2022年08月22日
伝説「沼の婆さん」の意味とは? ~静岡市葵区麻機~麻機沼、麻機村
☆伝説「沼の婆さん」~静岡市葵区麻機~麻機沼、麻機村
・「麻機誌」等による、伝説概略
1336年1月中旬、後醍醐天皇の御代、南北朝争乱の折り、今の静岡市手越原の辺りで「手越原の戦い」があった。北朝方は足利直義(尊氏の弟)、南朝方は新田義貞と弟:脇屋義助が指揮を執った。麻機の岩崎蔵人国隆(の子:時光となっている場合もある、どの名前が正解かは不明)と弟は500人の手数を連れ新田軍に加勢し殊勲をあげた。麻機の岩崎家での戦勝祝宴で脇屋義助は小菊(母:秋野は岩崎国隆の子で時光の姉で瀬名に嫁いで、この娘:小菊を生んだようだ)という娘を見染め、10日間ほど滞在したという。
その後小菊は小葭:こよし:という女の子を産んだが、産後の肥立ちがよくなく小菊は亡くなってしまった。小葭は祖母:秋野と暮していた。小葭は16歳(16がかぞえなら満14~15歳か)になった頃、祖母:秋野が病に臥せった。その病気回復のため孫:小葭は麻機沼の向こうの浅間神社へ願掛け参りとして舟で通った。(現在、麻機沼はごく一部のみ残存しているが、かつては巨大な湿地帯で、山際の道を徒歩で通うより船で移動する方がらくだったようだ。またこの神社は宮ケ崎の浅間神社ではなく、麻機北の浅間神社という説もあるが、どちらかは不明。)
ある日、またも舟で通っている途中、沼の水が逆巻き、小葭は水の中に飲み込まれてしまった。この話を聞いた秋野は、病の体をおして沼のほとりに来て、魔物(河童)退治として、沼に身を投げた。たちどころに沼の水が波立ち渦を巻き、すさまじい水の暴れようとなった。しばらくすると水は収まり静かになった。その後二度と魔物(河童)にさらわれることはなくなり、沼には法器草(蓮のレンコン、またはヒシの実という2説がある)という食用植物が実るようになり、村は平和になったという。後に秋野を「沼の婆さん」として祀るようになった。
・伝説「沼の婆さん」の意味
意味するものとしては、河童は水の怖さ、水難事故の恐ろしさへの注意喚起であり、法器草は自然への感謝、厳しい犠牲の上に豊かさが築かれたことで先人への感謝の思いか。といったところが一般的かと思う。
以下に個人的憶測で何らの根拠もない「南北朝対立説」ということを記入させてもらう。重ねて言うが、まったく根拠はなく、単なる個人的思いつきに過ぎない。
先ず岩崎家は南朝の勝利に加担し、脇屋儀助の娘: 小葭を授かっている。市内には安倍城城主:狩野之介貞永等もいて、南朝優勢なうちは、羽振りも良かったろう。しかし小葭14歳頃の1351年12月に南北朝の対立として、薩埵峠の戦いで足利尊氏と弟:足利直義が戦っている。一応は尊氏が南朝となるが、おそらく旧勢力の南朝ではなく、かつて北朝だったうちの尊氏勢力が主流だろう。ということは、脇屋や新田あるいは狩野を担ぐのでは味方にしてもらいにくかっただろう。新田義貞は1338年戦死し、脇屋義助は1342年病没しており、南朝側が不利なのは明白である。それでも現在でも岩崎家は命脈を保ち、麻機村は食用植物によって助かっていたということは、北朝勢力に対し真っ向から逆らわないようにしていたのだろう。岩崎家や麻機周辺の村々は1336年には南朝に味方したが、1351年頃には北朝勢力になびいていたのだろう。そして南朝に見切りをつける意味で、南朝の正統的血統を持つ小葭を犠牲にし、その祖母:秋野が北朝に操を立て、彼女も孫と共に犠牲になることで、岩崎家や麻機村を守ったのかもしれない。という全く根拠なき、憶測である。
・「麻機誌」等による、伝説概略
1336年1月中旬、後醍醐天皇の御代、南北朝争乱の折り、今の静岡市手越原の辺りで「手越原の戦い」があった。北朝方は足利直義(尊氏の弟)、南朝方は新田義貞と弟:脇屋義助が指揮を執った。麻機の岩崎蔵人国隆(の子:時光となっている場合もある、どの名前が正解かは不明)と弟は500人の手数を連れ新田軍に加勢し殊勲をあげた。麻機の岩崎家での戦勝祝宴で脇屋義助は小菊(母:秋野は岩崎国隆の子で時光の姉で瀬名に嫁いで、この娘:小菊を生んだようだ)という娘を見染め、10日間ほど滞在したという。
その後小菊は小葭:こよし:という女の子を産んだが、産後の肥立ちがよくなく小菊は亡くなってしまった。小葭は祖母:秋野と暮していた。小葭は16歳(16がかぞえなら満14~15歳か)になった頃、祖母:秋野が病に臥せった。その病気回復のため孫:小葭は麻機沼の向こうの浅間神社へ願掛け参りとして舟で通った。(現在、麻機沼はごく一部のみ残存しているが、かつては巨大な湿地帯で、山際の道を徒歩で通うより船で移動する方がらくだったようだ。またこの神社は宮ケ崎の浅間神社ではなく、麻機北の浅間神社という説もあるが、どちらかは不明。)
ある日、またも舟で通っている途中、沼の水が逆巻き、小葭は水の中に飲み込まれてしまった。この話を聞いた秋野は、病の体をおして沼のほとりに来て、魔物(河童)退治として、沼に身を投げた。たちどころに沼の水が波立ち渦を巻き、すさまじい水の暴れようとなった。しばらくすると水は収まり静かになった。その後二度と魔物(河童)にさらわれることはなくなり、沼には法器草(蓮のレンコン、またはヒシの実という2説がある)という食用植物が実るようになり、村は平和になったという。後に秋野を「沼の婆さん」として祀るようになった。
・伝説「沼の婆さん」の意味
意味するものとしては、河童は水の怖さ、水難事故の恐ろしさへの注意喚起であり、法器草は自然への感謝、厳しい犠牲の上に豊かさが築かれたことで先人への感謝の思いか。といったところが一般的かと思う。
以下に個人的憶測で何らの根拠もない「南北朝対立説」ということを記入させてもらう。重ねて言うが、まったく根拠はなく、単なる個人的思いつきに過ぎない。
先ず岩崎家は南朝の勝利に加担し、脇屋儀助の娘: 小葭を授かっている。市内には安倍城城主:狩野之介貞永等もいて、南朝優勢なうちは、羽振りも良かったろう。しかし小葭14歳頃の1351年12月に南北朝の対立として、薩埵峠の戦いで足利尊氏と弟:足利直義が戦っている。一応は尊氏が南朝となるが、おそらく旧勢力の南朝ではなく、かつて北朝だったうちの尊氏勢力が主流だろう。ということは、脇屋や新田あるいは狩野を担ぐのでは味方にしてもらいにくかっただろう。新田義貞は1338年戦死し、脇屋義助は1342年病没しており、南朝側が不利なのは明白である。それでも現在でも岩崎家は命脈を保ち、麻機村は食用植物によって助かっていたということは、北朝勢力に対し真っ向から逆らわないようにしていたのだろう。岩崎家や麻機周辺の村々は1336年には南朝に味方したが、1351年頃には北朝勢力になびいていたのだろう。そして南朝に見切りをつける意味で、南朝の正統的血統を持つ小葭を犠牲にし、その祖母:秋野が北朝に操を立て、彼女も孫と共に犠牲になることで、岩崎家や麻機村を守ったのかもしれない。という全く根拠なき、憶測である。
Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:42│Comments(0)
│伝説、民話