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2018年03月18日

川根路

~川根路~
’14 3/9
調査は今後随時行っていきますが、しばらく休業するので、記事内容は中途半端なまま放置します。今後おいおい少しずつおこなっていくつもりです。
 基本的に大井川沿いの街道を下流から上流に進む予定です。島田市、旧金谷町の旧東海道と川沿いの道との分岐点から始めて静岡市井川駅までとしたいですが、まだ未定です。
 途中川根筋の秋葉街道に重複するがそれはそれでおもしろかろうと思います。
*川根筋の秋葉街道については『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)や広谷氏のホームページ『東海道山筋紀行』を参照ください。
 
・お茶の郷(島田市金谷)
 
・桜トンネル(島田市川根町家代)
 
・音戯の郷(川根本町千頭) 
 
・草分観音堂(川根本町千頭163⁻1⁻2) 
 ・庚申塔 昭和六年 郷平安全、・手洗石:昭和十五年、・お堂:草分け観世音菩薩、
・地蔵2(川根本町千頭1199)川根大橋袂、 
 
・泉頭四郎兵衛の墓(川根本町千頭950⁻2) 
 ・昭和十六年、代々諸精霊 千頭院開谿明到居士 弘徳院圓光盛満居士 
・秋葉常夜灯、町指定文化財、建造物(川根本町千頭973⁻2) 
 ・説明版:指定:平成17年3月23日、創建は詳らかではないが江戸時代末期慶應元年(1865)秋葉山信仰の象徴として造建されたものといわれている。最初は寺島区にあったが、その後千頭西区に移築された。本体は寄棟造りの精巧華美な造りである。先人たちの優洽なる遺制を継承し、屋字の修理と上屋の新築を成就し、平成18年2月、千頭3地区区民一同が、此処、川根本町千頭沢屋に再建した。  川根本町教育委員会 
・豊川稲荷千頭別院(川根本町千頭901) 
 ・石碑:神社名:昭和六十年、・石稲荷2:昭和六十年、・手洗石:昭和六十一年、・石燈籠2:新:、・織部型石燈籠:新:、・祠:、・石稲荷4、・石燈籠:欠:、
・交通安全地蔵尊、燈籠(川根本町千頭806) 
 
・燈籠(川根本町千頭805) 
 石塀の端が石灯籠になっている。というか石燈籠を端にして塀を築いたというべきか。
・敬満大井神社(川根本町千頭801)林道横沢線、 
 ・石柵:昭和五十七年、・大杉:数本、・祠4、・常夜灯2:立太子記念、・常夜灯2:新:、
・石鳥居:平成元年、・手洗石:明治二十七年、・石碑2:供進(手偏に昔)定郷社敬満大井神社:昭和九年、・石鳥居:明治四十四年、  
・説明版:鎮座地:榛原郡川根本町千頭750番地、祭神名:伊弉再(諾)尊、天児屋根命、日本武尊、瀬織津姫命、境内社:八幡神社、誉田別尊、宝物:鰐口 応永26年銘一 永正6年銘一(静岡県指定文化財)、銅製 釣燈籠 文政11年銘一、由緒:創立年代不詳だが、古老の伝に依れば「景行天皇の御宇日本武尊東征の際、伊弉再(諾)尊、天児屋根命の二柱を勧請し社名を敬満社と号し、のち日本武尊、瀬織津姫命の二柱を配祀して敬満大井神社と謂う」とあり。明治6年3月郷社に列せられ、大正4年10月15日神饌幣帛料供進社に指定された。大正9年11月本殿並びに拝殿の新造営を行う。八幡社は創立年代は不詳であるが元千頭八幡山に鎮座の所、明治7年、久能社、中森社、神明社、草別社とともに境内社として合祀奉斎した。昭和21年6月15日宗教法人令による神社を設立し、昭和28年6月25日宗教法人法による神社を設立登記した。   平成7年10月吉日 
・大井神社(川根本町奥泉294-22) 
 ・石鳥居:昭和三十年、・石碑:大井神社 平成十年、・石燈籠2:昭和十五年、・狛犬2:皇紀二千六百一年 東京帝国大學醫學部卒業記念、・手洗石:、・青面金剛:大正九庚申年、
 ・丸石、・如意棒、
  ・説明版:鎮座地:榛原郡川根本町奥泉261番地、御祭神:彌都波能賣命みづはのめのみこと、合祀:立山神社、祭神:大山袛命おおやまづみのみこと、由緒:創立年代不詳なるも古老の伝ふる処に依れば、亀山天皇の御宇文応年中己(1260)に社殿を建立祭祀せりと謂う。而して当時の社地は、字栂ノ間出が元の社地であり、降りて文亀二年(1302)11月24日現在の地に御遷座。立山神社は元境内別殿なりしを明治七年1月合祀された。文亀壬戌二年11月24日の棟札を始め、元禄丙子九年、宝永丙戌三年、享保辛丑六年、宝暦巳十一年、文化巳六年と年次を追いて棟札現存せり。大正四年から六年にかけ本殿雨覆並びに拝殿の改築を行う。大正九年6月村社に列せられ、大正九年9月神饌幣帛料供進社に指定される。昭和二十八年6月宗教法人法による神社を設立登記した。昭和63年3月本殿雨覆改築、平成10年12月拝殿を改築する。  平成10年12月吉日  之建
  ・大井神社前の県道の向こうの窪地はもとは池で穴を掘って水抜きして開墾したものである。穴も計算違いで二度掘っている。
 「大蛇と娘」伝説もあり、『本川根町の伝説』や『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸(静岡新聞社)に詳しい。この池に大蛇がいて、池のほとりで洗濯した娘を追いかけたが、娘は寺に入って助かったとも、池に引きずり込まれたともいう。大蛇はすぐ野守の池に去ったとも、怒った村人がトンネルを掘り苦労の末、池の水を抜いて大蛇を追い出したともいう。
・長島ダム 

・お堂(川根本町犬間427平田) 
 ・鐘、・お堂 
・レインボーブリッジ 

・岩瀧不動堂(川根本町犬間) 
 ・説明版:文久の初めの頃犬間村は疫病が流行して困窮しておりました。ある日、志太郡高田村の日正坊と名乗る修験僧が現れ「村に疫病が流行しているのは不動明王の祟りがあるからだ。この川の上流に不動明王の宿る石があるから私が祈祷してあげる。もし疫病が鎮まったならばその石を滝の傍らに運んでお堂に納めて供養するがよい」と告げました。」ほどなく疫病は治まり村は平穏になりました。村の若い衆は法印のお告げによってその石を探しにゆき、ここにお迎えしたといわれます。村人は鎮座の滝を「不動の滝」と名付けその傍らに堂宇を建立、文久3年10月28日、観天寺和尚玲童興師によって開眼供養の法要を行いました。以来毎年1月には法印の司宰による供養祭を行って今日に至っております。また堂宇の中に石の地蔵菩薩が併置してありますが、これは昭和28年まで不動堂の真下に村の自家発電所があってその守り仏として祀ってあったものです。  
   平成13年1月吉日  岩瀧不動堂奉賛会 
・若宮神社(川根本町犬間) 
 ・石鳥居:平成九年、・手洗石:昭和四十四年、 
・川根本町やまびこ資料館(川根本町90⁻1) 
 
・河内地蔵堂(川根本町梅地275) 
 ・不動?青面?六臀:文政元寅(弐卯)年七月、・小さい木造仏像:数個、・観音:宝永七、・地蔵、・小さい地蔵:多数木造あり、・地蔵、・観音:嘉永三、・地蔵、
  ・説明版:河内地蔵の由来:湯の河内沢の左岸に地蔵場と呼ばれる平場があります。そこは静岡へ抜ける街道にあたり、梅地の村人たちは旅の無事を祈って小さな地蔵を建て、手厚く供養していました。ある年の暮れ、地蔵場を通りかかった川狩り人夫の一人が「なんて粗末な地蔵だ、生があるか試してやる」と大鳶で叩き割ってしまいました。その人夫は川狩りの最中、足を滑らせ激流に飲み込まれてしまったそうです。その後梅地の村人は壊れた地蔵に代わる新しい地蔵を祀りましたが、その地蔵には貞享二年(1685)と刻まれています。更に年月を重ね、地蔵は少しずつ梅地に近づき梅雲寺の跡地に祀られていましたが、平成13年この地に安置されました。  平成13年4月20日 梅地地区 
・新:平和観音、梅地神楽説明版(川根本町梅地365⁻1)接阻峡温泉会館 
  ・梅津神楽:静岡県指定無形民俗文化財:説明版:昭和47年3月24日指定、保持者:梅津神楽保存会、起源:室町時代の応仁元年(1467)京都では足利将軍家の相続争いから応仁の乱が生じました。この頃、京都梅津(現右京区)の里に住んでいた築地氏が一族を率いて都落ちし、信州飯田を経てこの地に至って村を開きました。築地氏は京都の梅津に因んで梅津と(後に梅地となる)氏神を歓請して自ら神主となり、その社前で奉納したのが梅津神楽のはじまりと伝えられます。梅津神楽は大井川、安倍川流域に広く分布する神楽との共通点が多くみられることから、駿河神楽の一つであると考えられています。
   祭典:梅地の谺 石神社、犬間の若宮神社の祭典の前夜祭に奉納されるもので、昭和31年より両神社で隔年交互に行われています。神楽の奉納は、毎年接阻峡温泉会館で1月第3土曜日に行われます。当日は正午に神楽祭が始まり、午後4時から神楽が奉納されます。
  すべての舞の基本となる「幣の舞」をはじめ、「三宝の舞」「八幡の舞」「鬼の舞」「八王子の舞」「須佐之男の舞」「梅津流太刀の舞」「殿の舞」「恵比寿・大黒の舞」「翁の舞」「五方の舞」「金丸の舞」「宇須賣の舞」「米の舞」「大弓の舞」の16の舞があります。神楽当日には、同じ舞が2回演じられたり、ある舞が演じられなかったり、順番が入れ替わったりすることもあります。また「ヘンバイ」という特別な祈願のある時にしか行われない儀式もあり、この地域では新築の地固めや安産祈願などの特別な祈願のある時に行われてきました。近年では安産祈願や接岨峡温泉のボーリング調査、長島ダム工事の時に行われました。   川根本町教育委員会 
・谺(谷令)石神社こだまいし(川根本町梅地310)
 ・石鳥居:昭和五十五年、・手洗石:大正四年、
 ・説明版:祭神:石凝姥命いしこりどめのみこと他2神、由緒:応仁の乱(1467~77)は京都を荒廃に帰したが、この頃京都梅津に住む築地清右衛門菅原の重常という武士が都落ちしてこの地に至り梅地村を開き、氏神として谺(谷令)石こだまいし神社を創建したと伝えられている。築地氏は梅地において砂金採取を生業としたので祭神は金鉱採掘ゆかりの神「石凝姥命」(八咫ヤタの鐘を鋳造した神)を勧請したものであろう。御神体は繭形をした円石で閏年の祭りの時、神の沢で御神体を清め真綿と和紙で御神体を包む神事がある。谺(谷令) 石の社名は昔は児玉石で蚕霊こだま―蚕玉―児玉と蚕と石の関係を説く学者もいる。明治になって谺と(谷ヘンに令、谷令)の文字が使われるようになったが、木の精、木魂こだまが聞こえる境内は、心のやすらぎの場所となっている。県指定無形民俗文化財「梅津神楽」は当社に伝わる郷土芸能で隔年冬祭りに奉納される。 


・大井神社(静岡市井川閑蔵2246⁻3) 
 かつての閑蔵林道今は県道を川根本町千頭方面へ下り閑蔵駅前で閑蔵の集落へ下っていくとある。
・金属鳥居:、・子安観世音:大正十五年七月、
・説明版:鎮座地:静岡市井川2246‐3、祭神:岡象女命みづはのめのみこと、例祭日:1月2日、由緒:元禄元年創建と伝えられる。




〇〇…石倉峠、鵜瀬山うのせやま標高・374m、見返し峠、地名峠、川根街道  
  使用資料
・2011年7月1日静岡新聞夕刊「しずおか峠今昔24」著:児平孤ぶ(木偏に無の文字、木無)
   庵
・国土地理院2万5千分1地形図「家山」
・2万分1地図:明治22年測量、大日本帝国陸地測量部「下川根村」

 場所は、島田市(旧川根町)笹間渡と、川根本町(旧中川根町)地名の間の峠道だそうである。
 資料は、2011年7月1日静岡新聞夕刊「しずおか峠今昔24」著:児平孤ぶ(木偏に無の文字、木無)庵の所収である。現在はまったく知られていない峠で廃道である。
以下に児平氏の文章を要約引用させてもらう。200年前に存在した証拠として、桑原藤泰(黙斎):著による『大井川源紀行』を挙げている。彼は『駿河記』をまとめるため駿河各村を回った。そのとき奥大井にも分け入った。ときは1812(文化九)年3月、笹間渡村から川幅約70m の笹間川を渡り、胸を突く山坂を登ると稜線の峠道に至るとのことだ。途中鵜瀬山標高374mを通るとのことだ。
児平氏は笹間川右岸の推定した場所から上り、地名まで無事縦走したようだ。正確な位置は記入されていないが、書かれていることから現在の場所を推定すると、笹間渡の北で笹間川となり、大井川鉄道地名トンネルの東に並行する尾根が石倉峠と思われる。尾根の南に標高・374mのピークがある。これが鵜瀬山で間違いなかろう。
そこで取り付き点は笹間渡の旧県道を通り笹間川の対岸の茶畑に橋を渡り、鵜瀬山標高374mの南斜面に取り付きピークを目指せばよいのだろう。うまくすると古道の廃道があろう。尾根には通れる古道に出くわすかもしれない。ただどこから地名に向かい下山するか分からない。△310.6mピーク辺りで西に降りればよいのだろう。
一応少しでも昔の道の情報を得るため、2万分1地図:明治22年測量、大日本帝国陸地測量部「下川根村」を参照した。鵜瀬山の北及び西の尾根上には点線があるので、この明治20年代時点で道があることが分かるが、それ以上の情報があった。笹間渡の集落から道は今の大鉄線路付近を通り北に向かい、笹間川を線路より東に100m地点で渡河し、北東方向へ向かうよう鵜瀬山の南斜面に取り付く。山頂は目指さず、南斜面を南から東に巻くように上り、鵜瀬山南東尾根で標高300m付近に到達し、それ以上は上らず北尾根に沿うよう標高300m付近を北に並行に進み、△310.6mを過ぎたところで西北の地名に向かい下っていく。ちょうど県道地名トンネルの北出入口付近につながるようだ。ただこのルートだと鵜瀬山山頂を通らないので、近世末期から近代初期の道かも知れない。
さて今は7月なので廃道は藪蚊蜘蛛の巣蛇で入りたくない。次の初冬から陽春にかけての宿題が一つできた。その頃に私はこの藪山に取り付いていることだろう。

 *以前紹介した「トワ山」「中村山」は大棚山、打越峠とともに「玉川トレイルレース」のコースになりました。喜ばしいことです。

・12,3,4(日)、午前中、川根本町のマラソン5kmに参加後、地名トンネル付近を車で目指す。
 笹間川ダム下流の旧舗装道へ出て、現在の新道が笹間川を渡る超高架橋の真下に行く。向かいは車の解体場か。この辺りから北に上る斜面を見ると急斜面でひどい藪ばかりで上るのは困難そうだ。昔の笹間川渡河地点はここからさらに500m下流の大井川鉄道が川を渡る辺りだが、河原を下っていくのも大変そうだ。雨が本格的に降り出してきた。
ここで北の地名に車で向かう。地名トンネル北口付近で車を降り、山に取り付けそうな所を探す。すぐ西の線路より東に線路に沿うよう旧舗装道「町道地名南線」390mがある。入り口はチェーンが張られ車では入れないが、歩いて進む。インド風で今風の真新しい大日如来石像が祀られている。妙なミスマッチだが、なぜこんな廃道寸前の所にあるのか。道自体は今後廃道化が進むだろう。20年ほど前まではこれが主要道だったのだが、今は誰にも知られず埋もれていくのだ。390m進むと、かつてのトンネル入口の壁面が見える。上に「地名」の文字が見える。その横は多分「隧道」と書かれているのだろう。入口の穴は土砂で完全にふさがれている。廃道や廃トンネルのファン必見の場である。歩いていたらすぐ下の線路から煙モクモクで「ポー」という汽笛が聞こえる。蒸気機関車だ。今日は日曜日なので汽車が走る日だ。(大井川鉄道はいつも汽車が通るわけではない。ただ汽車でなくとも相当古い他の鉄道で使われていたものを再利用しているので、鉄道ファンにはたまらないらしい。)運よく木の間越しに見られた。煙は道より下にふんわり浮かんだまま消えていった。町道の終わりより先に電線巡視路が山の斜面を上っていくのが分かる。地図上では標高差80mで尾根に至り、その北に三角点310.6mがあるはずだ。ここから上れると判断したが、今は降り出す雨の中やめておき次回の楽しみにする。
 ここで北の地名集落を目指す。地名と石風呂の間の大井川を渡る昭和橋のたもとに石倉峠、鵜瀬山を通ってきた古い道が出て、地名の集落に入っていたことは、明治20年代の地図で確認できる。そこで昭和橋たもとを目指す。ちなみに昭和橋対岸にユースホステルがあり、地名側には「テゴーカントリーともしび」がある。ともしびと山の間になんと古い道が残っている。今も使われていて、歩ける。小さな川を渡る所には新しい赤い鉄橋歩道が作られている。道は整備されている。橋を渡るとまたインド風今風大日如来石像が祀られている。整備された歩道は川沿いに茶畑を目指すようだ。石倉峠方向へはここで右折し川を離れる切通しの道方向だ。なにやらぐちゃぐちゃそうな廃道だ。ここで濡れた石段にすべり転ぶ。雨も降っているので、今日はここでやめる。それにしても「ともしび」裏の歩道は、いわば江戸時代から続く由緒ある大井川の街道の残存部といっていいのだろう。古街道の一部は残っていた。また地名周辺では今風の石仏を祀るのが流行っているらしい。

・12,3,11(日)、午前中、先週目星を付けた標識「町道地名南線」入口から出発。隣は今の「地名トンネル」地名側入口、今風な大日如来像もある。この標識裏の山取り付きに標識「見返し峠☞徒歩20分」を見つけた。だが先が藪っぽいので入るのをやめ、前回町道終点から上る電線巡視路No.42を目指す。(結果から言うと標識「見返し峠☞」から山に入るのが正解だった。) 町道終点の古い「地名隧道」の埋もれた所から電線巡視路No.42に従い山に登る。しかしすぐに道らしさが失われる。電線巡視路は草刈され、道がしっかりしていると信用していたので、こういうこともあることを知った。付近の木々にピンクか赤のテーピングがされ、境界線標識が直登で付けられているのを発見。これを目印に直登していく。峠より少し南の地点を直登。峠の南の峠より少し高い尾根に着く。尾根の東側下には木の間越しに笹間湖がまぶしく見える。峠を目指し尾根を北へ下る。尾根の鞍部には標識「櫟(くぬぎ)大日」と家型石製道祖神が祀られていた。尾根を南北に進む道と西の地名側に下る電線巡視路No.42.。これが地名に下る旧古街道であろう。尾根の東下を南に平らな道らしきラインが進んでいくのが分かる。これこそ笹間渡に下る旧古街道であろう。この笹間渡へ向かう旧古街道を南に進む。すぐに崩落が相次ぐ。50mに1箇所ずつ崩落している。3~4越えた辺りであきらめて戻る。この先さらに崩落が進み旧古街道は消失するだろう。今度は峠から北の尾根を進み三角点310.6mを目指す。少しだらだら上っていくと左に三等三角点があり、「地名峠 昭和五十八年七月 基本測量」の標識もあった。もう少し北に尾根を進むと鞍部にアンテナが立ち、「猟銃注意」の標識があった。ここも峠で西の地名側に下る道と尾根をまたいで尾根東側を北に進む道があった。おそらく下笹間桑ノ山方向を目指すのだろう。道幅は1.2mほどで、平に進んでいくが、時々道端が崩落している。この先急斜面では一気に崩落しているだろう。この道も消失の一途になるだろう。途中で引き返す。アンテナのある峠から地名に下る道はどうも櫟大日の峠から下る道の上を下っていくようだ。ここで櫟大日に戻り、地名に下るのだが、その前に尾根を南にとり鵜瀬山374mを上ればよかったと後悔している。このときそこまで頭が回らなかった。櫟大日で地名方向(電線巡視路No.42)を下る。下りだしてすぐ、切通し道をはずれる方向にも電線巡視路標識が矢印を向けている。初め登ってきた方向である。このはずれ道は途中で道らしさはなくなるだろうが、初め上ってきた辺りに合流すると思われる。さて切通しのしっかりした道を下り続ける。おそらく初めに見つけた標識「見返し峠☞徒歩20分」に至るのだろう。(結果は当たり。) 草もあるが、ほぼ平坦で1.2m幅の道は歩きやすい。途中、碍子(ガイシ)が時々見つかる。これは山の中の旧街道にはよくあることで、かつてこの道沿いに電信柱が村まで通っていた証拠で、この道が自動車道開通以前の主要道だったことを意味する。壊れていないボルト付き碍子を1個発見。ボルトを道に突き刺しておいた。ちなみに電柱跡は見つからなかった。だがこのあと一大発見があった。道の上を見ると植林を透かして上にも道があるような気がする。だとしたら先ほどのアンテナのある峠からの下山路のはず。そしてこの2つの道をつなぐらしき道も壊れかかりながらも残存していた。下を見ると初め通った町道地名南線のガードレールが見える。機関車の通る音も聞こえる。石道標―――発見。「御大典記念 徳山村 右 川根街道、笹間渡(二粁)ヲ経テ伊久美村、島田町ニ通ズ 左 笹間村、桑野山(三粁)ヲ経テ藤□町、静岡市ヘ通ズ」昭和初期のものだろう。ここが間違いなく主要街道の川根街道だった証拠だ。そして明治20年代地図に記入された地点通りなので明治初期あるいは江戸期末期にはここが使われていたものと推定する。そしてこの右は今まで下山してきた道で左ルートは、この上を通っていたアンテナからの下山路で、笹間村、桑野山への道は尾根をまたいで尾根東側を北へ向かう道のはずで、この石道標のある所が2つの道の分岐点である。この2つの峠は三角点地名峠を挟み尾根伝いにつながっている。石道標を後にして少し下山すると今の地名トンネル入口真上をまたぎ、町道地名南線入口の標識「見返し峠☞徒歩20分」に至り、町道に出て終了。しかし昔の川根街道は町道の下の梅林を下り、どうも線路を横断し大井川の崖上を南に進み、川を渡り、今茶畑となっている、茶畑への野良道の切り通し「ウトロ大日」に出たようだ。茶畑からは昭和橋たもとまでは野良道として残存しているが、町道下の梅林から茶畑までは消失と思われる。茶畑への野良道の切り通し「ウトロ大日」から切通しを下ると今風の大日如来が祀られ、その先の川を渡る赤い鉄橋が見える。右に分岐する道は茶畑に出て今の県道にも出られる。赤い鉄橋(歩道幅)を渡り進むと大井川沿いの崖上を通過し「テンゴーカントリーともしび」前に出る。さらに進むと、昭和橋の県道下ガードをくぐり、道なりに進むと、これまた今風大日如来前を通過し、左に進む。(ここで後ろに進む道もあり、これは昭和橋以前のかつての吊り橋があった橋のたもとで今もコンクリート製橋脚が残っている。向かい側の石風呂側のユースホステルの横にも橋脚が残っている。)話を戻して、左に進むと、かつての地名小学校跡地で石碑と地蔵があり、今は地名保育園である。その先に「地名阿弥陀堂」、火の見櫓と神社、地名用水があり、五輪塔や石仏、石道標「右 大井神社 左 西地名□□」(建てた人は三倉氏他2名)がある。地名阿弥陀堂は1月15日、夜通し男女が火踊りをしたらしい。ここでもかつてはいわゆるヒヨンドリが行われていたのだ。さてここを過ぎると地名駅近くで地名中心部で郵便局等もある。地名駅近くの踏切を渡るとき駅方向を見ると、いわゆる日本一短いトンネルも見える。ここで県道に出て今日はおしまい。そういえば線路沿いにはカメラマンうじゃうじゃ、道路には他県ナンバー車(福岡等)多かったです。今日は日曜で蒸気機関車が通る日だからです。SLは全国から人を集めるようだ。

・’18 3/11(日)、川根本町のマラソン大会後、車で地名トンネルを抜け、トンネル南側入り口交差点から東へ笹間湖に沿い県道を800m進む。県道沿いに別荘地に出る。この別荘地の一番上の家を目指す。この一番上と2段目ぐらいの別荘の住人に古道について聞いた。答えは別荘地上の雑草や沢は一番上の住人(黒人)がきれいにしたが、道はないとのこと。その代わりに別荘地より東に県道を500m進むと山に登る林道があり、その林道をかなり詰めると歩道(登山道、古道)があるとのこと。
ここで古道を見つけることをあきらめるが、結果から言うと、この別荘地の一番上またはそのすぐ西側の杉檜植林地内のシイタケ栽培地の5~10m上に古道は平坦に伸びていて、ちょうど別荘地に流れ込む沢の手前で古道は消失する。これより西側は別荘地や県道用地で消失している。想定ではここからさらに下るように西に延び現在の県道辺りに重なると思われる。
一旦、地名トンネル北側に行き、ここから古道に入り、見返し峠を目指す。峠のクヌギ櫟大日の横の大木が倒れ、大日の石祠がやっとつぶされない状態でちんまりと鎮座していた。ここから尾根沿いに北へ200m進む。東の桑の山と北の地名トンネル北入り口への分岐点へ出る。アンテナ塔と猟銃注意看板がある。東の桑の山への道は6年前は道幅1.2mと記入したが、今回は50㎝もない。おかしい。こんなに間違えたのか? たった6年で道幅が70㎝も減少したようだ。櫟大日では大木が倒れたままだし、山の荒廃がひどい。この桑の山への道が別荘地上につながる道である。この道幅は峠のスタート地点で50㎝、途中は崩壊している箇所が2~3か所あり道幅0㎝で、平均しても10~20㎝程度だ。別荘地まで距離800mで標高差50mである。崩壊個所は2~3か所で道が分かりにくいが、距離800mで標高差50mということはほぼ平坦に近い歩道なので、付近をよく探せば見つかる。崩壊していても、手を付くか、杖を用いれば乗り切れるだろう。片道15~20分。






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