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2011年03月21日

安倍七観音霊場巡りコース(静岡市駿河区、葵区、清水区)

安倍七観音霊場巡りコース(静岡市駿河区、葵区、清水区
 伝説では、僧:行基が聖武天皇(別の皇族の場合もあり)病気平癒のため、駿河の国(足久保?またはその寺の周辺の場合がある)で樟を切り倒し、七体の観音を彫り、七つの寺に納めたといわれる。
行基は奈良時代に実在した優れた僧であり、畿内をめぐったことは歴史的に確実そうである。静岡県内だけでなく全国的にも、行基開基といわれる寺院はあまたにのぼるが、静岡までには足を伸ばしていないだろう。だからといって、その寺の品位をおとしめようという意図はない。その寺がそれほど古い、あるいは格式がある、行基が目指したことをこの寺は実現したいといいたい。または行基の息のかかった者たちが開基やこの伝説にからんでいたのかもしれない。そう解釈しよう。
 巡礼の順序は、特にどこからはじめるという規則性はないようなので、便宜的に西からつないでみる。静鉄タクシーの巡礼見本コースでもそうなっているが、真似してみようという意図はないので、それとは一部順序を変えてみる。主に巡礼道らしきところを紹介したいのだ。

・徳願寺(静岡市駿河区向敷地689)  
 北条早雲の妹:北川殿の菩提寺。古い石塔類多し。元は大窪寺といって、裏山の山頂(仏平、大久保山、小豆山)付近の扇平に寺があったという。山頂へは裏山のハイキングコースがあるので上ることができる。仏平からさらに尾根を伝い途中歓昌院坂を越えて、大鑪(金偏に戸と書いてだたらと読む、たたらは錧または鑪であり、金戸の字はない)オオダタラ不動尊まで歩いていけるが、時期は晩秋・冬・春がよかろう。私は飯間山さらに谷川峠まで足を延ばせた。
 参道入口に丁石があり、階段を上ればすぐ二丁で山門である。ここに車道が横切っていて、車で境内まで行ける。

 次の建穂へのコースであるが、県道を北上し牧ヶ谷で木枯らしの森を見つつ藁科川を渡るのが無難である。車でならこれになる。
ちなみに古い道を行くなら向敷地の山と平野の境目の道を選んで進むのがお勧めである。古めかしさを味わえよう。安倍川と藁科川が合流する地点に浮かぶ舟山が見える地点の、こちらの山の斜面に昔の道はあったのだろうが、今は通れないだろう。かつては舟山とこの山とはつながっていたようだ。ちなみに木枯らしの森と南の山も地質的に同一でつながっていたことが分かる。牧ヶ谷橋の所で山すそがせまっているが、この丘上の茶畑に昔の峠道らしきが通っている。
 古道好きならあえて遠回りになるが、南周りを紹介する。徳願寺の参道入口から山と平野の境目を南下すると、手児の呼び坂(通称:ぬすっと坂)入口標識がある。この道を通り、北丸子の山すそに沿い龍国寺前を通過し、国道1号線に出て泉ヶ谷の柴屋寺方面を目指す。柴屋寺より奥の歓昌院の裏山越えが、歓昌院坂の古道にしてハイキングコースである。坂を越えると牧ヶ谷であり、石道標が迎えてくれる。牧ヶ谷の牧は古代の軍馬用牧場を意味するかもしれないといわれる。古めかしい田舎びた雰囲気が残っている。道を北上すれば木枯らしの森のある牧ヶ谷橋に出る。その手前左の道を山奥に行くと寺院と古墳を見られる。
 牧ヶ谷橋を渡って国道362号をいったん左折(西)しまた右折(北)し北の山に向かい進めばよい。

・建穂寺タキョウジ(静岡市葵区建穂271)  
 建穂寺は現在廃寺で近くの建穂公民館に寺の遺品が保存されているが、そこへ行く前にかつての所在地を詣でよう。公民館より東500mの建穂神社である。神社裏手は広々した植林地になっているが、かつて坊が軒を連ねた所だろう。裏山の斜面を上っても所々に平坦地があり、建物があったことを知らしめる。裏山の中腹まで建物があったことは絵図で分かる。
 さて公民館に行く。見られる一部の寺宝を見てかつての栄華をしのぶもよし、何かを感じるもよし。
 かつては静岡最大の寺院だった。かつて白鳳年間とされたが現在平安時代創建とされるようだ。静岡まつりのとき、浅間神社は廿日会祭を行う、というより、歴史的順序は逆である。浅間神社に奉納される稚児の舞はこの寺の舞である。今でも建穂地区の子供が舞う。徳川家康ですらこの稚児を出迎えに寺の門前に行き、数時間待たされたという。大御所家康ですら待ち続けさせる寺だったのだ。

次の増善寺へのコースを紹介する。公民館前に石道標があり、「右 当村道 左 久住洞慶院」と刻まれている。この右・当村道が昔の巡礼道で巡礼越えという。また慈悲尾の学童が羽鳥の学校に通学した道なので学校坂とも呼ばれた。公民館前に川が流れているが、この川の上流を目指せばよい。新興住宅地と畑を過ぎると、「林道 慈悲尾線」の看板がある。古道はこの右側にあるが、もう今は寸断されていて通らないほうがよいので、林道を行く。2.5km進み180m上がると切通しの峠で、開通記念碑がある。建穂側の古道は記念碑下左に見え、慈悲尾側は切通し5m上左の倒木の中にある。慈悲尾側は明らかに廃道である。林道を下ると古道を寸断して麓に出る。橋を渡った左に増善寺が見える。
山の林道が苦手なら、安倍川西岸の県道に出て慈悲尾を目指すのが一般的だ。

・増善寺 (静岡市葵区慈悲尾302)  
 681年開基、1500年今川氏により再興。慈悲寺といわれた。今川氏親墓所。徳川家康とも縁が深かった。千手観音菩薩を祀る観音堂があり、前仏が置かれている。秘仏は写真によって分かる。石塔や古い墓石が多い。

 次の法明寺への古道は、本堂真裏のハイキングコースを行くことになるが、まったく案内標識は無いので、寺の関係者か付近の住民に聞くしかない。本堂真裏を5分上ると新しい石標識で「観音堂跡」が立っていて、植林された平坦地だ。かつてここに寺があったのだ。また東下に下る道もある。これは椎之雄神社への道である。北奥へ上っていくと10~15分で高圧鉄塔のある峠に着く。ここに標識があり、西の尾根を上ると安倍城であることを示している。マイナーな安倍城ハイキングコースのひとつなのだ。北は西ヶ谷である。5~10分下れば茶畑奥の舗装路に出られる。あとは西ヶ谷集落をめざせばよい。
 車でなら安倍川西岸の県道に出て美和中学まで進み、左折し足久保奥を目指す。
 なぜ古道は川沿いではなく山越えするかであるが、川の水量が減っているときは河原を歩いたのだろうが、ひとたび水量が増えると川沿いを歩けなかったのだろう。今のようにしっかりした堤防はなく、水量も今のように水害対策が進んで少なかったわけではなく、今の倍から数倍の水量だったと思われる。
 西ヶ谷から足久保へは内牧(牧は古代の官営牧場かもしれない)、中ノ郷、松崎山のいずれから山越えして足久保に行けた。内牧からはいくつかの上り口が廃道である。ただ駿府学園・狩野介貞長記念碑のある尾根から電線巡視路を上っていけば足久保側への下山路になる電線巡視路を見出せよう。しかし国土地理院地形図に記入された古い道はすでに廃道で、別な箇所に電線巡視路が付けられているので、どこにどう道が付け替えられているのか分かりづらい。地図と磁石でルートファインディングできないととても安心して歩けない。基本的に昔ながらの山道は消失している。電線巡視路の標識は数字と記号で表しているのでどこに向かうか分からないのだ。ただ山中を歩いているとここが地図上に記載された古い山道の成れの果てかと思える所がある。結論として巡礼道として古い山道は通れない。
今の自動車道を通ることにするが、なるべく山すその古そうな道を選ぶと古色ゆかしい。
狩野介貞長記念碑、宇知ノ宮神社、はるな地蔵(はるなさん)、大仙寺、白髭神社などを経て松崎山の第二東名高架下を通過する。
 * なお西ヶ谷から足久保についての詳細は『美和(足久保)街道』を参照すればもっと詳しく分かる。

・法明寺 (静岡市葵区足久保奥組1043)  
 美和中学前バス停で左折(西)し西進する。500mほどで県道が、急に右・左に折れ曲がる所がある。札の辻と呼ばれるらしい。ここの理容院と酒屋の間に石道標がある。もう刻字は読めないが、法明寺を指し示している。ここから旧道は少しの間だけ山すそを回りこむがすぐ現県道に合流する。南叟寺手前にも少しだけ山すそ回りの旧道があり、地蔵堂がある。足久保小学校手前の村前橋を渡り川に沿って進み、急な上り坂になると石塔が出現して古色ゆかしい。この上が寺である。

 安倍七観音伝説が色濃く残っていて、行基の彫った楠はこの地にあったという。
古い石塔が多い。周辺は茶畑で上は杉檜植林地。

 ここから霊山寺へは現県道を下り、安倍川に出る。ここから北街道方面に出たいのだが、主なルートは2つである。
① 第二東名高架下の市道の橋を渡り直進し、鯨が池を通過し桜峠トンネルを通り、麻機に出て麻機街道(賎機山東側)を南下し浅間神社前を目指す。浅間神社東前の石鳥居をくぐり長谷通りを進み、北街道に合流し左折(西)すれば清水区方面に進める。
第二東名高架下の橋は、戦前、有料の賃取橋があったので再興したようなものである。桜峠には地蔵が祀られている。
* 『麻機街道』参照。
 ② 美和街道に沿って安倍口団地前を通過し狩野橋を渡り、安倍街道(賎機山西側)に出て浅間神社前を目指す。浅間神社を通過し中町交差点も直進し江川町交差点で左折(西)すると北街道で清水区方面に進める。
 * 『安倍街道』参照。

 北街道とは通称名で「県道 静岡 千代田 清水線」という。江戸時代の東海道より北側にほぼ平行して通っている道なのでそう呼ばれるようだ。実は江戸時代の東海道より古い中世の東海道で、鎌倉と京の都を結ぶ鎌倉街道であった。とはいっても今の自動車が通る県道は大正時代に作られたので、その近辺に付かず離れずに古道が残存していることもある。
 さて北街道を西進し清水区大内に至る前の、瀬名川交差点辺りの南に浄界寺や世尊寺がある。この東西に伸びる狭い道が鎌倉街道で、ここは間の宿:瀬名川の宿である。近くには「矢射タン橋の碑」もある。この碑は、鎌倉時代初期に幕府の重鎮でありながら謀反を起こし、京に脱出を謀った梶原一族が通過する際、幕府側が矢を放った所である。ここが東海道だから通ったということだ。この近辺には梶原氏ゆかりの物事が多い。例えば北に見える山の名は「梶原山」である。彼らが自害して果てた所だからである。

・霊山寺 (静岡市清水区大内597)  
 大内で石道標「大内観音」が見えたら左折(北)し山を目指す。山の中腹に寺の屋根が見える。途中石塔類もあろう。北街道は都市交通網のひとつでせわしないが、大内に入りちょいとした田舎びた雰囲気が味わえる。北進し浅間神社を過ぎると駐車場があり、参道の登山道となる。七つの場所で唯一車で門前に行けない。距離300m、標高差80mである。10~20分で上れるだろう。足の弱い人は参道入口で拝めばよい。
 古義真言宗、仁王門は重要文化財、開創行基といわれる、三十三曲がりの急な細い道は観音三十三身の化現を意味し、途中の6基の丁石は六波羅蜜を意味する。
 この裏山の山頂は帆掛山一本松公園で標高差150mである。

 次は平澤寺である。まず古道ルートを紹介するが、通れないので別ルートをあとで紹介する。北街道に出て広い瀬名川交差点に戻る。この近くのガソリンスタンドの横に消防分団がある。この裏に瀬名川公園があり、ここに石道標がある。ここから南の浄界寺や世尊寺を通って巴川に出て、川向こうの現在国道1号線(国1)の中吉田交差点に出るのが、旧竜爪街道にして平澤観音道へのルートである。しかし11年3月現在、巴川への架橋工事中でまだ橋がないので、別ルートを示す。広い瀬名川交差点を東へ1区間行くと古い瀬名川交差点の信号がある。ここを南に進むと国1に出られる。国1を西に1区間進むと中吉田交差点に着く。古道はボーリング場脇を南に進むが、今は線路を通れない。新道である交差点からまっすぐ南に進む広い道を行く。古道は道1本分東だと思いつつ進めばよい。JR線と静岡鉄道の踏み切りを渡り、静鉄線路に沿い道1本東に移動する。津島神社とやぶきた茶の記念碑があるところを南に曲がる。ここが先ほどから出てくる旧竜爪街道である。広い南幹線を渡り、次の交差点に出ると。ここの東西にはしる道が江戸時代の東海道である。ここで旧竜爪街道は終点となり、この先南に行く道が平沢観音道である。クレー射撃場、乗馬スクール、フランス料理店、平沢動物霊園の道案内があるので迷うことはないだろう。道なりに進めば田舎びた雰囲気と古い石仏にいくつか出会え、門前に達するだろう。
 * 「竜爪街道」、「平沢観音道」については、『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)を参照すれば詳細な説明がある。

・平澤寺ヘイタクジ、平沢観音ひらさわかんのん (静岡市駿河区平沢ヒラサワ50)   
 和銅年間に行基が立ち寄り地蔵菩薩を彫って祀ったことによるという。718年皇子の病気平癒のため再度訪れ七体の観音菩薩を彫り、当寺を含め7体を7つの寺に祀ったという。真言宗。現在動物霊園としても人気を集めている。

 次の鉄舟寺へのルートは、現在の日本平ハイキングコースにして、古い巡礼道が部分的にある。本堂裏左に朽ちかけた石道標があり、ハイキングコースを示す標識もあるので、そちらに向かう。車道をはずれ登山道となるとまた石道標があり、古めかしい巡礼道の趣きがある。絶壁の狭い道を抜け、ゴルフ場横の尾根を越す所にも石道標がある。これまでの石道標には久能寺または久能観音となっている、つまり石道標は江戸時代のものである。ルートは下に下りるが、尾根を北に向かうルートには工事中のため立ち入り禁止となっている。この北ルートは尾根伝いの清水区と駿河区の境で県立大学や県立美術館までつながっている。ここから2~3分も下ると舗装路に出る。舗装路を少し左に見ると舗装路を横断してまた山を上るハイキングコースの標識がある。これまた鉄舟寺に向かう巡礼道である。日本平観光ホテルの横に出るが、山頂を目指すわけではないので、ホテル下側の庭園の下の寂しい車道を下っていく。みかん畑の中の農道となる。この途中で村松方面を示すハイキングコース標識があり、行き止まりであることも示していよう。鉄舟寺に向かう巡礼道のハイキングコースは農場再整備で破壊されてしまった。しかしある程度たどれるので紹介する。行き止まりとなっていてもハイキングコースをしばらく行く。完全にコースが分からなくなるが、山を崩して平らにした農園の左端にはいくつもの山のがけが林立している。その中の多分もっとも左奥(東奥)のがけを10m上り一番高い所に道がついている。しばらく歩くと古い標識がそのまま残っている。標識「日本平←→村松、ハイキングコース」は数本ある。かつての鉄舟寺に向かう巡礼道である。ただ鉄舟寺の観音堂にもう100mばかりという所で耕作放棄された畑の雑草がひどく進むのをあきらめた。かつてはきれいに整備された道で周辺の畑もきれいに整備されていて、鉄舟寺の観音堂まで心地よく歩けたのだが。鉄舟寺の観音堂の右に車が通れそうなほど広い切通し道がついているが、それがこのコースである。道幅はすぐに畑のあぜ道ほどの狭さになる。

・鉄舟寺(久能寺)(静岡市清水区村松2188)  
 臨済宗。本尊:千手観音菩薩。飛鳥時代、久能氏により久能山に堂を建立したのにはじまる。奈良時代、行基が久能寺と号した。聖一国師が学ぶなど駿河一の学問寺として隆盛を極めた。武田信玄が駿河を支配したとき、久能山を山城(久能山城)にするため、久能寺を村松の地に移転した。幕末頃より衰退し明治2年廃寺となった。地元の郷士が山岡鉄舟をリーダーにして再興を果たし、寺名も鉄舟寺とした。

鉄舟寺(久能寺)を目指すルートで、静鉄電車狐ヶ崎駅前ジャスコイーオン横からのものがある。狐ヶ崎駅前を横切る道は江戸時代の東海道である。イーオン左に小さな沢があり、そこのたもとに石道標で「久能寺観音道」と記されている。そのみちである。ただ石道標は移転されていて、道1本分東に行くと南に向かう路地がある。これが「久能寺観音道」である。ルートは道なりに行けば鉄舟寺に着けるわけではなく、紆余曲折が多いルートとなっているが、古めかしい雰囲気を味わえるコースである。
 *  『久能寺観音道』参照。

 戦国期まで鉄舟寺(久能寺)は久能山にあったので、最後に久能山に詣でるのも一興であろう。足が弱い場合、車で日本平山頂へ行き、ロープウェイを使って久能山東照宮へ行く手段もある。苦労したい人は、久能山の石段を一歩一歩踏みしめればよかろう。ちなみに久能寺をしのべるものは一切ないが、かつて久能寺にいた人たちもこの眼下の景色を見ていたのかと感慨にふけることはできる。久能山東照宮は日光東照宮より知名度は落ちるが、こちらの方が先であり、家康が最初に埋葬されたのはここだ。また久能城の遺構として勘助井戸がある。ただし城が築かれたときもう勘助は亡くなっていたはずだが。
 久能までの古道ルートとしては、清水区に「久能街道」があり、駿河区に「大谷街道」や葵区から駿河区にかけて「久能山東照宮道」もある。
 * 『久能街道』、『大谷街道』、『久能山東照宮道』参照。

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 23:06Comments(0)古道

2011年03月20日

林道:慈悲尾線(静岡市葵区)

林道:慈悲尾シイノオ線(静岡市葵区建穂タキョウ←→慈悲尾シイノオ)約5km、標高差180m
 平成13年3月完成。建穂と慈悲尾間に林道が通っていたなどとは10年間も知らなかった。道は一部ダートでギャップはあるが、一応でこぼこで割れ目だらけではありながらもだいぶ舗装がなされている。
 建穂公民館前の石道標に「右 當村道 左 久住洞慶院」と刻まれている。その右の當村道である。この道は昔は安倍七観音霊場の慈悲尾の増善寺と建穂寺を結ぶ巡礼道であり、近代では慈悲尾の学童たちが羽鳥の学校に通うため通った通学路である。そのため巡礼越えとも学校坂とも謂われた古い道である。
建穂公民館の北に向かい沢沿いを上っていく。はじめは新しい住宅地だが程なく畑となり、「林道慈悲尾線」の看板がある。ここからスタートである。2.5kmほど上ると峠の切通しに着く。途中、沢沿いの古道を幾度か寸断するためか、もはや古道は分かりにくい。峠から建穂側の下を見ると左手下に登山道らしきが見えた。これが古道の見納めだろう。植林地の作業道として使われなければ、数年後には藪の中に消失する運命だろう。慈悲尾側は切通しの5m上の左に倒木だらけだが道の跡はあった。こちらはもう廃道化が進んでいる。峠には林道開通記念碑が建立されている。下っていくと幾度か旧道を寸断するようだ。解体業者の処分場のような所に出る。もう少し下るとデイケア施設横に出て増善寺がすぐ左に見える。古道はもう少し東に出るようだが未確認である。おそらく古い遺物はないだろう。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 16:56Comments(0)

2011年03月19日

南藁科街道、藁科街道(補遺)

南藁科街道、藁科街道(補遺
 南藁科街道全域の遺物については、『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)を参照してもらいたい。ここではその本に取り上げられていない遺物について紹介する。
 現在南藁科街道という言い方があり、藁科川南岸(右岸)に通っている県道のことを称するが、昔にはそのような統一された街道名があったとは思われない。しかし現時点で名称があり、便宜上使いやすいので古道研究に対しても用いたと受け止めてもらいたい。 
 建穂関連の藁科街道(川根街道)についての補遺資料も載せる。

・石道標(小瀬戸)、
 三角錐の自然石「右ハたかね道 左ハ山ミち 小せと村、左 ふちゅう」。県道沿い白髭神社と小瀬戸バス停の間を左折し、橋を渡り大森家前の沢を右折上る道が西又(高根)への旧道。旧道先にはかえる石と呼ばれる石があったり、不動明王とされる自然石が祀られていたりした。また大森家前の道を山に上る道が飯間に通じる旧道(山ミち)名残かと思う。

・石道標(西又)、
 西又橋三叉路にかつてあり、「ふちゅう」と刻まれていた。西又には延命地蔵堂、兜菩薩の菩薩堂、観音堂、二十基近い五輪塔もある。

・石道標(鍵穴)
 自然石「右は相又 左は府中」

・石道標(牧ヶ谷) ……*『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)所収、
 自然石「左 山ミチ、是より 右まりこ道」

・石道標(建穂)、
 自然石「右 当村山道、左 久住洞慶院道、文化五戌辰七月 (梵字) 願主西国順礼供養 □□」、右の当村山道は慈悲尾の増善寺へのじゅんれいごえであり、慈悲尾の子達が学校に通うため越えた学校坂である。地元ではこの石のことを「たて石」と呼ぶ。現在建穂公民館前に安置。

・地蔵道標(建穂)、
 建穂公会堂外に六地蔵道標がある。かつて建穂寺の丁石であった。初丁と三丁の側面に「観音道」、二丁と四丁、六丁には「元禄九丙子年」

・石道標(飯間)、
 飯間の入口から2km、こばん沢の500m手前、「奉順禮 安永九歳子八月吉日 右ハあさいなみち 左ハやまみち 願主當村 又□衛門 藤左衛門 善七□門 源右□門 同行四人」、蓮の蕾を持った弁財天が彫られている。あさいなは朝比奈のことである。

・石道標(小園)、
 自然石(高さ60cm、底面40cm、三角形)「右はおそのあきば道 左はみやじまおか辺」、近くに供養塔「文化十年」と地蔵菩薩(祠は昭和五年九月に作り変えた、木札:駿河一国百地蔵尊第十八番)がある。

・隅石(小瀬戸)、
 行司沢の1本手前の崩沢奥で森氏宅先の茶畑を過ぎて行くと樹間にあるようだ。駿府城石垣用の石切り場で残された石である。

・参考文献、
『藁科川のほとり』戸塚孝一郎(龍書房)’71

戸塚孝一郎について
 静岡市の歯科医、静岡市郊外の山間部の人情、石造物、古道に関心をもち、それについてのエッセーを書き、数冊の本にして出版した。住所:静岡市本通1丁目3の2、tel:054-253-1038、戸塚歯科医院
 以下著書紹介。
『人生ところどころ』(中外医学社)’61
『野山の仏』(金剛社)’63
『心の旅』(ギャラリー吾八)’67
『山村を訪ねて』(ギャラリー吾八)’69
『道』(龍書房)’69
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:31Comments(0)古道