さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |

新規登録ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2010年02月14日

批評、歴史、地理、紀行

   ☆歴史
・ビデオ『NHK日本名城総覧 城・武将・合戦』ポリグラム全20巻
日本の城を網羅するには良いが、近世の物主体で中世以前の山城等が手薄だ。またビデオ一本ずつが独立してまとめられているのでひとつだけ見たい向きには良いが、全巻通して見ると重複する場面が多くうっとうしい。全体はばらばらで、特定の地域や有名武将ごとに各巻を振り分けてあるためだ。同じ映像が3本に渡って流用されていることもある。唯一重複しないのは、沖縄のグスク紹介である。ただ映像で日本各地の城を網羅できるのはありがたい。城郭の専門用語も知るチャンスだ。
・ビデオ『歴史の道』日本通信教育連盟 全10巻
私も『古道を行く』という本を出版し、古道マニアの一人として、このようなビデオがあることはうれしい。とりあえず北海道から沖縄までにある古道をビジュアルに紹介した功績はあろう。この目で古道の一端を見られてうれしい。そしていつの日にかそこに自分がいることを念じていた。今後さらに古道はメジャーになっていくだろう。
・ビデオ『歴史の道百選 東海道』全3巻
箱根、小夜の中山、鈴鹿峠を紹介している。いつか行ってみたくなる光景だ。もっとも古道らしいところをうまく見せている。歴史的紹介も手際よい。
・ビデオ『広重東海道五十三次 ビデオ紀行』テイチク全4巻
浮世絵の五十三次絵と古街道、宿場を絡め、東海道を一通り概略するによい。ひとつずつは物足りないが、それらはもっと別に頼ればよい。
・ビデオ『夢舞台 東海道 東海道三島宿と箱根旧街道』三島市教育委員会
箱根から三島にかけての石塔類、山中城址などの旧街道に関することを知るにはよい。ただ紹介項目が少ないし、市のPRビデオとして理想を語る場面は客観的な歴史地理資料として見るにはきつい。紹介の仕方もいかにも学校教育用教材として作られていて堅苦しい。だが地元製作ならではのローカルで手作りな感じはよい。
・ビデオ『柳生街道』、『山之辺の道』
奈良県こそ日本のふるさと、そして日本の田舎道、文化の古道、味わい深い。
  
☆文学
・国語資料ビデオ『漢文解説 中国の史話、漢詩の鑑賞、格言と故事、中国の思想、漢文の読み方』バンダイ 全5巻
親しみやすく漢文を解説する。バックに現代中国風景が流れるが、解説文を見ていると光景を見る余裕はない。繰り返し見ればよいのだろう。漢文字幕が出てきたとき返り点がないので、読みづらい。中国知識入門によい。
・ビデオ『古典入門 平家物語 国語科教授資料』TDK
要所を簡潔に見やすく編集されている。入門にはよい。
・アポロンビデオライブラリー『伊勢物語』バンダイ
要所を親しみやすく簡潔明瞭に見せる。入門にはよい。

☆紀行
・ビデオ『NHK消えた鉄道を歩く』テイチク全4巻
廃線跡に人々の暮らしがあり、人生があった。廃線跡は素晴らしい。今後は廃線を文化財としていかに保存活用していくのか。
・ビデオ『廃線跡の旅 Historic remains』全2巻
廃線跡の旅の楽しみを教えてくれた。是非行ってみたくなる。郷愁と社会変化のありようを感じる。
・ビデオ『岩崎元郎の中高年のための登山学』 全4巻
4巻にわたって分かりやすく楽しく山登りするのがよい。山登り初心者は見た方がよい。親しみやすくほんわかしているところは取り付きやすい。

・DVD『樹海 富士が創った不思議の森』(NHK BSハイビジョンスペシャル)118分、02年
 坂田明氏(ジャズサックス奏者、ミジンコ研究家)が進行役になり、専門家の手引きも受け、樹海内の動物・植物を探る。溶岩台地の形成と溶岩台地を崩しつつ植生を深めていく生物の営みもつづっていく。四季折々の樹海の風物も紹介している。神秘的で異様な美しさといえる。以前私が風穴の入口を探し、樹海内を歩いていたときは、なんとも不気味な光景だと思っていたが、リスやネズミ、モグラの生きる様を見ると、他の森同様親しみがわいた。
個人的には樹海の溶岩洞窟(風穴)を期待して見た通り、富士溶岩洞窟研究の第一人者:小川孝徳氏を映像で初めて見た。そして紹介していた洞窟は「軽水風穴」であった。私はこの入口を知らない。推定では天然記念物:神座風穴や蒲鉾穴の南東500mの林道脇と思われる。使用機材やスタッフの移動を楽にするため、車で近くまで行ける風穴を対象にしたのだろう。なおこの林道は天神山スキー場方面からだと封鎖されていて、麓からだとゴルフ場周辺からは廃道同然と思われるので、許可を受けないと入れないだろう。

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:04Comments(0)批評、歴史・地理・紀行

2014年03月22日

キリシタン燈籠疑問説、しかし保存してほしい

・キリシタン灯籠説について疑問を呈したいが、その灯籠は文化財として大切に保存してほしい     
                                 2014 2/8
 キリシタン灯籠は織部型灯籠の竿部分に描かれたキリスト者または十字架を隠れキリシタンが信仰していたという。ただこの説は大正時代から昭和初期にブームを起こしたもので、なぜ禁教を解かれた明治期に全く存在が知られなかったか不思議です。
 例えば京都桂離宮には7つ存在するという。これらは桂離宮を作った者の知り合いのキリスト者を供養するために作ったという。まあそれはそれで、キリスト教信仰者への供養があったのかもしれないという説もあるとうかがっておきましょう。
 日本全国にはかなりの数のキリシタン灯籠があるらしい。ためしにネットで調べただけでも次々出てくる。桂離宮もそうだ。いったいいくつあるのだろう。数百単位ではなく、もしかすると千単位あるのかもしれない。これだけ作られたなら相当な数の隠れキリシタンがいたはずです。または本人が信仰者でなくとも、信仰者を供養する人が後を絶たなかったことになります。信仰の自由が認められた現代日本でのキリスト教徒は人口の0.6%だそうだ。ましてや江戸時代の禁教化の中でどれだけの信者がいたのだろうか。その人たちが明治期、いや大正期に入って、あの灯篭を先祖伝来拝んできたとでもいう話が起こったのなら肯定しますが、そのような信者側からの報告はないようで、以下の話を見つけました。
*ネットサイト「街道ひとり歩る記-楽しんでこそ人生!!」より、(そのまま引用)
以下は、日本キリスト教大辞典「織部灯篭とキリシタン宗門」松田毅一より
「~大正12(1923)年頃からで、静岡の某氏が宝台院の一基の下部に人物像があることに注目して、同地の教会のフランス人司祭に見せたところ、カトリックの聖人像で、服装はローマの法服であると認定したと言う。」
 以下は簡単にまとめて引用します。
「これ以後キリシタン灯籠ブームが起きたらしい。昭和23(1948)年に西村貞は「キリシタンと茶道」で織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めた。しかし今日に至るも立証したものはいない。古田織部もキリシタンではない。灯篭のデザインは中世以前からの仏教関係の古い石造文化財の影響を受けている。記入されている記号は供養塔、墓標、庚申塔に刻まれているものが刻印されているようだ。」以上といったところです。
日本のキリスト教関係者が否定するのだから、日本の隠れキリシタン、または近代のキリスト教徒もキリシタン灯篭を信仰の対象にしていないようです。ということはキリシタン灯篭を発見しては騒いでいた人たちは、まったくキリスト教とは関係ない人たちだったのかな、なんとなくデザインがキリスト教っぽいからということですか? 隠れキリシタンが信仰していたという話は、いったい誰が言い出したのでしょうか? 分かりませんが、なぜその当人は地元のキリスト教徒を調査しなかったのでしょうか。キリシタン灯篭を、信仰してきたという信者またはその子孫の話を見つけられない限り、肯定しようがありません。といって、100%否定しきることもできませんので、否定傾向にあるあいまいな不明なままです。なお隠れキリシタンが伝えてきた信仰対象物はあるようですが、灯篭とは全く関係ないようです。
キャッチコピー「信者もいないのにキリシタン灯篭とはこれいかに?」
ただ別の視点で考えると、歴史学や考古学って、けっこうあいまいに進むんだなあと思います。以前、考古学においてゴッドハンド神の手と称される天才民間考古学者が一躍注目を浴び、彼の手による発掘でいくつもの石器遺跡が文化財として認定されましたが、いんちきだったことがわかり、あっさり、いくつもの指定遺跡が解除されるという、嘘みたいな本当の話がありました。また欧州では100年ほど前の話かなもっと前かもしれませんが、類人猿や原人の人骨を巡ってのいんちきか生物学的一大発見か争われ、いんちきだったことが証明されるという大失態があったそうです。
 そうそう私がこの文章を書いたわけは、単に否定したいからではなく、その後のことを悲しく思うからです。
 私がブログで静岡市の「安倍街道」を書いてアップさせたのですが、その中で「井宮町、瑞龍寺のキリシタン灯篭」の項目でキリシタン灯篭を否定する旨まで記入しました。ただこの「安倍街道」記事の内容は不十分で中途半端なまま、いつか調べるための調査地点や概要程度の下書きのままアップしてありました。そこで今回安倍街道を再調査し、ブログ内容の充実を図ることにしました。そこで2013年12月に瑞龍寺に再度行ったらば悲しくなりました。 
寺の前には、井宮や寺についてのハイキングコース標識、案内看板があり、瑞龍寺では3つ紹介されていました。1、旭(朝日)姫の墓、2、時雨塚の碑、3、キリシタン灯篭、です。1,2の2つについては説明版と矢印の行き先表示がありましたが、3は矢印が見つからないので、自力で、キリシタン灯篭を探しました。
多分これがキリシタン灯篭だったはずのものに行き当たりました。説明版もありません。しかし灯篭は各部がずれていて一部破損している始末。
 私がこの灯篭を矢面に立たせて否定したからこんな姿になったのかもしれないと思うと、悲しかったです。私としてはキリシタン灯篭説には疑問を呈し半ば否定したいですが、破壊したり撤去してほしいと言ったつもりはありません。キリシタン灯篭といわれているものは今まで通り説明版もつけて大切に保存されるべきです。説明版に一言最後に否定説もある旨を記入すればよいでしょう。全国にある指定文化財になっているものは、今後の歴史学界の動向を注目し、あまりに否定説が強まれば、検討対象にして、指定解除されればよいでしょう。ただし解除されたから、粗末に扱われ破損撤去されることは悲しいことです。その後も所有者等が大切に保存に努めてもらいたいし、かつてキリシタン灯篭と呼ばれていた織部型灯篭だという説明板ぐらいつけておくとよいでしょう。それはそれで歴史観光資料としての価値があるでしょう。
なお隠れキリシタンが実在していた長崎県の各地方には、彼らが信仰対象物にしていたものが残っているようです。長崎県にも織部型灯篭はあると思うのですが、この形式の灯篭を信仰対象物にしていたというものはないようです。
 ちなみにマリア観音も否定されるでしょう。静岡市内では用宗の用舟城跡の観音堂にマリア観音がありますが、隠れキリシタンの信者の子孫の証言といったものはあるのでしょうか。地域住民の観音様信仰はあるのでしょうが、キリスト教関係の信仰として明治時代以前からあるという口承等がなければ否定に傾くでしょう。新聞報道された内容では、地元民から観音信仰はあって日常お参りしているがマリア信仰といったものは聞いたことがないという話だそうです。マリア観音と断定?または推定した方々は、マリアとして信仰している人たちを探したのでしょうか?これもキリスト教徒とは関係なくても、地域の文化財で民間信仰の対象物として末永く大切に保存されることを望みます。説明板もついているとありがたいです。なお長崎県には隠れキリシタンが信仰していたマリア観音が実在しているそうですが、こちらは隠れキリシタンの存在は確実で、きっと信者や子孫の口承等もあるのでしょう。
 キリシタン灯篭を認定するには、織部型灯篭のデザインだけではなく、地域周辺にかつて存在していたはずの隠れキリシタンの存在を突き止め、その子孫からの口承証言等を取らねばならないはずです。それがないことに驚きます。
 ちなみに静岡市葵区、宝台院のホームページを調べると、徳川家康関係の宝物(阿弥陀如来立像、家康公の自画像、真の太刀、家康公筆「安元御賀記手習」)、三代将軍家光公筆「遠山月」二代将軍秀忠の生母・西郷の局の墓、徳川慶喜公謹慎之地、かくし坊の辞世があり、その中にキリシタン灯篭もある。説明文:「キリシタン灯篭:茶人として有名な古田織部が制作し駿府城へ奉納、徳川家康公の侍女・ジュリアおたあが信拝したという灯篭です。この灯篭は城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移されました。」とある。
 ジュリアおたあをウィキペディアで調べると生涯概略の他、文章末に「~なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、そのキリシタン灯篭は、現在は宝台院に移されている。」と書かれている。
 これらはいかなることでしょう。日本最初のキリシタン灯篭発見が1923(大正12)年とすると、ジュリアおたあ信拝説はそれ以後と思われますが、いったいどういう証拠があるのでしょうか。分かりません。ただジュリアおたあや宝台院の業績は素晴らしいものと思いますので、そこは肯定します。また宝台院の織部型灯篭も価値あるものと思います。それが本当にキリシタンが信仰対象にしたものか証拠を出してほしいのです。それはキリシタン燈籠説を出した人たちの責任であって、宝台院やジュリアおたあ、瑞龍寺や織部型燈籠の責任ではないのですが。



  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:32Comments(0)批評、歴史・地理・紀行

2016年07月28日

静岡市用宗周辺

静岡市 用宗 周辺
                        ‘13 ’14  6、7月 
・前文
 だいぶ不完全な文書なうえ、所々しか調べていない基礎資料ですが、今後調べていくということで、一旦掲載します。
 またブログに保存することで、手持ちのパソコンや記憶媒体がすべて破壊されても、バックアップとして利用できるからです。

◎大雲寺 昭和六十三年 
○城山観音菩薩大悲閣  
・庚申供養塔 享和二壬戌1802
・庚申:元禄拾三庚辰五月廿八日 奉納建立庚申、
・線刻画:佛:座像、
・新:石仏多数、
・祠:地蔵 安永七戌年、・如意輪観世音菩薩 廿七番、
・新:燈籠2、
・新:仁王像:阿形像、吽形像、
・忠霊塔、
・新:南無釈迦牟尼佛、
・新:地蔵、
・新:六地蔵、
・鐘楼、
・石祠、

○熊野神社跡地 
・石鳥居;明治二十八年、
・本殿:廃屋、

○八幡神社跡地 
・石鳥居:昭和二年、
・手洗石:昭和七年、
・石燈籠:笠部、
・本殿、拝殿:廃屋、

○石部神社:静岡市石部51-⒑、 
祭神:天照大神あまてらすおおみかみ、祭日:10月16日、内社:津島神社:すさのうのみこと素戔嗚命、白髭神社:猿田彦命、山神社:おおやまつみのみこと大山祇命、由緒:天明元年再建とあるが、御鎮祭は近隣に古墳七基の発見や、古代から大崩海道の沿岸にあり、遥に古い時代と思われる。古くは天白社と称し、明治初年に現在の社号に改められ、明治八年村社に列した。境内社の津島神社は素戔嗚神を祀り、疫病除けの神として崇められる。氏子の信仰は今も往時も変わりなく、例祭、歳日祭、初午祭、祇園祭、七五三祭等、古くからの伝統と神社の護持発展に積極的な努力と奉仕が続けられている。昭和52年3月13日、大崩山腹「コツサ沢」鎮座の豊漁航海安全の神として崇められた白髭神社:猿田彦命と、高草山系石部「大ニヨウ」鎮座の山神社:大山祇命の両社を、遠隔地で祭祀参詣も意の如くならず、氏子の総意により本社の相殿に遷宮鎮祭した。昭和21年7月30日宗教法人令による届け出をし、昭和27年7月23日宗教法人令により、宗教法人「石部神社」の設立を登記した。静岡県神社庁神社等級規定九級社である。平成22年12月吉日。静岡市神社名鑑より作成。
・鎮魂:昭和四十七年、Ω、
・石鳥居:文化八辛未弐月吉日、
・石鳥居:大正十四年、
・石鳥居:
・猿田彦大神:大正拾四乙丑年、
・力石
・手洗石
・石塔:宝永七寅年、
・祠

・辻:祠、

○寶珠院
・地蔵堂
・新:六地蔵
・板碑
・馬頭観音菩薩
・庚申供養塔
・庚申供養塔:享保十二未年
・庚申塔:昭和五十五年
・南無阿弥陀佛
・手洗石:呉服町四丁目油屋
・祠:
・堂
・井戸ポンプ
・新:萬霊塔

○熊野神社
・城山列士供養塔
・地蔵
・石鳥居:昭和三十二年
・玉垣
・石燈籠2,2,2:文久三
・船の碇⚓、
・祠
・石塔:明治十七申年、
・御神燈:安政六未、
・石燈籠:奉納八幡宮:寛政九稔
・狛犬2、2、

・城山農道完成記念碑:平成三年
・妙見坂 五十四
・丸石
・石燈籠2:昭和三年、
・祠跡:廃

○持舟城 
・説明版:築城年代不明、戦国時代の今川氏時代には築かれていたと考えられる。江戸時代の古絵図によると当地は、駿河湾に面して東・北に深く入り江が形作られた天然の良港だった。現在の静岡市駿河区用宗の地名は湊(港)を意味する「持舟」が転化したものと云われ、今も昔も漁業と深い関係を持っている。今川氏はここを水軍の拠点とすると共に西方、日本坂から駿府に侵入する敵対勢力を防ぐ城砦としても利用した。城跡は、頂上広場(標高76m)が本丸(本曲輪)、南西側の窪地に大堀切、井戸跡(曲輪)があり、その南側に二ノ丸(二の曲輪)、本丸の北側には腰曲輪があった。北側の城の下は沼地と深田が広がっていた。南側は海に近く、船溜まりと蔵屋敷があり、湊(港)と平山城の条件が整っていた。長い年月を経た今も、遺構はそのままの形で残っている。
 築城から廃城までの間に、今川、武田、徳川氏によって3度の攻防戦が行われ、数百もの将兵が討死する記録が残ることは静岡周辺の他の城砦に比べても例がなく、この城の戦略的価値がいかに高かったかを物語っている。今川氏の城主「一宮出羽守随波斎いちのみやでわのかみずいはさい」は麓の青木の森に、武田氏の城主「向井伊賀守正重むかいいがのかみまさしげ」は興津清見寺に手厚く祀られている。
 最後の城主、武田氏の「朝比奈駿河守」は徳川軍に城を明け渡し、多くの将兵は城下に落ち延びて生涯を全うした。やがて持舟城は徳川氏のもとで廃城となった。
 後に向井氏の子孫が城跡に観音像を立てて「正重」の霊を祀った。観音像は阿耨観音あのくかんのん(マリア観音)と呼ばれ、今は用宗駅北の大雲寺に安置される。村民たちは七年に一度、御開帳を催し、将兵の慰霊と現世の平和を祈る。 
*耨=ドウ、ヌ、くさぎる、のぞく。
・持舟城趾由来略誌:説明版:
 今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として、関口刑部親長に持舟城を守らせていた。この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年結婚。この政略結婚が後年家康の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知る由もなかった。永禄三年五月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。川中島で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄十一年末、駿河に侵攻して、持舟城を攻略、城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が今川方の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃し果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり、激闘壮絶を極め武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫叔父伊兵政綱長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り、今も古式蒼然とした墓塔が同寺にある。天正八年二月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正十年二月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を抜き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終わった。向井正重の次男正綱はたまたま城外にあって生き残り、本多作左衛門の手の者となり徳川家に仕えて船手頭となり、その四代目の子孫正興が長崎奉行勤番の折り、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置され直した。向井家は以後代々重臣として繁栄し、其の後裔は東京都新宿区に現住している。

・城山周辺の野鳥:
・説明版:周辺で見られる10種の野鳥。メジロ、エナガ、ウグイス、ヤマガラ、カワセミ、シジュウカラ、コゲラ、ハクセキレイ、アオバト、イソヒヨドリ、

・城山周辺の蝶:
・説明版:城山で見られる蝶の種類は25種だが、そのうち12種紹介する。
アゲハ、ジャコウアゲハ、ゴマダラチョウ、ルリタテハ、カラスアゲハ、モンキアゲハ、ツマクロヒョウモン、コミスジ、アオスジアゲハ、アオバセセリ、クロコノマチョウ、アサギマダラ、

・府中道:古来よりの大崩街道:
・説明版:當目山坂口より左につき大谷に入登れば、右は滄海に臨み、左に高草の麓の村里瀬戸川を眼下に見て勝景なり。ここは長むねと云處也。爰より数十歩過て切通あり。左の高き丘に大日堂を置、西山下は小濱村也。この切通を越れば山下海岸谷々に山畠あり。高より臨むに海岸に平地を見る。これ小濱村の蕉地也。其内に森二ヶ所あり。洞口の両處には大なる巌海中に聳立、高さ百丈餘。これに並び立つ巌五十丈餘。往昔は此巨巌の上に松一樹ありて塔之松と呼。後世枯失たり。是等を右に見て、切通より山の腰を廻り下る坂あり。七曲と云。行々麗の海岸に下る。此處を垢離取場(府在村里願望ある者、必爰に來て垢離す)と云。ここより石部村の地に隷。一軒屋の茶店(一軒屋)あり。是より礒邊巨巖石の閒を通ふ。波荒き時は通がたし。此際凡十餘町許、大崩と呼。左手の山は岩石聳えて突出、常に岩石轉倒の怖あり。右手波浪に衣をひたし、嶮難の閒道岩上より足を失て、刀劒の如くなる巌の稜に轉倒せしむとし、唯戦々兢々(恐々)たるのみ。大人君子の通べき路次には非ず。此所古へは石渡りと云と也。ここを通て石部の村落に至る。凡當目より石部へ一里餘、持舟廣野川原にかかり、国府に至る行程總て三里と云。
(補記)東照傳に、天正六1578年大神君由比蒲原に討向むとし給ひ、田中城を左に見て濱際を押通り、同八月廿二日先陣は上原清水に着す。御本陣は當目に居させ給ふと云は、則此濱道筋を通りし也。其頃は今よりは路次も廣かりしにや。『駿國雑誌一 六之巻より』四十九巻 安部正信 天保十三年1842編集

・供養塔:祠:向井伊賀守正重 天正七年九月十九日
 由来記:この供養塔の向背地の城山にあった持舟城は、永禄元亀天正年間1568~1582戦国争乱の最中に生まれ、今川武田徳川など戦国大名の軍兵が互いに攻防戦を繰り広げ、数百の将兵が城と運命を共にした。ときの城将向井伊賀守正重他壮烈な散華を遂げた将士の霊を祀った。




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:13Comments(0)批評、歴史・地理・紀行古街道

2016年09月22日

高草街道、三輪街道(静岡県藤枝市岡部、焼津市)

~~~高草街道、三輪街道~~~ 
                 ’14 ’15  6月
・情報提供呼びかけ
 今後、高草(三輪)街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 まだきちんと一通り調べていないので、過去に立ち寄った基礎資料にすぎないが、一応今後調べ直すということで、一旦掲載する。岡部から焼津に懸けて、高草山麓の三輪街道または高草街道と呼ばれる所の基礎資料である。

~岡部~ 

○つたの細道(平安時代から戦国時代の東海道) 
 古代中世(約700~1590年頃)の東海道。古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人;在原業平が『伊勢物語』にこの峠道のことを書き記してから全国的に名を知られるようになった。
 *これより古い古代の東海道は「日本坂峠」越えの道で、静岡市小坂の日本坂峠登山口から焼津市花沢の法華寺前に出る道である。徒歩道ハイキングコース。
・歌碑:宇津ノ谷峠
・猫石
・つたの細道公園
・石碑:蔦の細道

○木和田川の堰堤 
・国登録有形文化財:1910年豪雨によって大災害が発生した。災害防止のための砂防工事を進めた。1912年から14年以かけて造られた堰堤である。木和田川の13㎞にわたり、8基の石積み堰堤を築いた。形から兜堰堤ともいう。ちょうど蔦の細道や旧東海道藤枝市岡部側に下った所の川である。上流に向かうと石積みを見られる。

○明治のトンネル 
 明治、大正時代1876~1930の東海道。現在みられる「レンガのトンネル」は明治29年に照明用カンテラの失火によって新たに造り替えたもので、現在は国の有形文化財に認定されている。最初のトンネルは日本で初めて通行料を取ったトンネルなので、「銭取りトンネル」と言われた。
*他の宇津ノ谷のトンネル:
・大正のトンネル、完成は昭和初期、だいぶ坂を上り、人家の隣を通過しトンネルに至る県道である。
・昭和のトンネル、現在、国1上り線側(北側)
・平成のトンネル、現在、国1下り線側、歩道が付いている(南側)

○宇津ノ谷の旧東海道(江戸時代の東海道) 
 天正8年1581豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたと云われている。江戸時代に入り正式な東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっていた。
*私見:戦国史専門の小和田哲夫氏は江戸時代の東海道を最初に整備したのは今川義元で桶狭間に軍が向かうときは、その道を使ったのではないかと推定している。
・静岡市側からだと道の駅の東側の供養塔がある所にかつては一里塚があったと推定されている。そこから川伝いに西に向かい道の駅を通過し、現在の国1南側の小さな橋「平橋たいらはし」を渡るのが、江戸時代の東海道ルートである。ここから道は北の宇津ノ谷集落に向かうため、現在の国1を渡る。ここから先は川沿いに集落を目指すと道標や地図が頻繁にあるので分かるだろう。ちなみに平橋手前で左(南)に曲がり山に入っていくのが蔦の細道である。
・慶龍寺:十団子伝説
・賀茂神社
・お羽織屋

宇津ノ谷集落から江戸時代徒歩道東海道を上っていくと、馬頭観音や地蔵堂跡を過ぎ峠越えをすると、藤枝市に入る。その先で道は舗装された所に出て舗装路を歩く。この舗装路を逆に上ると、国1トンネルの山の上の排気口の建物に出て行き止まりであるので、下るしかない。そうすると藤枝市(旧岡部町)坂下集落に出る。

○坂下地蔵堂(藤枝市旧岡部町坂下2027) 
・羅経記の碑 
・鼻取り地蔵
・石仏石塔

○観音堂(廻沢2589) 

○松岡神社(廻沢2718) 

○十石坂観音堂(岡部1179 川原町)じっこくざか 
 市指定文化財。入母屋造りの瓦葺の観音堂、内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、観音堂内に2基の厨子が安置されている。
厨子1:中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、杮葺きコケラブキで二重垂木、妻入である。彩色が施され、江戸もやや末期の作と思われる。
厨子2:観音堂の向かって右。宝形、板葺屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものだ。江戸も中期以降の作と思われる。
・河野蓀園碑文:市指定文化財。河野蓀園コウノソンエンは駿府町奉行服部久エ門貞勝が駿府地誌の編纂を山梨稲川ヤマナシトウセン(江戸時代の漢学者としてその名を知られた。)に依頼した時に、岡部の属する益頭郡を担当した人である。岡部本町に住し(屋号:河野屋)、文化12年正月18日46歳で没した。彼の墓碑は稲川の撰文と書が刻まれたものだ。その撰文の要旨は彼の資性と業績が立派だったことを顕彰したものだ。建碑については彼の友人で岡部宿駅の漢学者:杉山佐十、本間春策等の友情によって立石されたものだ。
・古:石燈籠?
・石塔?
・手洗石
・萬霊塔:文政三辰年
・新:萬霊塔
 *私見:観音堂は旧東海道の県道横の10m高い山裾にある。おそらくかつては山裾が川の手前まであって東海道はこの観音堂と同じ標高まで上らないと越せなかったのだろう。そこで十石坂なのだろう。現在は土木技術の進歩で、山すそを完全に除去し平坦なので気付かないが、かつては坂道だったのだ。観音堂に上れば当時の旅人の気分が味わえるだろう。

・常夜燈、祠(岡部1140 川原町) 

○笠懸松(藤枝市岡部642⁻19 牛ケ谷) 
笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな 
                         西行(西行ものがたりより)
 平安時代末期~鎌倉時代にかけての歌僧として有名な西行が、愛弟子西住と東国へと
旅をしたときに起きた悲しい物語の舞台であり、謡曲「西行西住」にまつわる場所でもある。東下りの途中、川渡しの場で武士の揉め事に巻き込まれたとき、師である西行に暴力が振るわれたのに我慢できず、西住は相手の武士を杖で殴った。しかし西行は仏に仕える身として辱めに耐える大切さを説いた後、西住を破門した。西住は師を慕って後を追うが、岡部まで来て病に倒れ、最後に体を休めた松の木に、
「西へ行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して」
と、辞世を書き残した笠を懸け、そのまま帰らぬ人となった。
西行は、東国からの帰途に立ち寄った菴で一休みしていると、戸に古い檜笠が懸っていたよくよく見てみると、西行が破門した愛弟子西住に贈った笠だった。庵主に聞いてみると、西住が歌を書き記した笠を松の木に懸け、病気により最期を迎えたことを知り、悲しんで歌ったと伝えられている。
西住法師:岡部の里人伝云、西住は西行の弟子、西行に従って東遊す。遠州天竜川に於いて西行武人の船に乗合いて及危難。西住怒って武人に敵す。於之、西住師の勘気を蒙る。西行独歩東国に赴く。西住悲難愁絶して其師に追及んとす。自足栄々として独往、岡部里に至て病て不能行。終にこの里にて卒す。傍に一松樹あり。竹笠を掛一首の辞世を残す云々。 
(「駿河國新風土記」新庄道雄より)
・宝篋印塔の一部、

○三星寺(岡部650) 
・四国八十八所第三拾三番
・祠:地蔵
・新:三界萬霊菩提

・枡形跡:
 曲尺手(かねんて)とも言う。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。またここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明け六つに開け、暮れ六つに閉じた。

○専称寺(岡部663) 
 ・西行座像:市指定文化財彫刻、像高50㎝、西行法師の旅姿をした座像で白木彫りの作りである。像底裏に「享保十一1726年江戸の湯島天神の西にいた柑本南浦(こうしもとなんぽ)が最林寺(川原町、文化五年焼失)に奉納」の意味の銘がある。江戸時代後期の作と思われる。岡部十石坂観音堂。
 ・不動尊立像:市指定文化財彫刻、像高:54㎝、一木彫り立像で忿怒の形相が力強く表現されている。鎌倉前期のものといわれる。岡部立光山不動院。
 2体とも当山専称寺にて保管されている。
・六地蔵+7:計13:

○立石山不動尊(岡部795⁻5)  
・馬頭:女馬 大正七年
・馬頭:大正四年
・馬頭:明治廿七年
・馬頭:女馬 大正九年
・石仏
・石祠:瓦葺

○大旅籠 柏屋(岡部817) 
 創設:天保7年1836、大旅籠柏屋は平成12年に東海道や旅、岡部宿を楽しく学べる歴史資料館として蘇えった。
 旅籠とは江戸時代の宿泊施設。柏屋はその規模から「大旅籠柏屋」といわれ、岡部宿を代表する旅籠である。柏屋を経営していた山内家は5代目良吉(天保期)以降旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄などの宿役人を勤めた。岡部宿でも屈指の名家だった。
 延べ床面積約331㎡:約100坪。柏屋は文政と天保の2回、岡部宿の大火で焼失しているが、当時の『類焼見舞覚』や『諸入用之覚』等の資料によれば、天保6年1835に「棟上げ」をしているので、江戸時代後期の建物であることが分かった。

○岡部宿内野本陣跡(岡部831)、岡部宿公園、 
 本陣とは江戸時代に大名や旗本。幕府の役人等が使用した格式の高い宿泊施設のことで、内野家は元禄年間1688~1703に本陣職を命ぜられてから明治時代に宿場の制度が廃止になるまでの約180年間、代々本陣職を継いだ。当時の建物は残っていないが、敷地はそのまま残されていて、昭和48年には市指定史跡となった。
 この内野本陣は現在、当時の建物間取りを平面表示し、歴史文化や街道のたたずまいを感じられるよう門塀をイメージ再現した「岡部宿内野本陣史跡広場」として整備されている。
・赤鳥居2
・石祠
・手洗石
・祠

・問屋場跡: 
 幕府専用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りした。しかし公用の仕事がないときは一般旅行者や荷物を有料で送った。岡部宿には岡部本町と加宿内谷の2か所にあった。

・専念寺(岡部841) 

○佐護神社:おしゃもっつぁん(内谷259⁻1):
例祭日:1月中旬日曜日、立石神社例祭:7月第3または第4土、日曜日。『岡部史談 岡部のお宮さん』より。
立石神社例祭の御神輿の御旅所(御仮屋)の守護として古来より祀られる。おしゃもっつぁんは、農耕の神、丈量(測量)の神または安産の神であったりと、様々な説がある。現社殿は昭和50年1975に神神社より拝領し、移設された。3つに仕切られた内陣の中央には、天照皇大神、向かって右が佐護神社、左が小坂で祀る秋葉さんである。
・立石神社御仮屋
・新:奉燈2
・板碑:?歌碑
・石塔:昭和六年四月竣工
・石塔:天皇在位六十周年 昭和六十一年
・25m離れた道端:石仏

・彩適空間 新緑と橘の里:田園空間整備事業 駿河岡部地区
 静岡県では、農村の持つ豊かな自然、農業伝統文化等を見直し、美しい農村景観や伝統的な農業施設などを保全、復元し、この地域をまるごと「田園空間博物館」としえt、魅力ある空間に整備している。事業区域は藤枝市岡部町地域と葉梨西北地域、静岡市の宇津ノ谷地域を対象とした2市にまたがる広域的な博物館である。
沿道のみかん園、里山の自然と調和した農村生活、志太平野に広がる駿河岡部の田園   が持つ原風景を展示することにより、訪れた人や地元住民が田園の風景を楽しみながら、農業、農村に対する理解を深めることのできる遊歩道として整備された。

○正應院(内谷264₋2) 
 宗旨:日蓮宗総本山身延山久遠寺
 名称:山号:見珠山けんじゅざん、寺号:正應院しょうおういん、
 宗祖:日蓮大聖人(朝日合掌立像)
 本尊:久遠本師釈迦牟尼佛(一塔両尊)
 題目:南無妙法蓮華経
 経典:妙法蓮華経(法華経)
 教義:釈迦の説かれた最高の教えである法華経を拠り所にする。この法華経を身をもって読まれ布教された日蓮聖人を宗祖と仰ぐ。法華経の魂を題目に込められた宗祖に導かれて私たちが信心修行に励み、この教えを広めることにより、世界の平和と人類の幸福、ひいては個人の幸せにつながる教えである。  
 開基:大正7年佐藤政十氏が曹洞宗から日蓮宗に改宗、自宅土蔵に見珠道場開設、私財を投じて現地に本堂建立を発願する。大正13年池田本覚寺第48世身延山第81世杉田日布上人に就いて出家得度、政蔭と改名、正蔭院日勇と称す。大正15年7月1日51歳をもって遷化。
 開山:大正12年佐藤敏郎氏は東京久ヶ原安詳寺第18世小島龍成上人に就いて出家得度、龍秀と改名、正應院日龍と称す。昭和14年当山住職に任命。昭和41年11月24日59歳をもって遷化。
 仮本堂:昭和6年佐藤家住宅をもって当地に仮本堂、現在の客殿を建立。宗祖650遠忌法要を威大に厳修す。
 寺号公称:昭和15年伊豆韮山本山本立寺塔頭正應院(永正三年1506 江川英成建立)を当地に移転、同時に宝暦11年1761建立、駿遠六庚申岡部堂(妙法勇進結社を合併する。)
 第三世:昭和36年 佐藤矩夫氏は正應院開山上人に就いて出家得度、龍導と改名、正應院日曠と称す。昭和42年当山住職に任命。
 本堂:昭和44年当山檀信徒の永年の願望であった本堂は開基上人発願以来50年目宮大工松浦喜和蔵、茂治氏親子により3年を費やし建立。
 多寶塔:昭和54年当山開基政蔭院日勇上人第50回忌の砌、篤信家の佐藤義人氏の発願
により宮大工松浦茂治氏によって7年間を費やし造られた。和様素木造り、後松浦氏は静岡県名工に推挙される。
 山門:昭和57年 当山開基政蔭院日勇上人の生家 佐藤家の先祖供養のため篤信家の佐藤久和子老女の発願により宮大工松浦茂治氏によって造られた総欅唐様四脚門造り、同時に二十間築地白塀も造られた。
 庫裏:平成15年 立教開宗750年慶讃記念に合わせて当山開山85周年報恩事業として建立落成する。同時に歴代廟、永代供養廟、境内整備等の事業を完了し現在に至る。
 寺宝:御曼荼羅―伝 宗祖日蓮聖人御本尊2幅、身延山歴代御本尊10余幅、
    仏像―釈迦立像、十一面観音、薬師如来、不動明王、兜仏外、
    書画―酒井包一 1幅外、文人書画等多数を護持、
 行事:毎月朔日 威運祈願祭、1月1日元朝祝祷会、3月1日御守護神祭、特別祈祷会、7月1日御開山会、8月1日御施餓鬼会、11月1日御会式、

西國三十三観音:
 多宝塔:開基、政薩院日勇の50回忌記念に篤信家の発願により作られた。和様素木造里で、建築に7年間を費やした立派なものだ。
忠霊塔:
   内谷児童遊園地:
・供養塔:ひげ題目:日曠○ 
・新:石燈籠2
・燈籠:庭:高70㎝
・丸石
・燈籠:庭:高1.5m
・祠:狛犬2
・石仏3
・石塔?
・青面金剛童子
・石塔?
・新:燈籠
・新:地蔵2
・新:観音
・新:層塔:七重塔
・五輪塔?

○山辺の道:やまのべのみち:神神社~正應院 約90分、
岡部地区三輪、本郷、山東を廻る豊かな自然と歴史資源の豊富な散歩道で、道の脇に植えられた花や手入れの行き届いた垣、お地蔵さんにかかる頭巾、現在も使用されている常夜燈など、農村の文化や住民の郷土に対するやさしさを感じることができる場所が随所にみられる。
山辺の道は神神社から高草山の麓を通り、内谷を経て正応院にまたがるコース。奈良盆地の東、三輪山の麓を廻る「山の辺の道」になぞらえて選定した。文化財として価値のある寺院、花木やみかん畑等を見ながらハイキングが楽しめる。道筋の民家、古の面影を残す常夜燈が心の中の郷愁を呼び覚ます。
・水車小屋跡
昭和20年代までは水車小屋が存在していた三輪川。その跡地には洗い場や石積み水路などが残り、伝統的な農村景観を現在に伝える。
・大滝延命地蔵
皮膚病や目の病が治るという地蔵。
・大滝おたき(王滝)
昔、修験者が修業する場所として知られていた。
・時石
正午を知らせる石。
 ・潮見平
汐見平、白帆見平、シラミ平等いろいろな呼び名がある。
・雲谷
神神社では高草山を御神体としていた頃があり、「霧が停滞すると雲谷に神がおわす」という神事の名残。
・金苞園
三輪地区の温州みかん類栽培技術の普及に努めた大塚熊太郎氏は優れたみかん産地との評価に喜び、自園の一角に石碑を建て園地を金苞園と名付けた。
・「いやんばいです」:「良いお日和でございます」という意味で、天気の良い日のあいさつ。
・ふるさとみかん山
 傾斜地のみかん畑を使い、伝統的なみかんの栽培技術などを展示保存し、楽しむことができる憩いの空間である。
・池の平
万葉集:えごの木、大杉、湧水池:標高350m、富士見峠、振り返り坂、戦没者慰霊碑、高草山大権現、高草山:標高501m、

○雨宮大神宮、岡部西宮神社(内谷172)おいべっさん 
 祭神:西宮大神(事代主命)、大国主大神、
 創建:江戸時代、明和年間1764~1771と伝わる。本社は兵庫県西宮市の西宮大神社。明治12年1879には本社より祭礼、神事の覚書が出され、今でも保存、伝承されている。宮仕え、宮守は、代々榊原家で継承されている。先祖の長次郎、長太夫、亀太郎、金作の各故人が神社を支えてきた。現在は榊原福一氏である。神社と共においべっさんと呼ばれ親しまれている。商売繁盛、家内安全にとても御利益がある。例祭日:11月19日宵祭、11月20日本祭、『岡部史談 岡部のお宮さん』より

○柳沢稲荷神社: 
 祭神:うかのみたまのみこと宇迦之御魂命、
 寛政八1796年、凶作による生活苦に喘ぐ地元民を救う思いで祀られた。最初は字小柳にあったが、明治15年1882に村社になった。大正15年1926杉山氏から土地の奉納を受け現在地に移転遷座した。杉山氏から奉納された伊豆の長八のこて絵は、町民センターおかべに保管されている。
 お稲荷さんの孕石(ハラミイシ) 
 昔、内谷村上之町に久七、はるという仲睦まじい農民夫婦が住んでいた。子供ができないのを悲しみ、神仏に日夜祈ったが、願いは叶えられなかった。途方に暮れていたある夜、久七の夢枕にお稲荷さんが立った。本堂の傍らにある石を抱いて拝めば、願望成就するというお告げに喜んだ久七は早速にお稲荷さんへ出かけた。やがて夫婦に玉のような男の赤ちゃんが授かった。お稲荷さんはその後も近隣の悩める夫婦の願いを叶え続けたと云う。
「境内の由緒書」より。例祭日:3月第2日曜日、

○小野小町の姿見の橋(内谷160)、旧岡部宿の東海道 
 小野小町は絶世の美人で歌人としても有名だった。晩年に東国へ下る途中、この岡部宿に泊まったという。小町はこの橋の上に立ち止まり、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影をうしなってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。宿場の人はこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。

・20m東:石祠

○光泰寺(内谷424)   
・木喰仏 准胝観音じゅんていかんのん菩薩立像:
像高214.5㎝、完成:寛政12年7月
准胝観音は無数の諸菩薩の母であり、延命の利益がある。2mを越す大きな身体一面に虫食い跡があり、かなり傷んでいるが堂々とした姿をしており、ぼってりした肉体をくねくねした曲線で表現された衣が包んでいる。木喰上人は寛政12年1800の6月13日より8月13にちまでまるまる2か月岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には光泰寺2体、桂島梅林院2体、三輪十輪寺2体の計6体がある。市指定文化財。
*胝:チ、タコ、
・木喰仏 聖徳太子立像
像高111.0㎝、完成:寛政12年7月5日、この像は木喰仏の発見者民芸運動の故柳宗悦が「中期の作として蓋し最も傑出せるものの一体であろう。そうして日本に数ある太子像の中で、忘れがたいもののひとつである。」と絶賛した。静かに合掌し、瞑想するその顔は私たちに安らぎと親しみを感じさせてくれる。製作者である木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足をとめたほとんどの土地に仏像を残した。市指定文化財。
・○庚申 寛政□年
・馬頭:明治廿六年
・馬頭:安政五年
・祠:地蔵1、観音1、石塔1:寺門前
・献燈2:昭和三十二年
・忠魂碑
・狛犬2:昭和三十年
・奉献燈2:昭和三十年
・新:観音
・西國三十三観世音菩薩:大きい、立派、見事
・石燈籠:奉納薬師如来 享和三
・鐘楼
・石室:石仏3:地蔵1、他2
・善光寺供養塔
・薬師堂
・西國供養塔2
・石燈:寛政十一
・奉献西國三十三所
・墓石
・庚申供養(羊良)塔
・庚申供養塔
・奉納大乗~~
・三界萬霊供養(羊良) 寛政十一
・三界萬霊塔
・新:石燈籠2
・六地蔵
・不許葷酒入山門
・角柱2:高70㎝
・板碑:岡部町町会議員~~
・新:手洗石

・七面堂(内谷650)、五智如来、公園 

・丸山神社(内谷山東1890⁻1) 

○常昌院(内谷山東1967) 
 ・兵隊人形:本堂内: 兵隊寺とも呼ばれ、旧志太郡下から日露戦争に出征して戦死された勇士英霊223体が当時の軍服姿で、生前在りし日そのままの姿の木像として祀られる。
・石塔:□□□十五番□□□
・石塔:□之(?塩堰)建立□□凡申憂
・供養塔:□□一国三十三所 嘉永五
・地蔵?
・供養塔:南無阿弥陀佛

○南陽寺(内谷本郷2170) 
・説明版:宗派:曹洞宗、岡部町光泰寺末寺、本尊:延命地蔵菩薩、脇仏:如意輪観世音菩薩、開創:天正十七、八年1589~90頃、草創開山:茂山谷栄和尚もさんこくえい、改宗開山:大翁恵最和尚だいおうえさい、 開基:不詳、 由緒:戦国時代末、天正17年1589頃茂山谷栄によって真言宗寺院として開創された。茂山は南陽寺を建立し間もなく文禄3年1594に亡くなった。その後、寺は無住状態が続き廃寺同然となった。光泰寺2世の大翁恵最が、この寺に隠居して堂を再建し、曹洞宗の寺に改め光泰寺末寺とした。大翁は地蔵菩薩を厚く信仰していたので、延命地蔵菩薩本尊とし、諏訪明神を寺の守護神として祀り南陽寺の最高に努めた。大翁は寛永11年1635に亡くなった。嘉永6年1850には冨山和尚が雨乞いの御面を諏訪神社に奉納した。また線刻不動明王を山上に祀り村人の信仰を集めた。明治維新後、平野佐助等は20数名だった檀信徒を増やし、寺の経済的基盤を確かなものにし、明治34年1901老朽化した本堂を新築(現在)した。南陽寺は開祖がなくなった後、長い間本寺光泰寺住職による兼務が続いた。そして明治41年1908三輪十輪寺柴田実雄の弟子水谷貫禅を迎え法地寺院となった。
 *諏訪神社は、大正7年に立石神社内に合祀された。
  線刻不動明王は、大正末頃境内の現在地に移された、
  雨乞いの御面(雨龍さん)は、今も雨乞いのときに梅花流御詠歌により祈願されている。
・新:六地蔵
・水子地蔵:
・堂:線刻不動明王、
・(梵字)庚申 昭和五十五年二月吉日建 講中
・供養塔2、
・地蔵

・立石神社(内谷本郷2248) 

○多福寺(内谷本郷2360) 
・寺名碑:明照山多福寺 昭和四十七年
・三界萬霊塔
・供養塔か観音?
・六地蔵
・一國順礼供養塔
・地蔵
・石塔
・南無阿弥陀佛

○ふるさとみかん山(内谷本郷) 
・「家康手植の蜜柑」(静岡県指定天然記念物)の穂木を接木した小みかんの木
 徳川家康が大御所として駿府城に住んでいた頃、紀州藩(和歌山県)から鉢植えみかんが献上された。家康は、このみかんを自ら、駿府城本丸に移植したと伝わる。静岡県指定天然記念物「家康手植の蜜柑」は今も駿府城公園内にあるが、このたびその穂木を接木したものを園内に移植した。このみかんは現在皆が食べている温州みかんとは違う「小みかん」という種類で、香りと酸味が強く、種が多いという特徴がある。
・静岡県産温州みかん発祥の地:岡部
 古くから武家等の上流階級に珍重されたみかんだが、静岡県で栽培が本格化したのは、温州みかんの栽培が始まった江戸末期以降のことである。温州みかんは現在日本で最も普及している甘くて食べやすい種類で、県内では文化年間1804~1817に現在の藤枝市岡部地区三輪に植えられたのがはじめと伝わる。明治19年当時の志太郡長:松田寅卯氏の尽力により、みかんの栽培は広まっていき藤枝、岡部は県下でも有数のみかん産地となった。
(出展:志太郡誌、静岡県蜜柑小史)

○和田の地蔵さん(内谷本郷) 
  ふるさとみかん山の北隣にある
昔この場所は寺に通じる参道ではないかと云われる。馬頭観世音:天正六1578年、無縁法要塔:元禄四1691年、六地蔵菩薩等が立ち並び、地域の人々は地名から「和田の地蔵さん」と呼ぶ。馬頭観音が祀られていることから、農耕や荷物の運搬に使われた馬や牛等が、葬られ供養された場所であったと云われる。毎年8月23日に地域内の地蔵菩薩と一緒に供養されている。
・石塔:数基
・地蔵:数基
・馬頭観音:数基
・供養塔:「無縁法界  」数基
・石塔:破片いくつか

○興福寺、薬師如来(三輪471) 
・薬師如来立像:市指定有形文化財、像高:83㎝、檜の一木造り
像高83.0㎝、製作者は聖徳太子と伝えられる。秘仏とされている。33年毎開帳時しか拝めない。容姿は○○円満で優美な○原仏(平安時代)の特徴を備えている。
  皇極天皇三645年、東国に流行した疫病を平癒させるために、この地に大和の國の大神(おおみわ)神社の分霊が祀られたおり、奈良の興福寺の許可を得て祀ったと伝わる。またこの仏像は聖徳太子作と言い伝えられるが、円満で優美な容姿や作風は飛鳥仏よりも藤原仏(平安期代中、後期)の特徴をより多く供えている。尚この仏像は興福寺の秘仏として大切に伝えられ、33年毎開帳。次回は2018年予定。
・古い墓石7
・祠;観音:第廿六番、観音
・石祠
・地蔵:座
・廻國供養塔
・石塔:?庚申供養塔らしき見言聞ザルレリーフあり、
・馬頭観音 

・水車小屋跡(三輪)

・子安観音:三輪
子安観音:建立:寛永7年7月17日庚午かのえうま1630、徳川三代将軍家光の時代で、当時この三輪の里に子供たちの疫病が大流行し難儀の挙句、子供を疫病から救うため、里の人々が講を作って、この観音を建立したと思われる。その後は疫病はもとより一切の難を逃れ子供も健やかに育つようになったと云われる。講中は15軒ある。例祭日:8月17日、子安観音は子宝、安産、子育てに御利益があると云われ、今でも御利益があったということでお菓子等を供えていく人がある。 

・馬頭観音:三輪字後呂
 一面二臂(顔が一つと腕が二本)で頭上に馬の頭をいただいた姿だ。馬は昔から農耕や運搬の手段として大切にされてきた。また馬は牧草を食べるように人の煩悩や厄災を食べつくし救済すると云われる。不幸にして道半ばで力尽きた馬の冥福を祈りねんごろに葬った。その供養碑が馬の安全息災と旅人の道中無事を念じ、馬頭観音として路べに立てられた。

○十輪寺(三輪925)宝珠山  
・宗派:曹洞宗(禅宗)、道元禅師1200~1253、□山禅師1268~1323
・本山:永平寺(福井県)、総持寺(横浜市)
・本尊:延命地蔵菩薩
・開創:寛永元年1624
・開山:照山元春大和尚(林叟院9世)しょうざんげんしゅんだいおしょう
・開基:嘯山虎公和尚しょうざんここうおしょう
・由緒:当山はその昔小寺であったが、寛永元年1624嘯山虎公和尚が三輪村の人々の協力を得て伽藍を再建し、照山元春大和尚を拝請して結制安居ができる修行道場として格をあげ曹洞宗寺院として再興開創された。現在の諸伽藍は本堂:享和3年1803、書院:明治18年1885、山門:昭和24年1949、位牌堂:昭和55年、庫裏:平成14年、にそれぞれ築かれた。
・見どころ:木喰仏2体文化財、もくれん約350本、伝説:水石火石と山号、宝珠山のいわれ、
・年間行事:1月1日10時:新年祈祷会、2月3日節分豆まき、3月中旬頃木蓮祭り、8月4日10時半:施餓鬼、8月24日夜地蔵尊縁日、10月第4日曜日開山忌、
・月例行事:地蔵講毎月24日午後1時、座禅の会第2日曜朝8時、写経の会第4日曜午後3時、
・子安地蔵菩薩立像:像高138.0㎝、寛政12年7月12日完成、市指定彫刻。
この像は比較的大きく堂々としており、微笑した顔は心休まるもので静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに数えられる。
比較的大きく堂々としたものである。顔の微笑も心休まる表情をしており、静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに数えられるものである。製作者の木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足をとめたほとんどの土地に仏像を残している。
・虚空蔵菩薩立像:像高113.0㎝、寛政12年7月11日完成、市指定彫刻。
どこかしら遠くを見る目、笑みを浮かべた顔には底知れない知恵が秘められる。
 木喰仏の晩年のものはいずれも微笑しており、どれも似ているがよく見るとみな違う。この虚空蔵菩薩は若い女性の表情をしている。どこかしら遠くを見る目、微笑みを浮かべた顔には底知れない知恵が秘められている。木喰上人は寛政12年1800の6月13日までまる2か月間岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には十輪寺2体、内谷光泰寺2体、桂島梅林院2体の6体がある。
・沙羅樹:ナツツバキ:釈迦が涅槃に入るとき(逝去)四方の8本の内4本が悲しみで枯れたという聖樹。日本ではナツツバキを沙羅と呼ぶ。この木は伊豆修善寺の実から育てたものである。
・水琴窟:少しずつ水を流すと妙音が地中より響く。
・仏足石:釈迦の足跡を石に刻んだもの。古代インドでは仏像が作られる前の古い時代から仏足石を敬い礼拝する風習があった。日本では天平勝宝五年753に奈良の薬師寺に安置されているものが最初のものである。
・石塔
・石燈籠2
・石段
・古:墓石多数
・観音
・六地蔵
・古:墓石:宝篋印塔、五輪塔:多数
・地蔵
・観音3
・山門:周辺は前庭で自然石多数配置

○金毘羅神社(三輪925) 
 藤枝市岡部町三輪字佐護神ヶ谷(さごじがや)879番地 、祭神:おおものぬしのみこと大物主命、例祭日:10月10日近辺の日祭日、
 創祀:文化七1810年、祭神が安置され文政九1826年に大畑仁氏の先祖により、大祭が催されたと記録にある。明治35年1902に大畑博俊氏の先祖から土地の譲渡を受け現在地に鎮座した。ここは三輪の集落のほぼ真ん中の高台(標高56.5m)にあり、駿河湾、志太平野、南アルプスが望める。地元では「こんぴらさん」と呼ばれ親しまれてきた。毎年行事は講中の上組、中組、五軒屋組、桐川組が交代で執り行い、10月には例祭を行う。前夜祭には太鼓を打ち鳴らし、翌日の例祭を集落全体に知らせたと云う。当日は赤飯(しょうゆ飯)の三角むすびが献じられ、講中の参列者や子供たちがこれをいただいたという素朴な祭りだった。岡部史談第2集「岡部のお宮さん」より

・常夜燈 

○神神社みわじんじゃ(三輪1288) 
 祭神:おおもののぬしのおおかみ大物主大神(大国主神の和魂ニギタマ)、相殿  天照皇大神・葛城一言主神、 例祭:10月19日、 創祀:皇極天皇3年644,4月中も卯の日、
 由緒:皇極天皇の御代東国に疫病が蔓延して人民が苦しみあえいだとき、先の崇神天皇の御代の吉例に倣って大和國三輪山大物主神を意富多多根古命おおたたねこのみこと26代の子孫三輪四位を神主としてこの地に祀り、大難を救ったのがこの神社創祀の由来である。
 文徳天皇仁寿元年851正六位上の位を賜ってより順次叙位を重ねて、伏見天皇正応六年1293正一位を賜る。明治6年3月22日郷社に列せられた。当神社は古来本殿がなく、三ツ鳥居の奥が古代の斎庭(まつりのにわ)であった。今でも例祭等主な祭りには、お山に五対の御幣を立て、本殿と同じ神饌を上げて祀る古代祭祀の姿を残している。(藤枝市岡部町民俗無形文化財)、
 特殊神饌:例祭:白おこわを献ずる、端午の節句:6月5日、茅巻(ちまき)を献ずる、
 特殊建造物:三ツ鳥居(三輪鳥居)
 本殿:文化八年十月、拝殿:昭和6年10月、明神鳥居:文政九年十月奉建、
山宮祭
本殿三輪鳥居奥の岩頂は、本殿ができる前、古来の○庭だ。今でも例祭など主な祭りには、お山に五対の御弊を立て、本殿と同じ神幟を揚げて祀る古代祭祀の姿を残す。

・山の神祭り
 神神社飛び地境内地
 2月8日、飛び地境内である高草山の中腹にある、古代そのままの「山の神の磐座」で行われる。
・三ツ鳥居
 現在では大神(おおみわ)神社とここ神神社にしかない、珍しい形の鳥居。神と人の世界を区切る鳥居で、くぐって入ってはいけない、とされている。

 ・神神社の森:緑の森は神々の衣、静岡県ふるさとの森百選、御遷座皇極天皇三年644、
延喜式内神神社、
 ・笹百合:科属:ユリ科ユリ属の多年草、分布:日本にだけ自生し、本州中部地方以西から四国、九州地方に分布する。
 大三輪の神様と笹百合 ~古事記「左韋と云ひき」さい~
 古事記によると、三輪山から流れている狭井川のほとりに笹百合がたくさん咲いており、大三輪の神様にお仕えしていたイスケヨリ姫は、6人の御供たちを連れて笹百合をつんでいた。そこへおいでになった神武天皇は、その清楚な美しい姿の姫に一目で見初められて皇后になった。日本国第一代の皇后は笹百合が御縁で誕生した。そのため大神神社では笹百合を御神花として守り育てている。神神社でもこの吉事にならって笹百合の栽培を行っている、5月下旬から6月にかけて清楚な花を開く。
・杉之坊社:参拝所:
 祭神:ひぎたかひこのかみ霊木高比古神、ひぎたかひめのかみ霊木高比賣神、
 例祭:1月7日
 特殊神饌:三角のおこわのおむすびを「かくれみの」の葉にくるんでお供えする。
 由緒:森の鎮めの神として社殿はもたず、御神木を中心に祀られてきたが、明治34年長い間難病に苦しんできた伊久美村(現:島田市伊久美)の福井伊太郎氏が快気の御礼に小型の社殿を奉建した。現在の社殿はその曽孫にあたる高橋金子氏が平成改元を記念して奉建した。神神社の荒魂の神として、霊験あらたかな御神徳は病気、怪我、災難除けの神様として古来より厚く信仰されている。 
・石鳥居・昭和五十四年
・新:石燈籠2
・忠魂碑
・石うさぎ2
・石御神燈1:天明九
・石橋
・石神燈:~~陸軍歩兵~~

・かみなり井戸(三輪1288) 
 昔この神神社の森にかみなりが落ちたことがあった。神はたいへん怒って、そのかみなりを捕まえて、井戸に閉じ込めて蓋をした。かみなりは「もう二度とここには堕ちませんから、どうk許してください。」といって泣いて誤った。神もさすがに可哀想になって助けてやった。雷はたいそう喜んで天に上っていった。それからはこの森は一度も雷が落ちたことがないと伝わる。宮司。

・田明神(三輪1288)  
 田明神は元は神ミワ神社の南方約100mの田の中の小さな祠に祀ってあったが、昭和60年1985に境内の神域に遷座した。しかし例祭は元の小さな祠跡に降神して行う。例祭は1月11日朝、日の出前に東に向けて設けられた祭壇に焼餅、干し柿を献じる。祭を終えて参列者はこれをいただいてたき火に当りながら食べる。農家ではやはり1月11日に「春田打ち」と称して一鍬起こして立てた萱の穂の根元に小さなお供え餅などを上げて祀る。農作業の行為を模倣的に演じ、実際の農耕の成就を祈念する。この地域では古くから男子の行事とされている。岡部史談第2集「岡部のお宮さん」より


~藤枝市横内~
・慈眼寺(藤枝市横内179) 

・白髭神社(横内208⁻8) 

・貴船神社(藤枝市旧岡部町内谷783⁻1) 

・鳥居(横内51⁻1) 

・石仏(横内51⁻1) 

・看板、石仏(横内1-4) 

・横内橋(横内1-4) 

・石仏(仮宿1012) 
 横内橋袂。
~~~~~~


~焼津市~
○智勝神社(焼津市策牛398) 
・石鳥居
・手洗石
・献燈2
・石段
・板碑

○薬師堂(焼津市策牛436)策牛集会所 
・説明版:現在の建物は昭和2年村人によって建てられたもので、近年改修された。この地より西方1㎞の原の山(犬頭塚)に満願寺という寺があり、戦国中期に戦火により焼失したおり、寺の一部を移築したお堂の後に建てられたものと伝わる。本尊は薬師如来で左手に薬壺宝珠を持つ姿をしている。また十二神将を従えているが、顔面を削り取られており、時代的な謎とされる。地元の人には耳薬師として信仰され耳の不自由になった人が願をかけ、治癒したときに穴の開いた石をお果たし(御礼)に供え、今でもその石が多く残っている。このお堂の裏手には明治の始めに廃寺になった寶善寺があり、尼僧が住持していた。地元ではこの辺りを寺屋敷という。
*私見:耳の病気を治すという薬師如来の顔面が削られているのは、昔は病気を治す際、仏像の一部を削って服用すると効果があると云われたためかもしれない。耳の病気なので耳附近の顔面が削られたのかもしれない。

・おくまの石(策牛) 
 石には霊力が潜むと信じられ、巨石は信仰の対象とされ、当地区には「ぼたもち石」「むじな石」等があり、この「おくまの石」もそのひとつである。女性の裁縫の御守りとして、カナ糸等を奉納した。

○神龍山 長福寺(関方412)曹洞宗 
・地蔵:祠、地蔵、第丗ニ番 
 この地蔵は元は裏の寺山山頂:104mに安置されていた。田中城の殿が検地で岡部方面より見回りに来て関方に差し掛かると急に馬が棹立ちになって暴れ、殿はスッテンコロリと落馬するという事故があった。易者に伺ったところ地蔵を山頂から降ろして読経の聞こえる所に安置するよう告げられ、現在地に祀った。地蔵の顔にイボが治った跡があると云われ、台座周りの丸石(経文石)を早朝に借りてイボをそっとなでると治ると参詣人に云われていた。縁日は8月18日で戦前は夜店が数店出てにぎわった。現在も祭りは続いている。
・経塚石
 碑文:圓通懺摩法一座  奉書寫一字一禮  寶筐印陀羅尼三辺  
    大般若経一巻大悲神梵消神梵   大乗妙典経一般若心経佛陀  
       百楞厳神梵一巻大施餓鬼光明無
    明和ニ乙西歳1765八月晦日回向供養  願主 義目 謹書
    石数八万七千施主男女等

・供養塔
・六地蔵+1、地蔵
・地蔵、・石塔、・観音3、
・石燈籠、・手洗石
・石祠
・葷酒不入山門
・石塔

○猪之谷大明神(関方15) 
 ・六鈴鐘出土古墳:市指定有形文化財、直径13.8㎝、厚さ0.55㎝、古墳時代後期のものと推定される。日本の古代社会においては、鏡は姿見としてではなく、呪術的な道具として考えられている。鈴についても呪術的な道具として考えられている。鈴についても呪術具祭器として使用されている。こうした祭儀用の鏡と鈴を一緒にしたのが鈴鏡で、日本特有の鏡である。この鏡はほとんど完全品で、形式のみごとなものである。内区は内行五花文を中心とし、重圏文と櫛歯文を交互に二重にまわらせている。6個の鈴が付き内2個が半面欠損しているのみで、まことに貴重な珍品である。
  ・ナギ:市指定天然記念物、目通り2.25m、根回り2.6m、樹高16m、枝張り5m、神社拝殿前にある雅樹で樹勢は旺盛である。ナギはマキ科の常緑高木で元来亜熱帯性植物であり、わが国では、暖地に自生する。葉脈が平行であるため、せんまいさばきともいう。
・石鳥居
・新:狛犬2
・新:手洗石
・手洗石
・石燈籠
・石室:祠:古墳前
・石段

・山の神祭り(関方) 
 焼津市関方地区で毎年2月8日に行われる祭り。山の神を田に迎えて、その年の豊年万作を祈る神事で、祭りのもっとも原始的な形を残している。以前は前日7日に年行事当番の青年たちが「山の神の勧進(かんじ)、何でも一升十六文」と言って集落中から米や豆等を集めて回ったが、今では行っていない。しかし年行事当番は、1,2週間も前から山道普請、祭具、お供え物の調達等、ほぼ昔からのしきたりにそって準備している。前日7日には、お供え餅(古くはしとぎ)、直会(なおらい)のごちそう(赤飯、煮豆、おから等)が作られる。
 8日は早朝から龍神、幟、しめ縄、御幣(4本)、御弓(2張)、御矢(6本)等が調整される。そして午前9時ころの1番鉦で村中に祭りのふれが合図され、午前10時半頃の2番鉦で祭り行列は出発する。途中「参ろう参ろう御幣(おんべ)持って参ろう。」と、大声で唱えながら山道を上っていく。
 山の神の磐座(いわくら)は、高草山の標高200mばかりの所、沢の源流部にある。神前に龍神を飾り、お神酒、餅、赤飯等を供えて参拝する。参拝が済むと2張の御弓から計6本の御矢が下に向かって放たれる。山の神はこの矢に乗って里に降り田の神となる。
 この行事が済むと50mほど下の拝所で直会が行われる。この直会は神と共に食事を楽しむという意味がある。

○やいづ山の手今昔案内解説 
1、 高草山山頂、標高501.4m、測量三角点設置通信各社中継アンテナ設置地点。
2、 無名戦士の碑:ソロモンの碑
3、 古木一本杉、樹齢推定300年、一本杉茶園、やまざくら群生地、大島ざくら群生地、複線索道、単線テッセン発着跡地
4、 池の平(三輪地内)湧水池、貴重な飲料水、湧水井、えごの巨木あり、
5、 しらみ平(白帆見平)岡部町との尾根境行政界、
6、 策牛山の神鎮座地(五反明)、
7、 方ノ上城址 石合山(いしゃばい山)標高230m、伝承狼煙台、天文5年1535今川義元判物写、花倉の乱、
8、 幻の池出現地(池ノ窪、池ノ段)
9、 方ノ上古墳群、経塚(問)発見地石合山山頂) 古代平安朝
10、 関方山の神奥の院 例祭2月8日、(焼津市無形文化財指定)
11、 関方山の神拝所 直会場 石切場
12、 炭焼き窯跡地(小深谷)
13、 水車(米搗き場)跡地
14、 索道荷受場跡地 茶、みかん、農産物、材木
15、 おくまの石 安産、機織り信仰の拝み石
16、 高草山登山道入口石碑 きじ屋 かやのき
17、 薬師堂 耳薬師、穴明き石、庚申塚、十二神将、百万遍数珠
18、 マンボ(県道焼津岡部線に架かる道路兼水路橋)大正9~10年工事、方の上に畑生まれる
19、 智勝神社、天正12年4月創立1588郷倉跡、共同作業所跡
20、 焼津病院、犬頭塚、策牛関方用水水門
21、 水田みかん転作地跡(昭和44年完工)
22、 清水遺跡(弥生時代)
23、 青雲寺跡
24、 奥屋敷古墳群
25、 長福寺 1660年 林叟院13世創建、本堂建立 安政7年1861 いぼ地蔵 経塚石 坂本 松雲寺より長福寺学校日新舎(明治8年~13年生徒50名)
26、 猪の谷神社、興国5年1334,4月建立、古墳時代後期人穴さん、市天然記念物、ナギの木、市文化財、六鈴鏡、
27、 高草山登山道入口石碑、山の手口2000年記念建立、関方茶工場跡(共同作業所跡)昭和20年~平成2年解散
28、 山の手会館 昭和48年新築
29、 河心改修の碑、朝比奈川改修、昭和3年建立、
30、 蝋梅の里、梅の木街道、老人クラブ管理、山の手クリニック、永田デイサービスセンター、
31、 バクダン淵伝承版:昭和20年5月19日投下、朝比奈川堤中里用水堰管理棟太平洋バクダン淵跡、
32、 ハチガシリ流水橋跡
33、 山の手桜堤、さくらまつり、2月第3または第4日曜日、東海道自転車道、
34、 朝比奈川、葉梨川、吐呂川合流点、
35、 秀水苑(老人ケアセンター)
36、 六字堤防跡、尺土管跡、策牛、関方の田園、35ha に1か所直径1尺の排水口、天保6年1835~昭和44年1969まで
37、 方の上学校日新舎:長福寺より新築に依り明治13年~19年、以後越後島尋常小学校分教室となる
38、 八王子神社:天文7年1538,9月創立、天正5年1577、
39、 方の上茶工場跡(共同作業所)
40、 法号庵、閻魔さん、侍者仏
41、 梅の木街道
42、 石切り場
43、 コミュニティーケア高草、老人福祉施設
44、 方ノ上遺跡、中世奈良時代
45、 二重堤防跡
46、 雲龍、雲渓、雨後谷間より湧き昇る雲の様子、
47、 関方、三輪埋樋切崩事件、延享3年1746、
48、 谷川(高天井川)堤跡:昭和44年土地改良により改修、
49、 太田川(新川)跡:昭和44年土地改良により改修され高草川生まれる:昭和18年学徒動員東大生により暗渠排水工事、
50、 防火用水槽:消火栓設置以前地区自衛の為設置、
隣接地:
焼津市坂本、坂本神社、林叟院、高麗福祉センター、坂本団地、藤枝市岡部町三輪、神(みわ)神社、三輪団地、
山の手地区の概況:
 焼津市の西北部、藤枝市岡部町との隣接地域にあり、高草山尾根を境とし、吐呂川、朝比奈川合流点より東、朝比奈川本流の北側の地域で、東名高速焼津インターチェンジより約1㎞の所にあり、山、畑、田と自然に恵まれた地区で、現在三字合計戸数346戸人口1036人(明治24年の戸数、 方の上37戸、194人、 関方46戸、264人、 策牛34戸、227人)の昔から長い歴史と文化をもつ平和な郷である。2006年焼津市山の手未来の会創立10周年。

○方ノ上城跡(かたのかみじょう)入口 
方ノ上城址 石合山(いしゃばい山)標高230m、伝承狼煙台、天文5年1535今川義元判物写、花倉の乱、
 天文五1536年以前の築城で、今川氏の家督争いである花倉の乱において玄広恵□(ゲンコウエタン)方の拠点の一つであった可能性がある。

○八王子神社(方ノ上154) 

○祠:地蔵、馬頭観世音(方ノ上400⁻1)、水準点 
 馬頭は昭和13年12月大石建立。

○法号庵(方ノ上343⁻1) 
・方ノ上閻魔堂:安置:享保四1720年、当時の安置場所は現在地より北側の県道近辺の方ノ上地蔵堂に安置されていたが、県道の拡幅工事に依り現在地に移転された。
由来:赤穂浪士の敵討ちのあった元禄の世も、宝永、正徳と移り変わったある日、元吉良家のある家来が、各地流浪の末、方ノ上村の地蔵堂に堂守として住み着いたが、今まで過ごしてきた土地でも、またこの土地でも吉良家の評判が悪かった。吉良の殿様は悪くなく、自慢の殿様だと思い何とかしたいと悩んでいた。これでは吉良の殿様をはじめ、大勢の犠牲者の霊は浮かばれない、成仏できないと思い、堂守はあの世で人の生前の裁きを閻魔様にしてもらおうと考えたのが、閻魔様を作ることだった。まずはこの土地の法号庵の住職、更に地元名主へまた本寺林叟院方丈へと相談の上、江戸に上り寄附を募り立派な閻魔様を享保三年の暮れに完成させた。翌年の春、焼津湊の積問屋巻田久左衛門の船で順風に乗って運ばれ、善男善女に出迎えられて、方ノ上地蔵堂に安置された。堂守が一念発起してより5年目だった。船主巻田久左衛門は閻魔様を運んだのを慶びとして、脇立2体と鉦を寄進した。
・六地蔵
・窪なし地蔵:3
・地蔵:3
・石仏:4
・石塔:3
・五輪塔破片
・石塔
・結界石2

・祠:石塔:寺前辻にあり

○坂本神社(坂本1045⁻1) 
・保存樹木:ほるとの木
・石段
・献燈2
・献燈2
・石祠:19以上多数
・手洗石
・祠
・本殿、拝殿

○林叟院(坂本1400) 
 市指定文化財
 ・経蔵:木造一重桟瓦葺、方形造り。内部は正面奥に仏壇、中央に輪蔵、格天井で4.84m
(16尺)4面である。経蔵とは一切経等の経典を納めておく蔵で20世心牛租印師が明和五1768年建造を発願し、明和八1771年に工匠石川市之丞及びその子権右衛門により上棟された。師は中央の輪蔵に一切経全6930巻を納めることを目標としたが、その一部950巻を収納できたのみと伝わる。
 ・鐘楼:木造入母屋造り桟瓦葺、袴腰付、二軒繁垂木ふたのきしげたるき、勾欄付こうらんつき。間口奥行共に2.83m(9.34尺)下層地貫上端かそうじぬきうわば、高さは礎石上端より丸桁がぎょう上端まで4.84mである。鐘楼は別名鐘撞堂かねつきどうとも言い、寺院の境内等で釣鐘のある堂のことを言う。この鐘楼は宝永三年1706の創建と云われてきたが、平成14年度修理の際、天保十五年1844の棟札と棟束むねづかに墨書が確認された。梵鐘を吊るすのに袴腰付形式のものはなく焼津市内では唯一つである。
 ・宝篋印塔:高さ約2.6m、宝篋印塔の名は「宝筐院陀羅尼」という経典を納めたことに由来する。石造塔では墓塔または供養塔として造立されたものが多い。下に基壇を置き、その上に反花座、基礎、塔身、笠の順に積み、最上部に相輪を立てている。寛政三1791年の古図に移設前の姿がえがかれているので、それ以前の建立と考えられる。
 ・ホルトの木:目通り3.1m、根回り4m、樹高20m、枝張り24m、で、林叟院の墓地裏にあり、樹勢は旺盛である。ホルトノキ科に属し亜熱帯原産のもので、房総半島以西の太平洋岸の暖地、特に四国、九州地方に生育するが、本県には数が少なく大木であるのは珍しい。焼津市歴史民俗資料館。
・自然石2
・角柱2
・如来
・馬頭観音2
・六地蔵+1
・祠:地蔵4
・石仏:多:地蔵、観音、墓石?
・不許葷酒入山門
・石塔2
・新:六地蔵
・歌碑&説明版石
・新:地蔵
・すぎ保存祷:大木
・山神血脈石
・石燈籠1:、2:
・石仏&石塔21:
・忠魂碑

・笛吹段古墳群(坂本)笛吹段公園 
 高草山中腹標高約260mに位置する。古墳時代後期の古墳で10基の横穴式石室が見つかっている。昭和58年農道の整備に伴い調査が行われ調査後はほとんど埋め戻されたが、現在2基の石室を見学できる。

・東海道標識(坂本521⁻3) 
 東海道とはいっても有名な東海道ではなく、東の街道を意味したと思われるが、または古代東海道の名残か? ただ焼き津辺から花沢へ行くには西に遠回りではある。
 ・説明版:海道には街道と垣内の2つの意味がある。やきつべのみちの海道と、東の屋敷の集落の2説がある。いづれか。

○筧沢寺(石脇上423) 
・庚申供養塔
・石塔
・六地蔵
・地蔵2:立、座、
・石塔:納経寶塔
・石塔:金毘羅宮
・本堂裏に古い墓地、墓石
・新:寺名碑:曹洞宗風尾山筧澤寺入口 

○高草山ハイキングコース標識説明版(石脇上528⁻1) 
高草山ハイキングコース:大滝延命地蔵、正午を知らせる石「時石」、潮見平を経て高草山頂上へ、池の平遊水地、金苞園を経て戻る。駿河湾、富士山、伊豆連山、志太平野を一望する健脚向きのコース。三輪公民館~高草山山頂(潮見平コースで100分)、高草山山頂~三輪公民館(池の平コースで45分)、
・富士見峠
・鞍掛峠

○高草山 
 標高501.4m、農作物の宝庫であり野鳥の森としても知られる。高草山はアルカリ玄武岩から成る山で、枕状溶岩や珍しいタカラン石が見られる等地学上でも有名。大井川平野や遠くは御前崎まで眺めることができる。
・山頂:電波塔、
・祠:高草山上大神(高草権現)

○勢岩寺(石脇上600)曹洞宗 谷汲山 
・弘法大師像:焼津市指定有形文化財、像高17㎝:5寸6分、内台座4㎝:1寸3分、袖張り7.5㎝:2寸5分、木喰五行上人作、小さいながらもまことに丁重に彫刻された美しい座像であり、いかにも幸福をもたらしてくれそうな微笑ましい木喰仏である。光背が常楽寺、宝積寺の物と同形式であり、台座は大日菩薩のものと同じである。製作は寛政12年1800の7月と推定される。
(背面の墨書)日本国中 木喰五行(種子)大師遍照金剛 父母安楽菩薩(花押)正作自在法門 
(背面の墨書)(光明真言)(梵字)寿命日本千体(身体)ノ内 国王国中 大師遍照金剛 父母安楽 百万歳 正作 天下一自在法門 八十三才 木喰五行菩薩 (花押) 
・機織り地蔵尊の由来:弘法大師の甥で、後に近江國三井寺開山になった智証大師が、円珍と呼ばれていた頃、大和國長谷寺に参詣し、一心に拝んでいると、長谷寺鎮護の神の手力雄尊が霊夢に立った。この寺の開山徳道上人が本尊を造刻したときの霊木が残っているから、この霊木で不動明王を造刻して、駿州花沢の法華寺の十二坊の一坊に納め、永く衆生を済度せよ。石脇前の泓に至れば金色の光を放ち、地蔵尊が迎えるだろう。機織りの地蔵と言い六十六番札所の二十二番と定められ、いかなる願懸も必ず利生を授けると云う。一刻も早く不動明王を刻み、駿河に下向せよ。通力自在の計らいをなさん、と言い手力雄尊は消えた。円珍は霊木で直ちに不動尊を造刻し、駿河に下った。石脇前の泓に立つと金色の光が差し、円珍を迎えた。光の消えた後、機織りの石の上には地蔵が座っていた。これぞ霊夢のお告げの通りと恭しく拝んだ。当山に本尊を納めた。この地蔵は肌身地蔵といって体内に尊像を身ごもって、子授け、安産の地蔵といわれ遠近にも比類のないものである。威徳は広大無辺いかなる難病苦難も家内安全、商売繁盛、学業成就、交通安全に至る、日々の衆生の生活を洩れることなく守り救ってくれる地蔵である。当山本尊を造刻した智証大師を金色の光を放ち迎えた地蔵を繰り返し拝んでください。
*泓=オウ、コウ、深い
・歌碑
・地蔵
・六地蔵+1
・三界萬霊塔
・石塔3
・祠
・赤鳥居、石祠
・新:十二支地蔵尊

・宝積寺(石脇下692) 
・地蔵菩薩立像:木喰仏:市指定文化財:像高77㎝(2尺2寸5分)、内台座14㎝(4寸6分)、 (背面墨書)法門 増宝寿 八十三才(花押)大菩薩 木喰五行菩薩 以下不明
(背面墨書) 光明真言 (種子)正作 天一 自在法門 日本千タイノ内なり 聖朝安穏増宝寿 南無地蔵大菩薩 天下安楽興正法 寛政十二甲歳八月四日ニ成就ス 命 万 百 木喰五行 八十三才 菩薩 年 (花押)
 この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂をつかんでいる。木喰仏としては珍しく、材質が桜の木である。しかもまことに慎重で、一部丸ノミが使用され、足指の爪まで掘り出されている。製作は寛政12年1800、7月と推定される。
*木喰五行上人:享保3年1718~文化7年1810、45歳の宝暦12年1762、常陸國の木喰観海上人によって木喰戒を受け、全国隈なく巡礼を行った。木喰上人は幾つかの願を持っていたが、その中でも大きな願は日本全国の神社仏閣に参拝する「日本回国」の願と、千体の仏像を彫刻してゆかりの国々寺々に供養したいという「千体仏」の願があった。この二大願を乗り越え、83歳で「日本回国」、90歳で「千体仏」の大願を果たした。木喰上人が現在の静岡県に入ったのは寛政11年1799ノ11月19日遠州の狩宿で、翌年6月13日に岡部町に入り8月13日まで2か月間滞在している。焼津市内の仏像もこの期間のものである。
・西國三十三番観世音菩薩:由来:当山石脇山寶積寺境内に安置する、これらの菩薩の尊体は今を去る180年前、人皇119代光格天皇の御代享和元年辛酉5月及び7月吉日を選んで当村並びに近郷の篤志家が先祖菩提のため、勧請建立したものである。このような33の尊体を羅列安置してある霊場は全く稀であり、その感応霊験あらたかなることは世人の良く知るところである。
・石脇山宝積寺は往古天台宗花沢法華寺寺坊の一つとして元小浜にあったが、波の為、欠損したので永禄十年、鎌倉建長寺派に属し時の庄屋原川新三郎氏が菩提の為観世音菩薩を本尊として建立、その後享和元年、近郷の寄進により西國三十三所観世音菩薩石仏尊体が安置された。しかるに昭和41年1月東名高速道路建設により本堂、墓石等移転のやむなきに至る。檀家一同一致協力5カ年の歳月を費やし以て境内の整地、本堂、庫裏の改築、墓石移転を終了、よって昭和45年3月9日落慶入仏式を挙行す。
・地蔵3
・観音
・石塔
・石塔2

・寺門前近くの参道入口に石塔あり。

○石脇浅間神社(焼津市石脇705) 
・祭神:木花咲耶姫命、品陀和気命、天照大御神、・例祭日:10月10日、境内社:津島神社、・境内地477坪、
・由緒:浅間神社上り口右側に大きな岩が2つある。旗掛石または鞍掛石という。本来この2つの岩は我が国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。この浅間神社は、延徳3年9月天下の英雄徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が郷里原川村から浅間社を勧請してこの聖地の例に奉斎したものと伝えられ、明治8年2月村社に、同40年3月神饌幣帛料供進社に指定された。旧除地高2石であった。
・災害:昭和57年9月12日本県を直撃した台風18号により境内の南側階段等倒壊し多大の災害を蒙るも464名の氏子一丸となって懸命な努力を続け復旧に直進し、同年10月吉日大鳥居を再建した。
・記念碑:この神社は延徳3年5月、この地に祀られた歴史をもつが、昭和57年18号台風の強襲によって標高17mの神社境内地が大きく崩壊し、明治27年氏子の建設した拝殿等床下倒壊の危険にさらされ氏子一同苦慮していたところ、ときの区長総代等相図り浅間神社再建奉賛会を設立し昭和58年10月10日第1回総会を開催氏子一同の賛同を得て発足した。奉賛会は総会以来満2ヶ年を予定し境内高を5mに造成拡充し拝殿新築、その他諸施設等完備、昭和60年10月20日完成、落成式を挙行し、且つ氏子総代に一切の管理を移管。まことに氏子の家運並びに子孫繁栄を共に地域発展を祈願して之を建立す。
・新:石鳥居
・新:石段
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2
・古:石
・献燈2
・石段
・新:社名碑:
・自然石:数個
・祠:数個

○旗懸け岩(石脇下89) 
 ・平和の碑
・この石は江戸時代、高草山周辺にたびたび狩りに来ていた徳川家康が家臣であった原川新三郎の家に立ち寄った際に、旗や鞍をかけたことからこの名がついた。また石脇という地名もこの石に由来していると云われる。
・旗掛石:当寺、岩の近くに原川新三郎氏の門前があり、家康が転化を取ってからしばしばこの辺りで鷹狩を催し、その都度原川家を訪ね、その際家康の旗を立てかけ、馬の鞍を置いたので、この名があるという。他にやきつべの小径、駒つなぎの松の名跡がある。また氏子たちで年2回大しめ飾りが行われる。
・しめ縄
 岩は磐座と云われ、2つに分かれていて、おそらくその間に土師器等を割って占いをしたのだろう。古代の祭祀場といわれる。高草山の中腹にも祭祀場の磐座があり、関連があるのだろうか。

・秋葉常夜灯(石脇下875) 

○石脇城跡、大日堂、八幡神社、六地蔵:説明版(石脇下906) 
・石脇城跡:応仁年間1467~1469に今川義忠の妻(北側殿)の兄、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が今川の客将として石脇に住まいを構えており、石脇城の築城はその後の文明年間1469~1486と推定される。北条早雲はその後、小田原城を本拠に戦国大名として世に出たので石脇城は出世の第一歩を進めた城といえる。現在曲輪跡と土塁跡が残っている。
 この城は北の高崎山から南へ枝分かれする尾根の先端の標高30mの城山ジョウヤマに所在する。15世紀(室町中期頃)の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城(支城)と推定され、範囲は南北約220m、東西130mと考えられる。山裾の西から南へ流れる堀川を外堀とし、山頂の第一曲輪、中腹の第二曲輪、その第二曲輪を堀切で隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪のための土手)の痕跡が残っている。城主については記録がないが、江戸時代に編まれた地誌「駿河記」によると、文明年間1469~1486に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇に住まわせたとある。伊勢新九郎盛時は文明8年1476応仁の乱の影響で今川家の当主、上総之介義忠が遠江(御前崎市川上)の塩買坂での戦死により、次代をめぐる家督争い(内紛)が起きた際、嫡子竜王丸(後の今川上総之介氏親)を助けて活躍をした。伊勢新九郎は、この功績により富士下方一二郷(富士市城)を与えられ、延徳3年1491以後伊豆平定に乗り出し、やがて関東8か国を治めた戦国大名北条家(後北条)の基礎を築いた。

・大日堂:
・不動明王像:像高94㎝、市指定文化財、(背面の墨書)日本千タイノ内なり 正作聖朝安穏増宝寿 天一自在法門(種子)天下安楽興正法 木喰五行菩薩 八十三才 寛政十二申歳七月廿三日 本 (光明真言) 命 百 母 万 □□ (種子) 父 歳 
 この像は、吉祥天立像が完成した2日後にできあがった。岩座の上に踏ん張り、渦巻きとなって燃え上がる火災の中に立ち、不動の気魂を十分に表しながらも木喰仏らしい人間味が出ている。
・吉祥天立像:像高94㎝、内台座13.6㎝、市指定文化財、(背面の墨書) (種子)日本千タイノ内なり正作聖朝安穏増宝寿 天一自在法門(種子)大吉祥天女 木喰五行菩薩 天下安楽興正法 八十三才 (花押)寛政十二申歳七月廿一日ニ成就ス
 吉祥天は正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので美しい顔になったという。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じるにこやかな童顔をしている。
*木喰五行上人と焼津:1718~1810
 安永2年1773,56歳のときに日本回国と千体仏の願を起こし全国を廻り諸国に自生の仏像を奉納した。現在全国で約500体の作品が確認されている。木喰上人が当地を訪れたのは寛政12年1800上人が83歳のときで故郷である現在の山梨県へ戻る途中であった。現在焼津市には、この時造られた仏像が大日堂、勢岩寺(歴史民俗資料館で保管)、宝積寺に残っている。

・城山稲荷社:赤鳥居、祠、
・供養塔2、「奉納大乗妙典供養塔」、「庚申供養塔」
・奉献燈:竿部分
・大山祇眷属龍神神社 昭和十一年
・墓石
・六地蔵
・城山八幡宮:・石鳥居、・手洗石、・祠
・石塔:古城山全昌院址 

・村はずれの細い山道 
ゴロタの石道、峠を越えるとそこは隣村、昔の古道。


○八幡神社、諏訪神社(高崎409) 

○鳴沢不動尊(高崎602) 

○花沢城跡(高崎758) 

○神明宮(吉津164) 

○法華寺(花沢2) 

○日本坂峠(焼津市花沢、静岡市小坂) 


○須賀神社(小浜35-1) 

○塩釜神社(小浜1520) 
・石鳥居


○海雲寺(小浜88) 

○大日堂(小浜) 

○道了権現(小浜) 
・砂張屋孫右衛門道標:

○虚空蔵山香集寺(浜当目) 
 仁王門

○弘徳院(浜当目三丁目14-7) 

○那閉神社(浜当目三丁目14-13) 

・鳥居(浜当目一丁目14) 

○西宮神社(岡当目74⁻1) 
・社名碑:供進指定村社西宮神社 昭和丗九年
・石鳥居:昭和三十九年
・手洗石
・奉請庚申供養塔 安永五
・石塔
・石祠
・祠
・献燈2:紀元二千六百年
・狛犬2:昭和期か?


○薬師堂(中里655) 

○若宮八幡宮(中里1000⁻1) 
 ・焼津市指定文化財:・若宮八幡宮棟札(長さ152.2㎝、厚さ3.6㎝、重さ5㎏)、若宮八幡宮が寛永六年1629に第2代彦根藩主井伊直孝(1590~1659)により再建されたときの棟札である。檜の一枚板の表面に黒漆を塗り、文字の部分を彫り込み白色顔料をかけている。棟札の文字は寛永の三筆として名高い松花堂昭乗の筆である。(歴史民俗資料館で保管している。) 
 ・若宮八幡宮の石橋:(長さ152㎝、幅159㎝)、天保六年1835に架設された石橋である。通路部分は4枚のアーチ型の板石でできており、高さ約33㎝の4本の親柱には再建年月と再建に関わった者の名前が刻まれている。
 ・直孝公産湯の井:伊井直孝は彦根35万石の城主で徳川譜代筆頭の大名である。現:国宝彦根城は直孝の築城である。当地若宮八幡宮は寛永六年直孝が建立した。
・歌碑:「歴史きさむ 棟札のこれり   」
詠者井伊文子は井伊家39代井伊直興氏(彦根市長)の夫人で、旧琉球王家尚昌氏の長女、女子学習院本科を卒業され、歌人佐々木信綱先生の高弟であり、歌集随筆集など多数の著書がある。このたび若宮八幡宮建立350年に当り、これを記念して表題の歌を書かれたのである。また夫人は沖縄のひめゆりの塔の憂歌「ひめゆりの 石ぶみに深う ぬかづけば 平らぎを希いなむ 乙女らの声は」の詠者でもある。 
・石鳥居:大正十三年、
・石鳥居:皇紀二千六百年記念
・狛犬2:平成十年
・手洗石:平成十年
・石燈籠2:
・御神燈2:日露戦役従軍者紀念、
・御神燈1:
・手洗石:慶應四歳
・祠4
・石祠
・自然石

○糧堂院、岡当目公会堂(岡当目381⁻1) 

○大徳寺(浜当目一丁目3-4)日蓮宗 
・石祠3、うち1つ稲荷、鏡

・マリアナ観音(浜当目三丁目16) 




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:12Comments(0)批評、歴史・地理・紀行古街道

2016年11月20日

静岡市清水区、富士市、沼津市:千本街道、海岸線:基礎資料

・前文
 数年前、秋の午後、千本浜からの自転車での帰りに歴史的な処を通過しつつ、適当に写真を撮っていた。午前中走ったあとで、疲れもあり、きちんと資料を整理する気にもなっていなかったので、散漫資料ではあるが、これも今後再調査し、整理するということで一応掲載する。


~清水~
・ほそい(細井)の松原、無縁さんの碑(辻三丁目7⁻15)
 ・説明:慶長六1601年徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同九1604年2代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同十七1612年完成したと伝えられている。元禄十六1703年駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺:約360m、松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は夏にはこの松原で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。ほそいの松原は太平洋戦争の松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。今の松は平成4年2月社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。
 ・細井の松原無縁さんの碑:説明:辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成13年東海道400周年記念で当石碑を建立した。
・ 松原観音堂、津島神社(西久保261)
 袖師ふるさとの路6、水準点、常夜燈、祠、石塔、
・馬頭観世音菩薩:祠(袖師町1081)
 ・袖師ふるさとの路1、
・延命地蔵:祠(袖師町1056)
 
・東海道松並木(横砂西町7-11)
 1本だけ現存する。


~由比~
・一里塚跡、祠:地蔵2(旧由比宿)





・穀茂利稲荷神社(由比723⁻1)


~蒲原~
・海宝寺(神沢487)

・正八幡宮(神沢400)

・大山祇神社(堰沢675)

・霊光禅院(堰沢675)

・関口神社(堰沢515)

・八幡大神宮、天満天神宮(中592)

・貞心院(中606)

・秋葉神社(中607)

・上山神社(小金473)

・白泉寺(小金473)

・稲荷神社(新田二丁目9)

・稲荷神社(新田二丁目8)

・城源寺(新田二丁目18-2)

・泉龍寺(新田二丁目17⁻2)

・和歌宮神社(蒲原三丁目32⁻1)
 金毘羅神社

・志田邸

・五十嵐邸

・御殿道の碑

・長栄寺(蒲原三丁目31-15)

・妙隆寺(蒲原三丁目30-19)

・若宮神社(蒲原三丁目27-11)

・蒲原城(蒲原)

・善福寺(蒲原善福寺3817⁻4)

・大正時代手作りの窓ガラスのある家()

・八幡神社(蒲原善福寺3747⁻1)

・旅籠「和泉屋」

・(木昌)守神社(蒲原三丁目26⁻3)

・明治時代のなまこ壁商家()

・明治時代のなまこ壁商家()


・八坂神社(蒲原二丁目13-14)

・御殿山公園(蒲原)
 狼煙場

・東漸寺(蒲原二丁目13-7)

・正八幡神社(蒲原二丁目八幡町13-3)

・竜雲寺(蒲原二丁目12-⒑)

・諏訪神社(蒲原一丁目14-13)

・北条新三郎の墓(蒲原一丁目14-4)

・蒲原木之内神社(蒲原四丁目27-31)

・光蓮寺(蒲原一丁目10⁻11)

・馬頭観音(蒲原一丁目10⁻11)

・義経硯石(蒲原一丁目9‐9)
・観音穴(?蒲原諏訪町)



○吹上の松:静岡市清水区:旧蒲原町、蒲原中学前(蒲原姫台124)
・浄瑠璃姫の碑
・吹上の六本松
・浄瑠璃姫之墓:
・地蔵
・説明:浄瑠璃姫に関する伝説は幾つかある。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河國矢作の宿の浄瑠璃姫が吹上ノ浜で疲れ果てて死んだという内容の話が描かれている。また小野於通の「浄瑠璃姫十二段草子」には、里人によって吹上ノ浜に追われた瀕死の義経が浄瑠璃姫の涙の雫で蘇るという筋書きになっている。義経と浄瑠璃姫の恋物語を語りものとして「浄瑠璃」が江戸時代に流行した。
 吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った塚の上に、目印として植えられたという。その後、大きな木に成長し、東海道を渡る旅人の目印となってきたことが「東海道名所図会」にも示されている。
 また武田方の戦記「甲陽軍鑑」には、永禄十二年1559、12月蒲原城が武田氏に落城させられた時に、この六本松のあたりに本陣を置き、勝どきを上げたことが記されている。浄瑠璃姫の碑は明治31年1898初代町長、五十嵐重兵衛によって建立された。この碑には「語り継ぎ 言い継ぎぎつつ今になお いくりの人の 袖を濡らすらん」(作者不詳)の歌が残っている。

・灌漑用水竣工記念碑:蒲原町長佐藤一郎書(蒲原新栄町4875⁻43)

・西木戸、茄子屋の辻(蒲原三丁目10-4)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれた。元は宿場は西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていた。元禄12年1699の大津波によって壊滅的被害を受け蒲原御殿があったという現在の地に移転した。西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、茄子屋の辻で乱闘が起った。承応2年1653高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒した。しかし最後に追手につかまり殺された。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は現在寺宝として保存されている。
 ・蒲原宿は江戸から37里:148㎞、品川宿から数えて15番目の宿場である。徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道53次の一つになった。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にあったが、元禄12年1699,8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により、大きな被害を受け、元禄13年1700、に山側(現在地)に移転した。天保10年1839の宿場の規模は宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と旅籠45軒で富士川の川留目の際などはたいへんにぎわった。
 ・西木戸跡:蒲原宿の西の端にあり西見付とも云われた。見付の入口に木戸の柵を設けたことから木戸とも云われ、東西木戸の間を木戸内と呼んだ。
 ・浦高札場跡:海に近い蒲原宿は蒲原の津(港)を経由する海上交通も盛んだった。浦高札は海船、川船など船舶一般の取り締まりのお触書で、これを掲示した所が浦高札場だった。
 ・高札場跡:□会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は幅2間5尺(5.1m)奥行4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の大きな規模のもので、ここには幕府のお触書が掲示された。
 ・御殿道:徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった蒲原御殿。御殿の位置はあきらかではないが、桜の名所御殿山と宿内に残る御殿道にその優美な名前を留めている。
 ・本陣跡:蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家で勤めていたが宝暦年間1751~1763に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣を勤めた。平岡家は明治11年に京都に転居した。現在の建物は大正時代のもので、邸内には今も大名が駕籠を置いたといわれる御駕籠石が残っている。
 ・木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵:木屋の屋号をもつ渡辺家は江戸時代末期、蒲原宿の問屋職を勤めた旧家。今も残るこの3階建ての土蔵の中には江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されている。
 ・問屋場跡:問屋場とは幕府の荷物の取次、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の取次をした所で、各宿内に1か所ずつ設置されていた。
 ・「蒲原夜之雪」記念碑:歌川(安藤)広重描く「東海道五十三次」シリーズの中でも「蒲原夜之雪」は最高傑作といわれる。広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して碑が建てられた。
 ・東木戸跡:蒲原宿の東の端にあり、東見付とも云われた。東木戸は当時の常夜燈(文政13年1831)が残っている。宿内安全と刻まれた常夜燈には夕暮れになると、ここから蒲原宿に入るという目印の灯がともされた。また東木戸のすぐ西側の所で道路がわずかに鍵の手になっている。これは幕府が戦略の一つとして作ったもので、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう、また軍勢の流れを阻止するためのものである。
 ・一里塚跡:一里塚は慶長9年1604江戸日本橋を起点に36町(1里:4㎞)ごとに築かれた塚である。この一里塚によって人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基礎に賃金も算定された。蒲原の最初の一里塚は元禄12年の大津波で流失し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものである。当時の面影はなく、今は小さな祠が残っている。

・「古屋敷」通り(蒲原三丁目西町14)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり西木戸と呼ばれた。蒲原宿はもと西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていたが、元禄12年1699駿河湾に大津波が発生して蒲原宿は壊滅的被害を受けた。そこで元禄14年1701幕命により蒲原宿は西木戸より左折して山の麓を東に進み、東木戸までを新しい宿場とすることとなった。したがって旧宿場の問屋、本陣、脇本陣、旅籠、馬役人屋敷等すべてがこの新宿場に移転した。ここに江戸初期100年にわたって栄えた旧宿場と古屋敷道はさびれていった。しかし近年この古屋敷道も現在では50余軒が軒を連ね往時をしのぐ勢いをみせている。


~~~富士、沼津~~~
              ’13  ’14  11月
~富士市~


・ディアナ号の錨:富士市有形文化財
 説明:錨全長:約4.0m、錨爪長:約3.0m、錨重量:約3t、日本に開国と通商を求めて来港したロシア軍艦ディアナ号は、嘉永七1854年10月に下田港に入港したが、安政地震に遭遇して大破した。修理のため戸田港に向かったが、強い西風によって漂流し、富士市三四軒屋沖で沈没した。この錨は長く海底にあり、地元領民や住民に「唐人の根っこ」と呼ばれた。昭和51年8月に引き揚げられた。

○三四軒屋龍王神社(宮島1391)、八大龍王神社(宮島1391-34)
・社名碑:
・石鳥居
・手洗石
・献燈6
・秋葉山常夜燈2
・狛犬
・石道標:従是東宮嶋村
・力石:説明:明治大正から昭和初期まで集落の若者たちが体力をつけるため、また力比べとして持ち上げた「力石」で重量106.2㎏。
・説明:祭神:八大龍王神、例祭日:8月23日、由緒:創建慶應三年、海岸沿いの当地は漁業を主に生活し、先祖代々海の守護神たる龍王神を崇めた。古く三軒家、四軒屋2区に分かれ、両区に同神社あるも、昭和15年区併合の際、初代区長井上喜氏は将来両神社の合祀を約束した。その後40余年を経て昭和61年合祀記念事業として本殿及び拝殿造営並びに20aの境内造営を行い、龍王神社は地区の氏神、海の守護神として崇敬をあつめている。


○金(昆)毘羅神社(川成島930)
 説明:祭神:高オカミノ神奉遷宮中央大日大聖八代龍王、大物主神金毘羅大権現、鎮守宮聖主大梵王、開運摩利支天、備前拾四柱大人命霊神(備前さん)、例祭日:11月10日、由緒:・本社祭神高オカミノ神創建不詳、弘化三丙午歳1846,9月吉祥日、新浜村中五穀成就祈雨止雨の神、昭和56年1981、7月1日静岡県神社庁より13等級「龍神社」と呼称決定、
 祭神大物主神金毘羅、本社殿は香川県琴平山の金毘羅宮を本宮として文政12年1829創建されたと伝わる。金毘羅とは薬師12神将の一つで祈雨、海難祈願の神として祀る。
 鎮守宮聖主大梵王は仏教の神格化したもので神社を守る神。
 開運摩利支天、戦勝の神。
備前拾四柱大人命霊神(備前さん)は、岡山県の御用船拾四名の遭難死を古来より祀った。いつともなく忘れられていた。探して祀れば霊験ありとのお告げあり、宮司により1991年11月吉日遷座祭施行す。
 1991年11月吉日、本殿改築新浜区の守護神として崇敬す。
・新:石鳥居
・新:献燈2
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2


・山王(日吉)神社(川成島417⁻8) 


○不動尊(宮島)
・南無阿弥陀佛
・石塔

○圓妙寺(中丸550)

○弁天神社(中丸829⁻1)
・赤鳥居

○稲荷神社(中丸864)

○愛宕神社(鮫島520)
・説明:祭神:ほむすびのかみ火産霊神、例祭日:10月17日、由緒:創建不詳、明治19年記録「日吉神社ノ傍字中嶋ト云フ所ニ鎮座アリシヲ寛政年間此所ニ遷座セシト云フ」、「御戸帳ノ裏ニ左ノ如ク記セリ愛宕山大権現御戸帳 寛政七乙卯六月廿四日 当村若衆中 願主 奥州行方郡相馬大原村西方法師」とあり、古くから広く崇敬を集めていた。また「愛宕山光耀寺」と書かれた古い木札が残っている。平成元年改築。
・石鳥居
・燈籠
・石塔
・石塔類:2
・無縫塔4
・石仏4:観音?
・五輪塔2

○天満宮、山神社(田子360⁻1)
・石鳥居
・石柱2
・献燈2
・献燈
・クスノキ:保存樹木

○林正寺(鮫島535)鮫島山
・石塔
・南無妙法蓮華経□九丙子
・南無妙法蓮華経
・南無蓮本菩薩

・稲荷神社(鮫島569⁻6) 

○山神社(前田823)、前田新田区公会堂
・献燈3
・石祠
・自然石
・水神


・石塔:南無明甫蓮華経




・石塔3


○立光寺(前田830)佛原山
寺名柱


○石塔類、港公園(前田893⁻1)
・石塔2
・板碑
・胸像


○石仏類(前田新田888-73) 
・石塔3

○江川水門名碑:一ツ眼鏡(田子、浜田町、江川橋たもと)
 説明:小須湊の江川については、」ひとたび田子浦海岸が荒天により波浪高まれば、その遡上波は引きも切らず昼夜を問わず、付近一帯の田畑を押し流し住民を怖れさせた。明治17年9月暴風雨水害、明治32年10月未曽有の大津波襲来、田子浦村は田、家屋はもとより村民も壊滅的は被害を受けた。この復興のため明治36年11月県知事山田春三により石水門が築造され、上部は鈴川街道として利用され、以来田子浦村民、近隣村民の通行に寄与した。
 時代を経て水門の老朽化が激しく、田子浦村長船山啓治郎をはじめ地域住民の強い要望に依り、昭和27年3月地元選出県知事齋藤寿夫による応援を得て、新たな両開き水門が竣工した。その後次々と風水害にあったにもかかわらず、その役目を果たしてきた。しかし近年上流部の都市化、田子浦港整備のための河川、道路改修を契機に長年の役目を終え、平成10年取り壊された、当時の江川水門名碑を残す。

○沼川橋たもと、沼川石水門記念碑、六ツ眼鏡(中河原31-4)
 説明:沼川の逆潮は、富士山麓浮島沼周辺の村々に甚大な被害を与えてきた。その被害を防ぐため、明治18年11月6日、石水門が完成した。石水門は当時の最先端の土木技術を取り入れ構築された。設計はオランダ人技師の助言を受け、施工は猪苗代湖の石水門建設で名を上げた石工:児島佐左衛門が指揮して行われた。低湿地で湧水が多いこの地での工事は、殉職者を出すほどの難工事であったが、静岡県で初めてセメントを使って構築された石造アーチは以後、どんな波浪にも耐える堅牢さを誇った。
 石水門の管理は昭和3年7月より県に移管され、その保全に最善を期してきた。扉の開閉については、水位差を利用して自動的に閉まるよう工夫され、天候の悪化が予想された際には、手動で門を閉じることもできた。(展示の軸は門扉を動かすギヤの一部である。)
獅子浜産伊豆石を用いた六連型アーチの美しさは「六ツ眼鏡」の愛称で親しまれた。後に排水力増強のため水門を二基増設した。
 しかし田子の浦港築港と沼川防潮水門の建設によって撤去されることとなり、昭和41年12月8日、80余年にわたる役割に幕を閉じた。


~~~以下「村山古道」より転載~

・浅間宮、富士塚(富士市鈴川)   
 富士登山をする者が海水で水垢離した後海岸の石を一つ置いていったものが積み重なって塚になったという。別説には、津波後の施し米のお礼として積み上げた。北条・武田・今川が対峙したときの天の香久山砦の跡。などの説もある。 
鳥居前を直進して突き当たると石碑「皇太子殿下御散策之蹟」があり、左に元吉原中学校がある。戻るなら左折だが、海に行くなら右折する。
 ここから海水に触れるには堤防の出入り口を越し、左折(東)していくとテトラポッドが切れて砂浜が少し見える。西へ行くと田子の浦港の岸壁で立入不可となる。 

・閻魔堂、地蔵堂、石塔、黒露の墓(鈴川)  
閻魔堂…閻魔像、地蔵
地蔵堂…地蔵
石塔…17基、観音、六地蔵、燈籠、
黒露の墓…黒露は江戸時代中期の俳人。
地蔵堂前の階段が古くは海に出る道で、南進して一度曲がって先の皇太子碑に出ればよい。

・木之元神社、古東海道(鈴川)  
 戻りは地蔵堂から東進60mで右の路地に入ると古東海道であり、木之元神社前に出る。神社上側の道を行く。近世東海道に出るにはその先を左折し広い道に出るが、おそらく古東海道は右折した路地のように少し高いところを東進していたのだろう。近世東海道側へ進む。広い道に出たらすぐにある踏切を越え線路に沿い西進し、JR吉原駅前で北西進していく。*(ここからは近世東海道に出たので、近世東海道のガイドブックと同一内容になる。) 河合橋を渡り国道1号線と新幹線のガードを斜め左に横断する。その先に静かな街並みがある。左富士神社のある中吉原宿跡である。

・(付近)阿字神社、妙法寺、富士と港の見える公園、三本松、毘沙門天妙法寺(鈴川)  
阿字神社…近世以前の東海道は田子の浦を船で渡っていた。そのとき東岸側で安全祈願をした所の名残である。相当古い神社と考えられるが、これだけ海に近い所にあるためか古い物はない。(多分地震や津波で遺物は残りにくい) 
妙法寺…
富士と港の見える公園…現代の公園、眺めは抜群。トイレや駐車場数台分ある。
三本松…元吉原中学校向かいにある。何の謂れか?
毘沙門天妙法寺…だるま市で有名、近世東海道筋にあるので歩くとちょっと遠い。

・中吉原宿跡、左富士神社(依田橋町)~近世東海道~  
 先ほどの鈴川や毘沙門天の辺りが元吉原宿であるが、津波で破壊され、この左富士神社辺りに移転した。しかしここも津波で破壊され今の吉原本町の吉原宿に再々度移転した。
 *ここ以後しばらく近世東海道ルートなのでもっと詳しく知りたい方は東海道吉原宿近辺のガイドブックを読んでください。

・左富士(依田橋町)  
 東海道を東から西に行けば富士山は右に見えるのだが、この地だけは左に見えるので「左富士」と称され珍しがられた。東海道が一旦北北東を向くからである。左富士神社先の交差点に史蹟看板があり、松が植えられている。左富士の浮世絵レリーフもある。

・石仏(依田橋町)   
左富士史蹟を過ぎて北進すると左に祠が見える。

・平家越し(新橋町)  
 橋を渡る所にある。平家が富士川沿いに陣取り羽音を源氏の攻撃かと驚き逃げ出したという伝説の地である。平家は羽音だけに驚いたのではなく、その前から源氏の陽動作戦で疑心暗鬼になっていたという説もある。ここはいまでは富士川ではないが、雁堤設定以前はここまで富士川が幾本かに分流して流れていたようだ。

~~~以上、村山古道、転載部分~

○阿字神社(鈴川町12)

○仏舎利塔、大隈稲荷、富士と港の見える公園(鈴川町12)

○妙法寺(鈴川町12)

○富士塚、浅間宮(鈴川西町13)

○三本松(鈴川中町23)

○閻魔堂、黒露墓(鈴川中町8-⒑)

○地蔵堂(鈴川中町3-1)

○木之元神社(鈴川東町1-29) 

○海老坂薬師:今井薬師堂(今井一丁目4-4)
・石鳥居
・石塔:(梵字)庚申供養滅悪生善處 元禄四辛未天 
・石塔の笠部分
・奉納南無庚申
・南無奉献庚申
・観音2:・宝暦二、・墓石

○愛鷹神社:(今井一丁目2⁻14) 
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2
・石祠
・石塔
・保存樹木:エノキ:富士市

○毘沙門天妙法寺(今井二丁目7⁻1)

・稲荷神社(今井三丁目4-1)

○愛鷹神社(大野新田124)
・秋葉山常夜燈
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2

○高橋勇吉と天文堀(大野新田56⁻1)てんもんぼり
・説明:三新田(大野、桧、田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉1806~1866が天保七1836年から嘉永三1850年の14年間の歳月を費やして完成した排水用の掘割である。勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で彼が三新田の開拓を考えたのは天保七年の大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで排水計画の研究の傍ら多くの反対や苦難を乗り越えようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て立派な排水堀を完成させたのだった。勇吉は自分の田畑や財産等を売り払って工事費に当てたと云われ、勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから子の掘割のことを人々は「天文堀」と呼んだ。現在三新田の耕地は土地改良や道路等で開発が進み、勇吉の天文堀はその跡を見ることができない。

○庚申堂(大野新田14)
・秋葉山常夜燈の竿部分、
・石仏3
・五輪塔破片
・水準点

○丸山稲荷(桧新田368-60)
・赤鳥居、祠

○愛鷹神社(桧新田329)
・石鳥居
・エノキ、クスノキ、クロガネモチ
・秋葉山常夜燈
・石仏
・献燈2
・祠、
・手洗石

○淡島神社、米之宮神社(田中新田215、三新田98⁻1、田中町) 
・赤鳥居
・石仏
・石鳥居
・保存樹木:クロガネモチ、エノキ、ムクノキ
・献燈
・献燈
・手洗石

○?神社(三新田10-13)

○春耕道しるべ第一号:石道標:☞須津村すどむらやくば役場一里、吉永よしなが村役場三十一町、

○ 昭和放水路、増田平四郎の像、旧東海道一里塚、石碑、広沼橋西袂、沼川第2放水路、
    (沼田新田8、柏原町2)
・増田平四郎とスイホシ:説明:天保七1836年大飢饉や度重なる水害から村民を救済
するため、原宿の増田平四郎1807~1892が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年1869の春で、人々は「スイホシ」と呼んだ。
 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ籠訴すること6度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶應元年1867に着工の運びとなった。それは計画の発案から27年目のことだった。
 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505m、幅7mの大規模な掘割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡形もなく壊された。平四郎の大計画はとん挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
・増田平四郎像
・増田平四郎翁碑
・為女鹿塚新田
・石碑:旧東海道一里塚

・交通事故防止祈願像、地蔵(沼田新田140)広沼橋東袂

○立圓寺(西柏原新田72) 

○大六天神社(沼田新田64⁻1) 

○延命地蔵尊(中柏原新田227) 

○津島牛頭天王(中柏原新田231⁻1)

○六王子神社(中柏原新田171⁻3)

○?神社(中柏原新田257)

○庚申塚古墳(東柏原新田) 

○山ノ神古墳(東柏原新田) 



~沼津~

○八幡宮(植田41-⒑)

 
○?神社(植田95)


・地蔵2:
・献燈


○山神社(大塚38-1) 

○正覚寺(小諏訪コズワ518⁻1)


・?神社(西間門602)

○金剛寺(西間門518) 

・?神社(西間門518) 

・石塔3


・赤鳥居、祠、石塔:大正七


・石仏:観音、橋本梱包待機場所


・是法院當縁日住 宝暦十二壬維持


・元堀:水落堀跡(一本松71₋2)富士アセチレン工業 向かい
 説明:元禄15年1702に今泉村の七兵衛、又兵衛が計画し、宝永3年1706~08にかけ、地主鈴木八兵衛、地元住民等の協力のもとに着工された。この工事は浮島沼入口から一本松の海岸まで水路を掘り、沼の水を流し、新たな農地を切り開こうとしたもので、工事は進むも高潮等の自然災害により完成までには至らなかったと古文書は記している。苦心の大工事で今に残る浮島沼開拓に情熱を傾けた先人たちの貴重な遺跡である。なお掘割跡の奥には江戸時代の潮土手も残っている。

・板碑:(一本松85⁻5)

○要石神社(一本松87⁻1) 
・説明:祭神:天津彦火 々杵尊あまつひこのひ  いそのみこと、例祭日:1,5,9月各27日、由緒:当区の開祖大橋家の2代目五郎左衛門が寛永年間に創建したという。現在社祠、天保十四年再建。水郷鹿島香取両神宮要石と同じものである。本体一部露出せる火山岩の大石塊 北200m、大橋家屋敷井戸まで続くといわれ、このために安政の大地震にもこの地方の災害憂いがたく、聴覚障碍者はこの社に祈願して穴明き石を供えると平癒するとの口碑あり。境内には多数の穴明き石が奉納されている。
・石鳥居
・馬頭観世音菩薩:安政六未年
・南無阿弥陀佛 享保五庚子年
・手洗石:世活 當村中 火消中 若者中
・祠
・玉垣

・破損:赤鳥居と祠、馬頭(一本松163)エノモト工業 向かい

○いぼ神様:祠、石碑(原655₋2)沼川第2放水路の原大橋西袂
・説明:古来よりこの社の後ろにあった巨松の盤根の閒にくぼみがあり常にみずがたまっていた。イボのできた人がこの水をいぼにぬり祈願すると、いぼがよく落ちるのでいぼ神様と云われ広く信仰された。「原町史」より

・石仏:

・地蔵:天保五年、原中学校附近

○山神社、稲荷神社(原315₋2)

○原 壱ヶ浦供養塔(原311 原西町交差点信号前に案内標識) 
・供養塔:南無妙法蓮華経
・馬頭観音:2:天保十、

・山神社(原38⁻1)

・馬頭2:(大塚15 図書印刷 向かい)

・新:地蔵:交通守護(今沢38⁻1 大杉自動車工業 向かい)

・庚申塔(今沢29 向かい)

・赤鳥居:祠(今沢23 秋本水産 向かい)


・観音:元禄十年丁丑 奉供養(今沢20-9 向かい) 
 ・今沢20-9にはコンクリ石柱2在り:三島神社と祥雲寺の参道入口

・青面金剛王:正徳六丙申年1716(今沢17⁻3 向かい) 


・一面六臂:正徳三癸巳


・墓石:~丁玄禅定明 ~忍禅定明 享保十二未


・観世音菩薩:寛政七乙卯(松長12⁻1 向かい) 
 観世音菩薩:明和四丁亥、
大悲観世音1安永六年


・石塔(松長21-45 向かい) 

・観世音(松長30⁻11 向かい) 
~明尼首本~、
大正、江戸 勅四郎大明神、
・南無妙法蓮華経供養:ひげ題目:文化十一甲戌年、


・弁財天:維持寛政九丁巳歳(松長51⁻11 向かい)


・地蔵(松長64、大昭和紙工産業向かい)
・六十六部、
納経塔行者、
妙法随喜法徳霊、
(一面六臂)寛延元戊辰1748天霜月日、
南無観世音菩薩文化二乙午年1805、
南無観世音菩薩寛保二壬戌歳1742、
庚申塔、
昭和十年、
文化八、
英六十一、
西國三十三所巡礼供養塔、
奉巡礼西國三十三所、


・地蔵;祠(大諏訪25、東洋電産向かい)

・石祠:観音、(小諏訪556⁻5 向かい)
・馬頭観世音2
・石塔

・石塔3(小諏訪556⁻1 向かい) 
・庚申塔

○正覚寺(小諏訪518⁻1)

○石塔類(小諏訪588⁻3 服部宅向かい) 
・観音2
・青面金剛神、
法蓮華経一字一石二部供養塔

○石塔類(小諏訪600 静岡スバル向かい) 
・観音2
・石塔5
・馬頭4


○妙伝寺(東間門33) 

○山神社(東間門8-12) 
・コンクリ鳥居:大正十一年、・コンクリ常夜燈2:昭和三年、・常夜燈の笠、・堂、・手洗石:、手洗石:昭和十一年、・旗立石、・石祠2、・石塔:奉納田中源三郎、

・石道標:六代松 是ヨリ東 六代松(東間門9⁻1) 

○六代松碑(東間門824) 
 ・説明版:平家物語ゆかりの地、六代は平清盛を3代とし、重盛、維盛、六代と続く平家の統領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符号する。元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると探し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語るうえで最も人々の心に残る場面の一つである。その後出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、誅せられ、その首を供の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。江戸幕府の命を受けて道中奉行美濃の守藤原利恭としやすらが文化3年1806に完成した「東海道分間延絵図」にも、千本松原の名kにある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。民間では学識の俳人秋里離島あきざとりとうが寛政九年1797に板行し好評を博した「東海道名所図会」には文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人たちに親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年1843碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
 ・忠霊塔、・板碑

○若山牧水住居跡(本858⁻1 TKDマンション) 
 現在、碑文が門前にあるのみで発見しにくいので、地元民に尋ねるしかない。
 説明版:歌人若山牧水が千本松原の景観に強く心惹かれ沼津に入樹してきたのは、大正九年1920満34歳の夏だった。大正14年ここに500坪の土地を求めて居宅を新築し、沼津永住の念願を果たした。建物は木造2階建て79坪で全11室あり牧水が夢に描いていた通りの物だった。牧水は千本松原を愛したように、この居宅を非常に愛していたが、この家にはわずか3年暮らしただけで昭和3年1928の秋、43歳の短い生涯をこの地に閉じている。牧水の建てた家は惜しくも昭和20年の戦災で焼失したが、沼津市若山牧水記念館に50分の一の復元模型ミニチュアとしてその全容が展示されている。

・馬頭観世音菩薩(本1910-⒑) 
 寛政十六年

・首塚(本1910-185) 
 説明:戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、特に天正八1580年の千本浜の合戦は激戦だった。明治33年暴風雨で倒れた松の大木の下から多数の頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を立て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和29年、人骨研究の権威:鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、特に10代後半の若者の骨の多いことが注目された。碑文は旧沼津藩士岩城魁。
・馬頭観音3:昭和十四年、 、 、
・地蔵、
・石塔、

○本光寺(本1910⁻185) 

○千本浜公園() 
・歌碑:多数



○沼津若山牧水記念館(本郷林1907⁻11)

○千本港神社、港口公園、水門タワー(沼津港) 


○芹沢光治良記念館(我入道蔓陀ヶ原517⁻1) 


○乗雲寺() 
 若山牧水墓

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 15:01Comments(0)批評、歴史・地理・紀行