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2016年09月22日

高草街道、三輪街道(静岡県藤枝市岡部、焼津市)

~~~高草街道、三輪街道~~~ 
                 ’14 ’15  6月
・情報提供呼びかけ
 今後、高草(三輪)街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 まだきちんと一通り調べていないので、過去に立ち寄った基礎資料にすぎないが、一応今後調べ直すということで、一旦掲載する。岡部から焼津に懸けて、高草山麓の三輪街道または高草街道と呼ばれる所の基礎資料である。

~岡部~ 

○つたの細道(平安時代から戦国時代の東海道) 
 古代中世(約700~1590年頃)の東海道。古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人;在原業平が『伊勢物語』にこの峠道のことを書き記してから全国的に名を知られるようになった。
 *これより古い古代の東海道は「日本坂峠」越えの道で、静岡市小坂の日本坂峠登山口から焼津市花沢の法華寺前に出る道である。徒歩道ハイキングコース。
・歌碑:宇津ノ谷峠
・猫石
・つたの細道公園
・石碑:蔦の細道

○木和田川の堰堤 
・国登録有形文化財:1910年豪雨によって大災害が発生した。災害防止のための砂防工事を進めた。1912年から14年以かけて造られた堰堤である。木和田川の13㎞にわたり、8基の石積み堰堤を築いた。形から兜堰堤ともいう。ちょうど蔦の細道や旧東海道藤枝市岡部側に下った所の川である。上流に向かうと石積みを見られる。

○明治のトンネル 
 明治、大正時代1876~1930の東海道。現在みられる「レンガのトンネル」は明治29年に照明用カンテラの失火によって新たに造り替えたもので、現在は国の有形文化財に認定されている。最初のトンネルは日本で初めて通行料を取ったトンネルなので、「銭取りトンネル」と言われた。
*他の宇津ノ谷のトンネル:
・大正のトンネル、完成は昭和初期、だいぶ坂を上り、人家の隣を通過しトンネルに至る県道である。
・昭和のトンネル、現在、国1上り線側(北側)
・平成のトンネル、現在、国1下り線側、歩道が付いている(南側)

○宇津ノ谷の旧東海道(江戸時代の東海道) 
 天正8年1581豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたと云われている。江戸時代に入り正式な東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっていた。
*私見:戦国史専門の小和田哲夫氏は江戸時代の東海道を最初に整備したのは今川義元で桶狭間に軍が向かうときは、その道を使ったのではないかと推定している。
・静岡市側からだと道の駅の東側の供養塔がある所にかつては一里塚があったと推定されている。そこから川伝いに西に向かい道の駅を通過し、現在の国1南側の小さな橋「平橋たいらはし」を渡るのが、江戸時代の東海道ルートである。ここから道は北の宇津ノ谷集落に向かうため、現在の国1を渡る。ここから先は川沿いに集落を目指すと道標や地図が頻繁にあるので分かるだろう。ちなみに平橋手前で左(南)に曲がり山に入っていくのが蔦の細道である。
・慶龍寺:十団子伝説
・賀茂神社
・お羽織屋

宇津ノ谷集落から江戸時代徒歩道東海道を上っていくと、馬頭観音や地蔵堂跡を過ぎ峠越えをすると、藤枝市に入る。その先で道は舗装された所に出て舗装路を歩く。この舗装路を逆に上ると、国1トンネルの山の上の排気口の建物に出て行き止まりであるので、下るしかない。そうすると藤枝市(旧岡部町)坂下集落に出る。

○坂下地蔵堂(藤枝市旧岡部町坂下2027) 
・羅経記の碑 
・鼻取り地蔵
・石仏石塔

○観音堂(廻沢2589) 

○松岡神社(廻沢2718) 

○十石坂観音堂(岡部1179 川原町)じっこくざか 
 市指定文化財。入母屋造りの瓦葺の観音堂、内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、観音堂内に2基の厨子が安置されている。
厨子1:中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、杮葺きコケラブキで二重垂木、妻入である。彩色が施され、江戸もやや末期の作と思われる。
厨子2:観音堂の向かって右。宝形、板葺屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものだ。江戸も中期以降の作と思われる。
・河野蓀園碑文:市指定文化財。河野蓀園コウノソンエンは駿府町奉行服部久エ門貞勝が駿府地誌の編纂を山梨稲川ヤマナシトウセン(江戸時代の漢学者としてその名を知られた。)に依頼した時に、岡部の属する益頭郡を担当した人である。岡部本町に住し(屋号:河野屋)、文化12年正月18日46歳で没した。彼の墓碑は稲川の撰文と書が刻まれたものだ。その撰文の要旨は彼の資性と業績が立派だったことを顕彰したものだ。建碑については彼の友人で岡部宿駅の漢学者:杉山佐十、本間春策等の友情によって立石されたものだ。
・古:石燈籠?
・石塔?
・手洗石
・萬霊塔:文政三辰年
・新:萬霊塔
 *私見:観音堂は旧東海道の県道横の10m高い山裾にある。おそらくかつては山裾が川の手前まであって東海道はこの観音堂と同じ標高まで上らないと越せなかったのだろう。そこで十石坂なのだろう。現在は土木技術の進歩で、山すそを完全に除去し平坦なので気付かないが、かつては坂道だったのだ。観音堂に上れば当時の旅人の気分が味わえるだろう。

・常夜燈、祠(岡部1140 川原町) 

○笠懸松(藤枝市岡部642⁻19 牛ケ谷) 
笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな 
                         西行(西行ものがたりより)
 平安時代末期~鎌倉時代にかけての歌僧として有名な西行が、愛弟子西住と東国へと
旅をしたときに起きた悲しい物語の舞台であり、謡曲「西行西住」にまつわる場所でもある。東下りの途中、川渡しの場で武士の揉め事に巻き込まれたとき、師である西行に暴力が振るわれたのに我慢できず、西住は相手の武士を杖で殴った。しかし西行は仏に仕える身として辱めに耐える大切さを説いた後、西住を破門した。西住は師を慕って後を追うが、岡部まで来て病に倒れ、最後に体を休めた松の木に、
「西へ行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して」
と、辞世を書き残した笠を懸け、そのまま帰らぬ人となった。
西行は、東国からの帰途に立ち寄った菴で一休みしていると、戸に古い檜笠が懸っていたよくよく見てみると、西行が破門した愛弟子西住に贈った笠だった。庵主に聞いてみると、西住が歌を書き記した笠を松の木に懸け、病気により最期を迎えたことを知り、悲しんで歌ったと伝えられている。
西住法師:岡部の里人伝云、西住は西行の弟子、西行に従って東遊す。遠州天竜川に於いて西行武人の船に乗合いて及危難。西住怒って武人に敵す。於之、西住師の勘気を蒙る。西行独歩東国に赴く。西住悲難愁絶して其師に追及んとす。自足栄々として独往、岡部里に至て病て不能行。終にこの里にて卒す。傍に一松樹あり。竹笠を掛一首の辞世を残す云々。 
(「駿河國新風土記」新庄道雄より)
・宝篋印塔の一部、

○三星寺(岡部650) 
・四国八十八所第三拾三番
・祠:地蔵
・新:三界萬霊菩提

・枡形跡:
 曲尺手(かねんて)とも言う。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。またここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明け六つに開け、暮れ六つに閉じた。

○専称寺(岡部663) 
 ・西行座像:市指定文化財彫刻、像高50㎝、西行法師の旅姿をした座像で白木彫りの作りである。像底裏に「享保十一1726年江戸の湯島天神の西にいた柑本南浦(こうしもとなんぽ)が最林寺(川原町、文化五年焼失)に奉納」の意味の銘がある。江戸時代後期の作と思われる。岡部十石坂観音堂。
 ・不動尊立像:市指定文化財彫刻、像高:54㎝、一木彫り立像で忿怒の形相が力強く表現されている。鎌倉前期のものといわれる。岡部立光山不動院。
 2体とも当山専称寺にて保管されている。
・六地蔵+7:計13:

○立石山不動尊(岡部795⁻5)  
・馬頭:女馬 大正七年
・馬頭:大正四年
・馬頭:明治廿七年
・馬頭:女馬 大正九年
・石仏
・石祠:瓦葺

○大旅籠 柏屋(岡部817) 
 創設:天保7年1836、大旅籠柏屋は平成12年に東海道や旅、岡部宿を楽しく学べる歴史資料館として蘇えった。
 旅籠とは江戸時代の宿泊施設。柏屋はその規模から「大旅籠柏屋」といわれ、岡部宿を代表する旅籠である。柏屋を経営していた山内家は5代目良吉(天保期)以降旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄などの宿役人を勤めた。岡部宿でも屈指の名家だった。
 延べ床面積約331㎡:約100坪。柏屋は文政と天保の2回、岡部宿の大火で焼失しているが、当時の『類焼見舞覚』や『諸入用之覚』等の資料によれば、天保6年1835に「棟上げ」をしているので、江戸時代後期の建物であることが分かった。

○岡部宿内野本陣跡(岡部831)、岡部宿公園、 
 本陣とは江戸時代に大名や旗本。幕府の役人等が使用した格式の高い宿泊施設のことで、内野家は元禄年間1688~1703に本陣職を命ぜられてから明治時代に宿場の制度が廃止になるまでの約180年間、代々本陣職を継いだ。当時の建物は残っていないが、敷地はそのまま残されていて、昭和48年には市指定史跡となった。
 この内野本陣は現在、当時の建物間取りを平面表示し、歴史文化や街道のたたずまいを感じられるよう門塀をイメージ再現した「岡部宿内野本陣史跡広場」として整備されている。
・赤鳥居2
・石祠
・手洗石
・祠

・問屋場跡: 
 幕府専用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りした。しかし公用の仕事がないときは一般旅行者や荷物を有料で送った。岡部宿には岡部本町と加宿内谷の2か所にあった。

・専念寺(岡部841) 

○佐護神社:おしゃもっつぁん(内谷259⁻1):
例祭日:1月中旬日曜日、立石神社例祭:7月第3または第4土、日曜日。『岡部史談 岡部のお宮さん』より。
立石神社例祭の御神輿の御旅所(御仮屋)の守護として古来より祀られる。おしゃもっつぁんは、農耕の神、丈量(測量)の神または安産の神であったりと、様々な説がある。現社殿は昭和50年1975に神神社より拝領し、移設された。3つに仕切られた内陣の中央には、天照皇大神、向かって右が佐護神社、左が小坂で祀る秋葉さんである。
・立石神社御仮屋
・新:奉燈2
・板碑:?歌碑
・石塔:昭和六年四月竣工
・石塔:天皇在位六十周年 昭和六十一年
・25m離れた道端:石仏

・彩適空間 新緑と橘の里:田園空間整備事業 駿河岡部地区
 静岡県では、農村の持つ豊かな自然、農業伝統文化等を見直し、美しい農村景観や伝統的な農業施設などを保全、復元し、この地域をまるごと「田園空間博物館」としえt、魅力ある空間に整備している。事業区域は藤枝市岡部町地域と葉梨西北地域、静岡市の宇津ノ谷地域を対象とした2市にまたがる広域的な博物館である。
沿道のみかん園、里山の自然と調和した農村生活、志太平野に広がる駿河岡部の田園   が持つ原風景を展示することにより、訪れた人や地元住民が田園の風景を楽しみながら、農業、農村に対する理解を深めることのできる遊歩道として整備された。

○正應院(内谷264₋2) 
 宗旨:日蓮宗総本山身延山久遠寺
 名称:山号:見珠山けんじゅざん、寺号:正應院しょうおういん、
 宗祖:日蓮大聖人(朝日合掌立像)
 本尊:久遠本師釈迦牟尼佛(一塔両尊)
 題目:南無妙法蓮華経
 経典:妙法蓮華経(法華経)
 教義:釈迦の説かれた最高の教えである法華経を拠り所にする。この法華経を身をもって読まれ布教された日蓮聖人を宗祖と仰ぐ。法華経の魂を題目に込められた宗祖に導かれて私たちが信心修行に励み、この教えを広めることにより、世界の平和と人類の幸福、ひいては個人の幸せにつながる教えである。  
 開基:大正7年佐藤政十氏が曹洞宗から日蓮宗に改宗、自宅土蔵に見珠道場開設、私財を投じて現地に本堂建立を発願する。大正13年池田本覚寺第48世身延山第81世杉田日布上人に就いて出家得度、政蔭と改名、正蔭院日勇と称す。大正15年7月1日51歳をもって遷化。
 開山:大正12年佐藤敏郎氏は東京久ヶ原安詳寺第18世小島龍成上人に就いて出家得度、龍秀と改名、正應院日龍と称す。昭和14年当山住職に任命。昭和41年11月24日59歳をもって遷化。
 仮本堂:昭和6年佐藤家住宅をもって当地に仮本堂、現在の客殿を建立。宗祖650遠忌法要を威大に厳修す。
 寺号公称:昭和15年伊豆韮山本山本立寺塔頭正應院(永正三年1506 江川英成建立)を当地に移転、同時に宝暦11年1761建立、駿遠六庚申岡部堂(妙法勇進結社を合併する。)
 第三世:昭和36年 佐藤矩夫氏は正應院開山上人に就いて出家得度、龍導と改名、正應院日曠と称す。昭和42年当山住職に任命。
 本堂:昭和44年当山檀信徒の永年の願望であった本堂は開基上人発願以来50年目宮大工松浦喜和蔵、茂治氏親子により3年を費やし建立。
 多寶塔:昭和54年当山開基政蔭院日勇上人第50回忌の砌、篤信家の佐藤義人氏の発願
により宮大工松浦茂治氏によって7年間を費やし造られた。和様素木造り、後松浦氏は静岡県名工に推挙される。
 山門:昭和57年 当山開基政蔭院日勇上人の生家 佐藤家の先祖供養のため篤信家の佐藤久和子老女の発願により宮大工松浦茂治氏によって造られた総欅唐様四脚門造り、同時に二十間築地白塀も造られた。
 庫裏:平成15年 立教開宗750年慶讃記念に合わせて当山開山85周年報恩事業として建立落成する。同時に歴代廟、永代供養廟、境内整備等の事業を完了し現在に至る。
 寺宝:御曼荼羅―伝 宗祖日蓮聖人御本尊2幅、身延山歴代御本尊10余幅、
    仏像―釈迦立像、十一面観音、薬師如来、不動明王、兜仏外、
    書画―酒井包一 1幅外、文人書画等多数を護持、
 行事:毎月朔日 威運祈願祭、1月1日元朝祝祷会、3月1日御守護神祭、特別祈祷会、7月1日御開山会、8月1日御施餓鬼会、11月1日御会式、

西國三十三観音:
 多宝塔:開基、政薩院日勇の50回忌記念に篤信家の発願により作られた。和様素木造里で、建築に7年間を費やした立派なものだ。
忠霊塔:
   内谷児童遊園地:
・供養塔:ひげ題目:日曠○ 
・新:石燈籠2
・燈籠:庭:高70㎝
・丸石
・燈籠:庭:高1.5m
・祠:狛犬2
・石仏3
・石塔?
・青面金剛童子
・石塔?
・新:燈籠
・新:地蔵2
・新:観音
・新:層塔:七重塔
・五輪塔?

○山辺の道:やまのべのみち:神神社~正應院 約90分、
岡部地区三輪、本郷、山東を廻る豊かな自然と歴史資源の豊富な散歩道で、道の脇に植えられた花や手入れの行き届いた垣、お地蔵さんにかかる頭巾、現在も使用されている常夜燈など、農村の文化や住民の郷土に対するやさしさを感じることができる場所が随所にみられる。
山辺の道は神神社から高草山の麓を通り、内谷を経て正応院にまたがるコース。奈良盆地の東、三輪山の麓を廻る「山の辺の道」になぞらえて選定した。文化財として価値のある寺院、花木やみかん畑等を見ながらハイキングが楽しめる。道筋の民家、古の面影を残す常夜燈が心の中の郷愁を呼び覚ます。
・水車小屋跡
昭和20年代までは水車小屋が存在していた三輪川。その跡地には洗い場や石積み水路などが残り、伝統的な農村景観を現在に伝える。
・大滝延命地蔵
皮膚病や目の病が治るという地蔵。
・大滝おたき(王滝)
昔、修験者が修業する場所として知られていた。
・時石
正午を知らせる石。
 ・潮見平
汐見平、白帆見平、シラミ平等いろいろな呼び名がある。
・雲谷
神神社では高草山を御神体としていた頃があり、「霧が停滞すると雲谷に神がおわす」という神事の名残。
・金苞園
三輪地区の温州みかん類栽培技術の普及に努めた大塚熊太郎氏は優れたみかん産地との評価に喜び、自園の一角に石碑を建て園地を金苞園と名付けた。
・「いやんばいです」:「良いお日和でございます」という意味で、天気の良い日のあいさつ。
・ふるさとみかん山
 傾斜地のみかん畑を使い、伝統的なみかんの栽培技術などを展示保存し、楽しむことができる憩いの空間である。
・池の平
万葉集:えごの木、大杉、湧水池:標高350m、富士見峠、振り返り坂、戦没者慰霊碑、高草山大権現、高草山:標高501m、

○雨宮大神宮、岡部西宮神社(内谷172)おいべっさん 
 祭神:西宮大神(事代主命)、大国主大神、
 創建:江戸時代、明和年間1764~1771と伝わる。本社は兵庫県西宮市の西宮大神社。明治12年1879には本社より祭礼、神事の覚書が出され、今でも保存、伝承されている。宮仕え、宮守は、代々榊原家で継承されている。先祖の長次郎、長太夫、亀太郎、金作の各故人が神社を支えてきた。現在は榊原福一氏である。神社と共においべっさんと呼ばれ親しまれている。商売繁盛、家内安全にとても御利益がある。例祭日:11月19日宵祭、11月20日本祭、『岡部史談 岡部のお宮さん』より

○柳沢稲荷神社: 
 祭神:うかのみたまのみこと宇迦之御魂命、
 寛政八1796年、凶作による生活苦に喘ぐ地元民を救う思いで祀られた。最初は字小柳にあったが、明治15年1882に村社になった。大正15年1926杉山氏から土地の奉納を受け現在地に移転遷座した。杉山氏から奉納された伊豆の長八のこて絵は、町民センターおかべに保管されている。
 お稲荷さんの孕石(ハラミイシ) 
 昔、内谷村上之町に久七、はるという仲睦まじい農民夫婦が住んでいた。子供ができないのを悲しみ、神仏に日夜祈ったが、願いは叶えられなかった。途方に暮れていたある夜、久七の夢枕にお稲荷さんが立った。本堂の傍らにある石を抱いて拝めば、願望成就するというお告げに喜んだ久七は早速にお稲荷さんへ出かけた。やがて夫婦に玉のような男の赤ちゃんが授かった。お稲荷さんはその後も近隣の悩める夫婦の願いを叶え続けたと云う。
「境内の由緒書」より。例祭日:3月第2日曜日、

○小野小町の姿見の橋(内谷160)、旧岡部宿の東海道 
 小野小町は絶世の美人で歌人としても有名だった。晩年に東国へ下る途中、この岡部宿に泊まったという。小町はこの橋の上に立ち止まり、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影をうしなってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。宿場の人はこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。

・20m東:石祠

○光泰寺(内谷424)   
・木喰仏 准胝観音じゅんていかんのん菩薩立像:
像高214.5㎝、完成:寛政12年7月
准胝観音は無数の諸菩薩の母であり、延命の利益がある。2mを越す大きな身体一面に虫食い跡があり、かなり傷んでいるが堂々とした姿をしており、ぼってりした肉体をくねくねした曲線で表現された衣が包んでいる。木喰上人は寛政12年1800の6月13日より8月13にちまでまるまる2か月岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には光泰寺2体、桂島梅林院2体、三輪十輪寺2体の計6体がある。市指定文化財。
*胝:チ、タコ、
・木喰仏 聖徳太子立像
像高111.0㎝、完成:寛政12年7月5日、この像は木喰仏の発見者民芸運動の故柳宗悦が「中期の作として蓋し最も傑出せるものの一体であろう。そうして日本に数ある太子像の中で、忘れがたいもののひとつである。」と絶賛した。静かに合掌し、瞑想するその顔は私たちに安らぎと親しみを感じさせてくれる。製作者である木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足をとめたほとんどの土地に仏像を残した。市指定文化財。
・○庚申 寛政□年
・馬頭:明治廿六年
・馬頭:安政五年
・祠:地蔵1、観音1、石塔1:寺門前
・献燈2:昭和三十二年
・忠魂碑
・狛犬2:昭和三十年
・奉献燈2:昭和三十年
・新:観音
・西國三十三観世音菩薩:大きい、立派、見事
・石燈籠:奉納薬師如来 享和三
・鐘楼
・石室:石仏3:地蔵1、他2
・善光寺供養塔
・薬師堂
・西國供養塔2
・石燈:寛政十一
・奉献西國三十三所
・墓石
・庚申供養(羊良)塔
・庚申供養塔
・奉納大乗~~
・三界萬霊供養(羊良) 寛政十一
・三界萬霊塔
・新:石燈籠2
・六地蔵
・不許葷酒入山門
・角柱2:高70㎝
・板碑:岡部町町会議員~~
・新:手洗石

・七面堂(内谷650)、五智如来、公園 

・丸山神社(内谷山東1890⁻1) 

○常昌院(内谷山東1967) 
 ・兵隊人形:本堂内: 兵隊寺とも呼ばれ、旧志太郡下から日露戦争に出征して戦死された勇士英霊223体が当時の軍服姿で、生前在りし日そのままの姿の木像として祀られる。
・石塔:□□□十五番□□□
・石塔:□之(?塩堰)建立□□凡申憂
・供養塔:□□一国三十三所 嘉永五
・地蔵?
・供養塔:南無阿弥陀佛

○南陽寺(内谷本郷2170) 
・説明版:宗派:曹洞宗、岡部町光泰寺末寺、本尊:延命地蔵菩薩、脇仏:如意輪観世音菩薩、開創:天正十七、八年1589~90頃、草創開山:茂山谷栄和尚もさんこくえい、改宗開山:大翁恵最和尚だいおうえさい、 開基:不詳、 由緒:戦国時代末、天正17年1589頃茂山谷栄によって真言宗寺院として開創された。茂山は南陽寺を建立し間もなく文禄3年1594に亡くなった。その後、寺は無住状態が続き廃寺同然となった。光泰寺2世の大翁恵最が、この寺に隠居して堂を再建し、曹洞宗の寺に改め光泰寺末寺とした。大翁は地蔵菩薩を厚く信仰していたので、延命地蔵菩薩本尊とし、諏訪明神を寺の守護神として祀り南陽寺の最高に努めた。大翁は寛永11年1635に亡くなった。嘉永6年1850には冨山和尚が雨乞いの御面を諏訪神社に奉納した。また線刻不動明王を山上に祀り村人の信仰を集めた。明治維新後、平野佐助等は20数名だった檀信徒を増やし、寺の経済的基盤を確かなものにし、明治34年1901老朽化した本堂を新築(現在)した。南陽寺は開祖がなくなった後、長い間本寺光泰寺住職による兼務が続いた。そして明治41年1908三輪十輪寺柴田実雄の弟子水谷貫禅を迎え法地寺院となった。
 *諏訪神社は、大正7年に立石神社内に合祀された。
  線刻不動明王は、大正末頃境内の現在地に移された、
  雨乞いの御面(雨龍さん)は、今も雨乞いのときに梅花流御詠歌により祈願されている。
・新:六地蔵
・水子地蔵:
・堂:線刻不動明王、
・(梵字)庚申 昭和五十五年二月吉日建 講中
・供養塔2、
・地蔵

・立石神社(内谷本郷2248) 

○多福寺(内谷本郷2360) 
・寺名碑:明照山多福寺 昭和四十七年
・三界萬霊塔
・供養塔か観音?
・六地蔵
・一國順礼供養塔
・地蔵
・石塔
・南無阿弥陀佛

○ふるさとみかん山(内谷本郷) 
・「家康手植の蜜柑」(静岡県指定天然記念物)の穂木を接木した小みかんの木
 徳川家康が大御所として駿府城に住んでいた頃、紀州藩(和歌山県)から鉢植えみかんが献上された。家康は、このみかんを自ら、駿府城本丸に移植したと伝わる。静岡県指定天然記念物「家康手植の蜜柑」は今も駿府城公園内にあるが、このたびその穂木を接木したものを園内に移植した。このみかんは現在皆が食べている温州みかんとは違う「小みかん」という種類で、香りと酸味が強く、種が多いという特徴がある。
・静岡県産温州みかん発祥の地:岡部
 古くから武家等の上流階級に珍重されたみかんだが、静岡県で栽培が本格化したのは、温州みかんの栽培が始まった江戸末期以降のことである。温州みかんは現在日本で最も普及している甘くて食べやすい種類で、県内では文化年間1804~1817に現在の藤枝市岡部地区三輪に植えられたのがはじめと伝わる。明治19年当時の志太郡長:松田寅卯氏の尽力により、みかんの栽培は広まっていき藤枝、岡部は県下でも有数のみかん産地となった。
(出展:志太郡誌、静岡県蜜柑小史)

○和田の地蔵さん(内谷本郷) 
  ふるさとみかん山の北隣にある
昔この場所は寺に通じる参道ではないかと云われる。馬頭観世音:天正六1578年、無縁法要塔:元禄四1691年、六地蔵菩薩等が立ち並び、地域の人々は地名から「和田の地蔵さん」と呼ぶ。馬頭観音が祀られていることから、農耕や荷物の運搬に使われた馬や牛等が、葬られ供養された場所であったと云われる。毎年8月23日に地域内の地蔵菩薩と一緒に供養されている。
・石塔:数基
・地蔵:数基
・馬頭観音:数基
・供養塔:「無縁法界  」数基
・石塔:破片いくつか

○興福寺、薬師如来(三輪471) 
・薬師如来立像:市指定有形文化財、像高:83㎝、檜の一木造り
像高83.0㎝、製作者は聖徳太子と伝えられる。秘仏とされている。33年毎開帳時しか拝めない。容姿は○○円満で優美な○原仏(平安時代)の特徴を備えている。
  皇極天皇三645年、東国に流行した疫病を平癒させるために、この地に大和の國の大神(おおみわ)神社の分霊が祀られたおり、奈良の興福寺の許可を得て祀ったと伝わる。またこの仏像は聖徳太子作と言い伝えられるが、円満で優美な容姿や作風は飛鳥仏よりも藤原仏(平安期代中、後期)の特徴をより多く供えている。尚この仏像は興福寺の秘仏として大切に伝えられ、33年毎開帳。次回は2018年予定。
・古い墓石7
・祠;観音:第廿六番、観音
・石祠
・地蔵:座
・廻國供養塔
・石塔:?庚申供養塔らしき見言聞ザルレリーフあり、
・馬頭観音 

・水車小屋跡(三輪)

・子安観音:三輪
子安観音:建立:寛永7年7月17日庚午かのえうま1630、徳川三代将軍家光の時代で、当時この三輪の里に子供たちの疫病が大流行し難儀の挙句、子供を疫病から救うため、里の人々が講を作って、この観音を建立したと思われる。その後は疫病はもとより一切の難を逃れ子供も健やかに育つようになったと云われる。講中は15軒ある。例祭日:8月17日、子安観音は子宝、安産、子育てに御利益があると云われ、今でも御利益があったということでお菓子等を供えていく人がある。 

・馬頭観音:三輪字後呂
 一面二臂(顔が一つと腕が二本)で頭上に馬の頭をいただいた姿だ。馬は昔から農耕や運搬の手段として大切にされてきた。また馬は牧草を食べるように人の煩悩や厄災を食べつくし救済すると云われる。不幸にして道半ばで力尽きた馬の冥福を祈りねんごろに葬った。その供養碑が馬の安全息災と旅人の道中無事を念じ、馬頭観音として路べに立てられた。

○十輪寺(三輪925)宝珠山  
・宗派:曹洞宗(禅宗)、道元禅師1200~1253、□山禅師1268~1323
・本山:永平寺(福井県)、総持寺(横浜市)
・本尊:延命地蔵菩薩
・開創:寛永元年1624
・開山:照山元春大和尚(林叟院9世)しょうざんげんしゅんだいおしょう
・開基:嘯山虎公和尚しょうざんここうおしょう
・由緒:当山はその昔小寺であったが、寛永元年1624嘯山虎公和尚が三輪村の人々の協力を得て伽藍を再建し、照山元春大和尚を拝請して結制安居ができる修行道場として格をあげ曹洞宗寺院として再興開創された。現在の諸伽藍は本堂:享和3年1803、書院:明治18年1885、山門:昭和24年1949、位牌堂:昭和55年、庫裏:平成14年、にそれぞれ築かれた。
・見どころ:木喰仏2体文化財、もくれん約350本、伝説:水石火石と山号、宝珠山のいわれ、
・年間行事:1月1日10時:新年祈祷会、2月3日節分豆まき、3月中旬頃木蓮祭り、8月4日10時半:施餓鬼、8月24日夜地蔵尊縁日、10月第4日曜日開山忌、
・月例行事:地蔵講毎月24日午後1時、座禅の会第2日曜朝8時、写経の会第4日曜午後3時、
・子安地蔵菩薩立像:像高138.0㎝、寛政12年7月12日完成、市指定彫刻。
この像は比較的大きく堂々としており、微笑した顔は心休まるもので静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに数えられる。
比較的大きく堂々としたものである。顔の微笑も心休まる表情をしており、静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに数えられるものである。製作者の木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足をとめたほとんどの土地に仏像を残している。
・虚空蔵菩薩立像:像高113.0㎝、寛政12年7月11日完成、市指定彫刻。
どこかしら遠くを見る目、笑みを浮かべた顔には底知れない知恵が秘められる。
 木喰仏の晩年のものはいずれも微笑しており、どれも似ているがよく見るとみな違う。この虚空蔵菩薩は若い女性の表情をしている。どこかしら遠くを見る目、微笑みを浮かべた顔には底知れない知恵が秘められている。木喰上人は寛政12年1800の6月13日までまる2か月間岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には十輪寺2体、内谷光泰寺2体、桂島梅林院2体の6体がある。
・沙羅樹:ナツツバキ:釈迦が涅槃に入るとき(逝去)四方の8本の内4本が悲しみで枯れたという聖樹。日本ではナツツバキを沙羅と呼ぶ。この木は伊豆修善寺の実から育てたものである。
・水琴窟:少しずつ水を流すと妙音が地中より響く。
・仏足石:釈迦の足跡を石に刻んだもの。古代インドでは仏像が作られる前の古い時代から仏足石を敬い礼拝する風習があった。日本では天平勝宝五年753に奈良の薬師寺に安置されているものが最初のものである。
・石塔
・石燈籠2
・石段
・古:墓石多数
・観音
・六地蔵
・古:墓石:宝篋印塔、五輪塔:多数
・地蔵
・観音3
・山門:周辺は前庭で自然石多数配置

○金毘羅神社(三輪925) 
 藤枝市岡部町三輪字佐護神ヶ谷(さごじがや)879番地 、祭神:おおものぬしのみこと大物主命、例祭日:10月10日近辺の日祭日、
 創祀:文化七1810年、祭神が安置され文政九1826年に大畑仁氏の先祖により、大祭が催されたと記録にある。明治35年1902に大畑博俊氏の先祖から土地の譲渡を受け現在地に鎮座した。ここは三輪の集落のほぼ真ん中の高台(標高56.5m)にあり、駿河湾、志太平野、南アルプスが望める。地元では「こんぴらさん」と呼ばれ親しまれてきた。毎年行事は講中の上組、中組、五軒屋組、桐川組が交代で執り行い、10月には例祭を行う。前夜祭には太鼓を打ち鳴らし、翌日の例祭を集落全体に知らせたと云う。当日は赤飯(しょうゆ飯)の三角むすびが献じられ、講中の参列者や子供たちがこれをいただいたという素朴な祭りだった。岡部史談第2集「岡部のお宮さん」より

・常夜燈 

○神神社みわじんじゃ(三輪1288) 
 祭神:おおもののぬしのおおかみ大物主大神(大国主神の和魂ニギタマ)、相殿  天照皇大神・葛城一言主神、 例祭:10月19日、 創祀:皇極天皇3年644,4月中も卯の日、
 由緒:皇極天皇の御代東国に疫病が蔓延して人民が苦しみあえいだとき、先の崇神天皇の御代の吉例に倣って大和國三輪山大物主神を意富多多根古命おおたたねこのみこと26代の子孫三輪四位を神主としてこの地に祀り、大難を救ったのがこの神社創祀の由来である。
 文徳天皇仁寿元年851正六位上の位を賜ってより順次叙位を重ねて、伏見天皇正応六年1293正一位を賜る。明治6年3月22日郷社に列せられた。当神社は古来本殿がなく、三ツ鳥居の奥が古代の斎庭(まつりのにわ)であった。今でも例祭等主な祭りには、お山に五対の御幣を立て、本殿と同じ神饌を上げて祀る古代祭祀の姿を残している。(藤枝市岡部町民俗無形文化財)、
 特殊神饌:例祭:白おこわを献ずる、端午の節句:6月5日、茅巻(ちまき)を献ずる、
 特殊建造物:三ツ鳥居(三輪鳥居)
 本殿:文化八年十月、拝殿:昭和6年10月、明神鳥居:文政九年十月奉建、
山宮祭
本殿三輪鳥居奥の岩頂は、本殿ができる前、古来の○庭だ。今でも例祭など主な祭りには、お山に五対の御弊を立て、本殿と同じ神幟を揚げて祀る古代祭祀の姿を残す。

・山の神祭り
 神神社飛び地境内地
 2月8日、飛び地境内である高草山の中腹にある、古代そのままの「山の神の磐座」で行われる。
・三ツ鳥居
 現在では大神(おおみわ)神社とここ神神社にしかない、珍しい形の鳥居。神と人の世界を区切る鳥居で、くぐって入ってはいけない、とされている。

 ・神神社の森:緑の森は神々の衣、静岡県ふるさとの森百選、御遷座皇極天皇三年644、
延喜式内神神社、
 ・笹百合:科属:ユリ科ユリ属の多年草、分布:日本にだけ自生し、本州中部地方以西から四国、九州地方に分布する。
 大三輪の神様と笹百合 ~古事記「左韋と云ひき」さい~
 古事記によると、三輪山から流れている狭井川のほとりに笹百合がたくさん咲いており、大三輪の神様にお仕えしていたイスケヨリ姫は、6人の御供たちを連れて笹百合をつんでいた。そこへおいでになった神武天皇は、その清楚な美しい姿の姫に一目で見初められて皇后になった。日本国第一代の皇后は笹百合が御縁で誕生した。そのため大神神社では笹百合を御神花として守り育てている。神神社でもこの吉事にならって笹百合の栽培を行っている、5月下旬から6月にかけて清楚な花を開く。
・杉之坊社:参拝所:
 祭神:ひぎたかひこのかみ霊木高比古神、ひぎたかひめのかみ霊木高比賣神、
 例祭:1月7日
 特殊神饌:三角のおこわのおむすびを「かくれみの」の葉にくるんでお供えする。
 由緒:森の鎮めの神として社殿はもたず、御神木を中心に祀られてきたが、明治34年長い間難病に苦しんできた伊久美村(現:島田市伊久美)の福井伊太郎氏が快気の御礼に小型の社殿を奉建した。現在の社殿はその曽孫にあたる高橋金子氏が平成改元を記念して奉建した。神神社の荒魂の神として、霊験あらたかな御神徳は病気、怪我、災難除けの神様として古来より厚く信仰されている。 
・石鳥居・昭和五十四年
・新:石燈籠2
・忠魂碑
・石うさぎ2
・石御神燈1:天明九
・石橋
・石神燈:~~陸軍歩兵~~

・かみなり井戸(三輪1288) 
 昔この神神社の森にかみなりが落ちたことがあった。神はたいへん怒って、そのかみなりを捕まえて、井戸に閉じ込めて蓋をした。かみなりは「もう二度とここには堕ちませんから、どうk許してください。」といって泣いて誤った。神もさすがに可哀想になって助けてやった。雷はたいそう喜んで天に上っていった。それからはこの森は一度も雷が落ちたことがないと伝わる。宮司。

・田明神(三輪1288)  
 田明神は元は神ミワ神社の南方約100mの田の中の小さな祠に祀ってあったが、昭和60年1985に境内の神域に遷座した。しかし例祭は元の小さな祠跡に降神して行う。例祭は1月11日朝、日の出前に東に向けて設けられた祭壇に焼餅、干し柿を献じる。祭を終えて参列者はこれをいただいてたき火に当りながら食べる。農家ではやはり1月11日に「春田打ち」と称して一鍬起こして立てた萱の穂の根元に小さなお供え餅などを上げて祀る。農作業の行為を模倣的に演じ、実際の農耕の成就を祈念する。この地域では古くから男子の行事とされている。岡部史談第2集「岡部のお宮さん」より


~藤枝市横内~
・慈眼寺(藤枝市横内179) 

・白髭神社(横内208⁻8) 

・貴船神社(藤枝市旧岡部町内谷783⁻1) 

・鳥居(横内51⁻1) 

・石仏(横内51⁻1) 

・看板、石仏(横内1-4) 

・横内橋(横内1-4) 

・石仏(仮宿1012) 
 横内橋袂。
~~~~~~


~焼津市~
○智勝神社(焼津市策牛398) 
・石鳥居
・手洗石
・献燈2
・石段
・板碑

○薬師堂(焼津市策牛436)策牛集会所 
・説明版:現在の建物は昭和2年村人によって建てられたもので、近年改修された。この地より西方1㎞の原の山(犬頭塚)に満願寺という寺があり、戦国中期に戦火により焼失したおり、寺の一部を移築したお堂の後に建てられたものと伝わる。本尊は薬師如来で左手に薬壺宝珠を持つ姿をしている。また十二神将を従えているが、顔面を削り取られており、時代的な謎とされる。地元の人には耳薬師として信仰され耳の不自由になった人が願をかけ、治癒したときに穴の開いた石をお果たし(御礼)に供え、今でもその石が多く残っている。このお堂の裏手には明治の始めに廃寺になった寶善寺があり、尼僧が住持していた。地元ではこの辺りを寺屋敷という。
*私見:耳の病気を治すという薬師如来の顔面が削られているのは、昔は病気を治す際、仏像の一部を削って服用すると効果があると云われたためかもしれない。耳の病気なので耳附近の顔面が削られたのかもしれない。

・おくまの石(策牛) 
 石には霊力が潜むと信じられ、巨石は信仰の対象とされ、当地区には「ぼたもち石」「むじな石」等があり、この「おくまの石」もそのひとつである。女性の裁縫の御守りとして、カナ糸等を奉納した。

○神龍山 長福寺(関方412)曹洞宗 
・地蔵:祠、地蔵、第丗ニ番 
 この地蔵は元は裏の寺山山頂:104mに安置されていた。田中城の殿が検地で岡部方面より見回りに来て関方に差し掛かると急に馬が棹立ちになって暴れ、殿はスッテンコロリと落馬するという事故があった。易者に伺ったところ地蔵を山頂から降ろして読経の聞こえる所に安置するよう告げられ、現在地に祀った。地蔵の顔にイボが治った跡があると云われ、台座周りの丸石(経文石)を早朝に借りてイボをそっとなでると治ると参詣人に云われていた。縁日は8月18日で戦前は夜店が数店出てにぎわった。現在も祭りは続いている。
・経塚石
 碑文:圓通懺摩法一座  奉書寫一字一禮  寶筐印陀羅尼三辺  
    大般若経一巻大悲神梵消神梵   大乗妙典経一般若心経佛陀  
       百楞厳神梵一巻大施餓鬼光明無
    明和ニ乙西歳1765八月晦日回向供養  願主 義目 謹書
    石数八万七千施主男女等

・供養塔
・六地蔵+1、地蔵
・地蔵、・石塔、・観音3、
・石燈籠、・手洗石
・石祠
・葷酒不入山門
・石塔

○猪之谷大明神(関方15) 
 ・六鈴鐘出土古墳:市指定有形文化財、直径13.8㎝、厚さ0.55㎝、古墳時代後期のものと推定される。日本の古代社会においては、鏡は姿見としてではなく、呪術的な道具として考えられている。鈴についても呪術的な道具として考えられている。鈴についても呪術具祭器として使用されている。こうした祭儀用の鏡と鈴を一緒にしたのが鈴鏡で、日本特有の鏡である。この鏡はほとんど完全品で、形式のみごとなものである。内区は内行五花文を中心とし、重圏文と櫛歯文を交互に二重にまわらせている。6個の鈴が付き内2個が半面欠損しているのみで、まことに貴重な珍品である。
  ・ナギ:市指定天然記念物、目通り2.25m、根回り2.6m、樹高16m、枝張り5m、神社拝殿前にある雅樹で樹勢は旺盛である。ナギはマキ科の常緑高木で元来亜熱帯性植物であり、わが国では、暖地に自生する。葉脈が平行であるため、せんまいさばきともいう。
・石鳥居
・新:狛犬2
・新:手洗石
・手洗石
・石燈籠
・石室:祠:古墳前
・石段

・山の神祭り(関方) 
 焼津市関方地区で毎年2月8日に行われる祭り。山の神を田に迎えて、その年の豊年万作を祈る神事で、祭りのもっとも原始的な形を残している。以前は前日7日に年行事当番の青年たちが「山の神の勧進(かんじ)、何でも一升十六文」と言って集落中から米や豆等を集めて回ったが、今では行っていない。しかし年行事当番は、1,2週間も前から山道普請、祭具、お供え物の調達等、ほぼ昔からのしきたりにそって準備している。前日7日には、お供え餅(古くはしとぎ)、直会(なおらい)のごちそう(赤飯、煮豆、おから等)が作られる。
 8日は早朝から龍神、幟、しめ縄、御幣(4本)、御弓(2張)、御矢(6本)等が調整される。そして午前9時ころの1番鉦で村中に祭りのふれが合図され、午前10時半頃の2番鉦で祭り行列は出発する。途中「参ろう参ろう御幣(おんべ)持って参ろう。」と、大声で唱えながら山道を上っていく。
 山の神の磐座(いわくら)は、高草山の標高200mばかりの所、沢の源流部にある。神前に龍神を飾り、お神酒、餅、赤飯等を供えて参拝する。参拝が済むと2張の御弓から計6本の御矢が下に向かって放たれる。山の神はこの矢に乗って里に降り田の神となる。
 この行事が済むと50mほど下の拝所で直会が行われる。この直会は神と共に食事を楽しむという意味がある。

○やいづ山の手今昔案内解説 
1、 高草山山頂、標高501.4m、測量三角点設置通信各社中継アンテナ設置地点。
2、 無名戦士の碑:ソロモンの碑
3、 古木一本杉、樹齢推定300年、一本杉茶園、やまざくら群生地、大島ざくら群生地、複線索道、単線テッセン発着跡地
4、 池の平(三輪地内)湧水池、貴重な飲料水、湧水井、えごの巨木あり、
5、 しらみ平(白帆見平)岡部町との尾根境行政界、
6、 策牛山の神鎮座地(五反明)、
7、 方ノ上城址 石合山(いしゃばい山)標高230m、伝承狼煙台、天文5年1535今川義元判物写、花倉の乱、
8、 幻の池出現地(池ノ窪、池ノ段)
9、 方ノ上古墳群、経塚(問)発見地石合山山頂) 古代平安朝
10、 関方山の神奥の院 例祭2月8日、(焼津市無形文化財指定)
11、 関方山の神拝所 直会場 石切場
12、 炭焼き窯跡地(小深谷)
13、 水車(米搗き場)跡地
14、 索道荷受場跡地 茶、みかん、農産物、材木
15、 おくまの石 安産、機織り信仰の拝み石
16、 高草山登山道入口石碑 きじ屋 かやのき
17、 薬師堂 耳薬師、穴明き石、庚申塚、十二神将、百万遍数珠
18、 マンボ(県道焼津岡部線に架かる道路兼水路橋)大正9~10年工事、方の上に畑生まれる
19、 智勝神社、天正12年4月創立1588郷倉跡、共同作業所跡
20、 焼津病院、犬頭塚、策牛関方用水水門
21、 水田みかん転作地跡(昭和44年完工)
22、 清水遺跡(弥生時代)
23、 青雲寺跡
24、 奥屋敷古墳群
25、 長福寺 1660年 林叟院13世創建、本堂建立 安政7年1861 いぼ地蔵 経塚石 坂本 松雲寺より長福寺学校日新舎(明治8年~13年生徒50名)
26、 猪の谷神社、興国5年1334,4月建立、古墳時代後期人穴さん、市天然記念物、ナギの木、市文化財、六鈴鏡、
27、 高草山登山道入口石碑、山の手口2000年記念建立、関方茶工場跡(共同作業所跡)昭和20年~平成2年解散
28、 山の手会館 昭和48年新築
29、 河心改修の碑、朝比奈川改修、昭和3年建立、
30、 蝋梅の里、梅の木街道、老人クラブ管理、山の手クリニック、永田デイサービスセンター、
31、 バクダン淵伝承版:昭和20年5月19日投下、朝比奈川堤中里用水堰管理棟太平洋バクダン淵跡、
32、 ハチガシリ流水橋跡
33、 山の手桜堤、さくらまつり、2月第3または第4日曜日、東海道自転車道、
34、 朝比奈川、葉梨川、吐呂川合流点、
35、 秀水苑(老人ケアセンター)
36、 六字堤防跡、尺土管跡、策牛、関方の田園、35ha に1か所直径1尺の排水口、天保6年1835~昭和44年1969まで
37、 方の上学校日新舎:長福寺より新築に依り明治13年~19年、以後越後島尋常小学校分教室となる
38、 八王子神社:天文7年1538,9月創立、天正5年1577、
39、 方の上茶工場跡(共同作業所)
40、 法号庵、閻魔さん、侍者仏
41、 梅の木街道
42、 石切り場
43、 コミュニティーケア高草、老人福祉施設
44、 方ノ上遺跡、中世奈良時代
45、 二重堤防跡
46、 雲龍、雲渓、雨後谷間より湧き昇る雲の様子、
47、 関方、三輪埋樋切崩事件、延享3年1746、
48、 谷川(高天井川)堤跡:昭和44年土地改良により改修、
49、 太田川(新川)跡:昭和44年土地改良により改修され高草川生まれる:昭和18年学徒動員東大生により暗渠排水工事、
50、 防火用水槽:消火栓設置以前地区自衛の為設置、
隣接地:
焼津市坂本、坂本神社、林叟院、高麗福祉センター、坂本団地、藤枝市岡部町三輪、神(みわ)神社、三輪団地、
山の手地区の概況:
 焼津市の西北部、藤枝市岡部町との隣接地域にあり、高草山尾根を境とし、吐呂川、朝比奈川合流点より東、朝比奈川本流の北側の地域で、東名高速焼津インターチェンジより約1㎞の所にあり、山、畑、田と自然に恵まれた地区で、現在三字合計戸数346戸人口1036人(明治24年の戸数、 方の上37戸、194人、 関方46戸、264人、 策牛34戸、227人)の昔から長い歴史と文化をもつ平和な郷である。2006年焼津市山の手未来の会創立10周年。

○方ノ上城跡(かたのかみじょう)入口 
方ノ上城址 石合山(いしゃばい山)標高230m、伝承狼煙台、天文5年1535今川義元判物写、花倉の乱、
 天文五1536年以前の築城で、今川氏の家督争いである花倉の乱において玄広恵□(ゲンコウエタン)方の拠点の一つであった可能性がある。

○八王子神社(方ノ上154) 

○祠:地蔵、馬頭観世音(方ノ上400⁻1)、水準点 
 馬頭は昭和13年12月大石建立。

○法号庵(方ノ上343⁻1) 
・方ノ上閻魔堂:安置:享保四1720年、当時の安置場所は現在地より北側の県道近辺の方ノ上地蔵堂に安置されていたが、県道の拡幅工事に依り現在地に移転された。
由来:赤穂浪士の敵討ちのあった元禄の世も、宝永、正徳と移り変わったある日、元吉良家のある家来が、各地流浪の末、方ノ上村の地蔵堂に堂守として住み着いたが、今まで過ごしてきた土地でも、またこの土地でも吉良家の評判が悪かった。吉良の殿様は悪くなく、自慢の殿様だと思い何とかしたいと悩んでいた。これでは吉良の殿様をはじめ、大勢の犠牲者の霊は浮かばれない、成仏できないと思い、堂守はあの世で人の生前の裁きを閻魔様にしてもらおうと考えたのが、閻魔様を作ることだった。まずはこの土地の法号庵の住職、更に地元名主へまた本寺林叟院方丈へと相談の上、江戸に上り寄附を募り立派な閻魔様を享保三年の暮れに完成させた。翌年の春、焼津湊の積問屋巻田久左衛門の船で順風に乗って運ばれ、善男善女に出迎えられて、方ノ上地蔵堂に安置された。堂守が一念発起してより5年目だった。船主巻田久左衛門は閻魔様を運んだのを慶びとして、脇立2体と鉦を寄進した。
・六地蔵
・窪なし地蔵:3
・地蔵:3
・石仏:4
・石塔:3
・五輪塔破片
・石塔
・結界石2

・祠:石塔:寺前辻にあり

○坂本神社(坂本1045⁻1) 
・保存樹木:ほるとの木
・石段
・献燈2
・献燈2
・石祠:19以上多数
・手洗石
・祠
・本殿、拝殿

○林叟院(坂本1400) 
 市指定文化財
 ・経蔵:木造一重桟瓦葺、方形造り。内部は正面奥に仏壇、中央に輪蔵、格天井で4.84m
(16尺)4面である。経蔵とは一切経等の経典を納めておく蔵で20世心牛租印師が明和五1768年建造を発願し、明和八1771年に工匠石川市之丞及びその子権右衛門により上棟された。師は中央の輪蔵に一切経全6930巻を納めることを目標としたが、その一部950巻を収納できたのみと伝わる。
 ・鐘楼:木造入母屋造り桟瓦葺、袴腰付、二軒繁垂木ふたのきしげたるき、勾欄付こうらんつき。間口奥行共に2.83m(9.34尺)下層地貫上端かそうじぬきうわば、高さは礎石上端より丸桁がぎょう上端まで4.84mである。鐘楼は別名鐘撞堂かねつきどうとも言い、寺院の境内等で釣鐘のある堂のことを言う。この鐘楼は宝永三年1706の創建と云われてきたが、平成14年度修理の際、天保十五年1844の棟札と棟束むねづかに墨書が確認された。梵鐘を吊るすのに袴腰付形式のものはなく焼津市内では唯一つである。
 ・宝篋印塔:高さ約2.6m、宝篋印塔の名は「宝筐院陀羅尼」という経典を納めたことに由来する。石造塔では墓塔または供養塔として造立されたものが多い。下に基壇を置き、その上に反花座、基礎、塔身、笠の順に積み、最上部に相輪を立てている。寛政三1791年の古図に移設前の姿がえがかれているので、それ以前の建立と考えられる。
 ・ホルトの木:目通り3.1m、根回り4m、樹高20m、枝張り24m、で、林叟院の墓地裏にあり、樹勢は旺盛である。ホルトノキ科に属し亜熱帯原産のもので、房総半島以西の太平洋岸の暖地、特に四国、九州地方に生育するが、本県には数が少なく大木であるのは珍しい。焼津市歴史民俗資料館。
・自然石2
・角柱2
・如来
・馬頭観音2
・六地蔵+1
・祠:地蔵4
・石仏:多:地蔵、観音、墓石?
・不許葷酒入山門
・石塔2
・新:六地蔵
・歌碑&説明版石
・新:地蔵
・すぎ保存祷:大木
・山神血脈石
・石燈籠1:、2:
・石仏&石塔21:
・忠魂碑

・笛吹段古墳群(坂本)笛吹段公園 
 高草山中腹標高約260mに位置する。古墳時代後期の古墳で10基の横穴式石室が見つかっている。昭和58年農道の整備に伴い調査が行われ調査後はほとんど埋め戻されたが、現在2基の石室を見学できる。

・東海道標識(坂本521⁻3) 
 東海道とはいっても有名な東海道ではなく、東の街道を意味したと思われるが、または古代東海道の名残か? ただ焼き津辺から花沢へ行くには西に遠回りではある。
 ・説明版:海道には街道と垣内の2つの意味がある。やきつべのみちの海道と、東の屋敷の集落の2説がある。いづれか。

○筧沢寺(石脇上423) 
・庚申供養塔
・石塔
・六地蔵
・地蔵2:立、座、
・石塔:納経寶塔
・石塔:金毘羅宮
・本堂裏に古い墓地、墓石
・新:寺名碑:曹洞宗風尾山筧澤寺入口 

○高草山ハイキングコース標識説明版(石脇上528⁻1) 
高草山ハイキングコース:大滝延命地蔵、正午を知らせる石「時石」、潮見平を経て高草山頂上へ、池の平遊水地、金苞園を経て戻る。駿河湾、富士山、伊豆連山、志太平野を一望する健脚向きのコース。三輪公民館~高草山山頂(潮見平コースで100分)、高草山山頂~三輪公民館(池の平コースで45分)、
・富士見峠
・鞍掛峠

○高草山 
 標高501.4m、農作物の宝庫であり野鳥の森としても知られる。高草山はアルカリ玄武岩から成る山で、枕状溶岩や珍しいタカラン石が見られる等地学上でも有名。大井川平野や遠くは御前崎まで眺めることができる。
・山頂:電波塔、
・祠:高草山上大神(高草権現)

○勢岩寺(石脇上600)曹洞宗 谷汲山 
・弘法大師像:焼津市指定有形文化財、像高17㎝:5寸6分、内台座4㎝:1寸3分、袖張り7.5㎝:2寸5分、木喰五行上人作、小さいながらもまことに丁重に彫刻された美しい座像であり、いかにも幸福をもたらしてくれそうな微笑ましい木喰仏である。光背が常楽寺、宝積寺の物と同形式であり、台座は大日菩薩のものと同じである。製作は寛政12年1800の7月と推定される。
(背面の墨書)日本国中 木喰五行(種子)大師遍照金剛 父母安楽菩薩(花押)正作自在法門 
(背面の墨書)(光明真言)(梵字)寿命日本千体(身体)ノ内 国王国中 大師遍照金剛 父母安楽 百万歳 正作 天下一自在法門 八十三才 木喰五行菩薩 (花押) 
・機織り地蔵尊の由来:弘法大師の甥で、後に近江國三井寺開山になった智証大師が、円珍と呼ばれていた頃、大和國長谷寺に参詣し、一心に拝んでいると、長谷寺鎮護の神の手力雄尊が霊夢に立った。この寺の開山徳道上人が本尊を造刻したときの霊木が残っているから、この霊木で不動明王を造刻して、駿州花沢の法華寺の十二坊の一坊に納め、永く衆生を済度せよ。石脇前の泓に至れば金色の光を放ち、地蔵尊が迎えるだろう。機織りの地蔵と言い六十六番札所の二十二番と定められ、いかなる願懸も必ず利生を授けると云う。一刻も早く不動明王を刻み、駿河に下向せよ。通力自在の計らいをなさん、と言い手力雄尊は消えた。円珍は霊木で直ちに不動尊を造刻し、駿河に下った。石脇前の泓に立つと金色の光が差し、円珍を迎えた。光の消えた後、機織りの石の上には地蔵が座っていた。これぞ霊夢のお告げの通りと恭しく拝んだ。当山に本尊を納めた。この地蔵は肌身地蔵といって体内に尊像を身ごもって、子授け、安産の地蔵といわれ遠近にも比類のないものである。威徳は広大無辺いかなる難病苦難も家内安全、商売繁盛、学業成就、交通安全に至る、日々の衆生の生活を洩れることなく守り救ってくれる地蔵である。当山本尊を造刻した智証大師を金色の光を放ち迎えた地蔵を繰り返し拝んでください。
*泓=オウ、コウ、深い
・歌碑
・地蔵
・六地蔵+1
・三界萬霊塔
・石塔3
・祠
・赤鳥居、石祠
・新:十二支地蔵尊

・宝積寺(石脇下692) 
・地蔵菩薩立像:木喰仏:市指定文化財:像高77㎝(2尺2寸5分)、内台座14㎝(4寸6分)、 (背面墨書)法門 増宝寿 八十三才(花押)大菩薩 木喰五行菩薩 以下不明
(背面墨書) 光明真言 (種子)正作 天一 自在法門 日本千タイノ内なり 聖朝安穏増宝寿 南無地蔵大菩薩 天下安楽興正法 寛政十二甲歳八月四日ニ成就ス 命 万 百 木喰五行 八十三才 菩薩 年 (花押)
 この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂をつかんでいる。木喰仏としては珍しく、材質が桜の木である。しかもまことに慎重で、一部丸ノミが使用され、足指の爪まで掘り出されている。製作は寛政12年1800、7月と推定される。
*木喰五行上人:享保3年1718~文化7年1810、45歳の宝暦12年1762、常陸國の木喰観海上人によって木喰戒を受け、全国隈なく巡礼を行った。木喰上人は幾つかの願を持っていたが、その中でも大きな願は日本全国の神社仏閣に参拝する「日本回国」の願と、千体の仏像を彫刻してゆかりの国々寺々に供養したいという「千体仏」の願があった。この二大願を乗り越え、83歳で「日本回国」、90歳で「千体仏」の大願を果たした。木喰上人が現在の静岡県に入ったのは寛政11年1799ノ11月19日遠州の狩宿で、翌年6月13日に岡部町に入り8月13日まで2か月間滞在している。焼津市内の仏像もこの期間のものである。
・西國三十三番観世音菩薩:由来:当山石脇山寶積寺境内に安置する、これらの菩薩の尊体は今を去る180年前、人皇119代光格天皇の御代享和元年辛酉5月及び7月吉日を選んで当村並びに近郷の篤志家が先祖菩提のため、勧請建立したものである。このような33の尊体を羅列安置してある霊場は全く稀であり、その感応霊験あらたかなることは世人の良く知るところである。
・石脇山宝積寺は往古天台宗花沢法華寺寺坊の一つとして元小浜にあったが、波の為、欠損したので永禄十年、鎌倉建長寺派に属し時の庄屋原川新三郎氏が菩提の為観世音菩薩を本尊として建立、その後享和元年、近郷の寄進により西國三十三所観世音菩薩石仏尊体が安置された。しかるに昭和41年1月東名高速道路建設により本堂、墓石等移転のやむなきに至る。檀家一同一致協力5カ年の歳月を費やし以て境内の整地、本堂、庫裏の改築、墓石移転を終了、よって昭和45年3月9日落慶入仏式を挙行す。
・地蔵3
・観音
・石塔
・石塔2

・寺門前近くの参道入口に石塔あり。

○石脇浅間神社(焼津市石脇705) 
・祭神:木花咲耶姫命、品陀和気命、天照大御神、・例祭日:10月10日、境内社:津島神社、・境内地477坪、
・由緒:浅間神社上り口右側に大きな岩が2つある。旗掛石または鞍掛石という。本来この2つの岩は我が国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。この浅間神社は、延徳3年9月天下の英雄徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が郷里原川村から浅間社を勧請してこの聖地の例に奉斎したものと伝えられ、明治8年2月村社に、同40年3月神饌幣帛料供進社に指定された。旧除地高2石であった。
・災害:昭和57年9月12日本県を直撃した台風18号により境内の南側階段等倒壊し多大の災害を蒙るも464名の氏子一丸となって懸命な努力を続け復旧に直進し、同年10月吉日大鳥居を再建した。
・記念碑:この神社は延徳3年5月、この地に祀られた歴史をもつが、昭和57年18号台風の強襲によって標高17mの神社境内地が大きく崩壊し、明治27年氏子の建設した拝殿等床下倒壊の危険にさらされ氏子一同苦慮していたところ、ときの区長総代等相図り浅間神社再建奉賛会を設立し昭和58年10月10日第1回総会を開催氏子一同の賛同を得て発足した。奉賛会は総会以来満2ヶ年を予定し境内高を5mに造成拡充し拝殿新築、その他諸施設等完備、昭和60年10月20日完成、落成式を挙行し、且つ氏子総代に一切の管理を移管。まことに氏子の家運並びに子孫繁栄を共に地域発展を祈願して之を建立す。
・新:石鳥居
・新:石段
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2
・古:石
・献燈2
・石段
・新:社名碑:
・自然石:数個
・祠:数個

○旗懸け岩(石脇下89) 
 ・平和の碑
・この石は江戸時代、高草山周辺にたびたび狩りに来ていた徳川家康が家臣であった原川新三郎の家に立ち寄った際に、旗や鞍をかけたことからこの名がついた。また石脇という地名もこの石に由来していると云われる。
・旗掛石:当寺、岩の近くに原川新三郎氏の門前があり、家康が転化を取ってからしばしばこの辺りで鷹狩を催し、その都度原川家を訪ね、その際家康の旗を立てかけ、馬の鞍を置いたので、この名があるという。他にやきつべの小径、駒つなぎの松の名跡がある。また氏子たちで年2回大しめ飾りが行われる。
・しめ縄
 岩は磐座と云われ、2つに分かれていて、おそらくその間に土師器等を割って占いをしたのだろう。古代の祭祀場といわれる。高草山の中腹にも祭祀場の磐座があり、関連があるのだろうか。

・秋葉常夜灯(石脇下875) 

○石脇城跡、大日堂、八幡神社、六地蔵:説明版(石脇下906) 
・石脇城跡:応仁年間1467~1469に今川義忠の妻(北側殿)の兄、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が今川の客将として石脇に住まいを構えており、石脇城の築城はその後の文明年間1469~1486と推定される。北条早雲はその後、小田原城を本拠に戦国大名として世に出たので石脇城は出世の第一歩を進めた城といえる。現在曲輪跡と土塁跡が残っている。
 この城は北の高崎山から南へ枝分かれする尾根の先端の標高30mの城山ジョウヤマに所在する。15世紀(室町中期頃)の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城(支城)と推定され、範囲は南北約220m、東西130mと考えられる。山裾の西から南へ流れる堀川を外堀とし、山頂の第一曲輪、中腹の第二曲輪、その第二曲輪を堀切で隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪のための土手)の痕跡が残っている。城主については記録がないが、江戸時代に編まれた地誌「駿河記」によると、文明年間1469~1486に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇に住まわせたとある。伊勢新九郎盛時は文明8年1476応仁の乱の影響で今川家の当主、上総之介義忠が遠江(御前崎市川上)の塩買坂での戦死により、次代をめぐる家督争い(内紛)が起きた際、嫡子竜王丸(後の今川上総之介氏親)を助けて活躍をした。伊勢新九郎は、この功績により富士下方一二郷(富士市城)を与えられ、延徳3年1491以後伊豆平定に乗り出し、やがて関東8か国を治めた戦国大名北条家(後北条)の基礎を築いた。

・大日堂:
・不動明王像:像高94㎝、市指定文化財、(背面の墨書)日本千タイノ内なり 正作聖朝安穏増宝寿 天一自在法門(種子)天下安楽興正法 木喰五行菩薩 八十三才 寛政十二申歳七月廿三日 本 (光明真言) 命 百 母 万 □□ (種子) 父 歳 
 この像は、吉祥天立像が完成した2日後にできあがった。岩座の上に踏ん張り、渦巻きとなって燃え上がる火災の中に立ち、不動の気魂を十分に表しながらも木喰仏らしい人間味が出ている。
・吉祥天立像:像高94㎝、内台座13.6㎝、市指定文化財、(背面の墨書) (種子)日本千タイノ内なり正作聖朝安穏増宝寿 天一自在法門(種子)大吉祥天女 木喰五行菩薩 天下安楽興正法 八十三才 (花押)寛政十二申歳七月廿一日ニ成就ス
 吉祥天は正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので美しい顔になったという。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じるにこやかな童顔をしている。
*木喰五行上人と焼津:1718~1810
 安永2年1773,56歳のときに日本回国と千体仏の願を起こし全国を廻り諸国に自生の仏像を奉納した。現在全国で約500体の作品が確認されている。木喰上人が当地を訪れたのは寛政12年1800上人が83歳のときで故郷である現在の山梨県へ戻る途中であった。現在焼津市には、この時造られた仏像が大日堂、勢岩寺(歴史民俗資料館で保管)、宝積寺に残っている。

・城山稲荷社:赤鳥居、祠、
・供養塔2、「奉納大乗妙典供養塔」、「庚申供養塔」
・奉献燈:竿部分
・大山祇眷属龍神神社 昭和十一年
・墓石
・六地蔵
・城山八幡宮:・石鳥居、・手洗石、・祠
・石塔:古城山全昌院址 

・村はずれの細い山道 
ゴロタの石道、峠を越えるとそこは隣村、昔の古道。


○八幡神社、諏訪神社(高崎409) 

○鳴沢不動尊(高崎602) 

○花沢城跡(高崎758) 

○神明宮(吉津164) 

○法華寺(花沢2) 

○日本坂峠(焼津市花沢、静岡市小坂) 


○須賀神社(小浜35-1) 

○塩釜神社(小浜1520) 
・石鳥居


○海雲寺(小浜88) 

○大日堂(小浜) 

○道了権現(小浜) 
・砂張屋孫右衛門道標:

○虚空蔵山香集寺(浜当目) 
 仁王門

○弘徳院(浜当目三丁目14-7) 

○那閉神社(浜当目三丁目14-13) 

・鳥居(浜当目一丁目14) 

○西宮神社(岡当目74⁻1) 
・社名碑:供進指定村社西宮神社 昭和丗九年
・石鳥居:昭和三十九年
・手洗石
・奉請庚申供養塔 安永五
・石塔
・石祠
・祠
・献燈2:紀元二千六百年
・狛犬2:昭和期か?


○薬師堂(中里655) 

○若宮八幡宮(中里1000⁻1) 
 ・焼津市指定文化財:・若宮八幡宮棟札(長さ152.2㎝、厚さ3.6㎝、重さ5㎏)、若宮八幡宮が寛永六年1629に第2代彦根藩主井伊直孝(1590~1659)により再建されたときの棟札である。檜の一枚板の表面に黒漆を塗り、文字の部分を彫り込み白色顔料をかけている。棟札の文字は寛永の三筆として名高い松花堂昭乗の筆である。(歴史民俗資料館で保管している。) 
 ・若宮八幡宮の石橋:(長さ152㎝、幅159㎝)、天保六年1835に架設された石橋である。通路部分は4枚のアーチ型の板石でできており、高さ約33㎝の4本の親柱には再建年月と再建に関わった者の名前が刻まれている。
 ・直孝公産湯の井:伊井直孝は彦根35万石の城主で徳川譜代筆頭の大名である。現:国宝彦根城は直孝の築城である。当地若宮八幡宮は寛永六年直孝が建立した。
・歌碑:「歴史きさむ 棟札のこれり   」
詠者井伊文子は井伊家39代井伊直興氏(彦根市長)の夫人で、旧琉球王家尚昌氏の長女、女子学習院本科を卒業され、歌人佐々木信綱先生の高弟であり、歌集随筆集など多数の著書がある。このたび若宮八幡宮建立350年に当り、これを記念して表題の歌を書かれたのである。また夫人は沖縄のひめゆりの塔の憂歌「ひめゆりの 石ぶみに深う ぬかづけば 平らぎを希いなむ 乙女らの声は」の詠者でもある。 
・石鳥居:大正十三年、
・石鳥居:皇紀二千六百年記念
・狛犬2:平成十年
・手洗石:平成十年
・石燈籠2:
・御神燈2:日露戦役従軍者紀念、
・御神燈1:
・手洗石:慶應四歳
・祠4
・石祠
・自然石

○糧堂院、岡当目公会堂(岡当目381⁻1) 

○大徳寺(浜当目一丁目3-4)日蓮宗 
・石祠3、うち1つ稲荷、鏡

・マリアナ観音(浜当目三丁目16) 






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