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2016年07月28日

静岡市用宗周辺

静岡市 用宗 周辺
                        ‘13 ’14  6、7月 
・前文
 だいぶ不完全な文書なうえ、所々しか調べていない基礎資料ですが、今後調べていくということで、一旦掲載します。
 またブログに保存することで、手持ちのパソコンや記憶媒体がすべて破壊されても、バックアップとして利用できるからです。

◎大雲寺 昭和六十三年 
○城山観音菩薩大悲閣  
・庚申供養塔 享和二壬戌1802
・庚申:元禄拾三庚辰五月廿八日 奉納建立庚申、
・線刻画:佛:座像、
・新:石仏多数、
・祠:地蔵 安永七戌年、・如意輪観世音菩薩 廿七番、
・新:燈籠2、
・新:仁王像:阿形像、吽形像、
・忠霊塔、
・新:南無釈迦牟尼佛、
・新:地蔵、
・新:六地蔵、
・鐘楼、
・石祠、

○熊野神社跡地 
・石鳥居;明治二十八年、
・本殿:廃屋、

○八幡神社跡地 
・石鳥居:昭和二年、
・手洗石:昭和七年、
・石燈籠:笠部、
・本殿、拝殿:廃屋、

○石部神社:静岡市石部51-⒑、 
祭神:天照大神あまてらすおおみかみ、祭日:10月16日、内社:津島神社:すさのうのみこと素戔嗚命、白髭神社:猿田彦命、山神社:おおやまつみのみこと大山祇命、由緒:天明元年再建とあるが、御鎮祭は近隣に古墳七基の発見や、古代から大崩海道の沿岸にあり、遥に古い時代と思われる。古くは天白社と称し、明治初年に現在の社号に改められ、明治八年村社に列した。境内社の津島神社は素戔嗚神を祀り、疫病除けの神として崇められる。氏子の信仰は今も往時も変わりなく、例祭、歳日祭、初午祭、祇園祭、七五三祭等、古くからの伝統と神社の護持発展に積極的な努力と奉仕が続けられている。昭和52年3月13日、大崩山腹「コツサ沢」鎮座の豊漁航海安全の神として崇められた白髭神社:猿田彦命と、高草山系石部「大ニヨウ」鎮座の山神社:大山祇命の両社を、遠隔地で祭祀参詣も意の如くならず、氏子の総意により本社の相殿に遷宮鎮祭した。昭和21年7月30日宗教法人令による届け出をし、昭和27年7月23日宗教法人令により、宗教法人「石部神社」の設立を登記した。静岡県神社庁神社等級規定九級社である。平成22年12月吉日。静岡市神社名鑑より作成。
・鎮魂:昭和四十七年、Ω、
・石鳥居:文化八辛未弐月吉日、
・石鳥居:大正十四年、
・石鳥居:
・猿田彦大神:大正拾四乙丑年、
・力石
・手洗石
・石塔:宝永七寅年、
・祠

・辻:祠、

○寶珠院
・地蔵堂
・新:六地蔵
・板碑
・馬頭観音菩薩
・庚申供養塔
・庚申供養塔:享保十二未年
・庚申塔:昭和五十五年
・南無阿弥陀佛
・手洗石:呉服町四丁目油屋
・祠:
・堂
・井戸ポンプ
・新:萬霊塔

○熊野神社
・城山列士供養塔
・地蔵
・石鳥居:昭和三十二年
・玉垣
・石燈籠2,2,2:文久三
・船の碇⚓、
・祠
・石塔:明治十七申年、
・御神燈:安政六未、
・石燈籠:奉納八幡宮:寛政九稔
・狛犬2、2、

・城山農道完成記念碑:平成三年
・妙見坂 五十四
・丸石
・石燈籠2:昭和三年、
・祠跡:廃

○持舟城 
・説明版:築城年代不明、戦国時代の今川氏時代には築かれていたと考えられる。江戸時代の古絵図によると当地は、駿河湾に面して東・北に深く入り江が形作られた天然の良港だった。現在の静岡市駿河区用宗の地名は湊(港)を意味する「持舟」が転化したものと云われ、今も昔も漁業と深い関係を持っている。今川氏はここを水軍の拠点とすると共に西方、日本坂から駿府に侵入する敵対勢力を防ぐ城砦としても利用した。城跡は、頂上広場(標高76m)が本丸(本曲輪)、南西側の窪地に大堀切、井戸跡(曲輪)があり、その南側に二ノ丸(二の曲輪)、本丸の北側には腰曲輪があった。北側の城の下は沼地と深田が広がっていた。南側は海に近く、船溜まりと蔵屋敷があり、湊(港)と平山城の条件が整っていた。長い年月を経た今も、遺構はそのままの形で残っている。
 築城から廃城までの間に、今川、武田、徳川氏によって3度の攻防戦が行われ、数百もの将兵が討死する記録が残ることは静岡周辺の他の城砦に比べても例がなく、この城の戦略的価値がいかに高かったかを物語っている。今川氏の城主「一宮出羽守随波斎いちのみやでわのかみずいはさい」は麓の青木の森に、武田氏の城主「向井伊賀守正重むかいいがのかみまさしげ」は興津清見寺に手厚く祀られている。
 最後の城主、武田氏の「朝比奈駿河守」は徳川軍に城を明け渡し、多くの将兵は城下に落ち延びて生涯を全うした。やがて持舟城は徳川氏のもとで廃城となった。
 後に向井氏の子孫が城跡に観音像を立てて「正重」の霊を祀った。観音像は阿耨観音あのくかんのん(マリア観音)と呼ばれ、今は用宗駅北の大雲寺に安置される。村民たちは七年に一度、御開帳を催し、将兵の慰霊と現世の平和を祈る。 
*耨=ドウ、ヌ、くさぎる、のぞく。
・持舟城趾由来略誌:説明版:
 今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として、関口刑部親長に持舟城を守らせていた。この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年結婚。この政略結婚が後年家康の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知る由もなかった。永禄三年五月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。川中島で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄十一年末、駿河に侵攻して、持舟城を攻略、城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が今川方の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃し果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり、激闘壮絶を極め武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫叔父伊兵政綱長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り、今も古式蒼然とした墓塔が同寺にある。天正八年二月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正十年二月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を抜き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終わった。向井正重の次男正綱はたまたま城外にあって生き残り、本多作左衛門の手の者となり徳川家に仕えて船手頭となり、その四代目の子孫正興が長崎奉行勤番の折り、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置され直した。向井家は以後代々重臣として繁栄し、其の後裔は東京都新宿区に現住している。

・城山周辺の野鳥:
・説明版:周辺で見られる10種の野鳥。メジロ、エナガ、ウグイス、ヤマガラ、カワセミ、シジュウカラ、コゲラ、ハクセキレイ、アオバト、イソヒヨドリ、

・城山周辺の蝶:
・説明版:城山で見られる蝶の種類は25種だが、そのうち12種紹介する。
アゲハ、ジャコウアゲハ、ゴマダラチョウ、ルリタテハ、カラスアゲハ、モンキアゲハ、ツマクロヒョウモン、コミスジ、アオスジアゲハ、アオバセセリ、クロコノマチョウ、アサギマダラ、

・府中道:古来よりの大崩街道:
・説明版:當目山坂口より左につき大谷に入登れば、右は滄海に臨み、左に高草の麓の村里瀬戸川を眼下に見て勝景なり。ここは長むねと云處也。爰より数十歩過て切通あり。左の高き丘に大日堂を置、西山下は小濱村也。この切通を越れば山下海岸谷々に山畠あり。高より臨むに海岸に平地を見る。これ小濱村の蕉地也。其内に森二ヶ所あり。洞口の両處には大なる巌海中に聳立、高さ百丈餘。これに並び立つ巌五十丈餘。往昔は此巨巌の上に松一樹ありて塔之松と呼。後世枯失たり。是等を右に見て、切通より山の腰を廻り下る坂あり。七曲と云。行々麗の海岸に下る。此處を垢離取場(府在村里願望ある者、必爰に來て垢離す)と云。ここより石部村の地に隷。一軒屋の茶店(一軒屋)あり。是より礒邊巨巖石の閒を通ふ。波荒き時は通がたし。此際凡十餘町許、大崩と呼。左手の山は岩石聳えて突出、常に岩石轉倒の怖あり。右手波浪に衣をひたし、嶮難の閒道岩上より足を失て、刀劒の如くなる巌の稜に轉倒せしむとし、唯戦々兢々(恐々)たるのみ。大人君子の通べき路次には非ず。此所古へは石渡りと云と也。ここを通て石部の村落に至る。凡當目より石部へ一里餘、持舟廣野川原にかかり、国府に至る行程總て三里と云。
(補記)東照傳に、天正六1578年大神君由比蒲原に討向むとし給ひ、田中城を左に見て濱際を押通り、同八月廿二日先陣は上原清水に着す。御本陣は當目に居させ給ふと云は、則此濱道筋を通りし也。其頃は今よりは路次も廣かりしにや。『駿國雑誌一 六之巻より』四十九巻 安部正信 天保十三年1842編集

・供養塔:祠:向井伊賀守正重 天正七年九月十九日
 由来記:この供養塔の向背地の城山にあった持舟城は、永禄元亀天正年間1568~1582戦国争乱の最中に生まれ、今川武田徳川など戦国大名の軍兵が互いに攻防戦を繰り広げ、数百の将兵が城と運命を共にした。ときの城将向井伊賀守正重他壮烈な散華を遂げた将士の霊を祀った。






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