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2007年09月23日

北沼上~麻機の峠道

  北沼上~麻機の峠に通ずる道 静岡市葵区 
 どれほどの古さの道かは不明。明治22(1890)年の地図には記載があり、北沼上に大正・昭和初期(1910~30)建立の石道標が残っている。
 北沼上のスタート地点は、竜爪街道右岸道(長尾川右岸の道)を南沼上より北上し、北沼上小学校前を通過した所に左折(西進)する道がある。今の道はこれだが、もう少し直進北上しバス停「松尾」の手前に石道標「右 竜爪山 左 麻機村道 ニ通ズ 大正十年松尾青年団」がある。昔からの設置場所がここかは分からないが、古い地図上では整合性がある。右の道は今の竜爪街道右岸道を指し、左は集落の中に入る道になる。地図で見ると、古くは集落内の奥の山際の曲線に沿って街道が通っていたことは分かる。昔の道はこういった所を通ることが多い。そこで集落内の狭い道を進む。集落を西に抜けると、小学校を左折する今の舗装道路に出る。
 この舗装道路が昔の道とまったく同一かは不明だが、およそ付かず離れず踏襲しているとは思われる。500m進むと石道標「右 作道 左 麻機 ニ通ズ 大正十一年望月□□」がある。さらに500m進むと舗装路は右に90度カーブし150m上って舗装路は行き止まりとなる。この右カーブする箇所から沢に沿って直進する登山歩道がある。これが旧道と推定される。かつてこの奥は畑になっていたので、きれいに整備され、いつも通れたと思われるが、奥に進むと畑は打ち捨てられ雑草だらけで、道は廃道である。麻機に抜ける西の山並みを見ると、低くなった峠直下に瓦屋根のお堂らしきが見える。
 北沼上から峠直下のお堂には廃道で行けない。別ルートがある。北沼上のもう少し南からこの峠に行く道が古い地図にも記載されている。今のバス停「北沼上下」からおよそ舗装農道を西に上る道である。農道の行き止まりから等高線上250m先にお堂が見える。農道行き止まりから登山歩道が延びるが、すぐに廃道である。ここで出会った地元の人の話だと、「あのお堂は、麻機で祀ったものだ。」とのことだ。
 次の手は、麻機から行くことにした。麻機の町を抜け滝の谷温泉の看板を過ぎ、第二東名のガードに出る。ここにかつての山寺跡に祀られていた石塔類が設置されている。以前は第二東名の真下に平坦地があり、いかにも寺院の跡であることが確認でき、そこに石塔類もあったが、移転設置された。ちょうどこのあたりから北沼上に抜ける旧道があったはずだが確認できない。ただこの不明の旧道をもとにして、ここから右折する舗装農道がつかず離れず上っていく。農道を数回またぐように旧道があるはずで、一部は畑の作業道として使われていよう。農道に沿って上り、峠直下の茶畑に向かう農道枝道を右折する。すぐに茶畑が峠まで延びているのが目に留まる。茶畑の道を歩いて上る。これが旧道である。峠に出ると北沼上側は雑木林であり、下のお堂は見えない。50m歩き下るとお堂の瓦屋根が見える。ただしそこからはひどい草薮の廃道を数m下る。お堂に出た。中を覗くと「八幡神社」の札があった。鳥居はないが八幡神社ということのようである。他に祀られているものはない。ひどい廃屋で倒壊は時間の問題である。ここから北沼上に下る2ルートの道が廃道であることは見回すとすぐに了解される。いっちもさっちも移動できない。再び草薮を突っ切り峠に戻り茶畑を下った。
 麻機側に残存するものでは、寺院の石塔類だけであり、直接この道に関するかといえば不明だが、おそらくこの旧道に沿って寺があったものと推定される。麻機側の山と平坦地の境目に寺があり、ここで道行く人は「ここから山道だ。」、「やれやれ山を抜け麻機に出た。」と思ったことだろう。
 課題は、八幡神社や石道標、この道に関して麻機や北沼上の人に聞き取り調査をすることである。更に分かることがあろう。
2008年、八幡神社のお堂はなくなった。  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 22:32Comments(0)龍爪山近辺の古道

2007年09月23日

久能寺観音道

  久能寺観音道(静岡市清水区有東坂~村松鉄舟寺~駒越西二丁目)
 久能寺観音道は鉄舟寺が久能寺と呼ばれた頃からの参道である。旧東海道からの起点は、静岡鉄道「狐ヶ崎」駅前、上原大池の東側の細い道であり、細い道と池の間には「久能寺観音道」の石塔(k-1)がある。石塔は細い道脇にあった物を西10mに移動したのである。石塔東側の細い道を南進する。西方が日本平丘陵で、東方が海に向かって開けた平野であり、この道が丘と平野の境目に沿って南進することが分かる。 起点より500m南、道の西側斜面、有東坂に「誓願寺」(k-2)がある。さらに南へ250m、「白髭神社」(k-3)、その西150mに「りょう厳院」(k-4)がある。ここから南へ直接行ける旧道らしきは無い。なお「誓願寺」と「白髭神社」の中間点で東へ行く道を通り、広い駒越通りに出る直前に「庚申堂」(今泉1区自治会) (k-2-1)がある。05年辺りまで茅葺屋根だったが金属製になった。
南へ300~400mの船越町に「玉泉寺」(k-5)、その東200mに「子安地蔵・厄除薬師堂」(k-6)が道端にある。玉泉寺の南200m山際に「伊勢神明宮」(k-7)がある。南下してすぐ船越堤公園の婦池・夫池がある。さらに南下し東に船越小へ行く通りを渡り山際を進むと、「伊勢神明社」(k-8)があり、かつてこの矢部の地を支配した矢部氏との関連が指摘される社で、館跡ともいわれる。矢部氏は梶原一族との戦いにも参加している。火葬場への通りを渡り、山際を進むと「大日如来堂」(k-9)の分岐がある。大日如来堂付近には石塔類がある。昔はこの堂前に道があったのかもしれない。この付近の広い駒越通りに出る直前に「東海寺」 (k-9-1)がある。山際を進めなくなり住宅地を進むと「能満寺」(k-10)が見つかる。墓地の上の裏山には「七面山」(k-11)があるし、付近には「八坂神社」(k-12)も見える。おそらく旧道は山際付近をかつては通っていたのだろうが、かなり消滅している。ただその痕跡らしきが諸所見つかる。 
ここからは旧道らしきがなく今の駒越へ行く広く交通量の多い車道に出て進む。妙音寺バス停を過ぎる。多分昔寺があったはずだが痕跡もない。この辺りで「言いなり地蔵」(k-13)、「徳富蘇峰の碑・杉原山」(k-14)の標識が西の山に向かって矢印をしている。山の先端部に地蔵、その北に杉原山入り口、その西隣に「虚空蔵堂」(k-15)がある。「言いなり地蔵」は何でも願い事をかなえることの説明板が掲示されている。この南先は一本西に旧道があり、すぐに「鉄舟寺」(k-16)が見えて終点である。ここがかつての安部七観音、久能寺であり、かつては久能山にあったのだが、武田氏が移転させた。寺の裏山から日本平を経て平沢寺に行けた道が、かつてはハイキングコースとして残っていたが、今は断線した。コースは日本平スタジアム近辺のミカン畑で消滅しているが他の部分は残っている。
 鉄舟寺からさらに南下し久能山に行く道がある。いったん山門をくぐり「水子地蔵堂」を横目に駒越通りで南下し100mでやや上り勾配の細い道に入る。100mで「龍華寺」である。見事な庭、天然記念物の蘇鉄、高山樗牛の墓がある。細い道を南下して日本平旧道を渡り、駒越通りに出ると、道の向かい側が「天王山神社・遺跡・公園、筆塚」で古墳である。市立清水病院を通過し清水日本平パークウェイ前に至る。かつてそこから西を見て盛り上がっている山が中世の山城跡であったが、今は住宅造成され面影がない。ここに殿がいたからここの地名が殿沢なのだ。殿沢を過ぎ迎山町に至るとすぐ、「忠霊塔公園」の丘がある。これも遺跡の跡である。この先4百mで「萬象寺」である。道は寺の門前または裏から今の久能街道に出る。なお萬象寺はもっと東の駒越中1~2丁目から移転したものだ。今の萬象寺前の広い久能街道のさらに海岸側に部分的に路地がある。これが鉄砲道と呼ばれる旧久能街道の残存部である。



   


Posted by 兵藤庄左衛門 at 22:20Comments(0)久能寺観音道

2007年09月23日

久能山東照宮道

   久能山東照宮道(久能街道)
 古代、中世の安部の中心地だった横田町の西隣、伝馬町の旧東海道南側に「久能山東照宮道」の石碑(t-1)が立つ。ここが駿府からの久能街道起点である。南に向かいまっすぐ道が続き、国道一号線に出られるが、昔の道はこんなにまっすぐな訳はなく区画整理された道になったことは明白である。東の交差点から国一を渡りいったん数十m西に行くと「日切地蔵」(t-2)がある。本筋は東の交差点から南を目指す。広い道で交通量も多く昔をしのばせるものは皆無である。南幹線に突き当たり、ここから南は道が狭く、東の「八幡山」(t-3)に沿い道が湾曲しており、昔の風情が残る。八幡山はかつて山城であった。道脇には現在の「久能街道」の金属標識もある。「八幡神社 」(t-4)、「神竜院」(t-5)が八幡山山麓にある。八幡山山麓を抜け広い道を横切ると、西に砦跡でもある「有東山」(t-6)が見え、「金剛寺」(t-7)、有東集会所横に常夜灯と石塔(t-8)があり、常夜灯のある路地を入ると「聖光寺」 (t-9)と「有東神社」(t-10)がある。有東山麓は縄文期等の遺跡の宝庫であるが、現地でしのべるものはなく、図書館の資料を見てほしい。有東山を後にし湾曲して南下する道筋に昔の面影が残る。SBS通りを渡ると東隣に市立商高が見え、道筋がまっすぐ南下し旧道がなくなる。南下しつつ交差点ごと南下道筋を一本ずつ東に移っていくとよい。東名高速数百m手前で大通りに出る。東名の手前を大通りから斜め南東に入っていく道が見える。これが旧道であり、分岐点に「地蔵」(t-11)が祀られている。東名ガード下をくぐり南下すると「久能街道」の金属標識と湾曲した道筋に旧道をしのべる。大谷川に出会う辺りで西に道一本移ると、「高松神社」(t-12)がある。まったく平坦な高松神社なのに国土地理院の三角点がある。三角点が山頂の印ではない証拠として使える。本筋に戻り橋を渡るとすぐに高松交番のある大通りに合流する。交番で曲がり東進し橋を渡り久能を目指すのが順路である。この東進路は今の久能街道(いちご街道)だが、すでに海岸よりに広い新道建設中である。しばらくすると今の大谷街道合流点に達する。ここの北東に旧道の細い道があり、入っていく。しばらくして北に「地蔵」があり、その奥に「八坂神社」がある。八坂神社前の道が大谷街道旧道で地蔵は久能街道と大谷街道の分岐点に設置されている。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 22:17Comments(0)久能山東照宮道

2007年09月23日

静岡市山間部の峠道

   石仏のある峠道 静岡市葵区清沢下相俣~静岡市葵区小布杉 未開通県道
 ルートは、静岡市街から千頭に向かう国道346号線で、藁科川を上り八幡で黒俣川に沿い左折する。相俣の清沢小を500m過ぎると、地域の物産販売所があり、国道が急に右カーブする。そこを左折し、南に向かい、沢に沿って山奥に入る。途中県道の朽ち果てた標識があるかもしれない。かつての県道である。といっても自動車で抜けられるわけではなく、昔は徒歩道でも県道だったのだ。山腹途中で車は行き止まりとなる。未開通県道なのだ。但し道は荒れて狭くて山岳林道である。行き止まりの手前に沢を渡る橋がある。その沢の右に、奥に続く徒歩の登山道または踏み跡らしきがある。ここから600mで峠に達する。沢に沿って上り行程の半分程で左折し沢を渡る。沢の向こうの道に出て、踏み跡をたどれば峠に出る。「明治四十三年」の石地蔵と壊れて胸から上の地蔵があり、30m東には巨木の杉もある。「小布杉の清沢」という道標があらたに設置されていて、あまり迷わず歩けそうだ。かつての清沢と小布杉を結ぶ古い峠道で、昔の住民の生活道路だ。
 峠を越えて下ると、南斜面で急に明るくなる。切通しの登山道がしっかりついているので迷わない。200m歩くと廃道の林道に出る。古い登山道は林道の真下にあるはずだが、ひどい藪なので探すのをあきらめ、雑草だらけの荒れた廃林道を左に下る。(右に行けば100mで行き止まりだ。)左500mで小布杉と富沢を結ぶきれいな舗装路に出る。この廃林道は車止めがなされていて車では入れない。右に下るとすぐに小布杉の集落である。
 そなみに小布杉と富沢を結ぶ舗装路の中間の峠に地蔵が祀られていて、北に行く林道がある。地蔵の裏の山は「富沢の頭」といって、峠から標高差50m、距離150mで上れる。ただしまともな道はない。「富沢の頭」山頂から真西に下って標高差50m、距離400mで、先ほどの「小布杉の清沢」峠に達する。  
 また小布杉や付近の三ツ野等の集落や朝比奈川沿いの県道には多数の石塔、石仏が見られ、いにしえ発見のドライブやウオーキング、サイクリングに良い。サイクリングで山越えするとなると、それ相応の実力は必要である。
 国道346号線沿いには、他にも「笹間峠」など、昔の道や石仏が随所にある。国道346号線自体が、かつての南北朝時代の南朝方連絡道である川根街道(藁科街道、静岡街道、秋葉街道とも云われた)の最新版であり、今の道の付近に古い川根街道の残存部や古い街道の遺物が残されている。いにしえを感じながら歩くのに最適である。川根街道の一部、鍵穴「のがたけ」から九能尾の区間は、東海自然歩道になっていて歩きやすい。国道346号線を通るだけでも多数の石仏が見られる。
 川根街道の詳細は、『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)に説明されている。

   弓折峠(静岡市葵区西又~岡部町玉取沢)
 ダイラボウの南南西1kmの所に弓折峠がある。西又からの農道を北に詰めた所から徒歩10分、標高差70mで上れる。または玉取沢の農道を東に詰めた所から、「ダイラボウ→」の標識に従って、徒歩15分、標高差100mで上れる。道は荒れていて分かりにくい。上り詰めた所は平らな植林地だ。峠には上面が平坦な石が数個置かれている。おそらくかつては石仏や石塔の類が上に祀られていたのだろう。集落を結ぶ生活道路だったのだろう。植林地内の下草を見ると、茶の木がいくつか見られ、かつては茶畑だったことをうかがわせる。茶畑だったらさぞ見晴らしが良かったろう。峠から尾根を北に向かうと、ダイラボウに行くルートにもなるが、あまり通る人はなさそうで道が明瞭かは不明。ただかつては私も通ったことはある。ちなみにダイラボウへは現在、富厚里峠から林道を通って車で山頂まで行ける。但し林道なので道は荒れている。
 玉取沢や西又の集落には古い石塔や石仏が見られるので、いにしえを感じるウオーキングには良い。

   谷川峠(静岡市葵区飯間~岡部町谷川) 
 飯間は小瀬戸城の麓であり、小瀬戸城に関する地名と考えられている。城の武士達が食事を取った場所と推定されている。その飯間の奥、飯間沢川をさかのぼって行く。途中、野田沢への右の分岐点があるが、そちらに行かず、川に沿って道なりに上って行く。第二東名が見えなくなって2km上ると、農道は行き止まりで徒歩となる。90年代まで登山道は整備され、途中に茶畑もあり、ここの小さな平坦地が戦に関する地名であることを紹介する看板まで掲げられていたが、05年茶畑は荒地と化し、道は廃道である。沢に架かる丸太橋は朽ちて危なそうなので沢に下りて渡るなど苦慮する。徒歩500mで何とか峠に出た。峠で岡部町谷川領内になり、茶畑が整備されていて、その先はきれいだ。畑の中を150m下ると農道に出て、すぐに今は廃村の谷川集落が見える。但し付近の畑は整備されており、麓から村の人達が畑仕事に来ている。

    宇津ノ谷峠、満観峰、日本坂峠、花沢山、大崩れハイキングコース
 (静岡市と岡部町及び焼津市の境界尾根付近)
 谷川峠の少し東上に登山道があり、しばらく南に歩くと静岡市と岡部町の境界線尾根に出て、それに沿って宇津ノ谷峠まで行ける。なお宇津ノ谷峠をコースの起点にした方が動きやすい。宇津ノ谷峠は江戸時代の東海道である。この峠からさらに東の境界線尾根に沿って行くことはできる。但しきれいな道ではないので、尾根をはずさないよう注意深く進む必要がある。中世東海道の「つたの細道」の峠を通過し、満観峰にたどりつける。満観峰からはさらに日本坂峠や花沢山、大崩れハイキングコースにまでつながっている。満観峰からのコースは標識や道がはっきりしているので、家族でのハイキングにも利用できる。日本坂峠は古代の東海道で、石仏が祀られている。
 花沢山からの大崩れハイキングコースは江戸期の石塔類があり古式ゆかしく、範囲は花沢山、小浜、グランドホテル松風閣にまたがっている。特に大崩れ尾根上コースの小浜集落への分岐点付近に石塔がある。しかもコースは一年を通じて小浜集落で整備しているらしい。なぜかというと、大崩れの県道が時々崩落等通行止めになり、小浜集落の人達の通学、通勤に困るので、緊急通路として昔からの遊歩道を活用するためらしい。そのためこんな里山の古道がいまだに廃道にならずに残存して、ハイキングコースにもなっているようだ。とても珍しい保存例だろう。ただ問題点としては、昔は小浜から花沢山山頂を経由しないで中腹を通って石部の集落に行けたコースがあったはずだが、それはさすがに消滅していて私にも分からない。そのコースが復活すれば満点である。

   野田沢峠、西又(静岡市と岡部町の境界尾根)
 谷川峠の西尾根を上っていくコースは、静岡市と岡部町の境界尾根をたどるコースでもある。尾根を注意深く追って行くと、野田沢峠に出られる。途中にも人為的切通しが見られ、かつては随所に山越えの徒歩道があったことが分かる。峠は現在、10m真下に切通しの舗装道路となっているので、用心して降りる。一旦降りて又尾根に取り付く階段を上ると、六地蔵が祀られている。その背後から又尾根に取り付き追って行く。残念ながら西又峠に出られる道はないが、尾根をまたぐ山越え徒歩道に出たところで、すぐ北に西又集落から南に延びる農道終点が見えるので、農道に下りて進めば、西又集落である。西又には三十三観音等の石仏がある。なおコースの起点を野田沢峠にした方が動きやすい。

    徳願寺、歓昌院坂、飯間山(象山)、谷川峠
 静岡市向敷地に安倍七観音、徳願寺がある。付近には「手児の呼坂」という古道で順礼道も残っている。徳願寺は徳願寺山の中腹にあり、麓から古い参道を上っていくと、石道標が迎えてくれる。寺の門前を横切る農道を200m上ると、畑の脇に山を上るハイキング標識があるので従い、山奥に入って行く。山頂(標高352m)は「仏平」という標識があり、人為的な掘り切りや土塁のような跡等が見られる。畑か中世の大窪寺の跡か。大窪寺は徳願寺の前身で、かつては山頂に寺があった。山頂には「大久保山」という標識もある。一般的には徳願寺山といわれているが、これが正式名なのか分からない。大久保山(標高352m)をあとにして、西尾根に道が続く。平坦な尾根を750m歩くと、「小豆山」(標高375.8m)に着く。
 ここから西へ700m下ると、歓昌院坂(標高171m)の峠である。歓昌院坂の古式ゆかしさは、手児の呼坂から丸子泉ヶ谷そして歓昌院までの順礼道だけでなく、実はここから牧ヶ谷及び「木枯らしの森」にかけても石塔類が見られ、良いコースである。牧ヶ谷という地名自体が古代の官営牧場を意味するといわれる。歓昌院坂(標高171m)からさらに西尾根を700m上る。
 山頂ではないが、三角点(標高313.2m)がある。三角点は山頂の高さを表すと思っている人がいるが、そうではない実例になる。三角点は四角い石の標識で上面に十字が彫られていて、三角点測量をしやすい所に設置するものなのだ。ちなみに静岡市役所旧館ドームにも埋設されている。
三角点から、300m歩き標高差100mかせぐと「丸子山」山頂である。山頂の少し下から南尾根をたどると丸子城に至るはずである。丸子山から西尾根をたどり三つのピークを越え1.2km歩くと「大 山」(標高356m)に至る。ちょうど大 不動尊裏山山頂になる。ここから南に尾根を取る。200m先に東の大 に降りる道もある。南に1kmでまた西尾根に分岐して進む。
 1km進んで上りきると、「飯間山(象山)」(標高481.5m)に着く。標識には「飯間山」となっているが、図書館にある高校山岳部の記録には「象山」と記載されている。どちらが正しいか分からない。ここから平坦な西尾根を1kmたどると、そこにも三角点(標高412.3m)があり、ここが岡部町と静岡市の境界になっている。この三角点から西へ尾根らしくなく道らしくもないが標高100m下ると、谷川峠に出る。また三角点(標高412.3m)に戻り、南に境界線尾根をたどり宇津ノ谷峠に至ることもできるが、境界線尾根に忠実な道がない所があるので、地図と磁石で踏み迷わずルートファインディングできないと困る。あるいはこのあたりの山道がハイキング用に整備されつつあるので、宇津ノ谷峠まで標識をたどっていけるようになっているかもしれない。
 宇津ノ谷峠から谷川峠、野田沢峠さらに北方へ延びる山道は、藁科川と朝比奈川の分水嶺を貫いてかつての山里への連絡道だったのか。また宇津ノ谷峠から谷川峠、飯間山(象山)、丸子山、歓昌院坂、大窪寺を結ぶ道は各ポイントの中に古代、中世に起源を持つものがあり、相当古い道の可能性がある。

・真富士峠、静岡市葵区と清水区の境
 私は、かつて80年代後期頃、真富士山登山道沿いに木の看板で登山道の標識を立てた。その中で第一真富士と第二真富士の間の急坂だが近道が分岐合流することになる乗っ越し、鞍部を示すのに峠と書いて示した。その峠と書いたすぐ近くに第一と第二の山を示す「真富士」という字も書いてあった。だから読みようによっては、「真富士の峠」または「真富士峠」と読む人がいても致し方ない書き方だった。この木の看板はすぐに壊れたが、誰だか知らない人が、後に立派な看板を付け替えてくれた。そこにこの鞍部が「真富士峠」と示された。以後誰もが「真富士峠」と称するようになった。これ以前地元の人や山好きな人でも「真富士峠」と言う人はいなかったから、明らかに看板設置以後普及した名である。うーん、勝手に名をつけるのに加担したのかな。しかしこの峠、固有名詞をつけるとしたら、この名しかなかろう。このように地名はできていくものだろうか。  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 22:04Comments(0)静岡市山間部の峠道

2007年09月23日

中世東海道

     御林~日坂(掛川坂からのかつての旧東海道)
 掛川坂から小鮒川に出た旧東海道は御林を経て日坂に進むルートとなる。
小鮒川集落に出て地区公民館の横に馬頭観音「天明六□□」が祀られ、上に行く道が御林への旧道であることを指し示している。狭い農道が随所で分岐し旧道は分かりにくい。車だと一旦茶畑の山(清浄峰神社のある一番高いところ)を左から越え白津倉に降りるルートであると考えると分かりやすいかも知れない。本当の旧道は一番高いところの清浄峰神社を経て右に進み尾根を下り、巨大円形水道タンク横の広い農道に出る。ここから舗装農道となるが御林から日坂に至る旧道は舗装道路とは別に、つかず離れずの尾根道がかつてあったようだ。しかし今は周辺が改変され、日坂に向かう農道が旧道ルートにもっとも近いようだ。この旧道には各所に石道標があることが、神谷昌志著「遠州の史話」に報告されている。
 「佐夜中山御林百年記」杉本著 によれば、中山新道開設者でもある杉本権三は13の石道標を建立したとされ、そのうち三つ現存するとある。今回子孫の杉本周造氏や付近の農家の方の協力も得て探して一つ発見できた。
 場所は杉本氏宅裏北から清浄峰神社のある付近では一番高いところの手前巨大円形水道タンクまでの数百mの区間である。御林一の平の東の広い農道脇に石道標「右 新道、菊川、金谷 左 五和、川根、安田」がある。しかしこれは周造氏の話によれば、権三の石道標ではなく、もとあった場所は国一バイパス中山トンネル上の中山新道脇だったものである。その数十m北に水道タンクがあり農道を離れて上る道がある。十m上ると清浄峰上り口で石道標「右 小鮒川、五和、川根 左 無間山、東山、安田」と「順礼道」道標がある。これが唯一現存するものらしい。道標の指す右はこの清浄峰上り口で左は下の農道に改変され消失した古い道を指すようだ。
 上り詰めると清浄峰神社に出る。この入り口付近にかつてもうひとつ現存していたようだが不明だった。資料では「左 小鮒川、五和道」となっているはずなので神社の北側の茶畑、小鮒川方面寄りにあったのだろう。
 この石道標については榛原の方が研究されているそうだ。
 ここから日坂方面へは主に舗装農道を行くが、まっすぐ行くと大平、下組方面道になるので、一旦左折し杉本氏宅前を通り茶工場のところを右折し尾根道舗装農道を下っていく。この道が旧道の改正道と推定される。農道脇右に地蔵が祀られている。左に国土地理院の三角点標識もある。日坂宿場町五百m手前で道は尾根を外れていくが、高圧鉄塔真下の尾根に沿う狭い道がある。これが旧道残存部で宿場町まで続く。最初は舗装されているが土道になり、切通し等にもなり車が通れなくなる。周囲は畑があり野良仕事道になっているらしく廃道ではない。500mで町に下りる。下り切るところに地蔵とかつては祠があったらしき石段がある。
 小夜の中山や菊川の間の宿を通るコースが有名な東海道で、中世、近世を通して使われていた。しかしそれだけが東海道ではなく、このコースは、①古代の志戸呂焼きの産地からの道であり、②中世のサブルートであり、③近世の一時期(1603~14)の正式東海道であるという一面を持って、御林~日坂ルートは存在した。
 旧道としての看板標識があるとよかろう。ウォーキングコースによい。

     島田市大鳥から野田にかけての中世旧東海道
 牛尾山から大井川を渡ると大鳥に出る。大鳥の町南端山すそに旧道が少し残存している。本来は山すそを100m進み右の山に取り付き上り、上のお堂手前から狭い農道に出て、茶畑の2基の石仏か墓を横目に更に上って、天神社と配水場前を通過する。T字路で右折しふもとの慶福寺を目指す。本来は付近の谷沿いに道があったのかもしれない。慶福寺から東の山を目指し細い道を進みバイパスをくぐり伊太谷川沿いに下り山すその寺院神社付近が旧道と推定し進む。旗指の森を過ぎ天徳寺の裏に祠と秋葉山常夜灯があり、常夜灯前に山すそに沿い数十mの古道らしきが残存している。南に旗指恐山地蔵がある。旧道は山すそに沿い東に進み、野田の三崎神社下から鵜田寺、島田髷の塚を通り、大津谷川を渡り、寺院神社前を通り、落合に出て、東光寺へ大谷池経由で峠越えする。

   島田市東光寺~藤枝市谷稲葉の古道 
 東光寺の公民館横集落の奥、沢沿いに上っていく道が谷稲葉・清水寺と東光寺への参詣道・中世東海道である。トトリ沢とヌメリ沢の中間らしい。付近の年寄り住民に聞くと分かりやすい。軽自動車でやっと通れる狭い農道に改変されている。地元の人からは、「4WDで野良仕事へ上っていくのに使うが、2WDでは無理かも。」と言われたが、ダイハツミラでも上れた。はじめは沢沿いに上り途中で尾根に取り付き上っていく。この沢と尾根の変わり目辺りを一里塚というのだろうか。
 徒歩で25分、車で10分弱で島田と藤枝の境の尾根に出る。傍(正式なぼうの字がない)示峠である。石道標「御大典記念 右 山道 左 東光寺、大津ヲ経テ島田ヘ通ズ」と、ハイキングコース標識「双子山←→駿河平」がある。四辻になっていてコースは、左右の尾根沿い「双子山、駿河平」道ではなく、東正面に下っていくのが谷稲葉への古道の名残りで、農道に改変されている。おおむねコースは一致すると思われる。茶畑の中の明るく絶好の眺めの急坂である。徒歩25分、車で10分弱である。付近には農道が錯綜していて、分かりにくい。国1バイパスのトンネルの上から谷稲葉南谷の田園平地に降りる。
 現在この付近は道路工事中のため車で通行できないかもしれない。迂回路としては市境尾根「双子山←→駿河平」の標識の駿河平方面に従い進むと、正式ルートの東寄り、国1バイパスのトンネル手前の高架下に降り、南谷に出られる。
 南谷の田園平地から山の尾根に取り付き上る農道があり、すぐ脇に大杉がある。この大杉は尾根に沿い所々あり、かつての旧道を示している。杉の付近には農道から外れたコースとしての旧道切通しが残存している。しばらく上ると新道建設で旧道や農道も寸断されているが、上の方をよく探せば切通しの残存部が時々あり農道も含めて付近を上っていくとぼう示峠に確かに出られる。

  


2007年09月23日

観音寺坂

    観音寺坂(島田市金谷志戸呂~行田原)
 「掛川坂」の行田原を上り詰めたところを行人塚と言い「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」の石仏が祀られている。これは地中に埋まっていた物を祀り直した物だそうだ。 横に坊僧墓地と書かれた札が刺さっているところもある。 ここから西の掛川坂や南の舗装道路をたどる島田市(金谷町)小鮒川集落方面への道でもなく、ここから尾根沿いを真下に下る登山道がある。数分下ると茶畑と舗装道路によって寸断されるが、舗装道路を横切り尾根沿いを目印に下ると簡易舗装の農道を下れる。これが「掛川坂」より古い「観音寺坂」である。簡易舗装農道や茶畑内の登山道をなるべく尾根に沿うように下っていくルートが正式な旧道と思われる。農道が旧道だったり逸脱したりするがおおむね尾根付近を通っているので迷うことはなかろう。途中一カ所墓地があるが、ほぼ全て茶畑の見晴らし絶好のルートである。簡易舗装路は軽自動車でぎりぎり通れる。尾根の突端で集落に出て大代川や昭代橋、地区公民館がある。昔から村の中心部だったと考えられる。「観音寺坂」の由来は昔中腹に観音寺という寺があったためだという。下りきった上志戸呂の大井神社西には遠江三十三 観音霊場二十四番の観音寺があり、そちらのことを指すとも考えられる。
 この坂は「掛川坂」より古いと云われる。尾根を通っていて、掛川坂より距離が長い。掛川坂は短い分傾斜はきついはずだが、そうとは感じられない。楽をしたければ掛川坂の方が良さそうだ。
 但し現在掛川坂下方は廃道同然なので、草刈り整備が待たれる。観音寺坂は寸断が一箇所あるが隣の茶畑を迂回すれば十分ハイキングコースになる。どちらも文化財としての古道なので出入り口に標識等の設置が望ましい。

参考資料
「平安鎌倉古道 鎌倉~京都」尾藤卓男
「金谷町史 地誌編」
「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行
「2万5千分の一地形図」国土地理院
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:49Comments(0)観音寺坂

2007年09月23日

掛川坂

    掛川坂(島田市金谷志戸呂~行田原~小鮒川)              
 1603年より11年間、東海道として使われた。しかし源頼朝の軍勢も利用したというので平安末の12世紀後期には利用されていたことが分かる。
 1600年徳川家康によって制定された東海道はJR金谷駅裏金谷坂石畳の有名な道の方だったが、1603年洪水で島田宿が消失しやや山側の元島田(島田市民病院や鵜田寺所在地)に移転し、島田市大鳥、大井川渡河、牛尾山、島田市(金谷町)志戸呂谷北という古代中世ルートが復活し、1614年まで正式な東海道になった。
 牛尾山南端から五和小、五和駅付近を西進、県道81号線大代方面に進む。山の先端部の大井神社に近づいた頃、南の谷北に折れる。谷北集落用水池の奥、茶畑の隣、杉桧植林地の突端に廃道となった切り通し「掛川坂」が薄暗く入口を開け山腹を上っている。冬から春先までなら雑草少なく蜘蛛の巣もないので、気色悪くても倒木や雑木をかき分け進むことはできる。丸石が一面ころがっているところがあった。もしやかつて石畳だったのだろうか。10分程上ると舗装道路(谷北と行田原を結ぶ道で上りきると行人塚前に出るいわば現在の新掛川坂である。出たところは山の中腹にあたる。)に出る。ここに朽ちかけた「掛川坂」案内板が落ちている。舗装道路は山腹を横巻きしてなだらかに行人塚にいたるが、「掛川坂」は真上の茶畑に向かい簡易舗装になった狭い農道として上っていく。上りながらやや左(西)の山頂部(行人塚所在地)をめざすと迷いにくく、10分程である。上り切る手前だけ土道になり山頂平坦部の道と合流し30m先に行人塚があり、先ほど横断した舗装道路とも合流する。行人塚は「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」の石仏が祀られている。(「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行 p.411 参照)舗装道路を広い平坦部に向かいまっすぐ進むとこれが小鮒川集落に向かい降りていく掛川坂旧東海道ルートである。途中左折路のあるところで石道標がある。「右 日坂 こぶながわ ?ひだり(巡れい)二十□(五)みち 九代□□」。 確かにこの道を左折すると遠江三十三観音霊場巡りの二十五番に行く道だ。逆に戻り掛川坂や観音寺坂を下ると、二十四番観音寺に行く道となる。
 (石道標はこれからの物も含め4つあるが、摩滅が進み判読困難である。過去に判読された資料を探す方がよい。掛川坂道から粟が岳等に分岐する道を標示している。「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」には三つ載っている。)
 水道タンクのあるT字路に当たり、ここにも石道標「右□ これ御林日坂 左?しとろ」がある。曲がらずタンク横の狭い土道を直進する。タンク用地を抜けたところで石道標「□□□□□□□年一月大吉三□□ 右 無間山安田西□□ 左?こぶながわ □願梵□増威豆恭□□□□樂」がある。数本の道が交差しているが、ここもまっすぐを基本に進む。石道標「右 こぶながわ 左 中山日坂」のある左右分岐Y字路に出る。一旦左に進むと茶畑で農道は切れ、眼下に小鮒川が見え、登山道が植林内を下っていく。先ほどの石道標のあるY字路に戻り右に進むと、右の尾根沿い道と左の植林された暗い谷道に分岐する。どちらも軽自動車で通れる。左に進むと道なりに小鮒川集落に出られる。この途中道が広くなり右直角に曲がり小鮒川集落に出る直前、下に茶畑の原が見えるところで石塔「藤六地蔵」と地蔵「地蔵堂」が祀られている。(「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」参照) 刻字は読めない。多分この道が旧東海道かと思われる。なお、右の尾根沿い道を通っても、茶畑内を紆余曲折すれば小鮒川集落に出られる。

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:43Comments(0)掛川坂

2007年09月23日

古街道-研究、調査報告

 これまでに調べた「古街道」のいくつかの現状を、中途半端だが、報告することにした。これによって新たな情報が入り、発展する契機になるかもしれないので、はっきりしないことでも公表する。  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:36Comments(0)序文