることになり、落ちたら死にます。よく素人さんが、川沿いを下れば人が住む村や町に出られるから、遭難したら川を下ればよいと言いますが、それは平野を流れるゆったりした川が前提で、山の中の川は悪絶なる滝場、断崖絶壁の渓谷にはまるので、絶対川沿いを下ってはなりません。自殺行為です。
 安倍峠にあるもの:
・馬頭観音?:コンクリート製、
・安倍峠から徒歩15分、シロヤシオ群生:開花5月下旬、トウゴクミツバツツジ:開5~6月、サラサドウダン:同6/下、チチブドウダン:同6/中、ブナ巨木、ミズナラ巨木、
・石碑:「開通記念 広域基幹林道豊岡梅ヶ島線」静岡県側7.4㎞、山梨県側14㎞

~参考文献~  
・「井川村誌」井川村誌編集委員会、’74 
 自然、歴史、産業、交通・通信、発電、文化、民俗、方言という井川についての総覧であり、基礎資料である。 
・「玉川村誌」、’64 
 1911年手書き版上梓、1964年写本プリント版発行である。自然、歴史、教化、兵事、衛生、警備、産業、交通、社寺、伝説、、伝記、言語、風俗、災害等について20世紀初頭においての観点でまとめられていて、今ではおやという部分もあるが、当時の基礎資料足りうるものである。 
・「田代・小河内の民俗~静岡市井川~静岡県史民俗調査報告書第十四集」静岡県教育委員会文化課県史編さん室、’91 
 民俗調査報告書として一通り報告されているので便利。多分田代と小河内が取り上げられたのは、井川ダムの水没を免れた地域だからだろう。本地域の民俗資料決定版である。
・「美和郷土誌」美和郷土誌編集委員会、代表:小沢誠一、’85 
 自然、歴史、教育、生活文化、宗教、民俗、史料について、微に入り細に入りこれでもかというぐらい記述されていて、他の地誌に比べてもワンランク上の内容である。まさに美和を知るための一級資料で決定版である。 
・「梅ヶ島物語 史話と伝説」志村孝一、’82 
 梅ヶ島にまつわる武将、豪族、庄屋、村々、温泉、偉人、産業について聞き書きしていて、よくここまで聞きまわったものだ。今では滅んだこともあろうから資料として残したことで、後世に価値が上がろう。 
・「安倍川~その風土と文化~」富山昭・中村羊一郎、静岡新聞社、’80 
 堤防、水害、水神、交通、産業、伝説(金山、飢饉、白髭、七観音)、農耕信仰、祭、婚姻等について卓見多し。 
・「安倍川流域の民俗」静岡県立静岡高等学校郷土研究部、’80 
 安倍川流域の歴史と産業、村の成り立ち、信仰、衣食住、人の一生の出来事、年中行事、諸芸能、伝説について、一通り概観し調査してある。70年代末によく高校生が調査研究できたものだ。 
・「復刻版 大河内村誌、大河内村青年団、岩本利太郎:編、1913年」静岡市立大河内中学校、’89 
 1913年の大正期に出され、1953年に口語訳で一部抜粋にて再編纂され、さらに89年復刻された。内容は、自然、歴史、教育(学校、社会、宗教)、兵事、衛生、警備、産業、交通、名所旧跡、伝記、言語、風俗等である。簡略に知りえるのによい。 
・「安倍川と安倍街道」海野實、明文出版社、’91 
 安倍川の成り立ち、安倍街道、水害、水神、筏流し、舟運、賃取橋、鉄道について分かりやすく、コンパクトに読ませる。 
・「藁科路をたずねて」海野實、明文出版社、’84 
 藁科のお茶摘みさん、焼畑文化、藁科五街道についてコンパクトかつ分かりやすく説明している。 
・「静岡市歴史散歩」川崎文昭(静岡新聞社)、’90 
 市内の数多い名所旧跡を手際よく簡潔にカラー写真付きで紹介している。 
・「しずなか風土記 賤中ふどき」しずなか風土記編集委員会、静岡市立賤機中小学校、’68
 伝説や民間伝承面が細かに採録されていて、今では語り伝えられないものがよく残せたものだ。この資料は助かった。 
・「郷土史 私達の籠上」籠上町内会、’84 
 籠上単独でよく出したものだ。とりあえずコンパクトに知りえることができる。 
・「静岡市 歴史の町 井宮町誌」静岡市井宮町町内会、’03 
 井宮周辺の歴史地理を細かにかつビジュアルに知りえる良い資料だ。 
・「郷土誌 私達のふる里 下(しも)」下町内会、’08 
 静岡市葵区下地区(鯨ヶ池から諸岡山周辺地域)の主に近代以後の細かな情報が入手しやすい。 
・「玉川新聞」  


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 00:01Comments(0)古道

2014年03月02日

古代官道:東海道、静岡市街

  古代官道:東海道、静岡市街
(佐渡交差点または手越原交差点から清見寺へ) 
・前説明
 古代東海道は、静岡市駿河区手越の佐渡交差点、西之宮神社から東へまっすぐ清水区興津清見寺方向へ伸びるものと推定されている。なお静岡市教育委員会『曲金北遺跡調査報告書』では西宮神社ではなく、もっと南の的山を名の通りマトとしたと考えている。現実にそのライン上のJR東静岡駅と隣のグランシップの間の歩道地面下に古代の官道:東海道が出現した。なぜ東西をまっすぐ貫くかというと、古代の条里制により、東西南北に区画がなされ、その延長線上に官道も敷かれていたようだ。静岡市の地図で確認するならば、西は佐渡交差点の西之宮神社で、東は興津手前の盧崎神社(横砂本町29)イホサキ辺りに定規を当てるとよいだろう。無論JR東静岡駅とグランシップを通過するようにする。また曲金の軍神社や矢倉町の矢倉神社付近も通るだろう。ちなみに現在、古代の官道に沿って通れるわけではないので、現地を通りたい場合は付近を迂回することが多いはずである。
もう少し詳しく見るなら、手越の佐渡交差点または手越原交差点から今の国1に沿い東進し、安倍川で線路をクロスし駅南の南安倍三丁目に渡る。ここで線路に並行して通る道を東進する。途中宮本町の神明神社横を通過し、稲川の浅間神社横を通る。もしかするともう少し南の伊河麻神社の境内地が北に広ければ隣接していたかもしれない。曲金の軍神社の北辺をかすめグランシップと線路の間を東進する。線路沿いに東進し、栗原の神明神社北を通り草薙駅西の熊野神社南に達する。ここから直線道路を東へ進み草薙駅前を通過し七つ新屋の春日神社までまっすぐ東に進める。もしかするとこの東西直線道路は古代条里制の名残を残した道だろうか。ということは古代官道:東海道残存部の可能性がある。しかしこの道は明治期の地図には存在していないので、後世の近代に鉄道線路に平行するよう作られたようだ。期せずして古代の道路設計者と近代の鉄道や道路の設計者の思惑が偶然一致したようだ。しかしそういう風に作るのが合理的だという証拠なのだろう。
ここから東への道はないが、およそ新幹線ガードと一定の距離で並行するように東に向かい国1を渡り渋川に達すると、ここで新幹線に並行する道路が出現する。これも官道の名残か。はじめ狭かった道は新たに拡幅された広い東進する道になり、巴川を渡り清水東高前で道はなくなる。地図上ではここからさらに東進すると矢倉神社横の矢倉の辻に達し、神社北の中世北街道とされる庵原川に達する道に接続したはずである。中世北街道が古代官道東海道残存部と推定される。中世北街道も直進道路であり、庵原川に達する部分のみ現在曲線になるが、古代は直進すれば盧崎神社により近かったであろう。ここが曲線なのは土手が作られたためだろう。

・的山マトウヤマ、的山峠マトウトウゲ、マトヤマトウゲ  
 名のように的山を目指したという考えもあるようだ。
芹が谷から井尻へ山越えしていける道があり、この峠を的山峠という。
 やなぎだ眼科医院(丸子芹が谷町9-1)を目指し、やなぎだ眼科医院から南の山あいの谷地に入っていく。谷地の農地に入っていくところに朽ちかけた「谷津峠↓←→的山峠」標識がある。谷地に入っていいのだが、この先の谷地の農地から峠のある山腹に取り付く所には標識はないので、住民に聞くしかない。最後の住宅も過ぎ農地だけになって川が広がって水を溜めている池みたいなところの2箇所過ぎたところを左に曲がり、川に架かる板橋を渡る。草刈もしていないので草だらけの斜面をモノラックのレール(索道)を横目に見つつ、「もとは道だなあ」と思いつつ約5分上ると、頂上に「井尻←的山峠→芹が谷」標識がある。頂上部の尾根は歩きやすく眺めもよい。井尻への下り道は草もなく快適である。5分下ると平坦な車道に接続する。ここに「井尻峠←→的山峠」標識がある。車道へ出ず細い野良道をさらに行くと井尻の集落内に出る。ここにも「井尻峠←→的山峠」標識がある。
・佐渡交差点、西之宮神社(丸子)サワタリ  
 古代官道はこの西之宮神社から東は清見寺方向、横砂の盧崎神社イホサキにまっすぐ突き当たるようだ。佐渡山は古墳群で、縄文や弥生期からの遺跡が出土する。
 創建不詳、再建明和三年。「遷宮記念碑 昭和60年」、石鳥居「明治22年」、石灯籠、「庚申塔」3「大正九」「昭和55」、今の国1と近世東海道が丸子方面へ分岐する所。
・福泉寺(手越14)   
 石塔類。徳川秀忠の付き人の墓もあるなど由緒がある。
・手越原交差点   
 長田西中学校のある今の国1と近世東海道が手越及び市中へ向かう分岐点
・国1:佐渡交差点、手越原交差点から安倍川を渡る駿河大橋手前まで  
 国1は直線状に西から東にむかっており、もしかすると古代東海道に一致するのではと思う。駿河大橋で安倍川を渡るとき道がやや北向きになるので、古代東海道は安倍川で南のJR線路をまたぎ駅南の南安倍3丁目に至るようだ。ただし安倍川がここを通るようになったのは、家康が駿府に隠居し、薩摩土手を築いてからなので、中世までは藁科川が流れていたし、安倍川はこれより東を幾筋かの分流になって流れていたはずである。
・南安倍3丁目、八幡神社(南安倍1丁目8)  
 ここからJR線路と南のカネボウ通りの間を東に向かえばよいが、正確なルートは不明だし、この辺りで古代東海道をしのべるものはない。
ただ線路北にすぐ見える1丁目の八幡神社がある。(古代とは関係なさそうだが周辺紹介として取り上げる。これからもそうしていく。)中世の源氏関係者により創建されたと推定される。地蔵堂:地蔵「昭和二十八年」、祠、板碑、石塔、与九郎稲荷の由来、義僕八助施義の碑:八助は暇を出されても主家に使え再興に尽くし評判を呼んだ。
 線路南を東へ向かう。   
・神明神社(宮本町9)  
 この神明神社の付近を東西に官道は貫いていたと思われる。
 創建不詳だが延暦三(784)年再建で1200年以上続くと思われる。手洗石「文化十一」、庚申塔2基「明治十三」「天保十一」、板碑、石塔類。
・聞信寺(宮本町11) (周辺紹介)  
 山門、庭、石塔、墓といったものはなく、モダンなというかビルそのものである。寺とは思えない。
・蓮久寺(南安倍1丁目8) (周辺紹介)  
 山門、庭、墓といったものはなく、街中の狭い1軒屋に見えるが、寺名の石碑が出ていて判別できる。
・兵庫浜地蔵尊(黒金町29) (周辺紹介)  
 元は南安東にあったがここに移転された。悲しい母子伝説がある。川を汚してはならぬ決まりだが、汚している妊婦がいて、とがめられ切り殺された。その妊婦とお腹の子を供養したものである。句碑、板碑、地蔵10基。
・山王寺(馬淵3丁目17) (周辺紹介)  
 石塔8基:江戸期、地蔵。道元と老翁の問答像。
・津島神社(馬淵3丁目15) (周辺紹介)  
 創建不詳、再建文化二年、樹木:樹齢300年以上、手洗石・石鳥居・石灯籠:近代。
・伊河麻神社(稲川1丁目10)   
 創建:白鳳四年、手洗石「寛政十二」、樹木:1本、800年以上?。北辺りを官道が通っていたかも。
・崇福寺鯖大師(稲川1丁目3) (周辺紹介)  
 古い石塔類。
・千勝浅間神社(稲川1丁目2)   
 創建不詳。狛犬(市指定文化財)「正和二」:直接見られない、境内にある狛犬は近代の物。手洗石:さざれ石で平安鎌倉期推定。この神社の北か南を官道は通っていたはず。
・軍神社(曲金2丁目7)   
 日本武尊伝説があり、ここで東征のおり戦勝祈願したという。樹木:樹齢800年以上?。石塔類:近代、板碑。
もしかすると北を通る線路南の江戸時代東海道は官道と一致するのかも。神社は古代官道の脇にあり、東征軍の陣か休憩地か。横田駅家との関連性だ取沙汰される。横田駅家だったかもしれない。
・法蔵寺(曲金2丁目7) (周辺紹介)  
 石塔類多し、「背くらべ」作詞者海野厚墓、千日地蔵、他いくつか、平澤観音道道標。近くに梶原一族の馬頭観音。
・龍泉寺(曲金2丁目8) (周辺紹介)  
 石塔。
・曲金北遺跡、JR東静岡駅・グランシップ間歩道、古代の官道:東海道(曲金6丁目8)   
 JR東静岡駅南口からグランシップに向かう歩道に説明看板あり。道幅9mの歩道が古代官道の幅を示し、周囲の植え込みが側溝を表すよう、分かりやすく歩道が作られている。官道は地下に保存されている。道はほぼ東西にまっすぐで歴史学者等の推定どおり発掘された。官道はまっすぐ東に向かうようだが、そのものずばりの道が現在無いので付近を東進する。
・神明神社(栗原276) (周辺紹介)  
 手洗石「萬延元年」、石鳥居・狛犬・祠:近代。
・江戸時代の東海道記念標識(栗原38) (周辺紹介)  
 線路の地下ガード手前にある。本来は踏み切りで向こうへ越すのが正しいのだろうが、少し位置を変えて地下ガードでくぐれるようにした。
・津島神社(中吉田41-10) (周辺紹介)  
 創建不詳、修造文政六(1823)、樹木1本:樹齢200年、手洗石「天保六」、常夜灯の脚「文政六」、石鳥居「」平成七」、「東源台小学校開校記念 平成七」、「やぶきた茶発祥地記念碑」。石灯籠:近代。
・普済寺(中吉田33) (周辺紹介)  
 石塔類:「庚申塔」など。
・東光寺(清水区谷田9) (周辺紹介)  
 石塔類、江戸期東海道に面する。
・谷田宮の後公園、熊野三柱神社、古墳(谷田26)   
 円墳がいくつかある。古代官道を見下ろす、または道から見上げられる位置にあったはず。
・鳳林寺(中之郷101) (周辺紹介)  
 石塔類:江戸期。
・桜井戸、桜井戸灸(中之郷425) (周辺紹介)  
 庚申塔4基、水神、板碑。桜井戸は清泉湧出していたが安政地震で減水、周辺開墾で枯渇し消滅したが記念碑を建立。桜井戸灸は倒れた行者を介抱しお礼に灸を教えてもらい人気になった話である。
・熊野神社(中之郷430) (周辺紹介)  
 手洗石「弘化五」、市指定保存樹木:楠:樹齢700年以上。薬師如来、新駿河十二薬師第八番札所、閻魔大王。稲荷・祠・手洗石・石灯籠:近代。この神社南の道が官道残存部と考えられ、この道をまっすぐ東に向かう。
・ひょうたん塚公園、前方後円墳(草薙20)   
 古代官道を見下ろす、または道から見上げられる位置にあったはず。
・冷泉寺(草薙175-1) (周辺紹介)  
 石塔類:江戸期。
・草薙神社(草薙349)   
 日本武尊伝説。日本平で火責めに遭うが、草薙の剣で薙ぎ払い難を逃れたという。その草薙剣を納めたという。道からは数km離れている。
・妙盛寺(草薙1973) (周辺紹介)  
 石塔類。
・春日神社、八幡神社(七つ新屋一丁目7) (周辺紹介)  
 春日神社:創建慶長期、八幡神社:創建安土~江戸初期、市指定保存樹木:楠。板碑・石灯籠・手洗石:近代。
 草薙の熊野神社前からこの神社までの東西を貫く道は官道残存部なのだろう。文化財級の道である。この先、東にはまっすぐ進む道はなくなるので、紆余曲折しながらも矢倉神社をめざす。ガイドにはこの北に見える新幹線高架ガードである。一定の距離で東に進めば間違いはない。
・八幡神社(吉川43) (周辺紹介)  
 本来は吉川館にあった氏神だが、当地に移転した。創建不詳、市指定保存樹林、石灯籠「文化三」、日待ち太鼓保存会、板碑、境内の2/3は線路で消失。市地域登録文化財(石造物)第1号・旧鳥居・寛政元(1789)吉川氏の由来等のことを書き付ける。昭和59年に書写された石鳥居が現在建つ。
  静鉄線狐ヶ崎駅裏にある。駅前が江戸期東海道であり、吉川という地名がいかに南北に長いか分かる。ここが吉川の南端である。岩国城主の大名吉川氏は参勤交代の度にこの神社に参詣し寄付をしていったといわれる。かつては境内はもっと広かったが、線路や駅舎にとられたという。かつて吉川氏というスポンサーがいたからなのか羽振りがよかったのだろう。地域が広いのもそのためか。
・達磨寺(追分四丁目273) (周辺紹介)  
 達磨を陳列してある。
・乳母が池、一本松、延寿院(追分四丁目2311) (周辺紹介)  
 伝説の残る池と石塔、お堂がある。追分と国1を結ぶ広い新道脇に見える。延寿院管轄のお堂になるらしい。
・春日神社(追分三丁目5) (周辺紹介)  
 創建:伝鎌倉期、手洗石・祠・石灯籠:近代。隣は近世東海道に面する延寿院である。ここから近世東海道の追分羊羹本店の赤のれんが見える。
・珠林禅寺(渋川544) (周辺紹介)  
 ショッテケ地蔵:狐にだまされた愉快な伝説である。馬頭観音「明治十七」、六地蔵・新。
・国1を渡る官道   
新幹線高架ガードと国1がクロスするすぐ東の北脇交差点を北に渡り東に曲がる道がある。これが官道残存部ではなかろうか。ちょうど新幹線高架ガードと並行していて今の都市計画の区画整理の思惑と一致し拡幅され、東に延伸することになり、結果として官道を甦らせることになったようだ。
・三島神社(馬淵3丁目15) (周辺紹介)  
 創建不詳、再建宝暦十三(1763)、伊豆一ノ宮三島大明神を遷した。石鳥居・石灯籠・狛犬・手洗石:近代。
・金剛法寺(渋川2丁目16) (周辺紹介)  
 石塔類:江戸期。寺の南を東西に通過する道路がたまたま官道残存部になるようだ。
・渋川館(渋川1丁目10) (周辺紹介)  
 中世豪族で梶原一族を討った駿河地侍一派の渋川氏の館の土塀の一部が残存している。 なんてことないちょいとした高さ5mの丘で茶畑になっているのだが、これは人為的に積み上げた土塀の跡のごく一部が残存したのである。説明看板はあるが、古びてまったく読めなくなっている。
・官道ルートを矢倉神社へ  
 官道は東に進みつつも徐々に北方向へ向かうというより、今の道が東に進むようでやや南へ曲がるというべきか。北脇新田から渋川にかけて新幹線ガードのすぐ南を平行して東をめざすのが、官道ルートに近いのだろう。金剛法寺のすぐ南の道を東に目指す。清水インター取り付け道路に出て清水東高前で直進不能となる。やや北の北街道へ出れば矢倉神社はすぐだ。ちなみに地図で確認すると、東高を貫いて直進すると矢倉神社にヒットするようだ。新幹線南の平行道路は官道ルートと一致するような気がする。高橋の辺りは以前この東西向きの道はまったく無かった。巴川河口付近の氾濫源のため、もっとも早く条里制が崩れ、官道も消失したのだろうか。
・矢倉神社(矢倉町5)  
 古くから神社があったことは確実である。日本武尊東征に関する伝説がある。軍の兵営地か武器庫だったという。この神社はこの周辺の要であった。
 手洗石「文化五」、猿田彦大神、手洗石「紀元2600(昭和15)年」、石灯籠「大正九」「紀元2600年」、板碑多し、合祀される神多し。祠多し。
・矢倉の辻、古代官道、中世北街道(矢倉町6-1)  
 神社のすぐ北の路地前に「矢倉の辻」の標識が出ている。この路地はいかにも古道ぽく、いつもなら古道だと喜ぶが、今回の官道は幅広で直進という近代的道路と共通項がある。そうなると中世北街道とされる、その北の五差路の右(東)、一方通行の出口になっている道がやはり官道ルートに似つかわしいのではなかろうか。この道はまた新幹線ガードと一定距離で並行して東進する。新幹線ルートを決める人の決断ともたまたま一致したようだ。
 この古い道が現代によく残っていたものだ。文化財級であろう。しかしこの道も古代道路とは一致しないらしく、別の道があったらしい。
・墓地(西久保345) (周辺紹介)  
 ひげ題目「法界 弘化二年」、石塔2基、地蔵、祠。
・子育観音(天王さん) (袖師町365-3)    
 祠、石仏。
・真如寺(袖師町365-3) (周辺紹介)  
 地蔵、金比羅宮、「庚申塔」、「金光明一千部供養塔」、岩松地蔵。
・旧北街道と国道1号線合流点(横砂西町11、12)  
 庵原川手前で国1に出て、北街道は終点となる。川に出る直前で道は曲がるが土手ができたため直線道路を曲げたのだろう。古代・中世には直線だったろう。
庵原川手前で近世東海道(今の国1)に合流する。横砂や興津でも近世と中世や古代の東海道は微妙に違うのだろうが、今のところはっきりしたルートが分からない。
・尾羽廃寺跡、庵原郡郡衙関連 
かつて廃寺周辺は郡衙だったかもしれない。
・東光寺(横砂本町20) (周辺紹介)  
東進すると寺がある。ここからは近世東海道紹介ともなる。
 六地蔵、手洗石、「青面金剛童子 嘉永七」、「萬霊塔」、石塔2基。ウスカンザクラ、新・観音多し。
・盧崎神社(横砂本町29)イホサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
 おそらくこの神社を西の西ノ宮神社から目指して古代官道は達したのだろう。
 「盧」の字はイホと読むが漢和辞典ではロと読む。
・延命地蔵堂、秋葉山常夜燈(横砂東町24) (周辺紹介)  
 近世東海道紹介。風情がよい。隣のコンクリート製建物も近代初期建築風でレトロ。近世東海道はここから近代の国1を離れより海岸線に近い細い道に入る。前方にJR東海道線の踏切があり渡る。ここから左を見ると国1のある所は丘上になるので、平坦な下の道が東海道なのが分かる。川を渡ると興津である。
・清見神社(興津清見寺町428) (周辺紹介)キヨミ  
  創建不詳、再建:文化三(1806)年、元は浅間神社と称していた。手洗石2・石灯籠2・石鳥居・狛犬:近代。板碑。祠。力石。
・瑞雲院(興津清見寺町420)  
 805年本尊如意輪観世音菩薩。性海庵の湧水ショウカイヤ。石塔多し。ウスカンザクラ。句碑、板碑。新・石仏。
・清見寺(興津清見寺町418-1)  
 奈良期に関所が作られそれを守護する仏堂から寺に発展した。鎌倉期1264年に足利尊氏が再興した。朝鮮通信使関連史蹟。家康手植えの臥竜梅、五百羅漢、石塔類多し。

*参考文献 
・「曲金北遺跡跡 第2・3・5・9次発掘調査報告書 静岡市埋蔵文化財調査報告」2008 
静岡市教育委員会


  


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2012年02月05日

久能街道(大谷←→駒越←→鉄舟寺)

久能街道(大谷←→駒越←→鉄舟寺) 
・序文
 久能山東照宮道の後半部分である。前半は近世東海道伝馬町の西之宮神社や伝馬町小学校近くの石碑辺りから南下し高松交番までである。消失したところもあるが、残存部らしきもある。
 後半は高松交番で東に向きを変える。ここから東大谷や西平松バス停辺りまで区画整理され直し旧道は消滅した。久能山東照宮入口まで旧道は一定の幅(車が通れる広さ)でまっすぐではないが、それでも曲がりを抑えたストレートな通りといえる。
この道はいつ作られたのだろう。明治20年代にはすでに旧道がメインストリートとして使われていたことは分かる。旧道より北に時々路地が現れるが、だいぶ狭く紆余曲折している。江戸時代初期に家康の葬儀が通過し石蔵院前で舎人が殉死したことは知られている。おそらくこの葬儀の列は旧道を通ったのではなかろうか。もしかするとこの葬儀のために拡幅工事をしたのかもしれない。
 東照宮入口より東へは一旦東照宮鳥居前参道に入ってから東に向きを変え狭い道を上り勾配で東に進む。この道は先ほどの道より曲折し狭く勾配もきつい、古道の趣がある。おそらく東照宮より先の道なので葬儀に関係ないので拡幅等を行わなかったためなのか。
 久能山東照宮道が高松の交番にて東に経路を変える。
・薬師堂(高松公会堂裏)  
 高松交番の西南にある。鳥居、石塔:「奉納大乗妙典六十六部…文化五戌…」、他全4基、手水鉢:「大正十三」、地蔵2基、大日如来、社、祠、「庚申塔文政十三年…」。
広い車道は東に直角に曲がるが、旧道は車道の南裏にあり、南裏路地として東進する。大谷から久能、駒越、さらに鉄舟寺までの歴史遺産と道を紹介したい。
大谷川橋を渡り、南6軒先に格好屋商店がある。
・格好屋商店(大谷2265) 
 元回漕問屋で大谷港からの物資を配送していた。東京から格好良い物を仕入れていたので屋号になった。岩崎氏宅。11年4月周辺は区画整理され直し西側角の大村酒店は営業しているが、格好屋や他の店は見当たらず、新しい家ばかりである。
 付近には西から「格好屋橋」「隠居橋」「郷蔵橋」の橋があった。川は暗渠で道となり橋の面影もない。東大谷あたりまで区画整理され直し旧態はない。
 旧道は広くなった大谷街道交差点で消失する。ここから八坂神社に向かう旧道辻の地蔵祠前に出る。旧道より古い道は車道より北を通っていたかもしれないと思う。
・八坂神社(大谷) 
 創建不詳、棟札1672,1854年、元牛頭天王社、樹木100~300年、石鳥居:明治二十九年建造昭和六十二年再建、石灯籠:元和三1617年、慶安元1648年、手水舎:文化三1806年。
・海岸山大谷不動明王、加羅倶利堂(大谷) 
 地蔵祠東先を左折するとアスレチック広場のある大谷不動の山に行ける。参道途中に庚申塔等の石塔14基、地蔵7基が安置されている。大谷不動の由来は漁師が漁をしていて網にかかったのが石仏で、それを祀ったものだという。大谷不動の西側には地蔵堂(地蔵、大日如来)がある。歯痛封じの地蔵である。倶利伽羅堂という。石灯籠:元和二年、六地蔵、80cm×1.5mの台石。
・東大谷地蔵尊、祠(大谷25611→移転、東200m) 
 『久能山東照宮道』や『大谷街道』参照。2011年4月細かった道は広く付け直され、旧道のルートも付け直され周辺も区画整理されて新しい家ばかりで、旧態がほぼない。地蔵は東に移転した。
説明版「宝永六巳丑(1709)年より宮小路入口、行部沢家の屋敷内に祀られていましたが東大谷・西大谷の区画整理に伴い東大谷山田喜代司様こう様の御寄進により土地を譲り受け移転安置し供養する。大正寺 平成二十一巳丑(2009)年三月吉日」
この2年前1707年に宝永地震があり、それへの供養の意味があったのだろうか。
・祠、お堂(東大谷) 
山際にある。かつては各個人宅の裏で祀られていたものであろうが、区画整理で山際に新道ができ見つけやすくなったというものか。
・かわなび、静岡市治水交流資料館 
大谷川放水路(後久川)河口の東側で東西大谷公民館隣で放水路の操作場にある。七夕豪雨等について知ることができる。現代の施設だが、歴史資料に触れられる。
・釜屋、篠田氏宅(大谷2726) 
 東大谷バス停を通過した先、篠田氏宅がかつての田中助右衛門鋳物工場:釜屋跡である。区画整理で旧態がない。
・大谷港跡(大谷2508)、浜橋付近 
 大谷境バス停を南へ行くと浜橋になる。この付近がかつて駿府への荷をあげ降ろしていた港で、格好屋が問屋だった。区画整理で旧態がない。
・慈恵院慈恵観音教(西平松63) 
 西平松バス停前。この付近から旧態をたどれる。
・西平松閻魔堂、西平松公民館・老人つどいの家 
 説明版「久能街道沿いに江戸時代からあり、通行人の休憩所と安全を願う場所。毎年8月14日祭り。閻魔大王坐像中心、十王坐像、脱衣婆坐像、地蔵菩薩立像、司命立像、司録立像、計15像。」
・たい泉寺(西平松183)、(たいは小偏に台つくり、小台) 
 久能街道から左折(北)し山に向かう。山すそにある。
・天羽衣神社(西平松175) 
 久能街道を横切る橋を渡り山に向かい北に進むと山すそにある。三保とは違う伝説をもつ神社である。説明看板、伝説:「中平松に住む男が仕事帰りに駒越の浜の松に掛かる羽衣を見つけ家に持ち帰った。天女は取り返すため素性を隠しその男の許に行き仕えた。三年後隙を見て羽衣を取り返したが霊力が尽きていたのでお清めをしているところを見つかった。天女は事情を語り氏神として祀れば永く守護すると誓い天に帰った。そこで村人は氏神として祀ったという。」石灯籠、狛犬:近代。
・江雲寺(西平松170) 
 石塔26:「奉納 観 供養 安政五 七月壱日」「奉納 善光寺如来 明治三 三月」「奉巡拝 善光寺如来 一国三十三所 當村 明治十八年三月吉日」「奉順禮一国三十三所観 信州善光寺 天保六 七月七日」「奉順拝 一国三十三 信州善光 天保十五 七月」「奉順禮一国三拾三所供養 明治三 七月」「奉納 本州三拾三所観世音 信州善光寺 供養 文政十三寅年 七月上」「奉順拝 西国三拾 天保十五 七月」「奉納西国三十三所観世音菩薩供養 寛政四子年 五月十七日」「奉順拝 本州三十三所観世音 信州善光寺 供養塔 文政元」「奉納西国三拾三所 文政十一子年」「 寛 」「三十三所」「三界萬霊 文政六」「前住貞岳  」「詳鶴祖瑞□肴 寛保二」「三界萬霊」「圓寫稍瑞岳□ 文化十三」「――女 明治十――」「西国三十三所 安永」「西国秩父坂東供養塔 安永四」、比丘尼の墓?:「 五 」「 天保五 」
「奉納壱國三十三所」「奉納壱國三十三所」「奉順拝西国三十三所 天保十五 七月」「三十三所」「奉順拝一国三十三所 信州善光寺 」「奉順禮一国三十三所 信州善光寺」「奉順拝一国三十三所」。
六地蔵:「文政十三」
・道祖神(中平松) 
 石造り道祖神。消防第13分団小屋隣。
・龍珠院(青沢39)青沢公民館、青沢老人つどいの家 
 久能街道を東進し殿谷川を渡ると青沢であり、北側2~3番目の路地を北に進むとある。記念碑もある。
 青面金剛祠、地蔵、庚申塔3:「卍庚申供養塔 萬延」石塔、手洗石、板碑、石塔12?:「――三拾――等」「西国三拾三処」「奉□□□三拾」「奉順礼一国三十三」「――三十三所」「西国三十三所供養」「一国三十三所供養」
・八幡宮(古宿14) 
 久能幼稚園前を過ぎ、川も過ぎると古宿であり、すぐ山側に左折し北進するとある。石灯籠「弘化」。手洗石「明治十八年」。すぐ横を「すんぷゆめひろば」へ行く新道が通り周辺の様子は変貌している。
・継全寺(古宿29) 
 古宿バス停を過ぎ左折し進むと山すそにある。石塔3:「大乗妙典供養」「奉順拝一国三十三所 信州善光寺 明治三拾□ □月吉日」「奉順拝一国三十三所 信州善光寺 供養塔 七月吉日」、石塔9:「奉納西国三十三所霊場供養塔 寛政六寅 四月吉翔日」「奉順禮一国三十三所霊場供養塔 寛政六卯寅八月吉日」「奉順―――供養」「奉順拝信州善光寺如来  
―――三十三所供養塔」「奉順禮一国三十三所」「奉納西国三拾三所観世音供養塔 天保十二 七月」「奉順拝一国三十三所 信州善光寺 供養塔 明治三十九」「奉順拝一国三十三所 信州善光寺」
 この辺りの人々は西国三十三所や一国三十三所を回り、お礼参りに信州善光寺に行くことが一般化していたようだ。
・地蔵堂 
地蔵2、庚申供養塔3、継全寺門前の古い生活道路沿い(おそらく江戸期初期以前の旧道)の分岐点にある。
・阿弥陀堂(安居55)  
石塔3:「宝暦」、どうも墓石らしい。
・安居山石蔵院(安居272) 
 久能小や久能JAを過ぎ古安川を渡り、安居バス停をも過ぎると、左にある。お葉付き公孫樹(葉がついたまま結実することが珍しい)が有名。家康が崩御したとき慕う武士が門前で殉死したことでも知られる。
 井出八郎右エ門墓(殉死した舎人、下級武士)、顕彰碑、地蔵堂
 その先に神社がある。
・安居神社(安居288) 
 街道を左折するとすぐ参道でその先に拝殿がある。創建不詳、再建文化元年(1875)、句碑?:判読不能、石灯籠:「安古大明神 元和二」2、立派な物で刻字もはっきり読める。徳川家康が死んだ年で江戸期初期の物がいまだに健在であることから、しっかり保存されたか、それなりの高級品であると推察される。江戸幕府が家康死去に際し高級品を奉納したのか。ソテツ2、
 隣は寺である。
・宝台院別院(安居291) 
 宝台院自体は静岡駅前、常盤町2丁目にある静岡市を代表する古刹にして名刹である。本院は家康の守り本尊を祀ってあり、家康の変わりに矢を受けた傷もかつてはあったが、修理してしまい矢傷はなくなってしまったという。家人の野上氏より聞いた話である。他にも家康の妻で秀忠の母の西郷の局の墓もあるなど、寺宝は貴重だ。
 ここはその別院である。
 柳沢川を渡ると、左の山に東照宮が見える。
・柳澤橋:石碑 
 橋の袂に古い石碑がある。
・廃道のかつての日本平ハイキングコースだった所、一応立ち入り禁止 
 柳沢川に沿って上っていく林道があり、林道がなくなってからは、歩けそうな所を行くと、入り込んだ人たちによりかすかなコースが設定?されている。一種の裏本のような裏コース登山報告や知っている人たちの道案内で登山可能である。建前上、一応危険なため立ち入り禁止である。1970年代の豪雨により、日本平ロープウェイ駅前から久能へのハイキングコースががけ崩れで歩行禁止となった。その他にも多くの日本平周辺コースが廃道となっていて、冒険好きは冬に入り込むチャンスではある。ただし自己責任です。
・久能山東照宮(根古屋390) 
 家康が崩御して最初に埋葬されたところである。日光にはのちに祀り直された。しかし全国的には日光は知られていても、静岡市にあることはほとんど知られていない。石段で行くもよし、日本平からロープウェイで行くもよしである。かつては武田氏の久能山城があり、勘助井戸が残る。それ以前は名刹古刹の久能寺(現鉄舟寺)があった。現在東照宮、博物館があり、家康権現を祀った石造物もある。神社は国指定重要文化財になった。
 麓には梅園、売店など門前町の風情が漂う。
・徳音院(根古屋392)  
 東照宮参道石段入口前にあり、かつての東照宮の別院寺院だったが、寺院は明治になり廃止されお堂(一聖天堂、他一堂)だけが残った。石灯籠「両大師」
・八幡宮(根古屋318) 
 参道途中の売店「かどや」で東に曲がり進むのが、かつての旧道ルートである。老人ホーム(かつての保養所久能荘)の裏にある。石灯籠:「元和二」2、立派な物で刻字もはっきり読める。先ほどの安居神社の物と同類と推察される。これも高級品の奉納物か。
 旧道はホテル横の滝が原川を渡り住宅のある所を少し上り、また下って現在の旧国道に合流する。ここまでが古街道らしさが残っている。
・白髭大明神神社(清水区蛇塚120、中組) 
 さらに東進すると久能街道と旧国道150号線が合流し、その先で清水区となる。さきの八幡宮からの道も滝ヶ原川を渡り清水区に入る。唐津川手前の道を北に進むと神社がある。
なお現在の国道150号線バイパスは海岸沿い堤防上のサイクリングロード上になっている。
 祠、鳥居「明治元年」
・お堂、蛇塚公会堂(清水区蛇塚221、中組) 
 石塔類12:「文政八年 奉納西国三十三所供養塔」「文政九年 蛇塚 奉納西国三十三所供養塔 七月吉日」「元禄十七甲申天 奉納西国三十三所供養塔 願主蛇塚村」「宝暦十二壬 ――助譽是心大徳 三月二 」「奉納當国三十三所蛇塚村 元文元辰七月朔日 同行」「奉順禮當国三十三所観世音」「□奉禮念大悲観世音――西国三十三所」「圓寂全得――」(墓?)「――供養塔 蛇塚」「奉順禮當国三十三所観世音」「宝暦三 禅□信士心 十二月三――」(墓?)等
・龍宮神社(清水区蛇塚382、新田原) 
 さらに400m東進すると神社というかお堂がある。説明板碑の概略:「明治4年、古老の古記書による。正安元(1299)年五月中頃、海を漂流してきたものが漁網にかかる。木像あり。社建て祀る。信心すると御利益が増したので、社を造営すること数度に及んだ。古記書は先年の大時化で消失した。」
・龍源寺(清水区増114) 
 濁沢川を渡りしばらくすると増集落となる。やや山沿いに古い道が曲がりくねりながら通っている。そこに寺がある。石造物:地蔵2。
 いったん国150号に戻り進むと左山手に神社がある。
・伊勢神明社(増206) 
 人家の出入り口付近から左への山道を歩いて上る。
・石塔(増259) 
 国道沿い人家の石垣壁沿いに安置されている。
石塔3:「奉請庚申供養寶塔敬白」「□百所之観世音菩薩 宝永三丙戌歳□秋廿日 増村居住同行 笏(竹冠なし)現 伊右門 忠右衛門 太郎兵衛 忠三郎」「奉納西国三十三所 」
・清苺神社、記念碑「石垣いちご発祥の地」(増260) 
 新しい神社なのだろうか。これまた人家の横から「ヘレン・ケラー来園」の看板に沿って農道を上る。横に記念碑「石垣いちご発祥の地」がある。
・萬象寺(駒越西二丁目9) 
 かつてはこの地ではなく、もっと東の駒越中1~2丁目辺りの古びた五輪塔が多くある所であった。移転したためか常夜灯が古いくらいで他の石造物で古い物が少ない。
・鉄砲道(駒越西二丁目17) 
 萬象寺前の国150号線向かい裏に舗装のない歩道というかあぜ道がある。これがかつての鉄砲道といわれる。久能街道の古道残存部とも考えられる。
 幕末から明治初期の海岸警備隊や軍隊が鉄砲練習の行き帰りに使った道という。
 鉄砲道から駒越神社の南に出る道がかつての久能道古道であろうか。
* 駒越神社、延命地蔵堂、大公孫樹、その先の久能街道駒越出発点については、「久能街道駒越ルート」を参照されたい。ここで駒越ルートに接続した。

 ここから先は萬象寺辺りから北進して鉄舟寺に至る「久能寺観音道ルート」への接続ルートを紹介していく。
 萬象寺の西の柑橘試験場や清水社会福祉事業団前を通過する道は山すそを掘って水平直線にした道で明らかに新道だが、かつては山すそに沿って曲がりくねる細い道があったはずだ。また萬象寺の東のもう少し低い所を通る道もあったと思う。両方とも開発され古い道はなく直線化した車道となっている。どのみちこの先の忠霊塔公園東入口または西に向かうだろう。
・忠霊塔公園(迎山町1)  
 
・殿沢の古墳
 殿沢から清水病院前辺りに抜けるのだろうが、ルートをたどることはできない。この辺り旧道が分からない。

・天王山神社、筆塚、天王山公園、古墳(宮加三789) 
 古墳で神社で目印になるランドマークだ。

ここから古い観音道は左斜め上(北西)に進んでいく。東邸の西から旧日本平道路(日本平アウスタ道路)を横切り、北進する。このルートが旧観音道と思われる。
・龍華寺(村松2085) 
 庭がきれいで有名。高山樗牛の墓もある。
 門前を南北に通過する道が観音道である。ここから鉄舟寺に至るのだが、道に沿っていったん広い新道に出て鉄舟寺に至るのか、もう少し山際を通って鉄舟寺に至るのかが分からないが、どちらかあるいは両方がルートだったと思われる。山際ルートは幾分たどれるが鉄舟寺までは通れない。
・鉄舟寺(村松2188) 
* 「久能寺観音道」、「安倍七観音霊場巡り」を参照。
  


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2011年10月02日

古代の東海道(静岡市→焼津市)、万葉の東路

古代の東海道(静岡市→焼津市)、万葉の東路 
 静岡市から西の日本坂峠を越え焼津市の花沢の里へ向かう古代の道が推定されているので紹介する。推定ルートは以下である。
駿河国府→舟山→猿郷→手児の呼坂→宗小路→細工所→谷津神社→谷津峠→的山峠→井尻峠→大和田→小坂→日本坂峠  
 このコースは丸子の下流平野部を避けて山際を通るようになっていて、増水したときや古代以前の弥生期にも使われていたのではないかとさえ思われる。古代以前には丸子下流平野は入り江だったかもしれない。
・駿河国府→舟山  
 実は駿河国府は確定地がない。推定では長谷通りの静岡高校辺り(国府跡の石碑があるが、あくまで推定地の一つ)、あるいは横内・横田辺りだろうとされている。まあ広く見て浅間神社から駿府城跡周辺だろう。しかし片山廃寺の件から駅南の小鹿辺りという説まである。ここでは浅間神社から駿府城跡周辺として舟山に出る。現在の本通りと安西通りの間を通り、田町で現在の安倍川を渡ると途中の中洲に舟山がある。確たる道筋は不明だ。ここに安倍川があるのは、江戸時代初期に家康が薩摩土手を作らせたからで、それまでは藁科川下流だったはずで、安東と安西の間を安倍川は幾筋かに分流して流れていたろう。舟山までに安倍川分流を数本渡るはずだろう。なおさら道筋は分からない。
・舟山→猿郷  
 多分ここで藁科川を渡ったのだろう。舟山には現在舟山神社がある。80年代には祠が一つあるだけだった。なお舟山に行くには安倍川を徒歩で渡るしかないので、水が減ったときを見て渡るしかない。増水時は渡渉不可能。猿郷からは陸路となる。
・猿郷→手児の呼坂  
 猿郷から山際を南下していく。昔の道らしきは、山際をたどれば概ねよいようだ。ただし通れないところもあり、古道は消失していく。
底本とした「ふるさとの東路 知られざる万葉の道」滝本雄士と「古街道を行く」鈴木茂伸の南藁科街道に詳しい説明があるので参照するとよい。
 徳願寺前を通過してしばらくすると手児の呼坂の入口となる。
・手児の呼坂  
入口に西国順礼塔や他の石塔が立つ。道は舗装された農道となっている。最後は歩道を歩き峠となる。記念碑等がある。下ればまた農道となり、宗小路という辺りになる。
・宗小路→細工所  
 古く狭い道が山ろくにあったようだが、不明なので、平野の北丸子工業団地に出る。大きな工場敷地が四角く区分されていて、新道を通る。
・(周辺紹介)龍国寺(戸斗ノ谷、北丸子二丁目27)   
 駿河一国百地蔵第十二番、「南無観世音」、庚申塔、「三界萬霊」、菩薩、石灯籠、六地蔵3×2、石塔、地蔵4、馬頭観音、鐘楼、
・(周辺紹介) 戸斗ノ谷公民館(戸斗ノ谷、北丸子二丁目26)   
 古い墓石が多数集まっている。
・津島神社(戸斗ノ谷、北丸子二丁目10)   
 北丸子工業団地の大きな工場を過ぎた直後山際に神社への参道入口となる。
 創建不詳、再建天正二年。手洗石、石段「昭和9」、狛犬「昭和46」、石灯籠「寛政五」。
 津島神社参道入口から丸子の平野部を南へ渡る。現在の国道1号線や江戸期旧東海道(県道)も渡る。古道ははっきりしないが、ここから丸子幼稚園に行く道と考えると割合古道らしいところを通れる。新興住宅地内の新しい道をそれなりに曲がっては丸子幼稚園方向を目指す。戸斗前公園の東を通過し橋を渡り南下する。国1手前でアパート西の道らしくない道で空き地のようなところ(多分古道)を通過すると国1向かいに丸子幼稚園がある。
・丸子幼稚園東側の古道(丸子六丁目7)  
 丸子幼稚園東の路地が古道らしい。多分この道は丸子幼稚園園長:野上氏(宝台院別院)の善意で残されているのだろう。この路地を抜けると旧東海道に出る。2軒分東に行きそこの路地を南に進むと丸子川の土手に出て、川向こうに谷津神社がある。
・(周辺紹介)丸子一里塚(丸子六丁目6)  
 旧東海道をもう数十m東に進むと一里塚跡になる。
・(周辺紹介)地蔵堂(丸子六丁目13)  
 駿河一国百地蔵第十一番、石地蔵3、庚申塔3「昭和55」「大正9」、
・(周辺紹介)文殊堂(丸子)  
 智恵文殊菩薩、石塔。丸子川沿い谷津神社少し南。
・谷津神社(丸子4970、芹ヶ谷)  
 創建不詳、再建永禄九年。静岡市指定天然記念物:クスノキ(幹直径1.9m、樹齢約千年)、手洗石「明治30」、石鳥居「明治39」。 
・谷津峠 谷津神社から芹が谷に山越えする峠を谷津峠という。標識は一切ないので周辺住民に聞いてから上ったほうがよい。しかし住民にもあまり周知されていないので情報は得にくいだろう。谷津神社前の道を左の畑に沿って山奥に入っていく。距離300m約5分も上れば切通しの峠である。11年5月現在ここに朽ちかけた「谷津峠 標高71.9m」の標識があり、間違いなく峠であることが分かるが、将来はやめに朽ち果てるだろう。さてここから杉檜の植林が数十m下り続けてからみかん畑になっているが、植林地内は道が分からない。適当に下ってみかん畑に降り、あとは歩きやすいところを下った。山を降り切る手前に階段になり、平野部には芹が谷の住宅地が広がっていた。下りも約5分。左に2階建てアパート(丸子芹が谷町5)があるところに出て町となる。ここにも標識はない。
・的山峠マトウトウゲ、マトヤマトウゲ  
 芹が谷から井尻へ山越えしていける道があり、この峠を的山峠という。
 やなぎだ眼科医院(丸子芹が谷町9-1)を目指し、やなぎだ眼科医院から南の山あいの谷地に入っていく。谷地の農地に入っていくところに朽ちかけた「谷津峠↓←→的山峠」標識がある。谷地に入っていいのだが、この先の谷地の農地から峠のある山腹に取り付く所には標識はないので、住民に聞くしかない。最後の住宅も過ぎ農地だけになって川が広がって水を溜めている池みたいなところの2箇所過ぎたところを左に曲がり、川に架かる板橋を渡る。草刈もしていないので草だらけの斜面をモノラックのレール(索道)を横目に見つつ、「もとは道だなあ」と思いつつ約5分上ると、頂上に「井尻←的山峠→芹が谷」標識がある。頂上部の尾根は歩きやすく眺めもよい。井尻への下り道は草もなく快適である。5分下ると平坦な車道に接続する。ここに「井尻峠←→的山峠」標識がある。車道へ出ず細い野良道をさらに行くと井尻の集落内に出る。ここにも「井尻峠←→的山峠」標識がある。いったん集落内の小野寺参道の車道に出て小野寺方向を目指す。すぐに神社がある。
・八幡神社(丸子井尻)  
 手洗石、石灯籠「昭和18」「大正3」、小野寺への丁石「一丁目」が横倒し。
 小野寺参道麓に位置する。ここから裏山の井尻峠を越え向こうの大和田に行くことができる。この神社の左手(南)に小野寺とは別方向に上る道がある。左手奥の低い所が井尻峠で向こうは大和田である。神社手前を左に上る。
・(周辺紹介)小野寺(丸子3877)  
 この山腹に古い五輪塔が散在し、手越河原の戦いの死者を弔うものといわれている。石塔類多数。丁石は八丁目まである。寺から西尾根を進めば朝鮮岩である。
・井尻峠  
 井尻と大和田を結ぶ古道で、万葉の東路として紹介されている。井尻と大和田を最短で結ぶ道である。上り下りにきつくない峠なので生活道路としても便がよかったろう。尾根を西に上れば小野寺で東に進めば渭川寺裏山イセンジである。八幡神社から約5分で峠である。下りも約5分で農道に出る。農道の分岐点に「井尻峠←→大和田」標識がある。
ただ大和田から上る場合、畑内で2~3箇所山道が分岐するが標識が無いので2~3回道迷いして約10~15分かけて上ったので、住民に聞いてから上ったほうがよい。ヒントは大和田の農道から山の畑に入る標識のある所のやや左上の低い所が峠であるので、そちらを目指すと思えばよい。
農道を下って行けば大和田集落である。途中農道は左右に分岐するが、左は神社経由で下り、右は直接下る道で、どちらも麓で合流する。 
・大和田神社(大和田101)  
 農道の途中、集落よりやや上にある。創建不詳、再建文化十一年。手洗石、石鳥居「昭和60」、樹木:200~500年。大和田の地名は水が淀むまたは溜まる所を意味し、地形からも古くは入り江の内浦だったと推定されている。集落を下りきり麓の山際道に出るとお堂がある。
・馬頭観音堂、地蔵(大和田204)  
 双体馬頭観音、地蔵3、庚申塔3「昭和55」「大正9」、標識「万葉の東路 大和田→井尻峠」。
・墓地(大和田78)  
 馬頭観音堂を山際に沿い東に70m進むと、朽ち欠けた約50の墓石が道路から見える。またお堂のほうに戻り、西の小坂方面に進む。
 はじめ「この先行き止まり」と標識のある山際の未舗装路を西に進むが、そのうち城山中学前辺りで山際の古い道が遮断されるので、いったんまっすぐで広い道路に迂回する。しばらく古道は通れない。
・板碑4(小坂橋南たもと)  
 耕地整理等記念碑。
・庚申塔(小坂JA支店前バス停)  
 「庚申供養塔 昭和55」、「庚申供養塔大正九年 右用宗停車場十三丁 左静岡縣廰二里 西花澤一里五丁」。
・御所の前(小坂1424) 石碑「御所の前」。日本武尊伝説の地で、ここで休憩したという。用宗・石部からの古道もここで合流した。ここから古道である。
・  神社、地蔵(小坂1280)  
 御所の前の北東にある。手前に地蔵もある。
・満願寺(小坂1336)  
 建武五年国宣状を賜う、曹洞宗、本尊:千手観音。「三界萬霊等」、近くに「一宮随波斎供養塔」があるらしい。寺は無住らしい。
 御所の前から安養寺前を目指すと、途中左に石塔あり。瑞應寺を示す。
・地蔵、新・石道標「南無延命地蔵菩薩 雲梯山瑞應禅寺」。
・瑞應寺(小坂1076)  
 開山行基、開基日本武尊、臨済宗、子安観音地蔵堂、手洗石、観音、地蔵、石灯籠、新・地蔵:多数、金比羅宮。
 寺の裏(南)を通っていくと熊野神社、さらには峠越えで石部に通じていた。
・熊野神社(小坂赤坂)  
 創建天正年中。巨木。石塔類。石部から峠越えで行ける。そして御所の前に出られる。
・安養寺(小坂1426)  
 安養寺前バス停に戻る。参道入口に石塔がある。自然石2、庚申塔2「昭和55」、庚申像、新・地蔵・馬頭観音。
建立文治三年、本尊:阿弥陀如来、家康お手植えの蜜柑の樹がある。「不許葷酒入山門」、「下馬」石、新・地蔵、句碑:多数、板碑、土肥7騎の墓、鐘楼、水琴窟、榧の巨木、半僧坊社、
・日枝神社(小坂1433-2)  
 元山王社、明治5年日枝神社。手洗石、石灯籠2、石鳥居:近代、堂、樹木:900年?
安養寺の隣にある。
・祠(小坂1407)   
 街道沿いにある。
・日本坂の磐座イワクラ(小坂1673)  
 祠の向かい側の道を入る。もと日本坂にあった磐座だが崩落したので所有者の自宅に展示した。
・石塔、土蔵(小坂公民館前バス停)  
 庚申供養塔「昭和55」「大正9」、「奉納大乗妙典経日本回□供養塔 天明二」、新・地蔵3、老人つどいの家の横に土蔵がある。
・石造物(小坂2149)  
 秋葉山常夜燈、地蔵堂:地蔵3.
・山ノ神(小坂2176)  
 祠2、石灯籠「安政三」。
・花立観音
 座っている地蔵像である。
・「庚申供養塔」(日本坂と満願峰の分岐点)  
 「庚申供養塔 右十一番観世音二丁半 左日本坂頂上迠十二丁」、他には破損した石塔類。
・観音堂(分岐点より満願峰方向へ250m)   
 観音堂、三十三観音(破損したもの含め約26体)、堂5、石塔「安政六」、祠、不動尊、ひすいの滝、
・庚申塔(分岐点より日本坂方向へ300m)  
 「庚申塔」、「庚申供養塔 右日本坂道 左小坂道」。
・蛙石、子持石、小滝(日本坂への途中)  
 自然石、滝。
・日本坂峠(静岡市小坂、焼津市花沢)  
 古代東海道の峠道。穴地蔵。

・(周辺紹介)渭川寺裏山→井尻峠→小野寺→→朝鮮岩→→丸子富士(高山、蔵王権現)→水来頭峠→満願峰→小布川峠→雨乞神→日本坂峠(尾根道縦走路)  
 渭川寺裏山や井尻小野寺から尾根伝いに満願峰を経由し日本坂に行くことができる。今はハイキングコースであるが、昔も使われたと思われる。



 新考察・古代官道(佐渡交差点、西之宮神社→大和田)
* ここまで万葉の東路を紹介してきたが、近年の研究で古代の官道:東海道が、JR東静岡駅・グランシップ(曲金北遺跡)で発見される等、古代官道を訂正する方向に動かざるをえなくなってきている。この考え方では西は佐渡交差点、西之宮神社から東は横砂の盧崎神社までを直線で結ぶ古代条里制による道である。途中で曲金北遺跡の官道を通過することになる。
 丸子側は佐渡交差点、西之宮神社を起点にして大和田までのルートを考えることになる。大和田から日本坂峠までは同一と考える。西之宮神社から大和田に行くルートは2つ、1つ目は、西之宮神社から近世東海道筋を通過し、井尻に出て井尻峠を越えて大和田に出る山越えコースである。2つ目は、西之宮神社から長田・鎌田方向を南下し渭川寺・巴川製紙工場で西に曲がり大和田に出る平野コースである。2つとも記述する。


1、佐渡交差点、西之宮神社→井尻峠→大和田

・佐渡交差点、西之宮神社(丸子)サワタリ  
 古代官道はこの西之宮神社から東は清見寺方向、横砂の盧崎神社イヲサキにまっすぐ突き当たるようだ。佐渡山は古墳群で、縄文や弥生期からの遺跡が出土する。
 創建不詳、再建明和三年。「遷宮記念碑 昭和60年」、石鳥居「明治22年」、石灯籠、「庚申塔」3「大正九」「昭和55」、
・福泉寺(手越14)   
 石塔類。徳川秀忠の付き人の墓もあるなど由緒がある。
・佐渡の子授地蔵堂(丸子一丁目10)、「佐渡の手児万葉歌碑」(丸子一丁目8)  
 近世東海道のコースと一緒である。駿河一国百地蔵尊第十番。
この先の小豆川を渡ったところで近世東海道を左折し西の井尻を目指す。丸子川に架かる井尻橋を渡ると井尻地区である。小野寺のある山を目指すと麓に八幡神社がある。
 堂の向かい側が佐渡公民館で「佐渡の手児万葉歌碑 昭和57」がある。
・石塔、石道標(昔は近世東海道の小野寺への分岐点にあったが今は丸子4丁目にある)  
 
・八幡神社(丸子井尻)  
 手洗石、石灯籠「昭和18」「大正3」、小野寺への丁石「一丁目」が横倒し。
 小野寺参道麓に位置する。ここから裏山の井尻峠を越え向こうの大和田に行くことができる。この神社の左手(南)に小野寺とは別方向に上る道がある。左手奥の低い所が井尻峠で向こうは大和田である。神社手前を左に上る。
・(周辺紹介)小野寺(丸子3877)  
 この山腹に古い五輪塔が散在し、手越河原の戦いの死者を弔うものといわれている。石塔類多数。丁石は八丁目まである。寺から西尾根を進めば朝鮮岩である。
・井尻峠  
 井尻と大和田を結ぶ古道で、万葉の東路として紹介されている。井尻と大和田を最短で結ぶ道である。上り下りにきつくない峠なので生活道路としても便がよかったろう。尾根を西に上れば小野寺で東に進めば渭川寺裏山イセンジである。八幡神社から約5分で峠である。下りも約5分で農道に出る。農道の分岐点に「井尻峠←→大和田」標識がある。
ただ大和田から上る場合、畑内で2~3箇所山道が分岐するが標識が無いので2~3回道迷いして約10~15分かけて上ったので、住民に聞いてから上ったほうがよい。ヒントは大和田の農道から山の畑に入る標識のある所のやや左上の低い所が峠であるので、そちらを目指すと思えばよい。
農道を下って行けば大和田集落である。途中農道は左右に分岐するが、左は神社経由で下り、右は直接下る道で、どちらも麓で合流する。 


2、長田街道(手越原→鎌田→大和田)  
 佐渡交差点の西之宮神社(佐渡山あるいは徳願寺山南端で近世東海道と近代国道1号線の通過する要衝の地)から手越原交差点方向へ東に向かい進み、手越原交差点で南下する道をたどる平野部コースである。長田街道とも鎌田街道とも言う。
 ・佐渡交差点、西之宮神社(丸子)サワタリ  
 古代官道はこの西之宮神社から東は清見寺方向、横砂の盧崎神社にまっすぐ突き当たるようだ。佐渡山は古墳群で、縄文や弥生期からの遺跡が出土する。
 創建不詳、再建明和三年。「遷宮記念碑 昭和60年」、石鳥居「明治22年」、石灯籠、「庚申塔」3「大正九」「昭和55」、
・福泉寺(手越14)   
 石塔類。徳川秀忠の付き人の墓もあるなど由緒がある。
・白髭神社(手越239)   
 創建不詳、伝創建永禄元年、再建寛保二年。石造物:石鳥居、手洗石、古代官道に面していたと思われる。
・手越原交差点   
 江戸期東海道と旧国道1号線及び、ここで取り上げる長田街道(県道用宗停車場・丸子線、鎌田街道)と、その向かい側で北進する南藁科街道(県道奈良間・手越線)が交差する。
 手越は手越少将や手越河原の戦いで有名である。手越少将を祀った少将井神社は江戸期東海道に沿い、東進するとある。手越河原の戦いの記念碑はこの先紹介する。
 古い街道はこの交差点より少し東から南に入る路地ではないかと推定される。170m南進すると道が途絶える。おそらくこの先に流れていく水路に沿って昔は道もあったのだろう。次に道が現れるのは無量寺横である。
・中央消防署鎌田出張所(鎌田54)  
 長田村役場跡。長田村の中心地だった。
・無量寺(鎌田56)  
 本尊:阿弥陀如来、創立天正年間、地蔵堂、板碑、新・石仏。
 寺の東から南へ300m進む。この先未舗装の路地裏が現れたら、道を右折(西) し2軒分進んだらまた左折(南)し50m進む。左に神社がある。この道は寺田と鎌田の境界線になっている。
・八幡宮(寺田79)  
 創建不詳、伝創建元亀元年、再建天保十一年。祠。
鎌田と寺田の地区境がかつての旧道ではないかと推定される。この境に沿って南下する。途中で道ではなく家境が境界線となるので付近を迂回する。丸子川手前で広い通りに出る。公園の横で丸子川に出る。川向こうに青木天満宮が見える。今の化粧橋はもっと西なのでいったんそちらに迂回する。
・八幡神社(寺田74)  
 創建天正元(1573)年。手洗石「文化二」、他石造物:近代。樹木:300~600年?
・明光寺(寺田61)  
 創立永禄十二年、本尊:阿弥陀如来、駿河一国百地蔵第八番、地蔵堂、「庚申塔」、「西国三十三所供養塔」。 
・化粧橋(寺田)  
 昔の橋はもう少し東の青木天満宮のところだったろう。
・化粧坂(寺田)  
 手越河原の戦いのとき、この坂に陣を敷いたという。寺田と青木の境の丘らしい。化粧橋近辺と思われるが詳細不明。
・青木天満宮(青木227)  
 創建不詳、再建天保十三年。手洗石「文化貳」、石造物:近代。元は青木270番台の地にあったそうなので、新幹線で用地を取られたのだろうか。今は移転して当地である。
かつての旧道はこの天満宮(当時はない)の横を通過したのではなかろうか。このまま南下すると道は西を向き、今の長田街道に出て向こうに渭川寺が見える。 
・渭川寺イセンジ(青木435)  
 開礎天正十五年、「庚申供養塔」2、「一国三十三所」、新・石仏。
裏山は遺跡である。南の巴川製紙工場敷地内からも遺跡が発掘された。
・渭川寺裏山、神社(青木626)   
 裏山南側のお宅横から登れる。石仏:三面八手、台石「第二十二番」、手洗石:近代、石鳥居「昭和10」、本殿祠、道祖神、祠。遺跡でもあり、南の巴川製紙工場敷地内も遺跡が出土した。
 道をここで西に変え、山際に沿い進む。ここからは長田(鎌田)街道をはずれる。
・みずほ公園(みずほ5丁目12)  
 手越河原の戦いの記念碑。
・墓地(大和田78)  
 大和田を山際に沿い進むと、朽ち欠けた約50の墓石が道路から見える。70m進むとお堂がある。
・馬頭観音堂、地蔵(大和田204)  
 双体馬頭観音、地蔵3、庚申塔3「昭和55」「大正9」、標識「万葉の東路 大和田→井尻峠」。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 12:43Comments(0)古道

2011年10月02日

「東海道山すじ日記」の通行ルート

・「東海道山すじ日記」、著:松浦武四郎、翻字・解説:宮本勉、羽衣出版、’01 原文、翻字、口語訳、原図付きで読みやすい。急いでいる人は口語訳だけでもよいし、他の部分も目を通すと、彼の時代にタイムスリップできる。生活事情がある程度分かる。ただもう少しエピソードがあると分かりやすいし、道の行程ももう少し記入されていると分かりやすいのだが、明治のごく初期にこのような山間部を通行したことで、歴史上に峠道のいくつかの状態を証明したことになり、私にとってなぞ貴重である。清水区宍原の椿峠、竜爪山北の駒曳き峠、樫の木峠、洗沢峠を通過している。そして珍しいのは権現峠という場所を通るのだ。その場所は、静岡新聞などで特定された。
 それにしても彼はこのような山間地を通りつつ地元の純朴な人たちと関わっていくのだが、決して彼らを見下さず、彼らの人情に敬意をもちつつ付き合っていけることがすばらしい。アイヌ人にも敬意をもって接することができる人で大きい心の持ち主といえよう。

・「東海道山すじ日記」通行ルート
 彼の通行ルートだけを取り出して一覧してみたい。
・江戸下谷三枚橋、青山通り→世田谷街道ニ里→宮益→一里→原口→世田谷(馬継場) →一里半→二子渡(六郷の川上舟渡) →18丁→溝の口(日本橋から四里)(世田谷廻りで太子堂経由で半里近くなる) →48坂→左右蠏(木ヘンに解、こく)柏(コクビャク)山、下にはツツジ、大山参詣頃人通り多し→二里→窪田→長津田→原道一里八丁→鶴間→細川渡り八丁→相模鶴間→二里→国部村(国分尼寺) →28~9丁→柏が谷村→馬入川の舟渡→→8丁→厚木宿→田んぼ道→上岡田、下岡田、酒井、小柳村→一里→愛甲(高麗寺山近く見えた){厚木から槽谷に行くにはここまで下らず、まっすぐに船子村を横切れば近かろう}、石田村→一里→糠谷→伊勢原村→一里→神渡→城の内村→18丁→前波マエナミ(善波?) →切通上り10丁→下る一里→十日市場→
増屋→上の道近道→沢間→畑道一里→千村チムラ→半里下る→川筋、48瀬→一里→  
↘下の道山坂ない遠い
神山村(向かい松田村) →十文字川(仮橋、酒匂川上流)越して→町屋、吉田島、延沢村
→坂道下る二里→関本→片上里、雨坪村、弘西寺村、苅岩村、一色村→一里八丁→矢倉沢
(関所)→20丁上り→16~7丁下り→地蔵堂村→険路上り一里→足柄峠(地蔵堂) →一里八丁下る→
一里で竹の下→4~5丁上り→並木通り、厩や村→一里→御殿場
→埃沢エンザワ通り→印野(光徳寺) →独鈷沢→須山口の鳥居→半里→印野から二里半で
    ↘本道は左:茱□(草カンムリに叟、ミ)原グミハラ、芹沢原、菱刈原、二里半遠い 
十里木(9軒)→一里下り→世古(勢子)辻→上の道→大宮道
                 →中道、大淵村→原まま沢に下り、十里木より
                 →下道→吉原道
三里、大淵村→杉谷村→甲州路二里半→大宮町
                ↘半里→万農原
・大宮(富士宮浅間大社)から野中村、治窪村を過ぎ、峠一つ越えて羽鮒村に下る。
治窪村は沼久保のことか? だとすると野中町から沼久保へ出て、安居山越えで羽鮒に至ったようだが、正確にはどこを越えたか不明。地元の人なら分かるのかもしれない。羽鮒山にはハイキングコースがあり、展望台もある。もしかするとそのハイキングコースの一部にも重なっているかもしれない。
・次に鮒川(芝川)の急流では藤縄を張った刳船で渡って、長貫村に出ている。釜口峡の藤縄の吊り橋に度肝を抜かれている。
・内房村、塩出組、境川村を通り宍原道、これは洪水のときに使う道で、または爪生島を通りしし原道となる。水廻り通りを行くとなっているので爪生島を通り途中で山に取り付き、今はゴルフ場となっている山を越して宍原に至ったのか。細谷川とは稲瀬川のことか。
・宍原から椿峠へ登る。峠からは大所へ下りている。今は大所入口に供養塔がある。桑又川に沿い下って小川村に出る。
・小川村から山を上って板峠(榎峠のことか?) 和田嶌に下る。しけの島村(茂野島)、とつら沢村(葛沢) 、土村、(布沢村)、黒川村、(河内村、大平村)、(竜爪山)、駒曳峠、
 黒川から駒曳峠へはおぼつかない危険な道だったようで、今ではさらに廃道化しているようだ。よほどの山慣れた人しか歩けないだろう。
・駒曳峠、俵峰村、俵沢村、油島村、安倍川、中沢村、桂山村、只間(唯間)村、落合村、寺尾村、内匠村、樫の木峠、
峠から俵峰へは今も道がある。俵沢へは舗装された新道となる。その付近に昔の廃道があるのだろう。中沢から安倍川や中河内川、西河内川沿いに歩いているが、河原道を通ったのか、古道があったかは不明。おそらく内匠村から白石沢に沿いに上って樫の木峠に出ている。1990年ごろこのルートは通れたが今通れるか不明。川島から林道で峠に出られるようになったため。樫の木峠直下から日向村に出る古道は林道により消失している。ただ林道の途中から古道登山ルートが一部残存している。
・日向村、藁科川、洗沢峠、峯(富士城?、平栗の枝村)、(榊尾峠?、高山・無双連山方向のことか)、真瀬マセの大橋(馬路マジ橋)、
 日向で藁科川を越え、後の開拓地:畑色(この時代は未開拓)付近を通り上杉尾を通過し洗沢峠に出たと思われる。
・藤川村、小永井村(小長井)、小長井神社(城)、岸村、田代村、坂本尾沢、青部村、沢間村、堀の内村(徳山)、庄島(正島)村、田の口(田野口)村、梅島、下長尾村、麦代村(向井、原山、久保尾?)、
 この辺り川根沿いの秋葉街道に当たり、そのルートそのままに通行している。(*川根沿いの秋葉街道については、「古街道を行く」鈴木茂伸、静岡新聞社、参照)
 麦代村はどこの村なのだろうか?
・麦代村(向井、原山、久保尾?)、権現峠(川根本町原山と浜松市田河内水舟、家山林道)、田河内村、越木平、花島村、
権現峠(川根本町原山と浜松市田河内水舟)家山林道
 権現峠は先の静岡新聞記事の推定で間違いなかろう。今は家山林道が尾根通しに通過していて峠という印象すらなかろうが、向井や田河内村に下る古道は残存している。
・越木平→花島村→右:春埜山道五十丁、杉野村
         ↘左:秋葉道→いさ川村(砂川) →半里→和泉平→半里→中谷→半里→平生
*なお上記の右左は私なりに考えてみると変な気がする。なぜなら村の名の順序からして南西方向に進行している(または西ないしは南向きと考えてもよい)はずだが、そうすると左に春埜山道、右に秋葉道になると思うのだが、私が変?
→半里→若之平→十丁→犬居村→左:和田ヶ谷→中沢、領家村→32丁→峯小屋、中小屋(横川
              ↘右:坂本道              ↘18丁→光明山
村) →只来村→50丁→山東村→48瀬→25~6丁18瀬越→二股村→小峠一つ越え→東鹿島村、船渡し場→西鹿島村→岩水村、岩水寺→宮の口→味方が原→右:都田村、初山鮭院寺、この上の山蓮華峯、前:瀬戸村、瀬戸ヶ淵→右:金指宿→気賀→引佐峠→二里→三ケ火→本坂越二里半→嵩山すせ→一里→長柄→三里→御油

*以下は松浦武四郎が考えたより合理的なルートの案として掲載されているものである。
・(案1)大井川梅島→篠原、平木□□、黒原→犬居
・(案2)上長尾→越木平、気田村、窪田村→秋葉の後山→雲名村の渡し→石打村→熊村→嶺→神沢→鳳来寺、新城

  


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2011年04月29日

大谷街道

大谷街道
 大谷街道の出発点をどこと捉えるか決定打はないが、池田街道分岐点と捉えよう。今の池田街道から分岐するのが、今の大谷街道(県道大谷古庄線)の分岐出発点でもある。ただ古い池田街道は今の分岐点より30m南の路地のようであり、今の池田街道の1本南に平行して通っている。
池田街道の詳細は『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)の「平沢観音道、曲金コース」を参照されたい。
・寺田博士記念碑(池田1086-4)
 大谷街道の出発点からはずれるが、この付近なので紹介しておく。場所は東豊田幼稚園東で川を渡った向こうである。寺田氏とは近代における近辺の有力者で郷土発展に尽力した方のようだ。この記念碑の東200mの交番前(聖一色46-1)にも寺田博士記念碑がある。
・庚申塔(池田733、池田バス停)
 さて県道の大谷街道南下する。150mで消防分団を通過する。ここに「庚申塔 大正九年…」がある。ここから東200mに池田神社がある。
・池田神社 
 由緒あり、池田の地名になっている。隣に豊川稲荷がある。
・本覚寺(池田1379)
 さて県道の南下を続ける。300mで交差点があり、本覚寺参道入口標識がある。寺へは東300mである。寺には石塔類豊富である。寺には幕末の侠客:安東文吉や徳川家康に嫌われた孕石主水、高天神城を守った岡部丹波守の墓がある。
・法伝寺(小鹿1610-3) 
 近年移転してきた寺である。
・龍雲寺(小鹿866)
 500m南下すると、龍雲寺が見える。明治になって話し合いをして檀家が離れたため墓地だけの寺になっている。境内は月ぎめ駐車場である。曹洞宗。地蔵堂:本尊:阿弥陀如来、子安地蔵菩薩、他2基。古い石塔類が多い。「庚申供養塔」2基、石塔10基、「豊田小学校発祥の地記念碑」、「牛供養」、新・地蔵。
・小鹿氏居館跡(小鹿866) 
 殿屋敷といわれる龍雲寺近辺が小鹿氏の居館跡。
・伊勢神明神社(小鹿886)
 150m南下し二つ池手前を東へ150m。巨木があり、古くから神社のある地と考えられる。この小鹿の地が古くから開けていたことはこの後の史跡からも分かる。創立1590年。楠(静岡県指定天然記念物)樹齢千数百年。
・二つ池(小鹿)
 小鹿公園もあり、憩いの地。溜池のようだが今は公園の一部となっている。
・若一王子神社(小鹿370)
 池から50mないし150m進み、堀の内バス停付近の路地を西へ向かい再度折れ曲がると付近に小さな神社がある。1625年にはすでにあったようだ。手水鉢「慶応二年」。石灯籠1基。石鳥居「大正六年」。
・山神社(小鹿)  
 
・七面堂(小鹿)  
 本覚寺の境外仏堂。北原山にある。
・山の神古墳  

・駿河堀の内山古墳群  

・長沢地蔵(大谷448)
 150m進んだ長沢川手前にある。11年4月付近を改修中らしく地蔵もない。
・日本平公園遊歩道と駐車場(小鹿2237)
 街道をそれ、長沢川を東に1km詰めていくと遊歩道と駐車場の標識がある。11年3月には整備工事中であった。
・西教寺(大谷5105)
 人気のない寂しい道を500m奥に進むと梅林があり、白梅がきれいに咲き梅の花の香りに包まれた。ここを過ぎると寺がある。かつて市内人宿町か新通あたりにあった寺のようだ。古い石塔類も移転されている。ちなみに寺を過ぎると下り坂となり、静岡大学グラウンド前に出て急に明るくなる。
・長沢川(小鹿と大谷の境)
 西教寺手前の道を奥深く進むと長沢川上流に行ける。行くなら冬場に限る。600m奥の日本平パークウェイ手前で登山道も崩壊していて進めないが、ここまででもちょいとした冒険探検気分が味わえる。
・西教寺墓地横の尾根道、かつてのハイキングコース?かもしれない
 農園の畑となっている。この尾根に沿って奥へ進むのがかつての大谷からの日本平へのハイキングコースかもしれない。だとすれば遊木の森(かつてのボーイスカウトキャンプ地)で日本平パークウェイを越える歩道橋につながり、日本平と大谷をつなぐコースだったかもしれない。なお下記のコースかもしれない。
・池ノ谷沢川(大谷)、かつてのハイキングコース?かもしれない
 静大グラウンド前の自然観察実習室横の沢に沿って奥へ1km進む。道はでこぼこだが一応コンクリ舗装されている。畑に出て終点だが、かつてはこの沢奥に進め、遊木の森(かつてのボーイスカウトキャンプ地)で日本平パークウェイを越える歩道橋につながり、日本平と大谷をつなぐコースだったかもしれない。
・静岡大学、旧・大段(大谷)
 静岡大学が大岩から移転する前は、大段といわれ、一面の畑であった。
・片山公民館(旧・子安堂)   
 静大入口交差点を静大方向の東名ガードに向かい進み、一つ目の右折路を曲がる。石塔類。「葷酒不入山門」、庚申塔「昭和五十五年」、他1基、地蔵、石塔、六地蔵「元禄五」、「記念碑 永徳寺子安堂と公民館の沿革」によれば、永徳寺開山1675年、廃寺1871年、
・片山廃寺跡(大谷)
 話を長沢川の大谷街道に戻す。300m進むと東名高速道路高架橋下に出る。新・地蔵も祀られている。この辺りが片山廃寺跡である。本格的寺院で国分寺かそれに匹敵する寺院と考えられるが、決定的証拠はない。この地が古代から開けていたことは明らかである。礎石の跡などが例示されていて、建物が想像できる。
・白山神社(大谷596)
 隣に神社がある。記念碑がある。
・諏訪神社(大谷4475)、古墳
 400m進むと左(東)に広い通りがある。これを50m進み右の坂を上ると神社がある。古墳である。
・池ヶ谷池(大谷1424)
 諏訪神社の道向かいにあり、かつての溜池である。
・宮川の子授け地蔵、庚申塔(大谷)   
 静大への広い取り付け道路交差点の次の狭い交差点にある。「庚申塔 大正九年 宮川區…」。
・大正寺(大谷3660)
 600m進み大谷小学校を通過し、大正寺沢川を渡ると東に大正寺参道入口がある。古い石塔類もある。諏訪大明神のお堂もある。これは麻端沼の婆さんを祀ったものである。当寺は麻機の岩崎家や分家が関係する旦那寺であるため、ここに沼の婆さんを祀っているのだ。
 「庚申塔 萬延元年」「庚申供養塔」「奉順礼西国四国…」、ぽっくり地蔵尊・他4基(大正寺末寺 大谷海雲寺より移転)、姿見の井戸(朝比奈弥太郎泰能が自害する前に身支度を整えた井戸である。彼は今川氏真部下で武田氏に駿府を攻められたとき氏真を掛川に逃し、婦女子を高松海岸の船に乗せるよう手はずを整えたのち、この寺で自害した。しかし婦女子は乗船できず入江の渕:上臈渕に身投げしたという。) 隣に雷が岩を引っかいたという筋模様の岩がある。
・旧大谷街道、八坂神社、大谷不動(大谷2781)
 大正寺参道入口から大谷街道を30m南下すると左(東)に細い道がある。これが旧大谷街道の残存部と考えられている。薄暗い道を進むと八坂神社があり、神社の上には大谷不動が祀られるお堂もあり、アスレチック広場にもなっている。
・八坂神社(大谷) 
創建不詳、棟札1672,1854年、元牛頭天王社、樹木100~300年、石鳥居:明治二十九年建造昭和六十二年再建、石灯籠:元和三1617年、慶安元1648年、手水舎:文化三1806年。
・海岸山大谷不動明王、加羅倶利堂(大谷) 
 参道途中に庚申塔等の石塔14基、地蔵7基が安置されている。大谷不動の由来は漁師が漁をしていて網にかかったのが石仏で、それを祀ったものだという。大谷不動の西側には地蔵堂(地蔵、大日如来)がある。歯痛封じの地蔵である。倶利伽羅堂という。石灯籠:元和二年、六地蔵、80cm×1.5mの台石。
・地蔵堂(大谷2651)
 薄暗い旧大谷街道を下りきると、旧久能街道と交差する。そこに石仏が祀られている。大谷街道は久能街道に合流して終点である。なお個人的にはもっと古い久能街道はもう少し北寄りの路地だったのではないかと考えているので、ここの石仏も移転されてここにあるのだろうと勝手に考えている。
 11年4月細かった道は広く付け直され周辺も区画整理されて新しい家ばかりで、旧態がほぼない。地蔵もない。  


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2011年04月04日

推定平安鎌倉古道、三嶋大社~箱根・芦ノ湖高原別荘地

・推定平安鎌倉古道、三嶋大社~箱根・芦ノ湖高原別荘地、標高850m (三島市)   
 江戸時代の東海道による箱根越え道は今の国道1号線に付かず離れずに山中新田や山中城辺りの尾根を辿って行く道である。それ以前の道は足柄峠越えということになっている。しかし鎌倉時代の「十六夜日記」に箱根越えの記述があり、山中新田の尾根のもう1ぽん北の尾根(小沢、元山中、五輪)を通ったものと推定されている。
 まず出発点であるが、三嶋大社の東側の暦を作った家(河合氏宅)前から東に進み、大場川に架かる下神川橋を渡り左カーブを道なりに進むと正面に「願成寺」がある。源頼朝所縁の寺でここからかつての箱根越えの坂道がはじまるのが分かる。道なりに奥へ進む。基本的に尾根の中心部に沿って進むものと考えればよい。鉄道高架橋(高さ1.9m制限、東に小さな天神社があるようだ)を渡り、すぐ右に曲がり道なりに進むと新幹線の高架橋を渡る。旭ヶ丘という新興住宅団地の土真ん中を突っ切って行く。この辺りから古色が失せ現代的な山の手風景となるが、この新しい尾根道は古い古道を拡幅したものと思われる。山田小中学校や老人センターを過ぎゴリラマークのゴルフ練習場向かいに古びた「元山中、青少年センター、箱根」の標識がある。その標識奥の暗い道に入る。清掃工場の裏口になるようだ。それを過ぎるととたんに道が劣化しでこぼこ道となる。暗く淋しい所を過ぎ尾根上を上って右方向に進むと畑をいくつか過ぎ、「小沢の里、トイレ←→鎌倉古道」の標識がやっとある。ただし小沢の里に下りるのは正規コースではなくトイレ休憩用であるので、道はそのまま尾根上を上って行く。広々と区画整理された畑に出る。そのまま直進すると元山中集落に越えていくことになるので、その手前を左折し尾根上を上って行く。その曲がる所の奥に地蔵石仏がある。左折し500m進むと左に「山神社」があり、「復元された平安鎌倉古道」の云われの看板がある。山神社少し先からゴルフ場用地内に標識があって古道が進んでいて、さらに先で舗装路に戻るが、柵が張られていて進むことはできない。しかし山神社奥にもピークヲ反対側から巻く別の山道があり、この山道もどうも鎌倉古道の成れの果てと思われる。山神社前の舗装路をもう300m進むと左に石階段があり、上に諏訪神社がある。これまた諏訪神社奥の堀切のような空堀は鎌倉古道の成れの果てと思われる。しかしいったんゴルフ場(グランフィールズカントリークラブ)横の舗装路に戻り、200m奥に進むと左手上に進む山道があり、標識「元山中、箱根」がある。笹や草が繁っているが、かつて道幅は1間(1.8m)あったと思われる。ここから先ほどのピークの反対側に行く別山道に分かれる分岐点もあった。300m進むと幅1mのコンクリ舗装と出会う。これは下の先ほどの舗装路から分岐し30m伸びる道でちょうどここで幅1mのコンクリ舗装が切れる。ここにも標識「元山中、箱根」がある。古道を100m進むと草の繁り方がひどくなり笹と草と蜘蛛の巣をかきわけることになる。200mもかきわけると突然幅1.8mだけ草が切れる。これまた先ほどのゴルフ場横の舗装路から草刈りして進む作業道のようだ。どうしても進みたくなければ草刈した道を右に行けばすぐに出発点につながる舗装路に出られる。草刈した道を横断しまた笹と草の中に埋没していく。500mがまんし踏み跡を辿りかき分けていくと突然道幅1.8mの扇平ハイキングコースに出る。標識に従い箱根方向を目指す。地面は赤土の溶岩で濡れていると滑りやすい。なぜ江戸期の東海道箱根路が石畳かというと、この赤土の滑りやすさとぬるぬるさのためである。300mで舗装路に出る。ここにも看板「復元された平安鎌倉古道」がある。舗装路を横断し再度古道に入る。入り口は木の柵があり、入れないかと思ったら二重になっていて人なら入れるようになっていた。おそらく二輪車進入を防ぐためだろう。道は格段に歩きやすく幅が広い。ただし赤土なのですべらないように。途中でピークを左に巻いて道が行く所があるのだが、右に巻く廃道もあり、ピークの先で合流する。古道も時代で付け替えられ左右を見渡すと幾本もの道筋がつけられている。1kmも進むと林道を横断するところが2箇所出てくる。また林道のすぐ横を通る所もある。林道を2箇所横断すると道は尾根上から沢筋になり、道に水たまりが見られる所も出てくる。芦ノ湖高原別荘地に近づいた証拠である。500m進むと前方に柵とコンクリ壁が見える。鉄塔である。その向こうに別荘がある。道をさらに100m進むと別荘地のCエリア前に出る。「鎌倉古道入口」標識がある。別荘地内をさらに上る古道はすでにない。おそらく家々の境やその先の上って行く道が古道を元にした道と推定されるが、もはや古色はない。かつて古道は別荘地になった所を上り有料道路を横断し箱根に下っていったはずだ。部分的には切通しが残存しているかもしれない。
 車での帰路、小沢から清掃工場裏への道を2回間違え、3回目でやっと山田中方面へ出られた。林道の分岐点を間違えやすい。来るときは上りの右方向へ行けばよかったが、下りはそうはいかない。
  


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2011年03月21日

安倍七観音霊場巡りコース(静岡市駿河区、葵区、清水区)

安倍七観音霊場巡りコース(静岡市駿河区、葵区、清水区
 伝説では、僧:行基が聖武天皇(別の皇族の場合もあり)病気平癒のため、駿河の国(足久保?またはその寺の周辺の場合がある)で樟を切り倒し、七体の観音を彫り、七つの寺に納めたといわれる。
行基は奈良時代に実在した優れた僧であり、畿内をめぐったことは歴史的に確実そうである。静岡県内だけでなく全国的にも、行基開基といわれる寺院はあまたにのぼるが、静岡までには足を伸ばしていないだろう。だからといって、その寺の品位をおとしめようという意図はない。その寺がそれほど古い、あるいは格式がある、行基が目指したことをこの寺は実現したいといいたい。または行基の息のかかった者たちが開基やこの伝説にからんでいたのかもしれない。そう解釈しよう。
 巡礼の順序は、特にどこからはじめるという規則性はないようなので、便宜的に西からつないでみる。静鉄タクシーの巡礼見本コースでもそうなっているが、真似してみようという意図はないので、それとは一部順序を変えてみる。主に巡礼道らしきところを紹介したいのだ。

・徳願寺(静岡市駿河区向敷地689)  
 北条早雲の妹:北川殿の菩提寺。古い石塔類多し。元は大窪寺といって、裏山の山頂(仏平、大久保山、小豆山)付近の扇平に寺があったという。山頂へは裏山のハイキングコースがあるので上ることができる。仏平からさらに尾根を伝い途中歓昌院坂を越えて、大鑪(金偏に戸と書いてだたらと読む、たたらは錧または鑪であり、金戸の字はない)オオダタラ不動尊まで歩いていけるが、時期は晩秋・冬・春がよかろう。私は飯間山さらに谷川峠まで足を延ばせた。
 参道入口に丁石があり、階段を上ればすぐ二丁で山門である。ここに車道が横切っていて、車で境内まで行ける。

 次の建穂へのコースであるが、県道を北上し牧ヶ谷で木枯らしの森を見つつ藁科川を渡るのが無難である。車でならこれになる。
ちなみに古い道を行くなら向敷地の山と平野の境目の道を選んで進むのがお勧めである。古めかしさを味わえよう。安倍川と藁科川が合流する地点に浮かぶ舟山が見える地点の、こちらの山の斜面に昔の道はあったのだろうが、今は通れないだろう。かつては舟山とこの山とはつながっていたようだ。ちなみに木枯らしの森と南の山も地質的に同一でつながっていたことが分かる。牧ヶ谷橋の所で山すそがせまっているが、この丘上の茶畑に昔の峠道らしきが通っている。
 古道好きならあえて遠回りになるが、南周りを紹介する。徳願寺の参道入口から山と平野の境目を南下すると、手児の呼び坂(通称:ぬすっと坂)入口標識がある。この道を通り、北丸子の山すそに沿い龍国寺前を通過し、国道1号線に出て泉ヶ谷の柴屋寺方面を目指す。柴屋寺より奥の歓昌院の裏山越えが、歓昌院坂の古道にしてハイキングコースである。坂を越えると牧ヶ谷であり、石道標が迎えてくれる。牧ヶ谷の牧は古代の軍馬用牧場を意味するかもしれないといわれる。古めかしい田舎びた雰囲気が残っている。道を北上すれば木枯らしの森のある牧ヶ谷橋に出る。その手前左の道を山奥に行くと寺院と古墳を見られる。
 牧ヶ谷橋を渡って国道362号をいったん左折(西)しまた右折(北)し北の山に向かい進めばよい。

・建穂寺タキョウジ(静岡市葵区建穂271)  
 建穂寺は現在廃寺で近くの建穂公民館に寺の遺品が保存されているが、そこへ行く前にかつての所在地を詣でよう。公民館より東500mの建穂神社である。神社裏手は広々した植林地になっているが、かつて坊が軒を連ねた所だろう。裏山の斜面を上っても所々に平坦地があり、建物があったことを知らしめる。裏山の中腹まで建物があったことは絵図で分かる。
 さて公民館に行く。見られる一部の寺宝を見てかつての栄華をしのぶもよし、何かを感じるもよし。
 かつては静岡最大の寺院だった。かつて白鳳年間とされたが現在平安時代創建とされるようだ。静岡まつりのとき、浅間神社は廿日会祭を行う、というより、歴史的順序は逆である。浅間神社に奉納される稚児の舞はこの寺の舞である。今でも建穂地区の子供が舞う。徳川家康ですらこの稚児を出迎えに寺の門前に行き、数時間待たされたという。大御所家康ですら待ち続けさせる寺だったのだ。

次の増善寺へのコースを紹介する。公民館前に石道標があり、「右 当村道 左 久住洞慶院」と刻まれている。この右・当村道が昔の巡礼道で巡礼越えという。また慈悲尾の学童が羽鳥の学校に通学した道なので学校坂とも呼ばれた。公民館前に川が流れているが、この川の上流を目指せばよい。新興住宅地と畑を過ぎると、「林道 慈悲尾線」の看板がある。古道はこの右側にあるが、もう今は寸断されていて通らないほうがよいので、林道を行く。2.5km進み180m上がると切通しの峠で、開通記念碑がある。建穂側の古道は記念碑下左に見え、慈悲尾側は切通し5m上左の倒木の中にある。慈悲尾側は明らかに廃道である。林道を下ると古道を寸断して麓に出る。橋を渡った左に増善寺が見える。
山の林道が苦手なら、安倍川西岸の県道に出て慈悲尾を目指すのが一般的だ。

・増善寺 (静岡市葵区慈悲尾302)  
 681年開基、1500年今川氏により再興。慈悲寺といわれた。今川氏親墓所。徳川家康とも縁が深かった。千手観音菩薩を祀る観音堂があり、前仏が置かれている。秘仏は写真によって分かる。石塔や古い墓石が多い。

 次の法明寺への古道は、本堂真裏のハイキングコースを行くことになるが、まったく案内標識は無いので、寺の関係者か付近の住民に聞くしかない。本堂真裏を5分上ると新しい石標識で「観音堂跡」が立っていて、植林された平坦地だ。かつてここに寺があったのだ。また東下に下る道もある。これは椎之雄神社への道である。北奥へ上っていくと10~15分で高圧鉄塔のある峠に着く。ここに標識があり、西の尾根を上ると安倍城であることを示している。マイナーな安倍城ハイキングコースのひとつなのだ。北は西ヶ谷である。5~10分下れば茶畑奥の舗装路に出られる。あとは西ヶ谷集落をめざせばよい。
 車でなら安倍川西岸の県道に出て美和中学まで進み、左折し足久保奥を目指す。
 なぜ古道は川沿いではなく山越えするかであるが、川の水量が減っているときは河原を歩いたのだろうが、ひとたび水量が増えると川沿いを歩けなかったのだろう。今のようにしっかりした堤防はなく、水量も今のように水害対策が進んで少なかったわけではなく、今の倍から数倍の水量だったと思われる。
 西ヶ谷から足久保へは内牧(牧は古代の官営牧場かもしれない)、中ノ郷、松崎山のいずれから山越えして足久保に行けた。内牧からはいくつかの上り口が廃道である。ただ駿府学園・狩野介貞長記念碑のある尾根から電線巡視路を上っていけば足久保側への下山路になる電線巡視路を見出せよう。しかし国土地理院地形図に記入された古い道はすでに廃道で、別な箇所に電線巡視路が付けられているので、どこにどう道が付け替えられているのか分かりづらい。地図と磁石でルートファインディングできないととても安心して歩けない。基本的に昔ながらの山道は消失している。電線巡視路の標識は数字と記号で表しているのでどこに向かうか分からないのだ。ただ山中を歩いているとここが地図上に記載された古い山道の成れの果てかと思える所がある。結論として巡礼道として古い山道は通れない。
今の自動車道を通ることにするが、なるべく山すその古そうな道を選ぶと古色ゆかしい。
狩野介貞長記念碑、宇知ノ宮神社、はるな地蔵(はるなさん)、大仙寺、白髭神社などを経て松崎山の第二東名高架下を通過する。
 * なお西ヶ谷から足久保についての詳細は『美和(足久保)街道』を参照すればもっと詳しく分かる。

・法明寺 (静岡市葵区足久保奥組1043)  
 美和中学前バス停で左折(西)し西進する。500mほどで県道が、急に右・左に折れ曲がる所がある。札の辻と呼ばれるらしい。ここの理容院と酒屋の間に石道標がある。もう刻字は読めないが、法明寺を指し示している。ここから旧道は少しの間だけ山すそを回りこむがすぐ現県道に合流する。南叟寺手前にも少しだけ山すそ回りの旧道があり、地蔵堂がある。足久保小学校手前の村前橋を渡り川に沿って進み、急な上り坂になると石塔が出現して古色ゆかしい。この上が寺である。

 安倍七観音伝説が色濃く残っていて、行基の彫った楠はこの地にあったという。
古い石塔が多い。周辺は茶畑で上は杉檜植林地。

 ここから霊山寺へは現県道を下り、安倍川に出る。ここから北街道方面に出たいのだが、主なルートは2つである。
① 第二東名高架下の市道の橋を渡り直進し、鯨が池を通過し桜峠トンネルを通り、麻機に出て麻機街道(賎機山東側)を南下し浅間神社前を目指す。浅間神社東前の石鳥居をくぐり長谷通りを進み、北街道に合流し左折(西)すれば清水区方面に進める。
第二東名高架下の橋は、戦前、有料の賃取橋があったので再興したようなものである。桜峠には地蔵が祀られている。
* 『麻機街道』参照。
 ② 美和街道に沿って安倍口団地前を通過し狩野橋を渡り、安倍街道(賎機山西側)に出て浅間神社前を目指す。浅間神社を通過し中町交差点も直進し江川町交差点で左折(西)すると北街道で清水区方面に進める。
 * 『安倍街道』参照。

 北街道とは通称名で「県道 静岡 千代田 清水線」という。江戸時代の東海道より北側にほぼ平行して通っている道なのでそう呼ばれるようだ。実は江戸時代の東海道より古い中世の東海道で、鎌倉と京の都を結ぶ鎌倉街道であった。とはいっても今の自動車が通る県道は大正時代に作られたので、その近辺に付かず離れずに古道が残存していることもある。
 さて北街道を西進し清水区大内に至る前の、瀬名川交差点辺りの南に浄界寺や世尊寺がある。この東西に伸びる狭い道が鎌倉街道で、ここは間の宿:瀬名川の宿である。近くには「矢射タン橋の碑」もある。この碑は、鎌倉時代初期に幕府の重鎮でありながら謀反を起こし、京に脱出を謀った梶原一族が通過する際、幕府側が矢を放った所である。ここが東海道だから通ったということだ。この近辺には梶原氏ゆかりの物事が多い。例えば北に見える山の名は「梶原山」である。彼らが自害して果てた所だからである。

・霊山寺 (静岡市清水区大内597)  
 大内で石道標「大内観音」が見えたら左折(北)し山を目指す。山の中腹に寺の屋根が見える。途中石塔類もあろう。北街道は都市交通網のひとつでせわしないが、大内に入りちょいとした田舎びた雰囲気が味わえる。北進し浅間神社を過ぎると駐車場があり、参道の登山道となる。七つの場所で唯一車で門前に行けない。距離300m、標高差80mである。10~20分で上れるだろう。足の弱い人は参道入口で拝めばよい。
 古義真言宗、仁王門は重要文化財、開創行基といわれる、三十三曲がりの急な細い道は観音三十三身の化現を意味し、途中の6基の丁石は六波羅蜜を意味する。
 この裏山の山頂は帆掛山一本松公園で標高差150mである。

 次は平澤寺である。まず古道ルートを紹介するが、通れないので別ルートをあとで紹介する。北街道に出て広い瀬名川交差点に戻る。この近くのガソリンスタンドの横に消防分団がある。この裏に瀬名川公園があり、ここに石道標がある。ここから南の浄界寺や世尊寺を通って巴川に出て、川向こうの現在国道1号線(国1)の中吉田交差点に出るのが、旧竜爪街道にして平澤観音道へのルートである。しかし11年3月現在、巴川への架橋工事中でまだ橋がないので、別ルートを示す。広い瀬名川交差点を東へ1区間行くと古い瀬名川交差点の信号がある。ここを南に進むと国1に出られる。国1を西に1区間進むと中吉田交差点に着く。古道はボーリング場脇を南に進むが、今は線路を通れない。新道である交差点からまっすぐ南に進む広い道を行く。古道は道1本分東だと思いつつ進めばよい。JR線と静岡鉄道の踏み切りを渡り、静鉄線路に沿い道1本東に移動する。津島神社とやぶきた茶の記念碑があるところを南に曲がる。ここが先ほどから出てくる旧竜爪街道である。広い南幹線を渡り、次の交差点に出ると。ここの東西にはしる道が江戸時代の東海道である。ここで旧竜爪街道は終点となり、この先南に行く道が平沢観音道である。クレー射撃場、乗馬スクール、フランス料理店、平沢動物霊園の道案内があるので迷うことはないだろう。道なりに進めば田舎びた雰囲気と古い石仏にいくつか出会え、門前に達するだろう。
 * 「竜爪街道」、「平沢観音道」については、『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)を参照すれば詳細な説明がある。

・平澤寺ヘイタクジ、平沢観音ひらさわかんのん (静岡市駿河区平沢ヒラサワ50)   
 和銅年間に行基が立ち寄り地蔵菩薩を彫って祀ったことによるという。718年皇子の病気平癒のため再度訪れ七体の観音菩薩を彫り、当寺を含め7体を7つの寺に祀ったという。真言宗。現在動物霊園としても人気を集めている。

 次の鉄舟寺へのルートは、現在の日本平ハイキングコースにして、古い巡礼道が部分的にある。本堂裏左に朽ちかけた石道標があり、ハイキングコースを示す標識もあるので、そちらに向かう。車道をはずれ登山道となるとまた石道標があり、古めかしい巡礼道の趣きがある。絶壁の狭い道を抜け、ゴルフ場横の尾根を越す所にも石道標がある。これまでの石道標には久能寺または久能観音となっている、つまり石道標は江戸時代のものである。ルートは下に下りるが、尾根を北に向かうルートには工事中のため立ち入り禁止となっている。この北ルートは尾根伝いの清水区と駿河区の境で県立大学や県立美術館までつながっている。ここから2~3分も下ると舗装路に出る。舗装路を少し左に見ると舗装路を横断してまた山を上るハイキングコースの標識がある。これまた鉄舟寺に向かう巡礼道である。日本平観光ホテルの横に出るが、山頂を目指すわけではないので、ホテル下側の庭園の下の寂しい車道を下っていく。みかん畑の中の農道となる。この途中で村松方面を示すハイキングコース標識があり、行き止まりであることも示していよう。鉄舟寺に向かう巡礼道のハイキングコースは農場再整備で破壊されてしまった。しかしある程度たどれるので紹介する。行き止まりとなっていてもハイキングコースをしばらく行く。完全にコースが分からなくなるが、山を崩して平らにした農園の左端にはいくつもの山のがけが林立している。その中の多分もっとも左奥(東奥)のがけを10m上り一番高い所に道がついている。しばらく歩くと古い標識がそのまま残っている。標識「日本平←→村松、ハイキングコース」は数本ある。かつての鉄舟寺に向かう巡礼道である。ただ鉄舟寺の観音堂にもう100mばかりという所で耕作放棄された畑の雑草がひどく進むのをあきらめた。かつてはきれいに整備された道で周辺の畑もきれいに整備されていて、鉄舟寺の観音堂まで心地よく歩けたのだが。鉄舟寺の観音堂の右に車が通れそうなほど広い切通し道がついているが、それがこのコースである。道幅はすぐに畑のあぜ道ほどの狭さになる。

・鉄舟寺(久能寺)(静岡市清水区村松2188)  
 臨済宗。本尊:千手観音菩薩。飛鳥時代、久能氏により久能山に堂を建立したのにはじまる。奈良時代、行基が久能寺と号した。聖一国師が学ぶなど駿河一の学問寺として隆盛を極めた。武田信玄が駿河を支配したとき、久能山を山城(久能山城)にするため、久能寺を村松の地に移転した。幕末頃より衰退し明治2年廃寺となった。地元の郷士が山岡鉄舟をリーダーにして再興を果たし、寺名も鉄舟寺とした。

鉄舟寺(久能寺)を目指すルートで、静鉄電車狐ヶ崎駅前ジャスコイーオン横からのものがある。狐ヶ崎駅前を横切る道は江戸時代の東海道である。イーオン左に小さな沢があり、そこのたもとに石道標で「久能寺観音道」と記されている。そのみちである。ただ石道標は移転されていて、道1本分東に行くと南に向かう路地がある。これが「久能寺観音道」である。ルートは道なりに行けば鉄舟寺に着けるわけではなく、紆余曲折が多いルートとなっているが、古めかしい雰囲気を味わえるコースである。
 *  『久能寺観音道』参照。

 戦国期まで鉄舟寺(久能寺)は久能山にあったので、最後に久能山に詣でるのも一興であろう。足が弱い場合、車で日本平山頂へ行き、ロープウェイを使って久能山東照宮へ行く手段もある。苦労したい人は、久能山の石段を一歩一歩踏みしめればよかろう。ちなみに久能寺をしのべるものは一切ないが、かつて久能寺にいた人たちもこの眼下の景色を見ていたのかと感慨にふけることはできる。久能山東照宮は日光東照宮より知名度は落ちるが、こちらの方が先であり、家康が最初に埋葬されたのはここだ。また久能城の遺構として勘助井戸がある。ただし城が築かれたときもう勘助は亡くなっていたはずだが。
 久能までの古道ルートとしては、清水区に「久能街道」があり、駿河区に「大谷街道」や葵区から駿河区にかけて「久能山東照宮道」もある。
 * 『久能街道』、『大谷街道』、『久能山東照宮道』参照。

  


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2011年03月19日

南藁科街道、藁科街道(補遺)

南藁科街道、藁科街道(補遺
 南藁科街道全域の遺物については、『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)を参照してもらいたい。ここではその本に取り上げられていない遺物について紹介する。
 現在南藁科街道という言い方があり、藁科川南岸(右岸)に通っている県道のことを称するが、昔にはそのような統一された街道名があったとは思われない。しかし現時点で名称があり、便宜上使いやすいので古道研究に対しても用いたと受け止めてもらいたい。 
 建穂関連の藁科街道(川根街道)についての補遺資料も載せる。

・石道標(小瀬戸)、
 三角錐の自然石「右ハたかね道 左ハ山ミち 小せと村、左 ふちゅう」。県道沿い白髭神社と小瀬戸バス停の間を左折し、橋を渡り大森家前の沢を右折上る道が西又(高根)への旧道。旧道先にはかえる石と呼ばれる石があったり、不動明王とされる自然石が祀られていたりした。また大森家前の道を山に上る道が飯間に通じる旧道(山ミち)名残かと思う。

・石道標(西又)、
 西又橋三叉路にかつてあり、「ふちゅう」と刻まれていた。西又には延命地蔵堂、兜菩薩の菩薩堂、観音堂、二十基近い五輪塔もある。

・石道標(鍵穴)
 自然石「右は相又 左は府中」

・石道標(牧ヶ谷) ……*『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)所収、
 自然石「左 山ミチ、是より 右まりこ道」

・石道標(建穂)、
 自然石「右 当村山道、左 久住洞慶院道、文化五戌辰七月 (梵字) 願主西国順礼供養 □□」、右の当村山道は慈悲尾の増善寺へのじゅんれいごえであり、慈悲尾の子達が学校に通うため越えた学校坂である。地元ではこの石のことを「たて石」と呼ぶ。現在建穂公民館前に安置。

・地蔵道標(建穂)、
 建穂公会堂外に六地蔵道標がある。かつて建穂寺の丁石であった。初丁と三丁の側面に「観音道」、二丁と四丁、六丁には「元禄九丙子年」

・石道標(飯間)、
 飯間の入口から2km、こばん沢の500m手前、「奉順禮 安永九歳子八月吉日 右ハあさいなみち 左ハやまみち 願主當村 又□衛門 藤左衛門 善七□門 源右□門 同行四人」、蓮の蕾を持った弁財天が彫られている。あさいなは朝比奈のことである。

・石道標(小園)、
 自然石(高さ60cm、底面40cm、三角形)「右はおそのあきば道 左はみやじまおか辺」、近くに供養塔「文化十年」と地蔵菩薩(祠は昭和五年九月に作り変えた、木札:駿河一国百地蔵尊第十八番)がある。

・隅石(小瀬戸)、
 行司沢の1本手前の崩沢奥で森氏宅先の茶畑を過ぎて行くと樹間にあるようだ。駿府城石垣用の石切り場で残された石である。

・参考文献、
『藁科川のほとり』戸塚孝一郎(龍書房)’71

戸塚孝一郎について
 静岡市の歯科医、静岡市郊外の山間部の人情、石造物、古道に関心をもち、それについてのエッセーを書き、数冊の本にして出版した。住所:静岡市本通1丁目3の2、tel:054-253-1038、戸塚歯科医院
 以下著書紹介。
『人生ところどころ』(中外医学社)’61
『野山の仏』(金剛社)’63
『心の旅』(ギャラリー吾八)’67
『山村を訪ねて』(ギャラリー吾八)’69
『道』(龍書房)’69
  


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2010年02月21日

身延街道、芭蕉天神道

身延街道、芭蕉天神道(身延街道由比コース)
 芭蕉天神道は、身延街道3コース(興津、岩淵、由比)のうちの一つで、時代的にはもっとも古いコースである。今川義元に嫁いだ武田信玄の妹が通った道という。昭和初期に鉄道の身延線が開通するまで、由比・蒲原の海産物を徒歩で万沢の宿場まで運ぶことにも利用されていた。
・旧東海道筋由比北田芭蕉天神道分岐点(静岡県静岡市清水区由比北田)
 旧東海道の北田92番地と95番地の間の妙栄寺参道や旧由比町役場入口が、芭蕉天神道入口である。かつてはここに石道標の芭蕉天神を指し示す物があったが、取り除かれた。今は芭蕉天神宮入口に安置されている。70m北上すると寺の入口である。
・妙栄寺(清水区由比北田109番地)
 門前には谷口法悦建立のひげ題目があり、馬頭観音や地蔵菩薩がある。
・100m北上すると、旧由比町役場に達し、向かいのJAに石碑「旧町役場跡」がある。さらに60m北上すると信号のある県道交差点に到達する。ここで県道を横断して15m左の細い道を北上する。200m北上すると、北野天満宮に達する。
・北野天満宮
 境内に常夜燈がある。あえて天満宮前を通過しているようだ。
・200m北上すると、Y字路に出て、板碑「交通安全」があり、近くに板碑の記念碑がある。さらに北上するが一旦左に進み50m先で右に進み結局板碑の右の道と合流する。
・そのまま直進北上で新幹線ガードをくぐり平田タバコ店前を通過し、4軒先左にお堂と石仏を見る。道は直進する。
・250mで由比川の正月橋に出る。正月橋を渡って左折するのは新道といえる。この付近の丘上に林香寺がある。旧道は橋の手前を北上し、みかん畑を進む。
・280mで右に由比川に架かる天神橋という狭い橋が見える。これを渡り左に北上する狭い歩道を通り、新道の県道に合流する。
・そこに馬頭観音がある。そして新道の県道を少し戻るが山側に「菅原天神宮」がある。
・菅原天神宮
 特に古いものはないが、川を渡河した所にあえて天神宮を祀ってあると考えてよいようだ。ここからは新道の県道を行く。
・東山寺と入山の境に架かる幸橋袂に馬頭観音「昭和六年」がある。
・由比入山簡易郵便局手前に石仏と地蔵がある。
・由比・中村・山内分岐点、地蔵(座位)、馬頭2基「寛政三」「□年」。
・簡易郵便局前の道を山内に上っていくと、みかん畑に多数の石仏がある。
・入山親水公園向かいの中村橋バス停付近の県道から分岐し、中村に上っていく自動車道(由比廻沢市道)を通っていくと中村入口に馬頭観音4基、道祖神祠2基(今はない)があった。なお県道から分岐しないで、県道を直進するルートは、のちほど「中村、鬼子母神コース」として紹介する。
・集落中心あたりに朝日堂があり、ひげ題目塔、石仏、道祖神がある。
・朝日堂向かいの家の裏山に続く登山道を見つけられる。これが大昔の芭蕉天神道と思われる。山内・中村集落から裏山の尾根に達し、尾根に付かず離れずで北上し、旧由比町(静岡市清水区)と旧芝川町(富士宮市)境の在田の佐野氏宅前に出ることになる。この道沿いに特に古い遺物は見られない。 
・中村・山内集落を過ぎ由比廻沢市道が大きく右カーブする手前の石垣コンクリート上の防災ネットの内側に、石塔「妙法 扉戸 三夢盆幾二月」がある。
・槍野うつぎの分岐手前に、馬頭観音、銚子滝入口がある。銚子滝は入口から沢まで降り
てしばらく沢を上ると見えるが、市道から銚子滝のてっぺんで水流が銚子の口のように狭まるのが見える。この真下が滝である。
・市道をしばらく行くと槍野(うつぎの)橋が見える。橋を渡ると槍野(うつぎの)集落に行けるが、分岐する「槍野(うつぎの)コース」はあとで紹介する。
・槍野(うつぎの)橋を渡らずやり過ごし市道を進む。800mで桜野橋前に出る。この橋手前に石仏「南無馬頭観世音」がある。
・桜野橋を渡ると桜野集落であるが、「桜野コース」もあとで紹介する。 
・桜野橋を渡らず市道を1km進むと、池田橋に出る。橋手前を左折し廃村・池田に行くコースもあるが、これもあとで「池田コース」として紹介する。 
・池田橋を過ぎると嵐坂と呼ばれた辺りになるようだ。600m北上すると大桜橋が見える。左折すると林道瓜島線(林道山島線)で青木峠を越えて瓜島集落に出られるが、「青木峠コース」も後述する。 
・左折しないで500m直進すると、在田の佐野氏宅前に出る。ここに馬頭観音4基が祀られている。 
・なおも道なりに進むと板碑「大□□□□回魂碑」があり、付近から右折する道がある。右折すると先ほど知らせた「中村、鬼子母神コース」の最終合流地点となるが、これも後述する。 
・さらに道を直進する。細田と呼ばれる辺りで、かつては人家があったようだ。佐野家の稲荷神社が祀られている。さらに周辺の森の中に墓地が点在する。かつて人家があった辺りである。小路という今は薄気味悪い所を過ぎると、峠になっているところに出る。
・市道のやや右上に旧道と石塔類(地蔵、供養塔、大乗妙典)がある。 
・大晦日(おおづもり)手前で、「大納言石」南の案内標識があり、付近に馬頭観音がある。案内標識に従い市道の上の歩道を歩くと大きい石「大納言石」が見える。この道が芭蕉天神道であることはいうまでもない。歩道を北に行くと市道にまた出る。その北の地点にも案内標識が出ている。その昔、久我大納言が大宮(富士宮浅間大社)に行く途中この地の大石上にて病気で亡くなったという伝説がある。この石が大納言石といわれる。
・市道をさらに北に向かうと、石道標「弘化三年 右由井 左天神」がある。由比と芭蕉天神への分岐を示す。芭蕉天神道自体は尾根に近い道を通り、尾根上の「五輪の榧の木」に向かうが、一旦ここで直下の天神社に向かう。
・市道から離れ参道になると石塔5基がある。「□□天神の□□□暦九卯 □ミち」「従是芭蕉天神社三丁下ル 文化十二亥年五月廿五日立之 府中安西四丁目講中」「文政四年巳二月吉日」「猿田彦大神……」、平成の石柱がある。
・芭蕉天神社境内には、馬頭観音2基がある。
 芭蕉天神社はかつて大納言石上にて亡くなった久我大納言を祀るために建てられたという伝説のためか、98年には境内の寄付者一覧表に久我家子孫の女優:久我美子の名前もあった。
 参道を戻って先ほどの市道との分岐点に戻り、市道から尾根に向かう道へ分岐し進んでいく。
・尾根の最高地点で人家(内房大晦日5681番地、望月宅)が途切れ、「五輪の榧の木」(タブの木)に達する。この木の左(西)側に歩道がついている。これこそが芭蕉天神道の古道残存部である。歩道を辿っていくとはじめは茶畑内を進むが、杉檜の植林地に入り尾根に付かず離れず程度に巻く道になる。分かりにくい道だが人為的な切通し部分を見落とさないように進めば辿ることができる。道幅は1~1.5m程である。道端に海の貝殻がいくつか落ちている。昭和2年に鉄道身延線が開通するまで万沢宿に天秤棒で海産物を届けていたルートなので、この辺りで配達人が少し貝を食べて栄養補給をしていたのかもしれない。道を辿るうち、下って山に挟まれた平坦地に出る。この平坦地へは大晦日の市道から分岐する林道を通ってくるとたどり着く場所である。この平坦地から林道は山の東側をまだ北上する。この道が芭蕉天神道を林道化した道である。
・林道を辿る。200~300m進んだ途中に傾いた文字碑の馬頭観音「天保八年五月三日 馬頭観世音菩薩 □□□ 鈴木□□□」がある。ここからもう200~300mで林道も終わる。しかし林道の先の藪の中に人為的な切通しが見られる。そうこれも芭蕉天神道の古道残存部である。藪を抜けたりよけたりして何とかかいくぐれば進むことは可能である。切通しを見失わないようにすれば迷うことはない。700m下ると切通しが崩れかかっている所がある。この少し下で沢を渡る箇所になる。その対岸に石垣が見える。今は廃道で無論使われていないが、昭和期前半に補強された石垣だろう。しばらくすると先ほどから出てくる市道(旧町道:由比廻沢線)に出る。芭蕉天神道は市道に沿い数十m下り、市道から砂防ダム付近の廻沢川断崖上に降りる。
・そこに2基の馬頭観音「馬頭観世音 □□□」、「天保七申年 南無馬頭観世音菩薩 四月二十三日」がある。ここに馬頭観音があるのは、廻沢川を渡る地点だからである。今は断崖になっているが、かつては川べりに降りられる道があったはずだ。ここで川を渡り対岸になると、田畑の中の畦道を通って、毛通りという今はアスファルトの道に出る。
・この合流地点に石道標「右ハ芭蕉天神道 左ハ松野岩淵村 巡沢 望月ふく建立」が立つ。ここで芭蕉天神道は岩淵コースに合流して終点となる。しかし時代的には芭蕉天神道(身延街道、由比コース)の方が古いので、由比コースこそがここ廻沢の内房から万沢に至ったのであり、岩淵コースがここで芭蕉天神道に合流したというべきか。内房から山梨県へのコースは、ブログの岩淵コースや山梨県コースを参照してほしい。

・先ほどの砂防ダム付近からまだ市道は廻沢の県道に向かい300mほど下り合流する。その途中に、道祖神2基、秋葉山常夜燈、石仏3基がある。
・市道を大晦日に戻って話をすると、集落近辺の市道沿いに2基の馬頭観音と石仏らしきがある。
・市道を大晦日から廻沢方向へ下っていくと、泉水という集落に分岐する道があり、その付近に馬頭観音「南無馬頭観世音菩薩 □□□八日 望月由太郎□□□」がある。泉水には道祖神や芭蕉天神宮に川沿いを通って行けるコース入口もある。泉水を越えて上っていくと、岩淵コース台山峠のゴルフ場に出る。送り神や二本松がかつてあった所である。ゴルフ場近くには、はたご池や石塔場があり、「あいせん道」(今は東海自然歩道)もあり、後述する。このゴルフ場前のアスファルト道を下っていくと、北松野の妙松寺前に出る。

・「中村、鬼子母神コース」
  中村の入山親水公園前、中村橋に話を戻す。ここで市道へ分岐せず、県道:富士・富士宮・由比線を直進して北上する。300m進むと入山橋に出る。この手前に石仏(馬頭観音4基、大日如来2基、地蔵1基)がある。橋を渡り諸木沢集落を過ぎ、次の福沢集落の手前で左の久保山に分岐する狭い自動車道がある。この道へ分岐する。沢沿いに上っていく道で、そのうち沢を離れ山の斜面を上っていく。この付近の草むらの中に旧道の切通しが見られることがある。上ると明るい平坦地に出る。久保山である。今は畑と墓地になっているが、かつては集落があったはずである。この奥に鬼子母神:法泉寺がある。その100m手前の道沿いに馬頭観音も安置されている。法泉寺にも石塔類が多数ある。寺を過ぎこの道をさらに進むと在田の佐野宅前の市道に合流する。
・「槍野(うつぎの)コース」
  市道の槍野(うつぎの)橋に話を戻す。ここから橋を渡り、槍野集落を目指す。集落入口左に板碑「部落是」がある。集落内の槍野会館横の椎の木の下に石塔類5基(常夜燈、庚申塔、馬頭観音、五百五十遠忌碑等)がある。畑の中に石塔がある。集落上の白山堂に石塔類15基(道祖神、馬頭観音、庚申、地蔵、ひげ題目、灯籠等)がある。その上に神社があり、石塔3基(常夜燈、手洗石等)がある。林道または登山道(旧道の切通し道、坂本への峠道)を上ると、由比側と清水区坂本側の分界尾根となる。この付近に石塔2基(馬頭観音、牛馬安全)があり、その背後の森を「結いの森」といって、由比の語源とされる。
  ここからさらに尾根沿い登山道を南下すると浜石岳となるが、その手前に浜石岳の語源とされる、浜石の巨岩が尾根付近の植林地内に見られる。かつてはカヤトの草地だったので、麓、特に海上の船から浜石が見えて目印(こういうのを山あてという)になっていたのだ。山頂のすぐ北側に道祖神が祀られている。
・「桜野コース」
  市道の桜野橋に話を戻す。橋を渡って桜野集落に上っていく。集落付近の畑内に石塔1基があり、集落内に石塔5基がある。集落上の「薬師堂」に大日如来がある。その上の旧道切通し横に「牛頭天王社」がある。この旧道切通し登山道は旧由比町と旧清水市の分界尾根を越え、かつては清水区上倉・逢坂に通じていたようだ。今は廃道である。
・「池田コース」
  市道の池田橋に話を戻す。池田橋で左折し林道を1km進むと左へヘアピンカーブになる。ここに石塔2基(電燈施設記念、大日如来)がある。林道はカーブするが、カーブしないで直進していく狭い歩道が植林地内に延びていく。この歩道を進むと植林の中に平坦地がある。かつては池田という集落の跡で、98年には廃屋、家の基礎、元禄期の年号のある墓石等の墓地もあったのだが、00年には撤去されていた。この歩道をさらに道なりに進むと旧清水市側の沢に下り、尻喰い坂に至り、さらに上倉・逢坂へ至ったようだ。途中で桜野の神社からの道とも合流したようだ。
・「青木峠コース」
  市道の大桜橋に話を戻す。橋を渡って、旧芝川町(富士宮市)になる。林道を上り詰めると瓜島との分水嶺の峠となる。ここが青木峠であり、昔は長者が住んでいて、輸送業(多分、人足や馬方)の元締めをしていて長者屋敷があったという。今は人為的痕跡は見られない。瓜島まで林道を下っても石塔などない。峠付近から旧道らしき入口はあるが、進めそうもないほどの廃道である。伝説だけで痕跡はない。
・「あいせん道」
  旧富士川町(富士市)北松野泉水上でリバー富士カントリークラブゴルフ場入口手前に東海自然歩道「はたご池」がある。池の畔の石塔場には石塔類が合祀されている。また荒澤不動尊奥の院もある。この付近から泉水に下る旧道もあったし、ゴルフ場になって消滅した送り神へ行く道もかつてあった。ここから南へ行く東海自然歩道がかつての愛染堂へ行く道で「あいせん道」である。愛染堂は明治初期に廃寺になり、寺宝の愛染明王像は麓の妙松寺に引き取られ寺宝で文化財となっている。道は整備されているのですこぶる歩きやすい。途中立派な馬頭観音が斜面上にある。ここが泉水・大晦日方向へ下る尾根道の分岐点を示すが、尾根上にすでに道はない。愛染堂があった所は杉檜の植林地だが平坦で僧侶の墓石がいくつか朽ち果てているので分かる。しかし建物の痕跡はない。道はここからまだ南に向かい県道:富士宮由比線に合流する。自然歩道はさらに先の野田山健康緑地公園に続いて行く。

*石塔の刻字等は『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)を参照してほしい。


  


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2010年01月17日

身延街道、人との出会い旅

・失物地蔵(山梨県南部町福士坂下) 、09,12月下旬、午前
 福士平の八幡諏訪神社を過ぎて、修善寺参道を過ぎたが、失物地蔵(六面幢、六面地蔵)が見えない。そこで近所の望月秀次郎氏宅に聞きに行った。そしたら一緒についてきてくれて、探してくれた。だが、もと置かれていたはずの、平らな窪みはあるので、あったはずだが、今はない。付近は草や木を刈ってきれいにしてあった。そこで修理かなんかで、一旦取り外したものと解釈した。
・真篠(山梨県南部町真篠)、09,12月下旬、午後
身延街道調査のため、真篠に行き、真篠砦を見てから、砦横の身延道を原戸まで歩いてまた砦の駐車場に戻るときであった。駐車場へ戻る道の途中は畑で、路上で車を止め収穫している地元農家の人たちがいた。ちょうど農家仲間同士で世間話に花が咲いていたところを通りかかった。「どこから来た?」と問われ、「静岡から」と答えると、「よく静岡からも来るだよ。」「この砦は手付かずでよく残っていて、阻障などよくできてるだよ。」等、ふるさと自慢を、聞いて楽しい時間を過ごしたら、「白菜持ってけ、大根もどうだ、持ってけ」となった。大根までは申し訳ないので、とりあえず、白菜をもらったが、これが、大振りで、帰ってから使いで豊富で、おいしくて、ただでもらうには、申し訳なかった。ずいぶんおいしくいただけた。砦のこともたくさん話していただけた。
・南部横宿道祖神(山梨県南部町南部横宿)、09,12月下旬、午後
 妙浄寺参道前、南部横宿の丸石道祖神の写真を撮っていたら、その付近で車を駐車した地元のおじさんたちに話しかけられ、ふるさと自慢を楽しく聞く。皆さんふるさとに愛着があるんですね。道祖神は正月のどんど焼きのとき、幟を立てるとか、この地域のお祭りはいついつで、にぎやかにやるだよ等、皆さんそれは楽しそうに話してくださいます。
・南部町中野六本松、09、12月下旬
 六本松の場所だろうということで、テキストの地図にポイントされていた中野宿の萬屋
酒店辺りで、南東に曲がり、題目塔を過ぎ、さらに南東に行き、2軒聞くと、ここではなく、中野下バス停付近らしい。そこで聞くと、あの家に聞くといいと指されたのが、交差点角の屋号「六本松」の若尾正氏であった。聞きに行くと懇切丁寧に現地まで来てくれて事細かに話してくださった。「もう私しか知らないし、私で終わりだろう」と、熱心に話していた。また母か祖母が老人ホーム裏の旧道を登って嫁に来たとも言っていた。旧道の下は渡船場だったのだ。先ほどの題目塔は六本松から運んだ物と父か祖父に聞いたそうだ。それにしても今となっては貴重な生き証言を聞けたものだ。
・身延町横根中桜清水、10、1月16日
 桜清水前の清水屋敷跡となっているお宅で、「古い身延道」を聞いたら、亀久保方向への旧道舗装路を教えてくれた。あらためて聞くと、寺(実教寺)の和尚さんがいいとのことだったので、寺へ行くと、あいにく不在で、下の渡辺さんを紹介されて行ったのだが、これまたあいにく不在で、隣の洋風な家を訪ねると、品のいい婦人が出てきて、隣のおばあちゃんにも連絡を取ってくれたが、もうあいにく古い道はないだろうとのことだったが、ご婦人が、御殿山のこと(地元で祀っていて1年に1度お祭りに行く山で、相又との境の山で、向こうは相又パークになるそうだ)や、峰が窪からの旧道を教えてくれた。桜清水を南に少し下ったところの、道祖神でそこから踏み跡をたどるのが旧道だそうで、道祖神を見て、古い切通しを辿って行くと、さて驚き、自動車道の上の方に、13基もの石塔類がざくざくで宝の山となった。
・身延町相又坂本、10、1/16
 2軒聞いて不在で、3軒目に聞けた。榧の木の現物を教えてくれた。桜の木の隣の、石塔のある木のことだった。
  


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2010年01月17日

身延街道(山梨県万沢~身延山)

  序文
テキストは、『静岡県歴史の道 身延街道』(静岡県教育委員会)98年と、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)を用いた。これを基準として説明していく。テキストによる調査は79年に実施され、静岡県側は再調査を97年頃行ったようだ。これらの本が往時の身延街道と現状を周知させたことは意義深い。そのため基準としてのテキストとして用いる。しかしその後の現状改変や調査研究の進展により、書き換えられるべきことが出てきていることも、後に具体的に述べるつもりである。テキストに記載されていることはなるべく述べないようにしたので、本文を読む際、テキストも傍らにあった方が理解できる。
『静岡県歴史の道 身延街道』には、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』内の身延山から万沢までの記述を順序を逆にして掲載しているので、テキストはどちらか一方があればよい。掲載順次は、『静岡県歴史の道 身延街道』に準じて、静岡県境から身延山に向けて掲載する。
 また実際に当地に出掛け街道歩きを楽しむのならば、上記のテキストと付属地図の他、ゼンリンの住宅地図で街道筋周辺の掲載部分をコピーして持って行くと便利である。(地図は図書館で全面コピーできず、著作権の関係で半分以下にされるので、必要な部分に絞ること。)テキスト自体はそれぞれの県立や地域の公立図書館にある。「Y-1」等の番号はテキストに即し参照のためそのまま用いた。番号の無いものは私が改めて掲載したものである。私の調査は90年代末と09年12月~10年1月である。
 なお実際現地を探索するのならば、標識等がなく分かりづらいので、周辺住民に道を尋ねるしかない。
 山中の古い道を通りたければ、廃道化しているので藪に入る覚悟は必要で、それなりの服装になる。季節は草木が枯れ蜘蛛の巣が減り、やぶ蚊や蛇がいなくなる晩秋から春までがよい。私は国土地理院2万5千分の1地図と方位磁針も持参している。通りたくなければ古い道の出入口だけ見て舗装路を迂回すればよい。
 身延道の山梨県側は山梨県教育委員会の調査メンバーにより調査されているのだが、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』を読むと、事前の文献調査を行った後、現地には自動車を使い廻り、掲載写真の中には明らかに車から降りず車内から撮影した写真まであり、ほとんど歩かざるをえない土地には行っていないと思われる。そのため少なからず抜け落ちている事項がある。よほど現地調査の予算がなかったか、日程がとれず、足早に自動車で通り一遍主な地点を回っただけになっている。その内容をまた静岡県教委のテキストもそのまま掲載しているので、抜け落ちている点はそのままである。ただし基礎的な文献研究及び地図上のルート確定などは地の利があり、よく研究されている面がある。また身延道に直接関与しない、郷土史全体からの観点で掲載されている事項もあるが、私は個人的に未調査にした部分もある。ただしこのテキストにより、身延道の現状がまとまった形で報告された意義は深い。

・白鳥の砦(山梨県南部町万沢)Y-1
白鳥山自体がかつて物見のある砦だった。1569年武田信玄が駿河侵攻の際に作ったという。現在公園になっていて山頂まで車で行けるし、麓からの登山コースもある。山頂公園には標識等もあるので観察しやすい。
・白鳥天神社(南部町万沢)Y-2
 小葉山の県道沿いに見える。
・金山神社(南部町万沢)Y-3
 小葉山の廃屋集落内にあり、社叢は町指定天然記念物で、門前は身延道で狭いながらも江戸時代にでもタイムスリップしたかのように往時の面影を残しており、門前の身延道も含めて町指定景勝地にでもしたほうがよい。きわめて貴重な景観である。行き方であるが、県道沿いの家の裏に歩いて入っていくか、国52号線から歩いて上れるスロープを登っていくかである。
・境川の馬頭観音(南部町万沢)Y-4
 「興津筋O-61」、「岩淵筋I-69」に同じ。かつて甲駿田舎の里山荘のあった所の真下が、境川と国52号、杉山や古住田に向かう県道の合流点である。ここの空き地に石塔4基が立つ。境川の大石上にも1基立つ。この空き地の30m奥には石階段があり上ると墓地である。かつてここに旅籠屋甲州屋、両国屋があったのでその関係者の墓だろう。石塔を立てたのも旅籠屋である。今は誰もいない所だがかつては集落だったのだろう。この付近には小葉山集落(今は廃屋のみ、金山神社がある)もある。かつては賑わったのだろう。
・境川の供養塔群(南部町万沢)Y-5
 上記同。
・万沢の題目塔(南部町万沢)Y-6
 上記の場所に合祀されたようだ。もとは国52号の小葉山出口のもう少し北だったようだ。10年前、国52号沿いの境川分岐から万沢トンネルの間に2基ばかり馬頭観音があったように思うのだが、洞門が作られる等して見られなくなった。国52号を北上する。
・小葉山の一里塚(南部町万沢)Y-7
 屋敷平の分岐点付近にかつて木柱があり、戦後も横倒しになっていたようだが、見たことがなく消失した。
・万沢の身延道、残存部
 さらに国52号を北上し、万沢トンネル前で右上に上る道に進む。一旦峠のような所を上り越すとすぐ左に分岐する道があり、左に「随緑カントリークラブ← センチュリー富士コース 恋人の聖地← 白鳥山森林公園←」の看板で、右横には「甲府←→静岡」の交通標識がある。このゴルフ場や公園の看板裏の左(西コース)と右(東コース)にそれぞれかつての身延道の廃道切通しが北に向かって延びている。杉檜植林地内のごみや草木が繁っている中を進むと林道に一旦出る。
この林道は明治初期に作られ、国52号万沢トンネル北口近くから南に下がりトンネル北口真下のガード下から国52号西側を北に進み、次の水準点近くで橋上から万沢に至る県道に合流するルートである。明治期の身延道である。
 話をまた近世身延道に戻す。林道に出た身延道は林道を横断して下る。右(西コース)は高圧鉄塔の下から下って行き、空き地になっている所で終点となり、林道に吸収される。片道500m。
左(西コース)は林道を横断して下ってすぐ下の林道に吸収されて終点となる。この道は途中西の尾根に向かって上って行く分岐道があり、先ほどのゴルフ場や公園に行く道がヘアピンカーブで進路を180度変える所まで上って行って吸収される道になっている。片道400m。分岐道100m。
 吸収されたあと林道左下の沢沿い田畑の畦道になっている所を身延道は通っていたものと思われる。今は藪になっているが田畑の横を通って水準点のある所に出る。
・水準点
 駿河方面から万沢宿に入る身延道の南端にある。ここより南は藪になっていて道らしくないが、山と平地の境目の田畑の畦道になっていたはずの道である。この狭い藪寸前の舗装されていない小道のはずれになぜ水準点があるのかであるが、水準点は近代初期から主要街道に付けられ出していた。今なら国52号や県道、あるいはせめて自動車の通れる町道に付けられるべきだろうが、ここにあるということは、ここが一番の主要道だったということだろう。つまり近代初期において身延道本道の証拠と考えられる。
・馬頭観音22基一括合祀 
先ほどの林道が県道に合流する寸前、または水準点のある狭い道が見える所に馬頭が22基もまとめて祀られている。近辺に馬頭が見られない意味が分かる。しかし何で又馬頭だけを一括合祀したのか。この場所は明治期の身延道万沢側出口で近世の街道にもつながっているからここに移転したのか。
・万沢の道祖神(南部町万沢)Y-8
 身延道沿い万沢宿手前にあり、甲州に多い丸石道祖神と横に下部を欠いた石道標を祀る。「☞ 右□□ 道□□ 左ハ□□ 安□□」。おそらく身延道、万沢宿、駿州を示していたのだろう。
・万沢の口留番所(南部町万沢)Y-9
 橋を渡ると万沢宿で、目の前にガソリンスタンドがあり、その隣の住宅に説明看板がある。1582年徳川家康が通過している。吉田家が関守を勤め、現在の住宅及びGSも吉田家である。 
・万沢宿場(南部町万沢)Y-10 
 1580年の文書では内房、萬澤、南部の宿を継いで行った。後に内房から宍原に変わった。往時は賑わい、由比からも夜間に人足により魚が届けられるなど物資の集散が頻繁だったと思われる。昭和初期の身延線開通後さびれ、今は商店街というほどでもない半分住宅街になっている景観に宿場の栄枯盛衰を見る。
・広福寺(南部町万沢)Y-11
 山門や石塔(廻国塔、巡拝塔)がある。宿場の道が天神堂の台地にあがる所に位置する。
 県道を横断して身延道を進むと左側壁上に朽ちた石塔がある。もはや何物なのか不明である。
・天神堂遺跡(南部町万沢)Y-12 
 万沢小学校校庭拡張工事中に発見された。周囲は茶畑等の畑地の台地である。先土器時代の遺跡である。
・顕本寺前の五百遠忌碑(南部町万沢)Y-13
 寺の前に立つ。
・顕本寺入口の題目塔(南部町万沢)Y-14
 身延道を北上していくと万沢小を過ぎた辺りで左(西)に立つ。顕本寺参道であることを示し、向こうに寺が見える。この石塔は題目塔とも庚申塔とも見える。
・顕本寺(南部町万沢)Y-15
 お葉付きイチョウ(県指定天然記念物)があり、周囲も含め石塔類が多い。
・七面堂
 顕本寺墓地横で身延道が天神堂の台地から下る地点の付近にあり、石塔がある。古くからこの位置にあるのかは不明。この身延道は舗装され近道歩道として利用されているようだ。
・河内戸の渡船場(南部町万沢)Y-16
 十島との間で渡船していた。今の万栄橋下のようだ。万沢宿から本光寺や富士浅間神社に行く道を通って渡船場に行ったと思われる。万栄橋袂には新しい水神、題目塔、石祠道祖神がある。国52号、万栄橋交差点には石仏(地蔵か如来)1基がある。
・越渡の道祖神(南部町万沢)Y-17
 万沢の台地から身延道をつたって降りていくと県道に出てさらに越渡で国52号と合流する。そこに蓮久寺とその手前に道祖神がある。石祠で「道祖神 至誠如神」。
・蓮久寺(南部町万沢)Y-18
 寺というよりお堂がぽつんとあり、題目塔、五百遠忌碑の石塔がある。
万沢越戸の蓮久寺から西行まではほぼ河原と山すその境目を道が通っていたものと思われる。
 西行集落手前で越渡集落終わり頃の、遠藤宅裏の山際に小さな神社がある。この神社の鳥居の前か後の平坦な幅1.5m余、長さ10mの部分が、古い身延道の残存部と思われる。
・西行の渡船場(南部町万沢)Y-19
 西行峠手前の集落を流れ富士川に注ぐ川がある。この河口付近に渡船場があったと推定したい。現在、日本軽金属富士川第二堰堤となっている、その少し下流の堤防が2つに切れている辺りだろうが、推定できる物証はない。
・西行集落の石塔、西行峠への上り口
 西行の集落や畑地の中を身延道は通ると思われる。きっと山際の高い所を通っていたのだろう。西行公民館の北の畑に割れた石の道祖神らしきがある。次の角に石祠道祖神がある。この角を西に曲がり数軒行くと、五百五十回遠忌碑があり、上におと、かつて西行峠に安置されていたという西行地蔵?が祠に安置されている。
 ここから近代初期の甲駿街道ルートとしては、川向こうの遠藤秀雄氏宅に向かい、そこから斜面に取り付き、斜めに西行峠に上ったと思われる。
 また近世の西行峠上り口は、川向こうの遠藤氏宅に向かわず、もう150m直進して道が4つに分岐する所を右(北)の西行峠の山に向かう道を進む。山際に近付くと切通し道の廃道になる。右に墓地とやや新しいような石塔「奉参詣壱千ヶ寺供養塔 乃至法界 平等利益」がある。この上に西行峠や増野に上る自動車道が通っているようだが、草木が繁り視界不良である。
 西行集落には古めかしい墓地が多く、それを見るだけでも一見の価値はあるかもしれない。
・西行坂(南部町万沢)Y-20
 現在西行峠(坂)には車でも上れる道があり、西行集落からの旧道を破壊している。峠には石塔や石仏があり、他にも現代の石碑群がある。「盆中の富士」といって二つの山に挟まれた中に富士がある景色が絶景だそうである。伝説では西行が来たことになっているが、史実ではないようである。現在峠は公園で児童遊具や茶室用建物がある。
・西行峠の甲駿街道
 甲駿街道下山口が目の前にあるが、これは近世末ないし近代初期の道で山と河原の境目を行く近代の道につながっていく。道幅一間(1.8m)で坂がきつくなく作られている。国土地理院2万5千分の1地形図では、下ると国52号の歩道に出ることになっているが、現実は違っているようだ。道は最初のうち、標高差20mほど下っていくが、あとは等高線に沿い水平移動していく。200mも進むと一旦沢で道が崩落しているところに出る。すぐ下を通行して上に戻れるので怖くはない。ただその下の方を見るともう1本山道らしきが見えるので、地形図の下に下りきる経路はこれかなと思えるが不明。はっきり見える先ほどの続きの道(甲駿街道)をさらに進むと、斜面崩落防止用のネットに石が詰まっている所を通る。ここだけ道ではないが、まあ通れるので大丈夫である。また道になり狭いところもあるが平坦である。そのうち道幅だけでなく周囲も平坦な所が目立ち、かつて畑地かと思われるところを通ると、石垣がある所も通過する。そして不意に切久保の大曲のカーブ上に出る。増野から下って来た自動車道が切久保手前で大きく曲がる所に、甲駿街道は出る。もう1つ下のカーブには「右ハ山道 □□□□」の石道標がある所である。真下に切久保集落が見える。距離1km。
 この道は時期によって草だらけの廃道になることがあるが、09年12月には草刈がしっかり行われていた。また電線がずっと通っているので、それを目印に迷うことはない。
・増野の身延道、道祖神石祠、常夜燈(南部町増野)
 甲駿街道より古い身延道は、西行峠の茶室建物裏の高い所の左(南)側に狭い山道が延びている。アップダウンはあまりなくほぼ平行移動し増野の畑地や集落に出られる。この集落や畑地より低い所に西行峠上り口から延びる自動車道(林道)が通っていて、増野集落入口辺りに道祖神石祠と常夜燈が祀られている。おそらく移転してここにあるのだろう。現在自動車道で増野と切久保境の鞍部(峠、乗越、コル)を越えられるが、古い身延道は集落上端を通り七面神社上方も通り鞍部に到達したと思われる。
・切久保の身延道、石塔類(南部町切久保)
増野との境の鞍部から切久保一軒目の家に向かい下っていくコンクリート舗装された幅1間の道があり、身延道と推定される。切久保一軒目の家前で先ほどの自動車道といったん重なるが、この後も二つの道は付かず離れず切久保集落に下りきっていく。
・石道標(南部町切久保)
先ほどの自動車道を下っていくと、左道端に石道標がある。その背後上に古い切通しの道がついている。「右ハ山道 □□□□」、剥落であとは読めない。古い切通しの道を上ると150mで茶畑と佐野氏のお宅前に出る。
・石仏(南部町切久保)
 自動車道を下りきる手前右に3基ある。無論移転合祀であろう。「明治三十二季 馬頭観世音 十月大吉□□□」。地蔵:刻字不明。「明治四十二年 馬頭観世音 十月日」
 切久保集落に下りきる大きいカーブの尾根先端から増野方向に身延道はついていたようだ。地元老婆が大きいカーブの尾根先端が西行峠からの道だといっていた。さて切久保集落からどうやって身延道は北上するかといえば、切久保集落から東の国52号に出る所、北の丘に上る登山道がある。すぐに幅1m程の道になり丘上に出る。ここに石塔物がある。ただし昔から国52号に面した河原沿いから古い道が上っていくのは水難を考えると妙なので近世末から近代初期の甲駿街道ルートと思われる。ではもっと古い道はというと、国52号に出るのと反対に丘すそを左に進み墓石のある辺りから竹林を上ったと推定される。竹林周辺は畑地だったのか平坦な段々になっていて道は不明である。 
・丸石道祖神、常夜燈(南部町切久保)
「道祖神 安政三 □□□正月吉日」。「献燈 切久保中 南正大吉日 □永二丙辰」。丘に上りきった所の守り神と目印になる。さらに前方に進むと天白神社前で自動車道に重なる。
・天白神社、切久保から向島への身延道(南部町切久保)
 ちょうど切久保の丘上の真ん中で、ここから向島に向かって身延道は下っていくので目印や休憩場所になっただろう。自動車道は山の上に向かいカーブして上っていくが、古い身延道は竹林の斜面下を覗き込むと幅1mの踏み跡を見出せる。隣には墓石群もあった。どうも墓石を回り込むようにかつて道はついていたようだ。踏み跡を歩くとすぐ幅1間の道であることが分かる。石ころだらけだがかつては大八車も通れる緩やかな道だったろう。下りきる手前に首のない馬頭観音らしきがある。向島の手塚氏宅前で坂を降り切り自動車道に合流する。自動車道を進み上福士川橋に達する。左手前に地区集会所があり、祠が祀られている。渡り切った右に石塔がある。
 話を一旦切久保の丘上の天白神社前に戻す。ここから身延道本道とは違うが、自動車道で、町屋方向に架かる福士川橋に向かい尾根を下る道があり、その尾根伝いに降りる古い切通し道が残存している。福士川橋手前まで降りて左折し向島を目指すと、1軒目の家の手前右に馬頭観音が祀られている。ここから先は切久保天白神社からの身延道に合流し、上福士川橋に至る。
・石塔「橋供養 郷中 元治元年」(南部町町屋)
 昔から上福士川橋辺りが渡河地点で橋が架かっていたと思われる。祠や石塔があるということは渡河するのも大変だったのだろう。道をまっすぐ進み県道に出る。ここから右折してもよいが、少し左に折れながら山際の旧道らしきに出て右折するのがベストだろう。また県道に出てかつての内田氏宅跡の所を左折し斜面を上っていく。ちなみに内田氏宅跡には天使像等があり目立つので目印になる。この方はアーティストだったのだろうか。(09年12月)すぐ目の前に石塔3基が見える。
・石塔、町屋から峰への身延道(南部町町屋)
石塔、馬頭観音、「大念佛院」がある。もともとここにあるのかは不明だが、この付近のものだろう。この道は今自動車で上れるように改良されているが、かつての身延道である。途中で歩いて上れる身延道が自動車道の上についているので、そちらに上るとすぐ、丘の上で道祖神や馬頭観音が出迎えてくれる。
・道祖神、馬頭観音、4基(南部町峰)
身延道をたどり、町屋の上の峰という集落入口に着くとある。坂の上と下にそれぞれ石造物があり、古い名残を残している。このまま峯集落を道なりに直進していく。集落中央辺りの三叉路で石造物がある。
・道祖神、常夜燈、峰から弘円寺への身延道(南部町峰)
集落中心部で守り神の役と三叉路の道標とを併せ持つのだろう。ただし昔からこの位置なのかは不明。さらに道なりに進むと戦前の兵士の墓となんだか分からない崩れかかった石塔がある。ここで古い身延道はこの墓や石塔裏の家(坂本氏宅、東峰建設、望月氏宅)の裏に細い道を残している。途中石段にもなり約100mで赤い鉄橋を渡り弘円寺門前になる。
・峰のお堂や石塔類等の石造物群(南部町峰)
一旦弘円寺から話を、町屋の内田氏宅跡や「大念佛院」の石塔前の自動車道に戻す。この自動車道を上っていき丘を上りきり、眼下に町屋の福寿院や墓地が見え高圧鉄塔を過ぎた辺りに、お堂と6基の供養塔がある。ここを過ぎなお直進すると峰集落中央辺りで、峰公民館隣にお堂と3基の常夜燈がある。さらに直進すると先ほどの戦前の兵士の墓と崩れかかった石塔がある所に出る。これで弘円寺門前に話を戻す。
・最恩寺(南部町福士)Y-21
 *街道から離れているので未調査。
 村内最古の寺院で文化財もある名刹。
・弘円寺(南部町福士)Y-22
 弘円寺は江戸期中期建立で日蓮宗である。門前まで来た身延道は坂を下り山すそに沿って北上したようだが、今は道がない。おそらく今の川沿い付近を進んだと思われる。一旦下りきって石碑群前を通る。
・弘円寺入口の石碑群(南部町福士)Y-23
 参道入口に並ぶさまは圧巻である。かつて栄えた寺院であることが分かる。題目塔、遠忌碑等多数。参道を出て町道を北上しすぐ左折し左の山際の一番手前の家を目指す。この家の前の道が身延道と思われる。北上しT字路に当たると右に丸石道祖神がある。
・平の道祖神(一)(南部町福士)Y-24
 村の守り神兼道標の役割があったのだろう。ここで一旦左折しすぐ又右折し北上する。
・平の道祖神(二)(南部町福士)Y-25
 集会所の手前十字路脇に甲州に多い丸石道祖神がある。四角い台座石の上に丸石を置く形は駿河ではまったく見られないので珍しいが、甲州では数多く当たり前の光景である。
・平の道祖神(三)(南部町福士)Y-26
 石祠がない。付近には木造の祠らしきと、少し離れた所に真新しい双体道祖神が祀られている。どうも双体道祖神に付け直すことが流行しているようだ。
・八幡一宮諏訪神社(南部町福士)
 天然記念物の樹木もある神社。
・失物地蔵usemono(南部町福士)Y-27
 先の神社を90m過ぎた街道左手(西)の一段高い山斜面上の藪の中にあり、見つけにくい。別の板碑も近くにあるので、それがヒントになる。六地蔵幢touで失ったものが願を掛けると戻ってくるといわれての名だが、付近の人でも謂れは知られていず、失物地蔵と言っても通じず、六面地蔵または六面幢で通じる。この地蔵の横を山に上っていく古い切通し道があり、かつて真篠や近くの寺院の修善寺へ行く道と思われるので、身延道と真篠道の分岐にあったといえる。
 なお09年12月下旬、すぐ近所の望月氏とも探したが、台座があったとおぼしき地点に崩れていない平らなへこみを見つけたので最近まであったはずだが、そのとき現物は存在しなかった。周辺の藪が刈り払われていたし、誰かが盗難したとも思えないので、修理か安置し直すために一旦取り払ったものと推測する。また再安置されることを願う。
・身延道についての一考察
 10年前、この付近で野良仕事をしている老婆に話を聞くと、かつての身延道は今の山際と田畑の間の道より一段高い所を通っていたそうだ。だからその又一段上の見つけにくい所に失物地蔵があるわけだ。昔の道からなら見つけやすい位置だが、一段低くなった今の道からは見つけにくいのだ。今自動車道になっている山際の道はかつて田畑だったのだ。そして平野部は富士川まで一面家もない田畑や河原が続いていたそうだ。
 今の道より一段高い所を身延道が通っていたり、町屋を通らず峰の高い所や、西行峠から増野、切久保の高い所をわざわざ通すように、富士川や支流の氾濫原である平地を通れなかった証拠である。富士川の水量は昔に比べれば格段に少ないはずで、支流も含め数多くの砂防ダムや堤防建設により水量ごと押さえ込んでの今の川の姿であり、昔はこんなものではない怒れば恐ろしい日本三大急流の富士川だったのだ。
失物地蔵から200m北上すると川を渡り東海自然歩道の標識がある。その標識に従い北西に上っていくと、真篠集落に出る。自然歩道は南に進むが、身延道は北に上り地区集会所になっている、かつての栄樹庵の裏に進むが、今は裏から通れないので表を通って墓地横から古い身延道に入る。目の前の山はかつての山城、真篠砦である。身延道は城のすぐ下を通ったというより、道のすぐ上に監視のためもある城を築いたというべきか。ここで真篠砦を説明する。
・真篠砦
 16世紀中期に武田信玄の命により作られた。原大隈守が城を守った。甲斐駿河国境に近く直下を身延道が通るなど守備の必要性のある城だったと思われる。現在本丸等の曲輪や土塁、阻障(幾筋も溝を掘り敵が通りにくくする)がかなり残り、文化財として貴重と思われるが、城の出入り口のみ標識があるだけで、素人ではどこをどう歩いていいかも分からない状態で、ルート設定や標識設置が望まれる。本丸跡には2つの石祠道祖神がある。また身延道の上に阻障がある。
・真篠から原戸の身延道
 真篠地区集会所の栄樹庵の裏に石塔類がある。石塔類の裏の山林と寺の境目がかつての身延道でもっと道幅が広かった(1間=1.8m)と思われる。墓地横から身延道に入る。斜面下に神社の屋根や墓地が見える。竹林と杉檜植林地の中の薄暗い道を進む。斜面上は真篠砦の阻障があるなど古い雰囲気がよく残存している。真篠と原戸の境の鞍部に至る。ここまで平坦な幅広の道だった。鞍部には石垣と道祖神(木祠、2基)、常夜燈(「天保六 真篠」、2基)が祀られている。村境の守り神であろう。ここから下り道になり、150m植林地を進む。途中山腹へ平行移動していく道と原戸へ下る身延道が分岐する。ここに横倒しになっている「南無観世音菩薩」の文字塔がある。分岐の目印だろう。ここから50m下り沢の手前で直角カーブする所に土砂や倒れた樹木の根っ子がある。10年前通ったときは、確かここにも石塔があったと思うのだが、数年後及び09年12月に通ったときも見られない。土砂崩れで石塔が埋まったものと思われる。残念。ここから下は石垣の段々が見られ、かつての畑地か住宅跡と思われる。道は部分的にコンクリ修復されていて、今でも使われているようだ。途中3箇所沢を渡るが、水量が少ない時期だからだろうが、沢に付近の石を置けば足を濡らすことなく渡れる。沢の前後が少し道が削れているがというより、繰り返し修繕してきたからだろうが、おおむね安心して通れる道で、3つ沢を渡ると石垣の段々のある所を過ぎ、車で通れる原戸側の自動車道に出る。09年12月には途中1箇所、コンクリ舗装の下の土砂が削れてオーバーハングし、車進入禁止になっていた。樹木の中を抜けて明るくなると。原戸の集落である。
 それにしてもよく古道が修繕を繰り返しつつもそのまま残存していたものだ。今すぐにでも真篠砦とともに文化遺産として登録してよい道である。
・聴法寺、石塔類、題目塔、常夜燈(南部町楮根原戸)
 原戸集落内を道なりに直進すると、日蓮宗聴法寺門前に至り、古色をよく残した景観である。石塔類豊富で並んでいるさまは壮観で、先ほどまでの真篠から原戸への古い身延道の余韻もあって、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。門前を下った先、集落出入口のガソリンスタンド(GS)裏に、題目塔2基(「文明四」、「明治」)、常夜燈1基(「明治十四」)もある。ここで道を下りきりGS表に出れば国52号であるが、その手前に山際を左の竹之花方向に進む道がある。この道が古道そのものか否かは不明だが、おそらく山際を進んだのは確かだろう。道は左の山際の畑地横を進むものと、右の竹之花に向かう道に分岐する。一旦右の竹之花に向かい橋を渡ると、Y字路に目新しい双体道祖神がある。
・竹之花の道祖神(南部町楮根竹之花)Y-28
 「石祠」とテキストにはなっているが、石祠は見当たらず、目新しい双体道祖神しかない。「平の道祖神(三)Y-26」で記述したように、双体道祖神化が進んでいるようだ。隣や裏に朽ち果てた古い石も残しておいてほしい。Y字路から先の右は国52号に合流し、左は竹之花の常夜燈の前に出る。
これも古い身延道ルートの一つと思われるが、先ほどの左山際畑地ルートに戻り、歩を進める。今は畑地より一段低い道になっているが、昔は山際の一段高い所を通っていたものと推測する。山際と川が接近する所に橋がある。おそらくもっとも古い古道はこの辺りで渡河したものと思われる。渡河した後、右折し先ほどの常夜燈の前に進む。
・常夜燈(南部町楮根竹之花)
 常夜燈は道標になっていたと思われ、常夜燈の裏に人一人しか通れない狭い歩道がある。おそらく身延道と思われる。楮根川を歩道の橋で渡り、畑を抜けて正行寺参道に出て、国52号との交差点の「正行寺入口の石造物群Y-29」に出てもよいが、おそらく畑を出て一旦左折し2軒先を右折するのが、まだ古道に近いと思われる。このまま直進できないが道なりに進むと、道がカギの手のように曲がる所に、丸石道祖神なのか、家の門の飾りの丸石なのかが祀られている。カギの手を曲がると国52号に合流する。しばらくして左の志村氏宅前を通るのが古道らしいと思うが、今道はない。大和峠まで国52号を通る。左右に近代の旧道の一部が残存している。
・正行寺入口の石造物群(南部町楮根竹之花)Y-29
 「五百五十遠忌碑」が見当たらない。
 題目塔と石祠がある。
・大和峠の身替地蔵(南部町大和字廻沢)Y-30
 国52号線の峠最高地点南脇に祀られている。他に供養塔2基もある。背後に上ると、石垣が幾重にもあり、かつては畑地や住宅の跡と推定される。また少し52号を下ると南脇のコンクリート側壁の向こうに近世の坂道らしき跡が数十m見える。
・大和峠の道標(南部町大和字池の久保)Y-31
 国52号大和峠を過ぎると右に大和川の谷があり、右に下る自動車道がある。これが身延道かというと、この周囲に家はないが、国52号に戻りもう1本先の右(北)に入る道の周囲は家があるので、こちらが古い道と思われる。「ゼンリン住宅地図93年版」では、はじめの右に下る道の記入がないのも証拠である。ただし「大和峠の道標Y -31」は新しい自動車道沿いに立てられている。おそらく移転したのだろう。題目塔で台石に「大和峠」と書かれているそうだが、よく分からない。ここは新しい自動車道だが、この先30mで古い身延道の自動車道に合流する。
・大和の道祖神(南部町大和字清水沢)Y -32
 さらに200m下ると左に石塔類がある。石祠、自然石の碑2基、常夜燈、丸石、力石が祀られている。内容からして移転合祀されたものだろう。(79年)テキストでは道路改良工事の際約1m 移動したとある。
 もう100m下ると人家の向こうの丘上に熊野神社が見える。ただ身延道に直接面しているわけではないので省く。さらに200m進むと左に鳥居が見え駒形神社がある。
・駒形神社(南部町大和字上ノ田)Y -33 テキストでは大和・塩沢両村の鎮守で大社だったという。町指定文化財。
 180m進むと塩沢川に至り橋があるが、30m右(東)向こうにも橋がある。古い身延道に沿うつもりなら右の狭い橋を渡り、直進していく。120mで広い今の県道(南部宿場前に至る近代の身延道、ちなみに南部宿から離れて通る国52号は現代の身延道といえる)の五差路に出て右に警察署がある。右折して広い県道を行くのも近代の身延道としてよいし、近世の身延道を通るなら右から2番目の狭い道を直進してもよい。狭い古い身延道の名残の道を行っても戸栗川橋手前で広い県道に出る。この狭い道沿いに遺物は見当たらないが、古めかしさの残るレトロな道だ。県道沿いも昭和の雰囲気の残る道であり、山梨県には近世身延道以外にも明治・大正・昭和の雰囲気の味わえる道が多く残っている。おそらく今後その手のマニアによって再発見されていくことだろう。街道見学愛好者にとっては将来有望な地域だ。
・戸栗川の渡し(南部町南部字町裏・南田)Y -34
 かつては渡船したが、その名残はない。左丘上に神社がある。
・内船八幡神社(南部町内船字船戸)Y -35
 *街道から離れているので未調査。
 地域を代表する古くからの神社。
・内船寺(南部町内船字寺廻り)Y -36
 *街道から離れているので未調査。
 13世紀建立の古寺で名刹。
・南部宿(南部町南部字西町)Y -37
 橋を渡ると、南部宿である。武田信玄在世中にすでにあったことが分かっていて、中世には存在したと見られる。近世の宿場を残す物は表通りには見当たらない。ちょいと古めかしい昭和の田舎町商店街という雰囲気である。宿場の県道メインストリートは近世末にはこの道だったのだろうが、中世には1本西の狭い道が街道と推定され、古い遺物もそこに多い。
・諏訪神社(南部町南部字追平)Y -38
 甲斐源氏の祖新羅三郎義光が1095年に創建した。
・浄光寺(南部町南部字上の山)Y -39
 臨済宗。中腹から境内に移転した南部氏一族の五輪塔、宝篋印塔の墓石がある。
・南部宿文書(南部町南部字外田、朝夷一郎氏蔵)Y -40
 朝夷氏蔵、中世末の南部宿に関する文書。武田信玄や穴山氏等の文書である。
・南部横宿の道祖神(南部町南部字西町)Y -41
 妙浄寺と宿場町をつなぐ道と中世の道の交差点付近にある。隣にあったはずの力石はなかった。今でもドンド焼きの時お祀りするそうだ。
・妙浄寺(南部町南部字北沢)Y -42
 今は日蓮宗でかつては真言宗、新羅三郎義光の創立。境内には「花釣瓶井」という伝説の井戸があり、日蓮がこの井戸水で村人の病を直したといわれる。他にも題目塔等がある。
参道を降りて「南部横宿の道祖神Y -41」に至る直前の中世の道沿いに3基の大きな供養塔(四百五十回遠忌碑、五百五十回遠忌碑、題目塔)がある。
・南部城山(南部町南部字北沢)Y -43
 山頂近辺に続く尾根沿いには人為的に削られた段がいくつか見られるので郭跡と見られる。上り始める所だけは道があるが、標識やルート表示はないし、山頂付近で道もなく、踏み跡をたどることになる。初心者ではさっぱり分からないだろう。
・城山烽火台跡(南部町南部字北沢)Y -44
城山頂上の窪地で付近には土堤や川原石があり、南に倉跡の窪地もあるといわれるが、分からなかった。頂上近辺は道も分からず完全な植林地になっている。保存活用するなら標識やルート表示が必要である。といって自治体に予算があるとも思えないので、南部町の郷土史愛好家が町内の歴史遺産に標識や案内表示を設置したらいかがだろうか。
頂上付近に馬頭観音「安政五年」があった。
・新羅神社(南部町南部字北沢)Y -45
 12世紀末南部三郎光行の創立、新羅三郎源義光を祀る。
・南部氏館趾(南部町南部字老瀬)Y-46
 法務局の裏で市川氏宅に「空井戸跡」と南部氏の説明看板がある。ここを中心に館があったようだ。北は富士川がぶつかる崖で東も川となり、南は一段低く南部宿が広がり、西は身延道が通り、その向こうに南部城山がそびえる。館跡は北の崖上の一段高い微高地にあり水害、防備にとって有利と思われる。南部氏といえば後岩手県に南部藩を築いたように大部分は東北に移住したが、一族の一部は残していったようだ。しかしこの館がいつまで使われたか不明らしい。付近北崖沿いに、石祠道祖神、題目塔、道祖神があり、東の堤防に「富士川舟運」説明版がある。法務局前・南部バス停のある宿場メインストリートに戻り、180m北上すると、中世の道とも合流する。ここが南部宿北端である。100m北上すると南部町医療センターがあり、付近は河川敷になり、こんな所を古道は通らないだろうと思える。テキスト付属マップでは今の河川敷自動車道よりもっと右の川に近い河川敷コースと左の山際コースの2本の道があったことを示唆している。しかしこんな河川敷をよく通れたものだと思っていると証拠のように安倍紙業入口に船寄せの松説明版がある。
・円蔵院の船寄せの松(南部町南部字御崎原)Y-47
 写真付説明版によると推定年齢500年の黒松の巨木で県指定天然記念物だったが、マツクイムシ被害により85年伐採された。謂れは2説あり、富士川舟運の舟が松を見ようと寄ったためとも、大水のときこの松に舟を寄せつないだためともいう。写真で見ると見事にしだれた松で周囲の木の2倍はあることが分かる。すぐ隣に2代目らしい小さな松が植えられている。どうもこの松周辺を通れたようだ。50m北上すると稲荷神社に上る石段が見え、左に自然石を祀りいかにも参道入口という趣の道がある。この道を上ると、円蔵院がある。
・円蔵院(南部町南部字御崎原)Y -48
 臨済宗で16世紀中ごろ穴山信友草創による。穴山信友の墓、仏涅槃図や信友画像の県指定文化財がある。境内前の石造物:石祠道祖神、石幢、供養塔、石灯籠、石仏等あり。
・円蔵院から中野の身延道(南部町南部字御崎原、中野)
 付属地図ではこの辺りで河川敷を北上し中野の「峡南養護老人ホーム慈生園」の東に出るように記入されている。河川敷を歩いたのだろうか。(中野の屋号「六本松」の若尾正氏の話)「慈生園の南東に下る古い道があり、渡船場につながっていた。母か祖母は渡船してその道を上がって嫁に来たと言っていた。また今はないが山道もあったようだ。」そこでこれは渡船によるルートと考えられる。ではどの辺で乗船したのだろうか。船寄せの松より北で船山川橋までの間だろうか。そして中野側の乗船場は慈生園南東下の砂利採取場付近であろう。
 では山道はどこを通ったのだろうか。もう私の勝手な憶測だが、円蔵院の西に下り今の御崎橋付近またはもっと上流の向田橋までに川を渡り、本郷か若宮を北上し清水原か慈眼寺辺りを上って中野に出たのだろうか。
・穴山信懸の墓(南部町南部字御崎原)Y-49
 *街道から離れているので未調査。
 信懸は梅雪の曽祖父で、墓は廃寺建忠寺北裏手山腹となっている。地図からすると若宮の若宮八幡宮参道付近のようだ。山道ルートならこの辺りを通ったかもしれない。
・六本松の一里塚(南部町中野字六本松)Y -50
 渡船で中野に着き幅1間の身延道を岡に上ると今の慈生園の駐車場に出る。そこから北上する道は慈生園横を舗装された自動車道となる。この道の慈生園反対側に畑と慈生園で建立した目新しい供養塔さらに古めかしい墓石が見える。(中野の屋号「六本松」の若尾正氏の話)「昭和17年、船の材料にするとのことで畑と慈生園供養塔の中間にあった松を伐採した。」とのことで、この慈生園供養塔付近を六本松の一里塚としていいようだ。そしてこの裏に墓石が多数あり、その向こうにも2箇所、計3箇所に墓石がまとまっている。テキストでは馬頭観音等石造物11基とされているが、馬頭らしきは判断つかず、どれも墓石に見える。新しい物で江戸後期か中期で、中には宝篋印塔や五輪塔といった中世末頃の壊れかかった物もある。松は1株で6幹に分かれていて六本松と称された。ここから甲駿の両府へ各14里、鰍沢・岩淵へ各9里で中央なので中野という村名になったのだろうといわれている。
 この場所は付属地図では若干ずれている。付属地図はずれや誤りがそれなりにあり参考にはなるが、ある程度のずれを修正しつつ判断する必要がある。この地図編集は誤りを覚悟の上で79年時点で分かる範囲内で推定した、その時点での最新推定研究の所産といえる。そしてこの地図があることでかなり具体的に現地を探ることを容易にした功績は大きい。ただし今となっては作り直したほうがいいとも言える。
中野で数人に聞き若尾氏にたどり着けたことがよかった。
 さてここから北上し150mで若尾氏宅前で中野のメインストリートに出る。100m進むと橋を渡り、右に地区集会所があり、石祠道祖神がある。さらにその先に水準点題目塔群が安置されている。(中野の屋号「六本松」の若尾正氏の話)では「あの題目塔は六本松から運んだものだと父か祖父にいわれた。」そうである。中野宿の家並みを過ぎ国52号に合流する手前左に馬頭観音「文化十四年」がある。
・中野の道祖神(南部町中野字根岸入)Y -51
 かつては中野宿中央の街道沿いにあったそうだが、今は中野神社の参道階段入口左にある。丸石(径15cm)と石棒(高70cm、幅25cm)がある。
・松岳院(南部町中野字宮内)Y -52
 臨済宗。穴山氏の乙若丸の開基で、夭折したので冥福の為創立したという。五輪塔がある。
 中野を出た身延道は、峰の窪付近を通り、国52号と付かず離れずにやや山上を通って横根中に至ったと思われる。
・桜清水(身延町横根中)Y -53
 横根中には、今は国52号から上る自動車道で行くことになる。峰の窪方向から自動車で上っていく道沿いで国52号の真上に神社(石灯籠2基、石祠道祖神、堂)がある。その神社付近に自動車道の切通しで寸断される、かつて歩いて上った切通し道が集落に向かって上っていく。自動車道を1本またいだ上に馬頭観音がある。ちょうど村の入口だからだろう。
・横根中の石塔
 南無馬頭観世音菩薩、12基(「文政十幸」、昭和期の物が多い)、「畜産 昭和十二年」1基、計13基が合祀されている。
 もう少し上に50m上ると石祠道祖神「大正八年」があり、ここから自動車道に向かって合流し、舗装路を100m歩けば、桜清水に着く。
 桜清水は、日蓮宗実教寺門前にある。日蓮伝説:日蓮が身延へ入山する際ここで休憩し泉の水を飲んだ後、桜の杖を立てたら桜の木になったという。何代目かの桜の木はすでに枯れたようで幹だけが残っている。泉は井戸になっていて、後はお堂がある。横は実教寺参道で題目塔が幾つか立ち見事な景観を作っている。実教寺にも題目塔がある。
 桜清水の標識は文字が消えていて、ここが桜清水か地元の人に確認するしかなかった。説明版がほしい。道の反対側には清水家屋敷跡という石碑がある。ここが身延道であろう。すぐ見える所に次の物Y -54がある。
・横根の道祖神(身延町横根中)Y -54
 桜清水の近くにある。この辺りが村中心部のようである。石祠で眺めの良い所に祀られている。後に江戸中期から後期の墓石2基も祀られている。
 この桜清水付近から榧の木峠を目指す、かつての身延道があったと推定されるが、現状は不明。
・榧の木kayanokiトンネル付近の馬頭観音
 国52号榧の木トンネル手前左に旧道トンネル入口及び谷津・清子方面に行く道がある。馬頭観音がある。この馬頭観音は一時ピンクの塗料を全身に塗られ完全にピンクの塊と化していたが、やっと馬頭観音の姿を見せるようになった。この道は近代以後の道なので、山腹にあった近世身延道から馬頭は下ろされたのだろう。ここから山の斜面を眺めると、切り立った沢が見えるなど、昔この山腹を通っていたと思われる身延道は崩壊しているかもとは思われる。舗装路を500m進むと道より一段高い所に馬頭観音2基が祀られている。ここからも相又坂本に行く榧の木峠を通れる道があったはずで、竹藪をかいくぐれば榧の木峠の身延道に合流する。竹藪の道は近代の道かと思われる。合流地点では横根中方面に向かう古い近世身延道と相又坂本へ行く近世身延道に分かれている。相又坂本を目指すと鞍部に題目塔がある。
・榧の木峠から横根中(桜清水)へ行く近世身延道
 順序は逆になるが、ここから横根中(桜清水)方向へ山道(おそらく近世身延道の成れの果て)を通った説明をする。先ほど説明したように、題目塔のある榧の木峠から東に進むと、亀久保方向へ下山する竹藪だらけの電線巡視路と、山の標高に合わせ水平に横根中(桜清水)方向へ進む道に分岐する。その横根中への山道を通る。最初道幅は1m近くあり、上り下りはなく、およそ水平移動していく。1箇所、木橋が通されていて林業用作業道として使われているようだ。長さ5mほど道が崩壊している箇所があったが、すぐ下を通って向こうに渡れる。分岐点から500m進むと,真下30~50mに亀久保・清子に行く舗装道路が見える。もう少しでトンネル入口付近だろう。この辺りで斜面はきつくなり、杉檜の植林地はガレてきて、道もおぼつかなくなる。ところどころ道幅はあるが、崩れがひどくなってくる。歩きづらく立ち行かなくなるので、致し方ないので、来た道を引き返さざるをえない。
 榧の木トンネル付近に近付くと、地形図を見ると分かるが、等高線間隔がつまり、きつい斜面であることが分かるし、トンネル付近の舗装路から、上の斜面を見上げると、切り立った沢も見えて、この辺りで古い身延道は崩壊しきっているものと推測される。
・榧の木峠(身延町横根中となっているが、相又坂本だろう)Y -55
 ここから榧の木峠を説明する。テキストでは横根中とされているが、相又坂本から300mの距離で、相又坂本とすべきだろう。峠には題目塔がある。さらに北の尾根に向かう山道もついているが、どこまであるかは知らない。峠近辺は平坦な段々が多く、かつて畑地だったのかと思われるが、今は荒れて淋しい杉檜植林地だ。近くには高圧鉄塔もある。
 題目塔「南無妙法蓮華経 道長山唯勝寺 元禄十一年戌寅六月十三日 谷口□□□□ 當寺三代正学律師日性」。
 峠を北西に300m下ると、相又坂本集落に出る。10年前の方がまだ道はきれいだったが、今はさらに荒れている。
・カヤノキ(身延町横根中)Y-56
 幅1.2mの峠道を下ると坂本入口前で動物除けネットと入口があるので自分で開け閉めして入る。題目塔のある下りだす所から300mで坂本の集落に出る。集落1軒目の家の手前の石塔類がある所に二代目の榧の木とやらがある。日蓮伝説で日蓮が杖を刺したら木になったということらしい。榧の木の付近に石祠道祖神、石塔類もある。  
・相又坂本の道祖神(身延町相又)Y-57
 集落1軒目の家の前の道が身延道で集落内を通り過ぎ、集落はずれで下の自動車道に出る所にY-57がある。石祠と石灯籠「天保十二年」がある。坂本北端の守り神のようだ。自動車道を少し進むと左に下って行く道があり、横に石塔が祀られている。しかしこの石塔は、形からして江戸後期の墓石である。何かの供養塔なのか、墓なのか刻字が読めない。そしてこの道は相又川に到達すると、そこで不自然に断ち切られている。つまりかつて橋があったが、今はないということで、明らかに古い身延道のルートを示している。この辺りで渡河し対岸の上村に出て相又上に進み、そこからまた相又川を渡り相又下の正慶寺前に進む。
・正慶寺(身延町相又)Y-58
 1290年創立で、日蓮入部の際、ここで粟飯を供したという伝説があり、粟飯寺ともいう。石造物豊富で門前の題目塔、宗祖腰掛石、石祠、寺横の石塔類群多数がある。伝説があるのなら周知を図り寺の宣伝も兼ね、伝説内容や寺の縁起を記した説明版を立てたらどうでしょうか。寺の前に橋があり渡る。昔もこの辺りで身延道は渡河したようだ。国52号を500m北上すると身延南小学校前に至り、そこを左折(西)し自動車道で次のY-59に至る。ただ昔の道は小学校裏山際を回り山際集落を通り川際のY-59に出たようだ。
・相又針山の道祖神(身延町相又)Y-59
 石祠「天明五癸巳」で、これから渡河することと村西端の守り神だったようだ。今は大城川を橋を渡って対岸へ出る。右折(東)し100mで左田畑に数段の石垣が見られ、ちょうど道の高さに水平に山際を進む石垣段も見られる。これが古い身延道である。
・小田の道祖神(身延町小田船原)Y-60
 石垣段を見つつ自動車道を進むと一段高い石垣上に石祠が祀られている。橋を渡り対岸の小田村の入口を示す守り神だろう。石祠前の身延道は石垣で囲まれ幅90cm程である。もとはもっと広かったのだろうが、隣に自動車道になる広い道が作られ、身延道の方は田畑の畦道として幅を縮小されたのだろう。それにしても破壊されずよく残存しているものだ。さらに自動車道に沿い古い身延道を見つつ東進する。自動車道は平地に沿って下っていくが、身延道は等高線に沿って水平移動していくのがよく分かる。身延道は数軒の集落内を通過し、その先の山林内に消えていくが、おそらく山林内に旧道は残存しているものと思われる。
・馬頭観音(身延町小田船原)Y-61
 自動車道で国52号に交差する所(大城入口)の右に高山工業所があり、左向かいは崖となっている。崖の右に階段が付いているので5m上ると幅1mの古い身延道が見え、その一段上に自然石に馬頭観音の文字を彫った物が見える。古い身延道は多分先ほどの山林内に続くと思われる。ここから小田船原方向へは国52号のコンクリート側壁として削られてしまっていて消失している。だがこの馬頭観音前まではよく残存したものだ。
 ここから国52号に出て、古い道はないので小田洞門の左側壁の5m上にかつての道があったはずだと思いながら進む。
・小田の道祖神(身延町小田船原)Y-62
 先ほどの交差点から500m北上すると小田船原の善行寺参道入口が左(西)にある。善行寺は700m参道を上った所にある。国52号より5m高い所に集落の道があり、おそらく先ほどの馬頭観音前の身延道からつながってきていた道の名残だろう。国52号に面した参道入口に石塔類7基が立つ。無論移転合祀されてきたのだろう。
国52号より上に旧道がかつてはあったはずだと思いながら、国52号を400m進むと船原の妙正寺参道前に到達する。
・船原の道祖神(身延町小田船原)Y-63
 参道を100mも上ると妙正寺に出る。この寺前の道が身延道で、善行寺参道の途中からここへ山林内を通ってつながってきたはずである。石塔類が並ぶ。石祠「道祖神」、石灯籠、題目塔「天保、天明、寛政、慶応、元禄」等、多数が並ぶ。左隣(南)の家の前か後の道が身延道として善行寺参道の途中につながっていただろう。この地を一里塚とも呼ぶそうだ。
 北へは国52号へ降りていく道以外に、国52号より一段高い家や畑に進む道があり、身延道であろう。その先は山林となるが、残存部はあるだろう。国52号から身延山への県道?へ進む。この辺りで一段高い家と畑がなくなり左側壁が絶壁となってくるので、その手前で昔の道は今の道の辺りに合流してきたのだろう。この辺りから自動車道はそのまま身延道である。身延山入口交差点で左に身延山惣門が見える。

・鏡円坊(身延町梅平) I-64
*(身延山久遠寺関係の僧坊については、街道研究との関係が薄いと判断し未調査にした。)
・身延山惣門(身延町小田船原)Y-65
 1665年建立で、国52号の左(西)にそびえ、身延に着いたことをじっかんさせる。この内に門前町が形成され、山間部を通って来た者にはまるで別天地の繁華街である。
・Y -66、Y-67、僧坊関係
*(身延山久遠寺関係の僧坊については、街道研究との関係が薄いと判断し未調査にした。)
・南谷の道標(身延町身延)Y-68
道路右手上に祀られる。二つに分割されている。割れたのか。「左かふ福道當国鰍沢□之吉」、他に石塔「地神」もある。かふ福は甲府の意である。
ここは南谷と称されるようで、西谷に至る前に東谷への分岐がある。東谷への分岐道を通るのが、近世身延道の延長で、韮崎や甲府に行く西河内路とも駿洲街道とも甲駿街道ともいわれるものである。先ほどの石道標は東谷分岐に元はあったのだろうか。
・Y-69~Y-92、僧坊関係
*(身延山久遠寺関係の僧坊については、街道研究との関係が薄いと判断し未調査にした。)
・日蓮上人草庵跡(身延町身延) Y-93
 西谷に草庵跡が残っている。1274年から1282年まで草庵で生活した。ここより上には高座石といって日蓮が説法をした岩が残っている。
・身延山久遠寺(身延町身延) Y-94
 日蓮宗総本山、1274年、日蓮が西谷に草庵を造ったのが始まりという。1475年に現在地に寺院が完成したという。江戸時代に参詣で賑わった。幾度も火災に遭っているが、再建され、文化財も多い。

 いったん身延山に着いたがその先を補足したい。しかし2000年か01年に甲府市の山梨県教委を訪ね、テキストの全面コピーを許可してもらい、山梨県立図書館でコピーしたものを自宅内で再発見できずにいるので、今のところどうしようもない。いったんしまいこむともう二度と出せないのはよくある話だが、今回のように困ってしまう。こういう文章打ち込むだけでも一苦労で保管資料の整理をまったくする余裕がない。そこで思い出せる範囲でチョコチョコと…。内容は確証もてません。今後再調査できたら書き直しますが、ちょっと再調査する余裕があるやらないやらで…。
・東谷から一里松、杉山を経て下山手前で国52号に合流する身延道
 東谷へ分岐しても商店街は続き、その次に僧坊が列を成す。本堂近道や身延山大学への道をやり過ごしさらに僧坊を過ぎていくと、田舎道となるというか、ここまでもかなり急勾配七曲の坂道である。今の自動車道は七曲に作るが、徒歩や馬を前提にして作られた古い道はこの付近のどこかに残存しているのだろう。おそらく僧坊の境界線や僧坊同士の連絡道になっているだろう。
 僧坊が切れてきた頃、また僧坊があるのだが、身延道の目印になるものなので紹介する。「清正公堂」、町指定文化財。文化年間に作られた物を、文政年間に再建した物である。
 一里松には、かつて数本の大松がそびえていたという。
 杉山には、「姥子の石造物群」があり、五百五十遠忌碑「天保二年」等の石造物多数がある。近くに日蓮が湧き出させたという伝説の泉が大杉の根元にあり、休憩場所だったようである。
 「産児神さんごじ」といって、安産を祈願して柄杓の底をぬいて奉納する風習があり、付近の祠に祀られている。
 他にも古道、遺物、いくつも見られたと思う。そして国52号に合流するのだが、近世や中世の道もここにいたっていたかは分からない。ただ近代初期の甲駿街道はここだったろう。また合流地点のすぐ東の川側に境宮住吉神社があるのでこの辺りは水難に遭いにくい地点だったのだろう。そして合流する所に駿洲街道の記念石碑が立つ。

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 14:41Comments(0)古道

2010年01月17日

御穂神社参道(静岡市清水区三保半島)

・御穂神社参道(静岡市清水区三保半島)
 塚間の渡し(塚間郵便局西北西500m)に建て直された石鳥居と常夜灯がある。史蹟紹介看板もあり分かりやすい。ここから東へ旧道を通って御穂神社に至るのが参詣道である。東方面から来る人は興津辺りで船で渡ったのだ。
 西から来る人はというと、駒越の久能道を「二十三夜観音」の所で曲がり、駒越小、キリスト教会を通り京宝院前で今の国道150号線を渡り、今の県道三保街道ではなく、狭い旧道で「瀬織戸神社」前に出る。
その直前に「折戸の渡し跡」の看板が出ている。昔船で渡る三保への西の入り口だったのだ。ここから道なりに2.5kmで御穂神社である。「瀬織戸神社」はやや小高い所にあり、どの程度の津波を防げたのだろうか。古い石造物「供養等」がある。年号は摩滅して判読不能。全体の様子から江戸末期の物ではなかろうか。この近辺で見られる石造物の中では古いものだろう。
というか三保半島には古い石造物、木造物がさして見当たらない。御穂神社の東方面、宮方の微高地に縄文遺跡があり、古くから微高地に人が住んでいたことは証明されるが、付近の神社仏閣で江戸期の物すらあまりない。
 「瀬織戸神社」をあとにして旧道を御穂神社へ、周辺は少しレトロな昭和の風景だ。旧道から話がそれるが、清水南高周辺に神社の祠跡や松並木沿いに目印になるいくつかの「○本松の跡」がある。御穂神社500m 手前で旧道が二手に分かれる。そこに「里程標」があり、御穂神社を指し示している。
 御穂神社にもさして古い物が見当たらない。「御穂神社」で見つけた古い物としては、門前の常夜燈で「天保七年」1836と「弘化三年」1846の2種であった。常夜燈近くの庭の境には古い常夜燈の笠の部分がいくつもおかれていて、もっと古そうだが、笠だけでは年代が分からない。あとは日華事変等戦時中の板碑があった。
 ここから真崎方面を目指す。スーパーの前に表面が摩滅しきった石道標らしきがある。妙福寺は近在では大きい寺で、古めかしい物がある。
 今後神社仏閣墓地でどのくらい古い物があるか年代を調べたらおもしろそうだ。
・神社(伯良、佐久、藤五郎、御穂、瀬織戸、)
・寺(妙福寺、)
・墓地(塚間、折戸、妙福寺の北)
・その他(自治会館、公園、史跡)

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 14:34Comments(0)古道

2010年01月04日

身延街道、岩淵筋

 序文
テキストは、『静岡県歴史の道 身延街道』(静岡県教育委員会)98年を用いた。これを基準として説明していく。テキストによる調査は79年に実施され、再調査を97年頃行ったようだ。これらの本が往時の身延街道と現状を周知させたことは意義深い。そのため基準としてのテキストとして用いる。しかしその後の現状改変や調査研究の進展により、書き換えられるべきことが出てきていることも、後に具体的に述べるつもりである。テキストに記載されていることはなるべく述べないようにしたので、本文を読む際、テキストも傍らにあった方が理解できる。
 また実際に当地に出掛け街道歩きを楽しむのならば、上記のテキストと付属地図の他、ゼンリンの住宅地図で街道筋周辺の掲載部分をコピーして持って行くと便利である。テキスト自体はそれぞれの県立や地域の公立図書館にある。「I-1」等の番号はテキストに即し参照のためそのまま用いた。番号の無いものは私が改めて掲載したものである。私の調査は90年代末と09年12月である。
 古街道の一部が残存している所が随所にあるが、保存活用が図られているのは、木島から風の宮までの部分が東海自然歩道になっているだけである。あとはほったらかしで貴重な価値に気付かれもせず、消失していくばかりになりそうである。将来必ず古街道は城跡や遺跡のように、価値あるものと受け止められる時代がくるはずなので、今のうちに保存策をとるべきである。一旦消失したらおしまいである。また常夜燈や馬頭観音等も将来必ず文化財として脚光を浴びるはずであるので、今のうちできる限り保存を図るべきである。これまた消失すればそこでおしまいである。

・岩淵起点、常夜燈(静岡県富士市富士川地区岩淵舟山町)I-1
旧東海道から岩淵の身延街道への分岐点は、旧東海道を岩淵一里塚方向から北上してきて光栄寺手前で急な下り坂となって富士川に向かい降りていく途中、左(北)に狭いが平坦な道が見える。ここからが身延山道の分岐である。光栄寺門前手前に常夜燈がある。刻銘はない。 
・題目道標(岩淵舟山町)I-2、3
 光栄寺門前に2つの題目道標が並置されていて、刻字に対して向きが変になっている。I-3はもとは北の小山吉津にあったのだが移転してきた。
・妙見宮常夜燈(岩淵舟山町)I-4
 「身支度場I-7」で西へ行く道が妙見宮への参道で、身支度場から50m ほど西に移転し、道標と共に祀られる。
・秋葉山常夜燈(岩淵舟山町)I-5
 身延道より一段下の中道沿いに立つ。周辺は昔ながらの路地裏を残す。
・秋葉山常夜燈(岩淵舟山町)I-6
 新妙寺ごと移転されたようだ。未発見。身支度場の北西の裏山(現:サービスエリア)にあったようだ。
・身支度場(岩淵舟山町)I-7
旧東海道から身延街道へ分岐し、光栄寺門前の題目道標を横目に進むと、ここで一旦行き止まる。もう数軒先まで進めるが、富士川サービスエリアSA(富士川楽座)前で道は消失し行き止まりである。植松氏宅の前に石段があり、これが「身支度場」といわれるもので、旅人が身支度するのに利用したようである。
現状、ここから下の県道に降りて富士川楽座方面に北上する。県道の斜面上で富士川SAの端あたりをかつて身延道は通っていたようだ。
・水神宮跡(岩淵舟山町)
 多分かつての身延道沿いにあったのだろうが、富士川SAにより消失したのだろう。県道沿いに跡としての石碑が建立されているのがよい。
・題目供養塔(岩淵天ヶ淵)I-8
 現在富士川楽座の県道東側富士川崖淵駐車場に祀られている。かつてはこの下の斜面中腹で富士川から眺められる所にあった。船頭たちが川舟から直接見られる所に祀ったのだ。しかし崖の中の藪に埋没してきたので上に引き上げ、駐車場前で川が見られる位置になりよかった。隣には身延道とは関係ないが、富士川の水流を弱めるための「聖牛」という仕掛けの模型が展示され、県道の向う楽座入口には「富士川水運の舟」も展示されている。説明看板もあり、地域の文化遺産を紹介している。またどうも東京駅の模型らしきも県道沿いに置かれていて、各種資料収集や、地域経済の発展と文化の発信地になっていくのはよいことだろう。また楽座を起点として身延道の馬坂峠・風の宮を経由し野田山健康緑地公園までを東海自然歩道として認定しているのもよいことでおもしろい。
・馬頭観音碑(小山)I-9
 楽座を過ぎるとすぐ信号のある交差点になる。ここで川沿いの新県道ではなく、1本左の旧:県道の住宅街の中を行く。ここが身延道であるが、あるいは左の住宅街の裏の1段高い所の道かもしれない。すぐ左手の植松家の前庭にしっかり馬頭が祀られている。10年程前向かいの家で保管されていて、わざわざ見せてもらったが、今は通りからすぐ見えしかも手入れもされていてよい。近所に聞いて回りわざわざ見せてもらうと、あとでしっかり手入れされるようだ。こういう野仏も将来文化財になる価値あるものと認識してほしい。
・秋葉山常夜燈(小山)I-10 
 先ほどの植松家の先で旧:県道から山合いの1本上の道に曲がる。すぐに常夜燈が見える。
・馬頭観音碑(小山)I-11
 先の常夜燈の隣にあるとなっているが、10年程前にもなかったように思うので、消失したのだろう。
 古い身延道は旧:県道の1本上の道を進み松雲寺の先で農道となり木島の前で消失していく。
・馬頭観音碑(小山)I-12 
 旧:県道の植松家数軒先の前庭というか畑に安置される。すでに刻名が見えない。
・馬頭観音碑(小山)I-13
松雲寺前駐車場の旧:県道沿い草むらにある。
その手前、旧:県道から寺に曲がる所に石の道標がある。
・石塔類(西国巡礼塔、「南無阿弥陀佛」、地蔵:宝暦年間)
木島手前で今の県道と旧:県道が再び分岐し、その旧:県道側の脇に石塔がある。おそらく古い身延道も小山の畑のはずれからここを通ったのだろう。この先で木島集落の中に斜めに上っていく道が身延道だろう。一旦上りまた降りて左斜面上に上っていく。
・常夜燈(水神燈、庚申燈)(木島)I-14
 身延道沿い、左の木島公会堂裏の見えにくい所に安置される。
・馬頭観音像(木島)I-15
 道が合流する見えやすいところにある。この上に登る石段は円通寺への参道である。その横には題目塔類がある。
東海自然歩道バイパスコースの説明版がある。平成19年度にここから南に伸びる農道を通り富士川楽座までと、ここから身延道を通り馬坂峠・風の宮に達し、野田山健康緑地公園までの区間が東海自然歩道バイパスコースとなった。木島から風の宮までの身延道が環境省管理の歩道になったのだ。まことに喜ばしいことだ。
・道標(不動道)(木島)I-16
 「不動堂二丁」を示し、隣に常夜燈がある。一旦不動道の奥に祀られたが、身延道沿いに戻ったようだ。
・馬坂峠mazaka(木島~南松野)I-17
 木島集落を過ぎ上っていくとみかん畑の中を進んでいく。コンクリート舗装を過ぎると土道となる。以前は草ボウボウの廃道だったが、さすが東海自然歩道である。通りやすい。ただ周辺は以前同様ゴミ捨て場と化している。道が上りになり、細くなるあたり、以前はあまりの藪に本当に通行できず引き返さざるをえなかったことがうそのようだ。峠といっても山の鞍部(コル)ではなく、山の中腹を通りその一番高い辺りで木島と松野の境の所をさす。ちょうど第2東名の上、または旧県道が松野に入る所の「交通安全石碑」が立ち、急カーブになる所の真上の斜面といえばいいのか。 
・常夜燈(木島)I-18
 第2東名手前の崖が窪んでいる似つかわしい所に常夜燈と地蔵が安置される。本来は第2東名真上の馬坂峠のすさまじい藪の中にあったので、現在なら空中ということになる。つまり峠も本来の安置場所も第2東名上に消失した。しかし似つかわしい代替地があってよかった。しかも欠いていた火袋には新しいものをつけてもらっている。以前第2東名開発のため峠上の樹木を切り倒し下に落としたため、下の常夜燈に当たり藪の中で散乱した。その写真と身延道の現状をアピールし保存してほしい旨をしたためた手紙を、当時の富士川町教育委員会(現:富士市教委)に出した。このように似つかわしく保存され、身延道も東海自然歩道として再出発できるなどとは思わなかった。失礼ながらこの場を借りてお礼を申し上げたい。
・馬頭観音像(南松野)I-19
 馬坂峠が消失し、第2東名の下に回り込む階段道が新たにつけられ、東海自然歩道となっているので歩きやすい。第2東名下を迂回しまた上がると風の宮になる。ここに石塔類や宮がある。
・題目供養塔(南松野)I-20
 風の宮にある。
・風の宮(南松野)I-21
 上記馬頭や題目塔ともども安置される。第2東名開発によってどうなるものかと思っていたが、風の宮公園という名称で展望台が作られ周辺樹木を伐採したので、360度眺められる。以前は昼でも暗かった。ここから古い県道に出るまでの歩道も舗装され歩きやすい。これも身延道である。旧県道に出る所に駐車場と馬坂峠・身延道の説明版が立つ。周辺への周知に役立つだろう。この道は文化遺産、歴史遺産です。また野田山健康緑地公園への標識もある。
ここからしばらく古い身延道は不明となるが、おそらくこの旧県道を通り、南松野に達し、秋葉山常夜燈I-22のある志田運送松野倉庫裏の墓地に回り、望月家陣屋I-23裏の一段高い樹木の植えられている所を通り、血流川を渡ると、吉添・丸崎の題目道標I-24前の身延道に出るものと推定する。
・常夜燈(秋葉山)(南松野根方)I-22
 身延道から旧県道が作られた際移転され、旧県道沿いにある。
・陣屋(望月家)(南松野根方)I-23
 旧県道に向かっているが、おそらく昔は裏が表門だったろう。屋号は「陣屋」らしい。
・題目道標(南松野丸崎)I-24
 旧県道を通り血流川を渡り土手沿いに下ると、すぐ旧県道の1本東の狭い道に出る。これが身延道である。対岸は望月家陣屋I-23裏沿いの土手樹木がある。身延道を進むとすぐ左に題目と馬頭が見える。
・馬頭観音碑(南松野丸崎)I-25
 上記題目とともに安置される。道はまっすぐで舗装されるが、それでも昔の名残を残す。この道は原方の公会堂まで続く貴重な残存部分であり、説明版なり、標識なりを設置し周囲への周知並びに歴史遺産であることをアピールすべきだ。こういった細い道も破壊は1日ですむが、復元するとなれば莫大な予算と手間が必要になる。地元住民に不便を囲って保存しろとはいわないが、その貴重な価値に気付くことなく消失すればそれでおしまいである。少なくとも周知されるべきで、松野の遺産としてふるさと自慢のひとつになればよい。馬坂峠・風の宮同様、何らかの遊歩道として保存活用できないだろうか。
・題目道標(南松野市場)I-26
 身延道から外れ旧県道沿いに保存されている。かつては身延道にあった。
・題目供養塔(南松野市場)I-27
 上記と同場所に保存されている。かつては身延道にあった。
・身延道(南松野原方)I-28
 松野ふれあいセンターや他の道が開発され、区画が整理され部分的に身延道が改変されたが、何とか古い道並は維持している。そしてふれあいセンター北に古い石道標が出現した。
・石道標(南松野原方)
 「右イチバ道 左身延みち」と読みたいが、いかがだろうか。
・水汲み場(南松野原方)I-29
 遠藤家手前の側溝にある。身延道から外れるが次の双体道祖神前の遠藤家西側にもある。
・道祖神(南松野原方)I-30
 双体道祖神で身延道の静岡県側では興津筋の宍原平山に3つ集まってある以外には、当所だけであり、富士川以西では珍しい。旧県道沿いにある。水汲み場や石橋の裏になる。
・石橋(南松野原方)I-31
 石橋が1枚ある。双体道祖神前の道と身延道が交差する所にあるが、これがテキストに紹介されたものかは不明。
・秋葉山常夜燈(南松野原方)I-32
 原方公民館(かつては庚申堂)前にあり、名号碑等と祀られる。
身延道はここで一旦消える。昔は公民館横を通り富士川第二中に至っていたようだ。迂回して旧県道に出て第二中と第二小の間を通り、第二小を過ぎたらすぐ左折する。その向かいの家が望月家で題目塔がある。
・題目供養塔(北松野久保地)I-33
 かつては富士川第二小付近にあったようだが、今は隣の望月家に安置される。庭には別の石塔もある。また第二小入口には古い形式の郵便ポスト、富士溶岩の柱状列石、二宮尊徳像が安置されている。ここで道を西にとる。
・身延道(北松野久保地)I-34
 旧県道より1本奥の路地を西進する。身延道がよく保存されている。途中で二手に分かれ、一方はつくろい場(北松野ふれあい広場)に至る上道であり、もう一方は旧県道を越え有無瀬川橋付近でまた古い県道に合流したらしい本街道である。これも歴史遺産として保存活用されることが望ましい。せめて標識や説明版があるとよい。自治体だけに頼るわけにもいかなければ、松野の自治会内に郷土史好きな面々がいるなら、町おこしとして標識や案内板を立てるとよいだろう。
・常夜燈(北松野清水町)I-35
旧県道と身延道本街道の交差点に立つとされる。美容院の前である。
・馬頭観音碑(北松野清水町ごさわ)I-36
 新しい県道の新有無瀬川橋より上流側の河川敷畑内の道に3箇所石塔類がある。身延道以外の旧道があったものと推定される。もう少し上流側には水神も祀られる。また対岸の河口際の水田に馬頭観音が安置されている。この周辺の屋敷内にも石塔が散見される。有無瀬川河口付近は石塔の宝庫である。
・題目道標(北松野清水町つくろい場)I-37
 つくろい場とは馬の休憩場で馬をつくろったからである。現在北松野ふれあい広場となっている。周辺には馬頭観音、題目碑、道祖神、祠、遭難した高岡姉妹の像などがある。周辺を調べればなお出てくるだろう。
・道標(荒澤不動尊道) (北松野侭下町道下)I-38
 旧県道と有無瀬川沿いに由比に至る県道の交差点にある。由比方向に上っていくと荒澤不動尊に至る。その石道標である。
・甲子堂(北松野侭下町)I-39
 旧県道の秋山魚店裏にある。堂は立て替えられコンクリ製である。中に庚申塔、大黒天像がある。この辺り道は狭く古そうだが、つくろい場からや有無瀬川橋から甲子堂へ直接つながりそうなルートがないので、周辺は区画され直した住宅地と考えられる。
・萩氏居館(北松野侭下町かまえ)I-40
 甲子堂から旧県道を西に行き、1軒先の交差点が立場と考えられる。身延道は北上するが、萩氏居館へは南進する。2軒先の渡辺家が裏門という屋号である。さらに数軒南の家が表門だそうである。そして渡辺家の西に宇佐美家がある。そしてこの道を南進すると松野城山前の神明宮に至る。
・宇佐美氏屋敷(北松野侭下町かまえ)I-41
 萩氏居館の跡を引き継いだので同位置と考えられる。現時点でその系譜を継いでいるのは渡辺家西の宇佐美家のようだ。ただ古いものはほぼないようだ。
・立場(北松野侭下町道下)I-42
 先ほどの旧県道と松野城山前の神明宮から伸びる道の交差点であり、身延道は甲子堂前からこの交差点・立場に進み、北上する道に進む。
・常夜燈(秋葉山・山神社・七面社・不動尊) (北松野侭下町) I-43
萩氏居館(宇佐美氏屋敷)より1区画西で神明宮から岡成の題目道標I-45方向に行ける道筋にあり、身延道本筋からは離れている。またこの道筋に道祖神等もある。
・常夜燈(七面山・秋葉山)(北松野半在家)I-44
 かつては県道富士宮由比線と岡成へいく身延道に続く道の交差点にあったようだ。今は少し北にずれた所の家の前に安置される。
・題目道標(北松野岡成)I-45
 身延道は立場で北上した道筋(ガソリンスタンド横の道)を2軒先で西へ曲がる。この西進する道は半在家の常夜燈I-44が本来あった場所から延びる道である。そして岡成で橋を渡るとまた南進する。岡成の橋の袂に題目道標ある。「ひだり みのふ道」の表示がある。この近辺身延道の残存部である。標識や説明版により周知を図るべきである。南進した身延道は川に沿い旧県道で西に曲がり妙松寺前またはゴルフ場方向に向かう。
・常夜燈(北松野大北町) I-46
 身延道をはずれ、旧県道沿い大北公民館前の妙松寺前を越えた先に竿を半分土中に埋めた形で安置される。
・常夜燈(正八幡宮・秋葉山)(北松野大北町) I-47
 身延道をはずれ、旧県道沿いで新県道に出る前の大北八幡神社前に安置される。
・常夜燈(秋葉山・半僧坊)、道祖神の石祠
 岡成から旧県道を西進すると旧県道は大きく右カーブし北に方向を変える所で、左のゴルフ場に向かう直線路に入る。すぐにまた左斜めに細い道がある。これが身延道と考えられる。進むとすぐ左に常夜燈「秋葉山 半僧坊 明治二十三年 山田村中」がある。もう目の前には妙松寺墓地が見える。その手前に「道祖神の石祠」がある。道祖神前を右にカーブし妙松寺前に達するが、目の前をゴルフ場へ行く道に開削されたようだ。次の題目供養塔I-48のある門前の後背地丘上に、道祖神前から延びていく身延道が上って行ったようだ。門前の後背地丘上の斜面と道祖神前から上がる道の斜面が符合する。昔の門前はもっと上だったはずだ。今の門前より上に上った身延道は、上の門前辺りで左手の墓地に向かい抜けて、墓地左上隅の石塔「妙法□覚酔禅門」または手前の馬頭観音碑 I-50、51前を通って、墓地左上隅の身延道へと向かう。 
・題目供養塔(北松野山田) I-48
 毛通り出発点の妙松寺門前に常夜燈ともどもに立つ。この位置が門前になったのは近代以後と思われる。古くはもっと上のはずだ。
・妙松寺(北松野山田) I-49
 萩氏や宇佐美氏の後押しによって興隆した寺である。曼荼羅、萩殿古城跡之図、愛染明王像、山門といった文化財豊富な寺である。
・馬頭観音碑(北松野山田) I-50
妙松寺南の墓地横に安置される。
・馬頭観音碑(北松野山田) I-51
 妙松寺南の墓地横に安置される。
・石塔「妙法□覚酔禅門」
 妙松寺南の墓地横の道を上ってI-50、51の馬頭観音を過ぎ、墓地が終わって山林に入る所に土に埋まりかかった石塔がある。多分寺の裏門があり、身延道に出られたのだろう。身延道はここから山林内を進み、しばらくは畑の野良道となっているが、畑を過ぎると廃道と化していく。
・台山峠(北松野山田~台山) I-52
 妙松寺から廃道化した道を15分も上り、一旦平坦地に出て本線は左に進み、目の前の下り方向には工場に下っていく古い道跡も見える。右(北)の一段高い平坦地内を十万部と呼ぶようだ。鉄塔のある台山山頂を西に巻きながらゴルフ場のある平坦地に出る。ここから先はゴルフ場で進めない。後方向へ進むと山頂にすぐ出られるが、鉄塔以外ない。かつては山城の跡のようだ。
ちなみに身延道は台山峠から実験場、送り神、峠の一本松を経て、ゴルフ場北西端から下り、毛通りの富士川町(富士市合併)と芝川町(富士宮市合併)の境より100m 東の辺りで毛通りへ合流する。毛通りへ合流してから西に進み町境をちょうど越えた所で平坦地に出て、毛通り自体は南(左、廻り沢方向)にカーブしていく。そのすぐ手前で右(北東)のNHK鉄塔に向かう林道とすぐ向こうにも右(北西)に向かう林道が見える。手前右のNHK鉄塔方向への道(この道は「宮峠 I-70」にもつながるので後述する)をとる。進み出してすぐ道左の草むらの中に小川のような側溝のような切通しが見つかる。推定するに川ではなく、身延道のルートと思われる。ただ今ここは草ボーボーで通れないかと思う。この身延道はNHK鉄塔林道から次第に離れ、先ほどの右(北西)に向かう林道方向につながっていくので、右(北西)に向かう林道を通って行ってもよい。では右(北西)に向かう林道を通って行って500mで車では進入できない狭い歩道となる。歩道を100mも歩くと本来はここで先ほどの身延道の切通し側溝道と合流するのが分かったが、09年12月には草ボーボーでさっぱり分からない。合流は分からないが、歩道左手に高さ5mほどの丘を越える峠道が見える。これが「落合道I-71」である。
毛通りの富士川町と芝川町の境より100m 東の辺りで、毛通りへ合流する身延道」について説明する。毛通りの町(市)境はそれまで崖っぷちの自動車道だったのに、そこだけ平坦な分水嶺になり、来た道も含め全4本の道のH型の交差点になるので分かりやすい。ここから工場(北松野)方向へ100m 戻り、高さ3m程の崖を上る踏み跡を見つけられる。上って左(東)を見ると幅1mの土手が山奥につながっているのが見える。土手を20m進むと切通しの古道の廃道が見つかる。あとは切通しを目印に歩けるところを何とか歩けば、ゴルフ場北西端真下に出る。ゴルフ場境下には動物撃退用の電撃ショック電線らしきが張り巡らされているので、触れないほうがよい。多分触れても死なないしそれほどのやけどもしないのだろうが、痛いことだろう。あとは来た道を戻るだけである。これが近代以前の身延道本道で落合道につながる道である。よく残存していたものだ。標識や説明看板を立て保存を図るべきだ。あるいはゴルフ場手前でUターンする自然歩道としてもよかろう。できれば台山峠のゴルフ場手前で行き止まりになる身延道と、ゴルフ場北西端の身延道までを、ゴルフ場北側境下に距離1.6kmの迂回路としての自然歩道を整備すればつなげることも可能ではある。10年前より通行困難な廃道になっている。歩行距離片道350m。
毛通りを富士川町と芝川町の境より400m 南の巡り沢方向へ下り、毛通りの下の沢の対岸からゴルフ場西端へ通じる身延道
ではこれで古い身延道は終わりかというとまだある。北西端の身延道行き止まりからゴルフ場境を推定250m南に行った所で消失している古道もある。
取り付き口は、毛通りを富士川町と芝川町の境より400m 南の廻り沢方向へ下り、毛通りの下の沢の対岸から上っていく幅1.5mの踏み跡らしきを見つけることである。ヒントは沢が合流する中洲の少し上流で、中洲にはタイヤや赤いラジカセのごみがある所(09年12月)の対岸である。沢近くは踏み跡がぐしゃぐしゃだが、上に行くに従い、かつての道だったものが廃道になっていることが分かる。ゴルフ場北西端の身延道より平坦で幅広で大八車等でも通行可能に道普請(設計・施工)してある。ほぼ尾根伝いに道を平坦に進むよう巻いてある。ゴルフ場西端手前で行き止まりとなる。これまた電撃ショック電線らしきが張り巡らされているので、触れないほうがよい。来た道を戻るしかない。ここから推定250m北に行くとゴルフ場北西端の身延道に出るはずなので、ゴルフ場西側境下に迂回路としての自然歩道を整備すれば、周遊コースにできるのだがなと思う。09年12月歩行してみて10年前よりさらに通行困難な廃道になっている。歩行距離片道350m。距離は推定でゼンリン住宅地図4500分の1をもとに計測。毛通りまで戻ってきて、さてこの古道は沢へ出てからどこへ進んだかであるが、2通り考えられる。1つは毛通りに出て廻り沢に下っていく。2つ目はこの沢沿いに毛通りより下の谷を400m下って廻り沢の田畑に至るものである。2つ目の推定の方が合理的であろう。この身延道の取り付きとしては沢合流地点の尾根そのものにも巻きつつ上る登山道もついている。この登山道の方が急坂で狭く古いと思われ、のちに付近に平坦化した幅広の道を付け直したのだろう。登山道は上り100mの距離で平坦化した道に吸収される。この道も文化財候補として保存活用を図るべきだ。
・題目五輪塔(北松野十万部) I-53
 右(北)の一段高い平坦地内を十万部と呼び、大きな石塔が3基安置されている。
・題目供養塔(北松野台山) I-54
 ゴルフ場のはずれにあったようだが、この題目供養塔、文化14年の白芹句碑、昭和18年の供養塔ともに、次のI-55,56同様東海自然歩道はたご池畔の石塔場に移転している。

~あいせん道~
・題目道標(北松野石塔場) I-55

 東海自然歩道はたご池畔にある。「南無妙法蓮華経愛染明王、ひたりあいせん道」とあり、はたご池からの自然歩道があいせん道である。途中平坦地があるが、そこに愛染堂があり、明治初期に廃寺になったので、愛染明王像を妙松寺に移したという。

~芭蕉天神道~
・道標(北松野石塔場) I-56

 東海自然歩道はたご池畔にある。「右ばせう天神道」となっていて、今はゴルフ場になっている送り神という所から芝川町大晦日おおづもり芭蕉天神社に至る道標である。

~近代の身延道~
・毛通りkedoori(北松野山田~芝川町内房廻り沢) I-57

 明治期に石畳を敷くなど整備され身延道となっていった近代初期の街道。石畳上に舗装され、今でも付近住民の生活道路で自動車が通行する。「けどおり」といえば付近住民に通用する。松野の妙松寺門前から北側の工場まではよく整備され古色はまったくないが、そこから廻り沢までは、初めて利用するとまったく人気のない不気味な深山幽谷の山岳道路にすら感じる。そしてこの道路沿いから近代以前の身延道の残存部に4本(宮峠 I-70、落合道I-71、ゴルフ場北西端の身延道、ゴルフ場西端の身延道)行くことができる。

~芭蕉天神道~
・道標(芝川町内房廻り沢) I-58

 「右ハ芭蕉天神由井道 左ハ松野岩淵村 巡沢望月ふく建立」。毛通りが巡り沢の集落に達したあたりにある。道標から田んぼの中のあぜ道を進み巡り沢川を渡渉して大晦日への町道を越え山林内の廃道と化した古い芭蕉天神道に通じていく。毛通りと古い芭蕉天神道の分岐を示す。09年もう刻字が読めない。
・天神道(芝川町内房大晦日oodumori~廻り沢) I-59
芭蕉天神道は身延道の中でも興津筋や岩淵筋より古いといわれ、今川義元の妻が甲州から嫁ぐときにも使われたという。ルートは清水区由比町北田の旧町役場付近から芝川町大晦日おおづもりの芭蕉天神社を経て廻り沢に至るものである。詳細は『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)刊を参照されたい。今後このブログであらためて紹介したいと思っているが、仕事も忙しいのでいつになるか未定である。
廻り沢付近の山林内に古道が廃道として残存し、たどっていくと林道を一旦経由し再度山の中の廃道に入り、大晦日最高点のカヤノキのある所に達する。由緒ある芭蕉天神道は廃道になっていても残存し、町道周辺には石仏が散在している。是非説明看板なり標識を立て保存活用をはかってもらいたい。
・馬頭観音碑(芝川町内房大晦日) I-60
 大晦日の町道(自動車道)沿いにある。おそらくかつては古い芭蕉天神道沿いにあったのだろう。
・道標(芝川町内房大晦日) I-61
 「弘化三年 右 由井 左 天神」。ちょうど町道の芭蕉天神社参道の分岐点にある。これ以外にもかつて由比町北田の東海道からの始発点にあった道標も境内手前に安置されている。他にも猿田彦や庚申塔がある。
・芭蕉天神社
京からの奉幣使がこの地の大納言石で亡くなったので祀っているといわれる。馬上の天神という説もある。その大納言は公家の久我家の先祖ということになっていて、かつて寄付名簿に女優の久我美子の名も見えた。戦前お参りブームだったことがあり、由比へ特別列車が出たことがあるそうだ。なお身分の高い者が直接当地を通過することはありえなかったともいわれるので、その使者だったのかもしれない。
・大納言石
 天神社分岐より少し由比方面に町道を行った上に古い天神道と大納言石がある。

~再度、身延道岩淵筋~
・馬頭観音像(芝川町内房廻り沢) I-62

 祥禅寺手前に付近のもの18基を一括合祀している。
・祥禅寺(芝川町内房廻り沢) I-63
 穴山梅雪はじめ穴山家の菩提寺として栄えたが、今は本堂と庫裏だけが残っている。門前の庚申塔は見事である。

~本成寺から塩出の身延道~
・浅間神社(芝川町内房尾崎) I-64

 もとは宮峠に富士宮浅間神社の別宮として建てられた。門前に内房からの道と橋上や塩出へ行く道、付近に瀬戸島に行く道がある。庚申塔や石燈篭があり、町指定文化財である。
・本成寺(芝川町内房尾崎) I-65
 七堂伽藍を配している。浅間神社下にあった題目碑が山門右にある。日蓮や穴山梅雪等が宿泊している。富士宮釜淵(釜口峡)からの道、 内房からの道が来ていて、寺の南から峯・塩出につながる身延道兼七面山及び白鳥山登山道が峯の岡上に延びている。白鳥山登山看板標識があり分かりやすいが、由緒ある身延道であることも説明されるとよい。
・題目道標(芝川町内房峰) I-66
浅間神社、本成寺をめぐり峯への道を上り白鳥山登山道を行くと、山林に入った途端題目道標がある。峯から塩出に行く身延道と七面山道の分岐点に立ち、かつては草に埋もれていたようだが、登山道が整備されたためか、道はきれいではっきり分かる位置にある。「南無妙法蓮華経法界 七面宮 安永二癸巳二月 身延道 願主善入日理」。ここから山道を下って塩出方向の県道に向かい降りていく。道幅1.2m程はもとはあったと思われる。
・石造三面観音立像(芝川町内房峰)、町指定文化財
身延道沿いにあり、馬が転落等するので供養のため建立した。一段高い所の岩に三面観音が安置されている。常夜燈もある。身延道と三面観音についての説明看板がある。山の斜面沿いだが、ここだけ少し広くなっていて休憩場所だったようだが、すぐ横が崩れていて拡大すると常夜燈類も危険である。
・馬頭観音(芝川町内房峰)
 10年前にはなかったように思うので他所からの移転だろう。三面観音を少し下った岩上に安置されている。大分小振りな耳長な可愛い馬頭である。
・馬頭観音(芝川町内房峰)
 10年前にはなかったように思うので他所からの移転だろう。次の題目碑I-67の手前で山林出口の手前である。これも耳長な馬頭で、落合の境川沿い河原付近にかつてあったもののような気がする。「明治十五年一月十八日」
・題目碑(芝川町内房峰) I-67
 峯集落の山から下る身延道と塩出からの河原道が出会う所にある。周辺が刈り取られ背後の沢には砂防ダムが作られ、塩出の県道からも見えるが、車を運転しながらでは発見しにくい。芝川石材作業場の裏である。「南無妙法蓮華経 長遠山本成寺日容建立 維時文政四辛巳歳寄進人足楠金」。ここには説明標識がないがここにもあるべきだ。 
・供養塔(芝川町内房峰) I-68
塩出集落のはずれの県道の落石防止柵の中にあるので見つけにくい。塩出集落のはずれにある。もとは山中沢と境川の合流点にあった。宝永二(1705)年の洪水により境川右岸の塩出集落の35名の死者供養のため建立した。その後塩出集落は境川左岸に移転したといわれる。
もと塩出集落が境川右岸にあったのは日当たりは悪くとも、対岸の今は集落の所が日当たりがよく畑に適していたためである。
・山中沢と境川合流点
 かつては上記の供養塔I-68があったり、塩出右岸の道が通っていたりした他に、明治初期の9年に作られたはずの甲駿街道が山中沢沿いを進みこの地点で境川を渡っていた。証拠に橋脚の跡や道跡としての石垣跡の残骸が残っている。山中沢沿いの甲駿街道は国52号の野下・山口方面分岐点から山中沢に沿い境川まで続いていた。今、国52号が大きくカーブする茶畑と墓地、神社のある山中というかつての集落跡の墓地裏から山中沢に向かい道がついていたようだ。ちなみに国52号の野下・山口方面分岐点近くの山中沢に下りると不法ごみ捨て場と化し沢の横に多少平坦地があって、かつて道があったのかもしれないとは思うが、確たる証拠は発見できなかった。
・題目塔(山梨県南部町万沢境川) I-69
 国52号線から古住田へ分岐する県道沿いにある。4基が道沿い空き地にあり、もう1基は川の巨岩上にある。
興津筋O-61に同じ。かつて甲駿田舎の里山荘のあった所の真下が、境川と国52号、杉山や古住田に向かう県道の合流点である。ここの空き地に石塔4基が立つ。境川の大石上にも1基立つ。この空き地の30m奥には石階段があり上ると墓地である。かつてここに旅籠屋甲州屋、両国屋があったのでその関係者の墓だろう。石塔を立てたのも旅籠屋である。今は誰もいない所だがかつては集落だったのだろう。この付近には小葉山集落(今は廃屋のみ、金山神社がある)もある。かつては賑わったのだろう。

~身延道岩淵筋~
・宮峠(芝川町内房巡り沢~落合) I-70

 宮峠は松野からの身延道が内房に下るもっとも古い街道とされる。
行き方は「台山峠I-52」の記述を参照してほしい。その続きから記述する。町(市)境の毛通りH形交差点から右(北東)のNHK鉄塔に向かう林道を進む。鉄塔のある辺りで林道が終点となる。尾根が2本あるので鉄塔裏の東の尾根に取り付く。10年前途中まで歩くと山仕事をしている老夫婦に会い話をした。浅間神社や宮司の家があったことは知らないが、宮、宮峠、殿畑といった地名は残っているそうだ。残存部はまったく確認できなかった。
・落合道(芝川町内房巡り沢) I-71
 「台山峠I-52」の記述を参照してほしい。その続きから記述する。町(市)境の毛通りH
形交差点から右(北西)に向かう林道を通って行って、狭い歩道進み、左手に高さ5mほどの丘を越える峠道が見えるので越す。廃道とはいっても草木がなく杉檜の植林地の中を切通しがきちんと見渡せ、迷うことなく進行できる。歩きやすく以前より石ころが減ったようだ。どうも手入れをする人がいるようだ。下り坂が緩やかになった、ちょうど中間地点あたりで「馬頭観音」がある。「大正二年九月二十三日」。テキストでは林地の境界で柿の古木があるとの記述があるが、10年前にも杉檜植林地の薄暗がりの中で境界も柿もなかった。この辺りから平坦な段地があり、かつては畑や住宅の跡かと思われる。もう少し下ると10年前にはなかった、左手に明るく手入れされた空き地が見える。廻り沢祥禅寺方向へ向かう道の取り付き点であろう。左へ向かわずこのまま道を直進し降りていくと、道はかなり手入れされ歩きやすくなっている。普段使っている人がいるようだ。その人が先ほどの土地を手入れしているのだろう。沢の横を降り切ると目の前に水田とその先に内房保育園がある。せっかくの古道・身延道は文化遺産としての価値があるので説明看板や標識を立て周知を図り保存する必要があろう。自治体がすぐできる予算がなければ、地元自治会の郷土史好きな人たちがボランティアで動くといいのだろうが…。歩行距離片道1km。

~釜口峡の身延道~
・釜口峡(芝川町内房瀬戸島) I-72

 県道改修により付近の題目塔類も集められ一括合祀された。かつて吊り橋があった跡は残存していない。なお繰り返し県道や川岸が改修されているので、昔の様子は分からない。しかしこれだけの石塔類を保存してあることはすばらしい。
・道標題目碑(芝川町長貫釜口峡) I-73
 少し場所は動いたが上記の通り一括合祀された。
・題目碑(芝川町長貫) I-74
  上記通り移転一括合祀された。
・題目供養塔芝川町長貫釜口峡) I-75
 上記通り移転一括合祀された。

~橋上の身延道~
・板碑

 八幡神社上の現県道から参道に入る所にある。
・題目碑(芝川町内房橋上) I-76
 三十番神参道を少し上った所の右にある。「南無妙法蓮華経法界霊 橋上山寛妙寺□延四未歳五月吉日 十九世日□立主」。きれいになっていて法界の下に霊の字が見える。この辺り参道の道幅は1.5mある。
・道標(芝川町内房橋上) I-77
 三十番神参道をかなり上った標高250m付近の右にある。もう少しで三十番神の祠がある手前である。「妙法 右まんざわ 左やまみち 文化十三丙子六月日 橋上山日通立之」。ここから万沢方面に向かうと廃道であるがふみ跡らしきは途中までついている。標高250~300mを平行移動していき上り下りは少ない。500m進んであきらめて引き返す。ちなみに万沢の県道大沢橋付近にこの道が下りてくるはずなので、橋近くの「猟銃禁止区域 山梨県」という標識の辺りから山に取り付く。尾根付近に踏み跡があり、途中石垣もあり、かつて何かを祀っていたか畑か住宅があったと思われる所もあった。さらに上に踏み跡はついていて標高250mより上に行く道がかつてはあったと思われる。おそらくこれが万沢~橋上の身延道の成れの果てだろう。 
・富士川水運祈願石塔(芝川町内房橋上八幡神社境内) I-78
 八幡神社境内にあり、橋上村船頭衆が建立。「明和二乙酉歳 奉納 御寳前当村船頭中 十二月大吉」。他に朽ちた石塔がある。水準点が鳥居内の境内にあり、本殿目の前を主要道が通過していたものと思われる。本殿を過ぎるとすぐ道は直角にカーブしこの上の山の三十番神の万沢道につながっていたものと思われる。神社南の畑と今の県道の間に旧県道らしき平坦地があるようだ。そこから神社に道が延びていたのだろう。

~落合から塩出の身延道~
・旧塩出村道(芝川町内房) I-79

 どうも内房郵便局付近から山に上り今の本光寺の右手の茶畑内付近の旧本光寺を登り、河原の上の山沿いに移動し河原に近い落合の天神という所に出て、これまた低い位置の天王という宮まで進み、そこから山越えして塩出右岸の今の畑地に出ていたようだが、直接たどることはできない。ただ付近を探索したければ長田橋手前の落合のJAから境川土手を進み畑の向こうの林の中へ進む。川からは相沼の吊り橋があって河原に道がついている。この道を伝って山林内を上っていける。多分天王からの山越えと重複する道かと思われる。塩出方向に下りだした途中で踏み跡がなくなる。多分道がしっかりついていれば下れたのだろう。
 10年前JAからの土手沿いに明治期の馬頭観音があったが今回見つからない。しかし峯~塩出の身延道沿い「題目碑I-67」の付近にあったもののような気がする。なお吊り橋からの道が山林に入る前になお境川土手に進む道もあり、土手に達すると行き止まりになるが、その手前に「馬頭観音」の文字碑がある。
・内房の古地図(芝川町内房塩出) I-80
 遠藤家所蔵。「松野村境~字廻り沢出 七百四拾五間 字廻り沢出口~字境川橋(現長田橋)全長二百七拾三間」。ということは松野境から廻り沢まで1.3kmで、廻り沢から長田橋まで500mである。記録者は明治17年没である。松野村境はどこなのかであるが、今の芝川・富士川町境を適用して国土地理院25000分の1地形図で計測してみる。毛通りが廻り沢の水田に達するまで約1.5km、落合道で祥禅寺に達するまで約1.25kmで、どうも落合道を使っているようだ。この時期毛通りはなかったのか。ゼンリン住宅地図3000分の1で長田橋から内房小学校南の橋袂までを計測すると、約510mだった。

*テキストに関しての感想
テキストのI-55から80にかけては一見するとルートをはずれて説明されているかのように感じるが、途中で分岐する支線ルートやもっと古い道、あるいは近代初期の道をその都度説明しては、また本線に戻るという仕方をしているのでこのようになる。『古街道を行く』でも同様である。だが初めて説明される人にしてみれば、どこで支線に分岐し、いつ本線に戻ったのか、また時代区分によってどうルートが変更されていったか分かりづらいので、一旦本線をすべて説明してから、あとで項を起こしてどこからどこまでの支線であるかや、時代によるルートの違いを明確にして、支線ごと時代ごと区分して説明していく方が分かりやすかったろう。
  


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2009年04月01日

・東海道(静岡市清水区入江交差点~清水区草薙)

・東海道(静岡市清水区入江交差点{入江二丁目、入江南町}~清水区草薙)
 入江交差点は東海道と久能街道が分岐するところである。東北に進むとすぐ巴川に架かる稚児橋に出る。橋を渡ればすぐ江尻の宿である。
 交差点を南西に行くのが久能街道(別項参照)である。ここにかつてあった石道標の台石についての説明板が貼られている。交差点から数軒目にかつて八百屋(三浦青果店)があったはずだが今はない。これが漫画家さくらももこの実家だったはず。ということは漫画「ちびまるこ」の家である。
 交差点を起点に東海道を西進(下る)する。左5軒目に「法岸寺」入口となる。朝顔日記のモデル・深雪の墓がある。古い石塔類もある。「法岸寺」裏手に「栄町公園・入江八幡神社」がある。これがちびまるこの遊び場の神社のはず。
右12軒目に「東明院」入口。さらに右6軒で「慈雲寺」入口である。左三つ目の角にはかつて「みつや菓子店」があり、ちびまるこまんじゅうを売っていた。焼き饅頭でちびまるこの顔を焼印してあり、中身は黄身餡であった。テレビアニメ「ちびまるこ」’91~の第一期シリーズで、オープニングテーマ曲とともに映るみつやという店は、これがモデルである。もう十数軒進むと広い道(県道入江富士見線)に出る。すぐ左手に「さくら幼稚園」が見える。もうお気付きだろうが、さくらももこの名はここからとられている。
広い道を渡り進み左三つ目の道の先に入江小学校の北入口が見える。さくらももこやJリーグ・清水エスパルスの長谷川健太の出身校である。二人は同級生で漫画のキャラ・ケンタは無論彼だが、同じクラスになったことはなく、まったくかかわりはなかったようだ。
ちなみに私は漫画キャラ・まるこの親友たまちゃんのモデルと同じ職場に1年いたことがある。彼女の話では、彼女の丸めがねは高校からであり、花輪君は確かに金持ちだがあそこまでではない、はまじなどもあそこまでずっこけてないなどであった。そしてたいてい実在のモデルや体験があり、漫画ではかなりデフォルメしているという話だった。これは第一期シリーズでのことだ。その後は架空話になっていく。はまじは本を2冊出版していますね。1冊は読んだことあります。何やら庶民の哀歓が出ていました。近所の評判では、まるこの父・ヒロシは本物そっくりだとか。
入江小東入口には周辺観光マップが設置されている。入江小北入口から1ブロック進むと左に古式ゆかしい「追分羊かん本舗」が見える。ここの先代の経営者は郷土史家で有名な府川松太郎である。その店先に立派な石道標がある。ここから左に入る細い道が「しみず道」(別項参照)である。右の道は渋川道という。200m進むと右に「延寿院」があり、文化財である室町期の様式を残す本堂が古式ゆかしい。裏側に春日神社がある。本来はもっと南にあったのだが道路建設で移転した。
街道に戻り、付近左に「都田一家供養塔」がある。戦後昭和に府川松太郎が立てた。森の石松を切った都田一家(通称、都鳥)を、ここで清水次郎長一家が切り殺したといわれる。
全国的に見れば、「ちびまるこ」も「清水次郎長」も作り話だと思われるだろうが、初期の「ちびまるこ」はかなり作者・さくらももこの現実生活が反映され、侠客「清水次郎長」は実在し、郷土では英雄である。ただし「清水次郎長」は、道を通ると事前に知られただけで、付近の家々が雨戸まで閉めたといわれ、周辺住民は怖がったようだ。しかし筋をきちんと通している堅気の者に直接嫌がらせをすることはなかったようだが。
 供養塔からさらに進むと、大沢川に架かる「金谷橋」に出る。由来が書かれていて、東海道の道しるべもある。昔牛は橋を通らず横の土手を下りて川の中を渡ったので橋の横を「牛道」といった。安藤広重「東海道五十三次」の「江尻」の絵は、この辺りから描かれたものがあるようだ。
 橋を渡り進むとすぐ右に広い道がある。右折して50m、お堂と小さな池、厄除地蔵がある。「姥が池」である。乳母と赤ちゃんの悲話、災難から救われた男の話が伝わる。昔は松の大木があった。この広い道を150m進んで左に入ると、「達磨寺」がある。’70創建で修行の寺である。
 街道に戻り西進する。踏切を渡る。この踏切、JR東海道線と静鉄線が通り下手すると、いやうまくすると両線の上下線計4本の通過を見られる。500m進むと坂の上の土手に「久能寺観音道」(別項参照)石道標がある。その20m手前左に細い道がある。これが久能寺観音道である。
この土手で右折して静鉄狐ヶ崎駅の裏・北に向かう。線路の向こうに森があり、「吉川八幡神社」である。山口県岩国市吉川藩主の出身地の神社である。ここの地名が吉川でここの地侍から出世し大名になった。旧鳥居は静岡市地域登録文化財(石造物)第一号である。吉川氏ゆかりのものはもっと北の吉川中心地に館跡説明板、吉川氏発祥の墳丘がある。また土手の左を進み大型スーパーと自動車学校の上に「聖一国師堂」がある。
 もとの土手に戻り進むとすぐ先の池の前に、「東海道の説明板」がある。200m進むと左に「上原地蔵堂」があり、江戸幕末官軍と幕府の話し合いが行われたと説明されている。もう200m進むと左に有度十七夜山千手寺で石塔類が多い。
 400m進むと南幹線に合流する。50m進むと右スーパー駐車場前にたぬきの置物などと一緒に一里塚跡碑と説明板が設置されている。
 南幹線を進むが、一説には左奥の南幹線に平行する路地が東海道だともいわれる。ただしこの道は途中で消失する。
 草薙と草薙三丁目の境の道で清水第七中学校前に「草薙神社参詣道」(別項参照)東側入口の説明板がある。左折し南を目指すのが「草薙神社参詣道」である。中学の前で南幹線沿いのお宅の裏を通るのが東海道の名残ともいわれるし、その可能性はあるが、現状通れない。
 中学を通過した次の左で南幹線より一本南を平行している通りに入れる。おそらくこの道こそが旧東海道だろう。150m進んで橋を渡った右の自治会館に「水準点」が設置されている。これは国道や県道などの主要道にあることが多く、あえて裏道につけることは少ない。ということはこの裏道が主要道なのか。20m進むと南幹線に大きな鳥居があり、「草薙神社参詣道」を示す石道標も設置されている。今南幹線沿いにこれらが設置されているが、旧道から移転したのだろう。
西進するとこの先広い道の前で、道はガードレールを挟んで断絶する。しかしルート自体はそのまま西進していくのが分かるので、回り道して向こうの西進路に行く。おそらくこの辺りに昔の「草薙神社参詣道」西側入口があったのだろう。この南250mで「ひょうたん塚古墳」がある。西進する街道を300m行った先右に「鳳林寺」があり石塔がある。300m進むと「閻魔坂と仁王」説明板がある。ここは閻魔坂である。すぐ先左に「東光寺」がある。寺の裏側に「熊野三柱神社」と「谷田宮古墳」、その先には「やぶきた原樹」、さらには県立図書館、県立美術館、静岡県埋蔵文化財調査研究所、県立大学がある。
 「東光寺」を過ぎた次の交差点は左に「平沢観音道」(『古街道を行く』鈴木茂伸等参照)、右に「龍爪街道」(『古街道を行く』鈴木茂伸参照)である。右奥には「津島神社」と石塔類のある「普済寺」がある。

  


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2009年03月28日

しみず道、志ミづ道

・しみず道、志ミづ道(静岡市清水区追分、追分羊かん本舗~清水区本町港橋)
 起点は旧東海道、追分二丁目、追分羊かん本舗前の石道標である。元は道の反対側にあったそうだ。石の左右に「是より志ミづ道」と彫られ、正面は「南無妙法蓮華経」と彫られている。一文字ずつの終わりの線を延ばすように彫られ、さもひげのように延びているので「ひげ題目」と称され各所にある。建立者名から谷口一族の物と見られ、このような立派な谷口一族の「ひげ題目」も各所にある。伝わる話では旅の途次、勝手に金を出し立派な「ひげ題目」を建立し去って行ってしまうのだそうだ。この立派な石道標が存在するため、「しみず道」も有名になったのではなかろうか。
 細い道「しみず道」に入っていく。狭いが車等が通り地元の交通路となっている。入江小と逆川の間を通り、JR線と静鉄線の二本塚(ふたもとづか)踏切(追分二丁目)に出る。かつて魔の踏切と云われ事故死者や自殺者を出してきた。脇に厄除地蔵が安置され由来説明板が表示されている。左方向に森がある。「文殊稲荷神社」(桜橋町)である。文殊は穴山梅雪が江尻城に祀ったものを廃城後ここに遷座したという。ならば四百年だが境内の樹木からもっと古いと推定される。もっと古くから神社があり、そこに文殊も遷座したのだろう。
踏切を渡ると左に静鉄電車「桜橋駅」で交通量の多い南幹線に出る。渡ると清水文化会館で道なりに進むと県道を渡り、清水中央図書館と洒落た洋風レストランの左の路地に入っていく。この図書館の2階には郷土資料室があり、本稿を書くに当たっての資料もここからのものがある。お世話になってます。図書館裏のこの辺り少し古めかしい昭和の住宅地、下町の風情が残る。付近にはもっと狭い路地が散在し、あたかもレトロとノスタルジーの昭和にタイムスリップしたかのようだ。あと10年もすれば消失するだろう。この雰囲気に浸るには今しかなかろう。
 広い道、久能街道に出る直前左に「昌庵(子育て)地蔵」(入江岡町)の祠がある。久能街道を右(南)に5軒行くと法律事務所と電気屋の間に路地がある。電気屋の塀に「上清水村札の辻跡」(上清水町)とある。「志ミづ道」のプレートもかかっている。電気屋に高札が残っているそうだ。
 20mも進むと左に「上清水八幡神社」(上清水町)がある。境内に源義家の伝お手植え大楠がある。1087年に彼が祈願したという伝があるが、この時期東海道は庵原の地を通り、せいぜい南下したとしても秋葉山(西久保)下を通る北街道ルートだろうから、彼が来たのならこの時代すぐ横は海だろうから、軍船に乗ったのだろうか。神社を後にし進むと右に神戸商店というレトロな駄菓子屋がある。道は右(南)に折れる。「折下道」という下り坂である。由来は海に下る道だそうだ。古代中世はこの辺りから海であろう。
 この「折下道」を下る手前左(北)に下る路地がある。この道を下り道なりにまっすぐ行き浜田小の横を通っていくと、住宅の塀に挟まった「チャンチャン井戸」(浜田町)と説明板がある。良質の水が出て清水の名の由来になったといわれる。
 「折下道」に戻り下ると右に「禅叢寺」(上清水町)がある。白穏の作品があることや清水次郎長が手習いに通ったこと等が知られている。境内に説明板がある。
 寺の門前から東に進み広い通りを渡ると左(北)に「専念寺」(上一丁目)があり、廻船問屋播磨屋の墓がある。寺の門前周辺はこれまたレトロなはんぺん屋、惣菜屋などで昭和の風情を楽しめる。
 ここで道からはずれるが、「ぶんかさろん・しみず 志ミづ道」で紹介されている付近の史跡を紹介する。(上一丁目)の巴川沿いには「八雲神社」があり「徳川水軍御船場跡」で、奥宮裏が「江川」の暗渠で、近くに「萬世橋(よろづよはし)と記念碑」とその説明板がある。
 再度「専念寺」前に戻り東、萬世橋方向に進みすぐ右折(南)する。「志ミづ道」のプレートもかかっている。下町風情の中を通り県道を渡り、まっすぐ進むと三番目の交差点で正面に清水保育所となる。ここで左折(東)し道なりに南東に進む。ちなみに清水保育所は「清水町役場跡」でその西側道路は「江川端」という川でかつては運河として船で行き来していた。その南にエガワ歯科医院がありかつての江川家の子孫で「江川端」の名の由来だろう。この近辺には石蔵が多く、かつての廻船問屋の名残である。
 本町で路地を抜け右折(南)し「実相寺」門前で県道を左折(東)し港橋で終点である。その手前で「廻船問屋鈴木家」がある。南への通りは「次郎長通り」で次郎長の生家がある。「廻船問屋鈴木家」の裏の巴川沿いには「西宮神社」があり力石等がある。その北には「上総稲荷神社」があり「袋城の石」がある。港橋向こうに「甲州廻米置場跡」があり、甲州から幕府に納める年貢米を置いた所で現在も山梨県有地がある。「実相寺」は石仏豊富である。「実相寺」裏は「妙慶寺」で山門や鐘楼がある。「実相寺」手前に「成就院」がある。「妙慶寺」をさらに南に向かい矢通りという道を渡ると住宅の裏に「美濃輪神社」がある。袋城城主、馬場美濃守信春が築いた掘割等があったが、埋め立てられ美濃輪町となった。エガワ歯科医院の南に「妙生寺」がある。
 「志ミづ道」周辺は見事にレトロな雰囲気が残っていて一見の価値ありである。しかも今後消失していくことが予想されるので今のうちに見ておくしかなかろう。できれば静岡市清水区の観光名所、歴史遺跡として保存していければ幸甚であろう。

・参考文献
「志ミづ道」ぶんかさろん・しみず
「追分今昔記」府川松太郎(先代、追分羊かん経営者)
「ふるさと物語」清水市
「岡地区のあゆみ」岡地区まちづくり推進委員会
「安部郡入江町誌、第二編 第六章 第一節 道路附道搬具」
「江尻宿之変遷」片山寅平
「季刊 清水17-23号 昭和56~61年(1981~86)、思い出のまち清水今昔譚 失われたものへの回想と愛惜」
「静岡懸安部郡清水町沿革誌」清水町役場 本多丹弥
「ゼンリン住宅地図、清水市」
「昭文社都市地図 清水市」
  


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