さぽろぐ

文化・芸能・学術  |

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2018年03月30日

遠江三十三所観音霊場巡礼道

・私的前々文
 2015年秋11月以降、以下の「遠江三十三所観音霊場巡り」の巡礼道を調査研究しています。実際に現地を廻ってフィールドワークをしています。ついては分からないことが多いので、もしアドバイスいただけるようでしたらお願いします。以下の石造物を除く観音霊場に関する文章は参考文献3冊からの引用がほとんどで、事前資料です。特に巡礼道の様子を調べたいのと、移転前の過去の観音堂位置を割り出し、そこをたどる道を推定しています。

☆疑問点:総ざらい
・1番:結縁寺:元の堂があった奥の一ノ澤の元堂はどこか?
  答:モトド:元堂という地名が、結縁寺集落の一番奥の家周辺にある。

・3番:長谷寺:かつて門前近辺にあったと思われる石柱「三番はせ寺」はどこにいったのか?
 不明、分かる方コメントをお願いします。

・4番:正法寺内新福寺:かつて新福寺は曽我山の山頂で高御所北端にあったそうだが、それはどこ?
 現在高御所北に浅間神社があるがその附近か、または逆川との境の丘ではないかと2つの推定案を考えた。この位置だと長谷寺から巡礼路は現在の線路をくぐる南進路を取らず西進するだけで至近距離である。
  答:高御所の北方に高御所地区公会堂があり、墓や地蔵、五輪塔があり、隣裏山は丘になっている。公会堂や墓地、裏山周辺のようだ。

・4番:正法寺内新福寺:の裏山を越えて次の法多山に行く近道で抜け道のようなルートで腹摺峠の西を行くはずだが、そのルートはどこ?正法寺裏山は改変されていてどこから入るか不明?
 答:腹摺峠尾根沿い西200mの2つ目のピーク付近に山道入口はあるが、そこから先の正法寺への道はない。道は崩落したようだ。

・5番:尊永寺内北谷寺:北谷の地区は分かるが、その北谷のどこに寺があったのか?
  答:永寶寺:大嶽氏の調べにより、北谷の入口付近であることが判明した。感謝いたします。

・9番:清瀧寺から10番:蓮華寺への経路中:岩室地区の台地上の尾根を伝って行き、一宮の宮代西の小国神社手前の平地に下っていくのが古い巡礼道であるが、明治23年地図『二俣町』では、巡礼道は北島氏宅前に下りずにもう1本北側の枝尾根をつたって下りている。この山道があるのか?なぜ現在の山道ルートと明治23年地図のルートが一部違っているのはなぜ?
 答:赤黒標識杭のある古道をたどると、古道の左のピークに向かう山道があり、黄黒の標識杭がある。たどっていくともう1本北側の枝尾根沿いに下れる山道がついている。

・古い11番:観音寺は睦実、鴨岡の北の丸へ行くトンネル付近にあったようだ。そこから12番:寺島の長源庵へ向かう推定ルートとして、葛城北の丸へ尾根上の古道を通り、北の丸から掛川市と森町の境界線尾根を伝って秋葉街道に下り、幡鎌から今の天浜線や県道を渡り、新東名脇をかすめ寺島に至ったと推定したが、果たしてそのルートで合理性があるのか?
或は北の丸付近から幡鎌へ出て今の原田駅前附近を経て寺島に向かうルートも推定される。

・12番:長源庵はかつて寺田村の山崎にあったそうだが、それはどこか?
 答:長源庵の裏の山:今はゴルフ場の入口近く周辺がかつての寺田の跡。現在周辺は寺島という地名だが、宮ケ島と寺田が合併して寺島になった。

・14番:古くは桜木池附近の山頂の知漣寺であることが分かった。大和田峠からねむの木美術館へのルートも判明した。知漣寺の次には坂下の地蔵院に移ったが、これも場所は判明した。これも皆様のご協力で感謝いたします。

・14番:大雲院または地蔵院、知漣寺から15番:文殊寺へのルートは、倉真の報徳神社付近から、倉真と初馬の境界尾根に沿って伝い、越えて長老塚やその上の茶畑の供養塔を経て初馬の文殊寺に至ったと推定されるが、そのルートが正しいのだろうか?

・16番:真昌寺の観音堂は高森山西麓に明治32年まであったそうだが、それはどこ?
 答:水垂の老人ホームききょう荘のある山の反対側の街道沿いでかつて忠魂碑があった所。

・18番:新福寺より19番への途中で鞍骨池近くを通過する。池の堀越入道伝説とは何か?
  菊川市西方公文名の首塚様の地蔵の説明版(27番から28番への経路)により了解したが、今後、図書館で調べたい。

・20番:観音寺から21番へのルート:巡礼道は東の山を越えて本所集落に出るのだが、調査によって2つのルートが判明した。①北回りコース、②南回りコースの2つに分けられる。 
① 北回りコース(子安観音→茶畑内の基準点→本所1077:齋藤宅前→薬師堂)
子安観音を東に向かい進む。現在茶畑になっている所に一部コンクリ舗装されている道がある。これに沿い上っていく。草木生い茂りひどい中を進むと台地上に改めて山を削り整地し直して開墾された新しい茶畑が広がる隅に出る。茶畑の北西端に出たようだ。イノシシ用罠オリがあり、野生のイノシシがはまっていた。コンクリ舗装がなくなり更に山を削り取った斜面に道がはまっていく所で草木だらけで進めないし、この先道型も削り取られ消失していくのであきらめ、下に下り、道があったであろう当たりを追っていくこと150m、改めて上に茶畑が出てくる。茶畑に上ってみると、道型消失地点から150m東で、茶畑の西端の道型再登場地点?辺りに、基準点がある。ということはかつてはここがアカミチのおよそ峠辺りではないかと推定する。この地点より東も開墾されたばかりの茶畑かと思うし、舗装され直した農道を東に進む。もはや古道はない。下っていくと、本所の集落に出る。本所1077:齋藤宅前にでた。ここから東150mで薬師堂前に出る。
本所1100斎藤さんに話を伺うと巡礼道はここではなく、南の慶雲寺前の道だとのことだった。
② 南回りコース(子安観音→伊達工業所→慶雲寺→本所231松浦宅前→薬師堂)
 子安観音から東の山際の南に大原子集落を300m進む。伊達工業所の看板がある。ここから東に上っていくコンクリ舗装の道を進むが、1528⁻1伊達工業所を過ぎ次の家の1530伊達宅前でコンクリ舗装から右に外れていくのが正しい。しかしそこは山の地面ごとない。山を削り取り道路や茶畑を広大に作り直してあり、自然地形の山は一切消去されていて新しい碁盤の目のような舗装路と四角く整地された茶畑である。以前はここは山と瓦ヶ池があり、池のほとりを廻って慶雲寺に行けた。現在は新しい道を通過して慶雲寺前に出る。
なお伊達工業所前の、本所1386榛葉さんに話を聞くと、榛葉さんは掛川歩こう会に参加していて、古道には多少詳しいようで、子安観音から東に向かう道も古い巡礼道だとのこと。この慶雲寺経由の道も教えてもらえた。又この辺りにかつてあったであろう石道標はまったくないそうだ。
巡礼達はなぜこの慶雲寺経由の道を通過したのか? 北回りより300m遠回りである。なぜ2つのルートがあり、しかも遠回りのものの方が住民には覚えられているのか?

・23番:無間山観音寺より安田に出る巡礼道ルートはどこだったのか?
  地元の人たちからの話で、粟が岳南斜面の旧道のハイキングコースから安田を目指す、軽トラック用農道であることが判明した。皆さまのご協力に感謝いたします。

・25番と26番をつなぐ川の右岸(西)の山道の古道はどこを通っていたのか?
  地元の人たちの話から、ほぼ山の斜面のどこを通ったかは了解しました。一部通行困難で300mほど通行をあきらめた部分はありましたが、斜面上に倒木と草まみれになっていても平坦な部分が残っていて、古い道と推定できる部分がありました。皆様のご協力に感謝いたします。

・26番から27番への古道ルート? 妙国寺からいかにして富田に出たのか? 前半はゴルフ場により消失したのか? 富田から公文名への山道ルートはどこか?
  地元の人たちの話から、ホロンゴルフ場へつながる山頂付近の道が分かりました。
また富田側のゴルフ場から出てくる道の所在地も推定できました。これは残念ながらとても進入できない状態でした。


・31番から32番へのルート上で、下佐束の山に取り付き下北へ抜ける火ヶ峰を南から北に縦断する山道はどこか?
 答:火ヶ峰に行くため池の堤防を渡る進入口は判明したが、300m先で斜面崩壊と雑草倒木密集により、進行不能。下北側の茶畑から尾根に入る道も、雑草密集により進入不能。現在、火ヶ峰は入れる状況にはない。かつては高天神城攻略のための砦跡でもあるのだが。
☆疑問:「番外四番の丸山観音」とはどこ?
 旧大東町、中方の近江ヶ谷池のほとりにある。池のほとりの丘、中腹で自動車道から歩いて上れる。自動車道沿いの入口に石道標がある。近くには薬師堂や地蔵堂もある。
☆疑問:番外とは?その数と具体地はどこ?
 具体的にどれだけの数があり、どこなのかも不明である。
 分かる方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントをお願いします。

・32番今滝寺から33番岩井寺への風吹トンネル上の古道はどこか?
 基本的には山の尾根道の古道ルートの一部は発見できた。あとは砂利取で山ごと消失し平地になっている部分がある。残された部分も倒木雑草で進入困難箇所がある。突破するのはたいへんである。
 答:入山瀬の製茶工場と中山氏宅の間の道を山に取り付き尾根を目指すが、茶畑のすぐ上は倒木された竹藪だらけで通行不能なので、少し左に迂回して竹藪の上に出ると石仏がある。そこからは道型が残っているのでそれを目当てに尾根に出て尾根道を歩ける。500m進むと、ロープが張られその先は山ごと削り取られていて、はるか下に平地が広がり、その向こうに前方を削り取られた対岸の山が見られる。砂利採掘場で関係者以外立ち入り禁止になっていて、ダンプカーが出入りしている。(実は対岸の山の裏側も削り取られていて、2か所にわたって山を削土しているようだ。その後、現在の自動車道を移動して、砂利採掘場を過ぎて山に取り付ける地点はエコパ方面との交差点を南に行き、山越えした地点である。ここはかつて掛川市と大東町の境界線の尾根である。古道は基本的にその境界線に沿ってあるようだ。ここからカヤの生えている茶畑道を西に進むとすぐ山に取り付き道幅一間の古道が残っている。300mも上っていくと山の裏側にたどり着く。ここから先は砂利取りで山が削土され、はるか下に平地と工場がある。先ほど見た光景とは違うので、このまた先の山の裏側も削土され、おそらくそこが先ほどの見た地点と推定される。これを戻りさっきの自動車道より東に尾根沿いを進む。茶畑を過ぎると尾根のこぶピークが見られる、こぶを右にまく山道がある。これが古道であるが、笹竹が密生している。それでもこいで行ける程度である、30mこいで行くと左尾根上に道が上っていく。尾根通しを歩く。右側は有刺鉄線が張られ、真下にはため池がある。尾根通しが下りになると道が消失?、とりあえず尾根通しを下りきると、茶畑に出る。畑の東はピークになっていて、また藪と倒木だらけだが、道型が少し残る。道型を外さない程度に迂回しつつも迂回しきれず藪と倒木を潜り抜け、尾根の少し下を巻く道型をたどっていくと、廃棄茶畑があり、その先の5mの崖下に舗装農道が現れる。農道を100m進むと岩井寺である。


・33番から1番への古道ルート? 
 答:岩井寺から子隣りで西に進み、和田へ出る。その切通しに石仏がある。和田から北東に進み、県道や上小笠川の橋を渡り、板沢神社のある秋葉街道に出る。秋葉街道を北西に進みトンネル手前で県道を渡り、上板沢の龍谷寺方面に出て、龍谷寺の西から板沢と上張の境界線の尾根越えをして結縁寺に行く古道がある。


・番外というか最後に善光寺に行くことを想定して、掛川市内にある寺に打ち止めの善光寺というお堂のある寺があるという。それはどこで、そこへのルートは?
 答:掛川市岡津、仲道寺、ルートはおそらく秋葉街道と東海道。
   ちなみに秋彼岸:秋分の日頃に巡礼する人が多いためか否か、この日に御櫃治めをする浜岡の桜ヶ池:池宮神社に参詣することが多かったそうだ。

・巡礼道は設定最初期は番号通り廻る方が一筆書きで便利だったのだろうが、時代が下るにつれ、どんどん観音堂の位置が移転しては、番号通り廻りにくくなったと推定されるし、しかもそのうち番外というものが出てきて、いったいどういうルートで廻ったか推定しづらい。実際どういうルートが設定されていたのか、あるいはまとまったルートはなかったのか?

*’16 3/6時点での、疑問点は以上である。回答は3/16、28。


 ’15 10/12、明治20年代陸地測量部2万分の1地図で、「遠江心の旅路を歩く巡礼道」附属地図と昭和後期国土地理院2万5千分の1地形図とを照らし合わせルートを確認した。いくつかの相違点を確認できた。以下の各当箇所に詳述する。
’15 7/23 突然左膝関節痛(膝関節炎)を発症し、階段や坂道を下るのが苦痛になり、それまでの体力任せのスピード調査が不能となり、のろのろフィールドワークとなった。スピード半減で調査は遅れる一方である。未だ左膝に水が溜まり水抜きとヒアルロン酸注射を欠かせない日常となった。正座ができないし、下り坂やジャンプ、足をひねると痛い状態である。
’16 2/22、膝の水は17㏄たまっていたが、先月の45㏄よりはましだった。外科医からは腎臓が一つしかない(普通2つあるのだが、腎臓がんで一つ摘出したので)、腎臓機能が普通の人の70%程度であり、尿酸(測定値は異常ではないが高止まり)を排出しきれず、それが膝へ負担をかけているのだろうとのことだった。最近体重を減量して、膝への重さ負担軽減、尿酸値の低下、コレステロール等の測定値の低下が出てきたので、もう少しはよくなってくれるといいのだが、まだ実感はなく、やはり違和感、痛みはある。1㎞を6分以内に走れない。3/9には36㏄以上溜まっていて、激しい運動をやめ抗炎症剤の痛み止め薬を勧められた。3/22には水は16㏄だった。



~「遠江三十三所観音霊場巡り」巡礼道~
・前文 
 本項目では33か所の霊場を紹介するが、それがメインではなく、街道研究の一端なので、メインは霊場から霊場をつなぐ「道」、巡礼道を報告することがメインの目的である。これまでも霊場を紹介する文献、ブログ等はいくつかあり、とても参考になり役立つ。しかし巡礼道を紹介したものは、『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』の附属地図と石道標を紹介したものぐらいだ。そこで古道や新道も含めて巡礼道を紹介したいと思う。しかしすでにどこが古道かもわからない面は多く、推定のさらに推定になり、ほとんど確たる証拠のない道調べとなっているが、一応報告させてもらう。また三十三所についても他書を使わずとも一通りのことが分かる様には配慮して掲載する。寺院紹介は参考文献からの引用である。
・遠江三十三所観音霊場の設定時期:
 永正年間1504~17に掛川藩主朝比奈氏が主家今川家の安泰を願って、今川家重臣小笠原氏や松井氏とはかり遠江三十三観音霊場を選定した、と考えられている。
江戸時代の西国巡礼盛況の1回目は元禄期(1688~1703)で、2回目は宝暦・明和・安永(1751~1780)、3回目は文化・文政時代(1804~1829)である。遠江33所巡礼も西国巡礼に連動しているそうで、この時期に再建や建立が多いのもうなずけるようだ。

*本文を読み進めたり、実際に現地で行動しようとするときには、ゼンリン住宅地図(古書店購入)や明治期に発行された陸地測量部地図の2万分の1か5万分の1(図書館コピー)があるとよい。後で参考資料として挙げた
『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』及び附属地図「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼みち」、瀧茂、浜名湖出版、‘88 
『遠江三十三所案内』桐田幸昭、静岡教育出版社、’88 
『光と風と観音様と 遠江三十三観音霊場ガイド』竹腰幸夫、静岡新聞社、’03 
以上3冊があるとよい。特に附属地図は必携である。私は図書館借用でコピーした。

‘1511/3、御朱印集めがブームのようである。アイドル:中川翔子も番組の中で御朱印女子を紹介していた。そこで朱印集めを今回行うことにした。本順礼ではどこの札所でもすでに黒文字が印刷され朱印を押すだけになっている御朱印帳としての奉納経帳を1冊¥500で販売している。朱印を押すのは一般的に¥100である。無住の場合、掲示連絡先にTELするか、無人セルフ式で用意されている朱印器具があるので、自分で朱印を押して¥100置いてくるかである。住職や管理者、その家族が留守がちでなかなか御朱印がもらえないことが多いので、事前に電話連絡することをお奨めする。
無住の巡礼先では自治会(町内会)が管理していて毎年御朱印係は持ち回りのようなので、毎年連絡先は変更される可能性がある。そこで本に書かれている連絡先に電話するたび、すでに連絡先は変更されていることばかりだった。それでも電話することで新たな連絡先を教えてもらえて助かった。
‘15年12月に遠江三十三所観音霊場連絡会でホームページを立ち上げたので、そちらで最新の連絡先が分かるようだ。そちらで連絡先を確認してからお出かけください。と言って私がまだ未確認です。以下の本文記載の電話番号は古いものです。あしからず。

*住所地は不明な場合、隣接地の住所を記入している。


・第一番 一澤山 結縁寺(掛川市結縁寺54、けちえんじ) いったくさんけちえんじ  
 創建:未詳、開基:伝弘法大師、本尊:聖観世音菩薩:木造座像30㎝、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2025年、縁起:弘法大師が当地である神代地シンダイチの水不足を哀れみ、「われ神に代わり清き流れ開き与えん」と言い、観音像を刻み観音堂を建て安置したという。一ノ澤観音、弘法堂と云われる。江戸時代初期頃から観音信仰が隆盛し参詣者が増えて、縁結び、五穀豊穣が知られるようになった。観音堂は元禄元年1688年焼失、元禄九年佐野郡飛鳥村(掛川市)永江院の心庵芳伝僧を招き曹洞宗結縁寺を現在地に建立。宝暦九年 1759年参詣者が多いので、近隣寄附や参詣者の喜捨で大金百両を以て新堂再建。文化九年1812屋根を瓦に葺き替えた。
 江戸時代の西国巡礼ブームは元禄期1688~1704が1回目で、2回目は宝暦・明和・安永期の30年間1751~1780で、3回目は文化文政期1804~1831の25年間である。西国巡礼に連動して遠江33所もブームとなっているようだ。結縁寺の再建はこれと一致している。
結縁とは仏道に入ろうとする者がその決心をすることである。観音堂は元もっと奥の一ノ澤の元堂と云うところにあったが、有名になり参詣者が増えると村名も結縁寺となり、今の所に堂が造られた。
結縁寺43:村松氏や結縁寺204⁻3:長谷川氏の奥さんによれば、モトド:元堂は結縁寺205:高山氏宅付近の地名で、裏の竹藪の下とも、家の西横の荒れた茶畑跡ともいう。巡礼道の変更記事は取り立ててない。
無住、駐車場有。朱印は隣の公会堂にあり、掲示されている3つの連絡先(実は観音堂から見える近所の3軒)のどれかにTELすると、すぐに来て朱印を押してくれる。御朱印帳も売ってもらえる。長谷川さん:tel:0537-22-4883
観音堂:屋根裏の庇ヒサシ部分の彫り物が見事である。堂の外観もシックで素晴らしい。
 周囲:本堂裏手の伝説の池傍らに如意輪観音像(だいぶ苔むし傷んでいる)。榧カヤの木(だいぶ衰えている)。裏山は墓地で隣の白山神社と隣り合わせで、その裏はエコパ、法多山方面への自動車道でビュンビュン自動車が通過していく。この道を使うと法多山や岩松寺への巡礼には便利であるが、ここでは古道主体なので帰途等に使う。
・献燈:平成十五年、・石碑:遠江国参拾参所霊場 一澤山 結縁寺 昭和五拾五庚申春吉日、・石灯籠:奉納 家内安全 結縁寺区民一同 家内安全 長谷□□:コンクリ製:屋根付き、・石灯籠:知恩 昭和五十九年、・手洗石、・石仏2、・石塔、・石地蔵、
隣地は白山神社で裏山頂に本堂拝殿、
・石塔、・石鳥居:日韓合邦紀念 明治四拾参年、・手洗石、・石灯籠:昭和五十九年:2、・旗立石:御大典記念 昭和三年:2、
ちなみに神代地の弘法堂は別場所: 神代地カンダイジ地区公会堂:掛川駅南口近くにある。


・経路
JR掛川駅から南に2㎞、浜岡行静鉄バス矢崎下車、徒歩10分。
2番へ2㎞、徒歩30分。
2番に向かうには西へ進んで一旦北へ右折するが、古道は右折ではなく左折し、200m奥の結縁寺集落の民家の裏山に吸い込まれていく。しかし現在はそこで道はなく、裏側は掛川花鳥園の敷地で通行不可である。一応説明を続けると、昔の古道は花鳥園敷地を突っ切り、北に向かう道に出ると右折し北に向かう。ここに如意輪観音が祀られている。今の東名高速ガード下をくぐり、小丘を越えて左折し西に向かい、東名とJR線路の間を並行して西に向かう道に出る。そして2番常楽寺に至るのが古道ルートである。「心の旅路を歩く、附属地図」通りだとそうなるのだが、小丘を越える道もない。
しかし明治期の陸地測量部2万分地図では如意輪観音から小丘を越える道はなくて、北進して今の亀の甲公園のある神社と墓地(この墓地はかつて寺があった後だろう)に達する。ここで道を左折して今の東名高速とJR線路間のかつては蛇行する道を今は直進で西進して常楽寺に達する道がある。現在都市計画によって整備された碁盤の目のように直進するアスファルト道しかないので、地図附近と思われる現代道路を通行して常楽寺に達する。’15 11/3


・第二番 保福山 常楽寺(掛川市下俣南1⁻19⁻18、しもまたみなみ) ほふくさんじょうらくじ  
 創建:元和五年1619、開基:善祐僧、本尊:聖観世音菩薩:木造寄木尺4寸42㎝座像‣伝春日明神作、宗派:曹洞宗、開帳:未定、縁起: 
かつて寺の西に法福寺(寺領二石)という寺があったが、衰えて常楽寺(寺領一石五斗)と合併して保福山常楽寺となった。元禄3年1690の住職が保福寺に観音堂を建て聖観音を安置した。この頃から巡礼が増えたという。安政の大地震1854で堂宇倒壊、明治初め再建、昭和46年8月台風で倒壊、火災焼失。
某者が沢山の金銀を甕に入れ利神社と常楽寺との間の山間に埋め目印に梅の古木を植えておいたという。現在その地を亀ヶ谷というが昔は甕が谷と呼んだという。(西南郷村小史)
・石道標:二番札所 掛川西町順礼講 文化三年、・三界萬霊塔:3:掛川町山崎、第十四番、第十五番、・石仏:六臂:見猿言わ猿聞か猿、・西国供養佛 寛政五せ(せではなく12支のどれかと思われる)年、・観世音□□、・石塔、・手洗石、 
・須弥壇の左隅に版木「二番のお札・三十三観音・観音経」
駐車場有。’15 11/3 
周辺:資生堂アートハウス、資料館
 無住、駐車場有、連絡先は住職:近藤さん、tel:0537-22-3874、だが今は無住なので通じるか不明?御朱印は無住本堂内にセルフ式だった。


・経路
JR掛川駅南口から1㎞、徒歩20分。
3番まで1㎞、徒歩10分。
3番に向かうには北に向かう道を進みJR線路前後に東西に進む道へ出て左折し西へ向かうが、これが近代以降の道なのは確かで、線路開通以前の古道はおそらく寺の裏から線路周辺の丘越えの道があったのだろうが、今は全くあり得ないので、現在の自動車道を進むしかない。そしてJR線路ガード下をくぐる手前に神社があり、この辺りで線路を通過したのは明治期地図から確かなようだ。
○利神社トシガミジンジャ、境内に石道標がある。
・説明版:勧請年代不明、延喜901年間の延喜式神名帳記載、戦前郷社社格、祭神:大歳御祖神:食を授ける
・石道標:「前学校及役場□□□ 右二番札所保福山 左掛川 西 長谷□□道 三番札所 下俣□□」、指す方向から石の向きが逆であり、移転されたことは確かである。ただ二番と三番の方向を指す位置から、この附近にあったことも確かである。利神社前から線路をくぐる道が古道ルートと一致する。
線路をくぐり踏切を渡ると目の前にNEC工場がある。地図上ではこの工場中ほどで西進ルートに左折するが、工場内には入れないのであきらめ、手前の線路と工場の間の道を西進する。この辺りは地図上では小丘陵でそこを蛇行して西進しているが、工場もそうだが西は市役所でまっ平、その西は新興住宅団地でこれまた平らで直進道路しかない。現在ほぼ丘などないが、市役所西端に一部だけ丘がある。これが小丘陵地帯の残存部だろう。西にまっすぐ進むと小丘陵が見える。長谷寺と貴船神社の裏山である。昔はNEC工場からここまで小丘陵だったろうに、全く新興住宅地で平で、やっと丘があった。以前長谷寺は丘上にあったが、この寺も都市計画で平である。裏山だけに丘が残っている。’15 11/3


・第三番 東陽山 長谷寺(掛川市長谷1615⁻1、ながや) とうようざん ちょうこくじ  
 創建:寛永六年1629、開基:不詳、本尊:十一面観世音菩薩:木造座像90㎝、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏、33年毎‣次回2021年、縁起:。安産祈願の地蔵。
4番の正法寺の末寺で長照山東陽院という名であった。平成8年改築。本寺は元来地蔵堂の堂守だったという。長照山東陽院は最初、東照山と呼び、後に長照山と改め更に東陽院としたという。
益淳祖道和尚の伝説:肥前生まれ、当寺で60年以上和尚を努めた。88歳で寛政辛亥カノトイ6月1791示寂された。生まれつき質朴で腕力あり、走るのが速かった。能登の国の総持寺から1日で越前の永平寺に行ったという。正午に寺を出て秋葉山に行き往復20里をかけ夕方帰って来たという。「掛川誌稿」に「当寺は地蔵の堂守で観音はなし」と記されているがどういうことなのか。
住所地は長谷ナガヤと読む。寺名はチョウコクジだが石柱にはハセデラとなっている。
有住、駐車場有。Tel:0557-22-5812
周辺:掛川市指定保存木スイリュウヒバ大木、推定樹齢300年
・納経宝塔:奉納西国巡礼記念、長谷村新堀豊吉、リン、大正二年九月十日出発、十月九日帰宅:句2句、
・鯖大師堂:鯖大師像 大正六念、
・稲荷神社、・奉紀新堀豊吉、・如意輪観音、・地蔵、・新:不空観音と十一面観音、・新:地蔵 平成十八年、 
・地蔵堂:安産祈願に刃物の絵
・石柱:三番はせ寺:住職に問い合わせたが全く知らないそうだ。今は無い。いったいどこにいったのか?
隣は貴船神社で裏山は雑木林でドングリが一杯。’15 11/3


・経路
JR掛川駅南口から西へ3㎞、徒歩50分。掛川バス桜木線鳥居町下車、徒歩10分。鉄道‣天浜線市役所駅から1㎞、徒歩20分。
4番まで2㎞、徒歩30分。
長谷寺から南東に進み線路ガードをくぐる。新幹線と在来線の間は畑と墓地である。この墓地には昭和のお墓もあるが古そうな墓や僧侶の墓もあるので、かつては寺があったのだろう。笠つきでひげ題目になっているものがあり日蓮宗系かと思う。笠つきというのは古いのか珍しいのか。近辺は新自動車道が多く作られ、ちょい古い自動車道ですらどこがどうだか分からない。
私の持っているゼンリン住宅地図は93年版で、国土地理院2万5千分地形図は1979~85年版で、もはや地図にない道が沢山できていて現地と地図を照合するのが大変である。ただしその分古道や旧道が分かりやすい。掛川は早くから都市計画を進めたためか、新道路がポンポンできていく。東名高速ガードをくぐり高御所となる。新道は広いが、その右の住宅街の中に古い道がある。
掛川市高御所77:堀井氏宅付近に石道標がある。
・石道標「向 右菩提横須賀 左掛川道」
その西20mにもある。
・石道標:「右法多山 北東海道 左掛川道」
堀井氏宅から南へ「煮物屋のら」も過ぎ300m進む。広い新道に出ると石道標がある。
 石道標:「右下俣ヲ経テ掛川 南腹摺ヲ越ヘ法多山及横須賀ニ至ル 左本村ヲ経テ東海道ニ通ズ」:高御所61高柳氏宅
新道を西に100m進むと石道標がある。
高御所39番地の東山沢川に架かる新田橋手前の分岐路に石道標と看板がある。
・石道標:「右四番札所正法寺 左法多山」
左道には看板「腹摺峠→」ハラスリトウゲ
ここから左道を進むと最後の家前通過して自動車道高架下をくぐると車や自転車は進めない。歩道というか雑草だらけの道になる。1km進むと雑草で草の実だらけ、蜘蛛の巣だらけのぐちゃぐちゃ姿になる。沢沿い道を進み、沢を離れ斜面に取り付くとすぐ深い人工的な切通し道になる。すぐに山頂に出る。境界標識石柱が埋設されている。多分ここが腹摺峠と思われる。登り20分。この道がかつての法多山道。’15 11/3
あい済まないが上記の峠は腹摺峠ではなく、前方尾根の鞍部だったようで、道間違いをしていたことが分かった。沢を離れる手前の倒木雑草だらけの箇所で正規ルートを発見できず、沢に沿い進み次に沢から離れて別箇所に出た。’16 3/13

8行前の分岐点を正法寺方向へ進む。新田橋手前に石仏がある。
・馬頭観音 
この先旧道はなく、新道を使い、自動車道高架下をくぐり、正法寺境内へ進む。


・第四番 鶏足山(曽我山) 正法寺内新福寺(掛川市高御所1312、こうごしょ) けいそくざん しょうぼうじ ない しんぷくじ 
 創建:正法寺:応永17年1410、開基:明円見珠大和尚、本尊:十一面観世音菩薩:木造座像25㎝、宗派:曹洞宗、開帳:昭和61年、次回33年後予定、縁起:。
住所地の「高御所こうごしょ」の由来は、嘉禎四1238年二月、将軍藤原頼経上洛時、この地に宿泊した。宿舎の御所を土豪:横地太郎長直が建てた。この頃真言宗正眼院という寺院があったというが鎌倉中期には頽廃した。
宝徳年間、二世見的の時に本堂建立、十世雲達和尚は可睡斎の宋山和尚の弟子で家康御前で法問をし褒美に銀子二百枚をいただいた。寛永4年1627焼失、慶安2年1649江戸幕府より寺石38石を受けて蘇生、宝永4年1707までに諸堂宇復興。この時山号を鶏足山に改めた。
新福寺観音堂は元高御所北端の曽我山上にあったが、明治23年廃寺で、正法寺内に移転。
御朱印は観音堂前でセルフ式。有住、駐車場有。Tel:0557-22-4668


・六地蔵+2、・稲荷神社、・石塔:横倒し、・禁葷酒、・鐘楼、・新:手洗石、・新:観音、・新:燈籠、・新:ブロンズ地蔵、・三十三石仏+如意輪、・地蔵、・新:永代供養塔、・瓦:獅子、・墓地にはいかにも古そうな墓石がある。昭和期のものもあるが元禄のものが二つあった。
・樅巨木:参道入り口左右:樹齢250年、ブナ、アラカシ等保存樹木、
・納札:宝暦七年、同行七人
・敷地は広く境内地7600㎡、本堂、弘法堂、白山堂、地蔵堂、観音堂、寺所有の背後の山は41万㎡、水路トンネルには蝙蝠が生息する。

☆疑問:曽我山は高御所北端だそうだが、それはどこ?
 現在高御所北に浅間神社があるがその附近か、逆川との境の丘ではないかと2つの推定案を考えた。この位置だと長谷寺から巡礼路は現在の線路をくぐる南進路を取らず西進するだけで至近距離である。
高御所275:桑原氏の奥さんによれば観音堂は高御所253:高御所公会堂隣の墓地だそうだ。墓地裏山が曽我山だろうか。’16 3/12
・高御所公会堂:・五地蔵、・五輪塔:破片6個分、
~附近~
高御所公会堂近くには浅間神社がある。
○浅間神社:・手洗石、・手洗石:文政五、・奉献三夜燈:嘉永四、・板碑、・献燈2:昭和八年、・手洗石:昭和三年、・石鳥居:明治三十年、石段:昭和三年、石柱4:、
浅間神社参道入口には石道標がある。
・石道標:「□法多山、□、□工茂 高御所青年會」、ヤマザクラ:市指定保存樹木、

 4番:観音堂が高御所公会堂付近とすると、ルート変更はどうなるのか? 3番:長谷寺から高御所公会堂へのルートと、高御所公会堂から5番:法多山北谷寺へのルートである。
3番:長谷寺から西に進むが、周辺一帯は都市計画で新興住宅街に変貌を遂げ、昔日の面影はない。かつては長谷と高御所の境界線には先ほどの浅間神社の南北尾根がふさいでいて、一ヶ所だけ山を切通して道があけられつながっていたことが住宅地図から読み取れる。その道はないがその付近に両所をつなぐ道があり、高御所240:松井氏宅前に出る。南へ100mで公会堂である。
公会堂から法多山へは推定ルートとして2つ考えられる。1つ目は公会堂から南下して今のJR線を渡り篠場に行く近道である。2つ目は高御所の南東へ進みそこから西へ進み篠場に至るルートである。
1つ目ルートではJR線をくぐっても今は東山沢川を渡り篠場に直に行けないようだが、昔はつながっていたのだろう。JR線南側の高御所1130₋2:松井氏宅前に出ると、石道標がある。
・石道標:「右正法寺小笠山 左掛川道」
西へ150mで石道標がある。
・石道標:「右掛川近道 南法多山 左領家ヲ経テ東海道ニ通ズ」
ここから南西方面へ600m進む。下記で述べられる「篠場ルート」の高御所560:山田氏宅前の石道標:正面「右 東海道 左 法多山」、左「右 掛川道」に出られる。
2つ目ルートでは高御所メインルートのJR線の上を通る道を南に進み、東名高速のガードもくぐり、高御所の南に出る。高御所77:堀井氏宅前附近の石道標がある所に出る。ここから西に向かうと篠場である。あとは下記の篠場ルートを参照。
 
~周辺石道標紹介~
・領家105松浦氏宅(以前は萬屋だったし、家の前はバス停でもあったので、集落の交通の要衝であった):石道標:「右法多 左正法寺」
・高御所350⁻1名倉氏宅:この附近も以前はバス停だった:石道標:「曽我□□ 浜夕小 □□ 掛川町四一四0米」


・4番から5番への経路
JR掛川駅南口から西南へ4㎞、徒歩60分。
5番へ4㎞、徒歩60分
地図ではいったん篠場へ北西進する。その道で石道標も現れるので、その道も紹介するが、別ルートの法多山への近道もある。法多山近道ルート説明。それは寺の裏山を上り南進して法多山へ行くルートである。ちょうど腹摺峠の西200mの位置で峠越えする道である。かつてはそこまで行けたし法多山への標識もあったが、今回何処が山道か発見できなかった。’15 11/3
上記ルート確認のために腹摺峠から尾根伝いに西200mピークへ行く。徒歩5分。この尾根は掛川市と袋井市の境界線でもある。そして地図上では西ピークの西が崩壊しかなりの断崖絶壁であることは分かっていたが、東側もかなり崩壊中で、今後も崩壊が予想される状況である。西ピークの20m東側から下っていく山道の入口らしきは見られるが、その跡の道筋が見当たらなくなり、北に続く枝尾根の前方が崩壊していく。どうも道は崩壊して通行不能と判断する。「’93ゼンリン住宅地図掛川市」では正法寺から山道が南下して枝尾根沿いに西ピークに達し、そこから道は市境界線尾根を東進して腹摺峠に至る線が記入されているので、93年当時は通行できたのだろう。西ピークから腹摺峠までの区間では石塔等の古い遺物は見当たらない。ただ峠やピークには標識多数で迷いにくい環境である。どうもエコパに車を駐車して小笠山ハイキングコースを縦走する方々が多いようだ。秋冬春の山歩きは最高だ。ただコースの北側斜面は崩壊しハングオーバーの絶壁が多いので転落注意である。落ちたら死にます。その分北側の眺めは遮るものなく最高。腹摺峠から豊沢へのルートはかつて軽トラでも通れるほどに整備したのだろうか、道幅は一間1.8~1.5mあるし、きつい坂は全くない。今はゴロゴロ山道である。腕に自信があれば二輪車で行けるかも。(腹摺峠から掛川市高御所へは15~20分)途中、沢を渡る箇所が2か所で、峠すぐ手前が野渓化して沢水が流れている。そこを歩きやすくするためかコンクリートやアスファルトの平らな破片を置いてあるが、それが浮石状態で足をのせるとグラグラ動くのでバランス注意である。峠から以上の点を注意して10分歩くと集落:袋井市豊沢菩提(山本)3143₋2:長谷川氏宅前と自動車道に出る。長谷川氏の話だと、正法寺からのルートも腹摺峠を経由してからここへ達するとのことだ。ここまでで古い遺物はない。ここから法多山まででは途中右に法多山別院が一旦移築されているのを見ることができる。’16 3月


~篠場ルート説明~
篠場へは正法寺山門から元来た道を戻り、新田橋手前まで行き、西進する。ただしここから旧道はなくここから古道で篠場へ出られる道はない。行きつ戻りつして篠場集落へ出る。篠場の八幡神社へ出れば正解である。八幡神社西100m交差点に石道標あり。
・石道標:「右法多山 左御料林道」:篠場576嶋氏宅 
西へ200m
・石道標:正面「右 東海道 左 法多山」、左「右 掛川道」:篠場560山田氏宅
西へ100m
・石道標:正面「右 法多山 左 掛川 道」、左「右 法多山道 左 林光庵道」、 裏「大正七年」:篠場608₋2松浦氏宅、
・地蔵、
西へ100m、極楽寺前
・石道標:正面「御成婚紀念 メートル法導標 東海道和光橋 二〇九六米 法多山 三七四四米 袋井駅 五四五三米 (四千米ハ約一里)」、裏「大正十三年」 
西へ300mで出会橋に至る。出会橋を渡り南進する。橋袂に道標。
・石道標:右「左 掛川道」、正面「右 東海道 左 法多山」、裏「曽我村□□□ 大正六年」、篠場480₋2嶋氏宅
南へ150m
・石道標:右「左 東海道」、正面「右 法多山 左 掛川 道」、裏「大正七年十月」:平野266水野氏宅、
・地蔵、
・愛野八幡宮:創立不詳、安永三年1774九月再建棟札、明治12年村社、明治44年熊野社と八幡宮社合祀、’15 11/3
エコパ敷地内補助競技場附近芝生植え込みに石道標がある。「静岡スタジアムエコパへ560m、補助競技場へ260m」の看板横にある。なぜエコパ敷地内にあるのかというと、かつての法多山道はちょうどエコパ敷地内を通過して北谷を通り法多山に通じていたためである。旧道はエコパによって寸断された。付け替えられた道はエコパ西駐車場の縁を廻って駐車場の上で左折し南駐車場に至る道であり、そのまま進むと今も北谷を経て法多山に通じている。これが旧自動車道であり、古道ルートの名残である。現在の自動車道である西駐車場の縁を廻ってそのまま上に行き、理工科大学や給食センターが見える道は新道であり、昔は存在しない。
・石道標:表「右 法多山 左 八幡神社 道」、裏「大正五年三月 愛野東部青年會」
指し示す方向が逆なので、エコパでは逆向き設置したようだ。八幡神社は愛野八幡神社と思われる。’15 11/22


・第五番 法多山 尊永寺内北谷寺(袋井市豊沢2777、とよさわ)はったさんそんえいじないきただにじ  
 創建:未詳、開基:未詳、本尊:聖観世音菩薩:伝行基自刻‣桧一木造り立像御身丈36㎝総丈61㎝製作者不詳、宗派:真言宗、開帳:未定、縁起:
厄除観音、名物は参道売店の厄除団子。桜の名所。仁王門。
 尊永寺は高野山釈迦文院末寺、勅願寺、桓武天皇の定額寺、最盛期一山六十二坊、遠州の高野山。慶長7年1602徳川家より5万石格式与えられた、一山二十五坊。明治に朱印地返却し廃仏毀釈で11坊廃し、寺号を尊永寺に改めた。参道には樹齢数百年杉巨木。青苔石垣。
有料駐車場だけ多数有。近辺に無料駐車場はないし違法駐車を嫌う看板やロープで立ち入りできなくしてあることが多い。
・橋欄干:堂の橋、どうのはし、昭和七年:参道入口付近、
・石柱:参詣みち、
・永代常夜燈:2:煙草商、・石塔、・献燈:山本菓子店 大正十年:2、・板碑:2、・常夜灯:戦捷記念 大正四年、・・板碑:2、・石碑:法多山尊永寺 昭和五十壱年、・観世音常夜燈 法多山 文政九年、天保三年:2、
・石道標:五拾町目 願主□□□ 建之 政□□□年 ?光より加□門町まで道のり貮里、
・仁王門:説明版 平成十八年、・仁王門:文化財、
・新:献燈:47、・献燈 為純教僧正菩提、・献燈 昭和三十九年:金属製:2、
・黒門と鎧塀:説明版 平成十八年:市指定建造文化財:1712宝永8年3月造、学頭坊正法院中門として建立、四脚門、支柱で全体を支え、建ちも高く屋根勾配も強くて屋根も大きく、屋根全体を檜皮葺で覆い、棟に箱棟、為板を施す。
鎧塀は中門の両袖に施す。木造塀の中では重厚、格式高く、上級武家屋敷に用いられていた。壁面を土塀漆喰で仕上げ、下見板張りは下見板を   ササラこで押さえ鎧草   を見立て 造り
・観世音献燈 嘉永二、・献燈 大正六年:2、・献燈 □永貮年、・献燈 昭和九年:2、・献燈 大正五年、・献燈 平成十四年、・献燈 聖観世音菩薩 昭和四拾八年:2、・新:献灯:21:参道中腹、
・本堂に上がる石段の左側に北谷観音堂。今は崩壊してない。
登り切った本堂近辺
今の巨大本堂右手に古い本堂があり、それを観音堂にしている。
・観音堂:西国三十三番本尊、十二支尊、大黒天、尊像、
・石道標:観音堂入口:明和二1745酉年五月、五番北谷□□、
・不動尊像
・献燈 昭和四十一年:2、・献燈:2、・献燈 大正四年:2、・塑像:手が一杯:平成元年、・石碑:節分の黒白豆箱 昭和四十八年、・手洗石、・永代常夜燈 文政改元戌寅歳:金属、・永代常夜燈 天保十一年:金属、・献燈 大正五年:3、・新:献燈 ヨシコン、武田:2、・百度石、・石碑:やぶきた茶植樹、・石碑:旧本堂跡聖地 昭和五十八年、・献燈 駿河銀行 昭和五十八年、
朱印は本堂下に受付あり。一般的な朱印帳も¥1000~2000で販売している。無料茶接待あり。受付17時まで。Tel:0538-43-3601、   
’15 11/7。
下山道沿い
・鐘楼堂、
・二葉神社:祭神‐二葉明神、元来は浜松市にあった二葉遊郭内に遊郭守護神として鎮座、瀟洒な社は大正年間建立、娼妓芸妓カフェー女給といった往時の浜松の夜を華やかに彩った女性たちが浄財を出し合い郭内安全、商売繁盛、恋愛成就等願い造営、戦後遊郭解体で法多山に遷座、女性の願いを結ぶ女性の守り神、
・百地蔵、・七重塔、・亀石、・狛犬:2、・手洗石 天保□、
・氷室神社:氷を貯蔵する氷室が神格化した珍しい氷の神、洞窟が社殿で神体、往古は熱病平癒の利益で信仰(遠江風土記伝)、明治の神仏分離で不明になったがこの洞窟が氷室神社であることが判明、暑気払い、流行病予防平癒、ストレス等心の熱鎮静の冷却の神、 石鳥居 献燈:2 
・弁財天堂 不動明王 献燈、 
・蛸薬師堂:美肌、皮膚病、肌トラブル平癒、ナマズや鯉の絵馬奉納願掛け、平成27年再建、
・□救一念石、 ・石碑:大正八年 以目□上池    、
・板碑:名物串團子、由来:13代将軍家定頃、門前住す寺士八左エ門発案による観世音名物団子が登城土産に添えられたを始めとする。将軍家より「くし団子」と命名されて以来、厄除団子と呼ばれている。
・句碑:多、・石碑:家康手植えの松、  ・松、・新:燈籠、・石碑:大谷□□□松 大正□年、・四重の塔、・白山明神社:一番奥の上、
・地蔵堂:裏に石仏
・地蔵、・観音、・地蔵、・観音、・地蔵、・台座のみ、・「大師遍照金剛 文政五」、・「□□□大菩薩」、

 明治5年無住の北谷寺(門前から掛川やエコパへ出る道を北に行った谷間、或はエコパ裏側への近道でエコパ南駐車場への道。この道は今は自動車道で拡幅されているが、篠場から法多山への巡礼古道である)の堂、墓、道標を尊永寺境内に移した。平成10年9月24日集中豪雨により堂流出。
法多山の北谷の位置は、法多山参道の左(北東、エコパ方向)へ曲がってすぐである。寺跡地は、袋井市法多豊沢2728⁻1:戸塚氏宅の所有地の茶畑で、御宅の道向かい南西である。まさに表参道の門前町商店街の手前を左に曲がってすぐの、右側茶畑である。茶畑の裏がかつては墓地だったようだが、今は痕跡のかけらもない。
永寶寺:大嶽様やその他ご協力してくださった皆様に感謝いたします。
なおかつての寺が北谷の奥でもなく、ほんの入口の位置なので、巡礼道が大きく変わらずルート変更による記事の追加はない。


・経路
JR愛野駅から東南へ3㎞、徒歩40分。
6番へ5㎞、徒歩60分。
・王子神社:法多山表参道入口
表参道の中通りを西へ法多沢川に沿う形で、豊沢法多2585番地:伊谷氏宅前。バス停:中通橋。
・石道標:四拾□町目 大正□□□
豊沢法多二軒屋2305番地、バス停:理工科大学入口、
・新:ブロンズ像:理工科大学入口を示す
すぐ西で大通橋を渡るが、旧道は橋手前を渡らず右折するルートのようだ。旧道は法多沢川の北を西進する。新道は橋を渡って川の南を西進する。
新道を西に400m、勅使塚。
・説明版:後白河天皇の命により勅使が法多山に参向された。参拝日時が決められていたため勅使は茶屋で休んだ。しかし丁度月夜の光で夜明けと勘違いした雉が声高く鳴き、勅使も夜明けと思い違いし、お詫びに切腹した。土地の人は哀れみ塚を作り葬り、雉を飼うことを遠慮したと云う。
・新:石塔:勅使塚、・献燈、・宝篋印塔、・地蔵、
隣は墓地である。
・地蔵2、
新道を西へ300m、先ほどの川の北を西進した旧道が川を渡り新道に交差し、旧道はさらに南下していく地点。
・石道標:正面「左 丹生神社 六番札所 浅羽 横須賀」、裏「大正六」
ここで新道を離れ左折し南へ200m上る。
・石道標:正面「右 丹生神社 左 六番札所 横須賀方面 道」、裏「御大典記念 昭和三年十一月 寶野青年團」
左の直進して上る道が六番札所道であるが、右の丹生神社へ行く道が上らない道なので、一層古い道ではないかと思う。左の上る道も近代初め、いや江戸末期には使われていただろうし、もっと古いかもしれない。
・丹生神社:祭神‐月夜見命、境内社‐大山祇命、本殿木像瓦葺4坪、拝殿14坪、手洗舎1坪、石鳥居御影石、甘酒小屋6坪、境内地92坪、境外地728‐2山林252坪、728⁻1山林89坪、
神社の西縁を廻って南に出られる古そうな道がある。おそらくかなり古いルートと思う。
先ほどの左道を上り詰めると墓地がある。
○宝野共同墓地:大正六年開設らしい
・三界万霊、・地蔵2、・石仏、
墓地のある道を下ると、丹生神社から来る道とも合流し、バス停:菩提西のある交差点に達する。六番札所へは交差点を渡り南に進む。
表参道の中通りを経てきたが、ただここで中通りより南の通りを紹介する。この交差点のある道を東進しても法多山であり、法多山への南側の参道である。法多山南からこの交差点までの道を説明する。
法多山仁王門より参道を奥に進むと南へ分岐し赤い橋を渡る道がある。この辺りには全く道標等がないが、かつてはあったのだろう。赤橋を渡り上っていくと有料駐車場を過ぎて南へ進む。山上の有料駐車場が切れて山の斜面が下りだす所に登山道が下っていくのが見える。これが古い地図上でも確認できる古道であると断定したい。この歩くしかない道を下ると2軒の松田氏宅を過ぎ、竹原氏宅前(豊沢菩提550番地)で自動車道に出る。ここに道標がある。
・石道標:右「小笠山 掛川 道」、正面「右 掛川 □□□ 左 法多山 □□□ 不動□□□」、左「法多山道」、
この自動車道を西進300m、バス停:菩提上。道が分岐し北への旧道と南の今の自動車道に分かれる所に道標がある。
・新:石仏:ガンダーラ風
・石道標:「昭和三年十一月 御大典記念 菩提青年□」、「□□旧袋井得単 □□ら気新遼横須賀」
西進1㎞、エコパと浅羽を結ぶ新道交差点手前に地蔵がある。
・地蔵2、
西進1㎞で中通りから来た巡礼道でもある菩提西バス停交差点到着。 
さてこの交差点から南へ進み、丘陵を上り公園や老人ホーム白雲荘を過ぎる。石道標のある篠ケ谷交差点に達する。左折し下り坂手前を右折し2本に分かれた道の左側を通り下っていくと寺の裏に着く。’15 11/7


・第六番 篠ケ谷山 岩松寺(袋井市浅羽3598、あさば)しのがやざんがんしょうじ  
 創建:神亀2年725、開基:伝行基、本尊:聖観世音菩薩:白檀95㎝立像伝行基作平安末期:市指定文化財:檜で頭と胴は一木材だが背中と腰下が別材、中は空洞、古くは火災に遭ったらしく全体に水につかった痕跡あり、鬢、肩から手先、足は後世補足、宗派:真言宗、開帳:60年毎、前回2014年、次回2074年、縁起:    
高野山理性院末寺、山岳仏教の流れ汲み、最盛時、全山三十余の坊舎があり、慶安元年1548二月に24石の御朱印を受けたが、永禄1558~1573年間の兵火及び寛文1661~1672年間の火災で伽藍僧坊、諸記録すべて消失。観音堂正徳三1713年再建。
駐車場有。有住。朱印は寺人依頼。Tel:0538-23-5351
寺に至る直前の篠ケ谷交差点に石道標あり。
・石道標:正面:□(梵天文字1字分)第(第か右か不明)六番札所、右:□□六番順礼、左:天明二寅二月日、裏:岩松寺□□□、
寺の中にある物
・伏見稲荷:毎年三月第二日曜日大祭
・客殿本尊:不動明王
・鰐口:東金谷秀時作、大永二1522年四月二十七日:県指定文化財:径33㎝、銘から遠州今川氏末裔の見附の城主堀越氏延が遠州豊田郡(磐田)府中薬師堂(国分寺内)に懸けたものだそうで、どういう経緯があるのか?
・たぬきの石仏?:可愛いくユーモラス。
・句碑:多数
・新:石碑:多
篠ケ谷交差点から下って入っていく道が昔からの巡礼道のようだが、今では谷底の道側が正面らしく、裏から入ることになる。そして谷底の川の向かい側の山中腹に観音堂があるので、いったん正面口から寺を出て、道を横断し橋を渡り、観音堂への階段を上る。階段が嫌なら寺入り口前で橋を渡り駐車場に入り、左の道を通るとスロープ状坂道を上って観音堂に行ける。
観音堂側にある物一覧
・観音堂:正徳三年1713再建、大工棟梁 柴村 鈴木権右衛門茂次、法多村 戸塚佐兵衛正伯、木挽棟梁 近江国甲賀高野村 田畑長助、明治34年1901修理 軒短くして茅葺を瓦にする、本尊厨子 寛文2年1662,6月 柴村 大工 藤原朝臣鈴木拾右衛門 造、客殿 安永3年1774再建 大工棟梁 松下村 佐藤安右衛門知良 脇棟梁 法多村 戸塚平五郎親盈 内仏 不動明王 遠州八大不動明王霊場第三番札所 
・行者堂:建立年不詳 慶應三年1867修理 役行者像、神変大菩薩、天狗面2面、
・地蔵堂:子安地蔵 
・大師地蔵堂 
・石段:自然石積み上げ 
・法印墓石:寛文六、七年、元禄七年、十二年、
・一石六地蔵、・如来、・五輪塔カケラ2基分、・石仏カケラ、・地蔵2、・手洗石、
・西国三十三所巡礼:安政六年九月、近くの人々13人
上記の西国三十三所巡礼は見つからないが、當国三十三所巡礼はあった。当国と西国の間違いではないか。あるいは両方あるのか。’15 11/7。


・経路
JR袋井駅から南へ3㎞、徒歩45分。
7番へ3㎞、徒歩45分。
岩松寺からまっすぐ北の袋井駅方面に進む道(平芝交差点から袋井特支、谷口橋)が附属地図の巡礼道として示されているが、明治20年代陸地測量部2万分の1地図では、その道自体がない。それより東の平芝から大門、そして神長または上田町で高尾町を目指す道はあるので、こちらを推定古道とする。
寺の裏をまた上り、石道標のある篠ケ谷交差点に戻る。ここから北の平柴交差点を目指す。附属地図では平柴交差点から左方の北への袋井特別支援学校方面へ抜けることになっているが、この道が明治20年代にないことから平柴交差点で右方の北への道を取る。大門、神長町方面に向かう。台地を下り切った所で右折する。昔は道は真っすぐではなく、右の山際沿いに北に進む。豊沢字神長集落内に山際の細い曲がりくねった道があり、いかにも古そうな道の名残である。土手を上ると神長橋があり、渡ると県道251号線:袋井小笠線に交差する。右:東を取ると法多山への表参道で勅使塚への道である。7番へは逆に左:西の袋井駅方面を目指す。西へ300mで法多沢川と小笠沢川が合流する交差点である。ここは直進する。
300m進むと右:北に赤尾渋垂神社がある。
○赤尾渋垂神社:合祀されている神社名を挙げる。郡部神社、白山権現社、礎国神社、赤尾弁財天。
・秋葉山常夜燈町内安全 昭和二年五月建立:袋井駅前東通り木村花店隣にあったが駅前都市計画事業により移転、
・秋葉山常夜燈町内安全 昭和三年五月建立:袋井市東通り、中村ラムネ店附近にあったが区画整理事業で移転。
坂を上りつつ350m進むと右に大門公会堂があり、敷地内に木造瓦葺の常夜燈がある。
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺:建立は明治以前との古老の話だが、さだかではない。以前は公会堂の東側にあったが1958年現在地になった。毎年12月15日秋葉山より札を頂き掛軸とともに常夜燈内に掲げ盛大に祭りを行っているという。’95
更に150m進むと袋井南小の校舎が見える。反対側:左:南の細い道への交差点に石道標がある。法多山道なので法多山への道標であろう。昔は一丁ごとに設置されていたのではなかろうか。二軒屋の辺りに43丁目辺りの道標があったはずで、呼応しているのだろう。他の丁石があまり見当たらず淋しいものだ。
・石道標:弐拾三丁目
更に120m県道を進むと右:北に古墳がある。
・大塚大門古墳:説明版:直径25m、高さ4.5m。袋井市内最大級円墳。古墳時代後期550年頃築造。1883,1986年調査、古墳周辺に溝:周溝を巡らす、横穴式石室で赤顔料塗装、川原石積み、副葬品:銅鏡、刀、金張り馬具、玉類、須恵器、土師器。当地域では大型で、最新の横穴式石室採用、豊かな副葬品から、袋井市域を治めた有力な古墳時代後期の首長の墓と推定。
100m進むとT字路で直進できず右折:北して高尾跨線道路で東海道本線を渡る。橋袂に第二次大戦の爪痕が残る。
・陸橋に残された「弾痕」:分厚い鉄板に開いた穴が痛々しい。
’15 11/22


・第七番 福聚山 慈眼寺(袋井市高尾1169⁻1、たかお) ふくじゅざんじげんじ  
 創建:元弘年間1333~33、開基:慈眼寺殿精忠時国大居士(俗名:堀江新右衛門中務大輔時国)、本尊:聖観世音菩薩:木造立像75㎝伝行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2013年・正月18日初観音・大般若大祈祷会を厳修、縁起:               
 駐車場有。
創建時は袋井駅付近にあり、天台宗那智山観音堂だった。当地に後醍醐天皇の皇子が行堂を建て住まわれた。皇子は正平七年1352病を得て十年に没した。従者堀江新右衛門時国が嘆いて観音堂を建てた。その後時国子孫政久が元和年間1615~23再建し、禅僧観補麼察和尚開山。延宝三年1675焼失、再建、安政大地震1854大破、大修理、明治34年1901現在地移転。祥和19年1944大地震後修理、昭和55年1980本堂新築、
高尾周辺:大門、三門、大塚、八坂、御所の森等の地名が残る。
訪ねた日の夕刻より「袋井寄席」開催予定で本堂には一杯座布団が敷き延べられていた。
 有住、駐車場有、tel:0538-42-2696
’15 11/22
・翁稲船稲荷
・喜多向延命地蔵堂
・助命観音、・新;観音、・正門:石像「慈眼寺」、・鐘楼門、石仏8(立地蔵3、座地蔵1、観音1、如来3)、堂(多地蔵、如来1)、
~周辺地のもの~
・新町喜多向地蔵:北向きに安置された本像1体、馬頭観音3体、8月24日地域の方々により地蔵盆が行われる。


・経路
JR袋井駅の北500m、徒歩7分。
8番へ1.5㎞、徒歩30分。
 『心の旅路 附属地図』では現代の自動車道とだいぶ違う古道ルートを通過しているので気を付けて通過していく。8番を目指し北へ向かうが、昔の地図ではすぐ北の和橋ともう1本西の静橋がないし、古道は睦橋ルートを通過するようだ。睦橋を渡り袋井中を通過すると右:東に神社がある。
○十二所神社(袋井市川井503) 
・説明版:祭神は猿田彦命、伊ぎなみの尊。例祭日:元旦祭、祈年祭、十月大祭、新穀祭。創建は紀州熊野権現より天神七代地神五代合わせて十二柱を祭神とし、十二所神社と称す。当時本殿は2.7m四方で宮建ては広大なり、慶安二年一宮監物より寺社奉行に村社とした届出文書あり。明治八年今の西小学校の用地となることにより脇宮のあった権現地川井字笠井の現地に移り、明治十年川井村村社となった。昭和19年東南海地震により本殿倒壊し再建その後内外装整備し今日に至る。
遠江では平治元年1159以後、しばしば熊野新宮を造営するための費用をまかなう国に指定されたために、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域では、現現在でも土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社、木原では許禰神社が祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことが分かっています。川井の十二所神社もかつて熊野十二所権現と称されており、熊野山との関係をうかがい知ることができます。江戸時代の記録からは2.7m四方の本殿と脇宮、天正13年1585の棟札などがあったことが分かっています。棟札には川井の地頭菅沼織部と代官壹右衛門の名前が記されており、神社の創建は少なくとも戦国時代までは遡ることが考えられます。現在の神社は明治8年1875、袋井西小学校の中にあったものを当寺存在した脇宮の大頭龍神社と合祀し、今の場所に移転したものです。
・石道標:秋葉山道(3方) 享保二1717年酉川井袋井 寛政十1798戊午八月吉日再建、ツチノエウマ:元あった所は北東100mの川井東町15:寺田理容店前(岡本下駄屋)と云われるが定かではない。’16 4/2。
・光明山常夜灯2、・石鳥居:明治四十一年、・献灯4、・狛犬2、・板碑、
・秋葉山夜燈 文化八、
200m北進すると川井東交差点、更に北進するのだが、北進する自動車道のすぐ右に細い道がある。これが古道&旧道のようだ。500m北進する。途中で都市計画の区画整理がなされ新興住宅地に変貌し、ぐにゃぐにゃ蛇行していたはずの道が直角の道になり1本道にはなっていない。古道はどんどん消滅していく。
・その途中川井東交差点から200m北の久能315⁻1:鈴木氏宅前に丁石の台座のみ残存しているようだ。
・堀越橋への広い道に出る手前50m手前には、区画整理以前は細い道沿いに久能400₋2:伊池氏宅があり、四丁目の丁石があったようだ。
川井東交差点から500m後、広い道に出る。右:東に堀越橋がある。この橋を渡る。渡って50m東進して、最初の角を左折し北進する。この周辺は都市計画により区画整理がなされ碁盤の目状に道が付け直され昔の面影はない。150m進むと直進できないがすぐ右に北進道があるので一旦段違いになり北進していく。
・この段違いの道から西30mで宇刈川に達するが、その手前に五丁目の丁石があったはずのようだが、不明。
段違い道から150m進むと袋井バイパスの高架線に突き当たる。この手前右:東に墓地がある。かつて下久能弘法堂があったようだ。
○墓地、下久能弘法堂跡、可睡斎久晶寺跡、泉町二丁目8番地
・可睡斎久晶寺跡 平成二十七年、・新四国八十八ヶ所第七番札所、
・祠:弘法様:像、説明:昔から当地で弘法様が祀られ親しまれていた。ある時和尚の夢枕に弘法様が出てきて「私は弘法だが、貫名の藪の泥中にいるので、助けてほしい」と言ったそうだ。そこで和尚が泥から救い上げ祀り直したそうだ。その頃当地では疫病が流行っていたが、祀って信心すると疫病が退散したそうだ。
なぜ貫名なのだろうか? 貫名は気比神社がある袋井市中心部より東で原谷川沿いの湿地帯なので、泥中に似つかわしいのでその地名にしたのかと思うが、何の関連なのか、不明?
・一石六地蔵、・第一番地蔵、・板碑:一金五萬圓也、・奉□春順禮、・新:地蔵、・五輪塔:破片、・墓石:天保十五年 文政九、
・墓地入口にかつては六丁目の丁石があったようだ。
バイパス高架線で直進できないので、一旦左右どちらかに迂回して向うの古道に向かう。下久能1102番地:金子氏宅左から北進。
・金子氏宅手前のバイパス用地内に七丁目の丁石があったようだ。
ここから古道ぽく道は蛇行していく。100m進むと、角の久能1220番地:塚本宅に丁石がある。
・八丁目:おそらく位置関係から可睡斎への丁石かと思う。先の川井十二所神社の秋葉山道標やこれから出てくる道標ともども、関連性がある。
・70m北進すると道が鍵の手のようなクランク状になる。その久能1238⁻4:渡辺氏宅前に九丁目の丁石があった。現在、久能1632⁻1₋1:米沢大二氏宅にて保管しているようだ。
100m北進するとやや広い道に交差するが、そのまま北進できる。すぐ左:西に袋井北小がある。
・久能421₋1:寺田氏宅西裏に十丁目の丁石があったようだが不明。
・120m北進すると久能1431⁻1:寺田氏宅前にかつては十一丁目の丁石があったはずだが不明。台座のみあるようだ。
・150m北進する。途中多分九丁目丁石を保管する久能1632⁻1₋1:米沢氏宅前を通過する。
・寺田正夫氏宅を過ぎた角にかつては十二丁目丁石があったようだ。久能1810⁻11:寺田利雄氏宅で保管されているようだ。
100m北進する。久能1800番地:石黒宅の角に丁石がある。ちなみに台座は向かいの久能1775:安間氏宅内の北西にあるようだ。
・丁石:十三丁目、
200m蛇行北進する。
・久能1865:安間氏宅前の辻にかつては十四丁目丁石があったようだが不明。
100m北進するとT字路で直進できない。2軒左:西に北進路がある。入るとすぐ目の前に黒い長屋門。
・長屋門:久能2009-1、鈴木氏宅、

~周辺~
先ほど2軒左に行ったが、右:東に100m進むと広い県道に出る。渡って北側には可睡斎への参道入口となる。ここに2つ可睡斎の道標がある。
・石道標:明治二十五年秋葉総本殿遥拝所 明治二十五年秋:久能1964⁻1 可睡口、
・石道標:☜山梨森町道 可睡斎口 大正六年十月:久能1964⁻1、可睡口
・献燈当国中泉町 明治四十二年四月吉祥日:久能1964⁻1 可睡口、

長屋門に戻る。
どうも古道は消滅したようだ。おそらく鈴木氏宅の左:西に回り込んで北側の東名高速に向かったと思われる。ここから左右どちらでも迂回して鈴木氏宅の裏:北に向かう。
鈴木宅裏に回ると、すぐ北は東名高速高架線である。左右どちらかに迂回しないと北進できないかと思いつつ高架下ガードを流れる細い川を見ると、その横にさらに細い道らしきがついている。歩道がついている。
・東名高速高架下ガードの歩道:わざわざこんな所に狭い歩道を設計施工するには必然性なり必要性があってのことだろう。でなければつけるはずがない。おそらく狭い古道が地域住民の生活道としてあったため、わざわざ狭い道を設計施工したのだろう。元から道があった証拠と推定したい。つまり古道のあった証拠とも言える。「菊川53」の標識がある。
ガード下暗く細い道をくぐると目の前に神社がある。
○六所神社:袋井市久能2018番地―1、祭神:タケミカヅチノカミ、フトダマノミコト、イツキヌシノミコト、フツヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメノオオカミ、
例祭日:10月15日、由緒:勧請の年月不詳と言えども延宝五丁巳年2月18日、再建の棟札及び、その後再度の棟札有す。明治12年9月18日村社に列す。
・新:地蔵、・五輪塔:破片5基分、・新:石鳥居2、・御神木、・古い常夜灯2、
・常夜灯2、
 古道は神社横の公会堂から左:西に向かい北進する道にかつては合流したようだが、途切れているので、左の北進路に向かう。道なりに北進300mで現代の県道58号:袋井春野線に合流する。合流した先の右:東に細い道が分岐し北進していくのが見える。この路地裏道を北進する。200mで宇刈川土手道に合流する。150m土手道を北進すると、右に分岐し北進する道もあるので、そちらに進む。150m進み、道は最初は左、次に右に曲がる所がある。久能28⒑番地附近である。
・祠:地蔵、
200m北進すると新興住宅地に向かい標高差5mを上る。ここから左:西の土手道に出て土手を200m北進する。谷田川橋がある。平宇バス停も附近にある。橋を渡る。橋を渡った北側にほんの少しだけ、旧道が残存している。すぐに県道58号線の交差点に当たる。旧道は斜めに横切って周南中の左:西に向かっていく。周南中の植え込みに石碑がある。
・石碑:山科学校跡、
石碑前の道が旧県道であるが、中学の西に沿って北上する道は新たな道なので、その1本分、左の道を北上する。かつての県道の趣が残っている。これも近代の旧道、これからの古道になるのかも。
この先もっと古い道と推定される道を通る。8番札所の朱印所である成道寺前を通過する道でもあるので、なおさら通過するのである。右にある下山梨公会堂を過ぎると、左斜め北に向かう狭い道がある。下山梨1533⁻1杉山宅の北で左に向かう道である。道なりに北進150mで成道寺前に出る。ここで朱印がもらえるようだ。 
○成道寺:
・新:六地蔵、・秋葉山常夜燈:木造板葺:安政年間の建立、元は100m北の秋葉道脇にあった、再建され境内東隅にある、一見祠に見える、等、
成道寺前から250m北進すると、また旧県道に合流する。50m北進して左の佐藤木工所:下山梨266⁻1で左折すると、下山梨上公会堂、その横に八番観正寺のお堂がある。このお堂はとても見付けにくい。’15 11/22
 上記、川井十二所神社以降の丁石事項や、その他の袋井周辺の石造物や古道については以下の文献からの引用がある。現地での丁石、常夜灯等の再確認は未実施。 ’16 4/2。
・「秋葉古道を(道標・燈籠)訪ねて」北みちしるべの会(袋井公民館内)H7年3月20日


・第八番 月見山 観正寺(袋井市下山梨524、しもやまなし) つきみざんかんしょうじ  
 創建:不詳、開基:不詳、本尊:六観世音菩薩、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎・次回2017年、縁起: 
山号の月見山については山梨一帯の南には山がなく、古地図に月見里と書いてやまなしと読ませるということからきているらしい。
無住、駐車可能。
・厄除石:不動岩:裏山から掘り起こされ、石上部がぽっかり割れ、中から丸石が出た。
  見ると確かに割れた中から丸石がのぞいているかのようだが、ただ雑草の中にほかされているので、ただの割れた石に過ぎないと見られ、発見しにくい。
・石塔:岩□町? 刻字を成道寺住職に聞いたが不明
・六観音堂:守り本尊の十一面観世音菩薩、聖観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音、
・遠江八番札所 観正寺 昭和五十九年、・下山梨水道組合 原井跡 平成九年、
・石碑:御詠歌 昭和六十年、・手洗石、・新:石灯籠、
堂の裏には墓石:宝篋印塔、石仏、卵塔、墓石、
不空(四に絹)索観音、他に准(月に底)観音、
周囲:上山梨の正福寺には橘逸勢が流された時の歌が残されているという。
無住、駐車場有。 
朱印は300m南の成道寺であるが、2度行って2度とも家人と出会えなかった。3度目は事前に電話をかけてから伺ってやっと御朱印を頂けた。Tel:0538-48-7131
’15 11/22、12/5、12/12


・経路
JR袋井駅発、袋井市自主運行バス「フーちゃん号」下山梨上、下車、徒歩3分。
9番へ10㎞、徒歩140分。
『心の旅路 附属地図』では8番から11番遍照寺内観音寺へ行くルートになっていて、11番後9番に行くルートである。このルートも一応今後調べたいが、おそらく古道ではないはずで、近代以後睦実の11番観音寺が廃寺で飯田の遍照寺が引き受けたことで、8番に近いので8番から11番を廻ってから、9番を目指すルートが合理的になったのだろう。これは近代以後のルートであろう。
そこで8番から9番を目指す古道らしいルートを私見で推定した。私見なので正しいかどうか不明だが、この後詳述する中で、あながち間違いではないようだと思う箇所があった。
観正寺の位置が昔からこの位置なのか知らないが、一応当位置として堂の裏の北を目指したいので、1本西側の細道に行着、北を目指す。そして西へ延びる(横断地点より西先で北上する)県道279山梨敷地停車場線を渡り、上山梨下町に入る。2000年頃までの地図だと直線に北上できるが、2015年実際には区画整理され直したらしく、少し左の道を入って北上していく。右に神社がある。
○山名神社:上山梨1丁目12番地の3、720年養老年間勧請、周辺の区画整理事業は2009年完了。・石道標:左 光明山秋葉山道 右 大洞院:この石道標は以前北東100mの上山梨381:佐藤氏宅南西10mにあった。明治初期以前は光明山秋葉山と大洞院との分岐点で、向かって左へ行けば太田川を越えて旧三川村の二俣街道へ出て秋葉山光明山へ参拝した。右へ行けば旧宇刈村春岡を通り下飯田より北上して森町を通り大洞院へ参詣したという。

神社から直進北上はできないが、その後下町・中町・上町の商店街に入ると、まっすぐ北上できる。この古めかしくもさびれた昔ながらの商店街は昭和レトロが満載である。映画のロケ地によいのではないか。この商店街の北端に太田川が流れていく。
この商店街の150m東側、上山梨1058:山下氏宅前に秋葉山常夜燈がある。
・秋葉山永代常夜燈 安永十四歳四月吉日:木造瓦葺、
この北端周辺に川の渡渉地点だったことをうかがわせるものが2つある。
・地蔵堂:堂内に多数地蔵、裏墓地にも地蔵、墓地には戦国末期から江戸期の墓がある。地蔵堂のいわれは知らない。
渡河地点にはこのように仏や神が祀られることが多いので、その名残の面もあるのではなかろうか。渡河の安全祈願や犠牲者の供養のために設置されやすい。現代は立派で巨大な橋を土木工学の進歩で建設しやすいが、昔の橋は壊れやすかろうし、渡し船や徒歩渡りでは流される危険性はあったのだろう。
・若宮八幡神社: 袋井市上山梨上町字お旅所1445番地、本来山名神社の御旅所に若宮八幡宮を祀った。昔山名神社南に若宮の地があり、中町西尾家の氏神として勧請され祀られていた。明治19年頃氏子がお旅所に遷座した。公孫樹。
御旅所は神を祀る時の休憩地、支度を整える所、迂回地点等を示すことが多いので、渡河地点にあることは似つかわしい。
現代、若宮八幡西に板築橋がある。さて太田川を渡る。県道279山梨敷地停車場線を北上するが、旧道は地蔵堂辺りで渡河して県道の1本右側、:東の道と思われる。500m先中川上交差点横の中川上公民館の真裏道で、この交差点で合流する。
この中川上交差点から、9番岩室観音堂や獅子が鼻公園を目指すルートは複数になる。
 交差点より北西(左)を取って天池坂を通り昭雲寺前を通過して萱間も通過し敷地を目指す。
○神明神社:・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、内側に道標:「是よりいなり道」
・天地坂
・昭雲寺:石仏、
 ~周辺~ 
昭雲寺より西へ進み敷地川も渡り5㎞で川会カワエ集落に行く。遺物類がある。
・石道標:旧二俣街道是ヨリ山ナシ一里 二俣二里十丁
・建福寺:・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、元は明治橋西方平野氏宅裏にあった。
・川会879:石川氏宅はかつて甚内店といわれ、反物や日用雑貨等生活用品を売っていた。このような店は少なかったので遠方より客が来た。秋葉詣りの客も軒の腰掛にかけて休息したという。

 岩室観音への次のルートは、萱間から北を目指し、大久保や極楽寺から今のトンネル経由で敷地へ出る。または岩室へ南から上って行くかする。トンネル経由しなければ極楽寺前から沢沿いに道があり、八幡神社を過ぎて境の峠を越えて敷地駅前に向かって行けた。
中川上交差点から現代なら北の谷中交差点を目指し、宮園小前交差点へ左折し、一之宮に至り、右の谷崎から左の大久保の極楽寺までのどこの道を取っても岩室に上って行ける。以上は推定現代ルートである。
推定近世ルートは中川から県道279山梨一宮線の左(西)の山際集落に沿った旧道(古道)を北上し雲林院前に出る。ここから山越えである。ヤマハ発動機工場や恐竜展示のある地所を過ぎてハマネツ工場を過ぎてすぐに左折で下っていく。本当はこの左折手前にもチェーンの張られた細い道があるがこれが旧道と思われる。下りきってT字路を左折するとすぐに目の前に一宮駅がある。旧道は一宮駅裏の小高い集落に降りてくるはずである。一宮駅前から北上すれば一宮大久保地区である。ここからのルートも複数ある。
① 最も正式な表参道ルートは萱間、敷地を目指し、そこから岩室に上る道である。
② 裏参道としては、⓶萱間から大久保、または遠江一之宮駅付近から大久保へ出て、大久保から北上して岩室へでる。今ではゴルフ場の西端を自動車で上れる。心の旅路附属地図にも記載あり。
③ 大久保の小川、合羽ヶ谷橋を上るコース。現在はゴルフ場で行き止まり。
④ 谷崎の高雲寺:遊び地蔵の西から上っていくコース。心の旅路附属地図に記載あり。
⑤ 高雲寺の東側の山尾根に沿って上っていくコース。現在は自動車道であり、ゴルフ場の東端であり、途中廃棄物処理場を通過し、岩室より少し奥の広大な茶畑に達する。

以上5コースを実際に調べてみる。
① コース:敷地の岩室橋を渡り、上り坂を上っていく。途中板碑がある。正式な表参道である。
・板碑:豊明神社、・旗立て石2、
更に上り集落に達すると辻に石仏がある。
・如来:
② コース:途中大山神社石碑と板碑の横に人工的切通しの旧道(古道)が一部残存しているが、ほぼ自動車道により消滅したと思われる。県道40掛川天竜線から北へ分岐する所の酒屋横に石道標がある。
・石道標:表「右敷地野新、中?□□□□、左?□□□□」裏「六平屋 大□ 」
⓷コース:途中、安養院、コガワ小川神社前を通過する。沢の左(西)が旧道と思われる。新東名高速高架下で小さな合羽ヶ谷橋を渡る。すぐ目の前に祠がある。
・岩室観音巡礼道 道標観音:観音石仏:説明:小川道標観音 岩室観音(岩尾山清涼院)巡礼道の道標、聖観世音菩薩像の左脇に「左巡礼道」と彫られている。巡礼道は平成五年頃に三木の里ゴルフ場建設により途中で道が途切れてしまった。また新東名建設工事に伴い平成11年に仮移設し、平成20年に当初位置かもら20m北の現在地に安置。設置者はこの先の住宅:天野智加志さんである。
 天野智加志さんは、新東名建設により森町が刊行した資料集『建設の前後』に「大久保 岩室観音巡礼道の道標観音」を記載されている。この書籍には「大久保 消えゆく小川コガワの巡礼道」菅沼茂夫の文章もある。
現在の安置場所の真上の山斜面に旧道(古道)入口が雑草と倒木だらけで人工的な切通しの一端を見せているが、とても入る気にはならない。暫く先のゴルフ場で消失しているはずだそうだ。
*天野智加志さんには感謝しております。
④コース:谷崎の特別養護老人ホーム森町愛光園と高雲寺:遊び地蔵の左を入っていく。県道との分岐点には石道標がある。
・石道標:酒屋の横に倒れている:表「右圓田村森町 左小國神社秋葉光明山」、裏「御即位記念 谷崎青年會」、本来300m東の谷崎交差点にあるべきもの
・石道標:酒屋の向かい:表「遠江一宮國幣小社小國神社 従是二粁七百米突 勤王義國報國隊記念遺品ヲ保存ス」裏「皇太子殿下御成婚紀念 大正十三年五月」
左右ともゴルフ場の間を進むコースで現在自動車道は拡幅され走りやすいが、ゴルフ場を過ぎると広大な茶畑を走る農道になり、道の突き当りは⑤コースの曲がる所の分岐点の100m手前である。突き当りの100m手前に石碑がある。
・石碑:自立自興 昭和六十年、
⑤ コース:このルートは一般的に帰り道コースと考えられている道かもしれない。とはいえ巡礼道としては岩室から釣鐘岩方向へ奥に進み、広大茶畑(財産区)の釣鐘岩方向へ進み、自動車での通過不能標示がある所で右折(東)して進む。ただし谷崎に下るよりもっと手前で、尾根道の自動車道から離れ分岐して一気に東に下る必要がある。その分岐点を知る必要がある。
 
 附属地図では太田川を飯田の下飯田橋か飯田橋で渡り複数のルートで岩室に上っていくコースとなっている。飯田で渡るのは11番:遍照寺を9番より前に参拝する順路から来ている。近代はこの方が合理的ルートである。しかし近世までは順番通り廻る方がよかったろう。


・第九番 岩室山 清瀧寺(磐田市岩室68⁻3、いわむろ)いわむろざんせいりゅうじ  
 創建:平安期、開基:伝弘法大師、本尊:聖観世音菩薩:木造立像105㎝平安後期作、宗派:真言宗、開帳:毎年2月初午に例祭、縁起: 
駐車可能。
旧豊岡村。獅子が鼻公園の奇岩:獅子が鼻岩近く。豊岡梅園。古代からの祭祀場か?そこに大寺院が建立されたのか? 獅子が鼻公園の景観は抜群。
明治22年江戸時代以来の万瀬、虫生、岩室、大平、敷地、家田、大当所の7村合併で敷地村となる。昭和30年4月旧広瀬、野辺、敷地3村合併で豊岡村。
「掛川誌稿」の豊田郡万瀬村箇所で「敷地側の上源にあり。敷地側の本流この村より出で
南に流れ、又西の方二股より天竜川に入る一流あり。共にこの村の山中より発源す。その二流の間にある村なれば万瀬は間瀬なるべし。」
 「遠江国風土記伝、豊田郡野辺郷の内」の記述:「高は51石1斗8升5合 百姓山に住す 観音堂:朱符の田高は2石 臨済宗清涼院永安寺の末 平僧住す 昔寂室禅師登山して作興す  岩室山:高さ15町 嶺に仏堂あり 麓に竜泉・山谷の諸仏堂の名存す 地を穿てば則ち仏像出づ 西北は石壁なり 牛之鼻と号す 物有て半崖に懸るが如し 麓に敷地川流る 東北は虫生山に続く 南は岩室山なり 古老曰ふ 昔 真言の祖弘法大師開山の地なり 後臨済宗寂室禅師 登山して室山ハルミ看花の作あり (延文年間に当たる)野興人を催ほし青昼長し 行く行く岩院を看れば満庭芳し 老来景を好めども多く遇い難し 眼風光に酔ひて心狂わんと欲す  永安寺:敷地村にあり朱印の寺田の高12石 臨済宗京都妙心寺派の末 開山寂室禅師なり (延文年間=正平11~15 1356~60)」
 敷地川水源:高野水汲
観音堂周辺はかつて七堂伽藍、僧坊多数あった。戦国期、織田信長来攻により焼失。附近には礎石多数、布目瓦、土器片出土。土中から1.2mの大日如来頭部、1.5m仏像2体、発見。径3尺大礎石が8尺間隔で東西に6個、南北に5個並ぶ。堂の前は石段、
・標柱:史跡岩室廃寺跡、説明版、観音堂は上部構造・小屋組がよくわかり建築構造を調べる上においても注目すべき建物
御朱印は自治会で毎年持ち回りのようなので、近所の住民に聞くとよい。管理者:佐野さん、tel:0539-62-2386
’15 12/5


・経路
天浜線、敷地駅から2㎞、徒歩45分。
10番へ11㎞150分。
岩室観音堂と熊野神社、神道修正派大元祠(御嶽教)から北の釣鐘岩方向へ道を取る。すぐ右手が広大な茶畑(財産区)で左は獅子が鼻公園ですぐ崖のようだ。400m進むと自動車通り抜け不可の看板がある。茶畑もすぐ北で縁となっている。この縁に沿って右折する。茶畑内の道路と縁がうまくかみ合っていないので数回不規則に曲がって何とか縁に出る。尾根通しの自動車道になる。8番:観正寺の経路にある⑤コースである。ここから1㎞南下していく。左(西)にブロックが積まれた小高い丘がある。道からは見えないが頂上に板碑がある。
・板碑:彰徳碑、
その東側のこれまた自動車道からは見えない真裏に旧道(古道、巡礼道)がある。下り10分、上り15分、道は人工的切通しで、国土調査の赤黒杭が打たれているので迷うことはない。下りきると茶畑で向うに北島さんの御宅:一宮宮代西3929₋2が見える。
さらに下ると観音がある。
・馬頭観世音
さらに下りきると向こうに県道と寺院が見える。
○天台宗鹿苑山蓮増院、このお寺の山門は四角くて豪族の館か砦みたいだ。
・不動明王立像、釈迦如来像:町指定文化財、身代わり不動尊、
・一宮稲荷、・釈迦石像、・地蔵、
(周辺参考)手前に戻るが県道を小国神社の反対に500m進むと東の山は遠州静岡真田山城である。
○真田山城:築城年代不明、鎌倉期より武藤氏が附近に住んでいて、居城だったという。元亀・天正頃(役400数十年前)武藤刑部亟氏定は武田信玄に属して小国神社にたてこもったので徳川家康に攻略された。その後再び武田氏に属して高天神城に行き家康に滅ぼされた。武藤氏の子孫は城東郡亀甲村(小笠郡)に居住したという。
・頂上の本丸には石家型道祖神、地蔵多数、曲輪、土塁、堀切も残る。’15 12/5
蓮増院から左に向かえばすぐに小国神社だ。
北島さんや遠州鈴木農場の方の話では、下りきる手前が急坂で大八車では通行できない、巡礼者が歩く道だったと思われるとのことだ。車輪を外して担いだという。今でも順礼で歩く人がいるともいないともではっきりしなかった。幼稚園の先生が引率して幼稚園児が急坂で怖がって泣きながら歩いたという。 ’15 12/12
*北島さん、遠州鈴木農場の方(広大な財産区の茶畑で巡礼道を教えてくれた)に感謝します。

☆疑問:明治23年地図『二俣町』では、巡礼道は北島氏宅前に下りずにもう1本北側の枝尾根をつたって下りている。この山道があるのか?後日確認したい。
 ’16 3/13 先ほどの彰徳碑の場所から古道を下りてみる。5分下ると、道より左に2~3m高いピークがあり、黄黒の標識が見える。そのピークに行くと、北の尾根沿いに向かい下りていく山道があり、黄黒の標識杭が各所に打たれている。尾根と杭を目印に下っていくと、古い地図通りの場所に出られた。下は農道でその道を下っていくと、森町一宮3945:永田氏宅前に出て蓮増院が見える。山道に古い遺物はなかった。山道片道10分。


さて話を本題へ戻して、蓮増院前へ出て左へ進むとすぐに小国神社である。小国神社前を通過して右手のゴルフ場方向へ上っていく。山越えして下りだすと右手の斜面下に看板がある。
・塩井神社:塩水が出るという伝説の井戸である。その潮の干満が海と同じだという。
参考『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸、p81に記載がある。また御手洗清の静岡県の民話集にも掲載されているはずだ。
下りきると伏間集落に出る。左(南東)方向へ進む。また上りとなり、峠では尾根沿いの高架道路下をくぐる。下りだすと右の空き地に看板がある。
・陣屋峠:陣屋とは江戸期において代官や地頭等が任地に所有している屋敷や役宅をいった。森町村及び附近七か村(橘・天宮・草ケ谷・上川原・永倉・中田・石川)は、延宝七年1679以来、旗本土屋氏(地頭)の知行地となり、陣屋は始め草ケ谷に置かれたが、享保六年1721,7月から同九年1724,4月の閒に、西脇に移されたことが古文書の上で確かめられる。以来、西脇陣屋の裏山の峠は陣屋峠と呼ばれるようになった。’15 12/5 
下っていくとすぐに西脇集落があり森町の中心地である。左の山際に沿って進む。10番は近い。


・第十番 八形山 安住院 蓮華寺(森町2144、もりまち)やがたざんあんじゅういんれんげじ  
 創建:慶雲元年704、開基:文武天皇勅願、行基上人開創、本尊:聖観世音菩薩:木造立像70㎝伝慈覚大師作伝天長8年作、宗派:天台宗、開帳:60年毎‣次回2004年9月19日~10月30日、縁起:
東海道における法相宗本山として一里四方の寺領を誇った。八形山には36坊があり学問寺として栄えた。天長8年831慈覚大師円仁(天台宗開祖伝教大師:最澄の高弟)が在住し七堂伽藍を整備した。嘉応元年1169比叡山から阿闍梨皇円が招かれ山頂に正覚院を建立し衆生済度の大願をたて昼夜念仏の修業をし6月13日遠州桜ヶ池に入定したという。戦国末期に今川義元より寺領寄進を受けたが、永禄年間武田徳川の兵乱で諸堂悉く焼失。正親町天皇は名跡の壊滅を憂い徳川三河の守に再建要請。慶長八年1603江戸幕府より55石朱印地賜る。寛政十二年1800千体仏彫刻の大発願をたてた真言宗の遊行僧木喰上人が当山を訪れ高132㎝子安地蔵を彫刻し安置。裏山には行基と慈覚の供養の五輪塔がある。
・萩の寺:各種の萩、開花は秋分の頃
・文化財記念館:日蓮の大黒天像‐県指定文化財、木喰上人‐子安地蔵尊木像、今川義元‐朱印状、徳川家康‐朱印箱、天台大師画像:伝慈覚大師作⁻県指定文化財、元三慈恵大師画像、
・森町歴史民俗資料館:無料:閉館は月火、近世近代の日用品、農耕具、郷土の偉人から土器まで展示、建物はかつての周知郡役所で学校使用後、資料館に。
周辺:歴史の散歩道、森町は遠州の小京都、天宮神社、小国神社、大洞院、宿場街並み、森山焼、春埜山883m大光寺 
~追加~
・五輪塔:多数:行海上人、行基菩薩、禅勝房上人、皇円阿闍梨、慈覚大師円仁、法然上人、法観上人、宣舜上人、真庵法印等の塔
・戦死者を祀った五輪塔:摩耗している:多数100以上、
・地蔵⒑:参道石段安置、
・新:仁王像がユーモラスでおもしろい、
・11番でも取り上げるが「村松梢風先生略伝」が掲げられている。1889~1961年、森町飯田出身、大正から昭和前期の作家で小説や伝記で知られた。
有住、駐車場有、tel:0538-85-5374
’15 12/5

~~~(周辺)~森町の秋葉山常夜燈
○草ケ谷:説明:草ケ谷常夜燈は元は現在地より北側の小高い所(現:高柳氏の茶畑)にあった。当時この地域の秋葉街道のルートは袋井―山梨―牛飼―中川―谷中―栗倉―草ケ谷―森山―蓮華寺―八形山―大洞院―本宮山―秋葉山と言われる。秋葉山には秋葉講という組織を作って代参し家内安全と火災予防を祈念した。常夜燈は秋葉山に通じる道筋各所に置かれ、道者はこれを目印に通行した。現在町内に13か所残されている。当時の森は大勢の秋葉道者でにぎわったと言われる。草ケ谷常夜燈は安政初1855年頃建てられ大工小澤五平氏、円田の両角喜作氏と天方村薄場の人3人で彫刻は薄場の大工によるとのことである。その後昭和9年2月に消防小屋の建設に伴い現在地に移転し石垣は敷地村西村亀太郎氏、大工森町村松為吉氏、木代工賃菅沼泰治郎氏、瓦葺き替えは内藤藤吉氏が行った。石垣は25円、その他大工、瓦工事代等は60~70円程要し修築したようである。平成になり羽目板が傷みトタンに張り替えた。平成17年格子窓等修理電燈を設置した。


・経路
JR袋井駅から12㎞、森町行市営バス、下宿下車、徒歩10分。
天浜線、遠州森駅から1.4㎞、徒歩25分。

~11番へ6㎞、徒歩90分。
蓮華寺の参道を出て道なりに進むと森川橋に出る。橋袂に石碑類がある。
・石道標:表「もりまち」右「□秋葉神社 右秋葉三尺坊本道 左大洞院」左「秋葉道□□」裏「□□建之講中」
・石道標:正一位秋葉神社道:新、
・台座、・石碑類:新、・旗立石2:奉納 昭和十五年 紀元二千六百年記念 幸水社、
ここで森川橋を渡り右折(南)するのだが、できれば現在の県道より1本東側の細い道に入り進むのがよい。天浜線戸綿駅高架下を通過する。ただし江戸時代に太田川を渡ったのは、古道の秋葉道になり、現在の戸綿駅から線路の鉄橋に沿って太田川を渡っていたようで。今の森川橋より南だ。明治23年地図ではほぼ現在の森川橋辺りに橋がある。そして秋葉道は太田川を渡った太田川の東岸では、戸綿での線路沿い道よりもう1本南の細い道が秋葉道であり、加茂神社東の常夜燈前に抜けていく。では鴨谷に向かう道は、おそらく今の県道より1本東の細い道であり、しばらく進むと現在の県道につかず離れずとなるようだ。
古い11番 観音寺へは、鴨谷交差点手前のコンビニ前で左折(南)し、山に向かう。
*あとは11番 観音寺参照

新しい11番 遍照寺へは鴨谷交差点を直進し、なるべく今の県道より山際の細い道を通行していく。飯田小学校を過ぎたあたりで石碑がある。
・石碑:一木系早生次郎柿選抜発見の地 一木藤太郎屋敷跡 平成二十年
○崇信寺:
・山内氏三代墓
寺門前に石道標がある
・石道標:右宇刈油山、
飯田城へ向かう途中にも石道標がある。
・石道標:右森近道 真中飯田、 
○飯田城:崇信寺前より南へ距離350m、土塁がしっかり残っていることは素晴らしい。附近の山城ではたいてい土塁が磨滅している。以前畑や山林に利用され、多少とも開墾されている可能性はあろうが、コンパクトで小規模な山城ながら、しっかり山城の形態をとどめていることはすごい、土塁等見るべき価値がある。
・谷堀、・腰曲輪、・本曲輪、・二の曲輪、・大手口、・南土塁、・坂土橋状虎口、・西土塁、・東土塁、・物見曲輪、・二重堀、・飯田城跡記念碑、
・説明版:築城年代不明、室町初期1400年頃、山内道美が築いた。永禄末か元亀初めの山内通泰の時に徳川家康に攻められ落城し廃城、通泰は討ち死にしたが、庶子重但は三河へ逃れ同地に土着し、今も子孫がいる。城跡を新城と呼び、崇信寺を古城と呼ぶ。山内氏は1281年には備後の国の天方の地頭で、後に遠江に赴き天方城を築いたようだ。1300年代には当地を領有していた。1401年には崇信寺を開いている。
’15 11/22


~12番への経路
蓮華寺参道を出て左(東)の細い道を通過する。森小学校裏を通り、細い道へ左折、すぐに石碑がある。
・板碑:説明版:報徳報本社跡:
暫く道なりに直進する。自動車が通行できない辺りで、天森橋に向けて東に右折する。自動車は通行不可の狭い道である。行き止まると天森橋袂である。
森川橋か天森橋を渡る
・泉龍寺
天方城に向かう道を通過して行く。向天方で天方城ルートより右を取る。
・天方山宝太寺、・天方神社、・御嶽山教会、
~~~
~(周辺)~ 
○天方城:説明:築造年代不詳、応永年代には山内対馬守の居城だった。城主天方山城守通興の代になり世は戦国乱世を迎えた。それまで駿河遠江を支配していた今川氏が義元死後斜陽化、これをみた三河の徳川家康の遠州侵攻の口火がきられたのは永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12(1569)年6月19日家康は「遠州にいながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃、郭門を打ち破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦が繰り広げられた。山城守もよく攻防したがついに力尽きて降伏。翌元亀元1570年10月には御下知(命令)に従わずに軍兵を集めて立て籠ったため再び大須賀康高、榊原小平太康政を先登して外曲輪を攻め破る。山城守防ぐことかなわず降伏し徳川の支配下に入った。三年後の元亀三1572年9月下旬、武田信玄は四万余名の大軍を率いて犬居城主、天野宮内右エ門景貫の案内で多々羅、飯田の2城を攻略し天方城に迫った。天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。そこで信玄は久野弾正忠宗を残して、山城守とともに天方城を守らせた。翌天正元1573年3月家康は、「信玄へ降伏し嚮導(先達)となりし徒(なかま)を捨て置くべきにあらず」と、平岩七之助親吉を将として、天方城攻略を決行した。先にこの城に残った武田の臣久野弾正は、城兵を指揮して大手の門を切って出て、散々に戦い、寄せ手の大久保新十郎忠隣、渡辺半十郎政綱、服部半蔵守綱らは烈しく攻め、ついに外廓を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、城主山城守久野弾正、必死に防戦したがついに力尽きて再び降伏し弾正は甲斐へ逃げ去ってしまった。遠江国風土記傳には、のちにまた甲州の持城となったが、天正二1574年3月、家康は遠州の軍兵を引率し、天方城を攻め3日のうちに攻落、この城に軍兵を置くとある。その後通興の子通綱は、家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられ天正七年9月15日二俣城において、切腹を命ぜられた際介錯をつとめた。そのため通綱は主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ、高野山に上り仏門に入った。そして後に越前松平秀康(家康の二男)に仕え、越前天方氏の宗家となり、その子孫は明治まで松平氏に仕えた。一方通興は、通綱が高野山に上ったため、天方氏の存続をはかるため、外孫の通直(青山播磨守忠成の五男)を養子にした。道直は幼稚の時より家康に奉仕して慶長19年の大阪冬の陣に供奉している。また元和元年大阪夏の陣の時は、秀忠に従い天王寺の戦いに戦功をあげている。
後に御書院番に列し、元和6年正月には御小姓組頭となり、さらに元和9年正月に御書院の組頭に栄転し同年9月より江戸城西城に勤仕した。寛永二年11月23日上総国武射、下総国葛飾、香取相模國高座四郡のうちにおいて2250石の御朱印を給わる。そして寛永三年従五位下備前守に叙任さる。寛永七年11月22日死す。歳42才、法名常茂。江戸小石川の蓮華寺に葬る。通直より4代後の成展の時、享保17年閏5月12日、請て家号を青山に改めている。以下代々徳川家に仕えた。
・石塔
・土塁、堀切り、曲輪が残存
展望台がありブランコ等もある。駐車場、トイレ有。
城に行くには山登りとなる。自動車で行けるが山岳ドライブとなる。道は狭い。
~~~ 
宝太寺へ向かう殿谷橋を渡る。沢の右上を東へ向かう左への道が掛川への道である。右上に向かうのは宝太寺参道である。橋手前の沢左を進むのは沢沿いの林道である。
・石碑:?圓蓮院跡:掛川市宮島、おそらく寺院跡、現在は全くの山中茶畑、しかし800mで集落。
県道大和田森線へ合流地点であり、旧道は県道に沿ってさらに100m延びている。
・石道標:表「右寺島原里村道 左原谷□□大尾山道」
県道に沿った旧道が100m先で合流する所、または県道を北に100m行った所に道標がある。
・石道標:「右森町ニ 左掛川道」左「側道」裏「   高」
県道を南へ600m進むと、新東名高速高架下に至り、12番 長源庵が山際に見える。


・第十一番 高平山 遍照寺内観音寺(森町飯田2130、いいだ)たかひらさんへんしょうじないかんのんじ  
 創建:元和元年1615、開基:木喰秀海上人:高野山住僧で諸国巡り中に飯田に寄った。飯田村の寿徳が厚遇帰依し、近くの平らな山の高平山86mを寄進し堂宇を建立し弘法大師を安置した。開山法師と秀海は正保二年示寂。本尊:十一面観世音菩薩:木造立像84㎝仏師大橋劔之介作明治37年8月再製、宗派:真言宗、開帳:昭和2年‣次回予定なし、縁起:
山頂に寺があるので見晴らし抜群である。
寿徳は観音の堂守だったのだろうか? 
十一面観世音菩薩は無病息災・開運厄除・心願成就を保障。
・遍照寺大仏:大日如来:高5m、周囲8m、青銅、享保三1718年二月開眼、駿遠両国鋳物師総大工:山田七郎左衛門尉藤原種満を建築総監督とし、江戸鋳物師大工:太田近江
・開山堂:頭痛と腰より下の病に効くそうでお果たしはタバコを奉納するそうだ。
・昭和前期の文人:「残菊物語」で知られる村松梢風の墓があり、麓には生家跡の看板がある。他の村松家の墓石もある。
他の古い墓石もよい。
・観音:延寶七巳未年八月、・石仏7(立観音1、座観音2、座地蔵4)、・句碑2、
・表参道、・高平山 昭和六年、
・開山碑、
・水子地蔵、
有住、駐車場有。Tel:0538-48-6758
’15 11/22


・経路
JR袋井駅から北へ8㎞、森町行バス、下飯田下車、徒歩15分。天浜線、戸綿駅から行バス下飯田下車、山頂迄500m、徒歩15分。
12番へ6㎞、徒歩90分。
自動車で行ける。麓からの参道は500mで舗装されているが狭く急こう配の山道である。


*かつての第十一番 観音寺(森町睦実鴨谷2890付近の裏山、むつみかもや)かんのんじ  
11番札所は本来「観音寺」であるが明治初期の明治5年に鴨谷:観音寺バス停付近の裏山の観音寺より観音堂を遍照寺に移築した。平成14年4月、老朽化で屋根が没落し解体した。ちなみに観音寺の地名地には昭和49年まで4軒(一木家2軒、佐藤、他全4軒)が住んでいたが、葛城ゴルフ場北の丸建設に伴い移転した。現在の北の丸に向かうトンネルを過ぎた辺りである。寺は明治初期に廃寺と思われる。一木家は現在、飯田小学校裏の上飯田3361番地に移転している。
観音寺バス停より鴨谷交差点を渡り、コンビニを通過して右折(南)して進む。睦実鴨谷2867⁻1:松下宅と鈴木宅の間の道を山に向かう。一木宅右横:西にモノラック道の山道がある。これが観音寺へ向かう古道である。この山道が北の丸に向かうとき通過するトンネル横に出るはずであるが、100m上っただけで、それ以降は草藪がひどく未調査。モノラック入口よりトンネルまで距離250mと思われる。途中には湯が湧いたところがあるらしい。
・シオ井戸:かつて川のほとりに湯が湧きだしたという。
北の丸のトンネル付近を調べる。トンネル手前右に入る山道があり、さびれたお堂がある。
・お堂:神社の跡か?:北の丸に行くとき通過するトンネル上横にあるさびれたお堂、一木さんによれば寺とは無関係とのことである。特にお祀りしていた等の発言もなかった。 
トンネルを過ぎてすぐ右に入る山道は急峻なところに茶畑がある。平地はないので、住居には不向きだ。北の丸へ向かう自動車道を50m進むと右に入る山道がある。20m上ると平坦な畑地がある。開墾され人為的な平坦地だ。おそらく付近で平坦な所はここだけではなかろうかと思うので、間違いかもしれないが、ここが観音寺推定地とする。


・経路
この11番札所から12番へは裏山を越して掛川へ出たものと推定される。そのルートは地図上で確認すると、ちょうど北の丸に向かう自動車道やゴルフコースとつかず離れずであり、消滅したと思われる。北の丸からは森町掛川市境線を北上し、天浜線や新東名手前で県道(かつての秋葉道)に出て、およそ新東名沿いに東に進む。
・杭瀬ヶ谷の池クイセガヤ:説明:昔から徳兵衛池と呼ばれるいわれは、昔、森町村には徳兵衛という若者が住んでいたが、ある日掛川宿へ行った帰り道、戸綿峠に差し掛かると水も滴るばかりの美女に出会い、誘われるように一軒家に入っていくと、鏡に向かっていたその女が、急に後ろを振り向いて、お歯黒をむき出し、「ついたかえ徳兵衛さん」と言ってニヤリと笑った。こんなことを二三度繰り返すので、あまりの気味悪さに徳兵衛は次第に後ずさりして、とうとうドブーンと池へ落っこちた。朝方ここを通るとき、狐に石ころをぶっつけたので、その仕返しをされたのだと気づいた。その後誰言うとなく、この池を徳兵衛池というようになったと伝えられる。
新東名側道で、掛川グリーンヒルカントリークラブ(ゴルフ場)への案内表示がある方へ進む。100mも進むと右下に降りる細道があり、とても臭い窪地に出る。この窪地の左側に廃道同然の道があり、600m進むと、寺島集落の裏山山頂の墓地に出る。この裏山山腹を通過して原田小学校方向へ進むのが古道と思われる。寺島にある物を紹介する。
・墓地
・祠:天王神社
・原殿神廟:祠、石塔、説明:原係清公は藤原姓で官位は従五位下、権守出羽守。遠江発祥原氏の祖で、承徳二1098年6月1日没した。子孫は嫡流の他、相良、橋爪、久野、孕石、寺田、弓桁、中、小澤等の諸家に分かれた。当地は師清公の館址と伝えられ、公の墓石があったが、元亀四年1573徳川勢に攻められて各和城が落ち、原武蔵守頼延が安芸(広島県)へ退転して、荒廃に帰した。その後館址に住むと災難が相次いで起こり遂に公の化身と伝わる大蛇が出現した。そこで元禄七1694年1月、里正山崎頼貞(寺田氏の祖)は右塔を明神山頂に埋め、原明神として祀った。以後代々、領主から黒印一石の祭祀料を受け、明治維新まで続いた。明治14年頃現在地に遷座、後に八幡神社へ合祀された。祠下には師清公の石塔がある。
○寺島八幡宮:
・石鳥居:日露戦捷紀念 明治四十二年 
・猿田彦大神 
・稲荷神社:祠、石仏、周辺は丘上の墓地。たまたま訪ねた時、祠前で猫が日向ぼっこをしていたが、来訪者に驚いて早々に立ち去った。
・西宮えびす神社:新祠、おそらく直近の新東名工事で移転し、現在地に新築したのだろう。周辺住宅もやたら新築の家が多く、町内ごと移転した証拠だろう。
新東名高架下を通過するとすぐに石碑がある。
・新:石碑:長源庵 
長源庵のさびれた建物が見える。

☆(周辺紹介)
原野谷川の対岸には観光地、神社仏閣がある。
・加茂荘花しょうぶ園
・松寿庵
・千勝神社

~~~~~
現在の天浜線原田駅前で県道40掛川天竜線と県道269大和田森線の分岐点付近に石道標がある。
・石道標:表「右掛川 左原田村大尾山 道 幡鎌青年團」裏「大正九年」
ここから寺島方向へ県道を進み、新県道から旧県道へ入るとすぐに原殿神廟の標識がある。あとは原殿神廟への文章へと続く。
~~~~~


・第十二番 神宮山 長源庵 山崎(掛川市寺島1458、てらじま)じんぐうざんちょうげんあん やまざき  
 創建:寛永元年1624、開基:不詳、本尊:如意輪観世音菩薩:木質乾漆金箔‣半跏思惟像25㎝台座共60㎝、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2020年、縁起: 
応永年間初期、大高山麓にあった大洞院の六門、円通院の門前、寺田村山崎の地に仏堂があり、如意輪観音を祀っていたが、維新に際し長源庵に移築された。無住。最福寺住職。
昔の地名は佐夜郡宮ケ島村。呼び名は宮ケ島の観音さま。その南に寺田村があり、古刹円通院からその名が付いたという。円通院住職に松堂高盛がいて『松堂語録』を残した。文中に文明中に既に寺田郷の名がみえるので村は円通院寺領かまたは本郷の安里山長福寺に関係があろう。円通院は大洞院開山如仲天闇ジョチュウテンギンの高弟大輝霊曜が永享九年七日(月?)開創、二世古山崇永をへて三世が松堂高盛である。六世時より輪番寺(住職を年交代で行う寺)となったが、たまたま輪番僧のいない寛永十四年1637第風雨にあって倒壊、再建できずにいた。長源庵は円通院の弟寺である幡鎌ハタカマ村の大円山最福寺の末寺で寛永元年1624開創され慶長六年伊奈備前守より寺田1石5斗を頂いていた。長源庵山崎というのは寺田村で札所のあった所(円通院の所在地)を山崎といったので、山崎にあった観音堂を合併した長源庵という意味であろう。この合併は大洞院が許可し最福寺の指図によるものであろう。寛永の倒壊後円通院を放置しておくのに忍びず元禄末年に最も近い法類の長源庵に合併することになった。円通院跡にあった観音は長源庵に安置されることになった。
無住、駐車可、御朱印は幡鎌の最福寺で天浜線原田駅より南へ1㎞である。御朱印をもらうのに4回かかった。
・観音堂:製作:元禄年間1688~1703、地獄極楽絵図2枚、
・供養塔:西国三十三所順礼、文政五1822年、
・鰐口:元禄十四1701年巳七月吉日 遠州佐夜郡原谷寺田村 惣順礼奉加 十二番札所 願主道正、円通院跡に観音堂があった頃の作で道正は堂守だろう。
・鐘:天保八1837年八月、
・一石五輪塔:多数、
・達磨絵:二木住職の絵、
~追加
・地蔵堂:地蔵
・石仏12、

☆疑問:寺田村山崎の円通院跡とはどこか?
’16 3/13 寺島の長老:佐次本氏より話が聞けた。寺島という地名自体が、付近の宮ケ島と寺田を合わせて寺島にしたという。宮ケ島は今もあるが、寺田は、現在、掛川グリーンヒルカントリークラブ・ゴルフ場である。寺田の位置はクラブハウスの西100mにある池の周辺辺りである。ゴルフ場の入口近くの低い所である。かつては村だった。昔は本郷にあった城の家臣が住んでいた村だったという。山崎という地名は分からないそうだ。長源庵は円通院の隠居寺だった。
*佐次本氏に感謝いたします。
今の長源庵より西に300~400mである。目立ったルート変更はない。

~~~~~以下では御朱印先の最福寺を紹介する。
☆最福寺、幡鎌312、tel:0537-26-0024 
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺
・石仏多数
・西国秩父坂東供養塔 寛政十二、
・奉納大乗妙典六十六部日本廻國、
・石仏:西国二番 元禄□□年 
寺門前の分岐点にある。
・石道標:表「向 右森 後西山 左大日 宮道 幡鎌青年團」裏「大正九年」
秋葉道の曲がり角にある、幡鎌384⁻1中島宅前、
・石道標:猿田彦神社:ここから北へ300mで神社で、そこを過ぎて北1㎞先の旧県道に至る迄が秋葉街道である。
~~~~~


・経路
JR掛川駅から北へ13㎞、天浜線原田駅から1.2㎞、徒歩20分。
13番へ13㎞、徒歩240分。
長源庵を後にして北上する。新東名高架下に祠がある。
・祠:墓石、木造瓦葺 
旧県道を400m進むと、原田駐在所があり、隣は「10番 蓮華寺」で取り上げた「12番への経路」での県道への合流点である。この附近に石道標2つあるので、上記部分を参照。
途中付近には
・八幡神社
・楠神社
西之谷川に架かる中野橋を渡ると原田小学校前となる。ここで大尾山への道は二手に分かれる。ここからのルートは13番での経路に記載する。
・高山城(杜山城)跡:原田小学校はかつての高山城(杜山城)跡で原氏の居城といい、上の段の地名が残るが、遺構は学校用地として消滅した。


・第十三番 大尾山 顕光寺(掛川市居尻82、いじり) おびさんけんこうじ  
 創建:大同2年807、開基:本郷の長福寿2代智顕上人、伝説:左記の上人が霊夢を見て当地に観音堂を建て千手観音を祀ったのがはじまり、本尊:千手観世音菩薩:榧寄木立像伝行基作、宗派:真言宗、開帳:秘仏・昭和33年‣大祭日3月17日、縁起: 、代々掛川藩の祈祷所として手厚く保護、元亀年間1570~1572、武田氏の兵火により焼失。おびさんは大尾山、大悲山とも書く。おびとは帯のように細長い地形を指すのだろう。
 「掛川誌稿」には「大尾山の西南に当たって大和田の大山の北に元大悲山と呼ぶものあり。何れの時(その名を)今の山に移せしにや、絶えて伝ることなし。」と。大和田は原谷川上流で孕石ハラミイシの下、平島の上の集落である。戦国初期にこの山に入り生活や修行の場にしたものは山伏:修験者であろう。大和田の大山の北に修験者が山々を廻る峰の入口があって、此処を最初おび山と言ったのかもしれない。居尻の「い」は井・水路・川等の意味で、尻は終点を意味し川尻・野尻等と同じで。ここでは原谷川の終点を意味する。
元亀天正の武田徳川の合戦で仏像以外焼失。寛永十年11月1633青山家が掛川城主になると萩間村で観音領5石寄進され、小尾山別当千寿院がその証文を預かっていた。文化六年九月1809太田備後守資言の朱印状に「遠江国佐野郡大悲山観音領 萩間村之内にて高五石之事」とある。萩間村は原谷川上流で居尻の下の村である。
 顕光寺本堂手前500mに駐車場有、ここから登山道参道を距離500m、標高差70m歩く。本堂裏にも駐車可能。観音堂は本堂先距離250m、標高差40m歩く。
・大尾山:標高661m、高山植物の宝庫、
・観音堂:四間四方、方形造り、屋根の上に露盤を置き伏鉢をのせ宝珠をのせる。
・鐘楼
・開山堂:正一位王子坊大権現、
・弘法像2体
・法印墓:元禄十二年、延宝五年、天明元年・三年、延享五年等
・杉:巨木:目通り7m・枝張り10m四方・樹高30m・鳥居杉:県天然記念物:樹齢千年、
・海棠:樹齢100年、四月中旬ピンクの花咲かせる、
・鰐口:県指定文化財:鉄製:径22.4㎝・両端突起短い、表面同心円深い彫、室町期の特色、外輪「奉施入金口遠州飯田庄戸和田郷賀茂宮御奉前 応永十四年丁亥九月 大檀那藤原通国敬白」、内輪「東山四郎左近新寄進 永禄八年丑九月」と刻まれる。この鰐口は最初森町睦実の賀茂神社に奉納されたもので、後、永禄八年1565に東山四郎左近が改めて顕光寺に奉納したものであろう。東山氏は粟が岳の南の東山村の住人であろう。
・金鼓キンコ:陣鉦と陣太鼓:文亀二年1502遠州佐夜郡原田庄大悲山顕光寺常住、今は山名郡浅羽庄八幡村八幡祠にあるという、
・古文書類保存多数、
参考文献以外から直接調べたこと追加
・石階段:見附町講中 大正四乙卯年十二月
・手洗石:文化十酉 
・献燈2:大正十五年 
・地蔵2:第二十九番、第三十番
・燈籠2:
・献灯2:大正
・大尾山顕光寺 大正五  
有住、駐車場有(表参道には数十台分あるが徒歩10分上り坂、寺本堂裏にも数台分あるがこれは家人用で頼めばOKかも、Tel:0537-25-2251
’15 12/20
 

・経路
道のり登山、自動車道で8㎞、最も難コース。自動車で門前まで上れるが山岳ドライブとなる。古道は登山道。
・登山道:古道:居尻からの林道からはずれ登山道入口で標高250m→距離1000m→分岐(左:柚葉:ただし廃道かも?、右:顕光寺駐車場)標高500m→距離200m→顕光寺駐車場で標高550m→距離500m→本堂:標高620m→距離250m→観音堂:標高661m
*大尾山登山道から柚葉への山道は大尾山尾根通し林道に接続しちょうど柚葉への林道にもそこからつながる。そこの林道から登山道を見ると道形はあるが、落ち葉が積もっていて人が歩いた形跡がない。
’16 3/21、居尻集落のどこから正確に古道が付いていて、今の登山道入口(古道)に至ったのか判然としないが、登山道入口より100m戻り1軒手前の居尻643⁻1:佐藤氏宅横に祠と石仏が祀られている。
・祠:・観音:享保十一、・観音::三十番、・地蔵、・観音:割れ破片、・如来:二つ割れ、・庚申:安永□年:見ざる言わざる聞かざる模様、・手洗石、
大尾山は登山道や周辺に石仏等がほぼ見られないが、ここにあったのかという発見だった。すぐ裏は墓地で、しかも車道とは違う歩道が付いている。この歩道を上るとジグザグに巻いている自動車道に出る。その上部の方に登山道入り口があり、周辺の地形から登山道入り口が尾根でこの歩道も下の方の尾根であることが分かる。ということは、今は自動車道がついていて、登山道入り口までは自動車道を歩くのがハイキングコースになっているが、石仏前の細い道は古道の登山道残存部だ。石仏より下の方を見ると、自動車道より下にも切通しが付いている。きっとそれも古道だろう。そのまま下っていくと、左の沢横に出るか、右に行くと人家の敷地を通って自動車道にでるようだ。また石仏の所から上っていくと、登山道入り口となる。初め尾根伝いに切通し道が付いている。野渓化していて水が流れていて歩きにくい。200mほど我慢すると、尾根から外れ水の流れのない道になる。そうして200mほど歩くと、右に石塔がある。
・石道標:左十四ばん (ばではなくそば屋のばで者に似た変体仮名)
右にあって左14番だと向きが逆である。刻字が左でなく右なのか、安置向きを間違えたか、別の意味があるのか、またはこういった石塔がある所には分岐点が多いが、とりたてて分岐道もない。意味不明だが、大尾山顕光寺は13番で次は14番なので、下れば14番方向である。登山道中唯一の石塔である。
300m進むと沢を渡る。そこに木造標識で「八丁」となっている。300m過ぎると木造標識「残り1.4㎞」。更に歩くと木造標識「残り1㎞」に至るが、その中間に登山道から左斜め上に向かう枝道がある。おそらくこれが柚葉に行く林業用登山道だろう。
木造標識「残り1km」にも、登山道から外れ左に向かう枝道がある。この枝道は距離200m、ほぼ等高線平行移動で柚葉への分岐点に至る。またその途中で下方に向かう別の枝道がある。その道がおそらく残り1㎞と1.4㎞の間から分岐する枝道につながるのだろう。さて正式な登山道を上ると石垣が積まれた所がある。登山道を改修して崩れにくくしたようだ。あと100mほどで駐車場に出られる。駐車場に出る所で蛇が日光浴していたが寒くて動けず尻尾の先だけをぴくぴく動かしていた。蛇はさぞ怖かったのだろう。
駐車場の石碑「大尾山顕光寺」の右横に石道標
・石道標:「辺□十六(?三、四)番札所□□八丁 □□□ □□□□二丁」刻字は判読不明、数か所への距離標示と推定。
’15 12/20、そしてこの石道標と石碑の間が古道である。この上50m先に石仏
・如来か観音2:
参道脇の杉檜切り株の切り残しを背もたれにした「切り株の背もたれ付き椅子」がある。10~15分で本堂前に出られる。


JR掛川駅の北25㎞、掛川バス居尻行、居尻下車、徒歩60分。
14番へ居尻経由17㎞、徒歩240分。


~原里高山、原田小学校附近から、原野谷川沿いに居尻に至るルート~
原田小学校からの原野谷川対岸の栃原にある神社仏閣は以下である。
・千勝神社
・持智院(現在、栃原公会堂)
栃原の原野谷川に架かる栃原橋袂付近に石道標がある。
・石道標:御即位紀念 原田青年會栃原支部 北 正道ヲ経テ原泉村ニ通ズ 西 高山ヲ経テ森町ニ通ズ 東 雨櫻村ヲ経テ掛川ニ通ズ 南 桑地ヲ経テ原谷村ニ通ズ 約掛川二里半 原川二里 大尾山三里 森町一里 大正四年、

メインルートに戻り、高山橋で原野谷川を渡り、350m進むと、大門橋があり、子安観音の看板がある。
狭いが大門橋を渡り右折する。
・石仏、石塔
300m狭い道を進む。これが現在の県道以前の旧道と思われる。
・栃原城跡:大門橋から上の方面全体は栃原城と考えられる。大門、横手の地名は城との関連性でとらえられる。
○西林山春昌寺:無住、
・子安観音:
・石塔、五輪塔8:破片含む、地蔵4、観音7、子宝石:多数の丸石、多重之塔、燈籠2、
すぐに急坂を降りると現在の県道に出る。対岸に神社がある。
・関戸神社
現在の県道に沿って奥を目指す。700mで平戸橋に至る。右手に神社がある。
・井口神社
300m進むと平島橋があり、手前にアンパンマン等のキャラクターがある公園が見える。橋を渡らず手前左奥に寺がある。
・蓮乗寺
平島橋を渡り1300m進むと、対岸に神社が見える。
{14番:知漣寺関連。ちなみに平島橋を渡り右(南)の新東名の山斜面に向かっていくと林道七窪線があり、桜木池やねむの木学園のある知漣に出られる。}
・法之脇神社
250m進むと祠がある・
・祠:日正地蔵
この先すぐ右に曲がる切通し道がある。入口に見付けにくいが石道標もある。この道は⒕番:知漣寺への古道のルートでもあり、途中で消滅する。現在は峠下の大和田トンネルをくぐる道に付け替え改修された。{この先、14番:知漣寺で取り上げる}
・石道標:勅語下賜五十年記念 右本郷□□ 左□□掛川道 □□□□□□
切通し道へ曲がらず県道を直進し、大和田橋を渡る。左手奥に寺がある。
・?地蔵:橋の袂、
・良因庵
・中山勘太郎と長屋門 
・体験農場、農村公園、
大和田橋を渡り県道を500m直進すると大野橋に至る。
橋の手前左(北)の土手上に祠がある。この土手道自体が今の県道より古い旧道である。
・祠:馬頭観世音 明治二十六年、
橋を渡った周辺の右側に牧場があり、牛や馬を放牧している。道路沿いにポニーも飼われている。
孕丹橋に到達すると、手前左奥に寺がある。
・円通庵:すでに建物はなく解体された木材が積まれている。四角い墓石一つと、石塔が残っている。寺島の長源庵は円通院の隠居寺だそうだが、この円通院と円通庵は何か関係しているのだろうか。本郷の長福寺が門跡を継ぐそうだ。
・孕石城と孕石氏:円通庵周辺の山城であるが、畑地で変形している。孕石氏は「原氏8代忠益の弟、高忠を祖とする」というが詳らかでない。孕石城城主と推定されるのが孕石氏である。その中で名が知られているのは孕石主水である。彼は今川家家臣で、駿府鷹匠町に屋敷があり、隣には、人質の少年だった竹千代(徳川家康)が住んでいた。竹千代は鷹狩が好きで鷹を飼っていたが、彼の屋敷によく入り込んだため、彼は「三河の子倅コセガレめ」とよく怒ったそうだ。今川家が駿府を出て、武田氏が駿府を支配してからは武田氏に仕えたが、その後徳川が駿府を攻略した。徳川家康は武田氏家臣を雇ったようだが、孕石には、少年の頃のことを話し、今さら三河の子倅なぞに仕えたくなかろうと死を申し付けた。孕石は家康に仕える気はないと豪語して死んでいったそうだ。墓は静岡市駿河区池田の本覚寺にある。
孕丹橋を渡るとT字路で左右に分かれる。左折する。100m進む。孕石天神社看板あり。
右山斜面に祠あり。
・祠:中は空、・庚申供養塔 文久戌年、・地蔵、
左河原に鳥居と紅葉が見える。
・孕石天神社:説明:祭神:天満大神:菅原道真、社殿の土台はさざれ石の大岩盤で、大小さまざまの卵形の礫を含むので孕石と呼ぶ。社殿は天満宮の江戸時代に書かれた扁額が掛かる。堂内部は寛政年間1789~1801に造られた柿葺きの屋根の本殿がある。孕石は掛川市東北部の八高山832m附近を源流とし、南西方向に流れる原野谷川中流域の地名で、この地名は当地域に分布する孕石と呼ばれる礫岩に依る。この礫岩は、新第3紀前期中新世1,800~600万年前の海底に堆積した倉真層郡の基底部を構成し、団結した円礫と砂とで形成され、地質学的には、その地名を冠して孕石礫岩と呼ぶ。円礫は、堆積当時の陸地に分布していた古第3紀や中生代のチャート、砂岩、貢岩などの岩片が河川や浅海の波の力で磨かれてできた。孕石礫岩を構成する礫は、「君が代」に詠まれている小石(さざれいし)に相当する。孕石は太古のさざれいしが1800万年にわたる長い年月(千代八千代)を重ね、互いに結合してできた岩(いわお)とみなすことができる。丸々と愛らしい大小の礫たちは、いわおの中にはぐくまれた胎児を連想させ、孕石の名が生まれたのだろう。
御神体は前庭に露出する孕石礫岩で、子宝を祈念する男女が礫をお守りとして持ち帰るため、御神体の表面は孔だらけになっている。念願かなって子宝に恵まれた夫婦は愛児の写真を携えてお礼参りをする。奉納された稚児の写真は神社内部の壁面を覆い尽くし、訪れる人々を感嘆させ、子宝を祈願する男女を鼓舞している。
紅葉が美しかった。
・紅葉、自然石3、献灯4:破損、
~~~
600m進むと左奥にダムがある。
・原野谷ダム
1400m進むと萩間の左に寺がある。
・昌光庵 
~街道から一旦それるが萩間の真東2.5㎞地点に三角点567.8mのピークがあり八重金山という。萩間の西1.5㎞に三角点507.4mのピークがあり大山という。
200m進むと右に神社がある。
○八幡神社:説明:鎮座地:掛川市萩間604番地、御祭神:ハンダオケノミコト、境内神社祭神:スサノオノミコト、例祭日:10月10日、10月19日、由緒:勧請は翌元和年中に一宮を設け村中挙げ是を氏神となしたと古くより中傳へありしを聞き雨覆社殿等の形となし元禄16年11月再建し、また明和3年再建しなおまた文政10年10月再建された。往古より八幡宮と称せしか由緒を知ることができないが、その脇神伝えありしを慶長検地に記載し、明治7年5月村社と願い許可され上列す。昭和28年10月本殿及び拝殿を新築落成した。
・石鳥居、
・自然石、
・秋葉山常夜燈の祠:中は空:木造瓦葺、
原野谷川の淵
・萩間のしお渕
神社先のカーブ地点に石仏がある。
・耳の神様:耳の神なのでお果たしは穴あきの石を祀る、
・山の神、
1㎞進む。居尻のバス停付近の左に石道標がある。
・石道標:「教育勅語三十年紀念 指導標 黒俣一里 白光山二里 大日山四里
大尾山二十八町 炭焼区二里 掛川五里 森町三里□ 金谷町五里 家山四里 秋葉山十里 原泉村青年團第五支部 楠(?掛)川 大正九年十月三十日」
・石道標:「左大尾山道 昭和二十五年」、
・祠:石仏、 
幾つかの観光施設がある。
・ならここの湯
・居尻キャンプ場
100m進むと左の道に「大尾山」の標識。林道で頂上より300m奥に至る道で、かつての頂上へ直登する道伝いに作られた林道坂角線である。
 ○平川神社:・平川神社常夜燈明治十十十四年、・明治百年記念 昭和四十三年、・自然石2:平たい丸石、穴あき円筒石、・祠:石を祀ってある、・板碑:寄附人と金額、・石鳥居:明治四十三年、・秋葉常夜灯:嘉永五:これは自然石を使いオリジナルないい形や大きさ、デザインをしていて保存価値がある、
 
居尻の県道を更に黒俣めざし進む。
奥之田橋手前、居尻227⁻1杉森宅&作業場に祠がある。
・祠:新:地蔵、・地蔵:天乃 土方□六□□□□、
笠掛集落を過ぎる。この辺りにかつて笠掛の松があったようだ。
・笠掛の松?
かつて新道橋が架かっていた所に橋脚だけが残る。その道端に石仏がある。
・馬頭観音:
源田橋を渡ると右に生活環境保全林と名水の看板がある。
・市民の森:生活環境保全林広場、
・報徳の森(大日本報徳社)、報徳山
黒俣の家が対岸に見えると右のブロック塀に石仏がある。
・馬頭観音:
黒俣、泉の集落に着く。
黒俣集落の西に向かう。
・秋葉常夜燈:黒俣壱番地、・自然石、・石塔:刻字不明、・コウヤマキ:市指保存樹木、・石塔:刻字不明、
黒俣集落を過ぎて八高山方向へ向かう。赤目揃橋を渡ると八高山登山地図看板がある。左折すると神社へ行ける。
・川近神社(昭文社の地図では川辺神社となっているが辺ではなく近である)、説明:掛川市黒俣字北澤400⁻1番地、13級社、川近神社、祭神:誉田別命、牛頭天王、祭事:元日祭1月1日、祇園祭7月14日、例祭10月10,11日、大抜12月29日、本村開闢以来、寛正庚辰1460年7月まで祭神なきを憂うるが故に、村民挙げて文明六1475年2月両神を右の地に奉勤請事なり、寛政七1796年8月再建、嘉永三1851年9月大風のため本社を皮潰し、同年同月再建して往古は川近八幡神社と称せし、明治九年5月許可を得て川近神社と替称す、現在本殿拝殿は今上陛下満50年奉祝記念事業として、昭和51年7月1日上棟、10月11日落成、社務所、今上天皇御在位60年記念事業として昭和62年2月26日上棟4月4日竣工した。昭和63年10月10日 寄付者 鈴木計善 
・石鳥居、
・日向山:この川近神社の北側の裏山は八高山登山コースでもあり、神社より500m北東の494mピークを日向山(日当山、ヒナタヤマ)という。
赤目揃橋に戻り八高山方向へ林道を進む。
途中に神明祠があるようだが、未発見、もしかするともうないのかも。
更に林道を上っていくと
・祠:メガネ地蔵:卒塔婆に七百回忌があった、
この辺りから南を会下段イゲンダンという地名のようだ。「会下段地蔵」という名称がある。さてメガネ地蔵と関連があるのかないのか?もしかすると同一のものなのか?

もう少し上ると五叉路に着く。ここが掛川市と旧金谷町境界線である。ここから八高山登山で白光神社へ行ける。昔はもっと林道を東へ1.5㎞歩いて馬王平に行き、そこから八高山に上ったものですが、こんな手前から上れるルートが開拓されるとは。
ここから林道で大代へ行ける。しかしゲートが閉まっていて大代や八高山へは行けない。徒歩ならOKでしょうが。暗沢林道が黒俣東の尾根通しから大代や萩間へ抜けていける。
’15 12/20~26


~原里高山、原田小学校附近から、西之谷川沿いに久居島、西之谷に至るルート~
 中野橋や原田小学校付近から西之谷川沿いの県道を進む。旭増寺参道手前の左に石仏がある。
・馬頭観音:
・石碑:旭増寺、・石塔、・祠:神社、
2㎞進む。右にある。
・石碑:九泉寺:
600m進む。右にある。
・樋田八幡神社:
650m進む。左にある。
・楠神社:
200m進む。右側にある。
・上島神社
550m進む。右に石仏、左に道祖神がある。
・地蔵:河原田村中 天(文か?)政七 
・家石型道祖神 
道は二手に分岐する。左の林道明ケ島線が大尾山に行く道である。右は林道西之谷線である。まず左の林道明ケ島線を上っていく。
尾根上の上西之谷集落北外れに神社があるらしい。
・神社? 
また先ほどの林道西之谷線から分岐して上る道がありこの林道明ケ島線に接続してくる手前に石仏がある。上西之谷746⁻2草賀氏宅横。
・?馬頭観音
・観音
・?順礼供養:同行 □~~□酉
・台座のみ
このあと大尾山参道や田代柚葉、森町方面への交差点(黒岩山の東の峠)に達する。


~~林道西之谷線
上西之谷の、左の林道明ケ島線(大尾山に行く道)と右の林道西之谷線分岐点に戻る。
右の林道西之谷線を上りだす。60m進む。道左に石道標がある。しかも石道標の左の斜面を上っていく古道まである。
・石道標:「御成婚記念 右原泉村居尻萩間 左大尾山川根 ニ通ズ」「大正十三年一月 原田青年團上西支部」
この上っていく古道は、地図上では先ほどの上西之谷746⁻2草賀氏宅横の石仏前の道に接続していくようだ。
さて林道西之谷線を上っていく。居尻との間の峠に着き、道は居尻に向け下っていく。
この峠には林道大山線が南に分岐している。
ここに石道標がある。
・石道標:「御成婚記念 右萩間 左居尻 ニ通ズ」
林道大山線は萩間には下らないので、周辺を見渡すと、大山線のあるピーク反対側(東側、萩間側)に雑草だらけだが幅1mの帯状平坦地が奥へ続いている。住宅地図にも記載されている。これが萩間への古道:旧道で当たりだろう。雑草だらけで使われていないことは明白だ。古道は静かに朽ち果て徐々に自然に帰り、道だったことさえ嘘にしてしまうかのようだ。男と女の別れの嘘のように。
あと下っていくと居尻の集落内で大尾山登山道:古道入口への道であり、紹介しているのでここで終わる。
’15 12/20~26


・~森町城下からの13番大尾山街道の経路、
参考「森町散策マップ」、「八高山登山コース看板」
 森町城下の秋葉山常夜燈及び地蔵堂が街道起点→延城橋(通称もぐり橋)、現在この橋は存在しないので上流の蔵雲院橋か下流の天森橋を渡る、太田川は桜堤となっていて、数多くの桜による並木が美しい。植樹に熱心なようだ。
・城下の秋葉山常夜灯:説明:町指定文化財、秋葉山常夜灯は、江戸中期に秋葉山信仰が盛んとなり、人々の浄財によって秋葉路の各所に建立され、防災と村中安全の祈願をこめて献灯された。この常夜灯は天保四1833年11月藤江喜十郎が名主の時に福川五良左衛門、戸塚政右衛門らが世話人となり、森町の鋳物師岡野五良左衛門が燭台を作り建立された。覆屋 桁行4.3尺 梁間3.8尺 切妻造、桟瓦葺、袴腰付き、三方金網張り、背面片引板戸、正面破風に蕪懸魚を吊る、妻面は、若葉・渦紋を彫刻した虹梁上に笈形付棟束を立てて斗栱と肘木にて棟木を受ける。
→北へ土手を200m→右折、朝姫明神(阿佐姫塚)
・阿佐姫塚:祠、石塔、石仏、説明:今から400年前、山内山城守通重が天方城主頃、娘に阿佐姫という姫がいた。阿佐姫はふとしたことから婦人病にかかった。阿佐姫は毎日泣き暮らし、侍女たちの慰めの言葉も聴かず、「私は死にます。死んで女性を守ります。二度と女性がこのような病気にならないよう、なってもすぐ直るよう私が守ります。」といって、その夜小刀で自ら命を絶った。侍女たちが泣いて悲しんだが、どうにもならず、城の西、太田川に近い所に葬った。これが阿佐姫塚で、横に阿佐姫大明神として祀った。すると婦人病にかかった女性やかからない女性もお参りするようになり、今なお絶えない。
→塚本氏宅前、杉本氏宅前、浅井氏宅前、800mで蔵雲院からの林道に合流→
○松巌山蔵雲院:曹洞宗:説明:正保四1647年の「蔵雲院門前屋敷諸役免許に関する書状」によると、天方郷18代の地頭山内山城守が、崇信寺5代の助吟和尚を講じて山居に開山したと伝えられる。山門をくぐって階段を上ると正面に本堂が建ち、本堂の背面に位牌堂と開山堂が続き、本堂の東に庫裏が繋がっている。棟札によると、現在の本堂は延享五1748年に上梁を迎え、それから3年後の寛延四年には花島善兵衛によって須弥壇前の前机が奉納されており、この頃には内部の造作も完了していたと考えられる。西側には天方氏の墓と伝えられる五輪法印塔が苔むしている。天方氏三代の墓がある。誰のものか明確ではない。
・天方氏の墓:五輪塔2、丸石:説明:天方城主天方氏の系図、通季ミチスエ:武将であるが和歌連歌に長じ三条西実隆と親しかった――通稙ミチタネ:天方家の菩提寺長泉寺の中興の開基、桶狭間で戦死――通興ミチオキ:今川家に最後まで忠誠を尽くす、一時武田氏に近寄るが最後は徳川家康に服従し参陣する――通綱ミチツナ:徳川家康の上意で家康の養女となった吉良上野介の三女を正室として迎え入れる。通綱は元亀四1573年3月以降、徳川家康の家臣となり、天正七1579年9月家康の嫡男岡崎三郎信康自刃の検使役を仰せつかる。介錯役の服部半蔵が信康の傳役モリヤクで子供の頃からの付き合いであったため介錯できず、通綱がやむなく介錯する。その後高野山に蟄居する。およそ10年後家康の二男福井城主松平結城秀康に1500石で召し抱えられる。通綱は福井城下にて死去、享年73歳。
・石仏7、
→途中、森町清掃センター跡地前通過して1.5㎞で森町-掛川市境尾根の林道、
 ここで一旦、朝姫塚からの古道ルートを再確認する。朝姫塚から軽トラ農道悪路を上ってきて、今は杉本氏宅、浅井氏宅前で蔵雲院前からの道に合流しているが、古い地図では、道はこちらではなく、山際を通り続け、清掃センター跡地に出てやっと今の道と合流するようだ。
・板碑:開道碑 昭和三年 
・石道標:板碑の台座にたてかけられている:表「御即位紀念 右横根沢 左大尾山」裏「久居島青年會」 
尚丁度掛川市と森町境界線で道路地盤が1m陥没していて車での通行不可状態である。’15 12/12
しかし’15 12/20には陥没した道路面は盛土され復元され、たてかけられていた石道標は板碑の向かいに設置されていた。盛土された所はまだロープが張られ通行止めであった。
なぜか冷たい石道標に死んだカマキリがくっついていた。石道標の灰色にカマキリの浅緑色が鮮やかだった。
林道を北へ100m
・祠:馬頭観音、横に台座を縦置きしてある
林道を北へ500m、右(東)に茶畑、石道標がたてかけられている。
・石道標:表「御即位紀念 右久居島 左川根 道」裏「久居島青年會」
 顕光寺住職が「大尾山は森町から金谷までつながる街道」と話していた通り川根の文字が見つかった。
林道を北東へ2㎞、くれこ槫子、市居平への分岐点のすぐ東側に神社があり、市居平へも下って行ける。
・神社

~ここから市居平へ下っていくと
・一平神社?
・祠:石仏5:石塔、観音、奉納大乗妙典壱曲、観音「宝暦五子歳三月 西之谷村□□月□□村」、庚申供養、
さらに下り分岐点があると道標がある。
・石道標:「右久居嶋 左上嶋 道」

さて先ほどのくれこ槫子、市居平への分岐点に戻り、林道を更に北東に2㎞進む。
林道から、掛川市久居島の西之谷から森町亀久保への舗装道路の峠に出る。ここに大尾山参道分岐点の道標がある。
石道標:「大尾山道 見附町講中」:観音堂手前の石階段と同じ講中が建てたものなので大正4年頃か。
大尾山参道の林道を2㎞進むと顕光寺駐車場に出る。
更に林道を先に進めると大尾山山頂直下を北に巻いて尾根通しを進む。林道工事はこの先4㎞地点で工事中らしい。明治23年地図に記入されており、尾根通しを通って大井川の家山大和田に下っていくルートになっている。途中、大尾山山頂や黒俣に分岐するルートもあったようだ。現在、居尻から大尾山山頂を目指すルートは居尻からの林道坂角線に使われていて、山頂より300m奥に繋がっている。
黒俣から大尾山頂尾根通しの道は、現在は林道大尾大日山線でかつては大尾山街道として知られていた。黒俣から山頂尾根に接続する箇所を「大曲り」と称するようだ。(黒俣の八高山登山コース看板より)林道坂角線と山頂尾根通し林道接続点より北東に山頂尾根通し林道大尾大日山線を700m進む。それまで右にピーク斜面が見えていたのが左に変わり、道が右に膨らみ左回りになりかかる所がある。国土地理院地形図で見ると677mピークから東に点線歩道が黒俣まで記入されている。ちょうどこの接続点が大曲りのはずだ。この附近で林道下を探す。林道脇の樹木にピンクテープや赤ペイントがあるのも怪しい。下を見ても歩道らしくないが、下っていくと境界標識やテーピングがあり道らしくなってくる。ジグザグを切ってある箇所もあり、明らかに道である。あまり深入りしたくないので200~300mで引き返す。この箇所が大曲りで当たりだろう。黒俣との途中で531.5mピーク地蔵坊山の北側を巻くルートになっている。地蔵坊山山頂付近は道不明瞭となっている。黒俣から大曲りまで、上り1:30、下り1:20となっている。
国土地理院地形図で見ると、林道この先500mのヘアピン箇所に炭焼明ケ島方向の西からの点線歩道が接続している。更に林道600m先で黒俣の沢沿いから上ってくる点線歩道が東から接続することが分かる。それも確認しに行く。
国土地理院地図には記入がないが、黒俣の登山コース看板に記入されている道がある。大曲りとヘアピンカーブの間の東枝尾根と林道黒俣線を結ぶコースである。上り50分、下り25分。
林道500m進むと確かにコンクリ舗装されたヘアピンカーブがある。その下を覗くと急坂尾根に赤い境界標識が順々にある。おそらくこれだろう。急坂で道らしくないしきつそうな坂だ。下りるのはやめた。登山コース看板にはヘアピンカーブ箇所に○が記入されていて道の接続点であることは確かだ。
更に林道600m進む。右側ピークを過ぎて両側が見える箇所に出る。右(東)に枝尾根が延びていき、そこへ向かって山道が延びていくのが分かる。しばらく歩く。林道がピークの左側を削って作ったため、右側にあった大尾山街道の旧道(古道)が見事に残存している。黒俣に下る道との接続分岐点もはっきりしている。ただしこれと言った標識や石仏は見当たらない。林道黒俣線の出会いより上り40分、下り25分。
林道は工事中で立ち入り禁止なので、これ以上進まず戻る。看板からの情報を記す。
ヘアピンカーブと上記の古道残存部交差点の間の570.6m地点を明ケ島嶺というようだ。
上記古道残存部交差点から林道を北東に進み578mピークを過ぎると「黒俣赤目揃 □541.5m」となる。この先564mピークがあるが、この手前を足久保と呼び、お地蔵さまと記入されている。森町と掛川市境界線の629mピークを過ぎるとキンデンオロシ金兵衛殺しとなっている。キンデンオロシとは何か?金兵衛殺しの伝説があればそれが第一だろうが、でなければよく山の細尾根にあるキンチヂミ、犬戻りを連想させる。地図上でもやや細尾根である。山の急峻な細尾根は犬でも戻りたがったり、キンタマが縮んだりするためという地名である。高塚山738mと風倒峠カザンタオ、風倒カザンタオ山695m辺りで掛川市、森町、旧川根町、旧金谷町の4つの境界線となる。その境界付近より500m~1㎞北の三角点753.5mより真東1.5㎞で前山集落となる。前山で東西に延びる尾根の北側に出て、尾根のすぐ北側の下を上り下りなく東へ1.5㎞平行移動する。そこから尾根は急激に下降し大井川に至り、大和田集落に出て大尾山街道は終わる。林道は家山に向かうようだ。川近神社前の林道はカザンタオを越え家山につながるようだ。

’16 3/20、島田市川根家山小和田の大尾山街道大井川入口を調べたので報告する。
前山から大尾山への古道は崩落していて通過できないと前山住民から言われた。前山から八高山への林道も崩落の為通行止めだった。前山から東への平行移動は軽トラ農道と古道歩道を幾回か交互しながら通過していける。取付き点は家山から前山への八高林道を進み、右に前山集落への分岐点になる。左の八高林道を20m進むと、左に軽トラ農道が分岐している。それに進み、ひたすら上り下りなく、尾根の北側に沿い、東へ等高線平行移動する道を選ぶ。途中から農道ではなく、人ひとりしか通れない山道歩道になるが、それもひたすら尾根北側平行移動を心がける。そうして幾回か歩道と農道を交互して前山から1.5㎞進むと、これ以上平行移動できずに尾根が急激に東に向かい下降する地点に出る。農道は尾根を外れ左に下っていく。尾根から右は茶畑で、その茶畑の左端を外さないよう進み下りていくと、尾根に人工的切通しが見え始める。これが古街道の証拠だ。ここはちょうど茶畑になっている。この下降する辺りから旧川根町方向の家山大和田に向けて古道は下りていく。300mも下っていくと、椎茸の原木が3本歩道脇にあり、鉄条網もかけられている。ここから地面に大井川の川原石が段のように所々積まれるようになる。この川原石が本道の証拠で枝道に入らない目印になる。ここから下は未調査。
○前山集落の遺物
・金属鳥居、・寺院跡地:祠:石仏2、穴あきのお果たし石多数、・神社:祠2、・鈴木家の大杉:高30m、幹周9.8m、樹齢300年、
前山1926⁻1:岡村氏に話をうかがえた。前山から奥への古道は崩壊している。大和田から嫁に来た人たちはいる。

次は大和田オワダからである。家山の大井川鉄道大和田駅近くの集落に八幡神社がある。鳥居の左の茶畑との境目に、大井川の川原石を段々に積み上げてある山道歩道が山奥に続いていく。これが大尾山街道の大井川への終着点であると同時に出発点でもある。川原石を所々段にして敷いてある道は道幅2~4尺:50㎝~1.2mでしっかりした道である。300mほど上った所で未調査。上記の前山からの山道につながるはずである。

’18 3/11(日)午後、再調査、小和田八幡神社前左側から前山手前の舗装路横茶畑までの標高差300mの登山道を上った。中間地点辺りで大木が数本倒れ登山道を崩壊させている。上り側からは赤ペイントで樹木に左(南)への矢印が記入されう回路が分かるようになっている。下り側からはう回路は分かりにくいが、下を見ると登山道が見えるので、そこを目指して下っていけば登山道に出られる。片道:標高差300mで(標高差100mで15~20分として)45~60分か。今回は午後3時近くに上りだし焦っていたので25分だった。帰りの下りは足ががたがただった。登山道小和田の下側半分には丸石段があり、上側半分には見られない。しかし本道がもっとも道幅が広く踏まれているし、下側は丸石段が目印になる。
小和田の遺物
〇堂:手洗石、・新:有縁無縁三界萬霊供養塔、・地蔵:明治九年、・地蔵:首無し、・石塔類破片、・お堂の格子窓に多数の穴あき巾着袋奉納されている
お堂のすぐ下の茶畑で作業していたお年寄りに話を聞けた。「お堂の名前は知らないが、息子の嫁の安産祈願で巾着袋に穴をあけすっぽんと安産できるようにと願いをかけ祀った。」そうだ。’16 3/20、’18 3/11追加。
○八幡神社:・石鳥居:昭和七年、・献燈2:昭和六十二年、・招魂碑、・五輪塔3~4、自然石5~7:破片、・大和田八幡神社境内木:マキ、タブノキ、スギ、ヒノキ、
大和田1562:伊藤氏に話をうかがえた。大尾山や前山へ行く道は山のごつごつした石ではなく、川原の丸みを帯びた石を所々段にして積んであるので枝道との区別がつきやすい。昔は朝3時に出発して秋葉山へ行ったこともある。大日山金剛院辺りでやっと日の出になったものだ。春埜山や光明山へも行った。下の大きい家ではもう亡くなってしまったが、おばあちゃんは森町から歩いて嫁に来た。祝言を一週間も挙げたものだ。’16 3/20、
森 町城下から大和田まで距離約21㎞。標高:大和田144m、前山の西1.5㎞地点の山753m、大尾山661m、森町城下52m、単純に引いて標高差700mだが、幾度もアップダウンするので、この2倍はあろう。
 
これで以上の接続点や街道の報告を終わる。次は黒俣からの出発点である。
黒俣の集落の西、黒俣482番地:鈴木宅横から裏山に取り付く。雑草だらけだが人為的な道の切通しはついている。これが大尾山街道大曲がりにつながる出発点である。
黒俣の沢沿いに大尾山街道に接続する道は沢沿いの泉簡易水道浄水場に行く林道黒俣線を進み、山に取り付くようだ。この林道黒俣線の第2号橋付近に赤目揃滝があり、この附近から八高山への登山口があるようだ。
では黒俣から大代側に出られる巡礼道はどこなのだろうか。
黒俣集落の東端の家、黒俣582番地:杉山直次郎氏宅裏山から始まるようだ。ただし裏山はイノシシが荒らしたうえ、裏山斜面は防災工事でコンクリ舗装され、道の取付きがさっぱり不明。しかし心強い方が道案内してくれた。それが91歳の杉山直次郎氏本人だ。木の自作杖をうまいこと操り急斜面を91歳とは思えない要領よさでひょいひょい上っていく。この杖さばきはどこかで見たことがあるなと思ったのは、きっと田河内の郷土史家:栗島清さんの杖さばきである。きっと山の人たちの杖さばきには一定の型があるのだろう。杖さばきの民俗学的分析ってあるのでしょうか。コンクリ舗装された斜面の左上に出ると人為的切通しの山道が出現する。杉山氏の説明ではこの道は人間用の道で、馬用の馬道はもっと左から上って行って、この上の段になっている平坦地で左から合流するそうだ。昔はお茶やその他日常生活に必要な物を何でも背負って歩いたそうだ。ここで道案内を終えてもらい一人で平坦地の合流点を目指す。道は広く切通しが深い。ただし倒木と雑草で切通しの上を歩くところもあった。10分も歩くと切通しが終わって、キャタピラーカーの重機により地面をえぐり馴らした道になった。ちょうどそこで左からも合流する道があり、これが馬道だ。おそらく下から標高差で約100m。キャタピラーカー重機馴らしの道はもっと上からここまで続いている。おそらくこの上の尾根通しの暗沢(萩間黒俣)林道の日影山からここまで馴らしたのだろう。古道残存部はここまでで、あとは重機馴らしの作業道(このような道は林道より格下の作業道と呼ぶようだ)になったようだ。ここから馬道を下って黒俣集落に戻る。馬道は確かに人道より道幅が広く勾配が緩やかでジグザグをよく切ってある。下りていき集落に近づくと左に沢があり、そこで道型が不明となる。あとは沢の右を適当に下りると黒俣591番地:杉山喜幸氏宅北側でゲートボール場農村広場の手前に出た。
森町から川根まで尾根通しでつながる街道が存在していたのだ。’15 12/20,25,26
*杉山直次郎氏に感謝いたします。



・第十四番 瑞霧山 大雲院内知漣寺(掛川市上垂木、かみだるき) ずいむざんだいうんいんないちれんじ  
 創建:大雲院は天正2年1574、開基:蘭室宋佐和尚:増善寺七世、本尊:聖観世音菩薩、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎、縁起:、今川氏親開基の静岡市の増善寺の末寺、増善寺は遠州高野山石雲院の門派。元真言宗で御嶽山等持院。上記開基者がここに閑居、伽藍を建て曹洞宗に改め大雲院と称した。慶長八年九月1603御朱印17石賜る。「掛川誌稿」にはこの寺の末寺に知漣寺と呼ぶ小寺があり、観音を安置していた。徳川九代将軍家重の代、延享四年三月1747掛川御役所に提出した「遠州佐野郡上垂木村差出帳」には、「観音堂 壱ヶ所 貮間半貮間 かやぶき 但し堂守無御座候ニ付 先年御断申上 地蔵院地中へ引越申候」 大雲院の西を流れる川を垂木川とよび、その上流に桜木という池が山間にある。掛川駅より10㎞、此の池の辺りを知漣とよぶ。おそらくこの辺りにその寺か堂があったのだろう。
本寺の末寺に桜木の知漣寺があり観音が祀られていたが延享四年1747堂守がいなくなったため坂下の地蔵院に移転され、ここで230年間を経過した。この間に安永年間に本寺の大雲院が失火焼失し、関係書類もすべて焼失し知漣寺の盛況を物語るものはすべてなくなった。推定では知漣寺の最盛期は知漣の頃と坂下に移った百余年頃と思われる。昭和50年大雲院境内に観音堂を新築した。
鰯原の小丘の西側を切り取って940坪の広い境内が造られた。
 ・西国三十三観音:山門前、16体、17体、
・六地蔵堂:8地蔵+1、
・本堂
・観音堂
・1300年前の古寺:知漣寺の本尊:文殊菩薩:像は台座に座った座像:すべて瓦作り:水洗いや濡れ布巾で拭くと必ず白い粉を吹く。以来知恵の仏様。
・穴観音菩薩:境内右側石垣、御礼納めは穴あき石、
有住、駐車場有、tel:0537-26-0553

追加
・青面金剛:「右  道」:山門前参道沿い
・地蔵
・大弁財尊天
・稲荷神社
・馬頭観世音菩薩、
・イヌマキ:市指保存樹木、
・多羅葉タラヨウ、モチノキ科:説明:葉の裏を傷つけると黒くなり、文字が書ける。「葉書き」の語源である。8世紀、万葉時代から使われていた。その昔インドでお釈迦様のお経を書いた葉と云われている。大雲寺。
・ギョリュウバイ:檉栁梅:フトモモ科ギョリュウバイ属の常緑低木、桃色の花が美しいため栽培される。ニュージーランドとオーストラリア南東部原産。ギョリュウバイの名はギョリュウに似て葉が小さく、花が梅に似ることから。ギョリュウや梅とは無関係。針葉樹のネズに似るのでネズモドキの別名もある。マオリ語でマヌカとも言う。葉が茶や煎じ薬として利用されてきたことからtea treeともいうが、アロマテラピーで利用されている同名のハーブとは同じフトモモ科であるものの、別種である。そこでこれらを区別するため、ギョリュウバイはNew Zealand teatreeとも呼ばれる。(Wikipedia)
*「檉」テイ、チョウ(チャウ):かわやなぎ、御柳ギョリュウ、御柳科の落葉小喬木、針状で小さい葉が密生し、枝は糸のように下に垂れ、5,6月頃、また秋に淡紅色の房状の花を開く。「檉栁テイリュウ」(新漢和辞典:大修館)
境内に12月末だというのに、小さな可愛らしいピンクの花を咲かせている低木があるので珍しがっていたら、住職の奥さんが花の名前を教えてくれた。また住職は子供の頃、知漣寺跡の観音山に上ったことを話された。当時は礎石があったらしい。

~周辺~
・堂:公文給大菩薩:大雲院より南500m、鰯原、
・六所神社:大雲院より西500m、宮下、
・大日如来堂、大日如来石像、大雲院より北へ600m、東側、
   ’15 12/29


・経路
13番からの道のりの始めは下山込で8㎞。
JR掛川駅の北5㎞、掛川バスねむの木行、馬場下車
15番までは8㎞、徒歩120分。

~周辺の経路にて気になる石造物~
○滝の谷、法泉寺温泉、県道39掛川川根線
集落中心地のバス停前
・石碑:曹渓山法泉寺 昭和四年三月紀元節
・石仏:明治□年 施主中山伯
・石碑:白羽明神 明治壬申歳 九月大吉日 (馬の絵) 

○県道39掛川川根線、上西郷の滝の谷と美人ヶ谷の境辺り、バス停青石前、長間橋手前、長間と法泉寺の分岐、長間には法寿院、長間神社がある。不動明王でも祀っているのか?
・石道標:「□向□□明□王 □原泉□」「滝之谷青年團」
長間には農村総合整備事業(住環境整備)で「ふるさとピア」という遊歩道,広場、公園が整備されている。

○県道39掛川川根線、上記より400m南、山本橋や山本神社への分岐、
・石道標:「御成婚記念 右掛川 左滝之谷 向後石ケ谷五明石工 前倉真村近道」「大正十三年 美人ヶ谷青年」

○県道39掛川川根線、高萩橋手前、上記より300m南
・石道標:「□□□(御成婚?)記念 右滝之谷 向 原泉(里?五明)村 ?石工 後掛川 通」「大正十三年 美人ヶ谷」

○県道39掛川川根線、石畑、西郷小学校手前
・石道標:向テ 真{倉真 原泉}村 左五明ヲ経テ櫻(木) 後掛川町ニ通(ズ)


*昔の知漣寺、地蔵院(①桜木池の周辺、②坂下の地蔵院跡)    
疑問:①坂下以前の知漣寺は桜木池の周辺の元どこにあったのか? 
      知漣のどの辺りかは不明だが、裏山に白山神社と五輪塔破片がある。
   ②坂下の地蔵院に移ったというが、その坂下の場所はどこ? 
     これは地蔵院の跡地が分かっている。
③ その場所を通過する古道はどこ? 
大和田集落の正日地蔵から上りだし、今の大和田トンネル真上の峠越えで知漣に至る。知漣から坂下へも道がある。


・経路
大和田集落の日正地蔵:祠の裏の方の道から上りだすが、この先今のトンネルへ向かう自動車道や新東名高速工事で削られ消失した。しかし今の大和田トンネル出入り口に出てみる。トンネル手前の分岐点に看板や石道標がある。
・石道標:「勅語下賜三十年記(?紀)念 右大尾山ニ通ズ 左大和田ニ通ズ 原泉村青年團第一支部」 
そこの右上の細い道を上っていくと、無人家屋(大和田1001⁻2、かつて周辺は茶畑のようなので茶農家だったようだ)横を通過し、1か所えぐれているところがあり、丸木橋を渡る。更に上っていくと道幅は1mほど確保されていることが分かる。数か所山道が判然としない所もあるが、上へ上へと目指すと明るい峠らしきに到達する。徒歩5~10分。ここから先は美人ヶ谷林道で周辺がえぐられている。その右上2mの段に石仏がある。
・馬頭観音:刻字不明
・看板:桜木観光協会、掛川市:横倒し、おそらく1960年代頃のものだろう。歩いて観光するコースだったのか。桜木に通じているメインコースだった証拠だろう。
ここで峠から標高差50mを下りていき下の沢沿いの林道に行ける山道がかつてはあったのだろう。しかし今どう見ても山道らしきは発見できない。完全に消失したようだ。林道脇から下の沢目指し道ではない急斜面を這い下りていく。手袋や靴は泥、草の実だらけで、痛めていた左膝をまた痛めた。下りきり沢に出ると林道終点地がある。1.5㎞林道を南下していくと、きれいな一軒家と清潔で美しいねむの木美術館みどりの森がある。これまで草木まみれで野生のようだったのが、急に文明に触れたような気がした。
この美術館の裏手と美人ヶ谷林道は坂道で繋がっている。
~では一旦先ほどの峠の馬頭観音の所から話を戻す。観音前から南へ向かう尾根通しの道は現在、美人ヶ谷林道というが、昔は大和田街道と言ったようだ。多分大和田の正日地蔵前から美人ヶ谷や石ケ谷までを大和田街道というのだろう。
峠から林道を南に1.6㎞進むと、高電圧鉄塔のすぐ横を通過する。鉄塔の土台部分をコンクリートで固めるため直近の林道路面全体もコンクリ舗装にされている所がある。ここから南に100m進むと電線巡視路の黄色い標識(16,17)で登山道が右(西)に分岐していくのが分かる。道幅は約半間:3尺:90㎝ある。ここに昔馬頭観音があったようだが、存在しない。私のあて推量だが、美人ヶ谷林道を南に下りきった西向き地蔵上り口のある交差点に設置されている石道標「右原泉村ニ通ズ 左雨櫻村知漣ニ通ズ 石ケ谷青年團」は、かつてこの分岐点にあったのではないかと勝手に思っている。
初めは西への枝尾根に沿って平坦だが沢に沿って下りだすと、1か所道が崩落しているが、徒歩通過可能出し、いたるところに目印があり、迷うことはない。上り、下りとも徒歩10分で下の平地、ねむの木美術館みどりの森の手前の、これまた電線巡視路の黄色い標識の所に出る。ここから自動車道を知漣に向かえば、観音山;知漣寺跡に行ける。
桜木池方面へ500m進むと駐車場と神社、美術館どんぐりだ。
○熊野神社:
・木鳥居:今時珍しい、・秋葉灯 文政□巳年、・祠:地蔵、五輪塔破片2、・手洗石、
400m進むと桜木池に出る。知漣集落とねむの木学園の建物群だ。
・桜木池:ため池
・ねむの木村:創立者:女優:宮城まり子、97年浜岡町(御前崎市)より掛川市知漣に移転、肢体不自由児施設、身体障碍者施設、特別支援学校、3軒のこどもの店、喫茶店、美術館2つ、文学館、他に職員宿舎等もあり、一つの村のようだ。
・ねむの木こども美術館(どんぐり、ねむの木みどりの中)
・吉行淳之介文学館:宮城まり子の恋人、淳之介には別に正妻がいた、
知漣地区や掛川市はいかに障碍者と共生していくかが問われているのだろう。
・白山神社:・金属鳥居 平成26年、・手洗石:奉納嘉永、・五輪塔破片3、
・宮:祠:鳥居、五輪塔破片
これら五輪塔破片が知漣寺と関連があるか不明だが、古い墓石がかつてあったことは分かる。
かつての知漣寺の位置について、掛川市遊歩会の鈴木様よりコメントが届いていた。それによると、知漣の159m三角点所在地の観音山の山頂だとのこと。坂下の地蔵院の尾根を北上した地点でもあるそうだ。それは知漣と坂下を結ぶ2本の道路に挟まれた山である。山頂は平坦地で椎の大木の下に祠:石仏らしきがある。
また遠州33観音、4番の春林院が一時期、知漣の奥の山中にあったそうだ。山中には熊野神社があった所だ。山中地区の寺屋敷という所だそうだ。
*掛川市遊歩会の鈴木様、貴重なコメントをありがとうございました。とても感謝しています。
知漣寺跡は観音山△159mであるが、上り口は知漣から坂下へ向かう2本の道の内、西側道である。西側道へ入って50m上ると南の山斜面に上り口がある。12月末だったのでこんな標識があった。「←初日の出会(知漣寺跡地)観音山」 これはまた何というおあつらえ向きな趣向か。登山道は草刈りや道直しをしたばかりでロープまで張られていて、まったくもって迷う心配なく10分ほどで頂上だった。頂上には国土地理院四等三角点が鎮座していたが、大雲院住職が話していた礎石らしきや、頂いたコメントでの椎の木の根元の祠:石仏らしきといったものは皆無だった。頂上は草地だが草刈りされ掛川市街が一望できる展望抜群である。初日の出を見るにも絶好の場所だろう。’15 12/29

~蛇足だが、山中の寺屋敷の春林院跡地を見付けに行く。地元の古老に聞くと平島へ行く林道七窪線への標識通り曲がって進み、再度平島への標識があるので、それに従い進み、300~500mすると道の左側に昔は茶畑だったが今は植林された平地がある。そこが寺屋敷だそうだ。
桜木池から山中をめざし進むと、平島へ曲がる標識が見える。橋を渡り右折し林道七窪線を進む。600m進むと道がY字路で分かれる所に、左平島への標識がある。200m沢を右に見つつ進むと、左斜面がスロープ状平坦地と狭いが全くの平坦地の2か所(植林地)が続いている所がある。ここが寺屋敷:春林院跡地で間違いなさそうだ。植林地内の平坦地を見ても礎石等の痕跡は見当たらない。植林される前は茶畑だったので、開墾され切ってしまったとみられる。更に林道を進むと沢がすぐに左になり、400m進むと峠に達する。ここに地蔵が祀られている。そして道はまるで別世界のような2車線の舗装道路となり、新東名高速の高架下をくぐってすぐに平島の県道に出る。’15 12/29 
~ちなみに寺屋敷の右(東)に見えた沢の上の方の山を高盛山というらしく、その山頂や尾根上に曲輪を設けているのが高盛山城のようだ。山城の西麓にあるのが春林院といえる。城主は原氏の関係と推定される。

~話がまた戻って悪いが、大和田街道(林道美人ヶ谷線)の続きがある。先ほど電線巡視路でねむの木美術館みどりの中に通じる道を紹介した。今度は林道美人ヶ谷線から美術館に下りずに林道を通って南を目指す。それが大和田街道の本筋のようだ。林道は尾根のピークを外しつつなるべく平坦に道を付けているので、ピーク上に旧道(古道)切通しが時々残存している。100m南に進むと道は左右に分岐するが本道は左というか、それが尾根通し道であることは分かる。右の道は谷越えのようにしてこちらにつながっているからであるが、谷越えというより枝尾根から本尾根に接続している。この右の林道は上垂木坂下と上西郷石ケ谷の境界尾根を通っている。更に南に500m進む。それまで樹林帯の暗い道だったのが、茶畑の明るい道になる。ここに標識と石道標があり、道が直進と左折に分岐する。
・標識:大和田街道、石ケ谷辻
・石道標:「御成婚記(紀)念 向 右石ケ谷 左美人ヶ谷掛川日□ 後原泉村」「大正十三年 美人ヶ谷青(年)」
500m右石ケ谷へ直進する。山道から平坦な道になり住宅街に入った。ここに石道標がある。
・石道標:「右原泉村ニ通ズ 左雨櫻村知漣ニ通ズ 石ケ谷青年團」
 この石道標について先ほどの電線巡視路でねむの木美術館みどりの中に下りる分岐点に似つかわしいと書いたものである。数十年前この場所にこの石道標はなかったはずで、多分見間違いでなければ、大和田街道石ケ谷辻より200m北の一軒の建物がある辺りに置かれていた物のような気がする。かなり移転されている物ではなかろうか。この左は石ケ谷の奥で山越えすると坂下や知漣に行けるが、街道としてあったのか。
・奇形な巨石群:ちなみに石ケ谷の奥には兵藤庄右衛門「遠江古跡(蹟)図絵」でも取り上げられている奇形な巨石がある。この巨石があるから地名が石ケ谷だそうだ。
石道標のすぐ左(東)にも新しい石道標がある。
・石道標:西向地蔵尊道 
丘を50m上ると集落が一望できる尾根先端部に出る。地蔵堂がある。中には石仏が祀られているようだ。
地蔵堂の道は尾根先端部の尾根道で、先ほどの石ケ谷辻も尾根上だったので、昔は石ケ谷辻からこの地蔵堂前に古道はつながっていたのではなかろうか。
地蔵堂のさらに先端に神社がある。
・稲荷大明神:
ここから南へ300mで県道赤根金谷線に出られて15番をめざせるが、この稲荷から左折(東)して200m進むと、石ケ谷辻から下りてきた道と交差する所に石道標がある。
・石道標:上西郷美人ヶ谷3995⁻3:「御成婚記念 右滝之谷 左石ケ谷 後掛川 前原泉村 至ル」「大正十三年 美人ヶ谷青年」
さらに東へ50mで左に神社がある。
・山本神社:
更に100m東に行くと県道掛川川根線と交差する。変形した交差点で50m北の交差点向うに石道標がある。
○県道39掛川川根線、山本橋や山本神社への分岐、
・石道標:「御成婚記念 右掛川 左滝之谷 向後石ケ谷五明石工 前倉真村近道」「大正十三年 美人ヶ谷青年」
ここで右折(南)して五社神社方向へ行く。
○県道39掛川川根線、高萩橋手前、上記より300m南
・石道標:「□□□(御成婚?)記念 右滝之谷 向 原泉(里?五明)村 ?石工 後掛川 通」「大正十三年 美人ヶ谷」


・地蔵院跡
知漣から坂下の地蔵院跡を目指す。道は2方あるが、東回りが正規で古いコースだろう。まあどちらから行ってもさして変わらない。上垂木2584木下宅と2635番地:堀田宅の間の裏山というべきだろう。この附近に青山氏が立てた新道標:ここより青山荘へ1町が目印で、ここから裏山を上る。すぐに墓石のある日当たりの良い尾根に出る。墓石が少しある。これが地蔵院跡地である。この尾根は草木一杯で歩けそうもないが尾根を北上すると先の知漣寺跡地の観音山山頂△159mに出るようだ。
・墓石:なかには明治36年や大正13年「福寿院」等の墓石がある。’15 12/26 


~ここから15番へ行く。
東の五明への道を通る。グニャグニャと曲がりくねる茶畑の間を通る道である。県道赤根金谷線を進む。
・小高神社:
・祠:、
県道赤根金谷線を進む。五明から石ケ谷に出ると右(南)が平坦地の構江地区で開ける。平野部の中、倉真川のすぐ横に小高い丘が見える。この丘は古墳、砦跡、寺院跡である。歴史好きが泣いて喜びそうな場所である。
丘の南東部、倉真川沿いに広場があり出入口だ。説明版や附近案内図もあり歴史散策がたっぷりできる。附属地図でもここを通過するルートが記入されているように、かつての古道のようだ。
倉真川対岸の構江地区にも遺跡はあり、それらも含めて一括提示する。

○平塚山:上西郷2369:
・平塚古墳:江戸期後期の「掛川誌稿」に古鏡が掘り出されることを記している。現在の調査結果から円墳ではなく方墳の可能性が示唆されている。横穴式石室で6世紀後期築造とされる。地域有力な家族墓と考えられる。頂上付近には扁平な巨石の横穴式石室が見られる。1500年ほど前に倉真川流域に勢力を持っていた、豪族の首長の墓が1956年発掘された。墓は横穴式円墳で、直径約30m、高さ約5m、羨道と玄室の石組が現存している。出土品は直刀2、小刀2、鉾1、勾玉首飾、土師器、須恵器等の遺物がある。
・平塚砦跡:かつては西郷氏館跡とも推定されたようだが砦ということらしい。
・碧岳山観音寺跡地:説明版:廃・碧岳山観音寺、曹洞宗法泉寺末、本尊:聖観世音菩薩、本尊聖観音は行基作と云われ、開創は南北朝時代、天台宗の寺院として一寧一山国師によって開創された。永正十五年、法泉寺三世宗建和尚が中興の祖として、曹洞宗に改宗したが、昭和四十年頃廃寺となった。石ケ谷氏、西郷氏の菩提寺である。境内には徳川二代将軍秀忠の祖父母の墓、一寧一山国師の多宝塔がある。また遠江三十三番札所にもなっている。*(遠江三十三番札所ということの真偽経緯については検討が必要である。)
遠江國佐野郡上西郷村碧岳山観音寺。一、市山国師開基の地年代深遠歟中頃より、曹洞宗通幻派下盛庵和尚中興にて、百五拾余年に罷り成り候事。一、観音は行基の作、遠江三拾三番の札所にて諸国より札を納むる者数多御座候これに依り、昔は大分に観音領付け来り候へ共、信玄発向の砌り度々軍場に罷り成り、古証文を焼失仕り、只今四石御座候事。一、西郷殿御先祖の菩提所にて、台徳院様、御□様、御親父□塚五郎大夫殿、御位牌石塔今にこれあり、兼て石谷十蔵殿先祖の菩提所これにより十蔵殿委状下され候。一、寺内拾町余、此の内山林竹木莫大に御座候事。一、観音堂六間四面、寺作六間九間、庫裏五間七間、惣門これある事。右の通り少しも偽り無く御座候。もし偽り御座候ば曲事仰せ付けらる可く候。何様にも今度御朱印頂戴仕り候様に、仰ぎ奉り候。慶安貮年丑六月三日 観音寺 順太 寺社奉行所 
・一寧一山国師の多宝塔:中国より日本に渡来した元の禅僧で、鎌倉建長寺、京都南禅寺の住職をした人、後宇多上皇により、鎌倉より京都に招かれ、禅宗の中心となった高僧である。師はまた文化人で、儒学・朱子学・小説・書道の門弟を沢山養成した。次にある夢窓国師もその中の一人であった。この廃・観音寺の開基として、門弟の夢窓国師と村櫛の斉藤越前守の奥方が、一寧一山国師の三十三回忌に当り、供養された多宝塔と云われている。
・斎宮祠(イツキ様):この西郷斎宮という小祠については、里の人々は、昔西郷の局の居宅跡と伝えている。また昭和の初めまで里人に祟りをするのは、「近頃祭祀を怠っていたためだ。」と風説がとんでいた。確かなことは不明だが、古記録や文献によると、伊勢神宮つまり、神明宮の斎宮の系統とは思われず、加茂神社の連関の祭祀者か、あるいは西郷氏の屋敷神、または西郷氏に連なる人の称号が残り、いつしか斎神と云われるようになったのではないかと思われる。
この斎宮様は地域の人々の口伝や掛川誌稿その他の文献により、「西郷斎宮故宅」の屋敷跡にあった屋敷神である。戸塚五郎大夫忠春の娘として生まれたお愛の方は徳川家康に召されて側室となった。天正7年4月7日家康の第3子の長丸君(秀忠)を産むと、西郷の局となり、その頃に戴いた屋敷と云われる。斎宮様をなぜ祀ったかは分からないが、色々の文献には西郷斎宮故宅と書かれている。当屋敷は殿屋敷とも構えとも呼ばれ、周辺には圖書屋敷、東門、三日月堀等の古地名が残っている。不思議なことに昔から葬列はこの前を通ると祟りがあり災難があると怖れられて、現在に至るも葬儀は前を通らない。これは西郷屋敷や斎宮が土地の人々から尊敬され、不浄なものは避けて通った名残と思われる。この習慣は現在においても受け継がれ、なお毎月6日には月祀りの御念仏が、また9月23日には年祀りとして読経供養が区民により執り行われている。附近には若宮様、八幡様の宮跡が点在している。
・石ケ谷氏と九曜紋、および霊栄大明神:石ケ谷氏は遠祖を藤原氏とし、維遠の時、二階堂氏、行清の時に西郷氏、政清の時に石ケ谷氏と改姓した。二階堂行清は西郷で生まれ、西郷氏と改め、西郷の郷士18氏の長として今川氏に仕えた。政清は子の政信・清定と共に、永禄十一1568年初めて徳川家康に仕えた。戸塚五郎大夫忠春は、この郷士の中の一人であった。戸塚忠春の娘、於愛(西郷局・宝台院)が、のちに家康の子二代将軍秀忠を生み、駿河で没すると、後に宝台院として祀られるに至った。西郷政清は徳川家をはばかって、住居地石ケ谷の地名を取り、初めて石ケ谷氏が誕生したのである。また土地に奇石があり、九個あったことから家紋を九曜星とした。土地の人々はこれを呼んで「名字石」と言い伝えた。そして石ケ谷氏の一族は家康の配下となって三河に移り、さらに家康が江戸に入府すると共に、政清の子は多摩郡(狛江市)において、政清は200石、清定は250石を賜った。現在構江の中島にある霊栄大明神を祭祀する石田家は、石ケ谷氏一族の末裔か一党の一員であり、石田正人家には、石ケ谷系図が保存されている。
・石ケ谷氏の著名な業績:清定の長男清年は文禄元1592年豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、家康に従い熊本の名護城に出陣その地で死去する。清定の三男石ケ谷十蔵貞清は独立して大阪の陣・島原の乱に従軍し、上総(東京)・相模(神奈川県)・甲斐(山梨県)等に知行1500石を賜った。慶安四年6月江戸町奉行に着任、大坂の陣で失業した浪人(失業武士)対策に苦難をなめた。その時あった事件が「慶安の変」と云われる由井正雪と丸橋中弥の陰謀事件であった。
・西郷の局(於愛の方・宝台院)生誕の地:徳川二位代将軍秀忠公の御生母で、実父は遠州掛川在、戸塚に住した郷士、戸塚五郎太夫(この説明書きには太夫に点がついているが,他の物では点のないものがあり、どちらが正しいのか、あるいは両方とも通用していたのか、不明)忠春、実母は三河五本松城主、西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁いだ。天文23年戸塚五郎太夫忠春は大森の戦で戦死した。その後於愛の母はやむをえず於愛を連れて、服部平太夫正尚に再嫁したが、於愛もまた外祖父、西郷正勝の嫡男、西郷義勝に嫁ぎ二児をもうけた。しかし元亀2年3月4日夫の義勝が竹広の戦で戦死したので伯父西郷清員キヨカズの養女となった。その後浜松城に出仕して家康の目にとまり側室となる。家康と西郷の局の子は、二代将軍秀忠公 天正7年4月4日生、尾張藩主忠吉公 天正8年9月7日生、天正17年5月19日西郷の局38歳にて駿府城内で病死する。法名:宝台院殿松誉貞樹大姉、駿府龍泉寺に葬られる。秀忠公二代将軍になると勅許を得て、従一位一品大夫人を送る。龍泉寺、西郷局の法名を取り、寺名を宝台院と改め、300石の寺領を与えられる。
西郷の局は幼名をお愛と言い、父の戸塚五郎太夫忠春、母おさい(おさだ)の娘として構江屋敷に生まれた。当地は構江段と言い、斎宮を中心に北西に弓矢八幡宮、南東に若宮八幡宮を祀っている。土塁・堀を巡らせ東門、三日月堀、殿屋敷と伝えられる。戸塚五郎太夫忠春は今川氏に仕えた西郷18士の一人で、構江に住んだ人だ。天文23年忠春は大森の戦で討死し、おさいは服部平太夫と再婚して殿屋敷に住んだ。
秀忠は浜松城下で生まれ、産湯の井が遠州鉄道の第一通り駅か遠州病院前駅付近にあったと思う。西郷の局の墓(供養塔?)は静岡市葵区宝台院にあるが、東京にもあると思う。天竜寺か芝僧上寺かと思う。
・戸塚五郎太夫忠春五輪塔:徳川二代将軍秀忠の生母、於愛の方(西郷局・宝台院)の実父。もと西郷の戸塚に住したが、後に館を構江に移した。この地方の豪族で足利義晴に仕えていたが、大森の戦で戦死した。戸塚五郎太夫に関する記録は少ないが、しかし五郎太夫の先妻の子が二人あり、兄を四郎左衛門忠家と言い、初めは今川家につかえていたが、後に家康の旗本になり武州忍城の城代となる。その子作右衛門忠光の時、1500石に加増され、子孫は代々家督を継いでいる。また弟は仏門に入り、心翁と称し、西郷法泉寺の七世住職、後に江戸天竜寺中興開山となる。また後妻との間にできた於愛は家康の側室となり、死後に従一位一品大夫人を贈られた。天龍寺にある位牌。江戸天竜寺開基、戸塚五郎大夫忠春、法名西月友船大禅定門、同 開基西郷の局、法名宝台院殿一品大夫人松誉貞樹大姉、同 開山春屋宗能大和尚 法名春屋上宗下能老和尚大禅師
・西郷の局の従姉妹イトコ 於国の墓と文書:於国は忠春の妹の子で、若い頃は紀州公の乳母として仕えた。晩年は故郷西郷村の構江に帰り、戦死した忠春の故宅、西郷屋敷の留守番をしていた。寛永16年1639から正保2年1645までの於国の文書が戸塚家に3通残っている。この文書によって、西郷の局・戸塚五郎太夫忠春、その妹の子於国の関係が証明できる。また戸塚家(西郷家)に対し、氏神として五社大明神・弓箭ユミヤ八幡宮の両神社、位牌所としては曹渓山法泉寺であることが文書によって理解される。
(於国の文書)先祖覚一通 寛永16年1639、覚一通 寛永17年1640、一通 正保2年1645、
地方史研究会有志及び構江の有志をもってこの遺跡案内・同絵図を建立する。昭和63年10月 共賛 地方史研究会 郷土史研究会 構江老人会 建立発起人 石田広太郎 記載責任者 増田忠美 平成22年11月 修復 平塚古墳保存会 
・図書・図書下の地名あり:服部平太夫正尚の弟、青山図書介は一万石を賜り、江戸詰めとなり幕府の要職についた。青山図書介の若い時の屋敷跡とみられる
法泉寺七世心翁永伝和尚は忠春の次男で徳川家康が江戸城鎮護の裏鬼門に10万石の格式を与えられ、西郷の局、父忠春を中興の開基として、牛込に法泉寺を開き、後、天龍寺と改名され現存している。お愛が浜松城に家康の側室として出仕した頃、五社大明神を城内に祀りたいと申し出て、許されて五社様を分神することになり、当日真夜、たいまつの灯が町まで連なったと、古老たちの間に語り継がれる。
○観音寺跡地:構江遊園地:
・旧観音寺石塔:掛川市指定文化財:貞和二(示へんに異:ねん年の代わり)の銘がある
所在地:上西郷2393、所有者:法泉寺、この石塔は宝篋印塔の相輪ソウリン・屋蓋オクガイと、五輪塔の水輪スイリン・地輪チリンを組み合わせたものだ。相輪の高さ41㎝、屋蓋の幅62.5㎝、高さ36.5㎝、水輪の径31.5㎝、高さ23㎝、地輪の幅37㎝、高さ30㎝、地輪に刻まれた銘文には、貞和二年1346の年号があり、年号が刻まれた石塔としては市内最古で歴史的資料価値が高い。、また屋蓋の形から14世紀初め頃のものと思われ、掛川市の中世史研究の上で欠かせない貴重な文化財。
銘文:願瞻祀斯塔者 永消滅於罪垢 乃至法界含生 同圓種智者也 以口歳在丙戌 貞和二(示異)朱□[明?] 壬戌 菩薩戒 尼明心
願わくば斯の塔を瞻祀センシするは 永く罪垢ザイクを消滅し ないし法界の含生ガンセイも 同じく種智シュチをえんずる者であることを □歳は丙戌ヒノエイヌに在る 貞和二年 壬戌ミズノエイヌを以て 菩薩戒 尼明心 

・比丘尼石、・観音寺碑、・庚申堂跡地、観音寺地蔵、・石ケ谷氏墓、・一寧一山国師供養塔、・於国の墓、・戸塚五郎太夫の五輪塔と墓、・下馬の地蔵、
・平塚地蔵:
・祠:庚申、この地区では庚申講が復活して活動中だそうだ。とても珍しいことだ。
・耳地蔵:お果たしは穴あきの石、
・十王石像7:元農協JA西郷支所の西裏、旧原泉街道沿いにあった佐藤栄太郎(南様)さんが造立したもので、西郷派出所の裏には今でも「十王前」の地名が残り、掛川市にはこの七体の十王像しか残っていないようだ。十王様は平安末期中国より日本に伝わり、鎌倉時代に大流行した道教の思想が入った仏教の教えだ。人は死ぬと十王の前で裁かれて善行を行った者は極楽へ、罪深いものは地獄へ落ちると云われる。十王は閻魔大王を初めとして泰広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王の十像だ。

以下は遺跡案内図記載の物だが、現状見つけられないものが多い。ただ記載してあることで、跡地であることは分かりやすい。よくこれだけの遺跡案内図を掲示できたものだ。すばらしいことだ。
・平等寺跡地、・三左衛門屋敷、・郷倉跡地、・五本松、・左衛門屋敷跡、・金山様、・如来堂、・弓箭ユミヤ八幡宮祠、・於国の家、・斎宮イツキ、・庚申堂、・図書屋敷跡、・中島学校、・医者屋敷跡、・若宮様跡、・中島の平八屋敷、・石ケ谷氏霊栄大明神、・万四郎屋敷跡地、・雲古庵跡地、・西郷氏殿屋敷跡:、・一の鳥居、・三日月堀、・乾いぬい渕、・比丘尼河原、
・一号墳~八号墳跡はほとんどわからない:1961年発掘、五号塚の下より素焼きのとっくりと杯があった出陣式との言い伝えがある。土地改良で取り壊し。
・旧原泉街道

○県道39掛川川根線、石畑、西郷小学校手前
・石道標:向テ 真{倉真 原泉}村 左五明ヲ経テ櫻(木) 後掛川町ニ通(ズ)

石畑の交差点に出る。ここから東の倉真と初馬の境界線になっている低い山を越えることになる。いくつかのルートが考えられる。①境界線山を北側から上っていく。②境界線尾根をたどる。③尾根の南に取り付き次第に尾根にはまっていく。
① 五社神社の北側を直進(東)していく。
・五社神社:
山裾をめぐる方が古道:アカミチ、アカセンミチに近いかもしれない。
・牛岡神社
倉真一区牛丸422岡田宅で右折する。神社を目指す。
・報徳神社:・薪を背負った二宮尊徳像、・手洗石:コンクリ、・蔵:コンクリ、・石鳥居:平成七年、・献灯2:昭和四十一年、・狛犬2、・石碑、・板碑3:「岡田無息軒碑 明治二十三年」、「大正七年」、報徳神社の本殿はコンクリ製で古めかしい神社の屋根みたいな形だ。
・星ヶ丘神社:「神石之銘 明治六年出現~~~」
☆疑問:神石は明治6年出現したそうで、神社名が星ヶ丘という現代風な名前は珍しいだろうし、考えると、それって隕石ですか?と言いたいのですが、近所の方は知らないようです。
当神社は文部大臣や報徳運動推進者として知られた岡田一族の屋敷だったそうだ。周辺住宅の多くは岡田姓だ。
・岡田佐平次(祖父)、良一郎(父)、良平(兄):文部大臣、一木喜徳郎(弟):天皇機関説の美濃部達吉の師、
② 五社神社や西郷幼稚園、西郷小学校の東側の裏山の尾根には道がある。五社神社側からも上れるようだが、小学校南側から山に取り付ける。子供の森展望台の標識がある。尾根に上がると子供用の遊び場になっている。尾根を東に進める道がある。途中五社神社へ左分岐するが、東に進む。岡田山方向となっている。岡田一族の裏山だから岡田山なのか。南の下池から北の牛岡神社へ抜ける農道が尾根を分断する所で一旦終わり。おそらくかつては尾根通しをずっと東に歩けたことでしょう。
この尾根道は古道かもしれない。標識等は2011年、西郷小学校4年生が取り付けたもののようだ。
③ 子供の森の南裾から下池を通過していけるがこれまた牧場で行き止まりで、結局先ほどの牛岡神社へ抜けていく道へ進むしかない。まあ昔はここから尾根を進めたのでしょう。

まあなんだかんだで結局①コースを取ることになり、牛岡神社から報徳神社に行くことになる。
報徳神社で道なりに東南方向へ進むようにする。途中いろいろな岡田家の墓地を通り倉真と初馬の境界線の道(東西に延びる山の尾根)を通過する。途中で公共基準点なんてものを通過する。
・公共基準点:
少なくとも私有地ではなさそうだ。ということは昔のアカミチ、アカセンミチでしょうか。その後、踏み跡はあるし、切通しが残っているし、植生が違う(倉真側は樹木がなく雑草と笹だらけ、初馬側は樹木)ので、その境目を横目に見つつ歩きやすい所を通過する。熊笹や雑草、枝葉をかいくぐって進む。既に人が通れる道ではない。境界線が南下する所で確かに切通しも南下していく。高電圧鉄塔があり、下に梅の谷池が見える所に出る。そのまま枝尾根を直進すると茶畑と岩井ミチ宅:初馬長老塚1406の境のコンクリ壁の横に石塔がある。
・石塔:「奉納経 四國西國当國供養塔 □□七寅二月」
江戸時代後期で寅年の七年を探すと、①1854安政元年で嘉永六年の翌年、年度途中で元号の改元はありえるので嘉永七年かも、②1770明和七年、③1722享保七年、④1710宝永七年の以上がある。そのこと以上に重要と思えることはここがやっぱり巡礼道だろうということです。当国奉納経は遠江三十三所観音霊場を廻ったという意味でしょう。それがこんな茶畑の山にあるのは変なので、ここが道だった証拠でしょう。ただこういう物がある所は交差点になりやすいので、もうちょっと上の方の分岐点になる所から移転したのかなと思う。
尚ここから下の長老塚を通過して平野に出て今の道に出ることにしますが、昔はこの山斜面途中から下の平野に出ないで、中腹を歩ける道があったと推定します。次の15番:文殊寺は中腹にあり、中腹のまま歩けると近道で楽です。おそらく池の北の若宮権現付近を突っ切り、殿谷の新興住宅団地を通って文殊寺に行くと最短かつ上り下りなしです。
一応今の道の長老塚の道路を下る。ただしこの道は汚すぎて車で入るべからずです。Uターン不能で道幅はギリギリです。
・長老塚:昭和四十九年、
☆疑問:長老塚の碑文は昭和49年ですが、いつ頃から祀られているのでしょうか?
長老塚を下って、広い道に出たら左折(東)へ400m進むと橋がある。寺山橋で左折し北へ向かう。200m進むと左右に分岐する。右に15番:文殊寺が見える。


~周辺紹介~
・石ケ谷城趾:
・美人ヶ谷城址:30年ほど前に上ったとき、堀切や平坦な曲輪がみられた。
・お不動様:
・二階堂観音:

~大和田の峠への林道美人ケ谷線~
大和田の峠、馬頭観音前の林道は林道美人ヶ谷線といって、美人ヶ谷や石ケ谷から上って行ける。

~孕石、丹間~大和田トンネル
丹間から大和田トンネルを目指すのは新道のようだ。途中に祠がある。
・祠:山之神日本坊大権現 昭和61年10月吉日、・丸石:自然石、


・第十五番 五台山 文殊寺内浄円寺(掛川市初馬2855、はつま)ごだいざんもんじゅじないじょうえんじ  
 創建:長徳年間995~99、開基:如雲闇公、本尊:十一面観世音菩薩:木造乾漆座像24㎝高さ36.6㎝厨子に入っている伝恵心僧都あるいは行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣昭和61年、縁起:
当寺は昔、初馬の六万法にあった近隣随一の大寺院だったが天文年間に兵火消失。
浄円寺観音堂は宇治山に元禄初年1688頃建立し朝日山常(浄)円寺とよんだ。堂宇が荒廃したので天明年中文殊寺七世宗鑑は十一面観音を善導に仮安置した。弘化二年1845大提が発願し寄付を募り堂を新築、
文殊寺は伊達方の慶雲寺の末、
・山門、石段、本堂、観音堂:扁額「圓画」、御詠歌:大正二年秋奉納横須賀念仏講中遠江順礼十五番札所、三十三観音、往時の規模を思わせる。堂の左側に大正六年十一月山崎夫妻の造立した四国八十八か所の内、七十七・七十八(三界萬霊:地蔵2?)がある。
・庚申堂:庚申塔、
・参道第十五番札所:標柱、
順礼札も用意してある。
~追加
・石塔:□火王□発宝暦□月 同空姓閏□□ 為
・地蔵、・地蔵2、・地蔵5、・如来、
・宝篋印塔:高2mで見ごたえ十分、
☆疑問:かつて大寺院があったという初馬の六万法とはどこか?
有住、駐車場有、Tel:0537-22-6922
 ’15 12/29


・経路
14番からはみちのりがあるが、次からは札所間の距離は近く21番まで飛び石伝い。
JR掛川駅から掛川バス粟本線青田行殿道下車、徒歩5分。
16番まで1㎞、徒歩15分。
参道入口から南へ200mで寺山橋へ出る。直進200mで狭い道になり上り坂となるが、左カーブを道なりに進むと、広い道に出る。右折(西)しなおも上っていくと左上に寺が見える。下りだすと寺の参道や駐車場が見える。


・第十六番 龍洞山 真昌寺(掛川市水垂1230、みずたり)りゅうとうざんしんしょうじ  
 創建:寛永3年16264月・観音堂は室町時代、開基:永江院九世、本尊:馬頭観世音菩薩(城山観音):木造寄木座像80㎝伝行基作‣掛川城主山内一豊の護持仏で一豊が高知天封後は近くの高森山西麓に安置されていた、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2031年・最初の開帳は徳川四代将軍家綱の明暦元年九月1655で住職は15日から24日まで10日間開扉、続いて貞享戌辰五年秋1688、17日から28日まで住職全龍の代に12日間開扉、3回目は享保四年八月1719住職周山の時11日から20日まで10日間開扉、4回目は寛延四年九月1751住職禅笛の代に8日から17日まで10日間開扉、その次は天明三年1783だったが大飢饉で無期延期、以上のことが厨子の扉に墨書きされている。縁起:
真昌寺は水垂小字別所にある。掛川四飛鳥の曹洞宗永江院の末寺である。
33所唯一の馬頭観音。河合一族の水垂城に武運、領民守護を祈念して馬頭観音を祀った。応仁の乱1467~77の余波と今川氏西侵により明応五年1496落城。堂宇焼失。寛永三年開創し観音堂は再建。天明七年1787伽藍消失、安政地震1854観音堂倒壊、萬延元年1860再建、明治32年2月堂宇焼失。観音を高森山から寺に移した、新堂建設。平成七年1995本堂改築時、室町期観音堂礎石出土、平成九年観音堂改築、水垂高森聖観音:掛川城主山内一豊の護持仏合祀。
「遠州佐野郡水垂村差出帳控」延享四年三月1747 
一、 寺 壱ヶ寺 曹洞宗龍洞山真昌寺 平僧
     外 
   寺中に観音堂長貮間半 横貮間 但遠江十六番札所ニテ御座候
   (注、この寺中は高森山のことだろう)
*小野田住職:「遠江33所観音霊場は永正年代の約450年頃、掛川城主朝比奈氏や高天神城主小笠原氏によって設置されたという私見である。」
・観音堂:入ってすぐ左、もと観音堂は旧高森山西麓にあったが明治32年火災消失、本尊無事で現在地に建立安置。観音堂の厨子の扉の裏:33年毎の開扉年月墨書:明暦元年1655九月、貞享五年、享保四年、寛延四年、
・白山堂:白山妙理大権現像、弘法大師像2体:大正八年五月 山崎夫妻建立四国十九・二十番、帝釈青面金剛童子:庚申石像:文化十年1813、観音座像、
・大梵鐘:平成8年
・鐘:天保八丁酉年八月1837、下垂木村山崎弥五兵衛 寄進、弥五兵衛は三十三所にそれぞれ寄進したようだ。
有住、駐車場有、Tel:0537-22-3931
~追加
・手洗石、・新:筆塚、・新:交通安全地蔵、・新:水子子育地蔵、・新:六地蔵、・地蔵、・三界萬霊:地蔵2、・観音堂礎石、

☆疑問:明治32年以前にお堂のあった高盛山西麓とはどこか?
 住職(多分上記小野田住職の息子さんと思われる)に尋ねたが観音堂はもともとここにあったといわれ、高森山という地名は知らないようだ。水垂観音堂も合わせて合祀しているといわれた。’15 12/30
’16 3/13 水垂1249:松本氏より水垂1184:岡田鉄男氏を紹介してもらい話を聞けた。かつて観音堂があったのは、真昌寺より南西に1.3㎞の水垂544杉森氏宅裏の忠魂碑があった場所で老人ホームのききょう荘の近くだが、今は何もなく雑草だらけだろうとのこと。その横に山があるが高森山というかどうかは知らないとのこと。
聖観音をそこから今の真昌寺に移した。馬頭観音はもともと真昌寺にあったものだそうだ。
*松本様、岡田様、感謝いたします。
水垂544:杉森氏宅は無住で無農薬野菜無人直販所、治初屋ジジヤ農園駐車場となっている。横は地域のごみ集積所でもある。裏には薄気味悪いが雑草と倒木だらけの平地があり、ここが観音堂跡地だろう。忠魂碑はなく、荒れ地である。裏山があり、きっとこれが高森山だろう。山の裏側に老人ホームききょう荘がある。昭和40~50年代の国土地理院の2万5千分の1地形図にはこの辺りに寺院のマークの卍が記入されていた。
明治32年まで、この位置に観音堂があったとなると、古い巡礼道の見直しが必要である。
~15番文殊寺から水垂544の観音堂への推定ルート~
文殊寺から南に300mで寺山橋に至る。ここまでは真昌寺へのルートと同じであるが、ここから14番へのルートである長老塚前を通過する。長老塚から300m西進して左折(南)する。150mで神社とお堂がある。
・堂:青面金剛、
○波津麻神社:・石鳥居:明治三十年、・手洗石2:、・献燈2:明治三十九年、・板碑、・さざれ石2、・石柱2、
200m南進すると交差点になる。ルートはここも直進で通過するが、西150mに薬師堂がある。
・薬師堂:・献燈:天明四、・秋葉山常夜燈:、・地蔵堂:地蔵5卵形墓石、・手洗石、・手洗石:大正十五年、
交差点を直進通過し丘を越え350m進むと左(東)に神社がある。
○天神社:説明版:掛川市水垂978番地、祭神:天満大神(菅原道真公)、例祭日:10月9日、由緒:当社は天満宮とも称し、創立は宝永五1708年京都の北野天満宮より勧請奉斎の旨の棟札があり、その後、寛政元年社殿改築、文化三年屋根替、大正五年拝殿建立、昭和23年本殿改築等の記録が残る。水垂上区が氏子区域だったものを現在水垂地区全体の氏神として八幡神社とともに崇敬されている。
・石柱2:昭和十一年、・石鳥居:明治十八年、・手洗石:コンクリ、
100m南進すると交差点で、右の狭い道が旧道であり、こちらに入る。300m南西進すると右に神社がある。さきほどの説明版で出てきた八幡神社だ。
○八幡神社:説明版:掛川市水垂815番地、祭神:誉田別命ほんだわけみこと(応神天皇)、須佐乃男尊すさのうのみこと、例祭日:10月10日、由緒:創立慶長八1603年伝、「神田中に天王八幡宮あり」との古記録あり、昔より祭神が2神であった。応神天皇は第15代で、須佐乃男尊は「やまたのおろち」神話で有名な文武の神である。創立当時は数十戸だった氏子数も300以上となったので、昭和63年本殿幣殿拝殿を建築起工し、10月に遷座祭をした。
・危難除けの大石:説明版:明和五年神社再建の土地馴らしで境内一隅より出土、形が粟が岳に似る。明和六年掛川城主太田備中守に献上のため村人数十人にて木造車を造り運搬途中、村境の御所原に至るににわかに車が破砕して人夫多数傷を負う。翌年村内に悪疫流行し、石が深夜に異音を発したるにより、村人一同、石の祟り也とさっそく献上を取り下げ、神社境内に運び戻し、危難除けの神石として八幡神社とともに祭祀厳修している。
・祠:社護神、・祠:庚申様、・祠:道陸神、・狛犬2:昭和六十三年、・秋葉山常夜燈の木造瓦:なかみなし、・手洗石、・献燈2:昭和五十九年、石鳥居:明治廿八年、・板碑:、・石碑:八幡神社、・石碑2:大正二年、
神社から300m南西進するとかつての観音堂跡地に至る。

~水垂544の観音堂跡地から17番天養院への推定ルート~
推定ルートは2つ考えられる。現在の葛ヶ丘住宅団地を通過しすぐ東に向かい、山古神社に北側から接続するルート、少し遠回りだが葛ヶ丘を抜けてしばらく南下し宮脇の丘陵地の南を東に向かうルートである。現在丘陵地だった所は新興住宅地で全く昔の山道はないが、それに近い所を現在の道も通過していることは明治20年代の地図で確かめられる。葛ヶ丘の山越えは標高差30mほどでたいしたものではない。
1、 観音堂跡地から東の川を橋で渡り丘陵上の葛ヶ丘住宅団地を抜けていく。丘の中心部で一旦南進し平地へ出て東に向かうと、山古神社に至る。途中古い遺物類は見られない。
2、 葛ヶ丘を抜けるまでは同一だが、すぐ東に向きを変えず暫く250m南下する。そこから山を巻くように東に向きを変える。すぐ脇を用水路が通り、直進道路で現代の道であり、古い遺物類は全く見られない。山古神社に至る。神社から天養院は国1バイパス高架下ガードをくぐればすぐ見える。’16 3/13


・経路
 15番からは道路一つ隔てた約1㎞。参道入口に新道標。
JR掛川駅から掛川バス青田行中村入口下車、徒歩10分。
17番へは1.5㎞、徒歩20分。
参道入口から500m南進し、左折(東)し道なりに直進すると、上り坂を過ぎ下りきると安養寺運動公園前のT字路に出る。この交差点の左後上に地名になっている安養寺(無住、堂一つと祠だけ)と白山神社がある。寂しげな廃寺の雰囲気がいい。車では狭くて入れないかも。
・安養寺:堂、・石仏4、・祠:観音、
・白山神社:拝殿、・石鳥居、・新:秋葉常夜灯、
この交差点で右折(南)し500mで山裾を左回りしたところで神社がある。
・山古神社:・石鳥居、・秋葉永代常夜灯 文政五壬□九月吉日、・秋葉永代常夜灯 平成二十七年、
この場所での常夜燈は風情があり、通行人の目印となったであろう。そのためか新たに作られたばかりの常夜燈の火袋には電球が入っていた。この先でバイパス高架下をくぐり、100mで左丘上に寺が見える。


・第十七番 日林山 天養院(掛川市宮脇4⁻3、みやわき)にちりんざんてんよういん  
 創建:慶長年間1596頃、開基:龍雲四世詳山麟和尚、本尊:聖観世音菩薩(木造座像25㎝伝弘法大師作、伝慶長年間)、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎‣この間16~17年に中間扉・昭和29年秋3日間開扉・昭和61年4月開帳・平成10年中間扉・次回2019年、縁起:
龍雲寺の末で、四世祥山隣和尚が西田の寺家ジケの近くの観音堂を郷倉附近に移した。この頃遠江33所に選ばれていた天養院を現在地に移したのは蘭山寒秀和尚で、時は寛文年中1661~72といわれる。今寺家の辺りを上蓮寺という。
桐田榮氏私見:天養院は慶長から現在地に移るまでの60余年間、上蓮寺とよばれた可能性がある。          
明治六年廃寺、本尊は城東郡西方村(菊川市)の龍雲寺に移された。昭和初期宮脇地区に疫病蔓延、本尊を天養院へ迎えた途端、一切の悪疫が退散した。
「遠州佐野郡宮脇村差出帳控」に「禅宗天養院 宮脇村地内 是は年貢地 江戸方より右側 往還より三丁330m引き込んだ所にある。」

天養院念仏講中が活動している。
・観音堂:昭和61年開帳、村人記録:榛葉照一:遠江33所33回巡拝、西國坂東秩父の百観音巡り3回、四国88所6回、西國1000㎞、板東1300㎞、秩父100㎞、新築前の元の観音堂の鬼瓦、堂内に額:横須賀念仏講中十七番御詠歌 
堂の後に石仏石塔が集めてある。
・地蔵:干時延宝二甲寅キノエトラ1674八月十五日示寂 当庵二世中興蘭山寒秀和尚増崇霊位
・上記地蔵と同じ高さの地蔵、
・墓石:請叟秀益和尚:天養院三世か?
・堂の瓦:「○」の中に「三」印、
・古い地蔵堂:延命地蔵:境内入口左横:享保八年宮脇村…:蓮華台座、
無住、駐車可、Tel:0537-23-1027 中村さんとなっているが、天養院参道入口の清水さん宅で御朱印をもらった。’15 12/30


・経路
 JR掛川駅から4㎞、徒歩50分。掛川バス東山線東山行成滝東下車、徒歩5分。
民家の横の細い山道を登っていくと、鮮やかな朱色の観音堂が目前に忽然と現れたように建っている。 
18番へは南へ国道をまたいだ1.5㎞、徒歩20分。
南へ3丁:300mで現在の国道1号線(現国1)へ出られるが、旧東海道はそれより1本南の道路というか、50m左折(東)で旧東海道が現国1に合流する。そこに祠がある。
・祠:馬頭観音
・現代:東海道標識
現国1を東へ200mで、右折(南)し下河原橋を渡り左折(東)し100mで右折(南)し200mで住宅の中の四つ角に出る。道なり直進で上り坂となる。100mで看板が出ていて、右折(西)すると18番前となる。


・第十八番  新福寺(掛川市逆川149、さかがわ)しんぷくじ  
 創建:享徳2年7月1453頃、開基:村民、本尊:十一面観世音菩薩:金乾漆立像70㎝伝行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣昭和63年4月・次回2021年、縁起:開基は飄然と異僧来たりて、仏教の過去・現世・来世の三世の因果因縁を説き、村人を感動させた。そこで村人は僧を留まらせようとしたが、僧は諸国巡回祈願を果たす目的なので断り、代わりに十一面観音を与えた。村人は小堂を建て安置した。再建:天文五年1536.明治32年堂宇修理、大正11年仏像塗り替え、庫裏修理。
慶長元年1596、牛頭村検地帳に駅路(東海道)の伊達方と本所の境に曹洞宗月心庵という小庵があり後に源心庵と改めた。この庵の末寺が新福寺という。
数十年前親と仲違いして家を追われた若夫婦が庫裏で女子出産、観音のお蔭と観音に仕えた。その後夫婦は西国移住し茶商として成功。新福寺は佐夜の中山久延寺の奥ノ院だったといわれる。
堂宇補修、庫裏新築、寄進絶えず堂扉左右寄進札で埋まる。
・六地蔵:刻字不明、・鰐口、・念仏鐘:天保八年寄進、・手洗石、
・五輪塔や石仏(破片)7、「三界萬霊」:地蔵:「静岡県遠江國掛川町 施主 山崎茂七 妻いせ 大正二年三月建立」:2、
周辺:周りはのどかな田園が広がっている。
 駐車可能。無住。Tel:0537-27-0228 加藤さんとなっているが、
’15 12/30 Tel:0537-27-0391 加藤さん(別の加藤さん)というか、参道入口にある家4軒とも加藤さんであるので、参道入口付近の家に直接訪ねてみれば御朱印の持ち主の家が分かるだろう。ただ事前に電話をかけておいた方が、留守で御朱印がもらえないリスクが減るでしょう。’15 12/30, ’16 1/1


・経路
JR掛川駅から掛川バス東山行成滝下車、徒歩15分。
17番天養院から国道1号線を渡り南に向かい、工業団地を抜けた先の小高い丘の中腹にある。
19番まで3㎞、徒歩40分。
参道を東へ出て北へ100mの交差点で右折(東)し山際を200m行くと右の山際上に祠が見える。
・祠:神社、・祠:観音、・手洗石:明治三十(廿の縦線3本)九年
一旦そこから北へ道が転じて50m進んでから、また南に曲がる。ここからは一旦広い道に改変されてしまい旧道は分からないが、なるべく山際を進むつもりでルートを取る。300m東へ進み、北へ進む。台地上の細い旧道を進む。逆川牛頭627山崎氏宅前に祠がある。
・秋葉山夜燈:木造瓦葺:内部に石塔の常夜燈、
・祠:石仏3::堀越、淡ヶ岳ノ縁者、庚申、・説明版:堀越入道:剥落ひどく解読不能、付近住民2軒に内容を聞いたが不明、
*牛池(鞍骨の池)に関係した伝説と推定、今後掛川の伝説を調べる予定。
*「27番永寶寺から28番への経路、首塚様」より転載。
建武三1336年、今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江守護となり以後60年が続いた。応永二十六1419年尾張の斯波氏が守護となり、その後約100年が続く。このようなことから鎌倉時代後に武威を張っていた今川方の古名族横地氏も斯波氏に属することになった。しかし今川義忠は遠江を回復せんと堀越陸奥守貞延を総大将に横地・勝間田の本拠地小笠・榛原に進撃、小夜の中山南側の海老名エビナ・影森・公文名一円が壊滅的戦場となった。士将貞延も牛頭ゴウズまで来て惨敗したと伝えられ鞍ごと池に投げ込まれたと言う。この鞍骨池伝説や海老名辺りに点在、祀られている石塔は往時を物語るものと思われる。

北を目指し300m進む。逆川土手でストップ。橋がない。向こうには新興住宅が建ち道は見えないが、93年版ゼンリン住宅地図では向う岸にも道があり国1へ出られたことが分かる。昔ここに橋があったのだろう。
一旦現代の道を迂回して国1に出る。国1南側の千羽山鼻177:近藤氏宅に立派な山門が建つ。中に芯柱を入れ補強している。城または寺から移転したのではなかろうか。
・山門
国1北側に石造物がある。
・秋葉三夜燈2:天保三年、昭和51年再建
山鼻バス停前の横断歩道橋北側に石造物がある。
・「火の用心 紀元二千六百年 東山口村」
ここから北を目指す。100mで千羽山鼻315:仲林弥市氏宅前を通過すると祠がある。
・祠:地蔵、・板碑、・祠:庚申石仏、
ここで軽四輪車をUターンさせようとして左前輪を脱輪させ、手前の御宅の仲林さんたちに引き上げてもらい助けてもらった。ちょうど仲間で集まり新年会をはじめたところだったそうだ。
*仲林さんたちに感謝いたします。’16 1/1
この道はこの先50mで、国1バイパスに突き当たり行き止まりとなるので、別ルートで迂回するしかない。
山鼻バス停前の横断歩道橋に戻り国1を東へ150m進むと、左折(北)できる。バイパスの高架下をくぐり150m進むと坂を上りきって千羽1434:榛葉宅前で左に下りだすが、古道ルートは右を下るその先も左右に分かれるが、古道ルートは山裾の左であるが、途中で道がなくなるので、右を150m行く。平地でT字路に当たり、左折、道なりに600m北上すると19番である。

~新道ルートでは
先ほどは山鼻バス停前の横断歩道橋から国1を東へ150m進み左折(北)したが、新道ルートに出るには、更に国1を150m東進し岩橋を渡って左折(北)する。20m進むと左に途中で折れてつなぎ合わせてある石塔がある。
・石塔:「遠江國二十番子安観音道 従是一二一一米」「昭和八年三月五日 新道開通為記念寄進」
更に300m北進する。Y字路で左右の分岐点になる。標識があり、20番は右、19番は左である。左に進むと50mで先ほどの古道ルートから合流する道が左から合流してくる。あとは直進である。


・第十九番 明照山 慈明寺(掛川市小原子134、おばらこ) みょうしょうざんじみょうじ  
 創建:永享3年1431、元禄15年再建、開基:不詳、本尊:聖観世音菩薩(桜寄木金色塗座像33㎝台座3段6角形伝行基作、伝元禄15年7月以後再興)、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣1999年予定が地域整備工事中の為完成後に実施予定?、縁起:昔この山中に一人の美女がやって来た。村人に「観音経に帰依した人の妻になり子供を養育する」と言ったので、村人はこぞって結婚を申し込んだ。女は私一人では皆と結婚できないので、私を思うなら観音経を読んでほしい。さすればあなた方の子供を守護すると言って観音像1体を残し消えた。これは小夜の中山の子育て観音の化身に違いないというので、一同これより観音経に帰依したという。
  駐車可能。 無住。観音堂は集落の集会所のような所で周辺は空地公園のようである。
 観音信仰と佐夜の中山の子泣き伝説が入り混じった上記の説話が伝わっている。
・本堂正面:菩薩像、脇侍:不動明王、毘沙門天、地蔵尊2体:明治中期、
 堂内に幕末布告のキリシタン禁令高札、
境内にモッコク、イチョウ、タイサンボクの古木あり。春には桜、本堂の南東100mに歴代住職の墓、12の墓石のうち5つが男性、7つが女性と考えられている。
周辺:堂の背後は白山神社で菊理姫命・事代主命・金山彦命を祀る。桐山榮氏は明治の神仏分離令で神社と寺に分けたと考えている。
それに対し私見を述べる。「大原子 正徳三年1713 観音公事曖証文之事」には大原子または周辺に白山天神の名があり存在していることが分かる。これが小原子のものと同一かどうかわからないが、現在大原子には白山神社はなくて大原子神社があり、ここに合祀された可能性もあるが、小原子の白山神社から大原子集落まで丘越えで300mの近さで、2つ同じ神社があったかどうか判然としないが、小原子の白山神社が1713年の白山天神と考える方が妥当な気がする。ということは1713年には寺と白山神社は別に存在したと考えます。あくまで断定できず推定ですが。
無住、駐車可、Tel:0537-27-0543、左記の電話番号の方がすでに管理者ではなく、2軒北隣の御宅で観音堂の鍵を開け御朱印を頂けた。
~追加
・地蔵2
・自然石
’16 1/1,3


・経路
JR掛川駅・天浜線掛川駅から7㎞、徒歩80分。JR菊川駅から徒歩90分。
18番から再度国道1号線へ戻りしばらく西へ向かい小原子、大原子集落への道を左折した奥に19番がある。
20番へ1㎞、徒歩20分。
ここからの古道は東の山に上るのだが、寺向かいの墓地から山道がありそうだが、山道はない。古道は墓から北30mの枝尾根の先端部で手前の沢にコンクリ橋があり、それを渡って山に取り付く。尾根に沿って人工的切通しがあり、それが目印になる。廃道内部は倒木で歩きにくいが、それでも通過可能ですぐに尾根の峠に到達し下れる。茶畑に下りる手前で道型は消失するが、茶畑に下りてしまえばよい。上からコンクリ舗装された細道が下りてきて丁度ここに合流する。この細道も古道部分だ。伊達方1403:榛葉宅前である。榛葉さんに話を聞き、ここが確かに順礼古道であることを確認できた。廃道部分:徒歩5分。ちなみにコンクリ舗装された細道は古道の南側を越えて19番に近い所に出られる最短の自動車道である。
榛葉宅前のコンクリ細道を下り切り、左折(北)し150m進むと観音堂がある。
’16 1/1,3


・第二十番 子安山 観音寺(掛川市伊達方(大原子)1420、だてがた、おおばらこ) こやすざんかんのんじ  
 創建:不詳、開基:不詳、本尊:如意輪観世音菩薩(伝行基作)60㎝木像半跏思惟像・子安観音、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎・昭和59年4月、縁起: 
幕末の日坂宿の「御尋ニ付申上候書付」では「一、子安観音堂 壱ヶ所 是は江戸より右側 往還より観音堂は拾丁(1100m)引込む 千羽村 牛頭村入会い御年貢地 但切石にて子安観音と記し有之 本所村地内に御座候」
宝永八年1711庄屋の十郎兵衛 次郎左衛門 が掛川藩に出した村況
「一、 千羽之郷大原子ノ谷 観音堂 壱ヶ所 四間四方 但 かぎ取 平安寺 支配人 六郎右エ門 境内長拾間 横八間 定納地之内 境内ニ廿壱歩ほど定納畑有り 拾六歩の内に塚有り 正月六日 六月十八日 御開帳仕候」
大原子、小原子、木割、千羽を合わせて千羽郷といい人口は374人、石高299石の小村。
堂の鍵を預かるのは仙光山平安寺で厨子の扉を開閉する責任者である。この寺は伊達方村の竜門山慶雲寺の末寺である。堂の維持管理は六郎右エ門である。境内面積80坪:265㎡、全部納税地で、この中に21歩ほど定納の畑がある、また16歩:53㎡の内に塚がある。1月6日と6月18日に御開帳がある。
ここの本尊も伝:行基作といわれる。行基作と云われるものはだいたい沿革は不明だし、作者も不明だが、慶長以前から伝わる秀作が多く、戦国期に真言宗系の伝承を持つ寺院に多く安置されている。(桐谷榮)
正徳三年1713に観音の訴訟和解の文書が残っていて村で争いが起こったことが分かる。
多分無住。石段登って左右日本の古槇が山門代わりに立っている。
観音堂:棟札:天正十七年1589四月、佐野郡千羽郷大原子村、徳川殿御代、御地頭長戸上(永禄十二年1569掛川城主石川日向守家成の子長門守康通)の時代、安産、天正二年1573正月火災、後再建、希望者には安産用腹帯貸出、
・日切子育地蔵堂:子育て観音2、入口左、堂背後は里山、
・徳本上人供養塔:「□□四巳年 阿弥陀仏 徳本(印のような記号一字分) □沢 宗士 小原子大原子蓮中」、
訪ねた時ちょうど子供たちが遊んでおり、名の通り子安観音であり、いまだに子供たちの遊び場なのだということに郷愁を覚えた。

無住、駐車可、Tel:0537-27-0627、お堂前に連絡先3軒と、その家の位置の分かる地図が掲示されている。
~追加 
・古:手洗石:ひっくり返っている、・新:手洗石、
・地蔵
・イヌマキ:市指樹木、
・自然石、
・地蔵:東隣の神社との壁に埋め込み、
東隣は神社である。
・大原子神社:’93ゼンリン地図だと、別場所の大原子1526:榛葉宅北にあるのだが、近年子安観音横に移転したようだ。昭和31年3柱の神を祀る。菅原道真:創立不明なるも往古より千羽字梅木沢に奉斎し天文年間、大原子馬街道の菊理媛神と共に、寛保三年10月千羽堂の裏2423番地へ遷座合祀。菊理媛神:創立不明なるも往古より白山神社と称し千羽字大原子馬街道、天文6年に奉斎し、須川道真公を祀る梅木沢の天神社と共に寛保3年10月千羽堂の裏へ遷座合祀。誉田別尊:部内旧家伊達三太夫私有の神大原子集落11戸の信仰により昭和6年譲り受け氏神として奉る。
’16 1/1,3 


・経路
JR掛川駅から掛川バス東山線東山行本所下車、徒歩15分。
21番へ3㎞、徒歩40分。
巡礼道は東の山を越えて本所集落に出るのだが、調査によって2つのルートが判明したので、①北回りコース、②南回りコースの2つに分けて説明する。 
③ 北回りコース(子安観音→茶畑内の基準点→本所1077:齋藤宅前→薬師堂)
子安観音を東に向かい進む。現在茶畑になっている所に一部コンクリ舗装されている道がある。これに沿い上っていく。草木生い茂りひどい中を進むと台地上に改めて山を削り整地し直して開墾された新しい茶畑が広がる隅に出る。茶畑の北西端に出たようだ。イノシシ用罠オリがあり、野生のイノシシがはまっていた。コンクリ舗装がなくなり更に山を削り取った斜面に道がはまっていく所で草木だらけで進めないし、この先道型も削り取られ消失していくのであきらめ、下に下り、道があったであろう当たりを追っていくこと150m、改めて上に茶畑が出てくる。茶畑に上ってみると、道型消失地点から150m東で、茶畑の西端の道型再登場地点?辺りに、基準点がある。ということはかつてはここがアカミチのおよそ峠辺りではないかと推定する。この地点より東も開墾されたばかりの茶畑かと思うし、舗装され直した農道を東に進む。もはや古道はない。下っていくと、本所の集落に出る。本所1077:齋藤宅前にでた。ここから東150mで薬師堂前に出る。
本所1100斎藤さんに話を伺うと巡礼道はここではなく、南の慶雲寺前の道だとのことだった。

④ 南回りコース(子安観音→伊達工業所→慶雲寺→本所231松浦宅前→薬師堂)
 子安観音から東の山際の南に大原子集落を300m進む。伊達工業所の看板がある。ここから東に上っていくコンクリ舗装の道を進むが、1528⁻1伊達工業所を過ぎ次の家の1530伊達宅前でコンクリ舗装から右に外れていくのが正しい。しかしそこは山の地面ごとない。山を削り取り道路や茶畑を広大に作り直してあり、自然地形の山は一切消去されていて新しい碁盤の目のような舗装路と四角く整地された茶畑である。以前はここは山と瓦ヶ池があり、池のほとりを廻って慶雲寺に行けた。現在は新しい道を通過して慶雲寺前に出る。
なお伊達工業所前の、本所1386榛葉さんに話を聞くと、榛葉さんは掛川歩こう会に参加していて、古道には多少詳しいようで、子安観音から東に向かう道も古い巡礼道だとのこと。この慶雲寺経由の道も教えてもらえた。又この辺りにかつてあったであろう石道標はまったくないそうだ。
○慶雲寺:六観音、祠:神社、・句碑:伊藤帯雪:菅笠に出たりや出たり土筆つくづくし、
・お堂:石仏:地蔵3、祠:観音、手洗石、石段
ここからは昔の道が健在である。東に150mで伊達方231松浦宅前に出る。北に200mで薬師堂だ。
☆疑問:巡礼達はなぜこの慶雲寺経由の道を通過したのか。というのも北回りより300m遠回りである。

~寺ヶ谷の薬師堂→八坂→本宮山、事任八幡宮→日坂宿場
○薬師堂:
・常夜燈:秋葉山 大正十四年十一月再建、毎月1,15日に灯すそうだ。
・手洗石、・庚申塚、・如来:「平沢 五 七」、・石塔、・五輪塔:破片3、
薬師堂前から東の山際に沿って北に進む。かつては古道があったが、舗装された広い農免道路が東西に通過している所に出る。この道を右折し東に進む。かつてはちょうどここが本所と八坂の境界の峠になっていたようで、農免道路の一番高い所の上の空中に昔の古道の切通し道があったそうだ。なのでこの農免道路を上り下っていくしかない。16年1月、道路南斜面が崩落していて車通行止めのバリケードがあるので、歩いて通過した。2月に工事があるそうだ。多分県議会を経て予算が付くのが2月ということなのか。
峠の北に本所の神社が見える。
・神明神社
八坂の平地に出ると左(北)、最初の家が八坂186田中氏宅である。この家の裏の茶畑と山際にかつては道があって本所から通じていたそうだ。今は道はない。田中宅の前に道が付いていて集落につながっていたようだが、それもない。
*上記は田中さんの奥さんの話。
田中宅の東側に八坂128山本宅があり、裏に地区の地蔵が祀られている。
・堂:地蔵
東隣の八坂131山本宅には堂がある。
○阿弥陀堂:
・石塔:表「視車勺聖天阿弥陀水井 御真筆阿弥陀如来並光明」右「是よりみやむら菅場 弥承□持宅一壱町」左「天保六年□□□ □□□十一月□□□」、朱色に彩色され地面にコンクリで固められていて、コンクリに昭和63年記入あり、
山本宅から出て舗装された細い道(おそらくかつての古道)を北東に100m進む。宮村区公民館と屋台置き場があり、国1に向かい道がつながっている途中に祠や石塔が見える。
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、
・観音
・五輪塔:青石金明王
・如来
石塔は見に行っても道は曲がらず直進する。200mで国1に合流する。この道が旧東海道である。
○事任八幡宮コトノママハチマングウ:
・秋葉山常夜燈2:天保三年
・クスノキ:市指定文化財、
○本宮山:
上記2つの神社を過ぎると途端に国1から離れて左に行く道がある。これが旧東海道で、この先すぐ日坂宿場である。
旧東海道に入って30mで左に
見えにくいが石碑がある。
・石碑:「日阪村 東山口村 村界 日阪村青年會 東山口村青年會 大正四年一月建設」
150m進むと左に道が分岐する。その道の左に神社がある。
・若宮神社
・秋葉山常夜燈:「弘化二乙巳十一月 驛中安全」:説明:、
・自然石、・手洗石、
旧東海道を道なりに200m直進する。古宮橋を渡り高札場の次に左に21番:相伝寺がある。
’16 1/1,3


・第二十一番 宝聚山 相伝寺内光善寺(掛川市日坂928、にっさか)ほうじゅざんそうでんじないこうぜんじ  
 創建:天長2年825か、永保年間1084~83とも、開基:片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長二年1597開基した、本尊:聖観世音菩薩:木造立像39㎝伝慧覚大師あるいは見石庵作、宗派:浄土宗、開帳:秘仏ではなく8月10日縁日、縁起:
光善院は往古は東山村椎木にあり、天台宗だった。松葉城が落城(明応五年九月十日1496)後、松永氏が光善院にあった正観音を背負って宗那川サンナを下り日坂宿の庄司に安置した。安政年間、日坂に大火があり、町や寺が焼失した。日坂宿の浄土宗3寺は合併し相伝寺と称した。光善院は相伝寺の境内堂になった。昭和後期に堂が朽ちて相伝寺に合併した。
天保十四年末、佐夜郡日坂宿が掛川藩の尋問に答えた「御尋ニ付申上候書付」では、「一、御年貢地 知恩院末浄土宗日坂宿 宝聚山相伝寺 凡建坪三拾八坪 但寺地中 御小休所門横 壱ヶ所 凡建坪拾五坪 右は江戸方より右 往還より寺迄拾五間引込 往還 差支之節は御小休斗(バカリ)請申候 休泊共手狭ニ付請不申候」
相伝寺には除地も朱印地もない。寺は小休所の横なので往還の所が一杯だと小休所に当てられた。
33所中唯一浄土宗だが、昔は東山村椎木の天台宗の(紫雲山光善寺?)光善院、本陣扇屋片岡清兵衛の逸話:日坂宿の問屋場、伝馬36頭、人口の半数300人が人足、人足手当は早くて3年後で人足は生活に追われていた、早く支払うように直訴したが、慶長十八年1613、直訴は死罪、これにより毎年日坂宿には516俵の米支給になった。これにより彼は516俵さまと呼ばれるようになった。墓所は常現寺である。私財で相伝寺や常現寺を創立している。
山門脇に宿場の高札場復元、秋葉山常夜灯があるなど、宿場の雰囲気を彷彿とさせる。
日坂宿をさらに東に向かうと、常現寺(23番:御朱印所)や坂を上り詰めると、小夜の中山の旧東海道や久延寺がある。
・三十三体観音石像、千浦六地蔵:威法院(廃寺)、延命日切地蔵、
有住、駐車場有、Tel:0537-27-1567
~追加
六地蔵:一胴六憧、・如来、・?庚申:三面八臂、・如来:彫りがすごい、・馬頭、・観音、
・地蔵2、・観音、・如来、・墓石、・地蔵:座位、・仏像:釈迦:戦捷記念、
~周辺:日坂宿場:東海道日坂宿資料を各自で探してください。
・旅籠:川坂屋
・本陣跡:

’16 1/1


・経路
JR掛川駅から掛川バス東山線東山行日坂下車、徒歩3分。
20番から4㎞、国道1号線に戻り東に進み、旧東海道分岐点で旧東海道に入っていき旧日坂宿にある。
22番へ5㎞、徒歩90分。
相伝寺からは現在の沢沿いの道ではなく、尾根通しの茶畑の山道を進むことになる。
相伝寺を出て本陣前に出て、北を目指し100m、新橋を渡り、右折しすぐ左折し坂を上っていく。尾根通しの茶畑の中の道をひたすら道なりに1.5㎞進む。日坂御林614⁻2大塚氏宅前に入っていく道の分岐点に石仏がある。
・祠:地蔵 
ここからさらに道なりに600m進むと日坂御林612⁻1製茶工場のある交差点に出る。ここを左折し300m進むと日坂御林632杉本周造氏宅前を通過し、変形6差路に出る。右2本のどちらを通っても目的地には行けるが、古道を通るなら右2本目の狭い道を通過する。結局400m先で右1本目の広い道に合流する。その50m先に看板がある。
・看板:茶草場農法世界農業遺産認定:説明版:
・福招き猫
・看板:自然保護のためご協力を!:(花)フジタイゲキ、ササユリ、キキョウ、カワラナデシコ、オミナエシ、(昆虫)カケガワフキバッタ、(鳥)サシバ、動植物の移動、持ち出し禁止。
150m北進すると右:小鮒川、前:東山‣粟が岳‣安田、左:粟が岳登山口近道になる交差点がある。特に右:小鮒川方向へはすぐ先で高架下ガードをくぐるのが見える。ここに石仏がある。
・地蔵、
22番へはここで左の急坂を下っていく。道は作り直され急坂の勾配を緩くするため蛇行するようにしてあるが、その横に昔のまっすぐな激坂道(旧道、古道)が残っている所がある。500m下って川を渡り、200m進むと東山集落(泡が岳登山口)に入る。右に曲がると、公民館、防災センター、その上に22番がある。


~日坂→粟が岳登山口、観泉寺への現代のルート
昔は山の尾根通しを通ったようだが、今は沢沿いに自動車道が通っているし、沢沿いにも遺物がある。
日坂の宿場町の西の若宮神社前を出て、粟が岳登山口方向を目指す。今の定期バスの経路を通る。400m進むと右に日坂小学校で左に神社がある。
・高根神社
300m北進で、右折する。1.2㎞北進すると、長松院入口となる。左に石道標がある。
・石道標:「(梵字)右西山ヲ経テ無間山松葉ニ至ル 左西國一番観音幷弘法大師約一町 倉真村青田柳澤ニ至ル」「大正四年十一月御即位紀念施主鈴木久七」
左手前に神社がある。
・津島神社
1.2㎞北進すると椎林バス停手前の右に石仏がある。
・祠:庚申風の石仏、
・椎林にかつては光善寺があったという。
500m北進すると深川寺が左にある。
700m北進すると東山バス停で粟が岳登山口と観泉寺がある。
’16 1/1~3


・第二十二番 天王山 観泉寺内長福寺(掛川市東山219、ひがしやま)てんのうざんかんせんじないちょうふくじ  
 創建:伝・大永7年1527、開基:村内の杉山吉左エ門ら近隣の同志とはかって小堂建立、本尊:千手千眼観世音菩薩:木造立像41㎝製作者不詳江戸期後期、宗派:曹洞宗、開帳:正月三が日、縁起:
貞享四年1687までは長福寺という寺の境内に観音堂があり、ここにお札を納めていたが、仔細があって観泉寺へ順礼札を納めることになったという。延享四年の「佐野郡東山村明細帳」によれば観音堂のサイズは二間四面で、厨子は縦73㎝、横64㎝、境内地536㎡ほどで、名主吉左衛門が管理していた。当村には寺2軒で観泉寺と深川寺で長福寺がない。どうしてなのか?
標高150mの山上にある。かつては参拝後、投宿して翌朝粟が岳を目指したものだったという。展望は素晴らしい。
・標石:明治三十四年八月 二十二番札所、入口
・仁王像:熊野詣の途次、熊野川に漂っていたものを持ち帰ったという。
・三十三観音:階段を上ると左側塀に沿って安置、明和三年1766、本堂前に散乱していたものを整理した、嘉永元年1848、
~追加:この箇所に36体石仏があり、うち2体は地蔵なので、残り34体で、そのうち2体に光背がなく同じ大きさなので、光背付き32体と無しが2体である。おそらく光背付きが1体ないのだろう。
・弥勒菩薩に因む四十九院の塔婆石像:右側塀、明和三年1766、本堂前に散乱していたものを整理した、嘉永元年1848、説明版:御本山十五世徳純の代に免許される。西国三十三所石像と四十九院宝塔は天王山住職物宗が願主となって建立したものである。
四十九院とは、弥勒菩薩が住む兜率天(欲界六天の第4位)の内院の宮殿、その四方にある四十八の天宮(天人の宮殿)のことで、これに真似て平安時代以降、寺院の境内に四十九の堂を建てた。鎌倉時代以降になると墳墓の周囲に49基の塔婆を建てるようになった。
・本堂右側庫裏、
有住、駐車場有、Tel:0537-27-1247
~追加
・手洗石
・祠:石家型道祖神
’16 1/2,3


・経路
JR掛川駅から掛川バス東山線東山行日坂経由東山下車、徒歩15分。
21番より川筋を北に4㎞上り東山のJAの前から右へ急な細い坂道が参道である。
23番粟が岳山頂まで4㎞、登山徒歩100分、常現寺まで5㎞、徒歩80分。
古道はハイキングコースとなる。
・祠:井口地蔵
・峯ガイトの大クワの木
・八幡宮

 ’16 3/20、現在、東山いっぷく処となっている所からハイキングコースが始まる。基本的にハイキングコースが古道残存部に近い。ただ出発点は正確かどうかは分からないが、位置的にそれほど外れていないと思う。初めは自動車道を歩かされるので、斜面を巻く道で、古道からは外れているだろう。次の摩利支真天に向かうあたりから尾根沿いになり、古道だと思われる。
・祠:摩利支真天
さらに上を目指すと、自動車道との出会い箇所で献燈がある。
・献燈:大久保中:大型で立派な秋葉山常夜燈みたい
献燈の上に向かい進むとすぐ鉄塔があり、過ぎると左に石塔らしきがある。
・石家型道祖神:茶畑内、献灯すぐ上の鉄塔のすぐ上、
 また茶畑のハイキングコースを上っていく。200~300m進むと、四角い石柱がある。
 ・丁石:15×15×50㎝、「爪(不)動九町」
過ぎて上っていくと、それまではハイキングコースと言っても軽トラ農道に改修されていたが、ここらから人ひとりしか歩けない登山道になっていく。道は整備されている。茶畑が終わり熊笹だらけになると、途中で安田からの軽トラ農道とも交差する。まだ上っていくと、頂上を目指すのではなく、左へ左へと向かう道になる。23番観音寺へ向かうからだ。熊笹から自然林になると観音寺は近い。時々太い木もある。上に平地が見えだしたら観音寺(廃墟)だ。

 倉真に向かう林道分岐点
・石仏:奉請 干持寛政二年戌十二月、
’16 1/2,3


・第二十三番 無間山 観音堂・龍谷山 常現寺内観音寺(掛川市日坂506⁻1、にっさか)むげんざんかんのんどう・りゅうこくざん じょうげんじないかんのんじ  
 創建:天平年間729~49修験者弘道仙人が釣鐘を造立して粟が岳の松の枝にかけたものが無間の鐘という。弘仁2年811年3月17日、開基:伝弘法大師、本尊:十一面観世音菩薩:木造座像110㎝伝空海作、宗派:曹洞宗、開帳:8月9日百万遍祭、秋彼岸、縁起:弘仁2年空海諸国巡錫途次、粟が岳に登り小堂を建て仏像を安置した。承和年間834~847、僧長然が草創座主、宝治年間に岐阜妙応寺の恵徹が上山して曹洞宗に加え、今の名に改称したという。堂宇は朽ち果て廃墟同然だが、なお周囲には石塔類が散在しかつての栄華をしのべる。展望は抜群である。
粟が岳は標高552m、椀を伏せたような山容、ハイキングの名所、春は桜並木、頂上には電波塔、展望台、広場、売店、栄西禅師の像、巨石磐座いわくら跡:阿波々神社、遠州七不思議:無間の鐘を埋めた無限の井戸
跡、そこから階段を下った所にアスレチック広場、展望所、その横に観音寺札所がある。
粟が岳は粟の山の意で穀物の神霊の座として崇められ、観音も豊作祈願されていた。
遠州七不思議:無間の鐘を埋めた無限の井戸:伝説:観音堂の鐘を突くと現世では巨万の富を得られるが、来世は無間地獄へ落ちると云われていた。にもかかわらず鐘をつくものが後を絶たず、住職が井戸に鐘を捨てた。それからは井戸に榊の枝を逆さまにして投げ込めば御利益にあやかると云われた。一説には鐘を沈めたのは雨乞い儀式で、それがこの伝説に残っていると云われる。
・観音供養塔:文化三年1806金谷町天王前 増田与五兵衛 西国 秩父順礼供養、入口
・町石:十八町、参道右側、寛政十戌午星十一月吉日1798再造 東山下村 五良左衛門 諸願成就第十八□、
・石灯籠:右:天和三亥年1683、左:慶安三寅年四月1654、相州連雀町 高村喜兵衛上則重 西山村粟嶽山観音寺 
?・丁石:第五町 享和三癸亥歳1803七月吉日、横倒しになっているそうだが未発見。 
・如意輪観音:天明二年、
・弘法石像2体:三界萬霊 西国八十三・八十四 大正八年 掛川山崎夫妻 
・礎石:2間×3間、堂の右前 
・観音堂:廃墟で壁もはがれ傾き崩壊寸前で周囲にロープを張り立入禁止である。もう何時倒れても当たり前である。
麓の常現寺に観音堂は再建されているが、やはり粟が岳山頂にあるからありがたみがあるのだろうから、ここに何か祠か石仏を建立して拝めるものがあるとよいのではないか。ここへも車で乗り入れできるよう道も直すとよい。駐車場用地は旧アスレチック広場の分もあるし。阿波々神社は山頂磐座の横に再建して、観光客はくるようだし、ここは廃墟だがまさに山奥の古寺の良さがある。
~追加
・戦勝観世音 皇紀二千六百年記念
・手洗石:割れてる
・戦前の華族による登山記念碑
・祠
・横に僧侶の墓地
遠州の山奥の寺(秋葉山、油山寺、大尾山、小笠山、遠州七坊等)は天狗伝説があり、○○坊と云われやすいが、なぜか、ここには天狗伝説がなく○○坊とはいわれない。ということは修験者の山ではないということか。無間山観音寺は山伏の寺ではないのだろう。
粟が岳無間山観音堂:無住、駐車可だが、粟が岳山頂への自動車道からこちらに分岐する道路入口に立入禁止の標識あり。観音堂横はかつてアスレチック広場で子供の遊び場で展望所でもあったので、車で自由に出入りできた。ただし分岐する道50mは狭く無舗装で石ころだらけ。
・旧アスレチック広場の左先から下る山道がある。倉真方面への下山路だ。
・磐座の西端にも下山路があるようだが、道が整備されているかは未確認。

・(永寶寺:大嶽氏談)昔接待用の食物は「里芋の煮っ転がし」だったそうだ。
御朱印先は常現寺:有住、駐車場有、Tel:0537-27-1050
’16 1/2,3


***・龍谷山常現寺(掛川市日坂水井 )
現在:常現寺内に観音堂があり、御朱印も常現寺である。常現寺は義民片岡清兵衛の菩提寺で彼の発願によるもので、墓や五輪塔の供養塔がある。常現寺は国道1号線沿いで日坂宿の東1㎞の上り坂の手前にあり、粟が岳とは数km離れている。
・石碑:「曹洞宗常現寺」「當寺~~~」「大正十五~~~」「東□金谷□一□一□□□  西□掛川□二四一七一□」
・水井稲荷、・祠:地蔵:首落ち、・奉納廻國供養□、・新:燈籠、・六地蔵:明治廿八年、
・「奉讀誦金光明最勝王経千部山門鎮静□□」「天明□□申~」
・五輪塔:「空□火水地」、・大東亜戦歿塔 終戦四十七年記念、
・日露戦死塔 明治四十三年、・征清戦死塔 明治廿八年、・墓石:五輪塔4、破片1、・手洗石、・石塔、・地蔵、・墓石観音、・?墓石:円筒形笠付き、・観音墓石2、
・地蔵:?墓3、・如来:墓2、・新:無縁供養塔、・鐘楼、・?千体水子地蔵、
・童子童女墓石(古:観音、古:地蔵2)、
 有住、駐車場有、Tel:0537-27-1050
’16 1/2
・常現寺への経路
常現寺:JR掛川駅から掛川バス東山行日坂下車、日坂宿より700m、徒歩10分。


・粟が岳から24番への経路
今は舗装された自動車道もあるが、古くからの日坂宿からの登山道が旧巡礼道「無間山観世音道」で約1里半:6㎞ある。大尾山に次ぐ標高で第二の難所である。なお自動車道を自転車で登る自転車クライマーたちがいて、頂上売店のノートに記録を記すようだ。通称:坂バカというクライマー・サイクリストなら一度は上ってみるとよい。走っているランナーもいたので、高低差好きランナーは上り下りすべし。
自動車道は狭いが待避所は処々にある。しかし待避所が近くにない所で鉢合わせしたらどちらかがバックして待避所まで行くしかない。
JR掛川駅から掛川バス東山行東山下車徒歩5分で登山口、
粟が岳山頂の旧観音堂までは日坂登山口から徒歩180分。
24番まで5㎞、徒歩90分。
昔の古道は山頂から北へ越し、今の林道松葉千石線(山頂から自動車道で1㎞下りた地点で分岐)で倉真松葉に行く道に出る。北への枝尾根が延びた地点で林道から離れ東に下りるコースであるが、現在の国土地理院地形図にも点線が記入され安田(大代安田2904:池田氏宅前)の農道につながっているが、現実には、道らしい跡は見つからない。尾根を我慢して下りて行けば途中で踏み跡や切通しがあるのかもしれないが、林道からの分岐点辺りからは道の痕跡はない。また池田氏宅前から600m農道を西に詰めていくとコンクリ道が終わり、廃棄茶園と植林地になる。ここを雑草枝葉だらけになりながら這いつくばって道探しをしたが見当たらなかった。この件に関し安田の長老:大代安田3143:杉山成氏に話を聞いた。池田宅前から農道が西に延びているが、この道は茶畑のためにあえて作った道で、昔ここに道はなかったそうだ。そして巡礼道と云えば昔から以下の道だそうだ。
巡礼道は粟が岳を下って安田アンダ(ヤスダと書いてアンダと読む)集落の北西に出たようだ。山頂南面の自動車道やハイキングコースが通る方と安田がつながっている。山頂からハイキングコース(古道)を下ってきて一旦自動車道をまたぎ越した、その下の地点で、安田からの狭い農道(軽トラック道)とハイキングコースが交差する地点がある。おそらく自動車道で山頂から1.5㎞地点に狭い農道が左から合流する、その合流地点から農道を100m進んだ地点ともいえる。今は農道だが、おそらくそれなりに昔から道があるのではなかろうか。古道を下ってきた人で安田方面に行きたい人はここで今は農道になっている道を進めば安田に行けるのだ。この軽トラック道の農道が杉山氏が教えてくれた道である。また24番札所の御朱印所の下島氏の奥さんも安田から粟が岳南斜面の軽トラック道を通って昔粟が岳のお祭りに行ったと話してくれた。
ここで国土地理院地形図に掲載されている上記ルートの粟が岳北東枝尾根からの破線について考えてみる。現在はこの破線の内、池田氏宅前から600m西までは農道があるので、道があることは当たってはいるが、元来道が存在しないところである。本来の道は粟が岳南斜面から安田に至るルートであり、どうも地形図作成担当者が尾根の位置を間違えて記入したのではなかろうか。この間違いは地形図によく散見される。国土地理院はきちんとこれらの間違いを訂正すべきである。
杉山様お話を聞かせて下さりありがとうございます。
ここで話を安田に戻す。
そして安田の大シイの木やお堂の前を通過する。
○安田アンダの大シイの木:石塔2、鳥居、祠、
・お堂:・祠、隣は地区公会堂、
大シイの木から安田集落内を南東に150m進み、北へ向きを変え400m進む。茶畑内で道が2方向に分岐し眼前に大井川方向の広々した景色が見える地点に達する。
・石道標:四角柱:「向 右金谷町 左安田松葉東山村」「向左大代ニ通ズ」
 ~*この四角石柱の向右(北)は茶畑での大代四分一方面になる。茶畑農道を進み北の右奥の下に切通し山道を発見。おそらく傾斜は緩やかで道幅一間で近代の道で大八車やリヤカーで通行可能だったと思われる。標高差60m、上り下りとも10分。下りきると大代四分一1527:渡辺氏宅前道を山奥に150m進んだ所の沢向に出る。苔むしたコンクリ橋があり、渡って林道を30m下った山と平地の境目に石仏がある。
   ・馬頭観音:文政四巳年九月吉日:昔からここに祀られていたかは不明、
    なおコンクリ橋から林道を山奥に30m進むと右(北)の山斜面に切通しがあり,山上の高圧鉄塔に向かって延びている。この道は鉄塔経由して安田の北の茶畑に至る古道と推定される。未確認。
    これらの道に関しては大代四分一1430~1501のいずれかの御宅の山中氏の老父から話を聞いた。ご協力ありがとうございます。
四角石柱に戻り、右(東南)に道を150m進む。
・石道標:「二十四ばんミち」
この石道標下に山道が続くが、すぐ下の茶畑で途切れる。しかし茶畑の下端のコンクリ擁壁の下を探ると、あった。古道の切通し道の痕跡がある。切通しに従い下っていく。倒木、草木でまともな道ではないが、通過はできる。標高差100mで下りきって平地の茶畑に出られる。その出られる所が一番汚い。あとで帰り道を探すとき入口がぐちゃぐちゃですぐ見つけられず、うろうろ探し回った。ゼンリン住宅地図にも細線が残っている。下りきって大代森ノ谷1180⁻1渡辺さんに話を聞いた。
石道標を茶畑と道路の境の縁石にして埋め込んだそうで、今縁石にしか見えない石をひっくり返すと、「二十四ばん」と書いてあるそうだ。今度立てといてあげるよとなった。知らなければ絶対分からない話でした。今度石道標を見られることを楽しみにしています。
安田と森ノ谷間の廃道部分:下り10分、上り15分、標高差100m、
’16 1/2,3
前回、見られなかった石道標を見に行った。埋められていた石を掘り起し古道沿いにたててあった。渡邊さんには御礼を述べておいた。
・石道標:みぎ二十四ばん:「ば」の字は変体仮名の者(「む」に似た字)で蕎麦屋ソバヤそむやと同じ。
森ノ谷から石道標通り、右のコンクリ農道を行く。あまり利用されていないらしく狭い道だ。300mで久昌寺前を通過する。
○久昌寺:
・石塔2、・山門:・如来:時文政七甲申年正月樂日発願主現住悉真代村中家内繁栄、・六地蔵、・地蔵:座:2:正月十四日、・神祠2、・祠:・石仏:明和四丁亥壬九月吉日大墓瀬村(見ざる言わざる聞かざる付き)、・祠2、・秋葉堂:秋葉燈:木造トタンで燈は木造、
大墓瀬オオボカセ橋を渡る。
~(周辺紹介)~
・大代神社:
・法昌院:・六地蔵+1、・石塔、・大日如来、・鎮守堂、・水琴窟2、・石碑:五和西小跡地、
大墓瀬オオボカセ橋から1.2㎞東進すると影島の左の山際にお堂がある。
○影島のお堂:・石塔:破片、・布袋か大黒:破片、・如来:破片、・観音、・地蔵、・庚申供:折れてる:嘉永五年子十二月吉日□□□□□□、・手洗石、・(梵字)悟共密行禮旦、
400m東南へ進むと影島橋がある。この左100mの山際に祠がある。
・祠:弘法大師堂、弘法大師:石塔、井戸:弘法井戸?
南の山上にも祠が見える
・祠:神社、
影島橋から150m進んだ県道から脇道への入口に24番への石道標がある。
・石道標:二十四番観音寺:楷書体で近代製?

~安田から志戸呂の行者塚方面へ行く新道コース~
安田から台地上の広い新道を通り志戸呂方面へ行く途中、水調整タンクがいくつか見える辺りに石碑がある。
・新:石碑:安田原造成記念碑「茶心」昭和62年頃?
1㎞南に進むと大代と志戸呂の境目辺りで、高電圧鉄塔がある辺りに祠がある。
・祠:石仏:不動 火除 羽□□□□□


・第二十四番 岩崎山 観音寺(島田市志戸呂839⁻1、しとろ)いわさきざん かんのんじ  
 創建:応永期1394~1428か、開基:江戸中期に久翁長公座元が開山、本尊:十一面観世音菩薩:木造立像87㎝、宗派:曹洞宗、開帳:毎年秋彼岸、縁起:、明和年間1764~72に観音寺坂からここに建てられたと云われる。新東名工事により平成13年2001に観音堂移動再建。解体した堂宇芯柱に「文化十年1813再建成す、天下泰平 国家安全 五穀成就」
金谷坂の曹洞宗金龍山洞善院(島田市金谷町峰)の末寺、江戸期初期まで観音寺坂途中にあったと伝えられる。江戸中期の長公は薬師如来を本尊として開創した。長公は元禄二年1689四月末示寂。観音寺坂は人家から遠く盗賊も時々出没するので明和年間1764~72に海牛見老和尚が寺を現在地に移し堂を建て中興した。
志戸呂:遠州七窯、志戸呂焼き。附近の行者塚(観音寺坂と掛川坂を上りきった台地の頂上合流点、埋もれていた石塔が安置)は堂守の尼僧が自殺後葬られたところと云われる。

・三十三観音を刻んだ石塔1基:宝永五戊子ツチノエネ年1708六月吉日、観音堂左横、とても珍しく文化財級、
・観音堂:古い厨子の中、准(てい:月ヘンに氐)観音、通常准(てい)観音は3眼18臂(腕)だがこれは2眼2臂、准提観音とも書く、七俱(月ヘンに氐)仏母シチグテイブツボと呼ぶ。あらゆるものを清浄し諸種の願いをかなえる。准提観音は京都伏見の真言宗上醍醐寺本尊で西国三十三所中ただ1か所で、遠江三十三番でもここだけである。
弘法大師立像。方形造り、正面の蛙殿が鳳凰。仏壇に鐘:遠江順礼廿四番札所 天保八年丙八月吉日 当国下垂木村 山崎弥五郎 奉納
・御詠歌の額:明治三十四年九月 見附町 高塚金三郎 奉納
・御詠歌の額:大正二年秋彼岸 横須賀念仏講中 
・法楽発句の額:文化十酉年1813 施主 高田良平 
~追加~
・笠付石塔:刻字?、・観音:四(西?)国□□ ?宝永六、朋順禮供養(?)辰七月、
・地蔵3、・丸石と自然石、・祠:地蔵、
・10m東に離れて、・祠:如意輪観音、・地蔵、
・さらに50m離れて、・石塔?、
観音堂のすぐ裏は新東名高速高架壁だが、雰囲気はよい。隣のプレハブ小屋はきれいな和式トイレ、
無住、駐車可、Tel:0537-46-2407、御朱印は手前の下島氏宅(大松園)である。下島さんの奥さんより、昔、粟が岳のお祭りに行ったことがあり、南斜面の軽トラック道農道を通ったと言われた。
○大井八幡神社:東へ100m:・おそらく新東名工事により再建、・石碑、・庚申供養塔:刻字が新しいので昭和55年か萬延元年か、・新:石鳥居、・新:手洗石、


・経路
JR金谷駅から4㎞、徒歩60分。
23番から参道を東に下り、奥貝戸から安田を経て島田市旧金谷町に入る。
・標柱:入口の三叉路:遠江廿四番札所? 
・古い道標:文政五年壬午八月? 

25番まで5㎞、徒歩90分。
24番より25番へは、影島橋へ戻り更に30m進んで、左の谷北橋を渡る。道なりに奥に進み、谷北集落奥のため池の裏を目指す。ため池裏の奥に進み左への道を取り、小川を渡ると目の前に薄暗い掛川坂が現れて来る。特に石塔類は見当たらない。道中は丸石がごろごろしている。おそらく昔はこの丸石で石畳にしてあったのかもしれない。谷北からの入口には標識類もない。
~ここからは24番より、観音寺坂入口までを行く。24番入口の県道から県道を南東に300m進む。右折して150mで昭代橋を渡る。上志戸呂公民館前を通過して第2の橋も渡りすぐ右折して細い道を山の尾根の中に入っていくと観音寺坂になる。入口に道祖神がある。
・石家道祖神:、
~(周辺紹介)~
・番生寺公会堂:石仏等、元は寺、
・大井神社:
・円融寺:
・八幡神社:


・・・掛川坂と観音寺坂について
 以前調べてブログにアップしてあった文章を原文のまま再度掲載する。この2つの坂が、そのまま24,25番の巡礼道の古道でもあり、24番札所はかつてこの坂の途中にあったといわれる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  
*「・掛川坂(島田市金谷志戸呂~行田原~小鮒川)              
 1603年より11年間、東海道として使われた。しかし源頼朝の軍勢も利用したというので平安末の12世紀後期には利用されていたことが分かる。
1600年徳川家康によって制定された東海道はJR金谷駅裏金谷坂石畳の有名な道の方だったが、1603年洪水で島田宿が消失しやや山側の元島田(島田市民病院や鵜田寺所在地)に移転し、島田市大鳥、大井川渡河、牛尾山、島田市(金谷町)志戸呂谷北という古代中世ルートが復活し、1614年まで正式な東海道になった。
牛尾山南端から五和小、五和駅付近を西進、県道81号線大代方面に進む。山の先端部の大井神社に近づいた頃、南の谷北に折れる。谷北集落用水池の奥、茶畑の隣、杉桧植林地の突端に廃道となった切り通し「掛川坂」が薄暗く入口を開け山腹を上っている。冬から春先までなら雑草少なく蜘蛛の巣もないので、気色悪くても倒木や雑木をかき分け進むことはできる。丸石が一面ころがっているところがあった。もしやかつて石畳だったのだろうか。10分程上ると舗装道路(谷北と行田原を結ぶ道で上りきると行人塚前に出るいわば現在の新掛川坂である。出たところは山の中腹にあたる。)に出る。ここに朽ちかけた「掛川坂」案内板が落ちている。舗装道路は山腹を横巻きしてなだらかに行人塚にいたるが、「掛川坂」は真上の茶畑に向かい簡易舗装になった狭い農道として上っていく。上りながらやや左(西)の山頂部(行人塚所在地)をめざすと迷いにくく、10分程である。上り切る手前だけ土道になり山頂平坦部の道と合流し30m先に行人塚があり、先ほど横断した舗装道路とも合流する。行人塚は「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」の石仏が祀られている。(「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行 p.411 参照)舗装道路を広い平坦部に向かいまっすぐ進むとこれが小鮒川集落に向かい降りていく掛川坂旧東海道ルートである。途中左折路のあるところで石道標がある。「右 日坂 こぶながわ ?ひだり(巡れい)二十□(五)みち 九代□□」。 確かにこの道を左折すると遠江三十三観音霊場巡りの二十五番に行く道だ。逆に戻り掛川坂や観音寺坂を下ると、二十四番観音寺に行く道となる。
(石道標はこれからの物も含め4つあるが、摩滅が進み判読困難である。過去に判読された資料を探す方がよい。掛川坂道から粟が岳等に分岐する道を標示している。「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」には三つ載っている。)
水道タンクのあるT字路に当たり、ここにも石道標「右□ これより中日坂 左?しとろ」がある。曲がらずタンク横の狭い土道を直進する。タンク用地を抜けたところで石道標「□□□□□□□年一月大吉三□□ 右 無間山安田西□□ 左?こぶながわ 御願梵□増威国家安穏衆宇喜樂」がある。数本の道が交差しているが、ここもまっすぐを基本に進む。石道標「右 こぶながわ 左 中山日坂」のある左右分岐Y字路に出る。一旦左に進むと茶畑で農道は切れ、眼下に小鮒川が見え、登山道が植林内を下っていく。先ほどの石道標のあるY字路に戻り右に進むと、右の尾根沿い道と左の植林された暗い谷道に分岐する。どちらも軽自動車で通れる。左に進むと道なりに小鮒川集落に出られる。この途中道が広くなり右直角に曲がり小鮒川集落に出る直前、下に茶畑の原が見えるところで石塔「藤六地蔵」と地蔵「地蔵堂」が祀られている。(「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」参照) 刻字は読めない。多分この道が旧東海道かと思われる。なお、右の尾根沿い道を通っても、茶畑内を紆余曲折すれば小鮒川集落に出られる。


観音寺坂(島田市金谷志戸呂~行田原)
「掛川坂」の行田原を上り詰めたところを行人塚と言い「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」の石仏が祀られている。これは地中に埋まっていた物を祀り直した物だそうだ。 横に坊僧墓地と書かれた札が刺さっているところもある。 ここから西の掛川坂や南の舗装道路をたどる島田市(金谷町)小鮒川集落方面への道でもなく、ここから尾根沿いを真下に下る登山道がある。数分下ると茶畑と舗装道路によって寸断されるが、舗装道路を横切り尾根沿いを目印に下ると簡易舗装の農道を下れる。これが「掛川坂」より古い「観音寺坂」である。簡易舗装農道や茶畑内の登山道をなるべく尾根に沿うように下っていくルートが正式な旧道と思われる。農道が旧道だったり逸脱したりするがおおむね尾根付近を通っているので迷うことはなかろう。途中一カ所墓地があるが、ほぼ全て茶畑の見晴らし絶好のルートである。簡易舗装路は軽自動車でぎりぎり通れる。尾根の突端で集落に出て大代川や昭代橋、地区公民館がある。昔から村の中心部だったと考えられる。「観音寺坂」の由来は昔中腹に観音寺という寺があったためだという。下りきった上志戸呂の大井神社西には遠江三十三観音霊場二十四番の観音寺があり、そちらのことを指すとも考えられる。
この坂は「掛川坂」より古いと云われる。尾根を通っていて、掛川坂より距離が長い。掛川坂は短い分傾斜はきついはずだが、そうとは感じられない。楽をしたければ掛川坂の方が良さそうだ。
但し現在掛川坂下方は廃道同然なので、草刈り整備が待たれる。観音寺坂は寸断が一箇所あるが隣の茶畑を迂回すれば十分ハイキングコースになる。どちらも文化財としての古道なので出入り口に標識等の設置が望ましい。

参考資料
「平安鎌倉古道 鎌倉~京都」尾藤卓男
「金谷町史 地誌編」
「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行
「2万5千分の一地形図」国土地理院
ここまでが以前の文章である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 


・経路
掛川坂か観音寺坂を上りきって行者塚を過ぎて、現在台地上の茶畑になっている道を南西に200m進むと分岐点に石道標がある。「右 日坂 こぶながわ 大代村 ひだり 巡れい 二十五ば(者)ん 九代」。この表示での、左が25番札所への巡礼道であることは正しいので、石塔の表示も正しいということは石塔の置かれた位置もおそらく正しいようだ。
たいてい石塔類は近代以降の道路工事や区画整理等で適当に移動されてしまうことが多く、表示内容と現実があっていないことが多いし、表示が正しいように思えても、実はそれなりに移転されていることは多い。
石道標から茶畑内の農道を進む。30mで右方向へ道を取る。600mで諏訪原方向への石割峠道(ホテルミカザト前の道)に出る。この広い道を南南東に200m進むと、西側の現在は台地上の茶畑とその下の斜面の境目の道を進むことになっているが、今は道もない所があるので、とりあえず、この広い道を西斜面から目を離さないように進む。600m進んだあたりで右折して茶畑内の狭い農道を進み、南西の斜面を降りホテルミカザト前の石割峠から小夜中山に下る旧国一:現在の県道:昔の中山新道に出ることになる。その手前の茶畑を下る直前に石道標がある。
・石道標:表「左二十五ば(者)ん」右「みぎ日坂」:楷書で近代製
この石道標に従い茶畑斜面を下ると、旧国一:県道に下り、更に100m下ると左に間の宿菊川に下る道がある。
話を少し戻すが、石道標のある農道を下るより少し手前の茶畑を斜面に下り、植林地内の切通しを下ると、間の宿菊川に下る道分岐点より20m先に出られる所もあり、こちらも古道かもしれないと思える。
県道より左折し閒の宿菊川に下る。途中右折し宗行卿塚に行く道がある。右折し下る。
国1バイパス直前に宗行卿塚がある。ただし昔からここではなく幾度か移転している。
・宗行卿之塚:
・宗行卿之塚移築記念の碑:
・自然石2、
・五輪塔:
そして塚の前の道はバイパスの下のガード道につながるが、ガードを抜けると雑草だらけで道が不明である。多分ガードを抜けて左に進み下ると、下の法音寺の裏に出て川の土手沿いに高麗橋前に出られたはずだ。ガードはあるからここに道があった証拠だが、ガードを抜けた先の道は不明だ。
宗行卿塚から元来た道を上に上って戻りかかると、右に下る道がある。右に曲がると法音寺前に出る近道である。また元来た道を戻っていき、あらためて間の宿菊川に行く道を下ると、途中で旧東海道菊川坂を分断して菊川に下る。
~法音寺前近道~
右に曲がり下ると地域の墓地が左に見える。右方向に寺が見える。辻に祠や石道標がある。
・祠:地蔵、
・石道標:従是宗行卿之塚道 ☜是ヨリ宗行卿□□
さらに下ると法音寺前に出る。
○法音寺:
・石碑:門内禁葷酒、・地蔵、・石塔、・五輪塔、・石仏、・地蔵2、・観音、・六地蔵、
~菊川坂分断道~
菊川へ下っていくとバイパス高架下で旧東海道の菊川坂を上下に見ることになる。この道がちょうど菊川坂を分断している。以前は分断地点より上の道はコンクリ舗装された農道で私は車で通行したことがあった。後にコンクリ舗装をはがすと下から石畳が出てきたのだ。また金谷の方の金谷坂も昔は車で通行できた。一部だけ石畳が残っていて車が上下に跳ね上がり通行しにくかったが、これが旧東海道の石畳の残存だと思い、よく残ったものだと感心していた。ただその頃地元の一部には石畳は通行に不便だから石を取り除いてほしいという声があった。後に東海道ブームとなり、金谷坂の石畳復元となって表立った反対もなく車通行禁止の観光歩道:旧東海道になりほっとした。ちなみに菊川坂も車通行禁止になったが、隣に代替農道ができた。菊川坂の分断された下方部分は以前もっと狭く茶畑の野良道だった。ここも地面を掘り起し石畳を発掘したため道の地面が1mほど下がったし、道幅が広がった。これが江戸時代の東海道である。ここから石畳を下る。左から先ほどの分断自動車道が下ってきて合流する。合流地点から閒の宿菊川の里である。
・説明版:間の宿菊川アイノシュクキクガワ

3軒通過すると右に法音寺参道となり、先ほどの法音寺近道もここで合流する。更に東海道を3軒分下ると高麗橋手前の辻となり、石道標が2つある。本来なら宗行卿塚からバイパスガードをくぐり法音寺裏から土手を伝って来た巡礼道がここで合流するはずだ。
・石道標:右二十五ば(者)ん、・石道標:みぎ二十五ば(者)ん道、
高麗橋を渡らず南南東に進むが、すぐ右の川土手に地蔵がある。
・慈眼延命地蔵尊:
高麗橋手前辻から150mで左折し山際の一段高い道に入る。上りきった辺りで堂がある。
・地蔵堂?:地蔵が祀られている
・石仏3、・手洗石、
400mで下の広い道に合流しそうだが、左に山際の旧道が見える。この山際道を150m進み菊川松島1369⁻3:村田氏宅前に出る。おそらく古道は更に南の1352⁻2-1:岩本氏宅か1377:山本氏宅に出たのだろう。そこから右折(西)し松島橋を渡る。橋手前の新道交差点に献灯がある。
・秋葉山献燈:、・石家道祖神2、
橋を渡って150m進むと道標がある。
・石道標:「南無大慈大悲観世音」「右廿五番順禮道」「宝永七年卯月十五日」「金谷十五□町」
菊川松島1447:山本氏宅横から旧参道を50m上っていく。お堂の前道の下に出る。ここに石仏がある。
・地蔵2、・観音:6臂:庚申か?、・石塔2:扁平石、
すぐ上は25番のお堂である。’16 1/17


・第二十五番 松島山 岩松寺(島田市菊川1447、きくがわ) まつしまざんがんしょうじ  
 創建:天和元年1681辛酉霜月念四日、開基:文宋大和尚、本尊:聖観世音菩薩:木造金彩色立像63.5㎝、創建当時は十一面観世音菩薩、明治16年修繕、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣昭和35年秋、平成2年秋彼岸、次回2023年、大正10年秋荒廃が進んだため再建、縁起: 
はじめ功徳山福寿院とよび金谷宿の洞善院の末寺。一世は嘯山尊虎首座ショウザンソンコで上菊川にこの寺を開基し本尊は聖観音であった。しかし「大正九年の勧化状」では「天和元年酉1681十一月 文宋和尚が建立する」となっていた。奉納される仏壇前提灯には十一面観音と書かれている。「大正九年の勧化状」のもとは旧厨子背後の墨書であろう。「天和元年辛酉カノトトリ霜月念四日 欽敬白 奉造立斯地蔵殿 壱宇 文宋代也 願主 高木治三郎 雲母キララ浩右衞門 宇野□良兵」によったのだろう。堂内の新しい厨子の中に安置されるのは正観音、堂の南の石像も正観音である。
 無住、境内は手入れがされている。駐車可能。
・奉納帳:喜捨の範囲が相良方面一円にわたっているので観音信仰がいきわたっていたことが分かる。
・千手観音:松島中 八十二番 
・弘法大師石像2:当駅松浦文右衛門 八十二番根香寺 
・聖観音像、
・歩き観音:伝説:火剣山の山道にひっそり立つ観音様を里人が観音様が淋しいだろうと思って背負って小夜の中山峠に来て、ここなら人が多いので退屈しないだろうと思って、道端に据えて帰った。翌朝火剣山に草刈に行くと観音様が元の場所にあった。しかも足下がほこりまみれで…、観音が自分で歩いて帰ったのだろうということで、以後歩き観音と呼ばれ足腰の痛みに効き目があると言われる。
☆疑問:いつ十一面観音と聖観音の本尊が交代したのか?
~追加~
・順拝供養(冠と作りを左右にした美良)塔 四國八拾八霊所西國三拾三霊所坂東三拾三霊所秩父三拾四霊所遠江三拾三霊所大正三年九月建立松嶋山本伊右衛門(他数名)
・手洗石2、
無住、駐車可、Tel:0547-45-4988、御朱印は菊川松島1483:山本氏宅である。
お堂前の農道を菊川町富田方向へ150m上るとすぐに大松峠となりやや下る。その右に地蔵が祀られている。’16 1/17


・経路
 JR金谷駅から4㎞、徒歩50分。
24番から4㎞。
菊川の高麗橋のすぐ東の三叉路、道標「廿五番道 下菊川村」
菊川を渡った観音堂への道端には道標「廿五番巡礼道、宝永七年卯月1710」(高さ90㎝、幅奥行23㎝)
急坂200m。
堂は丘の上にあり、下から上る細い道筋に地蔵や道祖神が草に埋もれている。石段は33段。’16 1/17 すでに石段はなく、側溝の流路になっていて、その横を歩ける程度になっているといったところで、歩道にも見えない。一応上って上の舗装路手前に前述した「・地蔵2、・観音:6臂:庚申か?、・石塔2:扁平石」がある。
26番まで1㎞、徒歩20分。
~推定古道~
25番から大松峠に行く舗装路を50m進み、島田市(旧金谷町)菊川松島と菊川市富田の境界線の大松峠直前で道が右カーブする。古道はここからカーブせず、西斜面の山林に入っていく。(菊川松島1483:山本氏に教えられた古道)ルートである。既に平たい道型はなく、雑草だらけである。すぐ5m先の右上で睨み付け威嚇し逃げようとする者がいた。灰色で体長80㎝のイノシシだ。片足を罠にはめ逃げられずもがき、こちらを威嚇してくる。体長からして子供のウリ坊を卒業したばかりなのだろうが、残念ながら人の罠にはまって万事窮すだ。こちらは古道を見たいので、罠から逃れこちらに体当たりをしてこないか気を付けつつも無視する振りで、前に進み少しずつ高度を下げていく。山本氏の話だと、大松峠への道から山の西側斜面にそのまま入って、斜めに下がって行くのだそうだ。確かに斜めに50m下がっていくと幅1mの道型が出現してきた。山林竹林内を50m進むと道型がなくなり、斜面が崩壊している。その上部の竹林内を進めそうだが、ここでやめた。ゼンリン住宅地図では菊川に向けて斜面ががれている地形が記入されており、おそらく道が崩壊したのだろう。しかもこの先でまた崩壊して、以前神谷城から進んで、道型がなくなった所に至るのだろう。その距離ここからおそらく300m以内と思う。あとは道は上り下り少なく300m進み神谷城西深谷につながっていくはずだろう。
杉檜植林地と放置竹林となっている所を300m抜ければ、道幅一間1.8mの道型が残存している所に出られる。とはいっても道ではなく、倒木雑草だらけである。。200m~300m進むと茶畑に出る。ここで茶畑の手前脇をまっすぐに下り、茶畑を過ぎてもなお100m下る。瓦が積まれ手洗石が置かれている3m四方の平坦地に出る。ここはかつて神社だったそうだ。さらに10m下ると、沢横に出て右沢奥には砂防ダムが見え、左下の平坦地に廃屋小屋があるので、左の廃屋小屋に10m進むと、神谷城西深谷の集落北の線路際の雑草だらけの廃墟地に出られた。線路際を南に50m目指すと、現在の集落が見えだす。線路際の道を猶南に進み、下に下り切ると、左に神谷城の線路下ガードが左に見え、26番札所は反対の右に見える。’16 1/17, 24, 2/7

~新道~
松島橋へ戻って渡り、新道の交差点:秋葉山献燈のあった所まで戻り南に向かう。400mで西方寺横を通過する。600mで東海道本線をガード下でまたぐ線路下ガードに達する。右のガードをくぐる。左に100mで26番である。’16 1/17


・第二十六番 杖操山 妙国寺(島田市神谷城妙国寺1609、かみやしろ) じょうそうざんみょうこくじ  
 創建:元和2年1616丙辰、普門山明国寺開く、開基:享保元年丙申1716、5月14日、金谷町洞善院九世実参黙真大和尚、普門殿観音堂を現在地に移した。黙真は享保元年1716五月十四日示寂。文化年中、山号を妙光山と改めたが明治末年に三転し杖操山とした。本尊:十一面観世音菩薩:木製座像30㎝台座金製、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎、昭和48年1973九月、第15回目の開帳、平成18年秋彼岸、縁起: 
神谷城の地名から菊川に続く隠れた要路であり、戦国期には隠棲する人々が住み着いたようだ。境内はよく手入れされている。
周辺は明治5年まで神谷村といっていた。明治8年東深谷、石神の2村に分かれた。明治12年3月城東郡西深谷と3村合併し神谷城村となった。明治23年金谷町に編入。
寺は現在より300m上った寺の跡:テラガイトに普門殿という観音堂が創建された後に寺になったということが妙国寺過去帳に記されている。
壁に「砂の灸」と書かれている。足を砂の中に入れて足型を取り、ツボになる所に灸を置いて火をつけ、住職がそれに祈祷したあと、身体の3か所に灸をすえるものだそうだ。無住、隣家:堂守:落合家だったが、別の寺の管理となった。
・標柱:ここ廿六ばん:入口
・句碑
・堂:六地蔵
・大師堂:菊石3個:(榛央八十八か所)八十一ばん 千手観音:神谷城中、大師像:志太郡島田宿 浜田皆吉 白井 増田 
・菊石:菊川周辺で産出される石で、表面に菊花模様のような放射状の割れ目が多数生じるものである。
~追加~
・如来、・地蔵、・献灯、・丸石4、・自然石2、・手洗石、・明治百年 昭和四十三年、
無住、駐車可、Tel:090-1562-7811、別の寺が管理している。
’16 1/17,24


・経路
JR金谷駅から4㎞、徒歩50分。
27番まで6㎞、徒歩90分。
寺の北に向かうと裏山への古道ルートに上って行ける。寺のすぐ北隣の無人の家は落合義男氏の御宅:神谷城1571⁻1であった。地図「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼みち」を作った方であるが、すでに物故されている。さらに隣の増田氏に会い、遺族と連絡してもらったが、遺品類の整理はまだまだのようだ。
ここでご遺族へのお願いがある。落合義男氏の「遠江三十三所観音霊場巡礼道」に関する資料は保存してもらい、将来的には遠江三十三所観音霊場事務局か隣の妙国寺、或は島田市立郷土資料館に寄付していただけないだろうか。多分今となっては消失してしまった古道や石道標に関する写真やメモが残されているのではないかと考えられるので。
落合氏のまた隣の増田氏:神谷城1569には落合氏の遺族に連絡を取ってもらったり古道を教えてもらったりととてもお世話になった。
*増田様、落合様、お忙しい中、ありがとうございました。
さて話を戻して、寺の裏山道を上る。寺の真裏に神の祠が祀られている。
・祠:
100m進むと右にも道がある。ここに2つ石道標がある。
・石道標:「本標 右富田ヲ経テ廿七番道 正面金谷町ニ通ズ 左友田近道堀之内ニ通ズ」「大正十四年四月」「□□金谷□□□」 
・みぎ十十七:この石道標はかなり近代の物なのか?
古道はこの辺りでおそらく直登したものと思うが、今は道がないので、右の道を進む。茶畑農道を進み菊川町富田境界尾根手前に石仏がある。
・観音
・奉拝庚申供養塔 城東郡西深谷村 明治十四年(見ざる言わざる聞かざるの彫)
ここから先は左(南)の山の頂上の鉄塔めざし、庚申塔前で左折する。頂上に鉄塔があるが、其の20m手前に右(南)に下っていく山道があり、それが古道ルートである。100m進むと左右に道が分かれるが、左道は50m先のゴルフ場の巨大給水タンクで行き止まりだ。右道を50m下るとゴルフ場直前で古道は消失し雑草だらけとなる。強行突破してゴルフ場に出たら、電気柵があり、ホロンゴルフ場職員に不審者として見つめられ続けたので、そそくさとまた雑草だらけの中に入り込み元来た方に戻った。’16 2/7

先ほどの石道標のある右に曲がった所まで戻り、直進してみる。
菊川町富田境界手前で道は崩壊していて車では通行不可だが、徒歩なら越えられる。手前の茶畑内に五輪塔がある。
・五輪塔:5~6個で破片も混じる
境界尾根は切通しが見事だが、カラカラサラサラ音を立て崩落が止まらないようだ。富田側は埋まっているが20m先からは舗装された農道になっている。
この辺りを突破できてもこの先はホロンゴルフ倶楽部場で道は消失しているはずだ。
一旦25番札所前を通り、26番札所から境界線尾根を通過して今はゴルフ場になっている山地を抜け、富田側に抜け出たと推定される所に行ってみる。
富田2380:村田氏宅より北に50m行った東側斜面を上る。開墾記念碑がある。
・石碑:「開墾記念 耕心 平成14年10月完成 村田一彦 施工者(株)村田建設」
ゴルフ場側から、このあたりに巡礼道はきていたようだ。現在砂防ダム左横へは金網が張られ立入禁止看板が立てられたうえ、雑草だらけでどうもこうも入れる状況ではない。付近住民から順礼道かは判然としなかったが、昔は砂防ダム横から山に入って行けたと言われた。道を西に下り、先ほどの村田氏宅前を通過し、250m先の川向かいの富田2476-15:村田氏宅前で、右に曲がり、ここ東富田から山向うの西富田側を目指し、茶畑山を農道に沿い上っていく。ちょうどこの交差点に火剣山と赤子石への表示が出ている。右に曲がるとメインの道は右カーブを描きつつ右(北)を目指すが、それは火剣山へのコースなので、すぐ左(西)に曲がる狭い軽トラック農道に入っていく。それが赤子石方向でもある。富田2467₋2:村田氏の話では、ここを昔白装束の巡礼者が通ったことがあるそうだし、石道標もあったそうだ。上りつつ西南をめざす。450mで石が祀られている。
・赤子石:(27番札所、永寶寺住職:大嶽氏談)朝日か夕日を受ける石が赤くなるので赤石となり、それが転化して赤ちゃんの夜泣きに効能がある石ということになったのだろう。富田の老女に聞くと赤子石にお参りすると赤ちゃんの夜泣きやみに効くそうだ。
ここを直進する。150mで石道標がある。
・石道標:「これより右□順礼道」
・石道標:「右二十七番札所ヲ経テ日坂三里 左吉沢和田ヲ経テ□□下二里」
ここで道は右であり、150mで鉄塔右横を通過する。100mで左にこんもり木が茂る所がある。
・馬頭観世音菩薩:明治廿九年十一月五、
・祠:不動尊:
・祠:千手観音:
・石柱2:
50mで右へ下って集落内で広い道に出るか、直進して集落内で広い道に出てもよい。
直進していくと500mで右カーブして又左カーブする所に用水池と祠がある。
・祠:神を祀るようだ。
50m先に堂がある。
・堂:大日如来:菊川地蔵尊巡り第5番永泉寺、羊申年生まれの年寄りが集まってはお祀りしている。
堂の下は公園である。道を右に曲がり、公園横を通過し下ると広い道に出る。ここに石塔がある。
・庚申塔:享保五庚子年庚申元、

~周辺~
赤子石の150m南の石道標から左(南東)へ900m進む。平地へ下る手前の丘上に祠がある。
・津島神社:・手洗石、横に古道の切通し道がかろうじて倒木や雑草の中に残存している。
 100m南に進むと平地の広い道に出る。隣は富田東富田1077:鈴木氏宅である。ここに赤子石への案内表示がある。道向かいは富田東富田786₋1:サワイリエンジニアリング工場である。
150m南下すると広い道(公文名と友田とを結ぶ道)との交差点に出る。右折(東)して100mで右に神社がある。
○七所神社:・石鳥居:大正十二年、・石柱2、
西隣に石道標がある。
・石道標:「右里道 左東海道ニ至ル 御成婚紀念 西富田青年團」
道なりに西進していくと、先ほどの享保五年の庚申塔のある道出口に着く。

ここが西富田である。広い道を西進する。100mで北からの道とのT字路になる。ここに石道標がある。
・石道標:「右東海道 六  前小夜中山□金谷  左吉沢ニ通ズ  御成婚紀念 西富田青年團」
・水準標識らしきもの、
広い道を300m西進すると南へカーブする所で、右に入る狭い道があり、西へ直進し、ため池の北側に達するはずなのだが、その狭い道がない。一旦南カーブして次の右折で右に入る。山を開墾して平坦かつ広大な茶畑が広がる。ここで富田境界から西方へ入るあたりで、西に向かう尾根を探す。標高差5mの丘があるので上ると西への山道が続く。
・西への尾根道:距離700m、徒歩10~15分、山を開墾して平坦かつ広大な茶畑が広がる所の富田と西方の境界線辺りにはかつて三叉路の辻があったようだ(大嶽氏談)。境界線の西南端の所から西南の丘に5m上ると西南西に向けて細尾根の平坦道が続く。150m進むと茶畑手前に2m間隔で4つのコンクリが突き出ているものが2セットある。よく見ると元高電圧鉄塔の土台部分だ。鉄塔自体を取り外し、コンクリにつないだ部分を溶断して、コンクリ土台部分だけ残存しているようだ。ここまでは草刈りされて歩きやすい山道だったが、ここから草だらけの細尾根山道となる。150m進むと鉄塔があり、草だらけの道からちゃんとした鉄塔巡視路となり、下り道になり下りていくと、西方6728:高橋氏宅(棒杭といわれる家:永寶寺住職談)の北側に出る。おそらくこの道が古道の巡礼道と思われる。
舗装道路に下りれば永寶寺は池の向うだ。寺の直前の右に地蔵がある。
・地蔵
当地域で古い巡礼道を尋ねていると、27番札所永寶寺住職:大嶽氏に会うよう勧められることが多かった。
’16 1/24 2/7,11


・第二十七番 瀧生山 永宝寺内慈眼寺(菊川市西方6748⁻1、にしかた)りゅうしょうざんえいほうじないじげんじ  
 創建:未詳、中興:元和2年1616、開基:不詳、本尊:十一面観世音菩薩:木製立像、聖観世音菩薩:金銅製立像、宗派:真言宗、開帳:33年毎、縁起:
永宝寺の西南300mの所に公文名クモミョウから潮海寺に通ずる道があり、途中の村境の山の麓に慈眼寺という小寺があって今も慈眼寺屋敷という小区域がある。
浜松笠井新田の大楽院の子で当地に来て杉本坊といい、修験者:山伏で後に寿本法印と称した。杉本坊は慈眼寺の別当:住職となり、その子観滝院久仙法印が二代目になった。堂が大破したので、再建しようと、天和三年1683春、今の堂の後の山を一丈余りも崩したところ土中より消し炭が一俵ばかり出てきた。その中に金色の観音像があった。京都の仏師に見せると、弘法大師が唐仏で制作したもので17.5㎝の聖観音菩薩だとのこと。堂宇を建て観音を安置して開帳して、参詣者を集めた。更に17年後の元禄十三年秋にも開帳した。この聖観音以前は十一面観音であったので、今ではこれをお前立ちにしている。
寛永五年1628□上三右エ門様が御除地を寄進され、寛永九年の御墨付と二通所持している。(当山七世貴教院元誉 宝暦十一年1761六月記録する)
寺の持仏は不動明王で日切り不動尊、滝之谷法印とも呼ばれる。下池、中池を従えた小高い丘の上。観音は旧慈眼寺の本尊。潮海寺道に宝蔵坊と呼ばれる所があり、以前そこに寺があったという、寛文八年の鰐口に川村庄慈酬寺と刻せりとある。天和三年1638春、観音堂移築造営の折り、土中から聖観音菩薩像が出現した。
小笠郡唯一の修験道寺院、
・化石:堂の前に平たいすべしべした石、寺の付近は推定40万年の化石層群、太古は海岸線という。昔から近在では化石を使い庭石や飛石に使っていた。かつて化石を砕いて鶏のエサにしていたことがある。附近は今川、斯波両氏の古戦場跡で首塚、胴塚がある。
・十二支守本尊:石仏8対、寺の裏山、南から北に向かって子年生まれの聖観音から亥年生まれの阿弥陀如来が祀られている。
・弁天堂:弁財天、下池の浮島、寛政九年1797近江の竹生島から弁財天を勧請、雨乞いの弁財天。
・海棠:樹齢200年以上、4月中旬に満開の花、槇、梛ナギ:樹齢300年、
~周辺:やえん野猿:境内から対岸へ人力ロープウェイ2人乗りが掛けられている。
有住、駐車場有、Tel:0537-35-2975
~追加~
・石家道祖神:多数、・祠:石仏、・手洗石、・不動明王、・新:献燈2、・観音、
・石仏:南無阿弥陀佛 元禄五年、・庚申塔 大正五年、・石塔、・常夜灯の笠、
・昔は接待用の食物に工夫が凝らされ、当所では「枇杷湯」だったそうだ(大嶽氏談)。公文名の三叉路辻を西の掛川八坂方面へ500mへ進み掛川市影森との境界尾根を越える所の右上に祠が祀られている。永寶寺末寺のお堂があった所のようだ。
・祠:・南無阿弥陀仏、・石仏2:三面観音 


・経路
JR菊川駅から5㎞、徒歩60分。
26番から4㎞。
永寶寺から南へ進む。池の端に地蔵がある。
・地蔵:先述してあるが再掲する。
先述した棒杭こと高橋氏宅前も通過する。
400m進むと、公文名の三叉路辻に達する。
・石道標:従是左廿七番順礼道 西方村慈眼寺:公文名の三叉路の辻、高さ1.2m 
~追加~
・石道標:寺に入る三叉路:「右河城村富田ニ通ズ 正面堀之ノ内停車場ニ通ズ 西方村青年會公文名部 左影森ヲ経テ日坂ニ通ズ」、
・石道標:「左東海道へ通ズ」
・石道標:「右河城村方面ニ通ズ」
28番へ4㎞、徒歩60分。
公文名の三叉路辻から南を目指す。250m進むと右に神社がある。
○神社:・石柱:御即位記念、・手洗石、・石鳥居:昭和十一年、
300m進むと右奥に神社がある。
○井伊谷神社:・石柱2、・石鳥居:大正十五年、・石段、・板碑、
南100mにも神社がある。
○神社:・石柱2:大正十二年、・秋葉山常夜燈:平成二十六年:センサー付き電球、
    ・石鳥居:、・手洗石、常夜灯:明治十一年、
古道はどうも住宅と裏山との境の山際辺りを蛇行して進んでいたようだが、現在では、そこに道はないので、現代のまっすぐな自動車を進む。600mで奉仕橋がある。渡って西方川の左岸(東)を進む。左岸道は途中で道が消失する。沢田茶農協の裏手を歩けば通ることは可能である。古道はおそらく山際辺りを通行したのだろう。沢田茶農協西の田んぼにお堂がある。
・お堂:首塚様:説明版:所在地:沢田坂下:首から上の病には、この首塚様へ願をかけ、願い叶えば松笠や穴あき石に糸を刺し齢(年)の数ほど供えなされ。昔から願掛けすると必ず治ると遠近からの信者の参詣が後を絶たない。しかしその由来は定かではない。建武三1336年、今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江守護となり以後60年が続いた。応永二十六1419年尾張の斯波氏が守護となり、その後約100年が続く。このようなことから鎌倉時代後に武威を張っていた今川方の古名族横地氏も斯波氏に属することになった。しかし今川義忠は遠江を回復せんと堀越陸奥守貞延を総大将に横地・勝間田の本拠地小笠・榛原に進撃、小夜の中山南側の海老名エビナ・影森・公文名一円が壊滅的戦場となった。士将貞延も牛頭ゴウズまで来て惨敗したと伝えられ鞍ごと池に投げ込まれたと言う。この鞍骨池伝説や海老名辺りに点在、祀られている石塔は往時を物語るものと思われる。この首塚様や堂山は、この戦の名だたる武将やかかわりのあった人たちを供養お祀りした場所と思われる。近年は霊験あらたかということで病気平癒と合格の祈願の信仰を集める。平成20年(2008)1月吉日 菊川文化財保存会鈴木利夫氏の文を基にして記入
*18番から19番への途中で鞍骨池近くを通過し、堀越入道伝説の石仏がある。

ただし左岸沿いには道がない所があるので右岸を迂回せざるを得ない。奉仕橋から右岸道250mで右山腹に神社がある。
○三島神社:・庚申塔:平成二十年、・祠3、・石柱:昭和四十一年、
右岸道300m右への道100m奥に神社がある。
広い道(公文名の市道と県道菊川停車場伊達方線)が合流する箇所に石道標がある。
・石道標:「右瀧之谷守本尊ヘ廿五丁 左東海道ヘ十五丁 堀之内駅ヘ廿七丁 大正十四年環居紀念」
○寅尾神社:・手洗石:昭和三年、・石柱2、・石段:御大典紀念昭和参年、・板碑、
・狛犬2、・庚申塔2:大正九年、寛政十二、
道の合流地点から100m南へ進むと右にコンクリート擁壁がある。そこに石仏がある。
・石仏:すでに地蔵か観音か不明だが、頭部上部に細長いものがあるようなので、おそらく馬頭観音かと思われる。
100m進む。右に寺院がある。
○洞源院:・地蔵、・観音、・観音:西国三十三所安永四乙未、・手洗石、・昔の鬼瓦、・祠:神、・新四国第八十六番霊場昭和九年、・菊川地蔵尊巡り四番、・洞源院昭和五十年、
・石道標:「記念 東海道一斤八百八メートル 十六町二十間 堀之内駅ヘ二千八百三十二メートル 二十五町五十一間 大正十三年一月廿六日建之 澤田部青年團」 
50m進むと東海道新幹線に達する。古道は西方川左岸沿いのようだが、道がないので右岸を迂回する。右岸道150m行って右道奥に神社がある。
○七社神社:・新:献灯2、・石鳥居:御即位紀念大正四年、・常夜灯:明治四十三年、
      ・石柱2:大正四年御即位紀念、平成二十三年、
右岸道50m進み右奥に神社がある。
○岡の宮神社:・石柱:大正六年、・石鳥居、
 岡の宮神社の150m南の県道菊川停車場伊達方線が西方4503₋2山西茶農協製茶工場横へ東に入った路地に石仏がある。
・石仏:馬頭観世音、
右岸道を迂回したが、途中で左岸道が現れて来る。新幹線ガードから左岸道を1.2㎞進むと県道掛川浜岡線の1本北側の旧道に当たり左折(東)する。北の山腹に神社がある。
○山宮神社:・板碑:大正八年、・庚申塚:明治三十年、祠3:神、
・石鳥居2:大正十五年、、献灯2:昭和四年、・祠:子育て地蔵、・手洗石、
・祠:地蔵、・板碑、・秋葉山常夜燈:木造金属葺、・石段:皇太子殿下御降誕記念、
・石柵:平成二十年、
古道的には300m東進して南下して東海道本線をくぐって28番に達するのだが、線路をくぐる道はもっと400m東進しないと無いので、そちらに迂回する。
28番正法寺の奥さんによればかつては石道標があったそうだ。
迂回したガード下道の100m手前東の丘上に神社がある。
・神社:・お堂、・コンクリ手洗石、南側に階段状参道があるが、草と倒木で使われていないようだ。北側は新興住宅地で道に面しているが、柵と擁壁があり、入口がない。ということは誰も祀っていないのか? ’16 2/11

~周辺~
県道掛川浜岡線に沿ってあえて反対だが西に進むと寺院や神社がある。
○西福寺:田ケ谷:・鐘、・手洗石、・祠:神、・三十三観音、・地蔵、・奉納大乗妙典、
  ・庚申塔:田ケ谷連中、
○八幡宮:田ケ谷:石柱2:昭和五年、・祠2:神、・手洗石、
・石鳥居:大正九年世界戦争終局記念、
・秋葉山常夜燈:昭和十一年:センサー付き電球、
○竜雲寺:福天権現を祀る
・裏山には稲荷神社:
・南の山上には田ケ谷神社:
県道掛川浜岡線と東海道本線に交差する所で線路をくぐる所に戻ってくる。
古道はどうも迂回せずに28番へ直に向かったようだが、現在そんな道はないので、迂回を含めガードをくぐって線路の南に出る。西の山際に28番がある。 ’16 2/11


・第二十八番 拈華山 正法寺(菊川市西方1329、にしかた)ねんかざんしょうぼうじ  
 創建:天正2年1574、開基:堀田正法、開山:龍雲院三世実伝宗貞和尚、本尊:聖観世音菩薩:寄木造り座像72㎝:伝行基あるいは運慶あるいは逢雲作、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎、縁起:
旧菊川町の寺院は森の大洞院の流れを汲むものが多い。
桐田氏私見:堀田氏は堀内氏(城飼キコウ郡:小笠郡堀之内城)で正法寺開基は堀之内重親だろう。ただ武田徳川の争乱期で寺院を開基し経営できたかは検討を要する。
安政三年1856冬失火焼失、本尊は免れる。諸堂再建は廃仏毀釈で進まず大正14年1925竣工。堀田城城主堀田正法開基で龍雲院三世実伝宗貞を招いて開創、八ツ谷観音、厄除観音、子育て、縁結び、
・鐘楼:鐘がない、戦時中供出。平成4年鋳造。
・丸い大石:「天保十四年 二十八番札所 正法寺」:参道入口、
・本堂:大正十四年落慶、
・梅古木:本堂前、
裏山は山城:堀田城または松下城、山城の輪郭が残る。中腹には円墳があったが、崩落の恐れがあり1993年発掘調査、記録保存し整地し正法寺霊園になっている。
~追加~
・堀田城(松下城):裏山には上れるし、本曲輪には標識「本曲輪」が立てられているが、他は一切ない。曲輪や堀切があり、しかも二重に切られた堀切が複数あるなどするが、そういった説明や標識類がないことが残念だ。
・円墳:霊園の中央部分らしいが、記録保存して取り壊したので一切わからない。
地元の郷土愛好家グループや教育委員会で標識や説明看板を立ててほしいものだ。
・祠:神を祀る。・供養:地蔵10、・新;献灯、・新:手洗石、・古:手洗石、
・裏山山頂:祠:秋葉山三尺坊大権現、秋葉神社   ’16 2/11
有住、駐車場有、Tel:0537-35-3612


・経路
27番から4㎞。JR菊川駅から1㎞、徒歩13分。
・石道標:正法寺、寺入口
29番へ12㎞、徒歩180分
寺入り口の道を南下する。
~周辺~
東側の山上には常葉学園(大学、短大、高校、美術館)、楠木神社、菊川神社、大徳寺、公園、グラウンド、市役所、福祉施設、教育施設がある。

不本意だが古道がないので現在の自動車道を東名高速もくぐり1.5㎞進む。
途中東名高速高架をくぐる手前の東に神社がある。
○八幡神社:加茂、白岩東:・石柱2:、・手洗石:(二つ割れ)、
・石鳥居:明治十十十(廿の3本)六年、・献灯2:臺灣(台湾)高雄市織部恭市昭和十一年、・石段、・新:手洗石、・古:手洗石(割れ)、・石段、・狛犬2、
・石柵:昭和六十一年、
左折(東)し県道高瀬菊川79号線を東に800m進む。
途中北の高台に神社がある。鹿嶋神社:古墳でもある。
○鹿島神社:古墳、
・石碑:鹿島神社参道入口 平成二年、石造成記念、・鹿嶋神社表参道 平成九年、・石鳥居:明治三十九年 再建平成六年、石柱2:大正九、・新:手洗石、・石鳥居:平成二年、・石柵:平成九年、・石柱2:大正四年十月 御大典 五丁目氏子中、・石柱2:、・狛犬2:平成六年、・献灯2:平成六年、・稲荷神社:稲荷2:平成二年、・石家道祖神、
・鹿島遺跡:説明版:今から4~5千年前、縄文時代中頃(加曾利E式)の村落跡、道を隔てた北側からは宅地造成の際に二軒の縄文住居が、また遊園地の東部分からも二軒の住居跡が見つかり、土器、石斧、石器の材料の黒曜石斧が発見された。町道より境内に入るために切り取られた道しろ辺りと園地の東南部分で比較的新しい住居跡が発見された。出土土器は八斗地遺跡(旭グランド)の奈良時代のものと似ているのでおよそ同時代の村と考えられる。
・鹿島古墳:説明版:公会堂脇にある古墳は今から1400年前のかなり身分のある人の墓で、周囲には円筒埴輪は巡らされ、直刀を出土し、直径は十数メートルあったが、現在は西半分が残っている。埴輪を伴う古墳は郡下でも数カ所しかないが、そのうち旧菊川町内に3か所ある。高田ヶ原公園に2カ所。役場西の森の高田原の大徳寺前方後円墳は古代この地方の王の墓だが、この王の墓を中心に代々主な古墳がこの台地に作られ、集結している。打上台地は東寄りから南べりに八幡社の円墳まで数箇所に古墳があるが、今はほとんど消失した。この原一帯は湧水のある場所に奈良時代の家が散在し集落を形成した。菊川町の古代は、この高田原台地を中心に文化が栄えていたことを物語っている。

県道掛川浜岡37号線に達し右折(南)し900m進む。バス停東名菊川辺り:加茂2141-6:DAI建築設計事務所で左の路地に入る。附近にはガソリンスタンド、おちあいサイクル、大倉工業工場がある。’16年現在、周辺路地は区画整理され直し、この路地は消滅した。菊川の土手道に達するまで南下する。250mで再度同じ県道に吸収される。菊川警察署前である。350m進むと加茂橋があり渡る。200mで円通寺を通過する。円通寺裏には東新池や神明神社があり、円通寺と逆の右(西)には加茂神社がある。
○円通寺:・地蔵:多数16、・観音、・石仏2、・手洗石:昭和九年、・堂:、・石柱、
・献灯:平成八年、
・秋葉山常夜灯:木造瓦葺だが中には常夜燈ではなく神棚が祀られている。
○神明神社:菊川市小出753番地:説明版:由緒:元和八1623年9月創建、以後幾多の修造棟札あり、2010年1月御霊代奉鎮祭営む、番地も七五三と縁起大吉。
・石柱2:昭和二年、・狛犬2:平成五年、・献灯2:平成五年、・石鳥居:平成十五年、・石段、・手洗石:明治十三年、・木鳥居:、・板碑、
○賀茂神社:菊川市加茂東門2859番地:説明版:当地加茂の地名にもなっている。祭神:別雷ノ命わけいかずちのみこと、例祭日:10月第2日曜日、寛治六1092年創建、昭和16年1941菊川改修工事で現在地移転、1978年大幅修理、平成18年拝殿建て替え、本殿大幅改修、公園整備、
・石柱7:大正十四年、・石鳥居:明治三十九年、・新:献灯、・古:献灯台座、
・手洗石:嘉永六、・板碑、
500m進むと左(東)に小笠高校があり、手前に藤谷神社がある。
○藤谷神社:・手洗石:文政二年、・石鳥居:明治四拾參年、・御神燈:明治三十四年、・狛犬2:昭和中、・巨木の切り株、・五輪塔2;破片、・石塔:「いなり 正八まん」
 藤谷神社参道入口に天然記念物がある。
・天然記念物鶴松 昭和十四年:根元直径50㎝、・石仏:馬頭?、
元の県道に戻り、450m進むと左に天白神社がある。ジャンボエンチョー駐車場入口横である。
○天白神社:
・石鳥居:平成六年、・祠2:、・金刀比羅神社、
250m進むと左100m地点に神社がある。
・天神神社:祠2、
 天神社から東へ150mで土橋集会所を過ぎて広い舗装路に出た所で石柱がある。
・石柱:大正五年、
この広い道を300m南下すると下組公会堂がある。
・祠:神、・板碑、・石柱2、

県道に戻り450m進み横地郵便局を通過し東横地、西横地、土橋、奈良野の境目辺りのT字路に至る。左折(東)し東へ300mで三沢橋に至る。渡ってすぐ土手道を南下する。550mで法華橋に至る。左(東)奥に法華寺もある。

なお東方地域の横地は中世豪族横地氏の居城、横地城が残っている。
○横地城:中世東遠横地地域の豪族横地氏の居城:山城。今川義忠の攻撃によって落城、
・藤丸館の跡:説明版:横地氏最後の若君の屋敷跡、文明八1476年に今川義忠自ら500騎を率いて横地城を襲い、攻防一週間、ついに落城し、横地秀国、勝間田修理亮、共に討ち死にしたが、今川義忠もまた、凱旋の帰路、南山の正林寺附近(塩買坂)で横地の夜襲を受けて討ち死にしたが、この時の横地の遺児が藤丸といわれ、横地氏の再起をはかったといわれる。
・かくし井戸:半月型の井戸で城主居館の水の手である。
・武衛原庭園跡、斯波武衛邸宅跡:応仁の乱、西軍の雄、斯波武衛義廉しばぶえよしかど:の邸宅跡と言われ、この一帯は家臣団の住居があったと伝えられる。
・身内原、
・のろし台跡:横地城の支城で、ここより南1㎞、赤峰にある。当時の街道が通過する峰で戦略上重要な地点にあり、頂上付近に段と濠が構築されている。
・金玉落し、膝つき谷:城兵戦闘訓練の場で兵は膝つき谷の底に膝をつき待機、山上より太鼓を合図に金の玉を谷底に落し兵は一斉に尾根をかけ上り、また谷に下り、玉を探し当てた者は山にかけ上って賞を貰ったと伝えられる。
・一騎駆いっきがけ:両岸切り立った絶壁で、大軍を擁しても通過するためには一騎ずつしか渡れないので、この名が付いたのである。この一騎駆の両端には必ず狙い撃ちできるよう、構の段が造られていた。 
・史跡横地城跡:国指定重要文化財(史跡):説明版:室町時代国人領主横地氏の山城で、長さ1.5㎞と大規模で築造形態の完成度の高い中世城郭である。城は標高100m前後の山頂部を曲輪くるわとし、東曲輪(東城)、中曲輪(中城)、西曲輪(西城)の三群から構成される連郭式山城で東曲輪がその中心にあたる。各曲輪を中心に尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御を成すと共に、自然地形を利用した要塞となっている。当城郭は保存状態がよい。周辺は静岡県立御前崎自然公園で四季を通じ風光明媚である。
鎌倉時代から室町時代にかけて、遠江の古名族として武威をはせた横地氏は、平安時代末期に八幡太郎源義家の庶子ではあるが、長男として生まれた家長(永)に始まる。城は自然の地形を巧みに利用した山城で、東端の丘の本丸跡は西に向かって大きく三段をなし、頂上に土塁が残り、北に向かっては数段を構成し、最下部の段に井戸跡がある。この段から北西に向かって延びる尾根はいくつかの切り堀で分断され、各所に段を形成しながら深い谷に向かっている。他の方角は険阻な地形ではあるが、やはりいくつかの段が築かれている。二ノ丸は現在神社のある丘で、大きく南に向かってほぼ四段と土塁と濠によってなり、頂上からは落城当時を物語る焼米が出土する。二ノ丸と本丸の中間にある中城は南側に土塁と空濠が、中ほどに木戸跡がある。家長(永)に始まり十数代遠江に君臨した横地氏も文明年間、同族の勝間田氏と共に今川氏に対抗して敗れ、両将共に討死した。一方戦いに勝った今川義忠もその帰路、正林寺附近(菊川市高橋)において横地の残党により、命を落とした。義忠の急死は今川家に相続争いを起こし、これを収めることにより、伊勢新九郎のちの北条早雲が台頭するきっかけとなった。その後永正年間に至り、今川氏の遠州掃討によって横地氏は滅亡し、わずかに生き残る者も各地に四散した。ここ横地は一族の本貫の地であると共に横地姓の発祥の地であり、城は四百数十年にわたる横地氏一族の夢の跡である。菊川市教育委員会。
・横地氏:平安時代の11世紀中頃、源義家と相良の土豪:相良太郎藤原光頼との娘との間にできた子が横地太郎家長と伝えられる。家長は二俣弾正によって養育され以後、横地を本貫地として横地姓を名乗り今川氏に滅ばされる閒約400年間を遠江の古名族として君臨した。菊川の横地が全国の横地姓の発祥の地となっている。現在城の西に広がる丘陵から東横地のムラにかけて横地氏に関わる史跡が多くみられる。近年の発掘調査によって横地氏の居館跡の殿ヶ谷遺跡、武家屋敷の伊平遺跡などが発見され当時の全貌が少しずつ明らかになってきた。家紋:鶴に丸、亀甲に花菱。
・二の丸:副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高94.9m(この頂上に明治35年1902静岡市麻機知徳院から家長像が来て小祠を立て、それを機に、横地氏を祀る現在の横地神社が建てられた)、南側は五段に形成され、前面に土塁と濠が廻らされ、北側は像の鼻に向かって八段、東の谷に向かって三カ所に段が構築され、うち二カ所は十一段からなっている。社の裏手からは落城当時の焼米が出土した。
・金寿城(本丸):戦時に城主、家族、重臣が住み、作戦協議、軍政協議をするところで、標高101.7m、南側は絶壁に近い要害で、なだらかな北側に向かって数段の段を構築、北西に向かう峰は数箇所切断、堀切をつけ谷に向かっている。東南よりにわずかに残る土塁が往時をしのばせる。
・横地氏一族の墓石:この周辺一帯から横地ゆかりの墓石が無数に発見されている。多数の宝篋印塔、五輪塔。
・三光寺跡:横地城入口付近にかつてあった寺院。祠:地蔵。


 三沢地域には遠州七不思議の三度栗伝説が残っている。
○三沢の三度栗伝説:三沢910:弘法堂、八幡神社前の参道脇に三度栗がある。昔旅の僧がやってきて子供たちから栗をもらったので、御礼に年に三度実がなるようにしたという。この僧は弘法大師であったという。地域によっては家康が使った箸を地面に挿したら、三度栗になたっという話がある。
*参照:「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、遠州七不思議の項目、
 その他の遠州の昔話の本多数、特に御手洗清の著作本。

法華寺前からは古街道:秋葉街道である。秋葉街道を紹介した資料があれば29番:正林寺まで網羅できる。
●「秋葉街道~塩の道をゆく~」小笠町教育委員会、小笠町郷土研究会
●「静岡県歴史の道 秋葉街道」静岡県教育委員会
●「塩の道ウォーキング」静岡新聞社
以上3著より以下に引用。

・法華寺:無住、永正元1504年開創、庄蔵屋敷の安方武右衛門家の祖先で鷲山伝八郎夫妻の位牌がある。本尊:釈迦如来。
~追加~
・石仏らしき、・献燈:柱らしき「氏子」、・手洗石:文政十一年、・祠:稲荷、


~周辺~
○春日神社:上平川30番地:祭神:あめのこやねのみこと、例祭日:10月9,10日、由緒:創建不詳、古老伝承によれば延喜式神名帳所載の遠江國城飼郡二座の一奈良神社にして中古奈良春日と唱え後世奈良の文字を省略して春日大明神と称した。当社の背後に奈良野と呼ぶ所ありて、その所の古記を接ずるに八幡太郎源義家及びその妾腹の男、遠江城飼郡横地の城主横地太郎家長深く当社を尊敬し東横地藤谷山に分霊す。比今の藤谷神社なり。明治6年3月郷社に列格する。
・郷社春日神社:明治四十四年、・塩の道 小笠町郷土研究会 平成十年、・塩竃神社、・水神社、・石柱2、・石柱2、・石柱2、新:手洗石、・石鳥居:明治十十十(廿の3本)八年、・献灯:火袋なし2、・征露紀念燈、・狛犬2:平成二十二年、・献燈2、

・瓦葺の祠:上平川152⁻3の西隣:中身は無い。法華寺から春日神社への秋葉街道沿い。
・大塚古墳:前方後円墳、未確認
・高田の渡船場:今の高田橋より下流、馬頭観音(かつては渡場入口にあったが今は大船渡橋袂)、
・船見山太郎坊大権現:菊川市下内田字高田:高田秋葉山常夜燈、日限地蔵堂、庚申塔、五輪塔、石道標:大正五年建立:他判読不能、
・菊川改修記念碑、石道標:「右平尾八幡宮及ビ内田村応声教院ヲ経テ掛川町ニ至ル」「堀ノ内池新田往還ニ通ズル」「太郎坊ヲ経テ稲荷部岩滑村ニ至ル」「大正五年五月建立」寄付者 堀之内五丁目 青木石材店、
・石道標:「太郎坊大権現へ一丁」高さ210㎝、幅25㎝、最近の物か
・高田の大屋敷:古川神社、内田氏の居館跡、

法華寺から牛渕川沿いを250m南下する。100m右(東)の大鹿池の西端に板碑がある。
・板碑:水神宮
300m南下。左に堤城址(城山城)がある。
・堤城址(城山城):室町後期、松井氏の居城、駿河国葉梨郷(藤枝市)に居住し、数代にわたって今川氏に仕えた武将、松井信薫の代に戦功により平川郷に移された。松井信薫の堤城在城は永正十1513年から翌年までの1年間で二俣城に移っている。築城廃城も不明、牧之原台地から西へ派生する尾根の先端部を利用して築かれ、現在は尾根上に曲輪と考えられる平場がいくつかみられる。城を尾根から切り離す東端の堀切は、後世にさらに削られ相良(秋葉)街道として利用されたようだ。堤城の名は戦国期の資料にはみられないが、江戸期の内山眞竜『遠江風土記傳』には城跡の図とともに、堤の城跡、平川村にあり、松井左衛門亮住し、天正以後廃ると、記されている。図では城の東南、現在の墓地の所を松井屋敷跡としている。
永正十1513年今川氏親が松井山城守(宗能)に下平河を与える。
享禄元1528年今川氏輝が松井八郎(貞宗)に父山城守宗能からの相続を認める。平河の地名は記されていないが相続したと考えられる。
永禄二1559年今川氏真が松井左衛門佐(宗信)に父貞宗からの代官職の相続を認める。平河の地名は記されていないが相続したと考えられる。
永禄三1560年5月今川義元とともに松井宗信討死。
同年12月氏真が松井八郎(宗恒)にあてた所領安堵状には、いくつかの所領とともに「下平河替地余之事」「上平河代官職之事」とある。
元亀三1572年武田信玄が松井山城守(宗恒)に「敷地、百五拾貫」(磐田市)等とともに「上平河之内同下平河散田地共六拾貫」を安堵する。
天正元1573年武田勝頼が松井山城守(宗恒)に信玄が与えた本領を安堵する。
・五輪塔2:松井城主の墓、・津島八幡神社、・天満天神宮、
○阿弥陀堂:600年前、この奥に林正院が建っていたが廃寺となり、掛川市旧大東町に移転、阿弥陀堂のみ残存、とはいっても近年再建されたらしいプレハブ建築小屋のような建物。本尊:阿弥陀如来、創建不詳。・石碑:阿弥陀仏、・石仏:六地蔵:一面二仏で三面、・地蔵:首なし、
城山霊園の南東100mに神社がある。
○春日神社:創立不詳、文亀元1501年領主当村堤城松井兵部の子息松井左衛門亮再建を加え領内庶民の安穏祈願せし随而平川郷棚草村産土神と尊崇す。
・秋葉山常夜燈:瑞泉ヶ谷の秋葉道T字路に立っていたが道路拡幅で神社境内に移転。不明で未確認。・石鳥居:平成九年、石柱2、・手洗石、・百度石、・献燈2:平成九年、・水準点、・塩の道:平成十年、’16 2/21
200m東進。下平川2744:相羽静夫氏宅前の十字路に至る。秋葉街道はここで右折し南進する。他を紹介すると、ここで左折北進し山を削った切通し道を抜け大鹿池に行く道がある。「この近辺はかつて酒屋、油屋、酢屋、豆腐屋、茶屋、旅籠等商店で栄えた」相羽静夫氏談。ここで一旦直進東進50mして右折50m で丘の麓に墓地がありお堂がある。
・志味堂:手の込んだ立派な祠には本尊:延命地蔵菩薩、城東三十六カ所の34番札所、・石像:不動尊:自然石線描着色、・石塔:三界萬霊一切含顕、手洗石:嘉永三、
かつては立派だったのだろうがかなり傷んでいて廃屋に近い。
十字路より300m南進するとひかり保育園に達するが、その右(西)2軒目の下平川1810₋2:宮城氏宅が昔、石原屋だったらしい。また手前の長谷川宅も商売をやっていたようだ。
・石原屋:街道脇の茶屋でうどん、そばを売って、旅人や商人の休み処で繁昌したという。訪ねてみて、娘さんか息子さんの嫁さんらしきが対応してくれたが、商売をやっていたという話は聞いたことがないらしい。隣の長谷川さんが商売をしていたという話をしてくれた。
昔は牛渕川本流がこの辺を流れていて、田んぼから橋杭が出たという、地名石原もそこからつけられたという、慶長年間の牛渕川大改修で新川として西方に移動した。
ひかり保育園南の交差点を南進するのが秋葉街道で巡礼路だが、ちょっと寄り道して左折(東)100mで左に公会堂があり、その一部にお堂があり、右には寺がある。

・宇洞軒:八幡が谷公民館:下平川4829⁻1:お堂は瑞泉庵を移した堂、宇洞は地名、13仏は寛文年間、宮城新左衛門が中心となって創祀され、各忌日の本尊に配され且つ12支の守り本尊でもあり、昭和51年修復され金色燦然と輝き往古を偲ばせる。瑞泉庵より宇洞軒に什物地蔵と守匠眼大徳の碑が移され立っている。春秋彼岸会、七月盆会には盛大に供養。13仏と1仏の計14仏。

○霊松山好運寺:下平川4932:宇洞軒の南の山の中腹に建立されていた。臨済宗、本尊:聖観音菩薩、寿塔:勝川和尚、天保十五1844年、寺記によれば名僧恵山は梵漢和学識高く、織部鳬山フザンが97歳で寿塔を建てたことに倣い自らも鳬山に馬骨塔の書を請い建てた。
・説明版:卓應復按する開山春厳は天正13年3月17日示寂せり而して開基正次慶安3年8月4日逝去す。この間既に66年を経過す。古記に□するときは正次甚だ幼少に過ぐ。幼者能くこの大業の願を成し得んや。謂うに天正13年以前に開山春厳のために開基発願したるは正次に非ず。他に発願者あらんかな。正次は元和寛永の頃桂嶽大和尚のために開基となりたるものなるべし。四向本に創建桂嶽とあるを以て推知すべし。一たび灰燼に帰し亦安政の震災に遭い堂宇倒壊せり故に年代其他に誤植あるはやむを得ずと難固に悲しむべし
・太子堂、・裏山に祠:石仏:三十三番、・新:十三重の塔、・石柱:昭和十年、・石仏、・祠、・鐘楼、・常夜灯:破片、・常夜灯、・献灯2:昭和五十四年、・瓦、・稲荷2、・稲荷神社:祠、・献灯、・手洗石:昭和八年、・地蔵:多、・献燈2:昭和八年、

ひかり保育園の南交差点より200m南進。左にかつては本間氏宅があったが、’16 2/21更地で、隣接地には売家と売地の看板があった。
・本間清行(春城):医家本間三代目を継ぐ。天保年間、玄聖講(現医師会)を組織して医術研鑽、医師の同家に伝わる扁額は掛川城主太田公筆「山暁閣」、儒者松崎慊堂筆「山暁閣記」は同家の高楼に寄せたものである。子四代春城(樂年)と共に文人との交遊多く小島蕉園、田原茂斉、栗田土満、石川依平、袴田勝彦、などの往来書翰、贈答も伝えられている。清行は上平川堤構築完成し、顕彰碑碑文が存する。それによると清行は借金してまで私財投入尽力。
元本間宅から南に進み、古道がはっきり残っていないので一旦現在の県道相良大須賀69号線(現代の秋葉街道)に出る。400m東進する。
○神社:棚草東組9-2:牧野氏宅;横にある。・祠:、・手洗石、・木鳥居、・石柱2:昭和十三年、
・板碑:順徳行者先明行者:上記神社の手前(西)50mの山際先端部上に設置されている。

~もっと古い秋葉街道ルート:下平川1860:宮城氏宅から道なりに東進して北に回り込み好運寺前を北上し八幡ヶまで北上して対岸の山際道へ出て南下する北回りコース~
『塩の道ウォーキング』によれば、秋葉街道として標識を立てたルートより、もっと古いルートがあるということである。それが現在の県道より北側の山と平地の境目に沿って通行する道である。
 好運寺前を北上し、八幡ヶ谷で八幡宮まで北上を続ける。
○八幡神社:菊川市(小笠町)下平川4822番地、祭神:應神天皇、神功皇后じんぐう、例祭日:10月10日、由緒:創建は明応六1498年青竜院住職第二世天菴により石清水八幡宮を勧請し奉り、当時深谷の郷と云う地に鎮座せられその後現在の地に移しこの地を八幡ヶ谷と名付け四辺住民の氏神として崇敬し現在に至る。
 ・電燈:大正十五、・手洗石2:天保七年、明治二、・石鳥居2:大正四年、昭和十年、・石段:大正六年、・石柱6:昭和十六年、大正四年、昭和三年、・常夜燈2:弘化二年、嘉永二年、
 八幡前で道を南下する。ちょうど山際道が対岸側に移る道の方へ進む。
 先ほどの秋葉街道の県道に戻る。ちょうど東組の「板碑:順徳行者先明行者:上記神社の手前(西)50mの山際先端部上に設置されている」所に出る。
ここで古いルートは一旦終了
~~~

戻った県道を200m東進し右折(南)300m、神社前で左折山際を再度、県道相良大須賀69号線に戻る。
○春日神社:棚草春日267⁻1:棚草村氏神だが元は村社に列していた。祭神:天之児屋根命、清和天皇の御代、藤原鎌足の子孫、佐藤右近太夫満好が遠江国司に任ぜられ、城飼郡赤土庄棚草村に築城するに際し、先祖:天之児屋根命を勧請して氏神とするに始まり、創建は馬場の地であったが、天正年間の高天神城戦により武田勝頼の兵火を蒙り今の宮田に再建したといわれる。
・石柱2:コンクリ、・古:常夜燈、・五輪塔:宝珠部分だけ、・手洗石:文政七、
・佐藤右近太夫満好:佐藤家は遠江国司:佐藤右近太夫満好を祖とし佐藤満算以来千年連綿として春日神社の神主をつとめられた名家である。貞観元859年佐渡の人、佐藤右近太夫満好が遠江国司として棚草に着任して棚草城を築いた。二代目左近極満算は奈良の神社を奉献して自ら神主となり社領として60町歩を奉献した。国司の役は地方鎮護が主であるが実際は朝廷や中央の社寺建設の労働者の供給、租税の徴収、物資の調達等であった。これらの目的達成の為、産業発展を計り、開墾や土木水利等の事業を進める必要があった。宇津梨(丹野川上流)を水源とする岩ケ崎の井堰と水路は後世に残した大事業であった。
・神社:春日神社の東に小さな神社がある、稲荷神社で木赤鳥居と祠がある。
春日神社の裏山には八幡宮や寺もある。
・安興寺:うつし霊場で六角堂もある。詳細は巻末説明
○八幡神社:説明版:菊川市(小笠町)赤土294番地の1、祭神:大山(口へんに乍)命オオヤマクイノミコト、誉田別尊ホムダワケノミコト(応神天皇)、大雀尊オオシャクノミコト(仁徳天皇)、例祭日:10月10日、由緒:桓武天皇の御代、延暦12年793,8月遠州城飼郡赤土之庄の住人藤原朝臣赤堀刑部丞勅宣に依り、山王権現及び八幡宮が此の地に奉祀され、降って清和天皇の貞観元年山城国石清水より若宮八幡宮を勧請されたもので、当八幡神社は始め赤堀家に於いて勧請奉祀し、其の祭典等も専ら同家に於いて執行し来たりしも、神徳顕著にして村人の信仰極めて篤く、全村の産土神として崇祀するに至る。
・石柱2、・石柱2、・石段、・献灯、稲荷神社、・金属赤鳥居、・石柱2、・祠、・木鳥居、・三夜燈2:慶應二、・手洗石2:明治廿六年、昭和十九、・石鳥居:明治丗九年、・板碑、

春日の春日神社から2本北側の道が、現在、秋葉街道として標識が出ている。その道を東進すると、県道に合流する。ここに以前、石碑「右近太夫」があったのだが、現在はない。県道を200m東進。左(北)に神社がある。その先は老人ホームである。
・神社:棚草狭間443₋2:白岩氏宅裏山、不明で未確認?

~もっと古い秋葉街道ルート:棚草562⁻1本田建築から北の道に入り、狭間:老人ホーム和松園までの北回りコース~
『塩の道ウォーキング』によれば、秋葉街道として標識を立てたルートより、もっと古いルートがあるということである。それが現在の県道より北側の山と平地の境目に沿って通行する道である。
 県道の棚草562⁻1本田建築附近から北の道に入る。50m進むと板碑がある。
・板碑:後藤粛堂翁、
 2軒隣に標識がある。
・標識:牧野篤好、
 300m北に進むと堂がある。
・堂:辻の観音様:木造観音2、石像観音1、
 もう200m北の奥を目指すが、そこから南下し、対岸の山際道へ出る。
棚草公民館がある。
・石柱、・板碑4:平和の礎等、
100m南下すると左山上に寺がある。
○雲林寺:無住、
・如意輪堂、・西國三十三所遍歴巡拝記念 嘉永二年、・二体で一つの如意輪、・馬頭、・西國講中 天明三、・□□□□文政三年、地蔵2、
寺の裏山に50m上っていくと左に祠がある。
・祠:今川さま、稲荷、祠はコンクリ製、

更に茶畑を50m上ると茶畑頂上に標識がある。
・棚草城の跡:中世山城というのだろうが、周辺は茶畑で改変され土塁曲輪空堀というものはかなり周辺を丹念に探さないと見つけられないかもしれない。
 この茶畑を開墾している老父に聞くと、今川さまは今川義元のことで、この地に水路を作ったので祀っているそうだ。例祭日は毎年3月第1日曜日だそうだ。

また寺入り口に戻り南へ200m進む。
・新:地蔵:、
200m南に進むと県道へ出て左は老人ホーム和松園だ。これで古ルートは終わり。
 更に周辺には以下もある。
・殿之谷の城:狭間の北の山のもう一つ北の山を殿之谷という
・星谷の城:殿之谷城のもう一つ北の山
~~~

老人ホーム和松園に地蔵がある。
・地蔵:説明版:長寿安楽地蔵菩薩の由来:その昔から地蔵菩薩は、この世の苦しみや悲しみに悩む衆生の救済に、最後の手を差し伸べて下さる仏様だと言われる。また人間にとって命ある限り明るく、心の自由な安らぎの中に人生を全うしたいの想いは共通の願いでもある。和松会では法人設立20周年を期して開始したビハーラ活動のシンボルとしてこの地蔵菩薩を建立した。尚この地蔵菩薩は和松会の創立に際して、その多大な不動産を寄付され、法人の礎を築かれた、和田まつの遺徳を偲びながら、法人理事長の有海秀夫氏が建立寄進したものである。 平成五年七月三日開眼
300m東進。北に双松学舎と鶴堂霊社がある。
○双松学舎と鶴堂霊社:「本学舎は明治24年10月鶴堂、橋本孫一郎設立、日本国学を本流とし儒学、弘道、報徳を加味し、実用有為の学科を授け修身斉家の実をあげ、郷土と国家のために尽くす人材を養成せんとす。明治24年開塾より昭和35年まで70年間、学ぶ者7000人に及び地方の文化学術政治産業の中核的人物を世に送る。ここに鶴堂師を慕う者集まって霊社を建て、後世に伝えんとする。昭和52年1月」
・手洗石、・コンクリ鳥居、・祠、・石碑、
50m東進。
○亥之宮神社:猿渡氏神、岩ケ崎方面より引かれている水路を掘り開いた功労者を讃えるために井ノ宮神社を祀り、後に井が亥に転書されたといわれている。・秋葉山常夜燈:城飼郡猿渡村、建物は間口2m、奥行2.35mの小ささ、灯明ではなく電球、中に秋葉山札箱、97年秋葉講が残っているとのこと。建物は新再建。
 ・手洗石:平成九年、・祠:秋葉三尺坊大神、・石鳥居:平成九年、・鐘、
 神社の50m奥に廃寺がある。
○龍泉庵:廃寺、馬頭観音:狭間の県道南側山斜面岩穴に祀られていたが県道拡幅で移転。
 ・石仏?、・馬頭:馬頭骨、・観音3:昭和五年、・奉納 秩父三拾四所 西国三拾三所 坂東三拾三所 供養 嘉永二、・重制六面石幢セキドウ:上下に笠が付き六面に各々地蔵が刻まれる石幢、
神社から50m東に二俣氏宅がある。
・子育て地蔵尊:二俣健策氏宅:猿渡119:大東町中村の親戚から譲り受けた江戸初期の地蔵。
・米売り坂の辻:
○秋葉山常夜燈:川上字川原:丹野川土手斜面、石柱「秋葉山常夜燈川原組」、土手下に地蔵堂:建物:間口1.93m、奥行1.8m、中に地蔵尊3体、2体は頭部無し。観音:明治四十四。川中のお地蔵さま。
ここで二瀬川橋を渡り、すぐに左折(東)、東進して200m。
・石柱2:コンクリ:平成十三年、
更に東進150mで県道と合流する。その左側に祠がある。
・祠:地蔵、
県道を100m東進、左の御宅の庭に献灯が見える。
・秋葉山常夜燈:川上字川中:川上集落の常夜燈、川上集落でも字川中は中心で、昔は川上市場とも呼ばれた。北原氏宅:川上785-1:の屋敷内にあり、川上南市場講中のもの、高さ1.4m、建立不詳、秋葉講代参実施。’97
 常夜燈のある北原氏宅裏(北)の2軒西側の家が妻木氏宅だ。
・妻木寿男氏宅:川上1330:塩屋
 北原氏宅の県道沿い2軒先に神燈がある。
・秋葉御神燈:川上字川中:川中集落を流れる小川沿いにある。台座が3段、1.07mでその上に1.63mの常夜燈が乗り、合わせて2.7mもの御影石常夜燈で、川上北市場講中の建立、「大正十五年五月之建」「秋葉御神燈」、秋葉講の名残の代参は毎年12月実施。’97
 手前に標識「⑬いちんば(市場)」がある。
道向かいが広くかつての農協でGSだった。
・川上市場:夢咲農協東支店:川上856:ガソリンスタンドの所にはかつて旅籠があった。(すでにGSガソリンスタンドも農協でもない)この市場は相良の塩や海産物と信州や北遠州方面の産物(綿、椎茸、茶)の交換商いの場だった。この市場には弥生後期の複合住居跡があり、古代より塩の道の要所として、旅籠、油屋、塩屋、両替屋、雑貨屋、湯屋、米屋等が立ち並んでいた。集落の北に輪中堤があり、川の改修ができるまでは輪中堤で水害から守られていた。塩や海産物は人の肩に担いで運んだのであったが、江戸時代には馬も使った。市場には風呂屋があり、旅人や商人が汗を流し休息の場だった。また「倉掛」の地名は集散する物資を積む倉庫をいったのか、或は馬の荷鞍を干したり馬を休ませた処かもしれない。市場の宿シクと川を挟んだ処に「ぜんかい」という地名がある。米売坂を控えた所であるため両替屋ゼンカエであったと考えられる。
農協から30m南へ進み左折し東へ30m。
・祠:馬頭、観音、
50m東進、県道に出て右折し100m。
・大龍山正覚寺:川上836:正林寺末寺、本尊:聖観音菩薩、寛永元1624年4月創建、道の左が裏門の屋敷跡で茶畑となり昔の面影は残っていない。
 ・堂、・石段:大正八年、・奉納西國三拾三所供養塔 文化十三丙子歳、・石家道祖神、
 かつての古道は、先ほどの馬頭や観音のあった祠から南に進み、寺の西側から山際を通過したようだ。少し道型が残っている。
県道を南に200m。
・金毘羅神社:川上:新道である県道相良大須賀69号線のすぐ上にあり、石段を上ると神社の拝殿が建っている。・手洗石:天保七丙申年九月施中、北には菱電旭テクニカ(株)工場が眼下に見える。
 ・木鳥居、・祠、・手洗石:天保七、
200m南進上に陸橋が見える手前に左上に上る狭い道へ左折。上りきった辺りに石仏がある。
・新:地蔵、
この地蔵より北東側の茶畑の奥にかつては天然記念物の松があったようだ。
・川上庚申松:高橋字奥磯部:塩の道から50m北にある。かつて樹齢400年ほどの枝ぶりの良い松が2本立っていたが松くい虫の被害に遭ったので、現在は若い木になっている。松の木の傍らに「並び立つ庚申松や風薫る」の一句が切り株の隣に添えてある。
 東へ600mで正林寺墓地前に出る。
・今川義忠の墓:祠:一石五輪塔:高さ62㎝:正林寺、
現在の秋葉街道ルートはここで右折し下っていくが、おそらく古道はもっと手前で下ったはずだが、現在道はないのでやむをえないだろう。おそらく古道は途中の塩の道標識があった辺りから下ったと思われる。
・松の茶屋:高橋字奥磯部:小川の南の小高い所に枝ぶりの良い松があったという。その松の木の下の茶店、明治の中頃まで女中さんもいて大変繁昌した。廃業して前岡に引っ越した。現在屋敷跡は水田となり松もなくなり面影はない。鈴木武司氏宅? 昔は他に素麺屋、豆腐屋、紙屋もあったという。
・高橋字奥磯部528:山本常雄氏宅:昔はこの附近に豆腐屋、油屋、紙屋、塩屋、茶屋等の商店があった。このお宅の裏の秋葉街道を朝暗いうちから、塩や魚を運ぶ商人が大声で話して往来するので目を覚まされることが度々あったという。
・徳本堂:徳本上人を祀る石碑と祠がある。
 徳本堂から西に300mで県道の観音橋がある交差点である。
・磯部山延寿院の跡地:徳本堂の300m西で県道と小川の南にかつての29番札所だった磯部山延寿院の跡地がある。廃寺となり正林寺境内の本堂右手に移築したお堂には聖観世音菩薩を祀っている。薮だらけでとても入れない。
 高橋奥磯部635:中島氏によれば、延寿院という言葉では知らないそうだが観音堂では知っていて、付近の県道交差点観音橋周辺の県道南側のちょっとした平地に堂があったのだそうだ。今は正林寺に移転した。

~周辺:塩買坂紹介~
 巡礼道はかつての札所の延寿院や今の札所:正林寺まででよいが、古跡:古戦場にして古道の秋葉街道中でもハイライトといってよい塩買坂を紹介せずにはおられない。
徳本堂から中坂へは一旦現県道を右に少し下るという逆向きに進むことになるがほんの少し下ってすぐ斜面に急に上っていく狭い舗装路がある。ここに見付けにくいが「秋葉道→」30㎝×15㎝の標識があるのでそれを目印にできる。これが中坂の名残の道である。
広い舗装された農道(畑総)にでるが、 ここもかつては中坂の本道だったようで、広い農道が造られ、茶畑が整備されることで、古道はどうなっていたか分からなくなっていく。
・中坂:この坂は武田方の軍用道路として使われた。御前崎市(旧浜岡町)と菊川市(旧小笠町)の境界線である。「正林寺境内古図、正徳三1713年」では性海坂と記されている。塩替坂、塩買坂とも書く。昭和初期から中頃まで、定期バスの掛川相良線として運行され相当に利用者もあった。現在は畑地の整備で古道は道路拡幅された農道となった。昔は道幅一間の道で両側が赤松の木々で覆われ薄暗かったようだ。
狭い農道から広い農道に合流した所の上っていく方が古道の拡幅で、下る広い農道は新道である。上りきった道向かい側にため池がある。ここがかつての膏薬の鈴木家跡地だ。
・養寿丸と高野長英:道の左側に家伝薬養寿丸を売っていた鈴木家の空屋敷に、傾き倒れ掛かった納屋が一棟建っていたが、今は何もない。天保十1839年幕府目付鳥居耀蔵党獄を起こし崋山、三英等を捕う、長英もまた江戸伝馬町の獄に投ぜられた。弘化二1845年獄火あり、長英出獄また還らず。潜行顔を焼き容貌を変じ、姓名を偽りて諸所に潜伏、たまたま中坂の鈴木家に一夜の宿を乞う。主人快く迎える。一夜が明け当家に長患い病人あるを知り、病状を聞き夜が明けると、一枚の紙に薬草と調合割合の秘伝の書物を渡し、暇を告げて立ち去る。鈴木家ではこの秘伝書をたよりに、薬の製造に着手、病気で困っている人々に分けてやる。当家の病人も一か月足らずで快癒したという。
  ’16 2月、鈴木家跡地は現在、四角いコンクリ製溜め池となっていて、周りを金網で囲われ立入禁止になっているのですぐ分かるはずだ。ちょうど磯部の徳本堂から中坂の軽トラ農道を上って尾根沿いの広い農道へ出た所だ。この溜め池のやや下の茶畑の平地と樹木の急斜面の境目に墓石らしきがいくつか置かれている。おそらく鈴木家の古い墓石かと思われる。鈴木家ではかつて貼り薬の膏薬を作っていたそうだ。新野の茶畑で働いていた中年男性の方に聞いた話だ。
合流地点から250m上っていくと左に神社がある。
・金毘羅神社:高橋:古道を拡幅して造られた広い農道から石段を上ると東西に少し古道が残存している。木の鳥居をくぐると祠がある。棟札は判読不能。昔横地城の砦跡かもしれない。・金比羅堂:平成二十六年、・木鳥居、・丸石段、・?手洗石、
・石倉(砦跡):神社の隣の高さ4~5mの小山は昔、石倉と呼ばれた。卵大の石があり、地元民の話では、敵が攻めてきたとき、武器を持たない雑兵が小石を投じて防戦したという。
・車坂:先ほどの神社の東隣の茶畑の北側の枝尾根に沿って古道:車坂が残存している。茶畑からの下る位置は北側の枝尾根になる所を探す。20mも下りると杉檜植林地内の尾根に沿って古道の切通しを発見できる。道幅は半間:三尺:90㎝である。下っていくと現県道相良大須賀線で古道は切断されている。県道向うに正林寺境内の今川義忠家臣の墓がある。昔は正林寺坂の北側の茶畑が雑木林で、林の中ほどを秋葉街道が通っていた。
’16 2月再調査、金毘羅神社から東北隣の茶畑に入り、北側の斜面を下り人工的切通しを探すのだが、20分かkった。途中で切通しではないが、1本西側の枝尾根上に林業用作業道を発見できる。細尾根上を道幅30㎝でつないでいる。しかし90㎝もないし、切通しがないので区別できる。この道の1本東側の枝尾根上に尾根をえぐった切通しで幅90㎝はあるので、はっきり道跡と分かる。片道5分で県道上の擁壁と金網に到達する。1分戻ると、更に東側に分岐する道があった。1分進むとやはり擁壁と金網に出て行き止まりである。下には県道と向うに少林寺の東隣の茶畑が見える。古道歩きは片道5分で、分岐する道も片道1分であるが、探すのに20分以上かかった。古道から茶畑に戻るのが大変で少々道なき急坂薮漕ぎとなる。
 先ほどの金毘羅神社、石倉、更にその隣の茶畑からさらに広い農道を上る。かつてはこの辺りにも旅籠や茶店があったという。神社から300mで右に丘がある。これが金山らしい。
・金山:坂を上りきる500m手前の小高い丘、かつては掘っ立て小屋が建ち、とばく場であった。車坂に入る茶畑のもう一つ北東側のピークである。ピーク上はなだらかで一面茶畑であった。かつては小屋があり、とばくをやっていたということか。附近にグラビア週刊誌が落ちていた。
金山から500m進むと塩買坂の頂点に行きつく。これで坂が終わり、台地上の平坦地の道となる。ここに史蹟が多い。
・供養塔:道の右に2基の供養塔がある。「僧都 (状のヘンと尺のツクリによる漢字)芸上人 慶長拾四巳年十月十九日」’16 2月未発見、「高祖 承陽大師 供養塔 大正七年建立」、・童子の小さな墓石が祀られていた’16 2月、
・火切場と三夜燈:(1) 火切場:秋葉街道の脇には昔は一畝ほどの広場があった。旅人や商人が塩買坂を息を切らして上ってきて、一休みする時寒い冬の日などたき火をして暖をとる。風が強いと飛び火して山火事が起きるから広場が設けられていた。
 (2) 三夜燈:昔の火切場の一角に立っている。高さ1.2m、御影石、「三夜燈 慶應四辰正月立」、高橋原の人たちに戦前まで熱心に祀られた。この原一帯は水の便が悪く、その上茶産地のため、各家で培炉ホイロを使う関係で、秋葉信仰は盛んであった。この集落では97年現在代参はしているが、灯明をあげる等はしていないという。ここは新野原で塩買坂入口、農道が拡幅され、かつての古道は失われ、今川対横地、武田対徳川の古戦場の面影も失われた。なお塩買坂は中坂、車坂とは違う古い別ルートがもう一本存在するらしい。
 この先には馬茶屋があり、秋葉街道は相良まで続く。

~周辺:塩買坂からちょっと外れた所紹介~
・武田の井戸:金毘羅神社と石倉から西に下る坂を200m下り、三叉路を左折し茶畑の中の狭い農道を200m下ると十字路になり、左側の杉林の中に、武田軍が飲料水に使った古井戸があり、真夏の渇水期でも清水がこんこんと湧き出ていた。十字路を南に行くと、右側の小高い丘が茶畑である。
・丸尾平:面積2000㎡程の茶園で、昔武田軍が高天神城を攻撃するに当たり、本陣を築き敵状を偵察した跡地ではなかろうか。茶園造成の時、土器類が多数出土したという。ここから西北方に小笠山南陵が手に取る如く見える。本陣を築くには絶好の場所であったろう。元来た道を帰り、塩の道(秋葉道)に出て200mほど坂を下る。
’16 2月、鈴木家跡の溜め池と先ほどの金毘羅神社の中間あたりに南に下る軽トラ舗装農道がある。下っていくといったん下り切りまた上がっていくのだが、この下った辺りが武田の井戸と推定する。草藪をかき分けないと分からなそうなので正確な位置は分からない。更に上っていった所が丸尾平だろうと思う。


・第二十九番 国源山 正林寺内磯部山(菊川市高橋497、たかはし)こくげんざんしょうりんじないいそべやま  
 創建:永正14年1517、開基:今川氏親、本尊:聖観世音菩薩:木乾漆造り立像70㎝作者不詳、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・60年毎‣平成4年1992年、次回2052年予定、縁起:
焼津市坂本高草山林叟院末。
附近の塩買坂は距離2㎞で、文明八年1476四月六日、今川義忠が菊川の横地城、榛原の勝間田城、見付城の斯波氏を攻め攻略後、帰路塩買坂で横地氏残党の襲撃に会い流れ矢に当たり傷を負い、川上の民家で治療したが、甲斐なく息絶えた。家臣18名も主君に殉じた。古戦場として有名になった。寺の東南方向の東坂の頂上に千人塚の墳があり古戦場と伝える。
今川義忠の最期:文明八1476年今川上総介義忠は、当時遠州の反今川勢力であった横地、勝間田両氏を討伐し、更に見付城による強敵斯波氏をも攻め破り、駿府への凱旋の路を秋葉街道にとって、4月6日夜半塩買坂に差し掛かった。ところが地の利に詳しい横地の残党が、坂上の絶頂にある石倉を開き、奇襲に出た。そのため今川の先遣隊は殲滅され、義忠も必死の防戦むなしく、流れ矢を脇腹に受けて落馬し、川上の宿(川上市場附近)にあった民家で傷の手当てを受けたが、その甲斐もなく41歳(28歳ともいう)でこの地に絶命した。これが塩買坂の悲劇と言われる義忠の最期である。
「今川記より」斉藤道斉著:(今川義忠)駿府へ御馬を返さるる時、不図に一揆起り、塩買坂にて切りかかりしかば、俄の事にては有り、夜中の事なれば、御供の人々さはぐといえども、義忠少しもさはぎ給はず、御馬を立てなをし、自身切って落とし、東西を乗り回し、下知し……然といへども、いづくより来りけん、流矢一つ飛来り、大将の御わきにのぶかに立、いたでに次第々々によはり給ふ。其後屋へ入奉り、色々いたはり申けれ共、甲斐なく、其明朝……御逝去あり。御供の人々せんかたなくして、御死骸の御供申、駿河国へ帰りて、御葬礼いとなみ奉る。今川氏は、横地氏とこれで二度戦い、いずれも敗北、その上大将の戦死という痛手をこうむり、その強さを思い知らされる。
今川義忠の菩提を弔うため息子氏親が1517、国源山昌桂寺として開創した。大永六年1526十二月今川氏輝は「かなふみ黒印新野池成新田百町之事云々」の1通。享禄五年1532九月「為桂山菩提知領 池成新田の定」1通。1551から翌年にかけ昌林寺と改めた。天文廿一年1552四月昌林寺に山林制札及画幅等を氏親が寄進。慶長中大須賀出羽守、小笠原主馬が黒印の寄進状を与えた。更に関ヶ原の合戦の頃、正林寺と改められた。慶安元年1648徳川家光は朱印地8石を付した。郡中に13の末寺がある。
聖観音は始めどこに安置されたか不明だが高橋小字観音前に移したのは、天和元禄頃の十世霊領貞瑞である。元禄六年石雲に輪住する。その後明治29年に正林寺に移した。
寺内は深い樹林に囲まれた山内で参道を進み小さな石橋を渡り山門の前に出る。3回の火災(1553、1669、1838)で山内諸堂灰燼に帰す。180年前に再建、たたずまいは500年の歴史の流れ。
・全山配置図2枚、正徳三年1713、明治二年1869、正徳版は老中にまで披露したもので、客殿(本堂)、衆寮、江湖寮(首座寮)等が描かれ往時の伽藍をしのばれる。
・本堂:正面に堂々と、左に風格ある観音堂、
・今川家臣忠死墓:天保十一年1840、隣に蛇(龍)を彫った石塔もあり、2基並んでいる。昔はこの沢の左岸沿いに車坂からの秋葉街道があった。この近くの龍門橋の袂に少し道型が残っている。
・今川義忠自刻像:24.5㎝座像、一見僧形のようであるが背面に髷があり右立膝の丸腰で眼光鋭く武将の面目躍如たるものがある。
有住、駐車場有、Tel:0537-73-2221
~追加
・今川義忠の墓:祠:一石五輪塔:高さ62㎝:前述の経路でも記入したものを再掲示、
・板碑4、・祠:金毘羅大権現、・奉納西國三十三所 文化七、・コンクリ製鶴像2、・新:地蔵、・観音:寶庚寅歳、・祠:神祀、・献燈2:昭和三年、・念仏供養塔、・子安南無観世音菩薩、・法華経塔、・献燈2、・献燈:古戦場 道路記念、・観音、・南無阿弥陀佛 昭和八年、・新:仁王門、・祠:神祀、・弁天堂、・地蔵:明治十三年、・地蔵:明治廿三年、・献燈2、・句碑、・歌碑、・祠:地蔵:西國秩父坂東百所観音順禮修行奉為供養、・西國一番元治元年子七月、・観音、・地蔵、


・経路
JR菊川駅から御前崎行バス南山下車、徒歩60分。
28番から距離は長いが坂になる直前に寺がある。寺の後方は塩買坂と云い、秋葉街道の古道であり古戦場でもある。その墓石が境内にある。JR菊川駅から御前崎行バス南山下車、徒歩60分。
28番から29番への道のりの後半の古道ルートは秋葉街道そのものを通ることになる。ただ細かな点になるといくつかの輻輳する推定ルートがあるため古道が統一されていない。というより古道も時代に応じて付け替えられるのでいくつかの複線ルートが近代初めには存在していたのかもしれない。附属地図の古道ルートは明治20年代地図のルートをかなり正確にたどって記入されている。
塩買坂は、秋葉街道の相良方面と掛川方面を結び、塩などの海産物を運ぶ道の坂道だったようだ。そのため塩の道ともいう。秋葉街道は信州街道に繋がり、北信州の黒曜石石器が御前崎で星の糞と云われ出土することからも石器時代から周辺地域と信州方面がつながっていた証拠であり、この周辺に交易の道があったという証拠でもある。
30番へ4.5㎞、徒歩60分。
30番へは元来た秋葉街道をそのまま戻ることになる。下平川の好運寺、本間氏宅、ひかり保育園近辺まで戻るので、この区間の説明は割愛する。
下平川のひかり保育園角の道を左折(西)し県道掛川浜岡線の商店街に出て、右折(北)し、また左折(西)して、堤橋を渡る。このまま西直進600mで大船渡橋を渡れるが、古道はどうも直進路より一本北50mの道というか、田畑のあぜ道のようだ。通れないので北方向を見つつあの辺に古道がかつてあったのだなと思いつつ進む。大船渡橋に至る。

~周辺紹介~
堤橋と大船渡橋の中間辺りの交差点の左に標識「代官屋敷黒田家→」がある。この地域を代表する歴史遺産で観光資源である。
○代官屋敷黒田家住宅:主屋・長屋門・米蔵東蔵:菊川市下平川862:国指定重要文化財 、長屋門が格調高い、屋敷周囲は濠がめぐらされている。母屋、土蔵、米蔵がある。黒田家は直参旗本本田日向守の代官として江戸初期には当地を支配したと推定される。黒白の壁はシックである。
・説明版:黒田家は代々武家で、永禄年間1558~1570に現在地に居住、江戸時代には4000石の旗本、本田日向守の代官を代々努めた。屋敷は正面に大規模な長屋門を構えて、周囲は城郭の面影を残す堀をめぐらした広大なもので、広さは1ヘクタールほどある。現在の主屋は、安政の大地震後1855に再建されたもので、文久年間1861記銘の家相図が残されており、これとよく一致するので、この頃竣工したものだろう。構造は床上部において、太い柱や梁を用い、棟通りをはさんで4尺幅1.2mで2列に柱を立て、それらの柱列から前後各2間半4.5mを上屋とし、4周に1間幅1.8mの下屋をまわしている。小屋組は和小屋で寄棟造桟瓦葺として下屋部分は1段低く屋根をかける。背面下屋のうち「つし」のある2間3.6m分は更に1段下げて明り取りの窓を開いている。この住宅は柱梁及び指物等太い木割りであり代官の住宅にふさわしく良質で仕上げもていねいだ。建築年代は下がるが明らかであり、改造が少なく保存がよい点等重要な遺構だ。太い柱や梁を用いる等耐震対策を施し、昭和19年1944の大地震にも大きな被害はなかった。
置千木を11本も置く茅葺の長屋門は2000石の格式をもち、主屋よりも古く18世紀中頃の建築とみられ、寄棟造茅葺で桁行68尺20.6mに及ぶ大規模な門だ。安政被災前の屋敷構を示す古図(嘉永3年記銘)から判断すると、扉口西方の3室のうち西端室は文久の主屋再建時に半間0.9m通り拡張されて全面的に改造されたことが分かるが、大規模で質の良い長屋門だ。昭和51年1976に文化庁の補助事業により修理復元された。
*主屋には現在も黒田氏が住んでいるので配慮が必要である。
・塩の道公園:代官屋敷西隣にある。塩の道:秋葉街道ゆかりの周辺自治体の木や花が植えられた散策路があり、黒曜石も置かれている。
・街道館:秋葉街道を描いた杉山良雄氏の絵がある。代官屋敷西隣にある。当面休館している。’16 3月。
・資料館:図書資料等が見られる。開館時間~16:00。
附近には黒田歯科医院等、黒田姓の家が多い。

大船渡橋手前の土手を400m北上すると、右に池村公民館がある。墓地もあるので寺院跡だろう。
○池村公民館:・地蔵:首なし、・地蔵、・五輪塔:破片、・奉納秩父西國四國順拝供養塔、・献燈:文政十二年:祠が金属製西洋風飾り塔、
~~~

大船渡橋に話を戻す。大船渡橋にはかつての高田の渡しにあった石仏がある。
・馬頭観音:摩耗状態がひどく直接見ただけでは馬頭とは判断ができず、消滅一歩手前の石仏と云えるが、このまま残してほしい。将来再建するにしても古い石も残してほしい。
大船渡橋を渡ると左に新道標がある。
・新:石道標:遠江三十三所観音霊場第三十番札所盛岩寺、
すぐ土手沿いに南に200m進み、右折(西)し50m進むと南に寺がある。


・第三十番 宝珠山 盛岩寺内青木寺(掛川市岩滑3868⁻1、いわなめ)ほうしゅざんせいがんいんないあおきでら  
 創建:天文8年1539、開基:覚仲素文が盛岩院二世となり塔頭を建て本尊を祀り青木寺と号した。本尊:聖観世音菩薩:木造座像胎籠り仏:伝弘法大師作、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎‣平成元年4月、縁起:
元治元年1864火災焼失、明治6年1873青木山の観音を盛岩院に移した。
附近周辺は古代から小集落が造られ社寺堂祠を中心に発展してきており、古来からの地名を引き継ぐものも多く地歴研究に最適である。
 青木寺は三十三観音霊場選定以前から村人に尊崇されていた。
 盛岩院周辺は数百年前は湖水で寺のある所は湖水に突出した老松繁る丘だったという。
・供養塔:西国巡礼、四国八十八か所、山門横、
・十三仏:石座像、境内右側、十三仏とは亡者の法事を修する初七日から三十三回忌まで、13回の追善供養をするときに本尊とする仏のこと。
・本堂:昭和57年1982新築、
・観音堂:青木寺:本堂左手、
・鰐口:「遠江州笠原庄岩滑郷新福寺 時長禄戌寅ツチノエトラ二年1458三月吉日 願主 大工十郎」、新福寺は青木寺前身かと思われる。
有住、駐車場有、Tel:0537-74-3375
~追加~
・地蔵2:座位:?(三界萬霊供養塔 掛川町山崎茂七のものか未確認)
・新:丸石柱、・豊川稲荷、・祠:白山妙理大権現、・石柱2:昭和十四年、・新:七福尊、・新:六地蔵、・新:手洗石、・板碑5、・五輪塔、・地蔵、・奉納西國三拾三所供養塔2:文化十二年、別物?、・地蔵13:座位、・地蔵2、・新:十二支石像、
ネコ屋敷寺院:境内は猫が多く、相当数を飼育しているようだ。猫好きな方は参詣するとよいだろう。
かつて堂があったという青木山は多分西南の裏山のことだろう。参道横から1~2分で上ると頂上は平坦な茶畑である。遺物等はない。経路ルート変更等もない。


・経路
JR掛川駅から大東線井崎経由、井崎下車、徒歩30分。
31番へ800m、徒歩15分。
31番へは寺の西北へ出て、北西を目指す。大船渡橋から300m西進する道との交差点に出る。
・新:石道標:遠江三十三所観音霊場第三十番札所盛岩寺、・石柱2:□組氏子中、
交差点を渡り300m西北に進む。右(北)に入る狭い道がある。右折して100mで31番がある。


・第三十一番 紅梅山 菊水寺(掛川市岩滑1237、いわなめ) こうばいざんきくすいじ  
 創建:不詳、開基:不詳、再興:元禄四年1691、本尊:千手千眼観世音菩薩:寄木造り立像60㎝、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣平成5年9月24日、縁起:昔千寿に古刹があったが、戦国期に戦乱で地蔵堂と観音堂を残して荒廃した。その後寛文十二年1672十月大雨洪水で観音堂も本尊像も流失、尊像は村内の山添に流れ着き、発見した真言宗修験道繁昌院中島家先祖が、元禄四年1691自宅屋敷内に堂宇を建て本尊を祀ったのが菊水寺のはじまりという。現在も門前に中島家がある。                    
・石道標:遠江三十一番観世音紅梅山菊水寺 御大典記念昭和三年十一月建立:参道入口 
・西国三十三所供養 遠江三十三所供養 四国八十八ヶ所供養 善光寺如来供養 村内安全 家内安全 子孫長久 大正二年四月建立 加藤弥四郎:堂右側1基、
・献燈:寛政二戌年、・手洗石:奉納:丸型で珍しい、 
・観音堂:格子天井一面一桝ごと花鳥山水の各種絵、御詠歌額:磐田郡見附高塚金三郎、発句:昭和十二年秋彼岸浜松市田町内田六楼 磐田郡敷地村太田斜鳥、鐘:山崎弥五郎寄進、鐘:西村和泉守作、棟札:明治44年9月、昭和52年1月、屋根替、版木、
・石灯籠:寛政二年1790戌年 奉寄進 当村施主後藤治助、
無住、駐車場なしだが参道前の道端の端に置くか中島氏に相談する。トイレは中島氏宅前庭にある。Tel:0537-74-3383:中島氏。ガイドブック等記載の電話番号に2か所かけると御断りされた。要するに自治会管理で周辺住民が毎年持ち回り当番しているので、1年経ってしまうと変更され無関係になってしまうためだろう。そこで中島氏の電話番号を記載した。手前左の中島氏宅で御朱印がもらえるし、古くから祀っているのも中島家であり、どうも陰陽師系らしい。かつては土木技術等で領主に仕えていたのだろう。永寶寺:大嶽氏談。
 かつて千寿に古刹があったというが、現在北西1㎞の千手橋南の西之谷に谷の口堂(北ノ谷)地蔵尊が祀られている。これが地蔵堂の流れを汲むものなのか。観音堂の流れは菊水寺が引き継いだということだろうか。中島氏談。

~周辺~
○谷の口堂(北ノ谷)地蔵尊 遠州城飼郡三十六所地蔵菩薩十九番:掛川市岩滑975:説明版:この地域は昔、遠江国笠原の庄、岩滑郷と云われた。この地蔵堂は三百有余年の往昔よりここ岩滑の地に建立された。本尊は延命地蔵菩薩で、霊験あらたかな仏様として、地域の人たちの信仰を集めた。口碑によると、この地蔵堂宇の歴史は室町時代に遡ると云われる。往時岩滑における寺院で戦国時代の高天神城戦において焼失、廃寺となった真養寺及び新福寺の存在と関わりがあると伝える。両寺は観音堂の発祥した密教寺院であり、寺院の隆盛期であった室町時代にはとても栄えたと云われる。「千手」や「明僧」の名称は現在なおこの地域の字名や橋名として残される。信仰心篤い村人たちがここに聖域として地蔵堂を建立したと考えられる。この地蔵尊は遠州城飼郡キコウグン三十六所地蔵菩薩のお遍路巡りの19番札所に数えられる。御詠歌「まことなる 心に身をば いとわめや いわなめらけき 谷の口の堂」と詠まれる。慈しみ深い本尊は、古来より家内安全・商売繁盛・戦病平癒・特に子供の教化救済の願いが叶えられるとして、ひろく地域の信仰を集める。岩滑の地名の起源は、清水ヶ谷、泉津井等の字名から察して、清水の湧出する水清き郷として命名されたと云われる。
・新:石道標:谷の口堂地蔵尊 遠州城飼郡三十六所地蔵菩薩十九番:参道入口
・石塔、・観音、・如来、・卵形墓石、・奉納経西國三拾三所供養塔6:天保七、天保九、明治十四年、明治三十二年、安政四年、安政二年、・南無大悲観世音西國丗三所巡拝記念塔 明治参拾九年、・西國三十三所順拝供養塔 南無観世音菩薩 大正三年、・西國三十三所巡拝記念塔 南無観世音菩薩 昭和九年、・燈籠、・文化九申天 ?右くわんおん道、
 そしてこの谷の口堂地蔵尊から南に200mで31番:菊水寺から32番:今滝寺へ行くための火ヶ峰への上り口に至る。この近さは偶然なのか恣意的なものなのか?巡礼者はこの谷の口堂地蔵尊へ十分寄り道できる距離である。

・経路
30番から歩いて10分とかからない。
JR掛川駅から大東線井崎経由バス、井崎下車、徒歩30分。
32番へ6㎞、徒歩90分。
西北に進むと中方ナカホウの集落があり、その左に池があり、「番外四番の丸山観音」がある。
☆疑問:「番外四番の丸山観音」とはどこ?
    巻末の蛇足に記載する。
☆疑問:番外とは?その数と具体地はどこ?

32番へは、参道入口に戻り、一旦西へ100m進む。右折(北)を目指し300m進む。T字路に出て左折(西)し400mで明僧橋を渡る。
明僧橋を渡った土手沿いの南200mに板碑がある。
・板碑2:御大典記念 昭和三年 岩滑村青年會西支部
橋を渡り400m進む。西の山に向かって道が三方に分かれる。
岩滑1037⁻1:栗田氏宅のある中の道を進む。左山上に進む山道を上り、上りきる手前で右に進むと尾根向こうの池に出る道がある。中の道分岐から150mで西之谷東池に出る。池の西端土手をめぐり尾根に出て北へ向かう。
先ほど中の道を進んだが、分かりやすい道なら右の道を進む。岩滑1024:藤沢氏宅前から向かいの茶畑を上り、上りきったら左に進むと尾根向うの池が見え、池西端の土手道に抜けられる。
藤沢氏夫妻の話だと、昔は池の土手を通って火ヶ峰の尾根道を通り高天神まで歩いて行ったものだとのこと。また岩滑の住人はここから見える山の頂点を火ヶ峰というが土方の住人もそこから見える山を火ヶ峰というから山周辺の広い範囲を火ヶ峰というようだ。
池土手から金属の橋を渡り200m進むと、道は崩壊し急斜面で雑草だらけで草藪となり、すぐ上が尾根なので尾根向うに抜け出そうとするが、向こうは笹竹だらけの密集地となり抜けられない。万事休す。戻る。
別話になるが、この200m北に「谷の口堂地蔵尊」があるので寄り道できる。

~一応この西之谷東池から進めると仮定してのシミュレーションでは以下となる。池土手から600m進むと中方と中の境界線尾根で、現在は農地の整備事業でかつての尾根伝い道は消滅して、山を切り開いた広大で理路整然と区画整理された茶畑に出てしまう。古道はない。この辺り三角点△73.3m地点はかつての火ヶ峯という砦跡である。ここらで左(西)の下土方の集落に出る近江ヶ谷橋を渡る。以上シミュレーション。~

逆向きコースとして、土方の近江ヶ谷橋から東北東の土方と中の境界線の茶畑に行き、火ヶ峰方向を目指す。茶畑は山を崩し平坦にして理路整然とした直線道路で区切られ、全く古道の痕跡もない。途中山のこぶピークが残っているが、周辺は薮だらけで上る気にならない。あの頂点付近に古道の残滓はあるのだろう。茶畑の東南端が火ヶ峰経由で岩滑に行く道入口だろうが、ここもまたすさまじい草藪で入る気にならない。東南に連なる山尾根が火ヶ峰でかつての砦跡で巡礼道もあったはずだが…。

土方の近江ヶ谷橋を渡って西直進150mで、細い道を右折(北)し50m進む。掛川市下土方164₋2:坂部氏宅に祠や石塔が祀られている。
・祠:神祀、扉は3つ、・手洗石:ミニサイズ、・馬頭:大正二年、・馬頭、・奉祭道祖神 願主寅の年男 明治二十年十二月、・
左折(西)して100m進む。下北176:坂部氏宅手前の畑に祠がある。
・祠:豊受皇大神:津島神社の流れ、
右折して西の下小笠川の土手を目指し100m進む。土手手前に板碑がある。
・板碑:四家次郎本願、
土手を上るが、目の前には橋がないので、左(南)の小笠橋を目指し150m進み橋を渡る。移転された石塔がある。
・石塔:史蹟高天神城:裏に戦の経緯が記されている。かつて高天神城に設置されていたが古くなり橋袂に移転されたようだ。
下小笠川の土手に沿って西北に進む。450mで長寿庵に至る。
○長寿庵:無住:・堂:十一面観世音、・手洗石:天明三、・板碑、・井戸、
なおも西北へ150m進むと、天神橋がある。この西600mで高天神城入口で、入口から300mで山城上り口となる。西150m進む。上土方嶺向547₋2:大石氏宅前に標識がある。
・標識:渥美源五郎屋敷跡:横須賀七人衆の筆頭で、大須賀康高配下でただ一人槍の名人であった。渥美源五郎屋敷を□□□□ここを大屋敷という。
さらに100m西に進むと堂と神社がある。
・堂:六地蔵観音、
○津島神社:・石鳥居:平成二十二年、・三夜燈2:大正四年、・手洗石:文政七、・石柱2:大正三年、・祠:金刀比羅宮、
天神橋袂に戻り、100m北西進する。高橋で左(西)50m先に寺跡が見える。
○宗源庵:無住:・観音:首なし、・奉納大乗妙典六十六部 日本回國 天下照平 國家安全 四國西國 秩父坂東 正徳四、現在地域の公民館でグラウンドのようだ。
高橋の土手へ戻る。土手沿いに北西に300m進む。途中に大谷橋を通過し矢代橋に至る。橋を渡らず西に左折し50m進む。右折(北)し50m進む。左折(西)し300m進む。広い道に出る。右折(北)し300m進む。トリンプの工場(女性下着メーカー)がある。左折(西)し左のトリンプの工場沿いに400m進むと、西の山際に到達し道はT字路になる。右折(北)し200m進むと西に32番の寺が見える。

~周辺紹介~
・吉岡彌生記念館:東京女子医科大学看護学部大東キャンパス、
・吉岡弥生、松本次郎資料館:
・高天神城:
  上記3つの項目はネット検索してください。

・第三十二番 如意輪山 今瀧寺(掛川市今瀧213、いまだき)にょいりんざんこんりゅうじ  
 創建:観音堂:宝永七年1710、今瀧寺:天平元年729、元久元年1204今瀧寺の前身正瀧寺十二坊観音堂建立され、元和元年1615今瀧寺と改称。開基:伝行基、本尊:如意輪観世音菩薩:木造座像:丈60㎝、30㎝:伝行基一刀三礼秘仏、脇仏不動明王、毘沙門天立像、宗派:古義真言宗、開帳:60年毎、昭和38年4月1~3日、縁起: 
「遠江国風土記伝に「今滝 水は南流す 高二百十二石九斗二升八合 今滝寺観音堂 朱符の寺田の高五石 真言宗」とある。
今滝寺は高野山別格本山釈迦文院末で、周辺では上内田佐束山岩井寺、菊川市潮海寺の広厳城山コウガンジョウザン潮海寺とともに、真言宗の代表的な寺院である。ともに山岳信仰の名残を残し、寺の背後に山を背負っている。
開基は天平元年聖武天皇勅願、行基創建という。戦国期に高天神城の攻防で僧堂伽藍記録等灰燼に帰す。元和八年1622復興したが、嘉永七年11月震災破壊、文化六年1805に漸く復興。
安産祈願、祈願布を筒にして、祈願成就の折りには底を縫ってお礼参りする習慣。
・観音堂:文久元年1204、10段ほど石段を上った所で境内は広い、
・日本六十六か所廻国記念供養塔 宝永七年1710 願主 浄真 俗名溝口平四良:高1m幅37㎝奥行35㎝、 
・文殊堂、・秋葉神社、・津島神社、・小谷神社等、
・山門:いぬ槇の木を刈りこんで山門風にしつらえてある。市指定重文。見事な造形美。
・ぼけ封じ観音:
・鐘楼 
周辺:高天神城と小笠神社の間にある。東に開けた地形は京都に似ているといわれ、平家の武将長嶋河内の守が隠棲の地にした、平家の落ち武者が帰依したという伝承がある。
裏山は山城か砦跡とも推定される。
・小谷神社:
~追加
・掛川市指定天然記念物:ソテツ、・石段:如意輪山 観音、・石段:文政(正と攵ボクを上下にする)、・石塔:、・新:二重塔、・石段、・大乗妙典、・祠:神祀、・献燈の笠部分、・石柱2、・石鳥居:昭和三十七年、・如意輪、・地蔵:立位、・石塔、・石塔、・観音、・地蔵:座位、・献灯の笠等破片、・板碑3(うち墓石2)、
有住、駐車場有、Tel:0537-74-4187


・経路
JR掛川駅から大東線井崎経由高瀬下車、徒歩45分。
33番へ6㎞、徒歩90分。
今瀧寺から33番へは古道は山際を北に進んだようだが、かなり道が存在しないようなので、迂回しつつも西の山際を見つつ400m北に進む。県道掛川大東線に出る。県道に沿って北東に150m進む。左小高い丘に神社がある。
○日吉神社:・石鳥居:平成二十一年、・石柱2:、・祠、・手洗石:昭和十三年、
 神社先の丘先端部に祠と石仏がある。
・祠:観音:西國供養、・観音、
この先端部で左折し100m先で北へ進む道に行く。100m先で右折し北進する。300m北進する。途中道祖神がある。
・石家型道祖神2:
300m進むと直進路がないので、右折しまた北進路を探しつつ東進する。そういった行動を繰り返しつつなんとか北へ進む。
~石家型道祖神があった地点から東に300mの小さな丘上に堂がある。
○大日如来堂:・コンクリ石段:大日如来、・手洗石:昭和十五年、

入山瀬の下小笠川西岸沿いを何とか北上する。入山瀬1582:青野氏宅を北に通過するが、この右(東)100mの下小笠川の温土ノ谷橋手前に祠がある。
・祠:神祀、・石柱2:昭和六十年、
 さらに橋を渡って県道を南に300m進むと、堂がある。
・地蔵堂:入山瀬266:青野氏宅横、その北隣は入山瀬277:角替商店である。・石塔、・七月に例祭日がある。

 入山瀬1582:青野氏宅前に戻り、北に通過する。600m北進すると高田橋に出る。ここで下小笠川の左(西岸)なのか右(東岸)沿いなのか古道ははっきりしない。西岸では高田橋から一段高い河岸段丘を300m北進してT字路で右折し西之谷橋を渡り小笠山入口付近出でる。東岸では県道を進み400mで小笠山入口に出ることになる。古道があれば県道沿いの家の裏と裏山の間を北進したのだろう。
ちなみに高田橋の300m南で東へ100m入った所に寺跡がある。
○宝寿庵:無住:廃墟、・板碑:角替九郎平翁頌徳碑、・鐘、・地蔵:首なし、・手洗石:10×25㎝、・堂、・本堂:倒壊しつつある、・四国八十八ヶ所 西国三十三番 高野山 新四国八十八ヶ所 参拝供養塔 昭和二十九年、

 小笠山入口交差点に戻り、谷戸橋袂に行く。上り道になってすぐ左にお堂がある。
○薬師堂:・祠:奉請南無本光大菩薩、奉納大乗妙典六十六部供養塔、・手洗石:文政十三、・辞世句碑、・板碑、・献燈2:天保四、・
薬師堂を見たら一旦道を下り戻り、東側の製茶工場の裏に進む。
入山瀬811:製茶工場:山喜製茶組合と803⁻1:中上氏宅の間の道を山に取り付き浄水場建屋の右側から尾根を目指すが、茶畑のすぐ上は倒木された竹藪だらけで通行不能なので、少し左に迂回して竹藪の上に出ると石仏がある。
中上氏の話では、今から20~30年前学校の先生が下見をしてから子供を連れて岩井寺まで行ったことがあるそうだ。そして岩井寺への道の入口は中上氏宅の横しかないとのことだ。
・石仏:右 志ゆんれい道 安永十辛丑年三月:刻字ははっきりしないがじゅんれいと読めそうな気がするし妥当だと思う。
そこからは道型が残っているのでそれを目当てに尾根に出て尾根道を歩ける。500m進むと、ロープが張られその先は山ごと削り取られていて、はるか下に平地が広がり、その向こうに前方を削り取られた対岸の山が見られる。砂利採掘場で関係者以外立ち入り禁止になっていて、ダンプカーが出入りしている。(実は対岸の山の裏側も削り取られていて、2か所にわたって山を削土しているようだ。その後、現在の自動車道を移動して、砂利採掘場を過ぎて山に取り付ける地点はエコパ方面との交差点を南に行き、山越えした地点である。ここはかつて掛川市と大東町の境界線の尾根である。
この境界線尾根の茶畑で働いていた老夫婦に話を聞くと、東西の尾根上に古道は残存しているそうだ。ただし西側は砂利取で山ごと消失しているとの話を聞けた。その方たちの地所だが、通行していいとも言われた。感謝いたします。
古道は基本的にその境界線に沿ってあるようだ。ここからカヤの生えている茶畑道を西に進むとすぐ山に取り付き道幅一間の古道が残っている。300mも上っていくと山の裏側にたどり着く。ここから先は砂利取りで山が削土され、はるか下に平地と工場がある。先ほど見た光景とは違うので、このまた先の山の裏側も削土され、おそらくそこが先ほどの見た地点と推定される。これを戻りさっきの自動車道より東に尾根沿いを進む。茶畑を過ぎると尾根のこぶピークが見られる、こぶを右にまく山道がある。これが古道であるが、笹竹が密生している。それでもこいで行ける程度である、30mこいで行くと左尾根上に道が上っていく。尾根通しを歩く。右側は有刺鉄線が張られ、真下にはため池:堂西池がある。尾根通しが下りになると道が消失?、とりあえず尾根通しを下りきると、茶畑に出る。畑の東はピークになっていて、また藪と倒木だらけだが、道型が少し残る。道型を外さない程度に迂回しつつも迂回しきれず藪と倒木を潜り抜け、尾根の少し下の北側を巻く道型をたどっていくと、廃棄茶畑があり、その先の5mの崖下に舗装農道が現れる。農道を100m進むと岩井寺である。

上記の尾根沿い古道ではなく、自動車道を進む場合の道を紹介する。
一旦入山瀬の薬師堂まで戻り話を進める。薬師堂前の新しい県道を岩井寺方面へ進む。2~300mで右にかつての狭い舗装道路が見える。ただし入口はチェーンが張られ車では入れない。2~3分歩くと両側が切り立った崖下の薄暗い県道の先に第二風吹隧道(トンネル)が見える。今は照明もないが、それなりに歩いていける。くぐってなおも歩くと薄暗い向うにもう一つのトンネル:風吹隧道がある。風吹トンネルは2つあったからだ。ただしこの長めのトンネルは両入口とも金網が張られている。ここに掛川市の標識があるので、一応ここで旧県道及び古い風吹トンネルの道紹介を終わる。
さて新しい県道側を進む。とすぐ右に記念碑がある。
・風吹トンネルの由来:説明版:この地区は、明治の初期までは、わずかな田畑を耕作し、炭を焼いたり、まき木を売ったりして生活していた貧しい地区だった。明治も10年を過ぎるとお茶の栽培が始まり、多少生活はよくなってきたが、苦労して生産した農作物を、市場に持って行くには、三方を囲まれた急峻な山を越えなければならなく、また掛川方面の交通には人馬がようやく通れるくらいの道しかなく住民はたいへん難儀をしていた。そこでこの地区に生まれ育った青野卯吉は、この状況から開放されるには隧道を掘る以外には活路がないと考えて「わし一人でもやらなければ」と私財を出して測量し、工事費を見積もったところ当時のお金で¥2000円(当時米1俵3円、村の年間予算額5000円程度)を超えることが分かり、途方に暮れた。この窮状を内田(菊川市)の製茶会社共益社の浅羽氏に相談したら、見付(磐田市)にある遠江國報徳社の岡田良一郎社長にお願いしたらとの助言をいただき、お願いしたところ、「地区に報徳社を創ることを条件」で同意を得て、区民の理解のもと、明治三十二年一月に報徳社を設立し、千円のお金を借りることができた。工事は明治三十三年から二年間かかり、、大小3つの風吹隧道が区民一同の苦労のもと総工費2500円を費やして完成した。隧道の大きさは高さ2m、幅2mで人が車を引いてやっと通れる程度の素掘りのものだった。隧道はその後、昭和6年と22年に改修し、現在に至っている。明治時代から100年という長い年月にわたり、役割を担ってきた隧道も、平成11年の新道開通により、その使命を果たし終えた。この間、多くの人が恩恵を受けたことに感謝すると共に、大事業の功績を残された郷土の偉人である青野卯吉をはじめ先人の偉業を讃え、ここに記念碑を建立する。                                                                                                                                                                                    

県道掛川大東大須賀線に沿って道なりに岩井寺地区を目指す。岩井寺地区に入ると人家が出始めるので分かりやすい。集落左奥に神社がある。
○荒神社:右折300m手前、・説明版:掛川市岩井寺、祭神:三宝荒神、例祭日:10月10日、由緒:当神社の社有地はこの地の旧家森下氏祖先の所有地だった。古書によると今より約1070余年前、森下右京男と云われる先人が越前(石川県)より三宝荒神の分霊をこの社有地に鎮め、祀ったことが始まりと伝わる。その後明治8年地租改正の際、官有地に編入された。現在は当氏子区域(岩井寺)の氏神様として崇敬されている。
・石柱2:明治四十貮年、・石鳥居:大正三年、・永代夜燈 昭和四十年、・手洗石:平成二年、・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、内側石造り、・奧宮、・木鳥居、
神社から300mで右折し橋を渡ると地蔵堂がある。橋の手前には道標もある。
・道標板碑:遠江三十三番打留札所 岩井寺 大正元年、
○地蔵堂:・石塔:當山三十三番札所 當村願主、
お堂を過ぎて100mで33番の境内に至る。

*なお「古人の歩いた遠江33観音霊場巡礼道」では、風吹の峠から岩井寺までの道のりを旧掛川市と旧大東町の境界線に沿ってつけられている。現在採石場となり山ごと2つ削り取られているのでが、そのまま歩けるわけではないが、ほぼ境界線に沿って古道がつけられていたことは推測されるし、一部は確かに残存していた。


・第三十三番 佐束山 岩井寺(掛川市岩井寺32、がんじょうじ) さづかざん がんじょうじ  
 創建:天平十三年741、開基:伝行基、本尊:聖観世音菩薩:木造立像行基作、宗派:真言宗、開帳:33年毎、縁起:古老によれば元九谷山平林寺と称し、山麓に広大な境内を持ち坊舎塔頭七堂伽藍建ち並んでいたという。
岩井寺略縁起:抑々当山人皇四十五代聖武帝の勅願所也。天平の頃行基菩薩天皇の命を受け、新仏三体を合作し誓を立て都を後にし遥々荒国九谷の峰の間に入尋給ふ。時不思議や十六童子に逢ひ給ひ山川震動し神龍影をなし、大士此の山は無上の霊峰と思召され、此地を仏法の守護所として本尊救世大悲の尊像一体安置せられたり、時に天平十三年春正月なり。
弘仁の頃空海上人行脚の砌り立ち寄りて密教の道場とし国家安穏仏法興隆の為親しく金剛頂経一巻納め給へり。
久しくして延暦十三年坂上氏一七日心願来詣せられたり続いて智泉上人一七日の閒籠って厄病除の為祈願せられたり、猶又足利氏御本願として時の圓教僧都に九谷の峰救世大悲の像を岩井の峰に祈ると申し寺一宇建立して観音堂領地所山林共に八町五反内田に、寺領として佐束に八町五反寄進せられたり。高氏公其時圓教僧都を中興開山の祖として寺号を平林寺、山号を九谷山と称す。外に一連坊、常光坊、正直坊等十二坊ありたり
應永九年七月十日改めて佐束山岩井寺と号す。天正年中横須賀城主大須賀五郎左エ門康高公、当山に帰依し七石の除地をなす。其後又五石除地を増す。慶安二年徳川家光公当山観音領として朱印地七石を附せらる。数通の御朱印ありしも明治維新に上地せり。
永禄の頃甲国兵乱入の時、境内七堂伽藍全部焼失せられたり。
此一千二百有余年の法燈を掲げし当山は篤信者諸氏の帰依を得て昔の伽藍に再興する事を誓ふ。尚原川大和守頼政公(原川城主)の墳墓ありて来詣せらるる人あり。
慶長年間1596~1615横須賀城主大須賀康高当山帰依、現在の伽藍の一部寄進。
境内は杉木立に囲まれている。
・楼門:朱塗り:二層
・修行大師像:金属製
・観音堂:入母屋造り唐破風付厨子、如意輪観音、右:大日如来、御詠歌:大正二年横須賀念仏講中、法楽俳句集:安政六年 2枚、
・一石五輪塔:数基
・老松切り株:丘頂・直径2m
~追加~
表参道
・石柱:遠江三十三番打留札所子安観世音菩薩霊場 明治四十五年子壬歳
・石柱:古義眞言宗高堅派 佐束山岩井寺霊場 昭和十四年
・コンクリ階段:修行
・馬頭観世音
境内
・掛川市指定保存樹木:イチョウ、ソテツ、スダジイ、スギ、他、・
・板碑:御坂石段寄附、・地蔵、・石柱2:大正十一年、・手洗石、・石:穴あき石:80㎝、
・細長石:1.3m、・新:手洗石、・石段、・板碑:記念 三十三ヶ所巡礼 昭和三年、
・常夜灯2:平成八年、・三界萬霊 四国八十八カ所ノ内第四十一番 第四十二番 遠江掛川町山崎茂七 妻とせ 大正三年五月、・□(梵字)西国三拾三所 善光寺如来 供養塔
・板碑:遠江三拾三所 御詠歌寄附 明治二十九年、
「」
周辺:掛川市街地から南へ6㎞、標高100m山頂、一帯は旧岩井寺砦跡、北側急峻、北からの侵入防いだ地形。南の展望すばらしい。
有住、駐車場有、Tel:0537-22-5213、明るくても17時過ぎるとクレームが出ますので、17時までには御朱印を受けましょう。


・経路
32番から北へ4㎞、手前に地蔵堂がある。佐束山を上り詰めると楼門、観音堂は楼門と反対側山上。山頂へは県道から500m北から南へ山裾を廻りこむように、坂道の参道を上り詰める。
JR掛川駅より南に6㎞、徒歩90分。
1番へ4㎞、徒歩60分。

ここから1番の結縁寺に向かうルートはいくつか推定される。
1、 陣馬峠とも青田峠(嶺)とも言われる峠を越えた先の上張で1番の結縁寺に向かうルート。
2、 陣馬(青田嶺)峠から尾根を西に沿って伝い、尾根上にある現在の掛川市総合福祉センターやつつじヶ丘愛育園を通過して結縁寺に下っていくルート。
3、 陣馬(青田嶺)峠手前の秋葉山常夜燈辺りから北の山際を西に向かい龍谷寺前を経て上板沢の沢沿い道を北に詰め尾根越えして結縁寺に至るルートが推定される。
どれがメインの道か判断できかねるが、附属地図には3のコースを記入している。 

・33番から1番への古道ルート? 
 答:岩井寺から子隣りで西に進み、和田へ出る。その切通しに石仏がある。和田から北東に進み、県道や上小笠川の橋を渡り、板沢神社のある秋葉街道に出る。秋葉街道を北西に進みトンネル手前で県道を渡り、上板沢の龍谷寺方面に出て、龍谷寺の西から板沢と上張の境界線の尾根越えをして結縁寺に行く古道がある。

33番から1番乃至は掛川宿に行くには子隣から大谷池と出雲神社の東側の大谷交差点に至るルートだが、これは明治20年代にはない。江戸時代の秋葉街道自体が上内田小学校の敷地隣側を通り、今の大谷交差点自体が存在しない。古道は大谷池の西側を通り和田の白山神社付近を北上して和田バス停付近で今の県道付近を交差し、もう少し東側の秋葉街道古道につながったようだ。
1番へは北の地蔵堂を目指し150m、栗原川を渡り、県道掛川大東大須賀線に出て東へ300m進み、左折(北)するが、この時できれば手前の狭い道がより古いと思われるのでそちらに入っていくとよい。200m北に進み子隣橋を渡り150m進むと、右のトンネルへの道や左の広い切通し道に進まず、更に左の沢沿いの狭い道を150m進む。道の左の茶畑の奥に石柱がある。
○白山神社:説明版:子隣字白山58番地、祭神:伊奘諾尊イギナギノミコト、菊理比賣尊キクリヒメノミコト、例祭日:10月9日、由緒:勧請は足利時代中期と推定、寛文六年再建、境内社として神明社、角皆社を祀る。明治八年国からの一村一社指令により現在地に南側より、八穂社(天白)、金山社(金山)、山神社(天王原)、津島社(天王原)をそれぞれの地より移し併祀した。
・石柱2:、・石鳥居:大正八年、・堂:神祀、・祠4、
子隣の道を西に150m進むと右に田畑と山際にある道に分岐する。右へ行くのが古道のようだ。一応まっすぐ行ってもこの先で右折すれば合流する。150mも進むと、先ほどの左にあったやや広い道が合流してくる。そして目の前は切通しになり、北向こうは和田である。丁度ここに石仏がある。
・?馬頭観音:摩耗していてはっきりしない、ここが和田と子隣の村境だったのだろう。高さ10mの切通しになっているが、昔は高さ10mの丘越えだったということだろう。そしてそこに石仏が祀られていたのだろう。やや広い舗装道を300m下っていくと和田集落が見え、左に公会堂や神社がある。
・和田白山神社:和田公会堂:掛川市和田446番地、祭神:伊奘諾尊イギナギノミコト、伊奘冊尊イギナミノミコト、菊理媛尊キクリヒメノミコト、例祭日:10月10日、由緒:創建不詳、当地は故和田義盛の一族が土着し今も和田の地名が残っている。その当時は守護神として和田家で所有していたが、一族が次第に増加し、これを氏神として崇敬致すようになり境内地90坪と神社を和田地住民に譲った。その後明治八年地租改正の際官有地に編入昭和二十年八月、この地和田民間編入される。
・石柱3:大正四年、・馬頭観世音 弘化元子年、・祠:地蔵、・井戸、・板碑:藤田氏学碑、・地蔵、・手洗石:15×25㎝、・祠:神祀、・石鳥居:御即位紀念、・手洗石:明治廿八年、・奧宮、・祠7:
100m北進する。左に長屋門が見える。
・長屋門
150m北進する。左に石塔がある。
・宝篋印塔2:崩れかかっている。
あと150m北進すると今の県道に合流するが、ここで古道は県道を横断し、東側の上小笠川を渡り、さらに東150mのやや上の山中腹を北に向かう古道秋葉街道に合流を目指す。
 下板沢464⁻1:原野氏宅前の板沢神社分岐点に常夜燈や石道標がある。
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺:木彫りがすごい立派!、
・石道標:右杉谷ニ至ル 左掛川道 
○板沢神社:説明版:
・石柱2:大正七年、・石鳥居:大正七年、・献燈2:大正七年、・新:手洗石:コンクリ、・手洗石:25×45㎝、
秋葉街道古道を進むが、途中杉谷への広い道を横断する。古道がやや分かりにくいが西北を目指す。500m進むと県道に出る。秋葉街道はまたこの先で陣馬(青田)峠越えの細い道となって県道の右上に上っていくが、こちらは1番:結縁寺への古道を目指すので、県道を横断して上板沢集落に入る。この県道合流地点に遺物がある。
・秋葉神社:板沢834⁻3:
・秋葉山常夜燈
県道を渡った上板沢集落には寺がある。
○龍谷寺:無住;・新:無儘燈 昭和五十四年、・地蔵:三界萬霊 村中安全 遠江國掛川町 施主山﨑茂七 妻とせ 大正五年 第七十五番:2 ・堂:観音、・献燈:文化三年、・阿弥陀佛、・石塔、・地蔵、:天保丙年、・石塔、・西國三十三番札所、・堂、・手洗石:丸:昭和五十一年、・古:手洗石、・新:句碑か歌碑、
県道分岐から西に300mで板沢1280₋2:角皆氏宅で右折(北)右に墓地を見つつ進み、150mで右に板沢1074⁻1:狩野氏宅があるが、その手前を右(北)に向かう軽トラ農道に進む。右上の山頂にはかつての掛川市福祉センター愛育園(移転廃止)の無人建物だけが残っているが、ここからは見えない。300m進むと見晴らしがよくなり、直進以外に右上に進む軽トラ農道がある。右上の農道が古道のようだ。かつては石仏もあったようだが、今はない。150m進むと東西尾根を越える。そのとき西(右)の愛育園側からの舗装農道が合流する。農道を400m下っていくと左に猿田池があり、前方に東名掛川ICとエコパを結ぶ広い道が左右に延び、その向こうに結縁寺の隣の白山神社も見える。この道がもっとも近道かと思うが、別ルート2つも紹介する。
・愛育園ルート
上板沢の龍谷寺の右から尾根上の掛川市福祉センター愛育園(移転廃止)の建物を目指す。舗装され自動車で行ける。ちょうど愛育園の左手前が駐車場になっているが、そこに標識がある。標識「農道につき駐車禁止」。ちょうど駐車場の中心部分は農道で、左右に駐車場があるようだ。駐車場の左奥隅に抜けられる道がある。それが農道である。西に進み、先ほどの結縁寺に抜ける農道に尾根の北側を通って距離250mで合流する。
・陣馬峠ルート
下板沢から陣馬峠に出て、そこから東西に延びる尾根を西に進む。途中青田の切通しで現在は歩行困難かと思われるが、未確認なので不明。かつては尾根沿いを東西に歩けたと思われる。陣馬峠から青田の切通し、そして愛育園まで行けたろう。確認としては
’16 3月に愛育園の東端の尾根から歩ける道が草刈りされていた。茶畑もあり、所有者管理者が歩くためこの附近は草刈りをするようだ。更に先には青田の切通しがあるはずだが、そこまでは行くのをやめた。かなり以前青田の切通しを抜けたが完全な廃道で倒木と雑草で道ではなかった。どこまで草刈りしてあるかで歩きやすさが決まるが、未確認。

~周辺~
・大谷池:古道は池の東ではなく池の西を迂回して通過する。
○出雲神社:説明版:掛川市上内田920₋8、祭神:大国主神オオクニヌシノカミ、例祭日:8月6日、由緒:大谷区は明治三十五年桧坂隧道が完成し上内田村の中心に位置する所となり、明治の末期より人々が住み始め戸数も年々増加した。昭和9年8月5日出雲大社より分霊を迎え盛大なる鎮座祭を行い、翌6日には法祝祭を斎行、神社名を出雲神社と奉称して8月6日を例祭日と定めた。昭和59年に社殿を改築、鎮座50周年記念祭を盛大に行い、崇敬の念を深めた。平成2年鳥居と幟立を移転改築し現在に至る。
・石柱:出雲神社参道 平成六年、・金属鳥居:平成二年、・石柱2:コンクリ、・手洗石:昭和九年、・石柱2:平成二年、
神社の東を通る道は新道(明治35年)で、昔の古道は神社の西側の和田を通過していた。


☆うつし霊場
遠方の巡拝には時間と経費がかかるので、念願しても果たせない庶民のため「うつし霊場」というものがつくられた。
○周福寺:三島市鶴喰、百観音
○安興寺:菊川市(旧小笠町)棚草305₋2、六角堂:小笠町、寛政十年1798、京都六角堂を模して千浜の棟梁:出野利八作、33体観音は京都の仏師作、安置、堂内中心回転仕掛け、正面にいると33体すべて拝める。28番から29番への巡礼路である秋葉街道の南にある。
・地蔵:三界萬霊第五十一番、第五十二番:多分掛川の山崎夫妻奉納であろう、・洗い地蔵、・奉順禮遠州 文久三、・馬頭観世音菩薩 大正十五年、・観音3、・地蔵3、・地蔵、・新:六地蔵、
 六角堂の裏丘に祠がある。
・祠:神祀、・手洗石:奉納千浜袴田、


☆榛央新四国八十八か所   桐田榮 
「25番札所 松島山岩松寺」は82番
「26番札所 杖操山妙国寺」は81番
明治25年春彼岸、島田市湯日:養勝寺25世朝倉元巧は、金谷町金谷:弘法庵主:貞法尼と協力して「四国八十八か所」に倣い、島田市旧初倉村全域、吉田町神戸、榛原町坂口、旧金谷町全域に札所を配し、弘法大師の聖蹟を巡拝すると同じ利益に預からしめようとした。
桐田榮氏は1984年夏より調査し、85年末「榛央新四国八十八か所」と名付け公表した。
『郷土における観音信仰』榛原町教育委員会:発行 桐田榮:著 


*蛇足
・保存会では札所に菩提樹と沙羅樹を植樹しているという。
・札所境内でよく見かける石仏に、二つの座った地蔵に刻字「三界萬霊 供養」そして「掛川町施主山崎茂七妻とせ」である。三十三所だけかというと、そうではなく、周辺の寺院にも奉納されている。三十三所でも東の島田市、菊川市にある札所では見かけないし、南の旧大東町や西の森町、磐田市、袋井市でも少ない。それは遠距離なので奉納しなかったのか、奉納したがその後損壊廃棄したものなのか分からないが、旧掛川市内に奉納したものが多く周辺には少なかったと考える方が自然な気がする。掛川近辺の寺院にどれだけの石仏を奉納したのだろうか。奉納年月は大正期の前半に集中しているようだ。信仰心の篤さとそれなりの財力が必要だっただろう。そして山崎茂七という人はどういう人だったのだろうか。


○夏涼山仲道寺:掛川市岡津331。かつては善光寺であり、今も善光寺如来のお堂がある。 33所を順礼後、打ち留で長野の善光寺に行くべきだが、掛川市内にも善光寺はあり、そこで打ち留めできるとのこと。しかし仲道寺に問い合わせたら、そんな話は聞いたことがないし、御朱印もやっていないとのことだった。
・説明版:享保十八1733年、高御所の正法寺から和尚を招き善光寺境内に堂を建立して夏涼山仲道寺と号したことに始まる。善光寺の沿革ははっきりしないが江戸時代の終わり頃には寺の阿弥陀堂に祀られている阿弥陀仏は平安時代の初めに活躍した武将、坂上田村麻呂の守り本尊と言い伝えられていた。
当地は佐野郡小松原といわれた。往古延暦七年、伝教大師が三体の阿弥陀仏を彫り、延暦九年、うち一体を奥州に置こうとして、坂の上田村麻呂を勅使として東に下った。途中当地で兵が難病にかかり進軍できなくなった。その一体の仏像に難病回復に願をかけた。その後兵の病気は回復した。そこで寺堂を建立した。当時諸国に難病が流行っていたので、この善光寺に参詣するものが多かったという。
右側の寺は曹洞宗の夏涼山仲道寺である。その昔江戸から京都までを測量し、その中間がここだということで仲道寺としたという。
・馬頭観音、・祠:地蔵、・手洗石:コンクリ、・手洗石:嘉永二:ほかされている、・ソテツ、マキ、・善光寺如来堂、
東隣の道分岐点に石道標がある
・石道標:大正五年十月 曽我村青年會岡津 従是 東掛川町ヘ約一里 北岡津區 西袋井町ヘ約一里 
すぐ東側は善光寺橋で、西は旧東海道松並木が残り、椎木茶屋が営業している。もう少し西の間の宿:原川の金西寺には石塔類が多い。北野天満宮。
原川15-2:旧交番跡には石道標がある。
・石道標:是従 和田岡村 原谷村ヲ経テ森町ニ通ズ 大正四年 御大典記念原川青年會 


○桜ヶ池:池宮神社、33所回った後の打ち留めに行く所だと聞いたが、未確認。おそらく打ち止めにする理由があるとすれば、秋彼岸に巡礼することが多かったらしく、ちょうど秋彼岸中日には奇祭:御櫃治めが行われることとも関係するかもしれない。
ちなみに秋彼岸中日には西2㎞にある不動尊を祀った大山公園:浜岡総合病院前の山頂の不動尊から見える夕日は、3~4つに分かれ、しかも本物より大きいという言い伝えがあり、「不動山の夕陽」という。これも遠州七不思議のひとつである。気象学的に幻日という現象という説もあるがはっきりしない。
 *参照『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸「不動山の夕陽」P.66
・櫻ヶ池:説明版:約2万年前、風と波で砂が運ばれせき止められてできた池である。法然上人の師、皇圓阿闍梨こうえんあじゃり竜神の伝説を秘め彼岸の御櫃治めの祭典は天下の奇祭としてまた遠州七不思議のひとつとして名高い。
・桜ヶ池とおひつ納め:説明版:桜ヶ池は約2万年前にできた砂丘堰止湖です。県立自然公園の一環にあり、静岡県の自然百選の森にも選ばれた神秘な原生林に囲まれた県指定名勝地です。桜ヶ池のほとりにある池宮神社の祭りに五穀豊穣を祈るため秋の彼岸の中日に行われる「おひつ納め」(県指定無形民俗文化財)がある。平安末期、比叡山の名僧皇圓阿闍梨が衆生救済のため竜神と化し入定され池の主神となった。この霊を高弟の浄土宗開祖法然上人が供養のために桧作りのおひつに赤飯を詰め、一つは池宮神社に、一つは師の皇圓阿闍梨にと池心に沈めたことから始まり、以来現在まで続いている奇祭で遠州七不思議のひとつに挙げられる。
・「おひつ納め」と「皇圓阿闍梨」こうえんあじゃり:説明版:皇圓阿闍梨は肥後の国(熊本県)に生まれ、幼くして比叡山で学問・仏法を修行し、後に日本の歴史書『扶桑略記』30巻を記した。皇圓阿闍梨は悟りの境地を得るため天台の「止観」という方法に基づき、様々な難行・苦行を重ねた。しかし仏法の極め難きを知り、56億7千万年後に出現するという弥勒菩薩に会うことを発願した。そしてその弥勒菩薩の教えにより人々を悩みから救うことができると考え、嘉応1169元年6月13日(96歳時)自分の身体を龍と化し、桜ヶ池に入定した。おひつ納めは後に皇圓阿闍梨の高弟、法然上人(浄土宗開祖)が桜ヶ池を訪れ、師である皇圓竜神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを神社に1個、桜ヶ池に1個納めたことに由来する。以後親鸞聖人(浄土真宗開祖)、熊谷蓮生坊直実が継承し、以来八百数十年続いている奇祭である。またこの桜ヶ池は信州(長野県)と底が続いているとも云い伝えられている。それはすべての命をはぐくむ水の神様を共に崇め、感謝するという古代人から現代人に至るまで心の底が通じていることを象徴している。
・池宮神社:説明版:祭神:瀬織津比(口へんに羊)命、事代主命、建御名方命、神徳:瀬織津比(口へんに羊)命は大祓詞に現れる代表的な清め祓いの神で、諸々の罪穢を祓い、開運厄除である。あとの2神は共に大国主命の子で、事代主命通称恵比寿様と称せられ商売繁盛、福の神として、建御名方命は武勇の神、また農、耕、水の守護神として崇められる。祭日:例祭・納櫃祭=秋の彼岸の中日、由来:創祀は敏達天皇13年6月、584年、に瀬織津比(口へんに羊)命が出現し、社殿造営がなされた。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし平安時代中期一条天皇の長保3年、1001年、社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興。室町時代に入ると駿河、遠江を領有する今川氏の崇敬を受けたが戦国末期に武田、徳川両氏の高天神城争奪の地となり社殿はじめ神宝、旧記、古文書の大部分を焼失。江戸時代に神官信盛再び興し徳川家の崇敬を受け、明治維新に至る迄地頭の祈願所となった。享保十六1731年には正一位の神階宣示を受け、本殿は宝暦十1760年拝殿は元文四1739年に時の大宮司従四位下佐倉治部大輔源朝臣信幸が造営し、その名を池宮天王社とも称され現今に至る。
・池宮神社本殿:市指定有形文化財:説明版:本殿は一間社母屋造平入、流れ向拝付杮葺本柱円柱、向拝柱几帳面取角柱、総朱塗、木階五級の建築であるが、鬼斗、かえる股等に江戸時代中期の意匠工法が散見され小規模ではあるが注目すべき建物である。
・説明版:法の沢 八幡神社:榑林一族の祖先は天正九1581年3月高天神城落城の時、国安橋を渡り、比木の金峯山正福寺に落ち着き、その後、隣の佐倉法の沢に居を構え、この地に祠を建て、榑林一族の氏神、八幡神社として祀られた。昭和49年に浜岡東小学校建設の敷地となったため、池宮神社に移された。
津島神社:祭神はスサノオノミコト(牛頭天王)で疫病除け、田の害虫除けの神として信仰されている。宝暦五1755年佐倉郷、清水嘉十宅西側隣接地に鎮座された。1991年弁天神社と合祀され、池宮神社境内に移され現在に至る。
弁天神社:祭神は田霧姫命たぎりひめのみこと、市杵島姫命いちつきしまひめのみこと、
□(さんずいに端)津姫命たぎつひめのみことで、海上交通を守護する神として信仰されている。元文六1741年佐倉郷、清水稲次郎宅東側敷地内に鎮座された。1991年津島神社と合祀され、池宮神社境内に移され現在に至る。
・大自然の異変 異常高温と大干ばつ 桜ヶ池の鯉の大量死 620匹 平成13年7月20日~8月8日の20日間:説明版:桜ヶ池始まって以来の出来事で、人類が作り出した二酸化炭素による温暖化現象、窒素酸化物による大気汚染、地下水の枯渇、さらには池の富栄養化と異常高温等が原因と考えられる。これは皇圓阿闍梨大菩薩と桜ヶ池の神が人類に向かって鯉の命をもって自然環境破壊に対して警鐘を打ち鳴らしたのだろう。今後二度とこのようなことがおこらないために大自然の摂理を重んじ、自然と共生することが人類に課せられた使命である。人々の難を背負って黄金の国に旅立った620匹の鯉をここに祀る。
・新:献灯2、・新:石鳥居:平成九年、・銅胸像:水野成夫、・新:地蔵、・新:とぐろ蛇、・新:布袋、・新:可愛い地蔵、・新:妙法法祐龍神位、・新:三世之道道しるべ南無甘露台、・堂:新:櫻ヶ池観世音菩薩、・新:観音:水 心願成就、・新:地蔵:水 心願成就、・新:祈願海上安全、・新:双胎道祖神、・新:地蔵2、・新:祈願縁結子育夫婦和合、・地蔵、観音:慈愛、・小地蔵:多数、・鐘楼、・新:皇圓阿闍梨之供養碑、・新:法然上人之供養碑、・地蔵:無縁法界萬霊供養□□□、・皇圓阿闍梨上人為菩提 大正元年、・新:献木、・古:皇圓阿闍梨之碑、・古:法然上人之碑、・石鳥居:平成七年、・石柱:櫻ヶ池池宮神社 紀元二千六百年記念、・新:石柵、・永代三夜燈2:明治十三年、明治十五年、・献燈2、・首なし石仏、・献燈、・舟:3艘、・石柱2、・堂、・板碑:金五百圓也、・献燈2:明治四十一年、大正元年、・石塔:奉納昭和五年、・造営記念碑、・手洗石:昭和三十二年、・献燈:破損いくつか明治十三年、明治十七年、・狛犬2、・献燈:、・新:狛犬2、・新:献燈2、・石鳥居:平成二十年、・石碑:鳥居建設、
・石柱5:・海軍大佐 陸軍大将 畑□□、・志工佐倉信武氏之碑、・國学者水堅眞邦氏碑、・□□□□羅神、・石道標:名所櫻ヶ池従是北十三町 大正十三年一月廿六日 御成婚記念佐倉村:池から南に1.4㎞とすると今の国道150号線で巨大な赤鳥居がある所に設置されていたと推定される。その道向かいは浜岡原子力発電所であり、浜岡原子力発電館(無料)もある。
・板碑5:慰霊碑等、
神社の向かいの土産物屋の裏にはかつて応声教院桜ヶ池別院があった。
・板碑:應聲敎院~~~ 昭和廿五年~~~
・石柱:左通行:横倒し、
考えてみると池宮神社は神社でありながら皇圓阿闍梨や法然を祀り、境内に供養塔や観音堂、地蔵が祀られている。鐘突き堂まである。ということは境内地はかつて寺院だったということでしょう。まあ神社も古くからあるにしても境内地のかなりは寺だったのでしょう。


○丸山観音 番外四番:「遠江第参拾七番 丸山正観世音菩薩」
 『遠江三十三所案内』桐田榮 ’88 の「丗二番今滝寺、道順」の項目に以下の文章がある。
「菊水寺から出て西に行くと、岩井寺をへて掛川に通ずる道に出る。この道を西北に進むと中方ナカホウの集落に着く。ここから左(西南方向)に折れると間もなく左側に池があり、この池には丸山観音がある。番外四番である。丘を越えて下れば下土方で西方に高天神山が見えてくる。」
31番から32番への途中に、この番外四番の丸山観音はあるらしい。中方集落の西の池のようだ。近江ヶ谷池のことか。
中方集落の県道247中方千浜線と、西へ行くと近江ヶ谷池を経て丘を越え下土方へ行く道の交差点に出る。ちなみに東へ300m行くと宗禅寺に出られる交差点でもある。この交差点を西に行く。50mで新橋を渡り600m進むと道は上りになり左に近江ヶ谷池が見える。中方多目的広場グラウンドゴルフ場とその無料駐車場がある。公衆トイレもある。その手前の丘上に行く細い山道があり、その入口に道標がある。
・新:石道標:遠江第参拾七番 丸山正観世音菩薩 平成六年
山道を20m進み、標高差7mを上ると、丘中腹に小さな祠がある。
・祠:木造仏2:25㎝:丸山正観世音菩薩、丸山虚空蔵菩薩、
中には25㎝程の木造仏2体が祀られている。なんとも小さく可愛くも、こんな狭い所でも信仰されている証があるとは。
広場と駐車場は、行事があると車でいっぱいになるが、終われば一斉に車がいなくなるので、トイレともども使いやすいだろう。

~中方周辺の遺物を紹介する。
丸山観音から元来た道を戻り400m東進する。左(北)の山の10m上の中腹に堂がある。
・薬師堂:石柱2、・石柱:宮真山薬師如来 昭和拾三年、・石階段、・手洗石:文政十三年庚寅年、・単製六面石幢セキドウ:宝永七庚寅、・西國三十三所供養塔 弘化四未年、
200m東進すると、左にあった山が低くなって平地になる所に堂がある。
・堂:延命地蔵尊、・西國三十三所供養塔 昭和十四年、
100m東進すると新橋に至る。橋手前で右折し200m南下する。
・春日神社:掛川市(大東町)中方字宮後2155⁻1、祭神:建御雷命たけみかずものみこと、天児屋命あめのこやねのみこと、斎主命いつきぬしのみこと、例祭日:10月9日、由緒:当社は藤原氏の氏神として後藤氏の先祖後藤肥後守藤原好秀の嫡子、俵藤太秀卿が室町初期の応永22年1415南都春日社から、3神を勧請したのが始まりで、その末孫後藤民部少輔家長の代に祭祀を盛大にするため、毎年10月15日夜宮祭を創始、現在は町内神社の祭日を統一され10月9日に行う、境内に合祀されている9社の末社と、天然記念物指定の大楠がある。、・春日神社クスノキ:市指定天然記念物、・木鳥居、・板碑:征清軍~、・石鳥居:日露~日獨~、・板碑、・手洗石:寛政三、・手洗石:昭和十三年、・祠8、・納札所祠、・三夜燈2:明治九年、・永代三夜燈2:明治三年九月、・永代三夜燈:昭和□□□、・石柱:大正三年:横倒し、
 県道247中方千浜線に戻り、南下する。千手橋で県道は左だが、直進して谷の口地蔵堂の前も通過し中方の交差点から2.4㎞南下する。
・薬師堂:中6400:トッパンフォームス工場の北側、・丸形手洗石:臼?、・祠:南無浄行菩薩、・妙法横穴古墳供養塔:昭和五十二年、・手洗石:文久二壬戌年、・石柱2:昭和五十二年・献燈2:文久二壬戌年、弘化三丙午年、ちょっとした丘になっていて横穴式古墳だったようだ。
150m南下すると信号のある交差点で左(東)に2つ神社がある。
・八幡神社:・手洗石:コンクリ、・石段:嘉永四、・石柱2:大正十二年、・板碑5:忠魂碑等、
・中村八坂神社(中村祇園社):説明版:中村八坂神社の神事と祇園囃子:静岡県無形民俗文化財指定:掛川市中2308番地、掛川市中公文組字三石927番地、祭神:素戔鳴尊すさのおのみこと(牛頭天皇)、勧請:応徳二1085年、中村祇園祭は、地元の古老の伝承によれば、今から約900年前、白河天皇の御代応徳二年六月七日、亀惣川の上流、下土方、青谷の里に祀られていた祭神が大洪水によって三度にわたって、今の中村青谷の里に流れついた。里人はこの里にゆかりが多いとして祀った。1446年満勝寺は京都本満寺、日秀日住聖人が開山、それ以来神仏一体の関係から満勝寺が、主体となって中村祇園祭を伝えてきたという。中村の青谷の里も、亀惣川に沿い、年々洪水に見舞われたので、現在地三石に移った。祭神は年に一度七日間だけ青谷の実家に里帰りをするが、仕事が多くくつろぐ暇もなく、帰らざるを得ない。泣き泣き帰る神を、賑やかなお囃子で元気づけ送るのが、この祇園祭である。昔は旧暦六月七日に青谷に渡御し、同月十四日に還御するが、諸事情により十月の収穫期直前に実施された。現在は本祭りが十月の第一土、日曜日になった。中村八坂神社の祇園祭は、延々に数百年閒にわたり、地元氏子の手に依り神事と祇園囃子を忠実に、伝承している。その価値が高く評価され、1984年県指定を受けた。
 祇園祭及び祇園囃子行事
本祭第一日
⑴ 垢離とり:コリトリ
⑵ おみくじ行事 先獅子、天狗、太鼓、笛、幟、神馬、御杖、神輿、御手脇、飛馬、脚立、鉄砲、
⑶ 道中こさ打行事
⑷ 道具ぞろい
⑸ 警護の位取
⑹ 宵祭
⑺ 満勝寺参拝
本祭第二日
⑴ 大祭 青谷の御旅所
⑵ 山車 青谷練り込み
⑶ やぶさめ祭
⑷ 神幸行事
⑸ 五反幟祭
⑹ 警護万度山車御供
⑺ 本社お着き
⑻ 山車より松おろし
⑼ 各区毎に千秋楽行事
祇園祭の仕組み
お役人、警護、中老、若衆、
祇園囃子の内容
曲目…道引、大間の曲、昇殿の曲、かみくらの曲、徹花の曲、
楽器…大太鼓、小太鼓、笛、鉦、
面…獅子の面、天狗の面、おかめの面、火吹男の面、
・石柱2:大正十二年、昭和六年、・手洗石、・御神燈:弘化四年、・
 東へ600m進む。左に小山があり、その麓に廃寺がある。
・興光寺:廃寺:菊川市大石478、廃墟、・祠:観音か庚申、・善光寺如来供養塔 明治三十四年、・祠:地蔵、
 東へ150mで左の小山の先端部に墓地があり、その下に石塔がある。
・石塔:金刀比羅大権現 明治廿八年未歳二月十四日集□(別面:明治三十五年旧正月十日立□)…この年数違いは何?各面により別の用途で使われたのか?
 その先、左側は蓮池公園となる。公園内に入り山頂を目指す。
・この山頂付近一帯にある獅子ヶ鼻砦は、高天神城の戦いの時に築かれた高天神六砦(獅子ヶ鼻砦、中村の砦、能ヶ坂砦、小笠山砦、火ヶ峰砦、三井山砦)の一つである。高天神城をめぐり周辺では、武田方と徳川方と幾度も戦いが行われた。天正8年1580一説には前年、徳川家康は、獅子ヶ鼻砦を家臣団に築かせ、城を守る武田方を包囲した。六砦により兵糧や弾薬の補給を止められた高天神城は天正九年に落城した。
 ・四等三角点:国土地理院、山頂は三角点がある。標高44.0m。
山頂北東側に神社がある。
・八幡神社:掛川市岩滑2089、・石鳥居:大正二年、・石碑:天皇在位六十年記念 昭和六十一年、・手洗石:昭和三年、・石段、・祠:神祀、・板碑:招魂碑、・献燈2:大正二年、
神社の参道手前に石碑がある。
・板碑、・石柱2:大正十五年、


☆むすび 
 古道調査研究ということで、江戸時代後期から明治初期頃の道が分かればという思いだったが、調べて記載した内容は石器時代、縄文時代、古墳、中世山城から現代に至る迄、街道沿いのなんでもかんでもになっているやと思う。しかしこれには意味がある。各地域で暮らす人々の生活文化が発展していく。そして他地域との交流が発展する。道が作られ交通が盛んになる。道によって人々の文化が伝播し、さらに発展をする。人は文化を作り、道を作り、利用し、更に発展する。そして道によって文化が発展し、人が発展する。道と人とは相互相乗効果で発展しあうものだろう。その人たちの文化的歴史的バックボーンを知らないで、道だけを見ていくと、その道の文化的意味合いを取りこぼすのだろう。
例えば28番正法寺から29番正林寺へ行くために、菊川市の東名IC付近を通過するが、この北の舌状台地南端には縄文遺跡や古墳があり、そこに文化があり集落があるので、その南端を通過するのだろう。また菊川市棚草では今川さま(今川義元)が祀られている。かつてそこは横地氏や勝間田氏の領域であり、その塩買坂で今川義忠は戦死している。その後横地氏等の支配を脱却させ、領民から慕われるように今川氏が支配体制を確立していった取り組みの一つとして水路を作り、おそらく川上市場等も整備したのだろう。その一端を知るような思いだ。歴史的経緯が街道に影を差すのだ。道と人とは相互作用をもつものだろう。
おそらくそういったことを早くに知らしめたのは、シュライバー:著『道の文化史 1つの交響曲』関楠生:訳、岩波書店だろう。道と人とが相互に文化を発展させ合うという考え方を示した。
と言って私は読み切っていないので、なんともいやはやだが…。世界の古代街道について詳細にくどくど述べられても、うーんなんだよね。


・参考資料
○『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』及び附属地図(本文中の附属地図とはこのことで「古人の歩いた遠江三十三所観音巡礼みち」が正式名で著者は落合義男:島田市神谷城)、瀧茂、浜名湖出版、‘88 
○『遠江三十三所案内』桐田幸昭、静岡教育出版社、’88 
○『光と風と観音様と 遠江三十三観音霊場ガイド』竹腰幸夫、静岡新聞社、’03 
・ゼンリン住宅地図’93「掛川市」「森町・春野町」「天竜市・豊岡村・龍山村」
「袋井市・浅羽町」「金谷町」「菊川町」「小笠町」「大東町」
・明治期に発行された陸地測量部地図の2万分の1か5万分の1
 2万分の1:「掛川町」「森町」「山名町」「大須賀村」「日阪村」「二俣町」「向笠村」
「中村」「嶋田町」「牧埜原」「白光山」「家山」
・昭和後期から平成にかけての国土地理院2万5千分の1地形図「掛川」「山梨」「森」「八高山」「袋井」「下平川」「相良」「家山」
・「静岡県広域・詳細道路地図 県別マップル22」昭文社、
・「都市地図 掛川市 エアリアマップ13」昭文社
・「静岡県の中世城館跡 静岡県文化財調査報告書第23集」静岡県教育委員会文化課、’81
 1970年代までに推定や調査された県内500か所以上の城館を掲載している。
・「平安鎌倉古道 鎌倉~京都」尾藤卓男
・「金谷町史 地誌編」
・「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行
・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸
●「秋葉街道~塩の道をゆく~」小笠町教育委員会、小笠町郷土研究会
●「静岡県歴史の道 秋葉街道」静岡県教育委員会
●「塩の道ウォーキング」静岡新聞社
・「秋葉街道を(道標・燈籠)訪ねて」北みちしるべの会
・「日本石仏事典」庚申懇話会:編 雄山閣


○『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』、瀧茂、浜名湖出版、‘88 
における附属地図である「古人の歩いた遠江三十三所観音巡礼みち」の著者は落合義男:島田市神谷城で2010年頃、お亡くなりになったようで、すでに資料類はどうなっているか不明である。写真好きな方だったようなので、石道標類等の写真も多数撮影したのではなかろうかと想像するのだが、どうなったか不明である。資料が残されていれば、すでに消失したいくつかの石道標や石仏類が写っているのではなかろうか。またすでに消失した古道も写っているかもしれない。またメモしたノート類といったものも、もしかしたらあったのかもしれない。故人の資料があれば是非、遠江三十三所観音霊場事務局か地元の郷土資料館に寄贈してもらいたいものだ。


*著作権について 
本文中の33所寺院紹介記事は上記3種の○印の本からの引用がほとんどです。28番から29番に関しては●印の本から引用しました。特に著作権者から使用許可を取っていませんが非営利ブログだからです。そこでこのブログ記事からの文章を営利活動やその他の目的に使用すると著作権法上の問題が生じます。
また寺院紹介等の引用文以外の文章の著作権は私(兵藤庄左衛門)が有します。非営利目的での使用には無許可でも構いませんが、営利目的等の場合は許可が必要です。

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:58Comments(4)古道

2018年03月18日

川根路

~川根路~
’14 3/9
調査は今後随時行っていきますが、しばらく休業するので、記事内容は中途半端なまま放置します。今後おいおい少しずつおこなっていくつもりです。
 基本的に大井川沿いの街道を下流から上流に進む予定です。島田市、旧金谷町の旧東海道と川沿いの道との分岐点から始めて静岡市井川駅までとしたいですが、まだ未定です。
 途中川根筋の秋葉街道に重複するがそれはそれでおもしろかろうと思います。
*川根筋の秋葉街道については『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)や広谷氏のホームページ『東海道山筋紀行』を参照ください。
 
・お茶の郷(島田市金谷)
 
・桜トンネル(島田市川根町家代)
 
・音戯の郷(川根本町千頭) 
 
・草分観音堂(川根本町千頭163⁻1⁻2) 
 ・庚申塔 昭和六年 郷平安全、・手洗石:昭和十五年、・お堂:草分け観世音菩薩、
・地蔵2(川根本町千頭1199)川根大橋袂、 
 
・泉頭四郎兵衛の墓(川根本町千頭950⁻2) 
 ・昭和十六年、代々諸精霊 千頭院開谿明到居士 弘徳院圓光盛満居士 
・秋葉常夜灯、町指定文化財、建造物(川根本町千頭973⁻2) 
 ・説明版:指定:平成17年3月23日、創建は詳らかではないが江戸時代末期慶應元年(1865)秋葉山信仰の象徴として造建されたものといわれている。最初は寺島区にあったが、その後千頭西区に移築された。本体は寄棟造りの精巧華美な造りである。先人たちの優洽なる遺制を継承し、屋字の修理と上屋の新築を成就し、平成18年2月、千頭3地区区民一同が、此処、川根本町千頭沢屋に再建した。  川根本町教育委員会 
・豊川稲荷千頭別院(川根本町千頭901) 
 ・石碑:神社名:昭和六十年、・石稲荷2:昭和六十年、・手洗石:昭和六十一年、・石燈籠2:新:、・織部型石燈籠:新:、・祠:、・石稲荷4、・石燈籠:欠:、
・交通安全地蔵尊、燈籠(川根本町千頭806) 
 
・燈籠(川根本町千頭805) 
 石塀の端が石灯籠になっている。というか石燈籠を端にして塀を築いたというべきか。
・敬満大井神社(川根本町千頭801)林道横沢線、 
 ・石柵:昭和五十七年、・大杉:数本、・祠4、・常夜灯2:立太子記念、・常夜灯2:新:、
・石鳥居:平成元年、・手洗石:明治二十七年、・石碑2:供進(手偏に昔)定郷社敬満大井神社:昭和九年、・石鳥居:明治四十四年、  
・説明版:鎮座地:榛原郡川根本町千頭750番地、祭神名:伊弉再(諾)尊、天児屋根命、日本武尊、瀬織津姫命、境内社:八幡神社、誉田別尊、宝物:鰐口 応永26年銘一 永正6年銘一(静岡県指定文化財)、銅製 釣燈籠 文政11年銘一、由緒:創立年代不詳だが、古老の伝に依れば「景行天皇の御宇日本武尊東征の際、伊弉再(諾)尊、天児屋根命の二柱を勧請し社名を敬満社と号し、のち日本武尊、瀬織津姫命の二柱を配祀して敬満大井神社と謂う」とあり。明治6年3月郷社に列せられ、大正4年10月15日神饌幣帛料供進社に指定された。大正9年11月本殿並びに拝殿の新造営を行う。八幡社は創立年代は不詳であるが元千頭八幡山に鎮座の所、明治7年、久能社、中森社、神明社、草別社とともに境内社として合祀奉斎した。昭和21年6月15日宗教法人令による神社を設立し、昭和28年6月25日宗教法人法による神社を設立登記した。   平成7年10月吉日 
・大井神社(川根本町奥泉294-22) 
 ・石鳥居:昭和三十年、・石碑:大井神社 平成十年、・石燈籠2:昭和十五年、・狛犬2:皇紀二千六百一年 東京帝国大學醫學部卒業記念、・手洗石:、・青面金剛:大正九庚申年、
 ・丸石、・如意棒、
  ・説明版:鎮座地:榛原郡川根本町奥泉261番地、御祭神:彌都波能賣命みづはのめのみこと、合祀:立山神社、祭神:大山袛命おおやまづみのみこと、由緒:創立年代不詳なるも古老の伝ふる処に依れば、亀山天皇の御宇文応年中己(1260)に社殿を建立祭祀せりと謂う。而して当時の社地は、字栂ノ間出が元の社地であり、降りて文亀二年(1302)11月24日現在の地に御遷座。立山神社は元境内別殿なりしを明治七年1月合祀された。文亀壬戌二年11月24日の棟札を始め、元禄丙子九年、宝永丙戌三年、享保辛丑六年、宝暦巳十一年、文化巳六年と年次を追いて棟札現存せり。大正四年から六年にかけ本殿雨覆並びに拝殿の改築を行う。大正九年6月村社に列せられ、大正九年9月神饌幣帛料供進社に指定される。昭和二十八年6月宗教法人法による神社を設立登記した。昭和63年3月本殿雨覆改築、平成10年12月拝殿を改築する。  平成10年12月吉日  之建
  ・大井神社前の県道の向こうの窪地はもとは池で穴を掘って水抜きして開墾したものである。穴も計算違いで二度掘っている。
 「大蛇と娘」伝説もあり、『本川根町の伝説』や『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸(静岡新聞社)に詳しい。この池に大蛇がいて、池のほとりで洗濯した娘を追いかけたが、娘は寺に入って助かったとも、池に引きずり込まれたともいう。大蛇はすぐ野守の池に去ったとも、怒った村人がトンネルを掘り苦労の末、池の水を抜いて大蛇を追い出したともいう。
・長島ダム 

・お堂(川根本町犬間427平田) 
 ・鐘、・お堂 
・レインボーブリッジ 

・岩瀧不動堂(川根本町犬間) 
 ・説明版:文久の初めの頃犬間村は疫病が流行して困窮しておりました。ある日、志太郡高田村の日正坊と名乗る修験僧が現れ「村に疫病が流行しているのは不動明王の祟りがあるからだ。この川の上流に不動明王の宿る石があるから私が祈祷してあげる。もし疫病が鎮まったならばその石を滝の傍らに運んでお堂に納めて供養するがよい」と告げました。」ほどなく疫病は治まり村は平穏になりました。村の若い衆は法印のお告げによってその石を探しにゆき、ここにお迎えしたといわれます。村人は鎮座の滝を「不動の滝」と名付けその傍らに堂宇を建立、文久3年10月28日、観天寺和尚玲童興師によって開眼供養の法要を行いました。以来毎年1月には法印の司宰による供養祭を行って今日に至っております。また堂宇の中に石の地蔵菩薩が併置してありますが、これは昭和28年まで不動堂の真下に村の自家発電所があってその守り仏として祀ってあったものです。  
   平成13年1月吉日  岩瀧不動堂奉賛会 
・若宮神社(川根本町犬間) 
 ・石鳥居:平成九年、・手洗石:昭和四十四年、 
・川根本町やまびこ資料館(川根本町90⁻1) 
 
・河内地蔵堂(川根本町梅地275) 
 ・不動?青面?六臀:文政元寅(弐卯)年七月、・小さい木造仏像:数個、・観音:宝永七、・地蔵、・小さい地蔵:多数木造あり、・地蔵、・観音:嘉永三、・地蔵、
  ・説明版:河内地蔵の由来:湯の河内沢の左岸に地蔵場と呼ばれる平場があります。そこは静岡へ抜ける街道にあたり、梅地の村人たちは旅の無事を祈って小さな地蔵を建て、手厚く供養していました。ある年の暮れ、地蔵場を通りかかった川狩り人夫の一人が「なんて粗末な地蔵だ、生があるか試してやる」と大鳶で叩き割ってしまいました。その人夫は川狩りの最中、足を滑らせ激流に飲み込まれてしまったそうです。その後梅地の村人は壊れた地蔵に代わる新しい地蔵を祀りましたが、その地蔵には貞享二年(1685)と刻まれています。更に年月を重ね、地蔵は少しずつ梅地に近づき梅雲寺の跡地に祀られていましたが、平成13年この地に安置されました。  平成13年4月20日 梅地地区 
・新:平和観音、梅地神楽説明版(川根本町梅地365⁻1)接阻峡温泉会館 
  ・梅津神楽:静岡県指定無形民俗文化財:説明版:昭和47年3月24日指定、保持者:梅津神楽保存会、起源:室町時代の応仁元年(1467)京都では足利将軍家の相続争いから応仁の乱が生じました。この頃、京都梅津(現右京区)の里に住んでいた築地氏が一族を率いて都落ちし、信州飯田を経てこの地に至って村を開きました。築地氏は京都の梅津に因んで梅津と(後に梅地となる)氏神を歓請して自ら神主となり、その社前で奉納したのが梅津神楽のはじまりと伝えられます。梅津神楽は大井川、安倍川流域に広く分布する神楽との共通点が多くみられることから、駿河神楽の一つであると考えられています。
   祭典:梅地の谺 石神社、犬間の若宮神社の祭典の前夜祭に奉納されるもので、昭和31年より両神社で隔年交互に行われています。神楽の奉納は、毎年接阻峡温泉会館で1月第3土曜日に行われます。当日は正午に神楽祭が始まり、午後4時から神楽が奉納されます。
  すべての舞の基本となる「幣の舞」をはじめ、「三宝の舞」「八幡の舞」「鬼の舞」「八王子の舞」「須佐之男の舞」「梅津流太刀の舞」「殿の舞」「恵比寿・大黒の舞」「翁の舞」「五方の舞」「金丸の舞」「宇須賣の舞」「米の舞」「大弓の舞」の16の舞があります。神楽当日には、同じ舞が2回演じられたり、ある舞が演じられなかったり、順番が入れ替わったりすることもあります。また「ヘンバイ」という特別な祈願のある時にしか行われない儀式もあり、この地域では新築の地固めや安産祈願などの特別な祈願のある時に行われてきました。近年では安産祈願や接岨峡温泉のボーリング調査、長島ダム工事の時に行われました。   川根本町教育委員会 
・谺(谷令)石神社こだまいし(川根本町梅地310)
 ・石鳥居:昭和五十五年、・手洗石:大正四年、
 ・説明版:祭神:石凝姥命いしこりどめのみこと他2神、由緒:応仁の乱(1467~77)は京都を荒廃に帰したが、この頃京都梅津に住む築地清右衛門菅原の重常という武士が都落ちしてこの地に至り梅地村を開き、氏神として谺(谷令)石こだまいし神社を創建したと伝えられている。築地氏は梅地において砂金採取を生業としたので祭神は金鉱採掘ゆかりの神「石凝姥命」(八咫ヤタの鐘を鋳造した神)を勧請したものであろう。御神体は繭形をした円石で閏年の祭りの時、神の沢で御神体を清め真綿と和紙で御神体を包む神事がある。谺(谷令) 石の社名は昔は児玉石で蚕霊こだま―蚕玉―児玉と蚕と石の関係を説く学者もいる。明治になって谺と(谷ヘンに令、谷令)の文字が使われるようになったが、木の精、木魂こだまが聞こえる境内は、心のやすらぎの場所となっている。県指定無形民俗文化財「梅津神楽」は当社に伝わる郷土芸能で隔年冬祭りに奉納される。 


・大井神社(静岡市井川閑蔵2246⁻3) 
 かつての閑蔵林道今は県道を川根本町千頭方面へ下り閑蔵駅前で閑蔵の集落へ下っていくとある。
・金属鳥居:、・子安観世音:大正十五年七月、
・説明版:鎮座地:静岡市井川2246‐3、祭神:岡象女命みづはのめのみこと、例祭日:1月2日、由緒:元禄元年創建と伝えられる。




〇〇…石倉峠、鵜瀬山うのせやま標高・374m、見返し峠、地名峠、川根街道  
  使用資料
・2011年7月1日静岡新聞夕刊「しずおか峠今昔24」著:児平孤ぶ(木偏に無の文字、木無)
   庵
・国土地理院2万5千分1地形図「家山」
・2万分1地図:明治22年測量、大日本帝国陸地測量部「下川根村」

 場所は、島田市(旧川根町)笹間渡と、川根本町(旧中川根町)地名の間の峠道だそうである。
 資料は、2011年7月1日静岡新聞夕刊「しずおか峠今昔24」著:児平孤ぶ(木偏に無の文字、木無)庵の所収である。現在はまったく知られていない峠で廃道である。
以下に児平氏の文章を要約引用させてもらう。200年前に存在した証拠として、桑原藤泰(黙斎):著による『大井川源紀行』を挙げている。彼は『駿河記』をまとめるため駿河各村を回った。そのとき奥大井にも分け入った。ときは1812(文化九)年3月、笹間渡村から川幅約70m の笹間川を渡り、胸を突く山坂を登ると稜線の峠道に至るとのことだ。途中鵜瀬山標高374mを通るとのことだ。
児平氏は笹間川右岸の推定した場所から上り、地名まで無事縦走したようだ。正確な位置は記入されていないが、書かれていることから現在の場所を推定すると、笹間渡の北で笹間川となり、大井川鉄道地名トンネルの東に並行する尾根が石倉峠と思われる。尾根の南に標高・374mのピークがある。これが鵜瀬山で間違いなかろう。
そこで取り付き点は笹間渡の旧県道を通り笹間川の対岸の茶畑に橋を渡り、鵜瀬山標高374mの南斜面に取り付きピークを目指せばよいのだろう。うまくすると古道の廃道があろう。尾根には通れる古道に出くわすかもしれない。ただどこから地名に向かい下山するか分からない。△310.6mピーク辺りで西に降りればよいのだろう。
一応少しでも昔の道の情報を得るため、2万分1地図:明治22年測量、大日本帝国陸地測量部「下川根村」を参照した。鵜瀬山の北及び西の尾根上には点線があるので、この明治20年代時点で道があることが分かるが、それ以上の情報があった。笹間渡の集落から道は今の大鉄線路付近を通り北に向かい、笹間川を線路より東に100m地点で渡河し、北東方向へ向かうよう鵜瀬山の南斜面に取り付く。山頂は目指さず、南斜面を南から東に巻くように上り、鵜瀬山南東尾根で標高300m付近に到達し、それ以上は上らず北尾根に沿うよう標高300m付近を北に並行に進み、△310.6mを過ぎたところで西北の地名に向かい下っていく。ちょうど県道地名トンネルの北出入口付近につながるようだ。ただこのルートだと鵜瀬山山頂を通らないので、近世末期から近代初期の道かも知れない。
さて今は7月なので廃道は藪蚊蜘蛛の巣蛇で入りたくない。次の初冬から陽春にかけての宿題が一つできた。その頃に私はこの藪山に取り付いていることだろう。

 *以前紹介した「トワ山」「中村山」は大棚山、打越峠とともに「玉川トレイルレース」のコースになりました。喜ばしいことです。

・12,3,4(日)、午前中、川根本町のマラソン5kmに参加後、地名トンネル付近を車で目指す。
 笹間川ダム下流の旧舗装道へ出て、現在の新道が笹間川を渡る超高架橋の真下に行く。向かいは車の解体場か。この辺りから北に上る斜面を見ると急斜面でひどい藪ばかりで上るのは困難そうだ。昔の笹間川渡河地点はここからさらに500m下流の大井川鉄道が川を渡る辺りだが、河原を下っていくのも大変そうだ。雨が本格的に降り出してきた。
ここで北の地名に車で向かう。地名トンネル北口付近で車を降り、山に取り付けそうな所を探す。すぐ西の線路より東に線路に沿うよう旧舗装道「町道地名南線」390mがある。入り口はチェーンが張られ車では入れないが、歩いて進む。インド風で今風の真新しい大日如来石像が祀られている。妙なミスマッチだが、なぜこんな廃道寸前の所にあるのか。道自体は今後廃道化が進むだろう。20年ほど前まではこれが主要道だったのだが、今は誰にも知られず埋もれていくのだ。390m進むと、かつてのトンネル入口の壁面が見える。上に「地名」の文字が見える。その横は多分「隧道」と書かれているのだろう。入口の穴は土砂で完全にふさがれている。廃道や廃トンネルのファン必見の場である。歩いていたらすぐ下の線路から煙モクモクで「ポー」という汽笛が聞こえる。蒸気機関車だ。今日は日曜日なので汽車が走る日だ。(大井川鉄道はいつも汽車が通るわけではない。ただ汽車でなくとも相当古い他の鉄道で使われていたものを再利用しているので、鉄道ファンにはたまらないらしい。)運よく木の間越しに見られた。煙は道より下にふんわり浮かんだまま消えていった。町道の終わりより先に電線巡視路が山の斜面を上っていくのが分かる。地図上では標高差80mで尾根に至り、その北に三角点310.6mがあるはずだ。ここから上れると判断したが、今は降り出す雨の中やめておき次回の楽しみにする。
 ここで北の地名集落を目指す。地名と石風呂の間の大井川を渡る昭和橋のたもとに石倉峠、鵜瀬山を通ってきた古い道が出て、地名の集落に入っていたことは、明治20年代の地図で確認できる。そこで昭和橋たもとを目指す。ちなみに昭和橋対岸にユースホステルがあり、地名側には「テゴーカントリーともしび」がある。ともしびと山の間になんと古い道が残っている。今も使われていて、歩ける。小さな川を渡る所には新しい赤い鉄橋歩道が作られている。道は整備されている。橋を渡るとまたインド風今風大日如来石像が祀られている。整備された歩道は川沿いに茶畑を目指すようだ。石倉峠方向へはここで右折し川を離れる切通しの道方向だ。なにやらぐちゃぐちゃそうな廃道だ。ここで濡れた石段にすべり転ぶ。雨も降っているので、今日はここでやめる。それにしても「ともしび」裏の歩道は、いわば江戸時代から続く由緒ある大井川の街道の残存部といっていいのだろう。古街道の一部は残っていた。また地名周辺では今風の石仏を祀るのが流行っているらしい。

・12,3,11(日)、午前中、先週目星を付けた標識「町道地名南線」入口から出発。隣は今の「地名トンネル」地名側入口、今風な大日如来像もある。この標識裏の山取り付きに標識「見返し峠☞徒歩20分」を見つけた。だが先が藪っぽいので入るのをやめ、前回町道終点から上る電線巡視路No.42を目指す。(結果から言うと標識「見返し峠☞」から山に入るのが正解だった。) 町道終点の古い「地名隧道」の埋もれた所から電線巡視路No.42に従い山に登る。しかしすぐに道らしさが失われる。電線巡視路は草刈され、道がしっかりしていると信用していたので、こういうこともあることを知った。付近の木々にピンクか赤のテーピングがされ、境界線標識が直登で付けられているのを発見。これを目印に直登していく。峠より少し南の地点を直登。峠の南の峠より少し高い尾根に着く。尾根の東側下には木の間越しに笹間湖がまぶしく見える。峠を目指し尾根を北へ下る。尾根の鞍部には標識「櫟(くぬぎ)大日」と家型石製道祖神が祀られていた。尾根を南北に進む道と西の地名側に下る電線巡視路No.42.。これが地名に下る旧古街道であろう。尾根の東下を南に平らな道らしきラインが進んでいくのが分かる。これこそ笹間渡に下る旧古街道であろう。この笹間渡へ向かう旧古街道を南に進む。すぐに崩落が相次ぐ。50mに1箇所ずつ崩落している。3~4越えた辺りであきらめて戻る。この先さらに崩落が進み旧古街道は消失するだろう。今度は峠から北の尾根を進み三角点310.6mを目指す。少しだらだら上っていくと左に三等三角点があり、「地名峠 昭和五十八年七月 基本測量」の標識もあった。もう少し北に尾根を進むと鞍部にアンテナが立ち、「猟銃注意」の標識があった。ここも峠で西の地名側に下る道と尾根をまたいで尾根東側を北に進む道があった。おそらく下笹間桑ノ山方向を目指すのだろう。道幅は1.2mほどで、平に進んでいくが、時々道端が崩落している。この先急斜面では一気に崩落しているだろう。この道も消失の一途になるだろう。途中で引き返す。アンテナのある峠から地名に下る道はどうも櫟大日の峠から下る道の上を下っていくようだ。ここで櫟大日に戻り、地名に下るのだが、その前に尾根を南にとり鵜瀬山374mを上ればよかったと後悔している。このときそこまで頭が回らなかった。櫟大日で地名方向(電線巡視路No.42)を下る。下りだしてすぐ、切通し道をはずれる方向にも電線巡視路標識が矢印を向けている。初め登ってきた方向である。このはずれ道は途中で道らしさはなくなるだろうが、初め上ってきた辺りに合流すると思われる。さて切通しのしっかりした道を下り続ける。おそらく初めに見つけた標識「見返し峠☞徒歩20分」に至るのだろう。(結果は当たり。) 草もあるが、ほぼ平坦で1.2m幅の道は歩きやすい。途中、碍子(ガイシ)が時々見つかる。これは山の中の旧街道にはよくあることで、かつてこの道沿いに電信柱が村まで通っていた証拠で、この道が自動車道開通以前の主要道だったことを意味する。壊れていないボルト付き碍子を1個発見。ボルトを道に突き刺しておいた。ちなみに電柱跡は見つからなかった。だがこのあと一大発見があった。道の上を見ると植林を透かして上にも道があるような気がする。だとしたら先ほどのアンテナのある峠からの下山路のはず。そしてこの2つの道をつなぐらしき道も壊れかかりながらも残存していた。下を見ると初め通った町道地名南線のガードレールが見える。機関車の通る音も聞こえる。石道標―――発見。「御大典記念 徳山村 右 川根街道、笹間渡(二粁)ヲ経テ伊久美村、島田町ニ通ズ 左 笹間村、桑野山(三粁)ヲ経テ藤□町、静岡市ヘ通ズ」昭和初期のものだろう。ここが間違いなく主要街道の川根街道だった証拠だ。そして明治20年代地図に記入された地点通りなので明治初期あるいは江戸期末期にはここが使われていたものと推定する。そしてこの右は今まで下山してきた道で左ルートは、この上を通っていたアンテナからの下山路で、笹間村、桑野山への道は尾根をまたいで尾根東側を北へ向かう道のはずで、この石道標のある所が2つの道の分岐点である。この2つの峠は三角点地名峠を挟み尾根伝いにつながっている。石道標を後にして少し下山すると今の地名トンネル入口真上をまたぎ、町道地名南線入口の標識「見返し峠☞徒歩20分」に至り、町道に出て終了。しかし昔の川根街道は町道の下の梅林を下り、どうも線路を横断し大井川の崖上を南に進み、川を渡り、今茶畑となっている、茶畑への野良道の切り通し「ウトロ大日」に出たようだ。茶畑からは昭和橋たもとまでは野良道として残存しているが、町道下の梅林から茶畑までは消失と思われる。茶畑への野良道の切り通し「ウトロ大日」から切通しを下ると今風の大日如来が祀られ、その先の川を渡る赤い鉄橋が見える。右に分岐する道は茶畑に出て今の県道にも出られる。赤い鉄橋(歩道幅)を渡り進むと大井川沿いの崖上を通過し「テンゴーカントリーともしび」前に出る。さらに進むと、昭和橋の県道下ガードをくぐり、道なりに進むと、これまた今風大日如来前を通過し、左に進む。(ここで後ろに進む道もあり、これは昭和橋以前のかつての吊り橋があった橋のたもとで今もコンクリート製橋脚が残っている。向かい側の石風呂側のユースホステルの横にも橋脚が残っている。)話を戻して、左に進むと、かつての地名小学校跡地で石碑と地蔵があり、今は地名保育園である。その先に「地名阿弥陀堂」、火の見櫓と神社、地名用水があり、五輪塔や石仏、石道標「右 大井神社 左 西地名□□」(建てた人は三倉氏他2名)がある。地名阿弥陀堂は1月15日、夜通し男女が火踊りをしたらしい。ここでもかつてはいわゆるヒヨンドリが行われていたのだ。さてここを過ぎると地名駅近くで地名中心部で郵便局等もある。地名駅近くの踏切を渡るとき駅方向を見ると、いわゆる日本一短いトンネルも見える。ここで県道に出て今日はおしまい。そういえば線路沿いにはカメラマンうじゃうじゃ、道路には他県ナンバー車(福岡等)多かったです。今日は日曜で蒸気機関車が通る日だからです。SLは全国から人を集めるようだ。

・’18 3/11(日)、川根本町のマラソン大会後、車で地名トンネルを抜け、トンネル南側入り口交差点から東へ笹間湖に沿い県道を800m進む。県道沿いに別荘地に出る。この別荘地の一番上の家を目指す。この一番上と2段目ぐらいの別荘の住人に古道について聞いた。答えは別荘地上の雑草や沢は一番上の住人(黒人)がきれいにしたが、道はないとのこと。その代わりに別荘地より東に県道を500m進むと山に登る林道があり、その林道をかなり詰めると歩道(登山道、古道)があるとのこと。
ここで古道を見つけることをあきらめるが、結果から言うと、この別荘地の一番上またはそのすぐ西側の杉檜植林地内のシイタケ栽培地の5~10m上に古道は平坦に伸びていて、ちょうど別荘地に流れ込む沢の手前で古道は消失する。これより西側は別荘地や県道用地で消失している。想定ではここからさらに下るように西に延び現在の県道辺りに重なると思われる。
一旦、地名トンネル北側に行き、ここから古道に入り、見返し峠を目指す。峠のクヌギ櫟大日の横の大木が倒れ、大日の石祠がやっとつぶされない状態でちんまりと鎮座していた。ここから尾根沿いに北へ200m進む。東の桑の山と北の地名トンネル北入り口への分岐点へ出る。アンテナ塔と猟銃注意看板がある。東の桑の山への道は6年前は道幅1.2mと記入したが、今回は50㎝もない。おかしい。こんなに間違えたのか? たった6年で道幅が70㎝も減少したようだ。櫟大日では大木が倒れたままだし、山の荒廃がひどい。この桑の山への道が別荘地上につながる道である。この道幅は峠のスタート地点で50㎝、途中は崩壊している箇所が2~3か所あり道幅0㎝で、平均しても10~20㎝程度だ。別荘地まで距離800mで標高差50mである。崩壊個所は2~3か所で道が分かりにくいが、距離800mで標高差50mということはほぼ平坦に近い歩道なので、付近をよく探せば見つかる。崩壊していても、手を付くか、杖を用いれば乗り切れるだろう。片道15~20分。




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 23:56Comments(0)古道

2016年11月20日

静岡市清水区、富士市、沼津市:千本街道、海岸線:基礎資料

・前文
 数年前、秋の午後、千本浜からの自転車での帰りに歴史的な処を通過しつつ、適当に写真を撮っていた。午前中走ったあとで、疲れもあり、きちんと資料を整理する気にもなっていなかったので、散漫資料ではあるが、これも今後再調査し、整理するということで一応掲載する。


~清水~
・ほそい(細井)の松原、無縁さんの碑(辻三丁目7⁻15)
 ・説明:慶長六1601年徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同九1604年2代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同十七1612年完成したと伝えられている。元禄十六1703年駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺:約360m、松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は夏にはこの松原で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。ほそいの松原は太平洋戦争の松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。今の松は平成4年2月社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。
 ・細井の松原無縁さんの碑:説明:辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成13年東海道400周年記念で当石碑を建立した。
・ 松原観音堂、津島神社(西久保261)
 袖師ふるさとの路6、水準点、常夜燈、祠、石塔、
・馬頭観世音菩薩:祠(袖師町1081)
 ・袖師ふるさとの路1、
・延命地蔵:祠(袖師町1056)
 
・東海道松並木(横砂西町7-11)
 1本だけ現存する。


~由比~
・一里塚跡、祠:地蔵2(旧由比宿)





・穀茂利稲荷神社(由比723⁻1)


~蒲原~
・海宝寺(神沢487)

・正八幡宮(神沢400)

・大山祇神社(堰沢675)

・霊光禅院(堰沢675)

・関口神社(堰沢515)

・八幡大神宮、天満天神宮(中592)

・貞心院(中606)

・秋葉神社(中607)

・上山神社(小金473)

・白泉寺(小金473)

・稲荷神社(新田二丁目9)

・稲荷神社(新田二丁目8)

・城源寺(新田二丁目18-2)

・泉龍寺(新田二丁目17⁻2)

・和歌宮神社(蒲原三丁目32⁻1)
 金毘羅神社

・志田邸

・五十嵐邸

・御殿道の碑

・長栄寺(蒲原三丁目31-15)

・妙隆寺(蒲原三丁目30-19)

・若宮神社(蒲原三丁目27-11)

・蒲原城(蒲原)

・善福寺(蒲原善福寺3817⁻4)

・大正時代手作りの窓ガラスのある家()

・八幡神社(蒲原善福寺3747⁻1)

・旅籠「和泉屋」

・(木昌)守神社(蒲原三丁目26⁻3)

・明治時代のなまこ壁商家()

・明治時代のなまこ壁商家()


・八坂神社(蒲原二丁目13-14)

・御殿山公園(蒲原)
 狼煙場

・東漸寺(蒲原二丁目13-7)

・正八幡神社(蒲原二丁目八幡町13-3)

・竜雲寺(蒲原二丁目12-⒑)

・諏訪神社(蒲原一丁目14-13)

・北条新三郎の墓(蒲原一丁目14-4)

・蒲原木之内神社(蒲原四丁目27-31)

・光蓮寺(蒲原一丁目10⁻11)

・馬頭観音(蒲原一丁目10⁻11)

・義経硯石(蒲原一丁目9‐9)
・観音穴(?蒲原諏訪町)



○吹上の松:静岡市清水区:旧蒲原町、蒲原中学前(蒲原姫台124)
・浄瑠璃姫の碑
・吹上の六本松
・浄瑠璃姫之墓:
・地蔵
・説明:浄瑠璃姫に関する伝説は幾つかある。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河國矢作の宿の浄瑠璃姫が吹上ノ浜で疲れ果てて死んだという内容の話が描かれている。また小野於通の「浄瑠璃姫十二段草子」には、里人によって吹上ノ浜に追われた瀕死の義経が浄瑠璃姫の涙の雫で蘇るという筋書きになっている。義経と浄瑠璃姫の恋物語を語りものとして「浄瑠璃」が江戸時代に流行した。
 吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った塚の上に、目印として植えられたという。その後、大きな木に成長し、東海道を渡る旅人の目印となってきたことが「東海道名所図会」にも示されている。
 また武田方の戦記「甲陽軍鑑」には、永禄十二年1559、12月蒲原城が武田氏に落城させられた時に、この六本松のあたりに本陣を置き、勝どきを上げたことが記されている。浄瑠璃姫の碑は明治31年1898初代町長、五十嵐重兵衛によって建立された。この碑には「語り継ぎ 言い継ぎぎつつ今になお いくりの人の 袖を濡らすらん」(作者不詳)の歌が残っている。

・灌漑用水竣工記念碑:蒲原町長佐藤一郎書(蒲原新栄町4875⁻43)

・西木戸、茄子屋の辻(蒲原三丁目10-4)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれた。元は宿場は西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていた。元禄12年1699の大津波によって壊滅的被害を受け蒲原御殿があったという現在の地に移転した。西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、茄子屋の辻で乱闘が起った。承応2年1653高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒した。しかし最後に追手につかまり殺された。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は現在寺宝として保存されている。
 ・蒲原宿は江戸から37里:148㎞、品川宿から数えて15番目の宿場である。徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道53次の一つになった。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にあったが、元禄12年1699,8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により、大きな被害を受け、元禄13年1700、に山側(現在地)に移転した。天保10年1839の宿場の規模は宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と旅籠45軒で富士川の川留目の際などはたいへんにぎわった。
 ・西木戸跡:蒲原宿の西の端にあり西見付とも云われた。見付の入口に木戸の柵を設けたことから木戸とも云われ、東西木戸の間を木戸内と呼んだ。
 ・浦高札場跡:海に近い蒲原宿は蒲原の津(港)を経由する海上交通も盛んだった。浦高札は海船、川船など船舶一般の取り締まりのお触書で、これを掲示した所が浦高札場だった。
 ・高札場跡:□会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は幅2間5尺(5.1m)奥行4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の大きな規模のもので、ここには幕府のお触書が掲示された。
 ・御殿道:徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった蒲原御殿。御殿の位置はあきらかではないが、桜の名所御殿山と宿内に残る御殿道にその優美な名前を留めている。
 ・本陣跡:蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家で勤めていたが宝暦年間1751~1763に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣を勤めた。平岡家は明治11年に京都に転居した。現在の建物は大正時代のもので、邸内には今も大名が駕籠を置いたといわれる御駕籠石が残っている。
 ・木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵:木屋の屋号をもつ渡辺家は江戸時代末期、蒲原宿の問屋職を勤めた旧家。今も残るこの3階建ての土蔵の中には江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されている。
 ・問屋場跡:問屋場とは幕府の荷物の取次、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の取次をした所で、各宿内に1か所ずつ設置されていた。
 ・「蒲原夜之雪」記念碑:歌川(安藤)広重描く「東海道五十三次」シリーズの中でも「蒲原夜之雪」は最高傑作といわれる。広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して碑が建てられた。
 ・東木戸跡:蒲原宿の東の端にあり、東見付とも云われた。東木戸は当時の常夜燈(文政13年1831)が残っている。宿内安全と刻まれた常夜燈には夕暮れになると、ここから蒲原宿に入るという目印の灯がともされた。また東木戸のすぐ西側の所で道路がわずかに鍵の手になっている。これは幕府が戦略の一つとして作ったもので、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう、また軍勢の流れを阻止するためのものである。
 ・一里塚跡:一里塚は慶長9年1604江戸日本橋を起点に36町(1里:4㎞)ごとに築かれた塚である。この一里塚によって人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基礎に賃金も算定された。蒲原の最初の一里塚は元禄12年の大津波で流失し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものである。当時の面影はなく、今は小さな祠が残っている。

・「古屋敷」通り(蒲原三丁目西町14)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり西木戸と呼ばれた。蒲原宿はもと西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていたが、元禄12年1699駿河湾に大津波が発生して蒲原宿は壊滅的被害を受けた。そこで元禄14年1701幕命により蒲原宿は西木戸より左折して山の麓を東に進み、東木戸までを新しい宿場とすることとなった。したがって旧宿場の問屋、本陣、脇本陣、旅籠、馬役人屋敷等すべてがこの新宿場に移転した。ここに江戸初期100年にわたって栄えた旧宿場と古屋敷道はさびれていった。しかし近年この古屋敷道も現在では50余軒が軒を連ね往時をしのぐ勢いをみせている。


~~~富士、沼津~~~
              ’13  ’14  11月
~富士市~


・ディアナ号の錨:富士市有形文化財
 説明:錨全長:約4.0m、錨爪長:約3.0m、錨重量:約3t、日本に開国と通商を求めて来港したロシア軍艦ディアナ号は、嘉永七1854年10月に下田港に入港したが、安政地震に遭遇して大破した。修理のため戸田港に向かったが、強い西風によって漂流し、富士市三四軒屋沖で沈没した。この錨は長く海底にあり、地元領民や住民に「唐人の根っこ」と呼ばれた。昭和51年8月に引き揚げられた。

○三四軒屋龍王神社(宮島1391)、八大龍王神社(宮島1391-34)
・社名碑:
・石鳥居
・手洗石
・献燈6
・秋葉山常夜燈2
・狛犬
・石道標:従是東宮嶋村
・力石:説明:明治大正から昭和初期まで集落の若者たちが体力をつけるため、また力比べとして持ち上げた「力石」で重量106.2㎏。
・説明:祭神:八大龍王神、例祭日:8月23日、由緒:創建慶應三年、海岸沿いの当地は漁業を主に生活し、先祖代々海の守護神たる龍王神を崇めた。古く三軒家、四軒屋2区に分かれ、両区に同神社あるも、昭和15年区併合の際、初代区長井上喜氏は将来両神社の合祀を約束した。その後40余年を経て昭和61年合祀記念事業として本殿及び拝殿造営並びに20aの境内造営を行い、龍王神社は地区の氏神、海の守護神として崇敬をあつめている。


○金(昆)毘羅神社(川成島930)
 説明:祭神:高オカミノ神奉遷宮中央大日大聖八代龍王、大物主神金毘羅大権現、鎮守宮聖主大梵王、開運摩利支天、備前拾四柱大人命霊神(備前さん)、例祭日:11月10日、由緒:・本社祭神高オカミノ神創建不詳、弘化三丙午歳1846,9月吉祥日、新浜村中五穀成就祈雨止雨の神、昭和56年1981、7月1日静岡県神社庁より13等級「龍神社」と呼称決定、
 祭神大物主神金毘羅、本社殿は香川県琴平山の金毘羅宮を本宮として文政12年1829創建されたと伝わる。金毘羅とは薬師12神将の一つで祈雨、海難祈願の神として祀る。
 鎮守宮聖主大梵王は仏教の神格化したもので神社を守る神。
 開運摩利支天、戦勝の神。
備前拾四柱大人命霊神(備前さん)は、岡山県の御用船拾四名の遭難死を古来より祀った。いつともなく忘れられていた。探して祀れば霊験ありとのお告げあり、宮司により1991年11月吉日遷座祭施行す。
 1991年11月吉日、本殿改築新浜区の守護神として崇敬す。
・新:石鳥居
・新:献燈2
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2


・山王(日吉)神社(川成島417⁻8) 


○不動尊(宮島)
・南無阿弥陀佛
・石塔

○圓妙寺(中丸550)

○弁天神社(中丸829⁻1)
・赤鳥居

○稲荷神社(中丸864)

○愛宕神社(鮫島520)
・説明:祭神:ほむすびのかみ火産霊神、例祭日:10月17日、由緒:創建不詳、明治19年記録「日吉神社ノ傍字中嶋ト云フ所ニ鎮座アリシヲ寛政年間此所ニ遷座セシト云フ」、「御戸帳ノ裏ニ左ノ如ク記セリ愛宕山大権現御戸帳 寛政七乙卯六月廿四日 当村若衆中 願主 奥州行方郡相馬大原村西方法師」とあり、古くから広く崇敬を集めていた。また「愛宕山光耀寺」と書かれた古い木札が残っている。平成元年改築。
・石鳥居
・燈籠
・石塔
・石塔類:2
・無縫塔4
・石仏4:観音?
・五輪塔2

○天満宮、山神社(田子360⁻1)
・石鳥居
・石柱2
・献燈2
・献燈
・クスノキ:保存樹木

○林正寺(鮫島535)鮫島山
・石塔
・南無妙法蓮華経□九丙子
・南無妙法蓮華経
・南無蓮本菩薩

・稲荷神社(鮫島569⁻6) 

○山神社(前田823)、前田新田区公会堂
・献燈3
・石祠
・自然石
・水神


・石塔:南無明甫蓮華経




・石塔3


○立光寺(前田830)佛原山
寺名柱


○石塔類、港公園(前田893⁻1)
・石塔2
・板碑
・胸像


○石仏類(前田新田888-73) 
・石塔3

○江川水門名碑:一ツ眼鏡(田子、浜田町、江川橋たもと)
 説明:小須湊の江川については、」ひとたび田子浦海岸が荒天により波浪高まれば、その遡上波は引きも切らず昼夜を問わず、付近一帯の田畑を押し流し住民を怖れさせた。明治17年9月暴風雨水害、明治32年10月未曽有の大津波襲来、田子浦村は田、家屋はもとより村民も壊滅的は被害を受けた。この復興のため明治36年11月県知事山田春三により石水門が築造され、上部は鈴川街道として利用され、以来田子浦村民、近隣村民の通行に寄与した。
 時代を経て水門の老朽化が激しく、田子浦村長船山啓治郎をはじめ地域住民の強い要望に依り、昭和27年3月地元選出県知事齋藤寿夫による応援を得て、新たな両開き水門が竣工した。その後次々と風水害にあったにもかかわらず、その役目を果たしてきた。しかし近年上流部の都市化、田子浦港整備のための河川、道路改修を契機に長年の役目を終え、平成10年取り壊された、当時の江川水門名碑を残す。

○沼川橋たもと、沼川石水門記念碑、六ツ眼鏡(中河原31-4)
 説明:沼川の逆潮は、富士山麓浮島沼周辺の村々に甚大な被害を与えてきた。その被害を防ぐため、明治18年11月6日、石水門が完成した。石水門は当時の最先端の土木技術を取り入れ構築された。設計はオランダ人技師の助言を受け、施工は猪苗代湖の石水門建設で名を上げた石工:児島佐左衛門が指揮して行われた。低湿地で湧水が多いこの地での工事は、殉職者を出すほどの難工事であったが、静岡県で初めてセメントを使って構築された石造アーチは以後、どんな波浪にも耐える堅牢さを誇った。
 石水門の管理は昭和3年7月より県に移管され、その保全に最善を期してきた。扉の開閉については、水位差を利用して自動的に閉まるよう工夫され、天候の悪化が予想された際には、手動で門を閉じることもできた。(展示の軸は門扉を動かすギヤの一部である。)
獅子浜産伊豆石を用いた六連型アーチの美しさは「六ツ眼鏡」の愛称で親しまれた。後に排水力増強のため水門を二基増設した。
 しかし田子の浦港築港と沼川防潮水門の建設によって撤去されることとなり、昭和41年12月8日、80余年にわたる役割に幕を閉じた。


~~~以下「村山古道」より転載~

・浅間宮、富士塚(富士市鈴川)   
 富士登山をする者が海水で水垢離した後海岸の石を一つ置いていったものが積み重なって塚になったという。別説には、津波後の施し米のお礼として積み上げた。北条・武田・今川が対峙したときの天の香久山砦の跡。などの説もある。 
鳥居前を直進して突き当たると石碑「皇太子殿下御散策之蹟」があり、左に元吉原中学校がある。戻るなら左折だが、海に行くなら右折する。
 ここから海水に触れるには堤防の出入り口を越し、左折(東)していくとテトラポッドが切れて砂浜が少し見える。西へ行くと田子の浦港の岸壁で立入不可となる。 

・閻魔堂、地蔵堂、石塔、黒露の墓(鈴川)  
閻魔堂…閻魔像、地蔵
地蔵堂…地蔵
石塔…17基、観音、六地蔵、燈籠、
黒露の墓…黒露は江戸時代中期の俳人。
地蔵堂前の階段が古くは海に出る道で、南進して一度曲がって先の皇太子碑に出ればよい。

・木之元神社、古東海道(鈴川)  
 戻りは地蔵堂から東進60mで右の路地に入ると古東海道であり、木之元神社前に出る。神社上側の道を行く。近世東海道に出るにはその先を左折し広い道に出るが、おそらく古東海道は右折した路地のように少し高いところを東進していたのだろう。近世東海道側へ進む。広い道に出たらすぐにある踏切を越え線路に沿い西進し、JR吉原駅前で北西進していく。*(ここからは近世東海道に出たので、近世東海道のガイドブックと同一内容になる。) 河合橋を渡り国道1号線と新幹線のガードを斜め左に横断する。その先に静かな街並みがある。左富士神社のある中吉原宿跡である。

・(付近)阿字神社、妙法寺、富士と港の見える公園、三本松、毘沙門天妙法寺(鈴川)  
阿字神社…近世以前の東海道は田子の浦を船で渡っていた。そのとき東岸側で安全祈願をした所の名残である。相当古い神社と考えられるが、これだけ海に近い所にあるためか古い物はない。(多分地震や津波で遺物は残りにくい) 
妙法寺…
富士と港の見える公園…現代の公園、眺めは抜群。トイレや駐車場数台分ある。
三本松…元吉原中学校向かいにある。何の謂れか?
毘沙門天妙法寺…だるま市で有名、近世東海道筋にあるので歩くとちょっと遠い。

・中吉原宿跡、左富士神社(依田橋町)~近世東海道~  
 先ほどの鈴川や毘沙門天の辺りが元吉原宿であるが、津波で破壊され、この左富士神社辺りに移転した。しかしここも津波で破壊され今の吉原本町の吉原宿に再々度移転した。
 *ここ以後しばらく近世東海道ルートなのでもっと詳しく知りたい方は東海道吉原宿近辺のガイドブックを読んでください。

・左富士(依田橋町)  
 東海道を東から西に行けば富士山は右に見えるのだが、この地だけは左に見えるので「左富士」と称され珍しがられた。東海道が一旦北北東を向くからである。左富士神社先の交差点に史蹟看板があり、松が植えられている。左富士の浮世絵レリーフもある。

・石仏(依田橋町)   
左富士史蹟を過ぎて北進すると左に祠が見える。

・平家越し(新橋町)  
 橋を渡る所にある。平家が富士川沿いに陣取り羽音を源氏の攻撃かと驚き逃げ出したという伝説の地である。平家は羽音だけに驚いたのではなく、その前から源氏の陽動作戦で疑心暗鬼になっていたという説もある。ここはいまでは富士川ではないが、雁堤設定以前はここまで富士川が幾本かに分流して流れていたようだ。

~~~以上、村山古道、転載部分~

○阿字神社(鈴川町12)

○仏舎利塔、大隈稲荷、富士と港の見える公園(鈴川町12)

○妙法寺(鈴川町12)

○富士塚、浅間宮(鈴川西町13)

○三本松(鈴川中町23)

○閻魔堂、黒露墓(鈴川中町8-⒑)

○地蔵堂(鈴川中町3-1)

○木之元神社(鈴川東町1-29) 

○海老坂薬師:今井薬師堂(今井一丁目4-4)
・石鳥居
・石塔:(梵字)庚申供養滅悪生善處 元禄四辛未天 
・石塔の笠部分
・奉納南無庚申
・南無奉献庚申
・観音2:・宝暦二、・墓石

○愛鷹神社:(今井一丁目2⁻14) 
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2
・石祠
・石塔
・保存樹木:エノキ:富士市

○毘沙門天妙法寺(今井二丁目7⁻1)

・稲荷神社(今井三丁目4-1)

○愛鷹神社(大野新田124)
・秋葉山常夜燈
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2

○高橋勇吉と天文堀(大野新田56⁻1)てんもんぼり
・説明:三新田(大野、桧、田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉1806~1866が天保七1836年から嘉永三1850年の14年間の歳月を費やして完成した排水用の掘割である。勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で彼が三新田の開拓を考えたのは天保七年の大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで排水計画の研究の傍ら多くの反対や苦難を乗り越えようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て立派な排水堀を完成させたのだった。勇吉は自分の田畑や財産等を売り払って工事費に当てたと云われ、勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから子の掘割のことを人々は「天文堀」と呼んだ。現在三新田の耕地は土地改良や道路等で開発が進み、勇吉の天文堀はその跡を見ることができない。

○庚申堂(大野新田14)
・秋葉山常夜燈の竿部分、
・石仏3
・五輪塔破片
・水準点

○丸山稲荷(桧新田368-60)
・赤鳥居、祠

○愛鷹神社(桧新田329)
・石鳥居
・エノキ、クスノキ、クロガネモチ
・秋葉山常夜燈
・石仏
・献燈2
・祠、
・手洗石

○淡島神社、米之宮神社(田中新田215、三新田98⁻1、田中町) 
・赤鳥居
・石仏
・石鳥居
・保存樹木:クロガネモチ、エノキ、ムクノキ
・献燈
・献燈
・手洗石

○?神社(三新田10-13)

○春耕道しるべ第一号:石道標:☞須津村すどむらやくば役場一里、吉永よしなが村役場三十一町、

○ 昭和放水路、増田平四郎の像、旧東海道一里塚、石碑、広沼橋西袂、沼川第2放水路、
    (沼田新田8、柏原町2)
・増田平四郎とスイホシ:説明:天保七1836年大飢饉や度重なる水害から村民を救済
するため、原宿の増田平四郎1807~1892が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年1869の春で、人々は「スイホシ」と呼んだ。
 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ籠訴すること6度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶應元年1867に着工の運びとなった。それは計画の発案から27年目のことだった。
 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505m、幅7mの大規模な掘割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡形もなく壊された。平四郎の大計画はとん挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
・増田平四郎像
・増田平四郎翁碑
・為女鹿塚新田
・石碑:旧東海道一里塚

・交通事故防止祈願像、地蔵(沼田新田140)広沼橋東袂

○立圓寺(西柏原新田72) 

○大六天神社(沼田新田64⁻1) 

○延命地蔵尊(中柏原新田227) 

○津島牛頭天王(中柏原新田231⁻1)

○六王子神社(中柏原新田171⁻3)

○?神社(中柏原新田257)

○庚申塚古墳(東柏原新田) 

○山ノ神古墳(東柏原新田) 



~沼津~

○八幡宮(植田41-⒑)

 
○?神社(植田95)


・地蔵2:
・献燈


○山神社(大塚38-1) 

○正覚寺(小諏訪コズワ518⁻1)


・?神社(西間門602)

○金剛寺(西間門518) 

・?神社(西間門518) 

・石塔3


・赤鳥居、祠、石塔:大正七


・石仏:観音、橋本梱包待機場所


・是法院當縁日住 宝暦十二壬維持


・元堀:水落堀跡(一本松71₋2)富士アセチレン工業 向かい
 説明:元禄15年1702に今泉村の七兵衛、又兵衛が計画し、宝永3年1706~08にかけ、地主鈴木八兵衛、地元住民等の協力のもとに着工された。この工事は浮島沼入口から一本松の海岸まで水路を掘り、沼の水を流し、新たな農地を切り開こうとしたもので、工事は進むも高潮等の自然災害により完成までには至らなかったと古文書は記している。苦心の大工事で今に残る浮島沼開拓に情熱を傾けた先人たちの貴重な遺跡である。なお掘割跡の奥には江戸時代の潮土手も残っている。

・板碑:(一本松85⁻5)

○要石神社(一本松87⁻1) 
・説明:祭神:天津彦火 々杵尊あまつひこのひ  いそのみこと、例祭日:1,5,9月各27日、由緒:当区の開祖大橋家の2代目五郎左衛門が寛永年間に創建したという。現在社祠、天保十四年再建。水郷鹿島香取両神宮要石と同じものである。本体一部露出せる火山岩の大石塊 北200m、大橋家屋敷井戸まで続くといわれ、このために安政の大地震にもこの地方の災害憂いがたく、聴覚障碍者はこの社に祈願して穴明き石を供えると平癒するとの口碑あり。境内には多数の穴明き石が奉納されている。
・石鳥居
・馬頭観世音菩薩:安政六未年
・南無阿弥陀佛 享保五庚子年
・手洗石:世活 當村中 火消中 若者中
・祠
・玉垣

・破損:赤鳥居と祠、馬頭(一本松163)エノモト工業 向かい

○いぼ神様:祠、石碑(原655₋2)沼川第2放水路の原大橋西袂
・説明:古来よりこの社の後ろにあった巨松の盤根の閒にくぼみがあり常にみずがたまっていた。イボのできた人がこの水をいぼにぬり祈願すると、いぼがよく落ちるのでいぼ神様と云われ広く信仰された。「原町史」より

・石仏:

・地蔵:天保五年、原中学校附近

○山神社、稲荷神社(原315₋2)

○原 壱ヶ浦供養塔(原311 原西町交差点信号前に案内標識) 
・供養塔:南無妙法蓮華経
・馬頭観音:2:天保十、

・山神社(原38⁻1)

・馬頭2:(大塚15 図書印刷 向かい)

・新:地蔵:交通守護(今沢38⁻1 大杉自動車工業 向かい)

・庚申塔(今沢29 向かい)

・赤鳥居:祠(今沢23 秋本水産 向かい)


・観音:元禄十年丁丑 奉供養(今沢20-9 向かい) 
 ・今沢20-9にはコンクリ石柱2在り:三島神社と祥雲寺の参道入口

・青面金剛王:正徳六丙申年1716(今沢17⁻3 向かい) 


・一面六臂:正徳三癸巳


・墓石:~丁玄禅定明 ~忍禅定明 享保十二未


・観世音菩薩:寛政七乙卯(松長12⁻1 向かい) 
 観世音菩薩:明和四丁亥、
大悲観世音1安永六年


・石塔(松長21-45 向かい) 

・観世音(松長30⁻11 向かい) 
~明尼首本~、
大正、江戸 勅四郎大明神、
・南無妙法蓮華経供養:ひげ題目:文化十一甲戌年、


・弁財天:維持寛政九丁巳歳(松長51⁻11 向かい)


・地蔵(松長64、大昭和紙工産業向かい)
・六十六部、
納経塔行者、
妙法随喜法徳霊、
(一面六臂)寛延元戊辰1748天霜月日、
南無観世音菩薩文化二乙午年1805、
南無観世音菩薩寛保二壬戌歳1742、
庚申塔、
昭和十年、
文化八、
英六十一、
西國三十三所巡礼供養塔、
奉巡礼西國三十三所、


・地蔵;祠(大諏訪25、東洋電産向かい)

・石祠:観音、(小諏訪556⁻5 向かい)
・馬頭観世音2
・石塔

・石塔3(小諏訪556⁻1 向かい) 
・庚申塔

○正覚寺(小諏訪518⁻1)

○石塔類(小諏訪588⁻3 服部宅向かい) 
・観音2
・青面金剛神、
法蓮華経一字一石二部供養塔

○石塔類(小諏訪600 静岡スバル向かい) 
・観音2
・石塔5
・馬頭4


○妙伝寺(東間門33) 

○山神社(東間門8-12) 
・コンクリ鳥居:大正十一年、・コンクリ常夜燈2:昭和三年、・常夜燈の笠、・堂、・手洗石:、手洗石:昭和十一年、・旗立石、・石祠2、・石塔:奉納田中源三郎、

・石道標:六代松 是ヨリ東 六代松(東間門9⁻1) 

○六代松碑(東間門824) 
 ・説明版:平家物語ゆかりの地、六代は平清盛を3代とし、重盛、維盛、六代と続く平家の統領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符号する。元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると探し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語るうえで最も人々の心に残る場面の一つである。その後出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、誅せられ、その首を供の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。江戸幕府の命を受けて道中奉行美濃の守藤原利恭としやすらが文化3年1806に完成した「東海道分間延絵図」にも、千本松原の名kにある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。民間では学識の俳人秋里離島あきざとりとうが寛政九年1797に板行し好評を博した「東海道名所図会」には文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人たちに親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年1843碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
 ・忠霊塔、・板碑

○若山牧水住居跡(本858⁻1 TKDマンション) 
 現在、碑文が門前にあるのみで発見しにくいので、地元民に尋ねるしかない。
 説明版:歌人若山牧水が千本松原の景観に強く心惹かれ沼津に入樹してきたのは、大正九年1920満34歳の夏だった。大正14年ここに500坪の土地を求めて居宅を新築し、沼津永住の念願を果たした。建物は木造2階建て79坪で全11室あり牧水が夢に描いていた通りの物だった。牧水は千本松原を愛したように、この居宅を非常に愛していたが、この家にはわずか3年暮らしただけで昭和3年1928の秋、43歳の短い生涯をこの地に閉じている。牧水の建てた家は惜しくも昭和20年の戦災で焼失したが、沼津市若山牧水記念館に50分の一の復元模型ミニチュアとしてその全容が展示されている。

・馬頭観世音菩薩(本1910-⒑) 
 寛政十六年

・首塚(本1910-185) 
 説明:戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、特に天正八1580年の千本浜の合戦は激戦だった。明治33年暴風雨で倒れた松の大木の下から多数の頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を立て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和29年、人骨研究の権威:鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、特に10代後半の若者の骨の多いことが注目された。碑文は旧沼津藩士岩城魁。
・馬頭観音3:昭和十四年、 、 、
・地蔵、
・石塔、

○本光寺(本1910⁻185) 

○千本浜公園() 
・歌碑:多数



○沼津若山牧水記念館(本郷林1907⁻11)

○千本港神社、港口公園、水門タワー(沼津港) 


○芹沢光治良記念館(我入道蔓陀ヶ原517⁻1) 


○乗雲寺() 
 若山牧水墓

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 15:01Comments(0)古道

2013年05月03日

大川街道、静岡県道南アルプス公園線

大川街道(静岡市八幡~湯ノ島、大間、笠張峠)県道60号線南アルプス公園線     
        調査:2013年2/24~4月
静岡市羽鳥で国道362号線を上り昼居渡八幡で国道362号線から右分岐し、県道南アルプス公園線を遡上し、笠張峠までの区間とする。八幡から湯の島の近代道路は1916年開通。
 *なお静岡市安西・羽鳥から昼居渡八幡までの区間(この区間の近代道路は1903年開通)は、『古街道を行く』(静岡新聞社)の川根街道を参照してください。
・(八幡)  
 70m進むと道は右カーブになる。そこの岩上に石塔あり。
・馬頭観音:明治四十五年六月廿二日 
・庚申塔 大正九庚申年 
・石灯篭:大正十二年 
・(赤沢)  
 赤沢の休憩所を過ぎ、集落右上に神社がある。上っていく途中の家の石垣庭先に石塔あり。
・農道建設碑 昭和三十二年 
???・対岸の峠は櫛筐峠クシゲ(クシバコ)トウゲというそうだが、具体的にどこなのかわからない。わかる方お知らせください。
集落左手上に神社あり。
・山神神社(赤沢)  
 神社拝殿の額には山之神社と書かれている。
・手洗石:昭和三十四年 
・鳥居・金属製 
県道に戻り北上。のがたけへの分岐より手前に祠があり、祠内に3つのものが祀られている。
・弘法大師 
・観世音菩薩 
・黒田渕稲荷 
 ここの渕を黒田渕というようだ。
・(のがたけ) 
 のがたけへの分岐には東海自然歩道標識あり。吊り橋で藁科川を渡り、標識に従い山に取り付けば尾根まで行ける。尾根上の道は古い川根街道であり今の東海自然歩道である。ちょうどのがたけからの上り口は裏川根街道上り口のようだ。
のがたけの集落の庭先に石塔あり。
・石塔?:摩滅して刻字等不明、細長い60~70×20cm、庚申供養塔?か 
・石塔?:摩滅して刻字等不明、背が低く幅広40~50×30cm、 
 集落を上がっていくと分岐点あり。東海自然歩道標識と石道標あり。
・石道標:従是 右 相又 左 村中 道:行書で書かれており幕末から明治初期のものか。摩滅していて判読しにくい。右が東海自然歩道・川根街道方向で相又である。左は集落で吊り橋を渡れば赤沢や寺島に行ける。
 また県道に戻り北上。
・(寺島 市ノ瀬) 
 寺島中心集落手前カーブ地点上に神社あり。
・行春社(市ノ瀬)  
・石鳥居:刻字?だいぶ摩滅しているものばかりで判読不能。 
・手洗石2:刻字?
・石燈篭:?
・地蔵:? 
・馬頭:?
・石仏:?
・如来:?
・祠:
・石塔:生祠 
 この上に神社あり。
・白髭神社 
・鳥居:木製 
・手洗石:明治十四年 
・石製家型道祖神: 
・奉供養庚申之塔 文政九丙戌年 
 県道に戻り北上。寺島集落で右折して坂本へ行くルートがある。東海自然歩道も同じく右折である。
・弥助桜、伝説「約250年前村が貧しく年貢を払えないとき、山杢弥助は役人とトラブルを起し桜の大木に上って隠れていたが役人に見つかり、富沢の六郎兵衛が鉄砲で撃ち落とした。そのとき弥助は六郎兵衛を七代祟ってやると叫んだ。その通り六郎兵衛の子孫は肉体的不具合が多かった。また弥助には二人子供がいたが賢かったので弥助のようになることを案じ殺してしまった。桜の木は弥助桜と呼ばれた。昔子供を祀ったものが田の中にあったという。」
???弥助桜はどこにあったのか?
・弥助観音、伝説「寺島新宮にあり、山杢弥助にまつわるものである。形は直径約15cmの円盤状の石で割れたものを継ぎ直したようになっている。昔弥助観音がある辻の辺りが子供の遊び場で、子供が弥助観音を割ってしまったので、武士が子供をたしなめていると、観音がせっかく子供と楽しく遊んでいたのにと武士に注意したといわれる。」、子供と遊ぶ地蔵伝説は各所にある。
???弥助観音はどこにあるのか?

○~寺島で坂本(東海自然歩道)への分岐。~
 200m進むと右に石仏あり。
・地蔵 
 さらに進むと坂本集落が見えてくる。
・坂本  
 坂本集落橋手前の右民家前に石仏あり。
・庚申塔 大正九年 
・南無馬頭観世音 大正六年 
 清沢本橋を渡ると集落中心部だ。すぐ橋周辺が坂本川砂防公園で右に看板あり。
・看板説明版:河原施餓鬼:鎮魂の碑:大昔に遡る約三百年前享保六丑(1721)年閏七月十六日異常な大雨が降り続き、字姉山沢の奥が山崩れとなり、人家へ押し寄せる土石流に、一瞬にして泥中に埋没した家屋数三戸、五郎兵衛方男女四人、助蔵方男女二人、権四郎方男女三人が、家と共に山なす泥土の下深く埋まる大惨事となった。また周囲の屋敷、田畑、山林も埋め尽くし、大きな爪跡を残した。
それより百三十三年後の安政大地震により、再び山崩れを起こし、家屋敷に被害が発生したが、人的災害がなく、不幸中の幸いであった。
 貴い人命と共に被害、損傷を受けた我々の先祖の苦難の歴史をたどる時、霊の鎮魂の為、三年に一度、この地で川原施餓鬼を行い、犠牲になられた緒人をはじめ、受難の時代を乗り越えた古人の冥福を祈り、祈願を続けている。

*注釈:閏ウルウ七月とは、七月の翌月が閏七月となり、七月を2回行ってから、その翌月が八月であり、1年が13ヶ月になることもある旧暦のシステムである。約3年に一度13ヶ月になる。以下の崩野の延命地蔵箇所で旧暦一口メモとして簡単に紹介する。

メインストリートの林道坂本線に沿い上っていくと公園内に祀られているものに出会う。
・地蔵:光背付き 
・句碑:とつさきに山霊導くわか泉 昭山 
 公園を過ぎ茶畑右に石碑あり。
・句碑: 
 更に進み左が崖になると、その崖に祀られている。
・馬頭観音: 
 メインストリートを清沢本橋手前まで戻り、集落内旧道を上る。すぐ左に石仏あり。
・馬頭観音 昭和十四年:朝風という馬を祀っている。
 寺に向かう。
 ○清源寺 
・大カヤ:説明版:樹高30m、目通り周囲3.7m、枝張18m、このカヤの木は樹勢が良好で樹齢約450年にも達する巨樹である。カヤの木は山地に自生しているが、庭樹としても植えられている常緑の高木である。種の胚乳は食用になりまた油を採る。材は基盤、将棋盤として有名である。
・馬頭:明治六年 
・石仏:他2つ付き 
・西国三十三所:他に馬頭と如来付き 
・地蔵: 
・西国三十三所  
・西国三十三所 寛政戌辰年 
・庚申供養塔 文政七年 
・八幢しょう: 
・地蔵:祠 
もう少し山上に神社あり。
○清沢神社 
・石鳥居:大正十三年 
・石灯籠:  
・石灯籠:  
・石灯籠:  
・石灯籠:昭和十二年  
・手洗石:慶応四年 
・石塔:奉献 伊津奈大権現 寛政八丙辰歳九月吉祥日 
・奉献 御神燈 寛政八辰年九月□ 
・かまど 
 奥に奥宮がある。
・石灯籠: 
・結界石 
・祠 
・石塔 
・鳥居:金属製 
 元来た道を戻り下ると途中に四十一坂(肘打峠)上り口表示がある。 
・四十一坂(肘打峠、肘打嶺)、静岡市駿河区坂本、国土地理院2万5千分1地図「牛妻」
 ’13 3/17 坂本より二十数年振りに登った。登山道は整備され標識も多い。集落上はずれから畑次いで森を通り峠まで15分。道は狭いところもあるがかつては道幅1間1.8mあったと思われる。一部崩壊していて道の付け直しがされている。集落はずれと畑の境辺りに石ころの道祖神がある。かつて登ったとき峠は平坦な茶畑でそのときはちょうどおじさんとおばさんが茶畑の世話をしていたが、今は植林と雑木が一面を覆っている。峠には石仏の観音2基と説明看板がある。
・西国一国三十三所 萬延元年 
・□国一国三十三所 宝暦四年  
・説明看板:肘打峠は大昔より藁科街道往来の道として栄えてきた。峠にはかつて大樫の大木が繁り峠越えの旅人の休息の場所となっていた。また鎌倉時代源頼朝の希望により栃沢の米沢家の老女が永年手塩にかけた愛馬:摺墨(磨墨)の手綱を頼朝の家来赤沢入道、小島三郎、日向太郎の高名な三勇士に名馬摺墨の手綱を手渡し、しばしの別れを惜しんだ峠と伝えられる。坂道の曲がり多く狭く険しく肘を突く峠の道、坂道を上りきるとそこに石仏二体苔むした観音菩薩が静かに時の流れを見守っている。(清沢村誌引用) 
 
 峠から更に坂の上に向かい下る。初めは見事な切通しで道幅1.8mが確保されていたことがよく分かる。ただしこの道を見ていきなり近世の古道をイメージしてはいけないのだろう。たいていの古道が、少なくとも昭和の戦後期まで現役の道として使われ補修を受けてきたのだろうから、戦後期の姿と受け止めたほうがいいのだろう。ニホンカモシカに会った。体長1.5m以上で立派な体格だ。このところ里山でも数多く見受けられる。天然記念物がこんなに人里にいていいのかと思う。被害は出ているのだろうか。逃げていくとき「キー」という甲高い声で鳴いていた。見受けることはしばしばあるが声を聞いたのは初めてだ。周囲に知らせるかのように鳴いていたので付近に仲間がいたのだろうか。しばらく下るとガレているところがあり道は崩壊していくようだ。15分で下りきり茶畑の農道終点に出る。ここから坂の上に出られる。なお農道は低いところを通って坂の神に出るが古道はもっと高いところを通過していたのだろう。
 以下に以前の文章を載せる。
  静岡市羽鳥で藁科川を遡る国道362号線を北上、八幡にて県道で藁科川を北上、市ノ瀬で東海自然歩道の標識あり、750m北上で寺島集落に出る。東海自然歩道標識は県道を右折し坂本集落に向かう。1kmで坂本へ、集落西端の家から裏山に登る登山道あり。分からなければ地元の人に聞くべし。道はやぶっていてよくないが、何とか通れる。標高差70mで尾根の峠到着、石造物が2体あったはず。昔は茶畑などでもっと通りやすかっただろう。確認89年頃なのでいつか再確認をしたい。ルートと名称は国土地理院2万5千分1地図に記載があるが、下り道未確認。西に下れば藁科川沿いに坂の上集落から延びる農道に出られるようだ。農道から登山道に入る付近に架かる吊り橋手前県道に「古道、四十一坂、肘打峠」の標識あり。農道からの標高差150m。坂本集落内にも標識あり。この道はかつての藁科街道のはずである。

 ~坂本から寺島の藁科川沿いへ戻り県道を北上する。~
 鍵穴バス停付近で鍵穴橋を渡り、向こう岸の本村へ行く。
 集会所のある墓地はおそらくかつての寺院跡だろう。
・奉一国三十三所供養塔 天保五申午年 
・庚申塔 天保五年 
・石塔2基 
集会所裏手に神社がある。
・八幡神社(鍵穴本村) 
 石鳥居:大正十四年 
・手洗石:大正十四年 
・石灯籠2基: 
~県道に戻り北上する。~
○大瀬戸 
 大瀬戸の県道カーブ地点上の山にお堂がある。かつての寺だ。
参道入口は集落内である。
・門柱:コンクリ製:昭和拾壱年 鍵穴同志會 
・石灯籠:剥離ひどし 
・手洗石:明治□二年 
・手洗石:文久二歳正月 
 大瀬戸の県道より川に下っていくと道祖神と桜がある。
・石製家型道祖神:隣は枝垂桜である。
~県道に戻り北上する。~
県道沿いに祠がある。
・地蔵(新) 
・天満宮(小島) 
・石鳥居:昭和五十一年 
・石灯籠:明治二十七八年 
・石灯籠:昭和54年 
・手洗石: 
・五輪塔:4基、古い、壊れている、
 小島橋を渡った向こうの集落はじめの家先に石塔がある。
・庚申塔 大正十四年 
その上の方に小島の墓地がある。
・地蔵 
・西国三十三所供養塔 
・庚申供養塔 
・地蔵 
・奉西国三十三所 
・?西国三十三所 
 ~県道に戻り北上する。~
・木製標識:交通安全供養塔 
・山王峠 
 休憩所:「樅の樹」前の道を上って曲がると坂の上方向が見える。ちなみに曲がるところで川に向かって降りていくと大川自然広場でキャンプ場。 
・四十一坂 
 上り口標識 
・唐沢橋を渡ったところに観光案内図看板と記念碑「大川 在来そばの里 大川100年そばの会」がある。その先の川の右崖淵カーブ上に石仏がある。
・馬頭観世音 昭和十五年 
 その先右カーブ左崖下に祠がある。
・地蔵 

~坂の上集落に入る。
・石塔(坂ノ上 東)さかのかみ 
・庚申塔:天保五年 
・庚申塔:大正九年 
・薬師堂(坂ノ上 東) 
 近くの墓地前に石塔が3つある。堂内には木製仏像群、建穂寺に次ぐ規模、:本尊薬師如来等:推定平安期。五智如来、観音菩薩、十一面観音、天部七体、僧形、神像。
眼病に効くそうだ。
この裏山を上っていった先を兜巾山というようだ。
・右:地蔵 
・中:有縁無縁三界萬霊等 
・左:葷酒不入門内月向山主□國□□ 
・坂ノ上神社(坂ノ上 東) 
石造物
・石灯籠:安永九年×2 
・狛犬:平成三年×2 
・石鳥居:昭和六十三年 
・手洗石:明治二十九年 
・句碑:昭和三年 
・割れ目のある石 
・御即位紀念:大正四年 
・天盃拝領 御即位記念 昭和三年 
・改修道路 昭和三年 
~ 町内の裏を藁科川が流れ宅地と畑の境の土手際に耳地蔵がある。
・耳地蔵、田の中にあるという。お果たしは穴の開いた石を祀る。今は藁科川の土手際に祀られている。3基石塔が祀られ、
・右が地蔵で穴あき石を首にかけているので、これが耳地蔵だろう。
・中央は「有縁無縁三界萬霊塔」、
・左は地蔵。

???・清名塚、戦で死んだ武者を埋葬したところに五輪塔を祀ったというが不明。分かる方お知らせください。
・陣場河原:かつて戦があったところで、町内を流れる藁科川の河原のこと。
・机平ツクエダイラ:平和協定を結んだところをいい藁科川の向こう側で、吊り橋を渡った先の左上の平坦な大地である(平原氏談)。今は廃棄茶畑と建築業の資材置き場、携帯電話の電波塔らしきがある。おそらく古道は机平上端を水平に通過し、坂の上集落と四十一坂を下った先の茶畑を結んでいたのだろう。 

~坂の上集落で公民館横の道を進み、橋を渡り向こう岸へ出て、四十一坂入口方向を目指す。
途中左民家裏に屋敷墓があり、庚申塔もある。(道からは見えない。)
・庚申塔:大正九年 
~一旦集落北に向かい、大川保育園横を通過したカーブに石塔がある。小字の南と高沢の境あたりなのか。
・庚申塔:昭和三年 
・庚申塔:昭和十年九月宗野ひさ 
・庚申塔:大正九年 
・石塔?:昭和三年□月吉日 
・手洗石:
・花挿し用の石3:中村辰也 

~方向を変えて南に向かう。集落南はずれの民家に地蔵がある。
・地蔵 
・丸石:道祖神か?
古道はもっと高いところを通っていたのだろうが、自動車道は中腹を通過し途中机平の平坦地を抜け、河原に広がる畑に向かい降りて行き、方向を下流の四十一坂入口方向に変える。ちょうどそこに13基の石仏が合祀されている。ちなみに畑や道ごと金属ネットの檻のような柵で囲われ中へ入れない。平原氏の地所だそうである。 
・地蔵: 
・奉納 一国三十三所 西国三十三所 文政六年  
・西国一国善光寺三十三所供養塔  
・庚申供養塔 天明ニ壬寅年  
・?観音  
・?西国三十三所  
・西国三十三所 天明二年 
・西国一国三十三所 文政  
・西国一国三拾三所供養塔  
・?石塔 
・?石塔  
・?観音  
・三拾三所供養塔    

 ~県道に戻り北上する。~
 坂ノ上神社山下の道を抜けると宇山集落である。ここからも坂ノ上神社の裏から上る道がある。
・坂ノ上神社への参道(坂ノ上 宇山) 
 古かった参道は新たにコンクリート舗装され神社まで車で行けるようになったが、古道の赴きは消失。神社のある尾根付近で畑色へ向かいさらに洗沢峠を目指す古道(秋葉街道の枝道)があるはずだが、新しい参道から分岐点目視判別不能なので、よじ登ってみたが、新道から尾根に上がったところは炭焼き小屋跡で尾根上に踏み跡はあるが、特に分岐点を示す石道標や歴史遺物は見られない。
 ~県道に戻り、宇山集落、宇山バス停付近、「八幡まで8.5km 笠張峠まで24.0km」標識のある所に石塔物がある。
・奉 
・庚申塔 
・奉納 森藤□□蔵 
・馬頭 
・石塔 
・手洗石:奉納 永野  
・地蔵 
???・平石:バス停より徒歩2分上に、名馬摺墨と老婆の足跡がついているという。かつてあったようだが今はない。分かる方お知らせください。
・この先「巽荘」という看板の?元酒屋がありその先は茶畑で、その茶畑を上っていき北の尾根を目指す登山道がある。かつては畑色や上杉尾を経て洗沢峠にいけたようなので
秋葉街道の枝道として登山口を調べてみた。登山道入口付近に石道標や遺物は見られない。

○~坂の上から県道北上し、この先で立石橋を渡ると左川沿い道が本道で右上に上る道が栃沢への道~ この道は県道大川静岡線。
 かつては奥長島から栃沢に抜け坂ノ上等に出るのが本道だったようだが、自動車道が川沿いに作られて一変した。
 この分岐点のカーブミラーの真下の暗がりに石造物がある。
・石道標:とちさわみち 
・馬頭: 
・□□□観世音:壊れて横倒し 

 ~栃沢を目指し上っていく。~ 
○栃沢 
 左が山の崖になると石仏がある。
・庚申供養塔 大正九年 
 栃沢の家が見え出すと神社入口がある。
・子安神社(栃沢) 
・祝大正十五年車道改鑿 
・火坊鎮守 
・板碑: 
・石灯籠2:昭和三十(廿の三本)七年 
・鳥居:金属製 
・石鳥居:? 
・板碑: 
・石灯籠2:弘化四年 
・狛犬2:昭和四十二年 
・手洗石:明治三十二年 
・手洗石:慶応四戌辰 
・手洗石: 
・祠2 
 主要道を奥へ進むと米沢家で聖一国師碑がある。
・米沢家(栃沢)  
 ???聖一国師生家、摺墨の馬蹄石(見られない)、
・聖一神光国師誕生地 昭和七年 
・句碑:昭和三十八年 
・三夜燈 安政四年 
・三夜燈 寛政十一年 
・庚申塔 大正九年 
・?庚申塔 
・石塔:家の門前 
・石灯籠2:弘化四年:家の裏 
・祠 
・五輪塔 
・墓石2 
 裏に自宅墓地がある。
 手前のお宅の庭にも石塔がある。
・石塔:記念 
 更に主要道を奥に進むと寺がある。
・竜珠院(栃沢)  
 木像:薬師如来 
・六地蔵:? 
・手洗石: 
・有縁無縁三界萬霊等 
・三界萬霊塔 
・有縁無縁先祖代々精霊等三界萬霊 
・祠、小さい地蔵多数 
・割れ石 
・□神山 
・鎮守 
・割れ石 
・祠:弘法大師 
・観世音 
・水差し石 
・花挿し石2: 
・如意輪観世音 大正十二年 
寺を過ぎもう少し進むと岩の上に石仏がある。
・馬頭観世音 
 更に奥に進むと突先山ハイキングコース、ティーロード入口標識となる。この道が釜石峠を経て足久保に至る古道といえる。釜石峠には通称:歯痛地蔵といわれる如来(石道標にもなっている)が祀られる。
3月にはこの入口付近に淡い黄色あるいはカスタードクリーム色といった色合いの花が冬枯れした野に咲いている。近づくとほんのり上品な花の香りが漂ってくる。枝先が3つに分かれていてミツマタの花だ。枯れ枝に似たような色合いのため地味で目立たず、遠目にはあまり綺麗とは感じられないが、香りはよく春を感じさせる。この時期各所で遅咲きの梅の花や桃花、早咲き桜とともに遭遇した。

○釜石峠 (*美和街道を参照) 
 奥長島と栃沢の峠。歯痛地蔵と呼ばれる大日如来が祀られる。かつてはお堂もあったようだ。大川から静岡市街に出るにはこの道を通った。
峠から南尾根を通ると突先山に至り、さらに大山を経て坂本に出られた。
峠から北尾根を通ると中村山△1007.0mを経て樫の木峠に出られ、玉川または大川に下れた。現在樫の木峠から中村山方向への尾根道は、一見すると藪道のように見受けられる。
 釜石峠H820m。以前と峠の位置が変わったような気がする。この峠、平で広く東西50m幅ある。以前標識や歯痛地蔵は東端だったと思うが、今は西端である。歯痛地蔵(大日如来像)「是より 右ハ美和村あしくぼ 左ハ玉川村たくみ」となっていて、東の足久保奥長島と北の中村山・樫の木峠経由内匠へのコースを示す。西へ下る道は栃沢へである。
・歯痛地蔵:大日如来「是より 右ハ美和村あしくぼ 左ハ玉川村たくみ」 
 この先は美和街道・足久保街道である。*玉川村は安倍街道を参照。釜石峠や突先山周辺に関しては兵藤庄左衛門・Seeesaブログ・スポーツ・玉川トレイルレースを参照。

~県道の栃沢分岐点に戻り日向に遡上する~ 
バス停「森林組合前」の日向集落手前に橋がある。この辺りを森の腰というらしく、人家や石垣がある。かつて日向の白髭神社ははじめ松の平にあったが、次に森の腰に遷座した。その後今の場所に移転したようだ。石垣は近代のものだろうが人が生活していた家や畑の証拠とも言える。橋があり対岸に渡ると切杭である。橋を渡った正面に小長井宅(屋号ヨコベエ)があり、このお宅に許可をもらい家の横から裏山に上らせてもらう。家のすぐ裏には屋敷神の祠があり、裏山急斜面を3分も登ると祠がある。
・切杭天神が祀られている。さらに裏山を上っていき畑色に至るだろう切通しの旧道が伸びている。きっと途中で廃道だろう。ただ地図上ではそれほどの距離ではなく上の畑色の舗装道路に至れるようだ。上に道があるだけでなく、今の舗装された平地の道より上の山斜面上の今の道より20mほど上の植林地内を等高線に並行した旧道が付いていることも確認できた。 またこの上の方に池の段という昔の池の跡があるようだ。伝説ではこの池から土石流が流れ地形を変えたようだ。池の主の蛇が出て行ったというのは土石流の流れ跡をさすようだ。切杭には土石流が流れる前まで生えていた大木の根株が時々露出することがあり、まさに切杭である。

 もう少し切杭側の藁科川を上流側に畑に沿い舗装道路をつめていくと行き止まりとなる。行き止まりの10m手前から山に取り付く登山道があるので上っていくと5分で、切り立った細尾根先端部に出られ向こうはフドウボツの沢である。細尾根先端部山頂には祠がある。
・不動明王(石仏)が祀られている。藁科川対岸はちょうど福田寺のある丘が正面に見える。

・伝説「切杭本社の木魂明神」
 日向に原坂宅に美しい娘がいた。ここに毎夜美少年が通ってくるようになった。どこの少年か不明で、母は娘に少年の袴の裾に針で糸を縫いつけるよう指示し、そうしたところ、糸は大木まで続いていた。少年は大木の精だった。大木を切ることにしたが、切っても切っても翌日元通りになっていた。そこで切った屑をすぐ焼き捨てては切っていったところ、木はキリクイという異様な音を立て倒れた。ここをキリクイという。
その大木で空船ウツロブネを作り、娘を乗せ川に流した。安倍川の舟山で船が転覆したので、そこを舟山という。途中赤沢の対岸に娘の櫛が落ちたのでそこを櫛筐峠クシゲ(クシバコ)トウゲというそうだ。
 この大木は高さが33間、梢を杉尾村で望めたので、そこで杉尾という名になった。原坂家では麻を作らないようになった。またこの家で生まれる女子は美人だといわれる。この大木老杉を木魂明神という。

~ 集落入口の県道に戻る。
 日向 小向の集落入口に達する。崖上の2箇所に石仏を祀っている。日向の地名は日当たりがよい東または南向きの場所を指すそうだ。ここの地形は古くからのものではなく川の流れの変容により変化したと考えられている。
 またこの藁科川と籠沢が合流する辺りには大木の根元の株が出現することが近年まであり、キリクイ切杭の伝説となっている。イケノダンが決壊しマコモノハラを押し流したという。その土地には大木の切り株(切杭)が今でも出るというので切杭という。
・マコモノ原:日向字堂上で大川小学校前の平坦地を指すようだ。
・小長井家屋敷跡:大川小学校の辺りのようだ。

○石塔(日向 小向) 
 ○馬頭観音8基 
・大正十五年 
・大正十年 
・大正十三年 
・大正十三年 
・為紀念征露 
・明治二廿一年 
・明治四十年 
・明治二十一年 
かつて字(アザ)チャアラと字ヤスミイシの境である。ここに馬頭観音を祀ってあるのは、昔から急カーブ地点で馬がよく落ちたからだそうである。
○庚申塔7基 
 年号は明治38(1905)年から昭和12(1937)年まで。
・昭和十年 
・明治四十二年 
・ 
・ 
・昭和十二年 
・昭和十□年 
・明治 
川沿いに通過するのが新県道であるが、集落内に入る道が旧道であり、旧道に沿い進む。
集落内に張り出した舌状大地の上が神社と寺である。そしてそこへ上って向こうの小学校に下る道が古道である。
ちなみに手前右に林道起点ある。
○~林道:樫の木峠線、この龍沢を奥に詰めて行くと樫の木峠に至り玉川内匠に昔は出られた。幕末明治期探検家:松浦武四郎「東海道山すじ日記」はこのルートを通過している。~
・樫の木峠 
 途中、祠(剣宝社、けんぷん様)、萩多和城跡石碑通過。峠には幕末期石地蔵1基。そこから林道で川島に出られる。地蔵近くから旧登山道を下り白石沢沿いに内匠に出られたが、おそらく廃道同然か。

・飛神天神:日向集落出口から樫の木峠へ向かう旧道付近を指すようだ。今の林道より20mほど上になる。集落上部から山の中に入る旧道と推定される人為的平坦地の幅1~1.5mが部分的に残存しているので、これが旧道(古道)と推定される。この道を松浦武四郎も通ったはずだ。かつては何かが祀られていたのかもしれない。ただ地元でもトビガミテンジンといっても不明で、集落と山の境付近の上(林道出入り口より真上)の天神テンジンといえばわかる人がいる。ただテンジンと言うと、けんぷん様の先にある天神を示されることが多いので混同注意である。集落の人への言い方としては、昔山の畑に行く時に通った村集落と山の境の天神はどこかと聞いたほうがいいかも。
 このトビカミテンジンの旧道(藪で道とは思えないが、人為的平坦地なので、かつての古道と判断できる)を奥に10mも進むと開墾された茶畑上部南端に出る。ここで一旦旧道は消失するが、茶畑を北へ水平移動していくと、北端の動物用罠の檻上部に平坦地があり、奥に進める。すぐに建物の後背部に到達し後背部に沿って平坦地が続いている。更に進めそうだがここでやめた。地図上ではあと数十mで沢に達するのでそこで道は消失するだろう。 
・祠(剣宝社、けんぷん様):昔女性の修験者(巫女)が、この先、於万津ケ淵の滝壺で亡くなり、里人がここに祀ったという。歯の神(山里に多い)・山の神と里人に祈願崇拝された。歯の痛いとき、けんぷん様を拝むと治ると昔から言われている。治ったお礼として剣を奉納した。~「野山の仏」戸塚孝一郎より、取付:城北、坂本~ 
 現在林道脇に祠と説明書きが見られる。
・お松が淵:けんぷん様の先にあるらしい。於万津ケ淵。
・天神:けんぷん様より更に先で旧道が籠沢沿いから尾根道に移る辺りで、林道が籠沢からヘアピンカーブして沢をまたぐ橋を渡り沢から離れ山斜面に急激に登り出すところで、ちょうど「夕暮れ山・樫の木峠登山道」が山斜面に取り付くところで登山標識がある。林道より高いところを通っていた旧道が一旦沢に降り沢を渡る辺りを指すようで、林道をまたぐ橋のすぐ横の茶畑付近を天神というようだ。かつては何かが祀られていたのかもしれない。
 
 *以下に、樫の木峠や一本杉峠の参照用に、兵藤庄左衛門、Seeesaブログ、「夕暮山、中保津山、樫の木峠」を全文掲載する。
・夕暮山、標高1,026m(静岡市葵区内匠と大川の境、樫の木峠の北1km、一本杉峠・天狗岳の南2km)及び、中保津山、樫の木峠
 夕暮山への場所は上記の通り。登るには林道樫の木峠線を使い樫の木峠を目指すか、一本杉峠を目指すかである。大川・日向で林道樫の木峠線へ入り3km進むと大きく広く右カーブする所がある。ここに標識「樫の木峠、夕暮山」がある。徒歩ならここから登るのがよいが、道の状態は知らない。植林内で踏み跡はし
っかりしているかもしれないが、雑草はあるだろう。車なら林道を詰めたほうがよい。登山道もこの上で林道に合流し林道歩きになるので。
林道をさらに2kmも行くと先ほどの登山道と合流する。林道をなお進み夕暮山の南西尾根の△769.3mより上の辺りで「萩田和城址記念碑」と説明版がある。これを過ぎて0.5kmで切通しをくぐる。ここの左(北東)尾根に標識「夕暮山→」がある。ここから登るのが最短なようだが、いきなり雑草だらけなのでやめたほうがよいかも。この上で林道一本杉線も横切っているので、その林道を行ってからこの尾根に取り付く手があるかも。林道樫の木峠線をさらに200mも進むと左に林道一本杉線があり、工事中となっている。上を仰ぐと先ほどの尾根を上で横切っている。ここを通って上で尾根に取り付けそうだが、未実施。林道樫の木峠線をさらに進む。10年9月林道が急に荒れギャップがひどい所があったが、500mで樫の木峠へ出た。ここに石仏一つと樫の木がある。ここから北西尾根へ標識「夕暮山・造林展示林→」があり、もっとも無難な尾根コースだろう。夕暮山からさらに北へだらだらの平坦尾根を通って天狗岳や一本杉峠へ縦走できる。展示林となっているから少しは道が整備されているかもしれないが、未確認。樫の木峠から南へ尾根を伝うと中村山へ通じるが、峠から南へは雑草だらけで、踏み跡をたどるのはきつそうだ。標識も無い。
 一本杉峠・天狗岳へは玉川・横沢から井川・富士見峠への県道を行き、権現(臥竜)の滝を過ぎ500mで一本杉峠登山道がある。これを詰めるか、反対側の大川・諸子沢を詰めるかである。しかし一本杉峠の南西尾根を詰めることもできる。横沢から井川・富士見峠への県道を富士見峠手前の笠張峠で大間へ曲がるか、大川・湯島から大間を経て笠張峠方向に行く。切通しの分水嶺を横切ると、林道一本杉線の看板があり、南東尾根に沿い林道が延びている。左に別の作業道も分岐している。林道はそれほどアップダウンはないが、ギャップなどが多く荒れている。3km進み△1013.3mのピーク(中保津山)手前500mで林道が2つに分岐する。
右は別の林道で4.5km尾根を進んだ諸子沢の上辺りで行き止まりである。が、工事中で延伸するのかもしれない。
左の林道を進む。中保津山を右へ巻くようにして平坦な尾根に出る。ここも道が分岐し左は私有地でチェーンが張られている。右にまたピークを巻き尾根道が下りだす。この下に一本杉峠があると思われるが、夕方で引き返す。後日再調査予定。峠までは林道はあると思われる。
先ほど樫の木峠の近くにも林道一本杉線の看板があったので、そことつながるはずだ。10年10月、大間の県道から一本杉峠辺りまで林道はついているようだ。この先天狗岳や夕暮山の尾根の西を通過してつながるものと思われる。

△1013.3mのピーク(中保津山)へは林道の雑草の切れた辺りからピークを目指せばよいと思われる。諸子沢上への林道しか無い頃は林道がピークを巻く辺りから踏み跡をたどって登れた。今も草を掻き分ければ標高差わずか30mほどで登れるだろう。

 樫の木峠へ話を戻す。樫の木峠の石仏の左横に下る踏み跡がある。かつての「白石沢ルート」である。林道が開通した今となっては使う人はまれだろう。80年代末に通ったことを報告する。内匠の白石沢の横を通る林道白石沢線を2.5km詰めると行き止まりで堰堤となるが、登山道は奥に続くので徒歩で沢沿いを行くとすぐに石仏がある。自分では道なりに進んだつもりが、この石仏の所で道は分岐していて本当は右に行くのだが、間違って直進した。樫の木峠への沢より1本南の沢を詰めてしまった。沢沿いにきれいな林業用作業歩道が付いていてそれをひたすら詰めたが、何か変なので引き返し地元の人に話を聞いたところ、石仏のところで間違ったことを知った。
後日再アタック。今度は石仏で右折し沢横を詰めていく。峠直下と思われるところで、沢を渡る。ここにも石仏があるとのことだったが見ていない。渡ってしばらくすると急斜面を巻いて登りだす。登りきると峠である。
 これらのコースは、登るなら雑草や蜘蛛の巣が少ない11月下旬から6月初旬までが最適だろう。


~日向集落内旧道を進むと右上に寺と神社がある。
 ちなみに樫の木峠・籠沢から来た秋葉道(樫の木峠林道より20m上で集落最上部の家の裏山を下ってくる感じである)は今の集落や畑と裏山の境の辺りを回りこみ白髭神社・福田寺に上ったようだ。
 付近のお宅には屋敷墓があり、その中に供養塔が混じっていることもある。
付近の屋敷墓で
・先祖代々有縁無縁三界萬霊等 明治十九年七月日 
 上記を発見したが、まだまだ他のものはあろう。

○白髭神社、朝旭山福田寺観音堂(日向 千田) 
白髭神社はもとは能又川と藁科川が合流する手前の松ノ平にあったと伝えられる。松ノ平は下湯島手前から下に降りる林道を下ってすぐの茶畑のところである。本社白髭大明神、藁科八社ともいわれた。

・DVD「日向の七草祭(静岡市) 静岡県指定無形民俗文化財」静岡市教育委員会、ふるさと民俗芸能'ビデオNo.5、'93、27分 
 安倍川支流の藁科川を車で40分遡ると静岡市(旧大川村)日向集落で、日向は静岡市山間部の旧秋葉街道沿いで中世に城もあった大川地区の中心地で戸数88戸である。産業は水田、林業、茶、椎茸である。七草祭は旧暦1月7日の七草の夜に行われるための呼称である。場所は朝旭山福田寺観音堂境内の仮設舞台である。フクデンジ。
 川根本町田代・大井神社の神楽との類似性が指摘される。かつての領主土岐氏の勢力範囲に重なる。西遠州の猿楽・田楽の流れを汲む稲の豊作を祈願する田遊びである。付近には大間(福養)の滝(大間)、聖一国師の生家(栃沢)、(日向)陽明じには「木霊明神の縁起書」:切杭本社は川底に水没したが、庄屋の娘と木の精の大蛇との悲しい物語、大蛇の子を孕んだ娘は空ろ船で川に流され、あとを追った母が娘をこいこがれた場所が木枯らしの森という。藁科川流域には建穂寺(観音堂)という巨大寺院がかつてあり、福田寺とも関係していたと考えられる。
 祭りに先立ち毎年持ち回りの8軒の当番は様々な行事を行う。大浜海岸、潮花汲み:海水で祭りの場や家々を清める。浜石も採る。柳採り:柳の枝を切り取る。陽明寺和尚が絵馬札刷り「牛王法印」を行い、その紙を柳に挟む、札は祭り当日村人に配布される、札は豊作願い田の水口に挿す、舞練習は日向町内会集会所、大人に混じり子供たちも熱心に笛太鼓を行う。旧暦正月6日(この年は1月28日)、大日待頭屋:会食料理、床の間に浜石と潮花、境内では清掃と舞台作り、大日待の料理作り、各家々へ潮花配り:仏壇や家屋内を清める、頭屋では餅つき:丸餅とのし餅、水に漬けておいた米で「はたき餅(シットギ)」、大川地区連合町内会集会所:大日待行事、日向地区各家代表集まり会食、浜石、潮花、はたき餅、今は料理一部仕出しだがかつては割り子に詰められたもの、舞揃え:舞練習総仕上げ、旧暦正月7日(この年は1月29日)七草祭当日、町内会長が観音堂の厨子を開き掃き清める、福の種、お供物、万延の詞章本、寛永の詞章本、翁面箱、笹竹13本、3本使って舞台中央に組む、重しに浜石使う、舞台が神聖な場であることを示す結界、日の出祈祷、御詠歌、抹香を酒で溶いたものにネッキという棒で牛王の印をつき札作り、ネッキの一方「牛王」反対側「仏法僧」というが定かでない、参拝者の額にも押す、一年の無病息災、36本の御幣、小豆入り餓鬼の飯を境内各所に供える、境内清め、大地の神を鎮める、施餓鬼:観音堂裏山宝篋印塔、水垢離:一日7回水清め、今でも1回は藁科川で清める、夕方7回目の水垢離代わりに笹垢離をとり舞台に向かう、見物人いっぱい、
 構成は1、歳徳神礼拝トシトクシン、2、大拍子、3、申(猿)田楽:舞手6人輪、中に笹竹、幣の色で役割、笹持って回る、扇子で胸当て袖持って足挙げ、体を回す、拍子が速くなり扇子打って回る、笹竹13本舞台上げ、4、駒んず:笹竹根元足で固定し揺らし打ち合わせ詞章を囃す、春駒、繭豊作、馬と山鳥、馬は蚕の始まり伝説由来、山鳥は蚕のはきたてに羽を使うため取り入れたらしい、5、浜行:背負う桶に海の幸、潮花を神前に供え、滑稽に海幸配り、・若魚ワカイオ:近隣の神楽「オオスケ」と同じく神の一種、神聖な海水を祀り神々の祝福によりて五穀豊穣を約す、・(近年付加)女の子の舞、・順の舞、2回繰り返し、初めは試し上演と考えられる、浜行若魚2回目、滑稽バチ男根見立て、潮花振り掛け清め、(休憩)、後半が本上演と考えられる、翁面と詞章本を舞台上に出す、6、歳徳神礼拝、7、大拍子、8、駒んず、9、数え文カゾエモン:太鼓に米撒き田に見立てて、神歌、稲草、福の種、鳥追、田植、穂孕み、取り入れの内容で村の歴史とかかわるのだろう、福の種と鳥追に所作あり他は詞章のみ、、10、猿田楽、このあと一同本尊礼拝終了、
 このあと今は福引。
 旧暦1月15日(この年2月6日)、鈎取の佐藤家、太鼓の田に撒かれた米で粥作り、家屋内に供え、福田寺にも供え、粥を食べ、村人への活力を分け与える。

・朝旭山福田寺:建穂寺の奥の院。以下木製、千手観音坐像:推定江戸期前半、彩色なし菩薩像:推定平安期:欠損している、二天像:東方天・西方天:江戸期前半17世紀後期~18世紀初期、
・白髭神社:春祭り4月第1日曜日、秋祭り10月第3または第4日曜日、男女神像:江戸期後期、保存状態よくない、木製、
・石鳥居:大正十四年 
・石鳥居:平成八年 
・手洗石3: 
・石灯籠5:昭和九年…2、□永九年、 
・石碑:昭和十二年 
○庚申塔38基、割れ石 (44基?) 
 年号は宝暦二(1752)年から昭和三十(1955)年まで。日向では個人的に病気平癒の願果しとして建てることがあった。個人名を刻んだものも多い。造立数の多いのは大正九(1920)年の7基である。
*一般的には庚申塔は、更新講中により庚申縁年(60年に1回巡ってくる庚申年)に建てることが多く、他にも合力祈願や供養として建てることも多い。
 庚申講は、庚申の日が60日に1回巡ってくるので1年で6回は行った。庚申講は床の間に青面金剛の掛軸を掛け、全員で唱えごとを21回繰り返してから拝む。その後飲食をするのが楽しみであったようで、信仰心と、娯楽としての宴会、世間づきあいの世間話で盛り上がり、庶民の楽しみだったようだ。当番は輪番制であった。(「日向の七草祭」より引用を含む。) 
・大正五年:後列右より 
・大正八年 
・ 
・ 
・明治三十(廿の3本)六年 
・大正八年 
・ 
・大正四年 
・昭和十一年 
・明治三十(廿の3本)八年:後列2列目右より 
・ 
・明治十八年 
・明治三十(廿の3本)三年 
・大正元年 
・昭和四年 
・ 
・明治四十四年:後ろ3列目右より 
・明治四十年 
・大正九庚申年 
・大正九庚申年 
・大正九庚申年 
・大正九年 
・ 
・大正九年 
・昭和四十四年 
・割れ石 
・昭和十七年:最前列右より 
・昭和七年 
・大正九年 
・大正十二年 
・昭和八年 
・昭和十九年 
・昭和三十七年 
・昭和九年 
・昭和三年 
・□□□年 
・昭和十四年 
・大正十二年 
・昭和□□ 
裏山に上っていくと
・祠:弘法大師 
・秋葉山三夜燈 寛政十一年 
裏山の頂に立派な宝篋印塔がある。
・宝篋印塔 
またここは萩多和城の南朝方支城の一谷城跡である。尾根伝いに上っていくと萩多和城跡に行くし、夕暮れ山や樫の木峠にも行ける。尾根より下の神社から中腹を通っても行ける歩道がついている。一谷城用水路跡で樋道という。突き当りは樋口という。現在、尾根道には夕暮れ山ハイキングコースの標識がついている。
先ほどの尾根コースと反対に福田寺西側の丘上は畑と墓がある。どうもこの墓のことを
・ネギヤの屋敷墓というようだ。
 尾根と西側丘の間に空堀のような切通しの道が下っていく。
・古道  
 小学校方向へ下る古道をとる。御堂坂という。学校手前で旧道舗装路に出る。わずかな距離だが古道残存部である。学校前の平地の辺りをマコモノハラというらしい。学校前の旧道をたどると学校向こうで立派な門が見える。その先に寺がある。ちなみに古い秋葉街道は旧道より1本川寄り(新県道寄り)の狭い道である。
・農家の茅葺の門 
○陽明寺(日向 中村) 
 開基:雲叟、1510年、日向村に一草庵、
・六地蔵(新) 
・石製家型道祖神 
・石造物(古) 
・地蔵 
・地蔵 
・□□巡霊等 
・地蔵(新) 
・板碑 
・忠魂碑 
○1列に並ぶ石仏 
・地蔵:明治二十七年 
・?馬頭:明和七庚寅天 
・?馬頭:明治二十四年 
・?如来 
・?馬頭:法傳 諸子沢村 
・如来: 
・西国三十三所 
・十一面観音:諸子沢村 送精 
・馬頭:八手、?阿弥陀、大きい:大正十五年 
・馬頭:大正十年 佐藤善作 
・西国三十三所供養塔 明治十九年 
・馬頭:明治五□ 
・馬頭:八手、 
・?馬頭: 
・?馬頭:森下常吉立 
・観音: 
・馬頭:昭和十三年 
・地蔵: 
・地蔵: 
陽明寺前の旧道を下るとすぐに今の(新)県道に出る。その県道向こうの河原に向かうとすぐに石道標がある。掛川市在住の広谷氏の報告及び「日向の七草祭」所収されたものである。
・石道標:右湯島諸子沢 左洗沢秋葉山 道 
 近代のものであろうがルートとしては近世に準じたところにある。ただこの下につり橋があって渡れるがそこから先に道は消失している。この上の茶畑の石道標につながる道は新たに舗装路を作った際消失したようだ。広谷氏によれば東海道山筋日記コースを東京から西に向かってきて、初めて目にした秋葉山の道標だそうである。
~県道に戻り奥へ進む。~
・新しい地蔵(日向 中村)  
 八幡へ11.5km表示近く県道沿い。

○~この先、城山橋のところで右折で諸子沢、左折で城山橋渡ると畑色・杉尾に至る。いったん諸子沢に向かう。~
○諸子沢 モロコザワ ・大道島 
・白髭神社、大日堂 
右折してすぐに白髭神社、大日堂の標識がある。100m上ると境内である。神社の祭りは2月建国記念の日、10月第2日曜日。 
・石鳥居:昭和二十七年 
・手洗石:寛政十戌午十二月吉日 
・奉納大日如来 寛政十年 
・石灯籠:奉納白髭大権現 寛政十年 
・石製家型道祖神 
・馬頭観音 昭和廿二年 
・馬頭:享保二十年 
隣にお堂がある。
・大日堂:木製:大日如来、薬師如来、弥勒如来:江戸期 

~更に諸子沢を進むと時計台(新)や花壇を通過する。次に平の尾や地蔵堂への分岐点が上を目指すので地蔵堂へ行く。
○地蔵堂 
前に石仏が合祀されている。じぞう祭りが8月24日にある。
・手洗石:三角形 
・庚申塔 
・庚申塔 昭和十二年 
・庚申塔 
・庚申塔 昭和十五年 
・庚申塔 
・庚申供養等 
・庚申塔 大正九庚申年 
・?石仏: 
・?馬頭観世音: 
・西国三十三所 文久二壬戌七月 
・奉納西国三十三所 明治拾八戌年 
・石仏:□□二十二年十二月建 
・石仏:割れている 
・ほていさん(新) 
・西国三拾三所 
・?石仏:転倒 
・?石仏:割れている 
・西国三十三所 明和 
・?石仏:割れ 
・西国三拾三所 天保三壬辰 
 他にも割れたり崩れたりしていていくつあるか正確には不明。お堂の前を旧道(古道)が下っていくのが分かる。一部古道残存。
 ~また舗装路を戻り奥に進む。舗装路の上に寺が見える。日陰橋手前道沿いに石塔がある。
・庚申塔 
・庚申塔 明治四十二年 
・庚申塔 
 地蔵堂の上を目指すと平の尾集落である。
・平の尾:急斜面沿いに集落が展開している。この更に上に向かい林道が続いている。
・雨降松開拓地:林道が尾根に到達した所の平坦地で茶畑が続いている。無人だが家が1軒ある。かつて雨降り松なるものがあったようだが、今はない。そこはちょっとした空き地というか公園みたいな休憩所になっている。
  *この上の平の尾と大間方面は山越えの林道でつながっているが、そのことは「インターネット、兵藤庄左衛門、さぽろぐ、林道一本杉線」を参照してください。一応全文掲載します。
・林道一本杉峠線(静岡市葵区、大間~一本杉峠~天狗岳~夕暮山~樫の木峠~大川)まだ工事中でつながっていない、林道川久保線、林道峯諸子沢線、林道八重枯線、林道京塚線、及び付近の作業道
  実は(静岡市葵区、大間~△1013m「中保津山」~諸子沢平の尾~川久保)
 2010年10月、天狗岳から夕暮山区間は工事中で、一本杉峠付近はまったく手付かずであるらしい。
大間の南アルプス公園線県道分岐から一本杉峠の1km手前の△1013m「中保津山」までは林道になっているが路面はギャップ(クレバス、えぐれた溝)があり、通行しにくい。樫の木峠近くの林道樫の木峠線からの林道一本杉線への分岐は工事中通行止めである。おそらく夕暮山付近で工事中と思われる。
 大間の県道分岐へは藁科街道を上り、湯の島や大間集落を通過し福養の滝レストハウスを抜け、笠張峠方向へ県道を進む。地すべり箇所の赤い回転灯の1km手前の切り通し箇所で東に分岐する「林道一本杉峠線」標識がある。すぐ左に林道「京塚線」があり道も開いているが、どうも行き止まりらしい。途中いくつかの林業用の作業道も横切っていくが、多分どれも行き止まりだろう。直進で2km進むと右へ下る「林道八重枯線」がある。多分「国土地理院、地形図」の・1037mから・878m付近の尾根をたどる道と想定される(が間違っているかもしれない)。
 もう1km進むと道が平坦でY字に分岐する所に出る。分岐点の中央奥にあるピークが三角点所在地△1013.3m「中保津山」である。ただ山名が本当にこの名前なのかは不明である。十数年前に上ったときにこの山名のプレートがあった。ここから尾根沿いを歩いて上っても10分足らずだ。今回2度目に上ってみて三角点はあったが標識はなく、付近の様子も植林の暗い中でそのことは前回同様だが、測量されたらしき雰囲気がない。測量すると付近の樹木や草を刈り払い標識を立てるように見受けられるが、そういう痕跡がない。国土地理院は4等以下の三角点をあまり用いなくなってきているのか。登山道は送電線巡視路になっているので踏み跡はしっかりしていて草刈が行われているので信用度は高い歩道だ。中保津山を越えて尾根をさらに東へ1km歩けば一本杉峠に至るはずだが、今回は時間が無くあきらめた。
話をY字路に戻す。左の道は「私有地で立ち入り禁止」とあり、チェーンが張られている。この道は作業道で1km先の送電線まで進み下り出し、臥龍(権現)の滝のある井川へ行く県道方面へ下りかかって行き止まりになっている。
 Y字路を右にとる。500mも進むと道が下りだし、道がひどく荒れギャップ(クレバス、えぐれた溝)が多く、ダイハツ・ハイゼット660cc では道幅全体の中の通りやすい所を選んでゆっくり通過したが、たまに車底をこすった。オフロード車はがんがん通ったがこちらはまねできない厳しい道だった。4WDスイッチがあって助かった。この部分の道を上ることもしたが4WDでないと上れないだろう。1km下ると平坦になりついでに舗装までされている。見晴らしがよく送電線高圧鉄塔に沿って道は南南西に進む。舗装が切れるが道は直進している。そこの右から「川久保林道」が合流してくる。
 「川久保林道」は藁科川沿いの県道を湯の島から大間に向かい2km上って行くと、右に「川久保林道」の標識と上る道が見える。この林道は一応コンクリート舗装がだいぶされているが、クラック(割れ目)だらけででこぼこといっていい。しかし土道に比べればはるかに通行しやすい。4~5km上ると尾根の林道に合流する。途中幾度か作業道が分岐するが、そちらは通行禁止の標識があるので道を間違えにくいとは思う。(13年3月林道入口改修工事中で出入り不能。)
 話を尾根の林道の川久保林道合流点に戻す。さらに直進していくと送電線付近は眺めがよく高原の草原のようだ。草原を過ぎると道は下りだす。しばらく行くと「林道峯諸子沢線」の看板がある。しばらく下ると茶畑と人家のある所に出る。「雨降り松」の休憩所もある。ただ松の木は見当たらなかった。人家はあっても現在休憩作業用らしく無人である。ただここからの林道は道の状態がよくなる。普段から人が使っているからだろう。2~3km下ると平の尾集落に出る。ここからは急坂で狭いが舗装路となり、諸子沢の主要道に出て、藁科川沿いの県道に戻れる。
「平の尾」集落を下っていき大道島へ行く諸子沢本道に出る手前に「地蔵堂」があり、石仏も多数あり、古色が漂う。他にも藁科川沿いや諸子沢川沿いの道に石仏が見られ古色ゆかしい。

・吉祥寺(柿の平) 
・石塔(新) 
・石塔(新) 
・地蔵(新) 
・臼 
 大道島を目指す。自動車道の終点で堰堤の向こう岸がどうも峠入口らしい。
・一本杉峠上り口:はっきりしない 
???・頼朝石:未確認 
この奥?に頼朝石があるらしいが、20年以上前に上ったときもはっきりせず、堰堤工事が進み川岸がだいぶ削られ登山道もはっきりしない。わかる方お知らせください。

○~県道に戻り、城山橋を渡り、畑色方向に進む。~ 
城山橋を渡ったところですぐ右(北)に歩道を探す。畑色と能又川(よきまたがわ)の中腹にあった集落「藁山わらやま」、「道光どうこう」に向かう道であり洗沢峠に至るルートでもあるので、一応秋葉街道の枝道として何か道標等歴史遺物はないかということで探してみる。山尾根に向かう登山道の切通しを発見するが道標等はない。この登山道が今は廃村になった集落「道光」を通過しさらに畑色の別荘地奥の養鶏場に出られる道のはずであるが、今は手前集落「藁山」はなく、奥側集落「道光」も1軒と少しの畑だけが残っているようだ。
さて畑色方向へ舗装路を進む。さて藁科川に突き出すように丘がある。
・城山:藁科川に突き出す小山、城を築こうとしたが矢が対岸から行ききってしまうので築城をあきらめたという伝説がある。
・石道標(日向) 
掛川市在住の広谷氏や「日向の七草祭」で報告されているものである。対岸の中村の秋葉山道標と川を挟み対のようになっている。
城山橋より200m進み茶畑のある両側山のある城山の小さな峠を越えるところの右茶畑にある。
「従是 右往還 左秋葉道 天保五年甲午正月」。幕末明治期探検家:松浦武四郎「東海道山筋日記」はこのルートを通過している。この茶畑から尾根に取り付くが道は部分的にしか残存しておらず、強引に上る。途中滝を巻きその上部で沢を渡り上に上る。茶畑最上部の左下から作業道が伸びるのでそれを上る。そのうち作業道が下るので、尾根の旧道切り通しらしきを上る。廃屋小屋を通過すると上り道消失するので尾根を強引に上ると畑に出る。畑の左に上っていく道があるので行く。すぐ道は消失するが尾根を強引上りすると、畑色のメインストリート(主要道)舗装路に出る。10m先で舗装路は左に折れるが、尾根は正面なので正面上りの廃屋別荘地廃道に取り付く。右下に分岐する道もある。廃屋別荘地廃道を上って行くと新しい別荘地の道に出た。別荘地の道を上ると舗装路「林道畑色支線」に合流し、右(東)に養鶏場、左(西)に行くと山賊鍋ウッドカッター店前で主要道舗装路に出られる。どうも古道はこの合流点辺りで尾根に上っていったものと思われるが、現在まったくなし。山賊鍋店に行き舗装路に出て舗装主要道を東へ。尾根横に並行に進む。おそらく古道と同じルートではなかろうか。
話は変わるが、先ほどの養鶏場の下方向に行く道がかつてはあり、能又ヨキマタ川まで出られて途中に集落「道光」があった。昭和53年修正測量・国土地理院地図には人家があることが確認できる。現在、道は廃道か。
・蓄魂碑(日向 畑色)  
 別荘地の陽光台付近の尾根で別荘地入口横にある。かつては山神が祀られていたか。現在新しい「蓄魂碑」がある。隣に壊れた石があり山神なのか。もう1km尾根を進むと洗沢峠であるが、尾根下を通る舗装路があるので、尾根は廃道同然だが、私を含め物好きは強引に突っ切って峠に至れる。部分的には旧道切り通し残存。
この先で尾根に出て尾根左へ主要道、右に私有地林道、尾根の植林地内に取り付く。はじめは旧道切り通しがあるがそのうち消失、峠には1km。途中茶畑がある。
・大黒様、茶畑の神様(上杉尾) 
 尾根が茶畑になる箇所がある。真下に上杉尾の人家(おそらく上仲家、佐藤家)がある。茶畑に現代の大黒様があり、祀られたあとがある。設置は新しいが、祀られる行為は古くからあるのではなかろうか。あと500m強引にくぐっていくと、峠に茶畑、人家、お堂がある。
・洗沢峠(杉尾 洗沢) 
犬2匹にさんざん吠えられあとを付けられたが噛んでは来なかった。頂上にはお堂、三角点。北側の景色がよく見える。上ってきたのと反対方向の人家3軒(かつて2軒でもう1軒増えたという記事が東海道山すじ日記1869年に見えるので140年以上同一戸数ということか、現在住んでいるのは1軒だけらしい。1990年頃ここに住んでいる人と話をしたことがある。そのときは家の近くに地蔵が祀られていた。そのときは3軒とも住んでいたようだ。また2000年頃も話をしたことがあり、川根街道を調べるため茶畑から南の藪に入っていたことを思い出す。そのときは1~2軒住んでいたのかも。)の前を降りていくと峠の茶屋前に出て、国道362号線。国道を渡るとお堂があり、地蔵や秋葉山石道標が設置されている。ここからは川根街道主要ルートとなる。今までがサブルートといってよい。
*川根街道主要ルート近辺の歴史遺物紹介は「古街道を行く」鈴木茂伸(静岡新聞社)の川根街道を参照してほしい。
~上杉尾~ 
 先ほどの上仲家、佐藤家の下の方にお堂がある。
○観世音堂 
 堂内に多数の石仏が祀られており、境内に西国三十三所観音があるところをみると、三十三体の観音石仏ではなかろうかと思う。
・手洗石:佐藤 
・奉西国三十三所観世音菩薩 文化十□正大二月 
近くに火の見櫓もある。

~下杉尾~ 
 坂の上の県道から下杉尾に向かう舗装林道を2km進む。坂の上から杉尾を経て洗沢峠を目指す古いルートでもある。杉尾川を渡る橋と「杉尾川起点ここより300m上流」標識、この付近ヘアピンカーブにもなるところである。橋手前に川沿いに歩ける登山道が川に沿って上流を目指していく。これが下杉尾から上杉尾更には洗沢峠を越えて秋葉山に行けるルートの古道残存部である、そこで秋葉街道枝道の歴史遺物はないか入口付近を探すが何もない。すぐ奥は倒木で通行困難。引き返す。
舗装林道を1.5km進むと下杉尾に出る。その手前に古道から舗装路に出る登山道取り付き点らしきもあったが、特に道標等は見当たらない。橋手前右に高橋宅がある。ここに地蔵と七人塚がある。集落近辺の舗装路下に神社がある。
・地蔵:高橋宅前茶畑端にある。
・七人塚:高橋宅前茶畑に上るとすぐに屋敷墓4基があり、その近くに高さ70cmの石垣が縦50cm、横1.2m積まれている。上は小木が繁っているがかつては更地でその上にお供え物をしてお祀りをしたようだ。年2回春秋に行ったようだ。いわれは伝説「落武者七人が杉尾に落ち延び弓の稽古をしていたが切腹した。彼らを祀った所だと言う。みさきがりという。」、下の神社向こうは武者が弓の稽古をした的当て場という。
・子神社 
・石鳥居: 
・手洗石:昭和十八年 
・神社用地設置記念 昭和二十六年 
 神社前の道が旧道(古道)で川沿いを上りこの先の髙橋宅の裏に進み川沿いに上ると、この上の上杉尾に至るようだ。

???・池城、昔水があり池の主も住んでいたが、女性が汚れ物を洗い、大蛇と共に怒って流れ出ていった。どこか分かる方お知らせください。
・寺屋敷、小字マイガイト、278番地、畑の片隅に3つの石碑と一体の観音様があるそうだ。この近くに大きな杉の木があったそうで、安倍川から見ると尻尾のように見えたので、ここを杉尾という。坂の上の薬師様はこの木で彫ったという。杉尾集会所・火の見櫓より2箇所カーブを上ったところのカーブとカーブに挟まれた狭い所にありカーブ道の上下から見える。樹木の根元付近に石塔5基他破片がいくつかある。
・如来:文政三 
・石塔:安永五 
・石塔:元文五 
・石塔: 
・石塔: 
・石塔破片いくつか 


・道光 ドウコウ、藁山 ワラヤマ  
~城山橋まで戻り県道を遡上する。~
・松の平 
 下湯ノ島手前で林道入口が左にある。能又川(よきまたがわ)沿いの林道である。丸山橋を渡り進む。この辺はかつて日向の白髭神社(藁科八社、本社白髭大明神)があった松の平というところらしい。付近に地蔵型の墓石と四角柱型の墓がある。ここは能又川と藁科川が合流するところであることが河原に下りると一目瞭然である。

1.3km進むと右(北)の湯の島側の山に向かい上る林道がある。上っていくと、中腹の茶畑を経由しつつ行き止まりで、更に先を工事中である。ここで対岸(南)の日向・畑色の方を見ると昭和53年の地形図に載っている中腹の集落跡が分かる。東側集落「藁山」はすでになく植林ではないが枯草色で藪らしいことが分かり、*(これは間違いで藁山も家一軒と茶畑が健在である。)西側集落跡「道光」は家と畑がはっきりしていてまだ人の手が入っているらしい。では林道を下り能又川沿いの分岐地点へ戻り、奥を目指す。1km進むと橋を渡り家畜用飼料小屋があり、右へ本道で、左に作業道で関係者以外立ち入り制限になっている。
・道光 
元来た道を戻り、先ほどの林道分岐100m手前に川に降りていく歩道がある。これが西側集落跡に行く登山道で集落を越えて畑色の別荘地奥の養鶏場に至る道のはずであるということは、秋葉街道枝道でもあるので、何か歴史遺物はないか調べてみる。特に石道標等は見当たらないが、切通しだけははっきりついている。集落直前で竹林が繁りかいくぐることになる。1軒の家は閉まっているが作業小屋として常時使われているようだ。周辺の畑の一部も整備されている。まず集落西を確認する。城山橋から伸びてくるルートの確認である。はっきりしない。
茶畑の上に旧道登山道があるはずなので上ってみると切通しがついている。ここから上の畑色の養鶏場につながるはずだ。すぐに廃屋があり、それより上部は草木がかぶさるようになる。だいぶ廃道が進んでいるようだ。切通し以外遺物もないので引き返すことにする。
今度は先ほどの家の西側が道も広々して歩きやすそうなのでそちらに降りていくことにする。それにしても自動車が通る道だ。  
広い道に近づいて更にギョッ、すごい驚いた!!! 家の前にイノシシがいる。後ろ左足を縛られているが、道をほじくりやたらと動き回っている。なんとそいつが私に気付いた。私の方を見て私に近づこうと縛られた足でもがいている。ドキドキである。あいつに噛まれたりぶつけられたりしたら重症だ。でも顔をよく見ていると牙はなく、メスかな? 鼻がやけに大きい、イノシシってもっと鼻が細長いと違うんか? もしかしたら、イノブタか?イノシシと豚の合いの子?あいつジーと私を見てロープ目いっぱい伸ばし私に近づいてる。あのロープほどけませんように。おそるおそるかつ足早にあいつを無視するかのようにして家の反対側に回った。ほっとした。さっさと元来た道を早く戻ろう。きっとあいつこの家の番犬ならぬ番イノブタなのだろう。今思うと近づいたところで写真撮影しとけばよかった。このところニホンカモシカ、キジ、猿は見かけるがイノブタには驚いた。
ちなみに猿は川沿いの椎茸ホダギにかぶせてある金属ネットを器用に取り払い、中の椎茸を食いまくっていた。ホダギはすべて金属ネットがかぶせてあるにもかかわらず意に介してないというか、このネット代金とかぶせる手間ひまは大変だろうに、こりゃ農家はたまらん。ニホンカモシカは人と出会うととりあえずジーと見つめてきますので、動きを止めすばやくかつおどさぬようにカメラ等を準備し望遠で撮影しましょう。うまく行けば2~3m距離で出会うこともあります。ただ逃げるときはすばやいというか、あとでカモシカがいたところに自分で行ってどう動いて逃げたか同一ルートを少し試せたら試してみましょう。何を言いたいかというと、人が歩いたり立ったりするのも困難なところを平気で走っていくので、その能力の高さに驚きます。追いかけることは不可能です。あなたが転落死亡します。キジはとっとと逃げるので撮影できませんでした。猿もすばしっこいです。ただこのところカモシカとの出会いが多いですね。天然記念物こんなに増えて大丈夫なのでしょうか。今のところ熊との遭遇はありません。そのうちあるかな……。

 ちなみに後日ここでの茶園等畑の管理をしている湯の島の小沢氏に出会って道光と藁山を案内していただき、このイノシシ一件も聞いた。
あのときの動物間違いなく野生のオスイノシシだそうで、ちょうどこのときわなに掛かったイノシシを撃ちとめてもらうためハンターを呼びに行っていたそうである。夕方ハンターにより撃ちとめたそうで、肉はかたいので捨てたそうである。牙は小さいながらも確かにあったそうでオスである。イノシシに襲われていたら、今頃ここに私はいないかな…。
藁山と道光間のルートは沢の辺りで道はないそうである。どうしても沢で道は崩壊してしまう。
小沢氏の案内で道光の石造物所在地を確認できた。集落西側の作業道すぐ上であった。ここに隣り合った平地が2箇所あり、神明社と曹洞宗学恩寺があったところのようだ。その平地の上の隅に石塔が祀られている。(『日向の七草祭』p3「3 道光に残る石造物」と同じである。)ちなみにp2「2 道光の景観」に写っている小屋は小沢氏の休憩所で電気も通っている。茶園は同氏の管理であり、その中に墓石もある。
・地蔵:貞享五辰年十二月廿三日 □□村 佐藤、1688年元禄元年 
・不動明王:享保二十□□、 1735年
・馬頭観音: 
・壊れかけた石:おそらく五輪塔か宝篋印塔と思われる。
他に茶畑内にも墓がある。
・墓石:明治廿七年 徳巌良禅□ 徳應貞壽□  
 
 他の墓石は子孫が移転したそうで主に日向陽明寺だそうである。ちなみにこの石造物後ろに立てられている卒塔婆は小沢氏が陽明寺からもらってくるそうだ。
道光は天明八(1788)年の文書によれば家数15戸(一説に20余戸)とある。山田長政の母の出生地という伝承もある。宝暦六(1756)年、奉公人として落ちぶれた主家に尽くしたことで町内の推薦で駿府町奉行所から褒美をもらった忠僕八助も出身者である。(忠僕八助の碑はJR線隣の南安倍の八幡宮にある。)陽明寺の開山の雲叟も出身者である。しかし文化年間(1804~17)には滝右衛門一人在住で、その直後無住。明治初年日向村合併。昭和22(1947)年開拓入植開始、しかし以後無住で現在小沢氏が通いで管理。
・藁山 
この後、小沢氏に車で道案内してもらい藁山へ行く。途中城山から洗沢峠へ徒歩で上ったときに横断した林道がこの道であることを知った。藁山は現在無住だが1軒だけ残っていて、某氏息子が通いで茶畑等管理しているとのことだった。昔は20軒ほどあったが生活困窮で天明年間に6~7軒に減少し、以後無住。明治初年日向村合併。神明神社がある。
『駿河国新風土記』著者新庄道雄は萩多和城の藁科氏の居所が藁山だという説を述べている。
 藁山には墓石や地蔵、祠が残されている。車を駐車した藁山西側入口近くにある墓石から紹介する。これは『日向の七草祭』p16「1-2 藁山に残る墓石群である。
・宝篋印塔? 
・石塔 
・墓石:江戸期風 
そこから東に5mでまた墓石がある。
・墓石:小永井 明治廿二四月、四角柱連立式の近現代の墓石、 
・墓:小長井 
・墓:地蔵:童子 
そこから東10mで地蔵と祠がある。
・祠 
・日切地蔵 大正五年十一月:歯痛地蔵:あごなし地蔵  
・地蔵:右の日切り地蔵の左にもう1体安置されている。 
・手洗石: 
・焼香台のようなもの? 
そこより30m上 
・祠:多分、神明社 
神明社のすぐ手前を横切りアカミチが上の畑色に上っていく。しかしすぐ上で崩壊している。アカミチを下にたどっていくと植林内に入っていく。そこも平坦地がありかつての人家の跡である。ただその下へは道は不明である。横へ行く道も細い。

~林道から県道に戻り湯の島を目指す。~ 
○下湯ノ島 ゆのしま  
13年3月に県道集落手前に石塔類合祀場所が作られた。
○石塔類24基 
・庚申塔 昭和五年 
・庚申供養塔 天保四癸巳年 
・庚申塔 昭和参年 
・庚申塔 昭和三年 
・庚申塔 昭和二年 
・庚申塔 昭和八年 
・庚申塔 昭和四十四年 
・庚申供養塔 大正九年 
・庚申塔 明治四十一年 
・庚申塔 大正九庚申年 
・庚申塔 昭和十七年 
・馬頭:昭和十四年 
・馬頭観世音 大正十三年 
・庚申塔 昭和廿一年 
・庚申塔 昭和十七年 
・庚申塔 昭和二年 
・庚申塔 昭和三十九年 
・西国 奉納経 四国 安政(正が上、マイが下)  
・石灯籠:昭和五年 
・手洗石:昭和四年 
・地蔵:虫歯守護あごなし地蔵大菩薩:、子供の歯痛を治してもらった願果しに建立したもので、藁山のものの方が古い。 
・?馬頭:明治廿一年 
・?馬頭:湯本小太郎 
・馬頭観世音 昭和三年 
湯島橋を渡り左に石仏がある。
・馬頭観世音 昭和十二年 
 道を上っていくとお堂がある。
・琴比羅神社:金比羅堂  
 その先に墓地とお堂がある。
・玄国堂 宝積寺 
 虚空蔵菩薩:木製:江戸期、
・手洗石:明治廿一年 
・玄国堂紹介説明版:玄国和尚は明和安永の頃(1764~1780年)の湯島村宝積寺の住僧なり。生国は甲斐の国西八代郡大島村(身延町、JR身延線甲斐大島駅)なり。出家して晩年衆生済度のため諸国行脚の旅に出でたり。途中湯島村佐藤彦右衛門宅に止宿す。「やんれやんれ」と声をかけて歩く程なればこの時相当高齢なるべし。
 和尚の徳声まことに高く時には近縁の者集まりて法話を聞き、ますます信仰の念を深める者多し。和尚は又この里の人情厚きを喜びて静かに老後を宝積寺にて養い居たり。当主彦右衛門は和尚に随喜すること特に厚く風呂の沸く毎に請して優遇したり。又ある時は和尚自らそばを作付けしてその収穫を彦右衛門に依頼せり。「彦右衛門そば拾いに来たれり」と言いしに和尚は「そばを拾うと言わずそばを刈ると改むべし」と笑いて語りしとか。現在この土地にそば拾いの呼称あるを思えば他国より来たれる和尚にはこの方言奇異に感ぜられたるべし。和尚は一朝翻然として悟道するところあり。即ち信徒を集めて後事を託し「吾れ滅後に於いて浄心を専らにして吾名を唱うる衆生あらばもろもろの苦悩を解脱し必ず安心を得せしめんとの遺書を残して入定せり。(生きながら身を棺に入りて土中に埋葬すること)老若男女泣きて和尚の入定を止むれど決意の程固く如何とも止め難く如何とも止め難し。時に安永四(1754)年二月二十七日行年八十三歳なり。その後七日七夜墓の中より念仏唱名の鐘の音聞こえたりと。
 彦右衛門の悲嘆見るもあわれなり。終生只管和尚の意を守り供養を怠らざりき。嘉永元(1848)年七月二十日行年九十六歳を一期として逝く彦右衛門の法名潤屋百歳信士と号す。
 和尚の生前「彦右衛門よ、死後は吾傍に来たれ」と言われしとて和尚の墓近くに自ら墓所を定め家人に吾れ死後はここに埋葬することを話せり。現に和尚の墓近くに彦右衛門の墓あり。如何に追慕の情深きを知るべく吾里の信仰美談なり。
 玄国堂は和尚の祠堂にして現在の建物は明治三十五(1902)年の建立にしてもと宝積寺境内に在りしを遷せるものなり。此の祠堂に安置せる和尚の尊像は当村孫右衛門村民に謀り当時鍵穴村喜左衛門方に逗留せる仏師某に依頼彫刻せるものなり。明治初年に一度修理せしことなるものなり。
 往時病難災厄ありし時村民此の堂に参集し尊前にて光明真言を唱え一心に祈念せり。心願成就霊験あらたかなりと。
 今日尚玄国堂に香華の絶ゆることなきは昔より如何に栄誉の的なりしか推して知るべし。二月二十七日は毎年祥月供養せしが後に春彼岸中日に変更し今日に至る。当日は本寺陽明寺住職来堂し法要を営み併せて無縁仏の施餓鬼供養を行う。因みに当日信者に配る玄国和尚尊像のお札版は当村庄右衛門の作なりと。 

・和尚たちの墓:「潤屋百歳信士」墓石が右端にある。 

・墓地やお堂前の歩道が旧道(古道)残存部である。上湯の島に続いていて、約600mである。
はじめ200mは石垣で道の崩壊を防ぎ快適な道だが、それを過ぎると道が崩壊しかかっている沢を渡り、ガレかかったところを通過することになる。今のところは通過可能だが整備しないと徐々に崩壊が進むだろう。上湯の島の市営温泉駐車場の真上に出る。ここは峠みたいで急に上湯の島集落が見え、枝尾根をまたぐ形になる。炭焼き小屋跡の石垣を組んだ穴が見られる。標高はこの先の飯綱神社と同じぐらいの高さだ。集落に降りていくには林道の作業道に下りればよいが、かつては茶畑に付いている石垣のある道が本道だったのではなかろうかと思う。集落自体がかつては川や県道より離れたもう少し上にあったのだろう。裏山の飯綱神社程度の高さに村があったのかもしれない。今は川沿いの県道周辺に集落が移動したと考えたほうがよかろう。

○上湯ノ島 
市営湯の島会館前の民家に地蔵がある。
・地蔵:
民家裏山に神社がある。
・飯綱神社 
・石段:安政七年 
・石鳥居:□□□十三□□□ 
・手洗石:慶応戌辰 
・祠 
・五輪塔:宝篋印塔、これは古そうです。神社裏の周辺は畑でやや平坦で、ここに集落があったのかも。 
近くの墓地に石灯籠がある。
・石灯籠2: 
 県道川沿いの川に下る道があるところに石塔がある。
・庚申塔 昭和五年 
・渡河地点:上湯島と大間:なぜここに庚申塔があり、川に下る道があるかと考えると、ここで川に下り、ちょうどこの辺りの水流が弱く、渡りやすく、渡った先の対岸には茶畑があり、上って行ける歩道がついている。おそらくここがかつての渡河地点だったのだろう。今はここより100m上流に大間に行く湯島大橋がある。まあ庚申塔は川に下る道の横が空いていたのでたまたま祀っただけのことかもしれない。
・湯の島温泉の由来:大間に信州高遠から来た武士が住み着いた。藁科の村は羽鳥しかなく大間までは大きな距離があり大間ということになった。その弟が大間を訪ねる途中湯が湧くのを発見し温泉にした。江戸期繁盛したが、あるとき武士が遊女を切って首を温泉に投げ入れてから湯が止まった。地名は昔湯島だったが、同じ地名があることから、湯の島とした。

 ~県道はこの先湯島大橋手前で右:大間・笠張峠と左:楢尾・崩野・八草に分岐する。
左:楢尾・崩野・八草方面をとる。最初のカーブで石塔がある。
・庚申塔 道路開鑿記念 大正十三年 
すぐ次に右:楢尾への分岐があるが直進し崩野・八草方面をとる。

○崩野 くずれの 
崩野への中間辺りの沢横の道路沿いに石塔がある。
・弘法大師 道路開鑿記念 大正十五年
集落への一つ手前の泉沢橋のその手前のカーブ地点に祠がある。
・地蔵: 
崩野 登り尾集落直前の尾根途中にお堂があり、地蔵が祀られている。
・地蔵堂:延命地蔵:説明看板:昔、子供に幸せ薄い村人が、別の場所で朽ち果てていた地蔵を、この地に移し供養したところ、子宝に恵まれたといわれる。以来子供を守る地蔵と敬われている。縁日旧暦12月24日(現在の暦だと1月末から2月初め頃)

*旧暦について一口メモ
旧暦の日にちを今の暦に直すと毎年日付がずれるので毎年違う日になるはずです。単純に計算できません。およそ40日ずれるといわれますが、これもおよそで毎年こうとはいえません。旧暦は19年に7回、1年が12ヶ月ではなく、13ヶ月になるという大胆な暦で、こうでもしないと、真夏に冬のはずの正月になりかねないからです。旧暦は月の満ち欠けで数えていて、一ヶ月は平均29.5日で一ヶ月は29日か30日なのです。12か月分だと、今の暦より11日少ないので、これで15年も続ければ真夏が正月です。そこで19年に7回13ヶ月になる閏月という制度があり、季節と日付がずれないようにしてます。約3年に一度といえます。例えば七月が終わると閏七月になり、それが終わるとやっと八月になるわけです。この閏月も法則がありますが、例年同じ月ではなくもう少し複雑なのでややこしいです。詳しく知りたい方は。他を調べてください。ネットでも図書館でもどうぞ。ちなみに1年が13ヶ月だと月給取りのサラリーマンは1回得しますね、だからこそ明治5年明治新政府は財政難で、公務員への13回目の給料支払いをやめるために今の暦にしたといわれます。
 
~崩野の中心集落に入る。集会所先のカーブ崖上に石塔がある。 
・庚申塔 大正九庚申年 
・奉納 庚申供養塔 明治五年 
・庚申供養塔 昭和□年 
更に道を上っていくと
○宝光寺跡 
・(三)界萬霊塔 大正十四年 
・三夜燈 安政四年 
・石塔: 
・六地蔵:六体 
・地蔵: 
・五輪塔 
・馬頭: 
・石段改設 明治拾七年 
○観音堂 
金属製:千手観音像:江戸期:擬古作、
 かつて月小屋(女性が生理中こもる家)も付近にあったそうだ。
・手洗石: 
・石灯籠: 
○白髭神社 
・石鳥居:氏子安全 御大典記念 昭和三年 
・氏子安全 
・石鳥居の根元片側が埋もれている
・石段:昭和五年 
・手洗石:祈皇軍健捷 昭和十九年 
・石灯籠2:奉納 白髭神社 御宝前 明治廿七年 
・祠2: 
・手洗石:明治十一年 
この裏山を登っていくと智者山・天狗石山に至る。
崩野集落を下っていき、かつて楢尾に渡っていた所、今は朽ち果てた吊り橋の残骸があるところから上流を登っていくと、「崩野川右岸支流に朝日滝:落差30m、3段、別名:崩野滝」(ネットのサイト「静岡県の滝」より)というものがあるようだ。吊り橋のところから右岸の登山歩道は砂防ダムがいくつもできて消滅しているようだが、左岸に林道が出来ているので1kmほど遡行できる。林道1kmで終点でとくに標識等がないのでどこが朝日滝方向か不明。しかしその辺りから沢が3つに分かれているのが分かり、林道は左岸の支流砂防ダム前で終点であるが、対岸の右岸に流れ込む支流が3段ほどに分かれ滝状に落ちている様子が木の間がくれに見える。落差は合計30mほどかなと思える。もしかしたらあれが朝日滝かな。吊り橋残骸から1kmほど上流の右岸支流である。
またここからさらに1km沢奥を詰めると大野滝というものがあるように地形図では記入されているが、ネットのサイト「静岡県の滝」では消滅と記入されている。

○八草 やくさ 
 現在無住、かつて7軒あった。無人の民家が4軒ある。もう1軒はお堂である。集落手前に智者山登山口を示す標識があり、集落奥を指しているが、その前に自動車道舗装路終点地(未舗装道路は更に50m奥に進む。)の右上が山斜面で上って行く登山道がある。1分上ると杉桧植林地内に集落墓地があり、真下が自動車道舗装路終点地である。
・墓地:上湯ノ島の玄国茶屋に勤めている八草出身のご婦人の話によると、60基ほど墓石はあり、石碑を根元に抱えた栂の木があり、近くに女杉もあるとのことだ。しかし墓地は改変されていて、だいぶ空き地になっていてまとめて積まれた墓石や破片を含めて30基ほどと思われる。おそらく大半を移転したと思われる。しかも墓地周辺の古い樹木はことごとく伐採され、残っているのは植林ばかりである。
 無論根元に石碑を抱えた栂の木は不明であるというか、おそらく伐採されたものと思う。
女杉であるが、付近には植林された杉ばかりでいわれのありそうな木はないので、伐採されたものと思う。
????・女杉、池の段:杉と池の中に女の大蛇が住んでいたが、暴風雨か女が洗濯したため出て行ったという。どこ?池の段は裏山というか智者山登山口付近の平坦地のことか?女杉は墓の付近らしいが不明。
・旧道(古道):墓地の下で自動車道より上に道幅30cm~1mの登山道が水平についている。自動車道より10m上を水平についている。おそらく登り尾集落に向かう旧道であろう。自動車道ができる前の生活道路、旧道(古道)であろう。今は植林地内の作業道であろう。使われなくなり徐々に崩壊していくだろう。
~一旦墓地から無住集落に向かい進んでいく。
途中建物がありお堂である。 
・神明神社:お堂 
・手洗石: 
 この裏山の尾根先端頭頂部に神社があることに地形図ではなっているので行ってみると、参道は道がはっきりあり、頭頂部は平坦で建物跡が見られる。ちなみにこの尾根頭頂部と先ほどの崩野延命地蔵堂のある所は同一線上(東西方向)の尾根である。かつては尾根道でつながっていたのではなかろうか。この尾根を2~3分東に下ると先ほどの墓地に出ることができる。
・石段跡: 
・建物跡の礎石か周辺をかためた配列石: 
 
この裏山尾根を西に登っていくと尾根を一旦北に回り込むが、その先で尾根に取り付き西に上る道があり、そちらへ智者山登山用矢印が出ている。
 ちなみにそこから杉桧の植林された尾根を下に下る切通しがついていて、多分下の登り尾の集落につながっている旧道と思われる。
 八草内の植林地で智者山、崩野、八草民家の分岐点近くに植林より低い火の見櫓が見つかる。
・火の見櫓:今は周辺の杉植林より低い。かつてここが見晴らしよく周辺が畑か人家だったという証拠だろう。
 八草から智者山を目指すと直接智者山山頂ではなく、一旦智者山林道が通過する尾根に出るはずだ。そこから尾根を詰めるか、林道を少し詰めてから標識に従い尾根に取り付くかだと思う。そして林道に出る辺りに、四角柱の石道標があるはずだ。林道工事中に一旦不明となり、新聞記事まで出て所在確認が行われ、どなたかが預かっていたことが判明したそうだ。今はもとの場所にあるのだろうか。
 八草無住民家を詰めていくと最後の民家の奥は大きく崩壊していてもう進めない。最後の民家前も地滑りで地面に段差がいくつか生じている。さも地滑りの見本のようだ。
 無住民家の庭先に布団類を敷き並べて土に戻そうとしてある。子供用ビニールプールの破片もころがっている。別の植林内の家は開けっ放しで家屋内に古い大型のアナログテレビがぽつんとある。周辺には洗濯機やバケツがころがっている。かつてここに人々が生活し人の生活の営み、家庭の団らん、幸福が、子育てが、悲しみがあったのだろうに、こうして廃墟と化すと、寒々とした悲哀感が押し寄せてくる。
遠い未来、東京や静岡といった都市が廃墟と化したとき、それを探索する人は20世紀から21世紀の人々の営みの痕跡に人生の悲哀を感じるのだろうか。
*無住集落を訪ね歩くのはあなたの自由でしょうが、今でも所有者や管理者はきちんとあり、そこで生まれ育った人にとってはかけがえのないふるさとでしょうから、現状を改変したり汚したりする行為は一切しないようにしましょう。
無住集落内を一本の沢が流れ下っていくが、途中明らかに沢を付け替えてあり、本来の沢には石垣があり水が流れていない。おそらくわさび田として利用したため水量調節のため古タイヤを積み重ねて沢をせき止め、横に水路を掘り流れを変えたものと思う。
・昔髙橋家は井川金山の関所と智者山神社の別当(禰宜ネギ、神主)だったという。

八草から ~楢尾、川合、川合坂、本村への分岐に戻る~
○楢尾、川合、川合坂、本村 
 分岐を過ぎ楢尾への橋を渡る。橋の位置は改定されている。渡るとすぐに祠がある。
・地蔵:明治七戌年 
 ~道を上っていくと最初の集落:川合であり道端に石塔がある。
・石?
・地蔵: 
・墓石: 
~茶畑の上に石祠がある。
・石祠:
・石柱:奉納 稲荷神社之元屋敷 明治四十年 
  ここに稲荷神社があったということか、住民に聞いてみると、
???・住民によれば神社は林道をもっと上った山の中腹にあるそうだ。未確認。
~次の集落:川合坂の上に神社がある。神社に上る道の近くに石塔がある。
・庚申塔 昭和七年 
~上っていくと尾根付近に神社がある。
・稲荷大神 
・石鳥居:明治百年記念 
・手洗石:明治十五年 
・石灯籠2:昭和五十一丙辰年 
・祠:稲荷 
~楢尾への舗装路を進む。
・海前寺 
・地蔵: 
・板碑:この寺に学びし頃の思い出の歌 
 ~大間への舗装林道を進む。
・楢尾の石仏、ならおのいしぼとけ 
 舗装林道を尾根辺りまで出て尾根に杉巨木が見える所、大間や益田山への分岐200m手前である。林道は尾根より5m下を通過しているため、尾根伝いの旧道(古道)上の丸石を手向ける杉巨木のあるこの場所はそのままである。祠も祀られている。峠の語源には峠越えの安全祈願を手向ける→手向け→たうけ→たうげ→とうげ峠になったという説もある。柴を手向けることが多かろうが丸石を手向けることもある。この舗装林道が開通したことでかなり旧道は消失したようだ。丸石は願掛けやお果たしでもある。
 もう200m進むと分岐点がある。直進で益田山、七つ峰方向へのダートの楢尾智者山林道、右折で大間である。大間へは部分的に旧道が残存している。
・石道標:「これよりみぎ大まみち」四角柱で頭頂部は四角錐である。
???・益田山:どこの山? 七つ峰への前衛峰? 

○大間 
・大間の石仏、おおまのいしぼとけ、大間の古道(旧道) 
 石道標のある分岐点から、しばらく林道を下ると大間との境らしい。この辺り林道より5m上に丸石が見られたようで大間の石仏だそうだが、探しても一つも丸石は見つからなかった。意図的に移動されたものと思う。ただ林道より上部を探すと旧道(古道)残存部はあり、しっかりした道も部分的にある。その中に楢尾の石仏を彷彿とさせるような峠のような境目のような大きい木が4本ある場所があったので、私としてはそこを推定地としたい。先ほどの分岐点より700m進んだ林道地点の20mほど上の尾根である。旧道は上り下りの境目で道の左右に杉2本、モミかツガが2本で計4本大木である。祠や丸石は一つもないが、楢尾の石仏と風情は似ている箇所である。この近辺に古道らしさがよく残存している。ただ20~30年前まで子供が楢尾小学校に通う通学路として安全に整備されていたのだろうから、昭和期終わり頃の姿をとどめているという思いも必要だろう。
大間に向かい旧道切通しをたどると数回林道と交錯し断ち切られるが沢を2回またぎ林道と違う箇所へ向かうのが分かる。その先急斜面の尾根に出て真下に砂防ダムが見えるところで、旧道は崩壊していた。この急斜面では致し方ない。おそらくここで七曲りの巻き道になり急斜面尾根を下っていったのだろう。ちなみに大間の林道出口には砂防ダムがあるところは見当たらないが、1本北の沢は砂防ダムがあり、急斜面の尾根があるので、おそらくここの真上であろう。付近を探したが旧道出口らしきは不明である。崩壊しているのか、私の探し方がまずいのか。
 大間集落直前の福養橋手前に石塔がある。
・庚申塔 昭和九年 
 大間集落に神社がある。
・白髭神社 
 不動堂:木製:二体不動明王、
・石鳥居:昭和五十五年 
・祠2:  
・石製家型道祖神:明治□年 
・石灯籠:慶応四年 
・庚申供養□ 元治二□ 
・庚申供養塔 大正九庚申□年 
 まあ慶応四年(明治元年)も元治二年(慶応元年)も公式にはないが、石屋が彫ってしまってから年号が変化したと思えばよいのだろう。まあ昭和元年は1週間で終わり、昭和64年は1週間しかなかったしね。こういう年号違いは時々見られるが一つところで二つも見られるというのは初めてだ。ここではないが他には萬延二年(文久元年)もよくある。
・火の見櫓 
○福養の滝 
大間集落左上の沢というか先ほどの福養橋上流にある。安置されている石塔は2基である。
・大滝不動 
・不動明王 
・説明看板:昔、信州高遠乾の町(伊那市高遠町)から三人の落武者が逃れ、この地に住み着いたのが大間である。この地には滝があり高さ100m、幅4m(現在では高さ135m、幅3.3mとされる)の滝の水は滑らかに岩を這うように流れ飛び散る水玉は陽光に映えて、宝石を散りばめたように美しい。またこの辺りは不動尊が祀る神池とも伝えられる。この滝に毎年五月五日の午前十時頃一頭の馬が滝つぼに漬かり毛並みを整えていた。この馬はのちに栃沢の米沢家で飼われて宇治川の先陣争いをした俊馬「磨墨するすみ」となった。村人はそのためこの滝を「お馬が滝」と呼んだ。1909年当時の安倍郡長、田沢義鋪よしすけが井川村から郡内調査に来たとき、滝の確かな名称のないことを残念に思い、岐阜県養老町の養老の滝に似ているので「福養の滝」と名付けられた。(現在は似ていないといわれる)
 名馬「磨墨」伝説とも重なる伝説の滝であり、静岡市内では有名な滝である。

~湯島から大間に上る県道沿いにも石仏がある。
・?馬頭:古びていて判読不能。
・川久保林道分岐点:13年3月工事中、出入り不能。
・地蔵:おおはたけ橋袂にある。「大正十五丙寅年 霊峯山人建之」 
・林道野田平線分岐点:先ほどの楢尾大間の林道である。これより上はすでに記入済み。

~大間を越えて、この先、県道南アルプス公園線は、尾根を越していく。その尾根を右に進めば一本杉峠や諸子沢・平の尾方向に下っていける。その先で地すべり地帯を通過し笠張峠で県道井川湖御幸線に合流する~ 
*林道一本杉線に関しては、諸子沢の平の尾・地蔵堂辺りを参照してください。 

・参考文献 
・「静岡県指定無形民俗文化財調査報告書 日向の七草祭」静岡市教育委員会 ‘06 
   かなりの部分を引用させていただいた。
・「駿河の伝説」小山枯柴:編著、宮本勉:校訂 旧版:‘43 新版:‘94  
・「藁科物語 第3号 ~藁科の地名特集~」静岡市立藁科図書館 ‘94 
・「藁科物語 第4号 ~藁科の史話と伝説~」静岡市立藁科図書館 ‘00 


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 09:28Comments(0)古道

2012年07月10日

☆VHS『歴史の道』日本通信教育連盟 全10巻

☆VHS『歴史の道』日本通信教育連盟 全10巻
 私も『古道を行く』という本を出版し、古道マニアの一人として、このようなビデオがあることはうれしい。とりあえず北海道から沖縄までにある古道をビジュアルに紹介した功績はあろう。この目で古道の一端を見られてうれしい。そしていつの日にかそこに自分がいることを念じていた。今後さらに古道はメジャーになっていくだろう。
映像内の浮世絵や写真が3D画像になり立体感が得られる。「アバター」より古いものなので、多少立体感は落ちるが、ごく初期の試験作品として、技術開発途上のものとして楽しめる。

○・VHS『歴史の道  第1巻 北海道・東北』55分 
・旧福山街道:松前町(福山)から松前半島の日本海沿岸沿い北上檜山郡上ノ国町に通ずる。中世北海道歴史資料勝山館遺構等残る。上ノ国~赤坂~虎ノ沢~松前(福山)~函館。
 虎ノ沢:昔はヒグマが見られた、幕府の巡検使が羆を見て騒ぎヒグマが虎の如く速く逃げたためといわれる、伝説:十兵衛石:彼が戦って勝てなかった相手。15世紀に和人ともめる、八幡牧野:八幡菩薩祈る、1457年アイヌのコシャマイン軍と武田信広の戦い、コシャマイン優勢だったが最終的に和人勝つ。赤坂:赤土はこの戦いの名残という、足洗川:旅人わらじ洗う、勝山館跡(武田信広館跡)、和人館12、客殿跡、館神八幡宮跡、鳥居跡、空堀、沢から用水でため池へ、3万点陶磁器かなり高い文明、数万点金属品木製品、夷王山、夷王山墳墓群:武田氏柿崎氏墓、大きな和人社会、武士中心、海産物本州必要で和人増加、上国寺: 武田信広菩提寺、上ノ国八幡宮、
・奥州街道:みちのくに通じる重要街道、簑ヶ坂の急坂は明治天皇行幸時近在青年が馬車押し上げたという。54宿。盛岡~簑ヶ坂~三戸~高山峠~五戸~青森~三厩。蝦夷地に通ずる。
 大蛇が簑に化け旅人を引きずり込んだという伝説。標高180m籠立場:岩手青森県境まで100m急坂、明治天皇巡幸記念碑、緩やか下り坂200m一里塚、三戸:南部藩発祥地のち盛岡へ、三戸城復元、宮坂、なだらか単調に続く長坂、一里塚残存多し:所有者不変でそのまま、高山峠H277m、展望名久井岳、長い下り坂、2km先で赤松古木、浅水城跡:南部氏、宝福寺、鳥内坂トリナイ、五戸町:宿場町・代官所、江渡家住宅:寄棟作り・国重要文化財・代官下役、追分石、
・羽州街道:~矢立峠越え~、秋田青森県境の矢立峠(杉峠:天然秋田杉)は急勾配、吉田松陰もその険しさを詩に詠む、碇ヶ関関所では米や物資の移動を厳しく検査した。秋田~能代~大館~矢立峠~碇ヶ関~弘前~青森。
 長走の風穴:気孔冷風真夏10度高山植物H165m、矢立峠H258m難所、矢立温泉、吉田松陰「漢詩」、相馬大作跡地:南部騒動、急な下り坂参勤交代有名人通過、碇ヶ関関所:口留番所:物資監視、遠見番所、下番所・上番所、碇ヶ関温泉入湯規則、
・秋田街道:~国見峠越え~、盛岡城下から雫石、仙岩峠、国見峠を越え秋田城下を最短で結んでいた。平泉藤原氏全盛時代は生活密着重要道。盛岡~雫石~仙岩峠センガン~田沢湖町~秋田、
 橋場宿(雫石町):番所、坂本川沿いに西、南部藩は馬名産地で藩直営牧場、馬買い衆往来、人馬通行為道整備、難所は南部領と秋田領境の南に仙岩峠:「是より南西秋田領」、北に国見峠:「是より北東南部領」で二つは国境山道でつながる、助小屋跡地:相互の荷物を信頼して預ける、盛岡城跡、仙北町、六枚野一里塚(田沢湖町)、田沢湖、
・北国街道:~三崎山越え~、山形県酒田から庄内地方の日本海沿岸沿いに秋田県象潟に通じる街道、県境の三崎山越えは芭蕉他多くの文人墨客が日本海の潮騒を聞きつつたどった峠道。酒田~遊佐~三崎山~象潟~秋田。
 最上川、酒田市、出羽随一港、吹浦海岸、十六羅漢岩:明治初期22体石仏刻む、奥の細道三崎峠、駒泣かせ、坂道、石畳、大師堂1493年建立、有耶無耶の関跡、タブの木、供養塔:領土争い死者、一里塚、象潟:天下の絶景:遠浅海に小島多数、向こうに鳥海山だが1804年海底隆起で陸地、カンマンジ(虫甘)満寺、「象潟や雨に西施がねぶの花」芭蕉、

○・VHS『歴史の道  第2巻 東北』60分 
・出羽・仙台街道:~中山越え・山刀伐峠越えナタギリ~、宮城県鳴子町から山形県最上町・尾花沢市に至る街道、奥の細道での通行している、中山越の先に山刀伐峠越えという難所、最上街道とも、仙台~鳴子~尿前~中山峠~最上~酒田
          ↘山刀伐峠~尾花沢~山形へ 
 鳴子温泉:こけし、尿前の関、松尾芭蕉「此道旅人稀なる所なれば関守にあやしめられて漸として関をこす」奥の細道、源義経を藤原秀平が迎えに来た伝説、コブカザワからオオブカザワへ、境田村、「大山のぼって日既暮れければ封人の家を見かけて舎を求む」芭蕉、封人の家(旧有路家住宅):国境守る役人:土間に三つ厩:「蚤虱馬の尿する枕もと」芭蕉、山刀伐峠:ハケゴという籠を二つに切った形の峠、10km、「高山森々として一鳥声きかず木の下閤茂りあひて夜る行がごとし」奥の細道、27曲がり、子持ち杉、子宝地蔵堂、代官領境、
・米沢・福島街道:~板谷峠越え~、米沢から板谷峠越えで福島につながる街道、米沢藩専用の参勤交代道として利用、板谷峠から李平の旧街道の石畳、米沢~板谷峠~李平~福島、
 米沢城跡、上杉家墓所、御霊屋:国史跡、米沢城下絵図、普門院、上杉鷹山:藩財政建て直し、板谷宿、本陣代わり板谷御殿、大野九郎兵衛の墓:伝説:赤穂浪士が上杉家に逃げる吉良を討つため待ち構えたが来なかったので死んだ、板谷峠H760m、米沢藩だけ参勤交代ここ通過、物資輸送、旧米沢街道石畳、李平宿場跡、李平村絵図、あべ家中心に40戸、人馬栄えたが今草むら、泉安寺跡の墓:森林内廃墟墓地・明治4年廃寺、明治32年鉄道開通・3年後大火で廃村、庭坂宿から先奥州街道合流。
・会津街道:~束松峠・滝沢峠越え~、会津若松から越後新発田へ至る道、海路佐渡に続く、会津若松では滝沢峠・戸ノ口原古戦場、戊辰戦争舞台:白川街道筋にもつながる。
 会津若松、鶴ヶ城、                 
 新発田~束松峠~会津若松~滝沢峠~(白河街道~)白河
                 ↘三春 
会津坂下アイズバンゲ、恵隆寺:仏像・立木観音:千手観音、天屋本名テンヤホンナ:道の左右別名、ホンナには肝煎斉藤家:肝煎は庄屋のこと、上り坂にかつて敷石だったが馬車邪魔で剥ぎ取られてない、地蔵の茶屋跡、石仏、石水槽、三本松、一里塚、束松:天然記念物、先300m束松峠、展望台:会津盆地、
白河街道、会津若松、旧滝沢本陣、戊辰戦争弾痕跡、滝沢峠道昭和40年代復元、石畳、参勤交代、佐渡金山運搬道、十八人之墓、戸ノ口原古戦場、白虎隊、
・八十里越え:越後吉ヶ平と会津、福島県只見町を結ぶ街道。平家追討失敗:以仁王、官軍に追われた長岡藩家老:河井継之助も通った。長岡~吉ヶ平ヨシガヒラ~鞍掛峠~木ノ根峠(八十里峠)~入叶津、26km、一里が10里に相当するといわれた、
以仁王流浪伝説(富士川戦死)、源仲綱墓:伝説(富士川戦死)、吉ヶ平山荘:かつて庄屋椿屋敷、河井継之助:武装中立主張するが賊軍として敗走、長岡城攻防絵図、守門川、八十里越え入る、2時間6.7kmで番屋乗越H895m:番屋は源仲綱設置伝説、空堀小屋跡:宿泊休憩食事、眺望・烏帽子山・岩肌剥き出し、鞍掛峠、小松峰・眺望、「八十里こしぬけ武士の越す峠」河井継之助、木ノ根峠(八十里峠)、庶民交流・生活道、入叶津(只見町):越後交流・越後弁、口留番所跡:会津藩監視用、医王寺(只見町塩沢:、河井継之助墓:北越の蒼き竜 
・下野街道:会津若松から田島・山王峠越えで下野・今市へ向かう道、参勤交代や東照宮参詣道としてにぎわった。大内宿は名高い。会津若松~栃沢~大内峠~大内宿~田島~糸沢~山王峠~今市へ、会津西街道ともいう、 
 栃沢、栃沢一里塚、大内峠、大内ダム:大内沼、地蔵「右若松」石仏、大内宿・本陣跡・参勤交代・回米(扶持米)運搬用・高倉神社、田島・宿駅、糸沢宿・口留番所・戊辰戦争の図・龍福寺:襖逆さ芸州弐番隊、山王茶屋(峠中腹)、日吉神社、山王峠:馬頭観音:H903m、

○・VHS『歴史の道  第3巻 関東』58分 
・陸前浜街道:~十王坂越え~、江戸と水戸を結ぶ実と街道の延長、陸前・岩沼で奥州街道と合流、伊能忠敬も歩いた道の十王町から高萩を行く。水戸~日立~十王坂~十王~伊師~高萩、磐城相馬街道とも、
 鵜の岬:ここで捕れた鵜を岐阜県長良川で使う、十王台遺跡:縄文弥生、十王台式土器:十王町民俗資料館:北関東弥生様式稲作文化、海岸段丘上通過、北方軍用道路の面、奥州街道脇往還、高萩の海見える、(十王町)伊師、一里塚、愛宕神社、馬頭観音:台座「右いぶき山 左いわき道」、長久保赤水:江戸中期地理測量学者・長久保赤水旧宅、伊能忠敬到着10日前亡くなる、  
・日光杉並木街道:日光街道・会津西街道・例幣使街道は世界最長杉並木道、砲弾撃ち込み杉・からかさ杉等ある。特別史跡・天然記念物。古くは樹齢350年、日光街道:宇都宮~大沢~今市~日光、例幣使街道:小倉~今市~日光~大 ~会津西街道、総延長37km、
 日光街道、並木寄進碑:1648年、日光東照宮、大沢御殿跡、今市宿、芋の木杉、砲弾打ち込み杉、神橋、並木寄進碑、
例幣使街道、並木寄進碑、
会津西街道、からかさ杉、
・中山道:~碓氷峠越え~、上州から信州に向かう道に難所:碓氷峠があり境に熊野神社社殿がまたがっている、妙義山・浅間山の展望がよい。碓氷峠関所跡(横川)、坂本~碓氷峠~軽井沢~追分~塩尻、
 坂本宿、「木曽街道69次・坂本宿:英泉」:本陣・脇本陣、碓氷峠、安政遠足トオアシ:安中城から碓氷峠、堂峰番所跡:遠見番所、覗ノゾキ:坂本宿見下ろせる・一茶「坂本や袂の下の夕ひばり」、馬頭観音、はね石坂、なだらか、唐松林、山中茶屋:峠真ん中・寺・13軒、H956m群馬長野県境、石風車、見晴台・眺望・浅間山、遊覧歩道軽井沢、碓氷峠越えは江戸防衛のため、二手橋、軽井沢・沓掛・追分宿、旅籠油屋、分(か)去れの石道標:中山道と北国街道分岐点、
・見沼通船堀:(浦和市)さいたま市、水運の堀、1721年開通、パナマ運河より183年前同一「閘門式コウモンシキ: 水のエレベーター」。見沼代用水路~東縁と西縁を結ぶ水路、下山口新田、芝川、浦和、見沼は広大沼地で干拓で新田、利根川取水口、西縁代用水路、東縁代用水路、4つの水門、江戸との物資輸送、
東縁仮締め切り、今は隣にふるさと歩道、東縁第二の関、東縁一の関、距離390m、芝川、水位差3m、、水門高さ九尺2.7m・板塀・鳥居柱・各落板、八丁橋、大正時代の八丁橋・写真、おやつもらって船通す、水神社、鈴木家:通船業務、西縁代用水路、654m、西縁第二の関:今ない、
・鎌倉街道:~上総道~、関東周辺から鎌倉に至る道を一般に鎌倉街道という。房総半島にも海路越しの道があり市原市・袖ヶ浦市を訪ねる。鎌倉~(海路)~木更津~三ツ作~立野~袖ヶ浦~市原~千葉、古代の官道、上総国分寺・国分尼寺、源頼朝、竜島(鋸南町):頼朝上陸地、飯香岡八幡宮、切替家:旗印を頼朝のものに切り替えたため、御所覧塚H3m:頼朝築かせた、須軽田坂、おみかり様:首狩の意、三ツ作神社、石道標「南たかくら道」・「北ちば道」、木更津たかくら観音霊場道、 

○・VHS『歴史の道  第4巻 関東・北信越』60分 
・浜街道:~鑓水峠越え・絹の道~、幕末から明治初期に桑都といわれた八王子から横浜まで、八王子と鑓水の商人が生糸や絹織物を運んだ道で絹の道とも浜街道ともいわれる。鑓水周辺は貴重な歴史の道として残存している。明治期写真「鑓水の風景」フェリックス・ベアト:撮影、八王子~大塚山~鑓水峠~(絹の道)~横浜へ、浜街道40km起点八王子は関東周辺生糸集散地で桑都といわれた、「新編武蔵風土記・八王子宿」、h213m大塚山周辺残存、八王子市、鑓水峠、絹の道→横浜、明治8年建立の大塚道了堂跡(大塚山公園)、「大塚山道了堂之図」、写真「八王子に向かう道」ベアト撮影、鑓水峠、江戸期・絹運送規制、明治開放、「神奈川横浜新開港図」、かつて裕福だった鑓水商人がたてた石塔多し、絹の道資料館:八木下要右衛門屋敷跡、旧小泉家:典型的なこの地域の農家の建て方、永泉寺、鑓水商人菩提寺、芭蕉像、慈眠寺、諏訪神社、彫刻見事、鑓水商人寄進、石灯籠、明治41年八王子~横浜鉄道開通により旧街道衰退。

・箱根旧街道:箱根山:関東と東海を分割する所、天下の険、沼津~三島~箱根峠・関所~湯本~小田原、箱根湯本温泉、早雲寺:北条氏菩提寺、一里塚:江戸から22番目、箱根旧街道入る、石畳、大澤坂、畑宿、駕籠かき中継地、寄木細工、茗荷屋跡:庭園、西海子坂(さいかちざか)、甘酒茶屋、赤穂浪士・神崎与五郎侘び証文、白水坂:進軍する豊臣方に北条側が攻撃し豊臣方が城を見ずに撤退したため、石畳残る、泥にすねまで漬かる坂を改良、斜めの排水路、箱根馬子唄の碑、二子山、権現坂(下り)、芦ノ湖・富士山、「東海道五十三次・箱根」広重画、箱根古道:鎌倉古道・湯坂道、浅間山・鷹巣山・精進ヶ池から芦ノ湖に下りる、杉並木、箱根関所跡、250年間、入り鉄砲出女改め、芦川の石仏群、向坂、兜石:秀吉が兜を置いて休んだという、

・松本・千国街道チクニ:上杉謙信が武田信玄に塩を送った話で有名な塩の道として知られる。ボッカ道であった。
~塩の道~、ボッカ:険しい山道の運搬人、松本~大町~白馬~千国~大網峠~大野~糸魚川120km、糸魚川市姫川上流に縄文期遡る、小滝川ヒスイ峡:ヒスイ原石:糸魚川・奴奈川姫伝説・古墳発掘品装身具、姫川氾濫考慮し東側高い所通る、大賽の神、道は急、角間の道標「右松本街道 大網 左中谷道 横川」、ウトウの道:ウトウはわらじ等で踏みつけU字型に窪んだ所、角間池、ブナ・ナラ・トチの原生林、大網峠h850m越後信州国境、ボッカの立ち休み:杖を背負子に当てる、牛方、牛の水飲み場、大日如来、横川の吊橋、小谷村大網、塩蔵:釘不使用・腐食防止、粗塩:水分多くニガリ、千国宿チクニ、千国番所、親坂:岩多い、牛つなぎ石:岩に穴、弘法清水:水飲み場が二段で上人・下牛用、小谷村沓掛、牛方宿:土間2階牛方・1階牛、白馬村・落倉の道標「右ゑちご 左やまみち」、信州越後物資運搬、参勤交代なし、

・臼ヶ峰往来:越中の氷見から臼ヶ峰を経て能登の志雄町を結ぶ。大伴家持が通行したことでも有名。氷見市日名田、臼ヶ峰往来、御上使往来、氷見~日名田~臼ヶ峰~下石~羽昨~金沢、岩盤露出しているところもある、杉や雑木の林の中、床鍋:小さな山間集落、かつては和紙作りだったが衰退し竹細工、竹林多し、臼ヶ峰h266m、奈良時代大伴家持(国司として29歳から5年間越中で暮らした)や御上使が通った。能登巡行で通過、万葉期には道があった、志雄路という、1250年前、「志雄路から直越え来れば羽昨の海朝なぎしたり船舵もがな」家持、富山県氷見市と石川県志雄町境、富山湾眺め、5年任期220首作る、親鸞聖人像、1207年流罪で通過、太子堂:親鸞が太子見たという伝説、中世合戦場1183年、江戸期流通道、

・白山禅定道:日本有数の山岳信仰の一つ、白山への登山道である。御前峰・大汝峰・剣ヶ峰の3つ合わせた山名、
石川県尾口~尾添~(加賀禅定道)~白山・室堂~石撒白~(美濃禅定道)~岐阜県白鳥・馬場・白山中居神社、               ↖~(越前禅定道)~福井県勝山
白鳥・馬場・白山中居神社、石撒白の大杉イトシロ、泰澄タイチョウ:白山に「上れとお告げ、千日白山で修行、その後一般修行僧も修験さらに一般人も、修験の山から禅定の山、禅定道:足跡をたどる道、石撒白・ちょうしが峰・さんが峰を越えると別山見える、別山平→別山山頂:別山社、おしゃり山、油坂、高山植物、畜生谷:この水飲むと苦しむ伝説、南竜ヶ馬場バンバ、御前坂、ハイマツの中、室堂、トンビ岩、室堂:3つの禅定道合流点、御前峰h2702m、十一面観音祀る、御来光、翠ヶ池: 泰澄が池のほとりで見た夢で神と仏を結びつける神仏混淆、大汝峰:阿弥陀如来祀る、千蛇ヶ池:千匹蛇が雪に閉ざされた伝説、ハイマツの中の道、御手水鉢の池オチョウズバチ:水量一定、加賀禅定道は石川県に伸びる、高山植物花々、

○・VHS『歴史の道  第5巻 中部』59分 
・棒道:甲斐の武田信玄が北信濃攻略のため八ヶ岳山麓に造った上中下3本の道筋をもち棒のようにまっすぐ伸びた最短距離の軍用道路だが、昇仙峡の御岳詣でや富士山詣でに使われた。甲府~韮崎~穴山~(下の棒道)~諏訪へ
      ↘若神子~~~(中の棒道)~~~湯川~大門峠~松本・長野へ
       ↘城南~小荒間~(上の棒道)~↗、  一般的には上の棒道が有名、
山梨県須玉町:若神子ワカミコ城跡狼煙台、上棒道起点、小荒間古戦場跡:村上氏との戦い、御座石、遠見石、馬蹄石、日本名水百選・八ヶ岳湧水群の一つ:三分一湧水:三角形の石柱を使う、小荒間口留番所跡、石道標「右すわ左むら」、直線に伸びる、石仏:坂東一番十一面観音立像:嘉永元年、道幅狭い、尾根道けもの道を発見されにくいように活用、川中島攻める前年に造る、武田氏が信州獲得後物資輸送路、石仏多し、坂東三番:千手観音立像、修行僧、御岳参り、生活道、道幅広い所あり防火帯16mとして、坂東七番:聖観世音文字塔、小淵沢、坂東十六番千手観音坐像、その後中山道甲州街道発達で使われなくなる、

・中山道・信濃路:中山道・信州芦田宿から和田峠を越え木曽路に至る部分を紹介する。江戸へ~芦田(江戸から27番目宿)~笠取峠~和田~下諏訪~塩尻~奈良井~鳥居峠~野尻~三留野~妻籠~馬籠峠~馬籠、笠取峠:松並木700本松、馬頭観音、和田峠:唐松・モミ・険しいというが谷沿い緩やかな道、春から秋は快適・冬雪で困難、和田施行所:焚き火・おかゆ一杯・馬にはかいば一杯恵む、木曽の木は尾張藩管轄・生一本首一つ、地元木曾の収入源ならず、近畿特に近江から人足雇い、収入源少ないので木曽の人は何でも食べた、木曽路十一宿、奈良井、杉並木、二百体地蔵、奈良井宿、2km保存、越後屋:旅籠、中村屋:櫛問屋、お六櫛:髪を梳くと頭痛治るといわれた、黄泉画:木曽街道六十九次、鳥居峠h1197m、鎮神社、石畳200m、峰の茶屋:馬方茶屋・句碑、円山公園、石碑多し、薮原宿、与川道:バイパス・野尻~上野原・三留野、妻籠宿:もっとも小さい宿・街並み保存、妻籠宿本陣:南木曾町博物館、中山道・飯田道分岐点、馬籠峠:木曽御木の原生林、「夜明け前」藤村、男滝・女滝、馬籠峠h801m、馬籠宿:藤村出生地、

・野麦道:信州松本と飛騨高山をつなぎ、乗鞍岳南の野麦峠を越える道、近代製糸工場に働きに行く飛騨の娘たちが通ったことで有名。奈川村川浦、石室:復元:文政8年、ボッカ・牛方避難所、松本~川浦~野麦峠~野麦~高山へ90km・野麦街道ともいう、岡船:牛:信州で活躍・飛騨には行かない、信州雪深いため牛がだめでボッカ活躍、最大50貫190kg、たいてい150kg、飛騨ブリ:富山のブリを飛騨高山から信州へ、h1500m越えるとモミ・ツガ等針葉樹林帯を折り返す、熊笹=野麦=ダンゴにして飢えしのぐ、飛騨郡代の江戸往来道で信仰の道、野麦峠、展望・乗鞍岳、飛騨の貧しい少女たち・明治期・信州の製糸工場へ、政井みなの碑:百円工女、当時日本の生糸生産量世界一、お助け小屋:復元、冬の野麦峠越え命がけ、雪道を歩くのは大変・滑落すると止まらない、地蔵堂、野麦:飛騨高根村

・本坂通:~姫街道~ともいわれ江戸幕府が東海道の脇街道として整備した。浜松で東海道から離れ浜名湖北を通過し御油宿で東海道に合流した。浜松~気賀~引佐峠~三ケ日~本坂峠~当古~御油、脇街道、浜名湖北岸、姫街道、気賀一里塚:江戸から69里、引佐峠h200m、時々石畳敷いて安全対策、コスモス、平石御休憩所、姫岩:湯茶接待用、浜名湖展望よし、「姫君様行列之図」、今切関:今切渡船、バイパス、姫街道由来:①姫通った・②ひねた・ひなびた、象鳴き坂:吉宗献上象通過、石投げ岩:岩に石投げすると峠越えが無事という、一里塚:江戸から72里、本坂峠へ、大師堂→山道・石畳、橘逸勢:伊豆流罪途中当地で没す、鏡岩:高さ3m・幅10m・昔は光って姿が映ったという、本坂峠h328m、林間下り坂、嵩山宿スセ:本陣・脇本陣、嵩山の蛇穴遺跡:縄文前期住居跡、豊川市当古豊川・渡船、

・下田街道:~天城越え~、東海道三島宿から天城峠を越え下田に至る道。幕末下田が開港されて重要となる。天城越えともいい、伊豆の踊り子等で有名。~天城越え~、天城峠、「伊豆の踊り子」、旧天城トンネル、三島~韮山~修善寺~湯ヶ島~天城峠(二本杉峠)~小鍋~下田、天城湯ヶ島町大川端・紀州尾鷲の炭焼き市兵衛の墓:石道標「右ハやまみち左ハ下田道」、二本杉峠40分、炭焼き技法を教えた、産業の道でもある、ワサビ田、天城峠頂上:広場・二本大杉、この道1819年私財を投じて完成、幕末外国人も通行、1853年黒船翌年下田函館開港、吉田松陰下田で密航企て捕縛遠丸籠で通過、宋太郎林道、タウンゼント・ハリス下田から江戸へ、釜滝カマダル、川横:川合野、慈眼院、小鍋峠への山道、小鍋峠:河津町と下田市境、「伊豆の踊り子」川端康成の一節朗読、


○・VHS『歴史の道  第6巻 近畿』62分 
・東海道:~鈴鹿峠越え~、伊勢と近江を分ける鈴鹿山脈の南に関町セキチョウ、古くは鈴鹿の関があった、伊勢神宮一の鳥居:東の追分、東海道と伊勢別街道分岐点、江戸から106里2丁、江戸時代宿場町街並み:江戸後期、中町:本陣・脇本陣・大旅籠、脇本陣:千鳥破風、関の地蔵院:建立・行基伝、中興・一休伝、門前町、つし二階建て:屋根裏を物置にし軒低い、西の追分:刑場・供養塔は石道標「左伊賀大和道」、関:47番目宿~坂下~鈴鹿峠~土山、転び石、筆捨山:安藤広重「東海道五十三次」にも描かれる、黄色い奇岩、狩野元信が山を描きえず筆を捨てた伝説、坂下宿、法安寺、庫裏は本陣移築、本陣3、脇本陣1、旅籠48、峠まで1里半、岩屋観音:江戸初期石仏、清滝、片山神社、ここから8丁27曲がり峠越え、燈籠坂、夜の旅人用に常夜灯、石畳、難儀、峠を境に天候も違うほどきつい、東の箱根に西の鈴鹿、鈴鹿山の鏡岩:三重県指定天然記念物、山賊は鏡岩に隠れ岩に映った旅人を襲ったという、東海自然歩道、峠は国境で近江側は緩やか下り坂、万人講常夜灯、土山宿、本陣跡、連子格子、二階の塗り込め壁、東海道反野畷タンノナワテ、松並木、
・熊野参詣道:伊勢路、紀伊路、和歌山-(紀伊路)-田辺-滝尻-(中辺路)-本宮-那智勝浦-新宮-(伊勢路)-熊野-八鬼山-尾鷲-馬越峠-海山、馬越峠道マゴセ、西国三十三所巡り第1番札所青岸渡寺巡礼道、八鬼山道ヤキヤマ、難所、石仏、滝尻王子、数多くの王子あり、王子ごと禊をして熊野に詣でる、熊野三山知られたは平安期、上皇たちが熊野詣をするようになってから、果無山脈ハテナシ(大和と紀伊を分ける)熊野山塊、花山上皇が木の枝を折って箸に使ったという箸折峠、牛馬童子像:19歳で譲位させられた花山上皇の姿伝、箸折峠下の近露集落の日置川ヒキ、かつては旅籠30軒一日800人宿泊したことあるという、近露王子、継桜王子・野中の清水、伏拝王子・小さな祠だけ、ここからかつて伏して熊野大社を拝めた・麓の窪地に明治22年まで社があったが洪水で移転、、熊野本宮大社、やた烏、山伏修験場、熊野にいます神社、熊野の本山、熊野川、上皇たちは船で熊野川を下り新宮目指した、新宮・熊野速玉大社、補陀洛渡海、夫婦杉:那智大社への入口、大門坂、那智の滝:落差133m日本一、滝をご神体にした原始信仰から始まる、熊野那智大社、社殿熊野作り権現作り構造、北に大雲取越・小雲取越の2つの道、上皇たちは京に帰るため通った、
・宮津街道:普甲峠越え、大江山越え、丹後の天橋立、宮津市、古い港町、京極氏、宮津城跡、京口橋:京に向かう宮津街道起点、石道標:観音霊場案内「左なりあい観音」、京極氏が参勤交代用に整備した道、ちりめん街道、糸の道・絹の道、石畳が道の半分、峠の茶屋跡、峠の石塔「ちとせ山」: 普甲峠はフコウに通じるのでちとせ山と呼ばせたことがある、天台密教の普甲寺跡、今は寺屋敷集落、普賢堂、最盛期一山百か寺、織田信長により焦土、峠の南側は緩やかで中茶屋集落ナカノチャヤ、昭和30年代まで小中学生登校路、峠越え最短路、二瀬川渓谷、鬼ヶ茶屋の石畳(復元)、遊歩道、大江山鬼退治伝説関連、鬼の足跡、大江山、頼光の腰掛岩、石仏「南無阿弥陀仏 文政六年六月」:道普請犠牲者出た、毛原の道標「右ふげん左なりあい」普甲寺道と宮津なりあい観音道分岐点、南に丹波の山々で京、
・竹内街道:二上山ニジョウサン、大阪と奈良境、竹内峠タケノウチ、最古の国道、613年「難波より京に至る大道を置く」日本書紀、難波-堺-太子-竹内峠-当麻-飛鳥、大阪府太子町「近つ飛鳥」、推古天皇陵、叡福寺「上の太子」推古天皇摂政聖徳太子祀る、聖徳太子廟、太子町・春日、白い塗り壁・板壁、大和川水運に使われた船の板、太子町・大道、餅屋橋の道標「左幸徳天皇御陵」名所旧跡案内、伊勢灯篭、大和棟、西国三十三所巡礼道・5番藤井寺・叡福寺・當麻寺・6番壷坂寺に向かう道、さらにお伊勢参り・長谷寺詣で、道端の地蔵堂「右大阪さかい」、役行者像、岩屋越との分岐点、地蔵「右つぼさか 左岩屋當麻の口」、岩屋越道、当麻寺タイマジ:聖徳太子弟創建、中将姫伝説、河内名所図会、遣隋使派遣で隋の使者を迎える外交路としての必要性、河内細見図、国道166号線、峠の手前草の道少し残る、十一面観音、宝篋印塔、「大峯山三十三度」、竹内峠:国境石「従是東 奈良縣管轄」
・山陰道:~蒲生峠越え~、鳥取県東部と兵庫県北部県境の山々、蒲生峠、鳥取-岩美-岩井温泉-塩谷-蒲生峠(蒲生トンネル)-温泉町・湯村温泉-春来峠-京都、山陰道は律令時代に定められた官道、岩井温泉・蒲生峠まで8km、塩谷、地蔵堂、因幡商人塩運送・但馬商人受け継ぐので塩谷、明治初年まで蒲生川の一番奥の沢が入口、羽柴秀吉も鳥取城攻撃に使った道、あまりに険しいので鳥取藩は参勤交代道からはずす、今は一番奥で崖になり不通、明治初期にその上に大八車用の国道できる、文化庁歴史の道百選指定、上り口から3km頂上見える、蒲生峠h356mには延命地蔵、国道9号線真下トンネル、旧国道通過、鳥取・兵庫県境、温泉町・千石チタニ宿場町、こうじ屋旅館「昭和八年四月宿泊人名簿」出稼ぎ商人・職人・馬喰、生業の道、千原の名号石「南無阿弥陀仏」、伊勢神宮常夜灯「大神宮 秋葉山 愛宕山 天保十四」、温泉町湯村温泉、慈覚大師:平安期発見伝、夢千代日記、春来川、春来峠・今は下をトンネル、榜示石「従是西豊岡藩」、因幡から蒲生峠を越えて但馬に入った山陰道は春来峠を越えて幾重にも連なる山々の先の京を目指す。

○・VHS『歴史の道  第7巻 近畿・中国』61分 
・柳生街道:奈良市北部を東の柳生まで結ぶ道、剣豪の道といわれるが信仰や奈良市内の大寺院とその荘園だった柳生周辺を結ぶ道。興福寺から見た奈良北部、春日山と高円山の窪みを越える道、奈良春日山南麓~石切峠~大柳生~柳生:5里20km、能登川、滝坂道、葬送の道、修行の道、大寺院の荘園への道(物資)、轍の跡:石畳、寝仏:崖上の大日如来の摩崖仏が落ちたもの、夕日観音:摩崖仏:弥勒菩薩、朝日観音: 摩崖仏:弥勒・地蔵、首切り地蔵:地獄谷と柳生への分岐点、石切峠:奈良大仏春日石切り出し、春日山石窟仏: 摩崖仏:平安後期:春日石切り出し、地獄谷石窟仏:線を刻んで彩色:薬師・る遮那仏・十一面観音:奈良期昨、峠の茶屋:武芸者の代金代わりの武具、誓多林、忍辱山円成寺:文化財・春日堂・白山堂:日本最古の春日造り、庭園:平安期の姿残す:国の名勝、大柳生への下り、大柳生集落内を街道通過、阪原峠:石畳残る、柳生:家老屋敷跡:小山田しゅれい:資料館、柳生陣屋跡、1万石、正木道場:復元:柳生新陰流、芳徳禅寺:沢庵和尚・柳生宗矩・柳生家菩提寺、

・大山道:中国地方屈指の名山で信仰の山、大山ダイセン。その麓の大山寺を目指す道。大山h1729m、伯耆富士、関金~(川床道)~大山寺・大山~(横手道)~釘貫小川~岡山へ、                             
大山道:大山寺目指す・大山参り:農業神、「六十余州名所図会・大山遠望」、瀬戸内からの横手道大山西側を南北に通過、ブナ林内古道、横手地蔵:18番1丁ごと置かれた、南からは荒々しい姿で西からは優しい姿、一の沢、大山は死霊のおもむく山:備中の人々は道に石仏祀る、川床道:風情残る・7km古道残る、地蔵峠:地蔵「萬延元年」、道は川沿い緩やか、大山滝、大休峠:急坂道1km、h1000m、川床まで4km:石畳、(岡山県:牛つなぎ石:穴あき石)、大山での牛馬市のため牛馬連れて行った、大山寺:宝牛像、

・智頭往来:~志戸坂峠越え~、平安期から因幡と上方を結ぶ道、参勤交代も使った。因幡→上方へ、平安期都からの国司往来・江戸期鳥取藩参勤交代、鳥取~市瀬~智頭チズ~志戸坂峠~京都へ、鳥取から智頭で一泊、鳥取から志戸坂峠越えで1日半40km、平時範「時範記」:旅日記、参勤交代用道178回、鳥取城、「鳥取城攻めの陣営図」:秀吉は堅固な鳥取城落とすため街道通過、千代川沿いに智頭往来あり、篠ヶホキ:山間の険しい所難所、六地蔵「寛政十二年」、(京・上方・馬方)(街道・往来)、智頭宿:石道標・備前街道分岐点、魚の棚、志戸坂峠:2km・積雪通行不可・「けふいなばそふの瀧山こえるなり都にかけよ夢のうきはし」、明治20年大改修・馬車道・改修碑、

・広瀬清水街道:山陰の鎌倉といわれる島根県広瀬と山陰道をつなぐ道、尼子一族ゆかりの地や安来の清水寺への参詣道。島根県広瀬町・山陰の鎌倉・富田トダ・月山ガッサン:尼子氏居城、尼子氏利用道、広瀬~鍵尾峠~清水峠~門生~(山陰道)~安来~松江
                   ↘京へ(山陰道)
「出雲国風土記」、月山:富田城跡1397年尼子氏入城11カ国領有・1566年毛利氏により陥落、意多岐神社オダキ:古代出雲四大社の一つ・能義神社…中心地、古道は草生し通う人なし、尼子時代の軍用道、鍵尾峠:石塔、能登?集落:竹やぶ、出雲巡礼21番札所11番清水寺巡礼道:信仰道、石道標「右きよみず左ひろせ」、弁慶坂:弁慶が釣鐘を担ぎ上ったという伝説、仁王門・清水寺キヨミズサン・尼子一族菩提寺・本堂:観音33図・尼子拾勇士絵:山中鹿之助等・弁慶絵図・三重塔1859年建立山陰唯一、追分:六地蔵・山陰道と合流、

・山陽道:~大山峠越え・玖波~、京都と九州大宰府を結ぶ最も重要な官道で、宮島厳島神社周辺に残存している箇所を紹介する。大化の改新以降、七つの道を官道:大中小区分:中国行程路:唯一の大路:都と大宰府を結ぶ道:大宰府は遠の朝廷ミカド:政治文化外交上重要な道、「中国行程図」、京~東広島市西条町~大山峠~広島~~~~大野町~玖波~大竹~大宰府
                       宮島厳島神社
安芸の国中心地:西条町:広島大学中心:四日市次郎丸という宿場町:西条駅北側:国分寺跡:仁王門・七重塔礎石・レンガ造り・煙突・白壁・造り酒屋・本陣跡:部屋数29、海岸に出た山陽道は展望よし、大野町:厳島神社展望よい、室町期今川貞世通行:幕府勢力権力拡大のため、宮島厳島神社:平安末期平清盛造営・塔の岡:五重塔・戦国期毛利が陶晴賢を破る1555年、毛利:要害山山頂のおとりの城、鼓ヶ浦、大野:四十八坂:49よりまし、つづらおり長洲戦争激戦地、残念神社:長洲戦争戦没者祀る、

○・VHS『歴史の道  第8巻 中国・四国』60分 
・萩往還:江戸期毛利氏が治めた長洲藩府・萩と瀬戸内の三田尻を結び参勤交代や多くのし志士達が通った道。
 萩城跡、「中国行程記」江戸中期宝暦・萩から京都伏見まで・第1巻は萩から三田尻まで、萩~明木アキラギ~一ノ坂~山口~防府(三田尻)、松下村塾・吉田松陰像・維新の志士輩出、涙松の遺址「帰らじと思ひさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな」松陰、萩から一里のオオヤ竹やぶ・首切り地蔵:刑場跡・石碑「栗山孝庵女刑屍体臓分之跡」日本で初めて女性遺体解剖、萩から五里・一升谷:石畳:一升の豆を食べつくすほど長い坂という、国境の碑「北長門國阿武郡 南周防國吉敷郡」、一ノ坂h差260m、曲がり角40以上、三田尻御船倉跡:参勤交代や旅人によっては船移動・毛利水軍、

・赤間関街道:~中道筋~、長洲藩府・萩と赤間関:下関を結ぶ3つの街道、その中でも美東・吉田を経て赤間関に至る中道筋は公用路として重視された。
 萩市、高杉晋作の生家:彼がよく通った道、
萩~明木~一ノ坂~(萩往還)~山口~防府(三田尻)
   ↘美東~絵堂~秋吉~(中道筋)~吉田~赤間関(下関):19里
 ↘~(北浦筋)~            ↗
  ↘~(北浦道筋)~           ↗
下ノ峠タオ、美東町、絵堂戦跡記念碑、長州藩政府軍本陣跡、戸に弾痕、大田・絵堂戦に使われた鉄砲、金麗社、「四境の役」、燈籠:小倉城のもの略奪、カルスト、大久保台、石畳、秋芳洞:滝穴32間、吉田宰判勘場跡:自治体の区役所、しみずやま:高杉晋作の墓「東行の墓」29歳、「六十余州名所図会・下の関」、壇ノ浦、赤間神宮、長洲砲、

・讃岐街道:~大坂峠越え~、讃岐高松から讃岐山脈越えで阿波徳島に至る道。鳴門市四国遍路一番札所霊山寺に向かう信仰の道で義経が屋島に駆け抜けた道でもある。
 讃岐山脈、讃岐街道:琴平へ~高松・屋島~引田~大坂峠~板野~徳島~勝浦~土佐へ
                        伊予へ↙ ↘鳴門
引田町ヒケタ、落ち着いたたたずまい、引田廻船、寿可多美の地蔵「右大坂道 左なる戸 文化十四年」、「六十余州名所図会・象頭山遠望」、信仰の地、阿波鳴門一番札所霊山寺、二番札所極楽寺、三番札所金泉寺、四国八十八箇所巡りの一番に行くため大坂峠は最初の難所、大坂峠への丁石、借耕牛、5丁目過ぎると急坂、800年前源義経一行通過:屋島の合戦、豆茶屋跡石垣、豆茶:半つき米と豆を一晩つけてから蒸して白湯をかけたもの、徳島城跡、蜂須賀氏、番所・村瀬家・大坂御番所跡:明治初期までの230年間・武具、遍路の通行手形「遍路」、近代大正昭和初期にトンネル・鉄道開通により大坂峠いなくなる、

・土佐北街道:~笹ヶ峰越え~、土佐高知を峻険な四国山地越えで瀬戸内と結んだ道。参勤交代120年ほど2000人ほど・信仰・物資輸送路として利用された道。土佐藩二十四万石山之内一豊:高知城、四国山地、高知~大豊~笹ヶ峰h1015m~新宮~川之江、はじめ参勤交代路は海路で20日ほどだが、潮待ちで50日、江戸中期に期日厳守となり陸路開発。碁石茶:発酵茶・筵に干した様子が碁石に似ている、笹ヶ峰、国境標:土佐伊予、しばらく尾根通し、杖立て地蔵・弘法大師像・安政九年1858・杖を立てて感謝、腹包丁h差400mで距離1500m続く急坂:腰にさした刀が地面につかえるので腹に抱えた、オハツキイチョウ樹齢300年・安産祈る・柱瘤、平安期:熊野神社信仰の道・参勤交代以前から、

・檮原街道ユスハラ:(檮トウ)、~韮ヶ峠越え~、高知城下から伊予の境・檮原を経て大洲城下を結ぶ道。坂本龍馬等勤皇志士脱藩して通ったことから(勤皇・脱藩)(街道・道)ともいう。
 高知~須崎~檮原~韮ヶ峠~大野ヶ原~泉ヶ峠~宿間~大洲・長浜、勤皇街道、坂本龍馬、高知城、桂浜・坂本龍馬像、1862年脱藩、澤村惣之丞:海援隊前身亀山社中、檮原:千枚田・那須俊平信吾・掛橋和泉邸:神官・勤皇志士かくまう、宮野々番所跡、韮ヶ峠:舗装道路・土佐伊予境、大野ヶ原・激戦地、男水:龍馬が水を飲んだという、榎ヶ峠、御幸の橋:屋根付き橋江戸中期休憩用に付けた、泉ヶ峠:かつて旅館や運送業でにぎわう・石垣跡、宿間、肱川、船で長浜へ下れる、

○・VHS『歴史の道  第9巻 九州』62分 
・長崎街道Ⅰ:~冷水峠越え~、鎖国の中唯一開かれていた天領・長崎と筑前小倉を結ぶ道。著名人が往来し海外文明を伝えた道。小倉~黒崎~木屋瀬~飯塚~内野~冷水峠h283m~山家ヤマエ~原田~長崎へ、筑前六宿チクゼンムシュク、エンゲルベルト・ケンペル1691年江戸旅行・「江戸参府道中の画」・オランダ商館長(カピタン)の駕籠、山家宿、「筑前六宿・山家宿」、追分石「右肥前大宰府長嵜原田 左肥後久留米柳川松崎」、西構口跡、恵比寿石神:江戸初期寛永年間建立:1611年山家宿開設理由記入され貴重、郡屋土蔵:参勤交代用品置いた、郡屋は近代取り壊し、冷水峠:九州の箱根、黒田長政整備・博多を通らせない、首無し地蔵堂:旅人の身代わり伝説、石畳、「南蛮屏風」:象通過、山間の低地伝いに内野宿へ、「筑前名所図会・往来の図」、「寂寥の山駅にして海遠く山深し」松陰、内野宿三叉路石道標「大宰府天満宮米山越道」:米山官道、老松神社、正円寺、長崎屋:脇本陣、小倉屋:脇本陣・荷物輸送中継の問屋場・両替商、

・肥前・筑前街道:~背振坂越えセフリ~、全長6里24km、肥前・佐賀県と筑前・福岡県を結ぶ道。平安末期平家の財源佐賀県神崎の年貢米を博多港へ運ぶ道。脊振坂越えは博多への最短ルート。吉野ヶ里遺跡、神埼宿:長崎街道合流、櫛田宮・肥前鳥居:複数の石組み合わせ、
佐賀~神埼~(坂本峠)~脊振坂~亀ノ尾峠~山田(那珂川)~博多、
                脊振山
脊振山地、脊振山頂・脊振神社:修験一大聖地・脊振千坊・修学院:脊振山下宮:鍋島家祈願所、一町宮:地蔵「右ちくぜん道 左山」、五町石、平安末期平家により信仰道から年貢米を運ぶ流通道へ発展、霊仙寺跡・石道標「右とうりみち 左坊中」、左へ行くと茶の木:栄西禅師が中国から持ち帰り植えた茶の木という、茶園上りきると乙護法堂、水上坊跡、千坊ほとんど消失、霊水石、自生白サザンカ名所、坂本峠の馬頭観世音、国境石:江戸期元禄1600年代末、那珂川中州石垣:國領示し石に触ること禁止旨刻む、南畑ダム、亀ノ尾峠:石畳残る、石垣:山城の家来屋敷跡、山田(那珂川町):農耕で栄える、裂田溝:用水路、那珂川、川港、

・太閤道:肥前・佐賀県唐津から鎮西町名護屋までの16kmの道。秀吉朝鮮出兵では名護屋城建築資材運搬や軍勢移動用に整備した道。
 唐津城「舞鶴城」:桃山様式模した昭和の復元、松浦潟、虹の松原:5km長さ・防風防砂林・国天然記念物、かつて遣唐使派遣港で唐の津、佐賀~(唐津街道)~佐志ノ辻~馬部~鎮西・名護屋城跡、1591年朝鮮出兵、近松寺キンショウジ:名護屋城一の門、浄泰寺前道通過、林の中、観音:道標、佐志ノ辻:太閤道一里塚、そば畑内一里塚石、石垣残存、西進むと野元神社、農道として北進む、名護屋城跡:大阪城に次ぐ規模で桃山様式五層天守閣・30万将兵、陣屋跡大小260箇所以上、草庵茶室の遺構、草庵茶室想像図:四畳半、「太閤が睨みし海の霞かな」青木月斗、

・長崎街道Ⅱ:~日見峠・井桶ノ尾峠越えイビノオ~、文明の道、異国情緒溢れる長崎から大村間に古道の面影多く残る。海外文明を伝播した道でシーボルトも通った。長崎市、孔子廟、オランダ坂、メガネ橋、出島(復元模型)、平戸オランダ商館を長崎出島移転、長崎~日見峠~矢上ヤガミ~井桶ノ尾峠~諫早~破籠井ワリゴイ~鈴田峠~大村~小倉へ、蛍茶屋、一瀬橋、「長崎近郊の貴族的な茶屋」F・ベアト撮影:幕末の蛍茶屋と一瀬橋写る、近くに鳴滝塾跡:医院・塾(現シーボルト記念館):医師・博物学者、アジサイをお滝さんからオタクサと命名、シーボルト旅日記、日見峠:由来:火見:戦でかがり火が見えた、日見峠の切通し、下りは通称七曲、芒塚:向井去来の句碑、長崎街道矢上宿跡、教宗寺・庭園、井桶ノ尾峠手前に天領と肥前佐賀藩領境石、井桶ノ尾峠:h100mほどの丘の連なり、長崎街道御籠立場、眼下に大村湾、諫早、破籠井:旅人がここで弁当箱を開けて食べた所なので、鈴田峠:深い山の中通過、大村の町眼下に見える、

・豊後街道:熊本市、熊本城、肥後・熊本城下から阿蘇外輪山北部通過し豊後・大分県鶴崎港に至る道。31里、加藤清正によって整備が始められた。左右を堤にし一段掘り下げて造られた清正公道セイショウコウドウが残る。熊本~大津オオヅ~二重峠~内牧~一の宮~滝室坂~大利~山鹿~鶴崎へ、                    阿蘇山
 整然と石垣、武蔵塚:宮本武蔵:細川氏庇護、大津街道杉並木:屋久杉、大津宿:熊本から五里、清正公道、路面土粘って滑る、二里半、二重峠、健磐龍命伝説:カルデラに水溜まる削ったが水抜けず見ると二重だった、大津から望む外輪山、上りきると石畳の下り坂、天草展望、阿蘇五岳展望、車帰坂クルマガエシ、牛王水ゴオウスイ・石畳斜め排水工夫、阿蘇谷、1km先・的石御茶屋跡、内牧ウチノマキ、一の宮、阿蘇神社、坂梨・大坂に坂無し坂梨に坂有り、滝室坂、乙護法堂オトゴホウ: 乙護法:子供姿の神:仏法守護、この先草地で一旦道消失、坂の上、大利の石畳、山鹿の石畳、坂上で国境、鶴崎から船で大坂へ、

○・VHS『歴史の道  第10巻 九州・沖縄』56分 
・日田・中津街道:江戸期西国郡代が置かれた天領日田と周防灘に面する中津藩十万石中津城下を結ぶ道。周防国・山口県から呼び寄せた石工が敷いた石畳が残る。日田~市ノ瀬~伏木峠~中津、日田市:天領九州政治経済金融中心地、永山布政所(郡代屋敷):西国郡代、豆田町・古い商家残る、掛屋:両替商:日田金、咸宜園跡カンギ:すべてよろしいの意で誰でも入門できた:広瀬淡窓: 掛屋:塾生:高野長英・大村益次郎・「休道他郷多辛苦 同胞有友自相親 柴扉暁出霜如雪 君汲川流我拾薪」、中津街道北東へ・石坂石畳道・1.3km・嘉永三年・信仰道・周防から石工呼ぶ・坂に石敷くのは高度技術、道の中央に滑りにくい石で両端は違う、石阪修治碑:石坂完成記念・碑文:淡窓、茶屋跡:石垣、物資輸送路、

・日田・竹田街道:滝廉太郎「荒城の月」の豊後・大分県竹田の岡城の城下町から久住高原南部を通過し、天領日田に至る道。九十九折の石畳を通って大量に物資が運搬された。岡城跡:鎌倉期・国史跡、久住高原クジュウ、日田往還、大分~竹田~曽田ノ台~出口イデグチ~台下~日田、                      久住山
 湯見岳ユノミh740mの麓で肥後方面の道と日田往還出合う、石道標「右つ  左小国 」その横にかつての旧道痕跡わずかに残る、曽田ノ池、曽田ノ台、下る石畳九十九折700~800m、物資輸送路、「五馬駄賃取り唄」、浄念寺(北平)、中村(出口駅):石垣、日田屋旅館「店」:茅葺、出口庄屋屋敷跡、文化九年:伊能忠敬宿泊記念碑、伊能忠敬、玉来神社・五馬媛イツマヒメ:土蜘蛛の意・老杉、薹(台)神社:江戸中期・前の坂道は舗装石畳、

・飫肥街道オビ:(飫ヨ・オ) 飫肥藩の日南市飫肥オビから北の宮崎や、南は薩摩や大隈へ通じた道。花立山近くに旧街道が残る。日南市飫肥オビ、飫肥城:伊東氏、鹿児島へ~都城~日南・飫肥~花立山~山仮屋~清武~宮崎、殿様街道:参勤交代用、「元禄十四年飫肥領国絵図」、伊東家邸宅:江戸期270年間伊東氏治める、本町通り、酒谷川、唐人、物資流通盛ん、振徳堂:藩の塾・儒学幕末には蘭学医学も、旧道は花立山を越えた辺りから山仮屋関所跡まで1.6km残存、桜名所、石仏、町指定史跡:山仮屋関所跡h400m、「山仮屋関所跡見取図」、汗道:険しい飫肥街道・佐々助三郎スケサン通過、安井息軒旧宅(復元・清武町)、

・東目筋・大口筋:薩摩藩城下町鹿児島を起点に宮崎に向かう道を東目筋、肥後・熊本に向かう道を大口筋という。勢力のある薩摩藩の道なので見事な整備がされている。錦江湾・桜島・鹿児島市、鹿児島~白銀坂~加治木~竜門司坂~(大口筋)~大口~熊本へ
         桜島            ↘(東目筋)~宮崎へ
                ↘宮崎へ
鶴丸城:館作り・櫓や天守閣なし:島津氏、白銀坂:錦江湾絶壁に道できず山坂道となる:石畳道幅広し・急勾配では段差設ける、布引(白銀)の滝:落差20m、展望よい、1km石畳国道合流、姶良町アイラ(姶オウ)、加治木町:隈姫神社クマヒメ:悲劇の姫祀る、田の神、龍門滝:落差46m、竜門司坂タツモンジ(ダシモン坂):酒樽等だしもんを運ぶ、長さ464m元文6年石畳敷く、加治木:焼き物・龍門司焼(黒もん)、明治5年国道10号線・明治34年鉄道近代開通旧道通らない、

・国頭・中頭方西海道クニガミ・ナカガミホウサイカイドウ:首里から座喜味城へ向かう中頭方西海道、さらに北の今帰仁城へ向かう国頭方西海道、首里城を出た道は琉球王朝時代の面影残す石畳道となって北へ延びる。
 琉球王朝時代の石畳道、守礼門、首里城、各城グスクからの道、歓會門、金城の石畳道カナジョウ、宿道シュクミチ:公用、那覇・首里~浦添~座喜味城跡~仲泊~恩納オンナ~名護~今帰仁ナキジン、中頭方西海道:安波茶橋アハチャ:500年前建造、浦添城跡:切石積石垣残存・薩摩藩征服により、史跡当山の石畳道:17世紀半ば作られる:馬転ばし、国頭方西海道:読谷山の道、宿道は間切マギリ:いくつかの集落を集めたもの:に行く道、多幸山のフェーレー岩:フェーレー=山賊、サトウキビ畑、海展望、本部半島: 今帰仁城、山田谷川矼: 矼コウ=石橋・かつて6枚の石橋・今4枚で復元、久良波の道:断崖の上道・下草刈ってもすぐ草むら、比屋根ヒヤネ坂:石畳、ペリーは浦賀来る前琉球国頭方西海道通る、「夕暮れの恩納番所:ハイネ画」、史跡仲泊遺跡:第三貝塚:沖縄海洋博国道拡張工事発見、海沿い道、今帰仁城跡:石垣、行程80km、
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:42Comments(0)古道

2012年05月04日

VHS『歴史の道百選 中山道』全4巻 TDKコア

☆VHS『歴史の道百選 中山道』全4巻 TDKコア 
・『歴史の道百選 中山道 第1巻 碓氷峠越え』(坂本宿~碓氷峠~追分宿)約37分  
 全行程12km、緑豊かな古街道、
碓氷関所跡、おじぎ石。四大関所の一つ、資料館、松井田町、石垣、総欅作り、唯一現存復元門、御関所廃止届、 1’07”経過開始
 坂本宿~五料の茶屋本陣、五料村、上段の間、青面金剛塔1740年建立、夜泣き地蔵、茶釜石(叩くと金属的な音)、中山道540km、69宿、間口の狭い家、千本格子、江戸から17番目、旅籠や多い、3’24”
 堂峰番所跡、かつては見晴らしよく関所破りを見張っていた遠見番所、門の土台石、ヒメジョオン~刎石ハネイシ坂、柱状節理、石仏群~上り地蔵・下り地蔵、常夜灯~三枚石、8’06”
 覗のぞき~風穴~ 坂本宿を見下ろせる、12’05”
 刎石茶屋跡、h793m 刎石山山頂の四軒の茶屋跡石垣、~弘法の井戸~座頭ころばし、湿った土と石ころ~ 13’38”
山中茶屋跡、峠の真ん中で13軒立場茶屋、安政遠足トオアシ(安中藩、日本最初のマラソン)、17’37”
 碓氷峠~熊野(皇大)神社、狛犬、風車石像1688年、本殿3つ。上州・信州国境、古鐘(鎌倉期)、シナの木御神木~金原やぶ(金原忠魂碑)~思婦石(ヤマトタケル伝説)~一つ家の歌碑~碓氷川水源、ワサビ田~碓氷峠見晴台、狼煙台、浅間山、万葉集の歌碑~碓氷峠遊覧歩道、ミツバウツギ、クワガタソウ~二手橋にて~ h1200m 、18’58”
軽井沢宿~追分の一里塚、江戸から40番目~ つるや旅館と周辺土産物屋に古い面影、29’37”
 追分宿、本陣跡、本陣石垣~追分の分去れワカサレ、石道標、常夜灯、歌碑、石造物群、追分節発祥地、~浅間神社、枡形の茶屋~ 31’09”
陽春から秋の歴史と叙情、きつい坂のトオアシハイキング。

・『歴史の道百選 中山道 第2巻 鳥居峠越え』(奈良井宿~鳥居峠~薮原宿)約34分  
 中仙道、石畳、
贄川ニエカワ関所、曲物や漆器取り締まり、白木改め、女改め、口留番所、1’18”経過開始  
 八幡神社、奈良井宿手前で二百地蔵、杉並木、2’25”   
 奈良井宿~奈良井五カ寺(大宝寺、専念寺、法然寺、長泉寺、浄龍寺)庭園~水場~鍵の手(敵への防御、火災防止)~中村邸(櫛問屋、間口狭い、出し張り作り、小屋根、鎧庇、吊り金具で吊る当宿場のみ、看板吊る飾り屋根、袖壁、くぐり戸、通り土間・店・勝手・中の間・座敷・裏庭)~高札場~、天保から弘化年間の建物多い、国の重要伝統的建造物群保存地区、奈良井千軒、漆器・曲物、楢川村、漆塗り材料の錆び土産出、 3’28”  
 鎮神社、奈良井村鎮守、峠越え安全祈願、石仏群、 15’10”  
 中の茶屋、 石畳復元、18’07”  
 葬ホウムリ沢、木曾氏と武田氏の古戦場で敗れた武田武将500人の亡骸を葬ったという、木曽路一の難所、旧国道合流、18’36”   
 子産みの栃、頂上手前、子宝に恵まれない人が木の穴に捨てられた子を育てて幸せになったという伝説があり、この栃の実を煎じて飲むと子宝に恵まれるという。 23’45” 
 鳥居峠、h1192m、戦国期、木曾氏が戦勝祈願を峠で行い勝利したので鳥居を建立したことに由来する。御岳遥拝所、石碑、 24’22” 
 丸山公園、峠を薮原側に少し下ったところにあり、芭蕉句碑もある。25’36”  
 薮原宿、江戸から36番目、タガソデソウ、つげのお六櫛、木祖村、 29’24” 
 春夏秋最適な歴史と自然のハイキングコース。

・『歴史の道百選 中山道 第3巻 馬籠峠越え』(妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿)約34分  
羅天、野尻と三留野の迂回路の古道:与川道から妻籠宿を経て馬籠宿(島崎藤村の故郷)への馬籠峠越え、木曽川、木曽名所図会、木曽の桟カケハシ、国道19号線(旧中仙道)、
与川道、~ウツギ、阿弥陀堂、竜のひげ(ジャノヒゲ)~松原御小休所マツバラゴコヤスミジョ、ヤマサギゴケ、ツルキンバイ、キバナノヤマオダマキ、中山道に合流、3’03”経過開始  
 三留野宿:江戸から41番目・長さ2丁15間230m余594人77軒旅籠32本陣脇本陣各1、~本陣跡、枝垂れ梅~等覚寺、円空仏:弁財天十五童子像・韋駄天~、9’40”   
 上久保の一里塚、妻籠宿手前、江戸から78番目、11’15”  
 妻籠宿ツマゴ:南木曾町:江戸から42番目、~口留番所跡近く、鯉岩、木曽名所図会~妻籠宿本陣(復元、上段の間、)~脇本陣奥谷~歴史資料館、和宮から拝領した車付長持~ギンモクセイの大木:長野県指定天然記念物、だし張り作り~上了子屋、牛つなぎの鉄環~松代屋、御嶽講のまねき板、厩ウマヤ~上嵯峨屋:木賃宿~下嵯峨屋・板葺き・石置屋根~、重要伝統的建造物群保存地区、 12’42”  
 男滝オダル・女滝メダル、~石畳道、さわらの大木:樹齢300年、神居木カモイギ・神居座~、20’29”  
 白木改番所跡シラキアラタメバンショ、一石栃イチコクトチの番所跡、木曾五木(ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ)伐採禁止の木材取り締まり、~立場茶屋、茶屋の人たちの墓所~、22’48”   
 馬籠峠マゴメh801m、~正岡子規句碑、コアジサイ、熊野神社~峠集落、十返舎一九歌碑~、 24’18” 
 馬籠宿714人、島崎藤村実家は本陣・問屋・庄屋、~藤村記念館(本陣跡)、馬籠本陣礎石~、28’14” 
 新茶屋、立場茶屋、江戸から83番目一里塚、~一里塚~藤村碑「是より北木曽路」信濃美濃国境~芭蕉句碑、落合の石畳~、30’35”
  
・『歴史の道百選 中山道 第4巻 東美濃路』(落合宿~三城峠~御嵩宿)約35分  
岐阜県中津川市の落合宿から中津川宿、大井宿、大湫宿オオクテ、細久手宿、御嵩宿ミタケまで。国道19号線、21号線沿いで、中津川市、恵那市、瑞浪市、御嵩町。緑豊かな歴史の道。
「是より北、木曽路」藤村石碑、新茶屋、木曽(長野県)と美濃(岐阜県)境、
落合の石畳、十曲峠、ヒトツバタコの木(ナンジャモンジャ)、1’52”経過開始  
 医王寺、山中薬師、十返舎一九「木曽街道続膝栗毛」、きつねこうやく:看板、版木、効能書き、落合川、~下桁橋:木曽街道六十九次・広重画~、4’35”   
 落合宿、江戸から44番目で美濃国最初の宿、本陣の井口家の門は加賀藩より贈られた物、6’15”  
 大井宿、江戸から46番目宿、本陣内樹齢300年以上松老木、7’21”  
 西行苑、西行亡くなるまでの3年間過ごす、~西行塚、七本松坂~槙が根~一里塚~西行の森、恵那山展望、百種類桜~槙が根追分、石道標「右西京大阪 左伊勢名古屋(下街道) 道」~下街道:幕府から通行禁止令~乱れ坂~乱れ橋~紅坂ベニ~深萱フカガヤの立場跡、立場本陣~、8’09”  
 三城峠ミツジロh382m、展望よく近くの三つの城(権現・奥の権現・藤城)が見えたので、~樫の木坂~権現山~一里塚~阿波屋の茶屋跡~三十三観音~尻冷し地蔵、しゃれこ坂、やまなみ坂、寺坂、十三峠越え終わり~、14’27”   
 大湫宿おおくて、天保期人口338人、家66軒、本陣・脇本陣各1、旅籠30軒、格子戸・虫籠窓・土塀、~大湫宿脇本陣~神明神社、神木樹齢1200年杉~観音堂~、 18’23” 
 琵琶峠、石畳、頂上から伊吹山・鈴鹿山脈・加賀の白山展望、~弁財天の池~、21’18”
細久手宿:256人65軒本陣脇本陣各1旅籠24、尾張藩本陣・大黒屋は昔からの旅籠・箱階段、~鴨之巣一里塚コウノス、ドクダミ、ウツボグサ、ノアザミ~謡坂うとうざか御殿場:皇女和宮休憩所、ラベンダー~一呑の清水ヒトノミ~耳神社、願成就で年齢分のキリをすだれに編む~、さいと坂下る、和泉式部廟所~、24’08” 
 御嵩宿、大寺山願興寺(開創平安時代)に江戸期初期領地が与えられ門前町として栄えた、~御嵩宿本陣~願興寺:国重要文化財~、31’12” 


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 15:01Comments(0)古道

2012年05月04日

ビデオ『歴史の道百選 東海道』全3巻 TDKコア 

☆ビデオ『歴史の道百選 東海道』全3巻 TDKコア 
箱根、小夜の中山、鈴鹿峠を紹介している。いつか行ってみたくなる光景だ。もっとも古道らしいところをうまく見せている。歴史的紹介も手際よい。
○・『歴史の道百選 東海道 第1巻 箱根路』(箱根湯元~箱根峠~三島宿)約35分  
箱根旧街道は小田原宿から芦ノ湖畔、箱根宿を経て箱根峠を越えた三島宿までの八里30kmで、遺跡や石畳が多く歴史の面影が色濃く残る古街道である。
箱根湯本、小田原から4km、早川に架かる三枚橋からはじまる。~早雲寺:北条早雲遺言で作られた、北条文化、北条五代の墓、北条早雲像、枯山水香爐峰(北条幻庵作)、鳴き方独特ヒメハルゼミ~正眼ショウゲン寺、地蔵信仰、石仏石塔、曽我堂、曽我五郎槍突石、箱根旧街道、ハコネサンショウウオ~大沢坂、石畳、江戸期のもの~、 1’18”経過開始
 畑宿、箱根寄木細工発祥地、シーボルト絶賛、間の宿 ~畑宿の一里塚、23里目、石畳、排水路の石畳~甘酒茶屋~お玉坂、1702年処刑~、6’32”
 お玉ヶ池、那津奈可池なづながいけと言われていたが関所破りで処刑されたお玉にちなんで名がついた~白水坂(城見ず坂)秀吉軍勢が北条軍から攻撃受け城を見ずに退却したため伝~天ヶ石坂~休憩広場:二子山展望、♫箱根馬子唄♬~権現坂、ここから下り坂、芦ノ湖~湯坂道(鎌倉古道)、アジサイ、芦ノ湖~、11’06”
 箱根神社、もとは箱根権現、関東の鎮護神、山岳信仰、18’19”
 箱根杉並木、650m区間残存、樹齢350年の杉は生育に適さない松から植え替えられたと推定される、 19’17”
箱根関所跡、昔山裾が芦ノ湖に最も迫っていた場所に設置、箱根関所資料館、20’37” 
 箱根宿、幕府が小田原と三島から50戸ずつ移住させて開設、今も町名に小田原町、三島町が残るが往時の面影はない、本陣跡:箱根ホテル前の楓の木:樹齢400年~芦川の石仏~向坂~ 、21’47”
箱根峠、西坂、箱根竹、元はキセルの原料で箱根峠道に敷いていたが労力が大変なので石畳にしたという~兜石坂~施行平、ウツボグサ、ホタルブクロ~念仏石、自然石に南無阿弥陀仏と刻む~願合寺の石畳、ニホンミツバチの巣~雲助徳利の墓~、23’01” 
 山中城跡、畝堀、北条氏築造、秀吉小田原征伐落城、障子堀、本丸跡、矢立の杉~宗閑寺、豊臣と北条武将の墓~富士見平、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」芭蕉~上長坂地区の石畳~こわめし坂、馬頭観世音~錦田の一里塚、約1km松並木~ 28’06”
三島宿、江戸から12番目、旅籠屋多く70~80軒、樋口本陣門(円明寺)、世古本陣門(長園寺)、三島宿風俗絵屏風:三島信用金庫蔵~三島御殿神社:御殿の屋敷神~三嶋大社~ 31’43” 

○・『歴史の道百選 東海道 第2巻 小夜の中山道』(島田宿~大井川~日坂宿)約34分  
 川留めでも賑わった島田宿から越すに越されぬ大井川を渡り金谷宿を経て小夜の中山峠越えで日坂宿への行程。徳川幕府政策により大井川には徒歩渡りしか許可しなかった。
島田宿、最大28日間の川留め記録がある。松尾芭蕉も4日間川留めされた。~大井川川越遺跡:川会所(川越業務を管理運営した所)・蓮台・~塚本家跡:松尾芭蕉逗留・連歌「やわらかにたけよことしの手作麦」如舟「田植とともにたびの朝起」芭蕉~朝顔の松:「朝顔日記」近松門左衛門作~  1’18”経過開始
 大井神社、島田宿氏神、川越安全祈願、土手石垣・平石橋・川越制度廃止後失業した人足や幕府役人は牧之原開墾茶農家 5’09”
 大井川、川越人足、川越し制度1696年、~蓬莱橋:1879年完成の木橋~ 6’14”
 金谷宿、東橋、川留めでも栄える、川を渡ると水祝いと称して酒を酌み交わしたという、佐塚本陣跡、~不動橋:宿西木戸~金谷坂:平成石畳復元、すべらず地蔵:平成~牧之原公園:周辺茶畑~ 8’12”
 諏訪原城跡、1569年信玄砦築く、甲州流築城術、1575年家康によって落城、本丸跡~菊川坂(菊坂):石畳復元~ 13’29”
 菊川の里:間の宿、頼朝・藤原宗行・日野俊基等が通った、詩碑、石道標:遠江三十三箇所観音霊場巡り、 14’52”
 久延寺、山内一豊が境内に茶室を設け関が原に向かう家康を接待したという、そのとき利用した御上井戸、家康手植え五葉松、 19’05”
 小夜の中山公園、歌枕名所:「年たけてまた越ゆべしとおもひきやいのちなりけり小夜の中山」西行・「旅寝するさよの中山さよ中に鹿ぞなくなる妻や恋しき」橘為仲朝臣、狭い谷さやが語源、~小夜鹿サヤカの一里塚~涼み松:「命なりわずかの笠の下涼み」芭蕉~夜泣き石跡:安藤広重「東海道五十三次日坂夜泣き石図」レリーフ、2つの夜泣き石:小泉屋裏と久延寺、夜泣き石伝説・山賊に殺された妊婦の子が飴で育ち仇を取った等~扇屋:子育て飴・川島ちとせ~沓掛七曲り:急坂~  20’58”
 日坂宿、旅籠屋33軒の小さい宿場、本陣扇屋跡、1852年大火、~相伝寺:秋葉山常夜灯:天保十・槙の木~旅籠:川坂屋:大火直後建物で江戸期唯一残る~常現寺:1501年創建・旅人の無縁仏多し~  28’41”  

○・『歴史の道百選 東海道 第3巻 鈴鹿峠越え』(関宿~鈴鹿峠~土山宿)約35分  
三重県と滋賀県境の鈴鹿峠、東の箱根と並び難所、
関宿、関町、日本書紀にも名がある関、47番目宿、東の追分:伊勢神宮一の鳥居、伊勢別街道分岐15里、20年に一度のせき年新宮、石道標、建立・行基伝:地蔵院・愛染堂:重要文化財、地蔵院庭園、瑞光院、権現柿、ご馳走場:地元役人等出迎え用、東西1.8km宿場町歴史的景観保存、むくり屋根:楕円形屋根、塗籠(ぬりごめ):土蔵風漆喰塗り、環金具、揚げ店(ばったり)、関まちなみ資料館、町屋建築、箱階段、部屋三間、裏庭、土蔵、関宿旅籠玉屋歴史資料館:玉屋は今なら高級旅館・安藤広重「東海道五十三次」にも描かれる・広い土間は台所・離れは欄間等高級特別室、深川屋ふかわや寛永年間創業和菓子屋・和三盆:こしあんをぎゅうひで包み白くまぶし鈴鹿の峯に積もる雪に見立てた、関の戸:荷担箱、西の追分:左大和街道・右東海道鈴鹿、 
沓掛の集落、のどかな田園風景、 
 坂下宿、街道有数の宿場、大竹屋本陣跡:大本陣、岩屋観音:高さ18m巨岩に掘られた穴に3体石仏安置、古町(旧坂下宿):1650年代洪水壊滅、サツキ、 
 片山神社、鈴鹿権現・鈴鹿明神・峠越え安全祈願、3常夜灯:享保・文化・延享、ここから鈴鹿峠越え急坂八丁27曲がり約1km、「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」松尾芭蕉、「憂き世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身ならなむ」西行、頂上手前広場は茶屋跡、寛永期8軒茶屋、 
 鏡岩、茶屋跡から脇道進むと鏡岩:姿見伝説・盗賊見張り場伝、田村神社跡:征夷大将軍坂之上田村麻呂鬼女または山賊退治伝説、 
 鈴鹿峠、茶畑、土山町立歴史民俗資料館、茶壷、一大産地、
 万人講常夜灯:巨石3千人奉仕造った、穏やか坂道、鈴鹿馬子唄、一里塚緑地、のどかな田園風景、 
 田村神社:土山宿入口:坂之上田村麻呂鬼女退治伝説:厄除け、 
 土山宿:あいの土山のあいは坂下と相対するか間の宿からという、古代から近江と伊勢を結ぶ交通の要衝、土山本陣、関札多数保存、宿帳、上段の間、街道分岐点多し、石道標、御代参街道は伊勢参拝後の多賀大社参詣利用・あんらく峠・豊臣秀吉も通行、 

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 14:57Comments(0)古道