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2016年05月22日

朝比奈街道(静岡県焼津市、藤枝市、静岡市)

~朝比奈街道(静岡県焼津市、藤枝市、静岡市)~
現地調査:’16 4/23,24、29,30
・前文
 本文を読み進める場合、手元に住宅地図等の地図を確認しつつ読むと分かりやすい。住宅地図がなくともグーグルやヤフーのマップ、昭文社の道路地図等でもよいと思う。
*住所地は分からない時には附近のものを記入している。正確な住所を記入することが目的ではなく、目的の場所を少しでも発見しやすくするための目安である。
個人的には文字間違いが多いかと思う。というのは丸2日がかりで打ち込んだ文章がすべて消失したので、一から打ち直していてウンザリしている。しかもすでに川崎街道は調べたのにほとんど打ち込めずに自分の記憶の方が消失しそうで早く朝比奈街道を打ち終えて、川崎街道も打ち込まねばとあせっている。ますます間違いだらけで、さらにいらいらしてくる。一旦消失した文書でも履歴とやらを探ると復活できるらしいが、パソコン苦手な私にそんな技量はない。パソコンや最新機器は嫌いです。
一応、現地で発見したもの(道、遺物類)を掲載しましたが、発見できないものも多かったと思いますので、御存じの方はぜひコメントを頂きたいです。あるいはその方なりの方法で公表していただけるとありがたいです。朝比奈街道だけではありませんが、古道や古道沿いの遺物類は片っ端から消失の危機にあると言えるでしょうから、公表されることで少しでも保存されることを願っています。

・朝比奈街道概略
朝比奈街道は『定本 静岡県の街道』によれば「焼津北を起点として、瀬戸川を渡って八楠、越後島を経て下当間に至り、広幡橋を渡って東海道と交差し、さらに仮宿村のはずれで朝比奈川の右(?左)岸に渡り、子持坂から桂島を経て宮島に至っていた。」
起点であるが、焼津北でははっきりしないが、おおむね朝比奈川は下流で瀬戸川と合流し瀬戸川として駿河湾に達し、その横に焼津港が開けている。そこで起点は焼津港とした。


~焼津市焼津漁港~ 
○焼津漁業協同組合焼津漁業資料館(焼津市中港二丁目6⁻13)
 
○宗像神社(中港五丁目18⁻16)
 ・コンクリ鳥居、・板碑:社碑:昭和四十七年、・手洗石:自然石かち割、
 ・説明版:創建不詳。昔人伝うにこの地毎年暴風雨来れ激浪打ち寄せ民家流失人命にも及ぶこと甚大なりしが或る日村民その海辺に流れ着きたる弁財天の御姿を見付けこれこそ安芸の国宗像神社の御授けと尊崇村民と計らい祭神を祀りし社殿を創建し祀りたるに霊験あらたかにして爾来波浪静まり豊漁豊作民心安泰この地今日の繁栄を期す故なり。明治三年神仏分離のため弁財天を宗像神社と改む。昭和39年焼津港築港の砌当地に移転崇敬篤き氏子の敬信により新たに社殿造営今日に至る。昭和47年
○船玉浦神社(本町一丁目16⁻1)ふなだまさん
・説明版:祭神:大錦津見命、祭礼日:7月26日、由緒:江戸時代、和歌山県、音無川上流にある船霊神社から分祀されたという。創立年月日不詳。旧焼津港の南端、明神鼻の一角にあるところから焼津港の鎮守神として「ふなだまさん」の愛称で漁民の信仰を集めてきた。例祭日には宮司が御幣を立てた小舟に乗り赤飯を盛った神餞を港外で海中に納め、海上安全、大漁を祈る古例がある。(静岡県神社庁志太支部編「志太地区神社誌」)
・社碑:昭和六十一年、・石鳥居:大正十五年、・手洗石2:大正十五年、明治廿六年、・新:猿田彦、
・石碑:焼津市古い地名:新屋:あらや旧町名 樋越 上町  中町 北町 南町 下町 新町 浜町 
○青木神社(本町一丁目3⁻28)
 ・社碑:昭和十二年、・石鳥居:平成二年、・献燈、・新:手洗石、・自然石5、・コンクリ鹿像:昭和四年、・大木6~7本、
 隣の幼稚園に・新:地蔵、
○紫雲山阿弥陀寺(本町二丁目4⁻5)
 ・寺名碑:平成二十四年、・六地蔵、・供養塔、・手洗石、

~その他、焼津港周辺~
・焼津神社(焼津二丁目7⁻3)
 焼津の中心的神社
・普門寺(焼津六丁目9⁻16)
 
・貞善院(焼津六丁目11⁻⒕)
 
・良栄寺(焼津六丁目2⁻16)
 
・小泉八雲の碑(新屋425)
 
・護信寺弁天宮(北浜通95₋2)
 
・浪除八雲地蔵尊(城之腰188)
 
・神社:祠(城之腰176)
 
・常照寺(城之腰138)
 
・安泰寺(鰯ヶ島143)
 
・青峰観音(鰯ヶ島253)
 近くに・記念碑
・須賀神社(焼津五丁目2⁻2)
 

~焼津駅北口周辺~
○昌泉院(駅北五丁目10⁻9)
 ・六地蔵:昭和四十七年、・無縁仏:コンクリ固め:昭和三十五年、・?供養塔、・観音、・慰霊碑、・燈籠、・狛犬、・水子地蔵、・観音、・奉納鳥大乗妙典経全部:元文五年、
・御所松(駅北五丁目10⁻9)
 昌泉院横、瀬戸川河口付近の土手に赤松と黒松
○天皇神社(駅北五丁目1⁻25)
 ・新:社碑:、・新:玉垣、・石鳥居:昭和四十四年、・新:狛犬2、・手洗石:自然石、・自然石、・献燈2:昭和四十四年、・石碑:奉納浄水石中老会、
○大井神社(駅北二丁目5⁻13)
 ・社碑:昭和四十八年、・石鳥居:昭和八年、・献燈2、・狛犬2:昭和三十三年、・慰霊碑、・新:玉垣:昭和五十三年、・コンクリ石柱2、・クス、シラカシ:焼津市指定保存樹木、
・石碑:焼津市:旧地名碑:焼津北:川東 駅前小石川東 川南 駅前小石川南 舞台 西町附近 昭和55年 
・説明:祭神:彌都波売命:水を司る神、猿田彦命:道の守り神、創立永禄三年、明治八年村社、明治四十年神饌幣帛供進指定社となり今日に至る。佐口社:通称:おしゃもんさん白髭神社稲荷神社を併合奉斎。永禄三年は領主今川義元が桶狭間で織田信長と戦った年で戦国末期であり、当時の虐げられた貧困の祖先たちが五穀豊穣や平和を祈ったのだろう。現在の社殿は明治41年、本殿が改築拝殿が新築された。それまでは小祠堂であっただろう。本殿拝殿は焼津市区画整理事業駅南北工区工事の際、昭和48年位置が若干移動するに当たり、更に改築が施され49年には社務所兼公会堂が落成し玉垣は53年新設された。区民有志により竣工。昭和53年。
・若宮神社(大89)
 
・七社神社(大村一丁目7⁻1)
 
・善通寺(大村一丁目19⁻4)
 
・用心院(大村新田317)
 

 焼津港から瀬戸川と焼津駅の間を遡上し焼津駅北口付近に出る。駅北の大井神社付近から北西に進み県道焼津停車場仮宿線に出て、瀬戸川に架かる牛田橋を渡る。その手前に神社がある。
・神社:祠(大栄町三丁目3)
 
 牛田橋を渡ってすぐ右折し細い道に入り、梅田川に架かる天白橋を渡り、朝比奈川土手手前で土手沿いに遡上する。すぐに国道150号線バイパスの高架下ガードをくぐり八楠の新興住宅街を遡上する。この周辺は都市計画で区画整理され、昔日の面影は消失しているが、とにもかくにも土手の1~2本手前の道を土手に沿い進むのが古道ルートに近いようだ。バイパス高架下ガードから650mで右側100m先の土手手前に寺院がある。
○正傳院(八楠460)
 ・六地蔵、・(梵字)庚申塚青面金剛像:平成五年:見聞言ザルレリーフ、・如来、・地蔵、・新:地蔵、・新:日切地蔵、・五輪塔、
 元の道に戻り北西進するが、一旦もう一本左の道に移り北西進する。距離300mで神社である。
○加茂神社()
  説明:祭神:賀茂別雷命カモワケイカヅチノミコト、例祭:10月17日ただし昭和53年以降第3日曜、創建:大化二丙午年二月646、由緒:646年2月山城国上賀茂神社より勧請したと記せる棟札あり。「総国風土記」に「箭葛柳田神社所祭祭神雙栗神也」とあり。また「諸郡神階帳」に「益津郡従五位上八楠地祇」とある。往古は賀茂神社の祭礼には神輿数台を字天白という所に行幸し神楽を奏し、字馬場田という所にて流鏑馬を行った。「賀茂神社」は山城国上賀茂神社:京都市から神の霊別雷命を祀る。上賀茂神社の例祭は賀茂祭:葵祭が有名。旧除地高:2石。明治8年1875,2月村社に列し、明治40年1907,9月神饌幣帛料供養社に列した。境内神社:末社:八坂神社:すさのおのみこと、白髭神社:さるだひこのみこと、天満社:すがわらみちざねこう、天白社:不詳、八幡神社:ほんだわけのみこと、蔵王社:不詳、佐口社:不詳、祭事:2月祈年祭、10月例大祭、11月新穀感謝祭:七五三お祝い、
・社碑:平成五年、・石鳥居:昭和十年、・献燈2:昭和五十六年、・手洗石:自然石加工、・狛犬2:昭和56年、・手洗石:草書体?江戸期、手洗石:20×40㎝:天保十、・献燈+燈の竿:文化□、奉献燈加茂大明神□□、・石塔2:明治廿八年、・大木7~10、

 北西進ですぐ東名高速高架下ガードをくぐる。ガードから300mで右50mに寺院がある。
○瑞應寺(越後島114)
 ・寺名碑:平成四年、・手洗石:、・地蔵、・祠:青面金剛、・新:地蔵、・祠:神、・祠:地蔵、・ソテツ、・秋葉山常夜燈:文化二年、
 元の道に戻り50m進む。左に越後島公会堂があり、赤鳥居が見える。
○神社(越後島183)
 ・木赤鳥居2、・赤祠2、・献燈:平成十二年、
 この周辺は水田や畑が残り、道もやや狭く、直線ではなく昔風の曲がった道であり、古道とまではいかなくとも田舎びた旧道の雰囲気が残っている。しかし手前の八楠までは開発されていて、越後島の開発も時間の問題であろう。訪ねるなら今がラストチャンスでしょう。
 200m北西進する。左折:南西進し200mで鳥居がある。途中宮前橋を渡る。
○八坂神社(焼津市越後島289)
 ・説明:旧駿河国益頭庄越後島村、祭神:建速須佐之男大神、由緒:往古この地の守護神、産土大神として嘉吉元年1441、御花園天皇の御代、室町中期足利義勝の頃、愛知県津島市に鎮座の旧国幣小社津島神社より分霊を勧請して創立された。本宮社と同じく元牛頭天王社ともいわれた。明治以前徳川時代までは除地高2石を有し明治8年2月には村社に列せられた。祭神は天照大御神の弟で国土経営産業開発の大神としてまた神徳は災難疫病除けの守り神招福大神と古来より篤く信仰された。境内には末社として山梨神社、八王子社、西宮社、御嶽権現社、天白神社の5社を祀る。本殿拝殿前後には樹齢500年余りの5本の大老松がそびえていたが、昭和41年大暴風雨で倒木し他も危険となり伐採した。目通り8尺。現在は2代目植樹。本殿は天和3年1683再建、外本殿は昭和47年10月再建。拝殿は昭和8年石玉垣は昭和33年、造営。境内地1035㎡。明治維新に上地され国有地化されたが昭和31年神社に譲渡。例祭は本宮津島神社では6月25日を津島祭天王祭としてあまねく世に知られているが当神社では戦前より秋農耕の収穫前近隣神社の祭礼と同じく10月16日。昭和49年。
・石鳥居:昭和四十六年、・玉垣:昭和33年、・手洗石:自然石加工、・手洗石:横倒し、石柱5:横倒し、・献燈2:平成二十二年、・大木2、・御神燈2:文化七、・狛犬2:昭和八年、
 元来た道に戻り、250m北西進する。標識もないので分からないが、ここで藤枝市下当間に入る。市境から450m進むと右に下当間公園さらに奥に寺院と神社が見える。
○孝養院(藤枝市下当間542)
 ・寺名碑:昭和四十八年、・祠:地蔵、如来、石祠(石家道祖神)、小地蔵6、・庚申供養塔、・庚申供養塔、・自然石3~6、
○橘神社(藤枝市下当間537)
 ・説明:由来:天正年中1573~1592、当地の仕人五左衛門という人が奉斎したという。以来当地の守り神として現在に至っている。祭神:弟橘姫命、焼津神社(祭神:日本武尊)と由縁がある。神領除地高1石8斗9升8合を有し、明治8年2月村社列せられた。昭和28年7月8日国有境内地は無償譲渡され宗教法人として承認登記された。
 祭神:弟橘姫命:美濃の穂積氏忍山宿禰の娘、日本武尊の妃となり東国平定に従ったが、走水より上総に向かう海上で暴風雨に遇い、妃の弟橘姫命は犠牲となって海神に身を捧げて尊の難を救った。尊は深く悲しみ、現在の千葉県茂原市木納町舟形山に御陵を造り弟橘姫命の櫛を納めて橘の樹2本を植えて祀ったという。
 境内社:稲荷神社 倉稲魂命 稲作の守護神、御嶽神社 御鍬 農家の守護神、津島神社 素戔嗚尊 魔除け守護神、
・石鳥居:平成二十一年、・狛犬2:2012年、献燈2、・板碑、・手洗石、2:古、新:昭和五十年、・大木6~10、・神木1、
 
 橘神社前から450m西進する。新しい石道標が電柱に立てかけられている。
・新:石道標:「しあわせ小路→」(下当間438)
  50m西進すると高架下ガードをくぐり、さらに200m進むと県道焼津停車場仮宿線に出る。古道ルートは県道を横断し、県道の広幡橋の先にある狭い歩道橋で葉梨川を渡ることになる。
 ただ渡る前に下当間付近の石造物を紹介する。歩道橋より先の土手沿いに寺院がある。
○観音寺(下当間1099)
 ・寺名碑:駿河観音霊場九番札所:昭和六十年、・六地蔵、・ソテツ、・手洗石、・地蔵:座、・地蔵:立、・奉納西國坂東秩父供養塔、・奉納大乗妙典経廻國六十六部供養天下太平國土安清:元文元、・祠:新:水子地蔵、・供養塔、・五輪塔の頭部、・三界萬霊塔:昭和四十三年、
 寺の先が広幡小学校と広幡幼稚園であり、その先に石造物がある。
○忠霊塔:昭和二十八年(下当間392)
 ・献燈4、・狛犬2、・板碑:戦後記念碑、
 忠霊塔より北東150mに小さな神社がある。
○金山神社(下当間175)
 ・金属鳥居、・庚申供養塔、・祠:神、・手洗石:昭和三年、
 
広幡橋隣の歩道橋で葉梨川を渡る。50m直進するとT字路に当る。この左右の道が江戸期東海道である。右折(北)するとすぐに法ノ橋を渡る。100m進むと現在の国道1号線との仮宿交差点に出る。東海道は交差点を斜めに横切っている。松があり、他より狭い道なので分かりやすい。
・標識:岩村藩領標示杭「是従東巖村領横内」(横内1651) 
 ・説明:この杭は江戸時代、享保20年1735より明治維新までの135年閒岩村藩領であったことを標示した杭を再現した。岩村藩は美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町、現在岩村市)を居城とし、松平能登守が3万石の領地を持っていた。駿河国に15ヶ村、5千石分の所領地があり、横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行った。

200m進むと左折(北西)である。ここに石道標がある。朝比奈街道は東海道を離れる。
・石道標:仮宿區入口 岡部町 朝比奈村 葉梨村ヘ通ズ 大正六年(横内996)
 裏面は壁際固定されていて読めない。多分発起人名かと思う。
 300m進むと標識がある。
・標識:小字名「評定ひょうじょう」(横内1075)
 200m進む。標識がある。途中バイパス高架下ガードをくぐる。
・標識:明治の学校跡地→(横内1091)
 250m進むと標識がある。
・標識:朝日山城跡→(仮宿1228⁻1)
 標識から西1.2㎞先の朝日山山頂112mに稲荷神社があり、そこが中心である。
 
 ~~~~~~
   一旦、朝日山城を目指し朝比奈街道ルートを外れる。
○朝日山城跡(仮宿)市指定史跡、朝日稲荷神社
 西1.2㎞先の潮山200m前衛峰の山頂112m:稲荷神社を中心として築かれた岡部氏の山城。居館は神社手前の静岡大学農場のさらに手前辺りと推定されている。附近に祠や五輪塔があるようだ。城は山頂を本城に上下二段の曲輪があり、稲荷神社は下段である。たて堀、堤坪曲輪、西曲輪等がみられる。潮山とは空堀で分断されている。麓に居館があり背後に山城があるという室町初期の根古屋式の山城といわれる。室町初期に築かれ天正16年1588所領替えで廃城となった。城の弱点は西南に城より高い潮山がそびえていることだが、より高い山に城を築くことは技術力、財力、政治的情勢、必要性から考えた方がよく、廃城になったのも所領替えで、必要性が低かったのだろう。
 ・朝日山城:説明版:(構造及び形式等の特徴)曲輪・空堀等の遺構をよく残した山城で、その規模はおよそ東西600m、南北200mに及ぶものである。(説明事項)朝日山城は潮山(標高202m)の支峰、朝日山(別称・牛伏山、標高110m、比高約90m)頂上部を中心に造築された山城である。この山裾は、土豪として活躍したとされる、岡部氏の本拠地と伝えられることから、本城は室町時代の初め頃、この岡部氏が築いたものといわれている。このように山頂に築城し、その山麓に城主の居館地を伴う場合の城を根古屋式(詰城)と称し中世城郭の典型となっている。城は山頂の神社境内に船形で土塁によって囲まれた一ノ曲輪を中心として、ここから東に向けて階段状に曲輪を配置する。その他空堀、堀切や南曲輪・西曲輪・山下曲輪・水の手等によって構成されている。
 ・説明版:藤枝市仮宿1番地に所在する、岡部氏により造られた城である。この頃の岡部氏は今川氏の庇護の下、自領地を護るためのものであった。朝日山城は朝比奈川を望む海抜110mの朝日山(牛伏山)にある、山頂には室町時代初期の頃の様式の城郭遺構が残る、この城は東方山麓に居館を構えた根古屋式の城である。根古屋とは、丘陵上等に設けられた城と、その裾に屋敷が付随する城に対して付けられた名称である。朝日山城跡は一の曲輪、二の曲輪と構成されているようですが、現在この城跡は発掘調査などされていません。城跡に残る形跡は室町時代初期のものばかりではなく、一部は同時代末期の天文~永禄年間(1532~69)の頃、城郭拡張の必要(戦争)が生じたために、工事を起こしたが、完成まで至らず必要性がなくなり、途中で放棄されている。今川氏に関係する城の多くは未完成のまま残され、このうち重要な位置(海岸、街道、峠、国境)を占めるものは後に武田、徳川両氏の手により修復されている。
 ・絵図「朝日山城とその周辺(推定)」:(絵図に記入された文字を書き写す):潮山、村良、入野、観音前、牛伏山、朝日山城、(本丸)一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、南曲輪、竪堀、大手口、子持坂、山崎、砦居館推定地、一丁田、押場、仮宿、朝比奈川、八幡山、谷田遺跡、谷田、潮城、城山、一里山、一里塚、
 「朝日山城跡の曲輪(推定)」:朝日山城は一ノ曲輪~三ノ曲輪を中心部分とします。「一ノ曲輪」;神社の裏側部分、東西57m、南北31mほどの舟形で土塁が廻る。「二ノ曲輪」;神社のある平坦地(方形)東西25m、南北31mほど。「三ノ曲輪」;二ノ曲輪の東側に階段状に下る細長い平坦部分。
 「仮宿朝日山眺望」:この絵は江戸時代の終わりごろ、この朝日山からの眺望を描いたものです。文化11年(1814)紀行「山西勝地真景」より桑原藤泰。
 朝日山城跡(推定)一ノ曲輪、二ノ曲輪、三の曲輪、西曲輪、空堀、通路、南曲輪、竪堀、大手口、木戸口、現在地、花倉、潮山、
 ・空堀跡(竪堀):説明版:この堀は、朝日山城の中で最も規模が大きく長いもの(全長110m)です。山の斜面を通って敵が侵入するのを妨げるためのものですが、このように山の斜面に沿って竪に掘った堀を竪堀といいます。
堀の種類、
堀-水堀―例・田中城(二の堀等)、駿府城等
   -空堀―(空堀、竪堀、堀切) 例・朝日山城、花倉城、諏訪原城等
  ・空堀跡(竪堀):説明版:この附近が、堀のほぼ中央部分になります。この部分の堀幅は約20m、深さ約5mもあり非常に規模の大きな空堀といえます。
  ・空堀跡(竪堀):説明版:この谷の部分が人工的に掘られた空堀跡です。堀の幅はこの附近で上端が約18m(下端が約13m)深さも4mほどになります。
 ・一ノ曲輪:説明版:規模・東西長軸方向57m、南北短軸方向31m、形態・平面形は舟形で南側から西側の縁に沿って土塁をめぐらしています。
 ・板石碑:説明:朝日稲荷神社社誌、鎮座地;藤枝市仮宿字堤の坪一番地、御祭神;倉稲魂命、開創;宝永五年(1677)岡山県津山より御分霊wp勧請の伝言ありまた天野景理助右衛門名主の時、芝田金三郎催主となり創建の説あり、境内社;天満天神神社、松尾神社、権現神社、津島神社、軍人社、例祭;三月初午祭、十月五社神祭、五年毎御輿下山渡御祭、新改築関連事項;延享四年1747本社再建、寛政六年1794御輿建造、天保九年1838拝殿再建、明治八年1875村社に列する、明治十年1877本社再建、明治十九年1886御輿更新、明治四十年1908五社合祀、昭和十一年1936拝殿再建、昭和五十五年1980市史跡指定、平成三年1991本社再建、平成二十二年2010拝殿修復、平成二十九年2017五社鞘殿再建、平成三年建立、
 ・説明版:朝日稲荷神社:鎮座地;藤枝市仮宿一番地、朝日山城跡に鎮座 稲荷山という、本宮;伏見稲荷大社 京都市伏見、主祭神;宇迦之御魂神、宇迦とは食べ物を意味し日本人の主食である米の生育を守る神である、イナリとは稲成、稲生がなまったもので、やはり稲が立派に実るさまをいい、これが即ち稲荷という字があてられたという。赤鳥居と狐はお稲荷様の独特の風景である。赤い色は豊かさを象徴する色とされ鳥居は通るという言葉に似ているところから願い事が通るという意味があるようだ。また狐はお稲荷の使いといわれる。御祭典;毎年三月初めの土曜又は日曜、大祭典;五年目毎、大祭として神輿の下山出御神幸波御祭り、平成二十三年
・板碑、・神燈2:大正十三年、・石祠、・納札所、・石祠、・神木、・小鳥居と石祠、
・丁石:四丁目、・朝日山ビオトープ ホタルの郷、・名号碑:平成三年、・木赤鳥居2、
・献燈2:昭和四十年、・手洗石、・手洗石:大正三年、・石柱2、・稲荷2:昭和十一年、
・石柱2:昭和六十三年、平成三年、・手洗石:安政五年、・神燈2:享保十四年、
・木祠5、・宝篋印塔の頭部、・手洗石:寛政元酉年、・祠、

○南叟寺(潮995)
・寺名碑:昭和六十年、・石塔:寛…堂、・南叟延命地蔵尊、・六地蔵+1:昭和三戌、
・西国三十三所供養塔:□政□、・地蔵、・手洗石、・善光寺如来供養塔:明治十六年、
・三界萬靈塔:平成五年、・馬頭観音、
・奉納 當国三十三所善光寺如来西国三十三所 各供養塔:明治四十五年、
・□善光寺如来供養塔:大正六年、

・地蔵:祠(潮462-1)
 南叟寺のある潮集落から新東名取り付け道路に出る辺りの法の川手前の微高地の丘上畑に祠と地蔵が見える。

○潮神明宮(潮407-7)
・社名碑:昭和五十五年、・金属鳥居、・御神燈2、御神燈2:明治十三年、・石段
・忠魂碑、・石祠、・木祠、・石垣、

○薬師堂(潮304-3)
・西国三十三所巡禮供養塔:寛政九年、・宝篋印塔の頭部、
 隣家の潮240-1山田氏の話では、堂の名前は薬師堂、施主は現在9代目で、其の数代前の6代目辺りの与作が祀った。潮集落は昔15~6軒で潮井戸が4つあったそうだ。
                                    ’17 10/9
~~~~~~
 標識:朝日山城跡→(仮宿1228⁻1)へ戻り、北へ70m進む。道が左に曲がる所に祠がある。

 ・祠:中組秋葉山(仮宿1189)
 北西へ70mで右に寺院がある。
○用福寺(仮宿1172)
 ・説明:室町期引治3年1557、当時の和尚に依り開創。開山和尚は学識力量共に卓越セル禅僧で仮宿に当寺を開創後、永禄10年1567懇請され、焼津市一色の成道寺開山、永禄12年1569榛原坂部、石雲院の輪番住職を受け輪住される。永禄12年11月示寂。開山当時は駿河国今川氏勢力下にあり、1564年今川義元、桶狭間で戦死。その子氏真が家督を継ぎ、永禄8年1565常楽院を今川氏の祈願者として帰崇される。1569松平家康は今川氏の領地遠州を攻略、掛川城を明け渡される。本尊:地蔵菩薩は日限地蔵として地域の信仰を集めている。昭和59年本堂屋根を修理、昭和62年庫裏新築、平成2年位牌堂新築、平成6年境内地整備、東司建築、文殊菩薩台座新調安置。平成6年。
・寺名碑:昭和六十二年、・祠:文殊菩薩の厨子:寛政4年木製彫刻された像で明治13年再度彩色された、平成に修理された、平成6年、・手洗石:平成七年、・三界萬霊等、・新:地蔵、・自然石、・六地蔵+観音、・石碑:無心:五輪塔の頭部、・○奉供養庚申塔:人差し指を伸ばした手の甲のようで斬新な石、・奉供養西國三十三所、
 550m進むと旧岡部町との境だった朝比奈川に架かる仮宿橋に至る。橋手前左30mに祠がある。
・祠:秋葉山、・秋葉山常夜燈2:平成14年(仮宿1084)
 さらにこの土手沿いに西300m進むと寺院がある。

~~~~~~
・中正寺(仮宿938)
 ・大師堂:祠:石像、新四国第三十番慈眼山中正寺
 ・名号碑2:昭和六十年、 ・手洗石:新、 ・常夜燈2:新、・六地蔵:平成十三年、
 ・おかげさま石柱地蔵:平成八年、・祠、・常夜燈、・石塔:南無…(不明)、
この寺の南西に岡部氏関係の祠や墓石がある。
  ・岡部氏一族の墓:説明版:岡部氏の祖から何代かここに眠る、岡部氏の祖、藤原清綱は京より駿河の国に権守(ごんのかみ)として赴任してきた。任期が過ぎても京に帰らず、この地で帯刀してとどまる。清綱は南家出身なのでよい職に就く当てもないことが分かっていて、この地に住むことを決める。そこで権守の時、得たかもしれない伊勢内宮の御厨の職を、この地でやることになった。(岡部御厨) 平家が栄華を極めたとき、伊豆において源頼朝が挙兵したのが岡部氏がこの地にきたときであろう。清綱は頼朝の配下になり、清綱の子泰綱の時、藤原を改め岡部とし、鎌倉幕府において御家人となる。その後代々この地に住み、地域の人たちを巻き込み鎌倉幕府、今川氏と緊密な関係になった。此処の墓は鎌倉時代から、今川氏に加担した頃までのものと推察されます。したがって(1150~1530)の岡部氏の墓の檀下には万福寺の僧侶の墓もいくつか見られる。
 ・宝篋印塔:新:コンクリ製
 ・宝篋印塔:古:3、破片は多くもっと多数のものがかつてはあったのだろうが、体を成すものは3つである。
 ・手洗石     ’17 10/9

・仮宿白岩頭首工 ため池等整備事業 農林水産省補助(仮宿965)
 説明版:ゴム引布製堰で貯水時はゴム内に空気を入れ、洪水時は空気を抜き水を流す仕組みである。

・地蔵:祠(高田993-1)
 朝比奈川の土手沿いの上でちょうど土手道と高田集落への道へと分岐する辺りである。

○常楽院(高田424)
・寺名碑2:昭和四十二年、・祠、・六地蔵+観音、・新:地蔵、・永代供養塔、・新:常夜燈2、
・新:常夜燈、・新:石碑、・不許葷酒入山門:當山十一代、
・説明版:木喰上人作毘沙門天:クスノキ一木造り、一体、江戸時代、毘沙門天立像、高さ1.23m、市指定有形文化財・彫刻、「微笑仏」で知られる木喰仏のひとつで、甲冑を身に付け憤怒の相を表して邪鬼を踏みつけて立った姿の毘沙門天像である。もとは常楽院境内外の観音堂にあったが、現在は本堂に安置されている。像の背面には墨書があり、木喰が83歳で千体仏を発願した時の作で、寛政12年(1800)7月20日に完成したことが記されている。木喰仏特有の穏やかな微笑仏とはやや趣が異なり、像は厳しい表情を見せる毘沙門天であるが、木喰が最も仏像を多く作った円熟期の作品である。
 木喰行道(1718~1810):享保3(1718)年に甲斐の国(山梨県)西八代郡丸畑に生まれ、宝暦12(1762)年、45歳の時常陸の国(茨城県)羅漢寺の木喰観海上人から「木喰戒」を受けた。その後日本全国を廻り千体の仏像を造ることを発願し90歳でこれを達成し、文化7(1810)年、93歳で没するまで全国各地で仏像を奉納した。寛政12(1800)年、西国を廻った帰りに藤枝・岡部・焼津の寺院に2か月間滞在し、13体の木喰仏を残した。

○高田神社(高田325-1)
・石鳥居:平成二十四年、・石段、・手洗石:昭和四十六年、・神燈の脚部と笠:明治十一年、
・神燈1、笠のみ1、・石祠、・祠、・自然石、

○観音堂、薬師堂(高田263)
・石塔:十七面観世音、・石段、・手洗石:大正十三年、・地蔵:古10、・金剛1、・獅子2、
・常夜燈3:萬延元年、・手洗石、

○日吉神社(藤枝市旧岡部町入野65-1)
・石鳥居:昭和四十一年、・石段、・杉大木、・石祠2、

・地蔵;祠(旧岡部町入野831-4)
 朝比奈川に入野川が合流する手前の土手にある。

○西方寺(旧岡部町入野98)


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 仮宿橋を渡ると前方に岡部宿の中心的神社がある。
○若宮八幡宮(岡部84⁻1)
 ・説明:祭神:仁徳天皇おおさざきのみこと、応神天皇ほんだわけのみこと、神功皇后おきながたらしひめのみこと、由緒:醍醐天皇、延喜8年908、8月13日駿河に下向せられて仮宿に居館を構えておられた堤中納言兼輔卿が勅に依り山城国石清水八幡宮より分霊をいただきここに祀るという、以来7郷(岡部、仮宿、内谷、横内、高田、村良、鬼島)の鎮護として里人の崇敬をえる。貞享3年1686堤中納言の子孫:岸和田城主岡部長敬によって本殿を造営された棟札があり現在に至る、明治8年郷社に列せられる、例祭:毎年9月第二土曜、日曜、
・説明:行事:神ころばし、七十五膳:3年の一度例祭の日曜に行う、市指定無形文化財:3年に一度の9月15日氏子若者(泰平衆)が白鉢巻き白下帯姿で、本殿脇の泰平所から朝比奈川を七度往復し水垢離を行い、七度半目に神輿を迎えて神事が始まる。神ころばしは泰平頭の指示で泰平衆が「お獅子の御膳」「御内膳」「お丁屋の御膳」を捧げ持ち、広場を練り歩き転びながら奉納する、次に直会用の「下敷したしき」「上敷うわしき」を同様にして納め、最後に青竹に吊るした「かめ(酒)」を奉納する。これと同時に供える「七十五膳」が伝供され、その後、神職と総代は拝殿に敷かれた下敷・上敷の上で直会を行い、この神事は終わる。
・説明:この駿河国、岡部の神社:若宮八幡宮は、山並みにも情緒があり古木もうっそうとして苔の緑もこまやかで岩の様子もたいそう神々しい。だから霞にたなびく春の一日、紅葉の美しい秋の一日は申すまでもなく、月の美しい夜、雪の降った朝など装束姿の神主さんたちがゆったりと風情を楽しむ所であったろう。このような素晴らしい所を前々から占ってお知りになっていたのであろう。我が遠い祖先、堤中納言兼輔卿は千木の形も素晴らしい立派な社殿を建てて、八幡大神を石清水より迎えて鎮めた。そもそも八幡大神とは中津彦の天皇(仲哀天皇)の皇子である品陀和気命(応神天皇)である。この方はすべてのことに賢明で慈しみの心も深いので、日本国は申すまでもなく遠く言葉の通わない韓国(新羅)までも、その威光に従ったという。八幡大神の威光は、なんとありがたい尊いことであろう。御神威は。天保15年文月(七月)正三位 維長つななが:堤中納言の子孫。
・石鳥居:明和六(昭和五十八)、雨乞い石、・玉垣、・石段、・献燈2:元文四、・手洗石、・献燈2、・献燈:寛文三、・献燈:破片いくつか、・板碑:正三位維長、大木巨木:いくつか、

 橋を渡った道を左折し県道焼津森線を西に400m進む。右山斜面手前に寺院の入口があり、山道歩道が上っていく。
○萬松院(子持坂501)
 ・寺名碑:昭和四十六年、・自然石2、・石塔2:刻字不明、・石段、・地蔵:立、・地蔵:立:天保二子、・観音:駿河(刀3つ)志太郡山□□□村、・大日堂、・豊川茶枳尼真天覚、手洗石、・山門禁葷酒、・法界萬霊、・六地蔵+観音、・古:五輪塔:多数、・新:永代供養塔、・水子地蔵:小地蔵多数、献燈2、・新:地蔵:梅花観音80番駿河七薬師札所、
・岡部氏墓:宝篋印塔2、五輪塔1、土塀屋根瓦囲み、説明版:市指定文化財、土塀をめぐらした墓域の中に、宝篋印塔2基、五輪塔1基があり、宝篋印塔は岡部美濃守常慶ツネノリ(信綱)と出羽守(名不詳)の墓、五輪塔は常慶の子次郎右衛門正綱の墓と伝えられる。また門の扉は岡部氏の定紋である三つ巴の浮彫りが施される。岡部氏は代々今川氏に仕える有力な家臣であった。今川氏真の代に武田信玄が駿河に侵攻してきた。このとき岡部正綱は無勢ながらよく抗戦した。ついには多勢の信玄軍に敗れたが信玄はその勇猛ぶりをたたえて家臣に加えた。そして清水城(清水区本町)の守将に任じ賞金二千貫を与えたという。こののち正綱は武田軍に加わり、三方原に高天神城の攻防に徳川家康と戦闘を幾度か繰り返した。その武勇は家康の知る所となり、落城後、家康の計らいで死を免れ、家臣として招かれた。この恩情に感激した正綱、長盛父子は家康の手足となって働いた。
・富士見井戸2:説明:当寺の5代目和尚は慶長19年1614は大日如来を鋳造し、富士山頂に安置するため旅立った。寺に残った小僧は無事を案じながら井戸の水を汲もうとしたところ、仏像を背負って富士山を登っている和尚の姿が映ったため、思わず井戸に向かって手を合わせ、和尚の安全を祈った。以後この井戸を富士見の井戸という。平成17年。

 寺西口は農道で車で出入りできる。その農道の石碑がある。
・石碑:松山農道:昭和五十四年(子持坂501)
 西口農道から西に向かい下りていく。50mで右に馬頭がある。
・馬頭観音(子持坂501)
 100m下ると板碑がある。
・板碑:開演建碑之趣旨(子持坂35)
 50m下ると右に寺院と左に観光案内看板、公衆トイレがある。
○常願寺(子持坂35)
 ・石段・自然石、・カヤの木:天然記念物、・手洗石、・燈籠、・庚申、・燈籠、・板碑:慰霊碑、・墓石:江戸中後期の物多し、・三界萬霊塔、・六地蔵、
 150m下っていく。右に長屋門が見える。
○長屋門(子持坂244):鴫谷氏宅:シギヤかシギタニか?
 ・説明:130年の歴史、市指定文化財、修復。
 100m下ると子持坂集落内の現在の県道より古い旧道に出る。進行するには右折(西)だが、左折すると30m先に祠がある。
○大松の地蔵尊:いぼ地蔵(子持坂312)
 ・説明:建立安置不詳、昭和中頃まで身体にイボのできた子供は親と一緒に地蔵にイボがなくなるように祈った。祠内の小石でイボをさするとイボがなくなると云われた。治ると子供は親と一緒にお礼参りした。大松というのは祠裏に松があったからだ。
・祠:地蔵、・献燈、・新:手洗石、
 子持坂には、まだ他にも紹介先があるので、大松地蔵から南西150mの神社に行く。 
○熊野神社(子持坂336)
 ・献燈2、・コンクリ鳥居、・手洗石:安政五戊午九月、・石祠(石家道祖神)2、・献燈2:昭和五十一年、
 神社から北西に300mで岡部中学である。その左手前に公園がある。
○巨石の森公園(子持坂102)
 ・巨石:いくつか、・裸足の散歩道、
 公園から東に300mで県道焼津森線(現在の朝比奈街道)に戻れるが、その手前に地蔵堂跡地がある。
○地蔵尊(子持坂52)
 ・石段、・奉納西國三拾三所順禮供養塔:享(保・和)三年、西國三十三所供養塔:天保□□、・漢音、・馬頭(四角台座20㎝円形台座15㎝本体80㎝)、・地蔵、・石塔:四角柱、・破片いくつか、
 県道に出て北上200mで神社である。
○浅間神社(子持坂22)
 ・社名碑:昭和五十一年、・石鳥居:昭和廿四年、・石段、・自然石、・イチイカシ:天然記念物、・コンクリ石柱2、・御神燈:安政四巳年、・手洗石:天保十三、・献燈:浅間宮、・秋葉山献燈2:寛政八年(平成二十二年再建)、
 村良下橋を渡って村良に出る。県道の西側の山すそに神社がある。
○天満宮(村良978)
 ・説明:祭神:菅原道真、例祭日:10月25日、境内地220坪、境内社:津島神社、秋葉神社、弁天社、由緒:創立不詳、天明8年1788再建、明治8年村社指定、大正5年9月神饌幣帛料共進社指定、天満宮は天神さんとして全国に祀られている。京都の北野天満宮を総本社とし、その数1万社を数える。菅原道真は承知13年845生まれで、その生涯を至誠の道を垂範され、よく勉学に励まれて右大臣の高位に任ぜられた。俊才のあまり藤原時平の中傷により大宰府(九州福岡)に流された。牛車で送られる道中、牛により待ち伏せの賊の難を免れたと伝えられ、以来、牛は天神様の使いと云われ、教育の基本の象徴とされた。牛は食物を反芻して消化する。その様に繰り返して勉学せよと、教えている。天神信仰は元来農耕民族にはつきもので、天候と農業生産との関係から生まれたもので、雷電は雨をもたらし、五穀を実らせる。天神と云えば道真を指すこととなり、その威徳を偲ぶと共に文学を親しんだ神として尊敬されるようになった。江戸期には幕府が庶民の初等教育機関として全国に寺子屋を設立し、その精神的中心として道真の分霊を祀ったので、天神信仰は学神として学力向上、合格祈願の神として広く庶民に奉斎されている。
 *著者注:上記の文章では江戸幕府が寺子屋を設立したかのごとくに読めるが、寺子屋は民間教育機関と歴史的に認知されている。つまり今で言えば私塾のようなものである。江戸幕府が作った教育機関として有名なのは昌平坂学問所で、各藩は武士のための藩校を設立していた。それ以外には吉田松陰が作った松下村塾や福沢諭吉が作った慶應義塾に代表されるように私塾が発達していた。現代の私塾とちょっとニュアンスが違い幅が広いかもしれない。藩の領主や重臣、代官等に設立された郷校というものもあって、武士だけでなく庶民教育を行ったものもあるようだ。
・玉垣:平成十六年、・石鳥居:昭和三年、・牛神:平成17年、・大木、・弁天、・秋葉山夜燈:慶應四戊辰1868年、・献燈:御神前:慶應三、・鬼瓦、・事業記念碑2、
 神社のすぐ背後というか頭上は新東名の高架線である。
 ここから山すそをめぐって400mで北の寺院に行く。
○村良薬師堂(村良574)
 ・吊るしびな :説明:創建:天保13年1842の記録があり、この頃建てられたと思われる。中には薬師如来が祀られている。薬師堂に長く保存されているつるし雛は地域の人たちの無病息災を祈り、薬師如来に奉納されたもので、明治38年1905と記録されたものもある。このつるし雛は毎年8月23日に行われる薬師如来の祭り「いっちょうぎり」の日に飾られるもので、つるし雛は板の竿に5本の糸で取り付け、吊るされている。平成17年。
 左隣の上に寺院がある。
○大仲寺(村良574)
 ・庚申供養塔:天明八歳、・祠:如来、地蔵2、・手洗石2:、・石垣、・石塔、
 東150mで県道に戻れる。すぐ先は村良橋である。渡って進む。橋から300m北上すると右に祠がある。
・祠:地蔵:安政四(桂島、兎島625)
 すぐ東先に石段がある。
・神社:祠(桂島、兎島625)
 ・石段、・自然石1、
 100m東に四つ角がある。そこが旧道である。かつては村良橋から北東のAIKAWA工場敷地内を旧道が北上しこの辻に出たようだ。この辻にも祠がある。
・祠:地蔵(桂島、兎島631⁻7)
 水害除けで元はAIKAWA工場敷地内の中通りにあったものを移転したようだ。兎島631⁻7金子氏談。
 この旧道を北東に350m進む。県道相俣岡部線に出る。ここに石道標と祠がある。
・石道標:是従葉梨村地 □□□町道 大正十五(桂島、須谷793⁻1)
 
○祠:北向地蔵:有縁無縁三界萬霊等、・石仏4:?観音、観音「一国三十三所」、地蔵2(桂島、須谷793⁻1)
 北向地蔵は以前、県道相俣岡部線のトンネル上の貝立峠に祀られていたのだが、トンネルを切通しにした際、ここに移転されたらしい。先の金子氏談。
 ここで県道を北西に400m進む。石塔がある。
・石塔:・庚申、・奉梵天帝釋青面金剛太童子(桂島、須谷834⁻1)
 100m西進すると県道静岡朝比奈藤枝線(村良から北上する県道、村良で通過するのに使っていた県道)が合流する。
 ここで一旦村良から北上し合流する県道で紹介するところがあるので、左折(村良方面へ南下)し150m進む。ちょうど桂島公園を過ぎて狭い水路がある所だ。
・水まんぼう:水路トンネル(桂島、須谷858⁻1)
 ・説明版:全長70m、幅180㎝、高さ180㎝弱であり、朝比奈川俎板渕の少し上に流れ出ている。この近くにあった字大畑の水田、二町歩が毎年のように朝比奈川、谷川川の増水により須谷川の排水ができず、稲作に被害が出たため造られた。「志太郡誌」によると貝立トンネルの竣工が明治29年1896,1月と書かれているので、おそらくその人足が水路トンネル工事にかかわったと思われる。構造は素掘りで造られ、平成に入ってから入口付近をコンクリートで補強された。平成17年。

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なおここで県道相俣岡部線側の説明をしたい。岡部宿から桂島に行くルートも朝比奈街道だからである。岡部宿から川原町を過ぎ、貝立橋を渡って、現在は峠の切通しを通過する。以前はトンネルであり、更にその上に昔の峠道があり、北向地蔵も祀られていたのだが、切通しになり峠も削られたようだ。
『定本静岡県の街道』によれば、貝立峠以外に川原町から三星寺前を経て牛ヶ谷から山に上り、西の須谷に下る峠道があったようだ。以前は山上までみかん畑や茶畑だったので、明確に越えられる道筋があったのだろうが、植林地になって現在は道が荒れていると思われる。標高差80mほどのようだが、かなりの急斜面である。なお川原町から貝立団地側を通過し貝立峠に行ける道もあったようだ。
○笠懸松と西住墓(岡部、牛ヶ谷1132)
「…やがて西行は駿河国岡部宿にさしかかった。荒れ果てた小さな堂に立ち寄って一休みしているとき何気なく後ろを振り返ってみると戸に古い檜笠が掛かっていた。胸騒ぎがしてよくよく見ると過ぎた春、都で共に修業した僧の笠だった。 笠はありその身はいかになりぬらむ あはれはかなき天の下かな…」ここは歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をしたときに起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松くい虫の被害を受け枯れた。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。
○三星寺(岡部、牛ヶ谷642⁻19)


貝立橋の南150mに福寿院がある。
○福寿院(岡部、天神前356₋2)
 ・廃寺:堂、・庚申塔2:文化九年、?、・祠:地蔵3、・墓石:元文元年等古い物あり。
 西隣も寺院である。
○永源院(岡部、天神前345) 
 ・寺名碑:昭和四十四年、・六地蔵、・不許葷酒入山門、・地蔵、・祠:石仏:千手観音:札所第四番、
 永源院の参道を南に70m進むと西の山斜面上に祠がある。
○岡部天神社(岡部、天神前361₋2) 
 ・祠、・石段
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 ここで先の桂島の県道相俣岡部線と県道静岡朝比奈藤枝線が合流する所に戻る。
 合流地点のすぐ西に谷川川を渡る谷橋があり、渡り、朝比奈川に沿って遡上するのが朝比奈街道である。ただここで一旦右折(北)し谷川川をさかのぼる。川沿いの新道ではなく、西の山際の旧道がよい。県道から右折して旧道を150m進むと祠がある。
・祠:地蔵:昭和四年(桂島、谷川口1036)
 もう150m進むと新道に合流する。その先120m地点に石碑がある。旧道はここから右の工場敷地に向かうようだが、すでに廃道である。新道を進む。
・石碑2:谷川山、梅林院(桂島、谷川口985)
 300m北上すると寺院が見える。
・祠:地蔵:説明:故鉱次郎氏は明治28年榊原家に生まれ、昭和51年9月27日、82歳の生涯を閉じた。簑笠辛苦して農業に励み、常に神仏を尊び梅林院5代に亘り身心を盡し、物心両面を惜しまず公益に率先服すること多くよく隣人に益した。老人会はその生涯を讃え集落民の協賛を得て後世まで伝えるために地蔵尊を建立した。昭和52年。
○谷川山梅林院(桂島、谷川山964)
 ・永代供養塔:平成十三年、・祠:神:石天板、・禁葷酒、・三界萬霊等大乗妙典十部供養塔 銘日、・祠:六地蔵+地蔵:座、・大日如来:線刻、・石段、・献燈2:寛政九、・庭用燈籠2、・新:地蔵:多数:頭部大きく可愛い、
・忠霊塔、・有縁無縁三界萬霊菩提塔:平成十八年、
・木喰仏:薬師如来立像:説明:市指定彫刻:像高95.8㎝、完成:寛政12年8月8日、背面墨書に「日本千体体ノ内ナリ天下安楽興正法」83歳花押あり満面笑みを浮かべ、豊かで大きな衣に包まれ、左手でそれを上から守っている。病気を治してくれるという薬師如来は大国人々に栄拝された。製作者である木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足を止めたほとんどの土地に仏像を残している。昭和47年。
・木喰仏:子安観音菩薩立像:説明:市指定彫刻、像高:96.0㎝、完成:寛政12年8月8日、背面墨書、他の一体と同じ、現在梅林院に所蔵されている二体の木喰仏はもともと神入寺にあったもので頭部の彩色はともに近年のものである。廃寺となった神入寺は檀家の総意によって梅林院境内に移され観音堂として保存されている。木喰上人は寛政12年1800、の6月13日より8月13日まで丸2か月間岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には梅林院二体、内谷光泰寺二体、三輪十輪寺二体の六体がある。昭和47年。
・観音龍石:説明:この石は昭和35年1月、谷川山梅林院南方約300mの参道上方雑木林内に頭部のみ露出していたものを、たまたま山中に香花取りに入った某氏が見つけ、直ちに当時の梅林院住職に懇願して、この石を譲り受け自宅の庭石となすべく職人を雇い、掘り出しにかかったところが、相当深く土に埋もれているはずのこの石が、予期に反してわずかに鍬を入れたるのみにて、一人飛び出るがごとく、下の参道に落下しなおころころと回転して、道下のやわらかな畑に、でんと座ってしまった。重量1.5トンもあり運び出すのには、いかにも困難であったが、この石に魅せられた氏は、萬金を惜しまず投じようやく自宅の庭に運ぶことができた。渋味もあり何事か神秘が秘められているごとき、この石は水石に興味を持つ人々の話題の的となった。ところがその後夜毎にこの石が氏の夢枕に立って「私は谷川の観音様をお守りする龍身であり、このようなところに置かれるのはまことに不本意である。早々に観音様のそばに帰してくれ。」とのお告げがあり、氏は自分の信ずるある人に伺うに「お告げの通りいかにも観音様をお守りする龍の魂が宿っておられる御尊体である。今すぐ梅林院へお送り申し上げ末永く供養するのがよい」と言われ、驚いた氏は愛着捨てがたき神秘の謎を秘めている石なればこそ、直ちにお告げの通り梅林院境内へ奉納することにした。しかるにこの石を乗せた車が、谷川参道に入るや否やたちまち一天にわかに搔き曇り悲體戒雷ヒタイイカヅチのごとく甘露の法雨降り注ぎ萬雷鳴動して煩悩の焔が滅除された。ときはまさに昭和35年8月10日、その後氏の家では一切の災難を免れ身心快楽となり、現在では大いに家門も隆昌し安泰の生活が送られている。以来この石は観音様の御守護石としてなお一切の災難を厄除し一家の繁栄と幸福に霊験あらたかであるとして世人の信仰を得て供養され現在に至っている。昭和51年11月、駿河一国三十三ヶ所観音霊場第八番札所
・鐘楼堂:説明:建築材:40石当山森林中より、彫刻材(楠)6石殿大石芳明氏寄進、全高地上26尺、屋根幅18尺4面、廊下幅14尺4面、土台幅13尺4面、柱間8尺6寸、丸柱直径8寸七分、建立昭和56年7月、棟梁朝比奈玉取寺坂初太郎氏、記:当山は開創:長享元年1488、その昔合併により日光山神入寺より梵鐘この地に移転さる。偶大東亜戦争勃発し隆魔と化す。現在の梵鐘は当山37世の発願により、昭和30年に再鋳、鐘楼堂は寛政元年1800大工秋山傳右エ門の作である。堂宇の荒朽も甚だしくそのまま放置しておくこともできず協議の結果賛同を得て改築することになる。広く十方檀越の寄進を仰ぎ幸い名棟梁寺坂初太郎氏71歳の斤鑿キンサクにより凡そ1年間の歳月を経て完成を見る。傘下の彫刻八面は棟梁日夜辛苦の作と云われる。当山38世詩之、39世改修、平成20年5月。

○谷川と飯間の峠(藤枝市谷川、静岡市飯間)
 今回谷川の奥を調べていないが、二十数年前と十数年前の記憶で記入する。谷川川に沿って3㎞北上する。途中新東名の高架下をくぐりもする。谷川と静岡市飯間の間の峠直下に車で出られる。茶畑を5分も歩いて上ると峠である。その向こうは植林地や草地で道が不明だが少し下ると道が明確になる。ただし途中耕作放棄された畑地で道が不明確になる。1㎞歩いて飯間の農道に出られた。現時点ではこの古道山道がどうなっているかは不明である。茶畑も現在整備されているかも不明である。山の畑はどんどん耕作放棄地になっていくので、歩くなら冬場をお奨めする。
 なおこの峠道はかつて1351年鎌倉攻めに向かう足利尊氏が軍勢を引き連れて越えた道である。

 県道の谷川口に戻り、朝比奈川に沿って遡上する。
 300m進むと関谷橋がある。渡らずに前方50mを見ると鳥居が見える。
○津島神社(桂島、谷川口1107) 
 ・石鳥居:昭和五十年、・石段、・手洗石、・石祠、・石祠(石家道祖神)、・?神木、
 神社前の道を通り、丹社を経て溝口橋に抜けたが、特に遺物類は発見できなかった。
 関谷橋を渡り、450m進む。祠と石道標が向かい合わせにある。
・祠:地蔵、小地蔵(桂島、関谷343⁻1) 
 道の向かいに2つに折れた石道標がある。 
・石道標:朝比奈街道 山道ヲ経テ葉梨村ニ通ズ 里程凡ソ六千米 約一里半 昭和二年十一月 御大典記念 桂島善□會(桂島、下川原343⁻1) 
 正直うれしかった。朝比奈街道を調べに来て、その文字を見付けられたからである。西の山を越えると藤枝市北方の葉梨に出られたということだ。そこまでなら3㎞ほどだ。多分葉梨の中心地までなのだろう。この峠道も現在は廃道だろう。見つけるなら冬だろう。ただ地図上では途中村良を通過し農道を通るようだ。残存しているかもしれない。
・古道:桂島の観音下から葉梨の北方への山道。
国土地理院地形図では点線記入されているが現在あるかどうかは未確認。北方と桂島境の峠手前500mは一部農道ルートのようだ。

 石道標から県道を300m進むと右に石燈籠がある。
・石燈籠:自然石、・丸石(桂島、下川原231⁻1) 
 150m進むと溝口橋に達する。この左に旧道があり、祠がある。
・祠:神(桂島、下川原102)
  溝口橋を渡って100m進み右折し300m北東へ向かう。
○持珠院(羽佐間105)
 ・祠:六地蔵:一石二仏の三石:可愛い丸顔で首をかしげているものもある、
 梅林寺の隠居寺だそうだ。地元民談。
県道に戻る手前150mで山際の旧道を通り、遡上する。120m進むと山上に石段が続く。
○天神社(羽佐間71⁻1) 
 ・石段、・本殿・拝殿、
 山際に沿って400m進む。右に石塔がある。
・石塔:刻字不明(羽佐間351) 
 もう300m進むと土手に達し左手に橋があり、手前に石塔類がある。
・秋葉山常夜燈:寛政九、・庚申塔2、(羽佐間160) 
 羽佐間橋を渡り県道は右に曲がって150m行く。右に祠がある。
・祠:馬頭観音6(羽佐間698) 
 馬頭観音ばかりが6つもまとめて合祀されている。この後もなぜか馬頭観音ばかりを6つ集めて祀っているものにいくつか出会うことになる。六地蔵にあやかっているのだろうか。面白い合祀方法だ。
 120m進むと左に寺院の寺名碑に出会う。
○喜雲寺(羽佐間755)  
 ・寺名碑:昭和五十一年、・新:頭部大きい地蔵、・たぬき、・地蔵2:昭和五十六年、・献燈2:、・手洗石、・鐘楼、・四角石、・燈籠:自然石:平成元年、・祠:新:地蔵:座、・新:六地蔵、
 県道に戻り50m進む。右に石塔がある。
・庚申塔:明和五、・庚申□□□、・新:献燈(羽佐間698) 
 県道をさらに20m進むと右に櫓の模型がある。
・模型:朝比奈龍勢打上櫓:高さ3~4m(羽佐間105) 
  小柳津造園宅の私有地にあるようだ。
・羽佐間の古道(羽佐間675)
 県道はこの先60mで殿橋を渡り殿に至るが、その前に古道で付け加えたいことがある。
 羽佐間橋まで戻って、県道は殿に向かい右曲がりしていくが、県道を左折して羽佐間橋からそのまま北に向かえる道が山奥に入っていく。それが古道でもある。このまま奥に入りっぱなしではなく、狭間の一番山奥の伏見氏宅:羽佐間675まで行くと右の峠(標高差2m)を家の奥ですぐ越えられ、越えるとすぐに下降し朝比奈川に出て、川を渡り、土手沿いに現在ある龍勢打上櫓のある土手沿いに新舟に進んでいたようだ。ただ伏見氏宅横を細い山道歩道が通っていて標高差2mの峠越えができるが、そこから先は尾根沿いに上る道はあったが、下る道は雑草等ぐちゃぐちゃで発見できなかった。真冬なら強引に下りられるかもしれないが、すでに下る古道は消失しているようだ。惜しい。
この雑草ぐちゃぐちゃ部分をすっきりさせ下れる道を再整備して川まで下りられると、そこは玉露の里から川沿いに土手を整備して歩きやすくなっているうえ、岩などを配置している。その辺りの下流端に出られそうだ。そうすると伏見氏宅からの古道と玉露の里がつながるのだが残念。数少ない古道残存部なのだが。


 県道の殿橋に戻り橋を渡って、殿に達する。橋から150m進むと右に増田氏宅:殿183があり、祠があるし、変わった石がいくつもある。
・祠:丸石、・馬蹄石:多(殿183)
 増田氏談:この辺りは馬蹄石の産地で各家でお守りとして祀る。石仏では野田沢峠や玉露の里に観音が祀られている。
 県道を50m進むと右に石塔が祀られている。
○石塔類:総善寺参道入口(殿753⁻1) 
 ・寺名碑:新:朝比奈氏菩提寺、・農道記念碑:昭和五十年、・丸石、・古:常夜燈、・?庚申:六臂、見聞言ザルレリーフ:寛政七、
 この参道で右折し300m北進し右折し300m東進する。途中寺前橋を渡る。
○総善寺(殿167) 
 寺名碑:昭和五十五年、・六地蔵、・地蔵、・観音:六臂、・石祠、・永代観音堂、・庭燈籠、・丸石、・新:観音、・當國善光寺四國西國秩父坂東百八拾八所供養塔 當村 明治十四年、・板碑:平和の礎、・板碑:、・献燈2:、・自然石、・鬼瓦:昭和六十年、・観世音菩薩:昭和五十八年、・献燈:平成二一年、
 ・「殿の虫おくり」:説明:殿地区には、山あいにしては比較的広い水田がある。そして起源は定かではないが昔から虫おくりの行事が行われている。この行事は秋ウンカが発生すると村人は松明に火をつけ行列を組み、集落全体を歩く。この時人々は「青田の虫を送れ、田の虫を送れやあ。」などと唱えながら、松明で田の面をなでるようにして虫を誘い出し焼き払った。しかしこの行事は農薬の普及により自然に行われなくなったが、昭和60年頃の町内会長、有志の人たちによって復活し、夏の一夜を楽しむようになった。現在では8月23日の夜、六地蔵尊縁日に合わせ町内会、子供会で中心になって、この行事を継承している。平成15年。

 また県道に戻って西進する。100m進んで左の朝比奈川土手を見ると300m先の土手沿いに高い櫓がある。
○朝比奈龍勢花火打上櫓:無形文化財(殿167) 
 ・説明版:歴史的な由来は定かではないが朝比奈城跡朝日山城跡又駿府城跡の位置関係から山城閒の戦略の一手段として使われた「狼煙のろし」をその起源にする説が有力である。江戸時代後期より六社神社例祭を飾る行事として又豊作を祈願して献發され、それぞれの秘曲が伝承されてきた。大東亜戦争中、中断され昭和22年農村慰安として復活、東司は柳の木などに櫓を括り付けて打ち上げられていた。昭和37年より本格的に打ち上げられ民俗文化の伝承には組織が必要と昭和53年に朝比奈龍勢保存会が設立され昭和59年、県より無形民俗文化財の選択指定を受けた。現在13の龍勢連260余名の会員を有し、歴史と文化の息づく郷土づくりのシンボルとして高さ20mの常設櫓を町助成金により建築された。平成2年。

 またこの土手へは、川向こうの羽佐間の伏見氏宅から下ってきた古道が、川を渡って川のこちら岸につながっていたのである。
 また県道に戻って、西進する。すぐ右(北)に公民館と公園があり、看板説明版がある。
・看板:朝比奈大龍勢:朝比奈大龍勢は、戦の狼煙の名残と考えられ、明治以前から例祭を飾る事業として打ち上げられている。静岡県内でも数箇所にしかないこの花火は、すべて地区龍勢連の手で作られ地区ごとにその技を競う。現在は2年に一度打ち上げられ、その勇壮な姿を楽しみにしている人も少なくない。
 イラスト図では先頭部:ガ(ガンタ)、次いで吹き筒(フキゴ)、重心は吹き筒の長さの2.5倍部分、下方を尾という。

県道を100m西進し右折し北東進する。殿の西ノ平の集落内旧道である。100m進むと祠がある。
○祠:地蔵、・新:でか地蔵、・奉納西國三拾三所秩父三拾四所坂東三拾三所四國八拾八所文化十五(殿、西ノ平683₋2)
 この祠から集落西の山上に大木があり、神を祀った祠がある。ちょうど萬年寺から朝日山城ハイキングコースを上りだすと横を通過することになる。

~野田沢~~
 西の平の集落を北に抜け総善寺参道前も通過する。大野原橋や原上橋を通過するのが明治20年代のルートに近い。原上橋から300mで分岐になる。西又や岡部のリサイクル工場、小園地蔵方面へ行く西又林道が左に分岐するが、右へ行くのが野田沢ルートである。
400m進むと右に石塔がある。
・石塔:十一民平墓万(野田沢) 
 900m進むと野田沢橋を渡り、野田沢集落に達する。橋から350m進むと野田沢公民館前の橋袂に石塔類が苔むしている。
○石塔類(野田沢77₋2⁻1)  
 ・庚申塔、・○奉禮観世音菩薩 西國三十三所順拝□観世音、・庚申塔:昭和五十五年、・奉善光寺如来供養:明治三年、・献燈、*自然石2の上に石塔類は固定されている。
 100m進むと右に橋がありその向こうに石段がある。
○山神神社(野田沢103) 
 ・石段、・石碑:手摺~:平成二十七年、・石鳥居:昭和三年、・手洗石:昭和六年、・祠、・拝殿本殿、
 200m進む。野田沢の集落が切れる所に祠が祀られている。
・祠:笠かぶり地蔵(野田沢140) 
 200m進むと舗装自動車道が二手に分かれる。左が野田沢峠経由で静岡市飯間に出られる道である。ここに祠がある。
○祠:石道標:此れより右やまみち左ふちゅう寛政七年
 ・説明版:上記のように記されているが、寛政七年は西暦1795年で江戸時代の中期になる。この道しるべは、朝比奈から静岡市飯間を経て、駿河の府中(静岡市)へ通じる昔からの街道の一つであったことを示す遺構である。古老の話によると今川氏真が武田軍勢に追われて駿府の館から掛川城へ落ち延びる時、永禄12年1569に通った道という。現在は自動車社会になり、往来が少なくなった時期もあるが、農道整備事業により幅5.9mの快適な舗装道路となり、昔と変わらぬ物流道路としての活用が期待される。
 この石道標を、よくぞしっかり保存したものだ。刻字はかなり読めなくなっているが、説明版によって分かる。将来文化財に指定されるかも。
 かつてここには自動車道はなく、歩く山道があり、歩いて野田沢峠を越え飯間に出た。峠には六地蔵が祀られ、ハイキングコースとして知られていたが、自動車道ができハイキングコースになっていた古道は消失した。
 祠裏の岩の中に馬頭がある。
・馬頭観音:石祠内
 自動車道を上っていく。峠には新しい石碑が建立され、六地蔵は道の左擁壁上に祀られている。ちょうど静岡市と藤枝市の境界線になっている尾根沿いを1990年頃歩いて通過したことがある。その時野田沢峠も通過し六地蔵を見た。境界線尾根の道は劣化しているだろうが冬場なら歩けるかもしれない。
○石碑:山峡招き緑風爽やか、・板碑:2000年、
 
○六地蔵+観音:文久元酉九月日世話人増田増右エ門、
 1861年。

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 また殿と新舟の県道に戻り、西進する。180mで右に寺院への参道となる。
○萬年寺(新舟1240⁻1)  
 ・寺名碑:昭和四十八年、・□□□大菩薩、・萬年寺のカヤ:県指定天然記念物:根回り8m、目通り5.8m、樹高30m、根張り東西30m、南北25m、
  
 寺の裏から朝比奈城ハイキングコースになっていて裏山に上って行ける。
○朝比奈城ハイキングコース
 萬年寺から100m上っていくと殿、西ノ平集落の裏山に出る。ここに大木と祠がある。
・祠、大木 
更に100m上ると石碑と石段がある。
・石碑:経塚址
更に10分も上ると山頂の平坦地で看板がある。
・朝比奈城跡 
・説明版:戦国時代に岡部氏と並ぶ武将、朝比奈氏は今川、武田氏に仕え特に信置という人物は武功を上げ今川氏より感謝状を受けた戦国雑誌に「止駄郡殿村にあり今川家の功臣朝比奈某の築く所にして永禄年中まで朝比奈家代々の居城なり」とある山頂に土塁や空濠を作り居館を麓に作ったことからいわゆる「根古屋式」の城塞といえる。
空堀一つ、本曲輪が若干見られるが、城の分かりやすい遺構はハイキングコースから見付けにくいし、取りたてて紹介する標識類もない。ルート標識と山頂の城紹介看板になり、他の遺構類を紹介する標識設置が望まれる。
 
 山頂を過ぎて20~30分下ると善能寺前に出てハイキングコースは終了である。
 萬年寺入口に戻り、そこからもう20m進むと左に土手があり、馬頭が祀られている。
○馬頭観音6(新舟1240⁻1)  
 ・馬頭:剥落しかかり、・馬頭観世音:大正六年、・馬頭:八臂:昭和四十八年:怖い形相、・南無馬頭観世音菩薩:昭和四十七年、・馬頭:大正十五年、・馬頭:八臂うち六手はレリーフで顔の形相は怖い。
 県道を30m進むと右に道の駅がある。
○道の駅 玉露の里(新舟) 
 ・昆虫館、
 道の駅を過ぎてすぐ右側の家前に新しい石塔が2つある。
○石塔3(新舟1004) 
 ・新:三界萬霊塔、・新:交通殉難者供養塔、・古:丸石
すぐ左に玉露の里に渡れる橋がある。
○玉露の里(新舟976⁻1) 
 ・石碑:玉露の里、
・句碑:村越化石:句碑は芸術的に斬新ですぐれている。説明:村越化石は大正11年朝比奈村に生まれる。本名:英彦。昭和13年ハンセン病発病の為旧制中学校中退、昭和16年に草津の国立療養所栗生楽泉園に入園。昭和24年に大野林火先生に師事、これまで俳人協会賞、蛇笏賞の他俳壇の各賞を受賞。魂の俳人といわれる。平成3年には紫綬褒章を授賞。石刻句:「望郷の目覚む八十八夜かな」平成七年作。望郷の句は私に多い。故郷を離れてすでに久しく、見えない眼の奥にいつも故郷がある。夏も近づく八十八夜は新茶の初摘みの頃、村中が茶の香りに包まれるよき季節。生気溢るる八十八夜は望郷とともに私の好きな言葉である。村越化石。村越化石顕彰会。
・新:諸畜霊同魂碑:平成三年、・庭園:茶室庭園はこじんまりしているが素晴らしい。
・椿園、
 なお玉露の里の諸蓄霊碑のある所に馬頭観音があると複数の方に言われたが、諸蓄霊碑しか見当たらないので、最近馬頭を移転して諸蓄霊碑を安置したのかもしれない。
 ・吊橋、
 玉露の里入口の橋から県道を100m北上すると、右に神社がある。
○六社神社(新舟1018) 
 ・社名碑:昭和六十年、・手洗石:昭和二十七年、・石鳥居:明治四十二年、・手洗石、・石鳥居:破片、・自然石:多、・石段、・大木:多、・常夜燈2:昭和六十三年、・常夜燈2:天保十一年、・忠魂碑:昭和二十七年、・板碑:忠魂碑参道、・狛犬2、・献燈4、・板碑2、「狛犬1対、「平和と鎮魂の標」
 ・説明版:朝比奈大龍勢:県指定無形文化財:朝比奈大龍勢は六社神社の例祭に合わせ、祭神に豊作への感謝と地域の安全・発展を祈願して奉納される花火の一種です。その呼び名は花火が轟音を響かせながら真っ赤な火の尾を引いて空に上がっていく様子が「昇天する龍の姿」に似ていることから付けられたと云われる。龍勢の起源については「戦国時代の狼煙説」と「江戸時代の猟師鉄砲試射説」とがあるが、はっきりしない。昭和53年に「朝比奈龍勢保存会」が作られ、今は13の龍勢連が加盟して各連ごとに秘伝の技術がある。隔年の10月に打ち上げられ、各連がその技術を競い合う。県内では草薙でも打ち上げられ、全国では4カ所しか行われない大変珍しい花火である。


 神社から200m北上する。
○祠:・地蔵3、・馬頭1、・丸石5、・層塔(五重)(新舟233₋2) 
 地区の石塔類を合祀したようだ。
 200m北上する。右の路地の1軒奥に常夜燈がある。
○秋葉山常夜燈:火袋辺り:昭和五十一年、竿部分:文化元子年1804(新舟175₋1)  
 常夜燈の火袋部分は修復され昭和の年号が刻され、竿部分は古く文化の年号が刻まれている。こうやってでも保存していることがうれしい。

 県道の左側には榎橋が架かり朝比奈川を渡れる。渡ってすぐ左折し川に沿って150m南下すると祠がある。
○新舟西宮恵比寿神社(新舟522⁻1) 
 また榎橋に戻り左折(西)し笹川を目指す。400m進むと右(北)に行く道があり、石碑がある。岩瀧不動尊参道である。
○岩瀧山不動尊
・石碑:岩瀧不動尊参道
 参道を450m進むと標識があり、右の崖下に滝があることが分かる。
・不動男女の滝 
 滝入口から奥に100m進む。
・岩瀧不動尊:
・岩穴ののぞき地蔵、・献燈:平成九年、・手洗石:昭和十七年、・献燈:昭和四十三年、・例祭日:10月28日、2月28日、 
参道を戻り参道入口を目指す。今度は笹川を目指し450m進む。橋の袂に石塔がある。
○祠:・庚申塔:見聞言サルレリーフ:寛政?、・献燈:昭和四十三年、
200m進むと駐車場があり、笹川集落の中心部に達する。
・石祠
 駐車場に説明看板がある。
・笹川集落の歴史
・説明:言い伝えによると、笹川八十八石ハイキングコースをビク石に上っていく途中に南向き傾斜面で日当たりのよい平坦な場所を「落人の段」と呼んでおり落人の忍び住むには、絶好の場所がある。ここに文治元1185年源平合戦において平家が滅亡し、平家の落人がここに住み着いたのが笹川の始まりであるといわれる。また集落の入口付近に「上の山」という山があり朝比奈川のほとんどの集落と遠くは岡部本町から焼津方面まで見渡すことができる場所があり、ここの山の背を掘割り追手を見張る場所としたと言い伝えられている。やがて時がたち世の移り変わりとともに家族も増え、落人の段から順次安住の地を求めてこの笹川の盆地に居住し笹川集落を形成した。また昔からの書紀によると駿河の国志太郡笹川村新舟とあるように笹川空さらに新舟にと住み着いたと考えられる。
・水玉神社と十四地蔵尊の由来
 ・説明:昔、笹川集落へホウエンさん(祈祷師のことを村人はこう呼んでいた)が、落ち延びて、この地に住み着いた人たちのために15の玉を下さった。これを氏神様として祈っていた。氏神にお参りする人々は清水の流れる堀の沢で手を清め口をすすぎ家内安全と集落の安泰発展を祈って心のよりどころとしていた。いつ頃か不明だが、突然の地震か大雨かその原因は不明だが、大きな山崩れがあり氏神である15の玉神様は埋まり何日も土砂の掘り返しを繰り返し続けたが、14の玉神様を見付けられなかった。幸い埋まらずに1体が見つけられ、この1体を水玉神社として、また見つけることができなかった玉神様は十四地蔵尊として祀られた。
 駐車場のすぐ先の分岐点に石道標がある。
・石道標:瀬戸谷村十八瀬ニ通ズ 葉梨村上大澤ニ通ズ 御大典記念 昭和三年十一月新舟発起人     
 瀬戸谷十八瀬へはちょうどビク石登山道を指し示し、ビク石から瀬戸谷に下ればよい。上大澤へは笹川集落の水玉神社奥を尾根に取り付き山越えすると上大澤である。こちらは今となっては山道があるやらないやら。
 この分岐点から左上の神社方向を目指す。
○水玉神社(新舟、笹川828) 
 ・石段、・献燈2、・手洗石:文化十一、・十五玉伝説:上記、
○駿河一國百地蔵尊第十九番笹川十四地蔵尊、勝覚法師(新舟、笹川738)  
 ・石祠、・観音、・手洗石、・献燈、・献燈:昭和四十三年、・十四地蔵、
・祠:勝覚法師:地蔵5:説明:勝覚法師は地元の農家の出身で取りたてて学問を納めたわけではないが、地元民の為功徳を施し、地元民の尊敬を集めた人であったようだ。没後も信仰を集め、勝覚法師として祀られるようになったようだ。 
先ほどの石道標の分岐点に戻り、ビク石方向を目指す。150m進むと右の沢向うの茶工場隣に石塔がある。墓石である。
・墓石:享和三亥七月一日早世一葉童女:1803年 
更に奥へ500m目指すと舗装路の終点となる。現在はここからビク石登山道であり、笹川十八石である。昔は集落尾張の家の裏山から山に取り付き尾根に出てビク石を目指したようだが、十八石を通過し手から尾根に取り付くコースになったようだ。
○笹川十八石
・表石、手洗石、赤石、三の石、ナメクジ石、ホコ石、むすび石、五色石、ラクダ石、メガネ石、こうもり石、座禅石、想像石、見上げ石、象石、がま石、コラサー石、出船入船石、こもたたき石、
・ビク石登山道:古道:笹川から笹川十八石を経てビク石山頂へ、そしてビク石から瀬戸の谷へ下れるルートである。現在はハイキングコースとして利用されている。一部は古道のままではなく道が付け替えられているようだが、およそ古道が現在でも利用されて保存されている好例であり、最も古道が残っている部分である。途中地蔵があるようだ。今回未調査。

 また来た道を戻り榎橋を渡り県道に戻る。100m県道を北上する。右奥に寺院がある。県道からの参道入口に墓石や石塔がある。
○石塔、墓石(新舟137₋1) 
 ・如来:墓石?、・萬霊塔、・墓石3:~信女、・墓石:~童子、・観音:墓石?、
○善能院(新舟271)  
 ・寺名碑:昭和六十三年、・如来、・観音、・地蔵、・観音?、・庚申供養塔、・祠:六地蔵、・薬師堂、・禁葷酒:寛政十二、・手洗石:、・臼、
 寺の裏山は朝日山城ハイキングコースで墓地で配水場でもある。裏山を100m進むと墓地手前に祠がある。
○祠:不動明王:天明元年(新舟271) 
 ・五輪塔、・献燈、・石塔、・丸石:二段重ね、
 県道を200m北上すると朝比奈川に架かる石上橋を渡り宮島の石上集落になる。更に県道を奥に目指す。石上橋から300m進むと左折し上に上っていく小道がある。50m上って右の小屋の先の奥に祠がある。
○祠:マラ地蔵(宮島、小丹原456⁻12)
 ・祠:マラ地蔵:一石に6組(多分男女で一組)の双体道祖神をレリーフ、横に男根石か?、丸石、8月7日の旧七夕に読経、この地域では七夕は8月7日、宮島小丹原457⁻8:前島氏奥さん談、
 県道に戻る。県道沿いに石碑がある。
○板碑:記念碑(宮島、小丹原522⁻6)
 記念碑から県道を400m進む。左に石碑があり、奥に大木が見える。
○大山祇神社(宮島、小丹原419⁻9)
 ・石道標:大山祇神社:県道沿い、・石鳥居:昭和三年、手洗石、・巨木3~5、・巨木切株、・大木5~6、
 県道に戻り30mで宮島橋であり渡ると宮島の板取集落である。橋を渡ってすぐの右家に祠があり、もう1軒先にもある。
○祠:神、・祠:石塔:紀伊国川中島八兵衛:明治四十四年(宮島、板取760)、
川中島八兵衛石塔は志太郡榛原郡に偏在していて、今の藤枝市、牧之原市、焼津市、島田市周辺に分布しているようだ。詳細は『大井川町史下巻』に書かれている。これは朝比奈街道沿いの最も奥にある物ではなかろうか。
県道を150m進むと左折し朝比奈川沿いに進む道を行くと朝比奈川を渡る田島沢橋があり、渡ると、左が民宿朝比奈で右が城山不動尊方向である。右に100m向かうと田島沢に架かる橋を渡る。沢に沿ってすぐ左折し、800m奥を目指す。
○成田山城山不動尊
・祠:姫祀り、
舗装林道沿いに祠がある。ここから沢に架かる橋を渡って城山に上る。15~20分登り山の中腹の平坦地に不動尊が祀られている。
・石碑:城山観世音菩薩、・羅星庵、・祠・祠:石塔、・献燈2:平成十八年、・祠:地蔵:小多数、・地蔵、・新:自然石大石&不動明王像、・新:献燈2、・新:祠4、・新:平家の石塚、・新:地蔵、・新:源氏の石塚、
○城山:宮島城跡:△377.1m 
不動尊は城山中腹の標高200m前後と思われる。この山は名の通り中世山城跡であり、宮島城といい、山頂は標高377.1mである。不動尊より上に上る道らしきはないようだが、ここから上れると山頂は近いようだ。他ルートとしては新舟の榎橋近くの新舟330:村越氏宅裏から道があるようだが、村越氏の話では途中から藪になり道は不明確だろうとのこと。また宮島の石上343村越氏宅横からも道があるようだが、付近住民によると道はないらしい。また岩瀧不動尊お堂の裏から上ればとも考えられるが、お堂の裏に道はない。せっかく中世山城があるのに行く道がないのはもったいない話だ。道を付けるとよいのだが。

また元来た朝比奈川沿いの県道に戻る。県道を300m北へ進むと寺院の参道入口になる。
○清養寺:
 ・寺名碑:昭和五十三年、・奉納西國三拾三所供養:文政七、・奉納西國秩父當國観世音菩薩:文政九、・善光寺詣供養塔:明治十五年、・三界萬霊等:昭和五十□□、・馬頭:明治二十一年、・馬頭:明治廿年、・観音堂、・小坊主地蔵、・四角石の碑、・水子地蔵、・六地蔵、・石、・庚申塔:昭和□四□、・庚申塔:見聞言ザルレリーフ、・丸石、・秋葉山常夜燈:文政九、
 寺参道入口にはまた石道標があり、そこから寺参道の南とは逆に北へ行く山道歩道がある。
○石道標:朝比奈街道 南藁科村ニ通ズ 御大典記念昭和二 宮島
 多分小園地蔵前を通過し、西又または野田沢峠越えで静岡市藁科地区へ出る道を示していたようだ。確かに現在でも小園地蔵前から自動車で西又や野田沢越えで藁科に出られる。
○古道:清養寺←→小園地蔵:距離500m、標高差50m
この山道歩道は距離500m、標高差50mを歩いて西又への道への途中の小園の地蔵がある所に出られる道である。十数年前に歩いたときはもっと道が綺麗だった。今回は歩いていないが、出入口の二カ所を見た所でも状態が劣化していると感じた。この朝比奈街道中、最も現在の街道から近い所で古道の状態を保った道が500mほどの距離で残存していると拝見する。この古道部分を失えばもはや朝比奈街道の古道は絶滅に近いだろう。この道は何とかして保存してもらえないだろうか。今回この朝比奈街道を調べブログへアップしたのも、この古道部分がどうなったか気になったので、調べたようなもので、保存を呼びかけたかったからである。もはや朝比奈街道の古道部分は消滅寸前である。

県道を150m進むと柚ノ木橋があり渡り、更に300m進むと小園橋がある。橋手前の公民館に常夜燈がある。
○秋葉山常夜燈:自然石、・丸石(宮島、小園91⁻1) 
 小園橋を渡る。県道は左折するが、西又への道で集落奥に向かう道を100m進むと左にお堂がある。
○芙蓉庵(宮島小園1393)  
 ・瑠璃光山芙蓉庵薬師堂、・寺名碑:瑠璃光山:2m:文政四、・観音、・奉百番観世音菩薩、・如来、・石塔、・台座等、・○○奉供養(美良)青面金剛大菩薩:嘉永元戊申八月、・庚申供養塔:明和四丁、・自然石、・手洗石、
 集落奥への道を更に100m沢沿いに奥に進む。右に橋があり鳥居が見える。
○日吉神社(宮島、小園1383) 
・石垣、・木鳥居、・石祠、・大木5~6、
 神社前の狭い農道を奥に詰めていく。

 ・古道:小園の日吉神社横農道から玉取沢への道:両方とも取付きは農道で人家がある。途中から鎌道のようだが、現在でもしっかりあるかどうかは未確認。
 現在はもっと西の朝比奈川本流沿いの近又、谷倉に県道が通過しているが、昔は本流沿いに道を作りにくく、東の小園と玉取沢を結ぶ峠越え道を主要街道にして利用したのだろう。


 西又へ進む県道静岡朝比奈藤枝線へ戻り、西又方面へ800m進む。石塔や祠がある。
○小園の延命地蔵尊
・説明:この地蔵尊は地元では「峠のお地蔵さん」と呼ばれ、昔から多くの人たちに親しまれてきた。いつ頃ここに祀られたか不明だが、駿河の国百地蔵の18番札所の延命地蔵尊として、今もなお多くの参拝者が訪れる。向かって右側の地蔵が初代のもので左の地蔵は昭和5年に建立され毎年9月13日には老師により法要が営まれる。そして百地蔵にはそれぞれ歌が詠まれている。「ひとすじ(一筋)に も(漏)らさで すく(掬)ふ ぐわん(願)なれば すく(救)いたまえや 南無地蔵尊」 この他岡部町内には16番「坂下の延命地蔵尊」、17番「光泰寺の地蔵菩薩」、19番「新舟の十四地蔵尊」がある。平成16年。
・祠:駿河一國百地蔵尊第十八番:地蔵4:昭和五年、昭和四十五年、・石塔、・手洗石、・秩父三拾四所供養塔:文化十年、
地蔵の裏から峠下に下って清養寺前に出る山道がある。古道で距離500m、標高差50mである。

~西又~
県道を50m進むと右に下っていく道もある。直進すると西又で、右へは岡部のリサイクル工場を経て野田沢や殿方面に行く道である。西又へ進む。
 1.3㎞進むと小さい境橋があって藤枝市と静岡市の境界線になる。静岡市には一転すぐ右の工場に燈籠がある。
・自然石燈籠(静岡市西又1955) 
 県道を600m進むと西又集落の中心的四つ辻に出る。
 2軒手前に戻り石段を上ると神社がある。
○八幡神社(静岡市西又1977) 
 ・自然石2:二段重ね、・石段、・社殿、・祠、・サワガニ:石段に棲息、
また四辻に行き左折(北)し100m進むと右に西又公民館がある。この道向かいの左に堂がある。
○堂:三十三観音(静岡市西又2053) 
 ・欠番:1,3,22,33番の4体で、29体があり、見事なものである。
○弓折峠(静岡市西又と玉取沢の閒) 
 公民館前の道を奥に1㎞進むと自動車は進めなくなるが、300m歩いて峠に行く道がある。
 峠は1990年頃は茶畑だったが2002年には植林地になっていた。そして弓折峠からダイラボウに上る登山道もあったが現在はどうなっているか不明だ。
 弓折峠は西又と玉取沢を結ぶ峠道である。以前2回上ったが特に遺物類はなかった。

 また西又の四辻に戻り南に50m進む。堂がある。
○地蔵堂:地蔵(静岡市西又2050) 
 ・庚申塔:天保九年戊戌十一月吉日、・観音:文政元寅年十二月吉日、・善光寺供養:明治二十二年、庚申供養塔:安永八年、・○庚申塔:昭和五十五年、
 県道に戻り静岡市街方面へ進むと西又峠を越える。特に遺物類はなくダイラボウ登山口標識がある。県道のこの先は藁科である。
 *西又の33観音、地蔵堂、八幡神社について教えて下さった西又1977:斉藤氏奥さんに感謝いたします。


~宮島、小園に戻る~
 小園橋袂から県道相俣岡部線を朝比奈川に沿って遡上する。
 芙蓉庵前から山際集落に沿って西に向かい県道に合流するのが旧道である。特に遺物類は見当たらなかった。小園橋から900mで近又橋に至る。手前右にどうも清水があるらしいが分からなかった。
○「ごとうの清水」
 未発見。
 橋手前のお宅にも丸石があった。
・丸石(玉取、近又30⁻1):松野氏宅  
 橋を渡る手前を右折し川に沿って進み、その奥の川の支流にどうも滝があるらしいが未発見。
○「近又三日滝」(玉取、近又51⁻2) 
 未発見。
 近又橋を渡る。正面に寺院が見える。
○西楽寺(玉取、近又116⁻1) 
 ・石段、・石塔、・献燈の竿部分、・常夜燈、・祠:地蔵、・庚申塔:明和六己年、
○青羽根への古道(玉取、近又116⁻1) 
 寺は山の尾根に取り付いた一段高い所に築かれており、その斜面の左側を青羽根への古道が通っている。その道は現在の青羽根への自動車道より一段高い所にあり、古道の下に新道が見える。ただし古道はこの裏の隣家:玉取153:入野氏宅で一旦おしまいのようだ。
 
寺の手前に保育園があり、園庭に像がある。
・二宮金次郎像:マキを背負い読書(玉取、近又121⁻1) 
 二宮金次郎のかつての学校での代表的な像であるが、残っているものは限定的なようだ。このまま保存する価値は十分だろう。

 メイン街道は橋を渡って右だが、ここは直進して青羽根を目指す。
~青羽根~~
 青羽根集落直前の自動車道沿いに石仏がある。
○馬頭観音2:明治十二年、-(青羽根、入口)  
 元は古道沿いにあったのだろうが、自動車道の集落入口に祀り直したのだろう。
集落に入り道を上がっていくと常夜燈がある。
○常夜燈:奉請秋葉大権現 天明五 青羽根村(青羽根716⁻1) 
 150m上っていくと板碑がある。
○石塔類(青羽根772)  
・板碑:久志之光、・新:献燈、・手洗石、・石柱2
 さらに100m上っていくと石仏がある。
○石仏:地蔵、小五輪塔2(青羽根754) 
 50m上り神社やハイキングコースがある方へ進む。
○新四国八十八カ所観音堂(青羽根997) 
 ・観音堂:八十八観音、・?庚申塔、・馬頭2:顔破損、-、・庚申供養塔:宝暦七年、・手洗石:天保十三、・観音:聖観世音第二十一番、
 30m進んで右のパノラマハイキングコースの道を100m進む。神社がある。
○大井神社(青羽根981)  
 ・説明:駿河国益津郡朝比奈青羽根村に居住していた佛弟子の藤原朝臣永泰の寄進に依り建立。応仁元年亥年10月25日、願主藤原二良右衛門に依り建立、大工松山子宣。宝暦六年丙子8月、再建、神官諏訪丹波守、大工藤枝宿仁兵衛により建てられる。元治元年甲子8月27日再建。昭和12年再建。
 ・説明:青羽根地区は寿永四1185年、平家滅亡で、氏族存続を願いこの地に隠れ住んだ人たちの集落といわれる。仲本、村上、京、羽山、永井二家、清水の七家が集落の起源で青羽根七人衆と云われ、現在でもその子孫が家系を継承している。この大井神社は集落の護り神として青羽根村に居住していた仏弟子の藤原朝臣永泰の寄進により、応仁元1467年願主の藤原二郎衛門によって修造され、今でもその時の棟札が保存されている。その後3回ほど修造され、現在の建物は昭和12年に修造されたものである。また御神木の大杉は推定樹齢700年以上、根回り8m、樹高28mで市指定天然記念物である。志太の朝比奈村誌より。平成16年。
・木鳥居、・献燈2:安永五、・石祠2、・手洗石:大正元年、・献燈2:平成二十二年、・和合の樹、・大スギ:根回り8m、目通り5.4m、樹高28m、根張り25m
○パノラマハイキングコースにあるもの
・長塚石、・マンガン鉱山跡:採掘洞窟:すでに落盤で崩壊、・長塚峠、・麦地峠、
 青羽根と市之瀬の境界尾根の峠に進む。かつての旧岡部町と旧藤枝市の境界線であった峠である。かつて「コスモス峠」という標識を見たことがあるが、正式名とは思えない。なんという峠名であろうか? 石仏もある。
○峠:?コスモス峠:青羽根と市之瀬の間
 ・石仏3:馬頭1、地蔵1、?1、
 この尾根の南は藤枝市の市民の森△464mとなり、手前に駿河峰△489.9mがあり、市民の森の南にはビク石山△526mがある。

~~~
青羽根を終了して、県道の近又に戻る。玉取沢方向を目指す。600m進むと右に石塔がある。
○石塔類(玉取、近又351⁻1) 
 ・庚申塔□永五□歳、・常夜燈:自然石、・?馬頭、・手洗石:内側ひょうたん型、・丸石、・花生け台2、

~谷倉~~
 250m進むと落合橋に達し、谷倉集落となる。県道相俣岡部線は直進だが、左折し谷倉沢に沿って500m進むと右に寺院がある。
○梅窓寺(玉取、谷倉1328) 
 ・地蔵、・石段、・○庚申塔:大正三年、・献燈、・六地蔵+観音:座、・石塔、・西國三十三処當國三十三処、・奉供養西國三拾三所観世音菩薩、・丸石4、・丸石:お供え餅風三重、・へそ石、・石祠、・手洗石:文化十四、
 さらに30m進むと左に祠がある。
○祠:神、・献燈2:昭和四年、・手洗石(玉取、谷倉160⁻1) 
 70m進むと左に橋があり、その向こうにかつて畑地があったようだが荒れかかっているようだ。地元の人の話だと畑に八幡神社の祠が祀られているそうだが、探したが見つからなかった。
○?祠:八幡神社(玉取、谷倉1265₋2) 
 未発見。
 さらに奥に150m進むと右に石塔類がある。
○石塔類(玉取、谷倉1170⁻4) 
 ・庚申塔:大正三年、・庚申塔:明治八年、・常夜燈:自然石、
 この奥は谷倉沢渓谷と呼ばれるようだ。結構奥まで人家があるようだが、古道遺物類は人家がある範囲内では見つからなかった。
 
~~~
落合橋まで戻る。
谷倉集落でも各家に丸石がある。
県道を200m進む。左は地域活性化センターであり、石造物がある。
○石造物(玉取、谷倉1476⁻1) 
 ・秋葉山常夜燈:天保九:2.5m、・丸石3、・自然石:多、・新:地蔵2:頭でかくかわいい、・たまいし様、たまゆら、
 この裏に神社がある。
○神明神社(玉取、谷倉1512) 
 ・石段、・石鳥居、・石垣、・スギの大木、・他大木、
 県道に戻り150m進む。
○石塔類
 ・祠:地蔵、・庚申塔、・献燈:自然石と金属加工の燭台、
600m進むと沢口橋手前で玉取沢右折する。

~玉取沢へ~~
180m進むと右に石塔類がある。
○石塔類
 ・○庚申塔、・献燈、・花生け台2、
 なおも奥に350m進む。
○天狗の手洗い鉢(玉取沢1907) 
 ・場所がはっきりしないが?多分沢崎氏宅の裏に手洗石が置かれていたようだ。
 ・説明版:昔法印さんを慕っていた天狗がいた。夜になると天狗は法印さんの墓に植えた大きな松の木の杖に来ては、毎晩のように太鼓を鳴らしたり、笛を吹いたりして、大変にぎやかに過ごしていた。しかしいつの間にか庄園どんの爺さん以外には声や音は聞こえても天狗の姿は見えなくなった。あまりの不思議さに近所の人たちが「そんなバカなことがあるか。」と言いあっていた。それを耳にした天狗は「それなら証に珍しいものを持ってきてやるか」と爺さんを一緒に雲に乗せて連れて行き、京都から一夜のうちに持ち帰ったのが、この手洗い鉢だという。朝比奈第一小学校編「あさひな」より、平成16年。
 この玉取沢から南に入っていき峠越えすると南の小園へ抜ける古道があるようだ。ゼンリン住宅地図では細線で記入されているので道型は残存しているかもしれないが未確認。
 玉取沢を東奥に詰めると自動車では行き止まりだが、歩いて西又へ抜ける弓折れ峠に至る。
○弓折峠
 ・西又の項目で前述している。付加すると、この山道はいまだに自動車道ではなく古道形態を残存していると言える。
~~~
 県道相俣岡部線の沢口橋に戻る。
400m進むと山中(富厚里)への分岐点で、すぐ先の橋は境橋で藤枝市(旧岡部町、旧志太郡)と静岡市(旧安倍郡)の境界線である。朝比奈川を詰めると静岡市になるというのは何だか変な気がするが、志太郡と安倍郡の境なのだ。ここに石道標がある。
○石道標:御大典記念 朝比奈街道 南岡部町方面 北小布杉三野ヲ経テ川根ニ通ズ 東山中峠ヲ経テ藁科ニ通ズ 
 ~~~
分岐点から右折(東)し600m山中集落、静岡市街方面へ進む。山中集落のお茶工場隣の山中集会所の横に石塔類がある。
○石塔(静岡市小布杉、山中2613) 
 ・観音、・庚申:見聞言ザルレリーフ、・石塔、・一石三観音、・観音、・石塔、・地蔵、・新:献燈、・石仏、
 300m進むと右上に鳥居がある。
○神社(静岡市小布杉、山中2346) 
 ・金属鳥居、・本殿、
 このすぐ上の御宅横からかつては中学生の通学路になっていた古道が峠まであった。
○古道:古い通学路(静岡市小布杉、山中2672) 
 40年程前までは中学生の通学路としても使われていたが、新道:自動車道が整備されて使われなくなったし、自動車道の下で沢沿いで、かなり崩壊したと思われるが、残存していれば価値ある古道と言える。富厚里峠から富厚里側に1㎞下るまでも古道があった。
 山中の神社から自動車道で1.1㎞で峠である。
○富厚里峠(山中峠) 
 ・祠:地蔵4、小地蔵12、・手洗石:大正三年、・奉納西國三拾三所巡拝供養塔:大正十四年、・開通記念碑:昭和四十六年、

 峠の山中側少し手前に林道が分岐しダイラボウまで行くことができる。ダイラボウ山頂すぐ横の林道頂点には石碑がある。
・開通記念碑:平成16年3月
・ダイラボウ山頂: 
 ・説明:昔「大らぼう」という大男がいた。富士山をつくると言って琵琶湖の土を大きなもっこに入れて運んだ。大男は富厚里山の上から水見色の高山へと一跨ぎに歩いた。その時の足跡があるので「だいらぼう」と名付けられた。木枯らしの森と下流の舟山はその時もっこからこぼれ落ちてできたものだという。中藁科小学校郷土研究クラブ。
 ~~~
 山中と小布杉との分岐点のある境橋まで戻る。ちょうど藤枝市:志太郡と静岡市:安倍郡の境界線で境橋となっている。境橋から上流を目指す。朝比奈川の左岸:東側の道を上っていく。道のある川東側が静岡市で川西側が藤枝市である。川が境界線である。
 境橋から300m上っていくと右に石塔がある。
○石塔類(静岡市小布杉1591⁻3) 
 ・庚申塔、・庚申:安永三、・観音、
 また300m上っていくと左に祠がある。
○祠:地蔵(静岡市小布杉1661) 、
 さらに200~25m上っていくと右に石仏がある。
○地蔵(静岡市小布杉1697) 
 また400~450m上っていくと、静岡市立中藁科小学校小布杉分校がある。その手前に堂や祠がある。
○堂:弘法大師、祠:六地蔵、観音4(静岡市小布杉1756) 、
 ・堂:弘法大師、祠:六地蔵、観音4:當國三十三所供養塔、・奉納當國三拾三所供養塔:文化五辰十月吉日、・秩父三十四番観世音菩薩、・手洗石、
 分校裏手右(南)の斜面中腹にに平戸神社があるが、地元の人に行き方を聞かないと分からない。県道沿いの茶畑からも行けるようだが標識がないので分からない。
○平戸神社(静岡市小布杉1062) 
 ・本殿拝殿、・石垣、・金属鳥居、
 分校から700m奥に詰めるとY字路に至る。右は富沢方面で左は三ツ野(三ヶ野)である。ここに石塔類がある。
○石塔類(静岡市小布杉1185) 
 ・丸石、・西國三拾三所、・善光寺供養塔:明治、・庚申塔:明治四十一年、・庚申塔:レリーフ:文化九壬申年:1812、・庚申塔:昭和五十五年、・金属献燈:平成六年、・石塔、・當國三十三所、
○石道標(静岡市小布杉1697) 
 ・石道標:御大典紀念 朝比奈街道 南岡部町方面 右富沢相俣川根方面 左三野ヲ経テ舟ヶ久保?
 左の三野へ1.3㎞進む。右に神社がある。
○白髭神社(静岡市小布杉、三野300) 
 ・木鳥居、・手洗石、・石段、・献燈2:昭和十年、・大木1、・大岩多数:神社裏:まるで磐座のようだ、
 250m奥に進む。右に寺院がある。
○梅林寺バイリンジ(静岡市小布杉、三野319) 
 ・観音、・西國、・西國三拾三所供養塔:天保二、・観音、・西國供養塔、・當國三拾三所供養塔、・善光寺如来:文化、・奉納西國三十三所供養塔、・「善光寺」(観音)文政元、・善光寺如来當國三十三所:文久元酉、・庚申塔:昭和五十五年、
 これより奥に詰めると道がなくなるが、30年ほど前、この奥から歩いて大鈴山の南尾根の林道に出て大鈴山に上ったことがある。さらにそこから清笹峠へ歩いて抜けられた。その先の笹間峠までも歩けた。ちょうど前記の石道標のように清笹峠を経れば舟ヶ久保や笹間へ出られたはずだ。

・発電所貯水槽跡:
~~~
 さて三野と富沢方面への分岐点のY字路まで戻る。今度は右の富沢方面道を進む。600m進むと小布杉最後の人家前(小布杉1303₋2:森氏宅)を通過する。更に250m進むと富沢へは右の道となり左は行き止まり林道になる。この左の行き止まり林道は後で紹介する。右の富沢方面へ進む。この道は林道富沢小布杉線となっている。行き止まり林道側が県道相俣岡部線である。1㎞進むと峠に到達する。ここに祠がある。
○祠:地蔵類(静岡市小布杉) 
 ・祠:峠の地蔵尊:大正九、・祠:交通観音、・猪獣類諸霊位塔、・開通記念碑2:昭和六十一年、大久保山横峰林道:平成三年、
○峠:小布杉と相俣の間:未開通県道、一本杉、石仏2(静岡市小布杉) 
 この峠から北東への尾根を歩いて300m、標高差30mで富沢の頭に至る山頂から真西に標高差50m、距離250m歩くと、小布杉と相俣の間の峠に至る。
一般的には未開通県道と云われる。というのも昔は人が歩く道でも県道として認定されていたが、その後自動車道として整備されず、別ルートで自動車道が開通し、峠付近は廃道になってしまったからである。
 小布杉側からの古道は推定されるに、先ほどの人家の(小布杉1303₋2:森氏宅)前から沢沿いに茶畑を詰め、植林地を上り、先ほどの行き止まり林道に出て、林道横の雑草だらけの崖をよじ登っていくことになるようだが、すでに20年前にも道跡は分からない。20年前には行き止まり林道を600mほど詰めて、右の林道の2mほどの雑草だらけの崖に取り付いて上ると、山道歩道の古道に出られた。急斜面の切通しの山道を100mも上ると、平坦なこの峠に出られるはずだったが、今は行き止まり林道自体が舗装されていてもぐちゃぐちゃの廃道で何が何だか分からない。また反対側の相俣側の行き止まり林道は舗装されていても廃道化している。それでも舗装路を進むと、舗装が切れて土道になる所が橋であり、この橋を渡って左の沢沿いの右に山道がかつてはついていたが、4月末にはうっそうと雑草が茂り行く手を阻んでいた。探索するなら冬場でしょう。かつても冬に上ったはずだ。ただ沢沿いに上りだし、しばらくして沢を左に渡るはずなのだが、これも標識なく迷い迷いだったはずで、20年以上経った今となっては、もっと悲惨だろうと思う。それでもこの峠道を紹介するのは、この山道が朝比奈街道の周辺部を含めて、数少ない古道残存部と考えられるからである。今となっては朝比奈街道中、わずかに残った貴重な古道である。もはや朝比奈街道の古道が全滅寸前な中で文化財級である。
 この峠にはい石仏等がある。
・地蔵2:・朝比奈□□□三元恵十土 安永二□午八月日 村□□□□□□、・明治四十三年七月大森昇一連之 
 30年前、20年前ともにこの峠の地蔵は小さいものが1体だけだったはずで、2体あるということは、それ以後増えたということである。今回周辺入口は廃道だが、この峠を見る限り5年前あるいは10年前には近くの小布杉分校の遠足コースだったようで、壊れかけた手作り標識が設置されていた。
 峠の東に不気味な枝ぶりの巨木が目についた。
・一本杉:地蔵の25m東、
 付近の壊れた標識からすると「一本杉」というようだ。
 なお一本杉のさらに東30m地点に切通しがあり、峠のようだ。


☆朝比奈街道沿いの古道について 
 朝比奈街道の古道残存部はメインルートではすでに消滅しているが、枝道の支線部分で残存している。といってもわずかばかりである。それは以下である。
1 羽佐間の古道:伏見氏宅前のわずか数メートルだけであるが、朝比奈川まで下れる道を整備し直すと玉露の里までつながるというのがよさそうだ。
2 清養寺から小園地蔵の閒:一応メインルートすぐ横から出ていて西又や野田沢、小園の分岐点の地蔵に出られて歴史を彷彿とさせる。保存価値が高い。
3 弓折峠の道:西又と玉取沢を結んでいる。
4 小布杉と相俣の峠道:未開通県道、小布杉側と相俣側どちらの林道の取付点も廃道同然で入りにくい。草刈と標識設置が望まれる。地蔵2体と一本杉が峠らしさを醸し出す。
5 古道:桂島の観音下から葉梨の北方への山道。
国土地理院地形図では点線記入されているが現在あるかどうかは未確認。北方と桂島境の峠手前500mは一部農道ルートのようだ。
6 ビク石登山道:古道:笹川から笹川十八石を経てビク石山頂へ、そしてビク石から瀬戸の谷へ下れるルートである。現在はハイキングコースとして利用されている。一部は古道のままではなく道が付け替えられているようだが、およそ古道が現在でも利用されて保存されている好例であり、最も古道が残っている部分である。
 朝比奈街道中最も利用され今後も保存されるだろう最高に保存度の高い古道である。
7 古道:小園の神社横農道から玉取沢への道:両方とも取付きは農道で人家がある。途中から鎌道のようだが、現在でもしっかりあるかどうかは未確認。
 現在はもっと西の朝比奈川本流沿いの近又、谷倉に県道が通過しているが、昔は本流沿いに道を作りにくく、東の小園と玉取沢を結ぶ峠越え道を主要街道にして利用したのだろう。
8 古道そのものは拡幅されてないが、焼津市越後島から藤枝市下当間、横内、仮宿周辺にはまだ古道の趣を残す風情が残っている。

 もはや以上の部分ぐらいしか朝比奈街道のメインルートではないにしても支線の古道が残存していない。消滅は時間の問題だろう。
 古道沿いの石塔類に関しては豊富である。各集落が積極的に合祀して残してきたのだろう。素晴らしいほど豊富な馬頭観音、庚申塔、馬蹄石、丸石、常夜燈、地蔵が残されている。ただし刻字に関しては読めないものが多くなっている。どんどん劣化していると言える。これでは石が早々にボロボロになりそうだ。おそらく酸性雨、急激な降水量、PM2.5、異常高温な真夏日の多さといった人為的で急激な気候変動が石塔を痛めつけるのだろう。

・あとがき
 朝比奈川沿いに石仏が多いことは30年前から通りかかるたびに思っていた。20年ほど前、佐野敏郎氏の本「古道の石仏」を見て、いつか朝比奈川沿いの石仏をこのようにまとめたいという思いを抱いたことが、今回曲がりなりにも実現できてほっとした。しかし石仏の刻字はかなり読めなくなっていて、もっと早くやるべきだったという後悔もある。
 朝比奈川沿いは石仏と古道でもっと観光化できるだろう。

○付録 
・参拝の仕方 
神社に貼られていた「参拝の仕方」を紹介する。
本当は地域性などで統一された方法や回数はないはずだが、昨今有名神社のやり方が全国的にマニュアルとして幅を利かせているようだ。どうもそのやり方のようだ。 
 参拝の仕方:
1 拝殿の前に立ち、最初に軽く会釈をする。
2 賽銭を奉納し、鈴を鳴らす。
3 祭神に向かい2回深く拝礼をする。(二礼)
4 次に両手の指先を合わせる。続いて右指先を少しずらして2回拍手をする。(二拍手)
右指先を元に戻し、左右の手のひらを合わせて祈願する。
5 祈願が済んだら両手を下げ、深く拝礼する。(一礼)
  最後に軽く会釈をして下がる。
*この拝礼は一般的なもので、神社により異なる場合がある。出雲大社は4拍手だそうだ。

・六地蔵:wikipediaより 
 地蔵菩薩を6体祀ったもので、仏教の六道輪廻の思想から来る。全ての命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すというものである。
1 地獄道:檀陀地蔵(金剛願地蔵)、
2 餓鬼道:宝珠地蔵(金剛宝地蔵)、
3 畜生道:宝印地蔵(金剛悲地蔵)、
4 修羅道:持地地蔵(金剛幢地蔵)、
5 人道:除蓋障地蔵(放光王地蔵)、
6 天道:日光地蔵(預天賀地蔵)
の順になるが、名称は一定しない。持物と呼称も統一されていない。


・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年



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朝比奈街道(静岡県焼津市、藤枝市、静岡市)
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