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2014年11月04日

安倍街道

○安倍街道
 2014、3/2(日)、安倍街道についてあまりに部分的過ぎて、将来少しずつでも書き足していこうと思っておりました。今回少しは調べられたので内容をリニューアルします。まだ未調査はありますので、今後ものんびりではありますが、改定していくつもりです。少しほっとしました。
3/15に井川に行けたので井川部分も改訂します。3/21           調査:13年11~12月、14年2~3月を含む版 
 さらに14年10~11月調査、改定’14 11/3
                                                        
・総説 
 一般的には静岡市中を安倍川沿いに遡り油島で安倍川支流の中河内川に沿い遡り、口坂本温泉を経由して大日峠を越えて井川に達する街道を本道とする。支線としては、先の油島でそのまま安倍川本流を遡り梅ヶ島温泉や安倍峠を越える梅ヶ島街道がある。また先の本道でも、玉川から口坂本側へ行かず、西河内川に沿い遡り大沢から笠張峠を越えて井川や大間に行く西河内川ルートもある。それらの本道や支線からさらに周辺へ分岐する峠道等は数多い。
一旦は2000年頃から12年まで少しずつ調べてはきたがあまりに部分的であった。そこで今回13年11~12月、14年2月
にかけ未調査だった主だったところだけでも一通り調査を試みた。すべてのルート及びその周辺地域の道路沿いとなると膨大すぎて手におえないのですべてのルートと遺物を調査紹介はできないが、調べられた範囲内でも発表し、今後の方たちへの調査研究への一助、および文化財や観光資源の発見につながれば幸いである。また間違いは多かろうが、今後ご指摘をお願いしたい。古街道研究が進むことを望む。

・用語説明 
・国、県、市=国、県、市指定、・有、無=有形、無形、・登=登録、・文=文化財、・天=天然記念物、・重=重要、・民=民俗、・石=石製、・家=家型、・新=近代から現代にかけて作られた新しいものと推定されるもの、・古=新しくなく古そうなもの、・欠:破損欠落しているもの、・馬頭=馬頭観世音菩薩、・コンクリ=コンクリート製、(2)=2基、
・古い用語説明 
廿=20、廿の縦線3本=30、等=塔、歳‣天‣月日=年、
美良または羊良=養(美や羊ではなく羊の下は大であり美ではなく横線3本である。狼という字に似ているが、その字がパソコンで出てこない。そういった字は多く他の現代的な字に切り替えたり注を施す)、クイズ:ちなみに養がなぜ美(横線3本)や羊(下は大)と良なのかはちょっと考えるとすぐ分かります。このように漢字の部分を上下左右に組み替えることは石塔への刻字ではよくあります。彫る時の字のバランスを考慮した石工さんたちの工夫です。ちなみにある石工さんはこういう字をお寺さんの字と言っていましたが寺院で使う字ではありません。この前見た字では政を上に正、下に政の正抜きの字を彫ったものを見ました。
*「石仏事典」類を参照してください。年号や干支もこれで分かります。
・住所について 
なお住所は正確に分からないものは多く、隣や付近の住居の番地号を用いているものが多い。

○本街道:静岡市中~井川 
 安倍街道の一般的な出発点と思われていたのは井宮神社と薩摩土手のある所かららしい。しかし現代の安倍街道「県道井川湖御幸線」は国道1号線静岡駅前からであり、旧東海道からの分岐点は呉服町の札の辻からとなる。そこで今回はその付近の周辺遺物も含むこととした。
 明治20年代の陸地測量部地図で確認すると、札の辻から北上し本通りで右折して、外堀からの通りと合流し安倍街道へつながっているので、外堀通り「県道井川湖御幸線」が安倍街道への直進路といえるのか。

~これより下 静岡市市街地内、静岡駅北西部を参照せよ~
*移動: 
~~これより上、静岡市市街地内、静岡駅北西部を参照せよ

・賤機稲荷神社(宮ヶ崎町)  
 かつては忠正酒造裏と紹介できたが解体されたので、自動車販売店裏の山際にある。隣は片羽町公民館である。
・神社名石碑:新:賎機稲荷神社、・木鳥居:昭和六十年、・手洗石:奉納 片羽町婦人會
・忠正酒造(材木町6)   
 かつて存在した造り酒屋、今は跡形もない。忠正酒造ビルと昔ながらの建物を解体してしまった。
・泰雲山瑞龍寺(井宮町48)  
・説明版:宗派:曹洞宗、寺系:静岡市葵区沓谷長源院末、開創:永禄3(1560)年室町戦国時代、本尊:聖観世音菩薩、開山:能屋梵藝大和尚のうおくぼんげい、開基:旭姫(徳川家康公夫人、豊臣秀吉公異父妹)、本山:大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町)、大本山総持寺(神奈川県横浜市鶴見区)、由来:永禄三年長源院第四世梵梅ぼんばい和尚の法嗣:能屋梵藝和尚が開山して旧寺址を広めた。当時は浅間山の西麓に位置し駿河七ヶ寺の一つであった。家康公は駿府在城の折度々住職を招集し曹洞の法門を聴聞された、当寺も七ヶ寺の一つとして家康公と深い縁に結ばれていた。天正十八(1590)年、旭姫没するや当寺に墓を建て、その時の法名「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」から当寺の名前が瑞龍寺となりました。この為豊臣家、徳川家両家より寺領を寄進せられた。戦災等で寺を消失し、のち昭和26年再建する。寺所有の重宝品:旭姫の小袖、秀吉公の朱印状、蝶足膳(桐紋蒔絵膳)、境内設置:旭姫の墓、切支丹灯篭、芭蕉の時雨塚、
開基は旭姫(豊臣秀吉妹で離婚させられ家康妻として嫁す)。
・観光案内版:しぐれ塚(芭蕉の句碑)
 ・キリシタン灯籠:竿石に舟形の囲みがあり、その中に浮き彫りされている。「1605年頃駿府城にフランシスコ会、イエズス会があって、城内、安倍川の2か所に南蛮寺があったといわれている。」
個人的には切支丹というより神仏関係と思われる。おそらく今後切支丹灯籠のいくつかは否定されると思われる。
’13年12月再見、案内表示の矢印や説明がなく、灯篭も各部がずれたまま中途半端に設置され一部損壊していて悲しくなった。私が否定したためだろうか。私見では否定したいが、だからといって灯篭をぞんざいに扱われることは悲しい。大切に保存し、説明版もつけ最後に一言否定説もあるとしてくれたらそれでよい。否定説も断定できないし、肯定説も断定できない。ただ今後否定説が有力になるだろうとは思います。 
*私見の「キリシタン灯篭疑問説と保存活用」についてはブログ内の別項目を御参照ください。文章が長引くのでここでは簡単に済ませました。
・しぐれ塚:松尾芭蕉の句碑。安東村長安寺が廃寺になったので明治十二年頃材木町の大村青渓氏が移したもの。石の右側に「芭蕉桃青居士ばしょうとうせいこじ」、左側に芭蕉の命日「元禄七年十月十二日」が刻まれていた。「きょうばかり人も年よれ初しぐれ」から時雨塚という。
・旭姫の墓:朝日姫とも書く。正式な墓所は大阪。こちらは家康が建てた墓。「豊臣秀吉の妹で徳川家康の正室であった。家康と駿府城に住んでいたが、京都に行き48歳で亡くなった。家康が東福寺から分骨してここに墓を作った。戒名:瑞龍寺殿」 
 ・説明版:豊臣秀吉公の異父妹で尾張の地士佐治日向守の妻、秀吉が小牧長久手の戦後家康と同盟関係を築くため妹を日向守と離別させ天正14(1586)年5月浜松城の家康の所へ嫁がせた。天正16年自分の母、大政所病気見舞いに上洛しそのまま天正18年1月自身も病気で没した。48歳。秀吉は京都東福寺に埋葬し「南明院殿光室総旭大姉」と諡(おくりな)し悲運な妹への供養を行った。家康と供に在った僅か2年、上洛後2年で病没し加えて前夫日向守は秀吉の仕打ちを憤り切腹し果てる誠に薄幸の身の上である。
一方家康は旭姫がしばし詣でていた当寺に墓を設け「瑞龍院殿光室総旭大禅定尼」と諡し祀った。
・新:燈籠(2)、・新:穏々の苑、・一石一字経寺塔、
・発掘された墓石:慶長十九甲寅~空風火水地本学~~~、・発掘された墓石:慶長十一丙午空風火水地笠岩~~~、
 説明版:この2本の石塔は昭和57年9月12日台風で墓地の一部が崩れ落ちてしまいました。その場所から掘り出されたものです。どなたのものか分かりませんが、今から約327年前に亡くなられた方と思われます。
・句碑:?、・板碑:宗季山本翁碑、・新:六地蔵、・新:南無釈迦牟尼仏、・新:水子地蔵尊、
・安倍軽便鉄道旧井宮駅前(井宮町6-1) (株)赤石工場前
・工場横の塀に旧井宮駅と山岡鉄舟邸址を示す看板が掛かっている。
・説明版:安倍鉄道跡、大正5(1916)年4月15日井宮から牛妻までの10㎞の軽便鉄道として開通。福田ケ谷ですれ違う単線で平日乗客は150人位。昭和7(1932)年に廃止された。
*安倍鉄道路線跡については別項目「安倍鉄道跡」を参照ください。
・山岡鉄舟邸址(水道町1-5) 魚仲増田商店(魚屋)前、先ほどの(株)赤石工場前に説明版  
・石碑:明治の初め徳川家について静岡に来て十分一の役人のいた家に住んだ、江戸城明け渡し等非常に功績のあった有名な人である。
 十分一:安倍川からいかだで運んできた木材、炭、杉皮等を十分一という役所で荷物の十分の一を税金として納めさせた所であったので、広い敷地建物があった。
・説明版:山岡鐵舟:鐵舟は戊辰戦争時、徳川慶喜の意を受け、江戸に迫る東征軍の陣地を突破して、大総督府の参謀西郷隆盛と駿府で直談判、江戸城無血開城への道を開き江戸を戦火の災厄から救うと共に徳川家の存続もなさしめた。後に西郷は、この時の山岡を「命もいらず名もいらず官位も金も要らぬ始末に困る人」と評して感嘆した。明治元(1868)年、駿府藩若年寄格幹事役、明治2年、静岡藩権大参事としてこの地に住み旧幕臣の無禄移住者の生計確保のために奔走し、城下の治安維持にも努めるなど八面六臂の活躍をした。さらに殖産興業にも意を尽くし、牧之原大茶園の実現や清水次郎長の富士の裾野開墾事業推進に尽力した。明治5年、西郷隆盛等の強い要請を受け、十年間の期限を切って明治天皇の侍従となり、青年天皇の人格形成に大きな影響を与え皇后からも絶大な信頼を得ていた。明治16年、清水区の補陀洛山鐵舟禅寺(元久能寺)建立を発願、明治43年、多くの人たちの支援により完成した。 平成22年4月吉日、静岡・山岡鉄舟会  山岡鉄舟邸址の記念石碑をここから北寄りの歩道上に再建した。
・石碑:山岡鐵舟:通称、鐵太郎、剣、禅、書の奥義を極めた明治の英傑。戊辰戦争時には、東征軍の参謀西郷隆盛と駿府で直談判し江戸城無血開城の合意を成した。明治2年には静岡藩権大参事としてこの地に住まい、藩政に多大な功績を残した。明治21年没、享年53歳従三位勲二等子爵、静岡市は鐵舟住居跡の記念碑を建てたが破損して撤去されたままであったため「静岡・山岡鐵舟会」の協力を得てこの碑を再建した。平成22年四月吉日、静岡市葵区水道町 町内会、
・大応国師産湯の井(井宮町76) 
1235年当地生まれ。1308年没。
・説明版:静岡市指定有形文化財(史跡) 、円通大応国師(南浦紹明なんぽじょうみょう)は1235年(嘉禎元年)旧駿河国安倍郡井宮村に生まれた。5歳の時服織村の建穂寺に入り、淨弁法師のもとで学び、鎌倉の蘭渓道隆禅師のもとでの修業を経て、中国(宋)に渡り臨済禅を修めた。帰国後は鎌倉の建長寺や九州大宰府の崇福寺等に住山し、大徳寺を開山した宗峰妙超や妙心寺を開山した法孫まごでしの関山慧玄かんざんえげんをはじめ、多くの弟子の育成に努めるなど、臨済宗の普及に功があった。この井戸は国師誕生のとき産湯の水を汲んだものと伝えられている。国師の遺跡として、郷土に残っている唯一のものである。平成13年8月、静岡市教育委員会、
・松樹院(井宮町248)(浄功院) 
・おみたらしの石仏 
・お薬師さん:薬師如来、善導大師作、 
・浄功院:家康長女死去により乳母が供養建立。明治期に合併。 
・燈籠、・祠石、・稲荷、・新:燈籠、・祠、・新:水子地蔵、・燈籠、・三界萬霊 元禄二己巳天、・新:燈籠、・新:永代供養塔、・常緑樹:大木1、中木1、
・松平忠明の墓(井宮町194-4)
 松樹院の少し北側の住宅地の路地を抜けた山腹斜面にある。
・説明版:九州の大名の子として生まれ、信濃の松平家の養子となる。信濃守。1798年幕府の命で北海道の奥地まで調査した。函館山頂に信濃守の詩碑がある。1802年駿府の城代となる。火災で粗末な仮の宮であった浅間神社再建の途中死去。駿府の人はありがたいご城代さんと呼んでいた。自分が死んだら浅間神社の木遣りの音頭の聴こえる所に葬ってほしいとの言葉に従ってここに墓を作った。
隣は古墓地である。・古墓地、
・静岡ホーム(井宮町183)(社会福祉施設)、
かつては井宮監獄、その後駿府城内の市民文化会館付近に移転、現在は静岡刑務所(東千代田3丁目) 
・井宮神社妙見宮(井宮町179) 
 一般的にはここからが安倍街道出発点となる。 
・籠鼻砦跡:賤機山城西端出丸、標高123m。 
・月承句碑、 ?句碑:辞世、
・保食稲荷:無実の女囚にまつわる悲しい物語が伝わる、井宮監獄が駿府公園に移転したためここに祀る、食べ物の神。、・祠:稲荷神社? ・稲荷(2):大正二年、 
・木鳥居、
・石碑:村社井宮神社 昭和十四年、・石碑:奉納 宅地拾壱坪 町内一同 大正拾年、
・石塔:(梵字)阿闍梨日海 雄大 僧林、・忠魂碑:明治四十年、・石階段:奉納 大正十年、・手洗石:、・手洗石:天保十一年、・石燈籠(2):、・狛犬(2):昭和六十年、
・石碑:天保六 雲泉~~~、・手洗石:明治九年・常夜燈:文政二、
・燈籠:文化十三、・燈籠:明治九年、燈籠:奉、・常緑樹:大木、
・石柵:(奉)納松永~~~、
・説明版:妙見山井宮神社:現在の拝殿は安永5(1776)年に再建されました。徳川家康が妙見菩薩(北斗七星の一つ破軍星)を祀ったので、妙見山の名の方が有名である。昔から妙見さんと呼ばれている。開運の神また薩摩土手の守護神でもある。北斗七星を祀ってあるので8月に七夕まつりをしている。
・説明版:徳川家康公跡地、安倍川石合戦見学地:臨済寺に人質の頃、山伝えに当社妙見宮に参拝され石合戦見学地と伝えられている。
・薩摩土手(籠上3-48) 
 徳川家康の命により薩摩藩が作った。家康からの命令だったためかなり気合を入れて作ったようだ。外様大名の薩摩藩の財力をそぎ落とす目的もあったようだ。これにより藁科川と安倍川が西で合流し今の安倍川東岸市中が安定することになり、現在の静岡市街のもとができた。
・薩摩土手の碑 
平成元年
・説明版:由来:薩摩土手は権現様堤つづみ、または一部ひやんどて火屋土手とも呼ばれ、江戸時代の始めに造られました。薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、旧静岡市史に掲載の天保13(1842)年に描かれた地図「駿府独案内すんぷひとりあんない」と言われています。静岡市史によると、慶長11(1606)年薩摩藩主島津忠恒公が徳川家康公の命によりここ井宮妙見下から弥勒まで約4㎞にわたって築堤したのが薩摩土手と言われています。この堤は、江戸時代以来、市民の生命と財産を守ってきましたが、今日都市化の進展の中で現存しているのはこの辺りだけとなっています。平成元年4月、静岡市、
・六部尊 
・堂、石塔、
・川除地蔵尊(水道町116)  
・地蔵:宝永四、・手洗石:昭和十七年、・堂、
・説明版:由来:水道町の川除地蔵尊は、井宮町にある泰雲山瑞龍寺の所属仏堂でありますが、水道町の「しばきり」即ち、最初から居住者であるといわれる故小林京作翁から私が聞いた川除地蔵尊の由来は次のとおりであります。
 今を去る780年前のこと、その年の9月9日(初9日)、19日(中の9日)、29日(弟9日)と3回にわたり、安倍川に大洪水がありました。その時はいわゆる「イノコナグラ」といわれる激浪が渦巻き、堅固であった一番水道の堤防も刻々危険に瀕しました。時の水利方役人松岡萬は、地蔵尊の仏体を菰に包んで堤防の上に安置し、治水を祈願しながら衆人を督励して、防水に専念していました。附近の住民はもとより、安倍川流域の、殊に一番水道より灌漑用水を取り入れている農民たちは非常に心配して地蔵堂に集まり、連日連夜の対策に協議を重ねました。しかしこの度重なる大出水に対しては施す術もなく、拱手傍観途方にくれておりました。そこへ一人の老僧(俗に六部さん)が現れ「この大難儀お察し申す。拙僧もはや老齢ゆえ、安倍川流域の人々のために人柱となってこの堤防を守り治水永久のご安泰を祈り申そう。」と申し出て、念仏を唱えながら従容として堤防の中に埋りました。その老僧が唱える念仏の鐘の音は、それから七日七夜、堤防の中から消えなかったといわれます。これに力を得た水利方を始め、衆人一体となっての防水作業が功を奏し、ついに事なきを得ました。この地蔵尊は、それまでは厄除地蔵尊として、地方の信仰が厚かったが、それ以来川除地蔵尊として衆人の信仰の的となったということです。現在の地蔵の尊体には、その背面に「宝永四(1707)年丁亥天二月吉日」と刻まれてあります。即ち今を去る277年前、中御門天皇の御代に再建されたものであります。昭和61年8月24日、水道町町内会、
・湯浅堤の碑(柳町161)  
・板碑:大正十三年、湯浅県知事が音頭をとって築いた堤防なのでこの名がある。
・洋館(籠上1)  
古橋氏邸宅、13年12月に見たところ、塗り直したばかりで新しく見える。
・安倍鉄道線路跡(籠上1と7)  
井宮小学校と古橋氏邸宅の間の道がかつての安倍鉄道線路跡である。
・賤機山城 
 標高173m頂上本丸、土塁、堀切が残存。徳川家康支配後廃城。 
・(周辺紹介)賎機温泉 美人の湯(籠上15) 
 近年採掘された温泉、日帰り温泉。賎機山山麓と平地の間に温泉が出ることを証明したといえる。理屈上は出やすいようですが、ただ温泉採掘は1回1億円で2回かかったので2億円経費がかかったということのようです。
・難波神社 
 明治以前、小字の難波(どうも円成寺の南側)にあったが、1909年白髭神社に合祀。 
・円成寺(籠上18) 
 1720年頃創建。仏堂内成庵と種徳院が合併し臨済宗妙心寺派となる。本尊:薬師如来。 
・新:狛犬(2対):、・庚申塔:□政十二年、・地蔵:法華一千部之塔 文政三歳庚辰、・新:子育水子地蔵尊、・新:福神堂(大黒様、布袋様コレクション200~250体):大黒様布袋様好きなら一見の価値あり、おもしろ~い、・句碑:、・庭に新諸石仏多数、
・地蔵堂(籠上21) 
 長栄寺参道入り口 
・玉井山長栄寺(籠上24) 
1597年開基。本尊:聖観音。
・説明版:宗派:曹洞宗(禅宗)、当山は慶長2(1597)年に開創され、禅宗三派中の曹洞宗み属し、御本山は福井県の永平寺と、横浜市鶴見区の総持寺の両大本山であります。寺名の由来は、開基甫庵長栄の法名により、長栄寺と称されました。当山、本堂に安置されるご本尊は、古来より信仰深く衆生済度の仏様であります聖観世音菩薩でございます。境内には本堂、位牌堂、庫裏、山門と、夢のお告げによる井戸の中より出現された千手観音様を祀る観音堂と、その井戸が山裾にあります。また駿河一国札所の地蔵様が祀られております。なお著名人の墓も数基あり、本堂前左側には珍しい菩提樹の木があります。
・井戸観音:伝説では今川義元が桶狭間で討ち死に後、婦人が家宝の千手観音を敵に渡さぬため、この井戸に沈めた。後に僧が夢のお告げにより拾い、堂を建てて祀った。 
・説明版:井戸出現観音の由来(聖観音菩薩様):その昔、永禄十(1568)年武田信玄が駿河に侵攻し、今川家七代目氏親うじちかが滅ぼされた。その折賎機山の砦におられし姫君が重臣と供に狩野城麓の菩提寺慈悲山増善寺に庇護を頂くよう尾根伝いに当地へ降りられました。しかし昔は賎機山と対岸慈悲尾の間がすべて安倍川の河川敷であったため対岸まで家宝を持っては渡れなかった。そこで姫君は今川家の家宝、聖観音像を何人かに託したいとの思いで、この井戸に投入されました。後年幸いにもその観音様がこの井戸より発見され井戸出現観音様と称され、金色に輝くご本尊様として、深く信仰を頂き現在に至っております。平成22年12月吉日、玉井山長栄寺、
・玉の井:寺の裏にあり、伝説では弘法大師作の観音がこの井から出現した。出現井戸、 
・(欠):馬頭11基以上すべて欠損、如来:けっか座位2、・コンクリ手洗石:、・玉井山長栄寺本堂建設記念碑 昭和四十九年、・石塔:△寛文十二ニ壬子 一郷心信(行人偏に奇の字)庚申~(1672)、・新:燈籠2、・石塔:観世音出現之井 西国三十三所 秩父三十三所 観世音菩薩 天明六、・新:家石道祖神、・新:厄除平和観音、・新:慰霊塔 永代供養の塔 安らぎの塔、・新:水子地蔵尊、・西国秩父供養塔 文化六己巳、・菩提樹、
・新:六地蔵:説明版:お地蔵様の信仰は、中国では1340年ほど前、日本ではおよそ1240年前のようです。その中で六地蔵様の信仰は約890年前に始まったとされております。お地蔵さまは、この世の中のすべての人を極楽に送り届けるということを請願されました。この世というものは、仏教では六道、つまり六通りの世界のことを言います。六通りの世界が色々組み合わされてできあがっているので、ある時は争い、ある時は苦しみ、ある時は笑いあって人々は生活しているのです。六地蔵様は、それぞれ六つの世界を、一つずつ分担して救い守って下さるのです。延命地蔵様、水子地蔵様、六地蔵様と、名前はそれぞれ異なっても、後生、現世、来世にわたり、長い間救い続けて下さる仏様です。一回でも多くの御縁を結び、お参り下さることをお勧めいたします。
・白髭神社(籠上28) 
1812年再建。1846年白髭神社と改称。・コンクリ鳥居:昭和五十八年、・手洗石:昭和弐年、 
・貴庵寺、地蔵尊堂(昭府町、昭府2丁目32) 
 寺山峰への登山口。・西国秩父壱国供養塔 施主勘四郎 □(長反)安□四月、・庚申供養 寛延四辛未、・石塔:?読、・奉巡礼西国秩父坂東南無観世音菩薩供養(羊良) 寛政九、・板碑:新:寄贈檀徒一同、・新:地蔵、・新:五輪塔:海野家遠祖各霊菩提、・馬頭観世音菩薩 籠上新田望月清作建之、・新:燈籠2、・六地蔵+地蔵 寛永五年?、・新:手洗石:、・新:合葬塔、
・菖蒲神社(昭府町、昭府2丁目32)  
・コンクリ鳥居、・変形家コンクリ道祖神、
・白髭神社(新伝馬3丁目14) 
・石鳥居:御大典記念 昭和三年、・手洗石:平成23年、
・説明:略記:祭神:建内宿弥命たてうちのすくねのみこと、八街比古命やちまたのひこのみこと、八街比賣命やちまたのひめのみこと、所在地:静岡市新伝馬3丁目14番3号、祭儀:元旦祭1月1日、茅の輪くぐり祭6月30日、例大祭(日待祭)10月中旬、七五三祭11月中旬、由緒:創建の年月は不明であるが駿河志料等によると伝馬町新田は宝永年間(1704~1711)に開村され、貴庵寺(現、昭府町)境内に鎮座する左口神社を氏神として奉祭してきた。弘化3(1846)年に現所在地に新殿を建て、建内宿弥命を奉祀し併せて従来信仰してきた左口神社の祭神、八街比古命、八街比賣命を祀って白髭神社と称して以来、一村の氏神として信仰した。明治8(1875)年伝馬町新田全域の氏神として村社に指定され県の神社明細帳に登載された。本殿、拝殿は昭和16年に改築され、現在のものは平成16年に町民、氏子の浄財寄進により再建したものである。祭神のご神徳:①建内宿弥命は国の政治に非常に功績があり日本の国で初めて大臣となされた方で出世の神、長寿の神、子孫繁栄の神、として信仰される。②八街比古命と八街比賣命は夫婦の神で共にこの町内に外部から悪い病気や災害が入ってくるのを防ぎ氏子の安全を守って下さる神様である。
・松富団地入口(松富上組、松富1丁目) 
 現街道(県道井川湖御幸線)より東の山側にほんの少し狭い道跡がある。これが近代の道だろう。再整備されつつあり近代あるいは街中に残る古街道の景色は消えうせるようだ。13年12月に山側の古く狭い道跡は道路拡幅工事により完全消滅した。
・石塔:天下泰平 宝暦八戌寅 駿州安倍郡松富村 ○日本廻国六十六部供養塔 国土安全十月吉祥日 願主 藤浪定右衛門 
・石塔:△ □□□ 
・白髭神社(松富2丁目-8) 
・手洗石:、・石鳥居:大正十年、・石碑:、・神社名碑:村社白髭神社、・石柱:明治四十二年八月指定神饌幣錦(金なし)料供進指定社 
説明版:お祀りしてある神様:祭神名:武内宿祢命たけのうちすくねのみこと(長生の神様)、品陀和気命ほんだわけのみこと(武運の神様)、須佐之男命すさのおのみこと(農業の神様)、菅原道真公すがわらみちざねこう(学問の神様)、瀬織津姫命せおりつひめのみこと(水の神様)、例祭日:10月17日、由緒:創建年月は不詳であるが、慶長2(1597)年2月に再建された。
・板碑(松富3丁目2、町内公民館)  
・板碑:合併記念碑 昭和七年、・板碑:耕地整理碑 昭和五年、
・富慶寺(松富3丁目7)  
・新:永代供養塔、・石燈籠、・新:子持地蔵尊、・新:六地蔵、・新:延命地蔵尊、・不動明王堂、・五輪塔:土水火、・地蔵、・地蔵か墓石?
・地蔵堂、白髭神社(上伝馬26-10) 
・地蔵堂裏に墓石4基、・石塔:七世父母六観音□為 正慎六亥辰七月(正徳六丙申七月なのか?)、・石塔:読?、・石塔、
・木鳥居、・石:家:道祖神:稲荷、
・白髭神社(与一6丁目13‐16) 
・木鳥居:平成二十四年、・庚申塔:昭和五十五年、・小川地蔵尊 海蔵寺、・庚申塔:文政石?年、・手洗石2:明治三十一年十月、神木2:杉、
・與一右衛門新田開発人 與一右衛門碑 平成十二年:説明版:わが町与一は宝暦元(1751)年奥津与一右衛門の手により開基、以来250年間、度重なる安倍川水禍をも克服し、今や戸数1400、ますますの飛躍疑いなく、ここに与一開基250年を記念し、奥津家継嗣にして志太郡大井川町宗高より移り越したる池ヶ谷一門によりこの碑を建立するものなり。平成12年10月吉日、
・石仏(松富上組4‐3、運転免許試験場入口バス停近く、水神橋近く)  
・馬頭:天保十二年、山際に祀られている。 
・道祖神、水神宮(松富4丁目9)
・石:家:道祖神、・水神宮 松富講中 明治二拾七年、市立北部体育館方面入口手前
・恩愛の像(与一6丁目17 市立北部図書館) 
・恩愛の像:元駿府公園内設置:説明版:この像は昭和37年児童会館の開館5周年を記念して建てられたものです。本文:しろがねもくがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも 銀母金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米弥母  山上憶良「万葉集」より  意味:金や銀や宝石なんて何の役に立つのでしょう。それよりすぐれた宝としては、自分の子にかなうものはありません。」といった意味で、わが子を思う親の気持ちをみごとに歌い上げています。 
・川除地蔵堂、石塔類(福田ヶ谷328)、福田ヶ谷公民館東側丘上  
・川除地蔵堂、・地蔵、・庚申供養塔 安永三、・庚申塔 昭和五十五年、石塔?、・馬頭?、・地蔵?欠、・観音?欠、・観音?欠、・馬頭、・如来?座像、・妙法馬頭観音、・馬頭 昭和二年一月 川村浅左エ門、・馬頭:?天明二、馬頭:昭和二十二年二月建之 川村兼吉 
・日枝神社(福田ヶ谷779)  
・コンクリ鳥居、・手洗石、
 説明版:鎮座地:静岡市葵区福田ケ谷779番地、神社名:日枝神社(宗教法人登記昭和27年元月)、創建不詳、安永七年四月二日再建、旧社格村社明治8年2月、現在の拝殿は昭和53年新築、祭神名:大山咋命おおやまくいのみこと(山を支配し平野の繁栄を守る大神)、御神徳:聡明長寿、家内安全、五穀豊穣、産業繁栄、例祭日:10月17日、神社有地1254平方m、工作物:本殿、拝殿、その他、
隣の大塚氏裏山畑で白ヤギ飼育中(13年12月)
・石仏(福田ケ谷52)  
・六地蔵、・三界萬霊等 文化四年、
・諸岡山(下122)  
・「有功堤之碑、明治26年(1893)」、
説明版: 有功堤之碑:この石碑は明治26(1893)年従一位勲一等近衛忠煕篆額このえただひろてんがく、権中教正祝部宿祢生源寺平格ごんのちゅうきょうはふりべすくねしょうげんじへいかく、撰文静岡県知事従四位勲四等小松原英太郎書による記念碑である。この有功堤というのは山脇から諸岡山に繋がる堤防の内、諸岡山の自然堤を利用して、仮定(ヒジマガリ)という堤防の作りによって、そこに一旦水を溜めて水流の勢いを弱めて下流に流す仕組みの堤防である。この仕組みの堤防が安政元(1854)年に駿河国に大地震が生じ大谷崩れが生じた上に翌年6月30日の大洪水によって堤防は決壊して流域の町村の人々と田畑に多大の損害を与えた。明治七年稲葉利平が中心となって工役を督し、元の堤防に復旧した。それ以来一度も水害がなくなった。明治26年11月にこの堤防と人々の功績を讃えて建立された。下郷土誌作成委員会、
・「文化五□□年 奉納百八十八番供養塔 □本清拾郎」、「文化二年十一月吉日 庚申塔」、「文政五歳□年 奉納百八十八番供養塔 七月吉日 願主幸四」、「紀元二千六百年記念 庚申供養塔 昭和十五庚辰年三月 上之谷講中」、「昭和五十五年 庚申塔」、文殊地蔵、三十三身観音、普賢菩薩、観音堂、「忠魂ノ碑」、「戦没者慰霊碑」、・地蔵?欠:寛政十二歳、 
・養秀寺(下122)  
・「東宮殿下御成婚奉祝記念、大正13年」(13年12月未発見)、・馬頭観音「」(13年12月未発見)、・庚申塔 文化二、・庚申供養塔 □□歳、・禁葷酒(埋設)、・新:地蔵:杉村隆風、・如来?観音?墓石?:寛政十二年、・新:水子地蔵、
 養秀寺門前石垣は鯨陽学校跡の石垣である。この学校が賤機南小学校前身で、この地域の近代教育の礎である。鯨陽学校より前には積善舎という私塾があった。 
・石碑(下134-2) 
・石碑:幕末志士稲葉彦兵衛出生地 大正十三年、
・上之谷、堂の藪跡地(下77)
・「庚申塔 吉文政七(1824)歳□ 甲申二月二十六日」、・他墓石4基、 
・三輪神社(下226)  
・鰐口「永正3(1506)年」、・コンクリ鳥居:昭和八年、・石燈籠2、・手洗石、・狛犬2、 
・福成神社(下)  
 賤機山最高地点、近世には神社が祀られていたようだ。近年整備され整っている。
・新:狛犬2:、 
・南無観世音菩薩、馬頭観音(下1088)、安倍街道土手の切通し  
観音「文政四(1821)」、馬頭観音「明和六(1769)年、九月建之」、「十一面 馬頭観音 供養塔」
・説明版:南無聖観世音菩薩(土手観音様)由来:昔旧安倍郡賎機村下字山脇地域において、流行病(悪熱)が発生したといわれている。それゆえ当地域では病を退治するため、文政4(1821)年巳七月、聖観音を土手の上に建立し祀り悪病を防いできた。それ以来当地域は健康で明るい地として栄え以来180余年にわたり土手の観音様と崇められ、皆に親しまれている。このたび第二東名工事が行われることから、やむなくこの地に観音様を移すこととした。 
・鯨ヶ池(下)、御用水(下284)  
 鯨ヶ池八景(福成の秋月、鴻巣の夜雨、窪田の落雁、大平の暮雪、御殿場の晴嵐、山田の帰帆、和田の夕照、諸岡の晩鐘)
 湧き水を元にする。戦前菱が生えていて食用にしていた。
 安倍街道鯨ヶ池出入口前に鯨ヶ池から流れてきた用水がある。これが街道に沿って南下し駿府城堀の水になったので、御用水という。この地点から堤防が賤機中学校東側を通り南から諸岡山北につながっていた。これを「有功堤」という。 
御用水 
・弁財天、宗像神社(下544)、鯨ヶ池脇  
 弁天様「明治3年」
・桜峠、地蔵(下554、北)  
 地蔵「明和3(1766)年」 
・昼井戸(下832)  
 稲葉家横、道路から見られる。単なる側溝として見落としてしまうほど、地味で目立たないが、ちょろちょろと今でも少しずつ透明な清水が湧くようだ。 
・石碑(下714-4)  
・石碑:大平農道完成記念碑 昭和五十六年、
門屋からの鼓平農道と山頂鼓平で合流して門屋までつながっている。13年12月俵峰までの林道開設中。
・水天神(門屋99、静岡市水道局門屋浄水場敷地内) 
・鳥居、社、
・門屋番所関所(門屋387)  
 街道横の白鳥家の辺りがかつての関所番所らしい。
・宝寿院(門屋639)  
 曹洞宗、本尊:阿弥陀如来、かつては地蔵堂と大日堂もあった。本堂北側は改修されてしまったが、かつてここに勝海舟の別荘の海舟庵があった。
・内野紀伊守藤原宗重 寛政十戌午歳、・庚申供養塔 文政十三、・奉待庚申供養塔 享保五、・観音、・地蔵:文化□、・六地蔵、・燈籠、・石碑3、・新:百観音、・板碑:忠魂碑、・欠:宝篋印塔か五輪塔の相輪か空輪らしき?
・勝海舟屋敷跡:説明版:勝海舟(1823~1899)は、江戸末期の幕臣として生まれ、通称麟太郎といった。幕末の騒然とした時世にあって、蘭学、兵学に通じ、幕府海軍の育成に尽力した。万延元(1860)年咸臨丸艦長として、遣米使節を乗せ我が国で初めて太平洋を横断した。そして明治維新の際には、幕府の陸軍総裁として山岡鉄舟を使者に立て、官軍の参謀であった西郷隆盛と会見し、江戸城の無血入場、徳川家の家名存続、慶喜助命に成功したことはあまりにも有名である。明治維新後、多くの幕臣は、元将軍慶喜の後を追って静岡へ移り住んだが、海舟一家も静岡市鷹匠町に居を構えた。海舟は旧幕臣の面倒を見る傍ら新政府の仕事をするなど、多忙な日々を過ごしていた。この頃ここ門屋の名主、白鳥惣左衛門と親交が始まり、頻繁に門屋を訪れた海舟は、この地の美しい自然に強く心をひかれ、母信子の隠居所として白鳥家の一寓を借りて孝養をしたいと念願した。しかし母は息子の孝心にもかかわらず間もなく他界した。その後海舟は少しの暇を見つけてはここ門屋の家に来て、秘かに要人と会い、また村人と肩の凝らないひと時を楽しんだ。この家屋は、その後白鳥家の屋敷内に移されていたが、昭和32年宝寿院境内に再度移築され現存されている。昭和60年1月、静岡市、
 *宝寿院和尚榑林雅雄氏によれば、その後息子夫婦の家として新築し直したそうだ。昔の家屋は消失したようだ。
・八幡神社(門屋542‐1) 
 創建不明、1713年再建、・コンクリ鳥居、・コンクリ燈籠2、・手洗石、・石:家:道祖神、 
・石碑:鼓平農道完成記念 昭和51年7月(門屋) 
 門屋奥から鼓平山頂まで舗装され下の昼井戸からの大平農道とつながる。13年12月俵峰までの林道開設中。
・三味線滝、小僧沢、御殿場の御殿石、鼓平、ばんば、 
滝や沢は門屋前を流れる沢を奥に詰めたところで途中まで農道で遡れる。皷平は農道を上り詰めて昼井戸との境の尾根の平らな茶畑の辺りで、かつて家康が鼓を打ったという伝説がある。
・三峯講(門屋390)  
・祠:三峯講、・祠:地蔵2、
・天神(門屋381) 
・観音、・天神之宮:祠、・新:燈籠、天神橋近く
・白澤神社(牛妻1139)  
 創建不明、1805年再建、付近に鉱泉、宝物跡、・石鳥居:大正五年、
・説明看板:延喜式内白澤神社 静岡市牛妻1139番地:鎮座、御祭神:伊邪那美命いざなみのみこと、建御名方命たけみなかたのみこと(諏訪神社)、大雀命おさざぎのみこと(若宮八幡)、木花佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと(浅間神社)、例祭日:10月17日、御由緒:当神社創祀年月不詳。牛妻の開村と共に祀り始められたものと思われます。惣国風土記という古い書物に「白澤神社伊邪那美尊を祭る。和銅三(710)年元明天皇の御代に諏訪神社を添えて祭る。」という意味のことが書かれてあり、更に延喜五(905)年醍醐天皇の勅命に依り編纂された延喜式神名帳には「駿河国安倍郡白澤神社国幣小社。」と登載されています。これにより1200余年の昔には既に存在したことが証明され、また1090年の古より延喜式内の神社として、毎年の大祭に駿河の国府より国幣が献納された静岡市でも最も古い貴い神社であることが分かります。而して当神社は牛妻の氏神、産土神として村人を始め遠近の多くの人々の敬慕、信仰を集めて参りました。明治38年に牛妻地内の若宮八幡宮と浅間神社を合祀致しました。現在の社殿は昭和13年に改築したものであります。御神徳: 伊邪那美命=母性愛の神、安産の神、寿命を司る神、建御名方命=開拓の神、殖産興業の神、大雀命=富国救民の神、慈悲の神、木花佐久夜毘売命=美の神、婦徳の神、
・日陰山、観音滝 
・牛妻原会館(牛妻625) 
・祠、
・牛妻不動ノ滝、不動尊(牛妻丹野)、少女滝、聖滝、扇窪 
・庚申供養塔 寛政十二年、丹野集落内、彫りが立派である。(牛妻1564‐1) 
・丹野会館(牛妻1957):地蔵、
・不動の滝:不動堂、
・稲荷神社(牛妻) 
 
・安倍鉄道旧牛妻駅跡(牛妻) 
・県道沿い小萩橋より西の安倍川側の細い道で北へ向かうのが鉄道跡で牛妻保育園辺りが駅構内と思われる。小萩橋より南は県道より東側の道で門屋との境の天神橋辺りまでである。それより南は今の県道の西沿いを下の堤防(新東名)まで行くと思われる。
*詳細は別項目「安倍鉄道跡」を参照ください。
・牛妻水神社(牛妻2252) 
・曙橋袂:東海自然歩道標識や説明版等、
・祠:地蔵(大2、小多数)三界萬霊、・馬頭:欠、・馬頭:昭和四年、・不動明王?、・馬頭:昭和四十四年、・地蔵、
・水神祠、・コンクリ鳥居、・石:家:道祖神2、
・板碑:東西両岸道路開通 静岡県知事斎藤滋与志
・福寿院(牛妻2233) 
 曹洞宗、1619年開基、かつては行翁山奥のごうりんにあったが移転したらしい。ごうりんから五輪塔を移したといわれる。寺門前に石塔がある。
・「葷酒不入寺内」、・石塔:東海自然歩道十二支観音 第一番札所龍爪山福寿院、・石塔、・石塔、・観音、・石仏:欠、・新:石仏、・句碑、・観音堂、・燈籠4、・新:六地蔵、・地蔵、 
・津島神社(牛妻2233) 
 福寿院墓地横で祠3、祠手前に神木の杉大木2本。
・コンクリ鳥居:昭和三年、
・説明版掲示:国幣小社津島神社本社由緒略(田と各を上下に記述)記:所在地:愛知県海部郡津島町向島、名古屋より西へ五里、東海道線名古屋駅前柳橋より津島電車にて約40分、尾交一之宮駅より尾西電車にて約40分、関西線麗?富駅を電車にて約20分、御祭祀、御祭神:素鳶鳴尊すさのおのみこと、天照皇大御神の御弟袖にまします世俗□唱へ奉る大神なり、相殿 大冗牟遅命、またの御名大国主命と申し素鳶鳴尊の尚女神にまして世俗大国様と唱へ奉る大神なり、二柱の大神の御神秘の大要を称へ来れば武運長久勝利開運の神として
○方除厄除殊に悪病退治除去の守護神として
○縁結び及家庭円満の守護神として
○文学の祖神、特に歌道の守護神として
○造酒の守護神として偉大なる御神秘を題し給ふ
由緒:欽明天皇元年庚申六月朔日の御鎮座にして古来日本総社津島牛頭天王と称し皇室の崇敬は固より部門武将殊に織田信長豊臣秀吉徳川家康の崇敬最も厚く四条天皇の仁治年中本社造営遷宮の事あり、後亀山天皇の弘和元年辛酉冬大橋三河守貞省勅を奉じて本社を造営し永享九年丁巳十二月五日足利六代将軍義教続いて造営し文明四年壬辰六月六日足利八代将軍義政の命により又永禄八年乙丑十一月二十日足利十三代将軍義輝の命により造営遷宮の事あり天正の頃伊田信長殊に尊崇して本殿を始め楼門回廊に至るまで屡々修復を加え或は神領神器を寄付し奉れり文禄二年己巳豊臣秀吉又造営し慶長十年乙巳清州城主松平忠吉殿舎を修理し元和五年己来徳川二代将軍秀忠再び修理を加えらる慶安三年己丑尾張僕義直厠御神供所及橋等を造営し爾来必要に応じ修理材料及料銀等寄付あり、又尾張僕に祖先以来正月九日代参使を立てられ幣□料を奉納せらるるを恒例とせらる、亦者府よりは向島一園の地石一千二百九十三石九斗六合を寄付して神領に充て、其の他の待遇も熱田神宮眞清田神社と同格に受け給ひ後世に到り尾張五社の一つとして四氏の奉紫驚く神威林如として近きは関苅、遠きは樺太興料満州及宗邦人に並び参拝者は四対陸続として絶ゆることなし。
建物:本殿、渡殿、祭文殿、廻廊、拝殿、楼門、神庫、遂箱、絵馬堂、神水授与所、社務所、神水調整所、神苑亭等にして現在の本殿は特別保護建築物なり、其他の建物も本殿に準ずべき優秀な建築にて何れも朱塗宏麗を極む。
攝末社:約四十社ありて重なるは攝社居森社に御魂社と称し元此地に鎮り給ひしと云い傳ふ、攝社称五郎殿併堀田弥五郎正兼の建立にかかる故に此称あり。攝社八柱社、和御魂社、荒御魂社にして境内境外に奉斎す。
寶物:古鏡数十面、霊元天皇御直筆、後桃園天皇御□筆、織田信長書、国宝太刀大原真守作、国宝剣長船□党を初め多数の宝物、古文書を蔵す。
氏子:津島町約参千五百戸当社の氏子に属し殊に大宮向島に古来より神領として縁故最も多し。
附属講社:神社直轄の講社ありて太々講とす津島神社、宮司是が総理となり社殿一切を統括し神社を□□□の間に結社使ありて一カ事を称□を何人にても入社して社□たることと殊に神社は謙社の島の毎年一月十五日併に四月一日より三十一日間とに家運長久家内安全の□□を執行し四月中は毎日二回神□を勤行す。講社員は毎年金五拾銭を奉納し参拝なべる様に程々の待遇を受け現在□□は約参拾五□金に□□、益々隆昌に向ひつつあって菱大なる御神従に浴す。
附近名所:天王川、天王池とも称す。  有名なる銘祭は毎年陰暦六月十四日十五日此の池にて執り行はせらる車案の妙音は神入共に感動、万燈の蝋燭に天を発し地に転じて社麗□なし、遠近より宿でも拝観するも無慶数十等、名古屋鉄道社終夜間断なく運転池辺の公会堂には無料宿泊所を設け貧者に便宜を與ふ。  池の周囲の根上には桜楓満開春秋は美観を極め殊に或夏の候は納涼絶好の池なり。池の附設地に大スタンドあり。當に重要せらる。  昭和四年五月二十一日 本社参拝(参詣)記念  奉納  荻野力蔵  
 *撮影した写真の具合がよくなく読めない字があり、適当に字を当てたため意味不明な個所が多い。済みません。といってやり直す気にならないのでこのままです。 
・石塔:?読、神社より北50m、
・石:家:道祖神2、集落内、
・石塔(牛妻公民館2215-2) 
・馬頭:昭和五年六月、・有縁無縁□□等、・?馬頭:、・庚申塔:昭和五十五年、・石塔:?読、・庚申供養塔 大正九庚申年、・庚申供養塔 寛政十二年、
・森谷沢 
・道路開通之碑 昭和二十七年、
・馬頭、・馬頭大正十年:、・石塔、
・火の見櫓
・地蔵:森谷沢公民館横(牛妻2694)
・えんま淵、鬼穴:現在「安倍ごころセンター」に改変され消失したろう。 
・四足門 
 松永家、徳川家拝領の茶碗 
・地蔵:旧街道道端側壁
・樽下滝、昇竜滝、 
・石:家:道祖神(牛妻3108)
・泣姫、恋の淵、コンクリ家型道祖神、椿の木、(牛妻3108)
・付近に案内板:泣姫、鳴沢の滝、行翁山、案内板より右折50m、
・説明版:泣姫の由来についていくつかの話が伝わっている。漣昇山武昇院院主連昇氏が泣姫さんについて書いたものの中では、「武田勝頼公の奥方清州姫は慶長17年、子供と別れ別れになり行方を尋ね安倍奥地に向かう途中、勝頼公自害の報を聞き53歳で後を追った。」と記されています。いずれにしても泣姫伝説には子供を想う母の姿が語られており、それが夜泣きを治してくれるという信仰になっていったと思われます。
・説明版:泣き姫:樹齢数百年の椿の古木と大きな岩石、早春には見事な花が咲き満開となります。「小萩」は祖益の悶死後、その後を追い「恋の淵」に身を投げたので淵にその名がつけられ、また小萩を憐れんで「なきひめ」として祀ったといわれています。また武田の残党某が行翁山に逃れてきて、行者として仏門に入りましたが、後を追ってきた妻は夫に会えないため、恋の淵に身を投じ、里人は美人の人妻を憐れんで祀ったともいいます。また行方不明になった夫を探して行き倒れになった美人の人妻を祀ったともいいます。
 このように三つの説がありますが、この世の離別の悲しみのあまり、無常をうらんで死んでいった同情すべき女性であったことは、三者共通しています。この泣き姫は夜泣きの児を治す霊験はあらたかで、遠くの静岡の方からも伝え聞いて参詣に来たといいます。願いが成就すると、そのおはたしとして人形やお菓子を供えて帰ります。今行っても必ず一つ二つの人形があげられています。泣きひめの 碑にしみとおる 春しぐれ   海哉、牛妻町内会
・鳴沢滝、行翁二の滝、行翁一の滝、垢離の淵、 
・説明版:鳴沢は行翁山から沢を登った山腹にゴウリンと呼ばれる所が伝えられ、かつて寺があったといわれています。この寺の鐘が山津波によって押し出され鐘が鳴りながら下った沢が鳴沢といわれています。
・上記案内板より奥に直進100m、そこから更に奥に徒歩300m、
・行翁山、ごうりん 
・案内板より泣姫過ぎて自動車道500m、そこから更に徒歩で登山道40分、
・説明版:昔この山に行翁という行者が住んでいました。行翁は第49代光仁天皇の宝亀9(778)年6月、京都の音羽の滝を出て衆生済度のため、この地にやって来たと伝えられています。洞窟に住み、その跡は現在もあり頂上の行翁堂には翁が履いていた鉄下駄と鉄の杖が残されており、山岳宗教修験道の場所と伝えられています。
行き方は、泣き姫前農道を上り農道終点に至る。そこから奥へ登山道を7分登って分岐点に最初の石仏がある。
・観音:「左ワ行園山」の文字が観音の左、見ている人からは右に記入されている、牛妻分岐点にある。更に山腹の斜面を左に横平行に20分歩くと二番目の石仏がある。
・地蔵:「左ワ行園山」の文字が観音の左、見ている人からは右に記入されている、牛妻分岐点から3分の2ほど行った尾根をまたぐ所にある。
そこから15分で沢場に到着するが、そこが頂上ではなく、もう3分登るとお堂があり頂上である。
・行翁山の碑:行翁山 弘化二乙巳(1845)年三月建立之府中安西□屋安全 南無阿弥陀佛 平森谷澤安全、 刻字が綺麗で四面とも書体を変え見事な彫りで美術的価値がある。
・石祠:家型道祖神:「阿弥陀佛」、
・地蔵:天明二年、
・石塔:開山行翁 明治十八年、本堂裏側安置、 
・木祠:
牛見石、掛軸(望月家)、鉄下駄、鉄杖、 
・行者穴:人為的に彫られた穴で堂の右崖下に横穴がある。穴を掘ること自体が修業だったのだろうか。この穴の大きさだと人が寝泊まり可能であろう。
・三界の滝:滝が3段に落ち見事である。・説明版:滝の悲話:武田の武人の妻が修業中の夫を尋ねて当山へ来たが落人狩りに襲われ死亡したと聞き、悲しみ入水したという。
・本堂裏に細い登山道が続き竜爪山に至るようだ。その途中にかつて寺のあったごうりんという場所もあるようだ(未調査)。寺のすぐ裏は切り立った崖上の細尾根登山道で、いかにも修験者の修験道という趣である。こういう切り立った細尾根道をよくきん冷やしとかきん縮みということがある。肝を冷やすと同意味であり、きんはきんたまの意である。行翁山周辺はいかにも修験場にふさわしい。
・庚申塔(森谷沢、平、丹野、中沢)? 
 
・養福寺(油山1295)、 
 本尊:観世音菩薩、開山:1601年、・石塔、・石塔、・石燈籠、 
・白髭神社(油山945) 
 寺の手前の尾根先端丘上にある。・板碑:耕地整理、・手洗石、・石鳥居、
・油山温泉 
 油山より奥へ1.5km。
*地名の「油山」の油等の「油~」は「湯」と同義である。つまり「油山」は「湯山」の意で湯のある山で、文字通り温泉のある山で油山温泉である。
・油山山日月龍神社(油山1836) 
 湯の島分岐点手前道路横の山腹斜面にある。・石塔3「龍爪安倍川 元主、龍爪油山之光、龍爪松野大怨霊」、木鳥居、
・栗島峠(湯の島峠)H450m 
 湯の島と栗島を結ぶ峠道で国土地理院地図上ではルートが示されているが、12年1月2日廃道、湯の島よりH300m辺りで倒木や道不明で通行不可。
 この峠道を再生し使えるようになると、1本北側の峠道「油山峠(相沢峠)(東海自然歩道)」とともに使えるようになり、油山温泉やホテルりんどうを含み、油山温泉―油山峠―相沢―栗島―栗島峠―油山温泉という周回往復ルートになって同じ道をピストンせずに往復できてハイキングコースとしては使い勝手がよくなる。相沢や栗島の集落は古い石仏、お堂、優秀賞花壇、足様神社等があってそこもハイキングコースとしてよい。 
・油山峠(相沢峠)(東海自然歩道)H400m 
 油山温泉より200m奥の沢を渡り(H180m)南西に進む。東海自然歩道なので標識、道の安全状態はよい。多分迷いにくい。一部急坂やガレ場はあるが登山初心者向き、家族向きハイキングコース。峠(H400m)は植林で展望なし、ベンチあり。油山峠からトワ山東ピークに尾根沿いに行けるはずだが不明。(’12 10/14 玉川トレイルレースコースとして復活。)相沢側はさらに補修された安全なコースだが、一部沢沿いのガレ場上コースなのでちょくちょくガレるのだろう。豪雨や地震直後はコースがガレやすいだろう。相沢のホテルりんどう前に出る。
・油山稲荷神社(松野30)、
・祠:平成24年、
・板碑:農道完成記念 平成8年竣工、
・石塔(松野187、県道側壁) 
・馬頭:昭和三年、・?地蔵:□□□十年、・石塔:?大乗経典か庚申か
・薬師堂(松野813、阿弥陀仏像、木像、平安後期) 
 河段段丘の茶畑内墓地の横。河段段丘になっている茶畑の辺り一面は別所平遺跡という。この岡上の平地は河段段丘といって、かつての河原が隆起したものである。この仏像はかつて200m西の山に寺があり、そこにあったという。この河段段丘にかつて文化の華が開いたのだ。石塔:「瀬川氏之碑 松野区 昭和三年十一月」「信州善光寺 西国三十三所 四国八十八箇所 供養塔 安政三」「庚申供養等 安永五」、句碑。
・「やくさんの井戸」、地蔵。
・松源寺(松野148) 
・板碑:西国三十三所観世音菩薩 大正十年、・地蔵、・地蔵、・(梵字)地神塔、新・六地蔵、・殉国英霊の碑、・新:永代供養塔、
・松野城跡(松野) 
 河段段丘の西の山で農道を詰めた所。
・石造物(松野1040‐1)  
・石塔、・庚申供養塔 大正六庚申年、
・白髭神社(松野1350) 
 丘上、灯篭2、
・三島神社(津渡野198‐3) 
 蔵王権現も祀る、神社の裏山を津渡野遺跡といい、さらにその上が城跡である。
・石鳥居:、・石碑:竣工記念 昭和五十九年、
・石造物(津渡野248) 
・庚申塔 安永十年、・欠:観音、・○三界萬霊等 文政三、
・寶津院(津渡野328) 
 臨済宗、・堂、・地蔵、・新:地蔵、・石仏、板碑:静霊、・燈籠、・六地蔵+1、・地蔵、・新:聖母観音、・首なし:地蔵、・?観音、・三界萬霊。
・近くに木の祠:稲荷、
・津渡野城跡(津渡野) 
 城跡の東側は津渡野遺跡といい、その下に三島神社がある。
・水除地蔵(津渡野) 
 かつての竜西橋北袂に安置。小川地蔵。 
・新:地蔵(郷島1210-2) 
 郷島入口側壁安置。 
・郷島浅間神社(郷島373) 
・説明版:静岡市指定天然記念物(植物)郷島浅間神社の大クス:指定年月日平成七年一月二十三日、所在地静岡市郷島373番地、樹高43m、幹周(目通り)13m、枝張40m、樹齢約千年、この大クスは市内でも屈指の大きさ、樹齢を誇る巨樹です。樹勢も良好で、またクスノキに見られる美しい樹形を呈しています。クスノキは、各地の暖地に多く自生する常緑高木で、木全体に特有の良い香りがあります。静岡県では、伊豆をはじめとして駿遠地方の暖地に多くみられます。材は、建築、造船、楽器、彫刻など多様に使われます。以前は防虫剤の代表だった樟脳もクスノキ材から作られました。平成12年3月静岡市教育委員会。
・金属鳥居:昭和六十一年、
・秘在寺(郷島518) 
 13年12月、元は茶畑で次に薬師庵があった所に移転したばかりで新しい2階建てビルとなっているので寺院とは思われない。・新:永代供養墓、新:石碑数基、・新:句碑多数「しずおか句碑の郷サト」、
・元の秘在寺の場所(郷島506) 
元寺があった所は空地だが手前に石塔類がある。・石碑:□□□□秘在禅寺 平成元年、・新:六地蔵、・?庚申供養塔、・庚申塔、
・古い酒屋の名残の建物(郷島246) 
 昭和の雰囲気のある建物だが、壊れそうなのでそのうち解体されるだろう。
・石仏(郷島5)、消防分団小屋横 
 道より低くなった畑の北端にある。・地蔵、・?観音、・地蔵:元禄六癸酉□月二十四日造□塔 文化□□?十十月~~~~~□天明、・石碑:土地改良記念碑 平成四年、 
・石仏(郷島) 
 郷島出口県道右側壁安置。・?観音、 
・釈迦堂(野田平242) 
・鰐口、・石塔7(地蔵1、如来1、他不明)、これより奥へ上ると墓地でその手前で尾根に到達し俵沢方向へ下る登山道あり。そこに峠の石仏が安置されている。
・石仏(野田平242) 
・地蔵:安倍郡野田平村善男善女□□亥四月吉祥日、・馬頭:明治三十一年四月、・地蔵:大正十三年七月建之、野田平と俵沢の境の峠に祀られていることになる。
尾根を登ると静清庵自然歩道の一本杉及び竜爪山穂積神社に至り、尾根を下るとすぐに墓地で、さらに下ると県道梅ヶ島線及び俵沢に出られたはずだ。13年12月現在一本杉のすぐ下には林道門屋俵峰線が通過していて、そこに野田平へ下る登山道と標識があり、おそらくこの石仏地点へ至ると思われる。
・神社(野田平242)  
釈迦堂の少し横にある。・石鳥居:昭和二十九年、・石:家:道祖神、・杉:大木7、・常緑広葉樹:大木:1、
・石碑(野田平) 
野田平から野田平公園へ降りる道沿い。・道路開通記念 静岡市長小島善吉、・野田平一号線開通記念、・石、
・石碑:野田平公園 平成7年、 
・石造物(俵沢236)  
賎機北小学校南口付近、・二宮金次郎像:薪を背負い読書、・板碑:併合碑、
・石塔(俵沢365)   
賎機北小学校から俵峰に向かう道を進み、坂道の直登道と左に迂回しつつ登る道の分岐点に出る。そこを坂道直登道を進むと右にある。
・祠:・庚申供養塔:、・?墓石、・地蔵:弘化三、・?地蔵、・地蔵、・?地蔵、・墓石:□□□居士 文亀元 □□□大姉 永正二 □□□居士 憲徳(延徳か正徳の間違い?)元 □□□居士 文□二 □□□大姉 慶長四、・一字一石法華経塔 □□□居士 明和九、この祠の横は墓地で墓石の後方には三十三観音が墓石と同じように祀られている。
・神社(俵沢400-1) 
 先ほどの左の迂回道を進み、左にカーブしていた道が右カーブに変わる所で左の沢横の道を沢沿いに詰めていく。
・石鳥居:大東亜戦争講和調印記念昭和二十六年、・杉:大木2、・赤橋、
・石碑(俵沢334) 
 俵峰への道を進み俵沢集落を過ぎ、茶園ばかりになると道路脇にある。
・石碑:静岡県棚田等十選に認定する 静岡市俵沢のつづら折り茶園、
・石塔類(俵峰400-1)  
 俵峰集落へ入る道は直前で左への広めの新道迂回路と右への旧道となる。どちらを行っても集落の中央で合流する。その合流地点に石塔類がある。
・板碑:道路開通記念碑 昭和三十一年、・簡易水道通水記念碑 峰の水みち 平成十六年、・馬頭:大正十一年、・観世音、・?観音:天保十三、・庚申供養、・馬頭:欠、・その他5~6基、
・玉宝寺(俵峰625)  
・?立像:半僧坊大権現、・地蔵、
・水月院(俵峰) 
・石塔2、・石垣、
・白髭神社(俵峰)  
・石鳥居:平成十八年、・手洗石:昭和十五年、・杉:巨木7~8、・祠2、・旗指石:昭和廿五年、
・農道和田線完成記念碑(水月院奥)  
 この農道を奥に進んでいくと林道俵峰門屋線終点に至る。
農道の反対側の道はすぐに真富士山登山口となって自動車道は行き止まりとなる。
・天神山△724.5m登山口(俵峰)  
 集落北にある山が天神山724.5mであるが、集落から直接登る登山口はなく、真富士山登山道を利用し、引き落とし峠で西尾根をたどると天神山に行けることになる。地図では集落から山の東側鞍部を越す道が記載されているが全くの廃道で道はない。
・竜爪山登山口、静清庵自然歩道(俵峰323)  
 穂積神社や一本杉に繋がっている。
・駒引(曳)峠への登山口(俵峰323)  
 先ほどの竜爪山登山口、静清庵自然歩道入り口に至る舗装された農道の1本手前に左折する舗装農道がある。これを100mも詰めると道は消失するが、その先に登山道がある。これがどうも駒引(曳)峠への登山口と推定される。広岡氏「東海道山筋紀行」にも記述されている道である。松浦武四郎も通過したのだろう。この登山道を登っていくと茶畑に出て、先ほどの農道和田線に出る。付近の茶畑2箇所には道祖神や石塔が祀られている。
・石:家:道祖神2、・石塔 
 道祖神がある辺りに松浦武四郎も通過した古い道があったのだろう。
更に先で林道俵峰門屋線終点看板があり、その横に石道標がある。
・石道標:右くろ川みち 左やまみち、  *刻字書体は楷書に近い少し崩しただけの行書で字の大きさも一定であることから、作られたのは近代の大正から昭和初期と推定したい。
農道和田線と林道俵峰門屋線終点脇に祀られるが、多少なりとも移転されてのことだろうから、こことは限らない。しかし300mほど林道を上ると小さな沢を渡った所で登山道が斜面を直登していく。これが現在の駒引峠への登り口で古道もこの付近を通過していたものと思われる。そこで先ほどの石道標も移転されたにせよ近い所にあったと思われる。
右の黒川道が駒引峠道であろうが、左の山道はどこの道か不明。
・駒引(曳)峠 
・地蔵:「文政六未歳四月初八日 炭焼邑 俵峯 大平村」 *施主名略、1823年
・一本杉、  静清庵自然歩道、富士見峠の西側、一本杉の巨木 
・地蔵:「文政六癸未年八月二十吉日 河内村」 1823年 

~俵沢に戻る~
・常夜灯(俵沢28) 
 クリーニング屋の前にある。
・祠(俵沢25)
 安倍街道新道と六番への旧道分岐点近く。
・石造物(油島22)  
 今の県道より上の集落内の旧道沿いに朽ち果てた石仏が設置されている。また油島公民館前にも石像物がある。よくぞ古びても安置してあるものだ。地元民の信仰心のあらわれだろう。 
・石仏と石塔:欠:6、
 安倍街道は玉機橋を渡り、梅が島街道(後述)は渡らず川沿いに北上する。 
・菜流寺(油島122)  
・石碑:菜流禅寺、・庚申塔 昭和五十五年、・庚申供養塔 文政六年、・燈籠4、・新:観音立像、・戦殉碑、・六地蔵 大正十辛酉年 延命地蔵尊、・三界萬霊塔、
・歯痛地蔵(中沢189-1) 
 玉機橋を渡ってすぐ左にある。右土手先に土手の神様(石仏)。その先を寺屋敷跡という。 
県道は直進するがここで右の中沢集落、永倉栄太郎氏宅庭先の石は縄文石である。明治43年畑で見つけたものだそうだ。さらに奥の相淵集落を紹介する。
・白髭神社(中沢215)  
 杉の木は最高樹齢500年以上らしい。500年前に中沢には人が住んでいたらしい。神社裏山左斜面に穴がある。
・石鳥居、・杉:巨木、・社、
・白髭神社(相淵168-2)  
・石鳥居、・杉:巨木、
・大志野山、中沢・池ヶ谷峠(中沢、池ヶ谷) 
 中沢からはかつての静清庵自然歩道コースとほぼ一緒であるが、峠付近で自然歩道コースは峠に向かわず、隣の鞍部の鉄塔のあるところを通る。つまり電線巡視路にそって自然歩道がついているので、昔の峠道とは違う。奥池ヶ谷へは昔の道は沢沿いに下るのに対し、電線巡視路コースは尾根沿いを下りまったく違うコースとなる。昔の道は今はおそらく廃道だろうし、静清庵自然歩道コースも今は使われず廃道寸前かもしれないが、電線巡視路なので通れるかもしれない。昔の道はかつての生活道路。なお石仏等昔のなごりは無いと思われる。大志野山へは峠や鞍部から稜線上を南に上ればよい。稜線上を北に上ると見月山に行けるはずだが、どれほどきれいか汚いかは不明。 
 中沢から県道に戻り西進する。県道北側尾根先端を中沢遺跡という。西山橋手前に馬頭観音。西山橋を渡った先、左にも石仏。
・新:地蔵(中沢27-1) 
・石造物(金久保)  
・?馬頭 明治□□、・庚申塔 萬延元年、・石塔:たぶん庚申系金剛像、七月吉日、・?馬頭:□□二、
・石碑(桂山649-1) 
県道と集落内に入る道の分岐点にある。
・原の道 昭和四十二年 西一九六七年 お茶は本山桂山にかぎる 特に優れた味香り 玉川の流れの如く清らかに一致協力明日にそなえて 昭和四十二年一月開通 飛出すな一度とまって又あるけ、
・地蔵:山伏塚 昭和五十九年再建(桂山365-1)  

・天桂山長光寺(佳山220)  
・新:石:家:道祖神、・新:如来、・地蔵、・新:動物慰霊碑、・新:六地蔵、・鐘楼、・?青面金剛?不動、・新:水子地蔵、・公孫樹の木、・無縁萬霊等 寛政八丙辰天、・石塔、
・白髭神社、桂山神社、大吾上人、たんごさん(佳山56-2)  
・石鳥居、・板碑:殉国英霊、・忠魂碑、
・板碑(佳山139)玉川公民館  

・細木峠  
 桂山と湯の島を結ぶ峠で、それぞれの麓から車で林道をたどり、途中で登山道に切り替えて徒歩十数分の上りで到着できる。現在は杉檜の植林地で薄暗い。石仏があったかどうか覚えていない。 

 玉川橋を渡ると大日峠に行く旧街道と横沢経由で富士見峠に行く新街道に分岐する。 

~落合経由大日峠、旧街道~ 
・石造物(佳山片瀬) 
 玉川中学手前左にある。 13年12月工事中で見つからない。下記石塔類と同一かもしれず、移転したのかもしれない。
・石塔類(奥ノ原737) 
・燈籠、・△庚申 寛政八丙辰天、・?如来か観音、・常夜灯、
・石塔類(森越587)
・庚申塔、・□供養庚申文□、・石塔:無縁塔、
・旧道:596番地付近から奥の原に向けて山斜面中腹を回り込む登山道がある。墓地に向かう道で、多分奥の原と森越を結ぶ旧道と思われる。現在の県道より20mほど上である。
・潭月寺跡(森腰) 
 本尊:十一面観世音菩薩、
・石塔類(長熊上平700) 
・?石塔3?墓石、
・白髭神社(長熊上平773) 
・石鳥居:昭和十二年、・手洗石:昭和三年、・祠、・杉:巨木、・杉巨木切り株の中から樹齢50年ほどの杉が生えている。神社横は崖で崩れかかっている。
・普門寺跡 
 本尊:聖観世音菩薩、開山:1580年、 
・林道栃木線、舗装されていて起点より1.4㎞先で行き止まり、
・祠:?馬頭:明和三丙戌□月吉日(堂原1998)  
・堂原の長熊橋袂より2168番地に向かう歩道が山を回り込むように付いている。
・かつての静清庵自然歩道であり電線巡視路でもある登山道がある(長熊から奥池ヶ谷に至る手前)
 現在自然歩道としては使われず、舗装県道を迂回して中沢から奥池ヶ谷に向かうよう標識が出ている。この電線巡視路が古道ではないが、その近くを通過できる道として参考になる。
・奥池ヶ谷城址(奥池ヶ谷54) 
 高圧鉄塔のある川に挟まれた丘上である。 
・向陽寺跡(奥池ヶ谷) 
 本尊:阿弥陀如来、 
・朝倉館跡(柿島) 
 かつて安倍七騎の一人、朝倉氏の出身地とされる。
・定林寺跡(柿島492)柿島公民館横  
 ・お堂:本尊:瑠璃光薬師如来、 ・社、
・お堂(柿島530)  
・地蔵:明治四十一年六月廿日  
・曹源寺(長妻田25)  
 曹洞宗、本尊:聖観世音菩薩、開創:1508年、本寺:長源院(沓谷)。山門の仁王像はユーモアたっぷりなひょうきんな立像で独自の価値がある。
・新:観音像、・新:供養碑、・板碑?、・石塔?庚申塔?、・燈籠2:昭和十五年、・鐘楼、・新:石仏9、・石塔:曹洞宗松尾山曹源寺 平成二十年、・胸像:得仙大和尚、
・中平との峠道、旧道、古道(長妻田25)  
 曹源寺の裏の墓地上から電線巡視路が見月山稜線に向かい上っていく。かつて中平とを結ぶ峠道だった。中平から峠のある鉄塔までは行ける。稜線も歩いたという山行を聞くことはあるが、現在相当な藪と思われる。反対に柿島方面に行く道もある。 
・祠(長妻田151‐1)  
・地蔵、・六地蔵、・石仏、
・布沢滝  
 布張沢の奥にあるはずだが、直接行きやすい道がない。近くに高圧鉄塔があるので電線巡視路で近くまで行けるのではなかろうか。
・白髭神社(長妻田764)  
・コンクリ鳥居:、
・養福寺跡(油野)  
 本尊:地蔵菩薩、 
・白髭神社(上落合157)  
・石鳥居:昭和八年、・手洗石:水の溜まる所の形が扇形である、・岩2、・祠2、・石柵:平成元年、
・石塔類(上落合149)  
向坂橋袂。・地蔵、・庚申塔:明治三十八年、・岩、 

~ここから仙俣、奥仙俣へ行く。~
・精進滝(口仙俣) 
 上落合から口仙俣への3分の2程の所の道路左沢崖上らしい。
・白髭神社(口仙俣) 
 仙俣川を渡った先で橋はなく丸太橋を通して渡るようだ。道路から川向こうの鳥居と石段が見える。
・涌泉寺跡(口仙俣256) 
・お堂:本尊:薬師如来、市指文:鰐口:写真展示、・木魚、・鐘、
・分校跡(口仙俣)  
 口仙俣から奥仙俣方向へ向かってすぐ左、
・林道黒川線 
・記念碑 
 奥仙俣の手前の吊り橋袂の岩上、
・祠2:水神(奥仙俣59)  
 仙俣川沿いの主要道から川を渡った向うの集落にある。10月7日が祭りだそうだ。
・石塔(奥仙俣180)  
 主要道沿いの集落入口、
・大石、・庚申塔 昭和五十年十月、
・白髭神社と記載されているが山神社(奥仙俣) 
 まだ再建間もない神社で本殿拝殿等新しい。10月7日祭り、ここに至る自動車道もできたばかりのようだ。
・祠2、・山神社参道開設記念碑 平成十六年九月吉日、・木鳥居、
・不動尊滝(奥仙俣) 
 奥に詰めていく林道とは別の北東に向かう沢奥にあるようだ。

~~~落合に戻る。~~~
・石仏(明ケ島76)   
 県道沿い民宿明ケ島への分岐点、
・石仏、・馬頭、・地蔵、・庚申塔、・馬頭、
・石:ペイントで記入:明ケ島、・石:ペイントで記入:♨口坂本温泉→ 民宿明ケ島、
・石仏(口坂本630)  
 口坂本温泉集落の橋手前分岐点に安置。
・口坂本温泉浴場:説明版:清らかに流れる渓流と緑まぶしい山々に囲まれ、市営浴場を中心に民宿、旅館が点在する静かな温泉地です。市営浴場には30人が入れる広い浴槽の他、日本庭園の中に露天風呂も整備され、日頃の疲れを癒す人たちが世間話に花を咲かせます。所在地:静岡市口坂本、利用時間:9:30~16:30(16:00札止め)、休館日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日)年末年始12/29~1/2、料金:大人¥280、小人¥100、泉質:ナトリウム‐炭酸水素塩温泉(重曹泉)、
・八王子神社(口坂本527) 
・説明版:鎮座地:静岡市口坂本527、御祭神:建速須佐之男命たけはやすさのをのみこと、例祭日:7月15日、由緒:創建不詳、元禄17(1704)年再建、更に寛政9(1797)年再建、昭和27年同地区鎮座の白髭神社を合併し現社殿の造営をした、元無格社、毎年7月15日安倍川まで神輿の渡御がある。安倍神楽の伝承がある。
・金属鳥居、・手洗石:大正十一年、・手洗石:苔むしている、・常夜灯2:御宝灯 慶應元年、
・宝積寺(口坂本53) 
 本尊:延命地蔵菩薩、開山:1347年、門前に地蔵祠ともう一つ祠がある。
・祠2:地蔵、・燈籠:元治二乙丑、・燈籠:道路改修 昭和四十二年 地蔵平より、・手洗石:水たまり扇形、・自然石石仏、・三界萬霊塔 昭和四十七壬子年、 
~・口坂本から大日峠への旧道(大日古道)、稲荷神社祠及び井川本村まで~  
・説明版:①歴史と文化の街道大日古道:大日古道は口坂本から井川に通ずる唯一の大切な昔の道でした。上り下り3里(12km)の細い山道で1町(109m)ごとに一尺三寸ほどの観音様が通行人の無事を願って立てられていた古い街道です。我々はこの先人たちの思いのこもった道を偲び、次世代へ伝えていきたいと願っています。
②井川に縄文人が住んでいたことは驚きだが、脈々と伝えられてきた多くの歴史がある。例えば中野の千手観音、田代の諏訪神社、薬師堂、小河内の金山、大井川の刎橋。そして数々の例祭、そこで舞われる神楽、暮らしの中の伝承から民話まで数えきれないほどです。たった半世紀前まで、こうした井川を支えた唯一の道が大日古道でした。
 口坂本―十六番―水呑み跡―大日峠―一里塚―二本松―登山口―渡船・井川ダム湖―井川、
 坂本から井川までの旧道にはかつて66の観音像(口坂本~大日峠33体、大日峠~井川33体、井川側33体は井川大日堂に全て安置保存。口坂本側は6体確認という。)が安置されていた。現在復活作業中で、この区間での旧道が通れる。この旧道は1958年に林道が作られるまで本道であった。口坂本村内に観音像1、庚申塔1、村入口の民宿明ヶ島前に石仏5(庚申塔、観音2、地蔵1、不明1、)、
 入口は市営口坂本温泉前で先の歩道橋で川を渡り、民宿羽根田前を上り、人家はずれで左の畑に入る。
・一番観音跡:口坂本の人家のはずれから山に入る境目にある。石仏(観音、地蔵)が2つ安置されている。13年12月には石仏は移転した。多分明ケ島道路脇に移転合祀したものと思われる。
・二番~五番までは口坂本集落上に巻いて大日峠へ上る県道に寸断されるまでの500m区間にある。県道に出るとしばらく県道を歩き、この上の空人家の先で山に取り付き古道に入ることになるが、県道に出た所の延長線上に古道の跡は電柱と電線に沿い進んで行き、空人家手前の県道の辺りで消失する。なお県道に出た辺りの上に鳥居があり、稲荷神社の参道がある。やや古道からははずれている。
・人家の先で山に取り付く。ここから先にはまだ観音跡の標識は未設置。500m先でまた県道を横断し山に取り付く。しばらくすると十五番観音跡がある。この手前に左へ分岐し大草利に向かう山道が地図上ではあるはずだが不明。十五番を過ぎると植林地内に石垣がいくつか見られ、「十六番」である。老夫婦経営の茶店と田があった。うどんや惣菜を売っていた。700m進むと林道に出て、その先に石垣と水が湧き出る所がある。「水呑み茶屋跡」で確か二十三番?だったように思う。この先30番まである。林道右手裏はすぐに県道との合流点でゲートで閉じられている。湧き水横を上り、三十番までたどる。しばらく観音跡がないなと思えると、稜線に出て左(南)に「富士見峠、大日山ハイキングコース」と分岐し、それを過ぎるとすぐ先に、「お茶壷屋敷跡石碑」がある。
・大日峠、お茶壷屋敷跡、石造物  
「富士見峠、大日山ハイキングコース」:富士見峠から大日峠までの稜線上の山道。途中三等三角点、大日山△1200.6mを通過する。またもう少し南の昔の大日峠跡も通過する。 「お茶壷屋敷跡」はかつて徳川家康が茶会用の茶を保存するために作らせた蔵である。実務を担当したのは柿島の庄屋、朝倉氏と井川の庄屋、海野氏である。この茶を駿府に運ぶための道中を再現したお茶壷道中が近年実施されている。なお蔵については再現か否か不明だが、このすぐ先のピクニック広場に近年蔵が建てられた。
 ピクニック広場手前に「三十三番観音跡」、「大日如来堂跡」があり、石仏が祀られている。駐車場・公衆トイレ分岐にも「三十三番観音跡」がある。この33番は井川側の33番で大日如来堂側の33番は口坂本側のものだろう。
・井川側の大日古道~大日峠から井川渡船場~ 
ピクニック広場を下ると井川の三十二番、ピクニック広場入口で三十一番がある。舗装県道の大日峠から井川へのルートを横断する辺りが一里塚で二十五番となり地蔵が祀られている。さらに下の井川少年自然の家正門前の道を進んだ所は二本松という所でこの辺りに十七番と十六番があり、十八番観音が祀られている。この下は大日作業道に付かず離れずに古道は下っていく。大日作業道と数回交差して4番まで至る。この100m下が井川湖で渡船場になる。ここに一応1~3番標識があるが、説明看板には水没となっている。井川湖は井川ダムによりできた現代の人工湖なので、昔は存在しなかった。この湖の下に村が古道が遺跡が沈んでいる。井川側の古道は静清庵自然歩道、井川少年自然の家ウォークコース等に利用されているので道自体はほとんど利用されて残っている。すばらしいことだ。
 かつて村の女たちも背負子や持ち子として30~50kgの荷物を背負って歩いた。


~井川近くの県道等主要道沿いを紹介し、井川につなげる~
・慰霊碑、地蔵(井川3179)  
 県道の富士見峠を井川ダムに向け下り、大沢度橋を約1㎞過ぎた道路脇。
・慰霊碑:地蔵:昭和41年4月1日 行年49才 故関谷正重霊(車需)之地 故森竹さわ江跋畢之地 行年17才
・井川五郎ダム(井川1955)  調査:’14 3/15
 昭和32年完工、コンクリート代を節約するため、ダム内部は空洞で中空式と言われる。
・井川展示館:水力発電の仕組み、井川地区紹介、井川地域の筏流しや電源開発の歴史等紹介。展望もよい。ダムが昭和の資料といえる。
 展示館内にパネル写真の展示あり。09年2月公開映画『ヘブンズ・ドア』監督:マイケル・アリアス、主演:長瀬智也、福田麻由子、106分、厳寒2月の3日間、井川ダムにてロケ、公開が2月なのでロケは多分08年2月と思われる。井川ダム内部が数分にせよ見られるようだ そのパネル写真展示。  
・井川水神社{祠、鳥居}、・石碑:井川湖、・板碑:慰霊碑:昭和三十二年、
・井川遊歩道  
 井川ダム建設時に使われた線路跡を遊歩道として13年秋に再現開設された。井川ダムから井川本村堂平まで歩ける。距離800m。近くに夢の吊橋がある。
・井川駅(井川1959) 
 ダム建設のために作られた鉄道で、一回り小さなトロッコ機関車の終点駅、もはやこれも昭和の生き証人か。この駅の奥にはかつてトンネルがあり、トンネルを抜けた先が堂平への遊歩道となっている。 
~川根路~
・大井神社(井川閑蔵2246⁻3) 
 かつての閑蔵林道今は県道を川根本町千頭方面へ下り閑蔵駅前で閑蔵の集落へ下っていくとある。
・金属鳥居:、・子安観世音:大正十五年七月、
・説明版:鎮座地:静岡市井川2246‐3、祭神:岡象女命みづはのめのみこと、例祭日:1月2日、由緒:元禄元年創建と伝えられる。
~井川に戻る~ 
・石仏(井川西山平1850) 
・石仏:青面金剛?、丸石:道祖神?、休憩所の横の交差点にある。
・井川大仏(井川1551) 
・井川大仏、・毘沙門天立像、・石碑:大仏開眼:油山寺貫主、・コンクリ石碑:昭和五十五年、
・説明版:一刀二礼仏の手法にならい一言一言唱えて作像された。一切如来、井川大仏は昭和55年11月1日湖畔の丘、金畑山公園望寿台標高772m、日本地図の中心部に誕生した。
毘沙門天は福の神として七福神に数えられまた四天王として仏法の守護神とされ古くより親しまれてきた神であり仏である幸運守護の御尊体であります。
・庚申塔:天明五 門間 青面金剛 
 井川大仏分岐点と門間の間の県道側壁にある。
・龍泉院(井川582) 
・石碑:曹洞宗龍泉院:平成十四年、・燈籠、・板碑5、・新:葷酒山門に入るを許さず、・禁葷酒、・山門、・新:句碑:多数、・仁王像2、・故篠原荘夫翁記念碑、・・新:無縁菩提供養塔、・石家道祖神、・鐘楼、・新:常夜灯5、・新:六地蔵+1、・新:子育地蔵、・新:観音、・青面金剛、・新:地蔵、
・説明版:開基は1504年(永正元年)賢窓常俊禅師に依る。草創期の頃は現在地より約200m「薬澤」寺地の一角に建てられていたと言われる。崇信寺末寺の平僧寺として創建されたものだが、その後災禍等もあり、また適地として現在地に室町末期1544年(天文13年)頃移築された。長歳月の中では老朽化激しく、寺歴に残るような修復等を重ね現在のような姿で承継されている。開基禅僧の賢窓常俊は、怒忠天誾(信濃の人) 崇信寺。洞慶院の開山僧に得度し、後に石叟三派の名僧を育成されたといわれる大厳宗梅禅師(崇信寺3世、本院隠居寺の千光寺開山僧)に師事し後に宗派最高の総持寺貫主に昇り、その後崇信寺。洞慶院4世等の住職になった高僧である。かような高僧開基による本院も戦国末期から徳川初期にかけ代々受け継がれた高僧たちにより、大井川流域に本院の流れを汲む末寺九ヶ寺を有する(うち五ヶ寺は現在廃寺)格式の高い寺院にまで発展した。本院も、かつては信州今川氏に仕え後に井川領主となった安倍大蔵守一族の手厚い保護や檀徒(500有余)の貢献等によるものが大きく、今や草創期以来500年近い歳月を経て今日に至っている。
2002年2月吉日建立  龍泉院29世王竜徳潭比丘謹書
本寺院の概観
本尊:聖観世音菩薩 昭和53年修復、脇仏:地蔵菩薩 平成12年修復、大権修理菩薩
開山堂 当山開山賢窓常俊像、宗祖 道元禅師像 聖観世音菩薩像、達磨大使象、
大日如来像
建造物 山門 寛保3年建立、鐘楼堂 昭和30年3月建立。大鐘 昭和30年3月、
六地蔵菩薩像。堂。平成12年、無縁墓地造成 平成12年秋彼岸吉日、 
・門間地蔵堂(井川門間557)  
 門間の集落内の旧道沿いにある。
・常夜灯、・常夜灯、・地蔵:元禄三、・地蔵、・二地蔵:六地蔵の一部?、・三地蔵:六地蔵の一部?、  
・井川神社(井川1467) 
・コンクリ鳥居2、・燈籠2、・燈籠2、・狛犬:立太子20年記念、・手洗石:嘉永六、
・説明版:鎮座地:静岡市井川1467⁻2、御祭神:瀬織津比(口偏に羊)神せおりつひめのかみ、外19柱、例祭日:1月3日、由緒:昭和33年4月14日井川ダム築造により、次の5社を合併して井川神社を設立した。①大井神社、嘉禎4年創建、②浅間神社、創建年不詳、③大頭龍神社、創建年不詳、④山神社、創建年不詳、元禄7年再建、⑤十二神社、創建年不詳、元禄13年12月再建。井川神楽の伝承あり。
・大日院、中野観音堂(井川1120) 
 大日古道の33観音が保存されている。
・金属鳥居、・祠:八幡宮:、・祠:秋葉大權現 神明大神宮 津嶌牛頭天王、・燈籠:秋葉大權現、・燈籠:津嶌牛頭天王、・地蔵5、・観音:約40(三十三観音とその他、大日古道の33観音?)、・石塔:欠:多数、
・中野観音堂:説明版:中野は、江戸時代には井川七ヶ村の一つに数えられ、古くから砂金の採取が盛んな集落として知られていた所です。この観音堂は別当、副別当の2軒を中心とした中野地区の人々によって大切に守られてきました。堂内にはご本尊である「千手観音立像」の他4体の仏像が安置されています。いずれも針葉樹による一木造りで、平安時代中期に制作されたものです。仏像の由来についてははっきりしたことが分かっていません。地元では先祖が井川まで背負って運んできたと伝えています。その際里芋を食べながら峠を越えたとも云われており、観音堂のお祭りでは今でも里芋に味噌をつけた芋田楽が参詣者に振舞われます。観音堂のお祭りは1月6日と2月7日の2晩行われます。かつては一晩中お堂で過ごしたことから、このお祭りのことを「お籠り:おこもり」と称しています。そのうち1月6日は1年に1度、ご本尊が御開帳される日です。今では6日の晩に御開帳が行われていますが、かつては一晩おこもりをしたのち、1月7日の早朝、太陽の光が射し込むわずかな時間だけご本尊を拝むことが許されたそうです。その他、中野観音堂に残る応永31年(1424)の鰐口も静岡市の有形文化財に指定されています。
静岡県指定有形文化財:「木造千手観音立像・木造伝十一面観音立像・木造伝十一面観音立像・木造菩薩立像・附木造菩薩立像」、指定年月日:平成17年11月29日、制作年代:平安時代中期(10世紀後半から11世紀前半)、指定理由:いずれも平安時代中期の作で、後補も見られるが、全体的に古い様式を残している。駿河山間部における古代の仏教文化を考える上でも貴重な彫刻である。
静岡市指定有形文化財「鰐口:わにぐち」、指定年月日:平成20年3月26日、内容:面径22.0㎝、厚さ9.5㎝、銘文によれば応永31年(1424)11月に中野観音堂に施入された。指定理由:現在所在が明らかで銘文に静岡市内の地名が見られるものとしては最も古く、静岡市の文化史上貴重なものであると共に、歴史的意義と価値を有するものと判断される。
  平成23年3月  静岡市(文化財課)  
・井川メンパ(井川971) 
 海野宅 
・南アルプス絵本館(井川991)  
 新しい公共施設なのでそれ自体が古道と関係しているわけではないが、井川地区の資料が手に入る。 
・交通事故供養塔(井川中野) 
 県道沿い中野、登沢橋より北へ500m。
・事故多発所 南無妙法蓮華経 交通事故 遭難者 供養塔 安全運轉 昭和四十年
・石碑(井川)
 さらに北上すると県道沿い。
・石碑:滝浪兼政青山之地
・不動尊堂(井川岩崎中山680)  
 県道沿い、中山バス停近くの沢滝横にあり。
・お堂:不動尊
・地蔵堂(井川大島54)  
 大島バス停前県道沿い。
・地蔵4、・祠:不動明王、
・大島神社(井川・田代・割田原260) 
 割田原の井川湖湖底に縄文期の割田原遺跡がある。他にも遺跡跡がいくつかある。 
大島橋を渡った先にある。現在の橋の隣に以前のコンクリ製橋脚が残っている。
・金属鳥居、・燈籠、・祠2、
・説明版:鎮座地:静岡市田代260、御祭神:素戔嗚命すさのおのみこと、例祭日:1月11日、由緒:通称お天王さん。慶長9年創建、元禄13年、宝永、嘉政、文政と再建造営のあと、現社殿は明治35年総欅材を以て造営された。元無格社。境内は「鎮守の森」に相応しく古木が生い茂っている。井川神楽が伝承されている。
・大井神社(井川・田代・割田原329⁻2) 
 県道沿い階段上にある。この上の台地にかつて井川北小学校があった。
・金属鳥居:平成三年、・燈籠1、・祠、
・説明版:鎮座地:静岡市田代329⁻2、御祭神:岡象女命みづはのめのみこと、瀬織津姫命せおりつひめのみこと、例祭日:1月15日、由緒:文禄元年勧請、同3年8月大井川大増水により流失し、寛永5年新社地に再建、宝永、明和と再建したるも、明治20年3月4日出火による類焼、仮社殿にて奉祀し、昭和35年4月26日井川ダム築造により湛水池に入り、本殿、拝殿、社務所造営の上現地に遷座した。元無格社。田代、岩崎両集落の産土神であり明治維新までは大村家が祠官職にあり、井川神楽発祥のお社である。
・田代集落内外の道(井川・田代) 
 オーミチ(大道)、梅の坂、堂の坂、南坂、別当坂、菅山街道、集落南旧道入口には秋葉常夜灯がある。集落西には天神2つあり。福寿院跡。手洗い井戸。旧道と新道北側出会いを薬師道。集落北東に共同墓地と水神。集落南端からの旧道は南坂で山へ続く。西の沢へ入る辺りに山神を祀る。  
・秋葉常夜灯(井川田代762)  
 集落入口にある。形は常夜灯というより燈籠型だが常夜灯と刻まれている。
・常夜灯:大正十四年、
・石仏(井川田代681)  
 集落北端近くの辻
 ・二地蔵、・二地蔵か双体道祖神
・諏訪神社(井川田代855) 
 集落北端に鳥居と湧き水があって諏訪神社への参道入口となっている。また自動車道とは別に薬師堂に向かう歩道が延びている。この歩道は旧道(古道)と思われる。
小無間山登山口、県・無・ヤマメ祭り、神楽、雨乞い踊り。8km奥に普段禁猟区の明神谷があり、ヤマメ祭り用のヤマメを釣りに行く。市・建・田代の一間造りの民家、 
 ・石鳥居:昭和四十八年、
・説明版:鎮座地:静岡市田代855、御祭神:建御名方命たけみなかたのみこと、八坂刀賣命やさかどめのみこと、例祭日:8月26・27日、由緒:信濃諏訪大社の御分社、嘉禎4年創建、神主諏訪權守が奉祀、享徳2年再建諏訪刑部奉祀、文禄、延享と再建、諏訪近江守が奉祀、現社殿は明治36年の造営総欅八棟造本格的神社建築である。閏年毎例祭日に神輿の渡御あり、特殊神饌魚釣祭、ヤマメ(魚に完)の粟漬、元郷社、明治維新までは海野家氏神であった。信州遠山より大井川支流信濃俣川を経て当地に来たと伝えられる。
・駿河田代諏訪の霊水:説明:この湧水は静岡市指定無形民俗文化財当社特殊神饌ヤマメの漁場明神澤水源御住池よりの伏流水にて4年に一度閏年毎8月26日神輿渡御の際右側の石積みは御旅所の台座であり、ここにて大神に霊水を献ずる。
昔からどのような渇水にもこの湧水は絶えたことはなく、里人はここにて若水を汲み年始となす貴重な生活用水でお井戸と称し親しまれ、また大小無間の登山者の必需水である。 
水質検査の結果最優良水と確認されており、呑めばまろやか活力を生み、井川銘茶をこの水でたて、或は冷凍の上水割等に用ふれば、その味また格別なり。広く御愛用をお奨めします。
神社はここから徒歩にて約20分諏訪山頂にあり、この霊水にて身を浄め清々しいお気持ちにて御参詣下さい。
 氏子は常に神社の護持運営に努めております。その費の一部として霊水御愛用の方々より何分の御奉賛を賜りますれば幸甚の至りに存じます。  諏訪神社社務所 
・集落北端から山に向かって参道登山道が続くが、先ほどの常夜灯地点から林道で山上の諏訪神社本殿にも行ける。参道は一旦林道で断ち切られるが、林道を横断して又歩いて登れる。
 ・第二木鳥居:平成六年、・手洗石:一九二六年、・常夜灯2:大正十五年、・祠5、・杉巨木:御神木、・参道途中から大無間山、小無間山への登山道が分岐する。もしも車で来て登山するなら、神社本殿横の駐車場が広いので、そこに車を置くとよい。
・薬師堂(井川田代855)  
 集落北端より100m北。歩道もここに出る。
 ・常夜灯:昭和四年、・祠、
・外山沢山神社(井川田代) 
 県道南アルプス公園線沿い、畑薙6号トンネルと外山沢橋の間。

・石塔類(井川小河内)  
 小河内大橋を渡って小河内集落入口手前、
 ・地蔵2、・燈籠、・庚申塔:昭和五十五年、・道しるべ:静岡小河内雨畑線 山伏峠まで17㎞昭和55年、
・井川・小河内集落内外の道 
堂の坂、井戸坂(井戸道)、イワン(ニワン)坂、上の道、下の道、コーギ道(ダシ山街道)、金山道(金沢金山道)などがある。南甲斐への道、南信濃への道、梅が島温泉への道がある。建正寺跡。 
・井戸(井川・小河内) 
 湧き水、生活用水。 
 
・阿弥陀堂(井川・小河内)、三十三観音、無縫塔 
 集落北端の共同墓地近く。三十三観音と無縫塔、他2体は埋もれていたのを掘り起こした。年号は「享保十年」「嘉永六年」「嘉永七寅」で1725、1853、1854年である。近くに八幡社。市・地登・小河内のヒヨンドリ、 
 ・庚申塔、・燈籠、・地蔵2、・無縫塔、・三十三観音35、丘上で展望所。
・大井神社(井川・小河内32) 
 ・石鳥居:昭和六十三年・平成元年、燈籠2:昭和十三年、
 昭和46(1971)年遷座。 
 ・説明版:鎮座地:静岡市小河内32、御祭神:弥都波能賣命みづはのめのみこと、例祭日:2月11日、由緒:創建不詳。棟札によれば、天正12年霜月火災により社殿焼失、87年後の寛文4年、宝暦3年、嘉永2年再建造営された。旧鎮座地井川ダム築造により、境内南側に崩潰を起こし危険な状態になり、昭和46年現地に移転した。元村社。閏年毎に例祭日に神輿渡御あり、井川神楽の伝承あり。
・小河内橋(井川・小河内)  
 現在の小河内大橋は昭和43(1968)年からでその少し下流に残る橋がこれで昭和28(1953)年から43年までとなる。その前は2つの橋の中間に昭和5(1930)年~28年まであったようだ。2014年3月この橋はない。この橋に行く袂付近に石塔類がある。 
・石塔(井川・小河内)  
 ・供養碑:昭和八年~昭和五十年、・板碑:遭難碑:明治四十年、・地蔵6:明治二十二・三十・三十九・四十二・昭和十二年・不明、
・地蔵:明治七□年弐月   
 集落奥はずれの林道井川雨畑線と林道小河内川線に分岐する手前の橋「小河内橋」(先ほどの橋と同名だが別橋)袂に安置。この背後の山上にも2通りの山道が分岐している。
・「林道井川雨畑線」の思い出  
 かつての静岡市の小中学校社会科用補助教材郷土資料冊子には林業や観光の為この林道を作った旨が記されている。それ相応の期待があって作られたようだ。
1980年代末、当時まだ舗装されていない頃、この林道をオフロードバイクで突破して山梨県側に抜けるのは至難の業というか、よほど運がよくないとできないことだった。四輪車では更にチャンスが減ってしまう。例えばこんな具合だった。林道に入って進んでいくと崩壊崩落していて道幅が1mしかない所がある。(だから四輪車ではチャンスが減るのです。)ある所では前方の道が島に見えた。どういうことかというと側壁上の崖が塊のまま崩落して道路上に塊のまま落ちているというか、樹木や草が生えたまま地面ごと道路上に載っているのでまるで道路上に島が浮かぶかのようだったのだ。数本の樹木は倒れていたが、数本は立ったままでいた。それをかいくぐるのが大変だった。それやこれやで県境の峠を越えて山梨県側に抜けてホッとしていたら、前方の橋手前の道路が、何か変なのだ。ブレーキをかけつつ進んで驚いた。橋手前の道路がすっぽり抜けて、道路や橋地面と同じ色の川水が流れているのが見えていて、何か道路の地面が波立つような乱反射するように見えたわけだ。それにしても道路の色と川水の色が全く同一に見えることも驚きである。橋の手前に河原に降りていく非常用道路が造られていて、川水のある所は土管を通して水を流し、その上を通過できるようになっていた。とても道路と言えた代物ではない状況が多かった。それがひとたび土建業者が入って道路整備すると、全く別物の道路のように快適に走れるのだ。ただそのように快適に整備されるのは少ない機会だし、ひとたび豪雨や台風が来ればあっさり半年や1年は通行不能の崩落崩壊である。近年静岡県側は舗装したが、だからと言って崩落崩壊が起きにくくなるとは思えないので大変なことだろう。山梨県側も大丈夫とは限らないのでいつ全線通行できるかははっきりしないだろう。県境の峠は大笹峠または山伏峠ヤンブシH1850mという。峠から山伏山頂△2013mへは徒歩20~30分であり最短時間登山路である。使用オートバイ:HONDA XL200R  
・供養塔:昭和五十九年12月21日遭難 瀧浪武雄  
 林道小河内川線を1㎞進んだ所。
・雷神社(井川・上坂本239)いかづちじんじゃ 
 ・金属鳥居、・祠2、・石家道祖神2、
 ・説明版:鎮座地:静岡市上坂本239、御祭神:別雷神わけいかづちのかみ、例祭日:1月7日、由緒:永政元年正月17日創建と伝えられる。元村社。江戸時代笹山金山の守護神として崇敬された。昭和36年11月27日同地区鎮座の山神社を法人合併されている。
・八幡神社(井川・岩崎) 
 ・祠、・石碑:高祖王様:昭和三十□年、一王様は八幡神社に奉戴来~~~
 14年3月岩崎地区には2軒家があるが住んでいる気配がない。
・井川峠(県民の森) 
 かつての生活道路。 現在ハイキングコース。

 
~横沢経由富士見峠、新街道~ 
・地蔵4(下平瀬) 
 下平瀬手前県道右上に安置。
・林道日蔭山線
・白髭神社(下平瀬) 
・石鳥居:昭和四十八年、・岩、
・新:地蔵2(下平瀬1349)玉川園  
・白髭神社(川島1434⁻2) 
・石鳥居、・手洗石:明治十四年、・コンクリ燈籠、
・林道樫の木峠線(川島) 
 現在川島より起点となり、樫の木峠を越えて大川日向に至る。古道ルートについては下記の林道白石沢線を参照。
・玉川西公民館(大和8⁻5)  
・二宮金次郎像(薪背負って読書)、・石碑:玉川西小学校跡、・卒業制作石膏像、
・?祠か社(大和951)   

・石:家:道祖神(大和838)   

・林道権七峠線(大和1037)起点  
 林道を300mも登ると愛宕神社がある。林道は3~4kmも進むと工事中で、その先を作っている最中だった。14年2月。
・愛宕神社(大和1037)    
・手洗石:文政十二丑年(1829)五月吉日、・石鳥居、1829年、祠、
・馬頭(大和1037)   
道路脇茶畑上に立つ。
・馬頭:明治十一年 岡田彦太夫建之、隣の家が岡田家である。1878年、
・庚申供養塔(大和1029)  
・庚申供養塔 安永八巳年 亥十月吉日 安倍郡 寺尾邑中、1779年、
・石塔類(内匠256) 
大和から内匠に進み、白石沢に架かる白石橋の手前県道左に安置。
・西国、・?、・庚申供養塔 安永七(1778)、・?馬頭、・?馬頭、・?観音:安政四(1857)、・?馬頭、・地蔵、・?観音:文政十弐(1829)、・奉巡礼、・南無阿弥陀佛、・馬頭、・石塔、
・林道白石沢線、樫の木峠(内匠256、白石沢) 
 県道の白石橋を渡るとすぐ左に林道白石沢線の道と標識があり、そこに海野家がある。
 1980年代末、林道白石沢線を進み、行き止まりから徒歩で進み、丸彫りの石地蔵を右折し進み、沢へ出て地蔵(不明、海野家の老女が話していた、登山後私が見ていないというと、無くなったのかもしれないと言った、沢沿いにあったのなら流されたのかもしれない)を横目に渡り、斜面を上れば樫の木峠で、樫の木と石地蔵がある。現在林道樫の木峠線ができたのでこの旧登山道は使われずほぼ廃道と推定される。林道樫の木峠線は内匠手前の川島から上って峠を経て大川につながっているが、峠手前が厳しい斜面で崩れやすく車でいつも通れるとは限らない。なお峠から大川までには萩多和城址石碑、宝剣神社祠が見られる。林道なので旧登山道ではないが、峠よりかなり下の方の旧登山道は現在も使われている。かつては大川と内匠を結ぶ生活道だったろう。
 上述は1980年代末の記述で2013年12月には現状が改変された。林道白石沢線は100mほど延長され、かつての石地蔵のあった分岐点が林道終点広場のようになった。ここに林道入口一軒家の海野氏により観音を幅50㎝の土管に入れ祀り直した。
 20年以上前に見たのは確かに丸彫りの石地蔵もあったはずだが、今回観音(観音か馬頭)像しかないのはなぜなのか海野氏に聞くことができなかった。県道沿いの石塔類の中にもなかった。
・?観音か馬頭:□□□□(?右わらしな)ミち □□□□ミち:多分右左の行き先を明示していると思われるが判読不能、多分右が樫の木峠で大川日向村、藁科川、左は中村山、釜石峠、長嶋、栃沢、美和、足久保方面である。
 このルートでの遡行を近年(2000年代)行ったものでは、広岡氏「東海道山筋紀行」に詳しい。峠直前は完全な薮だったようで大変苦労したようだ。帰路は二度と通過したくないのであえてこのコースをやめているほどだ。広岡氏が通過したのは松浦武四郎が通過しているからである。
樫の木峠より向うのコースは別項目「大川街道」を参照してください。
・白髭神社(内匠648)  
・コンクリ鳥居、・手洗石、・公孫樹、
 県道から東橋を渡ると下腰越集落である。
・馬頭(下腰越43) 
・?馬頭、・?馬頭、
 この馬頭の祀られている所から歩道が川沿いに延び吊り橋を渡って奥腰越につながっている。ちょうど県道とは反対岸である。このルートが古道と思われる。
・白髭神社(下腰越90) 
・石鳥居:紀元二千六百年紀念 大正十五年、・燈籠:昭和十五年、常夜灯:安政四(1857)、・手洗石:文政六(1823)、・杉:巨木切株、
・神社(奥腰越639) 
・お堂:地蔵、・常夜灯:安政五(1858)、・石塔、・供養□□、
・白髭神社(大沢259) 
・石鳥居:平成十八年、・杉:大木数本、巨木ほどではない、
・寺院跡(大沢286)大沢公民館   
・葷酒不入寺内、・四国西国秩父□□八十八所供養塔 明治二十亥(1887)年四月癸日、・?青面金剛か不動明王:文化二(1805)年丑二月吉日、・庚申供養塔 皇紀二千六百年記念、
・大沢縁側カフェマップ(大沢)  
 大沢ではおもてなしとして大沢縁側カフェを毎月第2,4日曜日に開催している。集落入口にそのマップが掲示されている。
・祠:馬頭(大沢)  
・馬頭:明治四十四(1911)年十月、・馬頭:文化十弐(1829)年、・馬頭:明治三□□年十二月、
大沢集落を過ぎ茶畑農道を一番上の奥に詰めた所に祠と石仏がある。
かつてはここ大沢から上り大岳の鉱山や笠張峠に出ていた。今でも登山道はあるが、車では行けない。なお大岳へ直登する道は頂上間近でなくなり、あとは稜線を行く。
この馬頭観音がある所を直登するのが多分旧道古道と思われる。これより上には登山道が延びていて、登りきると笠張峠から伸びてくる林道大岳線に接続するかと思われる。そのルートが旧道と重なると思われる。
この馬頭観音こそが大沢から笠張峠を越えて馬で井川に通じていた証拠である。 
・石造物(横沢61)横沢集会所、小学校跡地  
・地蔵2、・石碑:静岡市在住横澤會、・大石3、
・御嶽神社(横沢156⁻1)  
東側から上った所。
・石塔、・地蔵、・(梵字)庚申供養塔、
西側から上った所。
・馬頭、・馬頭:明治五年、・馬頭:辰八月、
 手前は墓地で神社は本殿があるだけ。
・燈籠(横沢291) 
 以前の長倉商店前の5m丘の上、以前の横沢バス停前。 
・臥龍(権現)滝 
 県道から見られる。水量が豊富である。臥龍滝と名づけたのはかつての県知事である。 
・一本杉峠 
県道をさらに上った左手に電線巡視路、一本杉峠線があり、大川諸子沢に出られる。かつての生活道であり、今は登山道、電線巡視路である。 
・笠張峠 
 大日峠に変わって使われるようになった。今では大川大間への分岐点となっている。尾根を通って林道大岳線沿いに大沢に出るのが古道ルートである。明治以前にも使われていたようであるが、発祥や推移は不明で、笠張峠からいかにして井川に出たか不明? おそらく三ツ峰付近へ出て井川または梅地方向へ尾根伝いに下ったのだろうか。また三ツ峰付近から大日峠へ尾根伝いに行くルートもあったと思われる。笠張峠から三ツ峰を省略して大日峠に行こうとすると大体今の自動車道ルートと同一化するので旧道を改変することで今の自動車道ができているのではなかろうか。 
 地図上での記載は標高1057mだが、大間と横沢、富士見峠に県道が分岐する地点では標高1100m。かつては大沢、大間、井川への分岐点であったし、今も分岐点である。標高がずれるように今と昔では分岐地点が違っている。
・富士見峠(井川3115) 
 現在の県道の峠で、休憩所、トイレ、駐車場がある。現在はここから尾根上の遊歩道で大日峠に行けるし、少し西下に自動車道も通じている。ここから登山道で三ツ峰にも行くルートがある。三ツ峰から七つ峰にもルートが延びている。
 笠張峠と大日峠を最短で結び三ツ峰を省略するとおよそこの富士見峠を経由することになるので、この辺りを旧道は通過していたのではないか。
 県道「南アルプス公園線」沿い、標高1184m、駐車場とトイレがあり、展望所にシンボル碑あり。三ツ峰(H1350m)へのハイキングコース入口があり、ほどほどの登りなので自然散策を楽しみたい初心者向けである。ちなみに北方にある現在の大日峠(口坂本温泉から井川へ行く県道越え)は標高1150m。

~油島からの梅が島街道~ 
・旧県道舗装街道(油島と蕨野の間) 
 河原土手の今の県道右崖上に昭和期に使われていたアスファルト舗装県道が一部残存している。不動沢橋付近に道祖神が祀られている。 
・本山茶の茶祖 聖一国師墓所(蕨野24) 
 説明版:聖一国師は藁科川の上流栃沢の米沢家に生まれ神童の誉れが高く、栃小僧(頓智)と呼ばれていました。五歳の時久能寺堯弁の弟子となってから、蕨野仲野播摩正の家にしばしは手習いに来ていました。嘉禎元(1235)年宋に渡り禅を究め、仁治元(1240)年帰国しました。その時茶の種を持ち帰り足久保や蕨野に植えました。当時僧の中には医療に携わる者もあって喫茶が養生法の一つにあげられ、茶は医薬としてたいへん珍重されました。江戸時代には将軍家の御用茶として、茶壺に納めて、お茶壺屋敷に保管し、お茶壺道中で警護されながら駿府や江戸に運ばれました。安倍川上流一帯は茶の適地として良質の茶を産するので、つくり初め本、味の本場であるということから「本山茶」の名が自然に生まれました。このように聖一国師は「本山茶」の種を安倍川筋にまいて、静岡茶を日本一にする基をつくったのです。国師墓所の寺号「医王山回春院」は茶の医療効果と結び付けて付けられたのでしょう。ここに「本山茶」の茶祖として聖一国師を讃え顕彰いたします。昭和54年4月、聖一国師顕彰会 平成21年1月改修、 
・回春院(蕨野103) 
 無住、聖一国師墓。 
・地蔵、・尼□□□申塔、・三界萬霊十方至、・當院開山救證(了不)聖一国師大和尚 弘安三庚辰(1280):この墓石が1280年のものではなく数回再建されてきたのだろう、
・城山(蕨野)  
蕨野から吊り橋を渡った対岸の山は中世山城跡。
・大聖不動明王堂(横山)  
八重沢川を500m遡ると左(南)岸にある。
・白髭神社(横山75⁻2) 
・石鳥居:昭和五十八年、・手洗石:昭和十五年、・燈籠2:昭和十年、・燈籠:昭和十一年、・燈籠:昭和五年、・燈籠2:昭和十一年、・板碑、
・石塔、墓石(横山35⁻3)  
・?墓石、・庚申供養塔 文政八(1825)、・祠、・地蔵、・?馬頭、
・小川地蔵(横山) 
 水難除けの地蔵で焼津市小川が発祥のものを分祀してある。 
・馬頭観音(平野) 
 平野入口県道右側壁安置。今はない。引き揚げたようだ。下記観音堂入口に再設置。 
・観音堂(平野) 
原橋手前東側に近年設置された。
・馬頭:昭和十四年、・馬頭:昭和十八年、・燈籠、・紅葉、・樹木
・手作りの石灯籠:説明版:この石灯籠は長い歴史をもった由緒のあるものです。代々栄えた大家の庭にあったものです。石工がタガネを打って造形した手作りで見事な風格をたたえています。お堂との落ち着いた風情が庭園の見どころとなっています。
・観音堂:説明版:聖観音菩薩像:江戸初期1600年頃:堂の中央に安置するのは聖観世音菩薩の像です。眼光の鋭い目から放つ光は苦しみ悲しみ悩み事など苦労の様々を観音様自身が受け止めて下さり、慈悲に溢れたひとすじの光となって私たちの心の中に力強い力を与え下さるのです。観音様はいつまでも健康長寿、安らかな永遠の旅路まで加護下さいます。阿弥陀如来:室町1540年頃:堂の右側に安置する阿弥陀如来様は体長60㎝と小柄ですが、なんと重さは70㎏もある像です。この如来様は日頃の悩みや苦しみの一つ一つを重い体重で踏みつぶして取り去ってくれるのです。この如来様は踏みつぶし如来と呼ばれ穏やかに見守って下さっています。心からの礼拝で必ずや願い事が叶えられるでしょう。
・地蔵(平野164)    
集落内分岐点の祠に安置。
・大村家住宅、カブト造り(平野1052)  
・国登録有形文化財 文化庁、・景観重要建造物、茅葺屋根の一風変わった屋根の形をしている。兜に似ているのでカブト造りと言われるのだろう。カブト作りの屋根は見応えがある。
 手前の道路脇に五輪塔2基の古い墓石がある。
・平野の盆踊り
平野の盆踊りは県指定無形文化財。
・石碑(平野481⁻2)
・石碑:礼場椿道 開通記念 平成元年、
・白髭神社(平野112) 
・石鳥居:大正十五年、・角柱型燈籠3、・燈籠2:大正十年、・板碑、・社、・祠、・杉:巨木、
・少林院(平野504) 
 境内入口に石道標(再建)「右ひらの 左もろおかむら」とある。もろおかむらは末高山周辺の村岡村むらおかむらのことだろう。 
・庚申供養塔、・庚申塔 昭和五十五年、・新:百度石、・新:経塚、・燈籠:大‣中、・燈籠4、
・仏足石、・真富士観音第一番、第二十九番、・不許葷酒入山門、・学校発祥地、・石道標:少林禅院 左もろおかむら 右よこやまむら、・その他、
・真富士三十三観音 
 少林院に第一番があり、第二真富士山山頂に第三十三番が安置されている。第一真富士山山頂に第三十一番で、第二真富士への途中に三十二番がある。第二番は寺を出てすぐに曲がった所にある。登山道沿いにあるため、林道だけを通過してもすべて見られるわけではない。戦後の昭和三十年代にハイキングコースが設置されたのを機に安置された。第一真富士山頂の手前に真富士神社がある。 
 14年10月現在、第一番は県道沿い平野バス停横に安置されていた。
 ふりかけ食品メーカーに真富士屋があるが、経営者が当地出身だからである。
平野集落を出て真富士山方向へ林道を進むとすぐに左下に茶畑がある平坦地がある。黒部沢河口の平坦地でもともと集落はここにあったと言われているが、黒部沢に土石流が押し寄せたため上に集落を移したらしい。
・朝日滝(平野) 
 集落県道から対岸に見えるが、滝に行く道はない。 
・不動滝、不動尊堂(平野) 
 中学校裏手にあり、歩道がついていたが、崖崩れ対策で不動滝周辺一帯を高いコンクリ壁で覆い尽くしたため、全く滝を見ることができなくなった。もはや見たり遊んだりすることは不可能である。よじ登りかいくぐれば可能ですが…
不動明王堂はコンクリ壁手前に再建されてある。
・?角柱型燈籠、・石:奉納、 
・末高五輪塔、末高館跡(平野) 
 大河内小中学校右手(北側)の山上(末高山)の茶畑内にあり、歩道がついている。館跡という。末高氏は安倍七騎の一人。子孫は東京在住という。この下の県道カーブを地元民は末高山のカーブと呼ぶ。
・五輪塔2、その他の墓石多数、 
・白髭神社(中平343) 
 中平の集落は現在の県道より上の旧道(通行不可)のそのまた旧旧道沿い及びそれより高所にあるため県道からは一部しか見られない。現在の県道がほぼ河原に作られたため人が居住できる場所ではないからだ。街道が新しくなるたびに下に移転したため街道のダウンムーブメント現象の好例として観察できる場所である。
・石鳥居、・白髭神社 紀元弐千六百年弐月、・手洗石:昭和十五年奉納、・板碑:頌徳碑しょうとくひ 立浪碑、・燈籠2:奉納弐千六百年、・祠、・社、・手洗石:明□奉納安倍郡中平村観音講中、・燈籠:大正十年、・杉:巨木、
・お堂、公民館(中平61)  
 かつて臨済宗の寺院で移転したがお堂は保存した。
・庚申塔 安政(併のイなし?)年如月吉日、お堂の門前にある。この上の斜面に切通しらしきがあり、かつての古道かと思われる。
・古い墓石群(中平23)   
・三界萬霊無縁塔、・他墓石多数、江戸時代年号あり、
・学校跡地(下渡493) 
・心の碑 昭和四十三年 大河内北小学校、・石碑、・コンクリ像、
・しだれ桜(上渡185) 
 県道沿いに咲き見事。 
・全福寺(上渡4) 
寺の参道入口にある。・水難除供養(美良)塔 地蔵3、
寺の門前墓地にある。・六地蔵、地蔵、
寺の上のお堂横にある。・庚申塔 享和二年(1802)、・?石塔?庚申 元禄二己巳幸(1689)、・庚申塔 大正九年、・庚申塔 昭和五十五、
・石造物(渡本5) 
・記念碑:孝子白鳥文八居住之跡 東宮殿下御成婚奉祝記念 大正十三年一月二十六日建之 安倍郡、・燈籠:奉納、
・東雲寺(有東木776)uto-giうとうぎ  
 曹洞宗。子安観音、大日如来、山葵田がある。
・堂、・庚申塔、・石塔、・新:六地蔵、
・白髭神社(有東木597) 
・祠、・新:燈籠2、・新:手洗石、・石:家:道祖神、・大杉10:高さ45m、隣に祠:仏像:天保三(1832)、
・有東木白髭神社の大スギ:説明版:樹高35m(新説明45m)、目通り周囲6.6m、枝張15m、この神社の境内には樹齢約720(新説明750)年にもなる樹勢の良好なスギが十本程あります。有東木に集落ができたのは500年ぐらい前といわれており、このスギはもともと天然林であったと思われます。静岡市。
・有東木の無形文化財 
 国・無・有東木の盆踊り、市・地登・有東木のギリッカケ、市・無・有東木の神楽、
・石塔(有東木267) 
・馬頭、・祠、・?観音:天保四(1833)、
・辻の地蔵(有東木691)  
 寺の手前の住宅の辻。別名:しょんべん地蔵、長いいわれがある。
・分校跡(有東木751)  
 寺の裏の空き地で消防分団小屋の横。昭和44年廃校。
・ワサビ発祥の田(有東木734)   
 有東木公民館の先。
・地蔵:行山安全:えぼし岩(有東木734)   
 有東木公民館の先。
・火の見櫓(有東木767)    
 寺の裏の分校跡地横。
・たかんば:凧揚げ場がなまった、景色のよい所・山の神:山の神がくれた景色が見える所、・そらんだん:空の段がなまった、展望がよい。・山葵栽培発祥の碑、
・山葵高原(有東木)、正木峠、地蔵峠、成島峠、細島峠 
 有東木の奥に山葵(ワサビ)高原があり、山葵発祥の地という。さらに奥に正木峠があり、藤代への道である。また地蔵峠を越えると山梨県の月夜の段に出られる。他にも成島峠や細島峠を越えて山梨県側に出られる。特に細島峠や成島峠越えが使われていたようだ。地蔵峠越えは新しいようだ。主にかつての生活道路である。今はいくつかが登山コースとして歩けるが、廃道もある。 
・石造物(大和田523⁻4) 
 かつては有東木園という蕎麦屋があり石造物を置いていた。蕎麦屋がなくなった後もしばらくは石造物があったが13年12月現在は何もない。 
・コンクリ製橋桁(大和田、瀬戸橋手前) 
 かつての吊り橋用橋脚と思われる。
・(藤代) 
 かつては正木峠で有東木とつながっていた。川が増水したときの山越えコースになっていたようだ。この集落はかつて土石流により壊滅的打撃を受けたことがある。
 集落入口手前に藤代の滝がある。
・庚申塔(藤代329)   
 集落入口手前の道路脇に新しい祠設置。
・庚申塔 寛文八(1668)、・庚申塔 天保十五(1844)、
・桜(入島・数珠窪) 
 今は県道から外れたが、かつては県道沿いに桜がかかり見事。 
・石仏(入島) 
 2010年以前集落入口の県道沿いに安置されていたが、13年12月現在は入島公民館の下記地点に安置。 
・指月院跡(入島220)入島公民館  
 草創:1506年、本尊:聖観世音菩薩、
・堂、・奉請庚申待一結之衆中敬為延宝八庚申(1680)、・地蔵2、・石塔2、・石塔の笠部分、・石破片、
・祠:地蔵(入島289) 
 農協の茶工場や茶畑のある辻に祀られている。
・土砂崩れで崩落した昭和期の県道(入島) 
 昭和期に使われていた県道は、入島から湯の森への長大なスロープ橋の左のがけの中腹に見える。一応崖は修復されているが、根本的に処置できないためこの長大な橋を通した。
・神社(湯の森1029⁻4)  
・木鳥居、・常夜灯2:明治三歳、・燈籠2、・観音:延宝三(1675)、・石塔:見ざる言わざる系の浮彫りなので庚申塔系と思われる、神社の社殿は彫りが見事である。
・石碑(湯の森1029)  
・忠魂碑、・大東亜戦争戦没者芳名、・御大典記念、・平和、
・石碑:渡辺柔郎 髯先生の碑(六郎木1327)   
 梅ヶ島小中学校前の校門橋を渡った公衆トイレ横。
・梅島山宝月院(関の沢、梅が島545)、 
 本尊:釈迦牟尼佛如来、開山:1968年、宝珠院と指月院が併合、 
・新:不許葷酒入山門、・新:六地蔵、・新:地蔵、
・関の沢の水力発電所跡(関の沢) 
 静岡新聞13年12月に掲載。関の沢川沿いに水力発電所が戦前あったが戦後役目を終えた。取水口や発電施設跡が残る。
・(大代) 
 井川峠とつながっている。ハイキングコース通行可能。 
・石塔類(大代3083)   
 大代集落内の峠越えのような高所にまとめて祀られている。おそらく近年移転合祀されたのではなかろうか。
・祠、・庚申供養塔、・石塔、・地蔵、・三地蔵、・石塔、・石塔、・石塔の笠部分、・丸石、・穴あき石、
・御巣鷹山853.8m、天神山826m (大代)
 大代集落東側の双耳峰(山頂が二つある山)の名前は南の三角点のある高い山が御巣鷹山853.8m、北の低い山が天神山836mだそうだ。どうも登れるらしく、集落の山頂真下の森下(地名)716mに登山標識がある。標高差137mなので20~30分で登れて両山廻って1~2時間ではないでしょうか。
・(本村)
 バス停のある家の裏から戸持集落に上れる。かつての古道で昭和期まで子供たちの通学路であった。下るときは約15分だったそうだ。またバス停横の川向こうの林道(この林道は500mも進むと行き止まり)入口から真上に向けて上る登山道も東峰に上る旧道(古道)であり、現在も大光山登山コースとして使われる。そしてこのコースも東峰の通学路だったのだろう。
 「古道は通学路として近年まで残存しやすかった」といえる法則が成り立つ。そして古道は登山コースや自然歩道に選定されると残存しやすいともいえる。
・石塔類、神社(戸持3477)、兎作  
 集落内の戸持公会室横に祠や石塔が安置されている。
・祠、・稲荷神社、・?天神、・奉請庚申供養塔、・地蔵2、
 戸持は急峻な山の斜面に茶畑が広がっていて、今は畑になっている所のいくつかで金の露天掘りがかつて行われていたという。今は茶畑ばかりだが焼畑農業との関係性もあるだろう。
 戸持の一番北の高所の集落裏山に昭和40年代の地図上では鳥居マークがついているので、かつてはそこに神社があったと思われるが、現在は東峰に稲荷大明神があり、戸持の神社は湯の森の白髭神社に合祀された。かつての鳥居マークのあった所は調べたが何もない。
そこへ行く自動車道は裏山の下で舗装が終わるが、その奥には無舗装の道が続き、立ち入り禁止となっている。
・兎作    '14 11/3
 その500m先にはかつて兎作という集落があった。兎作は廃村となっている。壊れかけた廃村の家の庭に、すり潰し用の自然石:30㎝四方で上部真ん中がへこんでいて、鉱石をすりつぶすのに用いたのかもしれない。他に15㎝四方と10㎝四方の丸石自然石が2つあった。
兎作の住人は最後3軒となり、大野木、古庄、末広町へ出ていったという。最後に残った2軒は、清水区の人が1軒を買い取り別荘にしているという。もう1軒はどうも吾作小屋というようで、大野木から戸持に来るとき通る舗装道から登山道が分岐しているようだ。
・神社、古道(東峰1959⁻2)  
・赤祠、赤鳥居: 稲荷大明神、
神社横に標識:「日本一高い茶畑海抜1000m」、地図で確認すると標識のある神社前で標高900mで目の前の斜面の上に続く茶畑の最高所で1000mと推定される。その横を登山道は進むと思われる。登山標識「東峰←→大光山」があり、上る道は茶畑横を上り大光山に至り、ここから下山する道が本村バス停に続くことが分かる。
13年12月付近で飼われている犬が人懐こく近づいてきて癒された。
ただこの道がいつから使われているか証明がないので古道と言い切れるかは不明だが、旧道であることは言い切れる。もっと古い古道があるかないかは今後の調査研究を待つ。一応この旧道を古道と推定したい。
東峰も金の露天掘りとの関係がいわれる。焼畑農業とも関係あるだろう。
・(孫佐島) 
 井川峠とつながっている。ハイキングコース通行可能。現在市営キャンプ場。
 孫佐島に渡る橋の手前に祠がある。橋を渡った所の山に取り付くと井川峠コースとなる。
・祠:金谷山神社、 
・(大野木、戸持、東峰) 
 現在梅園、テニスコート、温泉民宿の地。この裏から戸持、東峰集落に行ける。この集落はかつて金の露天掘りをしていたと推定されている。なお六郎木集落の一つ上流の本村から徒歩で上って行ける。それが旧道(古道)である。 
・刈安峠(草木) 
 東峰同様、刈安峠越えで山梨県につながっていたが、崩落だらけの危険なコースなので現在通行禁止となり廃道である。私も滑落しかかったことがあった。刈安峠そのものへは草木から大光山経由で稜線へ出て歩ける登山コースが設定されたので、稜線をたどり稜線上の鞍部として通過できる。なお山梨県側も廃道である。石仏やいわれのある樹木等はない。かつての生活道路。 
・赤水の滝(赤水) 
 増水したとき水が赤く(赤茶色)濁るためである。この上流に大谷崩れがあるので土砂を含みやすかったのだろう。展望所が県道下にある。県道は滝の真上を通過する。自転車で上るとこの街道中もっともきつい上りである。 
・(新田) 
 大谷崩れにより大量の土砂が集積し、金が取れなくなった日陰沢金山から鉱夫たちが移転し開拓した土地。市・無・梅が島の舞。 
・稲荷大明神(新田5554) 
 この裏から登山すると、七人作りの尾根という安倍奥三大遭難地帯の稜線をたどれるようだが、すさまじい藪を通過する危険地帯なので素人は行かないように。
以前は小さな祠しかなかったが、13年11月現在、参道や社殿が新しくなっていた。
・赤鳥居:幾つか、・板碑、・新:燈籠2、・手洗石、・石碑:奉納正一位稲荷大明神百五十年祭記念碑、・石段、・燈籠2:昭和~、  
・願勝寺分院(新田) 

・大谷崩れ 
 日本三大崩れの一つ。扇の要から新窪乗っ越しを経て大谷嶺(三角点所在地△1997.7mだが三角点がすでにない、崩落したようだ)や山伏岳に上れる。一面のガレ場は見応え十分。 
・日陰沢金山跡、奉行所跡、鉱夫たちの墓 
 魚魚(トト)の里の奥でハイキングコースになっている。入口の奉行所跡は休憩所になっている。近くには遊郭もあった。河原を数分歩くと集落跡の様子を石垣や段差等でつかむことができる。古い道もあり墓は山の稜線上にある。この街道中もっともスリリングなコース。一見の価値あり。墓石は小振りで甲州(山梨県)側で彫ってもらい鉱夫たちが背負って山越えしてきたものだ。もっとも新しいもので天保期(幕末)のものである。墓石が甲州のものということでいかに甲州とつながりがあるかが分かる。
入口周辺には市営黄金の湯、金山温泉、魚魚の里があり、レジャーに最適。 
・宝珠院跡(梅が島本村) 
 本尊:釈迦牟尼佛、草創:1558年、 
・市営温泉黄金の湯(新田)  
 日帰り温泉で土産物屋、公衆トイレ、無料駐車場がある。
温泉前の土手に梅ヶ島観光看板、砂防ダム説明版、三河内川床固め工群完成記念碑及びモニュメント付石庭がある。
川向うは魚魚の里と奉行所跡である。川の水量が少なければ靴や足がずぶ濡れになるのを覚悟すれば徒歩で渡河できる。ただし夏でも冷水で冷える。
・安倍の大滝(三河内) 
 最初の梅が島温泉民宿を右に入っていく。徒歩十数分。落差が多きく安倍川流域中最大の滝である。 
・梅が島温泉 
 かつて市営温泉があった所は源泉取水場、湯之神社、公園になっていて、説明版等が多い。
・梅ヶ島温泉の歴史:説明看板:梅ヶ島温泉は、静岡市の北部、安倍川源流に近い安倍峠の麓に位置し標高1000m(級)の雄大な山々に囲まれた静寂な自然環境の中にあります。その歴史は古く、一説には約1700年前に遡るとも言われています。三人の狩人により発見された説、砂金採りにより発見された説、或は仙人が三匹の蛇が遊んでいる泉を見つけて発見された説など、梅ヶ島温泉にまつわる逸話が多数あります。
 戦国期には信玄の隠し湯とも言われ、古くから美人づくりの湯と知られるこの温泉は、単純硫黄温泉で神経痛、関節痛、うちみ、痔、冷え性、疲労回復、皮膚病などに効能があり、ツルツルとした感触の良い温泉は清く澄み、時として黄金色に輝き、湯の花を浮かべ、長い間、湯治場として多くの人々に親しまれてきました。
 昭和四年の大火、昭和四十一年の大水害等の苦難もありましたが、現在は旅館、民宿、土産物屋など十数軒が軒を連ね、その歴史を今なお継承しています。
 この地、「おゆのふるさと」は、昭和四十五年に開設した市営浴場が平成十一年四月に梅ヶ島新田へ移転新築されたことに伴い、再整備したものです。梅ヶ島温泉の泉質を感じていただくお湯に触れる施設や湯之神社、岩風呂、湯滝等を回遊散策し、展望デッキからは梅ヶ島温泉街も一望でき、梅ヶ島の魅力を垣間見ることができます。
・湯之神社:猟師たちにより発見されたという。源泉上にある。・石塔:読めそうだが刻字不明、
・湯之神社の由来:説明版:正保二(1645)年初夏の頃、甲州天目山に治療中の良純親王は西方に霊泉ありとの夢のお告げを受け、それを尋ねて甲州路を安倍の峠へと辿られました。親王が重い足を引きずって頂上近い逆川のほとりで休息していますと赤い小蛇三匹が道に出て親王を導きました。(親王が持っていたお酒を盃につがれ差し出されると、それをなめられたといいます。)そして道なき道を西方に導かれ、やっとのこと温泉にお着きになりました。親王がこの温泉に入浴なさいますと三日で痛みもとれ、十数日で難病もすっかりご快癒になりました。
親王はこれを日頃崇拝する御仏が、権(かり)の姿でおいでになりお救いしてくれたものであると信じ、仏恩報謝の御心から持っていたお守り刀の備前長船祐定と紺紙金字の願経と水晶八房の御数珠を捧げられ三蛇大権現としておまつりしました。
 しかるに、古来より「湯之宮三社(蛇)権現」と称されていましたが、明治に入り政府の神仏分離政策により湯之神社と改称、春秋年二回の祭典を行い現在に至っております。
・湯滝:説明版:湯之神社の脇にあるこの滝は、古くから人々の心を清め、和ませてくれる温泉の守り滝として奉られており、新緑青葉の時期に岩肌を滑り落ちる水しぶきは、昔と変わらぬ清涼感を今でも私たちに与え続けています。
・岩風呂:説明版:このお風呂が造られた時期は定かではありませんが、古くから美人づくり、子作り、長生き、健康づくりに御利益がある湯として人々に親しまれてきました。現在はここに湧き出ているお湯も含め、各旅館等に、源泉湯として供給されています。
・歌碑:あめつちの大き心にしたしむと駿河の山の湯どころに来し 勇 
 温泉旅館街から三段の滝へ行く道脇に慰霊碑がある。
・台風被害者慰霊碑:遭難者慰霊塔。慰霊碑、昭和41年9月25日台風26号による遭難者、遭難者個人名。水難地蔵慰霊菩薩 昭和四十一年九月二十五日水難犠牲者二十六名、増田。 
・三段の滝:温泉街の上流、徒歩5分。 
 温泉街から安倍峠方向またはバス停のある方に向かうとバス停前にある。
・文学碑、吉井勇、あめつちの大きこころにしたしむと駿河の山の湯ところに来し、昭和十四年初夏。バス停前。
・摺石:武田信玄公の時代、新田部落付近に日影沢金山あり、其の当時金鉱を入れて摺り潰して□に流して金を得たものです。梅薫楼
・南無妙法蓮華経、昭和十四年、ひげ題目、
*山の中の地名になぜ「~島」が多いのか。島はシマで縄張り領分の意味があるようだが、一般的に島は水に囲まれた所である。この水は客観的に四方を囲まれた海(湖、池、沼、川)だけでなく、主観的に囲まれている、あるいは水のある所を渡って行く所も含むようだ。そうすると山の中でも川の向こうは「~島」である。
梅ヶ島温泉を三段の滝方向ではなく右折(東)してバス停方向へ行きさらに奥を目指すと、林道入り口ゲートと手前に八紘嶺安倍峠登山道入り口がある。古道は登山道であろう。ただし古式ゆかしいものは登山道沿いには見当たらない。以下は林道沿いのものも紹介する。林道豊岡梅ヶ島線は5月下旬開通、12月初め閉鎖となる。ただし林道が災害で通行不可能になることは多い。14年11月現在山梨県側は復旧工事中でここ3年ほど通行不可である。
・安倍の大滝の展望所、
 梅ヶ島温泉より林道豊岡梅ヶ島線で1㎞進んだところ。標識「ここより安倍の大滝が見えます」、確かに滝の上部が見える。
・安倍の大滝への近道登山道、
 梅ヶ島温泉より林道豊岡梅ヶ島線で1.5㎞進んだところ。標識「安倍の大滝入口、500m、安倍の大滝から民宿へ1.5㎞」
・鯉ヶ滝(恋仇)
 梅ヶ島温泉より林道豊岡梅ヶ島線で1㎞進んだところ。看板標識がある。
「1、昔、安倍郡梅ヶ島村に住む百姓の三郎左衛門と湯治場の湯女(ゆな)のおよねとは、いいなずけの間柄だった。ある日、府中より馬場新之助という若侍がこの湯治場の腰痛の治療に来て、いつしかあ、およねと深い恋に落ちた。
2、二人の関係を知った三郎左衛門は、ショックの余り殺意を覚え、二人のいる湯治場に火を放ち山へ逃げ込んだ。そして、滝の上まで来た三郎左衛門は、湯治場にいるはずの二人の逢瀬の場を見つけ、逆上し背後から二人を滝下へ突き落してしまった。
3、住み慣れた村の空が湯治場の焼ける炎で赤く染まるのを見た三郎左衛門は、自戒の念にかられ、二人の後を追い滝下へ身を投げた。しかし、このとき彼が見た空は、火事の炎ではなく晩秋の美しい梅ヶ島の紅葉に彩られたものだった。
4、その後、三郎左衛門とおよねは緋鯉と真鯉に化身して結ばれ、仲良く滝に住んだという。爾来、この滝は「恋仇」(鯉ヶ滝)と呼ばれているが、事実は定かではない。」
 滝は林道橋の上流側に見える。大岩の中を豪快に水が下っていく。
・八紘嶺登山口
 温泉の林道ゲート付近からの登山道がまた林道と交差し、再び登山道に分岐する。付近に駐車場もある。
・安倍峠旧登山道
 峠1㎞手前で林道からはずれた旧登山道入り口がある。沢沿いを進める。
・駐車場、公衆トイレ、富士見台の下
 13年11月現在、梅ヶ島温泉よりここまで車で来られる。山梨県側が復旧工事中のためバリケードで車は進入できない。あと500mで安倍峠である。
・ハイキングコース案内標識:安倍峠~八紘嶺~梅ヶ島温泉 八紘嶺~安倍峠 八紘嶺~大谷崩、
・安倍峠、標高1488m、     '14 11/3
 山梨県との生活道路で、かつては静岡市街側に行くより使われていた。川沿いまたは山また山を越えて歩く方が大変で、安倍峠等を越えて身延町側に出る方がましだった。オオイタヤメイゲツ等、秋に黄葉し更に紅葉する落葉樹が見事で、秋10月中旬に黄色というより午後の日差しを反射した黄金色の絶景は極楽のようだった。しかし地球温暖化の現在は10月下旬がピークである。14年10月25日はまだ緑、黄色、赤がぼちぼちでこれから1週間後がピークかと思われたが、11月3日に来たら紅葉を通り越し枯れ木となり葉は茶色く地面に積もって初冬景色となっていた。おそらく10月27~29日がピークで、あっという間に散ったようだ。
どうも地球温暖化で紅葉時期が遅れたが、終了は後ろにずれず、あっという間に散ることになったようだ。葉の紅葉の仕方は緑、黄色、赤、更には木についたままの葉が茶色く変色していくという、汚い紅葉いや紅葉しないで茶色く朽ち果てる葉がでる始末のようで、鮮やかな紅葉ではなくなっていくようだ。地球温暖化で夏が長期化したが、冬は例年通り来るので、秋が短期間化し、紅葉しきれず朽ち果てるという情けない紅葉になるようだ。 
 オオイタヤメイゲツ(カエデ科カエデ属):一般的には散生するが、このように群落をなすことが珍しいので学術参考林(昭和56年)となっている。そのため林道を峠から少し外れた箇所に作り県境を越すようにした。工事費がけた違いにはねあがったそうだ。
 峠を旧道に沿って梅ヶ島方向に下ると500mほどで水が湧き出し川になるところを見られる。安倍川水源地の標識がある。まあ安倍川の最初の1滴といったところでしょうか。 更に1㎞沢沿いに下れる旧道がある。その先は林道に合流する。
林道合流をやめさらに道なき沢沿いを下ると、鯉が滝と安倍の大滝にはまることになり、落ちたら死にます。よく素人さんが、川沿いを下れば人が住む村や町に出られるから、遭難したら川を下ればよいと言いますが、それは平野を流れるゆったりした川が前提で、山の中の川は悪絶なる滝場、断崖絶壁の渓谷にはまるので、絶対川沿いを下ってはなりません。自殺行為です。
 安倍峠にあるもの:
・馬頭観音?:コンクリート製、
・安倍峠から徒歩15分、シロヤシオ群生:開花5月下旬、トウゴクミツバツツジ:開5~6月、サラサドウダン:同6/下、チチブドウダン:同6/中、ブナ巨木、ミズナラ巨木、
・石碑:「開通記念 広域基幹林道豊岡梅ヶ島線」静岡県側7.4㎞、山梨県側14㎞

~参考文献~  
・「井川村誌」井川村誌編集委員会、’74 
 自然、歴史、産業、交通・通信、発電、文化、民俗、方言という井川についての総覧であり、基礎資料である。 
・「玉川村誌」、’64 
 1911年手書き版上梓、1964年写本プリント版発行である。自然、歴史、教化、兵事、衛生、警備、産業、交通、社寺、伝説、、伝記、言語、風俗、災害等について20世紀初頭においての観点でまとめられていて、今ではおやという部分もあるが、当時の基礎資料足りうるものである。 
・「田代・小河内の民俗~静岡市井川~静岡県史民俗調査報告書第十四集」静岡県教育委員会文化課県史編さん室、’91 
 民俗調査報告書として一通り報告されているので便利。多分田代と小河内が取り上げられたのは、井川ダムの水没を免れた地域だからだろう。本地域の民俗資料決定版である。
・「美和郷土誌」美和郷土誌編集委員会、代表:小沢誠一、’85 
 自然、歴史、教育、生活文化、宗教、民俗、史料について、微に入り細に入りこれでもかというぐらい記述されていて、他の地誌に比べてもワンランク上の内容である。まさに美和を知るための一級資料で決定版である。 
・「梅ヶ島物語 史話と伝説」志村孝一、’82 
 梅ヶ島にまつわる武将、豪族、庄屋、村々、温泉、偉人、産業について聞き書きしていて、よくここまで聞きまわったものだ。今では滅んだこともあろうから資料として残したことで、後世に価値が上がろう。 
・「安倍川~その風土と文化~」富山昭・中村羊一郎、静岡新聞社、’80 
 堤防、水害、水神、交通、産業、伝説(金山、飢饉、白髭、七観音)、農耕信仰、祭、婚姻等について卓見多し。 
・「安倍川流域の民俗」静岡県立静岡高等学校郷土研究部、’80 
 安倍川流域の歴史と産業、村の成り立ち、信仰、衣食住、人の一生の出来事、年中行事、諸芸能、伝説について、一通り概観し調査してある。70年代末によく高校生が調査研究できたものだ。 
・「復刻版 大河内村誌、大河内村青年団、岩本利太郎:編、1913年」静岡市立大河内中学校、’89 
 1913年の大正期に出され、1953年に口語訳で一部抜粋にて再編纂され、さらに89年復刻された。内容は、自然、歴史、教育(学校、社会、宗教)、兵事、衛生、警備、産業、交通、名所旧跡、伝記、言語、風俗等である。簡略に知りえるのによい。 
・「安倍川と安倍街道」海野實、明文出版社、’91 
 安倍川の成り立ち、安倍街道、水害、水神、筏流し、舟運、賃取橋、鉄道について分かりやすく、コンパクトに読ませる。 
・「藁科路をたずねて」海野實、明文出版社、’84 
 藁科のお茶摘みさん、焼畑文化、藁科五街道についてコンパクトかつ分かりやすく説明している。 
・「静岡市歴史散歩」川崎文昭(静岡新聞社)、’90 
 市内の数多い名所旧跡を手際よく簡潔にカラー写真付きで紹介している。 
・「しずなか風土記 賤中ふどき」しずなか風土記編集委員会、静岡市立賤機中小学校、’68
 伝説や民間伝承面が細かに採録されていて、今では語り伝えられないものがよく残せたものだ。この資料は助かった。 
・「郷土史 私達の籠上」籠上町内会、’84 
 籠上単独でよく出したものだ。とりあえずコンパクトに知りえることができる。 
・「静岡市 歴史の町 井宮町誌」静岡市井宮町町内会、’03 
 井宮周辺の歴史地理を細かにかつビジュアルに知りえる良い資料だ。 
・「郷土誌 私達のふる里 下(しも)」下町内会、’08 
 静岡市葵区下地区(鯨ヶ池から諸岡山周辺地域)の主に近代以後の細かな情報が入手しやすい。 
・「玉川新聞」  


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 00:01Comments(0)古道