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2016年11月20日

静岡市清水区、富士市、沼津市:千本街道、海岸線:基礎資料

・前文
 数年前、秋の午後、千本浜からの自転車での帰りに歴史的な処を通過しつつ、適当に写真を撮っていた。午前中走ったあとで、疲れもあり、きちんと資料を整理する気にもなっていなかったので、散漫資料ではあるが、これも今後再調査し、整理するということで一応掲載する。


~清水~
・ほそい(細井)の松原、無縁さんの碑(辻三丁目7⁻15)
 ・説明:慶長六1601年徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同九1604年2代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同十七1612年完成したと伝えられている。元禄十六1703年駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺:約360m、松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は夏にはこの松原で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。ほそいの松原は太平洋戦争の松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。今の松は平成4年2月社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。
 ・細井の松原無縁さんの碑:説明:辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成13年東海道400周年記念で当石碑を建立した。
・ 松原観音堂、津島神社(西久保261)
 袖師ふるさとの路6、水準点、常夜燈、祠、石塔、
・馬頭観世音菩薩:祠(袖師町1081)
 ・袖師ふるさとの路1、
・延命地蔵:祠(袖師町1056)
 
・東海道松並木(横砂西町7-11)
 1本だけ現存する。


~由比~
・一里塚跡、祠:地蔵2(旧由比宿)





・穀茂利稲荷神社(由比723⁻1)


~蒲原~
・海宝寺(神沢487)

・正八幡宮(神沢400)

・大山祇神社(堰沢675)

・霊光禅院(堰沢675)

・関口神社(堰沢515)

・八幡大神宮、天満天神宮(中592)

・貞心院(中606)

・秋葉神社(中607)

・上山神社(小金473)

・白泉寺(小金473)

・稲荷神社(新田二丁目9)

・稲荷神社(新田二丁目8)

・城源寺(新田二丁目18-2)

・泉龍寺(新田二丁目17⁻2)

・和歌宮神社(蒲原三丁目32⁻1)
 金毘羅神社

・志田邸

・五十嵐邸

・御殿道の碑

・長栄寺(蒲原三丁目31-15)

・妙隆寺(蒲原三丁目30-19)

・若宮神社(蒲原三丁目27-11)

・蒲原城(蒲原)

・善福寺(蒲原善福寺3817⁻4)

・大正時代手作りの窓ガラスのある家()

・八幡神社(蒲原善福寺3747⁻1)

・旅籠「和泉屋」

・(木昌)守神社(蒲原三丁目26⁻3)

・明治時代のなまこ壁商家()

・明治時代のなまこ壁商家()


・八坂神社(蒲原二丁目13-14)

・御殿山公園(蒲原)
 狼煙場

・東漸寺(蒲原二丁目13-7)

・正八幡神社(蒲原二丁目八幡町13-3)

・竜雲寺(蒲原二丁目12-⒑)

・諏訪神社(蒲原一丁目14-13)

・北条新三郎の墓(蒲原一丁目14-4)

・蒲原木之内神社(蒲原四丁目27-31)

・光蓮寺(蒲原一丁目10⁻11)

・馬頭観音(蒲原一丁目10⁻11)

・義経硯石(蒲原一丁目9‐9)
・観音穴(?蒲原諏訪町)



○吹上の松:静岡市清水区:旧蒲原町、蒲原中学前(蒲原姫台124)
・浄瑠璃姫の碑
・吹上の六本松
・浄瑠璃姫之墓:
・地蔵
・説明:浄瑠璃姫に関する伝説は幾つかある。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河國矢作の宿の浄瑠璃姫が吹上ノ浜で疲れ果てて死んだという内容の話が描かれている。また小野於通の「浄瑠璃姫十二段草子」には、里人によって吹上ノ浜に追われた瀕死の義経が浄瑠璃姫の涙の雫で蘇るという筋書きになっている。義経と浄瑠璃姫の恋物語を語りものとして「浄瑠璃」が江戸時代に流行した。
 吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った塚の上に、目印として植えられたという。その後、大きな木に成長し、東海道を渡る旅人の目印となってきたことが「東海道名所図会」にも示されている。
 また武田方の戦記「甲陽軍鑑」には、永禄十二年1559、12月蒲原城が武田氏に落城させられた時に、この六本松のあたりに本陣を置き、勝どきを上げたことが記されている。浄瑠璃姫の碑は明治31年1898初代町長、五十嵐重兵衛によって建立された。この碑には「語り継ぎ 言い継ぎぎつつ今になお いくりの人の 袖を濡らすらん」(作者不詳)の歌が残っている。

・灌漑用水竣工記念碑:蒲原町長佐藤一郎書(蒲原新栄町4875⁻43)

・西木戸、茄子屋の辻(蒲原三丁目10-4)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれた。元は宿場は西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていた。元禄12年1699の大津波によって壊滅的被害を受け蒲原御殿があったという現在の地に移転した。西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、茄子屋の辻で乱闘が起った。承応2年1653高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒した。しかし最後に追手につかまり殺された。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は現在寺宝として保存されている。
 ・蒲原宿は江戸から37里:148㎞、品川宿から数えて15番目の宿場である。徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道53次の一つになった。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にあったが、元禄12年1699,8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により、大きな被害を受け、元禄13年1700、に山側(現在地)に移転した。天保10年1839の宿場の規模は宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と旅籠45軒で富士川の川留目の際などはたいへんにぎわった。
 ・西木戸跡:蒲原宿の西の端にあり西見付とも云われた。見付の入口に木戸の柵を設けたことから木戸とも云われ、東西木戸の間を木戸内と呼んだ。
 ・浦高札場跡:海に近い蒲原宿は蒲原の津(港)を経由する海上交通も盛んだった。浦高札は海船、川船など船舶一般の取り締まりのお触書で、これを掲示した所が浦高札場だった。
 ・高札場跡:□会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は幅2間5尺(5.1m)奥行4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の大きな規模のもので、ここには幕府のお触書が掲示された。
 ・御殿道:徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった蒲原御殿。御殿の位置はあきらかではないが、桜の名所御殿山と宿内に残る御殿道にその優美な名前を留めている。
 ・本陣跡:蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家で勤めていたが宝暦年間1751~1763に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣を勤めた。平岡家は明治11年に京都に転居した。現在の建物は大正時代のもので、邸内には今も大名が駕籠を置いたといわれる御駕籠石が残っている。
 ・木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵:木屋の屋号をもつ渡辺家は江戸時代末期、蒲原宿の問屋職を勤めた旧家。今も残るこの3階建ての土蔵の中には江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されている。
 ・問屋場跡:問屋場とは幕府の荷物の取次、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の取次をした所で、各宿内に1か所ずつ設置されていた。
 ・「蒲原夜之雪」記念碑:歌川(安藤)広重描く「東海道五十三次」シリーズの中でも「蒲原夜之雪」は最高傑作といわれる。広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して碑が建てられた。
 ・東木戸跡:蒲原宿の東の端にあり、東見付とも云われた。東木戸は当時の常夜燈(文政13年1831)が残っている。宿内安全と刻まれた常夜燈には夕暮れになると、ここから蒲原宿に入るという目印の灯がともされた。また東木戸のすぐ西側の所で道路がわずかに鍵の手になっている。これは幕府が戦略の一つとして作ったもので、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう、また軍勢の流れを阻止するためのものである。
 ・一里塚跡:一里塚は慶長9年1604江戸日本橋を起点に36町(1里:4㎞)ごとに築かれた塚である。この一里塚によって人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基礎に賃金も算定された。蒲原の最初の一里塚は元禄12年の大津波で流失し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものである。当時の面影はなく、今は小さな祠が残っている。

・「古屋敷」通り(蒲原三丁目西町14)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり西木戸と呼ばれた。蒲原宿はもと西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていたが、元禄12年1699駿河湾に大津波が発生して蒲原宿は壊滅的被害を受けた。そこで元禄14年1701幕命により蒲原宿は西木戸より左折して山の麓を東に進み、東木戸までを新しい宿場とすることとなった。したがって旧宿場の問屋、本陣、脇本陣、旅籠、馬役人屋敷等すべてがこの新宿場に移転した。ここに江戸初期100年にわたって栄えた旧宿場と古屋敷道はさびれていった。しかし近年この古屋敷道も現在では50余軒が軒を連ね往時をしのぐ勢いをみせている。


~~~富士、沼津~~~
              ’13  ’14  11月
~富士市~


・ディアナ号の錨:富士市有形文化財
 説明:錨全長:約4.0m、錨爪長:約3.0m、錨重量:約3t、日本に開国と通商を求めて来港したロシア軍艦ディアナ号は、嘉永七1854年10月に下田港に入港したが、安政地震に遭遇して大破した。修理のため戸田港に向かったが、強い西風によって漂流し、富士市三四軒屋沖で沈没した。この錨は長く海底にあり、地元領民や住民に「唐人の根っこ」と呼ばれた。昭和51年8月に引き揚げられた。

○三四軒屋龍王神社(宮島1391)、八大龍王神社(宮島1391-34)
・社名碑:
・石鳥居
・手洗石
・献燈6
・秋葉山常夜燈2
・狛犬
・石道標:従是東宮嶋村
・力石:説明:明治大正から昭和初期まで集落の若者たちが体力をつけるため、また力比べとして持ち上げた「力石」で重量106.2㎏。
・説明:祭神:八大龍王神、例祭日:8月23日、由緒:創建慶應三年、海岸沿いの当地は漁業を主に生活し、先祖代々海の守護神たる龍王神を崇めた。古く三軒家、四軒屋2区に分かれ、両区に同神社あるも、昭和15年区併合の際、初代区長井上喜氏は将来両神社の合祀を約束した。その後40余年を経て昭和61年合祀記念事業として本殿及び拝殿造営並びに20aの境内造営を行い、龍王神社は地区の氏神、海の守護神として崇敬をあつめている。


○金(昆)毘羅神社(川成島930)
 説明:祭神:高オカミノ神奉遷宮中央大日大聖八代龍王、大物主神金毘羅大権現、鎮守宮聖主大梵王、開運摩利支天、備前拾四柱大人命霊神(備前さん)、例祭日:11月10日、由緒:・本社祭神高オカミノ神創建不詳、弘化三丙午歳1846,9月吉祥日、新浜村中五穀成就祈雨止雨の神、昭和56年1981、7月1日静岡県神社庁より13等級「龍神社」と呼称決定、
 祭神大物主神金毘羅、本社殿は香川県琴平山の金毘羅宮を本宮として文政12年1829創建されたと伝わる。金毘羅とは薬師12神将の一つで祈雨、海難祈願の神として祀る。
 鎮守宮聖主大梵王は仏教の神格化したもので神社を守る神。
 開運摩利支天、戦勝の神。
備前拾四柱大人命霊神(備前さん)は、岡山県の御用船拾四名の遭難死を古来より祀った。いつともなく忘れられていた。探して祀れば霊験ありとのお告げあり、宮司により1991年11月吉日遷座祭施行す。
 1991年11月吉日、本殿改築新浜区の守護神として崇敬す。
・新:石鳥居
・新:献燈2
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2


・山王(日吉)神社(川成島417⁻8) 


○不動尊(宮島)
・南無阿弥陀佛
・石塔

○圓妙寺(中丸550)

○弁天神社(中丸829⁻1)
・赤鳥居

○稲荷神社(中丸864)

○愛宕神社(鮫島520)
・説明:祭神:ほむすびのかみ火産霊神、例祭日:10月17日、由緒:創建不詳、明治19年記録「日吉神社ノ傍字中嶋ト云フ所ニ鎮座アリシヲ寛政年間此所ニ遷座セシト云フ」、「御戸帳ノ裏ニ左ノ如ク記セリ愛宕山大権現御戸帳 寛政七乙卯六月廿四日 当村若衆中 願主 奥州行方郡相馬大原村西方法師」とあり、古くから広く崇敬を集めていた。また「愛宕山光耀寺」と書かれた古い木札が残っている。平成元年改築。
・石鳥居
・燈籠
・石塔
・石塔類:2
・無縫塔4
・石仏4:観音?
・五輪塔2

○天満宮、山神社(田子360⁻1)
・石鳥居
・石柱2
・献燈2
・献燈
・クスノキ:保存樹木

○林正寺(鮫島535)鮫島山
・石塔
・南無妙法蓮華経□九丙子
・南無妙法蓮華経
・南無蓮本菩薩

・稲荷神社(鮫島569⁻6) 

○山神社(前田823)、前田新田区公会堂
・献燈3
・石祠
・自然石
・水神


・石塔:南無明甫蓮華経




・石塔3


○立光寺(前田830)佛原山
寺名柱


○石塔類、港公園(前田893⁻1)
・石塔2
・板碑
・胸像


○石仏類(前田新田888-73) 
・石塔3

○江川水門名碑:一ツ眼鏡(田子、浜田町、江川橋たもと)
 説明:小須湊の江川については、」ひとたび田子浦海岸が荒天により波浪高まれば、その遡上波は引きも切らず昼夜を問わず、付近一帯の田畑を押し流し住民を怖れさせた。明治17年9月暴風雨水害、明治32年10月未曽有の大津波襲来、田子浦村は田、家屋はもとより村民も壊滅的は被害を受けた。この復興のため明治36年11月県知事山田春三により石水門が築造され、上部は鈴川街道として利用され、以来田子浦村民、近隣村民の通行に寄与した。
 時代を経て水門の老朽化が激しく、田子浦村長船山啓治郎をはじめ地域住民の強い要望に依り、昭和27年3月地元選出県知事齋藤寿夫による応援を得て、新たな両開き水門が竣工した。その後次々と風水害にあったにもかかわらず、その役目を果たしてきた。しかし近年上流部の都市化、田子浦港整備のための河川、道路改修を契機に長年の役目を終え、平成10年取り壊された、当時の江川水門名碑を残す。

○沼川橋たもと、沼川石水門記念碑、六ツ眼鏡(中河原31-4)
 説明:沼川の逆潮は、富士山麓浮島沼周辺の村々に甚大な被害を与えてきた。その被害を防ぐため、明治18年11月6日、石水門が完成した。石水門は当時の最先端の土木技術を取り入れ構築された。設計はオランダ人技師の助言を受け、施工は猪苗代湖の石水門建設で名を上げた石工:児島佐左衛門が指揮して行われた。低湿地で湧水が多いこの地での工事は、殉職者を出すほどの難工事であったが、静岡県で初めてセメントを使って構築された石造アーチは以後、どんな波浪にも耐える堅牢さを誇った。
 石水門の管理は昭和3年7月より県に移管され、その保全に最善を期してきた。扉の開閉については、水位差を利用して自動的に閉まるよう工夫され、天候の悪化が予想された際には、手動で門を閉じることもできた。(展示の軸は門扉を動かすギヤの一部である。)
獅子浜産伊豆石を用いた六連型アーチの美しさは「六ツ眼鏡」の愛称で親しまれた。後に排水力増強のため水門を二基増設した。
 しかし田子の浦港築港と沼川防潮水門の建設によって撤去されることとなり、昭和41年12月8日、80余年にわたる役割に幕を閉じた。


~~~以下「村山古道」より転載~

・浅間宮、富士塚(富士市鈴川)   
 富士登山をする者が海水で水垢離した後海岸の石を一つ置いていったものが積み重なって塚になったという。別説には、津波後の施し米のお礼として積み上げた。北条・武田・今川が対峙したときの天の香久山砦の跡。などの説もある。 
鳥居前を直進して突き当たると石碑「皇太子殿下御散策之蹟」があり、左に元吉原中学校がある。戻るなら左折だが、海に行くなら右折する。
 ここから海水に触れるには堤防の出入り口を越し、左折(東)していくとテトラポッドが切れて砂浜が少し見える。西へ行くと田子の浦港の岸壁で立入不可となる。 

・閻魔堂、地蔵堂、石塔、黒露の墓(鈴川)  
閻魔堂…閻魔像、地蔵
地蔵堂…地蔵
石塔…17基、観音、六地蔵、燈籠、
黒露の墓…黒露は江戸時代中期の俳人。
地蔵堂前の階段が古くは海に出る道で、南進して一度曲がって先の皇太子碑に出ればよい。

・木之元神社、古東海道(鈴川)  
 戻りは地蔵堂から東進60mで右の路地に入ると古東海道であり、木之元神社前に出る。神社上側の道を行く。近世東海道に出るにはその先を左折し広い道に出るが、おそらく古東海道は右折した路地のように少し高いところを東進していたのだろう。近世東海道側へ進む。広い道に出たらすぐにある踏切を越え線路に沿い西進し、JR吉原駅前で北西進していく。*(ここからは近世東海道に出たので、近世東海道のガイドブックと同一内容になる。) 河合橋を渡り国道1号線と新幹線のガードを斜め左に横断する。その先に静かな街並みがある。左富士神社のある中吉原宿跡である。

・(付近)阿字神社、妙法寺、富士と港の見える公園、三本松、毘沙門天妙法寺(鈴川)  
阿字神社…近世以前の東海道は田子の浦を船で渡っていた。そのとき東岸側で安全祈願をした所の名残である。相当古い神社と考えられるが、これだけ海に近い所にあるためか古い物はない。(多分地震や津波で遺物は残りにくい) 
妙法寺…
富士と港の見える公園…現代の公園、眺めは抜群。トイレや駐車場数台分ある。
三本松…元吉原中学校向かいにある。何の謂れか?
毘沙門天妙法寺…だるま市で有名、近世東海道筋にあるので歩くとちょっと遠い。

・中吉原宿跡、左富士神社(依田橋町)~近世東海道~  
 先ほどの鈴川や毘沙門天の辺りが元吉原宿であるが、津波で破壊され、この左富士神社辺りに移転した。しかしここも津波で破壊され今の吉原本町の吉原宿に再々度移転した。
 *ここ以後しばらく近世東海道ルートなのでもっと詳しく知りたい方は東海道吉原宿近辺のガイドブックを読んでください。

・左富士(依田橋町)  
 東海道を東から西に行けば富士山は右に見えるのだが、この地だけは左に見えるので「左富士」と称され珍しがられた。東海道が一旦北北東を向くからである。左富士神社先の交差点に史蹟看板があり、松が植えられている。左富士の浮世絵レリーフもある。

・石仏(依田橋町)   
左富士史蹟を過ぎて北進すると左に祠が見える。

・平家越し(新橋町)  
 橋を渡る所にある。平家が富士川沿いに陣取り羽音を源氏の攻撃かと驚き逃げ出したという伝説の地である。平家は羽音だけに驚いたのではなく、その前から源氏の陽動作戦で疑心暗鬼になっていたという説もある。ここはいまでは富士川ではないが、雁堤設定以前はここまで富士川が幾本かに分流して流れていたようだ。

~~~以上、村山古道、転載部分~

○阿字神社(鈴川町12)

○仏舎利塔、大隈稲荷、富士と港の見える公園(鈴川町12)

○妙法寺(鈴川町12)

○富士塚、浅間宮(鈴川西町13)

○三本松(鈴川中町23)

○閻魔堂、黒露墓(鈴川中町8-⒑)

○地蔵堂(鈴川中町3-1)

○木之元神社(鈴川東町1-29) 

○海老坂薬師:今井薬師堂(今井一丁目4-4)
・石鳥居
・石塔:(梵字)庚申供養滅悪生善處 元禄四辛未天 
・石塔の笠部分
・奉納南無庚申
・南無奉献庚申
・観音2:・宝暦二、・墓石

○愛鷹神社:(今井一丁目2⁻14) 
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2
・石祠
・石塔
・保存樹木:エノキ:富士市

○毘沙門天妙法寺(今井二丁目7⁻1)

・稲荷神社(今井三丁目4-1)

○愛鷹神社(大野新田124)
・秋葉山常夜燈
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2

○高橋勇吉と天文堀(大野新田56⁻1)てんもんぼり
・説明:三新田(大野、桧、田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉1806~1866が天保七1836年から嘉永三1850年の14年間の歳月を費やして完成した排水用の掘割である。勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で彼が三新田の開拓を考えたのは天保七年の大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで排水計画の研究の傍ら多くの反対や苦難を乗り越えようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て立派な排水堀を完成させたのだった。勇吉は自分の田畑や財産等を売り払って工事費に当てたと云われ、勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから子の掘割のことを人々は「天文堀」と呼んだ。現在三新田の耕地は土地改良や道路等で開発が進み、勇吉の天文堀はその跡を見ることができない。

○庚申堂(大野新田14)
・秋葉山常夜燈の竿部分、
・石仏3
・五輪塔破片
・水準点

○丸山稲荷(桧新田368-60)
・赤鳥居、祠

○愛鷹神社(桧新田329)
・石鳥居
・エノキ、クスノキ、クロガネモチ
・秋葉山常夜燈
・石仏
・献燈2
・祠、
・手洗石

○淡島神社、米之宮神社(田中新田215、三新田98⁻1、田中町) 
・赤鳥居
・石仏
・石鳥居
・保存樹木:クロガネモチ、エノキ、ムクノキ
・献燈
・献燈
・手洗石

○?神社(三新田10-13)

○春耕道しるべ第一号:石道標:☞須津村すどむらやくば役場一里、吉永よしなが村役場三十一町、

○ 昭和放水路、増田平四郎の像、旧東海道一里塚、石碑、広沼橋西袂、沼川第2放水路、
    (沼田新田8、柏原町2)
・増田平四郎とスイホシ:説明:天保七1836年大飢饉や度重なる水害から村民を救済
するため、原宿の増田平四郎1807~1892が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年1869の春で、人々は「スイホシ」と呼んだ。
 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ籠訴すること6度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶應元年1867に着工の運びとなった。それは計画の発案から27年目のことだった。
 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505m、幅7mの大規模な掘割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡形もなく壊された。平四郎の大計画はとん挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
・増田平四郎像
・増田平四郎翁碑
・為女鹿塚新田
・石碑:旧東海道一里塚

・交通事故防止祈願像、地蔵(沼田新田140)広沼橋東袂

○立圓寺(西柏原新田72) 

○大六天神社(沼田新田64⁻1) 

○延命地蔵尊(中柏原新田227) 

○津島牛頭天王(中柏原新田231⁻1)

○六王子神社(中柏原新田171⁻3)

○?神社(中柏原新田257)

○庚申塚古墳(東柏原新田) 

○山ノ神古墳(東柏原新田) 



~沼津~

○八幡宮(植田41-⒑)

 
○?神社(植田95)


・地蔵2:
・献燈


○山神社(大塚38-1) 

○正覚寺(小諏訪コズワ518⁻1)


・?神社(西間門602)

○金剛寺(西間門518) 

・?神社(西間門518) 

・石塔3


・赤鳥居、祠、石塔:大正七


・石仏:観音、橋本梱包待機場所


・是法院當縁日住 宝暦十二壬維持


・元堀:水落堀跡(一本松71₋2)富士アセチレン工業 向かい
 説明:元禄15年1702に今泉村の七兵衛、又兵衛が計画し、宝永3年1706~08にかけ、地主鈴木八兵衛、地元住民等の協力のもとに着工された。この工事は浮島沼入口から一本松の海岸まで水路を掘り、沼の水を流し、新たな農地を切り開こうとしたもので、工事は進むも高潮等の自然災害により完成までには至らなかったと古文書は記している。苦心の大工事で今に残る浮島沼開拓に情熱を傾けた先人たちの貴重な遺跡である。なお掘割跡の奥には江戸時代の潮土手も残っている。

・板碑:(一本松85⁻5)

○要石神社(一本松87⁻1) 
・説明:祭神:天津彦火 々杵尊あまつひこのひ  いそのみこと、例祭日:1,5,9月各27日、由緒:当区の開祖大橋家の2代目五郎左衛門が寛永年間に創建したという。現在社祠、天保十四年再建。水郷鹿島香取両神宮要石と同じものである。本体一部露出せる火山岩の大石塊 北200m、大橋家屋敷井戸まで続くといわれ、このために安政の大地震にもこの地方の災害憂いがたく、聴覚障碍者はこの社に祈願して穴明き石を供えると平癒するとの口碑あり。境内には多数の穴明き石が奉納されている。
・石鳥居
・馬頭観世音菩薩:安政六未年
・南無阿弥陀佛 享保五庚子年
・手洗石:世活 當村中 火消中 若者中
・祠
・玉垣

・破損:赤鳥居と祠、馬頭(一本松163)エノモト工業 向かい

○いぼ神様:祠、石碑(原655₋2)沼川第2放水路の原大橋西袂
・説明:古来よりこの社の後ろにあった巨松の盤根の閒にくぼみがあり常にみずがたまっていた。イボのできた人がこの水をいぼにぬり祈願すると、いぼがよく落ちるのでいぼ神様と云われ広く信仰された。「原町史」より

・石仏:

・地蔵:天保五年、原中学校附近

○山神社、稲荷神社(原315₋2)

○原 壱ヶ浦供養塔(原311 原西町交差点信号前に案内標識) 
・供養塔:南無妙法蓮華経
・馬頭観音:2:天保十、

・山神社(原38⁻1)

・馬頭2:(大塚15 図書印刷 向かい)

・新:地蔵:交通守護(今沢38⁻1 大杉自動車工業 向かい)

・庚申塔(今沢29 向かい)

・赤鳥居:祠(今沢23 秋本水産 向かい)


・観音:元禄十年丁丑 奉供養(今沢20-9 向かい) 
 ・今沢20-9にはコンクリ石柱2在り:三島神社と祥雲寺の参道入口

・青面金剛王:正徳六丙申年1716(今沢17⁻3 向かい) 


・一面六臂:正徳三癸巳


・墓石:~丁玄禅定明 ~忍禅定明 享保十二未


・観世音菩薩:寛政七乙卯(松長12⁻1 向かい) 
 観世音菩薩:明和四丁亥、
大悲観世音1安永六年


・石塔(松長21-45 向かい) 

・観世音(松長30⁻11 向かい) 
~明尼首本~、
大正、江戸 勅四郎大明神、
・南無妙法蓮華経供養:ひげ題目:文化十一甲戌年、


・弁財天:維持寛政九丁巳歳(松長51⁻11 向かい)


・地蔵(松長64、大昭和紙工産業向かい)
・六十六部、
納経塔行者、
妙法随喜法徳霊、
(一面六臂)寛延元戊辰1748天霜月日、
南無観世音菩薩文化二乙午年1805、
南無観世音菩薩寛保二壬戌歳1742、
庚申塔、
昭和十年、
文化八、
英六十一、
西國三十三所巡礼供養塔、
奉巡礼西國三十三所、


・地蔵;祠(大諏訪25、東洋電産向かい)

・石祠:観音、(小諏訪556⁻5 向かい)
・馬頭観世音2
・石塔

・石塔3(小諏訪556⁻1 向かい) 
・庚申塔

○正覚寺(小諏訪518⁻1)

○石塔類(小諏訪588⁻3 服部宅向かい) 
・観音2
・青面金剛神、
法蓮華経一字一石二部供養塔

○石塔類(小諏訪600 静岡スバル向かい) 
・観音2
・石塔5
・馬頭4


○妙伝寺(東間門33) 

○山神社(東間門8-12) 
・コンクリ鳥居:大正十一年、・コンクリ常夜燈2:昭和三年、・常夜燈の笠、・堂、・手洗石:、手洗石:昭和十一年、・旗立石、・石祠2、・石塔:奉納田中源三郎、

・石道標:六代松 是ヨリ東 六代松(東間門9⁻1) 

○六代松碑(東間門824) 
 ・説明版:平家物語ゆかりの地、六代は平清盛を3代とし、重盛、維盛、六代と続く平家の統領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符号する。元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると探し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語るうえで最も人々の心に残る場面の一つである。その後出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、誅せられ、その首を供の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。江戸幕府の命を受けて道中奉行美濃の守藤原利恭としやすらが文化3年1806に完成した「東海道分間延絵図」にも、千本松原の名kにある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。民間では学識の俳人秋里離島あきざとりとうが寛政九年1797に板行し好評を博した「東海道名所図会」には文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人たちに親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年1843碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
 ・忠霊塔、・板碑

○若山牧水住居跡(本858⁻1 TKDマンション) 
 現在、碑文が門前にあるのみで発見しにくいので、地元民に尋ねるしかない。
 説明版:歌人若山牧水が千本松原の景観に強く心惹かれ沼津に入樹してきたのは、大正九年1920満34歳の夏だった。大正14年ここに500坪の土地を求めて居宅を新築し、沼津永住の念願を果たした。建物は木造2階建て79坪で全11室あり牧水が夢に描いていた通りの物だった。牧水は千本松原を愛したように、この居宅を非常に愛していたが、この家にはわずか3年暮らしただけで昭和3年1928の秋、43歳の短い生涯をこの地に閉じている。牧水の建てた家は惜しくも昭和20年の戦災で焼失したが、沼津市若山牧水記念館に50分の一の復元模型ミニチュアとしてその全容が展示されている。

・馬頭観世音菩薩(本1910-⒑) 
 寛政十六年

・首塚(本1910-185) 
 説明:戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、特に天正八1580年の千本浜の合戦は激戦だった。明治33年暴風雨で倒れた松の大木の下から多数の頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を立て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和29年、人骨研究の権威:鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、特に10代後半の若者の骨の多いことが注目された。碑文は旧沼津藩士岩城魁。
・馬頭観音3:昭和十四年、 、 、
・地蔵、
・石塔、

○本光寺(本1910⁻185) 

○千本浜公園() 
・歌碑:多数



○沼津若山牧水記念館(本郷林1907⁻11)

○千本港神社、港口公園、水門タワー(沼津港) 


○芹沢光治良記念館(我入道蔓陀ヶ原517⁻1) 


○乗雲寺() 
 若山牧水墓



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