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2020年05月09日

麻機街道(静岡市葵区宮ヶ崎町浅間神社←→北)

麻機街道(静岡市葵区宮ヶ崎町浅間神社←→北)  
 麻機街道は浅間神社前から麻機(北)までの約7km区間の道である。浅間神社近辺の紹介から街道沿い、麻端の沼周辺一帯を紹介する。
・浅間神社(宮ヶ崎町) 
 静岡市最大の神社にして文化財も多い。実はいくつかの神社の総合体である。文化財資料館もあり、市の歴史を一望できる。裏山には古墳もある。保存状態のよい石造物は多数存在する。そして浅間神社前の水路を流れる水は北を向いて流れていく。海は南なのに北の麻機を水は目指すのだ。
・小安観世音(西草深町23番地―5) 
 浅間神社手前になるが、ちょうど麻機街道が分岐しだす所にある。ビルの2階に祀られている。
・西草深公園(西草深町27番地) 
 名のある武家の屋敷跡である。
・石鳥居(西草深町と浅間町の境、長谷通り起点) 
 浅間神社南の浅間通り先の中町交差点前にある赤い鳥居を赤鳥居と言い、神社東の長谷通り起点の石造りの鳥居を石鳥居と言う。
・しき化粧品店、志貴氏宅(浅間町1丁目36) 
 長谷通りを50m入ると、左にしき化粧品店がある。志貴氏は浅間神社の神主の家柄である。
・天神湯(浅間町1丁目29)  
 もう50m進むと左に銭湯がある。
・若宮八幡宮、巨木(浅間町1丁目) 
 先のしき化粧品店や天神湯の北側にある。入口は天神湯先を左折し5軒ほど先をまた左折するとある。古くから巨木として知られていた。
・東雲神社(丸山町13)  
 浅間神社すぐ北の賎機山斜面にある。数年前に火災後の復興がなったばかりだ。その北隣にはかつて喜久屋割烹があり、庭が見事だった。
・安西寺(丸山町23)、日切地蔵尊 
 北に100m行くと左に安西寺参道入口となる。石塔類。この寺前を南北に走る路地がもしかすると旧麻機街道かもしれぬ。
・地蔵堂か観音堂(丸山町) 
 丸山町バス停近くにある。
・静岡高校、旧制静岡中学(長谷町) 
 丸山町の麻機街道から東へ300m。県内最古の旧制中学から続く高校。
・松源寺(大岩本町26-1) 
 安西寺の北50mに松源寺がある。石塔類。七夕豪雨による土砂崩れ被害者の供養塔もある。
・富春院(大岩本町26-23) 
 石塔類。静岡の名付け親の中村尚志の「尚志の碑」が門前にある。
静岡の名の由来は、中村が考えた。静岡は府中という名で徳川幕府の代官領だったが、それでは明治新政府に不忠のようなので新しい名を付けようとした。ヒントは浅間神社の裏山の賎機山から付けた。賎機山を別名:賎ヶ丘とも呼んだ。賎では賤しい賊に似ているので静に変え、ヶを削り、丘を岡に変えて「静岡」の名ができた。
・城北公園、旧静岡大学跡地、旧制静岡高校跡地(大岩本町29)  
 今は市民憩いの場で市立図書館もある。かつては国立静岡大学があり、戦前の旧制高校からこの場所だったが、今は駿河区小鹿に移転した。かつてはこの界隈は学生街で学生下宿も多かったが、今はその雰囲気は一掃された。公園北東端に記念碑が建立されている。なお公園北側に今は静岡大学付属の幼稚園と特別支援学校があるのは、もともと静大の土地だからだ。
・臨済寺(大岩町7)  
 今川義元の墓、石塔類。かつては雪斎(今川義元の軍師、徳川家康の教師)を輩出するなどした。今も僧侶の修行寺のため観光用に解放しない。寺内の開放は限られている。
 城北公園向かいの大岩交番前から麻機街道を左に分岐し参道が伸びてくるが、これが旧街道かと思う。寺前で右折し今の街道の左を平行して北上する細い道が旧街道に近い道だろう。ただ細くともまっすぐなので曲がりくねった古道は区画整理され直してまっすぐな新道になったのだろう。古道そのものの残存部はほぼ見当たらないと見たほうがよい。
・賎機山城跡  
 臨済寺裏山が賎機山城本丸である。駿府公園(駿府城跡)にあった今川館の詰めの城で市内防衛の拠点である。付近に堀切、土塁、記念碑がみられる。
・天徳院(大岩3丁目30)  
 臨済寺から1kmで天徳院である。石塔類(「禁葷酒…」「奉順礼善光寺…」、地蔵、延命地蔵、石塔)。
・天神社(大岩3丁目30)  
 天徳院隣にある。創建不明だが、大岩天神といわれかなり古くからあるようだ。
・大岩公民館、石塔類(大岩4丁目35)  
 バイパス手前にある。庚申塔2基、石塔2基、地蔵がある。付近に馬頭観音も祀られている。この近辺はバイパス工事による区画整理で古い道はほぼ付け替えられている。
strong>・池ヶ谷のトーツバキ(池ヶ谷150) 
 橋本耕一氏所有。静岡県指定天然記念物。樹周囲55cm、樹高7m、樹齢推定200年。しかしすでに橋本氏宅と樹もなく、11年4月に新興住宅地となっている。
・桂林寺(池ヶ谷字西ノ谷153) 
 石塔類5基(「庚申塔」「庚申供養塔」、地蔵、他)、六地蔵。開創寛永2年。本尊:11面観世音菩薩。
・天満宮(池ヶ谷47) 
 例祭日:10月16日。棟札:安永5年。山の中腹で農道を上っていくのがよい。
・荒神社(池ヶ谷枇杷沢141) 
 天保5年再建。
<・石塔、墓地(唐瀬1丁目、谷久保) 
 バイパス高架下から500mである。墓石以外に石塔類もある。「庚申供養塔」「庚申塔 善光寺供養塔 大正十年」8基。
・石道標(唐瀬3丁目) 
 街道沿いの家の横に建っている。自然石の左側に刻字「マツドミニ至ル」。楷書でカタカナ表記されている。近代のものだろう。賎機山越えで松富に出られることを示している。 裏山を少し上ると子育て地蔵がある。
・神明宮(唐瀬3丁目、時ヶ谷、南645) 
 街道すぐ横山斜面上。時ヶ谷バス停近く。例祭日:10月16日。文政5年再建。手洗石「明治三年」。
・春日神社(南405、唐瀬) 
 元亀年間創建。文化14年再建。
・御岳神社(南2632-2、深山) 
 例祭日:10月23日。元禄13年再建。
・麻機遊水池(芝原) 
 かつての麻機沼そのものではないにせよ、一応沼として残っている所である。沼の婆さんの伝説もある。ただ川が氾濫するとこの一帯は沼と化す。かつて沼と化した道路の上を魚が泳ぎまわるのを見たし、水が引くと、田の片隅に魚がうじゃうじゃ集まってもいたが、最近は災害対策が進みひどい氾濫が減った。遊水池周辺では伝統の柴上げ漁が行われることがある。
 遊水池は一部グラウンドになり、スポーツが行われる。遊歩道もあり、ビオトープのようになっている。植物や昆虫の宝庫である。
周辺は現在でも湿地帯に近いが、大正期ごろまでは本物の湿地帯で鹿などもいたようだし、舟で通行できた。縄文期までは海の入り江にして干潟の湿地であった。海抜高度も低いので、浅間神社前の水路の水が、この沼目指して下ってくるのだ。巴川の流れはかつての入り江の名残である。
・伝説『沼の婆さん』 
 南北朝期、おそらく安倍手越河原の戦いの頃だろう。南朝方の統領:新田義貞の弟:脇屋儀助が、麻機に陣どった。そこの家の娘と仲がよくなった。儀助は戦いのためこの地を離れたが、娘は儀助の子を産んだ。女の子であった。娘は産後のひだちがよくなく、ほどなく亡くなった。その家の婆さまが孫娘を育てた。孫娘はすくすく育ったが、婆さまは病にかかった。婆さまの容態を心配した孫娘は、浅間神社への連日のお参りを決意し、沼を舟で渡り浅間神社へお参りした。沼には魔物(河童)がいるといわれていた。満願になるその日、孫娘を乗せた舟に魔物が襲いかかり、孫娘を沼に引きずり込んだ。婆さまは悲しみ怒りに燃え、魔物に復讐を誓い沼に入水した。沼は荒れ狂い、龍に化身した婆さまと魔物の戦いがくりひろげられた。ほどなく沼は静かになり、魔物はいなくなった。そして沼に蓮の花が咲くのだった。この蓮が麻機名物:麻機蓮根のはじまりだといわれる。
・旧街道(南、草葉バス停から谷津口バス停まで) 
 今の街道より1本山側の路地が旧街道かもしれない。
・石塔(南、谷津口バス停近く) 
 高架橋下の旧街道付近にある。「庚申供養塔」
・八幡宮(南1485、谷津口) 
 高架橋より2本先の路地左折。例祭日:10月16日。文政年間再建伝承。手洗石、常夜灯2基、大木。
・竹林寺(南字中村1824、中村バス停先左折) 
 石塔類「庚申供養文銘石 寛文六」「南無阿弥陀仏 寛保三」「坂道改修記念碑」、石塔。開創寛永2年。本尊:聖観世音菩薩。
・石塔(麻機小学校正門前) 
 3基(「庚申供養」2基、「順礼一国三十三所…」)
・聖楽寺(有永453、南、麻機小学校より2~3本先の道左折) 
 門前、六地蔵、庚申塔(青面金剛)、6基、板碑。
 観音堂境内、「庚申供養塔」、
開創享禄年前。本尊:聖観世音菩薩。
・大音寺廃寺跡(有永728)  

・大御戸神社(南、聖楽寺少し下左折、有永893) 
 力石「元禄十六癸未年三月吉日」重さ68.6kg。 例祭日:10月16日。創建不詳。再建享保11年。参道入口、「庚申」5基(「日本廻□供養塔」「奉巡礼□明供養塔」「□□供養塔文政」「庚申」、地蔵)、
・旧街道(有永、羽高) 
 現街道より1本山側に細く曲がりくねった道が出はじめる。旧街道の名残かもしれない。
・琴弾きの松(福成神社) 
 有永の裏山山頂。かつてこの周辺で楽音がしたという。この松は漁師のあて山になった。戦時中枯れた。賎機山最高地点。
・石塔(北78、消防分団) 
 破損した石塔「…神道」は、この先の神社への参道を示すのか。「庚申塔」、石仏。
・乾楽寺、羽高公会堂(羽高字久保232)  
 開創正保2年。本尊:木像阿弥陀如来像。5基(「庚申塔」「奉待鶏庚申」「…萬延元年…」石塔2基)、地蔵、常夜灯、六地蔵。
・津島(嶌)神社(羽高158、当目)  
 創建不詳。伝再建享保年間。例祭日:7月15日。常夜灯(「文久三」「明治十一」)、近代の石碑、イチイガシ、ナギの樹、イチョウ。
・桜峠への旧道(羽高、北、北五反田団地内を北上) 
 奥に詰めると今は藪となるが、かつては桜峠旧トンネル手前の県道に出られそこからその上の峠にも行けた。桜峠は今は鯨が池側から簡単に上れる。地蔵が祀られている。
・円光院(北) 
 家康が駿府に施楽院を設けたその跡地にできた寺である。かつては旧東海道沿いの久能街道分岐点辺りにあったようだ。今の横田・日の出・栄町辺りのようだ。火災や戦災により全焼、都市計画により寺域縮小、1970年麻機北に移転。この寺以外にも戦後かなりの寺が市中心部から移転した。特に移転先で集中しているのは市内長沼愛宕山霊園周辺が知られている。現代浪曲元祖武藤屋嘉兵衛の墓がある。寺の裏手にも別のいわれのあるものがあったようだが見つからない。本尊:阿弥陀如来、他に不動尊、阿弥陀如来立像、家康拝領薬研。
・麻機温泉(北) 

・滝の谷温泉センター(北) 
 
・石塔類(北、第二東名横)、旧・光明寺跡地? 
 開創不詳。中興正徳年中。本尊:石仏不動明王。
滝の谷温泉センターに向かう道をさらに奥に進むと第二東名の真横に着き、道は左右に分岐する。ここに今石塔が安置されている。この近辺にかつて山寺の跡があり、石垣もあったが、第二東名の下になってしまい消滅した。石塔類だけは付近のここに移転された。付近に滝がある。
この山寺及びこの上はかつて北沼上への峠道だったようだ。北沼上には麻機を示す石道標が2つある。峠には八幡神社のお堂があったが、近年お堂が取り壊されたようだ。北沼上の峠真下は完全な廃道で歩けない。
・霊仙寺跡地?(北769、谷津) 
 谷津トンネル手前の墓地である。石塔類「奉待鶏庚申」、他1基。かつて密教真言の寺でもっと東の峰、般若平という場所にあったという。本尊:阿弥陀如来、他に栗葉師:桜峠にあったという。開創不詳。中興天正19年。
・北浅間神社(北1762、道八ツ) 
 かつて山城があった場所らしいが、新興住宅地で残存部は消滅しただろう。
 石塔「奉崇庚申塔」、鰐口「天文3(1534)年」(静岡県文化財指定)。例祭日:10月16日。創建不詳。棟札修造慶長16年。板碑「紀元二千六百年」。入口左右の大石は石塔の残骸か。
・智徳院、麻機不動尊(北字大日前440) 
 開創正徳元年。本尊:最勝不動明王。石塔類。
・秋葉山常夜灯(北235)  
  「秋葉山常夜灯 文化五戊辰五月吉□日 當村中」1808.村の中心地に祀り秋葉神社方向を示していたようだ。
・板碑、神社(北223)  
 板碑の残骸、家型道祖神2基。入口に赤鳥居がある。
・瑞雲寺(北字中条277-1) 
 開創不詳。1957年喜相院と霊仙寺合併。本尊虚空蔵菩薩。石塔(「駿河一国三十三所…」)。地蔵。
・喜相院廃寺(北字中条276)…開創不詳。元亀2年中興。
・西光寺廃寺跡(垣ノ内) 

・石塔(県道 巴川の大橋橋袂、北357-1) 
「奉待庚申供養塔」、江戸期中期から後期かと思われる。

・岩崎家(東183) 
 堀と塀で囲まれかつての豪農の雰囲気を残す。沼の婆さんは岩崎家の先祖ということになるのだろうか。高松の岩崎氏によれば違うとのことだったが。
岩崎家の家がある場所より南には古い農家はなく、新興住宅地だけなので、かつてはこの辺りが沼と陸地の境だったのだろう。
・石塔(東111)
 「鳥獣供養塔」、地蔵、石塔。
・日加美神社(東123、天王山) 
 例祭日:10月17日。創建不詳。伝再建宝永年間。常夜灯、台石。
 神社南側に郷倉。
・東林寺(東字奥ノ谷1344) 
 開創:永享七(1435)年、開基:元亀二(1571)年、阿弥陀如来。六地蔵、水子地蔵、板碑、大師堂。
・石塔類(東222) 
 「葵 四月十四日 養塔」、他。破損がひどいが捨てずによく残してある。
・宇津木沢荒神山経塚遺跡(東) 

・鈴石天神(東、麻機配水池タンクや老人ホームから山へ上る農道の途中) 
 大岩の中に小石を入れると音が鳴ることから鈴石という。天神も祀られていたが日加美神社に合祀された。
・地蔵、大石(赤松、老人ホーム前) 
 地蔵はかつて、静岡北特別支援学校前の山の先端部上の旧道に安置されていたが、車道の拡幅により現在地に移転された。この地蔵は村外から病気を移す疫病神を退散させる目的で村の出入り口に置かれた。こういった風習はかつてよくあった。今の車道より上に旧道があったことも示唆している。
 この大石は「肥付石」というものかもしれない。触ると足や身体が腫れるといわれた。かつては山の中腹にあったが、下におろされたようだ。 
 ここは船着場といわれている。かつて広大な沼地でここが船着場の一つだったのだ。『沼の婆さん』の伝説でも、浅間神社へのお参りに舟が使われていたことが分かる。
・おたつ火(漆山西北、多分赤松 老人ホーム近辺)  
 昭和5~6年頃まで初夏の日暮れから1時間ほど赤色の火が動き回ったという。
・浄祐寺浄心苑、墓地(東) 
 新たに移転してきた墓地。とくに古い石塔類はない。
・馬頭観音(南沼上、薬師) 
 市営沼上霊園手前の水田のある農道沿いにある。2020年、西濃運輸の建物が立ち水田はすべて消失し、高さ30~50㎝の馬頭観音も見られない。
・馬頭観音(JUオートオークション裏、静岡制御㈱裏、南沼上1895-14山本氏宅前、福祉事業所ワーク薬師手前)
 立派な石像で、麻機や府中、江尻方向を示し、この付近に古道があったことを示している。
・馬頭観音:高70㎝、台座:高20㎝、「右    、左    」、刻字が読めない。上部欠損。

・諏訪神社(南沼上994) 通称:沼の婆さん 
 流通センター北でヘリポート南の小高い丘上にある。沼の婆さんを祀る。流通センター側から上れる。
〇石造物:
 ・「西国三十三所 奉順拝南無観世音菩薩 同行當村 文化十癸酉年四月吉日供養川合村 (村民氏名多数)」1813、 ・石段、 ・石鳥居:刻字不明、 ・コンクリ家形道祖神、 ・石灯籠2:「奉納諏訪大明神御廟前 當村中 安政四巳年三月日」1857、 ・石灯籠2:刻字不明、 ・手洗石:「願主南  享保元 十一月日」1716、 ・手洗石:近代:刻字不明、 ・桜ソメイヨシノ2本大木見事。
・古道: 神社前参道を西に進み尾根道を伝っていくと、まず左(北)に分岐する道があり、沼上清掃工場南のグラウンドと畑のある所に出られる。先ほどの分岐点に戻り、さらに西進するとまた左右にY字分岐する。左(北)に進むと、石塔類が見え中坂峠に出られる。
またY字分岐に戻り右道(西)を進むと分岐尾根を東から西に進んだ道が主尾根に突き当たり、山道が南に曲がり進む。西下には流通センター工場街が展望できる。さらに南進して行くと、道は舗装路に突き当たる。奥の谷峠であり石塔類がある。
 ちなみに駿河区大谷の大谷小学校裏の大正寺のお堂と南沼上の大安寺上のお堂にも、沼の婆さんは祀られている。岩崎家は大正寺の檀家である。
・説明看板:2022年現在朽ち果て横倒しで判読不能だが、ネット検索するとこの説明版が完全に読める状態の写真が掲載されていたので、写真をもとに掲載する。
「   沼の婆さん由来記
  昔、1335年:建武二年の後醍醐天皇の時、足利直義と新田義貞が安倍川で戦っていた頃、義貞の弟:脇屋義助:よしすけ:は、当国の守護に補され、しばらく当国に住んでいた。同国の瀬名村に小菊という娘がいて、この娘容顔美麗だったので宮仕えをと望んだ。のちに新田一家の勢いが衰え、付き添う者もなくなってしまい、小菊はただならぬ身でどうすることもできず親里に帰り、義助公の軍旅の御衛を思いながら娘:小葭:こよし:を出産して、三日目に小菊は空しく世を去った。
 それから17年の歳月が流れ、小菊の母:秋野は病にかかり、小葭葉かねてから聞いていた浅間の社の百か日のお参りを誓った。ある日のこと、舟で巴川を下って渡しの中ほどまで進んだ時、小葭が河童に引きずり込まれて水底に姿を消した。
 そのことの次第を聞いた秋野は、龍となりその河童を退治して、沼の守護神となろうと発願して小葭と同じ水底に身を沈めた。不思議なことに、身投げしたその翌年から法器草:ほうきぐさ:と呼ばれる霊草が育ち、村人はその根を掘り取って食糧とした。誰言うとなく「あのお婆さんの魂がこの不思議な草を沼に生やして下さったのだ。」と言って、お婆さんの霊をこの社にお祀りした。
                              諏訪神社」

・七天白(麻機周辺) 
池ヶ谷242番地、

・八天神(麻機周辺)?七天神 
 ・松下天神、・平柳天神(南の八幡宮合祀)、・麻機漆山天神、・三杉天神、・東村石亀天神(鈴石、日加美神社合祀)、・北安東村安東天神、・
漆山の静岡北特別支援学校と国立神経医療センターの東側低地を天神前と称するので、漆山東先端部に麻機漆山天神が祀られていたのかもしれない。
・「庚申塔」(平山) 3基 
 石塔類。


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Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:05│Comments(0)
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