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2016年06月05日

金谷街道(静岡県島田市、菊川市、牧之原市)


・前文
*住所地は目的地を探すためのものなので、分からない時は附近のものを指し示すことが多い。
*未発見や誤解曲解している箇所が多いと思われるので、コメントをいただくか、その人なりの発表方法で公表していただけると、ありがたいです。
 特に牧之原台地上での発見できた石造物の少なさは、気になるので、まだたくさん未発見物があると思われます。公表されることで保存へ弾みがつくことでしょう。

~金谷街道(静岡県島田市、菊川市、牧之原市)~
現地調査:’16 4/9,10,16
~『定本静岡県の街道』より~
金谷街道は牧之原市仁王辻から島田市金谷宿までの道である。しかし今回は変則版として仁王辻から島田市金谷の諏訪原城や島田市菊川の中山新道、遠江三十三所観音霊場24番から25番への霊場道に接続するまでを紹介する。
 
 仁王辻附近の牧之原小学校・中学校門前の東照宮からスタートする。
○東照宮神社(牧之原市東萩間2082⁻13)
 ・説明:徳川家康公座像:牧之原市指定 工芸品:1869明治2年徳川の家臣、福井某等20名が牧之原に移住の時江戸から持ってきて、菊川町沢水加に神社を建てて御神体とし、1942昭和17年に現在の位置に移された。座像の開眼主は日善、日宗吉、大仏師、尾崎義定と書かれている。
・コンクリ石柱2、・狛犬2、・手洗石:大正四、・石鳥居:昭和十七年、・?基準点:測量用、
 ちょうど学校の正門前に神社があり、駐車場もないので正門横に乗り付け隣の神社をうろちょろすることになるが、何かしらの学校行事があるらしく、校舎の曲がり角で先生らしきが出入りする自動車を案内している。その先生が明らかに不審者として私の方に注目しているので、はやいとこ調べてすたこらさっさと逃げてきた。毎度のことながら私は不審者です。
 次は同じ地区の八十原観音を見たいので、学校前を北に出て右折(東)し300m東進し、右折(南)し400m南進する。
○八十原観音(牧之原市東萩間、八十原2092) 
 ・堂、・石碑:礎2000、・手洗石、・手洗石:明治九子年、・献燈2、、・フジ棚、
 再度牧之原小学校前の交差点に戻る。北西の丸顔橋を渡り交差点に出る。ここに馬頭が祀られている。
・馬頭観音:明治三十二年五月立承(東萩間、仁王辻2360⁻1)
 1.4㎞北上する。現在沢水加から上ってくる県道掛川榛原線がある。
 この坂道の途中に戦争遺跡がある。下りだして1.1㎞、上りだして300mである。
・大井航空隊洞窟(菊川市沢水加)
 県道から沢沿いに30m歩くと洞窟がある。どうも防空壕として掘られたようだ。牧之原台地の布引原には大井航空隊基地があった。
 再度国道473号線に戻る。国道を北上するか、1本東側(100m先)の道に出る。600m北上して矢崎部品工場:布引原、矢崎206⁻1とスーパーマーケット:220⁻3の間で右折する。種苗管理センター金谷農場と谷地の間の道に右左折を繰り返して出る。出るとそこからは住宅が切れて茶畑の細尾根道を南東に道なりに500m進む。
左に標識:勝間田城跡→があり、左折(東)し茶畑を200m進む。ここで車は進めない。あとは歩きで進む。300m山道を下っていくと城跡を示す標識が出てくる。
○勝間田城跡(牧之原市勝田2160⁻1)
  ・説明:静岡県指定史跡:勝間田氏は、当地方を拠点とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌抄」を編纂している。元弘の乱1331には、河内(大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録に見える。
 室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱1399や永享の乱1439に活躍し、応仁の乱が起るや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に1476文明8年ついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられる。
 応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は、中世の代表的山城で、牧之原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。
 ・説明:勝間田氏について:勝間田氏は平安末期から室町中期まで約340年間この地方を領有した豪族である。勝間田氏が史上に登場してくるのは『保元物語』からである。
『保元物語上』に
「義朝甲の緒をしめ、即うちいでけるが、義朝馬をひかえて紅の扇を開つかいて申されけるは………相随ふ輩は誰ぞ………遠江國には横地、勝田、井八郎、駿河國には………とあり、時は保元元年1156のことである。」
 平治の乱後、『吾妻鏡』に勝田平三郎成長かつまたへいさぶろうしげながというものがでてくる。成長は治承5年1181壬2月安田義定の招集に応じて史上に現れ鎌倉幕府の御家人やまた玄蕃助げんばのすけなどにもなり、以来建久6年1195まで15年間活躍した。その後健保4年1216源実朝が送った宋使節団の一行に勝田兵庫頭かつまたひょうごのかみが参加している。
 建長2年1250閒院殿造営のため京に供出される材木等の分担目録の中に勝田兵庫助かつまたひょうごのすけの名が見える。鎌倉末期に参議冷泉為相の門下となった勝田長清は17300余首の歌数を収録した『夫木和歌抄』を編纂し、「下萩もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月」「置く露は袖にこぼれて夕暮れの萩の上葉に残るあきかぜ」等の秀歌を残している。
 南北朝期に入ると、勝間田氏は再び史上に現れる。元弘元年1331足利尊氏に従った勝間田彦太郎入道や赤坂城の攻防で有名な楠正成に従った勝田左エ門尉直幸等が見え、南朝方、北朝方の双方に分かれて活躍していたことが分かる。正平3年1348足利尊氏は諏訪神社の笠懸の神事を行い射手に勝田能登守佐長、勝田二郎丞長直等がこれに参加している。勝田氏は足利義満の代になると、次第に中央に進出し奉公衆となり、文中元年1372勝田三河□太郎や勝田修理亮は、将軍の近習となり幕府の役人として活躍した。
 室町初期の応永の乱で今川泰範の軍に加わった勝間田遠江守は、丹波の追分の合戦で討死にしている。応仁の乱で全国的に動乱化した中で、国人として生き残る道を探していた勝間田修理亮は、横地氏とともに今川義忠軍と戦い敗れ、この結果勝間田一族は四散した。
 その後明応5年1496勝田播磨守が志戸呂の城主鶴見因幡守とともに城飼郡松葉城を攻め落としたが、これより後、勝間田一族は史上から姿を消してしまう。このように340年間もの長きにわたって当地を根拠地として活躍した勝間田氏は、中世の末、当地から姿を消してしまうが、敗亡当時の城と思われる勝間田、湯日、穴ヶ谷、滝堺、飯田等の城跡の他榛原町道場の清浄寺の裏手の供養塔や坂口の石雲院、中の長興寺また桃原の瑞昌院等には今も勝間田氏の位牌が残されている。
 ・説明:礎石建物:自然石の平坦面を表にして据え、これに柱を立てた建物。縄文時代以来の竪穴住居建物とは違い、寺院や宮殿等長年月の保存を必要とするものに限って、礎石の上に柱を立てる建築法が用いられた。
 二ノ曲輪には、11棟の掘立柱建物跡と1棟の礎石建物跡が確認されている。中世の山城で、礎石を持った建物が確認されたのは非常に珍しく、当時どのような用途に使われたのか興味あるが、礎石を使った理由として、床張りで重量物例えば、兵糧米等を収納していたことが考えられる。この建物の周りには、溝が廻り、出土物としては、すり鉢、青磁、白磁、染付、天目茶碗等種類、内容とも豊富な食器が発見されている。この建物は、勝間田城の兵糧庫または貯蔵庫等の用途に使われ、城の中でもとても重要な建物だったと考えられる。
 ・説明:掘立柱建物ほったてはしらたてもの:土台を設けないで、直接に地面を掘って柱を立てた簡単な建物。縄文時代から弥生時代を経て、古墳時代を過ぎ奈良、平安時代まで一般の住居の基本だった竪穴住居が、生活様式の変化から掘立柱建物に変わっていた。
 勝間田城跡の建物は、掘立柱建物がほとんどで、二ノ曲輪には11棟の掘立柱建物跡が確認されている。1棟の規模は平均2間×3間で、柱穴の深さは40~50㎝、穴の直径は20~25㎝だ。建物跡を掘ると、当時使われていた皿や碗、擂鉢等の食器のかけらが沢山出てきた。また建物の周辺には鉄釘や鎹カスガイが出土し、当時掘立柱建物の周辺を垣根や塀等が囲み、建物と建物を隔てていたことが分かる。特に麻ひもに通された二十数枚の銅銭(中国銭)は、当時ここに居住していた人々の所持品できっと貴重品だったに違いない。人々の暮らしぶりを垣間見る一品だ。
 ・説明:掘立柱建物:この掘立柱建物跡は、東西3間(5.7m)×南北3間(4.2m)の規模を持つものだが、それほどがっしりした建物ではなく、屋根も草葺きと考えられる比較的簡単なものだ。土塁等の在り方から見て、西三ノ曲輪と「馬洗い場」との間に出曲輪方向からの出入口の存在が想定され、この出入口を守る見張小屋的なものではないかと考えられる。なお多量の炭化物や焼土の在り方から見て、この建物は火災を受けている可能性がある。
 出土遺物は、土師質土器、陶磁器等が出土しているが、いずれも破片で、器形の分かる物はわずかだ。また銭貨(至大通宝)が4枚出土している。至大通宝は中国の元の時代のものであり、1310年からの鋳造とされる。これら勝間田城跡からの出土品は、牧之原市榛原郷土資料館に展示してある。
 ・石碑:城跡寄進の碑:故村松半之助氏は郷土の豪族勝間田氏の城跡の亡失破壊を惜しみ、これを後世に伝えようと大正12年私有地1反歩を勝間田村に寄附をした。これにより城跡の本曲輪が確保されたばかりでなく城跡保存の気運を生み永く郷土の史跡として伝えることができた。
・歌碑:藤原長清:下萩もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月:玉葉集巻十四雑一、
・石柱:勝間田城址:大正十三年、・献燈2:昭和五十年、・コンクリ手洗石、・祠:神社、・石碑:勝間田城跡:昭和六十一年、
・南曲輪、土塁、堀切、本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、西三ノ曲輪、出曲輪、
再度矢崎部品工場前まで戻り国道473号線を600m北進する。
○西光寺(嶋956⁻3) 
 ・きく地蔵:平成19年、
 国道を100m北進する。途中で県道菊川吉田線を横断する。
○大国神社(嶋955) 
 ・石鳥居:昭和三年、・鐘、・手洗石、・石柱、・コンクリ石柱:昭和十二年、・コンクリ石柱2、・献燈2、・石柱:横倒し、
 国道を300m北進する。落合刃物とアイアンドエム(株)の間の道を右折し30m進む。
・馬頭観音3(切山2968⁻1) 
 刻字は磨滅して読めない。所在地は後記、高塚氏より知った。
 国道に戻り100m北進する。左に狭い土道が見える。
・六尺道路:県道菊川吉田線の旧道(菊川市倉沢1706⁻3:高塚氏宅と1706⁻1:鈴木氏宅の間の道)
 この道がどうも現在の県道菊川吉田線の旧道にあたるようだ。土道は300mほど続くが、その先で国道473号線バイパス用地になって消滅したようだ。以前は先で坂を下り、県道吉田大東線につながっていたようだ。高塚氏談。高塚氏に感謝いたします。

~~~県道菊川吉田線~~~
 金谷街道は北進するが、ここで県道菊川吉田線を進む。国道473号線の交差点からスタートする。坂を800m下っていく。途中頭上を国道473号線バイパスの高架橋がよぎっていく。
 右に上っていく廃道化したコンクリ石段がある。
・かつての、高野山弘法大師堂跡地(菊川市沢水加1406⁻33) 
  現在は移転したか廃止したかであるようだ。頭上は先ほどのバイパス高架橋である。
  さらに100m下ると大きく左カーブする。ここにかつての六尺道路は下ってきたようだ。
 更に300m西に進む。右(北)上に祠がある。
・祠:神(倉沢、下倉沢)
 100m西に進む。右に祠がある。
・祠:馬頭観音か、布に覆われて姿が分からない(倉沢、下倉沢) 
 300m西に進む。左上に祠がある。
・石祠:道祖神、・献燈(倉沢、下倉沢)
 道はこの先、吉沢を通過し、途中和田から沢水加に向かう県道とも交差し、菊川駅前に達するが、金谷街道の周辺ということでここまでにする。
~~~~~~
 国道473号線六尺道路前に戻る。200m北進し、左(西)120m先に六本松の公園と集会所、そして神社がある。
・神社(菊川市倉沢、六本松698) 
 国道に戻り2㎞北進する。猪土居交差点を過ぎ70m進むと右に入る小道がある。猪土居公民館と公園があり、神社もある。
○津島神社(島田市金谷3509) 
 ・コンクリ石柱2、・石鳥居、・手洗石:平成二年、
 国道に戻り600m北進する。右折(東)し100m先に農業用水タンクがある。
・石碑:疎水:平成十年(島田市金谷3272⁻5) 
国道に戻り、国道を渡り、北200m先を目指す。
○お茶の郷(金谷3149⁻1) 
 ・小堀遠州式日本庭園、・御茶室、・茶関係資料室、レストラン、・土産物、
 ・説明:小堀遠州1579~1647は、京都御所や駿府城を始めとする、江戸幕府のかかわる主だった建築工事の作事奉行を勤めて活躍した。また茶人としてもよく知れレ、島田市金谷の志戸呂窯は、遠州が諸国に好み道具を焼かせた、いわゆる遠州七窯の一つである。
 そのゆかりをもって、ここに小堀遠州が営んだ庭園と建築が復元され、遠州の「綺麗さび」の世界が合成的に再現されている。
 大きな①中の島を築いた築地を中心におく庭園と②築地を隔てて塀沿いに設けられて、『伊勢物語』にちなむ⓷八つ橋の流れに、寛永11年1634遠州が後水尾院の仙洞御所の東庭に作庭した姿を復元する。自然と人工、直線と曲線といった、反響的な要素がここには鮮やかな対比の中に融和しており、また平安時代の王朝文化を憧憬する趣向豊かな構成に遠州の庭園の特色が示されている。⑤書院・⑥鎖の間・⑦茶屋・⑧数寄屋からなる茶室は、書院部分に遠州が親交していた松花堂昭乗のために建てた、京都石清水八幡宮滝本坊の書院を復元して組み込んでいる以外は伏見奉行を勤めた遠州が、寛永2年1625奉行屋敷に営んだ座敷の一部を復元している。書院・鎖の間・数寄屋という3様の茶室を連ねるのは、真・行・草の茶の湯を一体的に展開した遠州の茶を反映している。書院・鎖の間の室内は、 塀や欄間・金具にいたるまでことごとくが意匠されており、この遠州において数寄屋造りとして、日本住宅におけるインテリアが、総合性をもって大成されたことが知られよう。
 ここには江戸時代初期の寛永文化の粋が凝縮されている。

 国道に戻って進む。左カーブしつつ北へ進むと、道は右下の金谷中心街へ下る道と、左上に進み牧之原台地状をなおも進む北進道に分かれる。今回は左上道を選ぶ。というのは金谷街道は本当は右下道がメインである。しかし今回は台地状をもっと北進したいためである。
 右上道を進むとお茶の郷の東側に公園がある。
○牧之原公園(金谷3120) 
 ・石碑:記念碑、・栄西像、・石碑2:合一之碑、杉山賞記念、・新:石畳、
 直線距離150m、道の距離450mで東下に富士見展望広場がある。
 また牧之原公園から道を西に横断するとお茶の郷の庭園入口になる。
 牧之原公園からスタートしカーブする道なりに1.4㎞北進する。
○石碑、道しるべ(菊川?金谷1738₋2) 
 ・芭蕉句碑:馬に寝て残夢月遠し茶の烟、・明治天皇御駐輦阯、・道しるべ類
*注:輦レン、人の引く車、天子の車、鳳輦ホウレン、
  北30mに旧東海道の金谷坂の石畳があり、上りきった所に石仏類がある。
○石塔類(金谷1738₋2)   
・祠:三面観音、・地蔵、・馬頭観世音、・石塔、・九十丁目 濱浜川上古右まつ
・旧東海道:金谷坂:石畳道 
 ・説明:この石畳道は江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると云われている。近年わずか30mを残す以外はすべてコンクリート等で舗装されていたが、平成3年町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元された。今街道の石畳で往時をしのぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の3か所だけとなった。
・旧東海道ルート 
ここから先の北進する道は旧東海道である。と言っても自動車用に拡幅され舗装されている。しかしルートは東海道そのものであろう。
 400m進むと広い県道吉沢金谷線に合流する。その手前右に城跡入口がある。
○諏訪原城跡(島田市菊川、牧之原1172⁻1) 
 ・説明:諏訪原城は武田勝頼、徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代の過程を理解するうえで重要な遺跡として国史跡指定された。
 当城は天正元年1573武田勝頼が東海道沿いの牧之原台地上の金谷台に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍艦』等に記されている。城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」の名がついたと云われる。この城は大井川を境として駿河から遠江に入る交通、軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(掛川市)を攻略するための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担った。
天正3年1575に、徳川家康によって攻め落とされた後「牧野城(牧野原城)」と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための陣城(攻めの城)として活用された。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請等度重なる改修が行われたことが記されている。天正9年1581に、高天神城が落城し、翌年武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなった。その後徳川家康が関東に移ったことから、天正18年1590頃廃城になったと考えられる。
・説明:諏訪原城跡:国指定史跡:諏訪原城は天正元年1573武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として金谷台に築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害であった。
 遺構は、本丸、二の丸、三の丸、、大手郭帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の8郭から成る特徴のある縄張により配置形態のうえから扇城とも呼ばれた。自然堀と人工の大小堀が13本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祀ったことから諏訪原城と呼ばれたが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。
 ・大手口:城の表玄関に当たる所、・十二号堀:半月状水堀で三の丸を守る、長さ89.7m、幅15.3m、・壁立:壁立とは壁の如く切り立った構造を言う、特に堀と堀との直結した間隙に構え堀を伝っての直接の敵の侵入を防ぐためのもの、・三の丸:この茶園一帯が三の丸、二の丸に次ぐ一郭で食糧、武器、弾薬庫を備える重要な所、・カンカン井戸、・十五堀:規模:長さ31.0m、幅6.0m空堀、・十六号堀:規模:長さ90.0m、幅6.0m空堀、・搦手口:搦手外郭は食料、衣料、飲料水、武具等の運送に使われた主要な役割の地点、一般家庭での勝手口、裏口に相当、・天守台地:この城は山城で天守閣はなく、二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐して敵の動きを監視していた、・本丸跡:本曲輪:城主の居住する所で軍政を司る所、・本曲輪虎口、・六号堀:長さ85.0m、幅14.5m空堀、この堀切は城内に谷沢(東沢)が続き自然の地形(谷沢)を利用した堀、・五号堀:この堀は三段堀といい底部は三段になっている、これは甲州流の特徴の一つで階段状になることで敵の侵入に足あり、珍しい構の空堀、長さ40.0m、幅13.0m、・二の丸:副将またはそれに準ずる武士の詰所で武器保管や他の城からの来城者の控所、武士の家屋敷もあった、・大手外丸馬出、大手曲輪、・大手南外堀、・大手北外堀、・二の曲輪大手馬出、・外堀、・二の曲輪南馬出、・二の曲輪東馬出、・二の曲輪東内馬出、・水の手曲輪、・内堀、・二の曲輪、・二の曲輪中馬出、・二の曲輪北馬出、・本曲輪、・出曲輪、・惣曲輪、・武家屋敷跡、
・墓石3:明和四年、五年、・墓石3、
・単制無縫塔4:明和、・手洗石:明治□年、・墓石3:安政二、寛延元、・祠:地蔵2、五輪塔、観音「七十番」、
諏訪神社
・板碑:諏訪原城跡県指定史跡昭和二十九年指定、・石鳥居:昭和三十四年、・庚申塔、
・石碑:今福浄閑戦死墓塚:武田方当城主、
 旧東海道は県道と交差し横断すると、向こうは菊川坂入口となる。
・菊川坂(島田市菊川、牧之原1172⁻1) 
 ・説明:菊川坂と金谷坂:江戸時代、東海道を行きかう旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしたいた。このため近郷近在からの助郷役により石畳を敷いて旅人の難儀を救ったと云われている。この故事にちなんで菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再びよみがえらせた。
 菊川坂は21世紀の幕開けの事業として平成13年静岡県内の東海道21宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち500名を超えるみなさんの力で道普請に着手。平成12年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約700mの石畳が完成した。
金谷坂は町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって平成3年子供たちからお年寄りまで500余名の町民の力で道普請に着手、翌年3月400m余の石畳ができた。江戸時代後期の石畳そして平成の道普請のよりできた石畳に、それぞれ、昔の旅人へのあるいは平成助郷役の人たちへの思いを馳せながら、この石畳をかみしめてください。

 菊川坂入口から東海道ではなく、県道を150m北進する。道祖神がある。
・石祠:道祖神 
 250m北進すると現在の県道島田金谷線と交差し、ラブホテルがあり、この峠を割石峠という。
・割石峠、中山新道(島田市菊川371⁻16)  
 そしてこの峠道(東西に横断する県道島田金谷線)はかつての旧国道1号線で、その前は日本初の有料道路、中山新道である。この峠に石塔がある。
・石仏:南無阿弥陀佛、自然石3(島田市菊川371⁻16) 
 この交差点を横断し北に500m進み茶畑を200m西に進むと、遠江三十三所観音霊場道の24番と25番への巡礼道と合流することになる。
・巡礼道:遠江三十三所観音霊場24番←→25番 
 
ここで今回の金谷街道:変則版を終える。

・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年
 ・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、静岡新聞社、’05

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 08:58Comments(0)古街道

2016年06月05日

川崎(掛川)街道、福天権現道、大頭龍権現道(静岡県掛川市、菊川市、牧之原市)

・前文
*住所地は目的地を探すためのものなので、分からない時は附近のものを指し示すことが多い。
*未発見や誤解曲解している箇所が多いと思われるので、コメントをいただくか、その人なりの発表方法で公表していただけると、ありがたいです。
 特に牧之原台地上での発見できた石造物の少なさは、気になるので、まだたくさん未発見物があると思われます。公表されることで保存へ弾みがつくことでしょう。

~川崎(掛川)街道、福天権現道、大頭龍権現道、金谷街道(静岡県掛川市、菊川市、島田市、牧之原市)~
現地調査:’16 4/9,10,16
川崎(掛川)街道は、掛川市成滝の旧東海道や、伊達方の旧東海道から南に分岐して菊川市西方の竜雲寺(福天権現)や加茂の大頭龍神社への参詣道であり、更には西方から相良坂(公文名、)潮海寺、和田を経て沢水加サバカから牧之原台地を上り仁王辻を通過し三栗原、水吞、白井追廻で左折し戸塚坂(掛川坂)を下り、戸塚橋を渡り榛原静波三丁目で旧田沼街道に接続するルートである。榛原静波の川崎はかつて港があり、海運及び海産物取引が盛んだった。榛原周辺は掛川藩領が多く、藩で徴収する年貢米や、川崎湊へ運ばれる江戸扶持米の輸送ルートであったそうだ。距離は約23㎞である。~『定本静岡県の街道』より~
金谷街道は仁王辻から金谷宿までの道である。

~川崎(掛川)街道、福天権現道、大頭龍権現道(静岡県掛川市、菊川市、牧之原市)~

~1 掛川市成滝ルート~ ナルタキ
・石道標:福天大権現 大頭龍大権現 従之大頭龍大権現□□□福天大権現□□□ 従是川崎道 行程六里(掛川市成滝96、掛川市農協JA西山口支所)
 ・説明版:大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用された。元の位置は約10m東にあり川崎街道起点となっている。
 昔は各所への道案内として主な辻に、道標みちしるべが建てられた。そしてその道を往来する人たちの案内役を果たしていたが、最近は時代とともに次第にみうけられなくなくなってきた。西山口農協支所西角の道標は、郷土の文化遺産として、昔の時代を知る存在だ。建立時期は不明。伊達方にある道標が類似していてそちらは寛保二1742年と刻まれているので、その時期と推定される。大頭龍権現は菊川市加茂に、福天権現は菊川市西方竜雲寺境内にあるが、当時は両権現の信仰が盛んで、信者等はこの道標から裏丁通りを経てそれぞれの目的地まで歩いて行った。また川崎街道の分岐点でもあることから、堀之内、川崎湊、両方面を往来する人たちには、唯一の街道だった。なおこの道標から東へ150m直進し伊達医院角を右折すると県道37号線である。この道路は大正4年1915に建設されたが、それまではすべて菊川または川崎方面に行く人たちの当地を起点とする往来の主な役割を果たしていた。
 古い記録には、「川崎街道は里道にして、本村字成滝より東海道に接続し、阿弥陀寺橋を渡り、本村字満水村の大部分を経て、満水坂を越え、隣村西方村に至る。阿弥陀寺橋、従前は掛川城主にて、簡素なる板橋を架し交通の便を図りしも、城主転任と共に村費を以て架橋せしが、少しの出水にても流失し、為に大六山などを越えざるべからざる不便もしばしばありたり。故に成滝村満水村合同し、明治4年1871,8月新規架橋す。この諸金67両2分3朱、残銭1貫4匁、この橋できた後は従前より大いに便利得たれども、数年ならずして流失するに至れり、是に於いて満水、成滝、宮脇の3村協議の上、其の筋に架橋出願許可を得て、明治9年1876より工を起こし、この8月中竣工す。橋全長21間、幅7尺、この経費金113円44銭7厘。翌月即ち明治9年9月より明治13年1880,8月まで満4年閒橋銭を申し受くることとなれり。この橋は今の所より20間ばかり下流にあたれり。」と記されている。

・いぼとり地蔵堂(成滝49⁻11)、手洗石、
 創建不詳、大正2年改築、妊婦子育て中の主婦の参詣者多く、いぼとり地蔵と云われる。ガン封じに来る人も多い。
 地蔵堂から阿弥陀寺にかけて道幅が狭く、古道の雰囲気を残す。
○阿弥陀寺(成滝120)
・地蔵菩薩1.2m:堂、台座0.6m、地蔵0.4m、安政大地震により当寺も損壊したため明治25年頃修復の時に、参門を南の川崎街道より入るようにしたので、同時に地蔵も境内に移し信徒等により頭を取り付け参門に祀ったと伝わる。昭和50年代に山門修築の際現在地に移された。毎月有志によりて念仏供養が行われている。それ以来地蔵は首から上のことを何でもかなえてくれる霊験あらたかな地蔵であると言い伝わる。平成10年阿弥陀寺。
・六地蔵、観音、・板碑2、・正覚山阿弥陀寺供養塔、・赤鳥居平成七年、・諸獨稲荷、・墓石:延宝九、江戸中期後期墓石、
・秋葉山常夜燈 平成六年(成滝115の裏) 
 ‘93年版ゼンリン住宅地図では、この場所に秋葉神社となっていて狭いなりに境内がある祠のようなのだが、現在は墓地と新しい秋葉山常夜燈だけである。規模が縮小されたようだ。

~周辺~ 
 現在の川崎街道(県道37号掛川浜岡線)の旧東海道からの起点、古道より東に150m地点である。
・石道標:□□□記念西山口村 石工有治 □□□町 □□□町 □□□町 □□□十町 □□□町(成滝395⁻4)、上部欠損
 四角柱で楷書体で記入されているので近代物と思われる。
・双胎道祖神(成滝91)
 この御宅の方は石造物趣味があるらしく他の石造物も設置されている。
・地蔵:祠(成滝132⁻3)
 
○神明神社(成滝278)
 ・コンクリ手洗石、・手洗石:古、・石鳥居:明治三十八年、・秋葉山常夜燈 文化十年酉七月、・石柱2:大正五年、

・新:東海道標識、祠:馬頭(成滝315₋2)
  国道1号線から旧東海道へ分岐する地点。

○若宮神社(逆川336)、説明版:祭神:すさのおのみこと、おおきさぎのみこと(仁徳天皇)、例祭日:10月10日、由緒:すさのおのみことは天照大神の弟で文武に優れ出雲国を平定した神、八坂、津島、氷川等の社に祀られる。当社は池下村若宮の谷に鎮座していたが、寛永元年現在地に建立、昭和61年改修、おおきさぎのみことは人徳高く慈悲深い仁徳天皇であり、今より400年前悪病全治祈願して数日にて全治す。その神徳のありがたさに発願、氏神として合祀さる。
 ・石柱2:御即位紀念、・石鳥居:昭和五十七年、・シイノキ:市指定保存樹木、

・鞍骨の池(逆川422) 
 室町初期の南北朝期、周辺で戦があり、勝った南朝方が捕虜にした北朝の今川氏の家臣、堀越入道に鞍をつけたまま入水させ処刑したという伝説の池。
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 成滝の阿弥陀寺の山門前を東へ通過し山口橋に達する。上記によれば古い橋は36m下流だそうだ。山口橋を渡って現在の県道に出て満水タマリ地区を東進する。
 北に山が見えだし、西満水バス停前になると、北の山に神社がある。
○高畑神社(満水538) 
 ・石段、・コンクリ手洗石:昭和十四年、・石鳥居:昭和十四年、・祠2:津島神社、金比羅神社、・石柱2、・コンクリ献燈2:昭和拾四年:シックなシンプルデザインで美しい、
 県道掛川浜岡線を東へ250m進むと北50mの山先端部に祠や堂がある。
・祠:坂東壱番観世音:新:観音:平成十四年(満水658) 
 東隣には堂がある。
・薬師堂:・手洗石(満水673₋2) 
 また県道に戻り150m東進する。北に満水公会堂がある所を左折(北)し北上する。
東に祠がある。
・祠:如意輪観世音、・手洗石:大正十一年(満水755) 
  また県道に戻り800m東進する。左に「思い出の家」レストランの看板があり、そこで左折(北)し、北東に進み、「思い出の家」手前でまた左折(北)し100m北上すると神社がある。
○一色神社(満水1386) 
 ・祠、・コンクリ石段、・献燈2、・コンクリ手洗石、・石鳥居:平成十九年、・石柱2:昭和十五年、

 満水地区の現在の県道を東進したが、実はこれが古道ルートではなく、満水地区の石造物紹介の為通過したようなものである。満水の古道は現在の県道やJR東海道本線、新幹線よりも南で「つま恋」より手前北の道である。
そこで一旦西満水バス停辺りまで戻り、線路下のガードをくぐり南に出て南の山(つま恋)手前の道を東進する。菊川市との境界線付近でちょっとした丘があり、線路はトンネルとなるが、道はつま恋ゲートへの道を上ることになる。おそらく古道は線路南の農家の辺りから線路沿いにトンネル上の丘を越えた(推定:満水坂)のだろうが、そこは現在道がないので、つま恋ゲートへの道で丘上を越え、満水を東進してきた先ほどまで使っていた県道に出て、右折で東進し、すぐトンネルを通過し菊川市となる。市境はトンネルとなるが無論近代の道だ。ここまで遺物類は発見なし。
トンネルをくぐり菊川市に入り200m東進すると右(南)横にJR線路が近づき隣に平行になってくる。線路向うに鳥居や祠が見える。ここから右折する道がないので、竜雲寺を過ぎてから右折することになる。そこで竜雲寺までさらに200m直進する。
○竜雲寺:福天権現(菊川市西方、田ケ谷3780⁻1)
 寺の裏の県道沿いに祠がある。
・献燈2:大正四年、・堂:馬頭観世音2:平成十五年、
 寺の境内地のものは以下である。
・堂:福天大権現、・観音、・三界萬霊2:施主山﨑 大正:遠江三十三所等掛川市周辺でよく見かけるものでありここにもあった、・手洗石:平成五年、・新:地蔵、・新:六地蔵、・旧:山門、
 裏山石段上には稲荷神社がある。
・石祠:小稲荷多数、・コンクリ石柱2、・石鳥居:竜雲稲荷、・赤鳥居5:平成二十一年、・祠:小稲荷:多数、・狛犬の稲荷2、
 伝説:昔、天狗が取付いた者がいて福天権現になったという。南の山に埋もれていた福天ゆかりの物もあるという。遠州十二坊の一つである。南の山とは田ケ谷神社のことか?
*参考『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸、静岡新聞社
石道標に目的地としてまで刻まれた福天権現であるが、陽春4/9土曜日、週末の昼に、境内には参詣人の姿はなく、本堂に隣接する住居棟の改築中で、大工さんたちが忙しそうに働いていた。福天権現と言ってももはや知る人も数少ないだろう。

寺門前から県道向うの南に線路下をくぐるガードがあるので通過する。
・JR高架線路橋(西方、田ケ谷3850₋2)
  レンガ作りのアーチ構造でレトロであり、准文化財級である。将来は文化財だろう。
 高架下ガードをくぐるとすぐ目の前に鳥居や常夜燈がある。
○田ケ谷神社(西方、田ケ谷3850₋2)
 ・石鳥居:大正四年、・常夜燈2:天保十衹七亥夷則下慮、・手洗石:コンクリ補修、・石段:宝暦八寅年、・祠、・本殿拝殿、
 ちょうど桜がはらはらと散り際であって、散歩する人、写真撮影する人たちがいた。
 鳥居前から線路沿いに300m北西進すると左(西)50m先に鳥居や祠がある。この道は線路横に直線で作られているが、線路ができる以前はもっと婉曲していたのではなかろうか。おそらく掛川市満水から満水坂を越えてきた古道はこの道に接続したのではなかろうか。残念ながらこれ以上北西進する道は現在ない。古道は完全消失したのだろう。
○神社(西方、田ケ谷)
 ・コンクリ石柱2、・石柱2:横倒し、・祠、・手洗石:寛政十二年、・石鳥居:大正九年、・石段:昭和六十年、・堂:子聖大権現、・常夜燈2:明治丗九年:1体はコンクリ補修、
 ここから東南の大頭龍神社を目指す。
 先ほどのJR線路高架ガードレンガアーチの東300mにもレンガアーチがある。
・JR高架線路橋(西方、田ケ谷3798) 
 線路沿いをさらに300m東南進する。菊川運動公園への標識があり、次に目指す大頭龍神社へ右折するが、その前に線路北側の遺物を紹介する。
 西福寺、田ケ谷八幡神社である。『遠江三十三所観音霊場巡礼道』より一部抜粋する。
○西福寺(西方、田ケ谷3597⁻1)  
・鐘、・手洗石、・祠:神、・三十三観音、・地蔵、・奉納大乗妙典、・庚申塔:田ケ谷連中、
○八幡宮(西方、田ケ谷2608)  
・石柱2:昭和五年、・祠2:神、・手洗石、・石鳥居:大正九年世界戦争終局記念、
・秋葉山常夜燈:昭和十一年:センサー付き電球、
 
 線路際の菊川運動公園への標識のある交差点で右折(南)し300m南進する。右100m先に神社がある。
○熊守神社(西方2716) 
 ・献燈:昭和七年、・手洗石、・石鳥居:大正九年、・石柱2、

・大頭龍神社への福天権現からの最短推定ルート 
 熊守神社から更に南に道なりに600m進むと東名高速高架下ガードをくぐる。さらに300m道なりに南進すると直進不能になるので、その前に左折し東南進する。道なりに700m進むと川沿いの交差点の低い所に出る。ここで上る直進をやめる。
というのもこのまま直進して大頭龍神社を過ぎてしまったためである。自動車道としては一本違いの道になるのである。
大頭龍神社へはこの川沿いの低い交差点で左折し川の下流に沿って300m東進する。ここでT字路に出る。右折し東南進する。工場地帯を川に沿い300m進む。ここで広い交差点を右折し右へ左へとカーブする道を300m南進する。広い工場地帯の広い交差点を左折し300m進むと向こうに丘がある。道は直進路もあるが、道の右前方が目指す大頭龍神社であり、神社に直進路からの裏の北口はなく、入口が右(南)なので右折し丘を南に回り込む。左(東)は丘でその上に住宅が見え、右(西)は平坦で広い工場と公園になっている。途中2カ所ほど狭い上り道がある。車で上れるギリギリの道であるが、初めてならやめておこう。確かに表参道への近道ではあり、表参道沿いの住宅への道である。南に回りきると北への参道の上り道がある。
ちなみに先ほど一本違いの道のことを記入したが、その道では先ほどの低い交差点を直進し、上りきった辺りで、車では無理だが、自動車道の上りきった辺りより更に20mほど歩いて左の山上の尾根に出ると、そこが西方と加茂地区の境界線尾根である。その境界線尾根の古道に沿って400m南下し、ちょうど大頭龍神社の真西に到達した辺りで東に1㎞向かい大頭龍神社に出るというのが、福天権現からの最短古道推定ルートである。
大頭龍神社の紹介は次の「2 伊達方ルート」を述べてからにする。
~~~

~2 掛川市伊達方ルート~ ダテガタ
・石道標:福天大権現杏 、 是より  、これより ふくてんごんげん(道、ミチ?)、   寛保二 日坂町建 石屋伊    (掛川市伊達方⒕)
 だいぶ刻字が読めず保存状態が成滝の物と比べよろしくない。説明版もない。
西向かいはかつてタバコ屋で一里塚跡という。
・一里塚跡(伊達方31)  
 ・説明:一里塚は慶長9年1604江戸幕府の命により築かれた。江戸日本橋から一里4㎞ごとに塚が設けられ、松か榎を植えて目印とした。旅人にとって夏は木陰、冬は風よけとして重宝がられた。また塚の傍らには旅人の必需品が商われたほか、一服できる休憩の場であった。江戸日本橋から京都まで125里約500㎞。掛川市内には佐夜鹿、伊達方、葛川、大池の4カ所に塚が設けられていた。ここ伊達方一里塚は江戸より57番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側辺り、北側は現・三浦たばこ店屋敷辺りに設けられていた。当時塚の大きさは直径7間、高さ3間の小山で、一里山と云われた。明治33年頃取り壊されたという。

 三浦たばこ店がかつての一里塚だという。現在はその西隣に一里塚石碑がある。一里塚石碑の向かいに大頭龍神社がある。と言っても祠があるだけの5m四方の空間である。しかしここから旧東海道から南に分岐する川崎街道:現在の県道菊川停車場・伊達方線の起点である。
○大頭龍神社(伊達方28⁻1) 
 ・手洗石:摩耗して刻字不明、・石鳥居:昭和丁丑十二年一月六日建之、・石道標:大頭龍神社 従是一里十五丁 昭和五季三月建之 加藤減重、・祠:神祀、・石道標:西方村 堀ノ内駅 ニ通ズ 掛川駅ヘ約一里十四丁 堀ノ内駅へ約一里三丁 日坂村役場へ約十九丁 大正二年十月建設 東山日坂村青年會、 

~周辺~
・塩井神社(伊達方、塩井川原485⁻1) 
 東海道と川崎街道分岐点より東に400mの国道1号線と旧東海道の分岐点辺りにある。あると言っても逆川を歩いて渡らねば神社に到達できない。橋はなく川を徒歩で歩くしかない。神社地から塩水である鉱泉が出るということである。
~~~
 
 川崎街道の起点であるが、現在の県道分岐点なのか東20mの大きい石道標のある路地なのか判別不能である。両ルートとも南へスタートする。100m南進すると逆川に架かる豊間橋に出る。
路地側は土手に出て橋がないので、結局この橋に行き渡る。豊間橋を渡って150mほどで右(西)の水田の道へと100m西へ移動する。ちょうど西1本分の道を移動し南を目指す。水田から住宅のある道になり右(西)に小川がある。すぐにやや広い自動車道に出て横断するが、ここで横断してすぐに西へ10m進み、カーブしている路地を南に進む。伊達方1005₋2:伊藤氏宅東側を南に進む。伊藤氏宅を過ぎるとすぐに大井川用水が東西に横断している。ちょうどこの手前に祠が2つある。
○秋葉山常夜燈(木造瓦葺)、祠:庚申?(伊達方1005₋2) 
 大井川用水の南側は山斜面になる。その山斜面の取付きにコンクリ製祠がある。
・コンクリ製祠:地蔵2、石塔1(伊達方1005₋2) 
 この祠の前を東へ向かう山道と、祠の西5m地点から南に向かう山道がある。
 上記の道や石仏については伊達方952:伊藤氏談。
 私の勝手な推理では、東への山道は、東へ向かうと100m先で付近住民の墓地に出て道が終わるが、かつてはおそらく道が山斜面沿いにうねりながら南に続き、現在の伊達方トンネル(掛川市伊達方と菊川市西方の境)付近につながり、西方へ抜けられる道だったのではなかろうか。
 西側の山道はこのまま枝尾根を抜け西側の畑地へ出られるが、また枝尾根を上り詰めることができ、そのまま枝尾根を詰めると現在の伊達方トンネル真上にも到達できる。かつてはトンネル手前の高圧鉄塔跡地辺りから南へ抜けて菊川市西方へ出られる古道があったと推定する。現在この枝尾根は悲惨であり、南に抜ける道らしきを発見できない。   
 そこで西方へ行くには伊達方トンネルをいったん通過するしかない。そして通過後もトンネル南西方向は工場か作業場が1つある。どうもそこの西北方向から古道が出てきて平地に下り、その工場か作業場前の道を南東に下り、現在のトンネルから下ってきた広い道と交差して南東方向に下り、西方5501:井伊谷氏宅、西方5508⁻1:黒田氏宅前の道へ下りたと思われる。
 そこからは首塚様のお堂前を通り、三島神社前の道を通ったというより、西方川の反対側に古道はあったようで、反対側の山すそに沿い奉仕橋方向へ東進し奉仕橋から南東に向かう道に出て、その広い道から東へ曲がり、西方5918₋2:内田氏宅前を通り、その東先で現在は道が消失するが、山に入っていて、東の潮海寺地区の⑩成就院跡地前に出て、通りの尾根(相良往還)と呼ばれる尾根道に出たようだ。
~~~
○お堂:首塚様:説明版:所在地:沢田坂下:首から上の病には、この首塚様へ願をかけ、願い叶えば松笠や穴あき石に糸を刺し齢(年)の数ほど供えなされ。昔から願掛けすると必ず治ると遠近からの信者の参詣が後を絶たない。しかしその由来は定かではない。建武三1336年、今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江守護となり以後60年が続いた。応永二十六1419年尾張の斯波氏が守護となり、その後約100年が続く。このようなことから鎌倉時代後に武威を張っていた今川方の古名族横地氏も斯波氏に属することになった。しかし今川義忠は遠江を回復せんと堀越陸奥守貞延を総大将に横地・勝間田の本拠地小笠・榛原に進撃、小夜の中山南側の海老名エビナ・影森・公文名一円が壊滅的戦場となった。士将貞延も牛頭ゴウズまで来て惨敗したと伝えられ鞍ごと池に投げ込まれたと言う。この鞍骨池伝説や海老名辺りに点在、祀られている石塔は往時を物語るものと思われる。この首塚様や堂山は、この戦の名だたる武将やかかわりのあった人たちを供養お祀りした場所と思われる。近年は霊験あらたかということで病気平癒と合格の祈願の信仰を集める。平成20年(2008)1月吉日 菊川文化財保存会鈴木利夫氏の文を基にして記入
○三島神社:・庚申塔:平成二十年、・祠3、・石柱:昭和四十一年、
右岸道300m右への道100m奥に神社がある。
広い道(公文名の市道と県道菊川停車場伊達方線)が合流する箇所に石道標がある。
・石道標:「右瀧之谷守本尊ヘ廿五丁 左東海道ヘ十五丁 堀之内駅ヘ廿七丁 大正十四年環居紀念」
~~~

 ここから先は伊達方トンネルを通過して、西方に出て、西方から、大頭龍神社へ向かうルートを紹介する。それは自著:「遠江三十三所観音霊場巡礼道」のルート沿いになるので、そこからの文章を組み直して載せる。部分的に文章を追加している。
~~~*『遠江三十三所観音霊場巡礼道』より抜粋し組み立て直す~~~
 また伊達方トンネルまで話を戻す。
伊達方トンネルから道を下ると、神社がある。またはトンネルを下ってくる現在の道の西の古道沿いの作業場か工場の西から南の寅尾神社に向けて細い道が付いていたかもしれない、というのも、寅尾神社前にも道らしきがあり、かつての古道かもしれないと考えられるからである。
○寅尾神社:・手洗石:昭和三年、・石柱2、・石段:御大典紀念昭和参年、・板碑、
・狛犬2、・庚申塔2:大正九年、寛政十二、
 寅尾神社の南で道が分岐する。
広い道(公文名の市道と県道菊川停車場伊達方線)が合流する箇所に石道標がある。
・石道標:「右瀧之谷守本尊ヘ廿五丁 左東海道ヘ十五丁 堀之内駅ヘ廿七丁 大正十四年環居紀念」

 川崎街道メインルートは潮海寺地区へ向かうが、ここから一旦、竜雲寺:福天権現や大頭龍神社へ向かうルートにして説明する。

道の合流地点から100m南へ進むと右にコンクリート擁壁がある。そこに石仏がある。
・石仏:すでに地蔵か観音か不明だが、頭部上部に細長いものがあるようなので、おそらく馬頭観音かと思われる。
100m進む。右に寺院がある。
○洞源院:・地蔵、・観音、・観音:西国三十三所安永四乙未、・手洗石、・昔の鬼瓦、・祠:神、・新四国第八十六番霊場昭和九年、・菊川地蔵尊巡り四番、・洞源院昭和五十年、
・石道標:「記念 東海道一斤八百八メートル 十六町二十間 堀之内駅ヘ二千八百三十二メートル 二十五町五十一間 大正十三年一月廿六日建之 澤田部青年團」 
50m進むと東海道新幹線に達する。古道は西方川左岸沿いのようだが、道がないので右岸を迂回する。右岸道150m行って右道奥に神社がある。
○七社神社:・新:献灯2、・石鳥居:御即位紀念大正四年、・常夜灯:明治四十三年、
      ・石柱2:大正四年御即位紀念、平成二十三年、
右岸道50m進み右奥に神社がある。
○岡の宮神社:・石柱:大正六年、・石鳥居、
 岡の宮神社の150m南の県道菊川停車場伊達方線が西方4503₋2山西茶農協製茶工場横へ東に入った路地に石仏がある。
・石仏:馬頭観世音、
右岸道を迂回したが、途中で左岸道が現れて来る。新幹線ガードから左岸道を1.2㎞進むと県道掛川浜岡線の1本北側の旧道に当たる。
福天権現へは、ここで右折(西)して、西福寺、田ケ谷八幡神社、秋葉山常夜燈を通過していくことになる。

大頭龍神社へは、遠江三十三所観音霊場の28番正法寺と同一ルートと推定されるので、先ほどの県道掛川浜岡線の一本北側の旧道で左折(東)する。北の山腹に神社がある。
○山宮神社:・板碑:大正八年、・庚申塚:明治三十年、祠3:神、
・石鳥居2:大正十五年、、献灯2:昭和四年、・祠:子育て地蔵、・手洗石、
・祠:地蔵、・板碑、・秋葉山常夜燈:木造金属葺、・石段:皇太子殿下御降誕記念、
・石柵:平成二十年、
古道的には300m東進して南下して東海道本線をくぐって28番に達するのだが、その古道は消失し、現在は線路をくぐる道はもっと400m東進しないと無いので、そちらに迂回する。28番正法寺の奥さんによればかつては石道標があったそうだ。
迂回したガード下道の100m手前東の丘上に神社がある。
・神社:・お堂、・コンクリ手洗石、南側に階段状参道があるが、草と倒木で使われていないようだ。北側は新興住宅地で道に面しているが、柵と擁壁があり、入口がない。ということは誰も祀っていないのか? ’16 2/11
県道掛川浜岡線と東海道本線に交差する所で線路をくぐる所に戻ってくる。
古道はどうも迂回せずに28番へ直に向かったようだが、現在そんな道はないので、迂回を含めガードをくぐって線路の南に出る。西の山際に28番がある。 ’16 2/11
○第二十八番 拈華山 正法寺(菊川市西方1329、にしかた)ねんかざんしょうぼうじ  
 創建:天正2年1574、開基:堀田正法、開山:龍雲院三世実伝宗貞和尚、本尊:聖観世音菩薩:寄木造り座像72㎝:伝行基あるいは運慶あるいは逢雲作、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎、縁起:
旧菊川町の寺院は森の大洞院の流れを汲むものが多い。
桐田氏私見:堀田氏は堀内氏(城飼キコウ郡:小笠郡堀之内城)で正法寺開基は堀之内重親だろう。ただ武田徳川の争乱期で寺院を開基し経営できたかは検討を要する。
安政三年1856冬失火焼失、本尊は免れる。諸堂再建は廃仏毀釈で進まず大正14年1925竣工。堀田城城主堀田正法開基で龍雲院三世実伝宗貞を招いて開創、八ツ谷観音、厄除観音、子育て、縁結び、
・鐘楼:鐘がない、戦時中供出。平成4年鋳造。
・丸い大石:「天保十四年 二十八番札所 正法寺」:参道入口、
・本堂:大正十四年落慶、
・梅古木:本堂前、
裏山は山城:堀田城または松下城、山城の輪郭が残る。中腹には円墳があったが、崩落の恐れがあり1993年発掘調査、記録保存し整地し正法寺霊園になっている。
~追加~
・堀田城(松下城):裏山には上れるし、本曲輪には標識「本曲輪」が立てられているが、他は一切ない。曲輪や堀切があり、しかも二重に切られた堀切が複数あるなどするが、そういった説明や標識類がないことが残念だ。
・円墳:霊園の中央部分らしいが、記録保存して取り壊したので一切わからない。
地元の郷土愛好家グループや教育委員会で標識や説明看板を立ててほしいものだ。
・祠:神を祀る。・供養:地蔵10、・新;献灯、・新:手洗石、・古:手洗石、
・裏山山頂:祠:秋葉山三尺坊大権現、秋葉神社   ’16 2/11
有住、駐車場有、Tel:0537-35-3612

~周辺~
東側の山上には常葉学園(大学、短大、高校、美術館)、楠木神社、菊川神社、大徳寺、公園、グラウンド、市役所、福祉施設、教育施設がある。
不本意だが古道がないので現在の自動車道を東名高速もくぐり1.5㎞進む。
途中東名高速高架をくぐる手前の東に神社がある。
○八幡神社:加茂、白岩東:・石柱2:、・手洗石:(二つ割れ)、
・石鳥居:明治十十十(廿の3本)六年、・献灯2:臺灣(台湾)高雄市織部恭市昭和十一年、・石段、・新:手洗石、・古:手洗石(割れ)、・石段、・狛犬2、
・石柵:昭和六十一年、
左折(東)し県道高瀬菊川79号線を東に800m進む。
途中北の高台に神社がある。鹿嶋神社:古墳でもある。
○鹿島神社:古墳、
・石碑:鹿島神社参道入口 平成二年、石造成記念、・鹿嶋神社表参道 平成九年、・石鳥居:明治三十九年 再建平成六年、石柱2:大正九、・新:手洗石、・石鳥居:平成二年、・石柵:平成九年、・石柱2:大正四年十月 御大典 五丁目氏子中、・石柱2:、・狛犬2:平成六年、・献灯2:平成六年、・稲荷神社:稲荷2:平成二年、・石家道祖神、
・鹿島遺跡:説明版:今から4~5千年前、縄文時代中頃(加曾利E式)の村落跡、道を隔てた北側からは宅地造成の際に二軒の縄文住居が、また遊園地の東部分からも二軒の住居跡が見つかり、土器、石斧、石器の材料の黒曜石斧が発見された。町道より境内に入るために切り取られた道しろ辺りと園地の東南部分で比較的新しい住居跡が発見された。出土土器は八斗地遺跡(旭グランド)の奈良時代のものと似ているのでおよそ同時代の村と考えられる。
・鹿島古墳:説明版:公会堂脇にある古墳は今から1400年前のかなり身分のある人の墓で、周囲には円筒埴輪は巡らされ、直刀を出土し、直径は十数メートルあったが、現在は西半分が残っている。埴輪を伴う古墳は郡下でも数カ所しかないが、そのうち旧菊川町内に3か所ある。高田ヶ原公園に2カ所。役場西の森の高田原の大徳寺前方後円墳は古代この地方の王の墓だが、この王の墓を中心に代々主な古墳がこの台地に作られ、集結している。打上台地は東寄りから南べりに八幡社の円墳まで数箇所に古墳があるが、今はほとんど消失した。この原一帯は湧水のある場所に奈良時代の家が散在し集落を形成した。菊川町の古代は、この高田原台地を中心に文化が栄えていたことを物語っている。
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 28番正法寺の参道入口に戻り、南へ300m進み右折(西)するか、南へ400m進み豆尻橋を渡り、次の道を右折するかして、西の山際に出る。西の山際で南へ進み、東名高速高架ガードをくぐる。ガードをくぐると五差路になる。左右の高速道の側道ではなく、前方右の工場への広い道でもなく、左側道と工場への広い道の間の前方左(南)の狭い道を進む。ちょうどガードをくぐったところで西方、堀田地区から加茂地区となる。西の山際に沿い300m南西へ進むと、右折(北西)し山へ登っていく道がある。
○井成神社(加茂804⁻5)井成山 
 ・説明:井成山と三浦刑部:稲作文化が進むにつれて、今まで荒蕪の地だった白岩地帯へ水田ができたが、村の中央を流れる西方川も東へ隣接する菊川もともに、川底が低くて田へ水がのらず、干ばつのたびに稲が枯れ死するので、年貢にもさしさわり農民はいつも不作を嘆いていた。ここに三浦刑部という偉丈夫があって、これをだまって見過ごすに忍び図、決然と立って治水の路を開き、村民の苦難を救おうとしたが、当時は排他気分が盛んで許可なく他村へ立ち入ることはできぬ申し合わせがあったので、測量等には嘘や方便、狂気を装ったり、凧を揚げて糸を切り、凧を拾う振りをして隣村に立ち入ったりして、智謀の限りを尽くして、地形、距離、落差を調べ、用地は農耕にかこつけて買収する等、苦心惨憺の末、ついに潮海寺掛下から菊川の水を取り入れる企てに成功し、矢田部から潮海寺・上本所を経て半済を通り白岩・長池に通じる水路を完成した。村民は瀬波を立てる井川の水を見て、一同起死回生の思いに浸り、今もなお刑部の徳をたたえている。それ以来加茂は豊穣の地となった。
 ・説明:三浦刑部と加茂井水:400年前加茂村は「嫁にやるなら加茂はおよし、加茂は雲雀の遊び場所」と言われ荒れ果てていた。今川軍の武将三浦刑部は桶狭間の戦いに敗れて武士をやめ、農業を志し、清水の里から二人の息子と加茂村にやって来た。田圃の開発を決意した。加茂村は菊川、西方川に挟まれているが川の流れが低く、川の水を利用できなかった。
刑部は幾多の困難を克服して菊川の水を潮海寺村より、半済村ハンセイムラ、本所村ホンジョムラを通り加茂村に導く測量に成功した。13年の長い歳月をかけ、刑部は途中で没したが、二人の息子により井水(用水)は完成した。2千石の米が取れる加茂村が大村としてよみがえった。以後江戸時代はもとより菊川町合併まで延々と流れる井水とともに加茂村は続いた。
 村人は刑部の高い志とその恩恵に感謝して、井水の全部が見えるこの山の頂に祠を建て、感謝のお祀りを4月の第一日曜日に加茂地区を挙げて盛大に行われる。なお、この神社は井水が成る「井成神社」と言い、同時にこの山を「井成山」と言う。
 用水地図では、菊川の水をJR線路より北側で取水し、菊川の西側を加茂地区に分流して流していることが分かる。
 ・説明:加茂井水 争いの歴史:
天正九1581年、井水の工事を始める、
文禄三1594年、井水完成、
1700元禄13年、本所村が吉田領加茂村陣屋へ訴える、
1701元禄14年、本所村が幕府評定所へ訴える、
1703元禄16年、加茂村が本所村を幕府評定所へ訴える、
1704宝永元年、本所村と潮海寺村が加茂村を幕府評定所へ訴える、
   幕府裁定 刻割り制
 潮海寺村0時~2時、本所村2時~6時、加茂村6時~24時、
 大井川用水の通水まで続いた
 1761宝暦11年、井水の公平を期して総百姓が立ち会って決定した定め書きを作った
   加茂村御相給定書
 1788天明8年、加茂村が本所村を吉田領地方役所へ訴える
 1790寛政2年、終結
 1793寛政5年、村内上部落対下部落の争い
 1856安政3年、神尾村、潮海寺村の鰐淵井堰の改善について争い
 1857安政4年、神尾村、潮海寺村が加茂村を幕府評定所へ訴える
   幕府検使が現地検分
 1860万延元年、幕府の指示により示談成立

・石段:昭和十一年、・祠、・御夜燈:昭和三年、・石鳥居:大正二年、・手洗石、・金毘羅神社、・石鳥居:大正二年、・御夜燈:昭和三年、・手洗石:元治二丑年:横倒し、
 神社のある山は散策コースになっていて周辺の眺めを楽しむことができる。山の名は井成山のようだ。見晴らし台もある。
 井成神社への上り口の西にお堂がある。
○堂:一番山長正寺(加茂804⁻5) 
 ・御夜燈2:昭和三年、新:昭和十年(再建?)、・石塔:菩薩、
 先ほどの井成神社への参道入口に戻り、150m西進すると、大頭龍神社の大鳥居(東口)がある。
 ちなみに福天権現から西周りルートで達した大頭龍神社参道入口(南口)は、ここからさらに400m南進した所である。
○大頭龍神社(加茂、白岩段944⁻1⁻1) 
 ・説明:正一位大頭龍神社:祭神:大物主大神、大山咋大神、出雲龍神、由緒:当神社は往古より御山へ宝祚延長天下泰平国家安穏の御弊氏子崇敬者安全繁栄の御幣を立願にて相建て今日に至る。当社は桓武天皇延暦11年勧請と口碑似て伝わる。御神徳は疫病鎮護厄除縁結びにしてその福徳の神様を奉斎申上げる。現在は建立社殿は宝暦13年、文化12年の修復再建である。鳥居額:神祇管長上従二位卜部朝臣兼雄公筆、拝殿内額:徳川家達公筆、神事:七十五膳奉幣厄除篝火、昭和37年。
東口
 ・赤鳥居:大正九年、昭和六十三年、・永代常夜燈2:大正十四年、・石柱2:昭和五十四年、社名碑:大頭龍神社:昭和三戊辰年、
 北の家の裏山に祠がある。
・祠:神、・
 南口
 ・石柱2、・祠、・石柱2:大正四年、
 南口参道入口より北へ240m、本殿前大鳥居より南に150m地点
 ・永代常夜燈2:文政元年戊寅十月吉日
 本殿前
 ・祠:神、・石柱2:大正四年、・金属鳥居:文政七、・常夜燈2:昭和戊辰之秋、・永代常夜燈⒑:大正十四年、・献燈:昭和三年、・常夜燈:長谷川:文政九年、・永代常夜灯:明治四十三年、・狛犬2:昭和三戊辰、・板碑:聖徳太子、・永代常夜燈2:寛政七年、・石柱2:紀元二千六百年、・石段:文化七年、・永代常夜燈2:文化十三丙子歳、・板碑:寄附人、・板碑6:金壱百~、・手洗石:昭和二十八年、・手洗石、・永代常夜燈(3:文化十三、大正四年、2:明治四十四年、平成二十一年、文化十一)・永代三夜燈(2:文化十三、2:文化十有四年、3:文化十四年)、・常夜燈:破片、板碑2、・自然石:丸石、
桜名所であり、参道沿いは満開時素晴らしい光景だ。しかし桜満開4/9土曜日という週末の15時過ぎの晴れた日に、隣の児童公園に遊びに来た親子連れ2組、近所の人の散歩姿数人のみで、神社受付売店の神主さんも15時過ぎに帰ってしまったので、私は御朱印を貰い損ねた。16時過ぎまでいたが、他に参詣に来た人は0人。大頭龍神社と謂えばかつては遠州きっての名刹、格式ある大神社であるはずで、大鳥居や常夜燈の年号や規模からして江戸時代後期より近代までは、大いに流行っていたはずだ。だからこそ大頭龍神社への石道標があるのだし。しかし現在は静かな神社だ。神社の栄枯盛衰を見た。それにしてもこんな静かな陽春の昼下がりに満開の桜に囲まれたというのは極楽至極ともいえる。 
 
 大頭龍神社を紹介したことで、このルートの説明は終了する。次は川崎街道の菊川市西方から潮海寺へのルート説明である。

菊川市西方の奉仕橋から南東に向かう道に出て、その広い道から東へ曲がり、西方5918₋2:内田氏宅前を通り、その東先で現在は道が消失するが、山に入っていて、山坂(どうもこの坂か、次の「通りの尾根」の坂を相良坂と言ったようだ)を上って東の潮海寺地区の「⑩成就院跡」前に出て、「通りの尾根(相良往還)」と呼ばれる尾根道に出たようだ。
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 潮海寺地区の「⑩成就院跡」前を通過し「通りの尾根」前に出る。昔は「通りの尾根」を歩けたのだろうが、尾根に取り付くところもないほど雑草に覆われているので上るのをあきらめる。東西に延びるこの「通りの尾根」の北側と南側の平地境には、現在舗装された農道になっているので、そちらを通行する。南回りの農道では「⑪常楽院跡」の標識がある。また新幹線線路際に出て線路高架下ガード前には「⑫向田坊跡地」への案内標識もある。更に南周りを東に向かうと通りの尾根が終わる手前に「⑨中の坊跡」「へ:螢谷」の標識がある。
 北回りを東に向かうと、舗装されているがかなり雑草が多く、廃道に近い。雑草を抜けると「田子谷」辺りに出て、さらに東に向かうと通りの尾根が収束しに「⑨中の坊」「へ:螢谷」のすぐ北側に出る。ここで新幹線高架下ガードを南にくぐり、東側の潮海寺への台地を南へ行きつつ上っていき、潮海寺参道入口付近に出て、潮海寺の寺の南を通過し和田へ出ることになる。
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 ここで一旦潮海寺地区周辺を紹介する。
 潮海寺参道前の潮海寺615₋2:岩水酒店前に出る。ここから南に50m行くと東に「お祭り広場」があり、潮海寺周辺の案内図・説明版がある。
・潮海寺:説明版(潮海寺615⁻9) 
 ・説明:潮海寺は平安時代798~1190頃寺領を中心に大いに栄えた。寺の領域は掛川の成滝から菊川の仁王辻まであったと云われ、この中に75もの寺(坊)を配し、うち潮海寺には15坊があった。
 潮海寺十五坊:①学頭坊、②本善坊、⓷勝養坊、④行賢坊、⑤高塚坊、⑥小池坊、⑦法蔵坊、⑧地蔵堂、⑨中の坊、⑩成就院、⑪常楽院、⑫向田坊、⑬桜本坊、⑭梅本坊、⑮最勝坊
 潮海寺八景:い:囁ささやき橋の夕照、  ろ:行賢坊 時雨、  は:塩井神社 塩井戸の浮月、  に:高塚坊 富士見、  ほ:法蔵坊 暮の鐘、  へ:中の坊 螢谷、 と:梅本坊 春霞、  ち:最勝坊 秋の月
 更に南に向くと潮海寺の古い山門がある。
・潮海寺山門、仁王像(潮海寺2668⁻1)  
 ・説明:潮海寺仁王門:菊川市指定文化財:潮海寺の始まりは天平年間、行基によって彫られた薬師如来を安置し、780宝亀11年になって寺堂が建てられたことによると伝えられる。「後拾遺往生伝」という文書には、平安時代中期の寛治年間1087~1093に多くの高僧がいたことが記されている。天正年間1573~1592と推定される古文書では、徳川家康の家臣大須賀康高により潮海寺本堂建立のため、河村郷内での用材の伐採を許されている。寺の残された棟札ムナフダによると、薬師堂が1694元禄7年、本堂が1730享保15年に建立されたことがわかるが、二王堂の棟札では年号が確認できず、現存の仁王門のものかも確定できない。ただし地元に残る写しから1705宝永二年9月と推測され、建物の年代観とおおむね合致すうr。二王堂建立の願主は阿闍梨有誉。仁王堂施主(お金を出した人)は西方村山内□□時盛、大工は西方村藤原□□□□□三郎□。仁王像の彩色施主は倉澤村山内徳左衛門、漆師は山名郡袋井町門□与次兵衛と記されている。(□は判読不明)。その記述から、堂の建立とともに仁王像に彩色が施されたようだ。
昭和32年菊川町指定建造物。平成17年1月菊川市誕生とともに菊川市指定となった。
 平成元~二年度にかけて大規模な解体修理が行われた。建立当初の茅葺から瓦葺にされていた屋根は解体修理の際に銅版葺きに改めた。解体修理と同時に仁王像に関しても調査が行われ、所見では、江戸時代中期の在地仏師による作で、玉□に彩色された仁王像とは異なると考えられる。
・秋葉山常夜燈、・石段、・薬師如来:文政□□、
更に南に神社というか祠がある
・津島神社(潮海寺560⁻1) 
 ・祠:不動明王像、・手洗石、・石塔、
 南60mに祠がある。
・祠:杉葉屋根葺き、・木鳥居、
 250m南進し、右折(西)120m、右に祠がある、
○祠:神(潮海寺2788⁻3) 
・いくつかの五輪塔上部、・いくつかの自然石の丸石、
 30m西進。
○新宮神社(潮海寺2810⁻1) 
 ・金属鳥居:平成二十一年、・石柱2:御大典記念、・奉燈2:大正三・四年、板碑:勅忠・族忠、手洗石:明治三十年、・大木2~5、
 100m西進。
○長泉寺(潮海寺2582⁻3) 
 ・自然石、・地蔵2、・山門、・台座のみ、・馬頭?:天明八、・千部塔、・十部塔、・石塔、・庚申供養塔、・西國三十三所玉砂埋蔵供養塔:文化十三子年、・不許藝術賣買人入門、・萬霊等:寛政八、・制葷酒、・堂、
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再び北の山門を過ぎておまつり広場へ戻る。
山門を過ぎておまつり広場手前の反対側の西には「⑮」がある。
・「⑮最勝坊跡」「ち:秋の月」(潮海寺2120⁻8) 
  ⑮から西150m地点には⑭と「と」がある。
・「⑭梅本坊跡」「と:春霞」(潮海寺2659⁻1) 
  ⑭から西150m地点には⑬がある。
・「⑬桜本坊跡」(潮海寺2655) 
  ⑬から南西500mに⑫がある。 
・「⑫向田坊跡」(潮海寺) 
  ⑫の南西150m地点に神社がある。   
・日吉神社(堀之内、宮前664⁻3)
 ・石柱2:昭和七年、・石鳥居:大正二年、・石段2:大正九(元)年、・献燈2:平成七年、・手洗石:平成七年、・狛犬2:平成七年、・祠:津島神社、・祠:金刀比羅神社、
 
 潮海寺山門北の「おまつり広場」までまた戻る。
「おまつり広場」の北を目指す。まずすぐ西北の茶畑であるが、かつては地蔵があったようだが、見つからない。
・茶の木地蔵(潮海寺2120⁻7)
 未発見。おまつり広場より70m北に現在の潮海寺がある。
その手前には大門があったらしい。
・大門(潮海寺2115) 
 かつて潮海寺の大門があったようだ。
○潮海寺:おたきあげ寺(潮海寺616) 
 ・堂:遠州□□□大師第十二番霊場、・祠:赤鳥居、・○奉待庚申供養石塔造□:見聞言ザルレリーフ、
 ・「①学頭坊跡」「②本善坊跡」
 真北へ300m進む。途中新幹線上の鉄橋を渡り、薬師堂、八坂神社に至る。かつてはここに巨大寺院があったようだ。
○潮海寺薬師堂(潮海寺2103⁻1)
・「い:囁ささやき橋の夕照」()
 ・説明:潮海寺 薬師堂:現在薬師堂が建っている所と墓地の付近にある大きな石が昔の建物の土台石と考えられ仏教文化の跡が偲ばれる。薬師堂の所にある礎石は33m前後の間隔があり縦横67個が数えられる。現在の畳を敷き詰めたとすれば百数十畳の広さをもった建物が想像される。礎石は3種類以上の物が混在している。また散在する布目瓦も平安鎌倉…と数種類がある。桓武天皇の頃、坂の上田村麿が七堂伽藍を建てたという話が残り元禄時代に再建した文書や棟札がある。そこで800年以上前からかなり大きな建物があったようで、幾度か立て直しが行われたことが偲ばれる。またこの台地一帯は山城跡であるとも言われ、立地条件も整っているし横地に対する今川氏の出城武田氏の遠州攻略には徳川方の砦として兵火にあったといわれる。昭和51年調査で薬師堂側で33個、墓地側で25個が確認、西南の墓地附近まで広がっていることが分かった。
 ・石燈2:明和三、・礎石4:70㎝、・鐘楼、・大円堂、・木鳥居、・自然石4:縦長、・新:十三仏:薬師は本尊で堂内にあるのでここにはない、・三面観音、・堂:金毘羅宮、・西國三十三所観音供養塔、・善光寺供養塔2、・□□□圓供養塔、・善光寺供養塔:文政□未年、・堂:弁財天、・板碑:佛天、・三十三所供養塔:文政元年、・石塔:寛政二年、・手洗石:享保十四年、
・「⓷勝養坊跡」 
○八坂神社(潮海寺1959)
 ・説明:祭神:すさのおのみこと、例祭日:7月23日より25日、由緒:天平の中頃の創立。人皇45代聖武天皇の御代、広厳城山薬師堂山の良の頂上へ勧請し奉る。牛頭天皇と尊称し、薬師如来の御前立と定め、潮海寺の鎮守とし、なお本村氏神と尊び奉る。慶長12年造営、寛永年間造営、天保3年造営、正徳壬辰年造営、宝暦4年造営、遷宮式の棟札あり、明治4年、神仏混淆禁止の際、神仏分離して八坂神社と改称す。昭和6年1月、村社に列格す。
 ・説明:素戔嗚尊、大祭日:祇園祭は人々の厄を祓い農作物の豊穣を祈願する祭だ。平安時代の古式ゆかしい神輿の渡御を賑やかなお囃子にのって屋台がお供をする。屋台が仁王門の石段を下り上りするさまは実に勇壮だ。昔は毎年、京都八坂神社の祇園祭と同じ期日に行っていたが、昭和初期頃から茶の生産時期と重なるため、7月23~25日となった。27年からは3年に一度となり、更に63年からは7月23日に近い土。日を入れた3日間行われることになった。
 由緒:天平の中頃740人皇45代聖武天皇の御代、廣厳山薬師堂の鎮守として、牛頭天王を境内の艮コン(東北)の方位山頂に祀った。これを「お天王さま」といって、村民の氏神とし、江戸時代末期まで栄えた。
 明治4年神仏分離令によって、祭神の牛頭天王は素戔嗚尊であるとし、社名を八坂神社と改称した。神殿は仏法の守護神であるが故に薬師堂境内地を分割分離した。現在も神社と寺が同一境内地に共存すうr神仏習合の形態を留める神社は少なく往時の面影が見られる。昭和6年1月、河城村村社に列格、昭和20年敗戦により無格社となり、現在は9等級神社。
  神社境内地には、合祀社「金山社、白山社、いざなぎ社、奥津社」、「金毘羅社」
  祭神説明:素戔嗚尊はとても気の荒い神である。尊は高天原で天照大御神に乱暴を働き、天岩戸事件を起こして出雲の国へ追放された。そこで尊は出雲の国、簸川ヒノカワの上流に人が住んでいることを知り、鳥髪に天下って「八岐大蛇ヤマタノオロチ」を退治して櫛名田姫を救い妃にした。その子供が大国主命である。その大蛇の体内からは天の叢雲ムラクモの剣が出た。この剣を持って日本武尊は東夷征伐に行き、賊軍に焼き討ち攻めに遭ったとき、この剣で草をなぎ倒したことから、草薙の劔と呼ばれ、熱田神宮に祀られている。
・祠:中に祠5、・石柱2:大正四年、・社名碑:村社八坂神社:昭和十二年、石鳥居:昭和四十二年、・献燈2:平成十六年、・手洗石:明治□□□、・石段、
 当地より東北へ200m進む。途中老人ホーム前を通過し、やや南に進む。
・「④行賢坊跡」「ろ:時雨」(潮海寺758)
 北方面に150m進む。右(東)へ「は:塩井神社、塩井戸の浮月」の標識があるので、右折する。150m東進する。左(北)へ60m。
○「は:塩井神社、塩井戸の浮月」(潮海寺)
 ・説明:奈良時代、広く人々に知られ、南西にある潮海寺は聖武天皇の頃、潮井戸に因んで潮海寺と名付けられた。郷土の産んだ国学者:栗田土満:菊川市段平尾八幡神社官は当時の情景を「木の葉もる月の光も卯の花も桜も雪と波とこそ見れ」と歌った。当時の潮(塩)井戸は塩分を含む鉱泉が強く湧き出ていたが、安政の大地震によって地層が変化し46mほど北側から噴出するようになった。この井戸は3年に1度、7月に行う潮海寺八坂神社の祇園祭の時、お水とりの神事に用いられる。八坂神社と薬師堂は南の塩谷坂を上りきった西の森にある。

 先ほどの標識まで戻る。ここからまた北を目指す。400m北進。
・「⑤高塚坊跡」「に:富士見」(潮海寺)
  すぐ東側の丘頂上周辺のようだ。ちなみにこの時カモシカがいた。
 700m北進し、左折(西)し600m西進する。また右折(北)し200m。右(東)に標識がある。
・「⑥小池坊跡」(潮海寺)
 西進70m。
○薬師堂:奥ノ院:岩井堂(潮海寺)、水源
 ・献燈2、
潮海寺の巨大寺院の北端のようだ。120m西進。左折(南)400m南進。
・「⑦法蔵坊跡」「ほ:暮の鐘」()
 150m南進。坂を下った所に石仏がある。
○石仏(潮海寺)
 ・石祠:道祖神、・「道祖神」、・地蔵、
50m南には「奥の池」である。
・「奥の池」(潮海寺)
 300m南東進。橋の袂に標識がある。
・「⑧地蔵堂跡」(潮海寺)
 90m東進。広い道に合流する手前に石仏がある。
・「馬頭観音」(潮海寺)「柿田」
 かなり摩耗しているが馬頭である。
ここから南進すると潮海寺参道方面に近付くし、途中の250m南進し右折すると「通りの尾根:相良往還」や「⑨中の坊」「⑩成就院」「⑪常楽院」への道となる。

これで潮海寺地区の説明を終わる。
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 潮海寺仁王像山門参道前から津島神社横を東へ目指す。200m東進で水神橋手前に達する。この左上に神社がある。
○水神社(潮海寺)
 ・祠:水神社、・石碑:水神:昭和四十九年、
 水神橋を渡って和田へ出るルートがある。一方で現在の潮海寺のある所を真東に進み台地を東へ下って、南の潮海寺橋を渡って和田に出るルートもある。
 和田集落のJR東海道本線北側に接した所に石仏がある。
・馬頭観音:昭和十一年三月(和田36) 
 線路の北側を東に進み集落を抜け、大井神社方向を目指す。和田、谷田部集落の東端から東へ300mである。
○大井神社(和田426) 
 ・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、中の燈も木造、・祠:五輪塔、・石鳥居:明治四十年、・手洗石、・石柱:横倒し:奉御成婚和田在郷軍人會、

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ここから街道は南の踏切を渡るがその前に周辺を紹介する。
 大井神社前を300m東進すると吉和橋を渡る。この右(南)にJR東海道本線のレンガアーチ橋がある。
・レンガアーチ橋;
 さらに300m東進する。
○西福寺(吉沢523) 
 ・菊川地蔵巡り第七番、・自然石燈籠、・巨石3、・新:地蔵、・一石3仏:南無阿弥陀佛、・南無観世音菩薩所、・子持石、
 ・石道標:南無阿弥陀佛 右ハかなや 左もびい乃去涅
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 大井神社前に戻り、神社南側の東海道本線の和田踏切を渡り、法明寺横に出る。しかし法明寺は既に廃寺となっている。
○法明寺跡:和田公民館(和田) 
 ・説明:法明寺の歴史と解散整理事業の概要:この地に法明寺と称する曹洞宗の寺があった。創立不詳。1623元和9年没の妙照寺4世、宝岩玄珠大和尚による開山と伝わる。
かつて法明寺は、9月2日~3日の毘沙門天のお祭りに浪曲が演じられ、夜店が出たほど賑わった。400年近く存続した寺だったが、川端玄猛住職の長期入院(平成13年没)により宗教活動ができなくなり、昭和59年に檀家が全て離檀して寺は荒れ果てた。
平成18年5月、玄猛和尚の兄が没して寺が無人になったのを期に、にわかに法明寺問題解決の取り組みについての話が持ち上がった。寺の前を通る県道吉田大東線緊急交通改善事業もその要因の一つであった。当然のことながら、この取り組みは和田区民が負う成り行きとなった。
地元選出の市議会議員、戸塚正晴氏の献身的な協力と菊川市の支援を得て、最初に取り組んだのが寺役員の再構成であった。組織の要となる、兼務住職と代表役員に、妙照寺住職の城達明師の就任承諾を得ることができ、法類に法幢寺住職、青葉茂雄師、法友に西福寺住職、末永無相師の就任受諾を得た。責任役員には信徒の資格で、北原勝、山内静、赤堀博が、干与者には岩堀和雄の就任が決まり、平成19年1月、法明寺の新たな組織が成立した。
以後、法明寺は県道拡幅工事の用地売買交渉、境内にある国有地の買収、荒れ果てた境内地の整理等を行うとともに、最終の目的である宗教法人法明寺の自主解散に向けて宗務庁と折衝を重ねた。
平成21年12月宗教法人法明寺の自主解散が承認され、平成22年5月、清算が結了して法明寺の残余財産の全てが和田地区に帰属した。
玄猛和尚のご母堂、川端明治様の遺産金相続人23名の方々から、和田地区発展のためにとの趣意で多額の寄附を賜った。この事業の推進の大きな支えとなった。平成23年3月和田法明寺解散整理事業実行委員会
 ・和田毘沙門堂、・法明寺鬼瓦、・旧毘沙門堂鬼瓦、
 ・石道標:南 沢水加ヲ経テ川崎、相良ニ通ズ 西 作道  北 本所ヲ経テ堀之内ニ通ズ 東 吉沢ヲ経テ金谷ニ通ズ  大正十二年四月 第八部青年團 
 この石道標は裏面を表にして固定してあり、表面は金網冊に面していて10㎝程の隙間から読むしかなく、とても読みづらい。しかし保存してあるだけでもありがたいことだ。まさにこの石道標が川崎街道があることの証明でもある。
 一旦南側を東西に延びる県道菊川吉田線に出て、東へ30m進むと、南東に分岐する県道菊川榛原線(現在の川崎街道)の起点がある。ここから東南東ないしは東に向かって1.8~2.0㎞進む。沢水加公会堂が左(北)にある。その裏山には神社と墓地、堂、祠もある。
○沢水加公会堂、西宮神社、墓地、堂(沢水加725) 
 ・板碑:殉公碑、・時計台:コンクリ製、・石柱4:大正四年、大正十三年、・大谷内竜五郎の墓、・板碑:流芳墓地、・標識:入会地奪還記念誌、
・堂:大日如来、・祠:観音4、如来1、地蔵7、地蔵の首1、
・建設沢水加青年團:大正拾弐年、
 ・石鳥居、・常夜燈:平成元年、・狛犬:陶製1、・手洗石:平成元年、・祠、
 250m東進する。沢水加橋手前、左(北)の御宅前に標識がある。
・標識:移築された中条景昭邸(沢水加788:栗田氏宅) 
 沢水加橋を渡って左2軒目の加藤氏宅:沢水加902で川崎街道の古道について聞く。向かい(右)の倉庫前の植え込みに石道標があり、その前の道が山斜面に向かい延びていき斜面を上っていく。その道こそが川崎街道の古道残存部分である。地元民は軽自動車で上ってしまうようだが、私の軽自動車はスタックして進まず、加藤氏倉庫周辺に駐車させてもらった。
・石道標:東川崎相良道 北金谷道 西堀之内道 
 植え込みの中によくまあ保存してあったものだ。
・古道残存部分:沢水加←→仁王辻(沢水加902) 
 道は始めは少しだけ簡易舗装されているが、すぐに土道になる。その土道もよく観察すると、斜面に対し直に上る道とその横から斜面を斜めに斜めに上ろうとする道に分かれていることが分かる。つまり、直に上る道こそが古道であり、斜面を斜めに上る道が付け替えられた道であることが推定される。道の距離は県道分岐点から上の坂を上りきった所までで1.2㎞、標高差110mである。途中に沢水加調整池のタンクがある。
 坂を上りきった所には磨滅した石仏3体がある。 
・石仏3(菊川市沢水加904) 
 ・地蔵、・石仏、・馬頭? 
 坂を上りきって茶畑や家々を抜け国道473号線を横断し、東へ向かうと言いたいところだが、古道や旧道は不明というか区画整理され切って直線道しかないうえ、東名高速道路相良牧之原インターチェンジ開設のため、周辺は再開発され古色がまったくなく、とりあえず東に進むしかない。東名高速道路の北側を東に進んでいく。東名のすぐ北側の側道の左(北側)に祠がある。
○こげんじ稲荷(牧之原市静谷、牧之原南2620⁻6) 
 ・赤鳥居:平成二十三年、・祠
 さらに200m東進すると、東名高速下をガードでくぐり南側に出て、県道菊川榛原線を1.1㎞東進する。
 右(南)に神社がある。
○秋葉山神社(牧之原市東萩間、水吞764⁻1) 
 ・コンクリ石柱2、・鐘40×20㎝、・石鳥居:大正十三年、・手洗石:平成十四年、・常夜燈2:平成十三年、・古木10~15、
 県道へ戻り850m東進する。左(北)100m先の牧之原南一組集会所の隣に祠がある。
・祠:神、手洗石(静谷、牧之原南2519₋2)
 県道に戻り550m東進する。右(南)180m先に鳥居もないが神社らしき堂がある。
・神社(白井、大久保1342)
 ・本殿拝殿、・鬼瓦2、
 ちなみのこの辺りの地名は、東進している県道によって分けられている。というより県道がかつての境界線である。県道より北側が旧榛原町、南側が旧相良町である。合併してどちらも牧之原市である。
 県道に戻り600m東進を続ける。左(北)100m先に祠がある。
・祠:地蔵3(静谷朝生)
 周辺は茶畑で目印はないが、茶畑の中の祠なので多少目立つ。
 県道に戻り1.5㎞東南進を続ける。旧榛原町白井、追廻地区で県道は左へ曲がり真東に進む。
・戸塚坂、掛川坂 
追廻で曲がって1.5㎞程は平坦だが、そこから先は急な下り坂となる。この坂を戸塚坂とも掛川坂とも呼ぶ。400m下ると左(北)に鳥居がある。
○稲荷神社(勝俣、橋向2467⁻13)
 ・赤鳥居、・堂:稲荷像多数、
 あと150mで下りきって、住宅街に入る。150m進むと交差点があり、右折(南)し180mで戸塚橋がある。渡って70mで静波三丁目の県道の交差点となる。ここが田沼街道との合流点である。右折(西)し田沼街道である県道を50m西進し、また右折(北)すると前方に神社がある。
○稲荷神社(静波三丁目628)
 ・石鳥居:昭和十一年、・コンクリ石柱2、・手洗石:明治四十年、・献燈2:昭和八年、・秋葉山常夜燈:竿部分が自然石でよい、
・石道標:  
 ・説明:三丁目の道標:天保七丙申年1836の春に建てられ、世話人は□吉、銀蔵、太兵衛の3人で、石工は相良の藤五郎と背面に刻まれている。
この道標の特徴は、
 「大井川道」は行書体で、「かけ川道」は行草体で、「さがら道」は草書体で書かれ、三面の「道」という字が異なった書体で書き分けられている。
 大きさは縦横28㎝、高さ1.28m
 純然たる道標である。
 正面の「かけ川道」は戸塚坂を上り、大沢原から仁王辻を経て沢水加を通って堀之内から西出口に出て掛川に達する道である。

この石道標がちょうど成滝や伊達方の石道標と同じく四角柱で呼応するかのようであるが、内容や表示に共通点はそれほどない。しかし、これで川崎街道の起点、終点を指し示し灌漑深いものがある。

~~~周辺~~~
沢水加から仁王辻への古道を紹介したが、現在の県道での上り下りの道は別箇所にある。
古道から上って東の国道473号線に出る。そこで国道を北へ550m進む。そこに左へ下る県道菊川榛原線がある。下って1.1㎞、下りきる300m手前に標識がある。
・大井航空隊洞窟(菊川市沢水加) 
 県道から沢沿いに30mほど歩くと洞窟がある、どうも防空壕として掘られたようだ。戦争遺跡である。牧之原台地上の布引原には大井航空隊基地があった。


・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年
 ・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、静岡新聞社、’05

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 01:00Comments(0)古街道