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2023年02月05日

美和街道

美和(足久保)街道
・分岐点
 安倍街道の籠上・昭府・平和町の境目から美和街道(県道大川静岡線)は分岐する。街道は町境とも一致しているのであまり昔から変わっていないのではなかろうか。
 籠上から安倍口を経て、足久保、さらには栃沢、大川を結んでいた街道である。
 足久保地内では河原を歩いたと記され、古い絵図でもそのように描かれていてきちんとした道ではない部分があったようだ。河原道の雰囲気をとどめるのは谷沢の足様神社前の参道である。
 美和街道の途中途中にある集落から別集落に至る枝道も順次紹介するようにした。かなりの数の峠越えの道がかつて存在したようだ。
・狩野橋
 近代に作られた橋で、渋滞で問題になることが多かった橋である。橋を渡り終えると安倍川西岸の道(県道梅が島温泉昭和線)と合流する。
・供養塔(西ヶ谷)
 西ヶ谷の辻にあって分岐を示す。「庚申供養塔」、地蔵3基。
・七社神社(西ヶ谷) 
 供養塔の少し北にある。本殿、拝殿、堂、鳥居、家型道祖神か祠、祠、黒い溶岩4つ、手洗鉢の水は常に出ているので湧水らしい。
・(つけたし付録)しずもーる西ヶ谷:西ヶ谷資源循環体験プラザ、西ヶ谷清掃工場敷地内   
 古い街道とは全く関係ないが、14年2月下旬にリサイクル体験施設がオープンするので一言記入しておく。足湯、温泉、4R(リフューズ断る、リデュース減らす、リユース再使用する、リサイクル再生利用する)体験、吹きガラス、サンドブラスト、木材工房。
・山法師公園(安倍口新田281-2)
 ・石像:二宮金次郎が薪を背負い本を読む姿だが、古めかしくなく新しい作品のようだ。
(枝道)・西ヶ谷と慈悲尾の増善寺との峠、乙女峠、乙女坂または跡見坂
 電線巡視路で安倍城址コースとなっている。峠は高圧鉄塔があり、上り下り各10~15分で麓と峠を結ぶ。西ヶ谷
・安倍城
 南北朝期、南朝方の有力武将、狩野介貞長の山城の居城。南に久住砦、北に内牧城等を従え、一大城砦群だったことが分かる。なお普段武将が山城に住んでいたわけではなく、非常時に使われるもので、普段は麓の館に住んでいたはずである。館は結城寺のある内牧周辺と考えられる。
・内牧城、古墳
 安倍城の枝城。結城寺の近くで現在茶園となっている丘である。
・結城寺(内牧)
 開基は工藤祐経(曽我物語で知られる鎌倉期の武将)と謂われる。古びた2基の五輪塔があり、彼または貞長の墓と謂われるが、はっきりしない。周辺はベッドタウンと化した郊外地だが、ひとたび山門内に入ると、しっとりした山の中の古刹という雰囲気が味わえる。なぜ開基が工藤祐経なのかという理由もはっきりしないなど、歴史的にミステリアスである。
・狩野介貞長墓(内牧 内宮町134⁻1付近)、板碑、地蔵2体他、
 大正七年に記念して建立されたようだ。この近辺に彼ら一族の館もあったと思われる。他の石造物も置かれている。
山の突端部のこの場所から内牧と足久保境の尾根が電線巡視路になっていて登っていけるようだ。2022年山道は廃道と思われる。
・地蔵2:
・板碑:皇日本~~~
・手洗石:
・道祖神祠:神座像?
・石碑:奉納金壱佰圓也~~~ 昭和十年
・石碑:忠臣~~~   大正十年
・石碑:贈正四位狩野之介貞長之墓  大正七年
・五輪塔
・灯籠2:
・宇知ノ宮神社(内牧 内宮町64-2付近)
 丘の上にある。とくに古いものはなく、樹木も数百年というものはない。だが狩野貞長との関連性が指摘されている。この丘陵は北側の削られた山に接続していたのだろう。
 「内牧」の地名の牧は古代大和朝廷における官営牧場(軍用馬)の意とされ、「牧が谷」の牧と同様に考えられている。
 ・石鳥居:大正四年
 ・石碑:安倍城主狩野介貞長  平成元年
 ・石灯籠2:大正四年
 ・手洗石:奉納
 ・本殿
(枝道)・内牧と新間の峠道
 通称「嫁っ子道」、「嫁子越」ヨメコゴシと謂われたように、両村の婚姻で使われ、里帰りにも使われた。内牧奥の西から新間一色に抜けたようだ。片道1時間だったという。現在通行できるか不明。
(枝道)・内牧、八十岡と水見色、新間の峠道
 単純に今の道に置き換えれば、高山市民の森ハイキングコースと重なる部分がある。高山の南の峠(鞍部)を境にして上り下りできたようだ。この峠から南に行けば新間にも出られたようだ。以上4地点が山の中でつながっていたのだ。現在の地形図でもある程度確認できる。ただしハイキングコースからはみ出た部分が、現在通行可能かは不明。
 現在のハイキングコースは八十岡から高山、水見色から高山がコースである。内牧から八十岡コースに接続できるか不明。新間から沢沿いに高山への林道に接続できるか不明。
・神明宮(与左衛門新田)
 馬頭観音らしき石仏あり。
・安倍口津神社、姫不動明王、供養塔(安倍口新田47隣、安倍口小学校北側)
 ・お堂:安倍口津神社 姫不動明王
・庚申供養塔 昭和五十五年庚申建之
・庚申供養塔 
・?多分、庚申供養塔、下部に猿鳥のレリーフあり、
 ・

・改築記念 平成三年十一月
・熊野神社(安倍口新田601-7北西側)、樹齢500年程度の常緑樹あり、
 昔の堤防沿い内側にあり、その外側が安倍口団地で昔は川原だった。神社に樹齢数百年にはなろうかという相当な大木があるということはここは流されない所だったということか。今は熊野神社だがかつては水神なのだろうか。
 ・台座石:波型レリーフあり
 ・石鳥居:昭和三十年十月吉日
 ・狛犬2:奉納 平成二年
 ・石段
 ・礎石2:石鳥居の目前にあり
 ・保存樹木3:クスノキ、イチョウ2qqqqqqq
・祠、2基(与左衛門新田、「楽寿の園」土手下)
 何を祀っているか不明。
・河津桜植林(与左衛門新田、楽寿の園から松崎の美和街道と土手が合流する地点まで)
 近年、土手下にピンクの河津桜が植林されている。2月後半に咲く。
・薬師如来祠:め(中ノ郷422)
 ・祠
 ・石像
 ・お果たし石:多数の平たい石の中心部に穴をあけてドーナツ状にして吊られている。
 どうも眼病や目に効く薬師として信仰を集めているようだ。
私も網膜剥離手術後、視力は落ちていないと眼科で言われるが、薄暗がりで見えづらいうえ、暗闇では光が乱反射し、更に見えづらいので、ルテインのサプリメントを常用して、少しは改善している。
・長屋門(中ノ郷249 鈴木氏宅)
 ・長屋門
・はるな地蔵(はるなさん)、庚申供養塔(寛政)、(中ノ郷196-2東)
 中ノ郷の丘陵先端部を削岩してグランド状にしたその先端部に祀られている。かつては山の上にあり、「じぞうはな」といわれた。人の鼻に似ていたからだという。災害予防とくに水除けとして祀られたようだ。今でも月1回おまつりをしている。隣に供養塔数基がある。
 ・道祖神祠2:
 ・灯籠:
 ・庚申供養塔 昭和五十五年
 ・庚申供養塔? 大正十年
 ・南無妙法蓮華経
 ・
 ・
 ・
・日枝神社(中ノ郷305—18北)
 ・石鳥居:昭和十一年
・大仙寺(中ノ郷107)、庚申供養塔、水子塚、巡礼秩父34所廻り、
 石塔(数基)の年号が安永(1700年代後期)のものがある。
 ・新:六地蔵+座像?如来
 ・寺号碑:卍南無瀧ケ谷薬師瑠璃光如来 昭和四十二年
 ・水子塚 昭和四十二年
 ・観世音菩薩一国三十三所 昭和四庚寅 
 ・奉順礼秩父三十四所観世音菩薩 案永八寅年
 ・庚申供養塔 文政七申年
 ・馬蹄石?
           追加調査:2022,11/19
(枝道)・中ノ郷と足久保の峠
 中ノ郷から裏山を上り、内牧から来た道と合流し諸川に下れたようだ。現在同じコースを忠実にはたどれないだろうが、裏山の尾根は電線巡視路になっている所があり、現在ある程度歩けるようだ。
・白髭神社(中ノ郷82⁻1隣)
 小塚ヶ谷公民館隣、裏山を20m上ると朽ち果てた祠の奥宮がある。100m東に庚申供養塔数基がある。2022年奥宮は残骸だけが残り、手前の山道は石段が整然と残されている。
 ・本殿
 ・金属製?赤鳥居:
 ・奥宮跡と石段:裏山20m上る。
 2022、11/19、小塚ヶ谷公民館で話し合いをしていた年寄数名に話を聞けた。本殿は昔から現在地とのこと、裏山には奥宮だけが鎮座していたと思われる。さらに裏山の道は尾根上にまで続き、安倍城や多方面に続いていたようだが、現在は廃道だろうとのこと。
・伊勢神明社(中ノ郷45-2の北西150m)
 第二東名高架をくぐり道路の行き止まりに鳥居がある。
 ・本殿
 ・コンクリ鳥居:
・庚申塔2(中ノ郷41の南側交差点)
 ・庚申塔:昭和五十五年
 ・庚申塔:弘化二巳年
・髭題目:南無妙法蓮華経(中ノ郷41の西側墓地入口)
・髭題目:南無妙法蓮華経
・髭題目:南無妙法蓮華経:明治十三年(中ノ郷35—1⁻3の隣り)
・髭題目:南無妙法蓮華経:明治十三年:裏に漢文記載
 ・手洗石
 ・本殿と拝殿が一体:神社か寺のお堂か不明

・松崎山
 昔この辺りに安倍川を渡る賃取橋(有料)があった。今は第二東名の橋が開通間近である。
・松崎天満宮
 祠が祀られ、近年小さいながらも神社となった。
この先に松崎橋を渡ると足久保の地である。橋対岸先に美和中学(女優:酒井美紀出身校、実家が足久保だそうである)が見える。かつてそこは河原だったようだ。
○庚申塔について(「郷土美和」より)
 地区:年代、奥長島:不詳、口長島:1916・大正8年、谷沢:1810・文化10年、相沢:1695・元禄8年・他5基、栗島:1980・昭和55年、敷地:1727・享保12年、舟沢:不詳、神明原:1845~50年頃・流出天保年間、八十岡:1916・大正8年、遠藤新田:不詳、小塚谷:1822・文政5年、安倍口新田:1822・文政5年、内牧:1858・安政5年、西ヶ谷:不詳、
(枝道)・足久保諸川と内牧、中ノ郷の山越え峠道
 内牧側からはすでに廃道で道が不明となるが、諸川の舟渡池(諸川池)奥に進む林道諸川線を詰めて行き止まりまで進む。あとは徒歩で沢奥を進む。国土地理院2万5千分1地図では沢の右(北)を上ることになっているが、すでに廃道である。しかし沢の左(南)にテーピングがあり、電線巡視路となっている。この道を上り詰めると中ノ郷や内牧、足久保をつなげていた尾根沿いの山道に至る。尾根上も巡視路で少し切り通しになっている所もあり古い道が残存してもいたが、内牧に下る古い道はないようだ。ただ尾根沿いの廃棄茶畑にモノラックの錆びたレールが見られ、内牧側の麓から上っていくモノラックの錆びたレールも確かにあったので、このレールを頼りに藪をくぐれば山越えはできそうだ。藪好き、廃道好きな方だけどうぞ。なおこの電線巡視路の尾根道は北へ松崎、南へ狩野貞長墓や駿府学園、西へ高山や新間へとつながっていくのではないかと思われる。
・諸川池(舟渡池)
 堤防により仕切られた溜池のようだ。個人所有で勝手に立ち入れない。私が冬に見たときは水が抜かれてほぼ水なしだった。
・足久保交差点の板碑(忠魂碑)美和中学校前
 今の美和街道(県道大川静岡線)はここバス停:美和中学前で左(西)折する。直進する県道梅が島昭和線は近代の道で、油山方向に向かう近代以前の道は、足久保の山越え道であった。具体的には栗島峠、湯の島峠(東海自然歩道)、舟沢集落からの山越えなどであった。
・足久保口組札の辻の石道標
 県道が右左に蛇行する地点の理容店と酒屋の間に古色ゆかしい石道標がある。 
刻字がすでに読めないが、安倍七観音の法明寺への行き先を示していたようだ。
・地蔵、庚申供養塔;昭和五十五年(神明原公民館、新光明寺隣)
 左に八十岡橋があるが、新築の橋で以前の橋はもう少し先を左に曲がった所にあった。その地点は少し先に左折しながら堤防で道が消失する不自然な所があるので分かる。美和街道からそれて八十岡集落を目指す。八十岡への橋を渡って新光明寺を目指す。手前公民館に地蔵や庚申塔が安置。
・新光明寺(足久保口組神明原)
 馬頭観音;近代…見事なできばえである、双体道祖神、五輪塔2基、石塔2基、寺は元伝馬町にあったが類焼し、昭和46(1971)年当地転居。
・かさもり稲荷(新光明寺隣)
 謂われの書かれた看板が祠前にある。新光明寺裏門前にある。
・地蔵堂、石塔類(八十岡公民館隣、福寿橋袂)
 八十岡橋から道なりに八十岡集落に入ると右に地蔵堂がある。付近の橋袂にも供養塔がある。
庚申供養塔;大正九・享保十二・不明、石塔、畜生供養塔;新しい、巡礼供養塔
・団子石(八十岡林道奥)
 集落はずれから2km林道を奥まで詰めるとある。高山市民の森登山口。
・地蔵堂(足久保口組舟沢)
 美和街道に戻る。舟沢集落内の右の旧道に入る。地蔵堂が右にある。すぐ先で拡幅された現県道に合流する。先右に寺が見える。
・南叟寺(足久保口組舟沢)
 県道からの参道沿いに石塔類がある。「南無阿弥陀仏」:元禄、葷酒入山、庚申、地蔵×2、石塔。
・浅間神社(足久保口組舟沢)
 南叟寺を過ぎ小さな川を渡るとすぐ右に集落内路地があり、その先に小さな神社がある。「静岡市指定天然記念物:いろはもみじ」の大木がある。この奥の沢沿いをかつては道があり、油山の「下」地域に出られたようだ。
(枝道)・舟沢と油山の山越え道、油山道・回状道
 舟沢集落奥の沢を詰め山越えしたようだが、現在通行できるか不明。
12年1月2日、油山下地区を沢沿いに奥に詰める農道がある。途中で西に折れるがすぐにすさまじい藪となる。通行不可。そのまま直進する道も堰堤手前で登山道となり、すぐに廃道でルートは不明。
・庚申供養塔:享保十二(足久保奥組敷地)
 街道に戻り、飛沢橋を渡る。敷地集落である。法明寺参道は右の村前橋を渡るが、その地点を左折し、山に突き当たる所に庚申供養塔:享保十二がある。昔からここに安置されていたかは不明。多分移転されたものと推定する。法明寺目指し村前橋を渡る。
・山神社(足久保奥組敷地)
 川沿いの参道右奥に小さな神社がある。
・石塔類(足久保奥組敷地)
 川沿いの参道が急に山斜面に取り付き急坂になる地点にある。当国十七番三十一番、西国三十三所巡礼供養塔:安永六、□国□六十六部供養塔:明和七、地蔵×2。
・法明寺(足久保奥組敷地)
 安倍七観音の一つ。行基が来たりて木像を彫り安置したと伝わる。また木像を七箇所に安置もし、それを安倍七観音という伝説がある。
七箇所…法明寺、増善寺(慈悲尾)、建穂寺(羽鳥建穂公民館及び建穂神社、今は廃寺で寺がなくかつてあったのは建穂神社周辺で寺の遺物は公民館にある)、徳願寺(向敷地)、平沢寺ヘイタクジ(平沢ヒラサワ、平沢観音ヒラサワカンノン)、霊山寺(清水区大内、大内観音)、鉄舟寺(清水区村松、久能観音、旧名は久能寺、かつては久能山東照宮地にあった)
街道に戻る。
・硯水泉の石碑類
 足久保小学校の先に、硯水泉の石碑類多数がある。今はまだ新しいので郷土史的には取り上げられないだろうが、将来のことを考慮し今一応取り上げておく。硯水泉はこの地で霊力のある水が近年出たということから、商品化されたものである。隣には温泉の湯権現もある。
・天満宮(足久保奥組栗島)
 栗島の家の裏にある。常夜灯×2、丸石。
(枝道)・栗島峠(湯の島峠)H450m 
 橋を渡り、沢奥を詰めると行けるはずだが、道の整備具合は不明。集落内峠道入口道端に「馬頭観音」(上下2つに折れている)。
数十年前にトワ山から尾根伝いに栗島峠まで歩けた。
 湯の島と栗島を結ぶ峠道で国土地理院地図上ではルートが示されているが、12年1月2日廃道、湯の島よりH300m辺りで倒木や道不明で通行不可。
 この峠道を再生し使えるようになると、1本北側の峠道「油山峠(相沢峠)(東海自然歩道)」とともに使えるようになり、油山温泉やホテルりんどうを含み、油山温泉―油山峠―相沢―栗島―栗島峠―油山温泉という周回往復ルートになって同じ道をピストンせずに往復できてハイキングコースとしては使い勝手がよくなる。相沢や栗島の集落は古い石仏、お堂、優秀賞花壇、足様神社等があってそこもハイキングコースとしてよい。 
・相沢 
 栗島先で相沢橋を渡り1.2km先に集落がある。相沢橋と集落の中間点の道沿いに全国花壇コンクール最優秀賞の花壇がある。集落手前にお堂、延命水、延命橋、石仏、祠4基。集落入口道端に石塔6基(庚申供養塔5、南無観世音菩薩1)、集落内曲がり角「法印之碑 昭和」
(枝道)・打越峠 
 相沢から北の沢を詰めると打越峠を経て玉川に出られたが、今は沢詰めの道は崩壊した。代わりに舗装された林道で峠越えできる。
(枝道)・油山峠(相沢峠)、東海自然歩道、H400m  
 相沢から東海自然歩道ルートの東へ向かうと、ホテルりんどうとその駐車場で竹銘堂茶園(多分ホテルの駐車場に改変され消失)を過ぎ湯の島峠を越え湯の島に出られる。東海自然歩道なので迷いにくいし、かなり整備されている。 
(ただ近年東海自然歩道や周辺の指定ハイキングコースも含めて以前ほどきれいに整備されないようだ。もしかすると財政難による予算縮減のあおりもあるかもしれない。これからは公的機関の定めたルートといえども整備状況が劣化するのは覚悟した方がいいだろう。)
 油山温泉より200m奥の沢を渡り(H180m)南西に進む。東海自然歩道なので標識、道の安全状態はよい。多分迷いにくい。一部急坂やガレ場はあるが登山初心者向き、家族向きハイキングコース。峠(H400m)は植林で展望なし、ベンチあり。油山峠からトワ山東ピークに尾根沿いに行けるはずだが不明。相沢側はさらに補修された安全なコースだが、一部沢沿いのガレ場上コースなのでちょくちょくガレるのだろう。豪雨や地震直後はコースがガレやすいだろう。相沢のホテルりんどう前に出る。
・足様神社(足久保奥組)
 相沢橋を渡り、左折し川の土手沿いの道を行くと、神社がある。常夜灯×2。神社前の河原の土手道は舗装されていず、昔河原を歩いたという美和街道の名残そのままのようだ。だが神社が昔からここにあったのか不明なので、この道が旧街道などとは即断できない。しかし河原道の雰囲気は味わえる。 
 この神社について「美和郷土誌」は古代の純粋神道との関連を推定している。足坏をアシクボとも読めるので、足久保地名の発祥とも関連付けている。古代の純粋神道というのは今風に言えば日本古来の土俗宗教・修験道と関連付けられると思う。法明寺も古来は修験道と関連していたかもしれない。谷沢の佐藤家が鍵取で禰宜(神主)であった。神社にまつわる用品も保存されている。
 足久保の地は川の流れる湿地帯があり、その河原道を行き来したと考えられている。そこに葦が生えていた谷地なので、葦窪アシクボつまり当て字で足久保となったという仮説がある。
 資料では足坏となっているが、現在足様神社となっている。近年名称を変えたようだ。名前が足様というのだから、足について願い事がある人たちが縁起担ぎに参詣するのによいかも。例えば足を怪我した人、ランナー、陸上競技者、岳人などに知らせる価値があるかも。
(枝道)・谷沢、水見色峠・東海自然歩道
 今の街道を進むと谷沢集落手前の沢沿いに、新設の地蔵が安置されている。
谷沢集落内の谷沢橋袂に庚申塔、他×3、また大谷沢に沿って1軒奥に行くと、そこにも庚申塔:文化十、石塔がある。
ちなみにこの道「林道谷沢線」は東海自然歩道で、途中林道をそれて水見色峠を経て大山へ行く。かつては峠から下って水見色集落へ行く道であった。婚姻や産業のための道として利用していた。現在林道を忠実に進めば高山市民の森を経て新間や水見色に出られる。
谷沢集落を抜け現街道を進み、天神橋を渡る。旧街道は足様神社から直接天神橋袂に通じていたかもしれない。
(枝道)・水見色と坂本の峠道
 通称「回状道」と呼ばれた。水見色西ノ谷から山越えで坂本に達した。この山の尾根部分は「愛郷の道」(藁科中学が整備している道)となっている。おそらく西ノ谷奥の神社から上り、愛郷の道の尾根で峠越えをし、坂本一色に下ると思われる。
(枝道)・水見色と新間の峠道
 水見色と新間一色尾郷に通じていた。幕末に清水次郎長も通ったことがある。距離約2.6kmである。
・荒神社(足久保奥組口長島)
 この先、口長島に至ると、右上に荒神社がある。庚申、庚申:昭和五十五、狛犬:昭和十五×2、常夜灯:大正六×2。少し先に狐石もある。
・狐石(口長島)
 狐石と呼ばれる大石の壁面に茶の由来を彫り刻んである。しかし今や正確には読み取れないが、別紙に書き写され一緒に展示されている。周囲には「聖一国師碑」、石碑がある。
 付近の家の生垣に石塔がある。
・奥長島
 奥長島入口に板碑がある。奥長島集落を過ぎた右茶園の石上に「海野助兵衛の碑」がある。
「突先山、釜石峠、栃沢ハイキングコース」の標識に従って車道を進む。車道が行き止まりとなる。美和中学前から約10kmである。ここから沢沿いの登山道または中腹の登山道を経て釜石峠に至る。歩行時間:1時間45分または2時間。以前、車道行き止まりの少し手前で北の尾根に取り付く「大棚山」西から上るコースの標識があったが今は未確認。
・釜石峠(奥長島、栃沢)
 奥長島と栃沢の峠。歯痛地蔵と呼ばれる大日如来が祀られる。かつてはお堂もあったようだ。大川から静岡市街に出るにはこの道を通ったようだ。
峠から南尾根を通ると突先山に至り、さらに大山を経て坂本に出られた。
峠から北尾根を通ると中村山△1007.0mを経て樫の木峠に出られ、玉川または大川に下れた。現在樫の木峠から中村山方向への尾根道は、一見すると藪道のように見受けられる。
  釜石峠H820m。以前と峠の位置が変わったような気がする。この峠、平で広く東西50m幅ある。以前標識や歯痛地蔵は東端だったと思うが、今は西端である。歯痛地蔵(大日如来像)「是より 右ハ美和村あしくぼ 左ハ玉川村たくみ」となっていて、東の足久保奥長島と北の中村山・樫の木峠経由内匠へのコースを示す。西へ下る道は栃沢へである。  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:36Comments(2)古街道

2022年08月22日

伝説「沼の婆さん」の意味とは? ~静岡市葵区麻機~麻機沼、麻機村

☆伝説「沼の婆さん」~静岡市葵区麻機~麻機沼、麻機村
・「麻機誌」等による、伝説概略
1336年1月中旬、後醍醐天皇の御代、南北朝争乱の折り、今の静岡市手越原の辺りで「手越原の戦い」があった。北朝方は足利直義(尊氏の弟)、南朝方は新田義貞と弟:脇屋義助が指揮を執った。麻機の岩崎蔵人国隆(の子:時光となっている場合もある、どの名前が正解かは不明)と弟は500人の手数を連れ新田軍に加勢し殊勲をあげた。麻機の岩崎家での戦勝祝宴で脇屋義助は小菊(母:秋野は岩崎国隆の子で時光の姉で瀬名に嫁いで、この娘:小菊を生んだようだ)という娘を見染め、10日間ほど滞在したという。
その後小菊は小葭:こよし:という女の子を産んだが、産後の肥立ちがよくなく小菊は亡くなってしまった。小葭は祖母:秋野と暮していた。小葭は16歳(16がかぞえなら満14~15歳か)になった頃、祖母:秋野が病に臥せった。その病気回復のため孫:小葭は麻機沼の向こうの浅間神社へ願掛け参りとして舟で通った。(現在、麻機沼はごく一部のみ残存しているが、かつては巨大な湿地帯で、山際の道を徒歩で通うより船で移動する方がらくだったようだ。またこの神社は宮ケ崎の浅間神社ではなく、麻機北の浅間神社という説もあるが、どちらかは不明。)
ある日、またも舟で通っている途中、沼の水が逆巻き、小葭は水の中に飲み込まれてしまった。この話を聞いた秋野は、病の体をおして沼のほとりに来て、魔物(河童)退治として、沼に身を投げた。たちどころに沼の水が波立ち渦を巻き、すさまじい水の暴れようとなった。しばらくすると水は収まり静かになった。その後二度と魔物(河童)にさらわれることはなくなり、沼には法器草(蓮のレンコン、またはヒシの実という2説がある)という食用植物が実るようになり、村は平和になったという。後に秋野を「沼の婆さん」として祀るようになった。

・伝説「沼の婆さん」の意味
 意味するものとしては、河童は水の怖さ、水難事故の恐ろしさへの注意喚起であり、法器草は自然への感謝、厳しい犠牲の上に豊かさが築かれたことで先人への感謝の思いか。といったところが一般的かと思う。
 以下に個人的憶測で何らの根拠もない「南北朝対立説」ということを記入させてもらう。重ねて言うが、まったく根拠はなく、単なる個人的思いつきに過ぎない。
 先ず岩崎家は南朝の勝利に加担し、脇屋儀助の娘: 小葭を授かっている。市内には安倍城城主:狩野之介貞永等もいて、南朝優勢なうちは、羽振りも良かったろう。しかし小葭14歳頃の1351年12月に南北朝の対立として、薩埵峠の戦いで足利尊氏と弟:足利直義が戦っている。一応は尊氏が南朝となるが、おそらく旧勢力の南朝ではなく、かつて北朝だったうちの尊氏勢力が主流だろう。ということは、脇屋や新田あるいは狩野を担ぐのでは味方にしてもらいにくかっただろう。新田義貞は1338年戦死し、脇屋義助は1342年病没しており、南朝側が不利なのは明白である。それでも現在でも岩崎家は命脈を保ち、麻機村は食用植物によって助かっていたということは、北朝勢力に対し真っ向から逆らわないようにしていたのだろう。岩崎家や麻機周辺の村々は1336年には南朝に味方したが、1351年頃には北朝勢力になびいていたのだろう。そして南朝に見切りをつける意味で、南朝の正統的血統を持つ小葭を犠牲にし、その祖母:秋野が北朝に操を立て、彼女も孫と共に犠牲になることで、岩崎家や麻機村を守ったのかもしれない。という全く根拠なき、憶測である。


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:42Comments(0)伝説、民話

2021年04月04日

身延街道、興津筋

序文
底本は、『静岡県歴史の道 身延街道』(静岡県教育委員会)98年と、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)を用いた。これを基準として説明していく。底本による調査は79年に実施され、静岡県側は再調査を97年頃行ったようだ。これらの本が往時の身延街道と現状を周知させたことは意義深い。そのため基準としての底本として用いる。しかしその後の現状改変や調査研究の進展により、書き換えられるべきことが出てきていることも、後に具体的に述べるつもりである。底本に記載されていることはなるべく述べないようにしたので、本文を読む際、底本も傍らにあった方が理解できる。
 また実際に当地に出掛け街道歩きを楽しむのならば、上記の底本と付属地図の他、ゼンリンの住宅地図で街道筋周辺の掲載部分をコピーして持って行くと便利である。底本自体はそれぞれの県立や地域の公立図書館にある。「O-1」等の番号は底本に即し参照のためそのまま用いた。番号の無いものは私が改めて掲載したものである。私の調査は90年代末と09年11月である。

・興津起点(静岡県静岡市清水区興津中町273)O-1~8
東海道から興津の身延街道への分岐点は、旧国道1号線(江戸時代の東海道、興津宿)のJR興津駅前交差点を東に1つ目の信号交差点で、理容店としずおか信用金庫店に挟まれた地点である。石塔類が立ち起点の看板表示もある。O-10もかつてはここにあった。もっと東に現在の国道52号線の起点があり、そちらが現在の甲州(山梨県)を結ぶ身延街道といえる。さて街道の起点に戻り街道を北上する。左右に魚屋、酒屋等、レトロな昭和を感じる商店街が続く。この街道は明治初期に整備されたらしく道幅を江戸期のものより広げ、場所によっては別の場所にバイパス化したようだ。起点付近は江戸期と同一ルートのようだがしばらく北上すると江戸期の古道と離れる所も出てくる。

*『静岡文化情報誌しずおかイベントニュース 2021年5月号』所載「街かど」曽根辰雄:大阪歴史学会・地域文化財学専攻より
興津起点の石塔寺や耀海寺に移転された石道標の石塔類についての説明が載っている。石塔の判読もされているが、底本:タイトルを略して「静歴道」と一部相違がみられる。おそらく判読困難なうえ、過去に読み取れた刻字もあいまいなため、読み取る人によって違ってしまうのだろうが、明確な理由は不明。それでもよくぞ読み取って下さったものだ感謝したい。これ以上時間が経過すればまったく判読不能だろうと言いたいが、すでに石塔本体は消失し台座のみ残存するとのことで、もはや判読機会どころか実物を見ることもないようだ。
〇1693年の石塔O-2、以下判読文字。台座のみ残存、石塔は消失したらしい。
・「静歴道」:「宍原江四里、萬沢江七里、南部江十里、身延江十三里、元禄六年(1693)十月十日、山城国住、布施某 願主 主人、二親、現当二世」
・曽根:「身延山道 宍原江四里 萬沢江三里 南部江三里 身延江三里」、現在は、台座だけで、碑本体は見あたりません。
〇耀海寺に移転された石道標:大江丸道標
・「静歴道」:「みのぶ、これよりふじ川、江戸嶋屋、京都大和、大坂津国、享和辛」
 底本は相当読みとばしてある。
・曽根:「ミのぶさんけい□ これより御山へのぼる事十三里□ふじ川ばた いわぶちへ出るみち十□ 享和元年辛酉十月十三日建之 八十三翁 大江丸拝書 江戸嶋屋□京都 大黒屋庄治郎 大坂 津国屋十右衛門 江戸 松井利兵衛 願主 萬屋宗八」、
 かなり克明に判読してあり、ありがたい。本文上では、大江丸についてかなり説明されており詳細がわかる。 2021,4/4

・宗像神社(清水区興津中町554)
 起点より北上、東側2つ目の分岐道、興津小学校の校門の向こうに神社が見える。小学校を素通りして行ける。当神社が奥津宮といわれ興津の名の起こりであり、ここの森は漁師の目印であり、動植物をはぐくむ森なので、女体の森といわれる。
 JRの踏切を越える。O-10がその後昭和29年までここにあった。進んで東側1つ目分岐道の先に神社がある。
・祖霊神社(興津中町510)
 鳥居とお堂がある。向こうに自動車学校の用地が見える。
 さらに北上し、東名高速道ガード下をくぐる。この付近で街道は江戸期の道から明治期の道になるようだ。江戸期の道はガードをくぐってすぐ東に向かう高架側道に右折し1つ目ないしは2つ目の細い道を左折し北上する。車1台しか通れないこの細い道こそが江戸期の街道である。 
・庚申塔(清水区八木間町355)O-9
 三叉路に庚申塔がある。右(東)への道は薩埵集落に向かい、本来北上する街道は無い。おそらく北側の家の境目を北上したと思われる。1区画北に行くとちょうど北上する道が復活する。ただし直線すぎるので区画整理で改変された道と解釈する。北上すると国52号に合流し、道を渡った先に江戸期の街道は無い。近代の区画整理で消滅した。
 明治期の街道に戻り、新幹線ガードの3区画手前に法泉寺入口が見える。
・題目塔(八木間町574)O-10
 本堂前左手にある。かつて身延道起点にあり、踏切傍らに移され現在ここが安住地である。
 明治期の街道を北上すると新幹線ガードをくぐりすぐに国52号に合流し、古い道はなくなる。国52号を北上し、右(東)2~3つ目の路地を右折し東進する。すぐに公園と三島神社が見える。
・三島神社(谷津町一丁目543-1
 この神社前を北に行く道が江戸期の街道である。ここより南下する道は無く、ここから復活し北上できる。かつてこの付近にO-11の石塔類があったようだ。ここから北上しまた国52号に合流し向かいのパチンコ店側に渡る。
街道は店の北側を山に向かい北上するが、一旦O-11の石塔類を安置している蓮性寺に向かう。パチンコ店の南側をまっすぐ西進する。途中妙正尊堂のお堂と七面山の常夜灯を通過し寺に至る。
・題目塔(八木間町574)O-11
 蓮性寺本堂裏の墓地の中に古い石塔を祀ってある。底本では3つとなっているが、題目塔らしきは4つ祀られている。どうも寺にもともとあった物または別箇所から運ばれた物と合祀されたらしい。
・馬頭観音像(谷津町二丁目178)O-12
 4基あり磨耗していて内容は判別しにくいが、よく残してあるものだ。今後も保存を望む。もともとここにあったかは不明。たぶん合祀移転されてきたのだろう。
 道を北上する。山際に道がつくと横山城の看板と石塔類がある。
・秋葉山常夜灯、馬頭観音像(谷津町二丁目383)O-13,14
 横山城跡への入口に立つ。
 街道は左へ曲がり山の西すそを巻いて小島への峠に向かう。
・横山城(城山) O-15
 武田信玄の部下、穴山梅雪が治めた。山の南方の屋敷地やみかん畑がかつての館跡と推定される。09年11月現在本丸へ登ろうとしたが藪であきらめた。10年以上前はもっと道がきれいだったが…。
 街道は城の入口前を左へ曲がり山の西すそを巻いて小島への峠に向かう。
・千願寺参詣供養塔(谷津町二丁目)O-16
 ちょうど城山の真西の街道沿いに立つ。付近には真新しい「馬頭観音」と文字書きされた石塔が立つ。ここを過ぎると小島への峠下降点も近い。
 小島への峠下降点からは小島の町が見えるが、街道は藪の中で、通行危険で困難と看板表示されている。10年ほど前少々の藪だったが通過できたことを思うとさらに悪化している。今回あきらめた。真下は小島に入った所のガソリンスタンドとコンビニである。国52号を通り小島に進む。コンビニを過ぎた所に先ほどの峠への小島からの登山路出入口がある。そこに小島の説明看板と石塔類がある。
・徳本上人供養塔(小島町14-2)O-17
 街道はここから平坦となり、石塔3基と身延道の石道標が立つ。小島についての説明看板もあり役だつ。
 しばらく国52号を通る。
・龍津寺(小島町135)
 国52号沿いにある。小島藩藩主の墓もあるというがどれだか分からない。
 再び国52号を北に向かい、橋を渡り国52号を右折する。数軒めのクリーニング屋の向かいの家の前に石塔がある。
・馬頭観音像(小島町310)O-18
 風化がさらにひどくなり底本ではいくらか判読できていた文字も不能だが、よくぞ保存してあるものだ。
・猿田彦大神(小島町434)
 家の前、街道沿いに向けて石塔が立つ。新しそうである。
 街道はまた国52号と交差し西の山に向かう。
・題目塔(小島町473)O-19
 善立寺門前に立ち、この地域によく見られる谷口法悦一族の建立である。手前に「身延山道」の石道標もある。09,11/8
・酒瓶神社(小島町362)サカベジンジャ
 街道から少しそれるが紹介する。善立寺前を左に向かう。陣屋や藩主の守り神といわれる。09,11/15
・小島陣屋(小島町434)
 酒瓶神社より奥に進む。かつての小島藩1万石の陣屋跡の石垣が残る。説明看板が複数あり分かりやすい。かつて石垣周辺は一面の茶畑で国52号線からも石垣が見えたが、現在石垣手前まで家が立ち並び周辺から石垣は見えない。
 善立寺前に戻り街道を進む。
・藤の木観音(小島町598)
 街道横階段上にある。
・小島(小島町~但沼町)O-20
 往時の街道が残存している貴重な部分。家が途切れ薄暗い林の中で山際の細い道だが自転車でも通れる。但沼で再び町家に入る。このまま下れば国52号線に一旦合流し国52号東側の興津川渡渉点に至る。左折すると東寿院に至り寺の門前で下る道がふるみちと称される。
・題目道標、秋葉常夜灯、観音堂(東寿院境内、但沼町867)O-21、22、23
 もとは国52号沿い薬局横の溝の橋となっていた。「みのぶみち、これよりみぎ」と表示されている。09年ほとんど解読できないがよく保存されている。
 常夜灯は「享和元年、当邑路下若者中建立」
 観音堂(閻魔堂)はもと但沼字石原にあり身延参詣者の宿泊に供された。
・万霊塔、庚申塔(但沼町569)O-24
 東寿院よりふるみちといわれる道を下るとここに出る。古い興津川の渡渉点である。後の国52号東側に移った。渡渉や旅の安全、水難者供養のための石塔類が安置される。ここから興津川への下る道はないと底本に記される。しかしあらためて作り直されたのかもしれないが川まで下る細い道が現存する。ふるみちのルートもよく保存されている。
・三界水陸万霊塔、馬頭観音像(但沼町1170)O-25
 国52号東側の興津川渡渉点である。石塔類が安置される。ここから即下れる道はないが、向かい側の小島公民館側には鉄製階段で上り下りできるようになっている。このルートが正確なものとは限らないだろうが、はずれでもなかろう。
・道祖神(舎人親王社境内、但沼町810)O-37
 国52号東側の興津川渡渉点近くの人家の裏。かつて坂本の分岐点にあったが盗難に遭い現在地に安置される。確かに立派過ぎる見事な石像レリーフである。石像の前にあらためて祠が祀られ石像が後に追いやられている。
・興津川渡渉地(但沼町1170)O-26
 国52号線唯幣橋西のふるみちで渡渉すると小島中グラウンドへ上がりJA清水を通り国52号線付近へ出たと推定される。唯幣橋東から渡渉すると小島公民館西から国52号線付近へ出るルートと小島公民館東から小河内川に沿い国52号線付近に出るルートがあったと思われる。
・地蔵、石塔(小河内3916-12)
 JA清水小島加工場手前に新しい地蔵と古い石塔がある。元来ここにあったものか不明。
・題目塔(経典読誦題目塔) (小河内3845)O-27
 下町屋バス停JA清水で国52号線を右折するのが旧道である。理容店前向かいに「題目塔」190cmがある。傍らに「妙法無縁法界塔」48cmもある。
・巡礼供養塔 (小河内3700)O-28
 浜石岳に行くルートへ曲がらず道なりに進むと下番古橋に出る。橋のふもと左に「巡礼供養塔」がある。
・庚申塔(小河内3597)O-29
 橋を渡り国52号線に出る3軒右手前の高山商店横の道を登り、一番上のお宅が池ヶ谷弘康氏のお宅である。その裏山を5分登ると「庚申塔」が2基あり1基は復元された物らしい。隣は祠があり「浅間、丸山、金山」を祀る。毎年お祭りするとのこと。
・観音堂(小河内3596)
池ヶ谷弘康氏宅の下で高山商店の上に「観音堂」がある。中は施錠されているので許可を受けないと見られない。堂はだいぶ傷んでいるが柱や梁の欄干には彫りが施されている。本尊は高さ20cmの片膝立ちけっか座位の金色仏像で新調した金色の台座と繻子にかくまわれている。本尊の色がやや褪せていて古いことが分かる。周りに「正徳」期の大日如来の石像があり、壁に天保期の木版「法楽」が墨書されている。鰐口も古そうだが銘がない。屋根はトタン葺きだが中は萱葺きだそうだ。堂外に3基石塔があり、1基は天保期の「西国三十三箇所供養塔」らしい。他2基は解読不能。毎月お祭りするとの由。
・石塔(小河内3536)
 旧道から国52号線に合流し番古バス停を過ぎ50mも行くと道右脇に3基祀られている。もともとここにあったというより合祀移転されたものだろう。「交通安全供養塔、供養塔」で近代の物である。
・題目碑(蓮華寺門前、小河内2442)O-30
 高230cmで一際大きい。確かに2箇所折れて補修されている。底本には他に「道祖神62cmがある」とされるが、どうも石道標「身延道」のことと思われる。09,11/15
・舟場(小河内舟場)O-34
 トンネル手前左に急に下る。本来川床まで下りまた上がったのだろうが、そこまでは下がらない近代初期に付け替えた道だろう。近代初期の道の証拠として「曲点」石標識が残っている。09,11/23
・庚申塔(小河内字屋敷925)O-31
 消防小屋付近の墓地裏の小高い丘上に4基立つ。
・石塔(旅人供養塔) (小河内字屋敷)O-32
 不明
・馬頭観音像(小河内字屋敷)O-33
 不明
・宮沢薬師灯篭(小河内字屋敷946)O-35
 もとは薬師堂と身延道の分岐にあったが現在薬師堂に移転。薬師堂はここより2km奥で滝の上にある。途中0.5kmには静清庵自然歩道浜石岳登山分岐点があり、「大日如来」石塔と「水神塔」が立つ。
 薬師堂は山の中の滝場の上にある。国土地理院2万5千分の1地形図で見ると、かつては清水区由比町桜野や槍野ウツギノとも浜石岳北方の尾根を越えた山道でつながっていた。廃村池田とも尻喰い坂を通りつながっていた。かつての山中は周辺の村々と網目のようにつながっていたようだ。
10年ほど前桜野の年寄りに、「少年時父に連れられ山道を入って行って、山の中の神社のお祭りに行ったことがある。そのとき飴玉をもらい感激した。」という話を聴いたことがある。菓子が珍しい時代に1個の飴玉に感動する少年、それを感慨深げに話す年寄り、生涯に残る思い出なのだ。そしてどこの神社なのかを話し合ったが、逢坂や坂本のような麓には行っていないそうで、具体的にはどこの山中なのかさっぱり分からなかった。かつて山中に神社の社があったが、のち麓に移転されたのか、それとも神社と思ったのはどこかのお堂、例えばこの山中の宮沢薬師なのかもしれないと思う。桜野からの距離と標高差から片道1時間半程度でちょうどよいのではなかろうか。おそらく今は廃道だろう。
・題目碑(小河内字坂本474)O-36
 宮沢薬師堂参詣道(静清庵自然歩道浜石岳登山道)の1本北側の道で両線は人家によりつながっていないが、かつてはつながっていたのだろう。坂本集落の北端に設置されたのだろう。
・道祖神(舎人親王社境内、但沼町810)O-37、かつては(小河内坂本)
 現在地は国52号東側の但沼興津川渡渉点近くの人家の裏だが、かつては国52号と坂本の奥の山道に入る分岐で橋を渡った所の、山の尾根に通ずる道の、山への取り付き点にあったと推定する。ここには現在も朽ち果てた石塔1基が祀られている。立派な道祖神はかつてここに祀られていたのだろう。
この山に登る尾根道こそが古い身延道で、古い道は国52号東側の尾根付近または中腹に上り上倉バス停付近の国52号線東側砂防ダムへの取り付き道路辺りに下り、上倉集落内を通り、関屋峠を通過し逢坂の集落を通ったと思われる。
・馬頭観音像(小河内字上倉37‐1)O-38
 上倉アゲクラの上倉邦雄氏宅前に安置される。
・関屋峠(小河内字上倉と逢坂の間)O-39
 上倉集落から逢坂集落を抜ける細い峠道で、地元の人に関屋峠で道を尋ねても分からないが、上倉と逢坂の間の道と尋ねると分かる。由緒のある峠道なので看板標識設置及び保護が望まれる。晴れていると上倉から峠に近付くと切通しの向こうに白い物が見える。近付くと富士の高嶺の白雪であることが分かる。こんなにも富士山が正面にしかも山頂から裾野に向かって開けていくのを眺められるのは珍しい場所である。まさに展望1等地である。歩行時間わずか5分である。底本の表紙グラビアの富士山写真もここで撮影していることが分かる。
・馬頭観音碑(小河内字逢坂7)O-40,41
 関屋峠の逢坂側にある。2基と3基が安置される。峠らしい風情だが、実はすぐ下に逢坂の人家がある。
・勝軍地蔵(小河内字逢坂7)O-42
 関屋峠と国52号の間の尾根上にある。峠を少し逢坂側に下った所から小祠に行ける。「愛宕山大権現」の説明看板があり、かつてここに寺とお堂、そして和尚がいたことが分かる。その跡地にこの地蔵は立つ。
 逢坂の集落中腹から宍原スポーツ広場の山裾を巡り平山の木戸坂に至るのが古道と考えられる。
・宍原平山集落古道(小河内字平山680)O-43
 09年11月23日、第2東名高速道路及び周辺工事のため「木戸坂」を国52号から通行できず、一旦国52号を下り迂回して木戸坂を上っていった。関屋峠についで平山、宍原、長峰三里は古色が残る街道筋である。
・馬頭観音像(宍原字平山680)O-44
木戸坂付近で清掃している老女に所在を問うと、「川向こうの道が身延路ですぐそこにある」とのこと。川向こうの農道に行くとすぐ4基の馬頭観音がある。底本では5基となっているし、老女に問うた場所こそ木戸坂下で、身延路と教えられた道は明らかに農道で、そこに馬頭観音が祀られるのも変だしというわけで、移転合祀は明らかで、しかも身延路も誤って伝えられている。説明看板や標識の設置を望む。移転合祀はやむをえないが、多分破損し破却された1基を取っておいてほしかった。
・天社神碑(宍原字平山437)O-45
 以前は道の真ん中に会ったように思うが、今は薬師堂に向かう道の分岐点のお宅の前に安置される。
・道祖神(宍原字平山428)O-46
 双体道祖神3基が並置される。あまりに絵画的な場所に安置されるので現代の趣向と考えられる。この近辺では珍しい双体道祖神である。
・馬頭観音像(かつての宍原学園入口、宍原字平山)O-47
 不明
・宍原宿(宍原)O-48
 往時をしのばせる。旧道小学校前に周辺観光ガイド地図の看板がある。往時の歴史が色濃く残っていることが分かる。
・秋葉灯篭(宍原1171)O-50
 青木稔氏宅庭にある。塀の隅から覗くことができる。
・問屋鈴木家(宍原1277)O-49
 往時をしのばせる塀作りがよい。本陣であった。
・武田五輪塔(宍原1264)
 問屋鈴木家の向かいの交番横の路地を入り、その先を右折し山の畑に上っていくと見晴らしのよい所に安置されている。武田勝頼対徳川家康の前哨戦である宍原砦の戦で戦死した武田方兵士四十数名を祀る。地蔵2基もある。ここにはかつて寺もあったようだ。
・天王社、馬頭観音像
 馬頭観音らしきが祀られている。元来からこの場所にあるのかは分からない。
・庚申塔(鹿田神社鳥居脇、宍原1372)O-51
 摩滅しているが保存されている。
・三十三観音像(宍原)O-52
 「西国三十三箇所観音像」の標識に従い農道へ左折する。この道が身延道である。50mで観音堂跡がある。階段を上ると見事に保存されているのが見える。
・廻国供養塔(宍原)O-53
 観音堂跡、
・観音供養塔(宍原)O-54
 観音堂跡、
・馬頭観音碑(宍原)O-55
 観音堂跡、
・六地蔵(宍原)O-56
 観音堂跡を50m過ぎた小高い尾根上を越える所で、風光明媚である。O-56から58まで隣接して立つ。よく保存されている。その左隣に水準点もある。真下を見れば旧道「甲駿街道」(宍原町内を通る道)、その向こうに国52号と見えるが、ここに水準点があるということは、他の主要道がなかったこと、こここそが主要道だったということだろう。
・廻国行脚供養塔(宍原)O-57
 よく保存されているものだ。
・観音像(宍原)O-58
 摩滅していて内容不明だが、よく保存されているものだ。
この道は国52号を眼下に見つつ山の中腹を水平に進んでいく。しかし途中竹やぶになり身延路は寸断される。いったん国52号に降りて再度「長峯三里」の標識がある所から上る。
・題目道標(長峯三里登り口、宍原) O-60
 「長峯三里」の標識がある所から農道を上っていくと、農作業小屋前に立つ。摩滅して刻字が読み取れない。底本によれば長峯三里道と内房への道との分岐にあるとのことだが、現在、内房への道が分からないので分岐かどうか不明。長峯三里道はここから先急勾配になって山の茶畑を登る農道である。 
・長峯三里(清水区宍原~富沢境川) O-59
 宍原宿から万沢宿まで三里なので長峯三里というが、地図上で測ると8km少しほどで二里と少しである。ただ山道で要する時間は三里に相当するだろう。
 本ルート上の主要部が宍原北方の尾根道で境川までの4km区間である。ほぼ国52号の西の山の尾根に沿って北上していく。半ば廃道化している部分もあるが、古形態をよく残している。宍原から旧道を通り桜峠に通ずる茶畑への農道を通る。長峯三里への標識もある。茶畑から杉檜の植林地に入ると昔の道の形態が分かる。雑草や倒木による障害はあるが、古道は残存している。途中、左に後山への分岐がある。後山方向に少し下ると石仏がある。道を戻り北上を続けると、県道宍原塩出線(国52号、宍原汚水処理施設と丸徳商事処分地から後山や古住田に出る舗装路)に出る。ここの部分だけ古道が消失するが、エスケープ路としては最適である。この付近に車を置いてハイキングするのによい。再び北の尾根に上ると古道が現れる。死人のタオと呼ばれるところである。左に古住田への分岐がある。これまた少し下ると石仏がある。しばらくすると最高標高地点390mの「鞍打場」に出る。かつての峠、休憩場所で、大型の題目塔がある。鞍打場を過ぎ北上を続けると右の山中ヤマナカ方向に分岐する道がある。もう少し北上すると左の古住田に分岐する道もある。ここから下り1.5kmで境川に出る。ただ道は悪く廃道で付近の歩きやすそうな所を選び人工的な切通しを目印に進む。道の普請(設計・施工)は尾根に忠実ではなく尾根をはずしなるべく高低差を少なくするよう配慮されていて、全道巻き道といってよい。廃道で歩きにくいことを除けば高低差が意外と少ない。
 O-60の題目道標より茶畑の農道を上り、茶畑上端に着くとその先に登山道があり、「長峯三里」の標識がある。ここから歩くしかない本当の身延路となる。
09、11/28現在の状態は入口先50mに林業用作業道が切り開かれ、ちょうど身延路とつかず離れずで500mほどの区間が寸断されている。初めて通る人ではこの先の道が分からないだろう。ヒントは作業道を奥に詰めその先の草薮に人工的な切通しか、登山道らしき地面を探すか、または左頭上に杉檜に混じり電信柱と電線が山奥に通っているのが見える。この電線はこの先の長峯三里、桜峠付近で後山集落に向かうのでとりあえず電線を追っていけば身延路の桜峠・後山分岐点に合流する。作業道付近に標識設置が望まれる。作業道奥からほんの100~200mで身延路の桜峠・後山分岐点に至る。標識があり、道もしっかりしていて迷うことはない。電線はこの少し手前で後山に向かい道より先に左折していく。
身延路を左折し後山に向かい下ると50mで見晴らしのよい茶畑に出て眼下に後山集落が見える。茶畑が切れて竹薮になる所の木の付近で右の斜面に地蔵がはめ込まれている。この手前に「享和二年の馬頭観音」があるはずだが見つけられなかった。なお後山への道にも作業用標識がいくつも立っていて将来的にはここまで作業道が伸びるものと思われる。ということは身延路は桜峠・後山分岐点まで消失するのだろう。
身延路を後山分岐点まで戻り、北の境川方面を目指す。それほど高低差がなく息が切れない。距離750mで身延路は、高さ10m下のアスファルト道路の県道宍原塩出線が通過するため寸断する。右に県道に下る道がある。この50m区間が草薮である。県道向かいに「長峯三里」の標識があるので取り付く。ここも50m区間が草薮の急坂である。上りきると平坦で道が開け歩きやすい。県道付近の草刈が望まれる。距離500mで古住田への分岐に至る。古住田へ200m歩きづらい道を進んでいくと急に道が下降しだす辺りに「安永七年の馬頭観音」がある。分岐に戻り身延路を北上する。すぐに「死人のタオ」に出る。どうも墓場という意味らしいし、以前は暗かったが、今回最も草刈が行き届いている箇所で明るく開け歩きやすかった。しばらくすると「鞍打ち場」に出る。ここが道の上り下りの境目であり、一種の峠である。織田徳川連合軍が甲州の武田軍を追って、ここで休憩したことからの、名の由来が書かれた説明看板がある。「文久三年の題目塔」もある。道は緩やかに下り道幅もやや広い。
今歩いている身延路が江戸末期か明治早期の道と考えられる。理由は明治20年代の地図では現在の国52号付近に甲駿街道が作られているので、甲駿街道が作られる以前に使われていた最終形態が今の長峯三里の身延路のはずである。
身延路は尾根のやや下をなるべく水平に巻いて通り高低差をなくしている。道の上の尾根斜面を見ると2段、3段の平坦な横筋が見られる箇所がある。この横筋は、今の長峯三里身延路より上方に部分的に残っている道の跡であり、おそらく江戸末期より古い道なのだろう。新たに道普請し新道が下方に作られる度に上方の古道が部分的に残されてきたのだろう。まさに道のダウン・ムーブメントの証拠品だろう。
鞍打ち場を過ぎると先ほどの題目塔に似ている、やたらと大きい丸みがかった石が散乱している。道上の斜面にも大石がいくつも顔を覗かせている。ここで地震に遭うとやばそうだ。しばらくすると右折路があるが、先は廃道だろう。かつて山中集落につながっていたのだろう。その先には左折路がある。古住田へ向かう道だろう。これも廃道かもしれない。道は緩やかに下っていく。10年ほど前は切通し道に間伐材がいくつも捨てられ雑草もあり、切通しを通過できず、その上の歩きやすそうな所を通る高巻きをしたのだが、今回は間伐材がなく、部分的に草刈もされていて、切通しに忠実に歩けた。コケと落ち葉だらけのコンクリート舗装の道に出て下っていくと県道と境川に出る。以前は「甲駿田舎の里山荘」があったが、今は建物がない。私有地で立ち入り禁止という看板があったが、それでは長峯三里を通行できず困る。
・題目塔(境川、宍原) O-61
 かつて甲駿田舎の里山荘のあった所の真下が、境川と国52号、杉山や古住田に向かう県道の合流点である。ここの空き地に石塔4基が立つ。境川の大石上にも1基立つ。この空き地の30m奥には石階段があり上ると墓地である。かつてここに旅籠屋甲州屋、両国屋があったのでその関係者の墓だろう。石塔を立てたのも旅籠屋である。今は誰もいない所だがかつては集落だったのだろう。この付近には小葉山集落(今は廃屋のみ、金山神社がある)もある。かつては賑わったのだろう。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:10Comments(0)古街道

2020年05月10日

・龍爪街道

☆龍爪街道右(西)岸道(静岡市葵区川合、北街道上土交番~葵区松尾、北沼上小学校付近)
全体ルートと付近の遺物については、『古街道を行く』鈴木茂伸:著に述べられているが、その本に載っていない物事を補遺編として紹介する。

・石道標「右 西奈村 左 龍爪山道」(川合神明社近く)  
 川合で龍爪街道を川合神明社に向かい右折する所の民家のコンクリート塀に、石道標「右 西奈村 左 龍爪山道」が埋め込まれている。埋められているので裏面が見えないが、多分字体、石の大きさ、材質等から、大正期から昭和初期にこの道筋に建立された一連の石道標の一つと考えられるので、その頃の年号と、建立者の青年団名が記されていると思われる。以前は隣の神明社参道入口前付近に安置されていた。またこの石道標前の北に向かう道が竜爪街道右岸道で、東に向かう細い道が西奈に向かう道であることを示唆している。

・(RU15)庚申塔2基(瀬名4丁目9-3、水梨バス停前)
 庚申塔2基は以下に移転された。
(RU7)利倉神社(瀬名4丁目5-1)
  境内東端安置。 ’20 5/10
 
・(RU11)南沼上神明宮(南沼上826)
 ・石塔:「常夜燈 村中安全 明治十七甲申歳夏日 世話人 寺尾健治郎 望月清八 岩﨑弥八郎」1884、 ・石段、 ・石鳥居:「平成二十一年 」2009、
・手洗石:「奉納 當村中 若者 文化三丙寅年九月九日」1806、 
・「御神燈」2:「平成二十一年」、 ・石塔:多分常夜灯の竿部分で石鳥居前の常夜灯と対か:「奉納 嘉永六年五月吉日 當村石工施主 」1853、 ・石塔:多分常夜灯の竿部分:「奉献 伊勢神明宮」、 ・石塔:多分常夜灯の竿部分で先述の常夜灯と対か:「    十年十一月日 伊勢神明宮 石燈篭 當村  」、 ・祠:木造:、  ’20 5/10

・上坂峠、地蔵(上坂隧道トンネル真上、北沼上49) 
 瀬名と南沼上境の通称お化けトンネル(工業水道を地下に通し、地上部をトンネルにし、通行止めだが実際は通行黙認)の真上の峠には人工的切通しがあり、地蔵が安置される。地蔵の左肩部分は過去に割れたらしく、欠損しているし、首も一旦は外れたらしく、セメントで固められている。他に古い遺物は見当たらない。古道はトンネル東側北沼上49-7の旧警察官舎団地付近からトンネル出入り口道の横から上っていける。山道を登っていくと5分で峠に出る。峠西からお律と配水池の巨大配水塔前の金網に伝って下っていけそうだが雑草まみれの廃道と思われる。’20 5/7

・(RU19~20の間)石経、地蔵(北沼上下バス停近く、北沼上775-5) 
 北沼上下バス停より上流に60m歩き左の山道に取り付き30m上ると祠に地蔵が祀られている。年号読み取れず、「吉日」だけ判読できた。
・説明版:石経いしぎょう、北沼上本村町内会、石経とは、享保の頃、村人の願いを全うする為、お地蔵さんを建立することとなり、お寺の和尚が碁石位の石を集めさせ、法華経文「南無妙法蓮華経」の七文字を小石に一字ずつ書いて、台座の下に埋め祈祷をしたところ、その後御利益か、北沼上の人々は次第に豊かになったことから「石経」と呼ばれています。お地蔵さんの創建は享保二年、西暦1717年と記録にあります。毎年12月15日に北沼上本村町内会で供養、祭典をしております。
 ・地蔵、祠:「このお地蔵さんは、本村の人々の難を救ってくれました。創建享保二年(一七一七) 移設平成二十七年(ニ〇一五)十月吉日」
 ・フクロウ石像:説明版:フクロウには諸説ありますが、「不苦労」と書かれます。苦労をしなくても済むようにとの思いを込められていました。又永遠に若くありたい、病気をしないで長生きしたいとの願いから「不老」とも言われます。フクロウモチーフの品は縁起物として自然石で作り、、石経様に願いを込めて村のみんなが幸せでありたいと思いここに進呈。’20 5/9


☆竜爪街道左岸道

・(R9)石道標(瀬名2丁目10-67、県ドライ瀬名店、松村酒店向かい)
 この石道標は南100mの西下町集会所に移転された。そこで新規には以下となる。
(R9)石道標(瀬名2丁目9-67、西下町集会所)
 「左麻機道 大正九年三月 西奈村青年団西下建之」 ’20 5/9
 この石道標がもとあった所から推察して、瀬名2丁目10-67から西に延びる道を西進し、利倉橋を渡り、中坂峠を越え、麻機方面に行く。または奥の谷峠や上坂峠越えという迂回路もあった。

・(R10)六柱神社(旧瀬名2079-1, 瀬名2丁目27-57)
 この神社は消失し住宅が建っている。石塔、手洗石、鳥居が存在していたが、以下に移転した。
(R11)津島神社、大門公民館(瀬名3丁目2-18,19)
  ’20 5/10

・石仏(瀬名七丁目1、西奈団地の花壇)
・地蔵「寛文十」1670、・観音(古そう)、・集合地蔵(新しい)、・他像も新しそう、おそらく他場所から移転され安置されたか。’20 5/7




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 17:16Comments(0)龍爪山近辺の古道

2020年05月09日

麻機街道(静岡市葵区宮ヶ崎町浅間神社←→北)

麻機街道(静岡市葵区宮ヶ崎町浅間神社←→北)  
 麻機街道は浅間神社前から麻機(北)までの約7km区間の道である。浅間神社近辺の紹介から街道沿い、麻端の沼周辺一帯を紹介する。
・浅間神社(宮ヶ崎町) 
 静岡市最大の神社にして文化財も多い。実はいくつかの神社の総合体である。文化財資料館もあり、市の歴史を一望できる。裏山には古墳もある。保存状態のよい石造物は多数存在する。そして浅間神社前の水路を流れる水は北を向いて流れていく。海は南なのに北の麻機を水は目指すのだ。
・小安観世音(西草深町23番地―5) 
 浅間神社手前になるが、ちょうど麻機街道が分岐しだす所にある。ビルの2階に祀られている。
・西草深公園(西草深町27番地) 
 名のある武家の屋敷跡である。
・石鳥居(西草深町と浅間町の境、長谷通り起点) 
 浅間神社南の浅間通り先の中町交差点前にある赤い鳥居を赤鳥居と言い、神社東の長谷通り起点の石造りの鳥居を石鳥居と言う。
・しき化粧品店、志貴氏宅(浅間町1丁目36) 
 長谷通りを50m入ると、左にしき化粧品店がある。志貴氏は浅間神社の神主の家柄である。
・天神湯(浅間町1丁目29)  
 もう50m進むと左に銭湯がある。
・若宮八幡宮、巨木(浅間町1丁目) 
 先のしき化粧品店や天神湯の北側にある。入口は天神湯先を左折し5軒ほど先をまた左折するとある。古くから巨木として知られていた。
・東雲神社(丸山町13)  
 浅間神社すぐ北の賎機山斜面にある。数年前に火災後の復興がなったばかりだ。その北隣にはかつて喜久屋割烹があり、庭が見事だった。
・安西寺(丸山町23)、日切地蔵尊 
 北に100m行くと左に安西寺参道入口となる。石塔類。この寺前を南北に走る路地がもしかすると旧麻機街道かもしれぬ。
・地蔵堂か観音堂(丸山町) 
 丸山町バス停近くにある。
・静岡高校、旧制静岡中学(長谷町) 
 丸山町の麻機街道から東へ300m。県内最古の旧制中学から続く高校。
・松源寺(大岩本町26-1) 
 安西寺の北50mに松源寺がある。石塔類。七夕豪雨による土砂崩れ被害者の供養塔もある。
・富春院(大岩本町26-23) 
 石塔類。静岡の名付け親の中村尚志の「尚志の碑」が門前にある。
静岡の名の由来は、中村が考えた。静岡は府中という名で徳川幕府の代官領だったが、それでは明治新政府に不忠のようなので新しい名を付けようとした。ヒントは浅間神社の裏山の賎機山から付けた。賎機山を別名:賎ヶ丘とも呼んだ。賎では賤しい賊に似ているので静に変え、ヶを削り、丘を岡に変えて「静岡」の名ができた。
・城北公園、旧静岡大学跡地、旧制静岡高校跡地(大岩本町29)  
 今は市民憩いの場で市立図書館もある。かつては国立静岡大学があり、戦前の旧制高校からこの場所だったが、今は駿河区小鹿に移転した。かつてはこの界隈は学生街で学生下宿も多かったが、今はその雰囲気は一掃された。公園北東端に記念碑が建立されている。なお公園北側に今は静岡大学付属の幼稚園と特別支援学校があるのは、もともと静大の土地だからだ。
・臨済寺(大岩町7)  
 今川義元の墓、石塔類。かつては雪斎(今川義元の軍師、徳川家康の教師)を輩出するなどした。今も僧侶の修行寺のため観光用に解放しない。寺内の開放は限られている。
 城北公園向かいの大岩交番前から麻機街道を左に分岐し参道が伸びてくるが、これが旧街道かと思う。寺前で右折し今の街道の左を平行して北上する細い道が旧街道に近い道だろう。ただ細くともまっすぐなので曲がりくねった古道は区画整理され直してまっすぐな新道になったのだろう。古道そのものの残存部はほぼ見当たらないと見たほうがよい。
・賎機山城跡  
 臨済寺裏山が賎機山城本丸である。駿府公園(駿府城跡)にあった今川館の詰めの城で市内防衛の拠点である。付近に堀切、土塁、記念碑がみられる。
・天徳院(大岩3丁目30)  
 臨済寺から1kmで天徳院である。石塔類(「禁葷酒…」「奉順礼善光寺…」、地蔵、延命地蔵、石塔)。
・天神社(大岩3丁目30)  
 天徳院隣にある。創建不明だが、大岩天神といわれかなり古くからあるようだ。
・大岩公民館、石塔類(大岩4丁目35)  
 バイパス手前にある。庚申塔2基、石塔2基、地蔵がある。付近に馬頭観音も祀られている。この近辺はバイパス工事による区画整理で古い道はほぼ付け替えられている。
strong>・池ヶ谷のトーツバキ(池ヶ谷150) 
 橋本耕一氏所有。静岡県指定天然記念物。樹周囲55cm、樹高7m、樹齢推定200年。しかしすでに橋本氏宅と樹もなく、11年4月に新興住宅地となっている。
・桂林寺(池ヶ谷字西ノ谷153) 
 石塔類5基(「庚申塔」「庚申供養塔」、地蔵、他)、六地蔵。開創寛永2年。本尊:11面観世音菩薩。
・天満宮(池ヶ谷47) 
 例祭日:10月16日。棟札:安永5年。山の中腹で農道を上っていくのがよい。
・荒神社(池ヶ谷枇杷沢141) 
 天保5年再建。
<・石塔、墓地(唐瀬1丁目、谷久保) 
 バイパス高架下から500mである。墓石以外に石塔類もある。「庚申供養塔」「庚申塔 善光寺供養塔 大正十年」8基。
・石道標(唐瀬3丁目) 
 街道沿いの家の横に建っている。自然石の左側に刻字「マツドミニ至ル」。楷書でカタカナ表記されている。近代のものだろう。賎機山越えで松富に出られることを示している。 裏山を少し上ると子育て地蔵がある。
・神明宮(唐瀬3丁目、時ヶ谷、南645) 
 街道すぐ横山斜面上。時ヶ谷バス停近く。例祭日:10月16日。文政5年再建。手洗石「明治三年」。
・春日神社(南405、唐瀬) 
 元亀年間創建。文化14年再建。
・御岳神社(南2632-2、深山) 
 例祭日:10月23日。元禄13年再建。
・麻機遊水池(芝原) 
 かつての麻機沼そのものではないにせよ、一応沼として残っている所である。沼の婆さんの伝説もある。ただ川が氾濫するとこの一帯は沼と化す。かつて沼と化した道路の上を魚が泳ぎまわるのを見たし、水が引くと、田の片隅に魚がうじゃうじゃ集まってもいたが、最近は災害対策が進みひどい氾濫が減った。遊水池周辺では伝統の柴上げ漁が行われることがある。
 遊水池は一部グラウンドになり、スポーツが行われる。遊歩道もあり、ビオトープのようになっている。植物や昆虫の宝庫である。
周辺は現在でも湿地帯に近いが、大正期ごろまでは本物の湿地帯で鹿などもいたようだし、舟で通行できた。縄文期までは海の入り江にして干潟の湿地であった。海抜高度も低いので、浅間神社前の水路の水が、この沼目指して下ってくるのだ。巴川の流れはかつての入り江の名残である。
・伝説『沼の婆さん』 
 南北朝期、おそらく安倍手越河原の戦いの頃だろう。南朝方の統領:新田義貞の弟:脇屋儀助が、麻機に陣どった。そこの家の娘と仲がよくなった。儀助は戦いのためこの地を離れたが、娘は儀助の子を産んだ。女の子であった。娘は産後のひだちがよくなく、ほどなく亡くなった。その家の婆さまが孫娘を育てた。孫娘はすくすく育ったが、婆さまは病にかかった。婆さまの容態を心配した孫娘は、浅間神社への連日のお参りを決意し、沼を舟で渡り浅間神社へお参りした。沼には魔物(河童)がいるといわれていた。満願になるその日、孫娘を乗せた舟に魔物が襲いかかり、孫娘を沼に引きずり込んだ。婆さまは悲しみ怒りに燃え、魔物に復讐を誓い沼に入水した。沼は荒れ狂い、龍に化身した婆さまと魔物の戦いがくりひろげられた。ほどなく沼は静かになり、魔物はいなくなった。そして沼に蓮の花が咲くのだった。この蓮が麻機名物:麻機蓮根のはじまりだといわれる。
・旧街道(南、草葉バス停から谷津口バス停まで) 
 今の街道より1本山側の路地が旧街道かもしれない。
・石塔(南、谷津口バス停近く) 
 高架橋下の旧街道付近にある。「庚申供養塔」
・八幡宮(南1485、谷津口) 
 高架橋より2本先の路地左折。例祭日:10月16日。文政年間再建伝承。手洗石、常夜灯2基、大木。
・竹林寺(南字中村1824、中村バス停先左折) 
 石塔類「庚申供養文銘石 寛文六」「南無阿弥陀仏 寛保三」「坂道改修記念碑」、石塔。開創寛永2年。本尊:聖観世音菩薩。
・石塔(麻機小学校正門前) 
 3基(「庚申供養」2基、「順礼一国三十三所…」)
・聖楽寺(有永453、南、麻機小学校より2~3本先の道左折) 
 門前、六地蔵、庚申塔(青面金剛)、6基、板碑。
 観音堂境内、「庚申供養塔」、
開創享禄年前。本尊:聖観世音菩薩。
・大音寺廃寺跡(有永728)  

・大御戸神社(南、聖楽寺少し下左折、有永893) 
 力石「元禄十六癸未年三月吉日」重さ68.6kg。 例祭日:10月16日。創建不詳。再建享保11年。参道入口、「庚申」5基(「日本廻□供養塔」「奉巡礼□明供養塔」「□□供養塔文政」「庚申」、地蔵)、
・旧街道(有永、羽高) 
 現街道より1本山側に細く曲がりくねった道が出はじめる。旧街道の名残かもしれない。
・琴弾きの松(福成神社) 
 有永の裏山山頂。かつてこの周辺で楽音がしたという。この松は漁師のあて山になった。戦時中枯れた。賎機山最高地点。
・石塔(北78、消防分団) 
 破損した石塔「…神道」は、この先の神社への参道を示すのか。「庚申塔」、石仏。
・乾楽寺、羽高公会堂(羽高字久保232)  
 開創正保2年。本尊:木像阿弥陀如来像。5基(「庚申塔」「奉待鶏庚申」「…萬延元年…」石塔2基)、地蔵、常夜灯、六地蔵。
・津島(嶌)神社(羽高158、当目)  
 創建不詳。伝再建享保年間。例祭日:7月15日。常夜灯(「文久三」「明治十一」)、近代の石碑、イチイガシ、ナギの樹、イチョウ。
・桜峠への旧道(羽高、北、北五反田団地内を北上) 
 奥に詰めると今は藪となるが、かつては桜峠旧トンネル手前の県道に出られそこからその上の峠にも行けた。桜峠は今は鯨が池側から簡単に上れる。地蔵が祀られている。
・円光院(北) 
 家康が駿府に施楽院を設けたその跡地にできた寺である。かつては旧東海道沿いの久能街道分岐点辺りにあったようだ。今の横田・日の出・栄町辺りのようだ。火災や戦災により全焼、都市計画により寺域縮小、1970年麻機北に移転。この寺以外にも戦後かなりの寺が市中心部から移転した。特に移転先で集中しているのは市内長沼愛宕山霊園周辺が知られている。現代浪曲元祖武藤屋嘉兵衛の墓がある。寺の裏手にも別のいわれのあるものがあったようだが見つからない。本尊:阿弥陀如来、他に不動尊、阿弥陀如来立像、家康拝領薬研。
・麻機温泉(北) 

・滝の谷温泉センター(北) 
 
・石塔類(北、第二東名横)、旧・光明寺跡地? 
 開創不詳。中興正徳年中。本尊:石仏不動明王。
滝の谷温泉センターに向かう道をさらに奥に進むと第二東名の真横に着き、道は左右に分岐する。ここに今石塔が安置されている。この近辺にかつて山寺の跡があり、石垣もあったが、第二東名の下になってしまい消滅した。石塔類だけは付近のここに移転された。付近に滝がある。
この山寺及びこの上はかつて北沼上への峠道だったようだ。北沼上には麻機を示す石道標が2つある。峠には八幡神社のお堂があったが、近年お堂が取り壊されたようだ。北沼上の峠真下は完全な廃道で歩けない。
・霊仙寺跡地?(北769、谷津) 
 谷津トンネル手前の墓地である。石塔類「奉待鶏庚申」、他1基。かつて密教真言の寺でもっと東の峰、般若平という場所にあったという。本尊:阿弥陀如来、他に栗葉師:桜峠にあったという。開創不詳。中興天正19年。
・北浅間神社(北1762、道八ツ) 
 かつて山城があった場所らしいが、新興住宅地で残存部は消滅しただろう。
 石塔「奉崇庚申塔」、鰐口「天文3(1534)年」(静岡県文化財指定)。例祭日:10月16日。創建不詳。棟札修造慶長16年。板碑「紀元二千六百年」。入口左右の大石は石塔の残骸か。
・智徳院、麻機不動尊(北字大日前440) 
 開創正徳元年。本尊:最勝不動明王。石塔類。
・秋葉山常夜灯(北235)  
  「秋葉山常夜灯 文化五戊辰五月吉□日 當村中」1808.村の中心地に祀り秋葉神社方向を示していたようだ。
・板碑、神社(北223)  
 板碑の残骸、家型道祖神2基。入口に赤鳥居がある。
・瑞雲寺(北字中条277-1) 
 開創不詳。1957年喜相院と霊仙寺合併。本尊虚空蔵菩薩。石塔(「駿河一国三十三所…」)。地蔵。
・喜相院廃寺(北字中条276)…開創不詳。元亀2年中興。
・西光寺廃寺跡(垣ノ内) 

・石塔(県道 巴川の大橋橋袂、北357-1) 
「奉待庚申供養塔」、江戸期中期から後期かと思われる。

・岩崎家(東183) 
 堀と塀で囲まれかつての豪農の雰囲気を残す。沼の婆さんは岩崎家の先祖ということになるのだろうか。高松の岩崎氏によれば違うとのことだったが。
岩崎家の家がある場所より南には古い農家はなく、新興住宅地だけなので、かつてはこの辺りが沼と陸地の境だったのだろう。
・石塔(東111)
 「鳥獣供養塔」、地蔵、石塔。
・日加美神社(東123、天王山) 
 例祭日:10月17日。創建不詳。伝再建宝永年間。常夜灯、台石。
 神社南側に郷倉。
・東林寺(東字奥ノ谷1344) 
 開創:永享七(1435)年、開基:元亀二(1571)年、阿弥陀如来。六地蔵、水子地蔵、板碑、大師堂。
・石塔類(東222) 
 「葵 四月十四日 養塔」、他。破損がひどいが捨てずによく残してある。
・宇津木沢荒神山経塚遺跡(東) 

・鈴石天神(東、麻機配水池タンクや老人ホームから山へ上る農道の途中) 
 大岩の中に小石を入れると音が鳴ることから鈴石という。天神も祀られていたが日加美神社に合祀された。
・地蔵、大石(赤松、老人ホーム前) 
 地蔵はかつて、静岡北特別支援学校前の山の先端部上の旧道に安置されていたが、車道の拡幅により現在地に移転された。この地蔵は村外から病気を移す疫病神を退散させる目的で村の出入り口に置かれた。こういった風習はかつてよくあった。今の車道より上に旧道があったことも示唆している。
 この大石は「肥付石」というものかもしれない。触ると足や身体が腫れるといわれた。かつては山の中腹にあったが、下におろされたようだ。 
 ここは船着場といわれている。かつて広大な沼地でここが船着場の一つだったのだ。『沼の婆さん』の伝説でも、浅間神社へのお参りに舟が使われていたことが分かる。
・おたつ火(漆山西北、多分赤松 老人ホーム近辺)  
 昭和5~6年頃まで初夏の日暮れから1時間ほど赤色の火が動き回ったという。
・浄祐寺浄心苑、墓地(東) 
 新たに移転してきた墓地。とくに古い石塔類はない。
・馬頭観音(南沼上、薬師) 
 市営沼上霊園手前の水田のある農道沿いにある。2020年、西濃運輸の建物が立ち水田はすべて消失し、高さ30~50㎝の馬頭観音も見られない。
・馬頭観音(JUオートオークション裏、静岡制御㈱裏、南沼上1895-14山本氏宅前、福祉事業所ワーク薬師手前)
 立派な石像で、麻機や府中、江尻方向を示し、この付近に古道があったことを示している。
・馬頭観音:高70㎝、台座:高20㎝、「右    、左    」、刻字が読めない。上部欠損。

・諏訪神社(南沼上994) 通称:沼の婆さん 
 流通センター北でヘリポート南の小高い丘上にある。沼の婆さんを祀る。流通センター側から上れる。
〇石造物:
 ・「西国三十三所 奉順拝南無観世音菩薩 同行當村 文化十癸酉年四月吉日供養川合村 (村民氏名多数)」1813、 ・石段、 ・石鳥居:刻字不明、 ・コンクリ家形道祖神、 ・石灯籠2:「奉納諏訪大明神御廟前 當村中 安政四巳年三月日」1857、 ・石灯籠2:刻字不明、 ・手洗石:「願主南  享保元 十一月日」1716、 ・手洗石:近代:刻字不明、 ・桜ソメイヨシノ2本大木見事。
・古道: 神社前参道を西に進み尾根道を伝っていくと、まず左(北)に分岐する道があり、沼上清掃工場南のグラウンドと畑のある所に出られる。先ほどの分岐点に戻り、さらに西進するとまた左右にY字分岐する。左(北)に進むと、石塔類が見え中坂峠に出られる。
またY字分岐に戻り右道(西)を進むと分岐尾根を東から西に進んだ道が主尾根に突き当たり、山道が南に曲がり進む。西下には流通センター工場街が展望できる。さらに南進して行くと、道は舗装路に突き当たる。奥の谷峠であり石塔類がある。
 ちなみに駿河区大谷の大谷小学校裏の大正寺のお堂と南沼上の大安寺上のお堂にも、沼の婆さんは祀られている。岩崎家は大正寺の檀家である。
・説明看板:2022年現在朽ち果て横倒しで判読不能だが、ネット検索するとこの説明版が完全に読める状態の写真が掲載されていたので、写真をもとに掲載する。
「   沼の婆さん由来記
  昔、1335年:建武二年の後醍醐天皇の時、足利直義と新田義貞が安倍川で戦っていた頃、義貞の弟:脇屋義助:よしすけ:は、当国の守護に補され、しばらく当国に住んでいた。同国の瀬名村に小菊という娘がいて、この娘容顔美麗だったので宮仕えをと望んだ。のちに新田一家の勢いが衰え、付き添う者もなくなってしまい、小菊はただならぬ身でどうすることもできず親里に帰り、義助公の軍旅の御衛を思いながら娘:小葭:こよし:を出産して、三日目に小菊は空しく世を去った。
 それから17年の歳月が流れ、小菊の母:秋野は病にかかり、小葭葉かねてから聞いていた浅間の社の百か日のお参りを誓った。ある日のこと、舟で巴川を下って渡しの中ほどまで進んだ時、小葭が河童に引きずり込まれて水底に姿を消した。
 そのことの次第を聞いた秋野は、龍となりその河童を退治して、沼の守護神となろうと発願して小葭と同じ水底に身を沈めた。不思議なことに、身投げしたその翌年から法器草:ほうきぐさ:と呼ばれる霊草が育ち、村人はその根を掘り取って食糧とした。誰言うとなく「あのお婆さんの魂がこの不思議な草を沼に生やして下さったのだ。」と言って、お婆さんの霊をこの社にお祀りした。
                              諏訪神社」

・七天白(麻機周辺) 
池ヶ谷242番地、

・八天神(麻機周辺)?七天神 
 ・松下天神、・平柳天神(南の八幡宮合祀)、・麻機漆山天神、・三杉天神、・東村石亀天神(鈴石、日加美神社合祀)、・北安東村安東天神、・
漆山の静岡北特別支援学校と国立神経医療センターの東側低地を天神前と称するので、漆山東先端部に麻機漆山天神が祀られていたのかもしれない。
・「庚申塔」(平山) 3基 
 石塔類。
  


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2019年10月20日

掛川市の石道標

・掛川市(石ヶ谷、美人ヶ谷、大和田分岐点の石道標)林道美人ヶ谷線、
 掛川市中心部から上西郷を目指し北上する。上西郷の石ヶ谷の谷地への分岐を進む。かつての石ヶ谷温泉または獅子岩等の巨石群方向である。石ヶ谷に入った所で道が左右に分かれる。左が旧温泉・巨石群方向だが、今回は右(北)方向を取る。これが林道美人ヶ谷線である。800mも上ると茶畑の尾根上に出る。本道はさらに尾根を登っていくが、右下の美人ヶ谷に下る道の分岐点がある。ここに判読不明だが、石道標がある。付近で野良仕事をしていた古老に聞くと、「大正期頃の道標で、大和田から来て美人ヶ谷と石ヶ谷との分岐を示すものだ」とのこと。
 まだ他にも無名の道標が数知れずあるのだろう。

・掛川市五百済(イヲズミ)・龍登院門前
 石道標「右掛川 後堀之内 左中内田村 道」、字体は楷書の漢字で大きさも一定化していて近代のものである。昭和初期頃か。右は現在舗装路になっている市道で掛川市内を目指し、左も舗装路で中内田方面へ抜けられる県道につながる市道ではあるが、かつての旧道は平野と山際の狭い道と考えられるが、すでに旧道は消滅していると思われる。後ろの道は現在のキウイフルーツカントリー農園に向かう道と思われる。農園で舗装は終了するが、その先の丘陵地を上り、現在の菊川市内中心地JR菊川駅付近のかつての堀之内村に行けたものと思われる。なお掛川方面への旧道(里道)に関してはつま恋施設の西端から杉谷方面にかけて3つの手掘り隧道トンネルを調査した記事をネット検索で知ることができる。また「五百済(イヲズミ)」では掛川層群といわれる火山灰層の地層があり、丘陵地を削った崖地に見ることができる。これもネット検索できる。
 地名の「五百済(イヲズミ)」は五百でイヲで、地元の人たちは「ヨーズミ」という発音をする場合もある。


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:02Comments(0)古道

2019年09月01日

葉梨街道:静岡県藤枝市

葉梨街道
・情報提供呼びかけ
 今後、2016年11月以降、笹間街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 藤枝市葉梨川流域の道である。一応起点は県道215号伊久美藤枝線と旧東海道との交差点:藤枝大手とする。ここから葉梨川の上流を目指すことになる。そして反対に下流側を目指すと田中城を経て焼津駅に至るが、今回は割愛する。
*住所地は当地ではなく附近のものである場合がある。住所は現地で探す時の補助になればという思いで掲載しているためである。


 大手交差点周辺の大手、本町、天王町の遺物類から紹介する。
・成田山不動寺、新護寺(藤枝市本町4丁目5-24 ) 

・左車神社(藤枝市本町4丁目6-14 )

・愛宕神社(藤枝市本町4丁目3-26 )

・養命寺(大手1丁目6-35 ) 

・源昌寺(大手1丁目14-10 )

・キリスト教会ふじえだチャペル(大手1丁目17-3 )

・向善寺(天王町1丁目5-30 ) 

・了善寺(天王町1丁目4-1 )

・豊受教会(天王町2丁目3- )

・地蔵堂(天王町2丁目3-41 )

・ 神社(天王町2丁目3-38 )

・翁稲荷社(天王町2丁目3-30 )

・大黒天(本町3丁目2-13 )

・ 神社(天王町2丁目9-15 )

・六角庵子育地蔵尊(天王町2丁目7-45 ) 




・八坂神社(天王町3丁目-16-1 ) 

・岳叟寺(五十海4丁目8-34 )

・原木神社(五十海4丁目3-10 )

・境橋(藤岡5丁目- ) 

・押切橋(時ケ谷 )

・耕雲寺(時ケ谷253 )

・智勝神社(下薮田26-37 ) 

・最林寺(下薮田322 )

・ 神社(時ケ谷30 )

・桜宮神社(時ケ谷30 )

・白山神社(上薮田658 ) 

・利勝院(上薮田669 ) 

・貴船神社(下之郷580 )

・長慶寺(下之郷1225 )

・延命地蔵尊(横見1361-8 )

・八幡神社(花倉332 )

・遍照寺(花倉397-1 )

・補陀落寺(花倉1038 ) 

・花倉城跡(花倉 ) 

・忠霊之碑(下之郷、中田203₋2 )

・二ノ宮神社(中ノ合711 )

・毘沙門天(中ノ合8-3 )

・准渓寺(中ノ合68 ) 

・連久寺(北方47 ) 

・白藤の滝(北方 )

・盤脚院(西方407 )

・安楽寺(北方962 ) 

・葉梨神社(北方962 )

・津島神社(北方1451-1 )

・西方八幡宮(西方1691-8 ) 

・大沢峡(西方 )

・(西方 )


☆☆☆~~~葉梨川沿い~~~
 天王町周辺の遺物類から紹介する。
・六角庵子育て地蔵尊(藤枝市天王町2丁目7‐45、 )

・豊受教会(藤枝市天王町2丁目、 )

・  神社(藤枝市天王町2丁目3-41 ) 

・  神社(藤枝市天王町2丁目3-38  ) 

・  神社(藤枝市天王町2丁目9-15  ) 

・ 翁稲荷社(藤枝市天王町2丁目3-30  ) 

・ 八坂神社(藤枝市天王町3丁目16-9  ) 

・ 大黒天(藤枝市本町3丁目2-13  ) 

・ 養命寺(藤枝市本町3丁目6-35  ) 

・ 愛宕神社(藤枝市本町4丁目3-1  ) 

・ 成田山新護寺(藤枝市本町4丁目5-24  ) 

・ 左車神社(藤枝市本町4丁目6-13  ) 

・ 蓮生寺(藤枝市本町1丁目3-31  ) 

・ 茶木稲荷神社(藤枝市本町1丁目3-18  ) 

・  神社(藤枝市本町1丁目4-30  ) 

・ 慶全寺(藤枝市本町1丁目12-13  ) 

・ 大井神社(藤枝市本町1丁目12-20  ) 

・ 長楽寺(藤枝市本町1丁目10-12  ) 

・ 天満宮津島神社(藤枝市本町1丁目13-2  ) 

・原木神社(五十海4丁目3-10 ) 

・岳叟寺(五十海4丁目8-34 ) 

・向善寺(藤枝天王町1丁目5-30 )

・了善寺(藤枝天王町1丁目4-1 )

・蓮華寺池公園(若王子500 )
・蓮華寺池
・藤枝市郷土博物館、文学館

・ 源昌寺(藤枝市大手1丁目14-10  ) 

・ キリスト教会藤枝チャペル(藤枝市大手1丁目17-14  ) 

・ 村岡山万願寺(藤枝市郡726-1  ) 

・ 田中神社(藤枝市郡726-1  ) 

・ 姥ヶ池(藤枝市立花2丁目9-11  ) 

・ 田中城址(藤枝市田中1丁目37-3、藤枝市立西益津小学校、西益津中学校) 

・ 下屋敷稲荷社(藤枝市田中3丁目14  ) 

・青山八幡宮(八幡884 ) 
・神の池

・耕春院(八幡967 ) 

・須賀神社(鬼島11-25 ) 
 
・全居寺(鬼島16 ) 
 
・観音堂(鬼島21-7 )

・本行寺(鬼島11-3  ) 

・ 如法寺(鬼島46  ) 

・ 諏訪神社(鬼島629  ) 

・真福寺(上当間178  ) 

・橘神社(上当間92  ) 

・ 神社(平島1702 )

・ 藤井神社(平島12‐3 )

・ 東泉寺(平島179 )

・ 光明寺(平島372 )

・ 延命地蔵尊(平島136 )

~藤枝市薮田周辺~
・智勝神社(藤枝市下薮田26-37 ) 

・最林寺(藤枝市下薮田322) 

・桜宮神社、二つ池(時ケ谷138-17 )

・耕雲寺(時ケ谷253 )

・白山神社(上薮田658 )

・利勝院(上薮田669 ) 

・忠霊之碑(中田203-2 ) 

・延命地蔵尊、横見池(横見1501)

・貴船神社(下之郷580 )

・衣原古墳群(下之郷 )

・長慶寺(下之郷1225 ) 

・八幡神社神輿御休所(花倉57-16 )

・  神社(花倉85 )

・ 八幡神社(花倉332  )

・ 徧照寺(花倉397-1 ) 

・補陀落寺(花倉1038 )

・花倉城(花倉 )

・二ノ宮神社(中ノ合711 ) 

・毘沙門天(中ノ合8-3 ) 

・ 潅渓寺(中ノ合68 )

・ 連久寺(北方47 )

・ 安楽寺(北方962  )

・ 葉梨神社(北方962  ) 

・ 盤脚院(西方407  ) 

・津島神社(北方1451-1 )

・西方八幡宮(西方1691-8 )

・白藤の滝

・大沢峡

・峠道
 朝比奈川沿いの集落や街道に出るための道があったようだ。




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:00Comments(0)古街道

2018年03月30日

遠江三十三所観音霊場巡礼道

・私的前々文
 2015年秋11月以降、以下の「遠江三十三所観音霊場巡り」の巡礼道を調査研究しています。実際に現地を廻ってフィールドワークをしています。ついては分からないことが多いので、もしアドバイスいただけるようでしたらお願いします。以下の石造物を除く観音霊場に関する文章は参考文献3冊からの引用がほとんどで、事前資料です。特に巡礼道の様子を調べたいのと、移転前の過去の観音堂位置を割り出し、そこをたどる道を推定しています。

☆疑問点:総ざらい
・1番:結縁寺:元の堂があった奥の一ノ澤の元堂はどこか?
  答:モトド:元堂という地名が、結縁寺集落の一番奥の家周辺にある。

・3番:長谷寺:かつて門前近辺にあったと思われる石柱「三番はせ寺」はどこにいったのか?
 不明、分かる方コメントをお願いします。

・4番:正法寺内新福寺:かつて新福寺は曽我山の山頂で高御所北端にあったそうだが、それはどこ?
 現在高御所北に浅間神社があるがその附近か、または逆川との境の丘ではないかと2つの推定案を考えた。この位置だと長谷寺から巡礼路は現在の線路をくぐる南進路を取らず西進するだけで至近距離である。
  答:高御所の北方に高御所地区公会堂があり、墓や地蔵、五輪塔があり、隣裏山は丘になっている。公会堂や墓地、裏山周辺のようだ。

・4番:正法寺内新福寺:の裏山を越えて次の法多山に行く近道で抜け道のようなルートで腹摺峠の西を行くはずだが、そのルートはどこ?正法寺裏山は改変されていてどこから入るか不明?
 答:腹摺峠尾根沿い西200mの2つ目のピーク付近に山道入口はあるが、そこから先の正法寺への道はない。道は崩落したようだ。

・5番:尊永寺内北谷寺:北谷の地区は分かるが、その北谷のどこに寺があったのか?
  答:永寶寺:大嶽氏の調べにより、北谷の入口付近であることが判明した。感謝いたします。

・9番:清瀧寺から10番:蓮華寺への経路中:岩室地区の台地上の尾根を伝って行き、一宮の宮代西の小国神社手前の平地に下っていくのが古い巡礼道であるが、明治23年地図『二俣町』では、巡礼道は北島氏宅前に下りずにもう1本北側の枝尾根をつたって下りている。この山道があるのか?なぜ現在の山道ルートと明治23年地図のルートが一部違っているのはなぜ?
 答:赤黒標識杭のある古道をたどると、古道の左のピークに向かう山道があり、黄黒の標識杭がある。たどっていくともう1本北側の枝尾根沿いに下れる山道がついている。

・古い11番:観音寺は睦実、鴨岡の北の丸へ行くトンネル付近にあったようだ。そこから12番:寺島の長源庵へ向かう推定ルートとして、葛城北の丸へ尾根上の古道を通り、北の丸から掛川市と森町の境界線尾根を伝って秋葉街道に下り、幡鎌から今の天浜線や県道を渡り、新東名脇をかすめ寺島に至ったと推定したが、果たしてそのルートで合理性があるのか?
或は北の丸付近から幡鎌へ出て今の原田駅前附近を経て寺島に向かうルートも推定される。

・12番:長源庵はかつて寺田村の山崎にあったそうだが、それはどこか?
 答:長源庵の裏の山:今はゴルフ場の入口近く周辺がかつての寺田の跡。現在周辺は寺島という地名だが、宮ケ島と寺田が合併して寺島になった。

・14番:古くは桜木池附近の山頂の知漣寺であることが分かった。大和田峠からねむの木美術館へのルートも判明した。知漣寺の次には坂下の地蔵院に移ったが、これも場所は判明した。これも皆様のご協力で感謝いたします。

・14番:大雲院または地蔵院、知漣寺から15番:文殊寺へのルートは、倉真の報徳神社付近から、倉真と初馬の境界尾根に沿って伝い、越えて長老塚やその上の茶畑の供養塔を経て初馬の文殊寺に至ったと推定されるが、そのルートが正しいのだろうか?

・16番:真昌寺の観音堂は高森山西麓に明治32年まであったそうだが、それはどこ?
 答:水垂の老人ホームききょう荘のある山の反対側の街道沿いでかつて忠魂碑があった所。

・18番:新福寺より19番への途中で鞍骨池近くを通過する。池の堀越入道伝説とは何か?
  菊川市西方公文名の首塚様の地蔵の説明版(27番から28番への経路)により了解したが、今後、図書館で調べたい。

・20番:観音寺から21番へのルート:巡礼道は東の山を越えて本所集落に出るのだが、調査によって2つのルートが判明した。①北回りコース、②南回りコースの2つに分けられる。 
① 北回りコース(子安観音→茶畑内の基準点→本所1077:齋藤宅前→薬師堂)
子安観音を東に向かい進む。現在茶畑になっている所に一部コンクリ舗装されている道がある。これに沿い上っていく。草木生い茂りひどい中を進むと台地上に改めて山を削り整地し直して開墾された新しい茶畑が広がる隅に出る。茶畑の北西端に出たようだ。イノシシ用罠オリがあり、野生のイノシシがはまっていた。コンクリ舗装がなくなり更に山を削り取った斜面に道がはまっていく所で草木だらけで進めないし、この先道型も削り取られ消失していくのであきらめ、下に下り、道があったであろう当たりを追っていくこと150m、改めて上に茶畑が出てくる。茶畑に上ってみると、道型消失地点から150m東で、茶畑の西端の道型再登場地点?辺りに、基準点がある。ということはかつてはここがアカミチのおよそ峠辺りではないかと推定する。この地点より東も開墾されたばかりの茶畑かと思うし、舗装され直した農道を東に進む。もはや古道はない。下っていくと、本所の集落に出る。本所1077:齋藤宅前にでた。ここから東150mで薬師堂前に出る。
本所1100斎藤さんに話を伺うと巡礼道はここではなく、南の慶雲寺前の道だとのことだった。
② 南回りコース(子安観音→伊達工業所→慶雲寺→本所231松浦宅前→薬師堂)
 子安観音から東の山際の南に大原子集落を300m進む。伊達工業所の看板がある。ここから東に上っていくコンクリ舗装の道を進むが、1528⁻1伊達工業所を過ぎ次の家の1530伊達宅前でコンクリ舗装から右に外れていくのが正しい。しかしそこは山の地面ごとない。山を削り取り道路や茶畑を広大に作り直してあり、自然地形の山は一切消去されていて新しい碁盤の目のような舗装路と四角く整地された茶畑である。以前はここは山と瓦ヶ池があり、池のほとりを廻って慶雲寺に行けた。現在は新しい道を通過して慶雲寺前に出る。
なお伊達工業所前の、本所1386榛葉さんに話を聞くと、榛葉さんは掛川歩こう会に参加していて、古道には多少詳しいようで、子安観音から東に向かう道も古い巡礼道だとのこと。この慶雲寺経由の道も教えてもらえた。又この辺りにかつてあったであろう石道標はまったくないそうだ。
巡礼達はなぜこの慶雲寺経由の道を通過したのか? 北回りより300m遠回りである。なぜ2つのルートがあり、しかも遠回りのものの方が住民には覚えられているのか?

・23番:無間山観音寺より安田に出る巡礼道ルートはどこだったのか?
  地元の人たちからの話で、粟が岳南斜面の旧道のハイキングコースから安田を目指す、軽トラック用農道であることが判明した。皆さまのご協力に感謝いたします。

・25番と26番をつなぐ川の右岸(西)の山道の古道はどこを通っていたのか?
  地元の人たちの話から、ほぼ山の斜面のどこを通ったかは了解しました。一部通行困難で300mほど通行をあきらめた部分はありましたが、斜面上に倒木と草まみれになっていても平坦な部分が残っていて、古い道と推定できる部分がありました。皆様のご協力に感謝いたします。

・26番から27番への古道ルート? 妙国寺からいかにして富田に出たのか? 前半はゴルフ場により消失したのか? 富田から公文名への山道ルートはどこか?
  地元の人たちの話から、ホロンゴルフ場へつながる山頂付近の道が分かりました。
また富田側のゴルフ場から出てくる道の所在地も推定できました。これは残念ながらとても進入できない状態でした。


・31番から32番へのルート上で、下佐束の山に取り付き下北へ抜ける火ヶ峰を南から北に縦断する山道はどこか?
 答:火ヶ峰に行くため池の堤防を渡る進入口は判明したが、300m先で斜面崩壊と雑草倒木密集により、進行不能。下北側の茶畑から尾根に入る道も、雑草密集により進入不能。現在、火ヶ峰は入れる状況にはない。かつては高天神城攻略のための砦跡でもあるのだが。
☆疑問:「番外四番の丸山観音」とはどこ?
 旧大東町、中方の近江ヶ谷池のほとりにある。池のほとりの丘、中腹で自動車道から歩いて上れる。自動車道沿いの入口に石道標がある。近くには薬師堂や地蔵堂もある。
☆疑問:番外とは?その数と具体地はどこ?
 具体的にどれだけの数があり、どこなのかも不明である。
 分かる方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントをお願いします。

・32番今滝寺から33番岩井寺への風吹トンネル上の古道はどこか?
 基本的には山の尾根道の古道ルートの一部は発見できた。あとは砂利取で山ごと消失し平地になっている部分がある。残された部分も倒木雑草で進入困難箇所がある。突破するのはたいへんである。
 答:入山瀬の製茶工場と中山氏宅の間の道を山に取り付き尾根を目指すが、茶畑のすぐ上は倒木された竹藪だらけで通行不能なので、少し左に迂回して竹藪の上に出ると石仏がある。そこからは道型が残っているのでそれを目当てに尾根に出て尾根道を歩ける。500m進むと、ロープが張られその先は山ごと削り取られていて、はるか下に平地が広がり、その向こうに前方を削り取られた対岸の山が見られる。砂利採掘場で関係者以外立ち入り禁止になっていて、ダンプカーが出入りしている。(実は対岸の山の裏側も削り取られていて、2か所にわたって山を削土しているようだ。その後、現在の自動車道を移動して、砂利採掘場を過ぎて山に取り付ける地点はエコパ方面との交差点を南に行き、山越えした地点である。ここはかつて掛川市と大東町の境界線の尾根である。古道は基本的にその境界線に沿ってあるようだ。ここからカヤの生えている茶畑道を西に進むとすぐ山に取り付き道幅一間の古道が残っている。300mも上っていくと山の裏側にたどり着く。ここから先は砂利取りで山が削土され、はるか下に平地と工場がある。先ほど見た光景とは違うので、このまた先の山の裏側も削土され、おそらくそこが先ほどの見た地点と推定される。これを戻りさっきの自動車道より東に尾根沿いを進む。茶畑を過ぎると尾根のこぶピークが見られる、こぶを右にまく山道がある。これが古道であるが、笹竹が密生している。それでもこいで行ける程度である、30mこいで行くと左尾根上に道が上っていく。尾根通しを歩く。右側は有刺鉄線が張られ、真下にはため池がある。尾根通しが下りになると道が消失?、とりあえず尾根通しを下りきると、茶畑に出る。畑の東はピークになっていて、また藪と倒木だらけだが、道型が少し残る。道型を外さない程度に迂回しつつも迂回しきれず藪と倒木を潜り抜け、尾根の少し下を巻く道型をたどっていくと、廃棄茶畑があり、その先の5mの崖下に舗装農道が現れる。農道を100m進むと岩井寺である。


・33番から1番への古道ルート? 
 答:岩井寺から子隣りで西に進み、和田へ出る。その切通しに石仏がある。和田から北東に進み、県道や上小笠川の橋を渡り、板沢神社のある秋葉街道に出る。秋葉街道を北西に進みトンネル手前で県道を渡り、上板沢の龍谷寺方面に出て、龍谷寺の西から板沢と上張の境界線の尾根越えをして結縁寺に行く古道がある。


・番外というか最後に善光寺に行くことを想定して、掛川市内にある寺に打ち止めの善光寺というお堂のある寺があるという。それはどこで、そこへのルートは?
 答:掛川市岡津、仲道寺、ルートはおそらく秋葉街道と東海道。
   ちなみに秋彼岸:秋分の日頃に巡礼する人が多いためか否か、この日に御櫃治めをする浜岡の桜ヶ池:池宮神社に参詣することが多かったそうだ。

・巡礼道は設定最初期は番号通り廻る方が一筆書きで便利だったのだろうが、時代が下るにつれ、どんどん観音堂の位置が移転しては、番号通り廻りにくくなったと推定されるし、しかもそのうち番外というものが出てきて、いったいどういうルートで廻ったか推定しづらい。実際どういうルートが設定されていたのか、あるいはまとまったルートはなかったのか?

*’16 3/6時点での、疑問点は以上である。回答は3/16、28。


 ’15 10/12、明治20年代陸地測量部2万分の1地図で、「遠江心の旅路を歩く巡礼道」附属地図と昭和後期国土地理院2万5千分の1地形図とを照らし合わせルートを確認した。いくつかの相違点を確認できた。以下の各当箇所に詳述する。
’15 7/23 突然左膝関節痛(膝関節炎)を発症し、階段や坂道を下るのが苦痛になり、それまでの体力任せのスピード調査が不能となり、のろのろフィールドワークとなった。スピード半減で調査は遅れる一方である。未だ左膝に水が溜まり水抜きとヒアルロン酸注射を欠かせない日常となった。正座ができないし、下り坂やジャンプ、足をひねると痛い状態である。
’16 2/22、膝の水は17㏄たまっていたが、先月の45㏄よりはましだった。外科医からは腎臓が一つしかない(普通2つあるのだが、腎臓がんで一つ摘出したので)、腎臓機能が普通の人の70%程度であり、尿酸(測定値は異常ではないが高止まり)を排出しきれず、それが膝へ負担をかけているのだろうとのことだった。最近体重を減量して、膝への重さ負担軽減、尿酸値の低下、コレステロール等の測定値の低下が出てきたので、もう少しはよくなってくれるといいのだが、まだ実感はなく、やはり違和感、痛みはある。1㎞を6分以内に走れない。3/9には36㏄以上溜まっていて、激しい運動をやめ抗炎症剤の痛み止め薬を勧められた。3/22には水は16㏄だった。



~「遠江三十三所観音霊場巡り」巡礼道~
・前文 
 本項目では33か所の霊場を紹介するが、それがメインではなく、街道研究の一端なので、メインは霊場から霊場をつなぐ「道」、巡礼道を報告することがメインの目的である。これまでも霊場を紹介する文献、ブログ等はいくつかあり、とても参考になり役立つ。しかし巡礼道を紹介したものは、『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』の附属地図と石道標を紹介したものぐらいだ。そこで古道や新道も含めて巡礼道を紹介したいと思う。しかしすでにどこが古道かもわからない面は多く、推定のさらに推定になり、ほとんど確たる証拠のない道調べとなっているが、一応報告させてもらう。また三十三所についても他書を使わずとも一通りのことが分かる様には配慮して掲載する。寺院紹介は参考文献からの引用である。
・遠江三十三所観音霊場の設定時期:
 永正年間1504~17に掛川藩主朝比奈氏が主家今川家の安泰を願って、今川家重臣小笠原氏や松井氏とはかり遠江三十三観音霊場を選定した、と考えられている。
江戸時代の西国巡礼盛況の1回目は元禄期(1688~1703)で、2回目は宝暦・明和・安永(1751~1780)、3回目は文化・文政時代(1804~1829)である。遠江33所巡礼も西国巡礼に連動しているそうで、この時期に再建や建立が多いのもうなずけるようだ。

*本文を読み進めたり、実際に現地で行動しようとするときには、ゼンリン住宅地図(古書店購入)や明治期に発行された陸地測量部地図の2万分の1か5万分の1(図書館コピー)があるとよい。後で参考資料として挙げた
『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』及び附属地図「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼みち」、瀧茂、浜名湖出版、‘88 
『遠江三十三所案内』桐田幸昭、静岡教育出版社、’88 
『光と風と観音様と 遠江三十三観音霊場ガイド』竹腰幸夫、静岡新聞社、’03 
以上3冊があるとよい。特に附属地図は必携である。私は図書館借用でコピーした。

‘1511/3、御朱印集めがブームのようである。アイドル:中川翔子も番組の中で御朱印女子を紹介していた。そこで朱印集めを今回行うことにした。本順礼ではどこの札所でもすでに黒文字が印刷され朱印を押すだけになっている御朱印帳としての奉納経帳を1冊¥500で販売している。朱印を押すのは一般的に¥100である。無住の場合、掲示連絡先にTELするか、無人セルフ式で用意されている朱印器具があるので、自分で朱印を押して¥100置いてくるかである。住職や管理者、その家族が留守がちでなかなか御朱印がもらえないことが多いので、事前に電話連絡することをお奨めする。
無住の巡礼先では自治会(町内会)が管理していて毎年御朱印係は持ち回りのようなので、毎年連絡先は変更される可能性がある。そこで本に書かれている連絡先に電話するたび、すでに連絡先は変更されていることばかりだった。それでも電話することで新たな連絡先を教えてもらえて助かった。
‘15年12月に遠江三十三所観音霊場連絡会でホームページを立ち上げたので、そちらで最新の連絡先が分かるようだ。そちらで連絡先を確認してからお出かけください。と言って私がまだ未確認です。以下の本文記載の電話番号は古いものです。あしからず。

*住所地は不明な場合、隣接地の住所を記入している。


・第一番 一澤山 結縁寺(掛川市結縁寺54、けちえんじ) いったくさんけちえんじ  
 創建:未詳、開基:伝弘法大師、本尊:聖観世音菩薩:木造座像30㎝、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2025年、縁起:弘法大師が当地である神代地シンダイチの水不足を哀れみ、「われ神に代わり清き流れ開き与えん」と言い、観音像を刻み観音堂を建て安置したという。一ノ澤観音、弘法堂と云われる。江戸時代初期頃から観音信仰が隆盛し参詣者が増えて、縁結び、五穀豊穣が知られるようになった。観音堂は元禄元年1688年焼失、元禄九年佐野郡飛鳥村(掛川市)永江院の心庵芳伝僧を招き曹洞宗結縁寺を現在地に建立。宝暦九年 1759年参詣者が多いので、近隣寄附や参詣者の喜捨で大金百両を以て新堂再建。文化九年1812屋根を瓦に葺き替えた。
 江戸時代の西国巡礼ブームは元禄期1688~1704が1回目で、2回目は宝暦・明和・安永期の30年間1751~1780で、3回目は文化文政期1804~1831の25年間である。西国巡礼に連動して遠江33所もブームとなっているようだ。結縁寺の再建はこれと一致している。
結縁とは仏道に入ろうとする者がその決心をすることである。観音堂は元もっと奥の一ノ澤の元堂と云うところにあったが、有名になり参詣者が増えると村名も結縁寺となり、今の所に堂が造られた。
結縁寺43:村松氏や結縁寺204⁻3:長谷川氏の奥さんによれば、モトド:元堂は結縁寺205:高山氏宅付近の地名で、裏の竹藪の下とも、家の西横の荒れた茶畑跡ともいう。巡礼道の変更記事は取り立ててない。
無住、駐車場有。朱印は隣の公会堂にあり、掲示されている3つの連絡先(実は観音堂から見える近所の3軒)のどれかにTELすると、すぐに来て朱印を押してくれる。御朱印帳も売ってもらえる。長谷川さん:tel:0537-22-4883
観音堂:屋根裏の庇ヒサシ部分の彫り物が見事である。堂の外観もシックで素晴らしい。
 周囲:本堂裏手の伝説の池傍らに如意輪観音像(だいぶ苔むし傷んでいる)。榧カヤの木(だいぶ衰えている)。裏山は墓地で隣の白山神社と隣り合わせで、その裏はエコパ、法多山方面への自動車道でビュンビュン自動車が通過していく。この道を使うと法多山や岩松寺への巡礼には便利であるが、ここでは古道主体なので帰途等に使う。
・献燈:平成十五年、・石碑:遠江国参拾参所霊場 一澤山 結縁寺 昭和五拾五庚申春吉日、・石灯籠:奉納 家内安全 結縁寺区民一同 家内安全 長谷□□:コンクリ製:屋根付き、・石灯籠:知恩 昭和五十九年、・手洗石、・石仏2、・石塔、・石地蔵、
隣地は白山神社で裏山頂に本堂拝殿、
・石塔、・石鳥居:日韓合邦紀念 明治四拾参年、・手洗石、・石灯籠:昭和五十九年:2、・旗立石:御大典記念 昭和三年:2、
ちなみに神代地の弘法堂は別場所: 神代地カンダイジ地区公会堂:掛川駅南口近くにある。


・経路
JR掛川駅から南に2㎞、浜岡行静鉄バス矢崎下車、徒歩10分。
2番へ2㎞、徒歩30分。
2番に向かうには西へ進んで一旦北へ右折するが、古道は右折ではなく左折し、200m奥の結縁寺集落の民家の裏山に吸い込まれていく。しかし現在はそこで道はなく、裏側は掛川花鳥園の敷地で通行不可である。一応説明を続けると、昔の古道は花鳥園敷地を突っ切り、北に向かう道に出ると右折し北に向かう。ここに如意輪観音が祀られている。今の東名高速ガード下をくぐり、小丘を越えて左折し西に向かい、東名とJR線路の間を並行して西に向かう道に出る。そして2番常楽寺に至るのが古道ルートである。「心の旅路を歩く、附属地図」通りだとそうなるのだが、小丘を越える道もない。
しかし明治期の陸地測量部2万分地図では如意輪観音から小丘を越える道はなくて、北進して今の亀の甲公園のある神社と墓地(この墓地はかつて寺があった後だろう)に達する。ここで道を左折して今の東名高速とJR線路間のかつては蛇行する道を今は直進で西進して常楽寺に達する道がある。現在都市計画によって整備された碁盤の目のように直進するアスファルト道しかないので、地図附近と思われる現代道路を通行して常楽寺に達する。’15 11/3


・第二番 保福山 常楽寺(掛川市下俣南1⁻19⁻18、しもまたみなみ) ほふくさんじょうらくじ  
 創建:元和五年1619、開基:善祐僧、本尊:聖観世音菩薩:木造寄木尺4寸42㎝座像‣伝春日明神作、宗派:曹洞宗、開帳:未定、縁起: 
かつて寺の西に法福寺(寺領二石)という寺があったが、衰えて常楽寺(寺領一石五斗)と合併して保福山常楽寺となった。元禄3年1690の住職が保福寺に観音堂を建て聖観音を安置した。この頃から巡礼が増えたという。安政の大地震1854で堂宇倒壊、明治初め再建、昭和46年8月台風で倒壊、火災焼失。
某者が沢山の金銀を甕に入れ利神社と常楽寺との間の山間に埋め目印に梅の古木を植えておいたという。現在その地を亀ヶ谷というが昔は甕が谷と呼んだという。(西南郷村小史)
・石道標:二番札所 掛川西町順礼講 文化三年、・三界萬霊塔:3:掛川町山崎、第十四番、第十五番、・石仏:六臂:見猿言わ猿聞か猿、・西国供養佛 寛政五せ(せではなく12支のどれかと思われる)年、・観世音□□、・石塔、・手洗石、 
・須弥壇の左隅に版木「二番のお札・三十三観音・観音経」
駐車場有。’15 11/3 
周辺:資生堂アートハウス、資料館
 無住、駐車場有、連絡先は住職:近藤さん、tel:0537-22-3874、だが今は無住なので通じるか不明?御朱印は無住本堂内にセルフ式だった。


・経路
JR掛川駅南口から1㎞、徒歩20分。
3番まで1㎞、徒歩10分。
3番に向かうには北に向かう道を進みJR線路前後に東西に進む道へ出て左折し西へ向かうが、これが近代以降の道なのは確かで、線路開通以前の古道はおそらく寺の裏から線路周辺の丘越えの道があったのだろうが、今は全くあり得ないので、現在の自動車道を進むしかない。そしてJR線路ガード下をくぐる手前に神社があり、この辺りで線路を通過したのは明治期地図から確かなようだ。
○利神社トシガミジンジャ、境内に石道標がある。
・説明版:勧請年代不明、延喜901年間の延喜式神名帳記載、戦前郷社社格、祭神:大歳御祖神:食を授ける
・石道標:「前学校及役場□□□ 右二番札所保福山 左掛川 西 長谷□□道 三番札所 下俣□□」、指す方向から石の向きが逆であり、移転されたことは確かである。ただ二番と三番の方向を指す位置から、この附近にあったことも確かである。利神社前から線路をくぐる道が古道ルートと一致する。
線路をくぐり踏切を渡ると目の前にNEC工場がある。地図上ではこの工場中ほどで西進ルートに左折するが、工場内には入れないのであきらめ、手前の線路と工場の間の道を西進する。この辺りは地図上では小丘陵でそこを蛇行して西進しているが、工場もそうだが西は市役所でまっ平、その西は新興住宅団地でこれまた平らで直進道路しかない。現在ほぼ丘などないが、市役所西端に一部だけ丘がある。これが小丘陵地帯の残存部だろう。西にまっすぐ進むと小丘陵が見える。長谷寺と貴船神社の裏山である。昔はNEC工場からここまで小丘陵だったろうに、全く新興住宅地で平で、やっと丘があった。以前長谷寺は丘上にあったが、この寺も都市計画で平である。裏山だけに丘が残っている。’15 11/3


・第三番 東陽山 長谷寺(掛川市長谷1615⁻1、ながや) とうようざん ちょうこくじ  
 創建:寛永六年1629、開基:不詳、本尊:十一面観世音菩薩:木造座像90㎝、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏、33年毎‣次回2021年、縁起:。安産祈願の地蔵。
4番の正法寺の末寺で長照山東陽院という名であった。平成8年改築。本寺は元来地蔵堂の堂守だったという。長照山東陽院は最初、東照山と呼び、後に長照山と改め更に東陽院としたという。
益淳祖道和尚の伝説:肥前生まれ、当寺で60年以上和尚を努めた。88歳で寛政辛亥カノトイ6月1791示寂された。生まれつき質朴で腕力あり、走るのが速かった。能登の国の総持寺から1日で越前の永平寺に行ったという。正午に寺を出て秋葉山に行き往復20里をかけ夕方帰って来たという。「掛川誌稿」に「当寺は地蔵の堂守で観音はなし」と記されているがどういうことなのか。
住所地は長谷ナガヤと読む。寺名はチョウコクジだが石柱にはハセデラとなっている。
有住、駐車場有。Tel:0557-22-5812
周辺:掛川市指定保存木スイリュウヒバ大木、推定樹齢300年
・納経宝塔:奉納西国巡礼記念、長谷村新堀豊吉、リン、大正二年九月十日出発、十月九日帰宅:句2句、
・鯖大師堂:鯖大師像 大正六念、
・稲荷神社、・奉紀新堀豊吉、・如意輪観音、・地蔵、・新:不空観音と十一面観音、・新:地蔵 平成十八年、 
・地蔵堂:安産祈願に刃物の絵
・石柱:三番はせ寺:住職に問い合わせたが全く知らないそうだ。今は無い。いったいどこにいったのか?
隣は貴船神社で裏山は雑木林でドングリが一杯。’15 11/3


・経路
JR掛川駅南口から西へ3㎞、徒歩50分。掛川バス桜木線鳥居町下車、徒歩10分。鉄道‣天浜線市役所駅から1㎞、徒歩20分。
4番まで2㎞、徒歩30分。
長谷寺から南東に進み線路ガードをくぐる。新幹線と在来線の間は畑と墓地である。この墓地には昭和のお墓もあるが古そうな墓や僧侶の墓もあるので、かつては寺があったのだろう。笠つきでひげ題目になっているものがあり日蓮宗系かと思う。笠つきというのは古いのか珍しいのか。近辺は新自動車道が多く作られ、ちょい古い自動車道ですらどこがどうだか分からない。
私の持っているゼンリン住宅地図は93年版で、国土地理院2万5千分地形図は1979~85年版で、もはや地図にない道が沢山できていて現地と地図を照合するのが大変である。ただしその分古道や旧道が分かりやすい。掛川は早くから都市計画を進めたためか、新道路がポンポンできていく。東名高速ガードをくぐり高御所となる。新道は広いが、その右の住宅街の中に古い道がある。
掛川市高御所77:堀井氏宅付近に石道標がある。
・石道標「向 右菩提横須賀 左掛川道」
その西20mにもある。
・石道標:「右法多山 北東海道 左掛川道」
堀井氏宅から南へ「煮物屋のら」も過ぎ300m進む。広い新道に出ると石道標がある。
 石道標:「右下俣ヲ経テ掛川 南腹摺ヲ越ヘ法多山及横須賀ニ至ル 左本村ヲ経テ東海道ニ通ズ」:高御所61高柳氏宅
新道を西に100m進むと石道標がある。
高御所39番地の東山沢川に架かる新田橋手前の分岐路に石道標と看板がある。
・石道標:「右四番札所正法寺 左法多山」
左道には看板「腹摺峠→」ハラスリトウゲ
ここから左道を進むと最後の家前通過して自動車道高架下をくぐると車や自転車は進めない。歩道というか雑草だらけの道になる。1km進むと雑草で草の実だらけ、蜘蛛の巣だらけのぐちゃぐちゃ姿になる。沢沿い道を進み、沢を離れ斜面に取り付くとすぐ深い人工的な切通し道になる。すぐに山頂に出る。境界標識石柱が埋設されている。多分ここが腹摺峠と思われる。登り20分。この道がかつての法多山道。’15 11/3
あい済まないが上記の峠は腹摺峠ではなく、前方尾根の鞍部だったようで、道間違いをしていたことが分かった。沢を離れる手前の倒木雑草だらけの箇所で正規ルートを発見できず、沢に沿い進み次に沢から離れて別箇所に出た。’16 3/13

8行前の分岐点を正法寺方向へ進む。新田橋手前に石仏がある。
・馬頭観音 
この先旧道はなく、新道を使い、自動車道高架下をくぐり、正法寺境内へ進む。


・第四番 鶏足山(曽我山) 正法寺内新福寺(掛川市高御所1312、こうごしょ) けいそくざん しょうぼうじ ない しんぷくじ 
 創建:正法寺:応永17年1410、開基:明円見珠大和尚、本尊:十一面観世音菩薩:木造座像25㎝、宗派:曹洞宗、開帳:昭和61年、次回33年後予定、縁起:。
住所地の「高御所こうごしょ」の由来は、嘉禎四1238年二月、将軍藤原頼経上洛時、この地に宿泊した。宿舎の御所を土豪:横地太郎長直が建てた。この頃真言宗正眼院という寺院があったというが鎌倉中期には頽廃した。
宝徳年間、二世見的の時に本堂建立、十世雲達和尚は可睡斎の宋山和尚の弟子で家康御前で法問をし褒美に銀子二百枚をいただいた。寛永4年1627焼失、慶安2年1649江戸幕府より寺石38石を受けて蘇生、宝永4年1707までに諸堂宇復興。この時山号を鶏足山に改めた。
新福寺観音堂は元高御所北端の曽我山上にあったが、明治23年廃寺で、正法寺内に移転。
御朱印は観音堂前でセルフ式。有住、駐車場有。Tel:0557-22-4668


・六地蔵+2、・稲荷神社、・石塔:横倒し、・禁葷酒、・鐘楼、・新:手洗石、・新:観音、・新:燈籠、・新:ブロンズ地蔵、・三十三石仏+如意輪、・地蔵、・新:永代供養塔、・瓦:獅子、・墓地にはいかにも古そうな墓石がある。昭和期のものもあるが元禄のものが二つあった。
・樅巨木:参道入り口左右:樹齢250年、ブナ、アラカシ等保存樹木、
・納札:宝暦七年、同行七人
・敷地は広く境内地7600㎡、本堂、弘法堂、白山堂、地蔵堂、観音堂、寺所有の背後の山は41万㎡、水路トンネルには蝙蝠が生息する。

☆疑問:曽我山は高御所北端だそうだが、それはどこ?
 現在高御所北に浅間神社があるがその附近か、逆川との境の丘ではないかと2つの推定案を考えた。この位置だと長谷寺から巡礼路は現在の線路をくぐる南進路を取らず西進するだけで至近距離である。
高御所275:桑原氏の奥さんによれば観音堂は高御所253:高御所公会堂隣の墓地だそうだ。墓地裏山が曽我山だろうか。’16 3/12
・高御所公会堂:・五地蔵、・五輪塔:破片6個分、
~附近~
高御所公会堂近くには浅間神社がある。
○浅間神社:・手洗石、・手洗石:文政五、・奉献三夜燈:嘉永四、・板碑、・献燈2:昭和八年、・手洗石:昭和三年、・石鳥居:明治三十年、石段:昭和三年、石柱4:、
浅間神社参道入口には石道標がある。
・石道標:「□法多山、□、□工茂 高御所青年會」、ヤマザクラ:市指定保存樹木、

 4番:観音堂が高御所公会堂付近とすると、ルート変更はどうなるのか? 3番:長谷寺から高御所公会堂へのルートと、高御所公会堂から5番:法多山北谷寺へのルートである。
3番:長谷寺から西に進むが、周辺一帯は都市計画で新興住宅街に変貌を遂げ、昔日の面影はない。かつては長谷と高御所の境界線には先ほどの浅間神社の南北尾根がふさいでいて、一ヶ所だけ山を切通して道があけられつながっていたことが住宅地図から読み取れる。その道はないがその付近に両所をつなぐ道があり、高御所240:松井氏宅前に出る。南へ100mで公会堂である。
公会堂から法多山へは推定ルートとして2つ考えられる。1つ目は公会堂から南下して今のJR線を渡り篠場に行く近道である。2つ目は高御所の南東へ進みそこから西へ進み篠場に至るルートである。
1つ目ルートではJR線をくぐっても今は東山沢川を渡り篠場に直に行けないようだが、昔はつながっていたのだろう。JR線南側の高御所1130₋2:松井氏宅前に出ると、石道標がある。
・石道標:「右正法寺小笠山 左掛川道」
西へ150mで石道標がある。
・石道標:「右掛川近道 南法多山 左領家ヲ経テ東海道ニ通ズ」
ここから南西方面へ600m進む。下記で述べられる「篠場ルート」の高御所560:山田氏宅前の石道標:正面「右 東海道 左 法多山」、左「右 掛川道」に出られる。
2つ目ルートでは高御所メインルートのJR線の上を通る道を南に進み、東名高速のガードもくぐり、高御所の南に出る。高御所77:堀井氏宅前附近の石道標がある所に出る。ここから西に向かうと篠場である。あとは下記の篠場ルートを参照。
 
~周辺石道標紹介~
・領家105松浦氏宅(以前は萬屋だったし、家の前はバス停でもあったので、集落の交通の要衝であった):石道標:「右法多 左正法寺」
・高御所350⁻1名倉氏宅:この附近も以前はバス停だった:石道標:「曽我□□ 浜夕小 □□ 掛川町四一四0米」


・4番から5番への経路
JR掛川駅南口から西南へ4㎞、徒歩60分。
5番へ4㎞、徒歩60分
地図ではいったん篠場へ北西進する。その道で石道標も現れるので、その道も紹介するが、別ルートの法多山への近道もある。法多山近道ルート説明。それは寺の裏山を上り南進して法多山へ行くルートである。ちょうど腹摺峠の西200mの位置で峠越えする道である。かつてはそこまで行けたし法多山への標識もあったが、今回何処が山道か発見できなかった。’15 11/3
上記ルート確認のために腹摺峠から尾根伝いに西200mピークへ行く。徒歩5分。この尾根は掛川市と袋井市の境界線でもある。そして地図上では西ピークの西が崩壊しかなりの断崖絶壁であることは分かっていたが、東側もかなり崩壊中で、今後も崩壊が予想される状況である。西ピークの20m東側から下っていく山道の入口らしきは見られるが、その跡の道筋が見当たらなくなり、北に続く枝尾根の前方が崩壊していく。どうも道は崩壊して通行不能と判断する。「’93ゼンリン住宅地図掛川市」では正法寺から山道が南下して枝尾根沿いに西ピークに達し、そこから道は市境界線尾根を東進して腹摺峠に至る線が記入されているので、93年当時は通行できたのだろう。西ピークから腹摺峠までの区間では石塔等の古い遺物は見当たらない。ただ峠やピークには標識多数で迷いにくい環境である。どうもエコパに車を駐車して小笠山ハイキングコースを縦走する方々が多いようだ。秋冬春の山歩きは最高だ。ただコースの北側斜面は崩壊しハングオーバーの絶壁が多いので転落注意である。落ちたら死にます。その分北側の眺めは遮るものなく最高。腹摺峠から豊沢へのルートはかつて軽トラでも通れるほどに整備したのだろうか、道幅は一間1.8~1.5mあるし、きつい坂は全くない。今はゴロゴロ山道である。腕に自信があれば二輪車で行けるかも。(腹摺峠から掛川市高御所へは15~20分)途中、沢を渡る箇所が2か所で、峠すぐ手前が野渓化して沢水が流れている。そこを歩きやすくするためかコンクリートやアスファルトの平らな破片を置いてあるが、それが浮石状態で足をのせるとグラグラ動くのでバランス注意である。峠から以上の点を注意して10分歩くと集落:袋井市豊沢菩提(山本)3143₋2:長谷川氏宅前と自動車道に出る。長谷川氏の話だと、正法寺からのルートも腹摺峠を経由してからここへ達するとのことだ。ここまでで古い遺物はない。ここから法多山まででは途中右に法多山別院が一旦移築されているのを見ることができる。’16 3月


~篠場ルート説明~
篠場へは正法寺山門から元来た道を戻り、新田橋手前まで行き、西進する。ただしここから旧道はなくここから古道で篠場へ出られる道はない。行きつ戻りつして篠場集落へ出る。篠場の八幡神社へ出れば正解である。八幡神社西100m交差点に石道標あり。
・石道標:「右法多山 左御料林道」:篠場576嶋氏宅 
西へ200m
・石道標:正面「右 東海道 左 法多山」、左「右 掛川道」:篠場560山田氏宅
西へ100m
・石道標:正面「右 法多山 左 掛川 道」、左「右 法多山道 左 林光庵道」、 裏「大正七年」:篠場608₋2松浦氏宅、
・地蔵、
西へ100m、極楽寺前
・石道標:正面「御成婚紀念 メートル法導標 東海道和光橋 二〇九六米 法多山 三七四四米 袋井駅 五四五三米 (四千米ハ約一里)」、裏「大正十三年」 
西へ300mで出会橋に至る。出会橋を渡り南進する。橋袂に道標。
・石道標:右「左 掛川道」、正面「右 東海道 左 法多山」、裏「曽我村□□□ 大正六年」、篠場480₋2嶋氏宅
南へ150m
・石道標:右「左 東海道」、正面「右 法多山 左 掛川 道」、裏「大正七年十月」:平野266水野氏宅、
・地蔵、
・愛野八幡宮:創立不詳、安永三年1774九月再建棟札、明治12年村社、明治44年熊野社と八幡宮社合祀、’15 11/3
エコパ敷地内補助競技場附近芝生植え込みに石道標がある。「静岡スタジアムエコパへ560m、補助競技場へ260m」の看板横にある。なぜエコパ敷地内にあるのかというと、かつての法多山道はちょうどエコパ敷地内を通過して北谷を通り法多山に通じていたためである。旧道はエコパによって寸断された。付け替えられた道はエコパ西駐車場の縁を廻って駐車場の上で左折し南駐車場に至る道であり、そのまま進むと今も北谷を経て法多山に通じている。これが旧自動車道であり、古道ルートの名残である。現在の自動車道である西駐車場の縁を廻ってそのまま上に行き、理工科大学や給食センターが見える道は新道であり、昔は存在しない。
・石道標:表「右 法多山 左 八幡神社 道」、裏「大正五年三月 愛野東部青年會」
指し示す方向が逆なので、エコパでは逆向き設置したようだ。八幡神社は愛野八幡神社と思われる。’15 11/22


・第五番 法多山 尊永寺内北谷寺(袋井市豊沢2777、とよさわ)はったさんそんえいじないきただにじ  
 創建:未詳、開基:未詳、本尊:聖観世音菩薩:伝行基自刻‣桧一木造り立像御身丈36㎝総丈61㎝製作者不詳、宗派:真言宗、開帳:未定、縁起:
厄除観音、名物は参道売店の厄除団子。桜の名所。仁王門。
 尊永寺は高野山釈迦文院末寺、勅願寺、桓武天皇の定額寺、最盛期一山六十二坊、遠州の高野山。慶長7年1602徳川家より5万石格式与えられた、一山二十五坊。明治に朱印地返却し廃仏毀釈で11坊廃し、寺号を尊永寺に改めた。参道には樹齢数百年杉巨木。青苔石垣。
有料駐車場だけ多数有。近辺に無料駐車場はないし違法駐車を嫌う看板やロープで立ち入りできなくしてあることが多い。
・橋欄干:堂の橋、どうのはし、昭和七年:参道入口付近、
・石柱:参詣みち、
・永代常夜燈:2:煙草商、・石塔、・献燈:山本菓子店 大正十年:2、・板碑:2、・常夜灯:戦捷記念 大正四年、・・板碑:2、・石碑:法多山尊永寺 昭和五十壱年、・観世音常夜燈 法多山 文政九年、天保三年:2、
・石道標:五拾町目 願主□□□ 建之 政□□□年 ?光より加□門町まで道のり貮里、
・仁王門:説明版 平成十八年、・仁王門:文化財、
・新:献燈:47、・献燈 為純教僧正菩提、・献燈 昭和三十九年:金属製:2、
・黒門と鎧塀:説明版 平成十八年:市指定建造文化財:1712宝永8年3月造、学頭坊正法院中門として建立、四脚門、支柱で全体を支え、建ちも高く屋根勾配も強くて屋根も大きく、屋根全体を檜皮葺で覆い、棟に箱棟、為板を施す。
鎧塀は中門の両袖に施す。木造塀の中では重厚、格式高く、上級武家屋敷に用いられていた。壁面を土塀漆喰で仕上げ、下見板張りは下見板を   ササラこで押さえ鎧草   を見立て 造り
・観世音献燈 嘉永二、・献燈 大正六年:2、・献燈 □永貮年、・献燈 昭和九年:2、・献燈 大正五年、・献燈 平成十四年、・献燈 聖観世音菩薩 昭和四拾八年:2、・新:献灯:21:参道中腹、
・本堂に上がる石段の左側に北谷観音堂。今は崩壊してない。
登り切った本堂近辺
今の巨大本堂右手に古い本堂があり、それを観音堂にしている。
・観音堂:西国三十三番本尊、十二支尊、大黒天、尊像、
・石道標:観音堂入口:明和二1745酉年五月、五番北谷□□、
・不動尊像
・献燈 昭和四十一年:2、・献燈:2、・献燈 大正四年:2、・塑像:手が一杯:平成元年、・石碑:節分の黒白豆箱 昭和四十八年、・手洗石、・永代常夜燈 文政改元戌寅歳:金属、・永代常夜燈 天保十一年:金属、・献燈 大正五年:3、・新:献燈 ヨシコン、武田:2、・百度石、・石碑:やぶきた茶植樹、・石碑:旧本堂跡聖地 昭和五十八年、・献燈 駿河銀行 昭和五十八年、
朱印は本堂下に受付あり。一般的な朱印帳も¥1000~2000で販売している。無料茶接待あり。受付17時まで。Tel:0538-43-3601、   
’15 11/7。
下山道沿い
・鐘楼堂、
・二葉神社:祭神‐二葉明神、元来は浜松市にあった二葉遊郭内に遊郭守護神として鎮座、瀟洒な社は大正年間建立、娼妓芸妓カフェー女給といった往時の浜松の夜を華やかに彩った女性たちが浄財を出し合い郭内安全、商売繁盛、恋愛成就等願い造営、戦後遊郭解体で法多山に遷座、女性の願いを結ぶ女性の守り神、
・百地蔵、・七重塔、・亀石、・狛犬:2、・手洗石 天保□、
・氷室神社:氷を貯蔵する氷室が神格化した珍しい氷の神、洞窟が社殿で神体、往古は熱病平癒の利益で信仰(遠江風土記伝)、明治の神仏分離で不明になったがこの洞窟が氷室神社であることが判明、暑気払い、流行病予防平癒、ストレス等心の熱鎮静の冷却の神、 石鳥居 献燈:2 
・弁財天堂 不動明王 献燈、 
・蛸薬師堂:美肌、皮膚病、肌トラブル平癒、ナマズや鯉の絵馬奉納願掛け、平成27年再建、
・□救一念石、 ・石碑:大正八年 以目□上池    、
・板碑:名物串團子、由来:13代将軍家定頃、門前住す寺士八左エ門発案による観世音名物団子が登城土産に添えられたを始めとする。将軍家より「くし団子」と命名されて以来、厄除団子と呼ばれている。
・句碑:多、・石碑:家康手植えの松、  ・松、・新:燈籠、・石碑:大谷□□□松 大正□年、・四重の塔、・白山明神社:一番奥の上、
・地蔵堂:裏に石仏
・地蔵、・観音、・地蔵、・観音、・地蔵、・台座のみ、・「大師遍照金剛 文政五」、・「□□□大菩薩」、

 明治5年無住の北谷寺(門前から掛川やエコパへ出る道を北に行った谷間、或はエコパ裏側への近道でエコパ南駐車場への道。この道は今は自動車道で拡幅されているが、篠場から法多山への巡礼古道である)の堂、墓、道標を尊永寺境内に移した。平成10年9月24日集中豪雨により堂流出。
法多山の北谷の位置は、法多山参道の左(北東、エコパ方向)へ曲がってすぐである。寺跡地は、袋井市法多豊沢2728⁻1:戸塚氏宅の所有地の茶畑で、御宅の道向かい南西である。まさに表参道の門前町商店街の手前を左に曲がってすぐの、右側茶畑である。茶畑の裏がかつては墓地だったようだが、今は痕跡のかけらもない。
永寶寺:大嶽様やその他ご協力してくださった皆様に感謝いたします。
なおかつての寺が北谷の奥でもなく、ほんの入口の位置なので、巡礼道が大きく変わらずルート変更による記事の追加はない。


・経路
JR愛野駅から東南へ3㎞、徒歩40分。
6番へ5㎞、徒歩60分。
・王子神社:法多山表参道入口
表参道の中通りを西へ法多沢川に沿う形で、豊沢法多2585番地:伊谷氏宅前。バス停:中通橋。
・石道標:四拾□町目 大正□□□
豊沢法多二軒屋2305番地、バス停:理工科大学入口、
・新:ブロンズ像:理工科大学入口を示す
すぐ西で大通橋を渡るが、旧道は橋手前を渡らず右折するルートのようだ。旧道は法多沢川の北を西進する。新道は橋を渡って川の南を西進する。
新道を西に400m、勅使塚。
・説明版:後白河天皇の命により勅使が法多山に参向された。参拝日時が決められていたため勅使は茶屋で休んだ。しかし丁度月夜の光で夜明けと勘違いした雉が声高く鳴き、勅使も夜明けと思い違いし、お詫びに切腹した。土地の人は哀れみ塚を作り葬り、雉を飼うことを遠慮したと云う。
・新:石塔:勅使塚、・献燈、・宝篋印塔、・地蔵、
隣は墓地である。
・地蔵2、
新道を西へ300m、先ほどの川の北を西進した旧道が川を渡り新道に交差し、旧道はさらに南下していく地点。
・石道標:正面「左 丹生神社 六番札所 浅羽 横須賀」、裏「大正六」
ここで新道を離れ左折し南へ200m上る。
・石道標:正面「右 丹生神社 左 六番札所 横須賀方面 道」、裏「御大典記念 昭和三年十一月 寶野青年團」
左の直進して上る道が六番札所道であるが、右の丹生神社へ行く道が上らない道なので、一層古い道ではないかと思う。左の上る道も近代初め、いや江戸末期には使われていただろうし、もっと古いかもしれない。
・丹生神社:祭神‐月夜見命、境内社‐大山祇命、本殿木像瓦葺4坪、拝殿14坪、手洗舎1坪、石鳥居御影石、甘酒小屋6坪、境内地92坪、境外地728‐2山林252坪、728⁻1山林89坪、
神社の西縁を廻って南に出られる古そうな道がある。おそらくかなり古いルートと思う。
先ほどの左道を上り詰めると墓地がある。
○宝野共同墓地:大正六年開設らしい
・三界万霊、・地蔵2、・石仏、
墓地のある道を下ると、丹生神社から来る道とも合流し、バス停:菩提西のある交差点に達する。六番札所へは交差点を渡り南に進む。
表参道の中通りを経てきたが、ただここで中通りより南の通りを紹介する。この交差点のある道を東進しても法多山であり、法多山への南側の参道である。法多山南からこの交差点までの道を説明する。
法多山仁王門より参道を奥に進むと南へ分岐し赤い橋を渡る道がある。この辺りには全く道標等がないが、かつてはあったのだろう。赤橋を渡り上っていくと有料駐車場を過ぎて南へ進む。山上の有料駐車場が切れて山の斜面が下りだす所に登山道が下っていくのが見える。これが古い地図上でも確認できる古道であると断定したい。この歩くしかない道を下ると2軒の松田氏宅を過ぎ、竹原氏宅前(豊沢菩提550番地)で自動車道に出る。ここに道標がある。
・石道標:右「小笠山 掛川 道」、正面「右 掛川 □□□ 左 法多山 □□□ 不動□□□」、左「法多山道」、
この自動車道を西進300m、バス停:菩提上。道が分岐し北への旧道と南の今の自動車道に分かれる所に道標がある。
・新:石仏:ガンダーラ風
・石道標:「昭和三年十一月 御大典記念 菩提青年□」、「□□旧袋井得単 □□ら気新遼横須賀」
西進1㎞、エコパと浅羽を結ぶ新道交差点手前に地蔵がある。
・地蔵2、
西進1㎞で中通りから来た巡礼道でもある菩提西バス停交差点到着。 
さてこの交差点から南へ進み、丘陵を上り公園や老人ホーム白雲荘を過ぎる。石道標のある篠ケ谷交差点に達する。左折し下り坂手前を右折し2本に分かれた道の左側を通り下っていくと寺の裏に着く。’15 11/7


・第六番 篠ケ谷山 岩松寺(袋井市浅羽3598、あさば)しのがやざんがんしょうじ  
 創建:神亀2年725、開基:伝行基、本尊:聖観世音菩薩:白檀95㎝立像伝行基作平安末期:市指定文化財:檜で頭と胴は一木材だが背中と腰下が別材、中は空洞、古くは火災に遭ったらしく全体に水につかった痕跡あり、鬢、肩から手先、足は後世補足、宗派:真言宗、開帳:60年毎、前回2014年、次回2074年、縁起:    
高野山理性院末寺、山岳仏教の流れ汲み、最盛時、全山三十余の坊舎があり、慶安元年1548二月に24石の御朱印を受けたが、永禄1558~1573年間の兵火及び寛文1661~1672年間の火災で伽藍僧坊、諸記録すべて消失。観音堂正徳三1713年再建。
駐車場有。有住。朱印は寺人依頼。Tel:0538-23-5351
寺に至る直前の篠ケ谷交差点に石道標あり。
・石道標:正面:□(梵天文字1字分)第(第か右か不明)六番札所、右:□□六番順礼、左:天明二寅二月日、裏:岩松寺□□□、
寺の中にある物
・伏見稲荷:毎年三月第二日曜日大祭
・客殿本尊:不動明王
・鰐口:東金谷秀時作、大永二1522年四月二十七日:県指定文化財:径33㎝、銘から遠州今川氏末裔の見附の城主堀越氏延が遠州豊田郡(磐田)府中薬師堂(国分寺内)に懸けたものだそうで、どういう経緯があるのか?
・たぬきの石仏?:可愛いくユーモラス。
・句碑:多数
・新:石碑:多
篠ケ谷交差点から下って入っていく道が昔からの巡礼道のようだが、今では谷底の道側が正面らしく、裏から入ることになる。そして谷底の川の向かい側の山中腹に観音堂があるので、いったん正面口から寺を出て、道を横断し橋を渡り、観音堂への階段を上る。階段が嫌なら寺入り口前で橋を渡り駐車場に入り、左の道を通るとスロープ状坂道を上って観音堂に行ける。
観音堂側にある物一覧
・観音堂:正徳三年1713再建、大工棟梁 柴村 鈴木権右衛門茂次、法多村 戸塚佐兵衛正伯、木挽棟梁 近江国甲賀高野村 田畑長助、明治34年1901修理 軒短くして茅葺を瓦にする、本尊厨子 寛文2年1662,6月 柴村 大工 藤原朝臣鈴木拾右衛門 造、客殿 安永3年1774再建 大工棟梁 松下村 佐藤安右衛門知良 脇棟梁 法多村 戸塚平五郎親盈 内仏 不動明王 遠州八大不動明王霊場第三番札所 
・行者堂:建立年不詳 慶應三年1867修理 役行者像、神変大菩薩、天狗面2面、
・地蔵堂:子安地蔵 
・大師地蔵堂 
・石段:自然石積み上げ 
・法印墓石:寛文六、七年、元禄七年、十二年、
・一石六地蔵、・如来、・五輪塔カケラ2基分、・石仏カケラ、・地蔵2、・手洗石、
・西国三十三所巡礼:安政六年九月、近くの人々13人
上記の西国三十三所巡礼は見つからないが、當国三十三所巡礼はあった。当国と西国の間違いではないか。あるいは両方あるのか。’15 11/7。


・経路
JR袋井駅から南へ3㎞、徒歩45分。
7番へ3㎞、徒歩45分。
岩松寺からまっすぐ北の袋井駅方面に進む道(平芝交差点から袋井特支、谷口橋)が附属地図の巡礼道として示されているが、明治20年代陸地測量部2万分の1地図では、その道自体がない。それより東の平芝から大門、そして神長または上田町で高尾町を目指す道はあるので、こちらを推定古道とする。
寺の裏をまた上り、石道標のある篠ケ谷交差点に戻る。ここから北の平柴交差点を目指す。附属地図では平柴交差点から左方の北への袋井特別支援学校方面へ抜けることになっているが、この道が明治20年代にないことから平柴交差点で右方の北への道を取る。大門、神長町方面に向かう。台地を下り切った所で右折する。昔は道は真っすぐではなく、右の山際沿いに北に進む。豊沢字神長集落内に山際の細い曲がりくねった道があり、いかにも古そうな道の名残である。土手を上ると神長橋があり、渡ると県道251号線:袋井小笠線に交差する。右:東を取ると法多山への表参道で勅使塚への道である。7番へは逆に左:西の袋井駅方面を目指す。西へ300mで法多沢川と小笠沢川が合流する交差点である。ここは直進する。
300m進むと右:北に赤尾渋垂神社がある。
○赤尾渋垂神社:合祀されている神社名を挙げる。郡部神社、白山権現社、礎国神社、赤尾弁財天。
・秋葉山常夜燈町内安全 昭和二年五月建立:袋井駅前東通り木村花店隣にあったが駅前都市計画事業により移転、
・秋葉山常夜燈町内安全 昭和三年五月建立:袋井市東通り、中村ラムネ店附近にあったが区画整理事業で移転。
坂を上りつつ350m進むと右に大門公会堂があり、敷地内に木造瓦葺の常夜燈がある。
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺:建立は明治以前との古老の話だが、さだかではない。以前は公会堂の東側にあったが1958年現在地になった。毎年12月15日秋葉山より札を頂き掛軸とともに常夜燈内に掲げ盛大に祭りを行っているという。’95
更に150m進むと袋井南小の校舎が見える。反対側:左:南の細い道への交差点に石道標がある。法多山道なので法多山への道標であろう。昔は一丁ごとに設置されていたのではなかろうか。二軒屋の辺りに43丁目辺りの道標があったはずで、呼応しているのだろう。他の丁石があまり見当たらず淋しいものだ。
・石道標:弐拾三丁目
更に120m県道を進むと右:北に古墳がある。
・大塚大門古墳:説明版:直径25m、高さ4.5m。袋井市内最大級円墳。古墳時代後期550年頃築造。1883,1986年調査、古墳周辺に溝:周溝を巡らす、横穴式石室で赤顔料塗装、川原石積み、副葬品:銅鏡、刀、金張り馬具、玉類、須恵器、土師器。当地域では大型で、最新の横穴式石室採用、豊かな副葬品から、袋井市域を治めた有力な古墳時代後期の首長の墓と推定。
100m進むとT字路で直進できず右折:北して高尾跨線道路で東海道本線を渡る。橋袂に第二次大戦の爪痕が残る。
・陸橋に残された「弾痕」:分厚い鉄板に開いた穴が痛々しい。
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・第七番 福聚山 慈眼寺(袋井市高尾1169⁻1、たかお) ふくじゅざんじげんじ  
 創建:元弘年間1333~33、開基:慈眼寺殿精忠時国大居士(俗名:堀江新右衛門中務大輔時国)、本尊:聖観世音菩薩:木造立像75㎝伝行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2013年・正月18日初観音・大般若大祈祷会を厳修、縁起:               
 駐車場有。
創建時は袋井駅付近にあり、天台宗那智山観音堂だった。当地に後醍醐天皇の皇子が行堂を建て住まわれた。皇子は正平七年1352病を得て十年に没した。従者堀江新右衛門時国が嘆いて観音堂を建てた。その後時国子孫政久が元和年間1615~23再建し、禅僧観補麼察和尚開山。延宝三年1675焼失、再建、安政大地震1854大破、大修理、明治34年1901現在地移転。祥和19年1944大地震後修理、昭和55年1980本堂新築、
高尾周辺:大門、三門、大塚、八坂、御所の森等の地名が残る。
訪ねた日の夕刻より「袋井寄席」開催予定で本堂には一杯座布団が敷き延べられていた。
 有住、駐車場有、tel:0538-42-2696
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・翁稲船稲荷
・喜多向延命地蔵堂
・助命観音、・新;観音、・正門:石像「慈眼寺」、・鐘楼門、石仏8(立地蔵3、座地蔵1、観音1、如来3)、堂(多地蔵、如来1)、
~周辺地のもの~
・新町喜多向地蔵:北向きに安置された本像1体、馬頭観音3体、8月24日地域の方々により地蔵盆が行われる。


・経路
JR袋井駅の北500m、徒歩7分。
8番へ1.5㎞、徒歩30分。
 『心の旅路 附属地図』では現代の自動車道とだいぶ違う古道ルートを通過しているので気を付けて通過していく。8番を目指し北へ向かうが、昔の地図ではすぐ北の和橋ともう1本西の静橋がないし、古道は睦橋ルートを通過するようだ。睦橋を渡り袋井中を通過すると右:東に神社がある。
○十二所神社(袋井市川井503) 
・説明版:祭神は猿田彦命、伊ぎなみの尊。例祭日:元旦祭、祈年祭、十月大祭、新穀祭。創建は紀州熊野権現より天神七代地神五代合わせて十二柱を祭神とし、十二所神社と称す。当時本殿は2.7m四方で宮建ては広大なり、慶安二年一宮監物より寺社奉行に村社とした届出文書あり。明治八年今の西小学校の用地となることにより脇宮のあった権現地川井字笠井の現地に移り、明治十年川井村村社となった。昭和19年東南海地震により本殿倒壊し再建その後内外装整備し今日に至る。
遠江では平治元年1159以後、しばしば熊野新宮を造営するための費用をまかなう国に指定されたために、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域では、現現在でも土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社、木原では許禰神社が祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことが分かっています。川井の十二所神社もかつて熊野十二所権現と称されており、熊野山との関係をうかがい知ることができます。江戸時代の記録からは2.7m四方の本殿と脇宮、天正13年1585の棟札などがあったことが分かっています。棟札には川井の地頭菅沼織部と代官壹右衛門の名前が記されており、神社の創建は少なくとも戦国時代までは遡ることが考えられます。現在の神社は明治8年1875、袋井西小学校の中にあったものを当寺存在した脇宮の大頭龍神社と合祀し、今の場所に移転したものです。
・石道標:秋葉山道(3方) 享保二1717年酉川井袋井 寛政十1798戊午八月吉日再建、ツチノエウマ:元あった所は北東100mの川井東町15:寺田理容店前(岡本下駄屋)と云われるが定かではない。’16 4/2。
・光明山常夜灯2、・石鳥居:明治四十一年、・献灯4、・狛犬2、・板碑、
・秋葉山夜燈 文化八、
200m北進すると川井東交差点、更に北進するのだが、北進する自動車道のすぐ右に細い道がある。これが古道&旧道のようだ。500m北進する。途中で都市計画の区画整理がなされ新興住宅地に変貌し、ぐにゃぐにゃ蛇行していたはずの道が直角の道になり1本道にはなっていない。古道はどんどん消滅していく。
・その途中川井東交差点から200m北の久能315⁻1:鈴木氏宅前に丁石の台座のみ残存しているようだ。
・堀越橋への広い道に出る手前50m手前には、区画整理以前は細い道沿いに久能400₋2:伊池氏宅があり、四丁目の丁石があったようだ。
川井東交差点から500m後、広い道に出る。右:東に堀越橋がある。この橋を渡る。渡って50m東進して、最初の角を左折し北進する。この周辺は都市計画により区画整理がなされ碁盤の目状に道が付け直され昔の面影はない。150m進むと直進できないがすぐ右に北進道があるので一旦段違いになり北進していく。
・この段違いの道から西30mで宇刈川に達するが、その手前に五丁目の丁石があったはずのようだが、不明。
段違い道から150m進むと袋井バイパスの高架線に突き当たる。この手前右:東に墓地がある。かつて下久能弘法堂があったようだ。
○墓地、下久能弘法堂跡、可睡斎久晶寺跡、泉町二丁目8番地
・可睡斎久晶寺跡 平成二十七年、・新四国八十八ヶ所第七番札所、
・祠:弘法様:像、説明:昔から当地で弘法様が祀られ親しまれていた。ある時和尚の夢枕に弘法様が出てきて「私は弘法だが、貫名の藪の泥中にいるので、助けてほしい」と言ったそうだ。そこで和尚が泥から救い上げ祀り直したそうだ。その頃当地では疫病が流行っていたが、祀って信心すると疫病が退散したそうだ。
なぜ貫名なのだろうか? 貫名は気比神社がある袋井市中心部より東で原谷川沿いの湿地帯なので、泥中に似つかわしいのでその地名にしたのかと思うが、何の関連なのか、不明?
・一石六地蔵、・第一番地蔵、・板碑:一金五萬圓也、・奉□春順禮、・新:地蔵、・五輪塔:破片、・墓石:天保十五年 文政九、
・墓地入口にかつては六丁目の丁石があったようだ。
バイパス高架線で直進できないので、一旦左右どちらかに迂回して向うの古道に向かう。下久能1102番地:金子氏宅左から北進。
・金子氏宅手前のバイパス用地内に七丁目の丁石があったようだ。
ここから古道ぽく道は蛇行していく。100m進むと、角の久能1220番地:塚本宅に丁石がある。
・八丁目:おそらく位置関係から可睡斎への丁石かと思う。先の川井十二所神社の秋葉山道標やこれから出てくる道標ともども、関連性がある。
・70m北進すると道が鍵の手のようなクランク状になる。その久能1238⁻4:渡辺氏宅前に九丁目の丁石があった。現在、久能1632⁻1₋1:米沢大二氏宅にて保管しているようだ。
100m北進するとやや広い道に交差するが、そのまま北進できる。すぐ左:西に袋井北小がある。
・久能421₋1:寺田氏宅西裏に十丁目の丁石があったようだが不明。
・120m北進すると久能1431⁻1:寺田氏宅前にかつては十一丁目の丁石があったはずだが不明。台座のみあるようだ。
・150m北進する。途中多分九丁目丁石を保管する久能1632⁻1₋1:米沢氏宅前を通過する。
・寺田正夫氏宅を過ぎた角にかつては十二丁目丁石があったようだ。久能1810⁻11:寺田利雄氏宅で保管されているようだ。
100m北進する。久能1800番地:石黒宅の角に丁石がある。ちなみに台座は向かいの久能1775:安間氏宅内の北西にあるようだ。
・丁石:十三丁目、
200m蛇行北進する。
・久能1865:安間氏宅前の辻にかつては十四丁目丁石があったようだが不明。
100m北進するとT字路で直進できない。2軒左:西に北進路がある。入るとすぐ目の前に黒い長屋門。
・長屋門:久能2009-1、鈴木氏宅、

~周辺~
先ほど2軒左に行ったが、右:東に100m進むと広い県道に出る。渡って北側には可睡斎への参道入口となる。ここに2つ可睡斎の道標がある。
・石道標:明治二十五年秋葉総本殿遥拝所 明治二十五年秋:久能1964⁻1 可睡口、
・石道標:☜山梨森町道 可睡斎口 大正六年十月:久能1964⁻1、可睡口
・献燈当国中泉町 明治四十二年四月吉祥日:久能1964⁻1 可睡口、

長屋門に戻る。
どうも古道は消滅したようだ。おそらく鈴木氏宅の左:西に回り込んで北側の東名高速に向かったと思われる。ここから左右どちらでも迂回して鈴木氏宅の裏:北に向かう。
鈴木宅裏に回ると、すぐ北は東名高速高架線である。左右どちらかに迂回しないと北進できないかと思いつつ高架下ガードを流れる細い川を見ると、その横にさらに細い道らしきがついている。歩道がついている。
・東名高速高架下ガードの歩道:わざわざこんな所に狭い歩道を設計施工するには必然性なり必要性があってのことだろう。でなければつけるはずがない。おそらく狭い古道が地域住民の生活道としてあったため、わざわざ狭い道を設計施工したのだろう。元から道があった証拠と推定したい。つまり古道のあった証拠とも言える。「菊川53」の標識がある。
ガード下暗く細い道をくぐると目の前に神社がある。
○六所神社:袋井市久能2018番地―1、祭神:タケミカヅチノカミ、フトダマノミコト、イツキヌシノミコト、フツヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメノオオカミ、
例祭日:10月15日、由緒:勧請の年月不詳と言えども延宝五丁巳年2月18日、再建の棟札及び、その後再度の棟札有す。明治12年9月18日村社に列す。
・新:地蔵、・五輪塔:破片5基分、・新:石鳥居2、・御神木、・古い常夜灯2、
・常夜灯2、
 古道は神社横の公会堂から左:西に向かい北進する道にかつては合流したようだが、途切れているので、左の北進路に向かう。道なりに北進300mで現代の県道58号:袋井春野線に合流する。合流した先の右:東に細い道が分岐し北進していくのが見える。この路地裏道を北進する。200mで宇刈川土手道に合流する。150m土手道を北進すると、右に分岐し北進する道もあるので、そちらに進む。150m進み、道は最初は左、次に右に曲がる所がある。久能28⒑番地附近である。
・祠:地蔵、
200m北進すると新興住宅地に向かい標高差5mを上る。ここから左:西の土手道に出て土手を200m北進する。谷田川橋がある。平宇バス停も附近にある。橋を渡る。橋を渡った北側にほんの少しだけ、旧道が残存している。すぐに県道58号線の交差点に当たる。旧道は斜めに横切って周南中の左:西に向かっていく。周南中の植え込みに石碑がある。
・石碑:山科学校跡、
石碑前の道が旧県道であるが、中学の西に沿って北上する道は新たな道なので、その1本分、左の道を北上する。かつての県道の趣が残っている。これも近代の旧道、これからの古道になるのかも。
この先もっと古い道と推定される道を通る。8番札所の朱印所である成道寺前を通過する道でもあるので、なおさら通過するのである。右にある下山梨公会堂を過ぎると、左斜め北に向かう狭い道がある。下山梨1533⁻1杉山宅の北で左に向かう道である。道なりに北進150mで成道寺前に出る。ここで朱印がもらえるようだ。 
○成道寺:
・新:六地蔵、・秋葉山常夜燈:木造板葺:安政年間の建立、元は100m北の秋葉道脇にあった、再建され境内東隅にある、一見祠に見える、等、
成道寺前から250m北進すると、また旧県道に合流する。50m北進して左の佐藤木工所:下山梨266⁻1で左折すると、下山梨上公会堂、その横に八番観正寺のお堂がある。このお堂はとても見付けにくい。’15 11/22
 上記、川井十二所神社以降の丁石事項や、その他の袋井周辺の石造物や古道については以下の文献からの引用がある。現地での丁石、常夜灯等の再確認は未実施。 ’16 4/2。
・「秋葉古道を(道標・燈籠)訪ねて」北みちしるべの会(袋井公民館内)H7年3月20日


・第八番 月見山 観正寺(袋井市下山梨524、しもやまなし) つきみざんかんしょうじ  
 創建:不詳、開基:不詳、本尊:六観世音菩薩、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎・次回2017年、縁起: 
山号の月見山については山梨一帯の南には山がなく、古地図に月見里と書いてやまなしと読ませるということからきているらしい。
無住、駐車可能。
・厄除石:不動岩:裏山から掘り起こされ、石上部がぽっかり割れ、中から丸石が出た。
  見ると確かに割れた中から丸石がのぞいているかのようだが、ただ雑草の中にほかされているので、ただの割れた石に過ぎないと見られ、発見しにくい。
・石塔:岩□町? 刻字を成道寺住職に聞いたが不明
・六観音堂:守り本尊の十一面観世音菩薩、聖観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音、
・遠江八番札所 観正寺 昭和五十九年、・下山梨水道組合 原井跡 平成九年、
・石碑:御詠歌 昭和六十年、・手洗石、・新:石灯籠、
堂の裏には墓石:宝篋印塔、石仏、卵塔、墓石、
不空(四に絹)索観音、他に准(月に底)観音、
周囲:上山梨の正福寺には橘逸勢が流された時の歌が残されているという。
無住、駐車場有。 
朱印は300m南の成道寺であるが、2度行って2度とも家人と出会えなかった。3度目は事前に電話をかけてから伺ってやっと御朱印を頂けた。Tel:0538-48-7131
’15 11/22、12/5、12/12


・経路
JR袋井駅発、袋井市自主運行バス「フーちゃん号」下山梨上、下車、徒歩3分。
9番へ10㎞、徒歩140分。
『心の旅路 附属地図』では8番から11番遍照寺内観音寺へ行くルートになっていて、11番後9番に行くルートである。このルートも一応今後調べたいが、おそらく古道ではないはずで、近代以後睦実の11番観音寺が廃寺で飯田の遍照寺が引き受けたことで、8番に近いので8番から11番を廻ってから、9番を目指すルートが合理的になったのだろう。これは近代以後のルートであろう。
そこで8番から9番を目指す古道らしいルートを私見で推定した。私見なので正しいかどうか不明だが、この後詳述する中で、あながち間違いではないようだと思う箇所があった。
観正寺の位置が昔からこの位置なのか知らないが、一応当位置として堂の裏の北を目指したいので、1本西側の細道に行着、北を目指す。そして西へ延びる(横断地点より西先で北上する)県道279山梨敷地停車場線を渡り、上山梨下町に入る。2000年頃までの地図だと直線に北上できるが、2015年実際には区画整理され直したらしく、少し左の道を入って北上していく。右に神社がある。
○山名神社:上山梨1丁目12番地の3、720年養老年間勧請、周辺の区画整理事業は2009年完了。・石道標:左 光明山秋葉山道 右 大洞院:この石道標は以前北東100mの上山梨381:佐藤氏宅南西10mにあった。明治初期以前は光明山秋葉山と大洞院との分岐点で、向かって左へ行けば太田川を越えて旧三川村の二俣街道へ出て秋葉山光明山へ参拝した。右へ行けば旧宇刈村春岡を通り下飯田より北上して森町を通り大洞院へ参詣したという。

神社から直進北上はできないが、その後下町・中町・上町の商店街に入ると、まっすぐ北上できる。この古めかしくもさびれた昔ながらの商店街は昭和レトロが満載である。映画のロケ地によいのではないか。この商店街の北端に太田川が流れていく。
この商店街の150m東側、上山梨1058:山下氏宅前に秋葉山常夜燈がある。
・秋葉山永代常夜燈 安永十四歳四月吉日:木造瓦葺、
この北端周辺に川の渡渉地点だったことをうかがわせるものが2つある。
・地蔵堂:堂内に多数地蔵、裏墓地にも地蔵、墓地には戦国末期から江戸期の墓がある。地蔵堂のいわれは知らない。
渡河地点にはこのように仏や神が祀られることが多いので、その名残の面もあるのではなかろうか。渡河の安全祈願や犠牲者の供養のために設置されやすい。現代は立派で巨大な橋を土木工学の進歩で建設しやすいが、昔の橋は壊れやすかろうし、渡し船や徒歩渡りでは流される危険性はあったのだろう。
・若宮八幡神社: 袋井市上山梨上町字お旅所1445番地、本来山名神社の御旅所に若宮八幡宮を祀った。昔山名神社南に若宮の地があり、中町西尾家の氏神として勧請され祀られていた。明治19年頃氏子がお旅所に遷座した。公孫樹。
御旅所は神を祀る時の休憩地、支度を整える所、迂回地点等を示すことが多いので、渡河地点にあることは似つかわしい。
現代、若宮八幡西に板築橋がある。さて太田川を渡る。県道279山梨敷地停車場線を北上するが、旧道は地蔵堂辺りで渡河して県道の1本右側、:東の道と思われる。500m先中川上交差点横の中川上公民館の真裏道で、この交差点で合流する。
この中川上交差点から、9番岩室観音堂や獅子が鼻公園を目指すルートは複数になる。
 交差点より北西(左)を取って天池坂を通り昭雲寺前を通過して萱間も通過し敷地を目指す。
○神明神社:・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、内側に道標:「是よりいなり道」
・天地坂
・昭雲寺:石仏、
 ~周辺~ 
昭雲寺より西へ進み敷地川も渡り5㎞で川会カワエ集落に行く。遺物類がある。
・石道標:旧二俣街道是ヨリ山ナシ一里 二俣二里十丁
・建福寺:・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、元は明治橋西方平野氏宅裏にあった。
・川会879:石川氏宅はかつて甚内店といわれ、反物や日用雑貨等生活用品を売っていた。このような店は少なかったので遠方より客が来た。秋葉詣りの客も軒の腰掛にかけて休息したという。

 岩室観音への次のルートは、萱間から北を目指し、大久保や極楽寺から今のトンネル経由で敷地へ出る。または岩室へ南から上って行くかする。トンネル経由しなければ極楽寺前から沢沿いに道があり、八幡神社を過ぎて境の峠を越えて敷地駅前に向かって行けた。
中川上交差点から現代なら北の谷中交差点を目指し、宮園小前交差点へ左折し、一之宮に至り、右の谷崎から左の大久保の極楽寺までのどこの道を取っても岩室に上って行ける。以上は推定現代ルートである。
推定近世ルートは中川から県道279山梨一宮線の左(西)の山際集落に沿った旧道(古道)を北上し雲林院前に出る。ここから山越えである。ヤマハ発動機工場や恐竜展示のある地所を過ぎてハマネツ工場を過ぎてすぐに左折で下っていく。本当はこの左折手前にもチェーンの張られた細い道があるがこれが旧道と思われる。下りきってT字路を左折するとすぐに目の前に一宮駅がある。旧道は一宮駅裏の小高い集落に降りてくるはずである。一宮駅前から北上すれば一宮大久保地区である。ここからのルートも複数ある。
① 最も正式な表参道ルートは萱間、敷地を目指し、そこから岩室に上る道である。
② 裏参道としては、⓶萱間から大久保、または遠江一之宮駅付近から大久保へ出て、大久保から北上して岩室へでる。今ではゴルフ場の西端を自動車で上れる。心の旅路附属地図にも記載あり。
③ 大久保の小川、合羽ヶ谷橋を上るコース。現在はゴルフ場で行き止まり。
④ 谷崎の高雲寺:遊び地蔵の西から上っていくコース。心の旅路附属地図に記載あり。
⑤ 高雲寺の東側の山尾根に沿って上っていくコース。現在は自動車道であり、ゴルフ場の東端であり、途中廃棄物処理場を通過し、岩室より少し奥の広大な茶畑に達する。

以上5コースを実際に調べてみる。
① コース:敷地の岩室橋を渡り、上り坂を上っていく。途中板碑がある。正式な表参道である。
・板碑:豊明神社、・旗立て石2、
更に上り集落に達すると辻に石仏がある。
・如来:
② コース:途中大山神社石碑と板碑の横に人工的切通しの旧道(古道)が一部残存しているが、ほぼ自動車道により消滅したと思われる。県道40掛川天竜線から北へ分岐する所の酒屋横に石道標がある。
・石道標:表「右敷地野新、中?□□□□、左?□□□□」裏「六平屋 大□ 」
⓷コース:途中、安養院、コガワ小川神社前を通過する。沢の左(西)が旧道と思われる。新東名高速高架下で小さな合羽ヶ谷橋を渡る。すぐ目の前に祠がある。
・岩室観音巡礼道 道標観音:観音石仏:説明:小川道標観音 岩室観音(岩尾山清涼院)巡礼道の道標、聖観世音菩薩像の左脇に「左巡礼道」と彫られている。巡礼道は平成五年頃に三木の里ゴルフ場建設により途中で道が途切れてしまった。また新東名建設工事に伴い平成11年に仮移設し、平成20年に当初位置かもら20m北の現在地に安置。設置者はこの先の住宅:天野智加志さんである。
 天野智加志さんは、新東名建設により森町が刊行した資料集『建設の前後』に「大久保 岩室観音巡礼道の道標観音」を記載されている。この書籍には「大久保 消えゆく小川コガワの巡礼道」菅沼茂夫の文章もある。
現在の安置場所の真上の山斜面に旧道(古道)入口が雑草と倒木だらけで人工的な切通しの一端を見せているが、とても入る気にはならない。暫く先のゴルフ場で消失しているはずだそうだ。
*天野智加志さんには感謝しております。
④コース:谷崎の特別養護老人ホーム森町愛光園と高雲寺:遊び地蔵の左を入っていく。県道との分岐点には石道標がある。
・石道標:酒屋の横に倒れている:表「右圓田村森町 左小國神社秋葉光明山」、裏「御即位記念 谷崎青年會」、本来300m東の谷崎交差点にあるべきもの
・石道標:酒屋の向かい:表「遠江一宮國幣小社小國神社 従是二粁七百米突 勤王義國報國隊記念遺品ヲ保存ス」裏「皇太子殿下御成婚紀念 大正十三年五月」
左右ともゴルフ場の間を進むコースで現在自動車道は拡幅され走りやすいが、ゴルフ場を過ぎると広大な茶畑を走る農道になり、道の突き当りは⑤コースの曲がる所の分岐点の100m手前である。突き当りの100m手前に石碑がある。
・石碑:自立自興 昭和六十年、
⑤ コース:このルートは一般的に帰り道コースと考えられている道かもしれない。とはいえ巡礼道としては岩室から釣鐘岩方向へ奥に進み、広大茶畑(財産区)の釣鐘岩方向へ進み、自動車での通過不能標示がある所で右折(東)して進む。ただし谷崎に下るよりもっと手前で、尾根道の自動車道から離れ分岐して一気に東に下る必要がある。その分岐点を知る必要がある。
 
 附属地図では太田川を飯田の下飯田橋か飯田橋で渡り複数のルートで岩室に上っていくコースとなっている。飯田で渡るのは11番:遍照寺を9番より前に参拝する順路から来ている。近代はこの方が合理的ルートである。しかし近世までは順番通り廻る方がよかったろう。


・第九番 岩室山 清瀧寺(磐田市岩室68⁻3、いわむろ)いわむろざんせいりゅうじ  
 創建:平安期、開基:伝弘法大師、本尊:聖観世音菩薩:木造立像105㎝平安後期作、宗派:真言宗、開帳:毎年2月初午に例祭、縁起: 
駐車可能。
旧豊岡村。獅子が鼻公園の奇岩:獅子が鼻岩近く。豊岡梅園。古代からの祭祀場か?そこに大寺院が建立されたのか? 獅子が鼻公園の景観は抜群。
明治22年江戸時代以来の万瀬、虫生、岩室、大平、敷地、家田、大当所の7村合併で敷地村となる。昭和30年4月旧広瀬、野辺、敷地3村合併で豊岡村。
「掛川誌稿」の豊田郡万瀬村箇所で「敷地側の上源にあり。敷地側の本流この村より出で
南に流れ、又西の方二股より天竜川に入る一流あり。共にこの村の山中より発源す。その二流の間にある村なれば万瀬は間瀬なるべし。」
 「遠江国風土記伝、豊田郡野辺郷の内」の記述:「高は51石1斗8升5合 百姓山に住す 観音堂:朱符の田高は2石 臨済宗清涼院永安寺の末 平僧住す 昔寂室禅師登山して作興す  岩室山:高さ15町 嶺に仏堂あり 麓に竜泉・山谷の諸仏堂の名存す 地を穿てば則ち仏像出づ 西北は石壁なり 牛之鼻と号す 物有て半崖に懸るが如し 麓に敷地川流る 東北は虫生山に続く 南は岩室山なり 古老曰ふ 昔 真言の祖弘法大師開山の地なり 後臨済宗寂室禅師 登山して室山ハルミ看花の作あり (延文年間に当たる)野興人を催ほし青昼長し 行く行く岩院を看れば満庭芳し 老来景を好めども多く遇い難し 眼風光に酔ひて心狂わんと欲す  永安寺:敷地村にあり朱印の寺田の高12石 臨済宗京都妙心寺派の末 開山寂室禅師なり (延文年間=正平11~15 1356~60)」
 敷地川水源:高野水汲
観音堂周辺はかつて七堂伽藍、僧坊多数あった。戦国期、織田信長来攻により焼失。附近には礎石多数、布目瓦、土器片出土。土中から1.2mの大日如来頭部、1.5m仏像2体、発見。径3尺大礎石が8尺間隔で東西に6個、南北に5個並ぶ。堂の前は石段、
・標柱:史跡岩室廃寺跡、説明版、観音堂は上部構造・小屋組がよくわかり建築構造を調べる上においても注目すべき建物
御朱印は自治会で毎年持ち回りのようなので、近所の住民に聞くとよい。管理者:佐野さん、tel:0539-62-2386
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・経路
天浜線、敷地駅から2㎞、徒歩45分。
10番へ11㎞150分。
岩室観音堂と熊野神社、神道修正派大元祠(御嶽教)から北の釣鐘岩方向へ道を取る。すぐ右手が広大な茶畑(財産区)で左は獅子が鼻公園ですぐ崖のようだ。400m進むと自動車通り抜け不可の看板がある。茶畑もすぐ北で縁となっている。この縁に沿って右折する。茶畑内の道路と縁がうまくかみ合っていないので数回不規則に曲がって何とか縁に出る。尾根通しの自動車道になる。8番:観正寺の経路にある⑤コースである。ここから1㎞南下していく。左(西)にブロックが積まれた小高い丘がある。道からは見えないが頂上に板碑がある。
・板碑:彰徳碑、
その東側のこれまた自動車道からは見えない真裏に旧道(古道、巡礼道)がある。下り10分、上り15分、道は人工的切通しで、国土調査の赤黒杭が打たれているので迷うことはない。下りきると茶畑で向うに北島さんの御宅:一宮宮代西3929₋2が見える。
さらに下ると観音がある。
・馬頭観世音
さらに下りきると向こうに県道と寺院が見える。
○天台宗鹿苑山蓮増院、このお寺の山門は四角くて豪族の館か砦みたいだ。
・不動明王立像、釈迦如来像:町指定文化財、身代わり不動尊、
・一宮稲荷、・釈迦石像、・地蔵、
(周辺参考)手前に戻るが県道を小国神社の反対に500m進むと東の山は遠州静岡真田山城である。
○真田山城:築城年代不明、鎌倉期より武藤氏が附近に住んでいて、居城だったという。元亀・天正頃(役400数十年前)武藤刑部亟氏定は武田信玄に属して小国神社にたてこもったので徳川家康に攻略された。その後再び武田氏に属して高天神城に行き家康に滅ぼされた。武藤氏の子孫は城東郡亀甲村(小笠郡)に居住したという。
・頂上の本丸には石家型道祖神、地蔵多数、曲輪、土塁、堀切も残る。’15 12/5
蓮増院から左に向かえばすぐに小国神社だ。
北島さんや遠州鈴木農場の方の話では、下りきる手前が急坂で大八車では通行できない、巡礼者が歩く道だったと思われるとのことだ。車輪を外して担いだという。今でも順礼で歩く人がいるともいないともではっきりしなかった。幼稚園の先生が引率して幼稚園児が急坂で怖がって泣きながら歩いたという。 ’15 12/12
*北島さん、遠州鈴木農場の方(広大な財産区の茶畑で巡礼道を教えてくれた)に感謝します。

☆疑問:明治23年地図『二俣町』では、巡礼道は北島氏宅前に下りずにもう1本北側の枝尾根をつたって下りている。この山道があるのか?後日確認したい。
 ’16 3/13 先ほどの彰徳碑の場所から古道を下りてみる。5分下ると、道より左に2~3m高いピークがあり、黄黒の標識が見える。そのピークに行くと、北の尾根沿いに向かい下りていく山道があり、黄黒の標識杭が各所に打たれている。尾根と杭を目印に下っていくと、古い地図通りの場所に出られた。下は農道でその道を下っていくと、森町一宮3945:永田氏宅前に出て蓮増院が見える。山道に古い遺物はなかった。山道片道10分。


さて話を本題へ戻して、蓮増院前へ出て左へ進むとすぐに小国神社である。小国神社前を通過して右手のゴルフ場方向へ上っていく。山越えして下りだすと右手の斜面下に看板がある。
・塩井神社:塩水が出るという伝説の井戸である。その潮の干満が海と同じだという。
参考『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸、p81に記載がある。また御手洗清の静岡県の民話集にも掲載されているはずだ。
下りきると伏間集落に出る。左(南東)方向へ進む。また上りとなり、峠では尾根沿いの高架道路下をくぐる。下りだすと右の空き地に看板がある。
・陣屋峠:陣屋とは江戸期において代官や地頭等が任地に所有している屋敷や役宅をいった。森町村及び附近七か村(橘・天宮・草ケ谷・上川原・永倉・中田・石川)は、延宝七年1679以来、旗本土屋氏(地頭)の知行地となり、陣屋は始め草ケ谷に置かれたが、享保六年1721,7月から同九年1724,4月の閒に、西脇に移されたことが古文書の上で確かめられる。以来、西脇陣屋の裏山の峠は陣屋峠と呼ばれるようになった。’15 12/5 
下っていくとすぐに西脇集落があり森町の中心地である。左の山際に沿って進む。10番は近い。


・第十番 八形山 安住院 蓮華寺(森町2144、もりまち)やがたざんあんじゅういんれんげじ  
 創建:慶雲元年704、開基:文武天皇勅願、行基上人開創、本尊:聖観世音菩薩:木造立像70㎝伝慈覚大師作伝天長8年作、宗派:天台宗、開帳:60年毎‣次回2004年9月19日~10月30日、縁起:
東海道における法相宗本山として一里四方の寺領を誇った。八形山には36坊があり学問寺として栄えた。天長8年831慈覚大師円仁(天台宗開祖伝教大師:最澄の高弟)が在住し七堂伽藍を整備した。嘉応元年1169比叡山から阿闍梨皇円が招かれ山頂に正覚院を建立し衆生済度の大願をたて昼夜念仏の修業をし6月13日遠州桜ヶ池に入定したという。戦国末期に今川義元より寺領寄進を受けたが、永禄年間武田徳川の兵乱で諸堂悉く焼失。正親町天皇は名跡の壊滅を憂い徳川三河の守に再建要請。慶長八年1603江戸幕府より55石朱印地賜る。寛政十二年1800千体仏彫刻の大発願をたてた真言宗の遊行僧木喰上人が当山を訪れ高132㎝子安地蔵を彫刻し安置。裏山には行基と慈覚の供養の五輪塔がある。
・萩の寺:各種の萩、開花は秋分の頃
・文化財記念館:日蓮の大黒天像‐県指定文化財、木喰上人‐子安地蔵尊木像、今川義元‐朱印状、徳川家康‐朱印箱、天台大師画像:伝慈覚大師作⁻県指定文化財、元三慈恵大師画像、
・森町歴史民俗資料館:無料:閉館は月火、近世近代の日用品、農耕具、郷土の偉人から土器まで展示、建物はかつての周知郡役所で学校使用後、資料館に。
周辺:歴史の散歩道、森町は遠州の小京都、天宮神社、小国神社、大洞院、宿場街並み、森山焼、春埜山883m大光寺 
~追加~
・五輪塔:多数:行海上人、行基菩薩、禅勝房上人、皇円阿闍梨、慈覚大師円仁、法然上人、法観上人、宣舜上人、真庵法印等の塔
・戦死者を祀った五輪塔:摩耗している:多数100以上、
・地蔵⒑:参道石段安置、
・新:仁王像がユーモラスでおもしろい、
・11番でも取り上げるが「村松梢風先生略伝」が掲げられている。1889~1961年、森町飯田出身、大正から昭和前期の作家で小説や伝記で知られた。
有住、駐車場有、tel:0538-85-5374
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~~~(周辺)~森町の秋葉山常夜燈
○草ケ谷:説明:草ケ谷常夜燈は元は現在地より北側の小高い所(現:高柳氏の茶畑)にあった。当時この地域の秋葉街道のルートは袋井―山梨―牛飼―中川―谷中―栗倉―草ケ谷―森山―蓮華寺―八形山―大洞院―本宮山―秋葉山と言われる。秋葉山には秋葉講という組織を作って代参し家内安全と火災予防を祈念した。常夜燈は秋葉山に通じる道筋各所に置かれ、道者はこれを目印に通行した。現在町内に13か所残されている。当時の森は大勢の秋葉道者でにぎわったと言われる。草ケ谷常夜燈は安政初1855年頃建てられ大工小澤五平氏、円田の両角喜作氏と天方村薄場の人3人で彫刻は薄場の大工によるとのことである。その後昭和9年2月に消防小屋の建設に伴い現在地に移転し石垣は敷地村西村亀太郎氏、大工森町村松為吉氏、木代工賃菅沼泰治郎氏、瓦葺き替えは内藤藤吉氏が行った。石垣は25円、その他大工、瓦工事代等は60~70円程要し修築したようである。平成になり羽目板が傷みトタンに張り替えた。平成17年格子窓等修理電燈を設置した。


・経路
JR袋井駅から12㎞、森町行市営バス、下宿下車、徒歩10分。
天浜線、遠州森駅から1.4㎞、徒歩25分。

~11番へ6㎞、徒歩90分。
蓮華寺の参道を出て道なりに進むと森川橋に出る。橋袂に石碑類がある。
・石道標:表「もりまち」右「□秋葉神社 右秋葉三尺坊本道 左大洞院」左「秋葉道□□」裏「□□建之講中」
・石道標:正一位秋葉神社道:新、
・台座、・石碑類:新、・旗立石2:奉納 昭和十五年 紀元二千六百年記念 幸水社、
ここで森川橋を渡り右折(南)するのだが、できれば現在の県道より1本東側の細い道に入り進むのがよい。天浜線戸綿駅高架下を通過する。ただし江戸時代に太田川を渡ったのは、古道の秋葉道になり、現在の戸綿駅から線路の鉄橋に沿って太田川を渡っていたようで。今の森川橋より南だ。明治23年地図ではほぼ現在の森川橋辺りに橋がある。そして秋葉道は太田川を渡った太田川の東岸では、戸綿での線路沿い道よりもう1本南の細い道が秋葉道であり、加茂神社東の常夜燈前に抜けていく。では鴨谷に向かう道は、おそらく今の県道より1本東の細い道であり、しばらく進むと現在の県道につかず離れずとなるようだ。
古い11番 観音寺へは、鴨谷交差点手前のコンビニ前で左折(南)し、山に向かう。
*あとは11番 観音寺参照

新しい11番 遍照寺へは鴨谷交差点を直進し、なるべく今の県道より山際の細い道を通行していく。飯田小学校を過ぎたあたりで石碑がある。
・石碑:一木系早生次郎柿選抜発見の地 一木藤太郎屋敷跡 平成二十年
○崇信寺:
・山内氏三代墓
寺門前に石道標がある
・石道標:右宇刈油山、
飯田城へ向かう途中にも石道標がある。
・石道標:右森近道 真中飯田、 
○飯田城:崇信寺前より南へ距離350m、土塁がしっかり残っていることは素晴らしい。附近の山城ではたいてい土塁が磨滅している。以前畑や山林に利用され、多少とも開墾されている可能性はあろうが、コンパクトで小規模な山城ながら、しっかり山城の形態をとどめていることはすごい、土塁等見るべき価値がある。
・谷堀、・腰曲輪、・本曲輪、・二の曲輪、・大手口、・南土塁、・坂土橋状虎口、・西土塁、・東土塁、・物見曲輪、・二重堀、・飯田城跡記念碑、
・説明版:築城年代不明、室町初期1400年頃、山内道美が築いた。永禄末か元亀初めの山内通泰の時に徳川家康に攻められ落城し廃城、通泰は討ち死にしたが、庶子重但は三河へ逃れ同地に土着し、今も子孫がいる。城跡を新城と呼び、崇信寺を古城と呼ぶ。山内氏は1281年には備後の国の天方の地頭で、後に遠江に赴き天方城を築いたようだ。1300年代には当地を領有していた。1401年には崇信寺を開いている。
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~12番への経路
蓮華寺参道を出て左(東)の細い道を通過する。森小学校裏を通り、細い道へ左折、すぐに石碑がある。
・板碑:説明版:報徳報本社跡:
暫く道なりに直進する。自動車が通行できない辺りで、天森橋に向けて東に右折する。自動車は通行不可の狭い道である。行き止まると天森橋袂である。
森川橋か天森橋を渡る
・泉龍寺
天方城に向かう道を通過して行く。向天方で天方城ルートより右を取る。
・天方山宝太寺、・天方神社、・御嶽山教会、
~~~
~(周辺)~ 
○天方城:説明:築造年代不詳、応永年代には山内対馬守の居城だった。城主天方山城守通興の代になり世は戦国乱世を迎えた。それまで駿河遠江を支配していた今川氏が義元死後斜陽化、これをみた三河の徳川家康の遠州侵攻の口火がきられたのは永禄11年、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12(1569)年6月19日家康は「遠州にいながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃、郭門を打ち破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦が繰り広げられた。山城守もよく攻防したがついに力尽きて降伏。翌元亀元1570年10月には御下知(命令)に従わずに軍兵を集めて立て籠ったため再び大須賀康高、榊原小平太康政を先登して外曲輪を攻め破る。山城守防ぐことかなわず降伏し徳川の支配下に入った。三年後の元亀三1572年9月下旬、武田信玄は四万余名の大軍を率いて犬居城主、天野宮内右エ門景貫の案内で多々羅、飯田の2城を攻略し天方城に迫った。天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし戦わずして降伏してしまった。そこで信玄は久野弾正忠宗を残して、山城守とともに天方城を守らせた。翌天正元1573年3月家康は、「信玄へ降伏し嚮導(先達)となりし徒(なかま)を捨て置くべきにあらず」と、平岩七之助親吉を将として、天方城攻略を決行した。先にこの城に残った武田の臣久野弾正は、城兵を指揮して大手の門を切って出て、散々に戦い、寄せ手の大久保新十郎忠隣、渡辺半十郎政綱、服部半蔵守綱らは烈しく攻め、ついに外廓を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、城主山城守久野弾正、必死に防戦したがついに力尽きて再び降伏し弾正は甲斐へ逃げ去ってしまった。遠江国風土記傳には、のちにまた甲州の持城となったが、天正二1574年3月、家康は遠州の軍兵を引率し、天方城を攻め3日のうちに攻落、この城に軍兵を置くとある。その後通興の子通綱は、家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられ天正七年9月15日二俣城において、切腹を命ぜられた際介錯をつとめた。そのため通綱は主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ、高野山に上り仏門に入った。そして後に越前松平秀康(家康の二男)に仕え、越前天方氏の宗家となり、その子孫は明治まで松平氏に仕えた。一方通興は、通綱が高野山に上ったため、天方氏の存続をはかるため、外孫の通直(青山播磨守忠成の五男)を養子にした。道直は幼稚の時より家康に奉仕して慶長19年の大阪冬の陣に供奉している。また元和元年大阪夏の陣の時は、秀忠に従い天王寺の戦いに戦功をあげている。
後に御書院番に列し、元和6年正月には御小姓組頭となり、さらに元和9年正月に御書院の組頭に栄転し同年9月より江戸城西城に勤仕した。寛永二年11月23日上総国武射、下総国葛飾、香取相模國高座四郡のうちにおいて2250石の御朱印を給わる。そして寛永三年従五位下備前守に叙任さる。寛永七年11月22日死す。歳42才、法名常茂。江戸小石川の蓮華寺に葬る。通直より4代後の成展の時、享保17年閏5月12日、請て家号を青山に改めている。以下代々徳川家に仕えた。
・石塔
・土塁、堀切り、曲輪が残存
展望台がありブランコ等もある。駐車場、トイレ有。
城に行くには山登りとなる。自動車で行けるが山岳ドライブとなる。道は狭い。
~~~ 
宝太寺へ向かう殿谷橋を渡る。沢の右上を東へ向かう左への道が掛川への道である。右上に向かうのは宝太寺参道である。橋手前の沢左を進むのは沢沿いの林道である。
・石碑:?圓蓮院跡:掛川市宮島、おそらく寺院跡、現在は全くの山中茶畑、しかし800mで集落。
県道大和田森線へ合流地点であり、旧道は県道に沿ってさらに100m延びている。
・石道標:表「右寺島原里村道 左原谷□□大尾山道」
県道に沿った旧道が100m先で合流する所、または県道を北に100m行った所に道標がある。
・石道標:「右森町ニ 左掛川道」左「側道」裏「   高」
県道を南へ600m進むと、新東名高速高架下に至り、12番 長源庵が山際に見える。


・第十一番 高平山 遍照寺内観音寺(森町飯田2130、いいだ)たかひらさんへんしょうじないかんのんじ  
 創建:元和元年1615、開基:木喰秀海上人:高野山住僧で諸国巡り中に飯田に寄った。飯田村の寿徳が厚遇帰依し、近くの平らな山の高平山86mを寄進し堂宇を建立し弘法大師を安置した。開山法師と秀海は正保二年示寂。本尊:十一面観世音菩薩:木造立像84㎝仏師大橋劔之介作明治37年8月再製、宗派:真言宗、開帳:昭和2年‣次回予定なし、縁起:
山頂に寺があるので見晴らし抜群である。
寿徳は観音の堂守だったのだろうか? 
十一面観世音菩薩は無病息災・開運厄除・心願成就を保障。
・遍照寺大仏:大日如来:高5m、周囲8m、青銅、享保三1718年二月開眼、駿遠両国鋳物師総大工:山田七郎左衛門尉藤原種満を建築総監督とし、江戸鋳物師大工:太田近江
・開山堂:頭痛と腰より下の病に効くそうでお果たしはタバコを奉納するそうだ。
・昭和前期の文人:「残菊物語」で知られる村松梢風の墓があり、麓には生家跡の看板がある。他の村松家の墓石もある。
他の古い墓石もよい。
・観音:延寶七巳未年八月、・石仏7(立観音1、座観音2、座地蔵4)、・句碑2、
・表参道、・高平山 昭和六年、
・開山碑、
・水子地蔵、
有住、駐車場有。Tel:0538-48-6758
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・経路
JR袋井駅から北へ8㎞、森町行バス、下飯田下車、徒歩15分。天浜線、戸綿駅から行バス下飯田下車、山頂迄500m、徒歩15分。
12番へ6㎞、徒歩90分。
自動車で行ける。麓からの参道は500mで舗装されているが狭く急こう配の山道である。


*かつての第十一番 観音寺(森町睦実鴨谷2890付近の裏山、むつみかもや)かんのんじ  
11番札所は本来「観音寺」であるが明治初期の明治5年に鴨谷:観音寺バス停付近の裏山の観音寺より観音堂を遍照寺に移築した。平成14年4月、老朽化で屋根が没落し解体した。ちなみに観音寺の地名地には昭和49年まで4軒(一木家2軒、佐藤、他全4軒)が住んでいたが、葛城ゴルフ場北の丸建設に伴い移転した。現在の北の丸に向かうトンネルを過ぎた辺りである。寺は明治初期に廃寺と思われる。一木家は現在、飯田小学校裏の上飯田3361番地に移転している。
観音寺バス停より鴨谷交差点を渡り、コンビニを通過して右折(南)して進む。睦実鴨谷2867⁻1:松下宅と鈴木宅の間の道を山に向かう。一木宅右横:西にモノラック道の山道がある。これが観音寺へ向かう古道である。この山道が北の丸に向かうとき通過するトンネル横に出るはずであるが、100m上っただけで、それ以降は草藪がひどく未調査。モノラック入口よりトンネルまで距離250mと思われる。途中には湯が湧いたところがあるらしい。
・シオ井戸:かつて川のほとりに湯が湧きだしたという。
北の丸のトンネル付近を調べる。トンネル手前右に入る山道があり、さびれたお堂がある。
・お堂:神社の跡か?:北の丸に行くとき通過するトンネル上横にあるさびれたお堂、一木さんによれば寺とは無関係とのことである。特にお祀りしていた等の発言もなかった。 
トンネルを過ぎてすぐ右に入る山道は急峻なところに茶畑がある。平地はないので、住居には不向きだ。北の丸へ向かう自動車道を50m進むと右に入る山道がある。20m上ると平坦な畑地がある。開墾され人為的な平坦地だ。おそらく付近で平坦な所はここだけではなかろうかと思うので、間違いかもしれないが、ここが観音寺推定地とする。


・経路
この11番札所から12番へは裏山を越して掛川へ出たものと推定される。そのルートは地図上で確認すると、ちょうど北の丸に向かう自動車道やゴルフコースとつかず離れずであり、消滅したと思われる。北の丸からは森町掛川市境線を北上し、天浜線や新東名手前で県道(かつての秋葉道)に出て、およそ新東名沿いに東に進む。
・杭瀬ヶ谷の池クイセガヤ:説明:昔から徳兵衛池と呼ばれるいわれは、昔、森町村には徳兵衛という若者が住んでいたが、ある日掛川宿へ行った帰り道、戸綿峠に差し掛かると水も滴るばかりの美女に出会い、誘われるように一軒家に入っていくと、鏡に向かっていたその女が、急に後ろを振り向いて、お歯黒をむき出し、「ついたかえ徳兵衛さん」と言ってニヤリと笑った。こんなことを二三度繰り返すので、あまりの気味悪さに徳兵衛は次第に後ずさりして、とうとうドブーンと池へ落っこちた。朝方ここを通るとき、狐に石ころをぶっつけたので、その仕返しをされたのだと気づいた。その後誰言うとなく、この池を徳兵衛池というようになったと伝えられる。
新東名側道で、掛川グリーンヒルカントリークラブ(ゴルフ場)への案内表示がある方へ進む。100mも進むと右下に降りる細道があり、とても臭い窪地に出る。この窪地の左側に廃道同然の道があり、600m進むと、寺島集落の裏山山頂の墓地に出る。この裏山山腹を通過して原田小学校方向へ進むのが古道と思われる。寺島にある物を紹介する。
・墓地
・祠:天王神社
・原殿神廟:祠、石塔、説明:原係清公は藤原姓で官位は従五位下、権守出羽守。遠江発祥原氏の祖で、承徳二1098年6月1日没した。子孫は嫡流の他、相良、橋爪、久野、孕石、寺田、弓桁、中、小澤等の諸家に分かれた。当地は師清公の館址と伝えられ、公の墓石があったが、元亀四年1573徳川勢に攻められて各和城が落ち、原武蔵守頼延が安芸(広島県)へ退転して、荒廃に帰した。その後館址に住むと災難が相次いで起こり遂に公の化身と伝わる大蛇が出現した。そこで元禄七1694年1月、里正山崎頼貞(寺田氏の祖)は右塔を明神山頂に埋め、原明神として祀った。以後代々、領主から黒印一石の祭祀料を受け、明治維新まで続いた。明治14年頃現在地に遷座、後に八幡神社へ合祀された。祠下には師清公の石塔がある。
○寺島八幡宮:
・石鳥居:日露戦捷紀念 明治四十二年 
・猿田彦大神 
・稲荷神社:祠、石仏、周辺は丘上の墓地。たまたま訪ねた時、祠前で猫が日向ぼっこをしていたが、来訪者に驚いて早々に立ち去った。
・西宮えびす神社:新祠、おそらく直近の新東名工事で移転し、現在地に新築したのだろう。周辺住宅もやたら新築の家が多く、町内ごと移転した証拠だろう。
新東名高架下を通過するとすぐに石碑がある。
・新:石碑:長源庵 
長源庵のさびれた建物が見える。

☆(周辺紹介)
原野谷川の対岸には観光地、神社仏閣がある。
・加茂荘花しょうぶ園
・松寿庵
・千勝神社

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現在の天浜線原田駅前で県道40掛川天竜線と県道269大和田森線の分岐点付近に石道標がある。
・石道標:表「右掛川 左原田村大尾山 道 幡鎌青年團」裏「大正九年」
ここから寺島方向へ県道を進み、新県道から旧県道へ入るとすぐに原殿神廟の標識がある。あとは原殿神廟への文章へと続く。
~~~~~


・第十二番 神宮山 長源庵 山崎(掛川市寺島1458、てらじま)じんぐうざんちょうげんあん やまざき  
 創建:寛永元年1624、開基:不詳、本尊:如意輪観世音菩薩:木質乾漆金箔‣半跏思惟像25㎝台座共60㎝、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2020年、縁起: 
応永年間初期、大高山麓にあった大洞院の六門、円通院の門前、寺田村山崎の地に仏堂があり、如意輪観音を祀っていたが、維新に際し長源庵に移築された。無住。最福寺住職。
昔の地名は佐夜郡宮ケ島村。呼び名は宮ケ島の観音さま。その南に寺田村があり、古刹円通院からその名が付いたという。円通院住職に松堂高盛がいて『松堂語録』を残した。文中に文明中に既に寺田郷の名がみえるので村は円通院寺領かまたは本郷の安里山長福寺に関係があろう。円通院は大洞院開山如仲天闇ジョチュウテンギンの高弟大輝霊曜が永享九年七日(月?)開創、二世古山崇永をへて三世が松堂高盛である。六世時より輪番寺(住職を年交代で行う寺)となったが、たまたま輪番僧のいない寛永十四年1637第風雨にあって倒壊、再建できずにいた。長源庵は円通院の弟寺である幡鎌ハタカマ村の大円山最福寺の末寺で寛永元年1624開創され慶長六年伊奈備前守より寺田1石5斗を頂いていた。長源庵山崎というのは寺田村で札所のあった所(円通院の所在地)を山崎といったので、山崎にあった観音堂を合併した長源庵という意味であろう。この合併は大洞院が許可し最福寺の指図によるものであろう。寛永の倒壊後円通院を放置しておくのに忍びず元禄末年に最も近い法類の長源庵に合併することになった。円通院跡にあった観音は長源庵に安置されることになった。
無住、駐車可、御朱印は幡鎌の最福寺で天浜線原田駅より南へ1㎞である。御朱印をもらうのに4回かかった。
・観音堂:製作:元禄年間1688~1703、地獄極楽絵図2枚、
・供養塔:西国三十三所順礼、文政五1822年、
・鰐口:元禄十四1701年巳七月吉日 遠州佐夜郡原谷寺田村 惣順礼奉加 十二番札所 願主道正、円通院跡に観音堂があった頃の作で道正は堂守だろう。
・鐘:天保八1837年八月、
・一石五輪塔:多数、
・達磨絵:二木住職の絵、
~追加
・地蔵堂:地蔵
・石仏12、

☆疑問:寺田村山崎の円通院跡とはどこか?
’16 3/13 寺島の長老:佐次本氏より話が聞けた。寺島という地名自体が、付近の宮ケ島と寺田を合わせて寺島にしたという。宮ケ島は今もあるが、寺田は、現在、掛川グリーンヒルカントリークラブ・ゴルフ場である。寺田の位置はクラブハウスの西100mにある池の周辺辺りである。ゴルフ場の入口近くの低い所である。かつては村だった。昔は本郷にあった城の家臣が住んでいた村だったという。山崎という地名は分からないそうだ。長源庵は円通院の隠居寺だった。
*佐次本氏に感謝いたします。
今の長源庵より西に300~400mである。目立ったルート変更はない。

~~~~~以下では御朱印先の最福寺を紹介する。
☆最福寺、幡鎌312、tel:0537-26-0024 
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺
・石仏多数
・西国秩父坂東供養塔 寛政十二、
・奉納大乗妙典六十六部日本廻國、
・石仏:西国二番 元禄□□年 
寺門前の分岐点にある。
・石道標:表「向 右森 後西山 左大日 宮道 幡鎌青年團」裏「大正九年」
秋葉道の曲がり角にある、幡鎌384⁻1中島宅前、
・石道標:猿田彦神社:ここから北へ300mで神社で、そこを過ぎて北1㎞先の旧県道に至る迄が秋葉街道である。
~~~~~


・経路
JR掛川駅から北へ13㎞、天浜線原田駅から1.2㎞、徒歩20分。
13番へ13㎞、徒歩240分。
長源庵を後にして北上する。新東名高架下に祠がある。
・祠:墓石、木造瓦葺 
旧県道を400m進むと、原田駐在所があり、隣は「10番 蓮華寺」で取り上げた「12番への経路」での県道への合流点である。この附近に石道標2つあるので、上記部分を参照。
途中付近には
・八幡神社
・楠神社
西之谷川に架かる中野橋を渡ると原田小学校前となる。ここで大尾山への道は二手に分かれる。ここからのルートは13番での経路に記載する。
・高山城(杜山城)跡:原田小学校はかつての高山城(杜山城)跡で原氏の居城といい、上の段の地名が残るが、遺構は学校用地として消滅した。


・第十三番 大尾山 顕光寺(掛川市居尻82、いじり) おびさんけんこうじ  
 創建:大同2年807、開基:本郷の長福寿2代智顕上人、伝説:左記の上人が霊夢を見て当地に観音堂を建て千手観音を祀ったのがはじまり、本尊:千手観世音菩薩:榧寄木立像伝行基作、宗派:真言宗、開帳:秘仏・昭和33年‣大祭日3月17日、縁起: 、代々掛川藩の祈祷所として手厚く保護、元亀年間1570~1572、武田氏の兵火により焼失。おびさんは大尾山、大悲山とも書く。おびとは帯のように細長い地形を指すのだろう。
 「掛川誌稿」には「大尾山の西南に当たって大和田の大山の北に元大悲山と呼ぶものあり。何れの時(その名を)今の山に移せしにや、絶えて伝ることなし。」と。大和田は原谷川上流で孕石ハラミイシの下、平島の上の集落である。戦国初期にこの山に入り生活や修行の場にしたものは山伏:修験者であろう。大和田の大山の北に修験者が山々を廻る峰の入口があって、此処を最初おび山と言ったのかもしれない。居尻の「い」は井・水路・川等の意味で、尻は終点を意味し川尻・野尻等と同じで。ここでは原谷川の終点を意味する。
元亀天正の武田徳川の合戦で仏像以外焼失。寛永十年11月1633青山家が掛川城主になると萩間村で観音領5石寄進され、小尾山別当千寿院がその証文を預かっていた。文化六年九月1809太田備後守資言の朱印状に「遠江国佐野郡大悲山観音領 萩間村之内にて高五石之事」とある。萩間村は原谷川上流で居尻の下の村である。
 顕光寺本堂手前500mに駐車場有、ここから登山道参道を距離500m、標高差70m歩く。本堂裏にも駐車可能。観音堂は本堂先距離250m、標高差40m歩く。
・大尾山:標高661m、高山植物の宝庫、
・観音堂:四間四方、方形造り、屋根の上に露盤を置き伏鉢をのせ宝珠をのせる。
・鐘楼
・開山堂:正一位王子坊大権現、
・弘法像2体
・法印墓:元禄十二年、延宝五年、天明元年・三年、延享五年等
・杉:巨木:目通り7m・枝張り10m四方・樹高30m・鳥居杉:県天然記念物:樹齢千年、
・海棠:樹齢100年、四月中旬ピンクの花咲かせる、
・鰐口:県指定文化財:鉄製:径22.4㎝・両端突起短い、表面同心円深い彫、室町期の特色、外輪「奉施入金口遠州飯田庄戸和田郷賀茂宮御奉前 応永十四年丁亥九月 大檀那藤原通国敬白」、内輪「東山四郎左近新寄進 永禄八年丑九月」と刻まれる。この鰐口は最初森町睦実の賀茂神社に奉納されたもので、後、永禄八年1565に東山四郎左近が改めて顕光寺に奉納したものであろう。東山氏は粟が岳の南の東山村の住人であろう。
・金鼓キンコ:陣鉦と陣太鼓:文亀二年1502遠州佐夜郡原田庄大悲山顕光寺常住、今は山名郡浅羽庄八幡村八幡祠にあるという、
・古文書類保存多数、
参考文献以外から直接調べたこと追加
・石階段:見附町講中 大正四乙卯年十二月
・手洗石:文化十酉 
・献燈2:大正十五年 
・地蔵2:第二十九番、第三十番
・燈籠2:
・献灯2:大正
・大尾山顕光寺 大正五  
有住、駐車場有(表参道には数十台分あるが徒歩10分上り坂、寺本堂裏にも数台分あるがこれは家人用で頼めばOKかも、Tel:0537-25-2251
’15 12/20
 

・経路
道のり登山、自動車道で8㎞、最も難コース。自動車で門前まで上れるが山岳ドライブとなる。古道は登山道。
・登山道:古道:居尻からの林道からはずれ登山道入口で標高250m→距離1000m→分岐(左:柚葉:ただし廃道かも?、右:顕光寺駐車場)標高500m→距離200m→顕光寺駐車場で標高550m→距離500m→本堂:標高620m→距離250m→観音堂:標高661m
*大尾山登山道から柚葉への山道は大尾山尾根通し林道に接続しちょうど柚葉への林道にもそこからつながる。そこの林道から登山道を見ると道形はあるが、落ち葉が積もっていて人が歩いた形跡がない。
’16 3/21、居尻集落のどこから正確に古道が付いていて、今の登山道入口(古道)に至ったのか判然としないが、登山道入口より100m戻り1軒手前の居尻643⁻1:佐藤氏宅横に祠と石仏が祀られている。
・祠:・観音:享保十一、・観音::三十番、・地蔵、・観音:割れ破片、・如来:二つ割れ、・庚申:安永□年:見ざる言わざる聞かざる模様、・手洗石、
大尾山は登山道や周辺に石仏等がほぼ見られないが、ここにあったのかという発見だった。すぐ裏は墓地で、しかも車道とは違う歩道が付いている。この歩道を上るとジグザグに巻いている自動車道に出る。その上部の方に登山道入り口があり、周辺の地形から登山道入り口が尾根でこの歩道も下の方の尾根であることが分かる。ということは、今は自動車道がついていて、登山道入り口までは自動車道を歩くのがハイキングコースになっているが、石仏前の細い道は古道の登山道残存部だ。石仏より下の方を見ると、自動車道より下にも切通しが付いている。きっとそれも古道だろう。そのまま下っていくと、左の沢横に出るか、右に行くと人家の敷地を通って自動車道にでるようだ。また石仏の所から上っていくと、登山道入り口となる。初め尾根伝いに切通し道が付いている。野渓化していて水が流れていて歩きにくい。200mほど我慢すると、尾根から外れ水の流れのない道になる。そうして200mほど歩くと、右に石塔がある。
・石道標:左十四ばん (ばではなくそば屋のばで者に似た変体仮名)
右にあって左14番だと向きが逆である。刻字が左でなく右なのか、安置向きを間違えたか、別の意味があるのか、またはこういった石塔がある所には分岐点が多いが、とりたてて分岐道もない。意味不明だが、大尾山顕光寺は13番で次は14番なので、下れば14番方向である。登山道中唯一の石塔である。
300m進むと沢を渡る。そこに木造標識で「八丁」となっている。300m過ぎると木造標識「残り1.4㎞」。更に歩くと木造標識「残り1㎞」に至るが、その中間に登山道から左斜め上に向かう枝道がある。おそらくこれが柚葉に行く林業用登山道だろう。
木造標識「残り1km」にも、登山道から外れ左に向かう枝道がある。この枝道は距離200m、ほぼ等高線平行移動で柚葉への分岐点に至る。またその途中で下方に向かう別の枝道がある。その道がおそらく残り1㎞と1.4㎞の間から分岐する枝道につながるのだろう。さて正式な登山道を上ると石垣が積まれた所がある。登山道を改修して崩れにくくしたようだ。あと100mほどで駐車場に出られる。駐車場に出る所で蛇が日光浴していたが寒くて動けず尻尾の先だけをぴくぴく動かしていた。蛇はさぞ怖かったのだろう。
駐車場の石碑「大尾山顕光寺」の右横に石道標
・石道標:「辺□十六(?三、四)番札所□□八丁 □□□ □□□□二丁」刻字は判読不明、数か所への距離標示と推定。
’15 12/20、そしてこの石道標と石碑の間が古道である。この上50m先に石仏
・如来か観音2:
参道脇の杉檜切り株の切り残しを背もたれにした「切り株の背もたれ付き椅子」がある。10~15分で本堂前に出られる。


JR掛川駅の北25㎞、掛川バス居尻行、居尻下車、徒歩60分。
14番へ居尻経由17㎞、徒歩240分。


~原里高山、原田小学校附近から、原野谷川沿いに居尻に至るルート~
原田小学校からの原野谷川対岸の栃原にある神社仏閣は以下である。
・千勝神社
・持智院(現在、栃原公会堂)
栃原の原野谷川に架かる栃原橋袂付近に石道標がある。
・石道標:御即位紀念 原田青年會栃原支部 北 正道ヲ経テ原泉村ニ通ズ 西 高山ヲ経テ森町ニ通ズ 東 雨櫻村ヲ経テ掛川ニ通ズ 南 桑地ヲ経テ原谷村ニ通ズ 約掛川二里半 原川二里 大尾山三里 森町一里 大正四年、

メインルートに戻り、高山橋で原野谷川を渡り、350m進むと、大門橋があり、子安観音の看板がある。
狭いが大門橋を渡り右折する。
・石仏、石塔
300m狭い道を進む。これが現在の県道以前の旧道と思われる。
・栃原城跡:大門橋から上の方面全体は栃原城と考えられる。大門、横手の地名は城との関連性でとらえられる。
○西林山春昌寺:無住、
・子安観音:
・石塔、五輪塔8:破片含む、地蔵4、観音7、子宝石:多数の丸石、多重之塔、燈籠2、
すぐに急坂を降りると現在の県道に出る。対岸に神社がある。
・関戸神社
現在の県道に沿って奥を目指す。700mで平戸橋に至る。右手に神社がある。
・井口神社
300m進むと平島橋があり、手前にアンパンマン等のキャラクターがある公園が見える。橋を渡らず手前左奥に寺がある。
・蓮乗寺
平島橋を渡り1300m進むと、対岸に神社が見える。
{14番:知漣寺関連。ちなみに平島橋を渡り右(南)の新東名の山斜面に向かっていくと林道七窪線があり、桜木池やねむの木学園のある知漣に出られる。}
・法之脇神社
250m進むと祠がある・
・祠:日正地蔵
この先すぐ右に曲がる切通し道がある。入口に見付けにくいが石道標もある。この道は⒕番:知漣寺への古道のルートでもあり、途中で消滅する。現在は峠下の大和田トンネルをくぐる道に付け替え改修された。{この先、14番:知漣寺で取り上げる}
・石道標:勅語下賜五十年記念 右本郷□□ 左□□掛川道 □□□□□□
切通し道へ曲がらず県道を直進し、大和田橋を渡る。左手奥に寺がある。
・?地蔵:橋の袂、
・良因庵
・中山勘太郎と長屋門 
・体験農場、農村公園、
大和田橋を渡り県道を500m直進すると大野橋に至る。
橋の手前左(北)の土手上に祠がある。この土手道自体が今の県道より古い旧道である。
・祠:馬頭観世音 明治二十六年、
橋を渡った周辺の右側に牧場があり、牛や馬を放牧している。道路沿いにポニーも飼われている。
孕丹橋に到達すると、手前左奥に寺がある。
・円通庵:すでに建物はなく解体された木材が積まれている。四角い墓石一つと、石塔が残っている。寺島の長源庵は円通院の隠居寺だそうだが、この円通院と円通庵は何か関係しているのだろうか。本郷の長福寺が門跡を継ぐそうだ。
・孕石城と孕石氏:円通庵周辺の山城であるが、畑地で変形している。孕石氏は「原氏8代忠益の弟、高忠を祖とする」というが詳らかでない。孕石城城主と推定されるのが孕石氏である。その中で名が知られているのは孕石主水である。彼は今川家家臣で、駿府鷹匠町に屋敷があり、隣には、人質の少年だった竹千代(徳川家康)が住んでいた。竹千代は鷹狩が好きで鷹を飼っていたが、彼の屋敷によく入り込んだため、彼は「三河の子倅コセガレめ」とよく怒ったそうだ。今川家が駿府を出て、武田氏が駿府を支配してからは武田氏に仕えたが、その後徳川が駿府を攻略した。徳川家康は武田氏家臣を雇ったようだが、孕石には、少年の頃のことを話し、今さら三河の子倅なぞに仕えたくなかろうと死を申し付けた。孕石は家康に仕える気はないと豪語して死んでいったそうだ。墓は静岡市駿河区池田の本覚寺にある。
孕丹橋を渡るとT字路で左右に分かれる。左折する。100m進む。孕石天神社看板あり。
右山斜面に祠あり。
・祠:中は空、・庚申供養塔 文久戌年、・地蔵、
左河原に鳥居と紅葉が見える。
・孕石天神社:説明:祭神:天満大神:菅原道真、社殿の土台はさざれ石の大岩盤で、大小さまざまの卵形の礫を含むので孕石と呼ぶ。社殿は天満宮の江戸時代に書かれた扁額が掛かる。堂内部は寛政年間1789~1801に造られた柿葺きの屋根の本殿がある。孕石は掛川市東北部の八高山832m附近を源流とし、南西方向に流れる原野谷川中流域の地名で、この地名は当地域に分布する孕石と呼ばれる礫岩に依る。この礫岩は、新第3紀前期中新世1,800~600万年前の海底に堆積した倉真層郡の基底部を構成し、団結した円礫と砂とで形成され、地質学的には、その地名を冠して孕石礫岩と呼ぶ。円礫は、堆積当時の陸地に分布していた古第3紀や中生代のチャート、砂岩、貢岩などの岩片が河川や浅海の波の力で磨かれてできた。孕石礫岩を構成する礫は、「君が代」に詠まれている小石(さざれいし)に相当する。孕石は太古のさざれいしが1800万年にわたる長い年月(千代八千代)を重ね、互いに結合してできた岩(いわお)とみなすことができる。丸々と愛らしい大小の礫たちは、いわおの中にはぐくまれた胎児を連想させ、孕石の名が生まれたのだろう。
御神体は前庭に露出する孕石礫岩で、子宝を祈念する男女が礫をお守りとして持ち帰るため、御神体の表面は孔だらけになっている。念願かなって子宝に恵まれた夫婦は愛児の写真を携えてお礼参りをする。奉納された稚児の写真は神社内部の壁面を覆い尽くし、訪れる人々を感嘆させ、子宝を祈願する男女を鼓舞している。
紅葉が美しかった。
・紅葉、自然石3、献灯4:破損、
~~~
600m進むと左奥にダムがある。
・原野谷ダム
1400m進むと萩間の左に寺がある。
・昌光庵 
~街道から一旦それるが萩間の真東2.5㎞地点に三角点567.8mのピークがあり八重金山という。萩間の西1.5㎞に三角点507.4mのピークがあり大山という。
200m進むと右に神社がある。
○八幡神社:説明:鎮座地:掛川市萩間604番地、御祭神:ハンダオケノミコト、境内神社祭神:スサノオノミコト、例祭日:10月10日、10月19日、由緒:勧請は翌元和年中に一宮を設け村中挙げ是を氏神となしたと古くより中傳へありしを聞き雨覆社殿等の形となし元禄16年11月再建し、また明和3年再建しなおまた文政10年10月再建された。往古より八幡宮と称せしか由緒を知ることができないが、その脇神伝えありしを慶長検地に記載し、明治7年5月村社と願い許可され上列す。昭和28年10月本殿及び拝殿を新築落成した。
・石鳥居、
・自然石、
・秋葉山常夜燈の祠:中は空:木造瓦葺、
原野谷川の淵
・萩間のしお渕
神社先のカーブ地点に石仏がある。
・耳の神様:耳の神なのでお果たしは穴あきの石を祀る、
・山の神、
1㎞進む。居尻のバス停付近の左に石道標がある。
・石道標:「教育勅語三十年紀念 指導標 黒俣一里 白光山二里 大日山四里
大尾山二十八町 炭焼区二里 掛川五里 森町三里□ 金谷町五里 家山四里 秋葉山十里 原泉村青年團第五支部 楠(?掛)川 大正九年十月三十日」
・石道標:「左大尾山道 昭和二十五年」、
・祠:石仏、 
幾つかの観光施設がある。
・ならここの湯
・居尻キャンプ場
100m進むと左の道に「大尾山」の標識。林道で頂上より300m奥に至る道で、かつての頂上へ直登する道伝いに作られた林道坂角線である。
 ○平川神社:・平川神社常夜燈明治十十十四年、・明治百年記念 昭和四十三年、・自然石2:平たい丸石、穴あき円筒石、・祠:石を祀ってある、・板碑:寄附人と金額、・石鳥居:明治四十三年、・秋葉常夜灯:嘉永五:これは自然石を使いオリジナルないい形や大きさ、デザインをしていて保存価値がある、
 
居尻の県道を更に黒俣めざし進む。
奥之田橋手前、居尻227⁻1杉森宅&作業場に祠がある。
・祠:新:地蔵、・地蔵:天乃 土方□六□□□□、
笠掛集落を過ぎる。この辺りにかつて笠掛の松があったようだ。
・笠掛の松?
かつて新道橋が架かっていた所に橋脚だけが残る。その道端に石仏がある。
・馬頭観音:
源田橋を渡ると右に生活環境保全林と名水の看板がある。
・市民の森:生活環境保全林広場、
・報徳の森(大日本報徳社)、報徳山
黒俣の家が対岸に見えると右のブロック塀に石仏がある。
・馬頭観音:
黒俣、泉の集落に着く。
黒俣集落の西に向かう。
・秋葉常夜燈:黒俣壱番地、・自然石、・石塔:刻字不明、・コウヤマキ:市指保存樹木、・石塔:刻字不明、
黒俣集落を過ぎて八高山方向へ向かう。赤目揃橋を渡ると八高山登山地図看板がある。左折すると神社へ行ける。
・川近神社(昭文社の地図では川辺神社となっているが辺ではなく近である)、説明:掛川市黒俣字北澤400⁻1番地、13級社、川近神社、祭神:誉田別命、牛頭天王、祭事:元日祭1月1日、祇園祭7月14日、例祭10月10,11日、大抜12月29日、本村開闢以来、寛正庚辰1460年7月まで祭神なきを憂うるが故に、村民挙げて文明六1475年2月両神を右の地に奉勤請事なり、寛政七1796年8月再建、嘉永三1851年9月大風のため本社を皮潰し、同年同月再建して往古は川近八幡神社と称せし、明治九年5月許可を得て川近神社と替称す、現在本殿拝殿は今上陛下満50年奉祝記念事業として、昭和51年7月1日上棟、10月11日落成、社務所、今上天皇御在位60年記念事業として昭和62年2月26日上棟4月4日竣工した。昭和63年10月10日 寄付者 鈴木計善 
・石鳥居、
・日向山:この川近神社の北側の裏山は八高山登山コースでもあり、神社より500m北東の494mピークを日向山(日当山、ヒナタヤマ)という。
赤目揃橋に戻り八高山方向へ林道を進む。
途中に神明祠があるようだが、未発見、もしかするともうないのかも。
更に林道を上っていくと
・祠:メガネ地蔵:卒塔婆に七百回忌があった、
この辺りから南を会下段イゲンダンという地名のようだ。「会下段地蔵」という名称がある。さてメガネ地蔵と関連があるのかないのか?もしかすると同一のものなのか?

もう少し上ると五叉路に着く。ここが掛川市と旧金谷町境界線である。ここから八高山登山で白光神社へ行ける。昔はもっと林道を東へ1.5㎞歩いて馬王平に行き、そこから八高山に上ったものですが、こんな手前から上れるルートが開拓されるとは。
ここから林道で大代へ行ける。しかしゲートが閉まっていて大代や八高山へは行けない。徒歩ならOKでしょうが。暗沢林道が黒俣東の尾根通しから大代や萩間へ抜けていける。
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~原里高山、原田小学校附近から、西之谷川沿いに久居島、西之谷に至るルート~
 中野橋や原田小学校付近から西之谷川沿いの県道を進む。旭増寺参道手前の左に石仏がある。
・馬頭観音:
・石碑:旭増寺、・石塔、・祠:神社、
2㎞進む。右にある。
・石碑:九泉寺:
600m進む。右にある。
・樋田八幡神社:
650m進む。左にある。
・楠神社:
200m進む。右側にある。
・上島神社
550m進む。右に石仏、左に道祖神がある。
・地蔵:河原田村中 天(文か?)政七 
・家石型道祖神 
道は二手に分岐する。左の林道明ケ島線が大尾山に行く道である。右は林道西之谷線である。まず左の林道明ケ島線を上っていく。
尾根上の上西之谷集落北外れに神社があるらしい。
・神社? 
また先ほどの林道西之谷線から分岐して上る道がありこの林道明ケ島線に接続してくる手前に石仏がある。上西之谷746⁻2草賀氏宅横。
・?馬頭観音
・観音
・?順礼供養:同行 □~~□酉
・台座のみ
このあと大尾山参道や田代柚葉、森町方面への交差点(黒岩山の東の峠)に達する。


~~林道西之谷線
上西之谷の、左の林道明ケ島線(大尾山に行く道)と右の林道西之谷線分岐点に戻る。
右の林道西之谷線を上りだす。60m進む。道左に石道標がある。しかも石道標の左の斜面を上っていく古道まである。
・石道標:「御成婚記念 右原泉村居尻萩間 左大尾山川根 ニ通ズ」「大正十三年一月 原田青年團上西支部」
この上っていく古道は、地図上では先ほどの上西之谷746⁻2草賀氏宅横の石仏前の道に接続していくようだ。
さて林道西之谷線を上っていく。居尻との間の峠に着き、道は居尻に向け下っていく。
この峠には林道大山線が南に分岐している。
ここに石道標がある。
・石道標:「御成婚記念 右萩間 左居尻 ニ通ズ」
林道大山線は萩間には下らないので、周辺を見渡すと、大山線のあるピーク反対側(東側、萩間側)に雑草だらけだが幅1mの帯状平坦地が奥へ続いている。住宅地図にも記載されている。これが萩間への古道:旧道で当たりだろう。雑草だらけで使われていないことは明白だ。古道は静かに朽ち果て徐々に自然に帰り、道だったことさえ嘘にしてしまうかのようだ。男と女の別れの嘘のように。
あと下っていくと居尻の集落内で大尾山登山道:古道入口への道であり、紹介しているのでここで終わる。
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・~森町城下からの13番大尾山街道の経路、
参考「森町散策マップ」、「八高山登山コース看板」
 森町城下の秋葉山常夜燈及び地蔵堂が街道起点→延城橋(通称もぐり橋)、現在この橋は存在しないので上流の蔵雲院橋か下流の天森橋を渡る、太田川は桜堤となっていて、数多くの桜による並木が美しい。植樹に熱心なようだ。
・城下の秋葉山常夜灯:説明:町指定文化財、秋葉山常夜灯は、江戸中期に秋葉山信仰が盛んとなり、人々の浄財によって秋葉路の各所に建立され、防災と村中安全の祈願をこめて献灯された。この常夜灯は天保四1833年11月藤江喜十郎が名主の時に福川五良左衛門、戸塚政右衛門らが世話人となり、森町の鋳物師岡野五良左衛門が燭台を作り建立された。覆屋 桁行4.3尺 梁間3.8尺 切妻造、桟瓦葺、袴腰付き、三方金網張り、背面片引板戸、正面破風に蕪懸魚を吊る、妻面は、若葉・渦紋を彫刻した虹梁上に笈形付棟束を立てて斗栱と肘木にて棟木を受ける。
→北へ土手を200m→右折、朝姫明神(阿佐姫塚)
・阿佐姫塚:祠、石塔、石仏、説明:今から400年前、山内山城守通重が天方城主頃、娘に阿佐姫という姫がいた。阿佐姫はふとしたことから婦人病にかかった。阿佐姫は毎日泣き暮らし、侍女たちの慰めの言葉も聴かず、「私は死にます。死んで女性を守ります。二度と女性がこのような病気にならないよう、なってもすぐ直るよう私が守ります。」といって、その夜小刀で自ら命を絶った。侍女たちが泣いて悲しんだが、どうにもならず、城の西、太田川に近い所に葬った。これが阿佐姫塚で、横に阿佐姫大明神として祀った。すると婦人病にかかった女性やかからない女性もお参りするようになり、今なお絶えない。
→塚本氏宅前、杉本氏宅前、浅井氏宅前、800mで蔵雲院からの林道に合流→
○松巌山蔵雲院:曹洞宗:説明:正保四1647年の「蔵雲院門前屋敷諸役免許に関する書状」によると、天方郷18代の地頭山内山城守が、崇信寺5代の助吟和尚を講じて山居に開山したと伝えられる。山門をくぐって階段を上ると正面に本堂が建ち、本堂の背面に位牌堂と開山堂が続き、本堂の東に庫裏が繋がっている。棟札によると、現在の本堂は延享五1748年に上梁を迎え、それから3年後の寛延四年には花島善兵衛によって須弥壇前の前机が奉納されており、この頃には内部の造作も完了していたと考えられる。西側には天方氏の墓と伝えられる五輪法印塔が苔むしている。天方氏三代の墓がある。誰のものか明確ではない。
・天方氏の墓:五輪塔2、丸石:説明:天方城主天方氏の系図、通季ミチスエ:武将であるが和歌連歌に長じ三条西実隆と親しかった――通稙ミチタネ:天方家の菩提寺長泉寺の中興の開基、桶狭間で戦死――通興ミチオキ:今川家に最後まで忠誠を尽くす、一時武田氏に近寄るが最後は徳川家康に服従し参陣する――通綱ミチツナ:徳川家康の上意で家康の養女となった吉良上野介の三女を正室として迎え入れる。通綱は元亀四1573年3月以降、徳川家康の家臣となり、天正七1579年9月家康の嫡男岡崎三郎信康自刃の検使役を仰せつかる。介錯役の服部半蔵が信康の傳役モリヤクで子供の頃からの付き合いであったため介錯できず、通綱がやむなく介錯する。その後高野山に蟄居する。およそ10年後家康の二男福井城主松平結城秀康に1500石で召し抱えられる。通綱は福井城下にて死去、享年73歳。
・石仏7、
→途中、森町清掃センター跡地前通過して1.5㎞で森町-掛川市境尾根の林道、
 ここで一旦、朝姫塚からの古道ルートを再確認する。朝姫塚から軽トラ農道悪路を上ってきて、今は杉本氏宅、浅井氏宅前で蔵雲院前からの道に合流しているが、古い地図では、道はこちらではなく、山際を通り続け、清掃センター跡地に出てやっと今の道と合流するようだ。
・板碑:開道碑 昭和三年 
・石道標:板碑の台座にたてかけられている:表「御即位紀念 右横根沢 左大尾山」裏「久居島青年會」 
尚丁度掛川市と森町境界線で道路地盤が1m陥没していて車での通行不可状態である。’15 12/12
しかし’15 12/20には陥没した道路面は盛土され復元され、たてかけられていた石道標は板碑の向かいに設置されていた。盛土された所はまだロープが張られ通行止めであった。
なぜか冷たい石道標に死んだカマキリがくっついていた。石道標の灰色にカマキリの浅緑色が鮮やかだった。
林道を北へ100m
・祠:馬頭観音、横に台座を縦置きしてある
林道を北へ500m、右(東)に茶畑、石道標がたてかけられている。
・石道標:表「御即位紀念 右久居島 左川根 道」裏「久居島青年會」
 顕光寺住職が「大尾山は森町から金谷までつながる街道」と話していた通り川根の文字が見つかった。
林道を北東へ2㎞、くれこ槫子、市居平への分岐点のすぐ東側に神社があり、市居平へも下って行ける。
・神社

~ここから市居平へ下っていくと
・一平神社?
・祠:石仏5:石塔、観音、奉納大乗妙典壱曲、観音「宝暦五子歳三月 西之谷村□□月□□村」、庚申供養、
さらに下り分岐点があると道標がある。
・石道標:「右久居嶋 左上嶋 道」

さて先ほどのくれこ槫子、市居平への分岐点に戻り、林道を更に北東に2㎞進む。
林道から、掛川市久居島の西之谷から森町亀久保への舗装道路の峠に出る。ここに大尾山参道分岐点の道標がある。
石道標:「大尾山道 見附町講中」:観音堂手前の石階段と同じ講中が建てたものなので大正4年頃か。
大尾山参道の林道を2㎞進むと顕光寺駐車場に出る。
更に林道を先に進めると大尾山山頂直下を北に巻いて尾根通しを進む。林道工事はこの先4㎞地点で工事中らしい。明治23年地図に記入されており、尾根通しを通って大井川の家山大和田に下っていくルートになっている。途中、大尾山山頂や黒俣に分岐するルートもあったようだ。現在、居尻から大尾山山頂を目指すルートは居尻からの林道坂角線に使われていて、山頂より300m奥に繋がっている。
黒俣から大尾山頂尾根通しの道は、現在は林道大尾大日山線でかつては大尾山街道として知られていた。黒俣から山頂尾根に接続する箇所を「大曲り」と称するようだ。(黒俣の八高山登山コース看板より)林道坂角線と山頂尾根通し林道接続点より北東に山頂尾根通し林道大尾大日山線を700m進む。それまで右にピーク斜面が見えていたのが左に変わり、道が右に膨らみ左回りになりかかる所がある。国土地理院地形図で見ると677mピークから東に点線歩道が黒俣まで記入されている。ちょうどこの接続点が大曲りのはずだ。この附近で林道下を探す。林道脇の樹木にピンクテープや赤ペイントがあるのも怪しい。下を見ても歩道らしくないが、下っていくと境界標識やテーピングがあり道らしくなってくる。ジグザグを切ってある箇所もあり、明らかに道である。あまり深入りしたくないので200~300mで引き返す。この箇所が大曲りで当たりだろう。黒俣との途中で531.5mピーク地蔵坊山の北側を巻くルートになっている。地蔵坊山山頂付近は道不明瞭となっている。黒俣から大曲りまで、上り1:30、下り1:20となっている。
国土地理院地形図で見ると、林道この先500mのヘアピン箇所に炭焼明ケ島方向の西からの点線歩道が接続している。更に林道600m先で黒俣の沢沿いから上ってくる点線歩道が東から接続することが分かる。それも確認しに行く。
国土地理院地図には記入がないが、黒俣の登山コース看板に記入されている道がある。大曲りとヘアピンカーブの間の東枝尾根と林道黒俣線を結ぶコースである。上り50分、下り25分。
林道500m進むと確かにコンクリ舗装されたヘアピンカーブがある。その下を覗くと急坂尾根に赤い境界標識が順々にある。おそらくこれだろう。急坂で道らしくないしきつそうな坂だ。下りるのはやめた。登山コース看板にはヘアピンカーブ箇所に○が記入されていて道の接続点であることは確かだ。
更に林道600m進む。右側ピークを過ぎて両側が見える箇所に出る。右(東)に枝尾根が延びていき、そこへ向かって山道が延びていくのが分かる。しばらく歩く。林道がピークの左側を削って作ったため、右側にあった大尾山街道の旧道(古道)が見事に残存している。黒俣に下る道との接続分岐点もはっきりしている。ただしこれと言った標識や石仏は見当たらない。林道黒俣線の出会いより上り40分、下り25分。
林道は工事中で立ち入り禁止なので、これ以上進まず戻る。看板からの情報を記す。
ヘアピンカーブと上記の古道残存部交差点の間の570.6m地点を明ケ島嶺というようだ。
上記古道残存部交差点から林道を北東に進み578mピークを過ぎると「黒俣赤目揃 □541.5m」となる。この先564mピークがあるが、この手前を足久保と呼び、お地蔵さまと記入されている。森町と掛川市境界線の629mピークを過ぎるとキンデンオロシ金兵衛殺しとなっている。キンデンオロシとは何か?金兵衛殺しの伝説があればそれが第一だろうが、でなければよく山の細尾根にあるキンチヂミ、犬戻りを連想させる。地図上でもやや細尾根である。山の急峻な細尾根は犬でも戻りたがったり、キンタマが縮んだりするためという地名である。高塚山738mと風倒峠カザンタオ、風倒カザンタオ山695m辺りで掛川市、森町、旧川根町、旧金谷町の4つの境界線となる。その境界付近より500m~1㎞北の三角点753.5mより真東1.5㎞で前山集落となる。前山で東西に延びる尾根の北側に出て、尾根のすぐ北側の下を上り下りなく東へ1.5㎞平行移動する。そこから尾根は急激に下降し大井川に至り、大和田集落に出て大尾山街道は終わる。林道は家山に向かうようだ。川近神社前の林道はカザンタオを越え家山につながるようだ。

’16 3/20、島田市川根家山小和田の大尾山街道大井川入口を調べたので報告する。
前山から大尾山への古道は崩落していて通過できないと前山住民から言われた。前山から八高山への林道も崩落の為通行止めだった。前山から東への平行移動は軽トラ農道と古道歩道を幾回か交互しながら通過していける。取付き点は家山から前山への八高林道を進み、右に前山集落への分岐点になる。左の八高林道を20m進むと、左に軽トラ農道が分岐している。それに進み、ひたすら上り下りなく、尾根の北側に沿い、東へ等高線平行移動する道を選ぶ。途中から農道ではなく、人ひとりしか通れない山道歩道になるが、それもひたすら尾根北側平行移動を心がける。そうして幾回か歩道と農道を交互して前山から1.5㎞進むと、これ以上平行移動できずに尾根が急激に東に向かい下降する地点に出る。農道は尾根を外れ左に下っていく。尾根から右は茶畑で、その茶畑の左端を外さないよう進み下りていくと、尾根に人工的切通しが見え始める。これが古街道の証拠だ。ここはちょうど茶畑になっている。この下降する辺りから旧川根町方向の家山大和田に向けて古道は下りていく。300mも下っていくと、椎茸の原木が3本歩道脇にあり、鉄条網もかけられている。ここから地面に大井川の川原石が段のように所々積まれるようになる。この川原石が本道の証拠で枝道に入らない目印になる。ここから下は未調査。
○前山集落の遺物
・金属鳥居、・寺院跡地:祠:石仏2、穴あきのお果たし石多数、・神社:祠2、・鈴木家の大杉:高30m、幹周9.8m、樹齢300年、
前山1926⁻1:岡村氏に話をうかがえた。前山から奥への古道は崩壊している。大和田から嫁に来た人たちはいる。

次は大和田オワダからである。家山の大井川鉄道大和田駅近くの集落に八幡神社がある。鳥居の左の茶畑との境目に、大井川の川原石を段々に積み上げてある山道歩道が山奥に続いていく。これが大尾山街道の大井川への終着点であると同時に出発点でもある。川原石を所々段にして敷いてある道は道幅2~4尺:50㎝~1.2mでしっかりした道である。300mほど上った所で未調査。上記の前山からの山道につながるはずである。

’18 3/11(日)午後、再調査、小和田八幡神社前左側から前山手前の舗装路横茶畑までの標高差300mの登山道を上った。中間地点辺りで大木が数本倒れ登山道を崩壊させている。上り側からは赤ペイントで樹木に左(南)への矢印が記入されう回路が分かるようになっている。下り側からはう回路は分かりにくいが、下を見ると登山道が見えるので、そこを目指して下っていけば登山道に出られる。片道:標高差300mで(標高差100mで15~20分として)45~60分か。今回は午後3時近くに上りだし焦っていたので25分だった。帰りの下りは足ががたがただった。登山道小和田の下側半分には丸石段があり、上側半分には見られない。しかし本道がもっとも道幅が広く踏まれているし、下側は丸石段が目印になる。
小和田の遺物
〇堂:手洗石、・新:有縁無縁三界萬霊供養塔、・地蔵:明治九年、・地蔵:首無し、・石塔類破片、・お堂の格子窓に多数の穴あき巾着袋奉納されている
お堂のすぐ下の茶畑で作業していたお年寄りに話を聞けた。「お堂の名前は知らないが、息子の嫁の安産祈願で巾着袋に穴をあけすっぽんと安産できるようにと願いをかけ祀った。」そうだ。’16 3/20、’18 3/11追加。
○八幡神社:・石鳥居:昭和七年、・献燈2:昭和六十二年、・招魂碑、・五輪塔3~4、自然石5~7:破片、・大和田八幡神社境内木:マキ、タブノキ、スギ、ヒノキ、
大和田1562:伊藤氏に話をうかがえた。大尾山や前山へ行く道は山のごつごつした石ではなく、川原の丸みを帯びた石を所々段にして積んであるので枝道との区別がつきやすい。昔は朝3時に出発して秋葉山へ行ったこともある。大日山金剛院辺りでやっと日の出になったものだ。春埜山や光明山へも行った。下の大きい家ではもう亡くなってしまったが、おばあちゃんは森町から歩いて嫁に来た。祝言を一週間も挙げたものだ。’16 3/20、
森 町城下から大和田まで距離約21㎞。標高:大和田144m、前山の西1.5㎞地点の山753m、大尾山661m、森町城下52m、単純に引いて標高差700mだが、幾度もアップダウンするので、この2倍はあろう。
 
これで以上の接続点や街道の報告を終わる。次は黒俣からの出発点である。
黒俣の集落の西、黒俣482番地:鈴木宅横から裏山に取り付く。雑草だらけだが人為的な道の切通しはついている。これが大尾山街道大曲がりにつながる出発点である。
黒俣の沢沿いに大尾山街道に接続する道は沢沿いの泉簡易水道浄水場に行く林道黒俣線を進み、山に取り付くようだ。この林道黒俣線の第2号橋付近に赤目揃滝があり、この附近から八高山への登山口があるようだ。
では黒俣から大代側に出られる巡礼道はどこなのだろうか。
黒俣集落の東端の家、黒俣582番地:杉山直次郎氏宅裏山から始まるようだ。ただし裏山はイノシシが荒らしたうえ、裏山斜面は防災工事でコンクリ舗装され、道の取付きがさっぱり不明。しかし心強い方が道案内してくれた。それが91歳の杉山直次郎氏本人だ。木の自作杖をうまいこと操り急斜面を91歳とは思えない要領よさでひょいひょい上っていく。この杖さばきはどこかで見たことがあるなと思ったのは、きっと田河内の郷土史家:栗島清さんの杖さばきである。きっと山の人たちの杖さばきには一定の型があるのだろう。杖さばきの民俗学的分析ってあるのでしょうか。コンクリ舗装された斜面の左上に出ると人為的切通しの山道が出現する。杉山氏の説明ではこの道は人間用の道で、馬用の馬道はもっと左から上って行って、この上の段になっている平坦地で左から合流するそうだ。昔はお茶やその他日常生活に必要な物を何でも背負って歩いたそうだ。ここで道案内を終えてもらい一人で平坦地の合流点を目指す。道は広く切通しが深い。ただし倒木と雑草で切通しの上を歩くところもあった。10分も歩くと切通しが終わって、キャタピラーカーの重機により地面をえぐり馴らした道になった。ちょうどそこで左からも合流する道があり、これが馬道だ。おそらく下から標高差で約100m。キャタピラーカー重機馴らしの道はもっと上からここまで続いている。おそらくこの上の尾根通しの暗沢(萩間黒俣)林道の日影山からここまで馴らしたのだろう。古道残存部はここまでで、あとは重機馴らしの作業道(このような道は林道より格下の作業道と呼ぶようだ)になったようだ。ここから馬道を下って黒俣集落に戻る。馬道は確かに人道より道幅が広く勾配が緩やかでジグザグをよく切ってある。下りていき集落に近づくと左に沢があり、そこで道型が不明となる。あとは沢の右を適当に下りると黒俣591番地:杉山喜幸氏宅北側でゲートボール場農村広場の手前に出た。
森町から川根まで尾根通しでつながる街道が存在していたのだ。’15 12/20,25,26
*杉山直次郎氏に感謝いたします。



・第十四番 瑞霧山 大雲院内知漣寺(掛川市上垂木、かみだるき) ずいむざんだいうんいんないちれんじ  
 創建:大雲院は天正2年1574、開基:蘭室宋佐和尚:増善寺七世、本尊:聖観世音菩薩、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎、縁起:、今川氏親開基の静岡市の増善寺の末寺、増善寺は遠州高野山石雲院の門派。元真言宗で御嶽山等持院。上記開基者がここに閑居、伽藍を建て曹洞宗に改め大雲院と称した。慶長八年九月1603御朱印17石賜る。「掛川誌稿」にはこの寺の末寺に知漣寺と呼ぶ小寺があり、観音を安置していた。徳川九代将軍家重の代、延享四年三月1747掛川御役所に提出した「遠州佐野郡上垂木村差出帳」には、「観音堂 壱ヶ所 貮間半貮間 かやぶき 但し堂守無御座候ニ付 先年御断申上 地蔵院地中へ引越申候」 大雲院の西を流れる川を垂木川とよび、その上流に桜木という池が山間にある。掛川駅より10㎞、此の池の辺りを知漣とよぶ。おそらくこの辺りにその寺か堂があったのだろう。
本寺の末寺に桜木の知漣寺があり観音が祀られていたが延享四年1747堂守がいなくなったため坂下の地蔵院に移転され、ここで230年間を経過した。この間に安永年間に本寺の大雲院が失火焼失し、関係書類もすべて焼失し知漣寺の盛況を物語るものはすべてなくなった。推定では知漣寺の最盛期は知漣の頃と坂下に移った百余年頃と思われる。昭和50年大雲院境内に観音堂を新築した。
鰯原の小丘の西側を切り取って940坪の広い境内が造られた。
 ・西国三十三観音:山門前、16体、17体、
・六地蔵堂:8地蔵+1、
・本堂
・観音堂
・1300年前の古寺:知漣寺の本尊:文殊菩薩:像は台座に座った座像:すべて瓦作り:水洗いや濡れ布巾で拭くと必ず白い粉を吹く。以来知恵の仏様。
・穴観音菩薩:境内右側石垣、御礼納めは穴あき石、
有住、駐車場有、tel:0537-26-0553

追加
・青面金剛:「右  道」:山門前参道沿い
・地蔵
・大弁財尊天
・稲荷神社
・馬頭観世音菩薩、
・イヌマキ:市指保存樹木、
・多羅葉タラヨウ、モチノキ科:説明:葉の裏を傷つけると黒くなり、文字が書ける。「葉書き」の語源である。8世紀、万葉時代から使われていた。その昔インドでお釈迦様のお経を書いた葉と云われている。大雲寺。
・ギョリュウバイ:檉栁梅:フトモモ科ギョリュウバイ属の常緑低木、桃色の花が美しいため栽培される。ニュージーランドとオーストラリア南東部原産。ギョリュウバイの名はギョリュウに似て葉が小さく、花が梅に似ることから。ギョリュウや梅とは無関係。針葉樹のネズに似るのでネズモドキの別名もある。マオリ語でマヌカとも言う。葉が茶や煎じ薬として利用されてきたことからtea treeともいうが、アロマテラピーで利用されている同名のハーブとは同じフトモモ科であるものの、別種である。そこでこれらを区別するため、ギョリュウバイはNew Zealand teatreeとも呼ばれる。(Wikipedia)
*「檉」テイ、チョウ(チャウ):かわやなぎ、御柳ギョリュウ、御柳科の落葉小喬木、針状で小さい葉が密生し、枝は糸のように下に垂れ、5,6月頃、また秋に淡紅色の房状の花を開く。「檉栁テイリュウ」(新漢和辞典:大修館)
境内に12月末だというのに、小さな可愛らしいピンクの花を咲かせている低木があるので珍しがっていたら、住職の奥さんが花の名前を教えてくれた。また住職は子供の頃、知漣寺跡の観音山に上ったことを話された。当時は礎石があったらしい。

~周辺~
・堂:公文給大菩薩:大雲院より南500m、鰯原、
・六所神社:大雲院より西500m、宮下、
・大日如来堂、大日如来石像、大雲院より北へ600m、東側、
   ’15 12/29


・経路
13番からの道のりの始めは下山込で8㎞。
JR掛川駅の北5㎞、掛川バスねむの木行、馬場下車
15番までは8㎞、徒歩120分。

~周辺の経路にて気になる石造物~
○滝の谷、法泉寺温泉、県道39掛川川根線
集落中心地のバス停前
・石碑:曹渓山法泉寺 昭和四年三月紀元節
・石仏:明治□年 施主中山伯
・石碑:白羽明神 明治壬申歳 九月大吉日 (馬の絵) 

○県道39掛川川根線、上西郷の滝の谷と美人ヶ谷の境辺り、バス停青石前、長間橋手前、長間と法泉寺の分岐、長間には法寿院、長間神社がある。不動明王でも祀っているのか?
・石道標:「□向□□明□王 □原泉□」「滝之谷青年團」
長間には農村総合整備事業(住環境整備)で「ふるさとピア」という遊歩道,広場、公園が整備されている。

○県道39掛川川根線、上記より400m南、山本橋や山本神社への分岐、
・石道標:「御成婚記念 右掛川 左滝之谷 向後石ケ谷五明石工 前倉真村近道」「大正十三年 美人ヶ谷青年」

○県道39掛川川根線、高萩橋手前、上記より300m南
・石道標:「□□□(御成婚?)記念 右滝之谷 向 原泉(里?五明)村 ?石工 後掛川 通」「大正十三年 美人ヶ谷」

○県道39掛川川根線、石畑、西郷小学校手前
・石道標:向テ 真{倉真 原泉}村 左五明ヲ経テ櫻(木) 後掛川町ニ通(ズ)


*昔の知漣寺、地蔵院(①桜木池の周辺、②坂下の地蔵院跡)    
疑問:①坂下以前の知漣寺は桜木池の周辺の元どこにあったのか? 
      知漣のどの辺りかは不明だが、裏山に白山神社と五輪塔破片がある。
   ②坂下の地蔵院に移ったというが、その坂下の場所はどこ? 
     これは地蔵院の跡地が分かっている。
③ その場所を通過する古道はどこ? 
大和田集落の正日地蔵から上りだし、今の大和田トンネル真上の峠越えで知漣に至る。知漣から坂下へも道がある。


・経路
大和田集落の日正地蔵:祠の裏の方の道から上りだすが、この先今のトンネルへ向かう自動車道や新東名高速工事で削られ消失した。しかし今の大和田トンネル出入り口に出てみる。トンネル手前の分岐点に看板や石道標がある。
・石道標:「勅語下賜三十年記(?紀)念 右大尾山ニ通ズ 左大和田ニ通ズ 原泉村青年團第一支部」 
そこの右上の細い道を上っていくと、無人家屋(大和田1001⁻2、かつて周辺は茶畑のようなので茶農家だったようだ)横を通過し、1か所えぐれているところがあり、丸木橋を渡る。更に上っていくと道幅は1mほど確保されていることが分かる。数か所山道が判然としない所もあるが、上へ上へと目指すと明るい峠らしきに到達する。徒歩5~10分。ここから先は美人ヶ谷林道で周辺がえぐられている。その右上2mの段に石仏がある。
・馬頭観音:刻字不明
・看板:桜木観光協会、掛川市:横倒し、おそらく1960年代頃のものだろう。歩いて観光するコースだったのか。桜木に通じているメインコースだった証拠だろう。
ここで峠から標高差50mを下りていき下の沢沿いの林道に行ける山道がかつてはあったのだろう。しかし今どう見ても山道らしきは発見できない。完全に消失したようだ。林道脇から下の沢目指し道ではない急斜面を這い下りていく。手袋や靴は泥、草の実だらけで、痛めていた左膝をまた痛めた。下りきり沢に出ると林道終点地がある。1.5㎞林道を南下していくと、きれいな一軒家と清潔で美しいねむの木美術館みどりの森がある。これまで草木まみれで野生のようだったのが、急に文明に触れたような気がした。
この美術館の裏手と美人ヶ谷林道は坂道で繋がっている。
~では一旦先ほどの峠の馬頭観音の所から話を戻す。観音前から南へ向かう尾根通しの道は現在、美人ヶ谷林道というが、昔は大和田街道と言ったようだ。多分大和田の正日地蔵前から美人ヶ谷や石ケ谷までを大和田街道というのだろう。
峠から林道を南に1.6㎞進むと、高電圧鉄塔のすぐ横を通過する。鉄塔の土台部分をコンクリートで固めるため直近の林道路面全体もコンクリ舗装にされている所がある。ここから南に100m進むと電線巡視路の黄色い標識(16,17)で登山道が右(西)に分岐していくのが分かる。道幅は約半間:3尺:90㎝ある。ここに昔馬頭観音があったようだが、存在しない。私のあて推量だが、美人ヶ谷林道を南に下りきった西向き地蔵上り口のある交差点に設置されている石道標「右原泉村ニ通ズ 左雨櫻村知漣ニ通ズ 石ケ谷青年團」は、かつてこの分岐点にあったのではないかと勝手に思っている。
初めは西への枝尾根に沿って平坦だが沢に沿って下りだすと、1か所道が崩落しているが、徒歩通過可能出し、いたるところに目印があり、迷うことはない。上り、下りとも徒歩10分で下の平地、ねむの木美術館みどりの森の手前の、これまた電線巡視路の黄色い標識の所に出る。ここから自動車道を知漣に向かえば、観音山;知漣寺跡に行ける。
桜木池方面へ500m進むと駐車場と神社、美術館どんぐりだ。
○熊野神社:
・木鳥居:今時珍しい、・秋葉灯 文政□巳年、・祠:地蔵、五輪塔破片2、・手洗石、
400m進むと桜木池に出る。知漣集落とねむの木学園の建物群だ。
・桜木池:ため池
・ねむの木村:創立者:女優:宮城まり子、97年浜岡町(御前崎市)より掛川市知漣に移転、肢体不自由児施設、身体障碍者施設、特別支援学校、3軒のこどもの店、喫茶店、美術館2つ、文学館、他に職員宿舎等もあり、一つの村のようだ。
・ねむの木こども美術館(どんぐり、ねむの木みどりの中)
・吉行淳之介文学館:宮城まり子の恋人、淳之介には別に正妻がいた、
知漣地区や掛川市はいかに障碍者と共生していくかが問われているのだろう。
・白山神社:・金属鳥居 平成26年、・手洗石:奉納嘉永、・五輪塔破片3、
・宮:祠:鳥居、五輪塔破片
これら五輪塔破片が知漣寺と関連があるか不明だが、古い墓石がかつてあったことは分かる。
かつての知漣寺の位置について、掛川市遊歩会の鈴木様よりコメントが届いていた。それによると、知漣の159m三角点所在地の観音山の山頂だとのこと。坂下の地蔵院の尾根を北上した地点でもあるそうだ。それは知漣と坂下を結ぶ2本の道路に挟まれた山である。山頂は平坦地で椎の大木の下に祠:石仏らしきがある。
また遠州33観音、4番の春林院が一時期、知漣の奥の山中にあったそうだ。山中には熊野神社があった所だ。山中地区の寺屋敷という所だそうだ。
*掛川市遊歩会の鈴木様、貴重なコメントをありがとうございました。とても感謝しています。
知漣寺跡は観音山△159mであるが、上り口は知漣から坂下へ向かう2本の道の内、西側道である。西側道へ入って50m上ると南の山斜面に上り口がある。12月末だったのでこんな標識があった。「←初日の出会(知漣寺跡地)観音山」 これはまた何というおあつらえ向きな趣向か。登山道は草刈りや道直しをしたばかりでロープまで張られていて、まったくもって迷う心配なく10分ほどで頂上だった。頂上には国土地理院四等三角点が鎮座していたが、大雲院住職が話していた礎石らしきや、頂いたコメントでの椎の木の根元の祠:石仏らしきといったものは皆無だった。頂上は草地だが草刈りされ掛川市街が一望できる展望抜群である。初日の出を見るにも絶好の場所だろう。’15 12/29

~蛇足だが、山中の寺屋敷の春林院跡地を見付けに行く。地元の古老に聞くと平島へ行く林道七窪線への標識通り曲がって進み、再度平島への標識があるので、それに従い進み、300~500mすると道の左側に昔は茶畑だったが今は植林された平地がある。そこが寺屋敷だそうだ。
桜木池から山中をめざし進むと、平島へ曲がる標識が見える。橋を渡り右折し林道七窪線を進む。600m進むと道がY字路で分かれる所に、左平島への標識がある。200m沢を右に見つつ進むと、左斜面がスロープ状平坦地と狭いが全くの平坦地の2か所(植林地)が続いている所がある。ここが寺屋敷:春林院跡地で間違いなさそうだ。植林地内の平坦地を見ても礎石等の痕跡は見当たらない。植林される前は茶畑だったので、開墾され切ってしまったとみられる。更に林道を進むと沢がすぐに左になり、400m進むと峠に達する。ここに地蔵が祀られている。そして道はまるで別世界のような2車線の舗装道路となり、新東名高速の高架下をくぐってすぐに平島の県道に出る。’15 12/29 
~ちなみに寺屋敷の右(東)に見えた沢の上の方の山を高盛山というらしく、その山頂や尾根上に曲輪を設けているのが高盛山城のようだ。山城の西麓にあるのが春林院といえる。城主は原氏の関係と推定される。

~話がまた戻って悪いが、大和田街道(林道美人ヶ谷線)の続きがある。先ほど電線巡視路でねむの木美術館みどりの中に通じる道を紹介した。今度は林道美人ヶ谷線から美術館に下りずに林道を通って南を目指す。それが大和田街道の本筋のようだ。林道は尾根のピークを外しつつなるべく平坦に道を付けているので、ピーク上に旧道(古道)切通しが時々残存している。100m南に進むと道は左右に分岐するが本道は左というか、それが尾根通し道であることは分かる。右の道は谷越えのようにしてこちらにつながっているからであるが、谷越えというより枝尾根から本尾根に接続している。この右の林道は上垂木坂下と上西郷石ケ谷の境界尾根を通っている。更に南に500m進む。それまで樹林帯の暗い道だったのが、茶畑の明るい道になる。ここに標識と石道標があり、道が直進と左折に分岐する。
・標識:大和田街道、石ケ谷辻
・石道標:「御成婚記(紀)念 向 右石ケ谷 左美人ヶ谷掛川日□ 後原泉村」「大正十三年 美人ヶ谷青(年)」
500m右石ケ谷へ直進する。山道から平坦な道になり住宅街に入った。ここに石道標がある。
・石道標:「右原泉村ニ通ズ 左雨櫻村知漣ニ通ズ 石ケ谷青年團」
 この石道標について先ほどの電線巡視路でねむの木美術館みどりの中に下りる分岐点に似つかわしいと書いたものである。数十年前この場所にこの石道標はなかったはずで、多分見間違いでなければ、大和田街道石ケ谷辻より200m北の一軒の建物がある辺りに置かれていた物のような気がする。かなり移転されている物ではなかろうか。この左は石ケ谷の奥で山越えすると坂下や知漣に行けるが、街道としてあったのか。
・奇形な巨石群:ちなみに石ケ谷の奥には兵藤庄右衛門「遠江古跡(蹟)図絵」でも取り上げられている奇形な巨石がある。この巨石があるから地名が石ケ谷だそうだ。
石道標のすぐ左(東)にも新しい石道標がある。
・石道標:西向地蔵尊道 
丘を50m上ると集落が一望できる尾根先端部に出る。地蔵堂がある。中には石仏が祀られているようだ。
地蔵堂の道は尾根先端部の尾根道で、先ほどの石ケ谷辻も尾根上だったので、昔は石ケ谷辻からこの地蔵堂前に古道はつながっていたのではなかろうか。
地蔵堂のさらに先端に神社がある。
・稲荷大明神:
ここから南へ300mで県道赤根金谷線に出られて15番をめざせるが、この稲荷から左折(東)して200m進むと、石ケ谷辻から下りてきた道と交差する所に石道標がある。
・石道標:上西郷美人ヶ谷3995⁻3:「御成婚記念 右滝之谷 左石ケ谷 後掛川 前原泉村 至ル」「大正十三年 美人ヶ谷青年」
さらに東へ50mで左に神社がある。
・山本神社:
更に100m東に行くと県道掛川川根線と交差する。変形した交差点で50m北の交差点向うに石道標がある。
○県道39掛川川根線、山本橋や山本神社への分岐、
・石道標:「御成婚記念 右掛川 左滝之谷 向後石ケ谷五明石工 前倉真村近道」「大正十三年 美人ヶ谷青年」
ここで右折(南)して五社神社方向へ行く。
○県道39掛川川根線、高萩橋手前、上記より300m南
・石道標:「□□□(御成婚?)記念 右滝之谷 向 原泉(里?五明)村 ?石工 後掛川 通」「大正十三年 美人ヶ谷」


・地蔵院跡
知漣から坂下の地蔵院跡を目指す。道は2方あるが、東回りが正規で古いコースだろう。まあどちらから行ってもさして変わらない。上垂木2584木下宅と2635番地:堀田宅の間の裏山というべきだろう。この附近に青山氏が立てた新道標:ここより青山荘へ1町が目印で、ここから裏山を上る。すぐに墓石のある日当たりの良い尾根に出る。墓石が少しある。これが地蔵院跡地である。この尾根は草木一杯で歩けそうもないが尾根を北上すると先の知漣寺跡地の観音山山頂△159mに出るようだ。
・墓石:なかには明治36年や大正13年「福寿院」等の墓石がある。’15 12/26 


~ここから15番へ行く。
東の五明への道を通る。グニャグニャと曲がりくねる茶畑の間を通る道である。県道赤根金谷線を進む。
・小高神社:
・祠:、
県道赤根金谷線を進む。五明から石ケ谷に出ると右(南)が平坦地の構江地区で開ける。平野部の中、倉真川のすぐ横に小高い丘が見える。この丘は古墳、砦跡、寺院跡である。歴史好きが泣いて喜びそうな場所である。
丘の南東部、倉真川沿いに広場があり出入口だ。説明版や附近案内図もあり歴史散策がたっぷりできる。附属地図でもここを通過するルートが記入されているように、かつての古道のようだ。
倉真川対岸の構江地区にも遺跡はあり、それらも含めて一括提示する。

○平塚山:上西郷2369:
・平塚古墳:江戸期後期の「掛川誌稿」に古鏡が掘り出されることを記している。現在の調査結果から円墳ではなく方墳の可能性が示唆されている。横穴式石室で6世紀後期築造とされる。地域有力な家族墓と考えられる。頂上付近には扁平な巨石の横穴式石室が見られる。1500年ほど前に倉真川流域に勢力を持っていた、豪族の首長の墓が1956年発掘された。墓は横穴式円墳で、直径約30m、高さ約5m、羨道と玄室の石組が現存している。出土品は直刀2、小刀2、鉾1、勾玉首飾、土師器、須恵器等の遺物がある。
・平塚砦跡:かつては西郷氏館跡とも推定されたようだが砦ということらしい。
・碧岳山観音寺跡地:説明版:廃・碧岳山観音寺、曹洞宗法泉寺末、本尊:聖観世音菩薩、本尊聖観音は行基作と云われ、開創は南北朝時代、天台宗の寺院として一寧一山国師によって開創された。永正十五年、法泉寺三世宗建和尚が中興の祖として、曹洞宗に改宗したが、昭和四十年頃廃寺となった。石ケ谷氏、西郷氏の菩提寺である。境内には徳川二代将軍秀忠の祖父母の墓、一寧一山国師の多宝塔がある。また遠江三十三番札所にもなっている。*(遠江三十三番札所ということの真偽経緯については検討が必要である。)
遠江國佐野郡上西郷村碧岳山観音寺。一、市山国師開基の地年代深遠歟中頃より、曹洞宗通幻派下盛庵和尚中興にて、百五拾余年に罷り成り候事。一、観音は行基の作、遠江三拾三番の札所にて諸国より札を納むる者数多御座候これに依り、昔は大分に観音領付け来り候へ共、信玄発向の砌り度々軍場に罷り成り、古証文を焼失仕り、只今四石御座候事。一、西郷殿御先祖の菩提所にて、台徳院様、御□様、御親父□塚五郎大夫殿、御位牌石塔今にこれあり、兼て石谷十蔵殿先祖の菩提所これにより十蔵殿委状下され候。一、寺内拾町余、此の内山林竹木莫大に御座候事。一、観音堂六間四面、寺作六間九間、庫裏五間七間、惣門これある事。右の通り少しも偽り無く御座候。もし偽り御座候ば曲事仰せ付けらる可く候。何様にも今度御朱印頂戴仕り候様に、仰ぎ奉り候。慶安貮年丑六月三日 観音寺 順太 寺社奉行所 
・一寧一山国師の多宝塔:中国より日本に渡来した元の禅僧で、鎌倉建長寺、京都南禅寺の住職をした人、後宇多上皇により、鎌倉より京都に招かれ、禅宗の中心となった高僧である。師はまた文化人で、儒学・朱子学・小説・書道の門弟を沢山養成した。次にある夢窓国師もその中の一人であった。この廃・観音寺の開基として、門弟の夢窓国師と村櫛の斉藤越前守の奥方が、一寧一山国師の三十三回忌に当り、供養された多宝塔と云われている。
・斎宮祠(イツキ様):この西郷斎宮という小祠については、里の人々は、昔西郷の局の居宅跡と伝えている。また昭和の初めまで里人に祟りをするのは、「近頃祭祀を怠っていたためだ。」と風説がとんでいた。確かなことは不明だが、古記録や文献によると、伊勢神宮つまり、神明宮の斎宮の系統とは思われず、加茂神社の連関の祭祀者か、あるいは西郷氏の屋敷神、または西郷氏に連なる人の称号が残り、いつしか斎神と云われるようになったのではないかと思われる。
この斎宮様は地域の人々の口伝や掛川誌稿その他の文献により、「西郷斎宮故宅」の屋敷跡にあった屋敷神である。戸塚五郎大夫忠春の娘として生まれたお愛の方は徳川家康に召されて側室となった。天正7年4月7日家康の第3子の長丸君(秀忠)を産むと、西郷の局となり、その頃に戴いた屋敷と云われる。斎宮様をなぜ祀ったかは分からないが、色々の文献には西郷斎宮故宅と書かれている。当屋敷は殿屋敷とも構えとも呼ばれ、周辺には圖書屋敷、東門、三日月堀等の古地名が残っている。不思議なことに昔から葬列はこの前を通ると祟りがあり災難があると怖れられて、現在に至るも葬儀は前を通らない。これは西郷屋敷や斎宮が土地の人々から尊敬され、不浄なものは避けて通った名残と思われる。この習慣は現在においても受け継がれ、なお毎月6日には月祀りの御念仏が、また9月23日には年祀りとして読経供養が区民により執り行われている。附近には若宮様、八幡様の宮跡が点在している。
・石ケ谷氏と九曜紋、および霊栄大明神:石ケ谷氏は遠祖を藤原氏とし、維遠の時、二階堂氏、行清の時に西郷氏、政清の時に石ケ谷氏と改姓した。二階堂行清は西郷で生まれ、西郷氏と改め、西郷の郷士18氏の長として今川氏に仕えた。政清は子の政信・清定と共に、永禄十一1568年初めて徳川家康に仕えた。戸塚五郎大夫忠春は、この郷士の中の一人であった。戸塚忠春の娘、於愛(西郷局・宝台院)が、のちに家康の子二代将軍秀忠を生み、駿河で没すると、後に宝台院として祀られるに至った。西郷政清は徳川家をはばかって、住居地石ケ谷の地名を取り、初めて石ケ谷氏が誕生したのである。また土地に奇石があり、九個あったことから家紋を九曜星とした。土地の人々はこれを呼んで「名字石」と言い伝えた。そして石ケ谷氏の一族は家康の配下となって三河に移り、さらに家康が江戸に入府すると共に、政清の子は多摩郡(狛江市)において、政清は200石、清定は250石を賜った。現在構江の中島にある霊栄大明神を祭祀する石田家は、石ケ谷氏一族の末裔か一党の一員であり、石田正人家には、石ケ谷系図が保存されている。
・石ケ谷氏の著名な業績:清定の長男清年は文禄元1592年豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、家康に従い熊本の名護城に出陣その地で死去する。清定の三男石ケ谷十蔵貞清は独立して大阪の陣・島原の乱に従軍し、上総(東京)・相模(神奈川県)・甲斐(山梨県)等に知行1500石を賜った。慶安四年6月江戸町奉行に着任、大坂の陣で失業した浪人(失業武士)対策に苦難をなめた。その時あった事件が「慶安の変」と云われる由井正雪と丸橋中弥の陰謀事件であった。
・西郷の局(於愛の方・宝台院)生誕の地:徳川二位代将軍秀忠公の御生母で、実父は遠州掛川在、戸塚に住した郷士、戸塚五郎太夫(この説明書きには太夫に点がついているが,他の物では点のないものがあり、どちらが正しいのか、あるいは両方とも通用していたのか、不明)忠春、実母は三河五本松城主、西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁いだ。天文23年戸塚五郎太夫忠春は大森の戦で戦死した。その後於愛の母はやむをえず於愛を連れて、服部平太夫正尚に再嫁したが、於愛もまた外祖父、西郷正勝の嫡男、西郷義勝に嫁ぎ二児をもうけた。しかし元亀2年3月4日夫の義勝が竹広の戦で戦死したので伯父西郷清員キヨカズの養女となった。その後浜松城に出仕して家康の目にとまり側室となる。家康と西郷の局の子は、二代将軍秀忠公 天正7年4月4日生、尾張藩主忠吉公 天正8年9月7日生、天正17年5月19日西郷の局38歳にて駿府城内で病死する。法名:宝台院殿松誉貞樹大姉、駿府龍泉寺に葬られる。秀忠公二代将軍になると勅許を得て、従一位一品大夫人を送る。龍泉寺、西郷局の法名を取り、寺名を宝台院と改め、300石の寺領を与えられる。
西郷の局は幼名をお愛と言い、父の戸塚五郎太夫忠春、母おさい(おさだ)の娘として構江屋敷に生まれた。当地は構江段と言い、斎宮を中心に北西に弓矢八幡宮、南東に若宮八幡宮を祀っている。土塁・堀を巡らせ東門、三日月堀、殿屋敷と伝えられる。戸塚五郎太夫忠春は今川氏に仕えた西郷18士の一人で、構江に住んだ人だ。天文23年忠春は大森の戦で討死し、おさいは服部平太夫と再婚して殿屋敷に住んだ。
秀忠は浜松城下で生まれ、産湯の井が遠州鉄道の第一通り駅か遠州病院前駅付近にあったと思う。西郷の局の墓(供養塔?)は静岡市葵区宝台院にあるが、東京にもあると思う。天竜寺か芝僧上寺かと思う。
・戸塚五郎太夫忠春五輪塔:徳川二代将軍秀忠の生母、於愛の方(西郷局・宝台院)の実父。もと西郷の戸塚に住したが、後に館を構江に移した。この地方の豪族で足利義晴に仕えていたが、大森の戦で戦死した。戸塚五郎太夫に関する記録は少ないが、しかし五郎太夫の先妻の子が二人あり、兄を四郎左衛門忠家と言い、初めは今川家につかえていたが、後に家康の旗本になり武州忍城の城代となる。その子作右衛門忠光の時、1500石に加増され、子孫は代々家督を継いでいる。また弟は仏門に入り、心翁と称し、西郷法泉寺の七世住職、後に江戸天竜寺中興開山となる。また後妻との間にできた於愛は家康の側室となり、死後に従一位一品大夫人を贈られた。天龍寺にある位牌。江戸天竜寺開基、戸塚五郎大夫忠春、法名西月友船大禅定門、同 開基西郷の局、法名宝台院殿一品大夫人松誉貞樹大姉、同 開山春屋宗能大和尚 法名春屋上宗下能老和尚大禅師
・西郷の局の従姉妹イトコ 於国の墓と文書:於国は忠春の妹の子で、若い頃は紀州公の乳母として仕えた。晩年は故郷西郷村の構江に帰り、戦死した忠春の故宅、西郷屋敷の留守番をしていた。寛永16年1639から正保2年1645までの於国の文書が戸塚家に3通残っている。この文書によって、西郷の局・戸塚五郎太夫忠春、その妹の子於国の関係が証明できる。また戸塚家(西郷家)に対し、氏神として五社大明神・弓箭ユミヤ八幡宮の両神社、位牌所としては曹渓山法泉寺であることが文書によって理解される。
(於国の文書)先祖覚一通 寛永16年1639、覚一通 寛永17年1640、一通 正保2年1645、
地方史研究会有志及び構江の有志をもってこの遺跡案内・同絵図を建立する。昭和63年10月 共賛 地方史研究会 郷土史研究会 構江老人会 建立発起人 石田広太郎 記載責任者 増田忠美 平成22年11月 修復 平塚古墳保存会 
・図書・図書下の地名あり:服部平太夫正尚の弟、青山図書介は一万石を賜り、江戸詰めとなり幕府の要職についた。青山図書介の若い時の屋敷跡とみられる
法泉寺七世心翁永伝和尚は忠春の次男で徳川家康が江戸城鎮護の裏鬼門に10万石の格式を与えられ、西郷の局、父忠春を中興の開基として、牛込に法泉寺を開き、後、天龍寺と改名され現存している。お愛が浜松城に家康の側室として出仕した頃、五社大明神を城内に祀りたいと申し出て、許されて五社様を分神することになり、当日真夜、たいまつの灯が町まで連なったと、古老たちの間に語り継がれる。
○観音寺跡地:構江遊園地:
・旧観音寺石塔:掛川市指定文化財:貞和二(示へんに異:ねん年の代わり)の銘がある
所在地:上西郷2393、所有者:法泉寺、この石塔は宝篋印塔の相輪ソウリン・屋蓋オクガイと、五輪塔の水輪スイリン・地輪チリンを組み合わせたものだ。相輪の高さ41㎝、屋蓋の幅62.5㎝、高さ36.5㎝、水輪の径31.5㎝、高さ23㎝、地輪の幅37㎝、高さ30㎝、地輪に刻まれた銘文には、貞和二年1346の年号があり、年号が刻まれた石塔としては市内最古で歴史的資料価値が高い。、また屋蓋の形から14世紀初め頃のものと思われ、掛川市の中世史研究の上で欠かせない貴重な文化財。
銘文:願瞻祀斯塔者 永消滅於罪垢 乃至法界含生 同圓種智者也 以口歳在丙戌 貞和二(示異)朱□[明?] 壬戌 菩薩戒 尼明心
願わくば斯の塔を瞻祀センシするは 永く罪垢ザイクを消滅し ないし法界の含生ガンセイも 同じく種智シュチをえんずる者であることを □歳は丙戌ヒノエイヌに在る 貞和二年 壬戌ミズノエイヌを以て 菩薩戒 尼明心 

・比丘尼石、・観音寺碑、・庚申堂跡地、観音寺地蔵、・石ケ谷氏墓、・一寧一山国師供養塔、・於国の墓、・戸塚五郎太夫の五輪塔と墓、・下馬の地蔵、
・平塚地蔵:
・祠:庚申、この地区では庚申講が復活して活動中だそうだ。とても珍しいことだ。
・耳地蔵:お果たしは穴あきの石、
・十王石像7:元農協JA西郷支所の西裏、旧原泉街道沿いにあった佐藤栄太郎(南様)さんが造立したもので、西郷派出所の裏には今でも「十王前」の地名が残り、掛川市にはこの七体の十王像しか残っていないようだ。十王様は平安末期中国より日本に伝わり、鎌倉時代に大流行した道教の思想が入った仏教の教えだ。人は死ぬと十王の前で裁かれて善行を行った者は極楽へ、罪深いものは地獄へ落ちると云われる。十王は閻魔大王を初めとして泰広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王の十像だ。

以下は遺跡案内図記載の物だが、現状見つけられないものが多い。ただ記載してあることで、跡地であることは分かりやすい。よくこれだけの遺跡案内図を掲示できたものだ。すばらしいことだ。
・平等寺跡地、・三左衛門屋敷、・郷倉跡地、・五本松、・左衛門屋敷跡、・金山様、・如来堂、・弓箭ユミヤ八幡宮祠、・於国の家、・斎宮イツキ、・庚申堂、・図書屋敷跡、・中島学校、・医者屋敷跡、・若宮様跡、・中島の平八屋敷、・石ケ谷氏霊栄大明神、・万四郎屋敷跡地、・雲古庵跡地、・西郷氏殿屋敷跡:、・一の鳥居、・三日月堀、・乾いぬい渕、・比丘尼河原、
・一号墳~八号墳跡はほとんどわからない:1961年発掘、五号塚の下より素焼きのとっくりと杯があった出陣式との言い伝えがある。土地改良で取り壊し。
・旧原泉街道

○県道39掛川川根線、石畑、西郷小学校手前
・石道標:向テ 真{倉真 原泉}村 左五明ヲ経テ櫻(木) 後掛川町ニ通(ズ)

石畑の交差点に出る。ここから東の倉真と初馬の境界線になっている低い山を越えることになる。いくつかのルートが考えられる。①境界線山を北側から上っていく。②境界線尾根をたどる。③尾根の南に取り付き次第に尾根にはまっていく。
① 五社神社の北側を直進(東)していく。
・五社神社:
山裾をめぐる方が古道:アカミチ、アカセンミチに近いかもしれない。
・牛岡神社
倉真一区牛丸422岡田宅で右折する。神社を目指す。
・報徳神社:・薪を背負った二宮尊徳像、・手洗石:コンクリ、・蔵:コンクリ、・石鳥居:平成七年、・献灯2:昭和四十一年、・狛犬2、・石碑、・板碑3:「岡田無息軒碑 明治二十三年」、「大正七年」、報徳神社の本殿はコンクリ製で古めかしい神社の屋根みたいな形だ。
・星ヶ丘神社:「神石之銘 明治六年出現~~~」
☆疑問:神石は明治6年出現したそうで、神社名が星ヶ丘という現代風な名前は珍しいだろうし、考えると、それって隕石ですか?と言いたいのですが、近所の方は知らないようです。
当神社は文部大臣や報徳運動推進者として知られた岡田一族の屋敷だったそうだ。周辺住宅の多くは岡田姓だ。
・岡田佐平次(祖父)、良一郎(父)、良平(兄):文部大臣、一木喜徳郎(弟):天皇機関説の美濃部達吉の師、
② 五社神社や西郷幼稚園、西郷小学校の東側の裏山の尾根には道がある。五社神社側からも上れるようだが、小学校南側から山に取り付ける。子供の森展望台の標識がある。尾根に上がると子供用の遊び場になっている。尾根を東に進める道がある。途中五社神社へ左分岐するが、東に進む。岡田山方向となっている。岡田一族の裏山だから岡田山なのか。南の下池から北の牛岡神社へ抜ける農道が尾根を分断する所で一旦終わり。おそらくかつては尾根通しをずっと東に歩けたことでしょう。
この尾根道は古道かもしれない。標識等は2011年、西郷小学校4年生が取り付けたもののようだ。
③ 子供の森の南裾から下池を通過していけるがこれまた牧場で行き止まりで、結局先ほどの牛岡神社へ抜けていく道へ進むしかない。まあ昔はここから尾根を進めたのでしょう。

まあなんだかんだで結局①コースを取ることになり、牛岡神社から報徳神社に行くことになる。
報徳神社で道なりに東南方向へ進むようにする。途中いろいろな岡田家の墓地を通り倉真と初馬の境界線の道(東西に延びる山の尾根)を通過する。途中で公共基準点なんてものを通過する。
・公共基準点:
少なくとも私有地ではなさそうだ。ということは昔のアカミチ、アカセンミチでしょうか。その後、踏み跡はあるし、切通しが残っているし、植生が違う(倉真側は樹木がなく雑草と笹だらけ、初馬側は樹木)ので、その境目を横目に見つつ歩きやすい所を通過する。熊笹や雑草、枝葉をかいくぐって進む。既に人が通れる道ではない。境界線が南下する所で確かに切通しも南下していく。高電圧鉄塔があり、下に梅の谷池が見える所に出る。そのまま枝尾根を直進すると茶畑と岩井ミチ宅:初馬長老塚1406の境のコンクリ壁の横に石塔がある。
・石塔:「奉納経 四國西國当國供養塔 □□七寅二月」
江戸時代後期で寅年の七年を探すと、①1854安政元年で嘉永六年の翌年、年度途中で元号の改元はありえるので嘉永七年かも、②1770明和七年、③1722享保七年、④1710宝永七年の以上がある。そのこと以上に重要と思えることはここがやっぱり巡礼道だろうということです。当国奉納経は遠江三十三所観音霊場を廻ったという意味でしょう。それがこんな茶畑の山にあるのは変なので、ここが道だった証拠でしょう。ただこういう物がある所は交差点になりやすいので、もうちょっと上の方の分岐点になる所から移転したのかなと思う。
尚ここから下の長老塚を通過して平野に出て今の道に出ることにしますが、昔はこの山斜面途中から下の平野に出ないで、中腹を歩ける道があったと推定します。次の15番:文殊寺は中腹にあり、中腹のまま歩けると近道で楽です。おそらく池の北の若宮権現付近を突っ切り、殿谷の新興住宅団地を通って文殊寺に行くと最短かつ上り下りなしです。
一応今の道の長老塚の道路を下る。ただしこの道は汚すぎて車で入るべからずです。Uターン不能で道幅はギリギリです。
・長老塚:昭和四十九年、
☆疑問:長老塚の碑文は昭和49年ですが、いつ頃から祀られているのでしょうか?
長老塚を下って、広い道に出たら左折(東)へ400m進むと橋がある。寺山橋で左折し北へ向かう。200m進むと左右に分岐する。右に15番:文殊寺が見える。


~周辺紹介~
・石ケ谷城趾:
・美人ヶ谷城址:30年ほど前に上ったとき、堀切や平坦な曲輪がみられた。
・お不動様:
・二階堂観音:

~大和田の峠への林道美人ケ谷線~
大和田の峠、馬頭観音前の林道は林道美人ヶ谷線といって、美人ヶ谷や石ケ谷から上って行ける。

~孕石、丹間~大和田トンネル
丹間から大和田トンネルを目指すのは新道のようだ。途中に祠がある。
・祠:山之神日本坊大権現 昭和61年10月吉日、・丸石:自然石、


・第十五番 五台山 文殊寺内浄円寺(掛川市初馬2855、はつま)ごだいざんもんじゅじないじょうえんじ  
 創建:長徳年間995~99、開基:如雲闇公、本尊:十一面観世音菩薩:木造乾漆座像24㎝高さ36.6㎝厨子に入っている伝恵心僧都あるいは行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣昭和61年、縁起:
当寺は昔、初馬の六万法にあった近隣随一の大寺院だったが天文年間に兵火消失。
浄円寺観音堂は宇治山に元禄初年1688頃建立し朝日山常(浄)円寺とよんだ。堂宇が荒廃したので天明年中文殊寺七世宗鑑は十一面観音を善導に仮安置した。弘化二年1845大提が発願し寄付を募り堂を新築、
文殊寺は伊達方の慶雲寺の末、
・山門、石段、本堂、観音堂:扁額「圓画」、御詠歌:大正二年秋奉納横須賀念仏講中遠江順礼十五番札所、三十三観音、往時の規模を思わせる。堂の左側に大正六年十一月山崎夫妻の造立した四国八十八か所の内、七十七・七十八(三界萬霊:地蔵2?)がある。
・庚申堂:庚申塔、
・参道第十五番札所:標柱、
順礼札も用意してある。
~追加
・石塔:□火王□発宝暦□月 同空姓閏□□ 為
・地蔵、・地蔵2、・地蔵5、・如来、
・宝篋印塔:高2mで見ごたえ十分、
☆疑問:かつて大寺院があったという初馬の六万法とはどこか?
有住、駐車場有、Tel:0537-22-6922
 ’15 12/29


・経路
14番からはみちのりがあるが、次からは札所間の距離は近く21番まで飛び石伝い。
JR掛川駅から掛川バス粟本線青田行殿道下車、徒歩5分。
16番まで1㎞、徒歩15分。
参道入口から南へ200mで寺山橋へ出る。直進200mで狭い道になり上り坂となるが、左カーブを道なりに進むと、広い道に出る。右折(西)しなおも上っていくと左上に寺が見える。下りだすと寺の参道や駐車場が見える。


・第十六番 龍洞山 真昌寺(掛川市水垂1230、みずたり)りゅうとうざんしんしょうじ  
 創建:寛永3年16264月・観音堂は室町時代、開基:永江院九世、本尊:馬頭観世音菩薩(城山観音):木造寄木座像80㎝伝行基作‣掛川城主山内一豊の護持仏で一豊が高知天封後は近くの高森山西麓に安置されていた、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣次回2031年・最初の開帳は徳川四代将軍家綱の明暦元年九月1655で住職は15日から24日まで10日間開扉、続いて貞享戌辰五年秋1688、17日から28日まで住職全龍の代に12日間開扉、3回目は享保四年八月1719住職周山の時11日から20日まで10日間開扉、4回目は寛延四年九月1751住職禅笛の代に8日から17日まで10日間開扉、その次は天明三年1783だったが大飢饉で無期延期、以上のことが厨子の扉に墨書きされている。縁起:
真昌寺は水垂小字別所にある。掛川四飛鳥の曹洞宗永江院の末寺である。
33所唯一の馬頭観音。河合一族の水垂城に武運、領民守護を祈念して馬頭観音を祀った。応仁の乱1467~77の余波と今川氏西侵により明応五年1496落城。堂宇焼失。寛永三年開創し観音堂は再建。天明七年1787伽藍消失、安政地震1854観音堂倒壊、萬延元年1860再建、明治32年2月堂宇焼失。観音を高森山から寺に移した、新堂建設。平成七年1995本堂改築時、室町期観音堂礎石出土、平成九年観音堂改築、水垂高森聖観音:掛川城主山内一豊の護持仏合祀。
「遠州佐野郡水垂村差出帳控」延享四年三月1747 
一、 寺 壱ヶ寺 曹洞宗龍洞山真昌寺 平僧
     外 
   寺中に観音堂長貮間半 横貮間 但遠江十六番札所ニテ御座候
   (注、この寺中は高森山のことだろう)
*小野田住職:「遠江33所観音霊場は永正年代の約450年頃、掛川城主朝比奈氏や高天神城主小笠原氏によって設置されたという私見である。」
・観音堂:入ってすぐ左、もと観音堂は旧高森山西麓にあったが明治32年火災消失、本尊無事で現在地に建立安置。観音堂の厨子の扉の裏:33年毎の開扉年月墨書:明暦元年1655九月、貞享五年、享保四年、寛延四年、
・白山堂:白山妙理大権現像、弘法大師像2体:大正八年五月 山崎夫妻建立四国十九・二十番、帝釈青面金剛童子:庚申石像:文化十年1813、観音座像、
・大梵鐘:平成8年
・鐘:天保八丁酉年八月1837、下垂木村山崎弥五兵衛 寄進、弥五兵衛は三十三所にそれぞれ寄進したようだ。
有住、駐車場有、Tel:0537-22-3931
~追加
・手洗石、・新:筆塚、・新:交通安全地蔵、・新:水子子育地蔵、・新:六地蔵、・地蔵、・三界萬霊:地蔵2、・観音堂礎石、

☆疑問:明治32年以前にお堂のあった高盛山西麓とはどこか?
 住職(多分上記小野田住職の息子さんと思われる)に尋ねたが観音堂はもともとここにあったといわれ、高森山という地名は知らないようだ。水垂観音堂も合わせて合祀しているといわれた。’15 12/30
’16 3/13 水垂1249:松本氏より水垂1184:岡田鉄男氏を紹介してもらい話を聞けた。かつて観音堂があったのは、真昌寺より南西に1.3㎞の水垂544杉森氏宅裏の忠魂碑があった場所で老人ホームのききょう荘の近くだが、今は何もなく雑草だらけだろうとのこと。その横に山があるが高森山というかどうかは知らないとのこと。
聖観音をそこから今の真昌寺に移した。馬頭観音はもともと真昌寺にあったものだそうだ。
*松本様、岡田様、感謝いたします。
水垂544:杉森氏宅は無住で無農薬野菜無人直販所、治初屋ジジヤ農園駐車場となっている。横は地域のごみ集積所でもある。裏には薄気味悪いが雑草と倒木だらけの平地があり、ここが観音堂跡地だろう。忠魂碑はなく、荒れ地である。裏山があり、きっとこれが高森山だろう。山の裏側に老人ホームききょう荘がある。昭和40~50年代の国土地理院の2万5千分の1地形図にはこの辺りに寺院のマークの卍が記入されていた。
明治32年まで、この位置に観音堂があったとなると、古い巡礼道の見直しが必要である。
~15番文殊寺から水垂544の観音堂への推定ルート~
文殊寺から南に300mで寺山橋に至る。ここまでは真昌寺へのルートと同じであるが、ここから14番へのルートである長老塚前を通過する。長老塚から300m西進して左折(南)する。150mで神社とお堂がある。
・堂:青面金剛、
○波津麻神社:・石鳥居:明治三十年、・手洗石2:、・献燈2:明治三十九年、・板碑、・さざれ石2、・石柱2、
200m南進すると交差点になる。ルートはここも直進で通過するが、西150mに薬師堂がある。
・薬師堂:・献燈:天明四、・秋葉山常夜燈:、・地蔵堂:地蔵5卵形墓石、・手洗石、・手洗石:大正十五年、
交差点を直進通過し丘を越え350m進むと左(東)に神社がある。
○天神社:説明版:掛川市水垂978番地、祭神:天満大神(菅原道真公)、例祭日:10月9日、由緒:当社は天満宮とも称し、創立は宝永五1708年京都の北野天満宮より勧請奉斎の旨の棟札があり、その後、寛政元年社殿改築、文化三年屋根替、大正五年拝殿建立、昭和23年本殿改築等の記録が残る。水垂上区が氏子区域だったものを現在水垂地区全体の氏神として八幡神社とともに崇敬されている。
・石柱2:昭和十一年、・石鳥居:明治十八年、・手洗石:コンクリ、
100m南進すると交差点で、右の狭い道が旧道であり、こちらに入る。300m南西進すると右に神社がある。さきほどの説明版で出てきた八幡神社だ。
○八幡神社:説明版:掛川市水垂815番地、祭神:誉田別命ほんだわけみこと(応神天皇)、須佐乃男尊すさのうのみこと、例祭日:10月10日、由緒:創立慶長八1603年伝、「神田中に天王八幡宮あり」との古記録あり、昔より祭神が2神であった。応神天皇は第15代で、須佐乃男尊は「やまたのおろち」神話で有名な文武の神である。創立当時は数十戸だった氏子数も300以上となったので、昭和63年本殿幣殿拝殿を建築起工し、10月に遷座祭をした。
・危難除けの大石:説明版:明和五年神社再建の土地馴らしで境内一隅より出土、形が粟が岳に似る。明和六年掛川城主太田備中守に献上のため村人数十人にて木造車を造り運搬途中、村境の御所原に至るににわかに車が破砕して人夫多数傷を負う。翌年村内に悪疫流行し、石が深夜に異音を発したるにより、村人一同、石の祟り也とさっそく献上を取り下げ、神社境内に運び戻し、危難除けの神石として八幡神社とともに祭祀厳修している。
・祠:社護神、・祠:庚申様、・祠:道陸神、・狛犬2:昭和六十三年、・秋葉山常夜燈の木造瓦:なかみなし、・手洗石、・献燈2:昭和五十九年、石鳥居:明治廿八年、・板碑:、・石碑:八幡神社、・石碑2:大正二年、
神社から300m南西進するとかつての観音堂跡地に至る。

~水垂544の観音堂跡地から17番天養院への推定ルート~
推定ルートは2つ考えられる。現在の葛ヶ丘住宅団地を通過しすぐ東に向かい、山古神社に北側から接続するルート、少し遠回りだが葛ヶ丘を抜けてしばらく南下し宮脇の丘陵地の南を東に向かうルートである。現在丘陵地だった所は新興住宅地で全く昔の山道はないが、それに近い所を現在の道も通過していることは明治20年代の地図で確かめられる。葛ヶ丘の山越えは標高差30mほどでたいしたものではない。
1、 観音堂跡地から東の川を橋で渡り丘陵上の葛ヶ丘住宅団地を抜けていく。丘の中心部で一旦南進し平地へ出て東に向かうと、山古神社に至る。途中古い遺物類は見られない。
2、 葛ヶ丘を抜けるまでは同一だが、すぐ東に向きを変えず暫く250m南下する。そこから山を巻くように東に向きを変える。すぐ脇を用水路が通り、直進道路で現代の道であり、古い遺物類は全く見られない。山古神社に至る。神社から天養院は国1バイパス高架下ガードをくぐればすぐ見える。’16 3/13


・経路
 15番からは道路一つ隔てた約1㎞。参道入口に新道標。
JR掛川駅から掛川バス青田行中村入口下車、徒歩10分。
17番へは1.5㎞、徒歩20分。
参道入口から500m南進し、左折(東)し道なりに直進すると、上り坂を過ぎ下りきると安養寺運動公園前のT字路に出る。この交差点の左後上に地名になっている安養寺(無住、堂一つと祠だけ)と白山神社がある。寂しげな廃寺の雰囲気がいい。車では狭くて入れないかも。
・安養寺:堂、・石仏4、・祠:観音、
・白山神社:拝殿、・石鳥居、・新:秋葉常夜灯、
この交差点で右折(南)し500mで山裾を左回りしたところで神社がある。
・山古神社:・石鳥居、・秋葉永代常夜灯 文政五壬□九月吉日、・秋葉永代常夜灯 平成二十七年、
この場所での常夜燈は風情があり、通行人の目印となったであろう。そのためか新たに作られたばかりの常夜燈の火袋には電球が入っていた。この先でバイパス高架下をくぐり、100mで左丘上に寺が見える。


・第十七番 日林山 天養院(掛川市宮脇4⁻3、みやわき)にちりんざんてんよういん  
 創建:慶長年間1596頃、開基:龍雲四世詳山麟和尚、本尊:聖観世音菩薩(木造座像25㎝伝弘法大師作、伝慶長年間)、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎‣この間16~17年に中間扉・昭和29年秋3日間開扉・昭和61年4月開帳・平成10年中間扉・次回2019年、縁起:
龍雲寺の末で、四世祥山隣和尚が西田の寺家ジケの近くの観音堂を郷倉附近に移した。この頃遠江33所に選ばれていた天養院を現在地に移したのは蘭山寒秀和尚で、時は寛文年中1661~72といわれる。今寺家の辺りを上蓮寺という。
桐田榮氏私見:天養院は慶長から現在地に移るまでの60余年間、上蓮寺とよばれた可能性がある。          
明治六年廃寺、本尊は城東郡西方村(菊川市)の龍雲寺に移された。昭和初期宮脇地区に疫病蔓延、本尊を天養院へ迎えた途端、一切の悪疫が退散した。
「遠州佐野郡宮脇村差出帳控」に「禅宗天養院 宮脇村地内 是は年貢地 江戸方より右側 往還より三丁330m引き込んだ所にある。」

天養院念仏講中が活動している。
・観音堂:昭和61年開帳、村人記録:榛葉照一:遠江33所33回巡拝、西國坂東秩父の百観音巡り3回、四国88所6回、西國1000㎞、板東1300㎞、秩父100㎞、新築前の元の観音堂の鬼瓦、堂内に額:横須賀念仏講中十七番御詠歌 
堂の後に石仏石塔が集めてある。
・地蔵:干時延宝二甲寅キノエトラ1674八月十五日示寂 当庵二世中興蘭山寒秀和尚増崇霊位
・上記地蔵と同じ高さの地蔵、
・墓石:請叟秀益和尚:天養院三世か?
・堂の瓦:「○」の中に「三」印、
・古い地蔵堂:延命地蔵:境内入口左横:享保八年宮脇村…:蓮華台座、
無住、駐車可、Tel:0537-23-1027 中村さんとなっているが、天養院参道入口の清水さん宅で御朱印をもらった。’15 12/30


・経路
 JR掛川駅から4㎞、徒歩50分。掛川バス東山線東山行成滝東下車、徒歩5分。
民家の横の細い山道を登っていくと、鮮やかな朱色の観音堂が目前に忽然と現れたように建っている。 
18番へは南へ国道をまたいだ1.5㎞、徒歩20分。
南へ3丁:300mで現在の国道1号線(現国1)へ出られるが、旧東海道はそれより1本南の道路というか、50m左折(東)で旧東海道が現国1に合流する。そこに祠がある。
・祠:馬頭観音
・現代:東海道標識
現国1を東へ200mで、右折(南)し下河原橋を渡り左折(東)し100mで右折(南)し200mで住宅の中の四つ角に出る。道なり直進で上り坂となる。100mで看板が出ていて、右折(西)すると18番前となる。


・第十八番  新福寺(掛川市逆川149、さかがわ)しんぷくじ  
 創建:享徳2年7月1453頃、開基:村民、本尊:十一面観世音菩薩:金乾漆立像70㎝伝行基作、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣昭和63年4月・次回2021年、縁起:開基は飄然と異僧来たりて、仏教の過去・現世・来世の三世の因果因縁を説き、村人を感動させた。そこで村人は僧を留まらせようとしたが、僧は諸国巡回祈願を果たす目的なので断り、代わりに十一面観音を与えた。村人は小堂を建て安置した。再建:天文五年1536.明治32年堂宇修理、大正11年仏像塗り替え、庫裏修理。
慶長元年1596、牛頭村検地帳に駅路(東海道)の伊達方と本所の境に曹洞宗月心庵という小庵があり後に源心庵と改めた。この庵の末寺が新福寺という。
数十年前親と仲違いして家を追われた若夫婦が庫裏で女子出産、観音のお蔭と観音に仕えた。その後夫婦は西国移住し茶商として成功。新福寺は佐夜の中山久延寺の奥ノ院だったといわれる。
堂宇補修、庫裏新築、寄進絶えず堂扉左右寄進札で埋まる。
・六地蔵:刻字不明、・鰐口、・念仏鐘:天保八年寄進、・手洗石、
・五輪塔や石仏(破片)7、「三界萬霊」:地蔵:「静岡県遠江國掛川町 施主 山崎茂七 妻いせ 大正二年三月建立」:2、
周辺:周りはのどかな田園が広がっている。
 駐車可能。無住。Tel:0537-27-0228 加藤さんとなっているが、
’15 12/30 Tel:0537-27-0391 加藤さん(別の加藤さん)というか、参道入口にある家4軒とも加藤さんであるので、参道入口付近の家に直接訪ねてみれば御朱印の持ち主の家が分かるだろう。ただ事前に電話をかけておいた方が、留守で御朱印がもらえないリスクが減るでしょう。’15 12/30, ’16 1/1


・経路
JR掛川駅から掛川バス東山行成滝下車、徒歩15分。
17番天養院から国道1号線を渡り南に向かい、工業団地を抜けた先の小高い丘の中腹にある。
19番まで3㎞、徒歩40分。
参道を東へ出て北へ100mの交差点で右折(東)し山際を200m行くと右の山際上に祠が見える。
・祠:神社、・祠:観音、・手洗石:明治三十(廿の縦線3本)九年
一旦そこから北へ道が転じて50m進んでから、また南に曲がる。ここからは一旦広い道に改変されてしまい旧道は分からないが、なるべく山際を進むつもりでルートを取る。300m東へ進み、北へ進む。台地上の細い旧道を進む。逆川牛頭627山崎氏宅前に祠がある。
・秋葉山夜燈:木造瓦葺:内部に石塔の常夜燈、
・祠:石仏3::堀越、淡ヶ岳ノ縁者、庚申、・説明版:堀越入道:剥落ひどく解読不能、付近住民2軒に内容を聞いたが不明、
*牛池(鞍骨の池)に関係した伝説と推定、今後掛川の伝説を調べる予定。
*「27番永寶寺から28番への経路、首塚様」より転載。
建武三1336年、今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江守護となり以後60年が続いた。応永二十六1419年尾張の斯波氏が守護となり、その後約100年が続く。このようなことから鎌倉時代後に武威を張っていた今川方の古名族横地氏も斯波氏に属することになった。しかし今川義忠は遠江を回復せんと堀越陸奥守貞延を総大将に横地・勝間田の本拠地小笠・榛原に進撃、小夜の中山南側の海老名エビナ・影森・公文名一円が壊滅的戦場となった。士将貞延も牛頭ゴウズまで来て惨敗したと伝えられ鞍ごと池に投げ込まれたと言う。この鞍骨池伝説や海老名辺りに点在、祀られている石塔は往時を物語るものと思われる。

北を目指し300m進む。逆川土手でストップ。橋がない。向こうには新興住宅が建ち道は見えないが、93年版ゼンリン住宅地図では向う岸にも道があり国1へ出られたことが分かる。昔ここに橋があったのだろう。
一旦現代の道を迂回して国1に出る。国1南側の千羽山鼻177:近藤氏宅に立派な山門が建つ。中に芯柱を入れ補強している。城または寺から移転したのではなかろうか。
・山門
国1北側に石造物がある。
・秋葉三夜燈2:天保三年、昭和51年再建
山鼻バス停前の横断歩道橋北側に石造物がある。
・「火の用心 紀元二千六百年 東山口村」
ここから北を目指す。100mで千羽山鼻315:仲林弥市氏宅前を通過すると祠がある。
・祠:地蔵、・板碑、・祠:庚申石仏、
ここで軽四輪車をUターンさせようとして左前輪を脱輪させ、手前の御宅の仲林さんたちに引き上げてもらい助けてもらった。ちょうど仲間で集まり新年会をはじめたところだったそうだ。
*仲林さんたちに感謝いたします。’16 1/1
この道はこの先50mで、国1バイパスに突き当たり行き止まりとなるので、別ルートで迂回するしかない。
山鼻バス停前の横断歩道橋に戻り国1を東へ150m進むと、左折(北)できる。バイパスの高架下をくぐり150m進むと坂を上りきって千羽1434:榛葉宅前で左に下りだすが、古道ルートは右を下るその先も左右に分かれるが、古道ルートは山裾の左であるが、途中で道がなくなるので、右を150m行く。平地でT字路に当たり、左折、道なりに600m北上すると19番である。

~新道ルートでは
先ほどは山鼻バス停前の横断歩道橋から国1を東へ150m進み左折(北)したが、新道ルートに出るには、更に国1を150m東進し岩橋を渡って左折(北)する。20m進むと左に途中で折れてつなぎ合わせてある石塔がある。
・石塔:「遠江國二十番子安観音道 従是一二一一米」「昭和八年三月五日 新道開通為記念寄進」
更に300m北進する。Y字路で左右の分岐点になる。標識があり、20番は右、19番は左である。左に進むと50mで先ほどの古道ルートから合流する道が左から合流してくる。あとは直進である。


・第十九番 明照山 慈明寺(掛川市小原子134、おばらこ) みょうしょうざんじみょうじ  
 創建:永享3年1431、元禄15年再建、開基:不詳、本尊:聖観世音菩薩(桜寄木金色塗座像33㎝台座3段6角形伝行基作、伝元禄15年7月以後再興)、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣1999年予定が地域整備工事中の為完成後に実施予定?、縁起:昔この山中に一人の美女がやって来た。村人に「観音経に帰依した人の妻になり子供を養育する」と言ったので、村人はこぞって結婚を申し込んだ。女は私一人では皆と結婚できないので、私を思うなら観音経を読んでほしい。さすればあなた方の子供を守護すると言って観音像1体を残し消えた。これは小夜の中山の子育て観音の化身に違いないというので、一同これより観音経に帰依したという。
  駐車可能。 無住。観音堂は集落の集会所のような所で周辺は空地公園のようである。
 観音信仰と佐夜の中山の子泣き伝説が入り混じった上記の説話が伝わっている。
・本堂正面:菩薩像、脇侍:不動明王、毘沙門天、地蔵尊2体:明治中期、
 堂内に幕末布告のキリシタン禁令高札、
境内にモッコク、イチョウ、タイサンボクの古木あり。春には桜、本堂の南東100mに歴代住職の墓、12の墓石のうち5つが男性、7つが女性と考えられている。
周辺:堂の背後は白山神社で菊理姫命・事代主命・金山彦命を祀る。桐山榮氏は明治の神仏分離令で神社と寺に分けたと考えている。
それに対し私見を述べる。「大原子 正徳三年1713 観音公事曖証文之事」には大原子または周辺に白山天神の名があり存在していることが分かる。これが小原子のものと同一かどうかわからないが、現在大原子には白山神社はなくて大原子神社があり、ここに合祀された可能性もあるが、小原子の白山神社から大原子集落まで丘越えで300mの近さで、2つ同じ神社があったかどうか判然としないが、小原子の白山神社が1713年の白山天神と考える方が妥当な気がする。ということは1713年には寺と白山神社は別に存在したと考えます。あくまで断定できず推定ですが。
無住、駐車可、Tel:0537-27-0543、左記の電話番号の方がすでに管理者ではなく、2軒北隣の御宅で観音堂の鍵を開け御朱印を頂けた。
~追加
・地蔵2
・自然石
’16 1/1,3


・経路
JR掛川駅・天浜線掛川駅から7㎞、徒歩80分。JR菊川駅から徒歩90分。
18番から再度国道1号線へ戻りしばらく西へ向かい小原子、大原子集落への道を左折した奥に19番がある。
20番へ1㎞、徒歩20分。
ここからの古道は東の山に上るのだが、寺向かいの墓地から山道がありそうだが、山道はない。古道は墓から北30mの枝尾根の先端部で手前の沢にコンクリ橋があり、それを渡って山に取り付く。尾根に沿って人工的切通しがあり、それが目印になる。廃道内部は倒木で歩きにくいが、それでも通過可能ですぐに尾根の峠に到達し下れる。茶畑に下りる手前で道型は消失するが、茶畑に下りてしまえばよい。上からコンクリ舗装された細道が下りてきて丁度ここに合流する。この細道も古道部分だ。伊達方1403:榛葉宅前である。榛葉さんに話を聞き、ここが確かに順礼古道であることを確認できた。廃道部分:徒歩5分。ちなみにコンクリ舗装された細道は古道の南側を越えて19番に近い所に出られる最短の自動車道である。
榛葉宅前のコンクリ細道を下り切り、左折(北)し150m進むと観音堂がある。
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・第二十番 子安山 観音寺(掛川市伊達方(大原子)1420、だてがた、おおばらこ) こやすざんかんのんじ  
 創建:不詳、開基:不詳、本尊:如意輪観世音菩薩(伝行基作)60㎝木像半跏思惟像・子安観音、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎・昭和59年4月、縁起: 
幕末の日坂宿の「御尋ニ付申上候書付」では「一、子安観音堂 壱ヶ所 是は江戸より右側 往還より観音堂は拾丁(1100m)引込む 千羽村 牛頭村入会い御年貢地 但切石にて子安観音と記し有之 本所村地内に御座候」
宝永八年1711庄屋の十郎兵衛 次郎左衛門 が掛川藩に出した村況
「一、 千羽之郷大原子ノ谷 観音堂 壱ヶ所 四間四方 但 かぎ取 平安寺 支配人 六郎右エ門 境内長拾間 横八間 定納地之内 境内ニ廿壱歩ほど定納畑有り 拾六歩の内に塚有り 正月六日 六月十八日 御開帳仕候」
大原子、小原子、木割、千羽を合わせて千羽郷といい人口は374人、石高299石の小村。
堂の鍵を預かるのは仙光山平安寺で厨子の扉を開閉する責任者である。この寺は伊達方村の竜門山慶雲寺の末寺である。堂の維持管理は六郎右エ門である。境内面積80坪:265㎡、全部納税地で、この中に21歩ほど定納の畑がある、また16歩:53㎡の内に塚がある。1月6日と6月18日に御開帳がある。
ここの本尊も伝:行基作といわれる。行基作と云われるものはだいたい沿革は不明だし、作者も不明だが、慶長以前から伝わる秀作が多く、戦国期に真言宗系の伝承を持つ寺院に多く安置されている。(桐谷榮)
正徳三年1713に観音の訴訟和解の文書が残っていて村で争いが起こったことが分かる。
多分無住。石段登って左右日本の古槇が山門代わりに立っている。
観音堂:棟札:天正十七年1589四月、佐野郡千羽郷大原子村、徳川殿御代、御地頭長戸上(永禄十二年1569掛川城主石川日向守家成の子長門守康通)の時代、安産、天正二年1573正月火災、後再建、希望者には安産用腹帯貸出、
・日切子育地蔵堂:子育て観音2、入口左、堂背後は里山、
・徳本上人供養塔:「□□四巳年 阿弥陀仏 徳本(印のような記号一字分) □沢 宗士 小原子大原子蓮中」、
訪ねた時ちょうど子供たちが遊んでおり、名の通り子安観音であり、いまだに子供たちの遊び場なのだということに郷愁を覚えた。

無住、駐車可、Tel:0537-27-0627、お堂前に連絡先3軒と、その家の位置の分かる地図が掲示されている。
~追加 
・古:手洗石:ひっくり返っている、・新:手洗石、
・地蔵
・イヌマキ:市指樹木、
・自然石、
・地蔵:東隣の神社との壁に埋め込み、
東隣は神社である。
・大原子神社:’93ゼンリン地図だと、別場所の大原子1526:榛葉宅北にあるのだが、近年子安観音横に移転したようだ。昭和31年3柱の神を祀る。菅原道真:創立不明なるも往古より千羽字梅木沢に奉斎し天文年間、大原子馬街道の菊理媛神と共に、寛保三年10月千羽堂の裏2423番地へ遷座合祀。菊理媛神:創立不明なるも往古より白山神社と称し千羽字大原子馬街道、天文6年に奉斎し、須川道真公を祀る梅木沢の天神社と共に寛保3年10月千羽堂の裏へ遷座合祀。誉田別尊:部内旧家伊達三太夫私有の神大原子集落11戸の信仰により昭和6年譲り受け氏神として奉る。
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・経路
JR掛川駅から掛川バス東山線東山行本所下車、徒歩15分。
21番へ3㎞、徒歩40分。
巡礼道は東の山を越えて本所集落に出るのだが、調査によって2つのルートが判明したので、①北回りコース、②南回りコースの2つに分けて説明する。 
③ 北回りコース(子安観音→茶畑内の基準点→本所1077:齋藤宅前→薬師堂)
子安観音を東に向かい進む。現在茶畑になっている所に一部コンクリ舗装されている道がある。これに沿い上っていく。草木生い茂りひどい中を進むと台地上に改めて山を削り整地し直して開墾された新しい茶畑が広がる隅に出る。茶畑の北西端に出たようだ。イノシシ用罠オリがあり、野生のイノシシがはまっていた。コンクリ舗装がなくなり更に山を削り取った斜面に道がはまっていく所で草木だらけで進めないし、この先道型も削り取られ消失していくのであきらめ、下に下り、道があったであろう当たりを追っていくこと150m、改めて上に茶畑が出てくる。茶畑に上ってみると、道型消失地点から150m東で、茶畑の西端の道型再登場地点?辺りに、基準点がある。ということはかつてはここがアカミチのおよそ峠辺りではないかと推定する。この地点より東も開墾されたばかりの茶畑かと思うし、舗装され直した農道を東に進む。もはや古道はない。下っていくと、本所の集落に出る。本所1077:齋藤宅前にでた。ここから東150mで薬師堂前に出る。
本所1100斎藤さんに話を伺うと巡礼道はここではなく、南の慶雲寺前の道だとのことだった。

④ 南回りコース(子安観音→伊達工業所→慶雲寺→本所231松浦宅前→薬師堂)
 子安観音から東の山際の南に大原子集落を300m進む。伊達工業所の看板がある。ここから東に上っていくコンクリ舗装の道を進むが、1528⁻1伊達工業所を過ぎ次の家の1530伊達宅前でコンクリ舗装から右に外れていくのが正しい。しかしそこは山の地面ごとない。山を削り取り道路や茶畑を広大に作り直してあり、自然地形の山は一切消去されていて新しい碁盤の目のような舗装路と四角く整地された茶畑である。以前はここは山と瓦ヶ池があり、池のほとりを廻って慶雲寺に行けた。現在は新しい道を通過して慶雲寺前に出る。
なお伊達工業所前の、本所1386榛葉さんに話を聞くと、榛葉さんは掛川歩こう会に参加していて、古道には多少詳しいようで、子安観音から東に向かう道も古い巡礼道だとのこと。この慶雲寺経由の道も教えてもらえた。又この辺りにかつてあったであろう石道標はまったくないそうだ。
○慶雲寺:六観音、祠:神社、・句碑:伊藤帯雪:菅笠に出たりや出たり土筆つくづくし、
・お堂:石仏:地蔵3、祠:観音、手洗石、石段
ここからは昔の道が健在である。東に150mで伊達方231松浦宅前に出る。北に200mで薬師堂だ。
☆疑問:巡礼達はなぜこの慶雲寺経由の道を通過したのか。というのも北回りより300m遠回りである。

~寺ヶ谷の薬師堂→八坂→本宮山、事任八幡宮→日坂宿場
○薬師堂:
・常夜燈:秋葉山 大正十四年十一月再建、毎月1,15日に灯すそうだ。
・手洗石、・庚申塚、・如来:「平沢 五 七」、・石塔、・五輪塔:破片3、
薬師堂前から東の山際に沿って北に進む。かつては古道があったが、舗装された広い農免道路が東西に通過している所に出る。この道を右折し東に進む。かつてはちょうどここが本所と八坂の境界の峠になっていたようで、農免道路の一番高い所の上の空中に昔の古道の切通し道があったそうだ。なのでこの農免道路を上り下っていくしかない。16年1月、道路南斜面が崩落していて車通行止めのバリケードがあるので、歩いて通過した。2月に工事があるそうだ。多分県議会を経て予算が付くのが2月ということなのか。
峠の北に本所の神社が見える。
・神明神社
八坂の平地に出ると左(北)、最初の家が八坂186田中氏宅である。この家の裏の茶畑と山際にかつては道があって本所から通じていたそうだ。今は道はない。田中宅の前に道が付いていて集落につながっていたようだが、それもない。
*上記は田中さんの奥さんの話。
田中宅の東側に八坂128山本宅があり、裏に地区の地蔵が祀られている。
・堂:地蔵
東隣の八坂131山本宅には堂がある。
○阿弥陀堂:
・石塔:表「視車勺聖天阿弥陀水井 御真筆阿弥陀如来並光明」右「是よりみやむら菅場 弥承□持宅一壱町」左「天保六年□□□ □□□十一月□□□」、朱色に彩色され地面にコンクリで固められていて、コンクリに昭和63年記入あり、
山本宅から出て舗装された細い道(おそらくかつての古道)を北東に100m進む。宮村区公民館と屋台置き場があり、国1に向かい道がつながっている途中に祠や石塔が見える。
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、
・観音
・五輪塔:青石金明王
・如来
石塔は見に行っても道は曲がらず直進する。200mで国1に合流する。この道が旧東海道である。
○事任八幡宮コトノママハチマングウ:
・秋葉山常夜燈2:天保三年
・クスノキ:市指定文化財、
○本宮山:
上記2つの神社を過ぎると途端に国1から離れて左に行く道がある。これが旧東海道で、この先すぐ日坂宿場である。
旧東海道に入って30mで左に
見えにくいが石碑がある。
・石碑:「日阪村 東山口村 村界 日阪村青年會 東山口村青年會 大正四年一月建設」
150m進むと左に道が分岐する。その道の左に神社がある。
・若宮神社
・秋葉山常夜燈:「弘化二乙巳十一月 驛中安全」:説明:、
・自然石、・手洗石、
旧東海道を道なりに200m直進する。古宮橋を渡り高札場の次に左に21番:相伝寺がある。
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・第二十一番 宝聚山 相伝寺内光善寺(掛川市日坂928、にっさか)ほうじゅざんそうでんじないこうぜんじ  
 創建:天長2年825か、永保年間1084~83とも、開基:片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長二年1597開基した、本尊:聖観世音菩薩:木造立像39㎝伝慧覚大師あるいは見石庵作、宗派:浄土宗、開帳:秘仏ではなく8月10日縁日、縁起:
光善院は往古は東山村椎木にあり、天台宗だった。松葉城が落城(明応五年九月十日1496)後、松永氏が光善院にあった正観音を背負って宗那川サンナを下り日坂宿の庄司に安置した。安政年間、日坂に大火があり、町や寺が焼失した。日坂宿の浄土宗3寺は合併し相伝寺と称した。光善院は相伝寺の境内堂になった。昭和後期に堂が朽ちて相伝寺に合併した。
天保十四年末、佐夜郡日坂宿が掛川藩の尋問に答えた「御尋ニ付申上候書付」では、「一、御年貢地 知恩院末浄土宗日坂宿 宝聚山相伝寺 凡建坪三拾八坪 但寺地中 御小休所門横 壱ヶ所 凡建坪拾五坪 右は江戸方より右 往還より寺迄拾五間引込 往還 差支之節は御小休斗(バカリ)請申候 休泊共手狭ニ付請不申候」
相伝寺には除地も朱印地もない。寺は小休所の横なので往還の所が一杯だと小休所に当てられた。
33所中唯一浄土宗だが、昔は東山村椎木の天台宗の(紫雲山光善寺?)光善院、本陣扇屋片岡清兵衛の逸話:日坂宿の問屋場、伝馬36頭、人口の半数300人が人足、人足手当は早くて3年後で人足は生活に追われていた、早く支払うように直訴したが、慶長十八年1613、直訴は死罪、これにより毎年日坂宿には516俵の米支給になった。これにより彼は516俵さまと呼ばれるようになった。墓所は常現寺である。私財で相伝寺や常現寺を創立している。
山門脇に宿場の高札場復元、秋葉山常夜灯があるなど、宿場の雰囲気を彷彿とさせる。
日坂宿をさらに東に向かうと、常現寺(23番:御朱印所)や坂を上り詰めると、小夜の中山の旧東海道や久延寺がある。
・三十三体観音石像、千浦六地蔵:威法院(廃寺)、延命日切地蔵、
有住、駐車場有、Tel:0537-27-1567
~追加
六地蔵:一胴六憧、・如来、・?庚申:三面八臂、・如来:彫りがすごい、・馬頭、・観音、
・地蔵2、・観音、・如来、・墓石、・地蔵:座位、・仏像:釈迦:戦捷記念、
~周辺:日坂宿場:東海道日坂宿資料を各自で探してください。
・旅籠:川坂屋
・本陣跡:

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・経路
JR掛川駅から掛川バス東山線東山行日坂下車、徒歩3分。
20番から4㎞、国道1号線に戻り東に進み、旧東海道分岐点で旧東海道に入っていき旧日坂宿にある。
22番へ5㎞、徒歩90分。
相伝寺からは現在の沢沿いの道ではなく、尾根通しの茶畑の山道を進むことになる。
相伝寺を出て本陣前に出て、北を目指し100m、新橋を渡り、右折しすぐ左折し坂を上っていく。尾根通しの茶畑の中の道をひたすら道なりに1.5㎞進む。日坂御林614⁻2大塚氏宅前に入っていく道の分岐点に石仏がある。
・祠:地蔵 
ここからさらに道なりに600m進むと日坂御林612⁻1製茶工場のある交差点に出る。ここを左折し300m進むと日坂御林632杉本周造氏宅前を通過し、変形6差路に出る。右2本のどちらを通っても目的地には行けるが、古道を通るなら右2本目の狭い道を通過する。結局400m先で右1本目の広い道に合流する。その50m先に看板がある。
・看板:茶草場農法世界農業遺産認定:説明版:
・福招き猫
・看板:自然保護のためご協力を!:(花)フジタイゲキ、ササユリ、キキョウ、カワラナデシコ、オミナエシ、(昆虫)カケガワフキバッタ、(鳥)サシバ、動植物の移動、持ち出し禁止。
150m北進すると右:小鮒川、前:東山‣粟が岳‣安田、左:粟が岳登山口近道になる交差点がある。特に右:小鮒川方向へはすぐ先で高架下ガードをくぐるのが見える。ここに石仏がある。
・地蔵、
22番へはここで左の急坂を下っていく。道は作り直され急坂の勾配を緩くするため蛇行するようにしてあるが、その横に昔のまっすぐな激坂道(旧道、古道)が残っている所がある。500m下って川を渡り、200m進むと東山集落(泡が岳登山口)に入る。右に曲がると、公民館、防災センター、その上に22番がある。


~日坂→粟が岳登山口、観泉寺への現代のルート
昔は山の尾根通しを通ったようだが、今は沢沿いに自動車道が通っているし、沢沿いにも遺物がある。
日坂の宿場町の西の若宮神社前を出て、粟が岳登山口方向を目指す。今の定期バスの経路を通る。400m進むと右に日坂小学校で左に神社がある。
・高根神社
300m北進で、右折する。1.2㎞北進すると、長松院入口となる。左に石道標がある。
・石道標:「(梵字)右西山ヲ経テ無間山松葉ニ至ル 左西國一番観音幷弘法大師約一町 倉真村青田柳澤ニ至ル」「大正四年十一月御即位紀念施主鈴木久七」
左手前に神社がある。
・津島神社
1.2㎞北進すると椎林バス停手前の右に石仏がある。
・祠:庚申風の石仏、
・椎林にかつては光善寺があったという。
500m北進すると深川寺が左にある。
700m北進すると東山バス停で粟が岳登山口と観泉寺がある。
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・第二十二番 天王山 観泉寺内長福寺(掛川市東山219、ひがしやま)てんのうざんかんせんじないちょうふくじ  
 創建:伝・大永7年1527、開基:村内の杉山吉左エ門ら近隣の同志とはかって小堂建立、本尊:千手千眼観世音菩薩:木造立像41㎝製作者不詳江戸期後期、宗派:曹洞宗、開帳:正月三が日、縁起:
貞享四年1687までは長福寺という寺の境内に観音堂があり、ここにお札を納めていたが、仔細があって観泉寺へ順礼札を納めることになったという。延享四年の「佐野郡東山村明細帳」によれば観音堂のサイズは二間四面で、厨子は縦73㎝、横64㎝、境内地536㎡ほどで、名主吉左衛門が管理していた。当村には寺2軒で観泉寺と深川寺で長福寺がない。どうしてなのか?
標高150mの山上にある。かつては参拝後、投宿して翌朝粟が岳を目指したものだったという。展望は素晴らしい。
・標石:明治三十四年八月 二十二番札所、入口
・仁王像:熊野詣の途次、熊野川に漂っていたものを持ち帰ったという。
・三十三観音:階段を上ると左側塀に沿って安置、明和三年1766、本堂前に散乱していたものを整理した、嘉永元年1848、
~追加:この箇所に36体石仏があり、うち2体は地蔵なので、残り34体で、そのうち2体に光背がなく同じ大きさなので、光背付き32体と無しが2体である。おそらく光背付きが1体ないのだろう。
・弥勒菩薩に因む四十九院の塔婆石像:右側塀、明和三年1766、本堂前に散乱していたものを整理した、嘉永元年1848、説明版:御本山十五世徳純の代に免許される。西国三十三所石像と四十九院宝塔は天王山住職物宗が願主となって建立したものである。
四十九院とは、弥勒菩薩が住む兜率天(欲界六天の第4位)の内院の宮殿、その四方にある四十八の天宮(天人の宮殿)のことで、これに真似て平安時代以降、寺院の境内に四十九の堂を建てた。鎌倉時代以降になると墳墓の周囲に49基の塔婆を建てるようになった。
・本堂右側庫裏、
有住、駐車場有、Tel:0537-27-1247
~追加
・手洗石
・祠:石家型道祖神
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・経路
JR掛川駅から掛川バス東山線東山行日坂経由東山下車、徒歩15分。
21番より川筋を北に4㎞上り東山のJAの前から右へ急な細い坂道が参道である。
23番粟が岳山頂まで4㎞、登山徒歩100分、常現寺まで5㎞、徒歩80分。
古道はハイキングコースとなる。
・祠:井口地蔵
・峯ガイトの大クワの木
・八幡宮

 ’16 3/20、現在、東山いっぷく処となっている所からハイキングコースが始まる。基本的にハイキングコースが古道残存部に近い。ただ出発点は正確かどうかは分からないが、位置的にそれほど外れていないと思う。初めは自動車道を歩かされるので、斜面を巻く道で、古道からは外れているだろう。次の摩利支真天に向かうあたりから尾根沿いになり、古道だと思われる。
・祠:摩利支真天
さらに上を目指すと、自動車道との出会い箇所で献燈がある。
・献燈:大久保中:大型で立派な秋葉山常夜燈みたい
献燈の上に向かい進むとすぐ鉄塔があり、過ぎると左に石塔らしきがある。
・石家型道祖神:茶畑内、献灯すぐ上の鉄塔のすぐ上、
 また茶畑のハイキングコースを上っていく。200~300m進むと、四角い石柱がある。
 ・丁石:15×15×50㎝、「爪(不)動九町」
過ぎて上っていくと、それまではハイキングコースと言っても軽トラ農道に改修されていたが、ここらから人ひとりしか歩けない登山道になっていく。道は整備されている。茶畑が終わり熊笹だらけになると、途中で安田からの軽トラ農道とも交差する。まだ上っていくと、頂上を目指すのではなく、左へ左へと向かう道になる。23番観音寺へ向かうからだ。熊笹から自然林になると観音寺は近い。時々太い木もある。上に平地が見えだしたら観音寺(廃墟)だ。

 倉真に向かう林道分岐点
・石仏:奉請 干持寛政二年戌十二月、
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・第二十三番 無間山 観音堂・龍谷山 常現寺内観音寺(掛川市日坂506⁻1、にっさか)むげんざんかんのんどう・りゅうこくざん じょうげんじないかんのんじ  
 創建:天平年間729~49修験者弘道仙人が釣鐘を造立して粟が岳の松の枝にかけたものが無間の鐘という。弘仁2年811年3月17日、開基:伝弘法大師、本尊:十一面観世音菩薩:木造座像110㎝伝空海作、宗派:曹洞宗、開帳:8月9日百万遍祭、秋彼岸、縁起:弘仁2年空海諸国巡錫途次、粟が岳に登り小堂を建て仏像を安置した。承和年間834~847、僧長然が草創座主、宝治年間に岐阜妙応寺の恵徹が上山して曹洞宗に加え、今の名に改称したという。堂宇は朽ち果て廃墟同然だが、なお周囲には石塔類が散在しかつての栄華をしのべる。展望は抜群である。
粟が岳は標高552m、椀を伏せたような山容、ハイキングの名所、春は桜並木、頂上には電波塔、展望台、広場、売店、栄西禅師の像、巨石磐座いわくら跡:阿波々神社、遠州七不思議:無間の鐘を埋めた無限の井戸
跡、そこから階段を下った所にアスレチック広場、展望所、その横に観音寺札所がある。
粟が岳は粟の山の意で穀物の神霊の座として崇められ、観音も豊作祈願されていた。
遠州七不思議:無間の鐘を埋めた無限の井戸:伝説:観音堂の鐘を突くと現世では巨万の富を得られるが、来世は無間地獄へ落ちると云われていた。にもかかわらず鐘をつくものが後を絶たず、住職が井戸に鐘を捨てた。それからは井戸に榊の枝を逆さまにして投げ込めば御利益にあやかると云われた。一説には鐘を沈めたのは雨乞い儀式で、それがこの伝説に残っていると云われる。
・観音供養塔:文化三年1806金谷町天王前 増田与五兵衛 西国 秩父順礼供養、入口
・町石:十八町、参道右側、寛政十戌午星十一月吉日1798再造 東山下村 五良左衛門 諸願成就第十八□、
・石灯籠:右:天和三亥年1683、左:慶安三寅年四月1654、相州連雀町 高村喜兵衛上則重 西山村粟嶽山観音寺 
?・丁石:第五町 享和三癸亥歳1803七月吉日、横倒しになっているそうだが未発見。 
・如意輪観音:天明二年、
・弘法石像2体:三界萬霊 西国八十三・八十四 大正八年 掛川山崎夫妻 
・礎石:2間×3間、堂の右前 
・観音堂:廃墟で壁もはがれ傾き崩壊寸前で周囲にロープを張り立入禁止である。もう何時倒れても当たり前である。
麓の常現寺に観音堂は再建されているが、やはり粟が岳山頂にあるからありがたみがあるのだろうから、ここに何か祠か石仏を建立して拝めるものがあるとよいのではないか。ここへも車で乗り入れできるよう道も直すとよい。駐車場用地は旧アスレチック広場の分もあるし。阿波々神社は山頂磐座の横に再建して、観光客はくるようだし、ここは廃墟だがまさに山奥の古寺の良さがある。
~追加
・戦勝観世音 皇紀二千六百年記念
・手洗石:割れてる
・戦前の華族による登山記念碑
・祠
・横に僧侶の墓地
遠州の山奥の寺(秋葉山、油山寺、大尾山、小笠山、遠州七坊等)は天狗伝説があり、○○坊と云われやすいが、なぜか、ここには天狗伝説がなく○○坊とはいわれない。ということは修験者の山ではないということか。無間山観音寺は山伏の寺ではないのだろう。
粟が岳無間山観音堂:無住、駐車可だが、粟が岳山頂への自動車道からこちらに分岐する道路入口に立入禁止の標識あり。観音堂横はかつてアスレチック広場で子供の遊び場で展望所でもあったので、車で自由に出入りできた。ただし分岐する道50mは狭く無舗装で石ころだらけ。
・旧アスレチック広場の左先から下る山道がある。倉真方面への下山路だ。
・磐座の西端にも下山路があるようだが、道が整備されているかは未確認。

・(永寶寺:大嶽氏談)昔接待用の食物は「里芋の煮っ転がし」だったそうだ。
御朱印先は常現寺:有住、駐車場有、Tel:0537-27-1050
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***・龍谷山常現寺(掛川市日坂水井 )
現在:常現寺内に観音堂があり、御朱印も常現寺である。常現寺は義民片岡清兵衛の菩提寺で彼の発願によるもので、墓や五輪塔の供養塔がある。常現寺は国道1号線沿いで日坂宿の東1㎞の上り坂の手前にあり、粟が岳とは数km離れている。
・石碑:「曹洞宗常現寺」「當寺~~~」「大正十五~~~」「東□金谷□一□一□□□  西□掛川□二四一七一□」
・水井稲荷、・祠:地蔵:首落ち、・奉納廻國供養□、・新:燈籠、・六地蔵:明治廿八年、
・「奉讀誦金光明最勝王経千部山門鎮静□□」「天明□□申~」
・五輪塔:「空□火水地」、・大東亜戦歿塔 終戦四十七年記念、
・日露戦死塔 明治四十三年、・征清戦死塔 明治廿八年、・墓石:五輪塔4、破片1、・手洗石、・石塔、・地蔵、・墓石観音、・?墓石:円筒形笠付き、・観音墓石2、
・地蔵:?墓3、・如来:墓2、・新:無縁供養塔、・鐘楼、・?千体水子地蔵、
・童子童女墓石(古:観音、古:地蔵2)、
 有住、駐車場有、Tel:0537-27-1050
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・常現寺への経路
常現寺:JR掛川駅から掛川バス東山行日坂下車、日坂宿より700m、徒歩10分。


・粟が岳から24番への経路
今は舗装された自動車道もあるが、古くからの日坂宿からの登山道が旧巡礼道「無間山観世音道」で約1里半:6㎞ある。大尾山に次ぐ標高で第二の難所である。なお自動車道を自転車で登る自転車クライマーたちがいて、頂上売店のノートに記録を記すようだ。通称:坂バカというクライマー・サイクリストなら一度は上ってみるとよい。走っているランナーもいたので、高低差好きランナーは上り下りすべし。
自動車道は狭いが待避所は処々にある。しかし待避所が近くにない所で鉢合わせしたらどちらかがバックして待避所まで行くしかない。
JR掛川駅から掛川バス東山行東山下車徒歩5分で登山口、
粟が岳山頂の旧観音堂までは日坂登山口から徒歩180分。
24番まで5㎞、徒歩90分。
昔の古道は山頂から北へ越し、今の林道松葉千石線(山頂から自動車道で1㎞下りた地点で分岐)で倉真松葉に行く道に出る。北への枝尾根が延びた地点で林道から離れ東に下りるコースであるが、現在の国土地理院地形図にも点線が記入され安田(大代安田2904:池田氏宅前)の農道につながっているが、現実には、道らしい跡は見つからない。尾根を我慢して下りて行けば途中で踏み跡や切通しがあるのかもしれないが、林道からの分岐点辺りからは道の痕跡はない。また池田氏宅前から600m農道を西に詰めていくとコンクリ道が終わり、廃棄茶園と植林地になる。ここを雑草枝葉だらけになりながら這いつくばって道探しをしたが見当たらなかった。この件に関し安田の長老:大代安田3143:杉山成氏に話を聞いた。池田宅前から農道が西に延びているが、この道は茶畑のためにあえて作った道で、昔ここに道はなかったそうだ。そして巡礼道と云えば昔から以下の道だそうだ。
巡礼道は粟が岳を下って安田アンダ(ヤスダと書いてアンダと読む)集落の北西に出たようだ。山頂南面の自動車道やハイキングコースが通る方と安田がつながっている。山頂からハイキングコース(古道)を下ってきて一旦自動車道をまたぎ越した、その下の地点で、安田からの狭い農道(軽トラック道)とハイキングコースが交差する地点がある。おそらく自動車道で山頂から1.5㎞地点に狭い農道が左から合流する、その合流地点から農道を100m進んだ地点ともいえる。今は農道だが、おそらくそれなりに昔から道があるのではなかろうか。古道を下ってきた人で安田方面に行きたい人はここで今は農道になっている道を進めば安田に行けるのだ。この軽トラック道の農道が杉山氏が教えてくれた道である。また24番札所の御朱印所の下島氏の奥さんも安田から粟が岳南斜面の軽トラック道を通って昔粟が岳のお祭りに行ったと話してくれた。
ここで国土地理院地形図に掲載されている上記ルートの粟が岳北東枝尾根からの破線について考えてみる。現在はこの破線の内、池田氏宅前から600m西までは農道があるので、道があることは当たってはいるが、元来道が存在しないところである。本来の道は粟が岳南斜面から安田に至るルートであり、どうも地形図作成担当者が尾根の位置を間違えて記入したのではなかろうか。この間違いは地形図によく散見される。国土地理院はきちんとこれらの間違いを訂正すべきである。
杉山様お話を聞かせて下さりありがとうございます。
ここで話を安田に戻す。
そして安田の大シイの木やお堂の前を通過する。
○安田アンダの大シイの木:石塔2、鳥居、祠、
・お堂:・祠、隣は地区公会堂、
大シイの木から安田集落内を南東に150m進み、北へ向きを変え400m進む。茶畑内で道が2方向に分岐し眼前に大井川方向の広々した景色が見える地点に達する。
・石道標:四角柱:「向 右金谷町 左安田松葉東山村」「向左大代ニ通ズ」
 ~*この四角石柱の向右(北)は茶畑での大代四分一方面になる。茶畑農道を進み北の右奥の下に切通し山道を発見。おそらく傾斜は緩やかで道幅一間で近代の道で大八車やリヤカーで通行可能だったと思われる。標高差60m、上り下りとも10分。下りきると大代四分一1527:渡辺氏宅前道を山奥に150m進んだ所の沢向に出る。苔むしたコンクリ橋があり、渡って林道を30m下った山と平地の境目に石仏がある。
   ・馬頭観音:文政四巳年九月吉日:昔からここに祀られていたかは不明、
    なおコンクリ橋から林道を山奥に30m進むと右(北)の山斜面に切通しがあり,山上の高圧鉄塔に向かって延びている。この道は鉄塔経由して安田の北の茶畑に至る古道と推定される。未確認。
    これらの道に関しては大代四分一1430~1501のいずれかの御宅の山中氏の老父から話を聞いた。ご協力ありがとうございます。
四角石柱に戻り、右(東南)に道を150m進む。
・石道標:「二十四ばんミち」
この石道標下に山道が続くが、すぐ下の茶畑で途切れる。しかし茶畑の下端のコンクリ擁壁の下を探ると、あった。古道の切通し道の痕跡がある。切通しに従い下っていく。倒木、草木でまともな道ではないが、通過はできる。標高差100mで下りきって平地の茶畑に出られる。その出られる所が一番汚い。あとで帰り道を探すとき入口がぐちゃぐちゃですぐ見つけられず、うろうろ探し回った。ゼンリン住宅地図にも細線が残っている。下りきって大代森ノ谷1180⁻1渡辺さんに話を聞いた。
石道標を茶畑と道路の境の縁石にして埋め込んだそうで、今縁石にしか見えない石をひっくり返すと、「二十四ばん」と書いてあるそうだ。今度立てといてあげるよとなった。知らなければ絶対分からない話でした。今度石道標を見られることを楽しみにしています。
安田と森ノ谷間の廃道部分:下り10分、上り15分、標高差100m、
’16 1/2,3
前回、見られなかった石道標を見に行った。埋められていた石を掘り起し古道沿いにたててあった。渡邊さんには御礼を述べておいた。
・石道標:みぎ二十四ばん:「ば」の字は変体仮名の者(「む」に似た字)で蕎麦屋ソバヤそむやと同じ。
森ノ谷から石道標通り、右のコンクリ農道を行く。あまり利用されていないらしく狭い道だ。300mで久昌寺前を通過する。
○久昌寺:
・石塔2、・山門:・如来:時文政七甲申年正月樂日発願主現住悉真代村中家内繁栄、・六地蔵、・地蔵:座:2:正月十四日、・神祠2、・祠:・石仏:明和四丁亥壬九月吉日大墓瀬村(見ざる言わざる聞かざる付き)、・祠2、・秋葉堂:秋葉燈:木造トタンで燈は木造、
大墓瀬オオボカセ橋を渡る。
~(周辺紹介)~
・大代神社:
・法昌院:・六地蔵+1、・石塔、・大日如来、・鎮守堂、・水琴窟2、・石碑:五和西小跡地、
大墓瀬オオボカセ橋から1.2㎞東進すると影島の左の山際にお堂がある。
○影島のお堂:・石塔:破片、・布袋か大黒:破片、・如来:破片、・観音、・地蔵、・庚申供:折れてる:嘉永五年子十二月吉日□□□□□□、・手洗石、・(梵字)悟共密行禮旦、
400m東南へ進むと影島橋がある。この左100mの山際に祠がある。
・祠:弘法大師堂、弘法大師:石塔、井戸:弘法井戸?
南の山上にも祠が見える
・祠:神社、
影島橋から150m進んだ県道から脇道への入口に24番への石道標がある。
・石道標:二十四番観音寺:楷書体で近代製?

~安田から志戸呂の行者塚方面へ行く新道コース~
安田から台地上の広い新道を通り志戸呂方面へ行く途中、水調整タンクがいくつか見える辺りに石碑がある。
・新:石碑:安田原造成記念碑「茶心」昭和62年頃?
1㎞南に進むと大代と志戸呂の境目辺りで、高電圧鉄塔がある辺りに祠がある。
・祠:石仏:不動 火除 羽□□□□□


・第二十四番 岩崎山 観音寺(島田市志戸呂839⁻1、しとろ)いわさきざん かんのんじ  
 創建:応永期1394~1428か、開基:江戸中期に久翁長公座元が開山、本尊:十一面観世音菩薩:木造立像87㎝、宗派:曹洞宗、開帳:毎年秋彼岸、縁起:、明和年間1764~72に観音寺坂からここに建てられたと云われる。新東名工事により平成13年2001に観音堂移動再建。解体した堂宇芯柱に「文化十年1813再建成す、天下泰平 国家安全 五穀成就」
金谷坂の曹洞宗金龍山洞善院(島田市金谷町峰)の末寺、江戸期初期まで観音寺坂途中にあったと伝えられる。江戸中期の長公は薬師如来を本尊として開創した。長公は元禄二年1689四月末示寂。観音寺坂は人家から遠く盗賊も時々出没するので明和年間1764~72に海牛見老和尚が寺を現在地に移し堂を建て中興した。
志戸呂:遠州七窯、志戸呂焼き。附近の行者塚(観音寺坂と掛川坂を上りきった台地の頂上合流点、埋もれていた石塔が安置)は堂守の尼僧が自殺後葬られたところと云われる。

・三十三観音を刻んだ石塔1基:宝永五戊子ツチノエネ年1708六月吉日、観音堂左横、とても珍しく文化財級、
・観音堂:古い厨子の中、准(てい:月ヘンに氐)観音、通常准(てい)観音は3眼18臂(腕)だがこれは2眼2臂、准提観音とも書く、七俱(月ヘンに氐)仏母シチグテイブツボと呼ぶ。あらゆるものを清浄し諸種の願いをかなえる。准提観音は京都伏見の真言宗上醍醐寺本尊で西国三十三所中ただ1か所で、遠江三十三番でもここだけである。
弘法大師立像。方形造り、正面の蛙殿が鳳凰。仏壇に鐘:遠江順礼廿四番札所 天保八年丙八月吉日 当国下垂木村 山崎弥五郎 奉納
・御詠歌の額:明治三十四年九月 見附町 高塚金三郎 奉納
・御詠歌の額:大正二年秋彼岸 横須賀念仏講中 
・法楽発句の額:文化十酉年1813 施主 高田良平 
~追加~
・笠付石塔:刻字?、・観音:四(西?)国□□ ?宝永六、朋順禮供養(?)辰七月、
・地蔵3、・丸石と自然石、・祠:地蔵、
・10m東に離れて、・祠:如意輪観音、・地蔵、
・さらに50m離れて、・石塔?、
観音堂のすぐ裏は新東名高速高架壁だが、雰囲気はよい。隣のプレハブ小屋はきれいな和式トイレ、
無住、駐車可、Tel:0537-46-2407、御朱印は手前の下島氏宅(大松園)である。下島さんの奥さんより、昔、粟が岳のお祭りに行ったことがあり、南斜面の軽トラック道農道を通ったと言われた。
○大井八幡神社:東へ100m:・おそらく新東名工事により再建、・石碑、・庚申供養塔:刻字が新しいので昭和55年か萬延元年か、・新:石鳥居、・新:手洗石、


・経路
JR金谷駅から4㎞、徒歩60分。
23番から参道を東に下り、奥貝戸から安田を経て島田市旧金谷町に入る。
・標柱:入口の三叉路:遠江廿四番札所? 
・古い道標:文政五年壬午八月? 

25番まで5㎞、徒歩90分。
24番より25番へは、影島橋へ戻り更に30m進んで、左の谷北橋を渡る。道なりに奥に進み、谷北集落奥のため池の裏を目指す。ため池裏の奥に進み左への道を取り、小川を渡ると目の前に薄暗い掛川坂が現れて来る。特に石塔類は見当たらない。道中は丸石がごろごろしている。おそらく昔はこの丸石で石畳にしてあったのかもしれない。谷北からの入口には標識類もない。
~ここからは24番より、観音寺坂入口までを行く。24番入口の県道から県道を南東に300m進む。右折して150mで昭代橋を渡る。上志戸呂公民館前を通過して第2の橋も渡りすぐ右折して細い道を山の尾根の中に入っていくと観音寺坂になる。入口に道祖神がある。
・石家道祖神:、
~(周辺紹介)~
・番生寺公会堂:石仏等、元は寺、
・大井神社:
・円融寺:
・八幡神社:


・・・掛川坂と観音寺坂について
 以前調べてブログにアップしてあった文章を原文のまま再度掲載する。この2つの坂が、そのまま24,25番の巡礼道の古道でもあり、24番札所はかつてこの坂の途中にあったといわれる。
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*「・掛川坂(島田市金谷志戸呂~行田原~小鮒川)              
 1603年より11年間、東海道として使われた。しかし源頼朝の軍勢も利用したというので平安末の12世紀後期には利用されていたことが分かる。
1600年徳川家康によって制定された東海道はJR金谷駅裏金谷坂石畳の有名な道の方だったが、1603年洪水で島田宿が消失しやや山側の元島田(島田市民病院や鵜田寺所在地)に移転し、島田市大鳥、大井川渡河、牛尾山、島田市(金谷町)志戸呂谷北という古代中世ルートが復活し、1614年まで正式な東海道になった。
牛尾山南端から五和小、五和駅付近を西進、県道81号線大代方面に進む。山の先端部の大井神社に近づいた頃、南の谷北に折れる。谷北集落用水池の奥、茶畑の隣、杉桧植林地の突端に廃道となった切り通し「掛川坂」が薄暗く入口を開け山腹を上っている。冬から春先までなら雑草少なく蜘蛛の巣もないので、気色悪くても倒木や雑木をかき分け進むことはできる。丸石が一面ころがっているところがあった。もしやかつて石畳だったのだろうか。10分程上ると舗装道路(谷北と行田原を結ぶ道で上りきると行人塚前に出るいわば現在の新掛川坂である。出たところは山の中腹にあたる。)に出る。ここに朽ちかけた「掛川坂」案内板が落ちている。舗装道路は山腹を横巻きしてなだらかに行人塚にいたるが、「掛川坂」は真上の茶畑に向かい簡易舗装になった狭い農道として上っていく。上りながらやや左(西)の山頂部(行人塚所在地)をめざすと迷いにくく、10分程である。上り切る手前だけ土道になり山頂平坦部の道と合流し30m先に行人塚があり、先ほど横断した舗装道路とも合流する。行人塚は「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」の石仏が祀られている。(「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行 p.411 参照)舗装道路を広い平坦部に向かいまっすぐ進むとこれが小鮒川集落に向かい降りていく掛川坂旧東海道ルートである。途中左折路のあるところで石道標がある。「右 日坂 こぶながわ ?ひだり(巡れい)二十□(五)みち 九代□□」。 確かにこの道を左折すると遠江三十三観音霊場巡りの二十五番に行く道だ。逆に戻り掛川坂や観音寺坂を下ると、二十四番観音寺に行く道となる。
(石道標はこれからの物も含め4つあるが、摩滅が進み判読困難である。過去に判読された資料を探す方がよい。掛川坂道から粟が岳等に分岐する道を標示している。「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」には三つ載っている。)
水道タンクのあるT字路に当たり、ここにも石道標「右□ これより中日坂 左?しとろ」がある。曲がらずタンク横の狭い土道を直進する。タンク用地を抜けたところで石道標「□□□□□□□年一月大吉三□□ 右 無間山安田西□□ 左?こぶながわ 御願梵□増威国家安穏衆宇喜樂」がある。数本の道が交差しているが、ここもまっすぐを基本に進む。石道標「右 こぶながわ 左 中山日坂」のある左右分岐Y字路に出る。一旦左に進むと茶畑で農道は切れ、眼下に小鮒川が見え、登山道が植林内を下っていく。先ほどの石道標のあるY字路に戻り右に進むと、右の尾根沿い道と左の植林された暗い谷道に分岐する。どちらも軽自動車で通れる。左に進むと道なりに小鮒川集落に出られる。この途中道が広くなり右直角に曲がり小鮒川集落に出る直前、下に茶畑の原が見えるところで石塔「藤六地蔵」と地蔵「地蔵堂」が祀られている。(「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」参照) 刻字は読めない。多分この道が旧東海道かと思われる。なお、右の尾根沿い道を通っても、茶畑内を紆余曲折すれば小鮒川集落に出られる。


観音寺坂(島田市金谷志戸呂~行田原)
「掛川坂」の行田原を上り詰めたところを行人塚と言い「正徳二年巳八月二日 帰真 満願院全行得道上座霊位」の石仏が祀られている。これは地中に埋まっていた物を祀り直した物だそうだ。 横に坊僧墓地と書かれた札が刺さっているところもある。 ここから西の掛川坂や南の舗装道路をたどる島田市(金谷町)小鮒川集落方面への道でもなく、ここから尾根沿いを真下に下る登山道がある。数分下ると茶畑と舗装道路によって寸断されるが、舗装道路を横切り尾根沿いを目印に下ると簡易舗装の農道を下れる。これが「掛川坂」より古い「観音寺坂」である。簡易舗装農道や茶畑内の登山道をなるべく尾根に沿うように下っていくルートが正式な旧道と思われる。農道が旧道だったり逸脱したりするがおおむね尾根付近を通っているので迷うことはなかろう。途中一カ所墓地があるが、ほぼ全て茶畑の見晴らし絶好のルートである。簡易舗装路は軽自動車でぎりぎり通れる。尾根の突端で集落に出て大代川や昭代橋、地区公民館がある。昔から村の中心部だったと考えられる。「観音寺坂」の由来は昔中腹に観音寺という寺があったためだという。下りきった上志戸呂の大井神社西には遠江三十三観音霊場二十四番の観音寺があり、そちらのことを指すとも考えられる。
この坂は「掛川坂」より古いと云われる。尾根を通っていて、掛川坂より距離が長い。掛川坂は短い分傾斜はきついはずだが、そうとは感じられない。楽をしたければ掛川坂の方が良さそうだ。
但し現在掛川坂下方は廃道同然なので、草刈り整備が待たれる。観音寺坂は寸断が一箇所あるが隣の茶畑を迂回すれば十分ハイキングコースになる。どちらも文化財としての古道なので出入り口に標識等の設置が望ましい。

参考資料
「平安鎌倉古道 鎌倉~京都」尾藤卓男
「金谷町史 地誌編」
「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行
「2万5千分の一地形図」国土地理院
ここまでが以前の文章である。
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・経路
掛川坂か観音寺坂を上りきって行者塚を過ぎて、現在台地上の茶畑になっている道を南西に200m進むと分岐点に石道標がある。「右 日坂 こぶながわ 大代村 ひだり 巡れい 二十五ば(者)ん 九代」。この表示での、左が25番札所への巡礼道であることは正しいので、石塔の表示も正しいということは石塔の置かれた位置もおそらく正しいようだ。
たいてい石塔類は近代以降の道路工事や区画整理等で適当に移動されてしまうことが多く、表示内容と現実があっていないことが多いし、表示が正しいように思えても、実はそれなりに移転されていることは多い。
石道標から茶畑内の農道を進む。30mで右方向へ道を取る。600mで諏訪原方向への石割峠道(ホテルミカザト前の道)に出る。この広い道を南南東に200m進むと、西側の現在は台地上の茶畑とその下の斜面の境目の道を進むことになっているが、今は道もない所があるので、とりあえず、この広い道を西斜面から目を離さないように進む。600m進んだあたりで右折して茶畑内の狭い農道を進み、南西の斜面を降りホテルミカザト前の石割峠から小夜中山に下る旧国一:現在の県道:昔の中山新道に出ることになる。その手前の茶畑を下る直前に石道標がある。
・石道標:表「左二十五ば(者)ん」右「みぎ日坂」:楷書で近代製
この石道標に従い茶畑斜面を下ると、旧国一:県道に下り、更に100m下ると左に間の宿菊川に下る道がある。
話を少し戻すが、石道標のある農道を下るより少し手前の茶畑を斜面に下り、植林地内の切通しを下ると、間の宿菊川に下る道分岐点より20m先に出られる所もあり、こちらも古道かもしれないと思える。
県道より左折し閒の宿菊川に下る。途中右折し宗行卿塚に行く道がある。右折し下る。
国1バイパス直前に宗行卿塚がある。ただし昔からここではなく幾度か移転している。
・宗行卿之塚:
・宗行卿之塚移築記念の碑:
・自然石2、
・五輪塔:
そして塚の前の道はバイパスの下のガード道につながるが、ガードを抜けると雑草だらけで道が不明である。多分ガードを抜けて左に進み下ると、下の法音寺の裏に出て川の土手沿いに高麗橋前に出られたはずだ。ガードはあるからここに道があった証拠だが、ガードを抜けた先の道は不明だ。
宗行卿塚から元来た道を上に上って戻りかかると、右に下る道がある。右に曲がると法音寺前に出る近道である。また元来た道を戻っていき、あらためて間の宿菊川に行く道を下ると、途中で旧東海道菊川坂を分断して菊川に下る。
~法音寺前近道~
右に曲がり下ると地域の墓地が左に見える。右方向に寺が見える。辻に祠や石道標がある。
・祠:地蔵、
・石道標:従是宗行卿之塚道 ☜是ヨリ宗行卿□□
さらに下ると法音寺前に出る。
○法音寺:
・石碑:門内禁葷酒、・地蔵、・石塔、・五輪塔、・石仏、・地蔵2、・観音、・六地蔵、
~菊川坂分断道~
菊川へ下っていくとバイパス高架下で旧東海道の菊川坂を上下に見ることになる。この道がちょうど菊川坂を分断している。以前は分断地点より上の道はコンクリ舗装された農道で私は車で通行したことがあった。後にコンクリ舗装をはがすと下から石畳が出てきたのだ。また金谷の方の金谷坂も昔は車で通行できた。一部だけ石畳が残っていて車が上下に跳ね上がり通行しにくかったが、これが旧東海道の石畳の残存だと思い、よく残ったものだと感心していた。ただその頃地元の一部には石畳は通行に不便だから石を取り除いてほしいという声があった。後に東海道ブームとなり、金谷坂の石畳復元となって表立った反対もなく車通行禁止の観光歩道:旧東海道になりほっとした。ちなみに菊川坂も車通行禁止になったが、隣に代替農道ができた。菊川坂の分断された下方部分は以前もっと狭く茶畑の野良道だった。ここも地面を掘り起し石畳を発掘したため道の地面が1mほど下がったし、道幅が広がった。これが江戸時代の東海道である。ここから石畳を下る。左から先ほどの分断自動車道が下ってきて合流する。合流地点から閒の宿菊川の里である。
・説明版:間の宿菊川アイノシュクキクガワ

3軒通過すると右に法音寺参道となり、先ほどの法音寺近道もここで合流する。更に東海道を3軒分下ると高麗橋手前の辻となり、石道標が2つある。本来なら宗行卿塚からバイパスガードをくぐり法音寺裏から土手を伝って来た巡礼道がここで合流するはずだ。
・石道標:右二十五ば(者)ん、・石道標:みぎ二十五ば(者)ん道、
高麗橋を渡らず南南東に進むが、すぐ右の川土手に地蔵がある。
・慈眼延命地蔵尊:
高麗橋手前辻から150mで左折し山際の一段高い道に入る。上りきった辺りで堂がある。
・地蔵堂?:地蔵が祀られている
・石仏3、・手洗石、
400mで下の広い道に合流しそうだが、左に山際の旧道が見える。この山際道を150m進み菊川松島1369⁻3:村田氏宅前に出る。おそらく古道は更に南の1352⁻2-1:岩本氏宅か1377:山本氏宅に出たのだろう。そこから右折(西)し松島橋を渡る。橋手前の新道交差点に献灯がある。
・秋葉山献燈:、・石家道祖神2、
橋を渡って150m進むと道標がある。
・石道標:「南無大慈大悲観世音」「右廿五番順禮道」「宝永七年卯月十五日」「金谷十五□町」
菊川松島1447:山本氏宅横から旧参道を50m上っていく。お堂の前道の下に出る。ここに石仏がある。
・地蔵2、・観音:6臂:庚申か?、・石塔2:扁平石、
すぐ上は25番のお堂である。’16 1/17


・第二十五番 松島山 岩松寺(島田市菊川1447、きくがわ) まつしまざんがんしょうじ  
 創建:天和元年1681辛酉霜月念四日、開基:文宋大和尚、本尊:聖観世音菩薩:木造金彩色立像63.5㎝、創建当時は十一面観世音菩薩、明治16年修繕、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣昭和35年秋、平成2年秋彼岸、次回2023年、大正10年秋荒廃が進んだため再建、縁起: 
はじめ功徳山福寿院とよび金谷宿の洞善院の末寺。一世は嘯山尊虎首座ショウザンソンコで上菊川にこの寺を開基し本尊は聖観音であった。しかし「大正九年の勧化状」では「天和元年酉1681十一月 文宋和尚が建立する」となっていた。奉納される仏壇前提灯には十一面観音と書かれている。「大正九年の勧化状」のもとは旧厨子背後の墨書であろう。「天和元年辛酉カノトトリ霜月念四日 欽敬白 奉造立斯地蔵殿 壱宇 文宋代也 願主 高木治三郎 雲母キララ浩右衞門 宇野□良兵」によったのだろう。堂内の新しい厨子の中に安置されるのは正観音、堂の南の石像も正観音である。
 無住、境内は手入れがされている。駐車可能。
・奉納帳:喜捨の範囲が相良方面一円にわたっているので観音信仰がいきわたっていたことが分かる。
・千手観音:松島中 八十二番 
・弘法大師石像2:当駅松浦文右衛門 八十二番根香寺 
・聖観音像、
・歩き観音:伝説:火剣山の山道にひっそり立つ観音様を里人が観音様が淋しいだろうと思って背負って小夜の中山峠に来て、ここなら人が多いので退屈しないだろうと思って、道端に据えて帰った。翌朝火剣山に草刈に行くと観音様が元の場所にあった。しかも足下がほこりまみれで…、観音が自分で歩いて帰ったのだろうということで、以後歩き観音と呼ばれ足腰の痛みに効き目があると言われる。
☆疑問:いつ十一面観音と聖観音の本尊が交代したのか?
~追加~
・順拝供養(冠と作りを左右にした美良)塔 四國八拾八霊所西國三拾三霊所坂東三拾三霊所秩父三拾四霊所遠江三拾三霊所大正三年九月建立松嶋山本伊右衛門(他数名)
・手洗石2、
無住、駐車可、Tel:0547-45-4988、御朱印は菊川松島1483:山本氏宅である。
お堂前の農道を菊川町富田方向へ150m上るとすぐに大松峠となりやや下る。その右に地蔵が祀られている。’16 1/17


・経路
 JR金谷駅から4㎞、徒歩50分。
24番から4㎞。
菊川の高麗橋のすぐ東の三叉路、道標「廿五番道 下菊川村」
菊川を渡った観音堂への道端には道標「廿五番巡礼道、宝永七年卯月1710」(高さ90㎝、幅奥行23㎝)
急坂200m。
堂は丘の上にあり、下から上る細い道筋に地蔵や道祖神が草に埋もれている。石段は33段。’16 1/17 すでに石段はなく、側溝の流路になっていて、その横を歩ける程度になっているといったところで、歩道にも見えない。一応上って上の舗装路手前に前述した「・地蔵2、・観音:6臂:庚申か?、・石塔2:扁平石」がある。
26番まで1㎞、徒歩20分。
~推定古道~
25番から大松峠に行く舗装路を50m進み、島田市(旧金谷町)菊川松島と菊川市富田の境界線の大松峠直前で道が右カーブする。古道はここからカーブせず、西斜面の山林に入っていく。(菊川松島1483:山本氏に教えられた古道)ルートである。既に平たい道型はなく、雑草だらけである。すぐ5m先の右上で睨み付け威嚇し逃げようとする者がいた。灰色で体長80㎝のイノシシだ。片足を罠にはめ逃げられずもがき、こちらを威嚇してくる。体長からして子供のウリ坊を卒業したばかりなのだろうが、残念ながら人の罠にはまって万事窮すだ。こちらは古道を見たいので、罠から逃れこちらに体当たりをしてこないか気を付けつつも無視する振りで、前に進み少しずつ高度を下げていく。山本氏の話だと、大松峠への道から山の西側斜面にそのまま入って、斜めに下がって行くのだそうだ。確かに斜めに50m下がっていくと幅1mの道型が出現してきた。山林竹林内を50m進むと道型がなくなり、斜面が崩壊している。その上部の竹林内を進めそうだが、ここでやめた。ゼンリン住宅地図では菊川に向けて斜面ががれている地形が記入されており、おそらく道が崩壊したのだろう。しかもこの先でまた崩壊して、以前神谷城から進んで、道型がなくなった所に至るのだろう。その距離ここからおそらく300m以内と思う。あとは道は上り下り少なく300m進み神谷城西深谷につながっていくはずだろう。
杉檜植林地と放置竹林となっている所を300m抜ければ、道幅一間1.8mの道型が残存している所に出られる。とはいっても道ではなく、倒木雑草だらけである。。200m~300m進むと茶畑に出る。ここで茶畑の手前脇をまっすぐに下り、茶畑を過ぎてもなお100m下る。瓦が積まれ手洗石が置かれている3m四方の平坦地に出る。ここはかつて神社だったそうだ。さらに10m下ると、沢横に出て右沢奥には砂防ダムが見え、左下の平坦地に廃屋小屋があるので、左の廃屋小屋に10m進むと、神谷城西深谷の集落北の線路際の雑草だらけの廃墟地に出られた。線路際を南に50m目指すと、現在の集落が見えだす。線路際の道を猶南に進み、下に下り切ると、左に神谷城の線路下ガードが左に見え、26番札所は反対の右に見える。’16 1/17, 24, 2/7

~新道~
松島橋へ戻って渡り、新道の交差点:秋葉山献燈のあった所まで戻り南に向かう。400mで西方寺横を通過する。600mで東海道本線をガード下でまたぐ線路下ガードに達する。右のガードをくぐる。左に100mで26番である。’16 1/17


・第二十六番 杖操山 妙国寺(島田市神谷城妙国寺1609、かみやしろ) じょうそうざんみょうこくじ  
 創建:元和2年1616丙辰、普門山明国寺開く、開基:享保元年丙申1716、5月14日、金谷町洞善院九世実参黙真大和尚、普門殿観音堂を現在地に移した。黙真は享保元年1716五月十四日示寂。文化年中、山号を妙光山と改めたが明治末年に三転し杖操山とした。本尊:十一面観世音菩薩:木製座像30㎝台座金製、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎、昭和48年1973九月、第15回目の開帳、平成18年秋彼岸、縁起: 
神谷城の地名から菊川に続く隠れた要路であり、戦国期には隠棲する人々が住み着いたようだ。境内はよく手入れされている。
周辺は明治5年まで神谷村といっていた。明治8年東深谷、石神の2村に分かれた。明治12年3月城東郡西深谷と3村合併し神谷城村となった。明治23年金谷町に編入。
寺は現在より300m上った寺の跡:テラガイトに普門殿という観音堂が創建された後に寺になったということが妙国寺過去帳に記されている。
壁に「砂の灸」と書かれている。足を砂の中に入れて足型を取り、ツボになる所に灸を置いて火をつけ、住職がそれに祈祷したあと、身体の3か所に灸をすえるものだそうだ。無住、隣家:堂守:落合家だったが、別の寺の管理となった。
・標柱:ここ廿六ばん:入口
・句碑
・堂:六地蔵
・大師堂:菊石3個:(榛央八十八か所)八十一ばん 千手観音:神谷城中、大師像:志太郡島田宿 浜田皆吉 白井 増田 
・菊石:菊川周辺で産出される石で、表面に菊花模様のような放射状の割れ目が多数生じるものである。
~追加~
・如来、・地蔵、・献灯、・丸石4、・自然石2、・手洗石、・明治百年 昭和四十三年、
無住、駐車可、Tel:090-1562-7811、別の寺が管理している。
’16 1/17,24


・経路
JR金谷駅から4㎞、徒歩50分。
27番まで6㎞、徒歩90分。
寺の北に向かうと裏山への古道ルートに上って行ける。寺のすぐ北隣の無人の家は落合義男氏の御宅:神谷城1571⁻1であった。地図「古人の歩いた遠江三十三観音巡礼みち」を作った方であるが、すでに物故されている。さらに隣の増田氏に会い、遺族と連絡してもらったが、遺品類の整理はまだまだのようだ。
ここでご遺族へのお願いがある。落合義男氏の「遠江三十三所観音霊場巡礼道」に関する資料は保存してもらい、将来的には遠江三十三所観音霊場事務局か隣の妙国寺、或は島田市立郷土資料館に寄付していただけないだろうか。多分今となっては消失してしまった古道や石道標に関する写真やメモが残されているのではないかと考えられるので。
落合氏のまた隣の増田氏:神谷城1569には落合氏の遺族に連絡を取ってもらったり古道を教えてもらったりととてもお世話になった。
*増田様、落合様、お忙しい中、ありがとうございました。
さて話を戻して、寺の裏山道を上る。寺の真裏に神の祠が祀られている。
・祠:
100m進むと右にも道がある。ここに2つ石道標がある。
・石道標:「本標 右富田ヲ経テ廿七番道 正面金谷町ニ通ズ 左友田近道堀之内ニ通ズ」「大正十四年四月」「□□金谷□□□」 
・みぎ十十七:この石道標はかなり近代の物なのか?
古道はこの辺りでおそらく直登したものと思うが、今は道がないので、右の道を進む。茶畑農道を進み菊川町富田境界尾根手前に石仏がある。
・観音
・奉拝庚申供養塔 城東郡西深谷村 明治十四年(見ざる言わざる聞かざるの彫)
ここから先は左(南)の山の頂上の鉄塔めざし、庚申塔前で左折する。頂上に鉄塔があるが、其の20m手前に右(南)に下っていく山道があり、それが古道ルートである。100m進むと左右に道が分かれるが、左道は50m先のゴルフ場の巨大給水タンクで行き止まりだ。右道を50m下るとゴルフ場直前で古道は消失し雑草だらけとなる。強行突破してゴルフ場に出たら、電気柵があり、ホロンゴルフ場職員に不審者として見つめられ続けたので、そそくさとまた雑草だらけの中に入り込み元来た方に戻った。’16 2/7

先ほどの石道標のある右に曲がった所まで戻り、直進してみる。
菊川町富田境界手前で道は崩壊していて車では通行不可だが、徒歩なら越えられる。手前の茶畑内に五輪塔がある。
・五輪塔:5~6個で破片も混じる
境界尾根は切通しが見事だが、カラカラサラサラ音を立て崩落が止まらないようだ。富田側は埋まっているが20m先からは舗装された農道になっている。
この辺りを突破できてもこの先はホロンゴルフ倶楽部場で道は消失しているはずだ。
一旦25番札所前を通り、26番札所から境界線尾根を通過して今はゴルフ場になっている山地を抜け、富田側に抜け出たと推定される所に行ってみる。
富田2380:村田氏宅より北に50m行った東側斜面を上る。開墾記念碑がある。
・石碑:「開墾記念 耕心 平成14年10月完成 村田一彦 施工者(株)村田建設」
ゴルフ場側から、このあたりに巡礼道はきていたようだ。現在砂防ダム左横へは金網が張られ立入禁止看板が立てられたうえ、雑草だらけでどうもこうも入れる状況ではない。付近住民から順礼道かは判然としなかったが、昔は砂防ダム横から山に入って行けたと言われた。道を西に下り、先ほどの村田氏宅前を通過し、250m先の川向かいの富田2476-15:村田氏宅前で、右に曲がり、ここ東富田から山向うの西富田側を目指し、茶畑山を農道に沿い上っていく。ちょうどこの交差点に火剣山と赤子石への表示が出ている。右に曲がるとメインの道は右カーブを描きつつ右(北)を目指すが、それは火剣山へのコースなので、すぐ左(西)に曲がる狭い軽トラック農道に入っていく。それが赤子石方向でもある。富田2467₋2:村田氏の話では、ここを昔白装束の巡礼者が通ったことがあるそうだし、石道標もあったそうだ。上りつつ西南をめざす。450mで石が祀られている。
・赤子石:(27番札所、永寶寺住職:大嶽氏談)朝日か夕日を受ける石が赤くなるので赤石となり、それが転化して赤ちゃんの夜泣きに効能がある石ということになったのだろう。富田の老女に聞くと赤子石にお参りすると赤ちゃんの夜泣きやみに効くそうだ。
ここを直進する。150mで石道標がある。
・石道標:「これより右□順礼道」
・石道標:「右二十七番札所ヲ経テ日坂三里 左吉沢和田ヲ経テ□□下二里」
ここで道は右であり、150mで鉄塔右横を通過する。100mで左にこんもり木が茂る所がある。
・馬頭観世音菩薩:明治廿九年十一月五、
・祠:不動尊:
・祠:千手観音:
・石柱2:
50mで右へ下って集落内で広い道に出るか、直進して集落内で広い道に出てもよい。
直進していくと500mで右カーブして又左カーブする所に用水池と祠がある。
・祠:神を祀るようだ。
50m先に堂がある。
・堂:大日如来:菊川地蔵尊巡り第5番永泉寺、羊申年生まれの年寄りが集まってはお祀りしている。
堂の下は公園である。道を右に曲がり、公園横を通過し下ると広い道に出る。ここに石塔がある。
・庚申塔:享保五庚子年庚申元、

~周辺~
赤子石の150m南の石道標から左(南東)へ900m進む。平地へ下る手前の丘上に祠がある。
・津島神社:・手洗石、横に古道の切通し道がかろうじて倒木や雑草の中に残存している。
 100m南に進むと平地の広い道に出る。隣は富田東富田1077:鈴木氏宅である。ここに赤子石への案内表示がある。道向かいは富田東富田786₋1:サワイリエンジニアリング工場である。
150m南下すると広い道(公文名と友田とを結ぶ道)との交差点に出る。右折(東)して100mで右に神社がある。
○七所神社:・石鳥居:大正十二年、・石柱2、
西隣に石道標がある。
・石道標:「右里道 左東海道ニ至ル 御成婚紀念 西富田青年團」
道なりに西進していくと、先ほどの享保五年の庚申塔のある道出口に着く。

ここが西富田である。広い道を西進する。100mで北からの道とのT字路になる。ここに石道標がある。
・石道標:「右東海道 六  前小夜中山□金谷  左吉沢ニ通ズ  御成婚紀念 西富田青年團」
・水準標識らしきもの、
広い道を300m西進すると南へカーブする所で、右に入る狭い道があり、西へ直進し、ため池の北側に達するはずなのだが、その狭い道がない。一旦南カーブして次の右折で右に入る。山を開墾して平坦かつ広大な茶畑が広がる。ここで富田境界から西方へ入るあたりで、西に向かう尾根を探す。標高差5mの丘があるので上ると西への山道が続く。
・西への尾根道:距離700m、徒歩10~15分、山を開墾して平坦かつ広大な茶畑が広がる所の富田と西方の境界線辺りにはかつて三叉路の辻があったようだ(大嶽氏談)。境界線の西南端の所から西南の丘に5m上ると西南西に向けて細尾根の平坦道が続く。150m進むと茶畑手前に2m間隔で4つのコンクリが突き出ているものが2セットある。よく見ると元高電圧鉄塔の土台部分だ。鉄塔自体を取り外し、コンクリにつないだ部分を溶断して、コンクリ土台部分だけ残存しているようだ。ここまでは草刈りされて歩きやすい山道だったが、ここから草だらけの細尾根山道となる。150m進むと鉄塔があり、草だらけの道からちゃんとした鉄塔巡視路となり、下り道になり下りていくと、西方6728:高橋氏宅(棒杭といわれる家:永寶寺住職談)の北側に出る。おそらくこの道が古道の巡礼道と思われる。
舗装道路に下りれば永寶寺は池の向うだ。寺の直前の右に地蔵がある。
・地蔵
当地域で古い巡礼道を尋ねていると、27番札所永寶寺住職:大嶽氏に会うよう勧められることが多かった。
’16 1/24 2/7,11


・第二十七番 瀧生山 永宝寺内慈眼寺(菊川市西方6748⁻1、にしかた)りゅうしょうざんえいほうじないじげんじ  
 創建:未詳、中興:元和2年1616、開基:不詳、本尊:十一面観世音菩薩:木製立像、聖観世音菩薩:金銅製立像、宗派:真言宗、開帳:33年毎、縁起:
永宝寺の西南300mの所に公文名クモミョウから潮海寺に通ずる道があり、途中の村境の山の麓に慈眼寺という小寺があって今も慈眼寺屋敷という小区域がある。
浜松笠井新田の大楽院の子で当地に来て杉本坊といい、修験者:山伏で後に寿本法印と称した。杉本坊は慈眼寺の別当:住職となり、その子観滝院久仙法印が二代目になった。堂が大破したので、再建しようと、天和三年1683春、今の堂の後の山を一丈余りも崩したところ土中より消し炭が一俵ばかり出てきた。その中に金色の観音像があった。京都の仏師に見せると、弘法大師が唐仏で制作したもので17.5㎝の聖観音菩薩だとのこと。堂宇を建て観音を安置して開帳して、参詣者を集めた。更に17年後の元禄十三年秋にも開帳した。この聖観音以前は十一面観音であったので、今ではこれをお前立ちにしている。
寛永五年1628□上三右エ門様が御除地を寄進され、寛永九年の御墨付と二通所持している。(当山七世貴教院元誉 宝暦十一年1761六月記録する)
寺の持仏は不動明王で日切り不動尊、滝之谷法印とも呼ばれる。下池、中池を従えた小高い丘の上。観音は旧慈眼寺の本尊。潮海寺道に宝蔵坊と呼ばれる所があり、以前そこに寺があったという、寛文八年の鰐口に川村庄慈酬寺と刻せりとある。天和三年1638春、観音堂移築造営の折り、土中から聖観音菩薩像が出現した。
小笠郡唯一の修験道寺院、
・化石:堂の前に平たいすべしべした石、寺の付近は推定40万年の化石層群、太古は海岸線という。昔から近在では化石を使い庭石や飛石に使っていた。かつて化石を砕いて鶏のエサにしていたことがある。附近は今川、斯波両氏の古戦場跡で首塚、胴塚がある。
・十二支守本尊:石仏8対、寺の裏山、南から北に向かって子年生まれの聖観音から亥年生まれの阿弥陀如来が祀られている。
・弁天堂:弁財天、下池の浮島、寛政九年1797近江の竹生島から弁財天を勧請、雨乞いの弁財天。
・海棠:樹齢200年以上、4月中旬に満開の花、槇、梛ナギ:樹齢300年、
~周辺:やえん野猿:境内から対岸へ人力ロープウェイ2人乗りが掛けられている。
有住、駐車場有、Tel:0537-35-2975
~追加~
・石家道祖神:多数、・祠:石仏、・手洗石、・不動明王、・新:献燈2、・観音、
・石仏:南無阿弥陀佛 元禄五年、・庚申塔 大正五年、・石塔、・常夜灯の笠、
・昔は接待用の食物に工夫が凝らされ、当所では「枇杷湯」だったそうだ(大嶽氏談)。公文名の三叉路辻を西の掛川八坂方面へ500mへ進み掛川市影森との境界尾根を越える所の右上に祠が祀られている。永寶寺末寺のお堂があった所のようだ。
・祠:・南無阿弥陀仏、・石仏2:三面観音 


・経路
JR菊川駅から5㎞、徒歩60分。
26番から4㎞。
永寶寺から南へ進む。池の端に地蔵がある。
・地蔵:先述してあるが再掲する。
先述した棒杭こと高橋氏宅前も通過する。
400m進むと、公文名の三叉路辻に達する。
・石道標:従是左廿七番順礼道 西方村慈眼寺:公文名の三叉路の辻、高さ1.2m 
~追加~
・石道標:寺に入る三叉路:「右河城村富田ニ通ズ 正面堀之ノ内停車場ニ通ズ 西方村青年會公文名部 左影森ヲ経テ日坂ニ通ズ」、
・石道標:「左東海道へ通ズ」
・石道標:「右河城村方面ニ通ズ」
28番へ4㎞、徒歩60分。
公文名の三叉路辻から南を目指す。250m進むと右に神社がある。
○神社:・石柱:御即位記念、・手洗石、・石鳥居:昭和十一年、
300m進むと右奥に神社がある。
○井伊谷神社:・石柱2、・石鳥居:大正十五年、・石段、・板碑、
南100mにも神社がある。
○神社:・石柱2:大正十二年、・秋葉山常夜燈:平成二十六年:センサー付き電球、
    ・石鳥居:、・手洗石、常夜灯:明治十一年、
古道はどうも住宅と裏山との境の山際辺りを蛇行して進んでいたようだが、現在では、そこに道はないので、現代のまっすぐな自動車を進む。600mで奉仕橋がある。渡って西方川の左岸(東)を進む。左岸道は途中で道が消失する。沢田茶農協の裏手を歩けば通ることは可能である。古道はおそらく山際辺りを通行したのだろう。沢田茶農協西の田んぼにお堂がある。
・お堂:首塚様:説明版:所在地:沢田坂下:首から上の病には、この首塚様へ願をかけ、願い叶えば松笠や穴あき石に糸を刺し齢(年)の数ほど供えなされ。昔から願掛けすると必ず治ると遠近からの信者の参詣が後を絶たない。しかしその由来は定かではない。建武三1336年、今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江守護となり以後60年が続いた。応永二十六1419年尾張の斯波氏が守護となり、その後約100年が続く。このようなことから鎌倉時代後に武威を張っていた今川方の古名族横地氏も斯波氏に属することになった。しかし今川義忠は遠江を回復せんと堀越陸奥守貞延を総大将に横地・勝間田の本拠地小笠・榛原に進撃、小夜の中山南側の海老名エビナ・影森・公文名一円が壊滅的戦場となった。士将貞延も牛頭ゴウズまで来て惨敗したと伝えられ鞍ごと池に投げ込まれたと言う。この鞍骨池伝説や海老名辺りに点在、祀られている石塔は往時を物語るものと思われる。この首塚様や堂山は、この戦の名だたる武将やかかわりのあった人たちを供養お祀りした場所と思われる。近年は霊験あらたかということで病気平癒と合格の祈願の信仰を集める。平成20年(2008)1月吉日 菊川文化財保存会鈴木利夫氏の文を基にして記入
*18番から19番への途中で鞍骨池近くを通過し、堀越入道伝説の石仏がある。

ただし左岸沿いには道がない所があるので右岸を迂回せざるを得ない。奉仕橋から右岸道250mで右山腹に神社がある。
○三島神社:・庚申塔:平成二十年、・祠3、・石柱:昭和四十一年、
右岸道300m右への道100m奥に神社がある。
広い道(公文名の市道と県道菊川停車場伊達方線)が合流する箇所に石道標がある。
・石道標:「右瀧之谷守本尊ヘ廿五丁 左東海道ヘ十五丁 堀之内駅ヘ廿七丁 大正十四年環居紀念」
○寅尾神社:・手洗石:昭和三年、・石柱2、・石段:御大典紀念昭和参年、・板碑、
・狛犬2、・庚申塔2:大正九年、寛政十二、
道の合流地点から100m南へ進むと右にコンクリート擁壁がある。そこに石仏がある。
・石仏:すでに地蔵か観音か不明だが、頭部上部に細長いものがあるようなので、おそらく馬頭観音かと思われる。
100m進む。右に寺院がある。
○洞源院:・地蔵、・観音、・観音:西国三十三所安永四乙未、・手洗石、・昔の鬼瓦、・祠:神、・新四国第八十六番霊場昭和九年、・菊川地蔵尊巡り四番、・洞源院昭和五十年、
・石道標:「記念 東海道一斤八百八メートル 十六町二十間 堀之内駅ヘ二千八百三十二メートル 二十五町五十一間 大正十三年一月廿六日建之 澤田部青年團」 
50m進むと東海道新幹線に達する。古道は西方川左岸沿いのようだが、道がないので右岸を迂回する。右岸道150m行って右道奥に神社がある。
○七社神社:・新:献灯2、・石鳥居:御即位紀念大正四年、・常夜灯:明治四十三年、
      ・石柱2:大正四年御即位紀念、平成二十三年、
右岸道50m進み右奥に神社がある。
○岡の宮神社:・石柱:大正六年、・石鳥居、
 岡の宮神社の150m南の県道菊川停車場伊達方線が西方4503₋2山西茶農協製茶工場横へ東に入った路地に石仏がある。
・石仏:馬頭観世音、
右岸道を迂回したが、途中で左岸道が現れて来る。新幹線ガードから左岸道を1.2㎞進むと県道掛川浜岡線の1本北側の旧道に当たり左折(東)する。北の山腹に神社がある。
○山宮神社:・板碑:大正八年、・庚申塚:明治三十年、祠3:神、
・石鳥居2:大正十五年、、献灯2:昭和四年、・祠:子育て地蔵、・手洗石、
・祠:地蔵、・板碑、・秋葉山常夜燈:木造金属葺、・石段:皇太子殿下御降誕記念、
・石柵:平成二十年、
古道的には300m東進して南下して東海道本線をくぐって28番に達するのだが、線路をくぐる道はもっと400m東進しないと無いので、そちらに迂回する。
28番正法寺の奥さんによればかつては石道標があったそうだ。
迂回したガード下道の100m手前東の丘上に神社がある。
・神社:・お堂、・コンクリ手洗石、南側に階段状参道があるが、草と倒木で使われていないようだ。北側は新興住宅地で道に面しているが、柵と擁壁があり、入口がない。ということは誰も祀っていないのか? ’16 2/11

~周辺~
県道掛川浜岡線に沿ってあえて反対だが西に進むと寺院や神社がある。
○西福寺:田ケ谷:・鐘、・手洗石、・祠:神、・三十三観音、・地蔵、・奉納大乗妙典、
  ・庚申塔:田ケ谷連中、
○八幡宮:田ケ谷:石柱2:昭和五年、・祠2:神、・手洗石、
・石鳥居:大正九年世界戦争終局記念、
・秋葉山常夜燈:昭和十一年:センサー付き電球、
○竜雲寺:福天権現を祀る
・裏山には稲荷神社:
・南の山上には田ケ谷神社:
県道掛川浜岡線と東海道本線に交差する所で線路をくぐる所に戻ってくる。
古道はどうも迂回せずに28番へ直に向かったようだが、現在そんな道はないので、迂回を含めガードをくぐって線路の南に出る。西の山際に28番がある。 ’16 2/11


・第二十八番 拈華山 正法寺(菊川市西方1329、にしかた)ねんかざんしょうぼうじ  
 創建:天正2年1574、開基:堀田正法、開山:龍雲院三世実伝宗貞和尚、本尊:聖観世音菩薩:寄木造り座像72㎝:伝行基あるいは運慶あるいは逢雲作、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎、縁起:
旧菊川町の寺院は森の大洞院の流れを汲むものが多い。
桐田氏私見:堀田氏は堀内氏(城飼キコウ郡:小笠郡堀之内城)で正法寺開基は堀之内重親だろう。ただ武田徳川の争乱期で寺院を開基し経営できたかは検討を要する。
安政三年1856冬失火焼失、本尊は免れる。諸堂再建は廃仏毀釈で進まず大正14年1925竣工。堀田城城主堀田正法開基で龍雲院三世実伝宗貞を招いて開創、八ツ谷観音、厄除観音、子育て、縁結び、
・鐘楼:鐘がない、戦時中供出。平成4年鋳造。
・丸い大石:「天保十四年 二十八番札所 正法寺」:参道入口、
・本堂:大正十四年落慶、
・梅古木:本堂前、
裏山は山城:堀田城または松下城、山城の輪郭が残る。中腹には円墳があったが、崩落の恐れがあり1993年発掘調査、記録保存し整地し正法寺霊園になっている。
~追加~
・堀田城(松下城):裏山には上れるし、本曲輪には標識「本曲輪」が立てられているが、他は一切ない。曲輪や堀切があり、しかも二重に切られた堀切が複数あるなどするが、そういった説明や標識類がないことが残念だ。
・円墳:霊園の中央部分らしいが、記録保存して取り壊したので一切わからない。
地元の郷土愛好家グループや教育委員会で標識や説明看板を立ててほしいものだ。
・祠:神を祀る。・供養:地蔵10、・新;献灯、・新:手洗石、・古:手洗石、
・裏山山頂:祠:秋葉山三尺坊大権現、秋葉神社   ’16 2/11
有住、駐車場有、Tel:0537-35-3612


・経路
27番から4㎞。JR菊川駅から1㎞、徒歩13分。
・石道標:正法寺、寺入口
29番へ12㎞、徒歩180分
寺入り口の道を南下する。
~周辺~
東側の山上には常葉学園(大学、短大、高校、美術館)、楠木神社、菊川神社、大徳寺、公園、グラウンド、市役所、福祉施設、教育施設がある。

不本意だが古道がないので現在の自動車道を東名高速もくぐり1.5㎞進む。
途中東名高速高架をくぐる手前の東に神社がある。
○八幡神社:加茂、白岩東:・石柱2:、・手洗石:(二つ割れ)、
・石鳥居:明治十十十(廿の3本)六年、・献灯2:臺灣(台湾)高雄市織部恭市昭和十一年、・石段、・新:手洗石、・古:手洗石(割れ)、・石段、・狛犬2、
・石柵:昭和六十一年、
左折(東)し県道高瀬菊川79号線を東に800m進む。
途中北の高台に神社がある。鹿嶋神社:古墳でもある。
○鹿島神社:古墳、
・石碑:鹿島神社参道入口 平成二年、石造成記念、・鹿嶋神社表参道 平成九年、・石鳥居:明治三十九年 再建平成六年、石柱2:大正九、・新:手洗石、・石鳥居:平成二年、・石柵:平成九年、・石柱2:大正四年十月 御大典 五丁目氏子中、・石柱2:、・狛犬2:平成六年、・献灯2:平成六年、・稲荷神社:稲荷2:平成二年、・石家道祖神、
・鹿島遺跡:説明版:今から4~5千年前、縄文時代中頃(加曾利E式)の村落跡、道を隔てた北側からは宅地造成の際に二軒の縄文住居が、また遊園地の東部分からも二軒の住居跡が見つかり、土器、石斧、石器の材料の黒曜石斧が発見された。町道より境内に入るために切り取られた道しろ辺りと園地の東南部分で比較的新しい住居跡が発見された。出土土器は八斗地遺跡(旭グランド)の奈良時代のものと似ているのでおよそ同時代の村と考えられる。
・鹿島古墳:説明版:公会堂脇にある古墳は今から1400年前のかなり身分のある人の墓で、周囲には円筒埴輪は巡らされ、直刀を出土し、直径は十数メートルあったが、現在は西半分が残っている。埴輪を伴う古墳は郡下でも数カ所しかないが、そのうち旧菊川町内に3か所ある。高田ヶ原公園に2カ所。役場西の森の高田原の大徳寺前方後円墳は古代この地方の王の墓だが、この王の墓を中心に代々主な古墳がこの台地に作られ、集結している。打上台地は東寄りから南べりに八幡社の円墳まで数箇所に古墳があるが、今はほとんど消失した。この原一帯は湧水のある場所に奈良時代の家が散在し集落を形成した。菊川町の古代は、この高田原台地を中心に文化が栄えていたことを物語っている。

県道掛川浜岡37号線に達し右折(南)し900m進む。バス停東名菊川辺り:加茂2141-6:DAI建築設計事務所で左の路地に入る。附近にはガソリンスタンド、おちあいサイクル、大倉工業工場がある。’16年現在、周辺路地は区画整理され直し、この路地は消滅した。菊川の土手道に達するまで南下する。250mで再度同じ県道に吸収される。菊川警察署前である。350m進むと加茂橋があり渡る。200mで円通寺を通過する。円通寺裏には東新池や神明神社があり、円通寺と逆の右(西)には加茂神社がある。
○円通寺:・地蔵:多数16、・観音、・石仏2、・手洗石:昭和九年、・堂:、・石柱、
・献灯:平成八年、
・秋葉山常夜灯:木造瓦葺だが中には常夜燈ではなく神棚が祀られている。
○神明神社:菊川市小出753番地:説明版:由緒:元和八1623年9月創建、以後幾多の修造棟札あり、2010年1月御霊代奉鎮祭営む、番地も七五三と縁起大吉。
・石柱2:昭和二年、・狛犬2:平成五年、・献灯2:平成五年、・石鳥居:平成十五年、・石段、・手洗石:明治十三年、・木鳥居:、・板碑、
○賀茂神社:菊川市加茂東門2859番地:説明版:当地加茂の地名にもなっている。祭神:別雷ノ命わけいかずちのみこと、例祭日:10月第2日曜日、寛治六1092年創建、昭和16年1941菊川改修工事で現在地移転、1978年大幅修理、平成18年拝殿建て替え、本殿大幅改修、公園整備、
・石柱7:大正十四年、・石鳥居:明治三十九年、・新:献灯、・古:献灯台座、
・手洗石:嘉永六、・板碑、
500m進むと左(東)に小笠高校があり、手前に藤谷神社がある。
○藤谷神社:・手洗石:文政二年、・石鳥居:明治四拾參年、・御神燈:明治三十四年、・狛犬2:昭和中、・巨木の切り株、・五輪塔2;破片、・石塔:「いなり 正八まん」
 藤谷神社参道入口に天然記念物がある。
・天然記念物鶴松 昭和十四年:根元直径50㎝、・石仏:馬頭?、
元の県道に戻り、450m進むと左に天白神社がある。ジャンボエンチョー駐車場入口横である。
○天白神社:
・石鳥居:平成六年、・祠2:、・金刀比羅神社、
250m進むと左100m地点に神社がある。
・天神神社:祠2、
 天神社から東へ150mで土橋集会所を過ぎて広い舗装路に出た所で石柱がある。
・石柱:大正五年、
この広い道を300m南下すると下組公会堂がある。
・祠:神、・板碑、・石柱2、

県道に戻り450m進み横地郵便局を通過し東横地、西横地、土橋、奈良野の境目辺りのT字路に至る。左折(東)し東へ300mで三沢橋に至る。渡ってすぐ土手道を南下する。550mで法華橋に至る。左(東)奥に法華寺もある。

なお東方地域の横地は中世豪族横地氏の居城、横地城が残っている。
○横地城:中世東遠横地地域の豪族横地氏の居城:山城。今川義忠の攻撃によって落城、
・藤丸館の跡:説明版:横地氏最後の若君の屋敷跡、文明八1476年に今川義忠自ら500騎を率いて横地城を襲い、攻防一週間、ついに落城し、横地秀国、勝間田修理亮、共に討ち死にしたが、今川義忠もまた、凱旋の帰路、南山の正林寺附近(塩買坂)で横地の夜襲を受けて討ち死にしたが、この時の横地の遺児が藤丸といわれ、横地氏の再起をはかったといわれる。
・かくし井戸:半月型の井戸で城主居館の水の手である。
・武衛原庭園跡、斯波武衛邸宅跡:応仁の乱、西軍の雄、斯波武衛義廉しばぶえよしかど:の邸宅跡と言われ、この一帯は家臣団の住居があったと伝えられる。
・身内原、
・のろし台跡:横地城の支城で、ここより南1㎞、赤峰にある。当時の街道が通過する峰で戦略上重要な地点にあり、頂上付近に段と濠が構築されている。
・金玉落し、膝つき谷:城兵戦闘訓練の場で兵は膝つき谷の底に膝をつき待機、山上より太鼓を合図に金の玉を谷底に落し兵は一斉に尾根をかけ上り、また谷に下り、玉を探し当てた者は山にかけ上って賞を貰ったと伝えられる。
・一騎駆いっきがけ:両岸切り立った絶壁で、大軍を擁しても通過するためには一騎ずつしか渡れないので、この名が付いたのである。この一騎駆の両端には必ず狙い撃ちできるよう、構の段が造られていた。 
・史跡横地城跡:国指定重要文化財(史跡):説明版:室町時代国人領主横地氏の山城で、長さ1.5㎞と大規模で築造形態の完成度の高い中世城郭である。城は標高100m前後の山頂部を曲輪くるわとし、東曲輪(東城)、中曲輪(中城)、西曲輪(西城)の三群から構成される連郭式山城で東曲輪がその中心にあたる。各曲輪を中心に尾根や小支線に平場や堀切を丁寧に築き堅固な防御を成すと共に、自然地形を利用した要塞となっている。当城郭は保存状態がよい。周辺は静岡県立御前崎自然公園で四季を通じ風光明媚である。
鎌倉時代から室町時代にかけて、遠江の古名族として武威をはせた横地氏は、平安時代末期に八幡太郎源義家の庶子ではあるが、長男として生まれた家長(永)に始まる。城は自然の地形を巧みに利用した山城で、東端の丘の本丸跡は西に向かって大きく三段をなし、頂上に土塁が残り、北に向かっては数段を構成し、最下部の段に井戸跡がある。この段から北西に向かって延びる尾根はいくつかの切り堀で分断され、各所に段を形成しながら深い谷に向かっている。他の方角は険阻な地形ではあるが、やはりいくつかの段が築かれている。二ノ丸は現在神社のある丘で、大きく南に向かってほぼ四段と土塁と濠によってなり、頂上からは落城当時を物語る焼米が出土する。二ノ丸と本丸の中間にある中城は南側に土塁と空濠が、中ほどに木戸跡がある。家長(永)に始まり十数代遠江に君臨した横地氏も文明年間、同族の勝間田氏と共に今川氏に対抗して敗れ、両将共に討死した。一方戦いに勝った今川義忠もその帰路、正林寺附近(菊川市高橋)において横地の残党により、命を落とした。義忠の急死は今川家に相続争いを起こし、これを収めることにより、伊勢新九郎のちの北条早雲が台頭するきっかけとなった。その後永正年間に至り、今川氏の遠州掃討によって横地氏は滅亡し、わずかに生き残る者も各地に四散した。ここ横地は一族の本貫の地であると共に横地姓の発祥の地であり、城は四百数十年にわたる横地氏一族の夢の跡である。菊川市教育委員会。
・横地氏:平安時代の11世紀中頃、源義家と相良の土豪:相良太郎藤原光頼との娘との間にできた子が横地太郎家長と伝えられる。家長は二俣弾正によって養育され以後、横地を本貫地として横地姓を名乗り今川氏に滅ばされる閒約400年間を遠江の古名族として君臨した。菊川の横地が全国の横地姓の発祥の地となっている。現在城の西に広がる丘陵から東横地のムラにかけて横地氏に関わる史跡が多くみられる。近年の発掘調査によって横地氏の居館跡の殿ヶ谷遺跡、武家屋敷の伊平遺跡などが発見され当時の全貌が少しずつ明らかになってきた。家紋:鶴に丸、亀甲に花菱。
・二の丸:副将級と他地域から応援に来た武将が詰め、標高94.9m(この頂上に明治35年1902静岡市麻機知徳院から家長像が来て小祠を立て、それを機に、横地氏を祀る現在の横地神社が建てられた)、南側は五段に形成され、前面に土塁と濠が廻らされ、北側は像の鼻に向かって八段、東の谷に向かって三カ所に段が構築され、うち二カ所は十一段からなっている。社の裏手からは落城当時の焼米が出土した。
・金寿城(本丸):戦時に城主、家族、重臣が住み、作戦協議、軍政協議をするところで、標高101.7m、南側は絶壁に近い要害で、なだらかな北側に向かって数段の段を構築、北西に向かう峰は数箇所切断、堀切をつけ谷に向かっている。東南よりにわずかに残る土塁が往時をしのばせる。
・横地氏一族の墓石:この周辺一帯から横地ゆかりの墓石が無数に発見されている。多数の宝篋印塔、五輪塔。
・三光寺跡:横地城入口付近にかつてあった寺院。祠:地蔵。


 三沢地域には遠州七不思議の三度栗伝説が残っている。
○三沢の三度栗伝説:三沢910:弘法堂、八幡神社前の参道脇に三度栗がある。昔旅の僧がやってきて子供たちから栗をもらったので、御礼に年に三度実がなるようにしたという。この僧は弘法大師であったという。地域によっては家康が使った箸を地面に挿したら、三度栗になたっという話がある。
*参照:「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、遠州七不思議の項目、
 その他の遠州の昔話の本多数、特に御手洗清の著作本。

法華寺前からは古街道:秋葉街道である。秋葉街道を紹介した資料があれば29番:正林寺まで網羅できる。
●「秋葉街道~塩の道をゆく~」小笠町教育委員会、小笠町郷土研究会
●「静岡県歴史の道 秋葉街道」静岡県教育委員会
●「塩の道ウォーキング」静岡新聞社
以上3著より以下に引用。

・法華寺:無住、永正元1504年開創、庄蔵屋敷の安方武右衛門家の祖先で鷲山伝八郎夫妻の位牌がある。本尊:釈迦如来。
~追加~
・石仏らしき、・献燈:柱らしき「氏子」、・手洗石:文政十一年、・祠:稲荷、


~周辺~
○春日神社:上平川30番地:祭神:あめのこやねのみこと、例祭日:10月9,10日、由緒:創建不詳、古老伝承によれば延喜式神名帳所載の遠江國城飼郡二座の一奈良神社にして中古奈良春日と唱え後世奈良の文字を省略して春日大明神と称した。当社の背後に奈良野と呼ぶ所ありて、その所の古記を接ずるに八幡太郎源義家及びその妾腹の男、遠江城飼郡横地の城主横地太郎家長深く当社を尊敬し東横地藤谷山に分霊す。比今の藤谷神社なり。明治6年3月郷社に列格する。
・郷社春日神社:明治四十四年、・塩の道 小笠町郷土研究会 平成十年、・塩竃神社、・水神社、・石柱2、・石柱2、・石柱2、新:手洗石、・石鳥居:明治十十十(廿の3本)八年、・献灯:火袋なし2、・征露紀念燈、・狛犬2:平成二十二年、・献燈2、

・瓦葺の祠:上平川152⁻3の西隣:中身は無い。法華寺から春日神社への秋葉街道沿い。
・大塚古墳:前方後円墳、未確認
・高田の渡船場:今の高田橋より下流、馬頭観音(かつては渡場入口にあったが今は大船渡橋袂)、
・船見山太郎坊大権現:菊川市下内田字高田:高田秋葉山常夜燈、日限地蔵堂、庚申塔、五輪塔、石道標:大正五年建立:他判読不能、
・菊川改修記念碑、石道標:「右平尾八幡宮及ビ内田村応声教院ヲ経テ掛川町ニ至ル」「堀ノ内池新田往還ニ通ズル」「太郎坊ヲ経テ稲荷部岩滑村ニ至ル」「大正五年五月建立」寄付者 堀之内五丁目 青木石材店、
・石道標:「太郎坊大権現へ一丁」高さ210㎝、幅25㎝、最近の物か
・高田の大屋敷:古川神社、内田氏の居館跡、

法華寺から牛渕川沿いを250m南下する。100m右(東)の大鹿池の西端に板碑がある。
・板碑:水神宮
300m南下。左に堤城址(城山城)がある。
・堤城址(城山城):室町後期、松井氏の居城、駿河国葉梨郷(藤枝市)に居住し、数代にわたって今川氏に仕えた武将、松井信薫の代に戦功により平川郷に移された。松井信薫の堤城在城は永正十1513年から翌年までの1年間で二俣城に移っている。築城廃城も不明、牧之原台地から西へ派生する尾根の先端部を利用して築かれ、現在は尾根上に曲輪と考えられる平場がいくつかみられる。城を尾根から切り離す東端の堀切は、後世にさらに削られ相良(秋葉)街道として利用されたようだ。堤城の名は戦国期の資料にはみられないが、江戸期の内山眞竜『遠江風土記傳』には城跡の図とともに、堤の城跡、平川村にあり、松井左衛門亮住し、天正以後廃ると、記されている。図では城の東南、現在の墓地の所を松井屋敷跡としている。
永正十1513年今川氏親が松井山城守(宗能)に下平河を与える。
享禄元1528年今川氏輝が松井八郎(貞宗)に父山城守宗能からの相続を認める。平河の地名は記されていないが相続したと考えられる。
永禄二1559年今川氏真が松井左衛門佐(宗信)に父貞宗からの代官職の相続を認める。平河の地名は記されていないが相続したと考えられる。
永禄三1560年5月今川義元とともに松井宗信討死。
同年12月氏真が松井八郎(宗恒)にあてた所領安堵状には、いくつかの所領とともに「下平河替地余之事」「上平河代官職之事」とある。
元亀三1572年武田信玄が松井山城守(宗恒)に「敷地、百五拾貫」(磐田市)等とともに「上平河之内同下平河散田地共六拾貫」を安堵する。
天正元1573年武田勝頼が松井山城守(宗恒)に信玄が与えた本領を安堵する。
・五輪塔2:松井城主の墓、・津島八幡神社、・天満天神宮、
○阿弥陀堂:600年前、この奥に林正院が建っていたが廃寺となり、掛川市旧大東町に移転、阿弥陀堂のみ残存、とはいっても近年再建されたらしいプレハブ建築小屋のような建物。本尊:阿弥陀如来、創建不詳。・石碑:阿弥陀仏、・石仏:六地蔵:一面二仏で三面、・地蔵:首なし、
城山霊園の南東100mに神社がある。
○春日神社:創立不詳、文亀元1501年領主当村堤城松井兵部の子息松井左衛門亮再建を加え領内庶民の安穏祈願せし随而平川郷棚草村産土神と尊崇す。
・秋葉山常夜燈:瑞泉ヶ谷の秋葉道T字路に立っていたが道路拡幅で神社境内に移転。不明で未確認。・石鳥居:平成九年、石柱2、・手洗石、・百度石、・献燈2:平成九年、・水準点、・塩の道:平成十年、’16 2/21
200m東進。下平川2744:相羽静夫氏宅前の十字路に至る。秋葉街道はここで右折し南進する。他を紹介すると、ここで左折北進し山を削った切通し道を抜け大鹿池に行く道がある。「この近辺はかつて酒屋、油屋、酢屋、豆腐屋、茶屋、旅籠等商店で栄えた」相羽静夫氏談。ここで一旦直進東進50mして右折50m で丘の麓に墓地がありお堂がある。
・志味堂:手の込んだ立派な祠には本尊:延命地蔵菩薩、城東三十六カ所の34番札所、・石像:不動尊:自然石線描着色、・石塔:三界萬霊一切含顕、手洗石:嘉永三、
かつては立派だったのだろうがかなり傷んでいて廃屋に近い。
十字路より300m南進するとひかり保育園に達するが、その右(西)2軒目の下平川1810₋2:宮城氏宅が昔、石原屋だったらしい。また手前の長谷川宅も商売をやっていたようだ。
・石原屋:街道脇の茶屋でうどん、そばを売って、旅人や商人の休み処で繁昌したという。訪ねてみて、娘さんか息子さんの嫁さんらしきが対応してくれたが、商売をやっていたという話は聞いたことがないらしい。隣の長谷川さんが商売をしていたという話をしてくれた。
昔は牛渕川本流がこの辺を流れていて、田んぼから橋杭が出たという、地名石原もそこからつけられたという、慶長年間の牛渕川大改修で新川として西方に移動した。
ひかり保育園南の交差点を南進するのが秋葉街道で巡礼路だが、ちょっと寄り道して左折(東)100mで左に公会堂があり、その一部にお堂があり、右には寺がある。

・宇洞軒:八幡が谷公民館:下平川4829⁻1:お堂は瑞泉庵を移した堂、宇洞は地名、13仏は寛文年間、宮城新左衛門が中心となって創祀され、各忌日の本尊に配され且つ12支の守り本尊でもあり、昭和51年修復され金色燦然と輝き往古を偲ばせる。瑞泉庵より宇洞軒に什物地蔵と守匠眼大徳の碑が移され立っている。春秋彼岸会、七月盆会には盛大に供養。13仏と1仏の計14仏。

○霊松山好運寺:下平川4932:宇洞軒の南の山の中腹に建立されていた。臨済宗、本尊:聖観音菩薩、寿塔:勝川和尚、天保十五1844年、寺記によれば名僧恵山は梵漢和学識高く、織部鳬山フザンが97歳で寿塔を建てたことに倣い自らも鳬山に馬骨塔の書を請い建てた。
・説明版:卓應復按する開山春厳は天正13年3月17日示寂せり而して開基正次慶安3年8月4日逝去す。この間既に66年を経過す。古記に□するときは正次甚だ幼少に過ぐ。幼者能くこの大業の願を成し得んや。謂うに天正13年以前に開山春厳のために開基発願したるは正次に非ず。他に発願者あらんかな。正次は元和寛永の頃桂嶽大和尚のために開基となりたるものなるべし。四向本に創建桂嶽とあるを以て推知すべし。一たび灰燼に帰し亦安政の震災に遭い堂宇倒壊せり故に年代其他に誤植あるはやむを得ずと難固に悲しむべし
・太子堂、・裏山に祠:石仏:三十三番、・新:十三重の塔、・石柱:昭和十年、・石仏、・祠、・鐘楼、・常夜灯:破片、・常夜灯、・献灯2:昭和五十四年、・瓦、・稲荷2、・稲荷神社:祠、・献灯、・手洗石:昭和八年、・地蔵:多、・献燈2:昭和八年、

ひかり保育園の南交差点より200m南進。左にかつては本間氏宅があったが、’16 2/21更地で、隣接地には売家と売地の看板があった。
・本間清行(春城):医家本間三代目を継ぐ。天保年間、玄聖講(現医師会)を組織して医術研鑽、医師の同家に伝わる扁額は掛川城主太田公筆「山暁閣」、儒者松崎慊堂筆「山暁閣記」は同家の高楼に寄せたものである。子四代春城(樂年)と共に文人との交遊多く小島蕉園、田原茂斉、栗田土満、石川依平、袴田勝彦、などの往来書翰、贈答も伝えられている。清行は上平川堤構築完成し、顕彰碑碑文が存する。それによると清行は借金してまで私財投入尽力。
元本間宅から南に進み、古道がはっきり残っていないので一旦現在の県道相良大須賀69号線(現代の秋葉街道)に出る。400m東進する。
○神社:棚草東組9-2:牧野氏宅;横にある。・祠:、・手洗石、・木鳥居、・石柱2:昭和十三年、
・板碑:順徳行者先明行者:上記神社の手前(西)50mの山際先端部上に設置されている。

~もっと古い秋葉街道ルート:下平川1860:宮城氏宅から道なりに東進して北に回り込み好運寺前を北上し八幡ヶまで北上して対岸の山際道へ出て南下する北回りコース~
『塩の道ウォーキング』によれば、秋葉街道として標識を立てたルートより、もっと古いルートがあるということである。それが現在の県道より北側の山と平地の境目に沿って通行する道である。
 好運寺前を北上し、八幡ヶ谷で八幡宮まで北上を続ける。
○八幡神社:菊川市(小笠町)下平川4822番地、祭神:應神天皇、神功皇后じんぐう、例祭日:10月10日、由緒:創建は明応六1498年青竜院住職第二世天菴により石清水八幡宮を勧請し奉り、当時深谷の郷と云う地に鎮座せられその後現在の地に移しこの地を八幡ヶ谷と名付け四辺住民の氏神として崇敬し現在に至る。
 ・電燈:大正十五、・手洗石2:天保七年、明治二、・石鳥居2:大正四年、昭和十年、・石段:大正六年、・石柱6:昭和十六年、大正四年、昭和三年、・常夜燈2:弘化二年、嘉永二年、
 八幡前で道を南下する。ちょうど山際道が対岸側に移る道の方へ進む。
 先ほどの秋葉街道の県道に戻る。ちょうど東組の「板碑:順徳行者先明行者:上記神社の手前(西)50mの山際先端部上に設置されている」所に出る。
ここで古いルートは一旦終了
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戻った県道を200m東進し右折(南)300m、神社前で左折山際を再度、県道相良大須賀69号線に戻る。
○春日神社:棚草春日267⁻1:棚草村氏神だが元は村社に列していた。祭神:天之児屋根命、清和天皇の御代、藤原鎌足の子孫、佐藤右近太夫満好が遠江国司に任ぜられ、城飼郡赤土庄棚草村に築城するに際し、先祖:天之児屋根命を勧請して氏神とするに始まり、創建は馬場の地であったが、天正年間の高天神城戦により武田勝頼の兵火を蒙り今の宮田に再建したといわれる。
・石柱2:コンクリ、・古:常夜燈、・五輪塔:宝珠部分だけ、・手洗石:文政七、
・佐藤右近太夫満好:佐藤家は遠江国司:佐藤右近太夫満好を祖とし佐藤満算以来千年連綿として春日神社の神主をつとめられた名家である。貞観元859年佐渡の人、佐藤右近太夫満好が遠江国司として棚草に着任して棚草城を築いた。二代目左近極満算は奈良の神社を奉献して自ら神主となり社領として60町歩を奉献した。国司の役は地方鎮護が主であるが実際は朝廷や中央の社寺建設の労働者の供給、租税の徴収、物資の調達等であった。これらの目的達成の為、産業発展を計り、開墾や土木水利等の事業を進める必要があった。宇津梨(丹野川上流)を水源とする岩ケ崎の井堰と水路は後世に残した大事業であった。
・神社:春日神社の東に小さな神社がある、稲荷神社で木赤鳥居と祠がある。
春日神社の裏山には八幡宮や寺もある。
・安興寺:うつし霊場で六角堂もある。詳細は巻末説明
○八幡神社:説明版:菊川市(小笠町)赤土294番地の1、祭神:大山(口へんに乍)命オオヤマクイノミコト、誉田別尊ホムダワケノミコト(応神天皇)、大雀尊オオシャクノミコト(仁徳天皇)、例祭日:10月10日、由緒:桓武天皇の御代、延暦12年793,8月遠州城飼郡赤土之庄の住人藤原朝臣赤堀刑部丞勅宣に依り、山王権現及び八幡宮が此の地に奉祀され、降って清和天皇の貞観元年山城国石清水より若宮八幡宮を勧請されたもので、当八幡神社は始め赤堀家に於いて勧請奉祀し、其の祭典等も専ら同家に於いて執行し来たりしも、神徳顕著にして村人の信仰極めて篤く、全村の産土神として崇祀するに至る。
・石柱2、・石柱2、・石段、・献灯、稲荷神社、・金属赤鳥居、・石柱2、・祠、・木鳥居、・三夜燈2:慶應二、・手洗石2:明治廿六年、昭和十九、・石鳥居:明治丗九年、・板碑、

春日の春日神社から2本北側の道が、現在、秋葉街道として標識が出ている。その道を東進すると、県道に合流する。ここに以前、石碑「右近太夫」があったのだが、現在はない。県道を200m東進。左(北)に神社がある。その先は老人ホームである。
・神社:棚草狭間443₋2:白岩氏宅裏山、不明で未確認?

~もっと古い秋葉街道ルート:棚草562⁻1本田建築から北の道に入り、狭間:老人ホーム和松園までの北回りコース~
『塩の道ウォーキング』によれば、秋葉街道として標識を立てたルートより、もっと古いルートがあるということである。それが現在の県道より北側の山と平地の境目に沿って通行する道である。
 県道の棚草562⁻1本田建築附近から北の道に入る。50m進むと板碑がある。
・板碑:後藤粛堂翁、
 2軒隣に標識がある。
・標識:牧野篤好、
 300m北に進むと堂がある。
・堂:辻の観音様:木造観音2、石像観音1、
 もう200m北の奥を目指すが、そこから南下し、対岸の山際道へ出る。
棚草公民館がある。
・石柱、・板碑4:平和の礎等、
100m南下すると左山上に寺がある。
○雲林寺:無住、
・如意輪堂、・西國三十三所遍歴巡拝記念 嘉永二年、・二体で一つの如意輪、・馬頭、・西國講中 天明三、・□□□□文政三年、地蔵2、
寺の裏山に50m上っていくと左に祠がある。
・祠:今川さま、稲荷、祠はコンクリ製、

更に茶畑を50m上ると茶畑頂上に標識がある。
・棚草城の跡:中世山城というのだろうが、周辺は茶畑で改変され土塁曲輪空堀というものはかなり周辺を丹念に探さないと見つけられないかもしれない。
 この茶畑を開墾している老父に聞くと、今川さまは今川義元のことで、この地に水路を作ったので祀っているそうだ。例祭日は毎年3月第1日曜日だそうだ。

また寺入り口に戻り南へ200m進む。
・新:地蔵:、
200m南に進むと県道へ出て左は老人ホーム和松園だ。これで古ルートは終わり。
 更に周辺には以下もある。
・殿之谷の城:狭間の北の山のもう一つ北の山を殿之谷という
・星谷の城:殿之谷城のもう一つ北の山
~~~

老人ホーム和松園に地蔵がある。
・地蔵:説明版:長寿安楽地蔵菩薩の由来:その昔から地蔵菩薩は、この世の苦しみや悲しみに悩む衆生の救済に、最後の手を差し伸べて下さる仏様だと言われる。また人間にとって命ある限り明るく、心の自由な安らぎの中に人生を全うしたいの想いは共通の願いでもある。和松会では法人設立20周年を期して開始したビハーラ活動のシンボルとしてこの地蔵菩薩を建立した。尚この地蔵菩薩は和松会の創立に際して、その多大な不動産を寄付され、法人の礎を築かれた、和田まつの遺徳を偲びながら、法人理事長の有海秀夫氏が建立寄進したものである。 平成五年七月三日開眼
300m東進。北に双松学舎と鶴堂霊社がある。
○双松学舎と鶴堂霊社:「本学舎は明治24年10月鶴堂、橋本孫一郎設立、日本国学を本流とし儒学、弘道、報徳を加味し、実用有為の学科を授け修身斉家の実をあげ、郷土と国家のために尽くす人材を養成せんとす。明治24年開塾より昭和35年まで70年間、学ぶ者7000人に及び地方の文化学術政治産業の中核的人物を世に送る。ここに鶴堂師を慕う者集まって霊社を建て、後世に伝えんとする。昭和52年1月」
・手洗石、・コンクリ鳥居、・祠、・石碑、
50m東進。
○亥之宮神社:猿渡氏神、岩ケ崎方面より引かれている水路を掘り開いた功労者を讃えるために井ノ宮神社を祀り、後に井が亥に転書されたといわれている。・秋葉山常夜燈:城飼郡猿渡村、建物は間口2m、奥行2.35mの小ささ、灯明ではなく電球、中に秋葉山札箱、97年秋葉講が残っているとのこと。建物は新再建。
 ・手洗石:平成九年、・祠:秋葉三尺坊大神、・石鳥居:平成九年、・鐘、
 神社の50m奥に廃寺がある。
○龍泉庵:廃寺、馬頭観音:狭間の県道南側山斜面岩穴に祀られていたが県道拡幅で移転。
 ・石仏?、・馬頭:馬頭骨、・観音3:昭和五年、・奉納 秩父三拾四所 西国三拾三所 坂東三拾三所 供養 嘉永二、・重制六面石幢セキドウ:上下に笠が付き六面に各々地蔵が刻まれる石幢、
神社から50m東に二俣氏宅がある。
・子育て地蔵尊:二俣健策氏宅:猿渡119:大東町中村の親戚から譲り受けた江戸初期の地蔵。
・米売り坂の辻:
○秋葉山常夜燈:川上字川原:丹野川土手斜面、石柱「秋葉山常夜燈川原組」、土手下に地蔵堂:建物:間口1.93m、奥行1.8m、中に地蔵尊3体、2体は頭部無し。観音:明治四十四。川中のお地蔵さま。
ここで二瀬川橋を渡り、すぐに左折(東)、東進して200m。
・石柱2:コンクリ:平成十三年、
更に東進150mで県道と合流する。その左側に祠がある。
・祠:地蔵、
県道を100m東進、左の御宅の庭に献灯が見える。
・秋葉山常夜燈:川上字川中:川上集落の常夜燈、川上集落でも字川中は中心で、昔は川上市場とも呼ばれた。北原氏宅:川上785-1:の屋敷内にあり、川上南市場講中のもの、高さ1.4m、建立不詳、秋葉講代参実施。’97
 常夜燈のある北原氏宅裏(北)の2軒西側の家が妻木氏宅だ。
・妻木寿男氏宅:川上1330:塩屋
 北原氏宅の県道沿い2軒先に神燈がある。
・秋葉御神燈:川上字川中:川中集落を流れる小川沿いにある。台座が3段、1.07mでその上に1.63mの常夜燈が乗り、合わせて2.7mもの御影石常夜燈で、川上北市場講中の建立、「大正十五年五月之建」「秋葉御神燈」、秋葉講の名残の代参は毎年12月実施。’97
 手前に標識「⑬いちんば(市場)」がある。
道向かいが広くかつての農協でGSだった。
・川上市場:夢咲農協東支店:川上856:ガソリンスタンドの所にはかつて旅籠があった。(すでにGSガソリンスタンドも農協でもない)この市場は相良の塩や海産物と信州や北遠州方面の産物(綿、椎茸、茶)の交換商いの場だった。この市場には弥生後期の複合住居跡があり、古代より塩の道の要所として、旅籠、油屋、塩屋、両替屋、雑貨屋、湯屋、米屋等が立ち並んでいた。集落の北に輪中堤があり、川の改修ができるまでは輪中堤で水害から守られていた。塩や海産物は人の肩に担いで運んだのであったが、江戸時代には馬も使った。市場には風呂屋があり、旅人や商人が汗を流し休息の場だった。また「倉掛」の地名は集散する物資を積む倉庫をいったのか、或は馬の荷鞍を干したり馬を休ませた処かもしれない。市場の宿シクと川を挟んだ処に「ぜんかい」という地名がある。米売坂を控えた所であるため両替屋ゼンカエであったと考えられる。
農協から30m南へ進み左折し東へ30m。
・祠:馬頭、観音、
50m東進、県道に出て右折し100m。
・大龍山正覚寺:川上836:正林寺末寺、本尊:聖観音菩薩、寛永元1624年4月創建、道の左が裏門の屋敷跡で茶畑となり昔の面影は残っていない。
 ・堂、・石段:大正八年、・奉納西國三拾三所供養塔 文化十三丙子歳、・石家道祖神、
 かつての古道は、先ほどの馬頭や観音のあった祠から南に進み、寺の西側から山際を通過したようだ。少し道型が残っている。
県道を南に200m。
・金毘羅神社:川上:新道である県道相良大須賀69号線のすぐ上にあり、石段を上ると神社の拝殿が建っている。・手洗石:天保七丙申年九月施中、北には菱電旭テクニカ(株)工場が眼下に見える。
 ・木鳥居、・祠、・手洗石:天保七、
200m南進上に陸橋が見える手前に左上に上る狭い道へ左折。上りきった辺りに石仏がある。
・新:地蔵、
この地蔵より北東側の茶畑の奥にかつては天然記念物の松があったようだ。
・川上庚申松:高橋字奥磯部:塩の道から50m北にある。かつて樹齢400年ほどの枝ぶりの良い松が2本立っていたが松くい虫の被害に遭ったので、現在は若い木になっている。松の木の傍らに「並び立つ庚申松や風薫る」の一句が切り株の隣に添えてある。
 東へ600mで正林寺墓地前に出る。
・今川義忠の墓:祠:一石五輪塔:高さ62㎝:正林寺、
現在の秋葉街道ルートはここで右折し下っていくが、おそらく古道はもっと手前で下ったはずだが、現在道はないのでやむをえないだろう。おそらく古道は途中の塩の道標識があった辺りから下ったと思われる。
・松の茶屋:高橋字奥磯部:小川の南の小高い所に枝ぶりの良い松があったという。その松の木の下の茶店、明治の中頃まで女中さんもいて大変繁昌した。廃業して前岡に引っ越した。現在屋敷跡は水田となり松もなくなり面影はない。鈴木武司氏宅? 昔は他に素麺屋、豆腐屋、紙屋もあったという。
・高橋字奥磯部528:山本常雄氏宅:昔はこの附近に豆腐屋、油屋、紙屋、塩屋、茶屋等の商店があった。このお宅の裏の秋葉街道を朝暗いうちから、塩や魚を運ぶ商人が大声で話して往来するので目を覚まされることが度々あったという。
・徳本堂:徳本上人を祀る石碑と祠がある。
 徳本堂から西に300mで県道の観音橋がある交差点である。
・磯部山延寿院の跡地:徳本堂の300m西で県道と小川の南にかつての29番札所だった磯部山延寿院の跡地がある。廃寺となり正林寺境内の本堂右手に移築したお堂には聖観世音菩薩を祀っている。薮だらけでとても入れない。
 高橋奥磯部635:中島氏によれば、延寿院という言葉では知らないそうだが観音堂では知っていて、付近の県道交差点観音橋周辺の県道南側のちょっとした平地に堂があったのだそうだ。今は正林寺に移転した。

~周辺:塩買坂紹介~
 巡礼道はかつての札所の延寿院や今の札所:正林寺まででよいが、古跡:古戦場にして古道の秋葉街道中でもハイライトといってよい塩買坂を紹介せずにはおられない。
徳本堂から中坂へは一旦現県道を右に少し下るという逆向きに進むことになるがほんの少し下ってすぐ斜面に急に上っていく狭い舗装路がある。ここに見付けにくいが「秋葉道→」30㎝×15㎝の標識があるのでそれを目印にできる。これが中坂の名残の道である。
広い舗装された農道(畑総)にでるが、 ここもかつては中坂の本道だったようで、広い農道が造られ、茶畑が整備されることで、古道はどうなっていたか分からなくなっていく。
・中坂:この坂は武田方の軍用道路として使われた。御前崎市(旧浜岡町)と菊川市(旧小笠町)の境界線である。「正林寺境内古図、正徳三1713年」では性海坂と記されている。塩替坂、塩買坂とも書く。昭和初期から中頃まで、定期バスの掛川相良線として運行され相当に利用者もあった。現在は畑地の整備で古道は道路拡幅された農道となった。昔は道幅一間の道で両側が赤松の木々で覆われ薄暗かったようだ。
狭い農道から広い農道に合流した所の上っていく方が古道の拡幅で、下る広い農道は新道である。上りきった道向かい側にため池がある。ここがかつての膏薬の鈴木家跡地だ。
・養寿丸と高野長英:道の左側に家伝薬養寿丸を売っていた鈴木家の空屋敷に、傾き倒れ掛かった納屋が一棟建っていたが、今は何もない。天保十1839年幕府目付鳥居耀蔵党獄を起こし崋山、三英等を捕う、長英もまた江戸伝馬町の獄に投ぜられた。弘化二1845年獄火あり、長英出獄また還らず。潜行顔を焼き容貌を変じ、姓名を偽りて諸所に潜伏、たまたま中坂の鈴木家に一夜の宿を乞う。主人快く迎える。一夜が明け当家に長患い病人あるを知り、病状を聞き夜が明けると、一枚の紙に薬草と調合割合の秘伝の書物を渡し、暇を告げて立ち去る。鈴木家ではこの秘伝書をたよりに、薬の製造に着手、病気で困っている人々に分けてやる。当家の病人も一か月足らずで快癒したという。
  ’16 2月、鈴木家跡地は現在、四角いコンクリ製溜め池となっていて、周りを金網で囲われ立入禁止になっているのですぐ分かるはずだ。ちょうど磯部の徳本堂から中坂の軽トラ農道を上って尾根沿いの広い農道へ出た所だ。この溜め池のやや下の茶畑の平地と樹木の急斜面の境目に墓石らしきがいくつか置かれている。おそらく鈴木家の古い墓石かと思われる。鈴木家ではかつて貼り薬の膏薬を作っていたそうだ。新野の茶畑で働いていた中年男性の方に聞いた話だ。
合流地点から250m上っていくと左に神社がある。
・金毘羅神社:高橋:古道を拡幅して造られた広い農道から石段を上ると東西に少し古道が残存している。木の鳥居をくぐると祠がある。棟札は判読不能。昔横地城の砦跡かもしれない。・金比羅堂:平成二十六年、・木鳥居、・丸石段、・?手洗石、
・石倉(砦跡):神社の隣の高さ4~5mの小山は昔、石倉と呼ばれた。卵大の石があり、地元民の話では、敵が攻めてきたとき、武器を持たない雑兵が小石を投じて防戦したという。
・車坂:先ほどの神社の東隣の茶畑の北側の枝尾根に沿って古道:車坂が残存している。茶畑からの下る位置は北側の枝尾根になる所を探す。20mも下りると杉檜植林地内の尾根に沿って古道の切通しを発見できる。道幅は半間:三尺:90㎝である。下っていくと現県道相良大須賀線で古道は切断されている。県道向うに正林寺境内の今川義忠家臣の墓がある。昔は正林寺坂の北側の茶畑が雑木林で、林の中ほどを秋葉街道が通っていた。
’16 2月再調査、金毘羅神社から東北隣の茶畑に入り、北側の斜面を下り人工的切通しを探すのだが、20分かkった。途中で切通しではないが、1本西側の枝尾根上に林業用作業道を発見できる。細尾根上を道幅30㎝でつないでいる。しかし90㎝もないし、切通しがないので区別できる。この道の1本東側の枝尾根上に尾根をえぐった切通しで幅90㎝はあるので、はっきり道跡と分かる。片道5分で県道上の擁壁と金網に到達する。1分戻ると、更に東側に分岐する道があった。1分進むとやはり擁壁と金網に出て行き止まりである。下には県道と向うに少林寺の東隣の茶畑が見える。古道歩きは片道5分で、分岐する道も片道1分であるが、探すのに20分以上かかった。古道から茶畑に戻るのが大変で少々道なき急坂薮漕ぎとなる。
 先ほどの金毘羅神社、石倉、更にその隣の茶畑からさらに広い農道を上る。かつてはこの辺りにも旅籠や茶店があったという。神社から300mで右に丘がある。これが金山らしい。
・金山:坂を上りきる500m手前の小高い丘、かつては掘っ立て小屋が建ち、とばく場であった。車坂に入る茶畑のもう一つ北東側のピークである。ピーク上はなだらかで一面茶畑であった。かつては小屋があり、とばくをやっていたということか。附近にグラビア週刊誌が落ちていた。
金山から500m進むと塩買坂の頂点に行きつく。これで坂が終わり、台地上の平坦地の道となる。ここに史蹟が多い。
・供養塔:道の右に2基の供養塔がある。「僧都 (状のヘンと尺のツクリによる漢字)芸上人 慶長拾四巳年十月十九日」’16 2月未発見、「高祖 承陽大師 供養塔 大正七年建立」、・童子の小さな墓石が祀られていた’16 2月、
・火切場と三夜燈:(1) 火切場:秋葉街道の脇には昔は一畝ほどの広場があった。旅人や商人が塩買坂を息を切らして上ってきて、一休みする時寒い冬の日などたき火をして暖をとる。風が強いと飛び火して山火事が起きるから広場が設けられていた。
 (2) 三夜燈:昔の火切場の一角に立っている。高さ1.2m、御影石、「三夜燈 慶應四辰正月立」、高橋原の人たちに戦前まで熱心に祀られた。この原一帯は水の便が悪く、その上茶産地のため、各家で培炉ホイロを使う関係で、秋葉信仰は盛んであった。この集落では97年現在代参はしているが、灯明をあげる等はしていないという。ここは新野原で塩買坂入口、農道が拡幅され、かつての古道は失われ、今川対横地、武田対徳川の古戦場の面影も失われた。なお塩買坂は中坂、車坂とは違う古い別ルートがもう一本存在するらしい。
 この先には馬茶屋があり、秋葉街道は相良まで続く。

~周辺:塩買坂からちょっと外れた所紹介~
・武田の井戸:金毘羅神社と石倉から西に下る坂を200m下り、三叉路を左折し茶畑の中の狭い農道を200m下ると十字路になり、左側の杉林の中に、武田軍が飲料水に使った古井戸があり、真夏の渇水期でも清水がこんこんと湧き出ていた。十字路を南に行くと、右側の小高い丘が茶畑である。
・丸尾平:面積2000㎡程の茶園で、昔武田軍が高天神城を攻撃するに当たり、本陣を築き敵状を偵察した跡地ではなかろうか。茶園造成の時、土器類が多数出土したという。ここから西北方に小笠山南陵が手に取る如く見える。本陣を築くには絶好の場所であったろう。元来た道を帰り、塩の道(秋葉道)に出て200mほど坂を下る。
’16 2月、鈴木家跡の溜め池と先ほどの金毘羅神社の中間あたりに南に下る軽トラ舗装農道がある。下っていくといったん下り切りまた上がっていくのだが、この下った辺りが武田の井戸と推定する。草藪をかき分けないと分からなそうなので正確な位置は分からない。更に上っていった所が丸尾平だろうと思う。


・第二十九番 国源山 正林寺内磯部山(菊川市高橋497、たかはし)こくげんざんしょうりんじないいそべやま  
 創建:永正14年1517、開基:今川氏親、本尊:聖観世音菩薩:木乾漆造り立像70㎝作者不詳、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・60年毎‣平成4年1992年、次回2052年予定、縁起:
焼津市坂本高草山林叟院末。
附近の塩買坂は距離2㎞で、文明八年1476四月六日、今川義忠が菊川の横地城、榛原の勝間田城、見付城の斯波氏を攻め攻略後、帰路塩買坂で横地氏残党の襲撃に会い流れ矢に当たり傷を負い、川上の民家で治療したが、甲斐なく息絶えた。家臣18名も主君に殉じた。古戦場として有名になった。寺の東南方向の東坂の頂上に千人塚の墳があり古戦場と伝える。
今川義忠の最期:文明八1476年今川上総介義忠は、当時遠州の反今川勢力であった横地、勝間田両氏を討伐し、更に見付城による強敵斯波氏をも攻め破り、駿府への凱旋の路を秋葉街道にとって、4月6日夜半塩買坂に差し掛かった。ところが地の利に詳しい横地の残党が、坂上の絶頂にある石倉を開き、奇襲に出た。そのため今川の先遣隊は殲滅され、義忠も必死の防戦むなしく、流れ矢を脇腹に受けて落馬し、川上の宿(川上市場附近)にあった民家で傷の手当てを受けたが、その甲斐もなく41歳(28歳ともいう)でこの地に絶命した。これが塩買坂の悲劇と言われる義忠の最期である。
「今川記より」斉藤道斉著:(今川義忠)駿府へ御馬を返さるる時、不図に一揆起り、塩買坂にて切りかかりしかば、俄の事にては有り、夜中の事なれば、御供の人々さはぐといえども、義忠少しもさはぎ給はず、御馬を立てなをし、自身切って落とし、東西を乗り回し、下知し……然といへども、いづくより来りけん、流矢一つ飛来り、大将の御わきにのぶかに立、いたでに次第々々によはり給ふ。其後屋へ入奉り、色々いたはり申けれ共、甲斐なく、其明朝……御逝去あり。御供の人々せんかたなくして、御死骸の御供申、駿河国へ帰りて、御葬礼いとなみ奉る。今川氏は、横地氏とこれで二度戦い、いずれも敗北、その上大将の戦死という痛手をこうむり、その強さを思い知らされる。
今川義忠の菩提を弔うため息子氏親が1517、国源山昌桂寺として開創した。大永六年1526十二月今川氏輝は「かなふみ黒印新野池成新田百町之事云々」の1通。享禄五年1532九月「為桂山菩提知領 池成新田の定」1通。1551から翌年にかけ昌林寺と改めた。天文廿一年1552四月昌林寺に山林制札及画幅等を氏親が寄進。慶長中大須賀出羽守、小笠原主馬が黒印の寄進状を与えた。更に関ヶ原の合戦の頃、正林寺と改められた。慶安元年1648徳川家光は朱印地8石を付した。郡中に13の末寺がある。
聖観音は始めどこに安置されたか不明だが高橋小字観音前に移したのは、天和元禄頃の十世霊領貞瑞である。元禄六年石雲に輪住する。その後明治29年に正林寺に移した。
寺内は深い樹林に囲まれた山内で参道を進み小さな石橋を渡り山門の前に出る。3回の火災(1553、1669、1838)で山内諸堂灰燼に帰す。180年前に再建、たたずまいは500年の歴史の流れ。
・全山配置図2枚、正徳三年1713、明治二年1869、正徳版は老中にまで披露したもので、客殿(本堂)、衆寮、江湖寮(首座寮)等が描かれ往時の伽藍をしのばれる。
・本堂:正面に堂々と、左に風格ある観音堂、
・今川家臣忠死墓:天保十一年1840、隣に蛇(龍)を彫った石塔もあり、2基並んでいる。昔はこの沢の左岸沿いに車坂からの秋葉街道があった。この近くの龍門橋の袂に少し道型が残っている。
・今川義忠自刻像:24.5㎝座像、一見僧形のようであるが背面に髷があり右立膝の丸腰で眼光鋭く武将の面目躍如たるものがある。
有住、駐車場有、Tel:0537-73-2221
~追加
・今川義忠の墓:祠:一石五輪塔:高さ62㎝:前述の経路でも記入したものを再掲示、
・板碑4、・祠:金毘羅大権現、・奉納西國三十三所 文化七、・コンクリ製鶴像2、・新:地蔵、・観音:寶庚寅歳、・祠:神祀、・献燈2:昭和三年、・念仏供養塔、・子安南無観世音菩薩、・法華経塔、・献燈2、・献燈:古戦場 道路記念、・観音、・南無阿弥陀佛 昭和八年、・新:仁王門、・祠:神祀、・弁天堂、・地蔵:明治十三年、・地蔵:明治廿三年、・献燈2、・句碑、・歌碑、・祠:地蔵:西國秩父坂東百所観音順禮修行奉為供養、・西國一番元治元年子七月、・観音、・地蔵、


・経路
JR菊川駅から御前崎行バス南山下車、徒歩60分。
28番から距離は長いが坂になる直前に寺がある。寺の後方は塩買坂と云い、秋葉街道の古道であり古戦場でもある。その墓石が境内にある。JR菊川駅から御前崎行バス南山下車、徒歩60分。
28番から29番への道のりの後半の古道ルートは秋葉街道そのものを通ることになる。ただ細かな点になるといくつかの輻輳する推定ルートがあるため古道が統一されていない。というより古道も時代に応じて付け替えられるのでいくつかの複線ルートが近代初めには存在していたのかもしれない。附属地図の古道ルートは明治20年代地図のルートをかなり正確にたどって記入されている。
塩買坂は、秋葉街道の相良方面と掛川方面を結び、塩などの海産物を運ぶ道の坂道だったようだ。そのため塩の道ともいう。秋葉街道は信州街道に繋がり、北信州の黒曜石石器が御前崎で星の糞と云われ出土することからも石器時代から周辺地域と信州方面がつながっていた証拠であり、この周辺に交易の道があったという証拠でもある。
30番へ4.5㎞、徒歩60分。
30番へは元来た秋葉街道をそのまま戻ることになる。下平川の好運寺、本間氏宅、ひかり保育園近辺まで戻るので、この区間の説明は割愛する。
下平川のひかり保育園角の道を左折(西)し県道掛川浜岡線の商店街に出て、右折(北)し、また左折(西)して、堤橋を渡る。このまま西直進600mで大船渡橋を渡れるが、古道はどうも直進路より一本北50mの道というか、田畑のあぜ道のようだ。通れないので北方向を見つつあの辺に古道がかつてあったのだなと思いつつ進む。大船渡橋に至る。

~周辺紹介~
堤橋と大船渡橋の中間辺りの交差点の左に標識「代官屋敷黒田家→」がある。この地域を代表する歴史遺産で観光資源である。
○代官屋敷黒田家住宅:主屋・長屋門・米蔵東蔵:菊川市下平川862:国指定重要文化財 、長屋門が格調高い、屋敷周囲は濠がめぐらされている。母屋、土蔵、米蔵がある。黒田家は直参旗本本田日向守の代官として江戸初期には当地を支配したと推定される。黒白の壁はシックである。
・説明版:黒田家は代々武家で、永禄年間1558~1570に現在地に居住、江戸時代には4000石の旗本、本田日向守の代官を代々努めた。屋敷は正面に大規模な長屋門を構えて、周囲は城郭の面影を残す堀をめぐらした広大なもので、広さは1ヘクタールほどある。現在の主屋は、安政の大地震後1855に再建されたもので、文久年間1861記銘の家相図が残されており、これとよく一致するので、この頃竣工したものだろう。構造は床上部において、太い柱や梁を用い、棟通りをはさんで4尺幅1.2mで2列に柱を立て、それらの柱列から前後各2間半4.5mを上屋とし、4周に1間幅1.8mの下屋をまわしている。小屋組は和小屋で寄棟造桟瓦葺として下屋部分は1段低く屋根をかける。背面下屋のうち「つし」のある2間3.6m分は更に1段下げて明り取りの窓を開いている。この住宅は柱梁及び指物等太い木割りであり代官の住宅にふさわしく良質で仕上げもていねいだ。建築年代は下がるが明らかであり、改造が少なく保存がよい点等重要な遺構だ。太い柱や梁を用いる等耐震対策を施し、昭和19年1944の大地震にも大きな被害はなかった。
置千木を11本も置く茅葺の長屋門は2000石の格式をもち、主屋よりも古く18世紀中頃の建築とみられ、寄棟造茅葺で桁行68尺20.6mに及ぶ大規模な門だ。安政被災前の屋敷構を示す古図(嘉永3年記銘)から判断すると、扉口西方の3室のうち西端室は文久の主屋再建時に半間0.9m通り拡張されて全面的に改造されたことが分かるが、大規模で質の良い長屋門だ。昭和51年1976に文化庁の補助事業により修理復元された。
*主屋には現在も黒田氏が住んでいるので配慮が必要である。
・塩の道公園:代官屋敷西隣にある。塩の道:秋葉街道ゆかりの周辺自治体の木や花が植えられた散策路があり、黒曜石も置かれている。
・街道館:秋葉街道を描いた杉山良雄氏の絵がある。代官屋敷西隣にある。当面休館している。’16 3月。
・資料館:図書資料等が見られる。開館時間~16:00。
附近には黒田歯科医院等、黒田姓の家が多い。

大船渡橋手前の土手を400m北上すると、右に池村公民館がある。墓地もあるので寺院跡だろう。
○池村公民館:・地蔵:首なし、・地蔵、・五輪塔:破片、・奉納秩父西國四國順拝供養塔、・献燈:文政十二年:祠が金属製西洋風飾り塔、
~~~

大船渡橋に話を戻す。大船渡橋にはかつての高田の渡しにあった石仏がある。
・馬頭観音:摩耗状態がひどく直接見ただけでは馬頭とは判断ができず、消滅一歩手前の石仏と云えるが、このまま残してほしい。将来再建するにしても古い石も残してほしい。
大船渡橋を渡ると左に新道標がある。
・新:石道標:遠江三十三所観音霊場第三十番札所盛岩寺、
すぐ土手沿いに南に200m進み、右折(西)し50m進むと南に寺がある。


・第三十番 宝珠山 盛岩寺内青木寺(掛川市岩滑3868⁻1、いわなめ)ほうしゅざんせいがんいんないあおきでら  
 創建:天文8年1539、開基:覚仲素文が盛岩院二世となり塔頭を建て本尊を祀り青木寺と号した。本尊:聖観世音菩薩:木造座像胎籠り仏:伝弘法大師作、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎‣平成元年4月、縁起:
元治元年1864火災焼失、明治6年1873青木山の観音を盛岩院に移した。
附近周辺は古代から小集落が造られ社寺堂祠を中心に発展してきており、古来からの地名を引き継ぐものも多く地歴研究に最適である。
 青木寺は三十三観音霊場選定以前から村人に尊崇されていた。
 盛岩院周辺は数百年前は湖水で寺のある所は湖水に突出した老松繁る丘だったという。
・供養塔:西国巡礼、四国八十八か所、山門横、
・十三仏:石座像、境内右側、十三仏とは亡者の法事を修する初七日から三十三回忌まで、13回の追善供養をするときに本尊とする仏のこと。
・本堂:昭和57年1982新築、
・観音堂:青木寺:本堂左手、
・鰐口:「遠江州笠原庄岩滑郷新福寺 時長禄戌寅ツチノエトラ二年1458三月吉日 願主 大工十郎」、新福寺は青木寺前身かと思われる。
有住、駐車場有、Tel:0537-74-3375
~追加~
・地蔵2:座位:?(三界萬霊供養塔 掛川町山崎茂七のものか未確認)
・新:丸石柱、・豊川稲荷、・祠:白山妙理大権現、・石柱2:昭和十四年、・新:七福尊、・新:六地蔵、・新:手洗石、・板碑5、・五輪塔、・地蔵、・奉納西國三拾三所供養塔2:文化十二年、別物?、・地蔵13:座位、・地蔵2、・新:十二支石像、
ネコ屋敷寺院:境内は猫が多く、相当数を飼育しているようだ。猫好きな方は参詣するとよいだろう。
かつて堂があったという青木山は多分西南の裏山のことだろう。参道横から1~2分で上ると頂上は平坦な茶畑である。遺物等はない。経路ルート変更等もない。


・経路
JR掛川駅から大東線井崎経由、井崎下車、徒歩30分。
31番へ800m、徒歩15分。
31番へは寺の西北へ出て、北西を目指す。大船渡橋から300m西進する道との交差点に出る。
・新:石道標:遠江三十三所観音霊場第三十番札所盛岩寺、・石柱2:□組氏子中、
交差点を渡り300m西北に進む。右(北)に入る狭い道がある。右折して100mで31番がある。


・第三十一番 紅梅山 菊水寺(掛川市岩滑1237、いわなめ) こうばいざんきくすいじ  
 創建:不詳、開基:不詳、再興:元禄四年1691、本尊:千手千眼観世音菩薩:寄木造り立像60㎝、宗派:曹洞宗、開帳:33年毎‣平成5年9月24日、縁起:昔千寿に古刹があったが、戦国期に戦乱で地蔵堂と観音堂を残して荒廃した。その後寛文十二年1672十月大雨洪水で観音堂も本尊像も流失、尊像は村内の山添に流れ着き、発見した真言宗修験道繁昌院中島家先祖が、元禄四年1691自宅屋敷内に堂宇を建て本尊を祀ったのが菊水寺のはじまりという。現在も門前に中島家がある。                    
・石道標:遠江三十一番観世音紅梅山菊水寺 御大典記念昭和三年十一月建立:参道入口 
・西国三十三所供養 遠江三十三所供養 四国八十八ヶ所供養 善光寺如来供養 村内安全 家内安全 子孫長久 大正二年四月建立 加藤弥四郎:堂右側1基、
・献燈:寛政二戌年、・手洗石:奉納:丸型で珍しい、 
・観音堂:格子天井一面一桝ごと花鳥山水の各種絵、御詠歌額:磐田郡見附高塚金三郎、発句:昭和十二年秋彼岸浜松市田町内田六楼 磐田郡敷地村太田斜鳥、鐘:山崎弥五郎寄進、鐘:西村和泉守作、棟札:明治44年9月、昭和52年1月、屋根替、版木、
・石灯籠:寛政二年1790戌年 奉寄進 当村施主後藤治助、
無住、駐車場なしだが参道前の道端の端に置くか中島氏に相談する。トイレは中島氏宅前庭にある。Tel:0537-74-3383:中島氏。ガイドブック等記載の電話番号に2か所かけると御断りされた。要するに自治会管理で周辺住民が毎年持ち回り当番しているので、1年経ってしまうと変更され無関係になってしまうためだろう。そこで中島氏の電話番号を記載した。手前左の中島氏宅で御朱印がもらえるし、古くから祀っているのも中島家であり、どうも陰陽師系らしい。かつては土木技術等で領主に仕えていたのだろう。永寶寺:大嶽氏談。
 かつて千寿に古刹があったというが、現在北西1㎞の千手橋南の西之谷に谷の口堂(北ノ谷)地蔵尊が祀られている。これが地蔵堂の流れを汲むものなのか。観音堂の流れは菊水寺が引き継いだということだろうか。中島氏談。

~周辺~
○谷の口堂(北ノ谷)地蔵尊 遠州城飼郡三十六所地蔵菩薩十九番:掛川市岩滑975:説明版:この地域は昔、遠江国笠原の庄、岩滑郷と云われた。この地蔵堂は三百有余年の往昔よりここ岩滑の地に建立された。本尊は延命地蔵菩薩で、霊験あらたかな仏様として、地域の人たちの信仰を集めた。口碑によると、この地蔵堂宇の歴史は室町時代に遡ると云われる。往時岩滑における寺院で戦国時代の高天神城戦において焼失、廃寺となった真養寺及び新福寺の存在と関わりがあると伝える。両寺は観音堂の発祥した密教寺院であり、寺院の隆盛期であった室町時代にはとても栄えたと云われる。「千手」や「明僧」の名称は現在なおこの地域の字名や橋名として残される。信仰心篤い村人たちがここに聖域として地蔵堂を建立したと考えられる。この地蔵尊は遠州城飼郡キコウグン三十六所地蔵菩薩のお遍路巡りの19番札所に数えられる。御詠歌「まことなる 心に身をば いとわめや いわなめらけき 谷の口の堂」と詠まれる。慈しみ深い本尊は、古来より家内安全・商売繁盛・戦病平癒・特に子供の教化救済の願いが叶えられるとして、ひろく地域の信仰を集める。岩滑の地名の起源は、清水ヶ谷、泉津井等の字名から察して、清水の湧出する水清き郷として命名されたと云われる。
・新:石道標:谷の口堂地蔵尊 遠州城飼郡三十六所地蔵菩薩十九番:参道入口
・石塔、・観音、・如来、・卵形墓石、・奉納経西國三拾三所供養塔6:天保七、天保九、明治十四年、明治三十二年、安政四年、安政二年、・南無大悲観世音西國丗三所巡拝記念塔 明治参拾九年、・西國三十三所順拝供養塔 南無観世音菩薩 大正三年、・西國三十三所巡拝記念塔 南無観世音菩薩 昭和九年、・燈籠、・文化九申天 ?右くわんおん道、
 そしてこの谷の口堂地蔵尊から南に200mで31番:菊水寺から32番:今滝寺へ行くための火ヶ峰への上り口に至る。この近さは偶然なのか恣意的なものなのか?巡礼者はこの谷の口堂地蔵尊へ十分寄り道できる距離である。

・経路
30番から歩いて10分とかからない。
JR掛川駅から大東線井崎経由バス、井崎下車、徒歩30分。
32番へ6㎞、徒歩90分。
西北に進むと中方ナカホウの集落があり、その左に池があり、「番外四番の丸山観音」がある。
☆疑問:「番外四番の丸山観音」とはどこ?
    巻末の蛇足に記載する。
☆疑問:番外とは?その数と具体地はどこ?

32番へは、参道入口に戻り、一旦西へ100m進む。右折(北)を目指し300m進む。T字路に出て左折(西)し400mで明僧橋を渡る。
明僧橋を渡った土手沿いの南200mに板碑がある。
・板碑2:御大典記念 昭和三年 岩滑村青年會西支部
橋を渡り400m進む。西の山に向かって道が三方に分かれる。
岩滑1037⁻1:栗田氏宅のある中の道を進む。左山上に進む山道を上り、上りきる手前で右に進むと尾根向こうの池に出る道がある。中の道分岐から150mで西之谷東池に出る。池の西端土手をめぐり尾根に出て北へ向かう。
先ほど中の道を進んだが、分かりやすい道なら右の道を進む。岩滑1024:藤沢氏宅前から向かいの茶畑を上り、上りきったら左に進むと尾根向うの池が見え、池西端の土手道に抜けられる。
藤沢氏夫妻の話だと、昔は池の土手を通って火ヶ峰の尾根道を通り高天神まで歩いて行ったものだとのこと。また岩滑の住人はここから見える山の頂点を火ヶ峰というが土方の住人もそこから見える山を火ヶ峰というから山周辺の広い範囲を火ヶ峰というようだ。
池土手から金属の橋を渡り200m進むと、道は崩壊し急斜面で雑草だらけで草藪となり、すぐ上が尾根なので尾根向うに抜け出そうとするが、向こうは笹竹だらけの密集地となり抜けられない。万事休す。戻る。
別話になるが、この200m北に「谷の口堂地蔵尊」があるので寄り道できる。

~一応この西之谷東池から進めると仮定してのシミュレーションでは以下となる。池土手から600m進むと中方と中の境界線尾根で、現在は農地の整備事業でかつての尾根伝い道は消滅して、山を切り開いた広大で理路整然と区画整理された茶畑に出てしまう。古道はない。この辺り三角点△73.3m地点はかつての火ヶ峯という砦跡である。ここらで左(西)の下土方の集落に出る近江ヶ谷橋を渡る。以上シミュレーション。~

逆向きコースとして、土方の近江ヶ谷橋から東北東の土方と中の境界線の茶畑に行き、火ヶ峰方向を目指す。茶畑は山を崩し平坦にして理路整然とした直線道路で区切られ、全く古道の痕跡もない。途中山のこぶピークが残っているが、周辺は薮だらけで上る気にならない。あの頂点付近に古道の残滓はあるのだろう。茶畑の東南端が火ヶ峰経由で岩滑に行く道入口だろうが、ここもまたすさまじい草藪で入る気にならない。東南に連なる山尾根が火ヶ峰でかつての砦跡で巡礼道もあったはずだが…。

土方の近江ヶ谷橋を渡って西直進150mで、細い道を右折(北)し50m進む。掛川市下土方164₋2:坂部氏宅に祠や石塔が祀られている。
・祠:神祀、扉は3つ、・手洗石:ミニサイズ、・馬頭:大正二年、・馬頭、・奉祭道祖神 願主寅の年男 明治二十年十二月、・
左折(西)して100m進む。下北176:坂部氏宅手前の畑に祠がある。
・祠:豊受皇大神:津島神社の流れ、
右折して西の下小笠川の土手を目指し100m進む。土手手前に板碑がある。
・板碑:四家次郎本願、
土手を上るが、目の前には橋がないので、左(南)の小笠橋を目指し150m進み橋を渡る。移転された石塔がある。
・石塔:史蹟高天神城:裏に戦の経緯が記されている。かつて高天神城に設置されていたが古くなり橋袂に移転されたようだ。
下小笠川の土手に沿って西北に進む。450mで長寿庵に至る。
○長寿庵:無住:・堂:十一面観世音、・手洗石:天明三、・板碑、・井戸、
なおも西北へ150m進むと、天神橋がある。この西600mで高天神城入口で、入口から300mで山城上り口となる。西150m進む。上土方嶺向547₋2:大石氏宅前に標識がある。
・標識:渥美源五郎屋敷跡:横須賀七人衆の筆頭で、大須賀康高配下でただ一人槍の名人であった。渥美源五郎屋敷を□□□□ここを大屋敷という。
さらに100m西に進むと堂と神社がある。
・堂:六地蔵観音、
○津島神社:・石鳥居:平成二十二年、・三夜燈2:大正四年、・手洗石:文政七、・石柱2:大正三年、・祠:金刀比羅宮、
天神橋袂に戻り、100m北西進する。高橋で左(西)50m先に寺跡が見える。
○宗源庵:無住:・観音:首なし、・奉納大乗妙典六十六部 日本回國 天下照平 國家安全 四國西國 秩父坂東 正徳四、現在地域の公民館でグラウンドのようだ。
高橋の土手へ戻る。土手沿いに北西に300m進む。途中に大谷橋を通過し矢代橋に至る。橋を渡らず西に左折し50m進む。右折(北)し50m進む。左折(西)し300m進む。広い道に出る。右折(北)し300m進む。トリンプの工場(女性下着メーカー)がある。左折(西)し左のトリンプの工場沿いに400m進むと、西の山際に到達し道はT字路になる。右折(北)し200m進むと西に32番の寺が見える。

~周辺紹介~
・吉岡彌生記念館:東京女子医科大学看護学部大東キャンパス、
・吉岡弥生、松本次郎資料館:
・高天神城:
  上記3つの項目はネット検索してください。

・第三十二番 如意輪山 今瀧寺(掛川市今瀧213、いまだき)にょいりんざんこんりゅうじ  
 創建:観音堂:宝永七年1710、今瀧寺:天平元年729、元久元年1204今瀧寺の前身正瀧寺十二坊観音堂建立され、元和元年1615今瀧寺と改称。開基:伝行基、本尊:如意輪観世音菩薩:木造座像:丈60㎝、30㎝:伝行基一刀三礼秘仏、脇仏不動明王、毘沙門天立像、宗派:古義真言宗、開帳:60年毎、昭和38年4月1~3日、縁起: 
「遠江国風土記伝に「今滝 水は南流す 高二百十二石九斗二升八合 今滝寺観音堂 朱符の寺田の高五石 真言宗」とある。
今滝寺は高野山別格本山釈迦文院末で、周辺では上内田佐束山岩井寺、菊川市潮海寺の広厳城山コウガンジョウザン潮海寺とともに、真言宗の代表的な寺院である。ともに山岳信仰の名残を残し、寺の背後に山を背負っている。
開基は天平元年聖武天皇勅願、行基創建という。戦国期に高天神城の攻防で僧堂伽藍記録等灰燼に帰す。元和八年1622復興したが、嘉永七年11月震災破壊、文化六年1805に漸く復興。
安産祈願、祈願布を筒にして、祈願成就の折りには底を縫ってお礼参りする習慣。
・観音堂:文久元年1204、10段ほど石段を上った所で境内は広い、
・日本六十六か所廻国記念供養塔 宝永七年1710 願主 浄真 俗名溝口平四良:高1m幅37㎝奥行35㎝、 
・文殊堂、・秋葉神社、・津島神社、・小谷神社等、
・山門:いぬ槇の木を刈りこんで山門風にしつらえてある。市指定重文。見事な造形美。
・ぼけ封じ観音:
・鐘楼 
周辺:高天神城と小笠神社の間にある。東に開けた地形は京都に似ているといわれ、平家の武将長嶋河内の守が隠棲の地にした、平家の落ち武者が帰依したという伝承がある。
裏山は山城か砦跡とも推定される。
・小谷神社:
~追加
・掛川市指定天然記念物:ソテツ、・石段:如意輪山 観音、・石段:文政(正と攵ボクを上下にする)、・石塔:、・新:二重塔、・石段、・大乗妙典、・祠:神祀、・献燈の笠部分、・石柱2、・石鳥居:昭和三十七年、・如意輪、・地蔵:立位、・石塔、・石塔、・観音、・地蔵:座位、・献灯の笠等破片、・板碑3(うち墓石2)、
有住、駐車場有、Tel:0537-74-4187


・経路
JR掛川駅から大東線井崎経由高瀬下車、徒歩45分。
33番へ6㎞、徒歩90分。
今瀧寺から33番へは古道は山際を北に進んだようだが、かなり道が存在しないようなので、迂回しつつも西の山際を見つつ400m北に進む。県道掛川大東線に出る。県道に沿って北東に150m進む。左小高い丘に神社がある。
○日吉神社:・石鳥居:平成二十一年、・石柱2:、・祠、・手洗石:昭和十三年、
 神社先の丘先端部に祠と石仏がある。
・祠:観音:西國供養、・観音、
この先端部で左折し100m先で北へ進む道に行く。100m先で右折し北進する。300m北進する。途中道祖神がある。
・石家型道祖神2:
300m進むと直進路がないので、右折しまた北進路を探しつつ東進する。そういった行動を繰り返しつつなんとか北へ進む。
~石家型道祖神があった地点から東に300mの小さな丘上に堂がある。
○大日如来堂:・コンクリ石段:大日如来、・手洗石:昭和十五年、

入山瀬の下小笠川西岸沿いを何とか北上する。入山瀬1582:青野氏宅を北に通過するが、この右(東)100mの下小笠川の温土ノ谷橋手前に祠がある。
・祠:神祀、・石柱2:昭和六十年、
 さらに橋を渡って県道を南に300m進むと、堂がある。
・地蔵堂:入山瀬266:青野氏宅横、その北隣は入山瀬277:角替商店である。・石塔、・七月に例祭日がある。

 入山瀬1582:青野氏宅前に戻り、北に通過する。600m北進すると高田橋に出る。ここで下小笠川の左(西岸)なのか右(東岸)沿いなのか古道ははっきりしない。西岸では高田橋から一段高い河岸段丘を300m北進してT字路で右折し西之谷橋を渡り小笠山入口付近出でる。東岸では県道を進み400mで小笠山入口に出ることになる。古道があれば県道沿いの家の裏と裏山の間を北進したのだろう。
ちなみに高田橋の300m南で東へ100m入った所に寺跡がある。
○宝寿庵:無住:廃墟、・板碑:角替九郎平翁頌徳碑、・鐘、・地蔵:首なし、・手洗石:10×25㎝、・堂、・本堂:倒壊しつつある、・四国八十八ヶ所 西国三十三番 高野山 新四国八十八ヶ所 参拝供養塔 昭和二十九年、

 小笠山入口交差点に戻り、谷戸橋袂に行く。上り道になってすぐ左にお堂がある。
○薬師堂:・祠:奉請南無本光大菩薩、奉納大乗妙典六十六部供養塔、・手洗石:文政十三、・辞世句碑、・板碑、・献燈2:天保四、・
薬師堂を見たら一旦道を下り戻り、東側の製茶工場の裏に進む。
入山瀬811:製茶工場:山喜製茶組合と803⁻1:中上氏宅の間の道を山に取り付き浄水場建屋の右側から尾根を目指すが、茶畑のすぐ上は倒木された竹藪だらけで通行不能なので、少し左に迂回して竹藪の上に出ると石仏がある。
中上氏の話では、今から20~30年前学校の先生が下見をしてから子供を連れて岩井寺まで行ったことがあるそうだ。そして岩井寺への道の入口は中上氏宅の横しかないとのことだ。
・石仏:右 志ゆんれい道 安永十辛丑年三月:刻字ははっきりしないがじゅんれいと読めそうな気がするし妥当だと思う。
そこからは道型が残っているのでそれを目当てに尾根に出て尾根道を歩ける。500m進むと、ロープが張られその先は山ごと削り取られていて、はるか下に平地が広がり、その向こうに前方を削り取られた対岸の山が見られる。砂利採掘場で関係者以外立ち入り禁止になっていて、ダンプカーが出入りしている。(実は対岸の山の裏側も削り取られていて、2か所にわたって山を削土しているようだ。その後、現在の自動車道を移動して、砂利採掘場を過ぎて山に取り付ける地点はエコパ方面との交差点を南に行き、山越えした地点である。ここはかつて掛川市と大東町の境界線の尾根である。
この境界線尾根の茶畑で働いていた老夫婦に話を聞くと、東西の尾根上に古道は残存しているそうだ。ただし西側は砂利取で山ごと消失しているとの話を聞けた。その方たちの地所だが、通行していいとも言われた。感謝いたします。
古道は基本的にその境界線に沿ってあるようだ。ここからカヤの生えている茶畑道を西に進むとすぐ山に取り付き道幅一間の古道が残っている。300mも上っていくと山の裏側にたどり着く。ここから先は砂利取りで山が削土され、はるか下に平地と工場がある。先ほど見た光景とは違うので、このまた先の山の裏側も削土され、おそらくそこが先ほどの見た地点と推定される。これを戻りさっきの自動車道より東に尾根沿いを進む。茶畑を過ぎると尾根のこぶピークが見られる、こぶを右にまく山道がある。これが古道であるが、笹竹が密生している。それでもこいで行ける程度である、30mこいで行くと左尾根上に道が上っていく。尾根通しを歩く。右側は有刺鉄線が張られ、真下にはため池:堂西池がある。尾根通しが下りになると道が消失?、とりあえず尾根通しを下りきると、茶畑に出る。畑の東はピークになっていて、また藪と倒木だらけだが、道型が少し残る。道型を外さない程度に迂回しつつも迂回しきれず藪と倒木を潜り抜け、尾根の少し下の北側を巻く道型をたどっていくと、廃棄茶畑があり、その先の5mの崖下に舗装農道が現れる。農道を100m進むと岩井寺である。

上記の尾根沿い古道ではなく、自動車道を進む場合の道を紹介する。
一旦入山瀬の薬師堂まで戻り話を進める。薬師堂前の新しい県道を岩井寺方面へ進む。2~300mで右にかつての狭い舗装道路が見える。ただし入口はチェーンが張られ車では入れない。2~3分歩くと両側が切り立った崖下の薄暗い県道の先に第二風吹隧道(トンネル)が見える。今は照明もないが、それなりに歩いていける。くぐってなおも歩くと薄暗い向うにもう一つのトンネル:風吹隧道がある。風吹トンネルは2つあったからだ。ただしこの長めのトンネルは両入口とも金網が張られている。ここに掛川市の標識があるので、一応ここで旧県道及び古い風吹トンネルの道紹介を終わる。
さて新しい県道側を進む。とすぐ右に記念碑がある。
・風吹トンネルの由来:説明版:この地区は、明治の初期までは、わずかな田畑を耕作し、炭を焼いたり、まき木を売ったりして生活していた貧しい地区だった。明治も10年を過ぎるとお茶の栽培が始まり、多少生活はよくなってきたが、苦労して生産した農作物を、市場に持って行くには、三方を囲まれた急峻な山を越えなければならなく、また掛川方面の交通には人馬がようやく通れるくらいの道しかなく住民はたいへん難儀をしていた。そこでこの地区に生まれ育った青野卯吉は、この状況から開放されるには隧道を掘る以外には活路がないと考えて「わし一人でもやらなければ」と私財を出して測量し、工事費を見積もったところ当時のお金で¥2000円(当時米1俵3円、村の年間予算額5000円程度)を超えることが分かり、途方に暮れた。この窮状を内田(菊川市)の製茶会社共益社の浅羽氏に相談したら、見付(磐田市)にある遠江國報徳社の岡田良一郎社長にお願いしたらとの助言をいただき、お願いしたところ、「地区に報徳社を創ることを条件」で同意を得て、区民の理解のもと、明治三十二年一月に報徳社を設立し、千円のお金を借りることができた。工事は明治三十三年から二年間かかり、、大小3つの風吹隧道が区民一同の苦労のもと総工費2500円を費やして完成した。隧道の大きさは高さ2m、幅2mで人が車を引いてやっと通れる程度の素掘りのものだった。隧道はその後、昭和6年と22年に改修し、現在に至っている。明治時代から100年という長い年月にわたり、役割を担ってきた隧道も、平成11年の新道開通により、その使命を果たし終えた。この間、多くの人が恩恵を受けたことに感謝すると共に、大事業の功績を残された郷土の偉人である青野卯吉をはじめ先人の偉業を讃え、ここに記念碑を建立する。                                                                                                                                                                                    

県道掛川大東大須賀線に沿って道なりに岩井寺地区を目指す。岩井寺地区に入ると人家が出始めるので分かりやすい。集落左奥に神社がある。
○荒神社:右折300m手前、・説明版:掛川市岩井寺、祭神:三宝荒神、例祭日:10月10日、由緒:当神社の社有地はこの地の旧家森下氏祖先の所有地だった。古書によると今より約1070余年前、森下右京男と云われる先人が越前(石川県)より三宝荒神の分霊をこの社有地に鎮め、祀ったことが始まりと伝わる。その後明治8年地租改正の際、官有地に編入された。現在は当氏子区域(岩井寺)の氏神様として崇敬されている。
・石柱2:明治四十貮年、・石鳥居:大正三年、・永代夜燈 昭和四十年、・手洗石:平成二年、・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、内側石造り、・奧宮、・木鳥居、
神社から300mで右折し橋を渡ると地蔵堂がある。橋の手前には道標もある。
・道標板碑:遠江三十三番打留札所 岩井寺 大正元年、
○地蔵堂:・石塔:當山三十三番札所 當村願主、
お堂を過ぎて100mで33番の境内に至る。

*なお「古人の歩いた遠江33観音霊場巡礼道」では、風吹の峠から岩井寺までの道のりを旧掛川市と旧大東町の境界線に沿ってつけられている。現在採石場となり山ごと2つ削り取られているのでが、そのまま歩けるわけではないが、ほぼ境界線に沿って古道がつけられていたことは推測されるし、一部は確かに残存していた。


・第三十三番 佐束山 岩井寺(掛川市岩井寺32、がんじょうじ) さづかざん がんじょうじ  
 創建:天平十三年741、開基:伝行基、本尊:聖観世音菩薩:木造立像行基作、宗派:真言宗、開帳:33年毎、縁起:古老によれば元九谷山平林寺と称し、山麓に広大な境内を持ち坊舎塔頭七堂伽藍建ち並んでいたという。
岩井寺略縁起:抑々当山人皇四十五代聖武帝の勅願所也。天平の頃行基菩薩天皇の命を受け、新仏三体を合作し誓を立て都を後にし遥々荒国九谷の峰の間に入尋給ふ。時不思議や十六童子に逢ひ給ひ山川震動し神龍影をなし、大士此の山は無上の霊峰と思召され、此地を仏法の守護所として本尊救世大悲の尊像一体安置せられたり、時に天平十三年春正月なり。
弘仁の頃空海上人行脚の砌り立ち寄りて密教の道場とし国家安穏仏法興隆の為親しく金剛頂経一巻納め給へり。
久しくして延暦十三年坂上氏一七日心願来詣せられたり続いて智泉上人一七日の閒籠って厄病除の為祈願せられたり、猶又足利氏御本願として時の圓教僧都に九谷の峰救世大悲の像を岩井の峰に祈ると申し寺一宇建立して観音堂領地所山林共に八町五反内田に、寺領として佐束に八町五反寄進せられたり。高氏公其時圓教僧都を中興開山の祖として寺号を平林寺、山号を九谷山と称す。外に一連坊、常光坊、正直坊等十二坊ありたり
應永九年七月十日改めて佐束山岩井寺と号す。天正年中横須賀城主大須賀五郎左エ門康高公、当山に帰依し七石の除地をなす。其後又五石除地を増す。慶安二年徳川家光公当山観音領として朱印地七石を附せらる。数通の御朱印ありしも明治維新に上地せり。
永禄の頃甲国兵乱入の時、境内七堂伽藍全部焼失せられたり。
此一千二百有余年の法燈を掲げし当山は篤信者諸氏の帰依を得て昔の伽藍に再興する事を誓ふ。尚原川大和守頼政公(原川城主)の墳墓ありて来詣せらるる人あり。
慶長年間1596~1615横須賀城主大須賀康高当山帰依、現在の伽藍の一部寄進。
境内は杉木立に囲まれている。
・楼門:朱塗り:二層
・修行大師像:金属製
・観音堂:入母屋造り唐破風付厨子、如意輪観音、右:大日如来、御詠歌:大正二年横須賀念仏講中、法楽俳句集:安政六年 2枚、
・一石五輪塔:数基
・老松切り株:丘頂・直径2m
~追加~
表参道
・石柱:遠江三十三番打留札所子安観世音菩薩霊場 明治四十五年子壬歳
・石柱:古義眞言宗高堅派 佐束山岩井寺霊場 昭和十四年
・コンクリ階段:修行
・馬頭観世音
境内
・掛川市指定保存樹木:イチョウ、ソテツ、スダジイ、スギ、他、・
・板碑:御坂石段寄附、・地蔵、・石柱2:大正十一年、・手洗石、・石:穴あき石:80㎝、
・細長石:1.3m、・新:手洗石、・石段、・板碑:記念 三十三ヶ所巡礼 昭和三年、
・常夜灯2:平成八年、・三界萬霊 四国八十八カ所ノ内第四十一番 第四十二番 遠江掛川町山崎茂七 妻とせ 大正三年五月、・□(梵字)西国三拾三所 善光寺如来 供養塔
・板碑:遠江三拾三所 御詠歌寄附 明治二十九年、
「」
周辺:掛川市街地から南へ6㎞、標高100m山頂、一帯は旧岩井寺砦跡、北側急峻、北からの侵入防いだ地形。南の展望すばらしい。
有住、駐車場有、Tel:0537-22-5213、明るくても17時過ぎるとクレームが出ますので、17時までには御朱印を受けましょう。


・経路
32番から北へ4㎞、手前に地蔵堂がある。佐束山を上り詰めると楼門、観音堂は楼門と反対側山上。山頂へは県道から500m北から南へ山裾を廻りこむように、坂道の参道を上り詰める。
JR掛川駅より南に6㎞、徒歩90分。
1番へ4㎞、徒歩60分。

ここから1番の結縁寺に向かうルートはいくつか推定される。
1、 陣馬峠とも青田峠(嶺)とも言われる峠を越えた先の上張で1番の結縁寺に向かうルート。
2、 陣馬(青田嶺)峠から尾根を西に沿って伝い、尾根上にある現在の掛川市総合福祉センターやつつじヶ丘愛育園を通過して結縁寺に下っていくルート。
3、 陣馬(青田嶺)峠手前の秋葉山常夜燈辺りから北の山際を西に向かい龍谷寺前を経て上板沢の沢沿い道を北に詰め尾根越えして結縁寺に至るルートが推定される。
どれがメインの道か判断できかねるが、附属地図には3のコースを記入している。 

・33番から1番への古道ルート? 
 答:岩井寺から子隣りで西に進み、和田へ出る。その切通しに石仏がある。和田から北東に進み、県道や上小笠川の橋を渡り、板沢神社のある秋葉街道に出る。秋葉街道を北西に進みトンネル手前で県道を渡り、上板沢の龍谷寺方面に出て、龍谷寺の西から板沢と上張の境界線の尾根越えをして結縁寺に行く古道がある。

33番から1番乃至は掛川宿に行くには子隣から大谷池と出雲神社の東側の大谷交差点に至るルートだが、これは明治20年代にはない。江戸時代の秋葉街道自体が上内田小学校の敷地隣側を通り、今の大谷交差点自体が存在しない。古道は大谷池の西側を通り和田の白山神社付近を北上して和田バス停付近で今の県道付近を交差し、もう少し東側の秋葉街道古道につながったようだ。
1番へは北の地蔵堂を目指し150m、栗原川を渡り、県道掛川大東大須賀線に出て東へ300m進み、左折(北)するが、この時できれば手前の狭い道がより古いと思われるのでそちらに入っていくとよい。200m北に進み子隣橋を渡り150m進むと、右のトンネルへの道や左の広い切通し道に進まず、更に左の沢沿いの狭い道を150m進む。道の左の茶畑の奥に石柱がある。
○白山神社:説明版:子隣字白山58番地、祭神:伊奘諾尊イギナギノミコト、菊理比賣尊キクリヒメノミコト、例祭日:10月9日、由緒:勧請は足利時代中期と推定、寛文六年再建、境内社として神明社、角皆社を祀る。明治八年国からの一村一社指令により現在地に南側より、八穂社(天白)、金山社(金山)、山神社(天王原)、津島社(天王原)をそれぞれの地より移し併祀した。
・石柱2:、・石鳥居:大正八年、・堂:神祀、・祠4、
子隣の道を西に150m進むと右に田畑と山際にある道に分岐する。右へ行くのが古道のようだ。一応まっすぐ行ってもこの先で右折すれば合流する。150mも進むと、先ほどの左にあったやや広い道が合流してくる。そして目の前は切通しになり、北向こうは和田である。丁度ここに石仏がある。
・?馬頭観音:摩耗していてはっきりしない、ここが和田と子隣の村境だったのだろう。高さ10mの切通しになっているが、昔は高さ10mの丘越えだったということだろう。そしてそこに石仏が祀られていたのだろう。やや広い舗装道を300m下っていくと和田集落が見え、左に公会堂や神社がある。
・和田白山神社:和田公会堂:掛川市和田446番地、祭神:伊奘諾尊イギナギノミコト、伊奘冊尊イギナミノミコト、菊理媛尊キクリヒメノミコト、例祭日:10月10日、由緒:創建不詳、当地は故和田義盛の一族が土着し今も和田の地名が残っている。その当時は守護神として和田家で所有していたが、一族が次第に増加し、これを氏神として崇敬致すようになり境内地90坪と神社を和田地住民に譲った。その後明治八年地租改正の際官有地に編入昭和二十年八月、この地和田民間編入される。
・石柱3:大正四年、・馬頭観世音 弘化元子年、・祠:地蔵、・井戸、・板碑:藤田氏学碑、・地蔵、・手洗石:15×25㎝、・祠:神祀、・石鳥居:御即位紀念、・手洗石:明治廿八年、・奧宮、・祠7:
100m北進する。左に長屋門が見える。
・長屋門
150m北進する。左に石塔がある。
・宝篋印塔2:崩れかかっている。
あと150m北進すると今の県道に合流するが、ここで古道は県道を横断し、東側の上小笠川を渡り、さらに東150mのやや上の山中腹を北に向かう古道秋葉街道に合流を目指す。
 下板沢464⁻1:原野氏宅前の板沢神社分岐点に常夜燈や石道標がある。
・秋葉山常夜燈:木造瓦葺:木彫りがすごい立派!、
・石道標:右杉谷ニ至ル 左掛川道 
○板沢神社:説明版:
・石柱2:大正七年、・石鳥居:大正七年、・献燈2:大正七年、・新:手洗石:コンクリ、・手洗石:25×45㎝、
秋葉街道古道を進むが、途中杉谷への広い道を横断する。古道がやや分かりにくいが西北を目指す。500m進むと県道に出る。秋葉街道はまたこの先で陣馬(青田)峠越えの細い道となって県道の右上に上っていくが、こちらは1番:結縁寺への古道を目指すので、県道を横断して上板沢集落に入る。この県道合流地点に遺物がある。
・秋葉神社:板沢834⁻3:
・秋葉山常夜燈
県道を渡った上板沢集落には寺がある。
○龍谷寺:無住;・新:無儘燈 昭和五十四年、・地蔵:三界萬霊 村中安全 遠江國掛川町 施主山﨑茂七 妻とせ 大正五年 第七十五番:2 ・堂:観音、・献燈:文化三年、・阿弥陀佛、・石塔、・地蔵、:天保丙年、・石塔、・西國三十三番札所、・堂、・手洗石:丸:昭和五十一年、・古:手洗石、・新:句碑か歌碑、
県道分岐から西に300mで板沢1280₋2:角皆氏宅で右折(北)右に墓地を見つつ進み、150mで右に板沢1074⁻1:狩野氏宅があるが、その手前を右(北)に向かう軽トラ農道に進む。右上の山頂にはかつての掛川市福祉センター愛育園(移転廃止)の無人建物だけが残っているが、ここからは見えない。300m進むと見晴らしがよくなり、直進以外に右上に進む軽トラ農道がある。右上の農道が古道のようだ。かつては石仏もあったようだが、今はない。150m進むと東西尾根を越える。そのとき西(右)の愛育園側からの舗装農道が合流する。農道を400m下っていくと左に猿田池があり、前方に東名掛川ICとエコパを結ぶ広い道が左右に延び、その向こうに結縁寺の隣の白山神社も見える。この道がもっとも近道かと思うが、別ルート2つも紹介する。
・愛育園ルート
上板沢の龍谷寺の右から尾根上の掛川市福祉センター愛育園(移転廃止)の建物を目指す。舗装され自動車で行ける。ちょうど愛育園の左手前が駐車場になっているが、そこに標識がある。標識「農道につき駐車禁止」。ちょうど駐車場の中心部分は農道で、左右に駐車場があるようだ。駐車場の左奥隅に抜けられる道がある。それが農道である。西に進み、先ほどの結縁寺に抜ける農道に尾根の北側を通って距離250mで合流する。
・陣馬峠ルート
下板沢から陣馬峠に出て、そこから東西に延びる尾根を西に進む。途中青田の切通しで現在は歩行困難かと思われるが、未確認なので不明。かつては尾根沿いを東西に歩けたと思われる。陣馬峠から青田の切通し、そして愛育園まで行けたろう。確認としては
’16 3月に愛育園の東端の尾根から歩ける道が草刈りされていた。茶畑もあり、所有者管理者が歩くためこの附近は草刈りをするようだ。更に先には青田の切通しがあるはずだが、そこまでは行くのをやめた。かなり以前青田の切通しを抜けたが完全な廃道で倒木と雑草で道ではなかった。どこまで草刈りしてあるかで歩きやすさが決まるが、未確認。

~周辺~
・大谷池:古道は池の東ではなく池の西を迂回して通過する。
○出雲神社:説明版:掛川市上内田920₋8、祭神:大国主神オオクニヌシノカミ、例祭日:8月6日、由緒:大谷区は明治三十五年桧坂隧道が完成し上内田村の中心に位置する所となり、明治の末期より人々が住み始め戸数も年々増加した。昭和9年8月5日出雲大社より分霊を迎え盛大なる鎮座祭を行い、翌6日には法祝祭を斎行、神社名を出雲神社と奉称して8月6日を例祭日と定めた。昭和59年に社殿を改築、鎮座50周年記念祭を盛大に行い、崇敬の念を深めた。平成2年鳥居と幟立を移転改築し現在に至る。
・石柱:出雲神社参道 平成六年、・金属鳥居:平成二年、・石柱2:コンクリ、・手洗石:昭和九年、・石柱2:平成二年、
神社の東を通る道は新道(明治35年)で、昔の古道は神社の西側の和田を通過していた。


☆うつし霊場
遠方の巡拝には時間と経費がかかるので、念願しても果たせない庶民のため「うつし霊場」というものがつくられた。
○周福寺:三島市鶴喰、百観音
○安興寺:菊川市(旧小笠町)棚草305₋2、六角堂:小笠町、寛政十年1798、京都六角堂を模して千浜の棟梁:出野利八作、33体観音は京都の仏師作、安置、堂内中心回転仕掛け、正面にいると33体すべて拝める。28番から29番への巡礼路である秋葉街道の南にある。
・地蔵:三界萬霊第五十一番、第五十二番:多分掛川の山崎夫妻奉納であろう、・洗い地蔵、・奉順禮遠州 文久三、・馬頭観世音菩薩 大正十五年、・観音3、・地蔵3、・地蔵、・新:六地蔵、
 六角堂の裏丘に祠がある。
・祠:神祀、・手洗石:奉納千浜袴田、


☆榛央新四国八十八か所   桐田榮 
「25番札所 松島山岩松寺」は82番
「26番札所 杖操山妙国寺」は81番
明治25年春彼岸、島田市湯日:養勝寺25世朝倉元巧は、金谷町金谷:弘法庵主:貞法尼と協力して「四国八十八か所」に倣い、島田市旧初倉村全域、吉田町神戸、榛原町坂口、旧金谷町全域に札所を配し、弘法大師の聖蹟を巡拝すると同じ利益に預からしめようとした。
桐田榮氏は1984年夏より調査し、85年末「榛央新四国八十八か所」と名付け公表した。
『郷土における観音信仰』榛原町教育委員会:発行 桐田榮:著 


*蛇足
・保存会では札所に菩提樹と沙羅樹を植樹しているという。
・札所境内でよく見かける石仏に、二つの座った地蔵に刻字「三界萬霊 供養」そして「掛川町施主山崎茂七妻とせ」である。三十三所だけかというと、そうではなく、周辺の寺院にも奉納されている。三十三所でも東の島田市、菊川市にある札所では見かけないし、南の旧大東町や西の森町、磐田市、袋井市でも少ない。それは遠距離なので奉納しなかったのか、奉納したがその後損壊廃棄したものなのか分からないが、旧掛川市内に奉納したものが多く周辺には少なかったと考える方が自然な気がする。掛川近辺の寺院にどれだけの石仏を奉納したのだろうか。奉納年月は大正期の前半に集中しているようだ。信仰心の篤さとそれなりの財力が必要だっただろう。そして山崎茂七という人はどういう人だったのだろうか。


○夏涼山仲道寺:掛川市岡津331。かつては善光寺であり、今も善光寺如来のお堂がある。 33所を順礼後、打ち留で長野の善光寺に行くべきだが、掛川市内にも善光寺はあり、そこで打ち留めできるとのこと。しかし仲道寺に問い合わせたら、そんな話は聞いたことがないし、御朱印もやっていないとのことだった。
・説明版:享保十八1733年、高御所の正法寺から和尚を招き善光寺境内に堂を建立して夏涼山仲道寺と号したことに始まる。善光寺の沿革ははっきりしないが江戸時代の終わり頃には寺の阿弥陀堂に祀られている阿弥陀仏は平安時代の初めに活躍した武将、坂上田村麻呂の守り本尊と言い伝えられていた。
当地は佐野郡小松原といわれた。往古延暦七年、伝教大師が三体の阿弥陀仏を彫り、延暦九年、うち一体を奥州に置こうとして、坂の上田村麻呂を勅使として東に下った。途中当地で兵が難病にかかり進軍できなくなった。その一体の仏像に難病回復に願をかけた。その後兵の病気は回復した。そこで寺堂を建立した。当時諸国に難病が流行っていたので、この善光寺に参詣するものが多かったという。
右側の寺は曹洞宗の夏涼山仲道寺である。その昔江戸から京都までを測量し、その中間がここだということで仲道寺としたという。
・馬頭観音、・祠:地蔵、・手洗石:コンクリ、・手洗石:嘉永二:ほかされている、・ソテツ、マキ、・善光寺如来堂、
東隣の道分岐点に石道標がある
・石道標:大正五年十月 曽我村青年會岡津 従是 東掛川町ヘ約一里 北岡津區 西袋井町ヘ約一里 
すぐ東側は善光寺橋で、西は旧東海道松並木が残り、椎木茶屋が営業している。もう少し西の間の宿:原川の金西寺には石塔類が多い。北野天満宮。
原川15-2:旧交番跡には石道標がある。
・石道標:是従 和田岡村 原谷村ヲ経テ森町ニ通ズ 大正四年 御大典記念原川青年會 


○桜ヶ池:池宮神社、33所回った後の打ち留めに行く所だと聞いたが、未確認。おそらく打ち止めにする理由があるとすれば、秋彼岸に巡礼することが多かったらしく、ちょうど秋彼岸中日には奇祭:御櫃治めが行われることとも関係するかもしれない。
ちなみに秋彼岸中日には西2㎞にある不動尊を祀った大山公園:浜岡総合病院前の山頂の不動尊から見える夕日は、3~4つに分かれ、しかも本物より大きいという言い伝えがあり、「不動山の夕陽」という。これも遠州七不思議のひとつである。気象学的に幻日という現象という説もあるがはっきりしない。
 *参照『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸「不動山の夕陽」P.66
・櫻ヶ池:説明版:約2万年前、風と波で砂が運ばれせき止められてできた池である。法然上人の師、皇圓阿闍梨こうえんあじゃり竜神の伝説を秘め彼岸の御櫃治めの祭典は天下の奇祭としてまた遠州七不思議のひとつとして名高い。
・桜ヶ池とおひつ納め:説明版:桜ヶ池は約2万年前にできた砂丘堰止湖です。県立自然公園の一環にあり、静岡県の自然百選の森にも選ばれた神秘な原生林に囲まれた県指定名勝地です。桜ヶ池のほとりにある池宮神社の祭りに五穀豊穣を祈るため秋の彼岸の中日に行われる「おひつ納め」(県指定無形民俗文化財)がある。平安末期、比叡山の名僧皇圓阿闍梨が衆生救済のため竜神と化し入定され池の主神となった。この霊を高弟の浄土宗開祖法然上人が供養のために桧作りのおひつに赤飯を詰め、一つは池宮神社に、一つは師の皇圓阿闍梨にと池心に沈めたことから始まり、以来現在まで続いている奇祭で遠州七不思議のひとつに挙げられる。
・「おひつ納め」と「皇圓阿闍梨」こうえんあじゃり:説明版:皇圓阿闍梨は肥後の国(熊本県)に生まれ、幼くして比叡山で学問・仏法を修行し、後に日本の歴史書『扶桑略記』30巻を記した。皇圓阿闍梨は悟りの境地を得るため天台の「止観」という方法に基づき、様々な難行・苦行を重ねた。しかし仏法の極め難きを知り、56億7千万年後に出現するという弥勒菩薩に会うことを発願した。そしてその弥勒菩薩の教えにより人々を悩みから救うことができると考え、嘉応1169元年6月13日(96歳時)自分の身体を龍と化し、桜ヶ池に入定した。おひつ納めは後に皇圓阿闍梨の高弟、法然上人(浄土宗開祖)が桜ヶ池を訪れ、師である皇圓竜神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを神社に1個、桜ヶ池に1個納めたことに由来する。以後親鸞聖人(浄土真宗開祖)、熊谷蓮生坊直実が継承し、以来八百数十年続いている奇祭である。またこの桜ヶ池は信州(長野県)と底が続いているとも云い伝えられている。それはすべての命をはぐくむ水の神様を共に崇め、感謝するという古代人から現代人に至るまで心の底が通じていることを象徴している。
・池宮神社:説明版:祭神:瀬織津比(口へんに羊)命、事代主命、建御名方命、神徳:瀬織津比(口へんに羊)命は大祓詞に現れる代表的な清め祓いの神で、諸々の罪穢を祓い、開運厄除である。あとの2神は共に大国主命の子で、事代主命通称恵比寿様と称せられ商売繁盛、福の神として、建御名方命は武勇の神、また農、耕、水の守護神として崇められる。祭日:例祭・納櫃祭=秋の彼岸の中日、由来:創祀は敏達天皇13年6月、584年、に瀬織津比(口へんに羊)命が出現し、社殿造営がなされた。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし平安時代中期一条天皇の長保3年、1001年、社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興。室町時代に入ると駿河、遠江を領有する今川氏の崇敬を受けたが戦国末期に武田、徳川両氏の高天神城争奪の地となり社殿はじめ神宝、旧記、古文書の大部分を焼失。江戸時代に神官信盛再び興し徳川家の崇敬を受け、明治維新に至る迄地頭の祈願所となった。享保十六1731年には正一位の神階宣示を受け、本殿は宝暦十1760年拝殿は元文四1739年に時の大宮司従四位下佐倉治部大輔源朝臣信幸が造営し、その名を池宮天王社とも称され現今に至る。
・池宮神社本殿:市指定有形文化財:説明版:本殿は一間社母屋造平入、流れ向拝付杮葺本柱円柱、向拝柱几帳面取角柱、総朱塗、木階五級の建築であるが、鬼斗、かえる股等に江戸時代中期の意匠工法が散見され小規模ではあるが注目すべき建物である。
・説明版:法の沢 八幡神社:榑林一族の祖先は天正九1581年3月高天神城落城の時、国安橋を渡り、比木の金峯山正福寺に落ち着き、その後、隣の佐倉法の沢に居を構え、この地に祠を建て、榑林一族の氏神、八幡神社として祀られた。昭和49年に浜岡東小学校建設の敷地となったため、池宮神社に移された。
津島神社:祭神はスサノオノミコト(牛頭天王)で疫病除け、田の害虫除けの神として信仰されている。宝暦五1755年佐倉郷、清水嘉十宅西側隣接地に鎮座された。1991年弁天神社と合祀され、池宮神社境内に移され現在に至る。
弁天神社:祭神は田霧姫命たぎりひめのみこと、市杵島姫命いちつきしまひめのみこと、
□(さんずいに端)津姫命たぎつひめのみことで、海上交通を守護する神として信仰されている。元文六1741年佐倉郷、清水稲次郎宅東側敷地内に鎮座された。1991年津島神社と合祀され、池宮神社境内に移され現在に至る。
・大自然の異変 異常高温と大干ばつ 桜ヶ池の鯉の大量死 620匹 平成13年7月20日~8月8日の20日間:説明版:桜ヶ池始まって以来の出来事で、人類が作り出した二酸化炭素による温暖化現象、窒素酸化物による大気汚染、地下水の枯渇、さらには池の富栄養化と異常高温等が原因と考えられる。これは皇圓阿闍梨大菩薩と桜ヶ池の神が人類に向かって鯉の命をもって自然環境破壊に対して警鐘を打ち鳴らしたのだろう。今後二度とこのようなことがおこらないために大自然の摂理を重んじ、自然と共生することが人類に課せられた使命である。人々の難を背負って黄金の国に旅立った620匹の鯉をここに祀る。
・新:献灯2、・新:石鳥居:平成九年、・銅胸像:水野成夫、・新:地蔵、・新:とぐろ蛇、・新:布袋、・新:可愛い地蔵、・新:妙法法祐龍神位、・新:三世之道道しるべ南無甘露台、・堂:新:櫻ヶ池観世音菩薩、・新:観音:水 心願成就、・新:地蔵:水 心願成就、・新:祈願海上安全、・新:双胎道祖神、・新:地蔵2、・新:祈願縁結子育夫婦和合、・地蔵、観音:慈愛、・小地蔵:多数、・鐘楼、・新:皇圓阿闍梨之供養碑、・新:法然上人之供養碑、・地蔵:無縁法界萬霊供養□□□、・皇圓阿闍梨上人為菩提 大正元年、・新:献木、・古:皇圓阿闍梨之碑、・古:法然上人之碑、・石鳥居:平成七年、・石柱:櫻ヶ池池宮神社 紀元二千六百年記念、・新:石柵、・永代三夜燈2:明治十三年、明治十五年、・献燈2、・首なし石仏、・献燈、・舟:3艘、・石柱2、・堂、・板碑:金五百圓也、・献燈2:明治四十一年、大正元年、・石塔:奉納昭和五年、・造営記念碑、・手洗石:昭和三十二年、・献燈:破損いくつか明治十三年、明治十七年、・狛犬2、・献燈:、・新:狛犬2、・新:献燈2、・石鳥居:平成二十年、・石碑:鳥居建設、
・石柱5:・海軍大佐 陸軍大将 畑□□、・志工佐倉信武氏之碑、・國学者水堅眞邦氏碑、・□□□□羅神、・石道標:名所櫻ヶ池従是北十三町 大正十三年一月廿六日 御成婚記念佐倉村:池から南に1.4㎞とすると今の国道150号線で巨大な赤鳥居がある所に設置されていたと推定される。その道向かいは浜岡原子力発電所であり、浜岡原子力発電館(無料)もある。
・板碑5:慰霊碑等、
神社の向かいの土産物屋の裏にはかつて応声教院桜ヶ池別院があった。
・板碑:應聲敎院~~~ 昭和廿五年~~~
・石柱:左通行:横倒し、
考えてみると池宮神社は神社でありながら皇圓阿闍梨や法然を祀り、境内に供養塔や観音堂、地蔵が祀られている。鐘突き堂まである。ということは境内地はかつて寺院だったということでしょう。まあ神社も古くからあるにしても境内地のかなりは寺だったのでしょう。


○丸山観音 番外四番:「遠江第参拾七番 丸山正観世音菩薩」
 『遠江三十三所案内』桐田榮 ’88 の「丗二番今滝寺、道順」の項目に以下の文章がある。
「菊水寺から出て西に行くと、岩井寺をへて掛川に通ずる道に出る。この道を西北に進むと中方ナカホウの集落に着く。ここから左(西南方向)に折れると間もなく左側に池があり、この池には丸山観音がある。番外四番である。丘を越えて下れば下土方で西方に高天神山が見えてくる。」
31番から32番への途中に、この番外四番の丸山観音はあるらしい。中方集落の西の池のようだ。近江ヶ谷池のことか。
中方集落の県道247中方千浜線と、西へ行くと近江ヶ谷池を経て丘を越え下土方へ行く道の交差点に出る。ちなみに東へ300m行くと宗禅寺に出られる交差点でもある。この交差点を西に行く。50mで新橋を渡り600m進むと道は上りになり左に近江ヶ谷池が見える。中方多目的広場グラウンドゴルフ場とその無料駐車場がある。公衆トイレもある。その手前の丘上に行く細い山道があり、その入口に道標がある。
・新:石道標:遠江第参拾七番 丸山正観世音菩薩 平成六年
山道を20m進み、標高差7mを上ると、丘中腹に小さな祠がある。
・祠:木造仏2:25㎝:丸山正観世音菩薩、丸山虚空蔵菩薩、
中には25㎝程の木造仏2体が祀られている。なんとも小さく可愛くも、こんな狭い所でも信仰されている証があるとは。
広場と駐車場は、行事があると車でいっぱいになるが、終われば一斉に車がいなくなるので、トイレともども使いやすいだろう。

~中方周辺の遺物を紹介する。
丸山観音から元来た道を戻り400m東進する。左(北)の山の10m上の中腹に堂がある。
・薬師堂:石柱2、・石柱:宮真山薬師如来 昭和拾三年、・石階段、・手洗石:文政十三年庚寅年、・単製六面石幢セキドウ:宝永七庚寅、・西國三十三所供養塔 弘化四未年、
200m東進すると、左にあった山が低くなって平地になる所に堂がある。
・堂:延命地蔵尊、・西國三十三所供養塔 昭和十四年、
100m東進すると新橋に至る。橋手前で右折し200m南下する。
・春日神社:掛川市(大東町)中方字宮後2155⁻1、祭神:建御雷命たけみかずものみこと、天児屋命あめのこやねのみこと、斎主命いつきぬしのみこと、例祭日:10月9日、由緒:当社は藤原氏の氏神として後藤氏の先祖後藤肥後守藤原好秀の嫡子、俵藤太秀卿が室町初期の応永22年1415南都春日社から、3神を勧請したのが始まりで、その末孫後藤民部少輔家長の代に祭祀を盛大にするため、毎年10月15日夜宮祭を創始、現在は町内神社の祭日を統一され10月9日に行う、境内に合祀されている9社の末社と、天然記念物指定の大楠がある。、・春日神社クスノキ:市指定天然記念物、・木鳥居、・板碑:征清軍~、・石鳥居:日露~日獨~、・板碑、・手洗石:寛政三、・手洗石:昭和十三年、・祠8、・納札所祠、・三夜燈2:明治九年、・永代三夜燈2:明治三年九月、・永代三夜燈:昭和□□□、・石柱:大正三年:横倒し、
 県道247中方千浜線に戻り、南下する。千手橋で県道は左だが、直進して谷の口地蔵堂の前も通過し中方の交差点から2.4㎞南下する。
・薬師堂:中6400:トッパンフォームス工場の北側、・丸形手洗石:臼?、・祠:南無浄行菩薩、・妙法横穴古墳供養塔:昭和五十二年、・手洗石:文久二壬戌年、・石柱2:昭和五十二年・献燈2:文久二壬戌年、弘化三丙午年、ちょっとした丘になっていて横穴式古墳だったようだ。
150m南下すると信号のある交差点で左(東)に2つ神社がある。
・八幡神社:・手洗石:コンクリ、・石段:嘉永四、・石柱2:大正十二年、・板碑5:忠魂碑等、
・中村八坂神社(中村祇園社):説明版:中村八坂神社の神事と祇園囃子:静岡県無形民俗文化財指定:掛川市中2308番地、掛川市中公文組字三石927番地、祭神:素戔鳴尊すさのおのみこと(牛頭天皇)、勧請:応徳二1085年、中村祇園祭は、地元の古老の伝承によれば、今から約900年前、白河天皇の御代応徳二年六月七日、亀惣川の上流、下土方、青谷の里に祀られていた祭神が大洪水によって三度にわたって、今の中村青谷の里に流れついた。里人はこの里にゆかりが多いとして祀った。1446年満勝寺は京都本満寺、日秀日住聖人が開山、それ以来神仏一体の関係から満勝寺が、主体となって中村祇園祭を伝えてきたという。中村の青谷の里も、亀惣川に沿い、年々洪水に見舞われたので、現在地三石に移った。祭神は年に一度七日間だけ青谷の実家に里帰りをするが、仕事が多くくつろぐ暇もなく、帰らざるを得ない。泣き泣き帰る神を、賑やかなお囃子で元気づけ送るのが、この祇園祭である。昔は旧暦六月七日に青谷に渡御し、同月十四日に還御するが、諸事情により十月の収穫期直前に実施された。現在は本祭りが十月の第一土、日曜日になった。中村八坂神社の祇園祭は、延々に数百年閒にわたり、地元氏子の手に依り神事と祇園囃子を忠実に、伝承している。その価値が高く評価され、1984年県指定を受けた。
 祇園祭及び祇園囃子行事
本祭第一日
⑴ 垢離とり:コリトリ
⑵ おみくじ行事 先獅子、天狗、太鼓、笛、幟、神馬、御杖、神輿、御手脇、飛馬、脚立、鉄砲、
⑶ 道中こさ打行事
⑷ 道具ぞろい
⑸ 警護の位取
⑹ 宵祭
⑺ 満勝寺参拝
本祭第二日
⑴ 大祭 青谷の御旅所
⑵ 山車 青谷練り込み
⑶ やぶさめ祭
⑷ 神幸行事
⑸ 五反幟祭
⑹ 警護万度山車御供
⑺ 本社お着き
⑻ 山車より松おろし
⑼ 各区毎に千秋楽行事
祇園祭の仕組み
お役人、警護、中老、若衆、
祇園囃子の内容
曲目…道引、大間の曲、昇殿の曲、かみくらの曲、徹花の曲、
楽器…大太鼓、小太鼓、笛、鉦、
面…獅子の面、天狗の面、おかめの面、火吹男の面、
・石柱2:大正十二年、昭和六年、・手洗石、・御神燈:弘化四年、・
 東へ600m進む。左に小山があり、その麓に廃寺がある。
・興光寺:廃寺:菊川市大石478、廃墟、・祠:観音か庚申、・善光寺如来供養塔 明治三十四年、・祠:地蔵、
 東へ150mで左の小山の先端部に墓地があり、その下に石塔がある。
・石塔:金刀比羅大権現 明治廿八年未歳二月十四日集□(別面:明治三十五年旧正月十日立□)…この年数違いは何?各面により別の用途で使われたのか?
 その先、左側は蓮池公園となる。公園内に入り山頂を目指す。
・この山頂付近一帯にある獅子ヶ鼻砦は、高天神城の戦いの時に築かれた高天神六砦(獅子ヶ鼻砦、中村の砦、能ヶ坂砦、小笠山砦、火ヶ峰砦、三井山砦)の一つである。高天神城をめぐり周辺では、武田方と徳川方と幾度も戦いが行われた。天正8年1580一説には前年、徳川家康は、獅子ヶ鼻砦を家臣団に築かせ、城を守る武田方を包囲した。六砦により兵糧や弾薬の補給を止められた高天神城は天正九年に落城した。
 ・四等三角点:国土地理院、山頂は三角点がある。標高44.0m。
山頂北東側に神社がある。
・八幡神社:掛川市岩滑2089、・石鳥居:大正二年、・石碑:天皇在位六十年記念 昭和六十一年、・手洗石:昭和三年、・石段、・祠:神祀、・板碑:招魂碑、・献燈2:大正二年、
神社の参道手前に石碑がある。
・板碑、・石柱2:大正十五年、


☆むすび 
 古道調査研究ということで、江戸時代後期から明治初期頃の道が分かればという思いだったが、調べて記載した内容は石器時代、縄文時代、古墳、中世山城から現代に至る迄、街道沿いのなんでもかんでもになっているやと思う。しかしこれには意味がある。各地域で暮らす人々の生活文化が発展していく。そして他地域との交流が発展する。道が作られ交通が盛んになる。道によって人々の文化が伝播し、さらに発展をする。人は文化を作り、道を作り、利用し、更に発展する。そして道によって文化が発展し、人が発展する。道と人とは相互相乗効果で発展しあうものだろう。その人たちの文化的歴史的バックボーンを知らないで、道だけを見ていくと、その道の文化的意味合いを取りこぼすのだろう。
例えば28番正法寺から29番正林寺へ行くために、菊川市の東名IC付近を通過するが、この北の舌状台地南端には縄文遺跡や古墳があり、そこに文化があり集落があるので、その南端を通過するのだろう。また菊川市棚草では今川さま(今川義元)が祀られている。かつてそこは横地氏や勝間田氏の領域であり、その塩買坂で今川義忠は戦死している。その後横地氏等の支配を脱却させ、領民から慕われるように今川氏が支配体制を確立していった取り組みの一つとして水路を作り、おそらく川上市場等も整備したのだろう。その一端を知るような思いだ。歴史的経緯が街道に影を差すのだ。道と人とは相互作用をもつものだろう。
おそらくそういったことを早くに知らしめたのは、シュライバー:著『道の文化史 1つの交響曲』関楠生:訳、岩波書店だろう。道と人とが相互に文化を発展させ合うという考え方を示した。
と言って私は読み切っていないので、なんともいやはやだが…。世界の古代街道について詳細にくどくど述べられても、うーんなんだよね。


・参考資料
○『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』及び附属地図(本文中の附属地図とはこのことで「古人の歩いた遠江三十三所観音巡礼みち」が正式名で著者は落合義男:島田市神谷城)、瀧茂、浜名湖出版、‘88 
○『遠江三十三所案内』桐田幸昭、静岡教育出版社、’88 
○『光と風と観音様と 遠江三十三観音霊場ガイド』竹腰幸夫、静岡新聞社、’03 
・ゼンリン住宅地図’93「掛川市」「森町・春野町」「天竜市・豊岡村・龍山村」
「袋井市・浅羽町」「金谷町」「菊川町」「小笠町」「大東町」
・明治期に発行された陸地測量部地図の2万分の1か5万分の1
 2万分の1:「掛川町」「森町」「山名町」「大須賀村」「日阪村」「二俣町」「向笠村」
「中村」「嶋田町」「牧埜原」「白光山」「家山」
・昭和後期から平成にかけての国土地理院2万5千分の1地形図「掛川」「山梨」「森」「八高山」「袋井」「下平川」「相良」「家山」
・「静岡県広域・詳細道路地図 県別マップル22」昭文社、
・「都市地図 掛川市 エアリアマップ13」昭文社
・「静岡県の中世城館跡 静岡県文化財調査報告書第23集」静岡県教育委員会文化課、’81
 1970年代までに推定や調査された県内500か所以上の城館を掲載している。
・「平安鎌倉古道 鎌倉~京都」尾藤卓男
・「金谷町史 地誌編」
・「かなやの史話・民話・伝説見て歩く」山田好行
・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸
●「秋葉街道~塩の道をゆく~」小笠町教育委員会、小笠町郷土研究会
●「静岡県歴史の道 秋葉街道」静岡県教育委員会
●「塩の道ウォーキング」静岡新聞社
・「秋葉街道を(道標・燈籠)訪ねて」北みちしるべの会
・「日本石仏事典」庚申懇話会:編 雄山閣


○『遠江 心の旅路を歩く 遠江三十三観音霊場巡拝』、瀧茂、浜名湖出版、‘88 
における附属地図である「古人の歩いた遠江三十三所観音巡礼みち」の著者は落合義男:島田市神谷城で2010年頃、お亡くなりになったようで、すでに資料類はどうなっているか不明である。写真好きな方だったようなので、石道標類等の写真も多数撮影したのではなかろうかと想像するのだが、どうなったか不明である。資料が残されていれば、すでに消失したいくつかの石道標や石仏類が写っているのではなかろうか。またすでに消失した古道も写っているかもしれない。またメモしたノート類といったものも、もしかしたらあったのかもしれない。故人の資料があれば是非、遠江三十三所観音霊場事務局か地元の郷土資料館に寄贈してもらいたいものだ。


*著作権について 
本文中の33所寺院紹介記事は上記3種の○印の本からの引用がほとんどです。28番から29番に関しては●印の本から引用しました。特に著作権者から使用許可を取っていませんが非営利ブログだからです。そこでこのブログ記事からの文章を営利活動やその他の目的に使用すると著作権法上の問題が生じます。
また寺院紹介等の引用文以外の文章の著作権は私(兵藤庄左衛門)が有します。非営利目的での使用には無許可でも構いませんが、営利目的等の場合は許可が必要です。

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 18:58Comments(4)古道

2018年03月18日

川根路

~川根路~
’14 3/9
調査は今後随時行っていきますが、しばらく休業するので、記事内容は中途半端なまま放置します。今後おいおい少しずつおこなっていくつもりです。
 基本的に大井川沿いの街道を下流から上流に進む予定です。島田市、旧金谷町の旧東海道と川沿いの道との分岐点から始めて静岡市井川駅までとしたいですが、まだ未定です。
 途中川根筋の秋葉街道に重複するがそれはそれでおもしろかろうと思います。
*川根筋の秋葉街道については『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)や広谷氏のホームページ『東海道山筋紀行』を参照ください。
 
・お茶の郷(島田市金谷)
 
・桜トンネル(島田市川根町家代)
 
・音戯の郷(川根本町千頭) 
 
・草分観音堂(川根本町千頭163⁻1⁻2) 
 ・庚申塔 昭和六年 郷平安全、・手洗石:昭和十五年、・お堂:草分け観世音菩薩、
・地蔵2(川根本町千頭1199)川根大橋袂、 
 
・泉頭四郎兵衛の墓(川根本町千頭950⁻2) 
 ・昭和十六年、代々諸精霊 千頭院開谿明到居士 弘徳院圓光盛満居士 
・秋葉常夜灯、町指定文化財、建造物(川根本町千頭973⁻2) 
 ・説明版:指定:平成17年3月23日、創建は詳らかではないが江戸時代末期慶應元年(1865)秋葉山信仰の象徴として造建されたものといわれている。最初は寺島区にあったが、その後千頭西区に移築された。本体は寄棟造りの精巧華美な造りである。先人たちの優洽なる遺制を継承し、屋字の修理と上屋の新築を成就し、平成18年2月、千頭3地区区民一同が、此処、川根本町千頭沢屋に再建した。  川根本町教育委員会 
・豊川稲荷千頭別院(川根本町千頭901) 
 ・石碑:神社名:昭和六十年、・石稲荷2:昭和六十年、・手洗石:昭和六十一年、・石燈籠2:新:、・織部型石燈籠:新:、・祠:、・石稲荷4、・石燈籠:欠:、
・交通安全地蔵尊、燈籠(川根本町千頭806) 
 
・燈籠(川根本町千頭805) 
 石塀の端が石灯籠になっている。というか石燈籠を端にして塀を築いたというべきか。
・敬満大井神社(川根本町千頭801)林道横沢線、 
 ・石柵:昭和五十七年、・大杉:数本、・祠4、・常夜灯2:立太子記念、・常夜灯2:新:、
・石鳥居:平成元年、・手洗石:明治二十七年、・石碑2:供進(手偏に昔)定郷社敬満大井神社:昭和九年、・石鳥居:明治四十四年、  
・説明版:鎮座地:榛原郡川根本町千頭750番地、祭神名:伊弉再(諾)尊、天児屋根命、日本武尊、瀬織津姫命、境内社:八幡神社、誉田別尊、宝物:鰐口 応永26年銘一 永正6年銘一(静岡県指定文化財)、銅製 釣燈籠 文政11年銘一、由緒:創立年代不詳だが、古老の伝に依れば「景行天皇の御宇日本武尊東征の際、伊弉再(諾)尊、天児屋根命の二柱を勧請し社名を敬満社と号し、のち日本武尊、瀬織津姫命の二柱を配祀して敬満大井神社と謂う」とあり。明治6年3月郷社に列せられ、大正4年10月15日神饌幣帛料供進社に指定された。大正9年11月本殿並びに拝殿の新造営を行う。八幡社は創立年代は不詳であるが元千頭八幡山に鎮座の所、明治7年、久能社、中森社、神明社、草別社とともに境内社として合祀奉斎した。昭和21年6月15日宗教法人令による神社を設立し、昭和28年6月25日宗教法人法による神社を設立登記した。   平成7年10月吉日 
・大井神社(川根本町奥泉294-22) 
 ・石鳥居:昭和三十年、・石碑:大井神社 平成十年、・石燈籠2:昭和十五年、・狛犬2:皇紀二千六百一年 東京帝国大學醫學部卒業記念、・手洗石:、・青面金剛:大正九庚申年、
 ・丸石、・如意棒、
  ・説明版:鎮座地:榛原郡川根本町奥泉261番地、御祭神:彌都波能賣命みづはのめのみこと、合祀:立山神社、祭神:大山袛命おおやまづみのみこと、由緒:創立年代不詳なるも古老の伝ふる処に依れば、亀山天皇の御宇文応年中己(1260)に社殿を建立祭祀せりと謂う。而して当時の社地は、字栂ノ間出が元の社地であり、降りて文亀二年(1302)11月24日現在の地に御遷座。立山神社は元境内別殿なりしを明治七年1月合祀された。文亀壬戌二年11月24日の棟札を始め、元禄丙子九年、宝永丙戌三年、享保辛丑六年、宝暦巳十一年、文化巳六年と年次を追いて棟札現存せり。大正四年から六年にかけ本殿雨覆並びに拝殿の改築を行う。大正九年6月村社に列せられ、大正九年9月神饌幣帛料供進社に指定される。昭和二十八年6月宗教法人法による神社を設立登記した。昭和63年3月本殿雨覆改築、平成10年12月拝殿を改築する。  平成10年12月吉日  之建
  ・大井神社前の県道の向こうの窪地はもとは池で穴を掘って水抜きして開墾したものである。穴も計算違いで二度掘っている。
 「大蛇と娘」伝説もあり、『本川根町の伝説』や『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸(静岡新聞社)に詳しい。この池に大蛇がいて、池のほとりで洗濯した娘を追いかけたが、娘は寺に入って助かったとも、池に引きずり込まれたともいう。大蛇はすぐ野守の池に去ったとも、怒った村人がトンネルを掘り苦労の末、池の水を抜いて大蛇を追い出したともいう。
・長島ダム 

・お堂(川根本町犬間427平田) 
 ・鐘、・お堂 
・レインボーブリッジ 

・岩瀧不動堂(川根本町犬間) 
 ・説明版:文久の初めの頃犬間村は疫病が流行して困窮しておりました。ある日、志太郡高田村の日正坊と名乗る修験僧が現れ「村に疫病が流行しているのは不動明王の祟りがあるからだ。この川の上流に不動明王の宿る石があるから私が祈祷してあげる。もし疫病が鎮まったならばその石を滝の傍らに運んでお堂に納めて供養するがよい」と告げました。」ほどなく疫病は治まり村は平穏になりました。村の若い衆は法印のお告げによってその石を探しにゆき、ここにお迎えしたといわれます。村人は鎮座の滝を「不動の滝」と名付けその傍らに堂宇を建立、文久3年10月28日、観天寺和尚玲童興師によって開眼供養の法要を行いました。以来毎年1月には法印の司宰による供養祭を行って今日に至っております。また堂宇の中に石の地蔵菩薩が併置してありますが、これは昭和28年まで不動堂の真下に村の自家発電所があってその守り仏として祀ってあったものです。  
   平成13年1月吉日  岩瀧不動堂奉賛会 
・若宮神社(川根本町犬間) 
 ・石鳥居:平成九年、・手洗石:昭和四十四年、 
・川根本町やまびこ資料館(川根本町90⁻1) 
 
・河内地蔵堂(川根本町梅地275) 
 ・不動?青面?六臀:文政元寅(弐卯)年七月、・小さい木造仏像:数個、・観音:宝永七、・地蔵、・小さい地蔵:多数木造あり、・地蔵、・観音:嘉永三、・地蔵、
  ・説明版:河内地蔵の由来:湯の河内沢の左岸に地蔵場と呼ばれる平場があります。そこは静岡へ抜ける街道にあたり、梅地の村人たちは旅の無事を祈って小さな地蔵を建て、手厚く供養していました。ある年の暮れ、地蔵場を通りかかった川狩り人夫の一人が「なんて粗末な地蔵だ、生があるか試してやる」と大鳶で叩き割ってしまいました。その人夫は川狩りの最中、足を滑らせ激流に飲み込まれてしまったそうです。その後梅地の村人は壊れた地蔵に代わる新しい地蔵を祀りましたが、その地蔵には貞享二年(1685)と刻まれています。更に年月を重ね、地蔵は少しずつ梅地に近づき梅雲寺の跡地に祀られていましたが、平成13年この地に安置されました。  平成13年4月20日 梅地地区 
・新:平和観音、梅地神楽説明版(川根本町梅地365⁻1)接阻峡温泉会館 
  ・梅津神楽:静岡県指定無形民俗文化財:説明版:昭和47年3月24日指定、保持者:梅津神楽保存会、起源:室町時代の応仁元年(1467)京都では足利将軍家の相続争いから応仁の乱が生じました。この頃、京都梅津(現右京区)の里に住んでいた築地氏が一族を率いて都落ちし、信州飯田を経てこの地に至って村を開きました。築地氏は京都の梅津に因んで梅津と(後に梅地となる)氏神を歓請して自ら神主となり、その社前で奉納したのが梅津神楽のはじまりと伝えられます。梅津神楽は大井川、安倍川流域に広く分布する神楽との共通点が多くみられることから、駿河神楽の一つであると考えられています。
   祭典:梅地の谺 石神社、犬間の若宮神社の祭典の前夜祭に奉納されるもので、昭和31年より両神社で隔年交互に行われています。神楽の奉納は、毎年接阻峡温泉会館で1月第3土曜日に行われます。当日は正午に神楽祭が始まり、午後4時から神楽が奉納されます。
  すべての舞の基本となる「幣の舞」をはじめ、「三宝の舞」「八幡の舞」「鬼の舞」「八王子の舞」「須佐之男の舞」「梅津流太刀の舞」「殿の舞」「恵比寿・大黒の舞」「翁の舞」「五方の舞」「金丸の舞」「宇須賣の舞」「米の舞」「大弓の舞」の16の舞があります。神楽当日には、同じ舞が2回演じられたり、ある舞が演じられなかったり、順番が入れ替わったりすることもあります。また「ヘンバイ」という特別な祈願のある時にしか行われない儀式もあり、この地域では新築の地固めや安産祈願などの特別な祈願のある時に行われてきました。近年では安産祈願や接岨峡温泉のボーリング調査、長島ダム工事の時に行われました。   川根本町教育委員会 
・谺(谷令)石神社こだまいし(川根本町梅地310)
 ・石鳥居:昭和五十五年、・手洗石:大正四年、
 ・説明版:祭神:石凝姥命いしこりどめのみこと他2神、由緒:応仁の乱(1467~77)は京都を荒廃に帰したが、この頃京都梅津に住む築地清右衛門菅原の重常という武士が都落ちしてこの地に至り梅地村を開き、氏神として谺(谷令)石こだまいし神社を創建したと伝えられている。築地氏は梅地において砂金採取を生業としたので祭神は金鉱採掘ゆかりの神「石凝姥命」(八咫ヤタの鐘を鋳造した神)を勧請したものであろう。御神体は繭形をした円石で閏年の祭りの時、神の沢で御神体を清め真綿と和紙で御神体を包む神事がある。谺(谷令) 石の社名は昔は児玉石で蚕霊こだま―蚕玉―児玉と蚕と石の関係を説く学者もいる。明治になって谺と(谷ヘンに令、谷令)の文字が使われるようになったが、木の精、木魂こだまが聞こえる境内は、心のやすらぎの場所となっている。県指定無形民俗文化財「梅津神楽」は当社に伝わる郷土芸能で隔年冬祭りに奉納される。 


・大井神社(静岡市井川閑蔵2246⁻3) 
 かつての閑蔵林道今は県道を川根本町千頭方面へ下り閑蔵駅前で閑蔵の集落へ下っていくとある。
・金属鳥居:、・子安観世音:大正十五年七月、
・説明版:鎮座地:静岡市井川2246‐3、祭神:岡象女命みづはのめのみこと、例祭日:1月2日、由緒:元禄元年創建と伝えられる。




〇〇…石倉峠、鵜瀬山うのせやま標高・374m、見返し峠、地名峠、川根街道  
  使用資料
・2011年7月1日静岡新聞夕刊「しずおか峠今昔24」著:児平孤ぶ(木偏に無の文字、木無)
   庵
・国土地理院2万5千分1地形図「家山」
・2万分1地図:明治22年測量、大日本帝国陸地測量部「下川根村」

 場所は、島田市(旧川根町)笹間渡と、川根本町(旧中川根町)地名の間の峠道だそうである。
 資料は、2011年7月1日静岡新聞夕刊「しずおか峠今昔24」著:児平孤ぶ(木偏に無の文字、木無)庵の所収である。現在はまったく知られていない峠で廃道である。
以下に児平氏の文章を要約引用させてもらう。200年前に存在した証拠として、桑原藤泰(黙斎):著による『大井川源紀行』を挙げている。彼は『駿河記』をまとめるため駿河各村を回った。そのとき奥大井にも分け入った。ときは1812(文化九)年3月、笹間渡村から川幅約70m の笹間川を渡り、胸を突く山坂を登ると稜線の峠道に至るとのことだ。途中鵜瀬山標高374mを通るとのことだ。
児平氏は笹間川右岸の推定した場所から上り、地名まで無事縦走したようだ。正確な位置は記入されていないが、書かれていることから現在の場所を推定すると、笹間渡の北で笹間川となり、大井川鉄道地名トンネルの東に並行する尾根が石倉峠と思われる。尾根の南に標高・374mのピークがある。これが鵜瀬山で間違いなかろう。
そこで取り付き点は笹間渡の旧県道を通り笹間川の対岸の茶畑に橋を渡り、鵜瀬山標高374mの南斜面に取り付きピークを目指せばよいのだろう。うまくすると古道の廃道があろう。尾根には通れる古道に出くわすかもしれない。ただどこから地名に向かい下山するか分からない。△310.6mピーク辺りで西に降りればよいのだろう。
一応少しでも昔の道の情報を得るため、2万分1地図:明治22年測量、大日本帝国陸地測量部「下川根村」を参照した。鵜瀬山の北及び西の尾根上には点線があるので、この明治20年代時点で道があることが分かるが、それ以上の情報があった。笹間渡の集落から道は今の大鉄線路付近を通り北に向かい、笹間川を線路より東に100m地点で渡河し、北東方向へ向かうよう鵜瀬山の南斜面に取り付く。山頂は目指さず、南斜面を南から東に巻くように上り、鵜瀬山南東尾根で標高300m付近に到達し、それ以上は上らず北尾根に沿うよう標高300m付近を北に並行に進み、△310.6mを過ぎたところで西北の地名に向かい下っていく。ちょうど県道地名トンネルの北出入口付近につながるようだ。ただこのルートだと鵜瀬山山頂を通らないので、近世末期から近代初期の道かも知れない。
さて今は7月なので廃道は藪蚊蜘蛛の巣蛇で入りたくない。次の初冬から陽春にかけての宿題が一つできた。その頃に私はこの藪山に取り付いていることだろう。

 *以前紹介した「トワ山」「中村山」は大棚山、打越峠とともに「玉川トレイルレース」のコースになりました。喜ばしいことです。

・12,3,4(日)、午前中、川根本町のマラソン5kmに参加後、地名トンネル付近を車で目指す。
 笹間川ダム下流の旧舗装道へ出て、現在の新道が笹間川を渡る超高架橋の真下に行く。向かいは車の解体場か。この辺りから北に上る斜面を見ると急斜面でひどい藪ばかりで上るのは困難そうだ。昔の笹間川渡河地点はここからさらに500m下流の大井川鉄道が川を渡る辺りだが、河原を下っていくのも大変そうだ。雨が本格的に降り出してきた。
ここで北の地名に車で向かう。地名トンネル北口付近で車を降り、山に取り付けそうな所を探す。すぐ西の線路より東に線路に沿うよう旧舗装道「町道地名南線」390mがある。入り口はチェーンが張られ車では入れないが、歩いて進む。インド風で今風の真新しい大日如来石像が祀られている。妙なミスマッチだが、なぜこんな廃道寸前の所にあるのか。道自体は今後廃道化が進むだろう。20年ほど前まではこれが主要道だったのだが、今は誰にも知られず埋もれていくのだ。390m進むと、かつてのトンネル入口の壁面が見える。上に「地名」の文字が見える。その横は多分「隧道」と書かれているのだろう。入口の穴は土砂で完全にふさがれている。廃道や廃トンネルのファン必見の場である。歩いていたらすぐ下の線路から煙モクモクで「ポー」という汽笛が聞こえる。蒸気機関車だ。今日は日曜日なので汽車が走る日だ。(大井川鉄道はいつも汽車が通るわけではない。ただ汽車でなくとも相当古い他の鉄道で使われていたものを再利用しているので、鉄道ファンにはたまらないらしい。)運よく木の間越しに見られた。煙は道より下にふんわり浮かんだまま消えていった。町道の終わりより先に電線巡視路が山の斜面を上っていくのが分かる。地図上では標高差80mで尾根に至り、その北に三角点310.6mがあるはずだ。ここから上れると判断したが、今は降り出す雨の中やめておき次回の楽しみにする。
 ここで北の地名集落を目指す。地名と石風呂の間の大井川を渡る昭和橋のたもとに石倉峠、鵜瀬山を通ってきた古い道が出て、地名の集落に入っていたことは、明治20年代の地図で確認できる。そこで昭和橋たもとを目指す。ちなみに昭和橋対岸にユースホステルがあり、地名側には「テゴーカントリーともしび」がある。ともしびと山の間になんと古い道が残っている。今も使われていて、歩ける。小さな川を渡る所には新しい赤い鉄橋歩道が作られている。道は整備されている。橋を渡るとまたインド風今風大日如来石像が祀られている。整備された歩道は川沿いに茶畑を目指すようだ。石倉峠方向へはここで右折し川を離れる切通しの道方向だ。なにやらぐちゃぐちゃそうな廃道だ。ここで濡れた石段にすべり転ぶ。雨も降っているので、今日はここでやめる。それにしても「ともしび」裏の歩道は、いわば江戸時代から続く由緒ある大井川の街道の残存部といっていいのだろう。古街道の一部は残っていた。また地名周辺では今風の石仏を祀るのが流行っているらしい。

・12,3,11(日)、午前中、先週目星を付けた標識「町道地名南線」入口から出発。隣は今の「地名トンネル」地名側入口、今風な大日如来像もある。この標識裏の山取り付きに標識「見返し峠☞徒歩20分」を見つけた。だが先が藪っぽいので入るのをやめ、前回町道終点から上る電線巡視路No.42を目指す。(結果から言うと標識「見返し峠☞」から山に入るのが正解だった。) 町道終点の古い「地名隧道」の埋もれた所から電線巡視路No.42に従い山に登る。しかしすぐに道らしさが失われる。電線巡視路は草刈され、道がしっかりしていると信用していたので、こういうこともあることを知った。付近の木々にピンクか赤のテーピングがされ、境界線標識が直登で付けられているのを発見。これを目印に直登していく。峠より少し南の地点を直登。峠の南の峠より少し高い尾根に着く。尾根の東側下には木の間越しに笹間湖がまぶしく見える。峠を目指し尾根を北へ下る。尾根の鞍部には標識「櫟(くぬぎ)大日」と家型石製道祖神が祀られていた。尾根を南北に進む道と西の地名側に下る電線巡視路No.42.。これが地名に下る旧古街道であろう。尾根の東下を南に平らな道らしきラインが進んでいくのが分かる。これこそ笹間渡に下る旧古街道であろう。この笹間渡へ向かう旧古街道を南に進む。すぐに崩落が相次ぐ。50mに1箇所ずつ崩落している。3~4越えた辺りであきらめて戻る。この先さらに崩落が進み旧古街道は消失するだろう。今度は峠から北の尾根を進み三角点310.6mを目指す。少しだらだら上っていくと左に三等三角点があり、「地名峠 昭和五十八年七月 基本測量」の標識もあった。もう少し北に尾根を進むと鞍部にアンテナが立ち、「猟銃注意」の標識があった。ここも峠で西の地名側に下る道と尾根をまたいで尾根東側を北に進む道があった。おそらく下笹間桑ノ山方向を目指すのだろう。道幅は1.2mほどで、平に進んでいくが、時々道端が崩落している。この先急斜面では一気に崩落しているだろう。この道も消失の一途になるだろう。途中で引き返す。アンテナのある峠から地名に下る道はどうも櫟大日の峠から下る道の上を下っていくようだ。ここで櫟大日に戻り、地名に下るのだが、その前に尾根を南にとり鵜瀬山374mを上ればよかったと後悔している。このときそこまで頭が回らなかった。櫟大日で地名方向(電線巡視路No.42)を下る。下りだしてすぐ、切通し道をはずれる方向にも電線巡視路標識が矢印を向けている。初め登ってきた方向である。このはずれ道は途中で道らしさはなくなるだろうが、初め上ってきた辺りに合流すると思われる。さて切通しのしっかりした道を下り続ける。おそらく初めに見つけた標識「見返し峠☞徒歩20分」に至るのだろう。(結果は当たり。) 草もあるが、ほぼ平坦で1.2m幅の道は歩きやすい。途中、碍子(ガイシ)が時々見つかる。これは山の中の旧街道にはよくあることで、かつてこの道沿いに電信柱が村まで通っていた証拠で、この道が自動車道開通以前の主要道だったことを意味する。壊れていないボルト付き碍子を1個発見。ボルトを道に突き刺しておいた。ちなみに電柱跡は見つからなかった。だがこのあと一大発見があった。道の上を見ると植林を透かして上にも道があるような気がする。だとしたら先ほどのアンテナのある峠からの下山路のはず。そしてこの2つの道をつなぐらしき道も壊れかかりながらも残存していた。下を見ると初め通った町道地名南線のガードレールが見える。機関車の通る音も聞こえる。石道標―――発見。「御大典記念 徳山村 右 川根街道、笹間渡(二粁)ヲ経テ伊久美村、島田町ニ通ズ 左 笹間村、桑野山(三粁)ヲ経テ藤□町、静岡市ヘ通ズ」昭和初期のものだろう。ここが間違いなく主要街道の川根街道だった証拠だ。そして明治20年代地図に記入された地点通りなので明治初期あるいは江戸期末期にはここが使われていたものと推定する。そしてこの右は今まで下山してきた道で左ルートは、この上を通っていたアンテナからの下山路で、笹間村、桑野山への道は尾根をまたいで尾根東側を北へ向かう道のはずで、この石道標のある所が2つの道の分岐点である。この2つの峠は三角点地名峠を挟み尾根伝いにつながっている。石道標を後にして少し下山すると今の地名トンネル入口真上をまたぎ、町道地名南線入口の標識「見返し峠☞徒歩20分」に至り、町道に出て終了。しかし昔の川根街道は町道の下の梅林を下り、どうも線路を横断し大井川の崖上を南に進み、川を渡り、今茶畑となっている、茶畑への野良道の切り通し「ウトロ大日」に出たようだ。茶畑からは昭和橋たもとまでは野良道として残存しているが、町道下の梅林から茶畑までは消失と思われる。茶畑への野良道の切り通し「ウトロ大日」から切通しを下ると今風の大日如来が祀られ、その先の川を渡る赤い鉄橋が見える。右に分岐する道は茶畑に出て今の県道にも出られる。赤い鉄橋(歩道幅)を渡り進むと大井川沿いの崖上を通過し「テンゴーカントリーともしび」前に出る。さらに進むと、昭和橋の県道下ガードをくぐり、道なりに進むと、これまた今風大日如来前を通過し、左に進む。(ここで後ろに進む道もあり、これは昭和橋以前のかつての吊り橋があった橋のたもとで今もコンクリート製橋脚が残っている。向かい側の石風呂側のユースホステルの横にも橋脚が残っている。)話を戻して、左に進むと、かつての地名小学校跡地で石碑と地蔵があり、今は地名保育園である。その先に「地名阿弥陀堂」、火の見櫓と神社、地名用水があり、五輪塔や石仏、石道標「右 大井神社 左 西地名□□」(建てた人は三倉氏他2名)がある。地名阿弥陀堂は1月15日、夜通し男女が火踊りをしたらしい。ここでもかつてはいわゆるヒヨンドリが行われていたのだ。さてここを過ぎると地名駅近くで地名中心部で郵便局等もある。地名駅近くの踏切を渡るとき駅方向を見ると、いわゆる日本一短いトンネルも見える。ここで県道に出て今日はおしまい。そういえば線路沿いにはカメラマンうじゃうじゃ、道路には他県ナンバー車(福岡等)多かったです。今日は日曜で蒸気機関車が通る日だからです。SLは全国から人を集めるようだ。

・’18 3/11(日)、川根本町のマラソン大会後、車で地名トンネルを抜け、トンネル南側入り口交差点から東へ笹間湖に沿い県道を800m進む。県道沿いに別荘地に出る。この別荘地の一番上の家を目指す。この一番上と2段目ぐらいの別荘の住人に古道について聞いた。答えは別荘地上の雑草や沢は一番上の住人(黒人)がきれいにしたが、道はないとのこと。その代わりに別荘地より東に県道を500m進むと山に登る林道があり、その林道をかなり詰めると歩道(登山道、古道)があるとのこと。
ここで古道を見つけることをあきらめるが、結果から言うと、この別荘地の一番上またはそのすぐ西側の杉檜植林地内のシイタケ栽培地の5~10m上に古道は平坦に伸びていて、ちょうど別荘地に流れ込む沢の手前で古道は消失する。これより西側は別荘地や県道用地で消失している。想定ではここからさらに下るように西に延び現在の県道辺りに重なると思われる。
一旦、地名トンネル北側に行き、ここから古道に入り、見返し峠を目指す。峠のクヌギ櫟大日の横の大木が倒れ、大日の石祠がやっとつぶされない状態でちんまりと鎮座していた。ここから尾根沿いに北へ200m進む。東の桑の山と北の地名トンネル北入り口への分岐点へ出る。アンテナ塔と猟銃注意看板がある。東の桑の山への道は6年前は道幅1.2mと記入したが、今回は50㎝もない。おかしい。こんなに間違えたのか? たった6年で道幅が70㎝も減少したようだ。櫟大日では大木が倒れたままだし、山の荒廃がひどい。この桑の山への道が別荘地上につながる道である。この道幅は峠のスタート地点で50㎝、途中は崩壊している箇所が2~3か所あり道幅0㎝で、平均しても10~20㎝程度だ。別荘地まで距離800mで標高差50mである。崩壊個所は2~3か所で道が分かりにくいが、距離800mで標高差50mということはほぼ平坦に近い歩道なので、付近をよく探せば見つかる。崩壊していても、手を付くか、杖を用いれば乗り切れるだろう。片道15~20分。




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 23:56Comments(0)古道

2016年12月04日

北街道(県道静岡千代田清水線)中世東海道

北街道(県道静岡千代田清水線)中世東海道  
 北街道は、静岡市葵区伊勢丹前呉服町札の辻の里程元標址から、江川町交差点を通り清水区横砂西町までの区間とする。しかし札の辻から江川町交差点までは、江戸期東海道と同一ルートなのではずす。北街道は中世東海道で、江戸期東海道より北を通っているので北街道と呼ばれた。今の県道は大正期に作られ古道につかず離れずで進行していく。さらに平成にバイパスも作られた。中世の東海道はじめ近世以前の街道は、江戸ではなく鎌倉に向かっていたことや、鎌倉時代頃に起源をもつことが多く、鎌倉街道と総称されることが多く、北街道も鎌倉街道といわれることもある。
・江川町交差点(御幸町、追手町)  
 今は地下道歩道のある近代的で交通量の多い交差点である。古色はないが、堀端に小さな石塔が立つ。江戸期東海道はここから東南に向かう伝馬町通りである。
・石塔:「くがたか橋」(追手町2)  
 駿府城外堀の橋の名であって、おそらく橋の欄干だったのではなかろうか。
・駿府城外堀(駿府町1)  
 教育会館横に見える堀が外堀で、教育会館横から水落交番まで続く鷹匠町商店街北側の通りはすべて外堀を埋めてその上に商店が作られている。
・鷹匠1・2丁目  
 かつて少年期人質だった徳川家康(竹千代、三河岡崎出身)と隣人の孕石主水(今川家臣で後武田に仕える、掛川孕石城主)の屋敷があった。竹千代の鷹狩用鷹が隣の孕石家に迷惑をかけたらしく、主水は「三河の坊主」と怒鳴ることが多かったらしい。後年武田氏を滅ぼした家康は主水に会い、「今更三河の坊主になど仕えたくもなかろう。自害しろ。」と冷たく突き放したらしい。主水も「三度も主君を変えたくもない。切腹は望むところ」と虚勢を張ったようだ。彼の墓は駿河区小鹿本覚寺にある。
・水落交番(駿府町2)  
 裏の外堀から水が落ち暗渠に入っている。だから水落である。落ちた水は暗渠を通り東に進み巴川に落ちていく。水落から少し先の東を横内という。
・常葉学園高校(水落町1)  
 歌手:ピンクレディや女優:酒井美紀の出身校。
・横内町  
 かつての宿場の中心地といわれる。
・専長寺(横内町24-2)  
 現在墓地だけで建物はない。現北街道の1本南の通り沿いにある。
・先宮神社(横内町114)  
 石灯籠「稲荷大明神 文化二」、道祖神、石仏、手洗石2基、
・来迎院(横内町102)  
 創建1609年。家康によって開かれた寺院である。石塔類:観音、地蔵、新・動物彫刻石像、新・道祖神、新・筆塚、地蔵堂、
 来迎院門前の東西に向かう路地がかつての北街道ではないかという説もある。
・清水寺(音羽町8)  
 京から僧を招いて1559年創建、京の清水寺に似ているのでその名がついた。句碑が多い。門前に家康下乗の松がある。
 谷津山公園入口でもある。清水公園には板碑多数で、ラジオ放送記念碑の「JOPK」碑もある。
・元長寺(瓦場町151)  
 門前に石道標「庚申塔 南安東瓦場 右音羽町へ一丁 左沓谷へ三丁 大正十二年」がある。堂:地蔵・観音「明和六」、「  下耕地整理記念碑」、「禁葷酒」、地蔵、新・観音、
・白山神社(瓦場町151)  
 石鳥居「大正六」、手洗石「文化八」
・地蔵堂(沓谷1丁目23)  
 沓谷霊園入口にある。「三十三體金角尊」、板碑、道祖神、地蔵、手洗石。 
・妙法寺(沓谷1丁目23)  
 沓谷霊園の高いところに地蔵、新・ひげ題目塔、本堂がある。
・長源院(沓谷1丁目24)  
 朝比奈泰以が屋敷を提供して1487年建立した。伝説では、当山開基の旅の僧が、手越で杖の倒れた所に寺を建てようとして杖を立てると、杖から竜が飛び出し、この地に飛んで来たという。寺を立てる工事では、池を埋め立てるとき水が引かなかったが、福老人が現れ柄杓であっさり掬い取ったという。それから柄杓を持って踊る万福舞が起こったが、近代に廃れ、今では分からない。和尚が駿府城登城用に使った籠、長持ち、葵の印籠がある。石塔類:「葷酒不入山門」、「大森山脇」、「長源禅院」、新・仁王像、新・風神雷神、新・石仏、新・古・六地蔵、「萬霊塔」2基、「庚申塔 萬延元年」、句碑。祠。
・福寿稲荷神社(銭座町2)  
 銭座町集会所である。石鳥居、「庚申塔 嘉永」、手洗石「天保六年
・銭座町(銭座町)  
 かつて銭を作っていた所で、かつて巴マート(銭座マート、今はパソコン教室)のあった辺りから坩堝が出土するなど、銭の鋳造所があったことを示している。
・蓮永寺(沓谷2丁目7)  
 元は松野村(富士市富士川町松野)にあったが、徳川家康側室お万の方(水戸家、紀州家の母)により1615年現在地に移転した。家康崩御後お万の方はここで剃髪し菩提を弔い、のち息子の紀州家に身を寄せたようだ。お万の方の五輪塔、勝海舟の母妹の墓、山門、仁王門、鐘楼、石塔類多数:「貞松山」、「蓮永寺」、石灯籠、板碑、ひげ題目「天保二年」他多数、手洗石、道祖神 。寺は改築工事中で新築になっていくが、今なら少しは昭和レトロな建物が見られる。
・旧静岡陸軍墓地公園(沓谷2丁目7)  
 墓石多し、ドイツ海軍砲手の墓(ドイツ語)1基、板碑多し。ドイツ兵は、第一次世界大戦で日本軍がドイツと戦い、捕虜を捕らえたためである。板碑の中には「馬犬鳩供養塔」がある。これは軍事用の馬、犬、伝書鳩等だろう。墓は静岡連隊関係者のもので、かつて軍神といわれた橘中佐のものもある。
・須賀神社(沓谷3丁目8)  
 石鳥居、石段、手洗石「寛政四」、稲荷像、祠4、本殿、拝殿
・竜雲寺(沓谷3丁目10)  
 今川義元母、寿桂尼を祀っている。石塔類:地蔵3基、如来3基、庚申塔、石塔4基、大五輪塔2基(どちらかが寿桂尼墓)、小五輪塔3基。寿桂尼墓は墓地の少し奥で畑を数分歩いて上る。振り返ると少し入り組んだ所なので市街がまったく見えず樹木と畑だけで、いったいここはどこという気分になる。谷津山は市街地の只中にありながら、一歩踏み込むと市街地であることがまったく不思議に思えるところである。
・  神社(沓谷3丁目5)   
 人家の横から少し山を上ると祠が祀られている。
・来宮神社(沓谷)  
 愛宕神社参道途中にある。石灯籠、地蔵、地蔵の台石は「三丁」とあるので丁石のようだ。
・愛宕神社、愛宕山城跡(沓谷)   
 今川時代は城で、伊勢新九郎(北条早雲)の城だったときもある。その後家康が愛宕神社を招聘した。参道入口には、手洗石「寶暦」、石灯籠「享和元年」、「日独開戦記念碑 大正三年 青島陥落」がある。(日本は第一次世界大戦でドイツと戦っていることがあまり知られていないが、ドイツ兵捕虜は日本の文化に影響を与えている。例えばベートーヴェンの「第九」初演、敷島パン、バームクーヘンのユーハイム等。ウイキペディア「第一次大戦の日本」参照。陸軍墓地のドイツ兵墓もだからある。青島チンタオはドイツ租借地だからドイツ仕込の青島ビールを作ったのだ。)
 山頂の本殿近くには、石灯籠「延宝二年」、石塔「寄進 延宝三年」、手洗石「寛 」。曲輪や堀切のあとがあるし、説明見取り図看板もある。谷津山全体が縦走でき公園となっている。
 参道入口左の井上家はもと造り酒屋で煙突等もあったが、今は石蔵を残すのみである。馬頭観音がある。
・沓谷公民館、釈迦堂(沓谷3丁目3)   
 現北街道と北街道バイパスの間にある。釈迦、石地蔵2基、石塔類:「三界萬霊」、「西国順礼」、「南無阿弥陀仏 明和六」、「庚申塔 萬延元年」、石塔9基、
・愛宕霊園、寺街通り(沓谷)  
 戦後寺院がここに移転するものが多く、さも寺街通りとなっている。
・倉長寺… 
・妙像寺… 
・宗林寺… 
・安南寺… 
・少林寺… 
・松龍院… 
・浄祐寺… 
・摂取寺… 
・新善光寺… 
・蓮長寺… 
・菩提樹院…由井小雪首塚、 
・長沼砦跡(沓谷、長沼1丁目)  
 今平和観音が立つ。砦の遺構は分かりにくい。
・真勝寺(長沼町2丁目21)  

・八剣神社(長沼町1丁目12)  

・東禅寺(上土新田9)  
  「奉請庚申供養塔」2基、石仏「元文元」、「享保」、「西国巡礼、」
・庚申供養塔(上土新田19)   
 北街道巴橋袂。「庚申塔 大正九年」
・地蔵(上土新田29)  
 北街道バイパス巴大橋南。 
・庚申供養塔(上土新田72)  
 北街道バイパス巴大橋南の東橋袂。「庚申塔 昭和五十五年」、「安永七年」 
・鎌倉街道残存部(川合、上土新田)  
 北街道巴橋の北側の寺尾酒店と村上酒店北側の路地こそが古い北街道の残存部である。西へは150m先でたどれなくなる。東は100m先で上土交番に出て現北街道を渡り、北街道バイパスが長尾川に至る手前で古道が消滅する。古道はバイパスを横切りつつ川を渡り、西奈南小学校のグラウンドを東に横切り、高圧鉄塔前の東に向かう市道に出る。市道を東に向かい、広い新竜爪街道手前で、「矢射タン橋の碑」がある。
・矢射タン橋の碑、ヤイタンバシ(瀬名川178)  
 この碑前に分かりにくいが、小川が流れている。ここに小さな橋があり、矢射タン橋といった。理由は鎌倉時代初期、鎌倉幕府に反旗を翻し鎌倉から京都へ向かう梶原景時一行は、この駿河の地で地侍と決戦することとなった。一行は景時一騎(実際は連れの者もいて数騎と数人だったと思う。)を先駆けとして西進させたが、この橋の袂で地侍たちに矢を射掛けられたので、この名の橋になったという。私の憶測だが、ここで矢を射掛けられたことで景時はこれ以上鎌倉期東海道(北街道古道)を西進することは危険だと判断し、西南に分岐し古庄から曲金方面へ目指すルートに変更したのではないかと思う。そのため曲金に梶原氏の馬を祀る馬頭観音があり、その言い伝えもあるのだと解釈したい。しかし景時は曲金でも戦闘になり馬をいくつか失い、結局瀬名川辺りの本隊に戻り、梶原山で非業の最期を遂げることになるのだ。 今この碑前を過ぎるとすぐ広い竜爪街道を渡るが、この道は新しい街道で浄界寺よりあとの小さな交差点が古い竜爪街道である。
 曲金、梶原氏の馬頭観音その言い伝え:梶原氏は曲金の戦闘で馬を亡くし、地元民に金を与え馬の弔いを頼み立ち去ったという。これが史実かどうかは不明。現在の設置場所は曲金の西豊田小学校と法蔵寺の間の路地にある。
 矢射タン橋への道がかつての鎌倉期東海道の証拠で中世の人々が多く往来したのだ。
・浄界寺(瀬名川142)  
 金比羅権現堂、石塔類:「南無阿弥陀仏 西国順礼 正徳三年」、「大乗妙典石経書写塔」、石灯籠、新・六地蔵、「奉西国南無大悲観世音菩薩 安永三年」、地蔵「寶享二年」、新・地蔵多数、句碑。
・世尊寺(瀬名川523)  
 ひげ題目塔「天保二年」他3基、手洗石、「立正安国降誕七百年記念碑」、板碑
・菅原神社(瀬名川475)
 祠、道祖神、手洗石2基、
・間の宿アイノシュク:瀬名川(瀬名川)  
 浄界寺や世尊寺、菅原神社のある辺りには屋号の付く家がまだある。この辺りがかつての間の宿アイノシュク:瀬名川である。この通りを東に進むと東名高速ガード手前の交差点に出る。この先東へ古い道は消失する。
・竜爪街道(瀬名川)  
 古い竜爪街道は浄界寺より東の交差点を南北に渡る道の辺りと思われる。そこから北へ菅原神社や瀬名川公園横を通り今の北街道を渡りその先の路地を入り、今の竜爪街道へ出て途切れるルートとなる。南へは世尊寺前を通り巴川を渡り今の竜爪街道に沿うように国1中吉田交差点前に出てアピアと工場の間の細い道を抜け普済寺前、津島神社前を通過し、江戸期東海道に接続し、そのまま南下すれば平沢観音道へとつながるルートである。
・瀬名川公園(瀬名川272)  
 敷地はずれに石塔類があり、近代の石道標もある。近代の北街道と竜爪街道の分岐を示し、旧東海道(江戸期)への距離も示す。
・八幡神社(瀬名川680)  
 (神木)抱擁樹:二本の木が夫婦和合のように仲睦まじく絡み合っているのでこの名がある。祠4、本殿、拝殿、石臼、手洗石「天保十年」他、石鳥居「大正十三年」。
この先巴川の土手で川向こうには、若宮白髭神社があり、そこから道が東に向かっていき、能島や吉川に至る。一説にはこの吉川にむかう道が古い東海道だともいう。八幡神社と白髭神社は昔からまったく位置を変えていないか不明だが、おそらくこの辺りが川の渡渉点を示しているのだろう。ちなみに地図上の町内境界線が川を挟んで入り組んでいて、かつての川の流れを予想できる。
・稲荷神社(鳥坂5446)  
 常葉学園体育館下にある。祠、鳥居、稲荷の置物多数。
・浅間神社(鳥坂544)  
 現北街道脇にある。石塔「猿田彦大神」、石灯籠2、板碑。
振り返ってみると北街道古道ルートは、東禅寺付近の上土でいったん巴川を渡ると、そこからは巴川の北側に沿うように東進していき、二度と巴川を渡らない。
巴川の流路は現在すっきりした直線状だが、以前は巴川の九十九曲がりといわれるほど蛇行していた。その名残は地図を見ると地域の境界線が川を越えて複雑に入り組んでいるところにみてとれる。
・妙楽庵(鳥坂837)
 石塔類「庚申塔 元文五」、「庚申塔 昭和五十五年」、「庚申塔」3、地蔵の台石らしき物。
・大福寺(鳥坂785)  
 石塔類「大乗経一部書写」、六地蔵、観音2、新・観音・地蔵5。祠、鐘楼。
・石塔(鳥坂762)   
 道と山と誠成公倫会用地の境に安置されている。石塔「金比羅山 秋葉山」、「庚申塔 元文五」、「庚申塔」。
・石道標(鳥坂397)  
 現北街道の先ほどの浅間神社を過ぎて一つ目の信号の交差点にある。「開運大日如来道 大正十年」、妙立寺に向かう参道開始点を示す。
・石塔(鳥坂491)
 妙立寺に向かう参道途中に安置されている。「庚申塔 大正九年」、「庚申塔 昭和五十五年」、「庚申塔 萬延元年」、「  塔」。道の向かいの地域の集会所には石鳥居がある。
 妙立寺門前に刻字不明の石塔がある。家型道祖神もある。
・妙立寺(鳥坂457)  
 石塔類多数で宝庫といってよい。丸石道祖神2「新定塔」「喰杉塔」、板碑、六地蔵、手洗石、「三界萬霊塔」2、祠。地蔵・如来…多数で約53体、年号も多岐にわたりいくつか紹介する「寛元六、明和六、寛政、九、寶暦、四、寶元十三、寛延四、五、元禄六、寛保元、六、天明七、文政、元文」等。コンクリート製五重塔、石灯籠2、石灯籠「昭和59」、大日如来堂。寺の裏から梶原山に登れる。
・石塔(鳥坂22)  
 県道北街道信号交差点南西に石塔がある。「大乗経一部書写経 天明元」
・梶原堂、老人いこいの家(大内841-64)  
 梶原景時一行を祀る。昔は裏山の山腹にあったそうだが、山腹が開発され麓に降ろされた。五輪塔が多数ある。説明看板もある。板碑2、毘沙門天堂。山腹に祀られたのは没後かなり経ってからで鎌倉末か室町初期ごろ。
・桃林寺(大内788)  
 門前に石塔「桃林寺」、手前の民家に双体道祖神。
新・地蔵、板碑、石灯籠、六地蔵「 暦六」、地蔵3、庚申塔4「寛政七」「文政三」、石塔3「寛政七」。
・天白神社(大内739)  
 石塔類「猿田彦大神」、「庚申塔 昭和55」、「庚申塔 和政?」、石鳥居2、石灯籠「昭和55」、手洗石。
・大内公民館(大内662)  
 「庚申塔 昭和55」、「霊山寺一本松ハイキングコース」説明看板。
・浅間神社(大内6001)  
 石鳥居「平成17」、手洗石、石灯籠2「明治17」、板碑「猿田彦大神」、石段「大正4」、石塔。
・霊山寺(大内597)  
  現北街道の大内で石道標「大内観音」(新石塔「観音堂」に変わっていた)が見えたら左折(北)し山を目指す。山の中腹に寺の屋根が見える。途中石塔類もあろう。北街道は都市交通網のひとつでせわしないが、大内に入りちょいとした田舎びた雰囲気が味わえる。北進し浅間神社を過ぎると駐車場があり、参道の登山道となる。車で山門前に行けない。距離300m、標高差80mである。10~20分で上れるだろう。足の弱い人は参道入口で拝めばよい。
 古義真言宗、仁王門は重要文化財、開創行基といわれる、三十三曲がりの急な細い道は観音三十三身の化現を意味し、途中の6基の丁石は六波羅蜜を意味する。
 この裏山の山頂は帆掛山一本松公園で標高差150mである。
石塔類。仁王門。上り口に古い地蔵3ある。
 *安倍七観音霊場巡りコース参照
・保蟹寺(大内539)  
 「庚申供養塔 寛延ニ」、地蔵「元文」、「三界萬霊 明治19」、「禁葷酒 元文」、六地蔵、鐘楼、句碑、地蔵、石灯籠、板碑3、「高部小学校発祥の地」。
・静岡市清水区高部公民館(押切1115)  
 周辺地域の歴史資料情報が手に入る。
・墓石(押切)  
 塩田川内田橋西袂道路より一段上の山腹に江戸期の墓石がある。
・乾徳寺(押切1270-2)  
 堂:由成地蔵、子安地蔵。石灯籠2、巨大板碑、道祖神。
・八幡神社(押切1198)  
 巨木、石灯籠2、手洗石「文政五」、石鳥居「昭和54」、石灯籠「昭和42」。
・円通寺(押切1146-1)  
 「庚申塔」、「三界萬霊」、新・六地蔵。
・江月寺(押切1140-1)  
 「庚申塔」、「西国順礼」、「西国順礼供養塔 □暦七丁三」、「□国西国供養塔」、「東国百番供養塔」、「甲子 天保」、観音、地蔵、「善光寺如来」、「南無大慈悲観世音菩薩 延享」、「庚申塔」、石塔、五輪塔。
・牛欄寺(梅ヶ谷88-1)  
 大日如来、「三界萬霊塔」、(新・古)六地蔵。寺の裏に牛石があるというが分からない。
・お堂、石塔(梅ヶ谷88-1)   
 牛欄寺門前参道塩田川土手上にある。
・大内新田の北街道古道、鎌倉街道について  
 古道は間の宿瀬名川から鳥坂、大内を経て、「ホテル心の鍵」(堀込759)辺りで塩田川を渡ると推定されるが、ここまで一切古道はない。
 塩田川東側は再整備中でここの古道も消滅したが、11年現在杭が一列に打たれていて「ホテル心の鍵」向岸から、東の松谷氏宅(能島479-11)前の道までがかつての古道だったことが分かる。以前ここは田畑で農道が通っていた。この農道が古道の残存部であったがすべて埋め立てられた。
 松谷氏宅前の道から東に向かう細い舗装道路こそが鎌倉街道の残存部である。すぐ南には国道1号線静清バイパス高架線と側道、北には東名高速道路高架線が見えて、まるで道の今昔を一目で体験させられるかのようである。この古道上で能島、大内新田、押切の境界線となっている。古道を地域の境にすることはよくある。この近辺には屋号をもつ家があり、かつての街道だったことをうかがわせる。古道の中間辺り大内新田、押切、能島境に当たる交差点がある。この道を北進すると押切、梅ヶ谷に向かう道で、南進すると能島、吉川に向かう道である。この辺りが中心地だったようだ。さらにもう一つ先の交差点を南進しバイパス側道に当たった所に石碑「祀先祖岡村由衛門之碑 明治33年」がある。
古道を東に進むと今の県道北街道に合流する。ここに見にくいが「旧北街道」の標識がある。
・押切公園、大内新田老人憩いの家、墓地(押切909)
 旧北街道を少し北に入ったところにある。六地蔵3体×2、石灯籠、板碑「征露記念 明治37,8」、「庚申塔 万延元」その裏面「庚申供養塔 天明」、石仏事典等には表裏に別の機会に刻まれることはあると記載されているが、静岡市内で見られるのは珍しい。ここはおそらく昔、寺があったのだろう。
・桜木神社(天王東229-2)  
 手洗石、石灯籠、道祖神、石鳥居「昭和57」。
・五輪塔、山梨氏宅(高橋5丁目4)高橋西バス停近く  
 庭に多数の朽ちかけた五輪塔が集められている。この周辺の土中から頭のない人骨が出てきたという。おそらく梶原一族の胴体を埋めた所なのだろう。各所にあった五輪塔を今はこの一箇所に集めたようだ。
五輪塔前の庭内を東西に移動できる道こそが北街道古道残存部である。この付近、現県道北街道よりやや南に平行して古道が通過していたことが分かり、家々の境界線がその名残となっている。ほぼ通行不能である。古い住宅地図だとまだ北街道南面の家の裏に路地が残っているのが分かるが、住宅の立替でほぼ路地は全滅している。
・建徳寺(高橋5丁目3)  
 ひげ題目「文政十三」、「南無妙法蓮華経 文化七」、堂:金比羅明神、釈迦石像、諏訪明神。ポンプ井戸。
 寺は現県道北街道に門を向けているが、門の左右の県道沿いに各人のお宅が並んでいる。門は県道に開いているが、県道の一軒裏に寺があるようだ。この各宅と寺の間が古道と推定される。
・高源寺(高橋2丁目7)  
 梶原一族に関する石塔類やその他の石塔類。梶原一族を祀り、それに関する看板もある。中世史を専門とした皇太子が研究のため訪問したことがある。本堂(市指定文化財)、板碑「山本豊太郎顕彰碑」:郷土発展に尽くし自由民権運動も行ったが夭折した人、「浩宮徳仁親王殿下お成り記念」、ウナリジゾウ、レリーフ:下山昇作(梶原一族を描く)、「不盡乾坤燈外燈龍没」フジンケンコントウガイノトウリュウボッス:梶原一族を弔う供養塔で杜甫の詩が書かれている、鐘楼、新・六地蔵・観音・地蔵・百度石、地蔵、石灯籠、行岩観音、「庚申」、「奉順礼 秩父観世音菩薩 西国観世音菩薩 両国観世音菩薩」、「西国三拾三所 四国八拾八箇所 供養塔 明治七」、「百観世音 志みづミち くのをみち 弘化三」、
 梶原一族の首はこの付近にさらされたという。
 現県道はこの手前で南下しJR清水駅に向かってしまうので、これ以後今の北街道は県道ではなく市道となる。
・神明宮(高橋4丁目4)  
 石鳥居「昭和61」、狛犬、道祖神。常夜灯「大正12」、石灯籠2「大正15」、石灯籠4、社:白髭・天王社、樹木:樹齢200年? だるま石:村の力自慢二人が、違う村で持ち上げられたら土産にあげると言われたので、担いできた石という。
・結界石?(八坂西町1)
 結界か石道標と思われるが、詳細不明。
・和物所稲荷神社(八坂南町8)アイナンジョ  
 道祖神2、石祠、稲荷2「昭和15」、手洗石「奉納 山梨醤油屋 大正14」、破損した稲荷2、樹木3:200年?。
・秋葉山、秋葉神社、峰本院、栄松院、福昌院(西久保1丁目1、2)  
  山門入口付近では、石灯籠「文政五」、石段「昭和5」、常夜灯「明治14」、常夜灯。
福昌院:新・菩薩8.奉納巨大鉄スコップ。
栄松院:新・子育地蔵、祠。
峰本院:新・古・地蔵、レリーフが見事(中国の寺院と湖か? 他にも)。
秋葉寺:常夜灯「文政二」、手洗石「文化元」、石灯籠「昭和9」、開運地蔵堂、板碑多し、石灯籠、石塔、「消防殉職者顕彰碑」。
秋葉神社:奉納巨大鉄釜、奉納巨大鉄下駄、石灯籠「大正13」、狛犬2「天保十三」、常夜灯「秋葉大権現 天保九」、石造物多数。斜面上に黒い溶岩が多く、石塔類を固定するために持ち運ばれたものだろう。
 神社と修験の寺が混在し、あたかも近代以前の神仏混合、本地垂迹の雰囲気を味わえる。寺も仏教というより、日本古来の山岳修験道の雰囲気である。
 秋葉山を回りこみ、鹿島神社前を経て北東の庵原に向かう街道がある。古代には清水の地は海で秋葉山の南端が陸地の境だったことだろう。その頃の中心地は庵原であった。庵原中学校前辺りの道が古代東海道と思われる。
 中世東海道は秋葉山交差点の庵原に向かう街道をやり過ごし、次の五差路交差点の左から2本目の一方通行の出口に向かう。この道は今は直線になっていて、古さは微塵もなく、道から直接接しられる遺物もあまりない。
・矢倉神社(矢倉町5)  
 古くから神社があったことは確実である。日本武尊東征に関する伝説がある。軍の兵営地か武器庫だったという。この神社はこの周辺の要であった。
 手洗石「文化五」、猿田彦大神、手洗石「紀元2600(昭和15)年」、石灯籠「大正九」「紀元2600年」、板碑多し、合祀される神多し。祠多し。
・矢倉の辻、古代官道、中世北街道(矢倉町6-1)  
 神社のすぐ北の路地前に「矢倉の辻」の標識が出ている。この路地はいかにも古道ぽく、いつもなら古道だと喜ぶが、今回の官道は幅広で直進という近代的道路と共通項がある。そうなると中世北街道とされる、その北の五差路の右(東)、一方通行の出口になっている道がやはり官道ルートに似つかわしいのではなかろうか。この道はまた新幹線ガードと一定距離で並行して東進する。新幹線ルートを決める人の思惑とも偶然一致したようだ。
・八幡大神社(八幡様):袖師ふるさとの路41(西久保1丁目22)
 第三部公民館、簡易老人憩いの家。
・ひげ題目:南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 第六百御遠忌 明治十年 世話人
・手洗石:奉納、・神燈:文化十(破損)、
・本殿は拝殿の憩いの家の裏側となり、見えにくいが、石造りの六角形塔型洋風金属葺で戦前の建築かと思われる。神社の本殿がこのような形なのはとても珍しい。一見の価値ある洋風神社本殿である。’16 12/4
・墓地(西久保345)   
 ひげ題目「法界 弘化二年」、石塔2基、地蔵、祠。
・子育観音(天王さん) (袖師町365-3)    
 祠、石仏。’16 12/4、石仏は無く石祠になっていた。
・真如寺(袖師町365-3)  
 地蔵、金比羅宮、「庚申塔」、「金光明一千部供養塔」、岩松地蔵。
・旧道と旧国道1号線合流点(横砂西町11、12)  
 庵原川手前で旧国1に出て、北街道は終点となる。川に出る直前で道は曲がるが土手ができたため直線道路を曲げたのだろう。古代・中世には直線だったろう。ここより東は近世東海道となる。
横砂や興津でも近世と中世や古代の東海道は微妙に違うのだろうが、今のところはっきりしたルートが分からない。
・盧崎神社(横砂本町29)イヲサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
 おそらくこの神社を古代官道は目指したように、中世の東海道も目指したのだろう。
 「盧」の字はイホハラのイホと読むが漢和辞典ではロと読む。ここではイヲと読む。


=吉川街道(清水区楠~吉川、北脇新田、高橋)= キッカワ 
県立清水高等技能専門学校前から東に進み吉川に至る古くからの街道はある。一説に北街道の古道ともいわれるが違うと思う。しかし古くからの道で、北街道がどちらかというと巴川の北を通るのに対し、この街道は巴川の南を通る街道である。ちなみに吉川街道などという名称は聞いたことはないが、一応吉川を通り吉川にちなんだ遺物があるので、その名を冠した。
・若宮白髭神社(楠158)  
 石塔類。巴川の渡渉点にあるので、もとは水神などを祀っていたのではなかろうか。川向こうには抱擁樹のある八幡神社がある。
・興福寺(楠572)  
 石灯籠・板碑・地蔵:近代。「三界萬霊」?。
・石塔類(楠475)  
 古・石塔3、古・地蔵6。興福寺の向かい側にある。フェンスに囲まれ入口に鍵がかかっているので詳しく確認できない。
・東明寺(長崎410)  
 新しく建て直した。石塔類。鳥坂・大内と御門台を結ぶ街道脇にあった石塔も今ここにある。
・石塔類(長崎406か398)  
 かつては道の反対側にあったが、道が拡幅されここに移転した。東明寺入口のすぐ南である。「庚申塔」4.。
・長崎神社(長崎378)  
 鉄筋コンクリ作りの2階にある。1階は自治会館で隣は地域のグラウンドである。かつては牛頭神社といった。天神社を合祀する。梶原景時が梶原山に登ったとき、馬具を放って落ちた所に神社を祀ったという。鎧ヨロイは鳥坂の浅間神社になり、轡クツワは長崎の天神社になったという。ちなみに鞍クラを納めたのは南沼上の利倉神社だという。
・佐口神社(長崎新田370)  
 祠、手洗石、石鳥居「昭和3」、石灯籠:近代、板碑、樹木:市指定保存樹木:400年?。 
・若宮八幡宮、堀込薬師堂(堀込617)  
 薬師堂、新・六地蔵、手洗石:近代、狛犬「昭和17」、石鳥居「昭和16」、祠、板碑、水準点、樹木1本:200年?。
・吉川氏発祥の地記念塚(吉川1000)  
 昭和17年吉川子爵が吉川家先祖4代の墳墓をまとめて一つにした土と石による塚である。山口県岩国市が吉川氏発祥を記念して説明看板を立てた。鎌倉時代、吉川(吉香)小次郎は梶原一族討ち取りの功を立てたが亡くなった。子孫の吉川一族はのち岩国城主となり大名に出世した。手洗石。
・吉川館跡(吉川955)  
 説明看板がある。ここを北端として、南端の国1沿いの小糸製作所までの地に広がる広大な館があったと推定される。
 この辺りまで街道は続き、このあと巴川を渡り、高橋方面に出て別の道になるようだ。
・能島八幡神社(長崎378)  
別名糸繰り八幡といわれ、古くは巴川の両岸に綱を張り綱を手繰りながら渡船したためといわれる。その古い巴川は今、神社と吉川館跡看板の間を流れる小さな用水路となっている。石鳥居「昭和56」、石灯籠「昭和12」、樹木多し:300年。
・報恩寺(能島219)  
 記念碑:第二次大戦で当地に落ちた爆弾や二人の犠牲者の悲劇を語る。「庚申塔」、「三界萬霊等」、新・六地蔵・地蔵。
 能島八幡神社から報恩寺を通りさらに北に向かうと、大内新田、押切、能島の古北街道に出る。
・水之上神社(北脇新田371-7)  
 石鳥居「大正10」。
・稲荷神社、北脇新田公民館別館(北脇新田156)  
 「庚申塔 寛政十二」、稲荷「昭和53」。
・河岸地蔵堂(北脇新田63)  
 かつての川の渡渉点にある。堂:石地蔵4うち「明治23」2・「天明元」「文化五」、うち1つ小川地蔵。
・吉川館遺物跡(吉川642)  
 市立有度東保育所近辺に井戸や近習の武者の屋敷跡があるといわれるが、再整備されていて痕跡は分かりにくい。市指定保存樹木:イヌマキ。
・西照寺(北脇416)  
 新・穴地蔵・観音・石灯籠。
・白髭神社(北脇288)  
 眼病に効くといわれ、境内にある岩の上に溜まる水をつけるのだそうだ。無論今こんなことをしたらもっと目に悪いが、昔はそう言ったのだ。疣石:上の真ん中がくぼんだ石で水が溜まる、石鳥居「平成5」。
・金剛法寺(渋川2丁目8)  
 石塔類。
・渋川館跡土塁(渋川1丁目15)  
 なんてことないちょいとした高さ5mの丘で茶畑になっているのだが、これは人為的に積み上げた土塀の跡のごく一部が残存したのである。中世渋川氏の館を取り囲んだ土塀だったのだ。説明看板はあるが、古びてまったく読めなくなっている。
・吉川八幡神社(吉川43-3)  
 静鉄線狐ヶ崎駅裏にある。駅前が江戸期東海道であり、吉川という地名がいかに南北に長いか分かる。ここが吉川の南端である。岩国城主の大名吉川氏は参勤交代の度にこの神社に参詣し寄付をしていったといわれる。かつては境内はもっと広かったが、線路や駅舎にとられたという。建物は文化財である。かつて吉川氏というスポンサーがいたからなのか羽振りがよかったのだろう。地域が広いのもそのためか。
 本来は吉川館にあった氏神だが、当地に移転した。創建不詳、市指定保存樹林、石灯籠「文化三」、日待ち太鼓保存会、板碑、境内の2/3は線路で消失。市地域登録文化財(石造物)第1号・旧鳥居・寛政元(1789):吉川氏の由来等のことを書き付ける。昭和59年に書写された石鳥居が現在建つ。
 江戸期東海道からの参道を北に向かうと神社で、さらに北に向かうと吉川の地の中心地にむかうことになるようだ。
東海道からの分岐点の南向かい側はどうも久能寺観音道になるようだ。
 *「久能寺(観音)道」参照。


=西久保・庵原街道(清水区西久保~庵原)= イハラ 
 清水区西久保秋葉山前交差点を北東に曲がり庵原に向かう街道である。古代庵原の国イホハラノクニの中心地に向かう道であろう。矢倉神社から盧崎神社に向かう道が古代官道だろうが、それ以前から使われていた道の可能性があり、庵原川が増水すれば、この内陸側を通る道が使いやすかったであろう。一種のサブ東海道であろう。西久保の矢倉の辻辺りから庵原を経由して横砂の盧崎神社までの区間を扱う。一応「庵原街道」と名付けさせてもらう。
・鹿島神社(西久保509)  
 「大乗妙典六十六部 寶暦九」、「神社仏閣拝礼供養塔 安政五」、新・猿田彦大神、石塔「明治42」、常夜燈「大正13」、狛犬「昭和17」、板碑、手洗石。市保存樹木:くす・しい。要石:石工ののみのあとがついていて、のみで打つと石から血が流れたという。どんなに掘り起こそうとしても掘り出せないという。
・正一位稲荷神社(西久保498)  
 秋葉山裏山は古墳である。今は公園になっている。戦時中は砲台になっていた。頂上に祠。
・龍雲院(西久保82)  
 石仏2、石塔4、馬頭観音、板碑、新・石仏・石塔、市保存樹林:しい。
・八坂神社(八坂北1丁目2)  
 北東斜面が古墳だが、現在住宅や東名清水インターになっていて消滅しているのではなかろうか。石塔類:石鳥居、手洗石、石灯籠。
・神明宮(袖師町38)  
  石鳥居「昭和61」、常夜灯「嘉永九」、青銅製鳥居?、常夜灯2「昭和6」、「袖師相撲甚句記念碑」、記念碑、市保存樹林:くす・しい・もち・いしがし、奉納巨大鉄釜。
 裏山は5世紀末の前方後円墳で神明山1号古墳という。ちょうど外形に沿って石を並べてあるので分かりやすい。東側には細長くフェンスで囲ってある所があり、石室の横穴が見えるが、東半分は削られているようだ。また周辺を含めて4~5古墳があったようだが開発により消滅したようだ。この辺りに庵原の豪族が古墳を作ったということは、この辺りにムラがあったということか。ちょうど庵原街道も眼下を通るのだ。
・清水区庵原公民館(庵原町68)  
 石碑「庵原村役場跡」、石臼、手洗石、板碑。 
・神木神社(原8)  
 石碑「神木神社」。山岸氏宅門内にある。 
・お堂(庵原町449)  
 庚申塔3「大正9」「昭和55」。
・禅洞寺(庵原町477)  
 石塔「南無観世音菩薩」。 
 ・地蔵堂(原454)  
 地蔵多数。庵原街道から久林寺に上る参道入口の墓地横にある。  
・久林寺(原439)  
  朽ち欠けた石仏3、新・石造物。 
・砥鹿神社(原360)
 造営棟札1757年。石鳥居:近代、狛犬2:近代、石灯籠2:近代、新・手洗石、石灯籠脚部、石祠、樹木:250年?。  
・三池平古墳(原と山切の境、ナショナルトレセン入口横)  
 5世紀初期の前方後円墳で珍しい出土品があるようなので、イホハラ氏はかなりの力を持っていたということだろう。神明山古墳が5世紀末で数十年間で中心地が南下したのだろうか。現在復元整備され見やすくなっている。以前はみかん畑山の頂上の小屋の中にあり、そこの透明窓から石室の上部を覗くことができた。
・一乗寺(庵原町1937)  
 石塔類多し。庭も広く美しい。落ち着いた風情のある寺院。昔は豪族や武将の館があったと思われる。
・郷社豊由気神社(庵原町2894)  
 
・福泉寺(庵原町2579)  
 
・円応寺(庵原町2539)  
 
・蜂ヶ谷八幡宮(蜂ヶ谷306)  
 小丘上に神社がある。石塔類。隣に池がある。
・関田神社(山原343)  
 石塔類。
・大乗寺(草ヶ谷114)  
 「善光寺供養塔」3、石塔3、石塔2、石仏3、「庚申塔」、「三界萬霊塔」、延命地蔵、水子地蔵、鐘楼、新・南無虞遮那佛、新・観世音菩薩、新・五百羅漢:境内のあちこちにあり見事である。寺の境内から裏山は山城である。
 寺の門前から庵原中学前に出る道及び東久佐奈岐神社手前の道が古代東海道ではなかろうか。
・庵原城跡(草ヶ谷114)  
 庵原の地は豪族イホハラ氏の出身地で、この辺りに本拠地を構えていたと考えられる。城は中世の山城である。この麓辺りが旧清水の中心地だったのだ。縄文遺跡も出土し古くから人が生活していたことが分かる。
・式内久佐奈岐神社(東久佐奈岐神社)(山切102)  
  庵原街道より少し北に入るが、ここに日本武尊ヤマトタケルノミコトがかつて陣を敷いたという。その跡地を副将:吉備武彦命が社を造り日本武尊を祀ったのが創建という。昔は東久佐奈岐(草薙)神社といったようだが、今は正式名ではない。しかし東久佐奈岐神社と呼ぶ方が、草薙神社と区別しやすいので通称名を用いる。
 石鳥居「大正10」、石灯籠2「明治8」、古・石灯籠、石灯籠「平成14」、手洗石コンクリ製、狛犬2「昭和3」、石灯籠4、石鳥居「平成20」、手洗石「紀元2600年」、石灯籠2「寛政四」、祠多し、手洗石、石灯籠2「平成14」。
・若宮八幡神社(尾羽2)  
 創建不詳、石灯籠脚部「文政七」、石灯籠2「昭和46」、古・手洗石、石鳥居「昭和45」。
・松雲寺(尾羽22)  
 六地蔵、石仏、祠、石塔、市保存樹木:カシ。
裏の観音山に観音菩薩が安置されている。その光背のようにIAIという産業用ロボットの会社工場の高層建築物が後ろを覆っている。樹木の覆う山を上って寂しい場所にあるはずの観音の後ろに、モダンな高層ビルの壁や窓が白っぽく光り、そのミスマッチが唖然として妙におもしろい。最低を通り越し最高である。
・尾羽廃寺跡(尾羽22)   
 尾羽公会堂付近から礎石や瓦等が見つかったということらしい。近くにはその瓦を焼くための窯跡も発掘されたようだ。ここに大きな寺院があったということは、それだけ開けていた証拠である。付近のお宅の道沿いに礎石が露出している。尾羽公会堂、老人憩いの家周辺が寺の敷地である。
・石塔類、尾羽公会堂、老人憩いの家(尾羽355-6)  
 「庚申塔」2、「西国順礼」、石塔3、地蔵2「天明三」、准(月低、月偏に低つくりである)観音菩薩堂:石仏2。 
・盧崎神社(横砂本町29)イヲサキ  
 創建不詳だが天慶(平安期)にあったという。古くは八王子大明神で明治に今の名になる。石灯籠2基「嘉永五」。石灯籠2、石鳥居、狛犬、手洗石:近代。祠多数。
おそらくこの神社を古代官道は目指したように、中世の東海道も目指したのだろう。
 「盧」の字はイホハラのイホと読むが漢和辞典ではロと読む。ここではイヲと読む。 
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 17:54Comments(0)古道

2016年11月20日

静岡市清水区、富士市、沼津市:千本街道、海岸線:基礎資料

・前文
 数年前、秋の午後、千本浜からの自転車での帰りに歴史的な処を通過しつつ、適当に写真を撮っていた。午前中走ったあとで、疲れもあり、きちんと資料を整理する気にもなっていなかったので、散漫資料ではあるが、これも今後再調査し、整理するということで一応掲載する。


~清水~
・ほそい(細井)の松原、無縁さんの碑(辻三丁目7⁻15)
 ・説明:慶長六1601年徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同九1604年2代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同十七1612年完成したと伝えられている。元禄十六1703年駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺:約360m、松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。当時の旅人は夏にはこの松原で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。ほそいの松原は太平洋戦争の松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。今の松は平成4年2月社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。
 ・細井の松原無縁さんの碑:説明:辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。平成13年東海道400周年記念で当石碑を建立した。
・ 松原観音堂、津島神社(西久保261)
 袖師ふるさとの路6、水準点、常夜燈、祠、石塔、
・馬頭観世音菩薩:祠(袖師町1081)
 ・袖師ふるさとの路1、
・延命地蔵:祠(袖師町1056)
 
・東海道松並木(横砂西町7-11)
 1本だけ現存する。


~由比~
・一里塚跡、祠:地蔵2(旧由比宿)





・穀茂利稲荷神社(由比723⁻1)


~蒲原~
・海宝寺(神沢487)

・正八幡宮(神沢400)

・大山祇神社(堰沢675)

・霊光禅院(堰沢675)

・関口神社(堰沢515)

・八幡大神宮、天満天神宮(中592)

・貞心院(中606)

・秋葉神社(中607)

・上山神社(小金473)

・白泉寺(小金473)

・稲荷神社(新田二丁目9)

・稲荷神社(新田二丁目8)

・城源寺(新田二丁目18-2)

・泉龍寺(新田二丁目17⁻2)

・和歌宮神社(蒲原三丁目32⁻1)
 金毘羅神社

・志田邸

・五十嵐邸

・御殿道の碑

・長栄寺(蒲原三丁目31-15)

・妙隆寺(蒲原三丁目30-19)

・若宮神社(蒲原三丁目27-11)

・蒲原城(蒲原)

・善福寺(蒲原善福寺3817⁻4)

・大正時代手作りの窓ガラスのある家()

・八幡神社(蒲原善福寺3747⁻1)

・旅籠「和泉屋」

・(木昌)守神社(蒲原三丁目26⁻3)

・明治時代のなまこ壁商家()

・明治時代のなまこ壁商家()


・八坂神社(蒲原二丁目13-14)

・御殿山公園(蒲原)
 狼煙場

・東漸寺(蒲原二丁目13-7)

・正八幡神社(蒲原二丁目八幡町13-3)

・竜雲寺(蒲原二丁目12-⒑)

・諏訪神社(蒲原一丁目14-13)

・北条新三郎の墓(蒲原一丁目14-4)

・蒲原木之内神社(蒲原四丁目27-31)

・光蓮寺(蒲原一丁目10⁻11)

・馬頭観音(蒲原一丁目10⁻11)

・義経硯石(蒲原一丁目9‐9)
・観音穴(?蒲原諏訪町)



○吹上の松:静岡市清水区:旧蒲原町、蒲原中学前(蒲原姫台124)
・浄瑠璃姫の碑
・吹上の六本松
・浄瑠璃姫之墓:
・地蔵
・説明:浄瑠璃姫に関する伝説は幾つかある。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河國矢作の宿の浄瑠璃姫が吹上ノ浜で疲れ果てて死んだという内容の話が描かれている。また小野於通の「浄瑠璃姫十二段草子」には、里人によって吹上ノ浜に追われた瀕死の義経が浄瑠璃姫の涙の雫で蘇るという筋書きになっている。義経と浄瑠璃姫の恋物語を語りものとして「浄瑠璃」が江戸時代に流行した。
 吹き上げの六本松は、浄瑠璃姫を葬った塚の上に、目印として植えられたという。その後、大きな木に成長し、東海道を渡る旅人の目印となってきたことが「東海道名所図会」にも示されている。
 また武田方の戦記「甲陽軍鑑」には、永禄十二年1559、12月蒲原城が武田氏に落城させられた時に、この六本松のあたりに本陣を置き、勝どきを上げたことが記されている。浄瑠璃姫の碑は明治31年1898初代町長、五十嵐重兵衛によって建立された。この碑には「語り継ぎ 言い継ぎぎつつ今になお いくりの人の 袖を濡らすらん」(作者不詳)の歌が残っている。

・灌漑用水竣工記念碑:蒲原町長佐藤一郎書(蒲原新栄町4875⁻43)

・西木戸、茄子屋の辻(蒲原三丁目10-4)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり、西木戸と呼ばれた。元は宿場は西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていた。元禄12年1699の大津波によって壊滅的被害を受け蒲原御殿があったという現在の地に移転した。西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、茄子屋の辻で乱闘が起った。承応2年1653高松藩の槍の名人大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論となり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒した。しかし最後に追手につかまり殺された。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は現在寺宝として保存されている。
 ・蒲原宿は江戸から37里:148㎞、品川宿から数えて15番目の宿場である。徳川家康が1601年に東海道を開き、蒲原宿も東海道53次の一つになった。当時の宿場は現在のJR東海道線の南側にあったが、元禄12年1699,8月15日に宿場を襲った大津波(大型台風)により、大きな被害を受け、元禄13年1700、に山側(現在地)に移転した。天保10年1839の宿場の規模は宿内人口2439人、戸数488戸、本陣1、脇本陣3と旅籠45軒で富士川の川留目の際などはたいへんにぎわった。
 ・西木戸跡:蒲原宿の西の端にあり西見付とも云われた。見付の入口に木戸の柵を設けたことから木戸とも云われ、東西木戸の間を木戸内と呼んだ。
 ・浦高札場跡:海に近い蒲原宿は蒲原の津(港)を経由する海上交通も盛んだった。浦高札は海船、川船など船舶一般の取り締まりのお触書で、これを掲示した所が浦高札場だった。
 ・高札場跡:□会館の前にあったといわれる蒲原宿の高札場は幅2間5尺(5.1m)奥行4尺5寸(1.2m)高さ1丈1尺(3.3m)の大きな規模のもので、ここには幕府のお触書が掲示された。
 ・御殿道:徳川家康が造営し、秀忠、家光の時代まで休憩所となった蒲原御殿。御殿の位置はあきらかではないが、桜の名所御殿山と宿内に残る御殿道にその優美な名前を留めている。
 ・本陣跡:蒲原宿の本陣は江戸時代の中頃までは東本陣(多芸家)と西本陣(平岡家)の2家で勤めていたが宝暦年間1751~1763に東本陣の多芸家が絶え、以後幕末まで平岡家が本陣を勤めた。平岡家は明治11年に京都に転居した。現在の建物は大正時代のもので、邸内には今も大名が駕籠を置いたといわれる御駕籠石が残っている。
 ・木屋(渡辺家)の3階建ての土蔵:木屋の屋号をもつ渡辺家は江戸時代末期、蒲原宿の問屋職を勤めた旧家。今も残るこの3階建ての土蔵の中には江戸時代の宿場の貴重な資料が保存されている。
 ・問屋場跡:問屋場とは幕府の荷物の取次、大名の馬、人足の世話をはじめ、旅人の宿泊や荷物の取次をした所で、各宿内に1か所ずつ設置されていた。
 ・「蒲原夜之雪」記念碑:歌川(安藤)広重描く「東海道五十三次」シリーズの中でも「蒲原夜之雪」は最高傑作といわれる。広重がこの絵を描いたと思われる場所の近くに昭和35年「蒲原夜之雪」が国際文通週間の切手になったのを記念して碑が建てられた。
 ・東木戸跡:蒲原宿の東の端にあり、東見付とも云われた。東木戸は当時の常夜燈(文政13年1831)が残っている。宿内安全と刻まれた常夜燈には夕暮れになると、ここから蒲原宿に入るという目印の灯がともされた。また東木戸のすぐ西側の所で道路がわずかに鍵の手になっている。これは幕府が戦略の一つとして作ったもので、敵の侵入に備えて見通しがきかないよう、また軍勢の流れを阻止するためのものである。
 ・一里塚跡:一里塚は慶長9年1604江戸日本橋を起点に36町(1里:4㎞)ごとに築かれた塚である。この一里塚によって人夫や馬を借りる者は里程(距離)を知り、これを基礎に賃金も算定された。蒲原の最初の一里塚は元禄12年の大津波で流失し、現在の一里塚は宿場の移転にともなって移されたものである。当時の面影はなく、今は小さな祠が残っている。

・「古屋敷」通り(蒲原三丁目西町14)
 説明:蒲原宿の西の入口には木戸があり西木戸と呼ばれた。蒲原宿はもと西木戸より南側の古屋敷と呼ばれた所に広がっていたが、元禄12年1699駿河湾に大津波が発生して蒲原宿は壊滅的被害を受けた。そこで元禄14年1701幕命により蒲原宿は西木戸より左折して山の麓を東に進み、東木戸までを新しい宿場とすることとなった。したがって旧宿場の問屋、本陣、脇本陣、旅籠、馬役人屋敷等すべてがこの新宿場に移転した。ここに江戸初期100年にわたって栄えた旧宿場と古屋敷道はさびれていった。しかし近年この古屋敷道も現在では50余軒が軒を連ね往時をしのぐ勢いをみせている。


~~~富士、沼津~~~
              ’13  ’14  11月
~富士市~


・ディアナ号の錨:富士市有形文化財
 説明:錨全長:約4.0m、錨爪長:約3.0m、錨重量:約3t、日本に開国と通商を求めて来港したロシア軍艦ディアナ号は、嘉永七1854年10月に下田港に入港したが、安政地震に遭遇して大破した。修理のため戸田港に向かったが、強い西風によって漂流し、富士市三四軒屋沖で沈没した。この錨は長く海底にあり、地元領民や住民に「唐人の根っこ」と呼ばれた。昭和51年8月に引き揚げられた。

○三四軒屋龍王神社(宮島1391)、八大龍王神社(宮島1391-34)
・社名碑:
・石鳥居
・手洗石
・献燈6
・秋葉山常夜燈2
・狛犬
・石道標:従是東宮嶋村
・力石:説明:明治大正から昭和初期まで集落の若者たちが体力をつけるため、また力比べとして持ち上げた「力石」で重量106.2㎏。
・説明:祭神:八大龍王神、例祭日:8月23日、由緒:創建慶應三年、海岸沿いの当地は漁業を主に生活し、先祖代々海の守護神たる龍王神を崇めた。古く三軒家、四軒屋2区に分かれ、両区に同神社あるも、昭和15年区併合の際、初代区長井上喜氏は将来両神社の合祀を約束した。その後40余年を経て昭和61年合祀記念事業として本殿及び拝殿造営並びに20aの境内造営を行い、龍王神社は地区の氏神、海の守護神として崇敬をあつめている。


○金(昆)毘羅神社(川成島930)
 説明:祭神:高オカミノ神奉遷宮中央大日大聖八代龍王、大物主神金毘羅大権現、鎮守宮聖主大梵王、開運摩利支天、備前拾四柱大人命霊神(備前さん)、例祭日:11月10日、由緒:・本社祭神高オカミノ神創建不詳、弘化三丙午歳1846,9月吉祥日、新浜村中五穀成就祈雨止雨の神、昭和56年1981、7月1日静岡県神社庁より13等級「龍神社」と呼称決定、
 祭神大物主神金毘羅、本社殿は香川県琴平山の金毘羅宮を本宮として文政12年1829創建されたと伝わる。金毘羅とは薬師12神将の一つで祈雨、海難祈願の神として祀る。
 鎮守宮聖主大梵王は仏教の神格化したもので神社を守る神。
 開運摩利支天、戦勝の神。
備前拾四柱大人命霊神(備前さん)は、岡山県の御用船拾四名の遭難死を古来より祀った。いつともなく忘れられていた。探して祀れば霊験ありとのお告げあり、宮司により1991年11月吉日遷座祭施行す。
 1991年11月吉日、本殿改築新浜区の守護神として崇敬す。
・新:石鳥居
・新:献燈2
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2


・山王(日吉)神社(川成島417⁻8) 


○不動尊(宮島)
・南無阿弥陀佛
・石塔

○圓妙寺(中丸550)

○弁天神社(中丸829⁻1)
・赤鳥居

○稲荷神社(中丸864)

○愛宕神社(鮫島520)
・説明:祭神:ほむすびのかみ火産霊神、例祭日:10月17日、由緒:創建不詳、明治19年記録「日吉神社ノ傍字中嶋ト云フ所ニ鎮座アリシヲ寛政年間此所ニ遷座セシト云フ」、「御戸帳ノ裏ニ左ノ如ク記セリ愛宕山大権現御戸帳 寛政七乙卯六月廿四日 当村若衆中 願主 奥州行方郡相馬大原村西方法師」とあり、古くから広く崇敬を集めていた。また「愛宕山光耀寺」と書かれた古い木札が残っている。平成元年改築。
・石鳥居
・燈籠
・石塔
・石塔類:2
・無縫塔4
・石仏4:観音?
・五輪塔2

○天満宮、山神社(田子360⁻1)
・石鳥居
・石柱2
・献燈2
・献燈
・クスノキ:保存樹木

○林正寺(鮫島535)鮫島山
・石塔
・南無妙法蓮華経□九丙子
・南無妙法蓮華経
・南無蓮本菩薩

・稲荷神社(鮫島569⁻6) 

○山神社(前田823)、前田新田区公会堂
・献燈3
・石祠
・自然石
・水神


・石塔:南無明甫蓮華経




・石塔3


○立光寺(前田830)佛原山
寺名柱


○石塔類、港公園(前田893⁻1)
・石塔2
・板碑
・胸像


○石仏類(前田新田888-73) 
・石塔3

○江川水門名碑:一ツ眼鏡(田子、浜田町、江川橋たもと)
 説明:小須湊の江川については、」ひとたび田子浦海岸が荒天により波浪高まれば、その遡上波は引きも切らず昼夜を問わず、付近一帯の田畑を押し流し住民を怖れさせた。明治17年9月暴風雨水害、明治32年10月未曽有の大津波襲来、田子浦村は田、家屋はもとより村民も壊滅的は被害を受けた。この復興のため明治36年11月県知事山田春三により石水門が築造され、上部は鈴川街道として利用され、以来田子浦村民、近隣村民の通行に寄与した。
 時代を経て水門の老朽化が激しく、田子浦村長船山啓治郎をはじめ地域住民の強い要望に依り、昭和27年3月地元選出県知事齋藤寿夫による応援を得て、新たな両開き水門が竣工した。その後次々と風水害にあったにもかかわらず、その役目を果たしてきた。しかし近年上流部の都市化、田子浦港整備のための河川、道路改修を契機に長年の役目を終え、平成10年取り壊された、当時の江川水門名碑を残す。

○沼川橋たもと、沼川石水門記念碑、六ツ眼鏡(中河原31-4)
 説明:沼川の逆潮は、富士山麓浮島沼周辺の村々に甚大な被害を与えてきた。その被害を防ぐため、明治18年11月6日、石水門が完成した。石水門は当時の最先端の土木技術を取り入れ構築された。設計はオランダ人技師の助言を受け、施工は猪苗代湖の石水門建設で名を上げた石工:児島佐左衛門が指揮して行われた。低湿地で湧水が多いこの地での工事は、殉職者を出すほどの難工事であったが、静岡県で初めてセメントを使って構築された石造アーチは以後、どんな波浪にも耐える堅牢さを誇った。
 石水門の管理は昭和3年7月より県に移管され、その保全に最善を期してきた。扉の開閉については、水位差を利用して自動的に閉まるよう工夫され、天候の悪化が予想された際には、手動で門を閉じることもできた。(展示の軸は門扉を動かすギヤの一部である。)
獅子浜産伊豆石を用いた六連型アーチの美しさは「六ツ眼鏡」の愛称で親しまれた。後に排水力増強のため水門を二基増設した。
 しかし田子の浦港築港と沼川防潮水門の建設によって撤去されることとなり、昭和41年12月8日、80余年にわたる役割に幕を閉じた。


~~~以下「村山古道」より転載~

・浅間宮、富士塚(富士市鈴川)   
 富士登山をする者が海水で水垢離した後海岸の石を一つ置いていったものが積み重なって塚になったという。別説には、津波後の施し米のお礼として積み上げた。北条・武田・今川が対峙したときの天の香久山砦の跡。などの説もある。 
鳥居前を直進して突き当たると石碑「皇太子殿下御散策之蹟」があり、左に元吉原中学校がある。戻るなら左折だが、海に行くなら右折する。
 ここから海水に触れるには堤防の出入り口を越し、左折(東)していくとテトラポッドが切れて砂浜が少し見える。西へ行くと田子の浦港の岸壁で立入不可となる。 

・閻魔堂、地蔵堂、石塔、黒露の墓(鈴川)  
閻魔堂…閻魔像、地蔵
地蔵堂…地蔵
石塔…17基、観音、六地蔵、燈籠、
黒露の墓…黒露は江戸時代中期の俳人。
地蔵堂前の階段が古くは海に出る道で、南進して一度曲がって先の皇太子碑に出ればよい。

・木之元神社、古東海道(鈴川)  
 戻りは地蔵堂から東進60mで右の路地に入ると古東海道であり、木之元神社前に出る。神社上側の道を行く。近世東海道に出るにはその先を左折し広い道に出るが、おそらく古東海道は右折した路地のように少し高いところを東進していたのだろう。近世東海道側へ進む。広い道に出たらすぐにある踏切を越え線路に沿い西進し、JR吉原駅前で北西進していく。*(ここからは近世東海道に出たので、近世東海道のガイドブックと同一内容になる。) 河合橋を渡り国道1号線と新幹線のガードを斜め左に横断する。その先に静かな街並みがある。左富士神社のある中吉原宿跡である。

・(付近)阿字神社、妙法寺、富士と港の見える公園、三本松、毘沙門天妙法寺(鈴川)  
阿字神社…近世以前の東海道は田子の浦を船で渡っていた。そのとき東岸側で安全祈願をした所の名残である。相当古い神社と考えられるが、これだけ海に近い所にあるためか古い物はない。(多分地震や津波で遺物は残りにくい) 
妙法寺…
富士と港の見える公園…現代の公園、眺めは抜群。トイレや駐車場数台分ある。
三本松…元吉原中学校向かいにある。何の謂れか?
毘沙門天妙法寺…だるま市で有名、近世東海道筋にあるので歩くとちょっと遠い。

・中吉原宿跡、左富士神社(依田橋町)~近世東海道~  
 先ほどの鈴川や毘沙門天の辺りが元吉原宿であるが、津波で破壊され、この左富士神社辺りに移転した。しかしここも津波で破壊され今の吉原本町の吉原宿に再々度移転した。
 *ここ以後しばらく近世東海道ルートなのでもっと詳しく知りたい方は東海道吉原宿近辺のガイドブックを読んでください。

・左富士(依田橋町)  
 東海道を東から西に行けば富士山は右に見えるのだが、この地だけは左に見えるので「左富士」と称され珍しがられた。東海道が一旦北北東を向くからである。左富士神社先の交差点に史蹟看板があり、松が植えられている。左富士の浮世絵レリーフもある。

・石仏(依田橋町)   
左富士史蹟を過ぎて北進すると左に祠が見える。

・平家越し(新橋町)  
 橋を渡る所にある。平家が富士川沿いに陣取り羽音を源氏の攻撃かと驚き逃げ出したという伝説の地である。平家は羽音だけに驚いたのではなく、その前から源氏の陽動作戦で疑心暗鬼になっていたという説もある。ここはいまでは富士川ではないが、雁堤設定以前はここまで富士川が幾本かに分流して流れていたようだ。

~~~以上、村山古道、転載部分~

○阿字神社(鈴川町12)

○仏舎利塔、大隈稲荷、富士と港の見える公園(鈴川町12)

○妙法寺(鈴川町12)

○富士塚、浅間宮(鈴川西町13)

○三本松(鈴川中町23)

○閻魔堂、黒露墓(鈴川中町8-⒑)

○地蔵堂(鈴川中町3-1)

○木之元神社(鈴川東町1-29) 

○海老坂薬師:今井薬師堂(今井一丁目4-4)
・石鳥居
・石塔:(梵字)庚申供養滅悪生善處 元禄四辛未天 
・石塔の笠部分
・奉納南無庚申
・南無奉献庚申
・観音2:・宝暦二、・墓石

○愛鷹神社:(今井一丁目2⁻14) 
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2
・石祠
・石塔
・保存樹木:エノキ:富士市

○毘沙門天妙法寺(今井二丁目7⁻1)

・稲荷神社(今井三丁目4-1)

○愛鷹神社(大野新田124)
・秋葉山常夜燈
・石鳥居
・狛犬2
・献燈2

○高橋勇吉と天文堀(大野新田56⁻1)てんもんぼり
・説明:三新田(大野、桧、田中)の80haに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉1806~1866が天保七1836年から嘉永三1850年の14年間の歳月を費やして完成した排水用の掘割である。勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で彼が三新田の開拓を考えたのは天保七年の大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで排水計画の研究の傍ら多くの反対や苦難を乗り越えようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て立派な排水堀を完成させたのだった。勇吉は自分の田畑や財産等を売り払って工事費に当てたと云われ、勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことから子の掘割のことを人々は「天文堀」と呼んだ。現在三新田の耕地は土地改良や道路等で開発が進み、勇吉の天文堀はその跡を見ることができない。

○庚申堂(大野新田14)
・秋葉山常夜燈の竿部分、
・石仏3
・五輪塔破片
・水準点

○丸山稲荷(桧新田368-60)
・赤鳥居、祠

○愛鷹神社(桧新田329)
・石鳥居
・エノキ、クスノキ、クロガネモチ
・秋葉山常夜燈
・石仏
・献燈2
・祠、
・手洗石

○淡島神社、米之宮神社(田中新田215、三新田98⁻1、田中町) 
・赤鳥居
・石仏
・石鳥居
・保存樹木:クロガネモチ、エノキ、ムクノキ
・献燈
・献燈
・手洗石

○?神社(三新田10-13)

○春耕道しるべ第一号:石道標:☞須津村すどむらやくば役場一里、吉永よしなが村役場三十一町、

○ 昭和放水路、増田平四郎の像、旧東海道一里塚、石碑、広沼橋西袂、沼川第2放水路、
    (沼田新田8、柏原町2)
・増田平四郎とスイホシ:説明:天保七1836年大飢饉や度重なる水害から村民を救済
するため、原宿の増田平四郎1807~1892が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治2年1869の春で、人々は「スイホシ」と呼んだ。
 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること12回、勘定奉行へ籠訴すること6度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶應元年1867に着工の運びとなった。それは計画の発案から27年目のことだった。
 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505m、幅7mの大規模な掘割を建設したが、思いがけなくもその年の8月の高波で跡形もなく壊された。平四郎の大計画はとん挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。
・増田平四郎像
・増田平四郎翁碑
・為女鹿塚新田
・石碑:旧東海道一里塚

・交通事故防止祈願像、地蔵(沼田新田140)広沼橋東袂

○立圓寺(西柏原新田72) 

○大六天神社(沼田新田64⁻1) 

○延命地蔵尊(中柏原新田227) 

○津島牛頭天王(中柏原新田231⁻1)

○六王子神社(中柏原新田171⁻3)

○?神社(中柏原新田257)

○庚申塚古墳(東柏原新田) 

○山ノ神古墳(東柏原新田) 



~沼津~

○八幡宮(植田41-⒑)

 
○?神社(植田95)


・地蔵2:
・献燈


○山神社(大塚38-1) 

○正覚寺(小諏訪コズワ518⁻1)


・?神社(西間門602)

○金剛寺(西間門518) 

・?神社(西間門518) 

・石塔3


・赤鳥居、祠、石塔:大正七


・石仏:観音、橋本梱包待機場所


・是法院當縁日住 宝暦十二壬維持


・元堀:水落堀跡(一本松71₋2)富士アセチレン工業 向かい
 説明:元禄15年1702に今泉村の七兵衛、又兵衛が計画し、宝永3年1706~08にかけ、地主鈴木八兵衛、地元住民等の協力のもとに着工された。この工事は浮島沼入口から一本松の海岸まで水路を掘り、沼の水を流し、新たな農地を切り開こうとしたもので、工事は進むも高潮等の自然災害により完成までには至らなかったと古文書は記している。苦心の大工事で今に残る浮島沼開拓に情熱を傾けた先人たちの貴重な遺跡である。なお掘割跡の奥には江戸時代の潮土手も残っている。

・板碑:(一本松85⁻5)

○要石神社(一本松87⁻1) 
・説明:祭神:天津彦火 々杵尊あまつひこのひ  いそのみこと、例祭日:1,5,9月各27日、由緒:当区の開祖大橋家の2代目五郎左衛門が寛永年間に創建したという。現在社祠、天保十四年再建。水郷鹿島香取両神宮要石と同じものである。本体一部露出せる火山岩の大石塊 北200m、大橋家屋敷井戸まで続くといわれ、このために安政の大地震にもこの地方の災害憂いがたく、聴覚障碍者はこの社に祈願して穴明き石を供えると平癒するとの口碑あり。境内には多数の穴明き石が奉納されている。
・石鳥居
・馬頭観世音菩薩:安政六未年
・南無阿弥陀佛 享保五庚子年
・手洗石:世活 當村中 火消中 若者中
・祠
・玉垣

・破損:赤鳥居と祠、馬頭(一本松163)エノモト工業 向かい

○いぼ神様:祠、石碑(原655₋2)沼川第2放水路の原大橋西袂
・説明:古来よりこの社の後ろにあった巨松の盤根の閒にくぼみがあり常にみずがたまっていた。イボのできた人がこの水をいぼにぬり祈願すると、いぼがよく落ちるのでいぼ神様と云われ広く信仰された。「原町史」より

・石仏:

・地蔵:天保五年、原中学校附近

○山神社、稲荷神社(原315₋2)

○原 壱ヶ浦供養塔(原311 原西町交差点信号前に案内標識) 
・供養塔:南無妙法蓮華経
・馬頭観音:2:天保十、

・山神社(原38⁻1)

・馬頭2:(大塚15 図書印刷 向かい)

・新:地蔵:交通守護(今沢38⁻1 大杉自動車工業 向かい)

・庚申塔(今沢29 向かい)

・赤鳥居:祠(今沢23 秋本水産 向かい)


・観音:元禄十年丁丑 奉供養(今沢20-9 向かい) 
 ・今沢20-9にはコンクリ石柱2在り:三島神社と祥雲寺の参道入口

・青面金剛王:正徳六丙申年1716(今沢17⁻3 向かい) 


・一面六臂:正徳三癸巳


・墓石:~丁玄禅定明 ~忍禅定明 享保十二未


・観世音菩薩:寛政七乙卯(松長12⁻1 向かい) 
 観世音菩薩:明和四丁亥、
大悲観世音1安永六年


・石塔(松長21-45 向かい) 

・観世音(松長30⁻11 向かい) 
~明尼首本~、
大正、江戸 勅四郎大明神、
・南無妙法蓮華経供養:ひげ題目:文化十一甲戌年、


・弁財天:維持寛政九丁巳歳(松長51⁻11 向かい)


・地蔵(松長64、大昭和紙工産業向かい)
・六十六部、
納経塔行者、
妙法随喜法徳霊、
(一面六臂)寛延元戊辰1748天霜月日、
南無観世音菩薩文化二乙午年1805、
南無観世音菩薩寛保二壬戌歳1742、
庚申塔、
昭和十年、
文化八、
英六十一、
西國三十三所巡礼供養塔、
奉巡礼西國三十三所、


・地蔵;祠(大諏訪25、東洋電産向かい)

・石祠:観音、(小諏訪556⁻5 向かい)
・馬頭観世音2
・石塔

・石塔3(小諏訪556⁻1 向かい) 
・庚申塔

○正覚寺(小諏訪518⁻1)

○石塔類(小諏訪588⁻3 服部宅向かい) 
・観音2
・青面金剛神、
法蓮華経一字一石二部供養塔

○石塔類(小諏訪600 静岡スバル向かい) 
・観音2
・石塔5
・馬頭4


○妙伝寺(東間門33) 

○山神社(東間門8-12) 
・コンクリ鳥居:大正十一年、・コンクリ常夜燈2:昭和三年、・常夜燈の笠、・堂、・手洗石:、手洗石:昭和十一年、・旗立石、・石祠2、・石塔:奉納田中源三郎、

・石道標:六代松 是ヨリ東 六代松(東間門9⁻1) 

○六代松碑(東間門824) 
 ・説明版:平家物語ゆかりの地、六代は平清盛を3代とし、重盛、維盛、六代と続く平家の統領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符号する。元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると探し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語るうえで最も人々の心に残る場面の一つである。その後出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、誅せられ、その首を供の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。江戸幕府の命を受けて道中奉行美濃の守藤原利恭としやすらが文化3年1806に完成した「東海道分間延絵図」にも、千本松原の名kにある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。民間では学識の俳人秋里離島あきざとりとうが寛政九年1797に板行し好評を博した「東海道名所図会」には文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人たちに親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年1843碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
 ・忠霊塔、・板碑

○若山牧水住居跡(本858⁻1 TKDマンション) 
 現在、碑文が門前にあるのみで発見しにくいので、地元民に尋ねるしかない。
 説明版:歌人若山牧水が千本松原の景観に強く心惹かれ沼津に入樹してきたのは、大正九年1920満34歳の夏だった。大正14年ここに500坪の土地を求めて居宅を新築し、沼津永住の念願を果たした。建物は木造2階建て79坪で全11室あり牧水が夢に描いていた通りの物だった。牧水は千本松原を愛したように、この居宅を非常に愛していたが、この家にはわずか3年暮らしただけで昭和3年1928の秋、43歳の短い生涯をこの地に閉じている。牧水の建てた家は惜しくも昭和20年の戦災で焼失したが、沼津市若山牧水記念館に50分の一の復元模型ミニチュアとしてその全容が展示されている。

・馬頭観世音菩薩(本1910-⒑) 
 寛政十六年

・首塚(本1910-185) 
 説明:戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、特に天正八1580年の千本浜の合戦は激戦だった。明治33年暴風雨で倒れた松の大木の下から多数の頭蓋骨が発見され、地元の人たちはこの骨を集め、塚を築き、碑を立て「お首さん」と呼んで手厚く葬った。人骨はこの合戦の戦死者のものと言い伝えられてきたが、昭和29年、人骨研究の権威:鈴木尚東大教授の調査により当時のものと確認された。おびただしい頭蓋骨の数や刀傷の深さから、戦いの激しさがうかがわれ、特に10代後半の若者の骨の多いことが注目された。碑文は旧沼津藩士岩城魁。
・馬頭観音3:昭和十四年、 、 、
・地蔵、
・石塔、

○本光寺(本1910⁻185) 

○千本浜公園() 
・歌碑:多数



○沼津若山牧水記念館(本郷林1907⁻11)

○千本港神社、港口公園、水門タワー(沼津港) 


○芹沢光治良記念館(我入道蔓陀ヶ原517⁻1) 


○乗雲寺() 
 若山牧水墓

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 15:01Comments(0)古道批評、歴史・地理・紀行

2016年09月22日

高草街道、三輪街道(静岡県藤枝市岡部、焼津市)

~~~高草街道、三輪街道~~~ 
                 ’14 ’15  6月
・情報提供呼びかけ
 今後、高草(三輪)街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 まだきちんと一通り調べていないので、過去に立ち寄った基礎資料にすぎないが、一応今後調べ直すということで、一旦掲載する。岡部から焼津に懸けて、高草山麓の三輪街道または高草街道と呼ばれる所の基礎資料である。

~岡部~ 

○つたの細道(平安時代から戦国時代の東海道) 
 古代中世(約700~1590年頃)の東海道。古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人;在原業平が『伊勢物語』にこの峠道のことを書き記してから全国的に名を知られるようになった。
 *これより古い古代の東海道は「日本坂峠」越えの道で、静岡市小坂の日本坂峠登山口から焼津市花沢の法華寺前に出る道である。徒歩道ハイキングコース。
・歌碑:宇津ノ谷峠
・猫石
・つたの細道公園
・石碑:蔦の細道

○木和田川の堰堤 
・国登録有形文化財:1910年豪雨によって大災害が発生した。災害防止のための砂防工事を進めた。1912年から14年以かけて造られた堰堤である。木和田川の13㎞にわたり、8基の石積み堰堤を築いた。形から兜堰堤ともいう。ちょうど蔦の細道や旧東海道藤枝市岡部側に下った所の川である。上流に向かうと石積みを見られる。

○明治のトンネル 
 明治、大正時代1876~1930の東海道。現在みられる「レンガのトンネル」は明治29年に照明用カンテラの失火によって新たに造り替えたもので、現在は国の有形文化財に認定されている。最初のトンネルは日本で初めて通行料を取ったトンネルなので、「銭取りトンネル」と言われた。
*他の宇津ノ谷のトンネル:
・大正のトンネル、完成は昭和初期、だいぶ坂を上り、人家の隣を通過しトンネルに至る県道である。
・昭和のトンネル、現在、国1上り線側(北側)
・平成のトンネル、現在、国1下り線側、歩道が付いている(南側)

○宇津ノ谷の旧東海道(江戸時代の東海道) 
 天正8年1581豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたと云われている。江戸時代に入り正式な東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっていた。
*私見:戦国史専門の小和田哲夫氏は江戸時代の東海道を最初に整備したのは今川義元で桶狭間に軍が向かうときは、その道を使ったのではないかと推定している。
・静岡市側からだと道の駅の東側の供養塔がある所にかつては一里塚があったと推定されている。そこから川伝いに西に向かい道の駅を通過し、現在の国1南側の小さな橋「平橋たいらはし」を渡るのが、江戸時代の東海道ルートである。ここから道は北の宇津ノ谷集落に向かうため、現在の国1を渡る。ここから先は川沿いに集落を目指すと道標や地図が頻繁にあるので分かるだろう。ちなみに平橋手前で左(南)に曲がり山に入っていくのが蔦の細道である。
・慶龍寺:十団子伝説
・賀茂神社
・お羽織屋

宇津ノ谷集落から江戸時代徒歩道東海道を上っていくと、馬頭観音や地蔵堂跡を過ぎ峠越えをすると、藤枝市に入る。その先で道は舗装された所に出て舗装路を歩く。この舗装路を逆に上ると、国1トンネルの山の上の排気口の建物に出て行き止まりであるので、下るしかない。そうすると藤枝市(旧岡部町)坂下集落に出る。

○坂下地蔵堂(藤枝市旧岡部町坂下2027) 
・羅経記の碑 
・鼻取り地蔵
・石仏石塔

○観音堂(廻沢2589) 

○松岡神社(廻沢2718) 

○十石坂観音堂(岡部1179 川原町)じっこくざか 
 市指定文化財。入母屋造りの瓦葺の観音堂、内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。江戸時代末期の作と思われ、観音堂内に2基の厨子が安置されている。
厨子1:中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、杮葺きコケラブキで二重垂木、妻入である。彩色が施され、江戸もやや末期の作と思われる。
厨子2:観音堂の向かって右。宝形、板葺屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものだ。江戸も中期以降の作と思われる。
・河野蓀園碑文:市指定文化財。河野蓀園コウノソンエンは駿府町奉行服部久エ門貞勝が駿府地誌の編纂を山梨稲川ヤマナシトウセン(江戸時代の漢学者としてその名を知られた。)に依頼した時に、岡部の属する益頭郡を担当した人である。岡部本町に住し(屋号:河野屋)、文化12年正月18日46歳で没した。彼の墓碑は稲川の撰文と書が刻まれたものだ。その撰文の要旨は彼の資性と業績が立派だったことを顕彰したものだ。建碑については彼の友人で岡部宿駅の漢学者:杉山佐十、本間春策等の友情によって立石されたものだ。
・古:石燈籠?
・石塔?
・手洗石
・萬霊塔:文政三辰年
・新:萬霊塔
 *私見:観音堂は旧東海道の県道横の10m高い山裾にある。おそらくかつては山裾が川の手前まであって東海道はこの観音堂と同じ標高まで上らないと越せなかったのだろう。そこで十石坂なのだろう。現在は土木技術の進歩で、山すそを完全に除去し平坦なので気付かないが、かつては坂道だったのだ。観音堂に上れば当時の旅人の気分が味わえるだろう。

・常夜燈、祠(岡部1140 川原町) 

○笠懸松(藤枝市岡部642⁻19 牛ケ谷) 
笠はあり その身はいかに なりならむ あわれはかなき 天の下かな 
                         西行(西行ものがたりより)
 平安時代末期~鎌倉時代にかけての歌僧として有名な西行が、愛弟子西住と東国へと
旅をしたときに起きた悲しい物語の舞台であり、謡曲「西行西住」にまつわる場所でもある。東下りの途中、川渡しの場で武士の揉め事に巻き込まれたとき、師である西行に暴力が振るわれたのに我慢できず、西住は相手の武士を杖で殴った。しかし西行は仏に仕える身として辱めに耐える大切さを説いた後、西住を破門した。西住は師を慕って後を追うが、岡部まで来て病に倒れ、最後に体を休めた松の木に、
「西へ行く 雨夜の月や あみだ笠 影を岡部の松に残して」
と、辞世を書き残した笠を懸け、そのまま帰らぬ人となった。
西行は、東国からの帰途に立ち寄った菴で一休みしていると、戸に古い檜笠が懸っていたよくよく見てみると、西行が破門した愛弟子西住に贈った笠だった。庵主に聞いてみると、西住が歌を書き記した笠を松の木に懸け、病気により最期を迎えたことを知り、悲しんで歌ったと伝えられている。
西住法師:岡部の里人伝云、西住は西行の弟子、西行に従って東遊す。遠州天竜川に於いて西行武人の船に乗合いて及危難。西住怒って武人に敵す。於之、西住師の勘気を蒙る。西行独歩東国に赴く。西住悲難愁絶して其師に追及んとす。自足栄々として独往、岡部里に至て病て不能行。終にこの里にて卒す。傍に一松樹あり。竹笠を掛一首の辞世を残す云々。 
(「駿河國新風土記」新庄道雄より)
・宝篋印塔の一部、

○三星寺(岡部650) 
・四国八十八所第三拾三番
・祠:地蔵
・新:三界萬霊菩提

・枡形跡:
 曲尺手(かねんて)とも言う。本陣めがけて敵がたやすく侵入できないように宿場の出入口に設けたもので、ここは道が直角に折れ曲がっている。またここには木戸と番小屋が設けられ、木戸番が毎日木戸を明け六つに開け、暮れ六つに閉じた。

○専称寺(岡部663) 
 ・西行座像:市指定文化財彫刻、像高50㎝、西行法師の旅姿をした座像で白木彫りの作りである。像底裏に「享保十一1726年江戸の湯島天神の西にいた柑本南浦(こうしもとなんぽ)が最林寺(川原町、文化五年焼失)に奉納」の意味の銘がある。江戸時代後期の作と思われる。岡部十石坂観音堂。
 ・不動尊立像:市指定文化財彫刻、像高:54㎝、一木彫り立像で忿怒の形相が力強く表現されている。鎌倉前期のものといわれる。岡部立光山不動院。
 2体とも当山専称寺にて保管されている。
・六地蔵+7:計13:

○立石山不動尊(岡部795⁻5)  
・馬頭:女馬 大正七年
・馬頭:大正四年
・馬頭:明治廿七年
・馬頭:女馬 大正九年
・石仏
・石祠:瓦葺

○大旅籠 柏屋(岡部817) 
 創設:天保7年1836、大旅籠柏屋は平成12年に東海道や旅、岡部宿を楽しく学べる歴史資料館として蘇えった。
 旅籠とは江戸時代の宿泊施設。柏屋はその規模から「大旅籠柏屋」といわれ、岡部宿を代表する旅籠である。柏屋を経営していた山内家は5代目良吉(天保期)以降旅籠と質屋を兼業し、田畑の集積も進め、その富を背景に代々問屋や年寄などの宿役人を勤めた。岡部宿でも屈指の名家だった。
 延べ床面積約331㎡:約100坪。柏屋は文政と天保の2回、岡部宿の大火で焼失しているが、当時の『類焼見舞覚』や『諸入用之覚』等の資料によれば、天保6年1835に「棟上げ」をしているので、江戸時代後期の建物であることが分かった。

○岡部宿内野本陣跡(岡部831)、岡部宿公園、 
 本陣とは江戸時代に大名や旗本。幕府の役人等が使用した格式の高い宿泊施設のことで、内野家は元禄年間1688~1703に本陣職を命ぜられてから明治時代に宿場の制度が廃止になるまでの約180年間、代々本陣職を継いだ。当時の建物は残っていないが、敷地はそのまま残されていて、昭和48年には市指定史跡となった。
 この内野本陣は現在、当時の建物間取りを平面表示し、歴史文化や街道のたたずまいを感じられるよう門塀をイメージ再現した「岡部宿内野本陣史跡広場」として整備されている。
・赤鳥居2
・石祠
・手洗石
・祠

・問屋場跡: 
 幕府専用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りした。しかし公用の仕事がないときは一般旅行者や荷物を有料で送った。岡部宿には岡部本町と加宿内谷の2か所にあった。

・専念寺(岡部841) 

○佐護神社:おしゃもっつぁん(内谷259⁻1):
例祭日:1月中旬日曜日、立石神社例祭:7月第3または第4土、日曜日。『岡部史談 岡部のお宮さん』より。
立石神社例祭の御神輿の御旅所(御仮屋)の守護として古来より祀られる。おしゃもっつぁんは、農耕の神、丈量(測量)の神または安産の神であったりと、様々な説がある。現社殿は昭和50年1975に神神社より拝領し、移設された。3つに仕切られた内陣の中央には、天照皇大神、向かって右が佐護神社、左が小坂で祀る秋葉さんである。
・立石神社御仮屋
・新:奉燈2
・板碑:?歌碑
・石塔:昭和六年四月竣工
・石塔:天皇在位六十周年 昭和六十一年
・25m離れた道端:石仏

・彩適空間 新緑と橘の里:田園空間整備事業 駿河岡部地区
 静岡県では、農村の持つ豊かな自然、農業伝統文化等を見直し、美しい農村景観や伝統的な農業施設などを保全、復元し、この地域をまるごと「田園空間博物館」としえt、魅力ある空間に整備している。事業区域は藤枝市岡部町地域と葉梨西北地域、静岡市の宇津ノ谷地域を対象とした2市にまたがる広域的な博物館である。
沿道のみかん園、里山の自然と調和した農村生活、志太平野に広がる駿河岡部の田園   が持つ原風景を展示することにより、訪れた人や地元住民が田園の風景を楽しみながら、農業、農村に対する理解を深めることのできる遊歩道として整備された。

○正應院(内谷264₋2) 
 宗旨:日蓮宗総本山身延山久遠寺
 名称:山号:見珠山けんじゅざん、寺号:正應院しょうおういん、
 宗祖:日蓮大聖人(朝日合掌立像)
 本尊:久遠本師釈迦牟尼佛(一塔両尊)
 題目:南無妙法蓮華経
 経典:妙法蓮華経(法華経)
 教義:釈迦の説かれた最高の教えである法華経を拠り所にする。この法華経を身をもって読まれ布教された日蓮聖人を宗祖と仰ぐ。法華経の魂を題目に込められた宗祖に導かれて私たちが信心修行に励み、この教えを広めることにより、世界の平和と人類の幸福、ひいては個人の幸せにつながる教えである。  
 開基:大正7年佐藤政十氏が曹洞宗から日蓮宗に改宗、自宅土蔵に見珠道場開設、私財を投じて現地に本堂建立を発願する。大正13年池田本覚寺第48世身延山第81世杉田日布上人に就いて出家得度、政蔭と改名、正蔭院日勇と称す。大正15年7月1日51歳をもって遷化。
 開山:大正12年佐藤敏郎氏は東京久ヶ原安詳寺第18世小島龍成上人に就いて出家得度、龍秀と改名、正應院日龍と称す。昭和14年当山住職に任命。昭和41年11月24日59歳をもって遷化。
 仮本堂:昭和6年佐藤家住宅をもって当地に仮本堂、現在の客殿を建立。宗祖650遠忌法要を威大に厳修す。
 寺号公称:昭和15年伊豆韮山本山本立寺塔頭正應院(永正三年1506 江川英成建立)を当地に移転、同時に宝暦11年1761建立、駿遠六庚申岡部堂(妙法勇進結社を合併する。)
 第三世:昭和36年 佐藤矩夫氏は正應院開山上人に就いて出家得度、龍導と改名、正應院日曠と称す。昭和42年当山住職に任命。
 本堂:昭和44年当山檀信徒の永年の願望であった本堂は開基上人発願以来50年目宮大工松浦喜和蔵、茂治氏親子により3年を費やし建立。
 多寶塔:昭和54年当山開基政蔭院日勇上人第50回忌の砌、篤信家の佐藤義人氏の発願
により宮大工松浦茂治氏によって7年間を費やし造られた。和様素木造り、後松浦氏は静岡県名工に推挙される。
 山門:昭和57年 当山開基政蔭院日勇上人の生家 佐藤家の先祖供養のため篤信家の佐藤久和子老女の発願により宮大工松浦茂治氏によって造られた総欅唐様四脚門造り、同時に二十間築地白塀も造られた。
 庫裏:平成15年 立教開宗750年慶讃記念に合わせて当山開山85周年報恩事業として建立落成する。同時に歴代廟、永代供養廟、境内整備等の事業を完了し現在に至る。
 寺宝:御曼荼羅―伝 宗祖日蓮聖人御本尊2幅、身延山歴代御本尊10余幅、
    仏像―釈迦立像、十一面観音、薬師如来、不動明王、兜仏外、
    書画―酒井包一 1幅外、文人書画等多数を護持、
 行事:毎月朔日 威運祈願祭、1月1日元朝祝祷会、3月1日御守護神祭、特別祈祷会、7月1日御開山会、8月1日御施餓鬼会、11月1日御会式、

西國三十三観音:
 多宝塔:開基、政薩院日勇の50回忌記念に篤信家の発願により作られた。和様素木造里で、建築に7年間を費やした立派なものだ。
忠霊塔:
   内谷児童遊園地:
・供養塔:ひげ題目:日曠○ 
・新:石燈籠2
・燈籠:庭:高70㎝
・丸石
・燈籠:庭:高1.5m
・祠:狛犬2
・石仏3
・石塔?
・青面金剛童子
・石塔?
・新:燈籠
・新:地蔵2
・新:観音
・新:層塔:七重塔
・五輪塔?

○山辺の道:やまのべのみち:神神社~正應院 約90分、
岡部地区三輪、本郷、山東を廻る豊かな自然と歴史資源の豊富な散歩道で、道の脇に植えられた花や手入れの行き届いた垣、お地蔵さんにかかる頭巾、現在も使用されている常夜燈など、農村の文化や住民の郷土に対するやさしさを感じることができる場所が随所にみられる。
山辺の道は神神社から高草山の麓を通り、内谷を経て正応院にまたがるコース。奈良盆地の東、三輪山の麓を廻る「山の辺の道」になぞらえて選定した。文化財として価値のある寺院、花木やみかん畑等を見ながらハイキングが楽しめる。道筋の民家、古の面影を残す常夜燈が心の中の郷愁を呼び覚ます。
・水車小屋跡
昭和20年代までは水車小屋が存在していた三輪川。その跡地には洗い場や石積み水路などが残り、伝統的な農村景観を現在に伝える。
・大滝延命地蔵
皮膚病や目の病が治るという地蔵。
・大滝おたき(王滝)
昔、修験者が修業する場所として知られていた。
・時石
正午を知らせる石。
 ・潮見平
汐見平、白帆見平、シラミ平等いろいろな呼び名がある。
・雲谷
神神社では高草山を御神体としていた頃があり、「霧が停滞すると雲谷に神がおわす」という神事の名残。
・金苞園
三輪地区の温州みかん類栽培技術の普及に努めた大塚熊太郎氏は優れたみかん産地との評価に喜び、自園の一角に石碑を建て園地を金苞園と名付けた。
・「いやんばいです」:「良いお日和でございます」という意味で、天気の良い日のあいさつ。
・ふるさとみかん山
 傾斜地のみかん畑を使い、伝統的なみかんの栽培技術などを展示保存し、楽しむことができる憩いの空間である。
・池の平
万葉集:えごの木、大杉、湧水池:標高350m、富士見峠、振り返り坂、戦没者慰霊碑、高草山大権現、高草山:標高501m、

○雨宮大神宮、岡部西宮神社(内谷172)おいべっさん 
 祭神:西宮大神(事代主命)、大国主大神、
 創建:江戸時代、明和年間1764~1771と伝わる。本社は兵庫県西宮市の西宮大神社。明治12年1879には本社より祭礼、神事の覚書が出され、今でも保存、伝承されている。宮仕え、宮守は、代々榊原家で継承されている。先祖の長次郎、長太夫、亀太郎、金作の各故人が神社を支えてきた。現在は榊原福一氏である。神社と共においべっさんと呼ばれ親しまれている。商売繁盛、家内安全にとても御利益がある。例祭日:11月19日宵祭、11月20日本祭、『岡部史談 岡部のお宮さん』より

○柳沢稲荷神社: 
 祭神:うかのみたまのみこと宇迦之御魂命、
 寛政八1796年、凶作による生活苦に喘ぐ地元民を救う思いで祀られた。最初は字小柳にあったが、明治15年1882に村社になった。大正15年1926杉山氏から土地の奉納を受け現在地に移転遷座した。杉山氏から奉納された伊豆の長八のこて絵は、町民センターおかべに保管されている。
 お稲荷さんの孕石(ハラミイシ) 
 昔、内谷村上之町に久七、はるという仲睦まじい農民夫婦が住んでいた。子供ができないのを悲しみ、神仏に日夜祈ったが、願いは叶えられなかった。途方に暮れていたある夜、久七の夢枕にお稲荷さんが立った。本堂の傍らにある石を抱いて拝めば、願望成就するというお告げに喜んだ久七は早速にお稲荷さんへ出かけた。やがて夫婦に玉のような男の赤ちゃんが授かった。お稲荷さんはその後も近隣の悩める夫婦の願いを叶え続けたと云う。
「境内の由緒書」より。例祭日:3月第2日曜日、

○小野小町の姿見の橋(内谷160)、旧岡部宿の東海道 
 小野小町は絶世の美人で歌人としても有名だった。晩年に東国へ下る途中、この岡部宿に泊まったという。小町はこの橋の上に立ち止まり、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして過ぎし昔の面影をうしなってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。宿場の人はこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名付けたという。

・20m東:石祠

○光泰寺(内谷424)   
・木喰仏 准胝観音じゅんていかんのん菩薩立像:
像高214.5㎝、完成:寛政12年7月
准胝観音は無数の諸菩薩の母であり、延命の利益がある。2mを越す大きな身体一面に虫食い跡があり、かなり傷んでいるが堂々とした姿をしており、ぼってりした肉体をくねくねした曲線で表現された衣が包んでいる。木喰上人は寛政12年1800の6月13日より8月13にちまでまるまる2か月岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には光泰寺2体、桂島梅林院2体、三輪十輪寺2体の計6体がある。市指定文化財。
*胝:チ、タコ、
・木喰仏 聖徳太子立像
像高111.0㎝、完成:寛政12年7月5日、この像は木喰仏の発見者民芸運動の故柳宗悦が「中期の作として蓋し最も傑出せるものの一体であろう。そうして日本に数ある太子像の中で、忘れがたいもののひとつである。」と絶賛した。静かに合掌し、瞑想するその顔は私たちに安らぎと親しみを感じさせてくれる。製作者である木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足をとめたほとんどの土地に仏像を残した。市指定文化財。
・○庚申 寛政□年
・馬頭:明治廿六年
・馬頭:安政五年
・祠:地蔵1、観音1、石塔1:寺門前
・献燈2:昭和三十二年
・忠魂碑
・狛犬2:昭和三十年
・奉献燈2:昭和三十年
・新:観音
・西國三十三観世音菩薩:大きい、立派、見事
・石燈籠:奉納薬師如来 享和三
・鐘楼
・石室:石仏3:地蔵1、他2
・善光寺供養塔
・薬師堂
・西國供養塔2
・石燈:寛政十一
・奉献西國三十三所
・墓石
・庚申供養(羊良)塔
・庚申供養塔
・奉納大乗~~
・三界萬霊供養(羊良) 寛政十一
・三界萬霊塔
・新:石燈籠2
・六地蔵
・不許葷酒入山門
・角柱2:高70㎝
・板碑:岡部町町会議員~~
・新:手洗石

・七面堂(内谷650)、五智如来、公園 

・丸山神社(内谷山東1890⁻1) 

○常昌院(内谷山東1967) 
 ・兵隊人形:本堂内: 兵隊寺とも呼ばれ、旧志太郡下から日露戦争に出征して戦死された勇士英霊223体が当時の軍服姿で、生前在りし日そのままの姿の木像として祀られる。
・石塔:□□□十五番□□□
・石塔:□之(?塩堰)建立□□凡申憂
・供養塔:□□一国三十三所 嘉永五
・地蔵?
・供養塔:南無阿弥陀佛

○南陽寺(内谷本郷2170) 
・説明版:宗派:曹洞宗、岡部町光泰寺末寺、本尊:延命地蔵菩薩、脇仏:如意輪観世音菩薩、開創:天正十七、八年1589~90頃、草創開山:茂山谷栄和尚もさんこくえい、改宗開山:大翁恵最和尚だいおうえさい、 開基:不詳、 由緒:戦国時代末、天正17年1589頃茂山谷栄によって真言宗寺院として開創された。茂山は南陽寺を建立し間もなく文禄3年1594に亡くなった。その後、寺は無住状態が続き廃寺同然となった。光泰寺2世の大翁恵最が、この寺に隠居して堂を再建し、曹洞宗の寺に改め光泰寺末寺とした。大翁は地蔵菩薩を厚く信仰していたので、延命地蔵菩薩本尊とし、諏訪明神を寺の守護神として祀り南陽寺の最高に努めた。大翁は寛永11年1635に亡くなった。嘉永6年1850には冨山和尚が雨乞いの御面を諏訪神社に奉納した。また線刻不動明王を山上に祀り村人の信仰を集めた。明治維新後、平野佐助等は20数名だった檀信徒を増やし、寺の経済的基盤を確かなものにし、明治34年1901老朽化した本堂を新築(現在)した。南陽寺は開祖がなくなった後、長い間本寺光泰寺住職による兼務が続いた。そして明治41年1908三輪十輪寺柴田実雄の弟子水谷貫禅を迎え法地寺院となった。
 *諏訪神社は、大正7年に立石神社内に合祀された。
  線刻不動明王は、大正末頃境内の現在地に移された、
  雨乞いの御面(雨龍さん)は、今も雨乞いのときに梅花流御詠歌により祈願されている。
・新:六地蔵
・水子地蔵:
・堂:線刻不動明王、
・(梵字)庚申 昭和五十五年二月吉日建 講中
・供養塔2、
・地蔵

・立石神社(内谷本郷2248) 

○多福寺(内谷本郷2360) 
・寺名碑:明照山多福寺 昭和四十七年
・三界萬霊塔
・供養塔か観音?
・六地蔵
・一國順礼供養塔
・地蔵
・石塔
・南無阿弥陀佛

○ふるさとみかん山(内谷本郷) 
・「家康手植の蜜柑」(静岡県指定天然記念物)の穂木を接木した小みかんの木
 徳川家康が大御所として駿府城に住んでいた頃、紀州藩(和歌山県)から鉢植えみかんが献上された。家康は、このみかんを自ら、駿府城本丸に移植したと伝わる。静岡県指定天然記念物「家康手植の蜜柑」は今も駿府城公園内にあるが、このたびその穂木を接木したものを園内に移植した。このみかんは現在皆が食べている温州みかんとは違う「小みかん」という種類で、香りと酸味が強く、種が多いという特徴がある。
・静岡県産温州みかん発祥の地:岡部
 古くから武家等の上流階級に珍重されたみかんだが、静岡県で栽培が本格化したのは、温州みかんの栽培が始まった江戸末期以降のことである。温州みかんは現在日本で最も普及している甘くて食べやすい種類で、県内では文化年間1804~1817に現在の藤枝市岡部地区三輪に植えられたのがはじめと伝わる。明治19年当時の志太郡長:松田寅卯氏の尽力により、みかんの栽培は広まっていき藤枝、岡部は県下でも有数のみかん産地となった。
(出展:志太郡誌、静岡県蜜柑小史)

○和田の地蔵さん(内谷本郷) 
  ふるさとみかん山の北隣にある
昔この場所は寺に通じる参道ではないかと云われる。馬頭観世音:天正六1578年、無縁法要塔:元禄四1691年、六地蔵菩薩等が立ち並び、地域の人々は地名から「和田の地蔵さん」と呼ぶ。馬頭観音が祀られていることから、農耕や荷物の運搬に使われた馬や牛等が、葬られ供養された場所であったと云われる。毎年8月23日に地域内の地蔵菩薩と一緒に供養されている。
・石塔:数基
・地蔵:数基
・馬頭観音:数基
・供養塔:「無縁法界  」数基
・石塔:破片いくつか

○興福寺、薬師如来(三輪471) 
・薬師如来立像:市指定有形文化財、像高:83㎝、檜の一木造り
像高83.0㎝、製作者は聖徳太子と伝えられる。秘仏とされている。33年毎開帳時しか拝めない。容姿は○○円満で優美な○原仏(平安時代)の特徴を備えている。
  皇極天皇三645年、東国に流行した疫病を平癒させるために、この地に大和の國の大神(おおみわ)神社の分霊が祀られたおり、奈良の興福寺の許可を得て祀ったと伝わる。またこの仏像は聖徳太子作と言い伝えられるが、円満で優美な容姿や作風は飛鳥仏よりも藤原仏(平安期代中、後期)の特徴をより多く供えている。尚この仏像は興福寺の秘仏として大切に伝えられ、33年毎開帳。次回は2018年予定。
・古い墓石7
・祠;観音:第廿六番、観音
・石祠
・地蔵:座
・廻國供養塔
・石塔:?庚申供養塔らしき見言聞ザルレリーフあり、
・馬頭観音 

・水車小屋跡(三輪)

・子安観音:三輪
子安観音:建立:寛永7年7月17日庚午かのえうま1630、徳川三代将軍家光の時代で、当時この三輪の里に子供たちの疫病が大流行し難儀の挙句、子供を疫病から救うため、里の人々が講を作って、この観音を建立したと思われる。その後は疫病はもとより一切の難を逃れ子供も健やかに育つようになったと云われる。講中は15軒ある。例祭日:8月17日、子安観音は子宝、安産、子育てに御利益があると云われ、今でも御利益があったということでお菓子等を供えていく人がある。 

・馬頭観音:三輪字後呂
 一面二臂(顔が一つと腕が二本)で頭上に馬の頭をいただいた姿だ。馬は昔から農耕や運搬の手段として大切にされてきた。また馬は牧草を食べるように人の煩悩や厄災を食べつくし救済すると云われる。不幸にして道半ばで力尽きた馬の冥福を祈りねんごろに葬った。その供養碑が馬の安全息災と旅人の道中無事を念じ、馬頭観音として路べに立てられた。

○十輪寺(三輪925)宝珠山  
・宗派:曹洞宗(禅宗)、道元禅師1200~1253、□山禅師1268~1323
・本山:永平寺(福井県)、総持寺(横浜市)
・本尊:延命地蔵菩薩
・開創:寛永元年1624
・開山:照山元春大和尚(林叟院9世)しょうざんげんしゅんだいおしょう
・開基:嘯山虎公和尚しょうざんここうおしょう
・由緒:当山はその昔小寺であったが、寛永元年1624嘯山虎公和尚が三輪村の人々の協力を得て伽藍を再建し、照山元春大和尚を拝請して結制安居ができる修行道場として格をあげ曹洞宗寺院として再興開創された。現在の諸伽藍は本堂:享和3年1803、書院:明治18年1885、山門:昭和24年1949、位牌堂:昭和55年、庫裏:平成14年、にそれぞれ築かれた。
・見どころ:木喰仏2体文化財、もくれん約350本、伝説:水石火石と山号、宝珠山のいわれ、
・年間行事:1月1日10時:新年祈祷会、2月3日節分豆まき、3月中旬頃木蓮祭り、8月4日10時半:施餓鬼、8月24日夜地蔵尊縁日、10月第4日曜日開山忌、
・月例行事:地蔵講毎月24日午後1時、座禅の会第2日曜朝8時、写経の会第4日曜午後3時、
・子安地蔵菩薩立像:像高138.0㎝、寛政12年7月12日完成、市指定彫刻。
この像は比較的大きく堂々としており、微笑した顔は心休まるもので静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに数えられる。
比較的大きく堂々としたものである。顔の微笑も心休まる表情をしており、静岡県下の木喰仏の中で傑作のひとつに数えられるものである。製作者の木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足をとめたほとんどの土地に仏像を残している。
・虚空蔵菩薩立像:像高113.0㎝、寛政12年7月11日完成、市指定彫刻。
どこかしら遠くを見る目、笑みを浮かべた顔には底知れない知恵が秘められる。
 木喰仏の晩年のものはいずれも微笑しており、どれも似ているがよく見るとみな違う。この虚空蔵菩薩は若い女性の表情をしている。どこかしら遠くを見る目、微笑みを浮かべた顔には底知れない知恵が秘められている。木喰上人は寛政12年1800の6月13日までまる2か月間岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には十輪寺2体、内谷光泰寺2体、桂島梅林院2体の6体がある。
・沙羅樹:ナツツバキ:釈迦が涅槃に入るとき(逝去)四方の8本の内4本が悲しみで枯れたという聖樹。日本ではナツツバキを沙羅と呼ぶ。この木は伊豆修善寺の実から育てたものである。
・水琴窟:少しずつ水を流すと妙音が地中より響く。
・仏足石:釈迦の足跡を石に刻んだもの。古代インドでは仏像が作られる前の古い時代から仏足石を敬い礼拝する風習があった。日本では天平勝宝五年753に奈良の薬師寺に安置されているものが最初のものである。
・石塔
・石燈籠2
・石段
・古:墓石多数
・観音
・六地蔵
・古:墓石:宝篋印塔、五輪塔:多数
・地蔵
・観音3
・山門:周辺は前庭で自然石多数配置

○金毘羅神社(三輪925) 
 藤枝市岡部町三輪字佐護神ヶ谷(さごじがや)879番地 、祭神:おおものぬしのみこと大物主命、例祭日:10月10日近辺の日祭日、
 創祀:文化七1810年、祭神が安置され文政九1826年に大畑仁氏の先祖により、大祭が催されたと記録にある。明治35年1902に大畑博俊氏の先祖から土地の譲渡を受け現在地に鎮座した。ここは三輪の集落のほぼ真ん中の高台(標高56.5m)にあり、駿河湾、志太平野、南アルプスが望める。地元では「こんぴらさん」と呼ばれ親しまれてきた。毎年行事は講中の上組、中組、五軒屋組、桐川組が交代で執り行い、10月には例祭を行う。前夜祭には太鼓を打ち鳴らし、翌日の例祭を集落全体に知らせたと云う。当日は赤飯(しょうゆ飯)の三角むすびが献じられ、講中の参列者や子供たちがこれをいただいたという素朴な祭りだった。岡部史談第2集「岡部のお宮さん」より

・常夜燈 

○神神社みわじんじゃ(三輪1288) 
 祭神:おおもののぬしのおおかみ大物主大神(大国主神の和魂ニギタマ)、相殿  天照皇大神・葛城一言主神、 例祭:10月19日、 創祀:皇極天皇3年644,4月中も卯の日、
 由緒:皇極天皇の御代東国に疫病が蔓延して人民が苦しみあえいだとき、先の崇神天皇の御代の吉例に倣って大和國三輪山大物主神を意富多多根古命おおたたねこのみこと26代の子孫三輪四位を神主としてこの地に祀り、大難を救ったのがこの神社創祀の由来である。
 文徳天皇仁寿元年851正六位上の位を賜ってより順次叙位を重ねて、伏見天皇正応六年1293正一位を賜る。明治6年3月22日郷社に列せられた。当神社は古来本殿がなく、三ツ鳥居の奥が古代の斎庭(まつりのにわ)であった。今でも例祭等主な祭りには、お山に五対の御幣を立て、本殿と同じ神饌を上げて祀る古代祭祀の姿を残している。(藤枝市岡部町民俗無形文化財)、
 特殊神饌:例祭:白おこわを献ずる、端午の節句:6月5日、茅巻(ちまき)を献ずる、
 特殊建造物:三ツ鳥居(三輪鳥居)
 本殿:文化八年十月、拝殿:昭和6年10月、明神鳥居:文政九年十月奉建、
山宮祭
本殿三輪鳥居奥の岩頂は、本殿ができる前、古来の○庭だ。今でも例祭など主な祭りには、お山に五対の御弊を立て、本殿と同じ神幟を揚げて祀る古代祭祀の姿を残す。

・山の神祭り
 神神社飛び地境内地
 2月8日、飛び地境内である高草山の中腹にある、古代そのままの「山の神の磐座」で行われる。
・三ツ鳥居
 現在では大神(おおみわ)神社とここ神神社にしかない、珍しい形の鳥居。神と人の世界を区切る鳥居で、くぐって入ってはいけない、とされている。

 ・神神社の森:緑の森は神々の衣、静岡県ふるさとの森百選、御遷座皇極天皇三年644、
延喜式内神神社、
 ・笹百合:科属:ユリ科ユリ属の多年草、分布:日本にだけ自生し、本州中部地方以西から四国、九州地方に分布する。
 大三輪の神様と笹百合 ~古事記「左韋と云ひき」さい~
 古事記によると、三輪山から流れている狭井川のほとりに笹百合がたくさん咲いており、大三輪の神様にお仕えしていたイスケヨリ姫は、6人の御供たちを連れて笹百合をつんでいた。そこへおいでになった神武天皇は、その清楚な美しい姿の姫に一目で見初められて皇后になった。日本国第一代の皇后は笹百合が御縁で誕生した。そのため大神神社では笹百合を御神花として守り育てている。神神社でもこの吉事にならって笹百合の栽培を行っている、5月下旬から6月にかけて清楚な花を開く。
・杉之坊社:参拝所:
 祭神:ひぎたかひこのかみ霊木高比古神、ひぎたかひめのかみ霊木高比賣神、
 例祭:1月7日
 特殊神饌:三角のおこわのおむすびを「かくれみの」の葉にくるんでお供えする。
 由緒:森の鎮めの神として社殿はもたず、御神木を中心に祀られてきたが、明治34年長い間難病に苦しんできた伊久美村(現:島田市伊久美)の福井伊太郎氏が快気の御礼に小型の社殿を奉建した。現在の社殿はその曽孫にあたる高橋金子氏が平成改元を記念して奉建した。神神社の荒魂の神として、霊験あらたかな御神徳は病気、怪我、災難除けの神様として古来より厚く信仰されている。 
・石鳥居・昭和五十四年
・新:石燈籠2
・忠魂碑
・石うさぎ2
・石御神燈1:天明九
・石橋
・石神燈:~~陸軍歩兵~~

・かみなり井戸(三輪1288) 
 昔この神神社の森にかみなりが落ちたことがあった。神はたいへん怒って、そのかみなりを捕まえて、井戸に閉じ込めて蓋をした。かみなりは「もう二度とここには堕ちませんから、どうk許してください。」といって泣いて誤った。神もさすがに可哀想になって助けてやった。雷はたいそう喜んで天に上っていった。それからはこの森は一度も雷が落ちたことがないと伝わる。宮司。

・田明神(三輪1288)  
 田明神は元は神ミワ神社の南方約100mの田の中の小さな祠に祀ってあったが、昭和60年1985に境内の神域に遷座した。しかし例祭は元の小さな祠跡に降神して行う。例祭は1月11日朝、日の出前に東に向けて設けられた祭壇に焼餅、干し柿を献じる。祭を終えて参列者はこれをいただいてたき火に当りながら食べる。農家ではやはり1月11日に「春田打ち」と称して一鍬起こして立てた萱の穂の根元に小さなお供え餅などを上げて祀る。農作業の行為を模倣的に演じ、実際の農耕の成就を祈念する。この地域では古くから男子の行事とされている。岡部史談第2集「岡部のお宮さん」より


~藤枝市横内~
・慈眼寺(藤枝市横内179) 

・白髭神社(横内208⁻8) 

・貴船神社(藤枝市旧岡部町内谷783⁻1) 

・鳥居(横内51⁻1) 

・石仏(横内51⁻1) 

・看板、石仏(横内1-4) 

・横内橋(横内1-4) 

・石仏(仮宿1012) 
 横内橋袂。
~~~~~~


~焼津市~
○智勝神社(焼津市策牛398) 
・石鳥居
・手洗石
・献燈2
・石段
・板碑

○薬師堂(焼津市策牛436)策牛集会所 
・説明版:現在の建物は昭和2年村人によって建てられたもので、近年改修された。この地より西方1㎞の原の山(犬頭塚)に満願寺という寺があり、戦国中期に戦火により焼失したおり、寺の一部を移築したお堂の後に建てられたものと伝わる。本尊は薬師如来で左手に薬壺宝珠を持つ姿をしている。また十二神将を従えているが、顔面を削り取られており、時代的な謎とされる。地元の人には耳薬師として信仰され耳の不自由になった人が願をかけ、治癒したときに穴の開いた石をお果たし(御礼)に供え、今でもその石が多く残っている。このお堂の裏手には明治の始めに廃寺になった寶善寺があり、尼僧が住持していた。地元ではこの辺りを寺屋敷という。
*私見:耳の病気を治すという薬師如来の顔面が削られているのは、昔は病気を治す際、仏像の一部を削って服用すると効果があると云われたためかもしれない。耳の病気なので耳附近の顔面が削られたのかもしれない。

・おくまの石(策牛) 
 石には霊力が潜むと信じられ、巨石は信仰の対象とされ、当地区には「ぼたもち石」「むじな石」等があり、この「おくまの石」もそのひとつである。女性の裁縫の御守りとして、カナ糸等を奉納した。

○神龍山 長福寺(関方412)曹洞宗 
・地蔵:祠、地蔵、第丗ニ番 
 この地蔵は元は裏の寺山山頂:104mに安置されていた。田中城の殿が検地で岡部方面より見回りに来て関方に差し掛かると急に馬が棹立ちになって暴れ、殿はスッテンコロリと落馬するという事故があった。易者に伺ったところ地蔵を山頂から降ろして読経の聞こえる所に安置するよう告げられ、現在地に祀った。地蔵の顔にイボが治った跡があると云われ、台座周りの丸石(経文石)を早朝に借りてイボをそっとなでると治ると参詣人に云われていた。縁日は8月18日で戦前は夜店が数店出てにぎわった。現在も祭りは続いている。
・経塚石
 碑文:圓通懺摩法一座  奉書寫一字一禮  寶筐印陀羅尼三辺  
    大般若経一巻大悲神梵消神梵   大乗妙典経一般若心経佛陀  
       百楞厳神梵一巻大施餓鬼光明無
    明和ニ乙西歳1765八月晦日回向供養  願主 義目 謹書
    石数八万七千施主男女等

・供養塔
・六地蔵+1、地蔵
・地蔵、・石塔、・観音3、
・石燈籠、・手洗石
・石祠
・葷酒不入山門
・石塔

○猪之谷大明神(関方15) 
 ・六鈴鐘出土古墳:市指定有形文化財、直径13.8㎝、厚さ0.55㎝、古墳時代後期のものと推定される。日本の古代社会においては、鏡は姿見としてではなく、呪術的な道具として考えられている。鈴についても呪術的な道具として考えられている。鈴についても呪術具祭器として使用されている。こうした祭儀用の鏡と鈴を一緒にしたのが鈴鏡で、日本特有の鏡である。この鏡はほとんど完全品で、形式のみごとなものである。内区は内行五花文を中心とし、重圏文と櫛歯文を交互に二重にまわらせている。6個の鈴が付き内2個が半面欠損しているのみで、まことに貴重な珍品である。
  ・ナギ:市指定天然記念物、目通り2.25m、根回り2.6m、樹高16m、枝張り5m、神社拝殿前にある雅樹で樹勢は旺盛である。ナギはマキ科の常緑高木で元来亜熱帯性植物であり、わが国では、暖地に自生する。葉脈が平行であるため、せんまいさばきともいう。
・石鳥居
・新:狛犬2
・新:手洗石
・手洗石
・石燈籠
・石室:祠:古墳前
・石段

・山の神祭り(関方) 
 焼津市関方地区で毎年2月8日に行われる祭り。山の神を田に迎えて、その年の豊年万作を祈る神事で、祭りのもっとも原始的な形を残している。以前は前日7日に年行事当番の青年たちが「山の神の勧進(かんじ)、何でも一升十六文」と言って集落中から米や豆等を集めて回ったが、今では行っていない。しかし年行事当番は、1,2週間も前から山道普請、祭具、お供え物の調達等、ほぼ昔からのしきたりにそって準備している。前日7日には、お供え餅(古くはしとぎ)、直会(なおらい)のごちそう(赤飯、煮豆、おから等)が作られる。
 8日は早朝から龍神、幟、しめ縄、御幣(4本)、御弓(2張)、御矢(6本)等が調整される。そして午前9時ころの1番鉦で村中に祭りのふれが合図され、午前10時半頃の2番鉦で祭り行列は出発する。途中「参ろう参ろう御幣(おんべ)持って参ろう。」と、大声で唱えながら山道を上っていく。
 山の神の磐座(いわくら)は、高草山の標高200mばかりの所、沢の源流部にある。神前に龍神を飾り、お神酒、餅、赤飯等を供えて参拝する。参拝が済むと2張の御弓から計6本の御矢が下に向かって放たれる。山の神はこの矢に乗って里に降り田の神となる。
 この行事が済むと50mほど下の拝所で直会が行われる。この直会は神と共に食事を楽しむという意味がある。

○やいづ山の手今昔案内解説 
1、 高草山山頂、標高501.4m、測量三角点設置通信各社中継アンテナ設置地点。
2、 無名戦士の碑:ソロモンの碑
3、 古木一本杉、樹齢推定300年、一本杉茶園、やまざくら群生地、大島ざくら群生地、複線索道、単線テッセン発着跡地
4、 池の平(三輪地内)湧水池、貴重な飲料水、湧水井、えごの巨木あり、
5、 しらみ平(白帆見平)岡部町との尾根境行政界、
6、 策牛山の神鎮座地(五反明)、
7、 方ノ上城址 石合山(いしゃばい山)標高230m、伝承狼煙台、天文5年1535今川義元判物写、花倉の乱、
8、 幻の池出現地(池ノ窪、池ノ段)
9、 方ノ上古墳群、経塚(問)発見地石合山山頂) 古代平安朝
10、 関方山の神奥の院 例祭2月8日、(焼津市無形文化財指定)
11、 関方山の神拝所 直会場 石切場
12、 炭焼き窯跡地(小深谷)
13、 水車(米搗き場)跡地
14、 索道荷受場跡地 茶、みかん、農産物、材木
15、 おくまの石 安産、機織り信仰の拝み石
16、 高草山登山道入口石碑 きじ屋 かやのき
17、 薬師堂 耳薬師、穴明き石、庚申塚、十二神将、百万遍数珠
18、 マンボ(県道焼津岡部線に架かる道路兼水路橋)大正9~10年工事、方の上に畑生まれる
19、 智勝神社、天正12年4月創立1588郷倉跡、共同作業所跡
20、 焼津病院、犬頭塚、策牛関方用水水門
21、 水田みかん転作地跡(昭和44年完工)
22、 清水遺跡(弥生時代)
23、 青雲寺跡
24、 奥屋敷古墳群
25、 長福寺 1660年 林叟院13世創建、本堂建立 安政7年1861 いぼ地蔵 経塚石 坂本 松雲寺より長福寺学校日新舎(明治8年~13年生徒50名)
26、 猪の谷神社、興国5年1334,4月建立、古墳時代後期人穴さん、市天然記念物、ナギの木、市文化財、六鈴鏡、
27、 高草山登山道入口石碑、山の手口2000年記念建立、関方茶工場跡(共同作業所跡)昭和20年~平成2年解散
28、 山の手会館 昭和48年新築
29、 河心改修の碑、朝比奈川改修、昭和3年建立、
30、 蝋梅の里、梅の木街道、老人クラブ管理、山の手クリニック、永田デイサービスセンター、
31、 バクダン淵伝承版:昭和20年5月19日投下、朝比奈川堤中里用水堰管理棟太平洋バクダン淵跡、
32、 ハチガシリ流水橋跡
33、 山の手桜堤、さくらまつり、2月第3または第4日曜日、東海道自転車道、
34、 朝比奈川、葉梨川、吐呂川合流点、
35、 秀水苑(老人ケアセンター)
36、 六字堤防跡、尺土管跡、策牛、関方の田園、35ha に1か所直径1尺の排水口、天保6年1835~昭和44年1969まで
37、 方の上学校日新舎:長福寺より新築に依り明治13年~19年、以後越後島尋常小学校分教室となる
38、 八王子神社:天文7年1538,9月創立、天正5年1577、
39、 方の上茶工場跡(共同作業所)
40、 法号庵、閻魔さん、侍者仏
41、 梅の木街道
42、 石切り場
43、 コミュニティーケア高草、老人福祉施設
44、 方ノ上遺跡、中世奈良時代
45、 二重堤防跡
46、 雲龍、雲渓、雨後谷間より湧き昇る雲の様子、
47、 関方、三輪埋樋切崩事件、延享3年1746、
48、 谷川(高天井川)堤跡:昭和44年土地改良により改修、
49、 太田川(新川)跡:昭和44年土地改良により改修され高草川生まれる:昭和18年学徒動員東大生により暗渠排水工事、
50、 防火用水槽:消火栓設置以前地区自衛の為設置、
隣接地:
焼津市坂本、坂本神社、林叟院、高麗福祉センター、坂本団地、藤枝市岡部町三輪、神(みわ)神社、三輪団地、
山の手地区の概況:
 焼津市の西北部、藤枝市岡部町との隣接地域にあり、高草山尾根を境とし、吐呂川、朝比奈川合流点より東、朝比奈川本流の北側の地域で、東名高速焼津インターチェンジより約1㎞の所にあり、山、畑、田と自然に恵まれた地区で、現在三字合計戸数346戸人口1036人(明治24年の戸数、 方の上37戸、194人、 関方46戸、264人、 策牛34戸、227人)の昔から長い歴史と文化をもつ平和な郷である。2006年焼津市山の手未来の会創立10周年。

○方ノ上城跡(かたのかみじょう)入口 
方ノ上城址 石合山(いしゃばい山)標高230m、伝承狼煙台、天文5年1535今川義元判物写、花倉の乱、
 天文五1536年以前の築城で、今川氏の家督争いである花倉の乱において玄広恵□(ゲンコウエタン)方の拠点の一つであった可能性がある。

○八王子神社(方ノ上154) 

○祠:地蔵、馬頭観世音(方ノ上400⁻1)、水準点 
 馬頭は昭和13年12月大石建立。

○法号庵(方ノ上343⁻1) 
・方ノ上閻魔堂:安置:享保四1720年、当時の安置場所は現在地より北側の県道近辺の方ノ上地蔵堂に安置されていたが、県道の拡幅工事に依り現在地に移転された。
由来:赤穂浪士の敵討ちのあった元禄の世も、宝永、正徳と移り変わったある日、元吉良家のある家来が、各地流浪の末、方ノ上村の地蔵堂に堂守として住み着いたが、今まで過ごしてきた土地でも、またこの土地でも吉良家の評判が悪かった。吉良の殿様は悪くなく、自慢の殿様だと思い何とかしたいと悩んでいた。これでは吉良の殿様をはじめ、大勢の犠牲者の霊は浮かばれない、成仏できないと思い、堂守はあの世で人の生前の裁きを閻魔様にしてもらおうと考えたのが、閻魔様を作ることだった。まずはこの土地の法号庵の住職、更に地元名主へまた本寺林叟院方丈へと相談の上、江戸に上り寄附を募り立派な閻魔様を享保三年の暮れに完成させた。翌年の春、焼津湊の積問屋巻田久左衛門の船で順風に乗って運ばれ、善男善女に出迎えられて、方ノ上地蔵堂に安置された。堂守が一念発起してより5年目だった。船主巻田久左衛門は閻魔様を運んだのを慶びとして、脇立2体と鉦を寄進した。
・六地蔵
・窪なし地蔵:3
・地蔵:3
・石仏:4
・石塔:3
・五輪塔破片
・石塔
・結界石2

・祠:石塔:寺前辻にあり

○坂本神社(坂本1045⁻1) 
・保存樹木:ほるとの木
・石段
・献燈2
・献燈2
・石祠:19以上多数
・手洗石
・祠
・本殿、拝殿

○林叟院(坂本1400) 
 市指定文化財
 ・経蔵:木造一重桟瓦葺、方形造り。内部は正面奥に仏壇、中央に輪蔵、格天井で4.84m
(16尺)4面である。経蔵とは一切経等の経典を納めておく蔵で20世心牛租印師が明和五1768年建造を発願し、明和八1771年に工匠石川市之丞及びその子権右衛門により上棟された。師は中央の輪蔵に一切経全6930巻を納めることを目標としたが、その一部950巻を収納できたのみと伝わる。
 ・鐘楼:木造入母屋造り桟瓦葺、袴腰付、二軒繁垂木ふたのきしげたるき、勾欄付こうらんつき。間口奥行共に2.83m(9.34尺)下層地貫上端かそうじぬきうわば、高さは礎石上端より丸桁がぎょう上端まで4.84mである。鐘楼は別名鐘撞堂かねつきどうとも言い、寺院の境内等で釣鐘のある堂のことを言う。この鐘楼は宝永三年1706の創建と云われてきたが、平成14年度修理の際、天保十五年1844の棟札と棟束むねづかに墨書が確認された。梵鐘を吊るすのに袴腰付形式のものはなく焼津市内では唯一つである。
 ・宝篋印塔:高さ約2.6m、宝篋印塔の名は「宝筐院陀羅尼」という経典を納めたことに由来する。石造塔では墓塔または供養塔として造立されたものが多い。下に基壇を置き、その上に反花座、基礎、塔身、笠の順に積み、最上部に相輪を立てている。寛政三1791年の古図に移設前の姿がえがかれているので、それ以前の建立と考えられる。
 ・ホルトの木:目通り3.1m、根回り4m、樹高20m、枝張り24m、で、林叟院の墓地裏にあり、樹勢は旺盛である。ホルトノキ科に属し亜熱帯原産のもので、房総半島以西の太平洋岸の暖地、特に四国、九州地方に生育するが、本県には数が少なく大木であるのは珍しい。焼津市歴史民俗資料館。
・自然石2
・角柱2
・如来
・馬頭観音2
・六地蔵+1
・祠:地蔵4
・石仏:多:地蔵、観音、墓石?
・不許葷酒入山門
・石塔2
・新:六地蔵
・歌碑&説明版石
・新:地蔵
・すぎ保存祷:大木
・山神血脈石
・石燈籠1:、2:
・石仏&石塔21:
・忠魂碑

・笛吹段古墳群(坂本)笛吹段公園 
 高草山中腹標高約260mに位置する。古墳時代後期の古墳で10基の横穴式石室が見つかっている。昭和58年農道の整備に伴い調査が行われ調査後はほとんど埋め戻されたが、現在2基の石室を見学できる。

・東海道標識(坂本521⁻3) 
 東海道とはいっても有名な東海道ではなく、東の街道を意味したと思われるが、または古代東海道の名残か? ただ焼き津辺から花沢へ行くには西に遠回りではある。
 ・説明版:海道には街道と垣内の2つの意味がある。やきつべのみちの海道と、東の屋敷の集落の2説がある。いづれか。

○筧沢寺(石脇上423) 
・庚申供養塔
・石塔
・六地蔵
・地蔵2:立、座、
・石塔:納経寶塔
・石塔:金毘羅宮
・本堂裏に古い墓地、墓石
・新:寺名碑:曹洞宗風尾山筧澤寺入口 

○高草山ハイキングコース標識説明版(石脇上528⁻1) 
高草山ハイキングコース:大滝延命地蔵、正午を知らせる石「時石」、潮見平を経て高草山頂上へ、池の平遊水地、金苞園を経て戻る。駿河湾、富士山、伊豆連山、志太平野を一望する健脚向きのコース。三輪公民館~高草山山頂(潮見平コースで100分)、高草山山頂~三輪公民館(池の平コースで45分)、
・富士見峠
・鞍掛峠

○高草山 
 標高501.4m、農作物の宝庫であり野鳥の森としても知られる。高草山はアルカリ玄武岩から成る山で、枕状溶岩や珍しいタカラン石が見られる等地学上でも有名。大井川平野や遠くは御前崎まで眺めることができる。
・山頂:電波塔、
・祠:高草山上大神(高草権現)

○勢岩寺(石脇上600)曹洞宗 谷汲山 
・弘法大師像:焼津市指定有形文化財、像高17㎝:5寸6分、内台座4㎝:1寸3分、袖張り7.5㎝:2寸5分、木喰五行上人作、小さいながらもまことに丁重に彫刻された美しい座像であり、いかにも幸福をもたらしてくれそうな微笑ましい木喰仏である。光背が常楽寺、宝積寺の物と同形式であり、台座は大日菩薩のものと同じである。製作は寛政12年1800の7月と推定される。
(背面の墨書)日本国中 木喰五行(種子)大師遍照金剛 父母安楽菩薩(花押)正作自在法門 
(背面の墨書)(光明真言)(梵字)寿命日本千体(身体)ノ内 国王国中 大師遍照金剛 父母安楽 百万歳 正作 天下一自在法門 八十三才 木喰五行菩薩 (花押) 
・機織り地蔵尊の由来:弘法大師の甥で、後に近江國三井寺開山になった智証大師が、円珍と呼ばれていた頃、大和國長谷寺に参詣し、一心に拝んでいると、長谷寺鎮護の神の手力雄尊が霊夢に立った。この寺の開山徳道上人が本尊を造刻したときの霊木が残っているから、この霊木で不動明王を造刻して、駿州花沢の法華寺の十二坊の一坊に納め、永く衆生を済度せよ。石脇前の泓に至れば金色の光を放ち、地蔵尊が迎えるだろう。機織りの地蔵と言い六十六番札所の二十二番と定められ、いかなる願懸も必ず利生を授けると云う。一刻も早く不動明王を刻み、駿河に下向せよ。通力自在の計らいをなさん、と言い手力雄尊は消えた。円珍は霊木で直ちに不動尊を造刻し、駿河に下った。石脇前の泓に立つと金色の光が差し、円珍を迎えた。光の消えた後、機織りの石の上には地蔵が座っていた。これぞ霊夢のお告げの通りと恭しく拝んだ。当山に本尊を納めた。この地蔵は肌身地蔵といって体内に尊像を身ごもって、子授け、安産の地蔵といわれ遠近にも比類のないものである。威徳は広大無辺いかなる難病苦難も家内安全、商売繁盛、学業成就、交通安全に至る、日々の衆生の生活を洩れることなく守り救ってくれる地蔵である。当山本尊を造刻した智証大師を金色の光を放ち迎えた地蔵を繰り返し拝んでください。
*泓=オウ、コウ、深い
・歌碑
・地蔵
・六地蔵+1
・三界萬霊塔
・石塔3
・祠
・赤鳥居、石祠
・新:十二支地蔵尊

・宝積寺(石脇下692) 
・地蔵菩薩立像:木喰仏:市指定文化財:像高77㎝(2尺2寸5分)、内台座14㎝(4寸6分)、 (背面墨書)法門 増宝寿 八十三才(花押)大菩薩 木喰五行菩薩 以下不明
(背面墨書) 光明真言 (種子)正作 天一 自在法門 日本千タイノ内なり 聖朝安穏増宝寿 南無地蔵大菩薩 天下安楽興正法 寛政十二甲歳八月四日ニ成就ス 命 万 百 木喰五行 八十三才 菩薩 年 (花押)
 この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂をつかんでいる。木喰仏としては珍しく、材質が桜の木である。しかもまことに慎重で、一部丸ノミが使用され、足指の爪まで掘り出されている。製作は寛政12年1800、7月と推定される。
*木喰五行上人:享保3年1718~文化7年1810、45歳の宝暦12年1762、常陸國の木喰観海上人によって木喰戒を受け、全国隈なく巡礼を行った。木喰上人は幾つかの願を持っていたが、その中でも大きな願は日本全国の神社仏閣に参拝する「日本回国」の願と、千体の仏像を彫刻してゆかりの国々寺々に供養したいという「千体仏」の願があった。この二大願を乗り越え、83歳で「日本回国」、90歳で「千体仏」の大願を果たした。木喰上人が現在の静岡県に入ったのは寛政11年1799ノ11月19日遠州の狩宿で、翌年6月13日に岡部町に入り8月13日まで2か月間滞在している。焼津市内の仏像もこの期間のものである。
・西國三十三番観世音菩薩:由来:当山石脇山寶積寺境内に安置する、これらの菩薩の尊体は今を去る180年前、人皇119代光格天皇の御代享和元年辛酉5月及び7月吉日を選んで当村並びに近郷の篤志家が先祖菩提のため、勧請建立したものである。このような33の尊体を羅列安置してある霊場は全く稀であり、その感応霊験あらたかなることは世人の良く知るところである。
・石脇山宝積寺は往古天台宗花沢法華寺寺坊の一つとして元小浜にあったが、波の為、欠損したので永禄十年、鎌倉建長寺派に属し時の庄屋原川新三郎氏が菩提の為観世音菩薩を本尊として建立、その後享和元年、近郷の寄進により西國三十三所観世音菩薩石仏尊体が安置された。しかるに昭和41年1月東名高速道路建設により本堂、墓石等移転のやむなきに至る。檀家一同一致協力5カ年の歳月を費やし以て境内の整地、本堂、庫裏の改築、墓石移転を終了、よって昭和45年3月9日落慶入仏式を挙行す。
・地蔵3
・観音
・石塔
・石塔2

・寺門前近くの参道入口に石塔あり。

○石脇浅間神社(焼津市石脇705) 
・祭神:木花咲耶姫命、品陀和気命、天照大御神、・例祭日:10月10日、境内社:津島神社、・境内地477坪、
・由緒:浅間神社上り口右側に大きな岩が2つある。旗掛石または鞍掛石という。本来この2つの岩は我が国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。この浅間神社は、延徳3年9月天下の英雄徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が郷里原川村から浅間社を勧請してこの聖地の例に奉斎したものと伝えられ、明治8年2月村社に、同40年3月神饌幣帛料供進社に指定された。旧除地高2石であった。
・災害:昭和57年9月12日本県を直撃した台風18号により境内の南側階段等倒壊し多大の災害を蒙るも464名の氏子一丸となって懸命な努力を続け復旧に直進し、同年10月吉日大鳥居を再建した。
・記念碑:この神社は延徳3年5月、この地に祀られた歴史をもつが、昭和57年18号台風の強襲によって標高17mの神社境内地が大きく崩壊し、明治27年氏子の建設した拝殿等床下倒壊の危険にさらされ氏子一同苦慮していたところ、ときの区長総代等相図り浅間神社再建奉賛会を設立し昭和58年10月10日第1回総会を開催氏子一同の賛同を得て発足した。奉賛会は総会以来満2ヶ年を予定し境内高を5mに造成拡充し拝殿新築、その他諸施設等完備、昭和60年10月20日完成、落成式を挙行し、且つ氏子総代に一切の管理を移管。まことに氏子の家運並びに子孫繁栄を共に地域発展を祈願して之を建立す。
・新:石鳥居
・新:石段
・新:献燈2
・新:手洗石
・新:狛犬2
・古:石
・献燈2
・石段
・新:社名碑:
・自然石:数個
・祠:数個

○旗懸け岩(石脇下89) 
 ・平和の碑
・この石は江戸時代、高草山周辺にたびたび狩りに来ていた徳川家康が家臣であった原川新三郎の家に立ち寄った際に、旗や鞍をかけたことからこの名がついた。また石脇という地名もこの石に由来していると云われる。
・旗掛石:当寺、岩の近くに原川新三郎氏の門前があり、家康が転化を取ってからしばしばこの辺りで鷹狩を催し、その都度原川家を訪ね、その際家康の旗を立てかけ、馬の鞍を置いたので、この名があるという。他にやきつべの小径、駒つなぎの松の名跡がある。また氏子たちで年2回大しめ飾りが行われる。
・しめ縄
 岩は磐座と云われ、2つに分かれていて、おそらくその間に土師器等を割って占いをしたのだろう。古代の祭祀場といわれる。高草山の中腹にも祭祀場の磐座があり、関連があるのだろうか。

・秋葉常夜灯(石脇下875) 

○石脇城跡、大日堂、八幡神社、六地蔵:説明版(石脇下906) 
・石脇城跡:応仁年間1467~1469に今川義忠の妻(北側殿)の兄、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が今川の客将として石脇に住まいを構えており、石脇城の築城はその後の文明年間1469~1486と推定される。北条早雲はその後、小田原城を本拠に戦国大名として世に出たので石脇城は出世の第一歩を進めた城といえる。現在曲輪跡と土塁跡が残っている。
 この城は北の高崎山から南へ枝分かれする尾根の先端の標高30mの城山ジョウヤマに所在する。15世紀(室町中期頃)の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城(支城)と推定され、範囲は南北約220m、東西130mと考えられる。山裾の西から南へ流れる堀川を外堀とし、山頂の第一曲輪、中腹の第二曲輪、その第二曲輪を堀切で隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪のための土手)の痕跡が残っている。城主については記録がないが、江戸時代に編まれた地誌「駿河記」によると、文明年間1469~1486に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇に住まわせたとある。伊勢新九郎盛時は文明8年1476応仁の乱の影響で今川家の当主、上総之介義忠が遠江(御前崎市川上)の塩買坂での戦死により、次代をめぐる家督争い(内紛)が起きた際、嫡子竜王丸(後の今川上総之介氏親)を助けて活躍をした。伊勢新九郎は、この功績により富士下方一二郷(富士市城)を与えられ、延徳3年1491以後伊豆平定に乗り出し、やがて関東8か国を治めた戦国大名北条家(後北条)の基礎を築いた。

・大日堂:
・不動明王像:像高94㎝、市指定文化財、(背面の墨書)日本千タイノ内なり 正作聖朝安穏増宝寿 天一自在法門(種子)天下安楽興正法 木喰五行菩薩 八十三才 寛政十二申歳七月廿三日 本 (光明真言) 命 百 母 万 □□ (種子) 父 歳 
 この像は、吉祥天立像が完成した2日後にできあがった。岩座の上に踏ん張り、渦巻きとなって燃え上がる火災の中に立ち、不動の気魂を十分に表しながらも木喰仏らしい人間味が出ている。
・吉祥天立像:像高94㎝、内台座13.6㎝、市指定文化財、(背面の墨書) (種子)日本千タイノ内なり正作聖朝安穏増宝寿 天一自在法門(種子)大吉祥天女 木喰五行菩薩 天下安楽興正法 八十三才 (花押)寛政十二申歳七月廿一日ニ成就ス
 吉祥天は正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので美しい顔になったという。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じるにこやかな童顔をしている。
*木喰五行上人と焼津:1718~1810
 安永2年1773,56歳のときに日本回国と千体仏の願を起こし全国を廻り諸国に自生の仏像を奉納した。現在全国で約500体の作品が確認されている。木喰上人が当地を訪れたのは寛政12年1800上人が83歳のときで故郷である現在の山梨県へ戻る途中であった。現在焼津市には、この時造られた仏像が大日堂、勢岩寺(歴史民俗資料館で保管)、宝積寺に残っている。

・城山稲荷社:赤鳥居、祠、
・供養塔2、「奉納大乗妙典供養塔」、「庚申供養塔」
・奉献燈:竿部分
・大山祇眷属龍神神社 昭和十一年
・墓石
・六地蔵
・城山八幡宮:・石鳥居、・手洗石、・祠
・石塔:古城山全昌院址 

・村はずれの細い山道 
ゴロタの石道、峠を越えるとそこは隣村、昔の古道。


○八幡神社、諏訪神社(高崎409) 

○鳴沢不動尊(高崎602) 

○花沢城跡(高崎758) 

○神明宮(吉津164) 

○法華寺(花沢2) 

○日本坂峠(焼津市花沢、静岡市小坂) 


○須賀神社(小浜35-1) 

○塩釜神社(小浜1520) 
・石鳥居


○海雲寺(小浜88) 

○大日堂(小浜) 

○道了権現(小浜) 
・砂張屋孫右衛門道標:

○虚空蔵山香集寺(浜当目) 
 仁王門

○弘徳院(浜当目三丁目14-7) 

○那閉神社(浜当目三丁目14-13) 

・鳥居(浜当目一丁目14) 

○西宮神社(岡当目74⁻1) 
・社名碑:供進指定村社西宮神社 昭和丗九年
・石鳥居:昭和三十九年
・手洗石
・奉請庚申供養塔 安永五
・石塔
・石祠
・祠
・献燈2:紀元二千六百年
・狛犬2:昭和期か?


○薬師堂(中里655) 

○若宮八幡宮(中里1000⁻1) 
 ・焼津市指定文化財:・若宮八幡宮棟札(長さ152.2㎝、厚さ3.6㎝、重さ5㎏)、若宮八幡宮が寛永六年1629に第2代彦根藩主井伊直孝(1590~1659)により再建されたときの棟札である。檜の一枚板の表面に黒漆を塗り、文字の部分を彫り込み白色顔料をかけている。棟札の文字は寛永の三筆として名高い松花堂昭乗の筆である。(歴史民俗資料館で保管している。) 
 ・若宮八幡宮の石橋:(長さ152㎝、幅159㎝)、天保六年1835に架設された石橋である。通路部分は4枚のアーチ型の板石でできており、高さ約33㎝の4本の親柱には再建年月と再建に関わった者の名前が刻まれている。
 ・直孝公産湯の井:伊井直孝は彦根35万石の城主で徳川譜代筆頭の大名である。現:国宝彦根城は直孝の築城である。当地若宮八幡宮は寛永六年直孝が建立した。
・歌碑:「歴史きさむ 棟札のこれり   」
詠者井伊文子は井伊家39代井伊直興氏(彦根市長)の夫人で、旧琉球王家尚昌氏の長女、女子学習院本科を卒業され、歌人佐々木信綱先生の高弟であり、歌集随筆集など多数の著書がある。このたび若宮八幡宮建立350年に当り、これを記念して表題の歌を書かれたのである。また夫人は沖縄のひめゆりの塔の憂歌「ひめゆりの 石ぶみに深う ぬかづけば 平らぎを希いなむ 乙女らの声は」の詠者でもある。 
・石鳥居:大正十三年、
・石鳥居:皇紀二千六百年記念
・狛犬2:平成十年
・手洗石:平成十年
・石燈籠2:
・御神燈2:日露戦役従軍者紀念、
・御神燈1:
・手洗石:慶應四歳
・祠4
・石祠
・自然石

○糧堂院、岡当目公会堂(岡当目381⁻1) 

○大徳寺(浜当目一丁目3-4)日蓮宗 
・石祠3、うち1つ稲荷、鏡

・マリアナ観音(浜当目三丁目16) 




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:12Comments(0)批評、歴史・地理・紀行古街道

2016年09月22日

千葉山街道

千葉山街道
・情報提供呼びかけ
 今後、2016年11月以降、笹間街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 島田市大津谷川流域の道である。一応起点は旧東海道と大津通りの交差点とする。ここから大津谷川の上流を目指すことになる。そして反対に下流側を目指すと島田駅東側を通り大井川河川敷に到達する。今回は割愛する。


☆☆☆~~~大津谷川沿い~~~
 大津通り交差点周辺の遺物類から紹介する。
・大神宮(島田市本通6丁目6043⁻1 ) 

・ 神社(島田市本通5丁目8315 ) 

・福泉寺(島田市大川町4904⁻1 )

・須田神社(祇園町8498 )

・林入寺(祇園町8512⁻1 ) 

・日本基督教団(大津通8328⁻5 )

・道圓寺(祇園町8648⁻3 )

・長徳寺(新田町8650⁻1 ) 

・空性寺(新田町8664 )

・御陣屋稲荷(柳町2074 )

・快林寺(幸町2073 ) 

・洞源寺(大津通8594⁻1 ) 

・福音ルーテル教会(中河町8677⁻1 )

・天理教(中央町21-24 )

・金山神社(元島田234⁻3 ) 

・カトリック島田教会(中河町344 )

・三崎稲荷大明神(野田1266₋2 )

・鵜田寺(野田1195‐3 ) 

・白岩寺、白岩寺公園、愛宕神社(御仮屋町9957 )

・法信寺(松葉町9945 )

・八幡宮(音羽町5丁目 ) 

・竜雲寺(野田173 ) 

・釣月寺(野田178 )

・神明宮(野田925⁻1 )

・島田市中央公園、ばらの丘公園(野田1689 )

・春日神社(落合425⁻1 ) 

・大津忠魂社(落合112 ) 

・智徳寺(落合102 ) 

・要法寺(落合547⁻5 ) 

・ 堂(尾川239⁻1 )

・法蔵寺(尾川321 )

・五社神社(尾川368 )

・八幡神社(大草767 )

・慶寿寺(大草767 ) 
・枝垂桜:県指定天然記念物
・天徳寺(大草911 )

・石塔類(  ) 

・千葉山智満寺、十本杉、千葉山496m(千葉254 )




☆☆☆~~~☆東光寺谷川沿い~~~
~東光寺方面~
・峠(野田、東光寺 ) 

・東光寺(東光寺557 ) 

・日吉神社(東光寺557 )


~東光寺の下流の阿知ケ谷、岸、岸町方面~
・天満天神社(阿知ケ谷616⁻1 )

・香橘寺(阿知ケ谷325 ) 

・西念(堂)寺(阿知ケ谷85‐1 )

・浅間神社(岸町13-1 )

・大日堂(岸 )

・養命寺(岸 )

・竜江院(岸2054 ) 

・西山堂(藤枝市上青島393⁻1 ) 



☆☆☆~~~☆伊太谷川沿い~~~
~伊太谷川下流~
・法幢寺(野田1450⁻1、中河町旗指 ) 

・旗指恐山地蔵尊(中河町3031⁻1 ) 


~伊太~
・敬信寺(伊太3050⁻1 )

・伝心寺(伊太2980 ) 

・左軍神社(伊太1450‐1 )

・秋葉神社(伊太1450‐1 )

・康泰寺(伊太2883⁻1 ) 

・三寸神社(伊太2883⁻1 ) 

・静居寺(伊太3083 )


・薬師庵(伊太2771 )

・慶幅寺(伊太2060 ) 

・地蔵堂(伊太1267⁻1 )

・八幡神社(伊太1094 ) 

・玉雲寺(伊太584、上伊太 ) 

・矢倉山311m(伊太 )

・八幡神社(伊太213₋2、田代 )


~向谷方面~ 

・ 神社(伊太1932 )

・水神堀(伊太1832 )

・天神宮、殉国之碑(伊太2014⁻1 )

・大井神社、忠魂碑(天神町1786 )

・水神社(天神町1786 )

・竜泉院(向谷1丁目833⁻1 ) 

・善光寺如来堂(三ツ合町2675⁻4 ) 

・稲荷神社(稲荷2丁目13-12 ) 

・神明宮(稲荷2丁目13-12 ) 




☆☆☆~~~☆相賀谷川沿い~~~

・観音堂(伊太1620、笹ヶ久保 )

・白山神社(伊太1472⁻3、笹ヶ久保 )

・赤松地蔵(相賀90⁻5、室谷 )

・赤松発電所(相賀230 ) 

・瑞雲寺(相賀316 )

・洞源寺(相賀1092 ) 

・高山白山神社(相賀1422 )

・養徳寺(相賀2260 )



☆☆☆~~~☆伊久美川沿い~~~

・川口発電所、変電所(身成983 ) 

・八幡神社(身成210⁻1 )

・清源寺(身成438 ) 

・神明宮(伊久美5750、長島 )

・津島神社(伊久美4641、犬間 ) 

・子の御前神社(伊久美3597、小川 )

・法泉禅寺(伊久美3803、小川 ) 

・祭文峠(伊久美 ) 

・八幡宮(伊久美2588、中平 )

・子安堂(伊久美2089、中平 )

・大井浅間神社(伊久美1014⁻1、二俣 ) 

・京柱峠(伊久美、二俣、 )

~出会い橋

・神社(伊久美220、白井 ) 

・白井公会堂(伊久美315、白井 )

・西向公会堂(伊久美1942⁻6、西向 )

・明神社(笹間下1948、西向 )

・明神社(笹間下1599、大平 )

・大平公会堂(笹間下1682、大平 )

・大森(笹間下、大森 ) 

・江松峠(笹間下、 )

・東海自然歩道、秋葉街道(笹間下、 ) 

・笑い仏(笹間下、 )

~身成川を下流に向かう~
・白井和神社(笹間下3052、上河内 )  

・慈眼山阿主南寺(身成 ) 



~島田市伊久美、桧峠~
・峠の地蔵尊(伊久美2971、桧峠 )  
 峠のすぐ先は藤枝市。




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:06Comments(0)古街道

2016年09月22日

高根山街道:静岡県藤枝市

高根山街道
・情報提供呼びかけ
 今後、2016年11月以降、笹間街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 藤枝市瀬戸川流域の道である。一応起点は県道32号藤枝黒俣線と旧東海道との交差点:上伝馬や千歳とする。ここから瀬戸川の上流を目指すことになる。そして反対に下流側を目指すと田中城や西焼津駅を経て焼津港に至るが、今回は割愛する。

 上伝馬や千歳交差点周辺の藤枝1~5丁目の遺物類から紹介する。
・岡出山公園(藤枝市藤枝5丁目15 ) 
・忠霊塔、
・飽波神社(藤枝市藤枝5丁目15 )

・七ツ森神社(藤枝5丁目15 )

・天満宮津島神社(本町1丁目13⁻4 ) 

・大井神社(本町1丁目20 ) 

・慶全寺(本町1丁目12⁻13 ) 

・長楽寺(本町1丁目10‐12 ) 

・蓮生寺(本町1丁目3‐31 ) 

・茶木稲荷神社(本町1丁目3‐18 ) 

・大慶寺(藤枝4丁目2⁻7 )

・妙法寺(藤枝4丁目5-35 )

・勝草橋、説明版(藤枝1丁目 ) 

・川除地蔵尊堂(藤枝2丁目2-13 )
・川除地蔵2、馬頭観音、
・出雲大社分院(藤枝2丁目1-33 )
 ・手洗石、常夜燈、石、
・正定寺(藤枝2丁目3-27 ) 

・西光寺(藤枝3丁目10-37 ) 

・月見里神社(藤枝3丁目10⁻24 )

・神明神社(藤枝3丁目4-4 )

・日本キリスト教団(藤枝3丁目12-5 ) 

・藤枝カトリック教会(茶町1丁目2-51 ) 

・宗伝寺(藤枝1丁目4-27 ) 

・満蔵寺(稲川1丁目3-14 ) 

・洞雲寺(藤枝5丁目2-28 )

・若一王子神社(藤枝5丁目2 )

・鬼岩寺(藤枝3丁目16‐⒕ ) 

・黒犬神社(藤枝3丁目16-14 )

・萬照寺(原1287⁻6 )

・八幡宮(音羽町5丁目2 ) 

・茶町(茶町1~4丁目 ) 

・護国殿(茶町1丁目1-33 ) 

・西雲寺(音羽町3丁目17-9 )

・清水寺(原 )


~~~☆志太、瀬古地区:茶町の川向い~~~
・秋葉常夜灯、石仏、勝草橋説明版、(志太3丁目3-18 )

・田沼街道入口、史蹟、説明版(志太4丁目11 ) 

・進雄神社(志太4丁目4 ) 

・龍王神社(志太4丁目10-19 )

・葺中観音堂(志太4丁目6-17 )

・薬師堂(志太3丁目15-17 ) 

・金比羅公園、金毘羅神社、天満宮(志太3丁目19 ) 

・観音寺(瀬古1丁目2-1 )

・秋葉神社(瀬古1丁目2-1 )

・進雄神社(瀬古1丁目12-1 ) 

・志太温泉、旅館元湯(志太598⁻1⁻1 )、潮生館(志太600⁻2⁻2)

~~~~~~

・延命地蔵尊堂(堀之内929 )

・円応教(堀之内334⁻1 )

・東国寺(堀之内201 ) 

・龍雲寺(堀之内302₋2 )

・堀之内神社(堀之内589⁻9 )

・京塚(経塚)山245.3m(堀之内 )



~~~☆谷稲葉地区:堀之内の西~~~

・延命地蔵堂(谷稲葉429⁻5 ) 

・慈光院(谷稲葉931⁻3 ) 

・谷稲葉神社(谷稲葉720 ) 

・中世東海道(谷稲葉 )

・心岳寺(谷稲葉1591 )

・双子山(谷稲葉 )

~~~~~~


・寺島神社(寺島906⁻8 ) 

・薬師堂(寺島366 ) 

・大井神社(助宗1873 )

・円通院(助宗1787 )

・高山寺(瀬戸ノ谷1946、紺屋、 ) 

・普門寺(瀬戸ノ谷263、萩間、本郷 )

・本郷神社(瀬戸ノ谷1175₋2、本郷 ) 

・烏帽子形山392.7m(本郷、助宗、西方)



~~~☆滝沢、滝之谷地区:瀬戸谷の西北~~~
・八坂神社(滝沢1325 )

・竜雲寺(滝沢1498 ) 

・上滝沢地蔵堂(滝沢2669⁻1 ) 

・城山(滝之谷 )

・津島神社(滝之谷12212 )

・桧峠(滝沢、桧峠 ) 

・菩提山(滝沢瀬戸ノ谷 )


~~~~~~


・玉林寺(瀬戸ノ谷5874 ) 

・津島神社(瀬戸ノ谷12935 )

・びく石牧場(瀬戸ノ谷5658 ) 

・峠(瀬戸ノ谷 )

・津島神社(瀬戸ノ谷7405、市之瀬 ) 
多分、旧髙根山登山道開始点。

・びく石登山道(市之瀬 )


・高尾山(瀬戸ノ谷 )

・ 神社(蔵田 )

・鼻崎の大杉(蔵田 )

・高根山、石仏(蔵田 ) 

・高根白山神社、髙根山831m、東海自然歩道(蔵田 )

・津島神社(瀬戸ノ谷10947、大久保 ) 

・宇嶺の滝(瀬戸ノ谷、市之瀬 )



  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:04Comments(0)古街道

2016年09月22日

笹間街道:静岡市黒俣~島田市笹間

笹間街道
・情報提供呼びかけ
 今後、2016年11月以降、笹間街道やその他の街道を調べようと思っていますが、何か街道沿いに関する情報がありましたら、教えていただきたいので事前資料を公開します。以下の項目に沿うこと、沿わないこと等なんでもお知らせくだされば、とても助かりますし、他の方たちにも有益だと思います。

・前文
 静岡市黒俣と島田市川根の笹間を結んでいた道である。峠は市境の笹間峠である。起点は黒俣の盤龍寺と3㎞奥の東向寺の2か所である。東向寺の方がより近代に近いルートである。笹間峠を越えると川根の日掛に出て、笹間川沿いの集落に沿って下ったようだ。ただ近代以前は川沿いに集落は少なく、焼き畑農業で山の中腹以上に居住していたと思われるので、川よりだいぶ上に歩く道があったはずだ。

☆☆☆~~~黒沢川沿い~~~
 黒俣の遺物類から紹介する。
・九能尾(静岡市葵区黒俣、九能尾 )

・盤龍寺(静岡市葵区黒俣1105、九能尾 )

・大渡神社(静岡市葵区黒俣1105、久能尾 ) 

・石仏(  ) 

・船水弘法大師堂(黒俣1374、上和田 ) 

・八幡神社、白髭神社(黒俣1590、 中村 )

・東向寺(黒俣1886、中村 )

・石仏(黒俣1886、中村 ) 
 東向寺から笹間峠に向かい上りだすとすぐにある。
・イチョウの木、神社(黒俣2181、坂野 ) 
 坂野の県道沿いにある。
・石仏(黒俣 ) 
 坂野と清笹峠の県道途中にある。
・清笹峠(黒俣 )
静岡市と藤枝市の境界、

・石塔(  ) 

・笹間峠(静岡市黒俣、島田市笹間上 )


~島田市川根、笹間上~
・笹間街道(島田市笹間上 ) 

・林道(島田市笹間上日掛~静岡市葵区峰山) 


・日掛、日限地蔵尊(笹間上2794、日掛 )

・久野地蔵尊(笹間上2629、久野 )

・久円寺(笹間上2613、久野 )

・加賀沢の滝(笹間上 ) 

・林道(笹間上下二俣~川根本町壱町河内 ) 

・無双連山1008.3m、徳山城、高山 (笹間上 )

・二俣八幡神社(笹間上1825、二俣 )

・登福寺(笹間上729、石上 ) 

・八幡神社(笹間上373、出本 )

・大井神社(笹間上、竹島 )

・ (笹間  )

・ (笹間 ) 

・一之宮神社(笹間下1176、三並 )

・龍光院(笹間下1064、三並 )

・白山神社(笹間下622、日向 ) 

・春日神社(笹間下396、桑ノ山 ) 

・笹間川ダム(笹間渡 )

・ (笹間渡 )


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 21:00Comments(1)古街道

2016年07月28日

静岡市用宗周辺

静岡市 用宗 周辺
                        ‘13 ’14  6、7月 
・前文
 だいぶ不完全な文書なうえ、所々しか調べていない基礎資料ですが、今後調べていくということで、一旦掲載します。
 またブログに保存することで、手持ちのパソコンや記憶媒体がすべて破壊されても、バックアップとして利用できるからです。

◎大雲寺 昭和六十三年 
○城山観音菩薩大悲閣  
・庚申供養塔 享和二壬戌1802
・庚申:元禄拾三庚辰五月廿八日 奉納建立庚申、
・線刻画:佛:座像、
・新:石仏多数、
・祠:地蔵 安永七戌年、・如意輪観世音菩薩 廿七番、
・新:燈籠2、
・新:仁王像:阿形像、吽形像、
・忠霊塔、
・新:南無釈迦牟尼佛、
・新:地蔵、
・新:六地蔵、
・鐘楼、
・石祠、

○熊野神社跡地 
・石鳥居;明治二十八年、
・本殿:廃屋、

○八幡神社跡地 
・石鳥居:昭和二年、
・手洗石:昭和七年、
・石燈籠:笠部、
・本殿、拝殿:廃屋、

○石部神社:静岡市石部51-⒑、 
祭神:天照大神あまてらすおおみかみ、祭日:10月16日、内社:津島神社:すさのうのみこと素戔嗚命、白髭神社:猿田彦命、山神社:おおやまつみのみこと大山祇命、由緒:天明元年再建とあるが、御鎮祭は近隣に古墳七基の発見や、古代から大崩海道の沿岸にあり、遥に古い時代と思われる。古くは天白社と称し、明治初年に現在の社号に改められ、明治八年村社に列した。境内社の津島神社は素戔嗚神を祀り、疫病除けの神として崇められる。氏子の信仰は今も往時も変わりなく、例祭、歳日祭、初午祭、祇園祭、七五三祭等、古くからの伝統と神社の護持発展に積極的な努力と奉仕が続けられている。昭和52年3月13日、大崩山腹「コツサ沢」鎮座の豊漁航海安全の神として崇められた白髭神社:猿田彦命と、高草山系石部「大ニヨウ」鎮座の山神社:大山祇命の両社を、遠隔地で祭祀参詣も意の如くならず、氏子の総意により本社の相殿に遷宮鎮祭した。昭和21年7月30日宗教法人令による届け出をし、昭和27年7月23日宗教法人令により、宗教法人「石部神社」の設立を登記した。静岡県神社庁神社等級規定九級社である。平成22年12月吉日。静岡市神社名鑑より作成。
・鎮魂:昭和四十七年、Ω、
・石鳥居:文化八辛未弐月吉日、
・石鳥居:大正十四年、
・石鳥居:
・猿田彦大神:大正拾四乙丑年、
・力石
・手洗石
・石塔:宝永七寅年、
・祠

・辻:祠、

○寶珠院
・地蔵堂
・新:六地蔵
・板碑
・馬頭観音菩薩
・庚申供養塔
・庚申供養塔:享保十二未年
・庚申塔:昭和五十五年
・南無阿弥陀佛
・手洗石:呉服町四丁目油屋
・祠:
・堂
・井戸ポンプ
・新:萬霊塔

○熊野神社
・城山列士供養塔
・地蔵
・石鳥居:昭和三十二年
・玉垣
・石燈籠2,2,2:文久三
・船の碇⚓、
・祠
・石塔:明治十七申年、
・御神燈:安政六未、
・石燈籠:奉納八幡宮:寛政九稔
・狛犬2、2、

・城山農道完成記念碑:平成三年
・妙見坂 五十四
・丸石
・石燈籠2:昭和三年、
・祠跡:廃

○持舟城 
・説明版:築城年代不明、戦国時代の今川氏時代には築かれていたと考えられる。江戸時代の古絵図によると当地は、駿河湾に面して東・北に深く入り江が形作られた天然の良港だった。現在の静岡市駿河区用宗の地名は湊(港)を意味する「持舟」が転化したものと云われ、今も昔も漁業と深い関係を持っている。今川氏はここを水軍の拠点とすると共に西方、日本坂から駿府に侵入する敵対勢力を防ぐ城砦としても利用した。城跡は、頂上広場(標高76m)が本丸(本曲輪)、南西側の窪地に大堀切、井戸跡(曲輪)があり、その南側に二ノ丸(二の曲輪)、本丸の北側には腰曲輪があった。北側の城の下は沼地と深田が広がっていた。南側は海に近く、船溜まりと蔵屋敷があり、湊(港)と平山城の条件が整っていた。長い年月を経た今も、遺構はそのままの形で残っている。
 築城から廃城までの間に、今川、武田、徳川氏によって3度の攻防戦が行われ、数百もの将兵が討死する記録が残ることは静岡周辺の他の城砦に比べても例がなく、この城の戦略的価値がいかに高かったかを物語っている。今川氏の城主「一宮出羽守随波斎いちのみやでわのかみずいはさい」は麓の青木の森に、武田氏の城主「向井伊賀守正重むかいいがのかみまさしげ」は興津清見寺に手厚く祀られている。
 最後の城主、武田氏の「朝比奈駿河守」は徳川軍に城を明け渡し、多くの将兵は城下に落ち延びて生涯を全うした。やがて持舟城は徳川氏のもとで廃城となった。
 後に向井氏の子孫が城跡に観音像を立てて「正重」の霊を祀った。観音像は阿耨観音あのくかんのん(マリア観音)と呼ばれ、今は用宗駅北の大雲寺に安置される。村民たちは七年に一度、御開帳を催し、将兵の慰霊と現世の平和を祈る。 
*耨=ドウ、ヌ、くさぎる、のぞく。
・持舟城趾由来略誌:説明版:
 今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として、関口刑部親長に持舟城を守らせていた。この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年結婚。この政略結婚が後年家康の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知る由もなかった。永禄三年五月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。川中島で矛を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄十一年末、駿河に侵攻して、持舟城を攻略、城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正七年九月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が今川方の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃し果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり、激闘壮絶を極め武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫叔父伊兵政綱長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り、今も古式蒼然とした墓塔が同寺にある。天正八年二月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正十年二月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を抜き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終わった。向井正重の次男正綱はたまたま城外にあって生き残り、本多作左衛門の手の者となり徳川家に仕えて船手頭となり、その四代目の子孫正興が長崎奉行勤番の折り、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置され直した。向井家は以後代々重臣として繁栄し、其の後裔は東京都新宿区に現住している。

・城山周辺の野鳥:
・説明版:周辺で見られる10種の野鳥。メジロ、エナガ、ウグイス、ヤマガラ、カワセミ、シジュウカラ、コゲラ、ハクセキレイ、アオバト、イソヒヨドリ、

・城山周辺の蝶:
・説明版:城山で見られる蝶の種類は25種だが、そのうち12種紹介する。
アゲハ、ジャコウアゲハ、ゴマダラチョウ、ルリタテハ、カラスアゲハ、モンキアゲハ、ツマクロヒョウモン、コミスジ、アオスジアゲハ、アオバセセリ、クロコノマチョウ、アサギマダラ、

・府中道:古来よりの大崩街道:
・説明版:當目山坂口より左につき大谷に入登れば、右は滄海に臨み、左に高草の麓の村里瀬戸川を眼下に見て勝景なり。ここは長むねと云處也。爰より数十歩過て切通あり。左の高き丘に大日堂を置、西山下は小濱村也。この切通を越れば山下海岸谷々に山畠あり。高より臨むに海岸に平地を見る。これ小濱村の蕉地也。其内に森二ヶ所あり。洞口の両處には大なる巌海中に聳立、高さ百丈餘。これに並び立つ巌五十丈餘。往昔は此巨巌の上に松一樹ありて塔之松と呼。後世枯失たり。是等を右に見て、切通より山の腰を廻り下る坂あり。七曲と云。行々麗の海岸に下る。此處を垢離取場(府在村里願望ある者、必爰に來て垢離す)と云。ここより石部村の地に隷。一軒屋の茶店(一軒屋)あり。是より礒邊巨巖石の閒を通ふ。波荒き時は通がたし。此際凡十餘町許、大崩と呼。左手の山は岩石聳えて突出、常に岩石轉倒の怖あり。右手波浪に衣をひたし、嶮難の閒道岩上より足を失て、刀劒の如くなる巌の稜に轉倒せしむとし、唯戦々兢々(恐々)たるのみ。大人君子の通べき路次には非ず。此所古へは石渡りと云と也。ここを通て石部の村落に至る。凡當目より石部へ一里餘、持舟廣野川原にかかり、国府に至る行程總て三里と云。
(補記)東照傳に、天正六1578年大神君由比蒲原に討向むとし給ひ、田中城を左に見て濱際を押通り、同八月廿二日先陣は上原清水に着す。御本陣は當目に居させ給ふと云は、則此濱道筋を通りし也。其頃は今よりは路次も廣かりしにや。『駿國雑誌一 六之巻より』四十九巻 安部正信 天保十三年1842編集

・供養塔:祠:向井伊賀守正重 天正七年九月十九日
 由来記:この供養塔の向背地の城山にあった持舟城は、永禄元亀天正年間1568~1582戦国争乱の最中に生まれ、今川武田徳川など戦国大名の軍兵が互いに攻防戦を繰り広げ、数百の将兵が城と運命を共にした。ときの城将向井伊賀守正重他壮烈な散華を遂げた将士の霊を祀った。




  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:13Comments(0)批評、歴史・地理・紀行古街道

2016年06月05日

金谷街道(静岡県島田市、菊川市、牧之原市)


・前文
*住所地は目的地を探すためのものなので、分からない時は附近のものを指し示すことが多い。
*未発見や誤解曲解している箇所が多いと思われるので、コメントをいただくか、その人なりの発表方法で公表していただけると、ありがたいです。
 特に牧之原台地上での発見できた石造物の少なさは、気になるので、まだたくさん未発見物があると思われます。公表されることで保存へ弾みがつくことでしょう。

~金谷街道(静岡県島田市、菊川市、牧之原市)~
現地調査:’16 4/9,10,16
~『定本静岡県の街道』より~
金谷街道は牧之原市仁王辻から島田市金谷宿までの道である。しかし今回は変則版として仁王辻から島田市金谷の諏訪原城や島田市菊川の中山新道、遠江三十三所観音霊場24番から25番への霊場道に接続するまでを紹介する。
 
 仁王辻附近の牧之原小学校・中学校門前の東照宮からスタートする。
○東照宮神社(牧之原市東萩間2082⁻13)
 ・説明:徳川家康公座像:牧之原市指定 工芸品:1869明治2年徳川の家臣、福井某等20名が牧之原に移住の時江戸から持ってきて、菊川町沢水加に神社を建てて御神体とし、1942昭和17年に現在の位置に移された。座像の開眼主は日善、日宗吉、大仏師、尾崎義定と書かれている。
・コンクリ石柱2、・狛犬2、・手洗石:大正四、・石鳥居:昭和十七年、・?基準点:測量用、
 ちょうど学校の正門前に神社があり、駐車場もないので正門横に乗り付け隣の神社をうろちょろすることになるが、何かしらの学校行事があるらしく、校舎の曲がり角で先生らしきが出入りする自動車を案内している。その先生が明らかに不審者として私の方に注目しているので、はやいとこ調べてすたこらさっさと逃げてきた。毎度のことながら私は不審者です。
 次は同じ地区の八十原観音を見たいので、学校前を北に出て右折(東)し300m東進し、右折(南)し400m南進する。
○八十原観音(牧之原市東萩間、八十原2092) 
 ・堂、・石碑:礎2000、・手洗石、・手洗石:明治九子年、・献燈2、、・フジ棚、
 再度牧之原小学校前の交差点に戻る。北西の丸顔橋を渡り交差点に出る。ここに馬頭が祀られている。
・馬頭観音:明治三十二年五月立承(東萩間、仁王辻2360⁻1)
 1.4㎞北上する。現在沢水加から上ってくる県道掛川榛原線がある。
 この坂道の途中に戦争遺跡がある。下りだして1.1㎞、上りだして300mである。
・大井航空隊洞窟(菊川市沢水加)
 県道から沢沿いに30m歩くと洞窟がある。どうも防空壕として掘られたようだ。牧之原台地の布引原には大井航空隊基地があった。
 再度国道473号線に戻る。国道を北上するか、1本東側(100m先)の道に出る。600m北上して矢崎部品工場:布引原、矢崎206⁻1とスーパーマーケット:220⁻3の間で右折する。種苗管理センター金谷農場と谷地の間の道に右左折を繰り返して出る。出るとそこからは住宅が切れて茶畑の細尾根道を南東に道なりに500m進む。
左に標識:勝間田城跡→があり、左折(東)し茶畑を200m進む。ここで車は進めない。あとは歩きで進む。300m山道を下っていくと城跡を示す標識が出てくる。
○勝間田城跡(牧之原市勝田2160⁻1)
  ・説明:静岡県指定史跡:勝間田氏は、当地方を拠点とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌抄」を編纂している。元弘の乱1331には、河内(大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録に見える。
 室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱1399や永享の乱1439に活躍し、応仁の乱が起るや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に1476文明8年ついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられる。
 応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は、中世の代表的山城で、牧之原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。
 ・説明:勝間田氏について:勝間田氏は平安末期から室町中期まで約340年間この地方を領有した豪族である。勝間田氏が史上に登場してくるのは『保元物語』からである。
『保元物語上』に
「義朝甲の緒をしめ、即うちいでけるが、義朝馬をひかえて紅の扇を開つかいて申されけるは………相随ふ輩は誰ぞ………遠江國には横地、勝田、井八郎、駿河國には………とあり、時は保元元年1156のことである。」
 平治の乱後、『吾妻鏡』に勝田平三郎成長かつまたへいさぶろうしげながというものがでてくる。成長は治承5年1181壬2月安田義定の招集に応じて史上に現れ鎌倉幕府の御家人やまた玄蕃助げんばのすけなどにもなり、以来建久6年1195まで15年間活躍した。その後健保4年1216源実朝が送った宋使節団の一行に勝田兵庫頭かつまたひょうごのかみが参加している。
 建長2年1250閒院殿造営のため京に供出される材木等の分担目録の中に勝田兵庫助かつまたひょうごのすけの名が見える。鎌倉末期に参議冷泉為相の門下となった勝田長清は17300余首の歌数を収録した『夫木和歌抄』を編纂し、「下萩もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月」「置く露は袖にこぼれて夕暮れの萩の上葉に残るあきかぜ」等の秀歌を残している。
 南北朝期に入ると、勝間田氏は再び史上に現れる。元弘元年1331足利尊氏に従った勝間田彦太郎入道や赤坂城の攻防で有名な楠正成に従った勝田左エ門尉直幸等が見え、南朝方、北朝方の双方に分かれて活躍していたことが分かる。正平3年1348足利尊氏は諏訪神社の笠懸の神事を行い射手に勝田能登守佐長、勝田二郎丞長直等がこれに参加している。勝田氏は足利義満の代になると、次第に中央に進出し奉公衆となり、文中元年1372勝田三河□太郎や勝田修理亮は、将軍の近習となり幕府の役人として活躍した。
 室町初期の応永の乱で今川泰範の軍に加わった勝間田遠江守は、丹波の追分の合戦で討死にしている。応仁の乱で全国的に動乱化した中で、国人として生き残る道を探していた勝間田修理亮は、横地氏とともに今川義忠軍と戦い敗れ、この結果勝間田一族は四散した。
 その後明応5年1496勝田播磨守が志戸呂の城主鶴見因幡守とともに城飼郡松葉城を攻め落としたが、これより後、勝間田一族は史上から姿を消してしまう。このように340年間もの長きにわたって当地を根拠地として活躍した勝間田氏は、中世の末、当地から姿を消してしまうが、敗亡当時の城と思われる勝間田、湯日、穴ヶ谷、滝堺、飯田等の城跡の他榛原町道場の清浄寺の裏手の供養塔や坂口の石雲院、中の長興寺また桃原の瑞昌院等には今も勝間田氏の位牌が残されている。
 ・説明:礎石建物:自然石の平坦面を表にして据え、これに柱を立てた建物。縄文時代以来の竪穴住居建物とは違い、寺院や宮殿等長年月の保存を必要とするものに限って、礎石の上に柱を立てる建築法が用いられた。
 二ノ曲輪には、11棟の掘立柱建物跡と1棟の礎石建物跡が確認されている。中世の山城で、礎石を持った建物が確認されたのは非常に珍しく、当時どのような用途に使われたのか興味あるが、礎石を使った理由として、床張りで重量物例えば、兵糧米等を収納していたことが考えられる。この建物の周りには、溝が廻り、出土物としては、すり鉢、青磁、白磁、染付、天目茶碗等種類、内容とも豊富な食器が発見されている。この建物は、勝間田城の兵糧庫または貯蔵庫等の用途に使われ、城の中でもとても重要な建物だったと考えられる。
 ・説明:掘立柱建物ほったてはしらたてもの:土台を設けないで、直接に地面を掘って柱を立てた簡単な建物。縄文時代から弥生時代を経て、古墳時代を過ぎ奈良、平安時代まで一般の住居の基本だった竪穴住居が、生活様式の変化から掘立柱建物に変わっていた。
 勝間田城跡の建物は、掘立柱建物がほとんどで、二ノ曲輪には11棟の掘立柱建物跡が確認されている。1棟の規模は平均2間×3間で、柱穴の深さは40~50㎝、穴の直径は20~25㎝だ。建物跡を掘ると、当時使われていた皿や碗、擂鉢等の食器のかけらが沢山出てきた。また建物の周辺には鉄釘や鎹カスガイが出土し、当時掘立柱建物の周辺を垣根や塀等が囲み、建物と建物を隔てていたことが分かる。特に麻ひもに通された二十数枚の銅銭(中国銭)は、当時ここに居住していた人々の所持品できっと貴重品だったに違いない。人々の暮らしぶりを垣間見る一品だ。
 ・説明:掘立柱建物:この掘立柱建物跡は、東西3間(5.7m)×南北3間(4.2m)の規模を持つものだが、それほどがっしりした建物ではなく、屋根も草葺きと考えられる比較的簡単なものだ。土塁等の在り方から見て、西三ノ曲輪と「馬洗い場」との間に出曲輪方向からの出入口の存在が想定され、この出入口を守る見張小屋的なものではないかと考えられる。なお多量の炭化物や焼土の在り方から見て、この建物は火災を受けている可能性がある。
 出土遺物は、土師質土器、陶磁器等が出土しているが、いずれも破片で、器形の分かる物はわずかだ。また銭貨(至大通宝)が4枚出土している。至大通宝は中国の元の時代のものであり、1310年からの鋳造とされる。これら勝間田城跡からの出土品は、牧之原市榛原郷土資料館に展示してある。
 ・石碑:城跡寄進の碑:故村松半之助氏は郷土の豪族勝間田氏の城跡の亡失破壊を惜しみ、これを後世に伝えようと大正12年私有地1反歩を勝間田村に寄附をした。これにより城跡の本曲輪が確保されたばかりでなく城跡保存の気運を生み永く郷土の史跡として伝えることができた。
・歌碑:藤原長清:下萩もかつ穂にいづる夕露に宿かりそむる秋の三日月:玉葉集巻十四雑一、
・石柱:勝間田城址:大正十三年、・献燈2:昭和五十年、・コンクリ手洗石、・祠:神社、・石碑:勝間田城跡:昭和六十一年、
・南曲輪、土塁、堀切、本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、西三ノ曲輪、出曲輪、
再度矢崎部品工場前まで戻り国道473号線を600m北進する。
○西光寺(嶋956⁻3) 
 ・きく地蔵:平成19年、
 国道を100m北進する。途中で県道菊川吉田線を横断する。
○大国神社(嶋955) 
 ・石鳥居:昭和三年、・鐘、・手洗石、・石柱、・コンクリ石柱:昭和十二年、・コンクリ石柱2、・献燈2、・石柱:横倒し、
 国道を300m北進する。落合刃物とアイアンドエム(株)の間の道を右折し30m進む。
・馬頭観音3(切山2968⁻1) 
 刻字は磨滅して読めない。所在地は後記、高塚氏より知った。
 国道に戻り100m北進する。左に狭い土道が見える。
・六尺道路:県道菊川吉田線の旧道(菊川市倉沢1706⁻3:高塚氏宅と1706⁻1:鈴木氏宅の間の道)
 この道がどうも現在の県道菊川吉田線の旧道にあたるようだ。土道は300mほど続くが、その先で国道473号線バイパス用地になって消滅したようだ。以前は先で坂を下り、県道吉田大東線につながっていたようだ。高塚氏談。高塚氏に感謝いたします。

~~~県道菊川吉田線~~~
 金谷街道は北進するが、ここで県道菊川吉田線を進む。国道473号線の交差点からスタートする。坂を800m下っていく。途中頭上を国道473号線バイパスの高架橋がよぎっていく。
 右に上っていく廃道化したコンクリ石段がある。
・かつての、高野山弘法大師堂跡地(菊川市沢水加1406⁻33) 
  現在は移転したか廃止したかであるようだ。頭上は先ほどのバイパス高架橋である。
  さらに100m下ると大きく左カーブする。ここにかつての六尺道路は下ってきたようだ。
 更に300m西に進む。右(北)上に祠がある。
・祠:神(倉沢、下倉沢)
 100m西に進む。右に祠がある。
・祠:馬頭観音か、布に覆われて姿が分からない(倉沢、下倉沢) 
 300m西に進む。左上に祠がある。
・石祠:道祖神、・献燈(倉沢、下倉沢)
 道はこの先、吉沢を通過し、途中和田から沢水加に向かう県道とも交差し、菊川駅前に達するが、金谷街道の周辺ということでここまでにする。
~~~~~~
 国道473号線六尺道路前に戻る。200m北進し、左(西)120m先に六本松の公園と集会所、そして神社がある。
・神社(菊川市倉沢、六本松698) 
 国道に戻り2㎞北進する。猪土居交差点を過ぎ70m進むと右に入る小道がある。猪土居公民館と公園があり、神社もある。
○津島神社(島田市金谷3509) 
 ・コンクリ石柱2、・石鳥居、・手洗石:平成二年、
 国道に戻り600m北進する。右折(東)し100m先に農業用水タンクがある。
・石碑:疎水:平成十年(島田市金谷3272⁻5) 
国道に戻り、国道を渡り、北200m先を目指す。
○お茶の郷(金谷3149⁻1) 
 ・小堀遠州式日本庭園、・御茶室、・茶関係資料室、レストラン、・土産物、
 ・説明:小堀遠州1579~1647は、京都御所や駿府城を始めとする、江戸幕府のかかわる主だった建築工事の作事奉行を勤めて活躍した。また茶人としてもよく知れレ、島田市金谷の志戸呂窯は、遠州が諸国に好み道具を焼かせた、いわゆる遠州七窯の一つである。
 そのゆかりをもって、ここに小堀遠州が営んだ庭園と建築が復元され、遠州の「綺麗さび」の世界が合成的に再現されている。
 大きな①中の島を築いた築地を中心におく庭園と②築地を隔てて塀沿いに設けられて、『伊勢物語』にちなむ⓷八つ橋の流れに、寛永11年1634遠州が後水尾院の仙洞御所の東庭に作庭した姿を復元する。自然と人工、直線と曲線といった、反響的な要素がここには鮮やかな対比の中に融和しており、また平安時代の王朝文化を憧憬する趣向豊かな構成に遠州の庭園の特色が示されている。⑤書院・⑥鎖の間・⑦茶屋・⑧数寄屋からなる茶室は、書院部分に遠州が親交していた松花堂昭乗のために建てた、京都石清水八幡宮滝本坊の書院を復元して組み込んでいる以外は伏見奉行を勤めた遠州が、寛永2年1625奉行屋敷に営んだ座敷の一部を復元している。書院・鎖の間・数寄屋という3様の茶室を連ねるのは、真・行・草の茶の湯を一体的に展開した遠州の茶を反映している。書院・鎖の間の室内は、 塀や欄間・金具にいたるまでことごとくが意匠されており、この遠州において数寄屋造りとして、日本住宅におけるインテリアが、総合性をもって大成されたことが知られよう。
 ここには江戸時代初期の寛永文化の粋が凝縮されている。

 国道に戻って進む。左カーブしつつ北へ進むと、道は右下の金谷中心街へ下る道と、左上に進み牧之原台地状をなおも進む北進道に分かれる。今回は左上道を選ぶ。というのは金谷街道は本当は右下道がメインである。しかし今回は台地状をもっと北進したいためである。
 右上道を進むとお茶の郷の東側に公園がある。
○牧之原公園(金谷3120) 
 ・石碑:記念碑、・栄西像、・石碑2:合一之碑、杉山賞記念、・新:石畳、
 直線距離150m、道の距離450mで東下に富士見展望広場がある。
 また牧之原公園から道を西に横断するとお茶の郷の庭園入口になる。
 牧之原公園からスタートしカーブする道なりに1.4㎞北進する。
○石碑、道しるべ(菊川?金谷1738₋2) 
 ・芭蕉句碑:馬に寝て残夢月遠し茶の烟、・明治天皇御駐輦阯、・道しるべ類
*注:輦レン、人の引く車、天子の車、鳳輦ホウレン、
  北30mに旧東海道の金谷坂の石畳があり、上りきった所に石仏類がある。
○石塔類(金谷1738₋2)   
・祠:三面観音、・地蔵、・馬頭観世音、・石塔、・九十丁目 濱浜川上古右まつ
・旧東海道:金谷坂:石畳道 
 ・説明:この石畳道は江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると云われている。近年わずか30mを残す以外はすべてコンクリート等で舗装されていたが、平成3年町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元された。今街道の石畳で往時をしのぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の3か所だけとなった。
・旧東海道ルート 
ここから先の北進する道は旧東海道である。と言っても自動車用に拡幅され舗装されている。しかしルートは東海道そのものであろう。
 400m進むと広い県道吉沢金谷線に合流する。その手前右に城跡入口がある。
○諏訪原城跡(島田市菊川、牧之原1172⁻1) 
 ・説明:諏訪原城は武田勝頼、徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代の過程を理解するうえで重要な遺跡として国史跡指定された。
 当城は天正元年1573武田勝頼が東海道沿いの牧之原台地上の金谷台に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍艦』等に記されている。城内に諏訪大明神を祀ったことから「諏訪原城」の名がついたと云われる。この城は大井川を境として駿河から遠江に入る交通、軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(掛川市)を攻略するための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担った。
天正3年1575に、徳川家康によって攻め落とされた後「牧野城(牧野原城)」と改名され、武田方となった高天神城(掛川市)を攻略するための陣城(攻めの城)として活用された。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請等度重なる改修が行われたことが記されている。天正9年1581に、高天神城が落城し、翌年武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなった。その後徳川家康が関東に移ったことから、天正18年1590頃廃城になったと考えられる。
・説明:諏訪原城跡:国指定史跡:諏訪原城は天正元年1573武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として金谷台に築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧之原台地の東北角を占めた天然の要害であった。
 遺構は、本丸、二の丸、三の丸、、大手郭帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の8郭から成る特徴のある縄張により配置形態のうえから扇城とも呼ばれた。自然堀と人工の大小堀が13本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祀ったことから諏訪原城と呼ばれたが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。
 ・大手口:城の表玄関に当たる所、・十二号堀:半月状水堀で三の丸を守る、長さ89.7m、幅15.3m、・壁立:壁立とは壁の如く切り立った構造を言う、特に堀と堀との直結した間隙に構え堀を伝っての直接の敵の侵入を防ぐためのもの、・三の丸:この茶園一帯が三の丸、二の丸に次ぐ一郭で食糧、武器、弾薬庫を備える重要な所、・カンカン井戸、・十五堀:規模:長さ31.0m、幅6.0m空堀、・十六号堀:規模:長さ90.0m、幅6.0m空堀、・搦手口:搦手外郭は食料、衣料、飲料水、武具等の運送に使われた主要な役割の地点、一般家庭での勝手口、裏口に相当、・天守台地:この城は山城で天守閣はなく、二層からなる矢倉(櫓)があり物見が常駐して敵の動きを監視していた、・本丸跡:本曲輪:城主の居住する所で軍政を司る所、・本曲輪虎口、・六号堀:長さ85.0m、幅14.5m空堀、この堀切は城内に谷沢(東沢)が続き自然の地形(谷沢)を利用した堀、・五号堀:この堀は三段堀といい底部は三段になっている、これは甲州流の特徴の一つで階段状になることで敵の侵入に足あり、珍しい構の空堀、長さ40.0m、幅13.0m、・二の丸:副将またはそれに準ずる武士の詰所で武器保管や他の城からの来城者の控所、武士の家屋敷もあった、・大手外丸馬出、大手曲輪、・大手南外堀、・大手北外堀、・二の曲輪大手馬出、・外堀、・二の曲輪南馬出、・二の曲輪東馬出、・二の曲輪東内馬出、・水の手曲輪、・内堀、・二の曲輪、・二の曲輪中馬出、・二の曲輪北馬出、・本曲輪、・出曲輪、・惣曲輪、・武家屋敷跡、
・墓石3:明和四年、五年、・墓石3、
・単制無縫塔4:明和、・手洗石:明治□年、・墓石3:安政二、寛延元、・祠:地蔵2、五輪塔、観音「七十番」、
諏訪神社
・板碑:諏訪原城跡県指定史跡昭和二十九年指定、・石鳥居:昭和三十四年、・庚申塔、
・石碑:今福浄閑戦死墓塚:武田方当城主、
 旧東海道は県道と交差し横断すると、向こうは菊川坂入口となる。
・菊川坂(島田市菊川、牧之原1172⁻1) 
 ・説明:菊川坂と金谷坂:江戸時代、東海道を行きかう旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしたいた。このため近郷近在からの助郷役により石畳を敷いて旅人の難儀を救ったと云われている。この故事にちなんで菊川坂と金谷坂の石畳を平成の今、再びよみがえらせた。
 菊川坂は21世紀の幕開けの事業として平成13年静岡県内の東海道21宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち500名を超えるみなさんの力で道普請に着手。平成12年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約700mの石畳が完成した。
金谷坂は町民一人一石運動により集められた山石7万個をもって平成3年子供たちからお年寄りまで500余名の町民の力で道普請に着手、翌年3月400m余の石畳ができた。江戸時代後期の石畳そして平成の道普請のよりできた石畳に、それぞれ、昔の旅人へのあるいは平成助郷役の人たちへの思いを馳せながら、この石畳をかみしめてください。

 菊川坂入口から東海道ではなく、県道を150m北進する。道祖神がある。
・石祠:道祖神 
 250m北進すると現在の県道島田金谷線と交差し、ラブホテルがあり、この峠を割石峠という。
・割石峠、中山新道(島田市菊川371⁻16)  
 そしてこの峠道(東西に横断する県道島田金谷線)はかつての旧国道1号線で、その前は日本初の有料道路、中山新道である。この峠に石塔がある。
・石仏:南無阿弥陀佛、自然石3(島田市菊川371⁻16) 
 この交差点を横断し北に500m進み茶畑を200m西に進むと、遠江三十三所観音霊場道の24番と25番への巡礼道と合流することになる。
・巡礼道:遠江三十三所観音霊場24番←→25番 
 
ここで今回の金谷街道:変則版を終える。

・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年
 ・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、静岡新聞社、’05

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 08:58Comments(0)古街道

2016年06月05日

川崎(掛川)街道、福天権現道、大頭龍権現道(静岡県掛川市、菊川市、牧之原市)

・前文
*住所地は目的地を探すためのものなので、分からない時は附近のものを指し示すことが多い。
*未発見や誤解曲解している箇所が多いと思われるので、コメントをいただくか、その人なりの発表方法で公表していただけると、ありがたいです。
 特に牧之原台地上での発見できた石造物の少なさは、気になるので、まだたくさん未発見物があると思われます。公表されることで保存へ弾みがつくことでしょう。

~川崎(掛川)街道、福天権現道、大頭龍権現道、金谷街道(静岡県掛川市、菊川市、島田市、牧之原市)~
現地調査:’16 4/9,10,16
川崎(掛川)街道は、掛川市成滝の旧東海道や、伊達方の旧東海道から南に分岐して菊川市西方の竜雲寺(福天権現)や加茂の大頭龍神社への参詣道であり、更には西方から相良坂(公文名、)潮海寺、和田を経て沢水加サバカから牧之原台地を上り仁王辻を通過し三栗原、水吞、白井追廻で左折し戸塚坂(掛川坂)を下り、戸塚橋を渡り榛原静波三丁目で旧田沼街道に接続するルートである。榛原静波の川崎はかつて港があり、海運及び海産物取引が盛んだった。榛原周辺は掛川藩領が多く、藩で徴収する年貢米や、川崎湊へ運ばれる江戸扶持米の輸送ルートであったそうだ。距離は約23㎞である。~『定本静岡県の街道』より~
金谷街道は仁王辻から金谷宿までの道である。

~川崎(掛川)街道、福天権現道、大頭龍権現道(静岡県掛川市、菊川市、牧之原市)~

~1 掛川市成滝ルート~ ナルタキ
・石道標:福天大権現 大頭龍大権現 従之大頭龍大権現□□□福天大権現□□□ 従是川崎道 行程六里(掛川市成滝96、掛川市農協JA西山口支所)
 ・説明版:大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用された。元の位置は約10m東にあり川崎街道起点となっている。
 昔は各所への道案内として主な辻に、道標みちしるべが建てられた。そしてその道を往来する人たちの案内役を果たしていたが、最近は時代とともに次第にみうけられなくなくなってきた。西山口農協支所西角の道標は、郷土の文化遺産として、昔の時代を知る存在だ。建立時期は不明。伊達方にある道標が類似していてそちらは寛保二1742年と刻まれているので、その時期と推定される。大頭龍権現は菊川市加茂に、福天権現は菊川市西方竜雲寺境内にあるが、当時は両権現の信仰が盛んで、信者等はこの道標から裏丁通りを経てそれぞれの目的地まで歩いて行った。また川崎街道の分岐点でもあることから、堀之内、川崎湊、両方面を往来する人たちには、唯一の街道だった。なおこの道標から東へ150m直進し伊達医院角を右折すると県道37号線である。この道路は大正4年1915に建設されたが、それまではすべて菊川または川崎方面に行く人たちの当地を起点とする往来の主な役割を果たしていた。
 古い記録には、「川崎街道は里道にして、本村字成滝より東海道に接続し、阿弥陀寺橋を渡り、本村字満水村の大部分を経て、満水坂を越え、隣村西方村に至る。阿弥陀寺橋、従前は掛川城主にて、簡素なる板橋を架し交通の便を図りしも、城主転任と共に村費を以て架橋せしが、少しの出水にても流失し、為に大六山などを越えざるべからざる不便もしばしばありたり。故に成滝村満水村合同し、明治4年1871,8月新規架橋す。この諸金67両2分3朱、残銭1貫4匁、この橋できた後は従前より大いに便利得たれども、数年ならずして流失するに至れり、是に於いて満水、成滝、宮脇の3村協議の上、其の筋に架橋出願許可を得て、明治9年1876より工を起こし、この8月中竣工す。橋全長21間、幅7尺、この経費金113円44銭7厘。翌月即ち明治9年9月より明治13年1880,8月まで満4年閒橋銭を申し受くることとなれり。この橋は今の所より20間ばかり下流にあたれり。」と記されている。

・いぼとり地蔵堂(成滝49⁻11)、手洗石、
 創建不詳、大正2年改築、妊婦子育て中の主婦の参詣者多く、いぼとり地蔵と云われる。ガン封じに来る人も多い。
 地蔵堂から阿弥陀寺にかけて道幅が狭く、古道の雰囲気を残す。
○阿弥陀寺(成滝120)
・地蔵菩薩1.2m:堂、台座0.6m、地蔵0.4m、安政大地震により当寺も損壊したため明治25年頃修復の時に、参門を南の川崎街道より入るようにしたので、同時に地蔵も境内に移し信徒等により頭を取り付け参門に祀ったと伝わる。昭和50年代に山門修築の際現在地に移された。毎月有志によりて念仏供養が行われている。それ以来地蔵は首から上のことを何でもかなえてくれる霊験あらたかな地蔵であると言い伝わる。平成10年阿弥陀寺。
・六地蔵、観音、・板碑2、・正覚山阿弥陀寺供養塔、・赤鳥居平成七年、・諸獨稲荷、・墓石:延宝九、江戸中期後期墓石、
・秋葉山常夜燈 平成六年(成滝115の裏) 
 ‘93年版ゼンリン住宅地図では、この場所に秋葉神社となっていて狭いなりに境内がある祠のようなのだが、現在は墓地と新しい秋葉山常夜燈だけである。規模が縮小されたようだ。

~周辺~ 
 現在の川崎街道(県道37号掛川浜岡線)の旧東海道からの起点、古道より東に150m地点である。
・石道標:□□□記念西山口村 石工有治 □□□町 □□□町 □□□町 □□□十町 □□□町(成滝395⁻4)、上部欠損
 四角柱で楷書体で記入されているので近代物と思われる。
・双胎道祖神(成滝91)
 この御宅の方は石造物趣味があるらしく他の石造物も設置されている。
・地蔵:祠(成滝132⁻3)
 
○神明神社(成滝278)
 ・コンクリ手洗石、・手洗石:古、・石鳥居:明治三十八年、・秋葉山常夜燈 文化十年酉七月、・石柱2:大正五年、

・新:東海道標識、祠:馬頭(成滝315₋2)
  国道1号線から旧東海道へ分岐する地点。

○若宮神社(逆川336)、説明版:祭神:すさのおのみこと、おおきさぎのみこと(仁徳天皇)、例祭日:10月10日、由緒:すさのおのみことは天照大神の弟で文武に優れ出雲国を平定した神、八坂、津島、氷川等の社に祀られる。当社は池下村若宮の谷に鎮座していたが、寛永元年現在地に建立、昭和61年改修、おおきさぎのみことは人徳高く慈悲深い仁徳天皇であり、今より400年前悪病全治祈願して数日にて全治す。その神徳のありがたさに発願、氏神として合祀さる。
 ・石柱2:御即位紀念、・石鳥居:昭和五十七年、・シイノキ:市指定保存樹木、

・鞍骨の池(逆川422) 
 室町初期の南北朝期、周辺で戦があり、勝った南朝方が捕虜にした北朝の今川氏の家臣、堀越入道に鞍をつけたまま入水させ処刑したという伝説の池。
~~~

 成滝の阿弥陀寺の山門前を東へ通過し山口橋に達する。上記によれば古い橋は36m下流だそうだ。山口橋を渡って現在の県道に出て満水タマリ地区を東進する。
 北に山が見えだし、西満水バス停前になると、北の山に神社がある。
○高畑神社(満水538) 
 ・石段、・コンクリ手洗石:昭和十四年、・石鳥居:昭和十四年、・祠2:津島神社、金比羅神社、・石柱2、・コンクリ献燈2:昭和拾四年:シックなシンプルデザインで美しい、
 県道掛川浜岡線を東へ250m進むと北50mの山先端部に祠や堂がある。
・祠:坂東壱番観世音:新:観音:平成十四年(満水658) 
 東隣には堂がある。
・薬師堂:・手洗石(満水673₋2) 
 また県道に戻り150m東進する。北に満水公会堂がある所を左折(北)し北上する。
東に祠がある。
・祠:如意輪観世音、・手洗石:大正十一年(満水755) 
  また県道に戻り800m東進する。左に「思い出の家」レストランの看板があり、そこで左折(北)し、北東に進み、「思い出の家」手前でまた左折(北)し100m北上すると神社がある。
○一色神社(満水1386) 
 ・祠、・コンクリ石段、・献燈2、・コンクリ手洗石、・石鳥居:平成十九年、・石柱2:昭和十五年、

 満水地区の現在の県道を東進したが、実はこれが古道ルートではなく、満水地区の石造物紹介の為通過したようなものである。満水の古道は現在の県道やJR東海道本線、新幹線よりも南で「つま恋」より手前北の道である。
そこで一旦西満水バス停辺りまで戻り、線路下のガードをくぐり南に出て南の山(つま恋)手前の道を東進する。菊川市との境界線付近でちょっとした丘があり、線路はトンネルとなるが、道はつま恋ゲートへの道を上ることになる。おそらく古道は線路南の農家の辺りから線路沿いにトンネル上の丘を越えた(推定:満水坂)のだろうが、そこは現在道がないので、つま恋ゲートへの道で丘上を越え、満水を東進してきた先ほどまで使っていた県道に出て、右折で東進し、すぐトンネルを通過し菊川市となる。市境はトンネルとなるが無論近代の道だ。ここまで遺物類は発見なし。
トンネルをくぐり菊川市に入り200m東進すると右(南)横にJR線路が近づき隣に平行になってくる。線路向うに鳥居や祠が見える。ここから右折する道がないので、竜雲寺を過ぎてから右折することになる。そこで竜雲寺までさらに200m直進する。
○竜雲寺:福天権現(菊川市西方、田ケ谷3780⁻1)
 寺の裏の県道沿いに祠がある。
・献燈2:大正四年、・堂:馬頭観世音2:平成十五年、
 寺の境内地のものは以下である。
・堂:福天大権現、・観音、・三界萬霊2:施主山﨑 大正:遠江三十三所等掛川市周辺でよく見かけるものでありここにもあった、・手洗石:平成五年、・新:地蔵、・新:六地蔵、・旧:山門、
 裏山石段上には稲荷神社がある。
・石祠:小稲荷多数、・コンクリ石柱2、・石鳥居:竜雲稲荷、・赤鳥居5:平成二十一年、・祠:小稲荷:多数、・狛犬の稲荷2、
 伝説:昔、天狗が取付いた者がいて福天権現になったという。南の山に埋もれていた福天ゆかりの物もあるという。遠州十二坊の一つである。南の山とは田ケ谷神社のことか?
*参考『静岡ふしぎ里かくれ里』鈴木茂伸、静岡新聞社
石道標に目的地としてまで刻まれた福天権現であるが、陽春4/9土曜日、週末の昼に、境内には参詣人の姿はなく、本堂に隣接する住居棟の改築中で、大工さんたちが忙しそうに働いていた。福天権現と言ってももはや知る人も数少ないだろう。

寺門前から県道向うの南に線路下をくぐるガードがあるので通過する。
・JR高架線路橋(西方、田ケ谷3850₋2)
  レンガ作りのアーチ構造でレトロであり、准文化財級である。将来は文化財だろう。
 高架下ガードをくぐるとすぐ目の前に鳥居や常夜燈がある。
○田ケ谷神社(西方、田ケ谷3850₋2)
 ・石鳥居:大正四年、・常夜燈2:天保十衹七亥夷則下慮、・手洗石:コンクリ補修、・石段:宝暦八寅年、・祠、・本殿拝殿、
 ちょうど桜がはらはらと散り際であって、散歩する人、写真撮影する人たちがいた。
 鳥居前から線路沿いに300m北西進すると左(西)50m先に鳥居や祠がある。この道は線路横に直線で作られているが、線路ができる以前はもっと婉曲していたのではなかろうか。おそらく掛川市満水から満水坂を越えてきた古道はこの道に接続したのではなかろうか。残念ながらこれ以上北西進する道は現在ない。古道は完全消失したのだろう。
○神社(西方、田ケ谷)
 ・コンクリ石柱2、・石柱2:横倒し、・祠、・手洗石:寛政十二年、・石鳥居:大正九年、・石段:昭和六十年、・堂:子聖大権現、・常夜燈2:明治丗九年:1体はコンクリ補修、
 ここから東南の大頭龍神社を目指す。
 先ほどのJR線路高架ガードレンガアーチの東300mにもレンガアーチがある。
・JR高架線路橋(西方、田ケ谷3798) 
 線路沿いをさらに300m東南進する。菊川運動公園への標識があり、次に目指す大頭龍神社へ右折するが、その前に線路北側の遺物を紹介する。
 西福寺、田ケ谷八幡神社である。『遠江三十三所観音霊場巡礼道』より一部抜粋する。
○西福寺(西方、田ケ谷3597⁻1)  
・鐘、・手洗石、・祠:神、・三十三観音、・地蔵、・奉納大乗妙典、・庚申塔:田ケ谷連中、
○八幡宮(西方、田ケ谷2608)  
・石柱2:昭和五年、・祠2:神、・手洗石、・石鳥居:大正九年世界戦争終局記念、
・秋葉山常夜燈:昭和十一年:センサー付き電球、
 
 線路際の菊川運動公園への標識のある交差点で右折(南)し300m南進する。右100m先に神社がある。
○熊守神社(西方2716) 
 ・献燈:昭和七年、・手洗石、・石鳥居:大正九年、・石柱2、

・大頭龍神社への福天権現からの最短推定ルート 
 熊守神社から更に南に道なりに600m進むと東名高速高架下ガードをくぐる。さらに300m道なりに南進すると直進不能になるので、その前に左折し東南進する。道なりに700m進むと川沿いの交差点の低い所に出る。ここで上る直進をやめる。
というのもこのまま直進して大頭龍神社を過ぎてしまったためである。自動車道としては一本違いの道になるのである。
大頭龍神社へはこの川沿いの低い交差点で左折し川の下流に沿って300m東進する。ここでT字路に出る。右折し東南進する。工場地帯を川に沿い300m進む。ここで広い交差点を右折し右へ左へとカーブする道を300m南進する。広い工場地帯の広い交差点を左折し300m進むと向こうに丘がある。道は直進路もあるが、道の右前方が目指す大頭龍神社であり、神社に直進路からの裏の北口はなく、入口が右(南)なので右折し丘を南に回り込む。左(東)は丘でその上に住宅が見え、右(西)は平坦で広い工場と公園になっている。途中2カ所ほど狭い上り道がある。車で上れるギリギリの道であるが、初めてならやめておこう。確かに表参道への近道ではあり、表参道沿いの住宅への道である。南に回りきると北への参道の上り道がある。
ちなみに先ほど一本違いの道のことを記入したが、その道では先ほどの低い交差点を直進し、上りきった辺りで、車では無理だが、自動車道の上りきった辺りより更に20mほど歩いて左の山上の尾根に出ると、そこが西方と加茂地区の境界線尾根である。その境界線尾根の古道に沿って400m南下し、ちょうど大頭龍神社の真西に到達した辺りで東に1㎞向かい大頭龍神社に出るというのが、福天権現からの最短古道推定ルートである。
大頭龍神社の紹介は次の「2 伊達方ルート」を述べてからにする。
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~2 掛川市伊達方ルート~ ダテガタ
・石道標:福天大権現杏 、 是より  、これより ふくてんごんげん(道、ミチ?)、   寛保二 日坂町建 石屋伊    (掛川市伊達方⒕)
 だいぶ刻字が読めず保存状態が成滝の物と比べよろしくない。説明版もない。
西向かいはかつてタバコ屋で一里塚跡という。
・一里塚跡(伊達方31)  
 ・説明:一里塚は慶長9年1604江戸幕府の命により築かれた。江戸日本橋から一里4㎞ごとに塚が設けられ、松か榎を植えて目印とした。旅人にとって夏は木陰、冬は風よけとして重宝がられた。また塚の傍らには旅人の必需品が商われたほか、一服できる休憩の場であった。江戸日本橋から京都まで125里約500㎞。掛川市内には佐夜鹿、伊達方、葛川、大池の4カ所に塚が設けられていた。ここ伊達方一里塚は江戸より57番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側辺り、北側は現・三浦たばこ店屋敷辺りに設けられていた。当時塚の大きさは直径7間、高さ3間の小山で、一里山と云われた。明治33年頃取り壊されたという。

 三浦たばこ店がかつての一里塚だという。現在はその西隣に一里塚石碑がある。一里塚石碑の向かいに大頭龍神社がある。と言っても祠があるだけの5m四方の空間である。しかしここから旧東海道から南に分岐する川崎街道:現在の県道菊川停車場・伊達方線の起点である。
○大頭龍神社(伊達方28⁻1) 
 ・手洗石:摩耗して刻字不明、・石鳥居:昭和丁丑十二年一月六日建之、・石道標:大頭龍神社 従是一里十五丁 昭和五季三月建之 加藤減重、・祠:神祀、・石道標:西方村 堀ノ内駅 ニ通ズ 掛川駅ヘ約一里十四丁 堀ノ内駅へ約一里三丁 日坂村役場へ約十九丁 大正二年十月建設 東山日坂村青年會、 

~周辺~
・塩井神社(伊達方、塩井川原485⁻1) 
 東海道と川崎街道分岐点より東に400mの国道1号線と旧東海道の分岐点辺りにある。あると言っても逆川を歩いて渡らねば神社に到達できない。橋はなく川を徒歩で歩くしかない。神社地から塩水である鉱泉が出るということである。
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 川崎街道の起点であるが、現在の県道分岐点なのか東20mの大きい石道標のある路地なのか判別不能である。両ルートとも南へスタートする。100m南進すると逆川に架かる豊間橋に出る。
路地側は土手に出て橋がないので、結局この橋に行き渡る。豊間橋を渡って150mほどで右(西)の水田の道へと100m西へ移動する。ちょうど西1本分の道を移動し南を目指す。水田から住宅のある道になり右(西)に小川がある。すぐにやや広い自動車道に出て横断するが、ここで横断してすぐに西へ10m進み、カーブしている路地を南に進む。伊達方1005₋2:伊藤氏宅東側を南に進む。伊藤氏宅を過ぎるとすぐに大井川用水が東西に横断している。ちょうどこの手前に祠が2つある。
○秋葉山常夜燈(木造瓦葺)、祠:庚申?(伊達方1005₋2) 
 大井川用水の南側は山斜面になる。その山斜面の取付きにコンクリ製祠がある。
・コンクリ製祠:地蔵2、石塔1(伊達方1005₋2) 
 この祠の前を東へ向かう山道と、祠の西5m地点から南に向かう山道がある。
 上記の道や石仏については伊達方952:伊藤氏談。
 私の勝手な推理では、東への山道は、東へ向かうと100m先で付近住民の墓地に出て道が終わるが、かつてはおそらく道が山斜面沿いにうねりながら南に続き、現在の伊達方トンネル(掛川市伊達方と菊川市西方の境)付近につながり、西方へ抜けられる道だったのではなかろうか。
 西側の山道はこのまま枝尾根を抜け西側の畑地へ出られるが、また枝尾根を上り詰めることができ、そのまま枝尾根を詰めると現在の伊達方トンネル真上にも到達できる。かつてはトンネル手前の高圧鉄塔跡地辺りから南へ抜けて菊川市西方へ出られる古道があったと推定する。現在この枝尾根は悲惨であり、南に抜ける道らしきを発見できない。   
 そこで西方へ行くには伊達方トンネルをいったん通過するしかない。そして通過後もトンネル南西方向は工場か作業場が1つある。どうもそこの西北方向から古道が出てきて平地に下り、その工場か作業場前の道を南東に下り、現在のトンネルから下ってきた広い道と交差して南東方向に下り、西方5501:井伊谷氏宅、西方5508⁻1:黒田氏宅前の道へ下りたと思われる。
 そこからは首塚様のお堂前を通り、三島神社前の道を通ったというより、西方川の反対側に古道はあったようで、反対側の山すそに沿い奉仕橋方向へ東進し奉仕橋から南東に向かう道に出て、その広い道から東へ曲がり、西方5918₋2:内田氏宅前を通り、その東先で現在は道が消失するが、山に入っていて、東の潮海寺地区の⑩成就院跡地前に出て、通りの尾根(相良往還)と呼ばれる尾根道に出たようだ。
~~~
○お堂:首塚様:説明版:所在地:沢田坂下:首から上の病には、この首塚様へ願をかけ、願い叶えば松笠や穴あき石に糸を刺し齢(年)の数ほど供えなされ。昔から願掛けすると必ず治ると遠近からの信者の参詣が後を絶たない。しかしその由来は定かではない。建武三1336年、今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江守護となり以後60年が続いた。応永二十六1419年尾張の斯波氏が守護となり、その後約100年が続く。このようなことから鎌倉時代後に武威を張っていた今川方の古名族横地氏も斯波氏に属することになった。しかし今川義忠は遠江を回復せんと堀越陸奥守貞延を総大将に横地・勝間田の本拠地小笠・榛原に進撃、小夜の中山南側の海老名エビナ・影森・公文名一円が壊滅的戦場となった。士将貞延も牛頭ゴウズまで来て惨敗したと伝えられ鞍ごと池に投げ込まれたと言う。この鞍骨池伝説や海老名辺りに点在、祀られている石塔は往時を物語るものと思われる。この首塚様や堂山は、この戦の名だたる武将やかかわりのあった人たちを供養お祀りした場所と思われる。近年は霊験あらたかということで病気平癒と合格の祈願の信仰を集める。平成20年(2008)1月吉日 菊川文化財保存会鈴木利夫氏の文を基にして記入
○三島神社:・庚申塔:平成二十年、・祠3、・石柱:昭和四十一年、
右岸道300m右への道100m奥に神社がある。
広い道(公文名の市道と県道菊川停車場伊達方線)が合流する箇所に石道標がある。
・石道標:「右瀧之谷守本尊ヘ廿五丁 左東海道ヘ十五丁 堀之内駅ヘ廿七丁 大正十四年環居紀念」
~~~

 ここから先は伊達方トンネルを通過して、西方に出て、西方から、大頭龍神社へ向かうルートを紹介する。それは自著:「遠江三十三所観音霊場巡礼道」のルート沿いになるので、そこからの文章を組み直して載せる。部分的に文章を追加している。
~~~*『遠江三十三所観音霊場巡礼道』より抜粋し組み立て直す~~~
 また伊達方トンネルまで話を戻す。
伊達方トンネルから道を下ると、神社がある。またはトンネルを下ってくる現在の道の西の古道沿いの作業場か工場の西から南の寅尾神社に向けて細い道が付いていたかもしれない、というのも、寅尾神社前にも道らしきがあり、かつての古道かもしれないと考えられるからである。
○寅尾神社:・手洗石:昭和三年、・石柱2、・石段:御大典紀念昭和参年、・板碑、
・狛犬2、・庚申塔2:大正九年、寛政十二、
 寅尾神社の南で道が分岐する。
広い道(公文名の市道と県道菊川停車場伊達方線)が合流する箇所に石道標がある。
・石道標:「右瀧之谷守本尊ヘ廿五丁 左東海道ヘ十五丁 堀之内駅ヘ廿七丁 大正十四年環居紀念」

 川崎街道メインルートは潮海寺地区へ向かうが、ここから一旦、竜雲寺:福天権現や大頭龍神社へ向かうルートにして説明する。

道の合流地点から100m南へ進むと右にコンクリート擁壁がある。そこに石仏がある。
・石仏:すでに地蔵か観音か不明だが、頭部上部に細長いものがあるようなので、おそらく馬頭観音かと思われる。
100m進む。右に寺院がある。
○洞源院:・地蔵、・観音、・観音:西国三十三所安永四乙未、・手洗石、・昔の鬼瓦、・祠:神、・新四国第八十六番霊場昭和九年、・菊川地蔵尊巡り四番、・洞源院昭和五十年、
・石道標:「記念 東海道一斤八百八メートル 十六町二十間 堀之内駅ヘ二千八百三十二メートル 二十五町五十一間 大正十三年一月廿六日建之 澤田部青年團」 
50m進むと東海道新幹線に達する。古道は西方川左岸沿いのようだが、道がないので右岸を迂回する。右岸道150m行って右道奥に神社がある。
○七社神社:・新:献灯2、・石鳥居:御即位紀念大正四年、・常夜灯:明治四十三年、
      ・石柱2:大正四年御即位紀念、平成二十三年、
右岸道50m進み右奥に神社がある。
○岡の宮神社:・石柱:大正六年、・石鳥居、
 岡の宮神社の150m南の県道菊川停車場伊達方線が西方4503₋2山西茶農協製茶工場横へ東に入った路地に石仏がある。
・石仏:馬頭観世音、
右岸道を迂回したが、途中で左岸道が現れて来る。新幹線ガードから左岸道を1.2㎞進むと県道掛川浜岡線の1本北側の旧道に当たる。
福天権現へは、ここで右折(西)して、西福寺、田ケ谷八幡神社、秋葉山常夜燈を通過していくことになる。

大頭龍神社へは、遠江三十三所観音霊場の28番正法寺と同一ルートと推定されるので、先ほどの県道掛川浜岡線の一本北側の旧道で左折(東)する。北の山腹に神社がある。
○山宮神社:・板碑:大正八年、・庚申塚:明治三十年、祠3:神、
・石鳥居2:大正十五年、、献灯2:昭和四年、・祠:子育て地蔵、・手洗石、
・祠:地蔵、・板碑、・秋葉山常夜燈:木造金属葺、・石段:皇太子殿下御降誕記念、
・石柵:平成二十年、
古道的には300m東進して南下して東海道本線をくぐって28番に達するのだが、その古道は消失し、現在は線路をくぐる道はもっと400m東進しないと無いので、そちらに迂回する。28番正法寺の奥さんによればかつては石道標があったそうだ。
迂回したガード下道の100m手前東の丘上に神社がある。
・神社:・お堂、・コンクリ手洗石、南側に階段状参道があるが、草と倒木で使われていないようだ。北側は新興住宅地で道に面しているが、柵と擁壁があり、入口がない。ということは誰も祀っていないのか? ’16 2/11
県道掛川浜岡線と東海道本線に交差する所で線路をくぐる所に戻ってくる。
古道はどうも迂回せずに28番へ直に向かったようだが、現在そんな道はないので、迂回を含めガードをくぐって線路の南に出る。西の山際に28番がある。 ’16 2/11
○第二十八番 拈華山 正法寺(菊川市西方1329、にしかた)ねんかざんしょうぼうじ  
 創建:天正2年1574、開基:堀田正法、開山:龍雲院三世実伝宗貞和尚、本尊:聖観世音菩薩:寄木造り座像72㎝:伝行基あるいは運慶あるいは逢雲作、宗派:曹洞宗、開帳:秘仏・33年毎、縁起:
旧菊川町の寺院は森の大洞院の流れを汲むものが多い。
桐田氏私見:堀田氏は堀内氏(城飼キコウ郡:小笠郡堀之内城)で正法寺開基は堀之内重親だろう。ただ武田徳川の争乱期で寺院を開基し経営できたかは検討を要する。
安政三年1856冬失火焼失、本尊は免れる。諸堂再建は廃仏毀釈で進まず大正14年1925竣工。堀田城城主堀田正法開基で龍雲院三世実伝宗貞を招いて開創、八ツ谷観音、厄除観音、子育て、縁結び、
・鐘楼:鐘がない、戦時中供出。平成4年鋳造。
・丸い大石:「天保十四年 二十八番札所 正法寺」:参道入口、
・本堂:大正十四年落慶、
・梅古木:本堂前、
裏山は山城:堀田城または松下城、山城の輪郭が残る。中腹には円墳があったが、崩落の恐れがあり1993年発掘調査、記録保存し整地し正法寺霊園になっている。
~追加~
・堀田城(松下城):裏山には上れるし、本曲輪には標識「本曲輪」が立てられているが、他は一切ない。曲輪や堀切があり、しかも二重に切られた堀切が複数あるなどするが、そういった説明や標識類がないことが残念だ。
・円墳:霊園の中央部分らしいが、記録保存して取り壊したので一切わからない。
地元の郷土愛好家グループや教育委員会で標識や説明看板を立ててほしいものだ。
・祠:神を祀る。・供養:地蔵10、・新;献灯、・新:手洗石、・古:手洗石、
・裏山山頂:祠:秋葉山三尺坊大権現、秋葉神社   ’16 2/11
有住、駐車場有、Tel:0537-35-3612

~周辺~
東側の山上には常葉学園(大学、短大、高校、美術館)、楠木神社、菊川神社、大徳寺、公園、グラウンド、市役所、福祉施設、教育施設がある。
不本意だが古道がないので現在の自動車道を東名高速もくぐり1.5㎞進む。
途中東名高速高架をくぐる手前の東に神社がある。
○八幡神社:加茂、白岩東:・石柱2:、・手洗石:(二つ割れ)、
・石鳥居:明治十十十(廿の3本)六年、・献灯2:臺灣(台湾)高雄市織部恭市昭和十一年、・石段、・新:手洗石、・古:手洗石(割れ)、・石段、・狛犬2、
・石柵:昭和六十一年、
左折(東)し県道高瀬菊川79号線を東に800m進む。
途中北の高台に神社がある。鹿嶋神社:古墳でもある。
○鹿島神社:古墳、
・石碑:鹿島神社参道入口 平成二年、石造成記念、・鹿嶋神社表参道 平成九年、・石鳥居:明治三十九年 再建平成六年、石柱2:大正九、・新:手洗石、・石鳥居:平成二年、・石柵:平成九年、・石柱2:大正四年十月 御大典 五丁目氏子中、・石柱2:、・狛犬2:平成六年、・献灯2:平成六年、・稲荷神社:稲荷2:平成二年、・石家道祖神、
・鹿島遺跡:説明版:今から4~5千年前、縄文時代中頃(加曾利E式)の村落跡、道を隔てた北側からは宅地造成の際に二軒の縄文住居が、また遊園地の東部分からも二軒の住居跡が見つかり、土器、石斧、石器の材料の黒曜石斧が発見された。町道より境内に入るために切り取られた道しろ辺りと園地の東南部分で比較的新しい住居跡が発見された。出土土器は八斗地遺跡(旭グランド)の奈良時代のものと似ているのでおよそ同時代の村と考えられる。
・鹿島古墳:説明版:公会堂脇にある古墳は今から1400年前のかなり身分のある人の墓で、周囲には円筒埴輪は巡らされ、直刀を出土し、直径は十数メートルあったが、現在は西半分が残っている。埴輪を伴う古墳は郡下でも数カ所しかないが、そのうち旧菊川町内に3か所ある。高田ヶ原公園に2カ所。役場西の森の高田原の大徳寺前方後円墳は古代この地方の王の墓だが、この王の墓を中心に代々主な古墳がこの台地に作られ、集結している。打上台地は東寄りから南べりに八幡社の円墳まで数箇所に古墳があるが、今はほとんど消失した。この原一帯は湧水のある場所に奈良時代の家が散在し集落を形成した。菊川町の古代は、この高田原台地を中心に文化が栄えていたことを物語っている。
~~~~~

 28番正法寺の参道入口に戻り、南へ300m進み右折(西)するか、南へ400m進み豆尻橋を渡り、次の道を右折するかして、西の山際に出る。西の山際で南へ進み、東名高速高架ガードをくぐる。ガードをくぐると五差路になる。左右の高速道の側道ではなく、前方右の工場への広い道でもなく、左側道と工場への広い道の間の前方左(南)の狭い道を進む。ちょうどガードをくぐったところで西方、堀田地区から加茂地区となる。西の山際に沿い300m南西へ進むと、右折(北西)し山へ登っていく道がある。
○井成神社(加茂804⁻5)井成山 
 ・説明:井成山と三浦刑部:稲作文化が進むにつれて、今まで荒蕪の地だった白岩地帯へ水田ができたが、村の中央を流れる西方川も東へ隣接する菊川もともに、川底が低くて田へ水がのらず、干ばつのたびに稲が枯れ死するので、年貢にもさしさわり農民はいつも不作を嘆いていた。ここに三浦刑部という偉丈夫があって、これをだまって見過ごすに忍び図、決然と立って治水の路を開き、村民の苦難を救おうとしたが、当時は排他気分が盛んで許可なく他村へ立ち入ることはできぬ申し合わせがあったので、測量等には嘘や方便、狂気を装ったり、凧を揚げて糸を切り、凧を拾う振りをして隣村に立ち入ったりして、智謀の限りを尽くして、地形、距離、落差を調べ、用地は農耕にかこつけて買収する等、苦心惨憺の末、ついに潮海寺掛下から菊川の水を取り入れる企てに成功し、矢田部から潮海寺・上本所を経て半済を通り白岩・長池に通じる水路を完成した。村民は瀬波を立てる井川の水を見て、一同起死回生の思いに浸り、今もなお刑部の徳をたたえている。それ以来加茂は豊穣の地となった。
 ・説明:三浦刑部と加茂井水:400年前加茂村は「嫁にやるなら加茂はおよし、加茂は雲雀の遊び場所」と言われ荒れ果てていた。今川軍の武将三浦刑部は桶狭間の戦いに敗れて武士をやめ、農業を志し、清水の里から二人の息子と加茂村にやって来た。田圃の開発を決意した。加茂村は菊川、西方川に挟まれているが川の流れが低く、川の水を利用できなかった。
刑部は幾多の困難を克服して菊川の水を潮海寺村より、半済村ハンセイムラ、本所村ホンジョムラを通り加茂村に導く測量に成功した。13年の長い歳月をかけ、刑部は途中で没したが、二人の息子により井水(用水)は完成した。2千石の米が取れる加茂村が大村としてよみがえった。以後江戸時代はもとより菊川町合併まで延々と流れる井水とともに加茂村は続いた。
 村人は刑部の高い志とその恩恵に感謝して、井水の全部が見えるこの山の頂に祠を建て、感謝のお祀りを4月の第一日曜日に加茂地区を挙げて盛大に行われる。なお、この神社は井水が成る「井成神社」と言い、同時にこの山を「井成山」と言う。
 用水地図では、菊川の水をJR線路より北側で取水し、菊川の西側を加茂地区に分流して流していることが分かる。
 ・説明:加茂井水 争いの歴史:
天正九1581年、井水の工事を始める、
文禄三1594年、井水完成、
1700元禄13年、本所村が吉田領加茂村陣屋へ訴える、
1701元禄14年、本所村が幕府評定所へ訴える、
1703元禄16年、加茂村が本所村を幕府評定所へ訴える、
1704宝永元年、本所村と潮海寺村が加茂村を幕府評定所へ訴える、
   幕府裁定 刻割り制
 潮海寺村0時~2時、本所村2時~6時、加茂村6時~24時、
 大井川用水の通水まで続いた
 1761宝暦11年、井水の公平を期して総百姓が立ち会って決定した定め書きを作った
   加茂村御相給定書
 1788天明8年、加茂村が本所村を吉田領地方役所へ訴える
 1790寛政2年、終結
 1793寛政5年、村内上部落対下部落の争い
 1856安政3年、神尾村、潮海寺村の鰐淵井堰の改善について争い
 1857安政4年、神尾村、潮海寺村が加茂村を幕府評定所へ訴える
   幕府検使が現地検分
 1860万延元年、幕府の指示により示談成立

・石段:昭和十一年、・祠、・御夜燈:昭和三年、・石鳥居:大正二年、・手洗石、・金毘羅神社、・石鳥居:大正二年、・御夜燈:昭和三年、・手洗石:元治二丑年:横倒し、
 神社のある山は散策コースになっていて周辺の眺めを楽しむことができる。山の名は井成山のようだ。見晴らし台もある。
 井成神社への上り口の西にお堂がある。
○堂:一番山長正寺(加茂804⁻5) 
 ・御夜燈2:昭和三年、新:昭和十年(再建?)、・石塔:菩薩、
 先ほどの井成神社への参道入口に戻り、150m西進すると、大頭龍神社の大鳥居(東口)がある。
 ちなみに福天権現から西周りルートで達した大頭龍神社参道入口(南口)は、ここからさらに400m南進した所である。
○大頭龍神社(加茂、白岩段944⁻1⁻1) 
 ・説明:正一位大頭龍神社:祭神:大物主大神、大山咋大神、出雲龍神、由緒:当神社は往古より御山へ宝祚延長天下泰平国家安穏の御弊氏子崇敬者安全繁栄の御幣を立願にて相建て今日に至る。当社は桓武天皇延暦11年勧請と口碑似て伝わる。御神徳は疫病鎮護厄除縁結びにしてその福徳の神様を奉斎申上げる。現在は建立社殿は宝暦13年、文化12年の修復再建である。鳥居額:神祇管長上従二位卜部朝臣兼雄公筆、拝殿内額:徳川家達公筆、神事:七十五膳奉幣厄除篝火、昭和37年。
東口
 ・赤鳥居:大正九年、昭和六十三年、・永代常夜燈2:大正十四年、・石柱2:昭和五十四年、社名碑:大頭龍神社:昭和三戊辰年、
 北の家の裏山に祠がある。
・祠:神、・
 南口
 ・石柱2、・祠、・石柱2:大正四年、
 南口参道入口より北へ240m、本殿前大鳥居より南に150m地点
 ・永代常夜燈2:文政元年戊寅十月吉日
 本殿前
 ・祠:神、・石柱2:大正四年、・金属鳥居:文政七、・常夜燈2:昭和戊辰之秋、・永代常夜燈⒑:大正十四年、・献燈:昭和三年、・常夜燈:長谷川:文政九年、・永代常夜灯:明治四十三年、・狛犬2:昭和三戊辰、・板碑:聖徳太子、・永代常夜燈2:寛政七年、・石柱2:紀元二千六百年、・石段:文化七年、・永代常夜燈2:文化十三丙子歳、・板碑:寄附人、・板碑6:金壱百~、・手洗石:昭和二十八年、・手洗石、・永代常夜燈(3:文化十三、大正四年、2:明治四十四年、平成二十一年、文化十一)・永代三夜燈(2:文化十三、2:文化十有四年、3:文化十四年)、・常夜燈:破片、板碑2、・自然石:丸石、
桜名所であり、参道沿いは満開時素晴らしい光景だ。しかし桜満開4/9土曜日という週末の15時過ぎの晴れた日に、隣の児童公園に遊びに来た親子連れ2組、近所の人の散歩姿数人のみで、神社受付売店の神主さんも15時過ぎに帰ってしまったので、私は御朱印を貰い損ねた。16時過ぎまでいたが、他に参詣に来た人は0人。大頭龍神社と謂えばかつては遠州きっての名刹、格式ある大神社であるはずで、大鳥居や常夜燈の年号や規模からして江戸時代後期より近代までは、大いに流行っていたはずだ。だからこそ大頭龍神社への石道標があるのだし。しかし現在は静かな神社だ。神社の栄枯盛衰を見た。それにしてもこんな静かな陽春の昼下がりに満開の桜に囲まれたというのは極楽至極ともいえる。 
 
 大頭龍神社を紹介したことで、このルートの説明は終了する。次は川崎街道の菊川市西方から潮海寺へのルート説明である。

菊川市西方の奉仕橋から南東に向かう道に出て、その広い道から東へ曲がり、西方5918₋2:内田氏宅前を通り、その東先で現在は道が消失するが、山に入っていて、山坂(どうもこの坂か、次の「通りの尾根」の坂を相良坂と言ったようだ)を上って東の潮海寺地区の「⑩成就院跡」前に出て、「通りの尾根(相良往還)」と呼ばれる尾根道に出たようだ。
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 潮海寺地区の「⑩成就院跡」前を通過し「通りの尾根」前に出る。昔は「通りの尾根」を歩けたのだろうが、尾根に取り付くところもないほど雑草に覆われているので上るのをあきらめる。東西に延びるこの「通りの尾根」の北側と南側の平地境には、現在舗装された農道になっているので、そちらを通行する。南回りの農道では「⑪常楽院跡」の標識がある。また新幹線線路際に出て線路高架下ガード前には「⑫向田坊跡地」への案内標識もある。更に南周りを東に向かうと通りの尾根が終わる手前に「⑨中の坊跡」「へ:螢谷」の標識がある。
 北回りを東に向かうと、舗装されているがかなり雑草が多く、廃道に近い。雑草を抜けると「田子谷」辺りに出て、さらに東に向かうと通りの尾根が収束しに「⑨中の坊」「へ:螢谷」のすぐ北側に出る。ここで新幹線高架下ガードを南にくぐり、東側の潮海寺への台地を南へ行きつつ上っていき、潮海寺参道入口付近に出て、潮海寺の寺の南を通過し和田へ出ることになる。
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 ここで一旦潮海寺地区周辺を紹介する。
 潮海寺参道前の潮海寺615₋2:岩水酒店前に出る。ここから南に50m行くと東に「お祭り広場」があり、潮海寺周辺の案内図・説明版がある。
・潮海寺:説明版(潮海寺615⁻9) 
 ・説明:潮海寺は平安時代798~1190頃寺領を中心に大いに栄えた。寺の領域は掛川の成滝から菊川の仁王辻まであったと云われ、この中に75もの寺(坊)を配し、うち潮海寺には15坊があった。
 潮海寺十五坊:①学頭坊、②本善坊、⓷勝養坊、④行賢坊、⑤高塚坊、⑥小池坊、⑦法蔵坊、⑧地蔵堂、⑨中の坊、⑩成就院、⑪常楽院、⑫向田坊、⑬桜本坊、⑭梅本坊、⑮最勝坊
 潮海寺八景:い:囁ささやき橋の夕照、  ろ:行賢坊 時雨、  は:塩井神社 塩井戸の浮月、  に:高塚坊 富士見、  ほ:法蔵坊 暮の鐘、  へ:中の坊 螢谷、 と:梅本坊 春霞、  ち:最勝坊 秋の月
 更に南に向くと潮海寺の古い山門がある。
・潮海寺山門、仁王像(潮海寺2668⁻1)  
 ・説明:潮海寺仁王門:菊川市指定文化財:潮海寺の始まりは天平年間、行基によって彫られた薬師如来を安置し、780宝亀11年になって寺堂が建てられたことによると伝えられる。「後拾遺往生伝」という文書には、平安時代中期の寛治年間1087~1093に多くの高僧がいたことが記されている。天正年間1573~1592と推定される古文書では、徳川家康の家臣大須賀康高により潮海寺本堂建立のため、河村郷内での用材の伐採を許されている。寺の残された棟札ムナフダによると、薬師堂が1694元禄7年、本堂が1730享保15年に建立されたことがわかるが、二王堂の棟札では年号が確認できず、現存の仁王門のものかも確定できない。ただし地元に残る写しから1705宝永二年9月と推測され、建物の年代観とおおむね合致すうr。二王堂建立の願主は阿闍梨有誉。仁王堂施主(お金を出した人)は西方村山内□□時盛、大工は西方村藤原□□□□□三郎□。仁王像の彩色施主は倉澤村山内徳左衛門、漆師は山名郡袋井町門□与次兵衛と記されている。(□は判読不明)。その記述から、堂の建立とともに仁王像に彩色が施されたようだ。
昭和32年菊川町指定建造物。平成17年1月菊川市誕生とともに菊川市指定となった。
 平成元~二年度にかけて大規模な解体修理が行われた。建立当初の茅葺から瓦葺にされていた屋根は解体修理の際に銅版葺きに改めた。解体修理と同時に仁王像に関しても調査が行われ、所見では、江戸時代中期の在地仏師による作で、玉□に彩色された仁王像とは異なると考えられる。
・秋葉山常夜燈、・石段、・薬師如来:文政□□、
更に南に神社というか祠がある
・津島神社(潮海寺560⁻1) 
 ・祠:不動明王像、・手洗石、・石塔、
 南60mに祠がある。
・祠:杉葉屋根葺き、・木鳥居、
 250m南進し、右折(西)120m、右に祠がある、
○祠:神(潮海寺2788⁻3) 
・いくつかの五輪塔上部、・いくつかの自然石の丸石、
 30m西進。
○新宮神社(潮海寺2810⁻1) 
 ・金属鳥居:平成二十一年、・石柱2:御大典記念、・奉燈2:大正三・四年、板碑:勅忠・族忠、手洗石:明治三十年、・大木2~5、
 100m西進。
○長泉寺(潮海寺2582⁻3) 
 ・自然石、・地蔵2、・山門、・台座のみ、・馬頭?:天明八、・千部塔、・十部塔、・石塔、・庚申供養塔、・西國三十三所玉砂埋蔵供養塔:文化十三子年、・不許藝術賣買人入門、・萬霊等:寛政八、・制葷酒、・堂、
~~~
再び北の山門を過ぎておまつり広場へ戻る。
山門を過ぎておまつり広場手前の反対側の西には「⑮」がある。
・「⑮最勝坊跡」「ち:秋の月」(潮海寺2120⁻8) 
  ⑮から西150m地点には⑭と「と」がある。
・「⑭梅本坊跡」「と:春霞」(潮海寺2659⁻1) 
  ⑭から西150m地点には⑬がある。
・「⑬桜本坊跡」(潮海寺2655) 
  ⑬から南西500mに⑫がある。 
・「⑫向田坊跡」(潮海寺) 
  ⑫の南西150m地点に神社がある。   
・日吉神社(堀之内、宮前664⁻3)
 ・石柱2:昭和七年、・石鳥居:大正二年、・石段2:大正九(元)年、・献燈2:平成七年、・手洗石:平成七年、・狛犬2:平成七年、・祠:津島神社、・祠:金刀比羅神社、
 
 潮海寺山門北の「おまつり広場」までまた戻る。
「おまつり広場」の北を目指す。まずすぐ西北の茶畑であるが、かつては地蔵があったようだが、見つからない。
・茶の木地蔵(潮海寺2120⁻7)
 未発見。おまつり広場より70m北に現在の潮海寺がある。
その手前には大門があったらしい。
・大門(潮海寺2115) 
 かつて潮海寺の大門があったようだ。
○潮海寺:おたきあげ寺(潮海寺616) 
 ・堂:遠州□□□大師第十二番霊場、・祠:赤鳥居、・○奉待庚申供養石塔造□:見聞言ザルレリーフ、
 ・「①学頭坊跡」「②本善坊跡」
 真北へ300m進む。途中新幹線上の鉄橋を渡り、薬師堂、八坂神社に至る。かつてはここに巨大寺院があったようだ。
○潮海寺薬師堂(潮海寺2103⁻1)
・「い:囁ささやき橋の夕照」()
 ・説明:潮海寺 薬師堂:現在薬師堂が建っている所と墓地の付近にある大きな石が昔の建物の土台石と考えられ仏教文化の跡が偲ばれる。薬師堂の所にある礎石は33m前後の間隔があり縦横67個が数えられる。現在の畳を敷き詰めたとすれば百数十畳の広さをもった建物が想像される。礎石は3種類以上の物が混在している。また散在する布目瓦も平安鎌倉…と数種類がある。桓武天皇の頃、坂の上田村麿が七堂伽藍を建てたという話が残り元禄時代に再建した文書や棟札がある。そこで800年以上前からかなり大きな建物があったようで、幾度か立て直しが行われたことが偲ばれる。またこの台地一帯は山城跡であるとも言われ、立地条件も整っているし横地に対する今川氏の出城武田氏の遠州攻略には徳川方の砦として兵火にあったといわれる。昭和51年調査で薬師堂側で33個、墓地側で25個が確認、西南の墓地附近まで広がっていることが分かった。
 ・石燈2:明和三、・礎石4:70㎝、・鐘楼、・大円堂、・木鳥居、・自然石4:縦長、・新:十三仏:薬師は本尊で堂内にあるのでここにはない、・三面観音、・堂:金毘羅宮、・西國三十三所観音供養塔、・善光寺供養塔2、・□□□圓供養塔、・善光寺供養塔:文政□未年、・堂:弁財天、・板碑:佛天、・三十三所供養塔:文政元年、・石塔:寛政二年、・手洗石:享保十四年、
・「⓷勝養坊跡」 
○八坂神社(潮海寺1959)
 ・説明:祭神:すさのおのみこと、例祭日:7月23日より25日、由緒:天平の中頃の創立。人皇45代聖武天皇の御代、広厳城山薬師堂山の良の頂上へ勧請し奉る。牛頭天皇と尊称し、薬師如来の御前立と定め、潮海寺の鎮守とし、なお本村氏神と尊び奉る。慶長12年造営、寛永年間造営、天保3年造営、正徳壬辰年造営、宝暦4年造営、遷宮式の棟札あり、明治4年、神仏混淆禁止の際、神仏分離して八坂神社と改称す。昭和6年1月、村社に列格す。
 ・説明:素戔嗚尊、大祭日:祇園祭は人々の厄を祓い農作物の豊穣を祈願する祭だ。平安時代の古式ゆかしい神輿の渡御を賑やかなお囃子にのって屋台がお供をする。屋台が仁王門の石段を下り上りするさまは実に勇壮だ。昔は毎年、京都八坂神社の祇園祭と同じ期日に行っていたが、昭和初期頃から茶の生産時期と重なるため、7月23~25日となった。27年からは3年に一度となり、更に63年からは7月23日に近い土。日を入れた3日間行われることになった。
 由緒:天平の中頃740人皇45代聖武天皇の御代、廣厳山薬師堂の鎮守として、牛頭天王を境内の艮コン(東北)の方位山頂に祀った。これを「お天王さま」といって、村民の氏神とし、江戸時代末期まで栄えた。
 明治4年神仏分離令によって、祭神の牛頭天王は素戔嗚尊であるとし、社名を八坂神社と改称した。神殿は仏法の守護神であるが故に薬師堂境内地を分割分離した。現在も神社と寺が同一境内地に共存すうr神仏習合の形態を留める神社は少なく往時の面影が見られる。昭和6年1月、河城村村社に列格、昭和20年敗戦により無格社となり、現在は9等級神社。
  神社境内地には、合祀社「金山社、白山社、いざなぎ社、奥津社」、「金毘羅社」
  祭神説明:素戔嗚尊はとても気の荒い神である。尊は高天原で天照大御神に乱暴を働き、天岩戸事件を起こして出雲の国へ追放された。そこで尊は出雲の国、簸川ヒノカワの上流に人が住んでいることを知り、鳥髪に天下って「八岐大蛇ヤマタノオロチ」を退治して櫛名田姫を救い妃にした。その子供が大国主命である。その大蛇の体内からは天の叢雲ムラクモの剣が出た。この剣を持って日本武尊は東夷征伐に行き、賊軍に焼き討ち攻めに遭ったとき、この剣で草をなぎ倒したことから、草薙の劔と呼ばれ、熱田神宮に祀られている。
・祠:中に祠5、・石柱2:大正四年、・社名碑:村社八坂神社:昭和十二年、石鳥居:昭和四十二年、・献燈2:平成十六年、・手洗石:明治□□□、・石段、
 当地より東北へ200m進む。途中老人ホーム前を通過し、やや南に進む。
・「④行賢坊跡」「ろ:時雨」(潮海寺758)
 北方面に150m進む。右(東)へ「は:塩井神社、塩井戸の浮月」の標識があるので、右折する。150m東進する。左(北)へ60m。
○「は:塩井神社、塩井戸の浮月」(潮海寺)
 ・説明:奈良時代、広く人々に知られ、南西にある潮海寺は聖武天皇の頃、潮井戸に因んで潮海寺と名付けられた。郷土の産んだ国学者:栗田土満:菊川市段平尾八幡神社官は当時の情景を「木の葉もる月の光も卯の花も桜も雪と波とこそ見れ」と歌った。当時の潮(塩)井戸は塩分を含む鉱泉が強く湧き出ていたが、安政の大地震によって地層が変化し46mほど北側から噴出するようになった。この井戸は3年に1度、7月に行う潮海寺八坂神社の祇園祭の時、お水とりの神事に用いられる。八坂神社と薬師堂は南の塩谷坂を上りきった西の森にある。

 先ほどの標識まで戻る。ここからまた北を目指す。400m北進。
・「⑤高塚坊跡」「に:富士見」(潮海寺)
  すぐ東側の丘頂上周辺のようだ。ちなみにこの時カモシカがいた。
 700m北進し、左折(西)し600m西進する。また右折(北)し200m。右(東)に標識がある。
・「⑥小池坊跡」(潮海寺)
 西進70m。
○薬師堂:奥ノ院:岩井堂(潮海寺)、水源
 ・献燈2、
潮海寺の巨大寺院の北端のようだ。120m西進。左折(南)400m南進。
・「⑦法蔵坊跡」「ほ:暮の鐘」()
 150m南進。坂を下った所に石仏がある。
○石仏(潮海寺)
 ・石祠:道祖神、・「道祖神」、・地蔵、
50m南には「奥の池」である。
・「奥の池」(潮海寺)
 300m南東進。橋の袂に標識がある。
・「⑧地蔵堂跡」(潮海寺)
 90m東進。広い道に合流する手前に石仏がある。
・「馬頭観音」(潮海寺)「柿田」
 かなり摩耗しているが馬頭である。
ここから南進すると潮海寺参道方面に近付くし、途中の250m南進し右折すると「通りの尾根:相良往還」や「⑨中の坊」「⑩成就院」「⑪常楽院」への道となる。

これで潮海寺地区の説明を終わる。
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 潮海寺仁王像山門参道前から津島神社横を東へ目指す。200m東進で水神橋手前に達する。この左上に神社がある。
○水神社(潮海寺)
 ・祠:水神社、・石碑:水神:昭和四十九年、
 水神橋を渡って和田へ出るルートがある。一方で現在の潮海寺のある所を真東に進み台地を東へ下って、南の潮海寺橋を渡って和田に出るルートもある。
 和田集落のJR東海道本線北側に接した所に石仏がある。
・馬頭観音:昭和十一年三月(和田36) 
 線路の北側を東に進み集落を抜け、大井神社方向を目指す。和田、谷田部集落の東端から東へ300mである。
○大井神社(和田426) 
 ・秋葉山常夜燈:木造瓦葺、中の燈も木造、・祠:五輪塔、・石鳥居:明治四十年、・手洗石、・石柱:横倒し:奉御成婚和田在郷軍人會、

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ここから街道は南の踏切を渡るがその前に周辺を紹介する。
 大井神社前を300m東進すると吉和橋を渡る。この右(南)にJR東海道本線のレンガアーチ橋がある。
・レンガアーチ橋;
 さらに300m東進する。
○西福寺(吉沢523) 
 ・菊川地蔵巡り第七番、・自然石燈籠、・巨石3、・新:地蔵、・一石3仏:南無阿弥陀佛、・南無観世音菩薩所、・子持石、
 ・石道標:南無阿弥陀佛 右ハかなや 左もびい乃去涅
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 大井神社前に戻り、神社南側の東海道本線の和田踏切を渡り、法明寺横に出る。しかし法明寺は既に廃寺となっている。
○法明寺跡:和田公民館(和田) 
 ・説明:法明寺の歴史と解散整理事業の概要:この地に法明寺と称する曹洞宗の寺があった。創立不詳。1623元和9年没の妙照寺4世、宝岩玄珠大和尚による開山と伝わる。
かつて法明寺は、9月2日~3日の毘沙門天のお祭りに浪曲が演じられ、夜店が出たほど賑わった。400年近く存続した寺だったが、川端玄猛住職の長期入院(平成13年没)により宗教活動ができなくなり、昭和59年に檀家が全て離檀して寺は荒れ果てた。
平成18年5月、玄猛和尚の兄が没して寺が無人になったのを期に、にわかに法明寺問題解決の取り組みについての話が持ち上がった。寺の前を通る県道吉田大東線緊急交通改善事業もその要因の一つであった。当然のことながら、この取り組みは和田区民が負う成り行きとなった。
地元選出の市議会議員、戸塚正晴氏の献身的な協力と菊川市の支援を得て、最初に取り組んだのが寺役員の再構成であった。組織の要となる、兼務住職と代表役員に、妙照寺住職の城達明師の就任承諾を得ることができ、法類に法幢寺住職、青葉茂雄師、法友に西福寺住職、末永無相師の就任受諾を得た。責任役員には信徒の資格で、北原勝、山内静、赤堀博が、干与者には岩堀和雄の就任が決まり、平成19年1月、法明寺の新たな組織が成立した。
以後、法明寺は県道拡幅工事の用地売買交渉、境内にある国有地の買収、荒れ果てた境内地の整理等を行うとともに、最終の目的である宗教法人法明寺の自主解散に向けて宗務庁と折衝を重ねた。
平成21年12月宗教法人法明寺の自主解散が承認され、平成22年5月、清算が結了して法明寺の残余財産の全てが和田地区に帰属した。
玄猛和尚のご母堂、川端明治様の遺産金相続人23名の方々から、和田地区発展のためにとの趣意で多額の寄附を賜った。この事業の推進の大きな支えとなった。平成23年3月和田法明寺解散整理事業実行委員会
 ・和田毘沙門堂、・法明寺鬼瓦、・旧毘沙門堂鬼瓦、
 ・石道標:南 沢水加ヲ経テ川崎、相良ニ通ズ 西 作道  北 本所ヲ経テ堀之内ニ通ズ 東 吉沢ヲ経テ金谷ニ通ズ  大正十二年四月 第八部青年團 
 この石道標は裏面を表にして固定してあり、表面は金網冊に面していて10㎝程の隙間から読むしかなく、とても読みづらい。しかし保存してあるだけでもありがたいことだ。まさにこの石道標が川崎街道があることの証明でもある。
 一旦南側を東西に延びる県道菊川吉田線に出て、東へ30m進むと、南東に分岐する県道菊川榛原線(現在の川崎街道)の起点がある。ここから東南東ないしは東に向かって1.8~2.0㎞進む。沢水加公会堂が左(北)にある。その裏山には神社と墓地、堂、祠もある。
○沢水加公会堂、西宮神社、墓地、堂(沢水加725) 
 ・板碑:殉公碑、・時計台:コンクリ製、・石柱4:大正四年、大正十三年、・大谷内竜五郎の墓、・板碑:流芳墓地、・標識:入会地奪還記念誌、
・堂:大日如来、・祠:観音4、如来1、地蔵7、地蔵の首1、
・建設沢水加青年團:大正拾弐年、
 ・石鳥居、・常夜燈:平成元年、・狛犬:陶製1、・手洗石:平成元年、・祠、
 250m東進する。沢水加橋手前、左(北)の御宅前に標識がある。
・標識:移築された中条景昭邸(沢水加788:栗田氏宅) 
 沢水加橋を渡って左2軒目の加藤氏宅:沢水加902で川崎街道の古道について聞く。向かい(右)の倉庫前の植え込みに石道標があり、その前の道が山斜面に向かい延びていき斜面を上っていく。その道こそが川崎街道の古道残存部分である。地元民は軽自動車で上ってしまうようだが、私の軽自動車はスタックして進まず、加藤氏倉庫周辺に駐車させてもらった。
・石道標:東川崎相良道 北金谷道 西堀之内道 
 植え込みの中によくまあ保存してあったものだ。
・古道残存部分:沢水加←→仁王辻(沢水加902) 
 道は始めは少しだけ簡易舗装されているが、すぐに土道になる。その土道もよく観察すると、斜面に対し直に上る道とその横から斜面を斜めに斜めに上ろうとする道に分かれていることが分かる。つまり、直に上る道こそが古道であり、斜面を斜めに上る道が付け替えられた道であることが推定される。道の距離は県道分岐点から上の坂を上りきった所までで1.2㎞、標高差110mである。途中に沢水加調整池のタンクがある。
 坂を上りきった所には磨滅した石仏3体がある。 
・石仏3(菊川市沢水加904) 
 ・地蔵、・石仏、・馬頭? 
 坂を上りきって茶畑や家々を抜け国道473号線を横断し、東へ向かうと言いたいところだが、古道や旧道は不明というか区画整理され切って直線道しかないうえ、東名高速道路相良牧之原インターチェンジ開設のため、周辺は再開発され古色がまったくなく、とりあえず東に進むしかない。東名高速道路の北側を東に進んでいく。東名のすぐ北側の側道の左(北側)に祠がある。
○こげんじ稲荷(牧之原市静谷、牧之原南2620⁻6) 
 ・赤鳥居:平成二十三年、・祠
 さらに200m東進すると、東名高速下をガードでくぐり南側に出て、県道菊川榛原線を1.1㎞東進する。
 右(南)に神社がある。
○秋葉山神社(牧之原市東萩間、水吞764⁻1) 
 ・コンクリ石柱2、・鐘40×20㎝、・石鳥居:大正十三年、・手洗石:平成十四年、・常夜燈2:平成十三年、・古木10~15、
 県道へ戻り850m東進する。左(北)100m先の牧之原南一組集会所の隣に祠がある。
・祠:神、手洗石(静谷、牧之原南2519₋2)
 県道に戻り550m東進する。右(南)180m先に鳥居もないが神社らしき堂がある。
・神社(白井、大久保1342)
 ・本殿拝殿、・鬼瓦2、
 ちなみのこの辺りの地名は、東進している県道によって分けられている。というより県道がかつての境界線である。県道より北側が旧榛原町、南側が旧相良町である。合併してどちらも牧之原市である。
 県道に戻り600m東進を続ける。左(北)100m先に祠がある。
・祠:地蔵3(静谷朝生)
 周辺は茶畑で目印はないが、茶畑の中の祠なので多少目立つ。
 県道に戻り1.5㎞東南進を続ける。旧榛原町白井、追廻地区で県道は左へ曲がり真東に進む。
・戸塚坂、掛川坂 
追廻で曲がって1.5㎞程は平坦だが、そこから先は急な下り坂となる。この坂を戸塚坂とも掛川坂とも呼ぶ。400m下ると左(北)に鳥居がある。
○稲荷神社(勝俣、橋向2467⁻13)
 ・赤鳥居、・堂:稲荷像多数、
 あと150mで下りきって、住宅街に入る。150m進むと交差点があり、右折(南)し180mで戸塚橋がある。渡って70mで静波三丁目の県道の交差点となる。ここが田沼街道との合流点である。右折(西)し田沼街道である県道を50m西進し、また右折(北)すると前方に神社がある。
○稲荷神社(静波三丁目628)
 ・石鳥居:昭和十一年、・コンクリ石柱2、・手洗石:明治四十年、・献燈2:昭和八年、・秋葉山常夜燈:竿部分が自然石でよい、
・石道標:  
 ・説明:三丁目の道標:天保七丙申年1836の春に建てられ、世話人は□吉、銀蔵、太兵衛の3人で、石工は相良の藤五郎と背面に刻まれている。
この道標の特徴は、
 「大井川道」は行書体で、「かけ川道」は行草体で、「さがら道」は草書体で書かれ、三面の「道」という字が異なった書体で書き分けられている。
 大きさは縦横28㎝、高さ1.28m
 純然たる道標である。
 正面の「かけ川道」は戸塚坂を上り、大沢原から仁王辻を経て沢水加を通って堀之内から西出口に出て掛川に達する道である。

この石道標がちょうど成滝や伊達方の石道標と同じく四角柱で呼応するかのようであるが、内容や表示に共通点はそれほどない。しかし、これで川崎街道の起点、終点を指し示し灌漑深いものがある。

~~~周辺~~~
沢水加から仁王辻への古道を紹介したが、現在の県道での上り下りの道は別箇所にある。
古道から上って東の国道473号線に出る。そこで国道を北へ550m進む。そこに左へ下る県道菊川榛原線がある。下って1.1㎞、下りきる300m手前に標識がある。
・大井航空隊洞窟(菊川市沢水加) 
 県道から沢沿いに30mほど歩くと洞窟がある、どうも防空壕として掘られたようだ。戦争遺跡である。牧之原台地上の布引原には大井航空隊基地があった。


・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年
 ・「静岡ふしぎ里かくれ里」鈴木茂伸、静岡新聞社、’05

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 01:00Comments(0)古街道

2016年05月22日

朝比奈街道(静岡県焼津市、藤枝市、静岡市)

~朝比奈街道(静岡県焼津市、藤枝市、静岡市)~
現地調査:’16 4/23,24、29,30
・前文
 本文を読み進める場合、手元に住宅地図等の地図を確認しつつ読むと分かりやすい。住宅地図がなくともグーグルやヤフーのマップ、昭文社の道路地図等でもよいと思う。
*住所地は分からない時には附近のものを記入している。正確な住所を記入することが目的ではなく、目的の場所を少しでも発見しやすくするための目安である。
個人的には文字間違いが多いかと思う。というのは丸2日がかりで打ち込んだ文章がすべて消失したので、一から打ち直していてウンザリしている。しかもすでに川崎街道は調べたのにほとんど打ち込めずに自分の記憶の方が消失しそうで早く朝比奈街道を打ち終えて、川崎街道も打ち込まねばとあせっている。ますます間違いだらけで、さらにいらいらしてくる。一旦消失した文書でも履歴とやらを探ると復活できるらしいが、パソコン苦手な私にそんな技量はない。パソコンや最新機器は嫌いです。
一応、現地で発見したもの(道、遺物類)を掲載しましたが、発見できないものも多かったと思いますので、御存じの方はぜひコメントを頂きたいです。あるいはその方なりの方法で公表していただけるとありがたいです。朝比奈街道だけではありませんが、古道や古道沿いの遺物類は片っ端から消失の危機にあると言えるでしょうから、公表されることで少しでも保存されることを願っています。

・朝比奈街道概略
朝比奈街道は『定本 静岡県の街道』によれば「焼津北を起点として、瀬戸川を渡って八楠、越後島を経て下当間に至り、広幡橋を渡って東海道と交差し、さらに仮宿村のはずれで朝比奈川の右(?左)岸に渡り、子持坂から桂島を経て宮島に至っていた。」
起点であるが、焼津北でははっきりしないが、おおむね朝比奈川は下流で瀬戸川と合流し瀬戸川として駿河湾に達し、その横に焼津港が開けている。そこで起点は焼津港とした。


~焼津市焼津漁港~ 
○焼津漁業協同組合焼津漁業資料館(焼津市中港二丁目6⁻13)
 
○宗像神社(中港五丁目18⁻16)
 ・コンクリ鳥居、・板碑:社碑:昭和四十七年、・手洗石:自然石かち割、
 ・説明版:創建不詳。昔人伝うにこの地毎年暴風雨来れ激浪打ち寄せ民家流失人命にも及ぶこと甚大なりしが或る日村民その海辺に流れ着きたる弁財天の御姿を見付けこれこそ安芸の国宗像神社の御授けと尊崇村民と計らい祭神を祀りし社殿を創建し祀りたるに霊験あらたかにして爾来波浪静まり豊漁豊作民心安泰この地今日の繁栄を期す故なり。明治三年神仏分離のため弁財天を宗像神社と改む。昭和39年焼津港築港の砌当地に移転崇敬篤き氏子の敬信により新たに社殿造営今日に至る。昭和47年
○船玉浦神社(本町一丁目16⁻1)ふなだまさん
・説明版:祭神:大錦津見命、祭礼日:7月26日、由緒:江戸時代、和歌山県、音無川上流にある船霊神社から分祀されたという。創立年月日不詳。旧焼津港の南端、明神鼻の一角にあるところから焼津港の鎮守神として「ふなだまさん」の愛称で漁民の信仰を集めてきた。例祭日には宮司が御幣を立てた小舟に乗り赤飯を盛った神餞を港外で海中に納め、海上安全、大漁を祈る古例がある。(静岡県神社庁志太支部編「志太地区神社誌」)
・社碑:昭和六十一年、・石鳥居:大正十五年、・手洗石2:大正十五年、明治廿六年、・新:猿田彦、
・石碑:焼津市古い地名:新屋:あらや旧町名 樋越 上町  中町 北町 南町 下町 新町 浜町 
○青木神社(本町一丁目3⁻28)
 ・社碑:昭和十二年、・石鳥居:平成二年、・献燈、・新:手洗石、・自然石5、・コンクリ鹿像:昭和四年、・大木6~7本、
 隣の幼稚園に・新:地蔵、
○紫雲山阿弥陀寺(本町二丁目4⁻5)
 ・寺名碑:平成二十四年、・六地蔵、・供養塔、・手洗石、

~その他、焼津港周辺~
・焼津神社(焼津二丁目7⁻3)
 焼津の中心的神社
・普門寺(焼津六丁目9⁻16)
 
・貞善院(焼津六丁目11⁻⒕)
 
・良栄寺(焼津六丁目2⁻16)
 
・小泉八雲の碑(新屋425)
 
・護信寺弁天宮(北浜通95₋2)
 
・浪除八雲地蔵尊(城之腰188)
 
・神社:祠(城之腰176)
 
・常照寺(城之腰138)
 
・安泰寺(鰯ヶ島143)
 
・青峰観音(鰯ヶ島253)
 近くに・記念碑
・須賀神社(焼津五丁目2⁻2)
 

~焼津駅北口周辺~
○昌泉院(駅北五丁目10⁻9)
 ・六地蔵:昭和四十七年、・無縁仏:コンクリ固め:昭和三十五年、・?供養塔、・観音、・慰霊碑、・燈籠、・狛犬、・水子地蔵、・観音、・奉納鳥大乗妙典経全部:元文五年、
・御所松(駅北五丁目10⁻9)
 昌泉院横、瀬戸川河口付近の土手に赤松と黒松
○天皇神社(駅北五丁目1⁻25)
 ・新:社碑:、・新:玉垣、・石鳥居:昭和四十四年、・新:狛犬2、・手洗石:自然石、・自然石、・献燈2:昭和四十四年、・石碑:奉納浄水石中老会、
○大井神社(駅北二丁目5⁻13)
 ・社碑:昭和四十八年、・石鳥居:昭和八年、・献燈2、・狛犬2:昭和三十三年、・慰霊碑、・新:玉垣:昭和五十三年、・コンクリ石柱2、・クス、シラカシ:焼津市指定保存樹木、
・石碑:焼津市:旧地名碑:焼津北:川東 駅前小石川東 川南 駅前小石川南 舞台 西町附近 昭和55年 
・説明:祭神:彌都波売命:水を司る神、猿田彦命:道の守り神、創立永禄三年、明治八年村社、明治四十年神饌幣帛供進指定社となり今日に至る。佐口社:通称:おしゃもんさん白髭神社稲荷神社を併合奉斎。永禄三年は領主今川義元が桶狭間で織田信長と戦った年で戦国末期であり、当時の虐げられた貧困の祖先たちが五穀豊穣や平和を祈ったのだろう。現在の社殿は明治41年、本殿が改築拝殿が新築された。それまでは小祠堂であっただろう。本殿拝殿は焼津市区画整理事業駅南北工区工事の際、昭和48年位置が若干移動するに当たり、更に改築が施され49年には社務所兼公会堂が落成し玉垣は53年新設された。区民有志により竣工。昭和53年。
・若宮神社(大89)
 
・七社神社(大村一丁目7⁻1)
 
・善通寺(大村一丁目19⁻4)
 
・用心院(大村新田317)
 

 焼津港から瀬戸川と焼津駅の間を遡上し焼津駅北口付近に出る。駅北の大井神社付近から北西に進み県道焼津停車場仮宿線に出て、瀬戸川に架かる牛田橋を渡る。その手前に神社がある。
・神社:祠(大栄町三丁目3)
 
 牛田橋を渡ってすぐ右折し細い道に入り、梅田川に架かる天白橋を渡り、朝比奈川土手手前で土手沿いに遡上する。すぐに国道150号線バイパスの高架下ガードをくぐり八楠の新興住宅街を遡上する。この周辺は都市計画で区画整理され、昔日の面影は消失しているが、とにもかくにも土手の1~2本手前の道を土手に沿い進むのが古道ルートに近いようだ。バイパス高架下ガードから650mで右側100m先の土手手前に寺院がある。
○正傳院(八楠460)
 ・六地蔵、・(梵字)庚申塚青面金剛像:平成五年:見聞言ザルレリーフ、・如来、・地蔵、・新:地蔵、・新:日切地蔵、・五輪塔、
 元の道に戻り北西進するが、一旦もう一本左の道に移り北西進する。距離300mで神社である。
○加茂神社()
  説明:祭神:賀茂別雷命カモワケイカヅチノミコト、例祭:10月17日ただし昭和53年以降第3日曜、創建:大化二丙午年二月646、由緒:646年2月山城国上賀茂神社より勧請したと記せる棟札あり。「総国風土記」に「箭葛柳田神社所祭祭神雙栗神也」とあり。また「諸郡神階帳」に「益津郡従五位上八楠地祇」とある。往古は賀茂神社の祭礼には神輿数台を字天白という所に行幸し神楽を奏し、字馬場田という所にて流鏑馬を行った。「賀茂神社」は山城国上賀茂神社:京都市から神の霊別雷命を祀る。上賀茂神社の例祭は賀茂祭:葵祭が有名。旧除地高:2石。明治8年1875,2月村社に列し、明治40年1907,9月神饌幣帛料供養社に列した。境内神社:末社:八坂神社:すさのおのみこと、白髭神社:さるだひこのみこと、天満社:すがわらみちざねこう、天白社:不詳、八幡神社:ほんだわけのみこと、蔵王社:不詳、佐口社:不詳、祭事:2月祈年祭、10月例大祭、11月新穀感謝祭:七五三お祝い、
・社碑:平成五年、・石鳥居:昭和十年、・献燈2:昭和五十六年、・手洗石:自然石加工、・狛犬2:昭和56年、・手洗石:草書体?江戸期、手洗石:20×40㎝:天保十、・献燈+燈の竿:文化□、奉献燈加茂大明神□□、・石塔2:明治廿八年、・大木7~10、

 北西進ですぐ東名高速高架下ガードをくぐる。ガードから300mで右50mに寺院がある。
○瑞應寺(越後島114)
 ・寺名碑:平成四年、・手洗石:、・地蔵、・祠:青面金剛、・新:地蔵、・祠:神、・祠:地蔵、・ソテツ、・秋葉山常夜燈:文化二年、
 元の道に戻り50m進む。左に越後島公会堂があり、赤鳥居が見える。
○神社(越後島183)
 ・木赤鳥居2、・赤祠2、・献燈:平成十二年、
 この周辺は水田や畑が残り、道もやや狭く、直線ではなく昔風の曲がった道であり、古道とまではいかなくとも田舎びた旧道の雰囲気が残っている。しかし手前の八楠までは開発されていて、越後島の開発も時間の問題であろう。訪ねるなら今がラストチャンスでしょう。
 200m北西進する。左折:南西進し200mで鳥居がある。途中宮前橋を渡る。
○八坂神社(焼津市越後島289)
 ・説明:旧駿河国益頭庄越後島村、祭神:建速須佐之男大神、由緒:往古この地の守護神、産土大神として嘉吉元年1441、御花園天皇の御代、室町中期足利義勝の頃、愛知県津島市に鎮座の旧国幣小社津島神社より分霊を勧請して創立された。本宮社と同じく元牛頭天王社ともいわれた。明治以前徳川時代までは除地高2石を有し明治8年2月には村社に列せられた。祭神は天照大御神の弟で国土経営産業開発の大神としてまた神徳は災難疫病除けの守り神招福大神と古来より篤く信仰された。境内には末社として山梨神社、八王子社、西宮社、御嶽権現社、天白神社の5社を祀る。本殿拝殿前後には樹齢500年余りの5本の大老松がそびえていたが、昭和41年大暴風雨で倒木し他も危険となり伐採した。目通り8尺。現在は2代目植樹。本殿は天和3年1683再建、外本殿は昭和47年10月再建。拝殿は昭和8年石玉垣は昭和33年、造営。境内地1035㎡。明治維新に上地され国有地化されたが昭和31年神社に譲渡。例祭は本宮津島神社では6月25日を津島祭天王祭としてあまねく世に知られているが当神社では戦前より秋農耕の収穫前近隣神社の祭礼と同じく10月16日。昭和49年。
・石鳥居:昭和四十六年、・玉垣:昭和33年、・手洗石:自然石加工、・手洗石:横倒し、石柱5:横倒し、・献燈2:平成二十二年、・大木2、・御神燈2:文化七、・狛犬2:昭和八年、
 元来た道に戻り、250m北西進する。標識もないので分からないが、ここで藤枝市下当間に入る。市境から450m進むと右に下当間公園さらに奥に寺院と神社が見える。
○孝養院(藤枝市下当間542)
 ・寺名碑:昭和四十八年、・祠:地蔵、如来、石祠(石家道祖神)、小地蔵6、・庚申供養塔、・庚申供養塔、・自然石3~6、
○橘神社(藤枝市下当間537)
 ・説明:由来:天正年中1573~1592、当地の仕人五左衛門という人が奉斎したという。以来当地の守り神として現在に至っている。祭神:弟橘姫命、焼津神社(祭神:日本武尊)と由縁がある。神領除地高1石8斗9升8合を有し、明治8年2月村社列せられた。昭和28年7月8日国有境内地は無償譲渡され宗教法人として承認登記された。
 祭神:弟橘姫命:美濃の穂積氏忍山宿禰の娘、日本武尊の妃となり東国平定に従ったが、走水より上総に向かう海上で暴風雨に遇い、妃の弟橘姫命は犠牲となって海神に身を捧げて尊の難を救った。尊は深く悲しみ、現在の千葉県茂原市木納町舟形山に御陵を造り弟橘姫命の櫛を納めて橘の樹2本を植えて祀ったという。
 境内社:稲荷神社 倉稲魂命 稲作の守護神、御嶽神社 御鍬 農家の守護神、津島神社 素戔嗚尊 魔除け守護神、
・石鳥居:平成二十一年、・狛犬2:2012年、献燈2、・板碑、・手洗石、2:古、新:昭和五十年、・大木6~10、・神木1、
 
 橘神社前から450m西進する。新しい石道標が電柱に立てかけられている。
・新:石道標:「しあわせ小路→」(下当間438)
  50m西進すると高架下ガードをくぐり、さらに200m進むと県道焼津停車場仮宿線に出る。古道ルートは県道を横断し、県道の広幡橋の先にある狭い歩道橋で葉梨川を渡ることになる。
 ただ渡る前に下当間付近の石造物を紹介する。歩道橋より先の土手沿いに寺院がある。
○観音寺(下当間1099)
 ・寺名碑:駿河観音霊場九番札所:昭和六十年、・六地蔵、・ソテツ、・手洗石、・地蔵:座、・地蔵:立、・奉納西國坂東秩父供養塔、・奉納大乗妙典経廻國六十六部供養天下太平國土安清:元文元、・祠:新:水子地蔵、・供養塔、・五輪塔の頭部、・三界萬霊塔:昭和四十三年、
 寺の先が広幡小学校と広幡幼稚園であり、その先に石造物がある。
○忠霊塔:昭和二十八年(下当間392)
 ・献燈4、・狛犬2、・板碑:戦後記念碑、
 忠霊塔より北東150mに小さな神社がある。
○金山神社(下当間175)
 ・金属鳥居、・庚申供養塔、・祠:神、・手洗石:昭和三年、
 
広幡橋隣の歩道橋で葉梨川を渡る。50m直進するとT字路に当る。この左右の道が江戸期東海道である。右折(北)するとすぐに法ノ橋を渡る。100m進むと現在の国道1号線との仮宿交差点に出る。東海道は交差点を斜めに横切っている。松があり、他より狭い道なので分かりやすい。
・標識:岩村藩領標示杭「是従東巖村領横内」(横内1651) 
 ・説明:この杭は江戸時代、享保20年1735より明治維新までの135年閒岩村藩領であったことを標示した杭を再現した。岩村藩は美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町、現在岩村市)を居城とし、松平能登守が3万石の領地を持っていた。駿河国に15ヶ村、5千石分の所領地があり、横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行った。

200m進むと左折(北西)である。ここに石道標がある。朝比奈街道は東海道を離れる。
・石道標:仮宿區入口 岡部町 朝比奈村 葉梨村ヘ通ズ 大正六年(横内996)
 裏面は壁際固定されていて読めない。多分発起人名かと思う。
 300m進むと標識がある。
・標識:小字名「評定ひょうじょう」(横内1075)
 200m進む。標識がある。途中バイパス高架下ガードをくぐる。
・標識:明治の学校跡地→(横内1091)
 250m進むと標識がある。
・標識:朝日山城跡→(仮宿1228⁻1)
 標識から西1.2㎞先の朝日山山頂112mに稲荷神社があり、そこが中心である。
 
 ~~~~~~
   一旦、朝日山城を目指し朝比奈街道ルートを外れる。
○朝日山城跡(仮宿)市指定史跡、朝日稲荷神社
 西1.2㎞先の潮山200m前衛峰の山頂112m:稲荷神社を中心として築かれた岡部氏の山城。居館は神社手前の静岡大学農場のさらに手前辺りと推定されている。附近に祠や五輪塔があるようだ。城は山頂を本城に上下二段の曲輪があり、稲荷神社は下段である。たて堀、堤坪曲輪、西曲輪等がみられる。潮山とは空堀で分断されている。麓に居館があり背後に山城があるという室町初期の根古屋式の山城といわれる。室町初期に築かれ天正16年1588所領替えで廃城となった。城の弱点は西南に城より高い潮山がそびえていることだが、より高い山に城を築くことは技術力、財力、政治的情勢、必要性から考えた方がよく、廃城になったのも所領替えで、必要性が低かったのだろう。
 ・朝日山城:説明版:(構造及び形式等の特徴)曲輪・空堀等の遺構をよく残した山城で、その規模はおよそ東西600m、南北200mに及ぶものである。(説明事項)朝日山城は潮山(標高202m)の支峰、朝日山(別称・牛伏山、標高110m、比高約90m)頂上部を中心に造築された山城である。この山裾は、土豪として活躍したとされる、岡部氏の本拠地と伝えられることから、本城は室町時代の初め頃、この岡部氏が築いたものといわれている。このように山頂に築城し、その山麓に城主の居館地を伴う場合の城を根古屋式(詰城)と称し中世城郭の典型となっている。城は山頂の神社境内に船形で土塁によって囲まれた一ノ曲輪を中心として、ここから東に向けて階段状に曲輪を配置する。その他空堀、堀切や南曲輪・西曲輪・山下曲輪・水の手等によって構成されている。
 ・説明版:藤枝市仮宿1番地に所在する、岡部氏により造られた城である。この頃の岡部氏は今川氏の庇護の下、自領地を護るためのものであった。朝日山城は朝比奈川を望む海抜110mの朝日山(牛伏山)にある、山頂には室町時代初期の頃の様式の城郭遺構が残る、この城は東方山麓に居館を構えた根古屋式の城である。根古屋とは、丘陵上等に設けられた城と、その裾に屋敷が付随する城に対して付けられた名称である。朝日山城跡は一の曲輪、二の曲輪と構成されているようですが、現在この城跡は発掘調査などされていません。城跡に残る形跡は室町時代初期のものばかりではなく、一部は同時代末期の天文~永禄年間(1532~69)の頃、城郭拡張の必要(戦争)が生じたために、工事を起こしたが、完成まで至らず必要性がなくなり、途中で放棄されている。今川氏に関係する城の多くは未完成のまま残され、このうち重要な位置(海岸、街道、峠、国境)を占めるものは後に武田、徳川両氏の手により修復されている。
 ・絵図「朝日山城とその周辺(推定)」:(絵図に記入された文字を書き写す):潮山、村良、入野、観音前、牛伏山、朝日山城、(本丸)一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、南曲輪、竪堀、大手口、子持坂、山崎、砦居館推定地、一丁田、押場、仮宿、朝比奈川、八幡山、谷田遺跡、谷田、潮城、城山、一里山、一里塚、
 「朝日山城跡の曲輪(推定)」:朝日山城は一ノ曲輪~三ノ曲輪を中心部分とします。「一ノ曲輪」;神社の裏側部分、東西57m、南北31mほどの舟形で土塁が廻る。「二ノ曲輪」;神社のある平坦地(方形)東西25m、南北31mほど。「三ノ曲輪」;二ノ曲輪の東側に階段状に下る細長い平坦部分。
 「仮宿朝日山眺望」:この絵は江戸時代の終わりごろ、この朝日山からの眺望を描いたものです。文化11年(1814)紀行「山西勝地真景」より桑原藤泰。
 朝日山城跡(推定)一ノ曲輪、二ノ曲輪、三の曲輪、西曲輪、空堀、通路、南曲輪、竪堀、大手口、木戸口、現在地、花倉、潮山、
 ・空堀跡(竪堀):説明版:この堀は、朝日山城の中で最も規模が大きく長いもの(全長110m)です。山の斜面を通って敵が侵入するのを妨げるためのものですが、このように山の斜面に沿って竪に掘った堀を竪堀といいます。
堀の種類、
堀-水堀―例・田中城(二の堀等)、駿府城等
   -空堀―(空堀、竪堀、堀切) 例・朝日山城、花倉城、諏訪原城等
  ・空堀跡(竪堀):説明版:この附近が、堀のほぼ中央部分になります。この部分の堀幅は約20m、深さ約5mもあり非常に規模の大きな空堀といえます。
  ・空堀跡(竪堀):説明版:この谷の部分が人工的に掘られた空堀跡です。堀の幅はこの附近で上端が約18m(下端が約13m)深さも4mほどになります。
 ・一ノ曲輪:説明版:規模・東西長軸方向57m、南北短軸方向31m、形態・平面形は舟形で南側から西側の縁に沿って土塁をめぐらしています。
 ・板石碑:説明:朝日稲荷神社社誌、鎮座地;藤枝市仮宿字堤の坪一番地、御祭神;倉稲魂命、開創;宝永五年(1677)岡山県津山より御分霊wp勧請の伝言ありまた天野景理助右衛門名主の時、芝田金三郎催主となり創建の説あり、境内社;天満天神神社、松尾神社、権現神社、津島神社、軍人社、例祭;三月初午祭、十月五社神祭、五年毎御輿下山渡御祭、新改築関連事項;延享四年1747本社再建、寛政六年1794御輿建造、天保九年1838拝殿再建、明治八年1875村社に列する、明治十年1877本社再建、明治十九年1886御輿更新、明治四十年1908五社合祀、昭和十一年1936拝殿再建、昭和五十五年1980市史跡指定、平成三年1991本社再建、平成二十二年2010拝殿修復、平成二十九年2017五社鞘殿再建、平成三年建立、
 ・説明版:朝日稲荷神社:鎮座地;藤枝市仮宿一番地、朝日山城跡に鎮座 稲荷山という、本宮;伏見稲荷大社 京都市伏見、主祭神;宇迦之御魂神、宇迦とは食べ物を意味し日本人の主食である米の生育を守る神である、イナリとは稲成、稲生がなまったもので、やはり稲が立派に実るさまをいい、これが即ち稲荷という字があてられたという。赤鳥居と狐はお稲荷様の独特の風景である。赤い色は豊かさを象徴する色とされ鳥居は通るという言葉に似ているところから願い事が通るという意味があるようだ。また狐はお稲荷の使いといわれる。御祭典;毎年三月初めの土曜又は日曜、大祭典;五年目毎、大祭として神輿の下山出御神幸波御祭り、平成二十三年
・板碑、・神燈2:大正十三年、・石祠、・納札所、・石祠、・神木、・小鳥居と石祠、
・丁石:四丁目、・朝日山ビオトープ ホタルの郷、・名号碑:平成三年、・木赤鳥居2、
・献燈2:昭和四十年、・手洗石、・手洗石:大正三年、・石柱2、・稲荷2:昭和十一年、
・石柱2:昭和六十三年、平成三年、・手洗石:安政五年、・神燈2:享保十四年、
・木祠5、・宝篋印塔の頭部、・手洗石:寛政元酉年、・祠、

○南叟寺(潮995)
・寺名碑:昭和六十年、・石塔:寛…堂、・南叟延命地蔵尊、・六地蔵+1:昭和三戌、
・西国三十三所供養塔:□政□、・地蔵、・手洗石、・善光寺如来供養塔:明治十六年、
・三界萬靈塔:平成五年、・馬頭観音、
・奉納 當国三十三所善光寺如来西国三十三所 各供養塔:明治四十五年、
・□善光寺如来供養塔:大正六年、

・地蔵:祠(潮462-1)
 南叟寺のある潮集落から新東名取り付け道路に出る辺りの法の川手前の微高地の丘上畑に祠と地蔵が見える。

○潮神明宮(潮407-7)
・社名碑:昭和五十五年、・金属鳥居、・御神燈2、御神燈2:明治十三年、・石段
・忠魂碑、・石祠、・木祠、・石垣、

○薬師堂(潮304-3)
・西国三十三所巡禮供養塔:寛政九年、・宝篋印塔の頭部、
 隣家の潮240-1山田氏の話では、堂の名前は薬師堂、施主は現在9代目で、其の数代前の6代目辺りの与作が祀った。潮集落は昔15~6軒で潮井戸が4つあったそうだ。
                                    ’17 10/9
~~~~~~
 標識:朝日山城跡→(仮宿1228⁻1)へ戻り、北へ70m進む。道が左に曲がる所に祠がある。

 ・祠:中組秋葉山(仮宿1189)
 北西へ70mで右に寺院がある。
○用福寺(仮宿1172)
 ・説明:室町期引治3年1557、当時の和尚に依り開創。開山和尚は学識力量共に卓越セル禅僧で仮宿に当寺を開創後、永禄10年1567懇請され、焼津市一色の成道寺開山、永禄12年1569榛原坂部、石雲院の輪番住職を受け輪住される。永禄12年11月示寂。開山当時は駿河国今川氏勢力下にあり、1564年今川義元、桶狭間で戦死。その子氏真が家督を継ぎ、永禄8年1565常楽院を今川氏の祈願者として帰崇される。1569松平家康は今川氏の領地遠州を攻略、掛川城を明け渡される。本尊:地蔵菩薩は日限地蔵として地域の信仰を集めている。昭和59年本堂屋根を修理、昭和62年庫裏新築、平成2年位牌堂新築、平成6年境内地整備、東司建築、文殊菩薩台座新調安置。平成6年。
・寺名碑:昭和六十二年、・祠:文殊菩薩の厨子:寛政4年木製彫刻された像で明治13年再度彩色された、平成に修理された、平成6年、・手洗石:平成七年、・三界萬霊等、・新:地蔵、・自然石、・六地蔵+観音、・石碑:無心:五輪塔の頭部、・○奉供養庚申塔:人差し指を伸ばした手の甲のようで斬新な石、・奉供養西國三十三所、
 550m進むと旧岡部町との境だった朝比奈川に架かる仮宿橋に至る。橋手前左30mに祠がある。
・祠:秋葉山、・秋葉山常夜燈2:平成14年(仮宿1084)
 さらにこの土手沿いに西300m進むと寺院がある。

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・中正寺(仮宿938)
 ・大師堂:祠:石像、新四国第三十番慈眼山中正寺
 ・名号碑2:昭和六十年、 ・手洗石:新、 ・常夜燈2:新、・六地蔵:平成十三年、
 ・おかげさま石柱地蔵:平成八年、・祠、・常夜燈、・石塔:南無…(不明)、
この寺の南西に岡部氏関係の祠や墓石がある。
  ・岡部氏一族の墓:説明版:岡部氏の祖から何代かここに眠る、岡部氏の祖、藤原清綱は京より駿河の国に権守(ごんのかみ)として赴任してきた。任期が過ぎても京に帰らず、この地で帯刀してとどまる。清綱は南家出身なのでよい職に就く当てもないことが分かっていて、この地に住むことを決める。そこで権守の時、得たかもしれない伊勢内宮の御厨の職を、この地でやることになった。(岡部御厨) 平家が栄華を極めたとき、伊豆において源頼朝が挙兵したのが岡部氏がこの地にきたときであろう。清綱は頼朝の配下になり、清綱の子泰綱の時、藤原を改め岡部とし、鎌倉幕府において御家人となる。その後代々この地に住み、地域の人たちを巻き込み鎌倉幕府、今川氏と緊密な関係になった。此処の墓は鎌倉時代から、今川氏に加担した頃までのものと推察されます。したがって(1150~1530)の岡部氏の墓の檀下には万福寺の僧侶の墓もいくつか見られる。
 ・宝篋印塔:新:コンクリ製
 ・宝篋印塔:古:3、破片は多くもっと多数のものがかつてはあったのだろうが、体を成すものは3つである。
 ・手洗石     ’17 10/9

・仮宿白岩頭首工 ため池等整備事業 農林水産省補助(仮宿965)
 説明版:ゴム引布製堰で貯水時はゴム内に空気を入れ、洪水時は空気を抜き水を流す仕組みである。

・地蔵:祠(高田993-1)
 朝比奈川の土手沿いの上でちょうど土手道と高田集落への道へと分岐する辺りである。

○常楽院(高田424)
・寺名碑2:昭和四十二年、・祠、・六地蔵+観音、・新:地蔵、・永代供養塔、・新:常夜燈2、
・新:常夜燈、・新:石碑、・不許葷酒入山門:當山十一代、
・説明版:木喰上人作毘沙門天:クスノキ一木造り、一体、江戸時代、毘沙門天立像、高さ1.23m、市指定有形文化財・彫刻、「微笑仏」で知られる木喰仏のひとつで、甲冑を身に付け憤怒の相を表して邪鬼を踏みつけて立った姿の毘沙門天像である。もとは常楽院境内外の観音堂にあったが、現在は本堂に安置されている。像の背面には墨書があり、木喰が83歳で千体仏を発願した時の作で、寛政12年(1800)7月20日に完成したことが記されている。木喰仏特有の穏やかな微笑仏とはやや趣が異なり、像は厳しい表情を見せる毘沙門天であるが、木喰が最も仏像を多く作った円熟期の作品である。
 木喰行道(1718~1810):享保3(1718)年に甲斐の国(山梨県)西八代郡丸畑に生まれ、宝暦12(1762)年、45歳の時常陸の国(茨城県)羅漢寺の木喰観海上人から「木喰戒」を受けた。その後日本全国を廻り千体の仏像を造ることを発願し90歳でこれを達成し、文化7(1810)年、93歳で没するまで全国各地で仏像を奉納した。寛政12(1800)年、西国を廻った帰りに藤枝・岡部・焼津の寺院に2か月間滞在し、13体の木喰仏を残した。

○高田神社(高田325-1)
・石鳥居:平成二十四年、・石段、・手洗石:昭和四十六年、・神燈の脚部と笠:明治十一年、
・神燈1、笠のみ1、・石祠、・祠、・自然石、

○観音堂、薬師堂(高田263)
・石塔:十七面観世音、・石段、・手洗石:大正十三年、・地蔵:古10、・金剛1、・獅子2、
・常夜燈3:萬延元年、・手洗石、

○日吉神社(藤枝市旧岡部町入野65-1)
・石鳥居:昭和四十一年、・石段、・杉大木、・石祠2、

・地蔵;祠(旧岡部町入野831-4)
 朝比奈川に入野川が合流する手前の土手にある。

○西方寺(旧岡部町入野98)


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 仮宿橋を渡ると前方に岡部宿の中心的神社がある。
○若宮八幡宮(岡部84⁻1)
 ・説明:祭神:仁徳天皇おおさざきのみこと、応神天皇ほんだわけのみこと、神功皇后おきながたらしひめのみこと、由緒:醍醐天皇、延喜8年908、8月13日駿河に下向せられて仮宿に居館を構えておられた堤中納言兼輔卿が勅に依り山城国石清水八幡宮より分霊をいただきここに祀るという、以来7郷(岡部、仮宿、内谷、横内、高田、村良、鬼島)の鎮護として里人の崇敬をえる。貞享3年1686堤中納言の子孫:岸和田城主岡部長敬によって本殿を造営された棟札があり現在に至る、明治8年郷社に列せられる、例祭:毎年9月第二土曜、日曜、
・説明:行事:神ころばし、七十五膳:3年の一度例祭の日曜に行う、市指定無形文化財:3年に一度の9月15日氏子若者(泰平衆)が白鉢巻き白下帯姿で、本殿脇の泰平所から朝比奈川を七度往復し水垢離を行い、七度半目に神輿を迎えて神事が始まる。神ころばしは泰平頭の指示で泰平衆が「お獅子の御膳」「御内膳」「お丁屋の御膳」を捧げ持ち、広場を練り歩き転びながら奉納する、次に直会用の「下敷したしき」「上敷うわしき」を同様にして納め、最後に青竹に吊るした「かめ(酒)」を奉納する。これと同時に供える「七十五膳」が伝供され、その後、神職と総代は拝殿に敷かれた下敷・上敷の上で直会を行い、この神事は終わる。
・説明:この駿河国、岡部の神社:若宮八幡宮は、山並みにも情緒があり古木もうっそうとして苔の緑もこまやかで岩の様子もたいそう神々しい。だから霞にたなびく春の一日、紅葉の美しい秋の一日は申すまでもなく、月の美しい夜、雪の降った朝など装束姿の神主さんたちがゆったりと風情を楽しむ所であったろう。このような素晴らしい所を前々から占ってお知りになっていたのであろう。我が遠い祖先、堤中納言兼輔卿は千木の形も素晴らしい立派な社殿を建てて、八幡大神を石清水より迎えて鎮めた。そもそも八幡大神とは中津彦の天皇(仲哀天皇)の皇子である品陀和気命(応神天皇)である。この方はすべてのことに賢明で慈しみの心も深いので、日本国は申すまでもなく遠く言葉の通わない韓国(新羅)までも、その威光に従ったという。八幡大神の威光は、なんとありがたい尊いことであろう。御神威は。天保15年文月(七月)正三位 維長つななが:堤中納言の子孫。
・石鳥居:明和六(昭和五十八)、雨乞い石、・玉垣、・石段、・献燈2:元文四、・手洗石、・献燈2、・献燈:寛文三、・献燈:破片いくつか、・板碑:正三位維長、大木巨木:いくつか、

 橋を渡った道を左折し県道焼津森線を西に400m進む。右山斜面手前に寺院の入口があり、山道歩道が上っていく。
○萬松院(子持坂501)
 ・寺名碑:昭和四十六年、・自然石2、・石塔2:刻字不明、・石段、・地蔵:立、・地蔵:立:天保二子、・観音:駿河(刀3つ)志太郡山□□□村、・大日堂、・豊川茶枳尼真天覚、手洗石、・山門禁葷酒、・法界萬霊、・六地蔵+観音、・古:五輪塔:多数、・新:永代供養塔、・水子地蔵:小地蔵多数、献燈2、・新:地蔵:梅花観音80番駿河七薬師札所、
・岡部氏墓:宝篋印塔2、五輪塔1、土塀屋根瓦囲み、説明版:市指定文化財、土塀をめぐらした墓域の中に、宝篋印塔2基、五輪塔1基があり、宝篋印塔は岡部美濃守常慶ツネノリ(信綱)と出羽守(名不詳)の墓、五輪塔は常慶の子次郎右衛門正綱の墓と伝えられる。また門の扉は岡部氏の定紋である三つ巴の浮彫りが施される。岡部氏は代々今川氏に仕える有力な家臣であった。今川氏真の代に武田信玄が駿河に侵攻してきた。このとき岡部正綱は無勢ながらよく抗戦した。ついには多勢の信玄軍に敗れたが信玄はその勇猛ぶりをたたえて家臣に加えた。そして清水城(清水区本町)の守将に任じ賞金二千貫を与えたという。こののち正綱は武田軍に加わり、三方原に高天神城の攻防に徳川家康と戦闘を幾度か繰り返した。その武勇は家康の知る所となり、落城後、家康の計らいで死を免れ、家臣として招かれた。この恩情に感激した正綱、長盛父子は家康の手足となって働いた。
・富士見井戸2:説明:当寺の5代目和尚は慶長19年1614は大日如来を鋳造し、富士山頂に安置するため旅立った。寺に残った小僧は無事を案じながら井戸の水を汲もうとしたところ、仏像を背負って富士山を登っている和尚の姿が映ったため、思わず井戸に向かって手を合わせ、和尚の安全を祈った。以後この井戸を富士見の井戸という。平成17年。

 寺西口は農道で車で出入りできる。その農道の石碑がある。
・石碑:松山農道:昭和五十四年(子持坂501)
 西口農道から西に向かい下りていく。50mで右に馬頭がある。
・馬頭観音(子持坂501)
 100m下ると板碑がある。
・板碑:開演建碑之趣旨(子持坂35)
 50m下ると右に寺院と左に観光案内看板、公衆トイレがある。
○常願寺(子持坂35)
 ・石段・自然石、・カヤの木:天然記念物、・手洗石、・燈籠、・庚申、・燈籠、・板碑:慰霊碑、・墓石:江戸中後期の物多し、・三界萬霊塔、・六地蔵、
 150m下っていく。右に長屋門が見える。
○長屋門(子持坂244):鴫谷氏宅:シギヤかシギタニか?
 ・説明:130年の歴史、市指定文化財、修復。
 100m下ると子持坂集落内の現在の県道より古い旧道に出る。進行するには右折(西)だが、左折すると30m先に祠がある。
○大松の地蔵尊:いぼ地蔵(子持坂312)
 ・説明:建立安置不詳、昭和中頃まで身体にイボのできた子供は親と一緒に地蔵にイボがなくなるように祈った。祠内の小石でイボをさするとイボがなくなると云われた。治ると子供は親と一緒にお礼参りした。大松というのは祠裏に松があったからだ。
・祠:地蔵、・献燈、・新:手洗石、
 子持坂には、まだ他にも紹介先があるので、大松地蔵から南西150mの神社に行く。 
○熊野神社(子持坂336)
 ・献燈2、・コンクリ鳥居、・手洗石:安政五戊午九月、・石祠(石家道祖神)2、・献燈2:昭和五十一年、
 神社から北西に300mで岡部中学である。その左手前に公園がある。
○巨石の森公園(子持坂102)
 ・巨石:いくつか、・裸足の散歩道、
 公園から東に300mで県道焼津森線(現在の朝比奈街道)に戻れるが、その手前に地蔵堂跡地がある。
○地蔵尊(子持坂52)
 ・石段、・奉納西國三拾三所順禮供養塔:享(保・和)三年、西國三十三所供養塔:天保□□、・漢音、・馬頭(四角台座20㎝円形台座15㎝本体80㎝)、・地蔵、・石塔:四角柱、・破片いくつか、
 県道に出て北上200mで神社である。
○浅間神社(子持坂22)
 ・社名碑:昭和五十一年、・石鳥居:昭和廿四年、・石段、・自然石、・イチイカシ:天然記念物、・コンクリ石柱2、・御神燈:安政四巳年、・手洗石:天保十三、・献燈:浅間宮、・秋葉山献燈2:寛政八年(平成二十二年再建)、
 村良下橋を渡って村良に出る。県道の西側の山すそに神社がある。
○天満宮(村良978)
 ・説明:祭神:菅原道真、例祭日:10月25日、境内地220坪、境内社:津島神社、秋葉神社、弁天社、由緒:創立不詳、天明8年1788再建、明治8年村社指定、大正5年9月神饌幣帛料共進社指定、天満宮は天神さんとして全国に祀られている。京都の北野天満宮を総本社とし、その数1万社を数える。菅原道真は承知13年845生まれで、その生涯を至誠の道を垂範され、よく勉学に励まれて右大臣の高位に任ぜられた。俊才のあまり藤原時平の中傷により大宰府(九州福岡)に流された。牛車で送られる道中、牛により待ち伏せの賊の難を免れたと伝えられ、以来、牛は天神様の使いと云われ、教育の基本の象徴とされた。牛は食物を反芻して消化する。その様に繰り返して勉学せよと、教えている。天神信仰は元来農耕民族にはつきもので、天候と農業生産との関係から生まれたもので、雷電は雨をもたらし、五穀を実らせる。天神と云えば道真を指すこととなり、その威徳を偲ぶと共に文学を親しんだ神として尊敬されるようになった。江戸期には幕府が庶民の初等教育機関として全国に寺子屋を設立し、その精神的中心として道真の分霊を祀ったので、天神信仰は学神として学力向上、合格祈願の神として広く庶民に奉斎されている。
 *著者注:上記の文章では江戸幕府が寺子屋を設立したかのごとくに読めるが、寺子屋は民間教育機関と歴史的に認知されている。つまり今で言えば私塾のようなものである。江戸幕府が作った教育機関として有名なのは昌平坂学問所で、各藩は武士のための藩校を設立していた。それ以外には吉田松陰が作った松下村塾や福沢諭吉が作った慶應義塾に代表されるように私塾が発達していた。現代の私塾とちょっとニュアンスが違い幅が広いかもしれない。藩の領主や重臣、代官等に設立された郷校というものもあって、武士だけでなく庶民教育を行ったものもあるようだ。
・玉垣:平成十六年、・石鳥居:昭和三年、・牛神:平成17年、・大木、・弁天、・秋葉山夜燈:慶應四戊辰1868年、・献燈:御神前:慶應三、・鬼瓦、・事業記念碑2、
 神社のすぐ背後というか頭上は新東名の高架線である。
 ここから山すそをめぐって400mで北の寺院に行く。
○村良薬師堂(村良574)
 ・吊るしびな :説明:創建:天保13年1842の記録があり、この頃建てられたと思われる。中には薬師如来が祀られている。薬師堂に長く保存されているつるし雛は地域の人たちの無病息災を祈り、薬師如来に奉納されたもので、明治38年1905と記録されたものもある。このつるし雛は毎年8月23日に行われる薬師如来の祭り「いっちょうぎり」の日に飾られるもので、つるし雛は板の竿に5本の糸で取り付け、吊るされている。平成17年。
 左隣の上に寺院がある。
○大仲寺(村良574)
 ・庚申供養塔:天明八歳、・祠:如来、地蔵2、・手洗石2:、・石垣、・石塔、
 東150mで県道に戻れる。すぐ先は村良橋である。渡って進む。橋から300m北上すると右に祠がある。
・祠:地蔵:安政四(桂島、兎島625)
 すぐ東先に石段がある。
・神社:祠(桂島、兎島625)
 ・石段、・自然石1、
 100m東に四つ角がある。そこが旧道である。かつては村良橋から北東のAIKAWA工場敷地内を旧道が北上しこの辻に出たようだ。この辻にも祠がある。
・祠:地蔵(桂島、兎島631⁻7)
 水害除けで元はAIKAWA工場敷地内の中通りにあったものを移転したようだ。兎島631⁻7金子氏談。
 この旧道を北東に350m進む。県道相俣岡部線に出る。ここに石道標と祠がある。
・石道標:是従葉梨村地 □□□町道 大正十五(桂島、須谷793⁻1)
 
○祠:北向地蔵:有縁無縁三界萬霊等、・石仏4:?観音、観音「一国三十三所」、地蔵2(桂島、須谷793⁻1)
 北向地蔵は以前、県道相俣岡部線のトンネル上の貝立峠に祀られていたのだが、トンネルを切通しにした際、ここに移転されたらしい。先の金子氏談。
 ここで県道を北西に400m進む。石塔がある。
・石塔:・庚申、・奉梵天帝釋青面金剛太童子(桂島、須谷834⁻1)
 100m西進すると県道静岡朝比奈藤枝線(村良から北上する県道、村良で通過するのに使っていた県道)が合流する。
 ここで一旦村良から北上し合流する県道で紹介するところがあるので、左折(村良方面へ南下)し150m進む。ちょうど桂島公園を過ぎて狭い水路がある所だ。
・水まんぼう:水路トンネル(桂島、須谷858⁻1)
 ・説明版:全長70m、幅180㎝、高さ180㎝弱であり、朝比奈川俎板渕の少し上に流れ出ている。この近くにあった字大畑の水田、二町歩が毎年のように朝比奈川、谷川川の増水により須谷川の排水ができず、稲作に被害が出たため造られた。「志太郡誌」によると貝立トンネルの竣工が明治29年1896,1月と書かれているので、おそらくその人足が水路トンネル工事にかかわったと思われる。構造は素掘りで造られ、平成に入ってから入口付近をコンクリートで補強された。平成17年。

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なおここで県道相俣岡部線側の説明をしたい。岡部宿から桂島に行くルートも朝比奈街道だからである。岡部宿から川原町を過ぎ、貝立橋を渡って、現在は峠の切通しを通過する。以前はトンネルであり、更にその上に昔の峠道があり、北向地蔵も祀られていたのだが、切通しになり峠も削られたようだ。
『定本静岡県の街道』によれば、貝立峠以外に川原町から三星寺前を経て牛ヶ谷から山に上り、西の須谷に下る峠道があったようだ。以前は山上までみかん畑や茶畑だったので、明確に越えられる道筋があったのだろうが、植林地になって現在は道が荒れていると思われる。標高差80mほどのようだが、かなりの急斜面である。なお川原町から貝立団地側を通過し貝立峠に行ける道もあったようだ。
○笠懸松と西住墓(岡部、牛ヶ谷1132)
「…やがて西行は駿河国岡部宿にさしかかった。荒れ果てた小さな堂に立ち寄って一休みしているとき何気なく後ろを振り返ってみると戸に古い檜笠が掛かっていた。胸騒ぎがしてよくよく見ると過ぎた春、都で共に修業した僧の笠だった。 笠はありその身はいかになりぬらむ あはれはかなき天の下かな…」ここは歌聖として有名な西行が西住と東国へ旅をしたときに起きた悲しい物語の舞台である。「笠懸松」は右手西行山の中腹にあったが、松くい虫の被害を受け枯れた。その根元には「西住墓」と伝えられる古びた破塔がある。
○三星寺(岡部、牛ヶ谷642⁻19)


貝立橋の南150mに福寿院がある。
○福寿院(岡部、天神前356₋2)
 ・廃寺:堂、・庚申塔2:文化九年、?、・祠:地蔵3、・墓石:元文元年等古い物あり。
 西隣も寺院である。
○永源院(岡部、天神前345) 
 ・寺名碑:昭和四十四年、・六地蔵、・不許葷酒入山門、・地蔵、・祠:石仏:千手観音:札所第四番、
 永源院の参道を南に70m進むと西の山斜面上に祠がある。
○岡部天神社(岡部、天神前361₋2) 
 ・祠、・石段
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 ここで先の桂島の県道相俣岡部線と県道静岡朝比奈藤枝線が合流する所に戻る。
 合流地点のすぐ西に谷川川を渡る谷橋があり、渡り、朝比奈川に沿って遡上するのが朝比奈街道である。ただここで一旦右折(北)し谷川川をさかのぼる。川沿いの新道ではなく、西の山際の旧道がよい。県道から右折して旧道を150m進むと祠がある。
・祠:地蔵:昭和四年(桂島、谷川口1036)
 もう150m進むと新道に合流する。その先120m地点に石碑がある。旧道はここから右の工場敷地に向かうようだが、すでに廃道である。新道を進む。
・石碑2:谷川山、梅林院(桂島、谷川口985)
 300m北上すると寺院が見える。
・祠:地蔵:説明:故鉱次郎氏は明治28年榊原家に生まれ、昭和51年9月27日、82歳の生涯を閉じた。簑笠辛苦して農業に励み、常に神仏を尊び梅林院5代に亘り身心を盡し、物心両面を惜しまず公益に率先服すること多くよく隣人に益した。老人会はその生涯を讃え集落民の協賛を得て後世まで伝えるために地蔵尊を建立した。昭和52年。
○谷川山梅林院(桂島、谷川山964)
 ・永代供養塔:平成十三年、・祠:神:石天板、・禁葷酒、・三界萬霊等大乗妙典十部供養塔 銘日、・祠:六地蔵+地蔵:座、・大日如来:線刻、・石段、・献燈2:寛政九、・庭用燈籠2、・新:地蔵:多数:頭部大きく可愛い、
・忠霊塔、・有縁無縁三界萬霊菩提塔:平成十八年、
・木喰仏:薬師如来立像:説明:市指定彫刻:像高95.8㎝、完成:寛政12年8月8日、背面墨書に「日本千体体ノ内ナリ天下安楽興正法」83歳花押あり満面笑みを浮かべ、豊かで大きな衣に包まれ、左手でそれを上から守っている。病気を治してくれるという薬師如来は大国人々に栄拝された。製作者である木喰上人は45歳の時1762木喰戒を受けるとともに日本回国の願を発し、93歳1810で没するまで休むことなく日本全国を歩き続けた。そして足を止めたほとんどの土地に仏像を残している。昭和47年。
・木喰仏:子安観音菩薩立像:説明:市指定彫刻、像高:96.0㎝、完成:寛政12年8月8日、背面墨書、他の一体と同じ、現在梅林院に所蔵されている二体の木喰仏はもともと神入寺にあったもので頭部の彩色はともに近年のものである。廃寺となった神入寺は檀家の総意によって梅林院境内に移され観音堂として保存されている。木喰上人は寛政12年1800、の6月13日より8月13日まで丸2か月間岡部に滞在し附近の寺々に仏像を奉斎した。このうち岡部には梅林院二体、内谷光泰寺二体、三輪十輪寺二体の六体がある。昭和47年。
・観音龍石:説明:この石は昭和35年1月、谷川山梅林院南方約300mの参道上方雑木林内に頭部のみ露出していたものを、たまたま山中に香花取りに入った某氏が見つけ、直ちに当時の梅林院住職に懇願して、この石を譲り受け自宅の庭石となすべく職人を雇い、掘り出しにかかったところが、相当深く土に埋もれているはずのこの石が、予期に反してわずかに鍬を入れたるのみにて、一人飛び出るがごとく、下の参道に落下しなおころころと回転して、道下のやわらかな畑に、でんと座ってしまった。重量1.5トンもあり運び出すのには、いかにも困難であったが、この石に魅せられた氏は、萬金を惜しまず投じようやく自宅の庭に運ぶことができた。渋味もあり何事か神秘が秘められているごとき、この石は水石に興味を持つ人々の話題の的となった。ところがその後夜毎にこの石が氏の夢枕に立って「私は谷川の観音様をお守りする龍身であり、このようなところに置かれるのはまことに不本意である。早々に観音様のそばに帰してくれ。」とのお告げがあり、氏は自分の信ずるある人に伺うに「お告げの通りいかにも観音様をお守りする龍の魂が宿っておられる御尊体である。今すぐ梅林院へお送り申し上げ末永く供養するのがよい」と言われ、驚いた氏は愛着捨てがたき神秘の謎を秘めている石なればこそ、直ちにお告げの通り梅林院境内へ奉納することにした。しかるにこの石を乗せた車が、谷川参道に入るや否やたちまち一天にわかに搔き曇り悲體戒雷ヒタイイカヅチのごとく甘露の法雨降り注ぎ萬雷鳴動して煩悩の焔が滅除された。ときはまさに昭和35年8月10日、その後氏の家では一切の災難を免れ身心快楽となり、現在では大いに家門も隆昌し安泰の生活が送られている。以来この石は観音様の御守護石としてなお一切の災難を厄除し一家の繁栄と幸福に霊験あらたかであるとして世人の信仰を得て供養され現在に至っている。昭和51年11月、駿河一国三十三ヶ所観音霊場第八番札所
・鐘楼堂:説明:建築材:40石当山森林中より、彫刻材(楠)6石殿大石芳明氏寄進、全高地上26尺、屋根幅18尺4面、廊下幅14尺4面、土台幅13尺4面、柱間8尺6寸、丸柱直径8寸七分、建立昭和56年7月、棟梁朝比奈玉取寺坂初太郎氏、記:当山は開創:長享元年1488、その昔合併により日光山神入寺より梵鐘この地に移転さる。偶大東亜戦争勃発し隆魔と化す。現在の梵鐘は当山37世の発願により、昭和30年に再鋳、鐘楼堂は寛政元年1800大工秋山傳右エ門の作である。堂宇の荒朽も甚だしくそのまま放置しておくこともできず協議の結果賛同を得て改築することになる。広く十方檀越の寄進を仰ぎ幸い名棟梁寺坂初太郎氏71歳の斤鑿キンサクにより凡そ1年間の歳月を経て完成を見る。傘下の彫刻八面は棟梁日夜辛苦の作と云われる。当山38世詩之、39世改修、平成20年5月。

○谷川と飯間の峠(藤枝市谷川、静岡市飯間)
 今回谷川の奥を調べていないが、二十数年前と十数年前の記憶で記入する。谷川川に沿って3㎞北上する。途中新東名の高架下をくぐりもする。谷川と静岡市飯間の間の峠直下に車で出られる。茶畑を5分も歩いて上ると峠である。その向こうは植林地や草地で道が不明だが少し下ると道が明確になる。ただし途中耕作放棄された畑地で道が不明確になる。1㎞歩いて飯間の農道に出られた。現時点ではこの古道山道がどうなっているかは不明である。茶畑も現在整備されているかも不明である。山の畑はどんどん耕作放棄地になっていくので、歩くなら冬場をお奨めする。
 なおこの峠道はかつて1351年鎌倉攻めに向かう足利尊氏が軍勢を引き連れて越えた道である。

 県道の谷川口に戻り、朝比奈川に沿って遡上する。
 300m進むと関谷橋がある。渡らずに前方50mを見ると鳥居が見える。
○津島神社(桂島、谷川口1107) 
 ・石鳥居:昭和五十年、・石段、・手洗石、・石祠、・石祠(石家道祖神)、・?神木、
 神社前の道を通り、丹社を経て溝口橋に抜けたが、特に遺物類は発見できなかった。
 関谷橋を渡り、450m進む。祠と石道標が向かい合わせにある。
・祠:地蔵、小地蔵(桂島、関谷343⁻1) 
 道の向かいに2つに折れた石道標がある。 
・石道標:朝比奈街道 山道ヲ経テ葉梨村ニ通ズ 里程凡ソ六千米 約一里半 昭和二年十一月 御大典記念 桂島善□會(桂島、下川原343⁻1) 
 正直うれしかった。朝比奈街道を調べに来て、その文字を見付けられたからである。西の山を越えると藤枝市北方の葉梨に出られたということだ。そこまでなら3㎞ほどだ。多分葉梨の中心地までなのだろう。この峠道も現在は廃道だろう。見つけるなら冬だろう。ただ地図上では途中村良を通過し農道を通るようだ。残存しているかもしれない。
・古道:桂島の観音下から葉梨の北方への山道。
国土地理院地形図では点線記入されているが現在あるかどうかは未確認。北方と桂島境の峠手前500mは一部農道ルートのようだ。

 石道標から県道を300m進むと右に石燈籠がある。
・石燈籠:自然石、・丸石(桂島、下川原231⁻1) 
 150m進むと溝口橋に達する。この左に旧道があり、祠がある。
・祠:神(桂島、下川原102)
  溝口橋を渡って100m進み右折し300m北東へ向かう。
○持珠院(羽佐間105)
 ・祠:六地蔵:一石二仏の三石:可愛い丸顔で首をかしげているものもある、
 梅林寺の隠居寺だそうだ。地元民談。
県道に戻る手前150mで山際の旧道を通り、遡上する。120m進むと山上に石段が続く。
○天神社(羽佐間71⁻1) 
 ・石段、・本殿・拝殿、
 山際に沿って400m進む。右に石塔がある。
・石塔:刻字不明(羽佐間351) 
 もう300m進むと土手に達し左手に橋があり、手前に石塔類がある。
・秋葉山常夜燈:寛政九、・庚申塔2、(羽佐間160) 
 羽佐間橋を渡り県道は右に曲がって150m行く。右に祠がある。
・祠:馬頭観音6(羽佐間698) 
 馬頭観音ばかりが6つもまとめて合祀されている。この後もなぜか馬頭観音ばかりを6つ集めて祀っているものにいくつか出会うことになる。六地蔵にあやかっているのだろうか。面白い合祀方法だ。
 120m進むと左に寺院の寺名碑に出会う。
○喜雲寺(羽佐間755)  
 ・寺名碑:昭和五十一年、・新:頭部大きい地蔵、・たぬき、・地蔵2:昭和五十六年、・献燈2:、・手洗石、・鐘楼、・四角石、・燈籠:自然石:平成元年、・祠:新:地蔵:座、・新:六地蔵、
 県道に戻り50m進む。右に石塔がある。
・庚申塔:明和五、・庚申□□□、・新:献燈(羽佐間698) 
 県道をさらに20m進むと右に櫓の模型がある。
・模型:朝比奈龍勢打上櫓:高さ3~4m(羽佐間105) 
  小柳津造園宅の私有地にあるようだ。
・羽佐間の古道(羽佐間675)
 県道はこの先60mで殿橋を渡り殿に至るが、その前に古道で付け加えたいことがある。
 羽佐間橋まで戻って、県道は殿に向かい右曲がりしていくが、県道を左折して羽佐間橋からそのまま北に向かえる道が山奥に入っていく。それが古道でもある。このまま奥に入りっぱなしではなく、狭間の一番山奥の伏見氏宅:羽佐間675まで行くと右の峠(標高差2m)を家の奥ですぐ越えられ、越えるとすぐに下降し朝比奈川に出て、川を渡り、土手沿いに現在ある龍勢打上櫓のある土手沿いに新舟に進んでいたようだ。ただ伏見氏宅横を細い山道歩道が通っていて標高差2mの峠越えができるが、そこから先は尾根沿いに上る道はあったが、下る道は雑草等ぐちゃぐちゃで発見できなかった。真冬なら強引に下りられるかもしれないが、すでに下る古道は消失しているようだ。惜しい。
この雑草ぐちゃぐちゃ部分をすっきりさせ下れる道を再整備して川まで下りられると、そこは玉露の里から川沿いに土手を整備して歩きやすくなっているうえ、岩などを配置している。その辺りの下流端に出られそうだ。そうすると伏見氏宅からの古道と玉露の里がつながるのだが残念。数少ない古道残存部なのだが。


 県道の殿橋に戻り橋を渡って、殿に達する。橋から150m進むと右に増田氏宅:殿183があり、祠があるし、変わった石がいくつもある。
・祠:丸石、・馬蹄石:多(殿183)
 増田氏談:この辺りは馬蹄石の産地で各家でお守りとして祀る。石仏では野田沢峠や玉露の里に観音が祀られている。
 県道を50m進むと右に石塔が祀られている。
○石塔類:総善寺参道入口(殿753⁻1) 
 ・寺名碑:新:朝比奈氏菩提寺、・農道記念碑:昭和五十年、・丸石、・古:常夜燈、・?庚申:六臂、見聞言ザルレリーフ:寛政七、
 この参道で右折し300m北進し右折し300m東進する。途中寺前橋を渡る。
○総善寺(殿167) 
 寺名碑:昭和五十五年、・六地蔵、・地蔵、・観音:六臂、・石祠、・永代観音堂、・庭燈籠、・丸石、・新:観音、・當國善光寺四國西國秩父坂東百八拾八所供養塔 當村 明治十四年、・板碑:平和の礎、・板碑:、・献燈2:、・自然石、・鬼瓦:昭和六十年、・観世音菩薩:昭和五十八年、・献燈:平成二一年、
 ・「殿の虫おくり」:説明:殿地区には、山あいにしては比較的広い水田がある。そして起源は定かではないが昔から虫おくりの行事が行われている。この行事は秋ウンカが発生すると村人は松明に火をつけ行列を組み、集落全体を歩く。この時人々は「青田の虫を送れ、田の虫を送れやあ。」などと唱えながら、松明で田の面をなでるようにして虫を誘い出し焼き払った。しかしこの行事は農薬の普及により自然に行われなくなったが、昭和60年頃の町内会長、有志の人たちによって復活し、夏の一夜を楽しむようになった。現在では8月23日の夜、六地蔵尊縁日に合わせ町内会、子供会で中心になって、この行事を継承している。平成15年。

 また県道に戻って西進する。100m進んで左の朝比奈川土手を見ると300m先の土手沿いに高い櫓がある。
○朝比奈龍勢花火打上櫓:無形文化財(殿167) 
 ・説明版:歴史的な由来は定かではないが朝比奈城跡朝日山城跡又駿府城跡の位置関係から山城閒の戦略の一手段として使われた「狼煙のろし」をその起源にする説が有力である。江戸時代後期より六社神社例祭を飾る行事として又豊作を祈願して献發され、それぞれの秘曲が伝承されてきた。大東亜戦争中、中断され昭和22年農村慰安として復活、東司は柳の木などに櫓を括り付けて打ち上げられていた。昭和37年より本格的に打ち上げられ民俗文化の伝承には組織が必要と昭和53年に朝比奈龍勢保存会が設立され昭和59年、県より無形民俗文化財の選択指定を受けた。現在13の龍勢連260余名の会員を有し、歴史と文化の息づく郷土づくりのシンボルとして高さ20mの常設櫓を町助成金により建築された。平成2年。

 またこの土手へは、川向こうの羽佐間の伏見氏宅から下ってきた古道が、川を渡って川のこちら岸につながっていたのである。
 また県道に戻って、西進する。すぐ右(北)に公民館と公園があり、看板説明版がある。
・看板:朝比奈大龍勢:朝比奈大龍勢は、戦の狼煙の名残と考えられ、明治以前から例祭を飾る事業として打ち上げられている。静岡県内でも数箇所にしかないこの花火は、すべて地区龍勢連の手で作られ地区ごとにその技を競う。現在は2年に一度打ち上げられ、その勇壮な姿を楽しみにしている人も少なくない。
 イラスト図では先頭部:ガ(ガンタ)、次いで吹き筒(フキゴ)、重心は吹き筒の長さの2.5倍部分、下方を尾という。

県道を100m西進し右折し北東進する。殿の西ノ平の集落内旧道である。100m進むと祠がある。
○祠:地蔵、・新:でか地蔵、・奉納西國三拾三所秩父三拾四所坂東三拾三所四國八拾八所文化十五(殿、西ノ平683₋2)
 この祠から集落西の山上に大木があり、神を祀った祠がある。ちょうど萬年寺から朝日山城ハイキングコースを上りだすと横を通過することになる。

~野田沢~~
 西の平の集落を北に抜け総善寺参道前も通過する。大野原橋や原上橋を通過するのが明治20年代のルートに近い。原上橋から300mで分岐になる。西又や岡部のリサイクル工場、小園地蔵方面へ行く西又林道が左に分岐するが、右へ行くのが野田沢ルートである。
400m進むと右に石塔がある。
・石塔:十一民平墓万(野田沢) 
 900m進むと野田沢橋を渡り、野田沢集落に達する。橋から350m進むと野田沢公民館前の橋袂に石塔類が苔むしている。
○石塔類(野田沢77₋2⁻1)  
 ・庚申塔、・○奉禮観世音菩薩 西國三十三所順拝□観世音、・庚申塔:昭和五十五年、・奉善光寺如来供養:明治三年、・献燈、*自然石2の上に石塔類は固定されている。
 100m進むと右に橋がありその向こうに石段がある。
○山神神社(野田沢103) 
 ・石段、・石碑:手摺~:平成二十七年、・石鳥居:昭和三年、・手洗石:昭和六年、・祠、・拝殿本殿、
 200m進む。野田沢の集落が切れる所に祠が祀られている。
・祠:笠かぶり地蔵(野田沢140) 
 200m進むと舗装自動車道が二手に分かれる。左が野田沢峠経由で静岡市飯間に出られる道である。ここに祠がある。
○祠:石道標:此れより右やまみち左ふちゅう寛政七年
 ・説明版:上記のように記されているが、寛政七年は西暦1795年で江戸時代の中期になる。この道しるべは、朝比奈から静岡市飯間を経て、駿河の府中(静岡市)へ通じる昔からの街道の一つであったことを示す遺構である。古老の話によると今川氏真が武田軍勢に追われて駿府の館から掛川城へ落ち延びる時、永禄12年1569に通った道という。現在は自動車社会になり、往来が少なくなった時期もあるが、農道整備事業により幅5.9mの快適な舗装道路となり、昔と変わらぬ物流道路としての活用が期待される。
 この石道標を、よくぞしっかり保存したものだ。刻字はかなり読めなくなっているが、説明版によって分かる。将来文化財に指定されるかも。
 かつてここには自動車道はなく、歩く山道があり、歩いて野田沢峠を越え飯間に出た。峠には六地蔵が祀られ、ハイキングコースとして知られていたが、自動車道ができハイキングコースになっていた古道は消失した。
 祠裏の岩の中に馬頭がある。
・馬頭観音:石祠内
 自動車道を上っていく。峠には新しい石碑が建立され、六地蔵は道の左擁壁上に祀られている。ちょうど静岡市と藤枝市の境界線になっている尾根沿いを1990年頃歩いて通過したことがある。その時野田沢峠も通過し六地蔵を見た。境界線尾根の道は劣化しているだろうが冬場なら歩けるかもしれない。
○石碑:山峡招き緑風爽やか、・板碑:2000年、
 
○六地蔵+観音:文久元酉九月日世話人増田増右エ門、
 1861年。

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 また殿と新舟の県道に戻り、西進する。180mで右に寺院への参道となる。
○萬年寺(新舟1240⁻1)  
 ・寺名碑:昭和四十八年、・□□□大菩薩、・萬年寺のカヤ:県指定天然記念物:根回り8m、目通り5.8m、樹高30m、根張り東西30m、南北25m、
  
 寺の裏から朝比奈城ハイキングコースになっていて裏山に上って行ける。
○朝比奈城ハイキングコース
 萬年寺から100m上っていくと殿、西ノ平集落の裏山に出る。ここに大木と祠がある。
・祠、大木 
更に100m上ると石碑と石段がある。
・石碑:経塚址
更に10分も上ると山頂の平坦地で看板がある。
・朝比奈城跡 
・説明版:戦国時代に岡部氏と並ぶ武将、朝比奈氏は今川、武田氏に仕え特に信置という人物は武功を上げ今川氏より感謝状を受けた戦国雑誌に「止駄郡殿村にあり今川家の功臣朝比奈某の築く所にして永禄年中まで朝比奈家代々の居城なり」とある山頂に土塁や空濠を作り居館を麓に作ったことからいわゆる「根古屋式」の城塞といえる。
空堀一つ、本曲輪が若干見られるが、城の分かりやすい遺構はハイキングコースから見付けにくいし、取りたてて紹介する標識類もない。ルート標識と山頂の城紹介看板になり、他の遺構類を紹介する標識設置が望まれる。
 
 山頂を過ぎて20~30分下ると善能寺前に出てハイキングコースは終了である。
 萬年寺入口に戻り、そこからもう20m進むと左に土手があり、馬頭が祀られている。
○馬頭観音6(新舟1240⁻1)  
 ・馬頭:剥落しかかり、・馬頭観世音:大正六年、・馬頭:八臂:昭和四十八年:怖い形相、・南無馬頭観世音菩薩:昭和四十七年、・馬頭:大正十五年、・馬頭:八臂うち六手はレリーフで顔の形相は怖い。
 県道を30m進むと右に道の駅がある。
○道の駅 玉露の里(新舟) 
 ・昆虫館、
 道の駅を過ぎてすぐ右側の家前に新しい石塔が2つある。
○石塔3(新舟1004) 
 ・新:三界萬霊塔、・新:交通殉難者供養塔、・古:丸石
すぐ左に玉露の里に渡れる橋がある。
○玉露の里(新舟976⁻1) 
 ・石碑:玉露の里、
・句碑:村越化石:句碑は芸術的に斬新ですぐれている。説明:村越化石は大正11年朝比奈村に生まれる。本名:英彦。昭和13年ハンセン病発病の為旧制中学校中退、昭和16年に草津の国立療養所栗生楽泉園に入園。昭和24年に大野林火先生に師事、これまで俳人協会賞、蛇笏賞の他俳壇の各賞を受賞。魂の俳人といわれる。平成3年には紫綬褒章を授賞。石刻句:「望郷の目覚む八十八夜かな」平成七年作。望郷の句は私に多い。故郷を離れてすでに久しく、見えない眼の奥にいつも故郷がある。夏も近づく八十八夜は新茶の初摘みの頃、村中が茶の香りに包まれるよき季節。生気溢るる八十八夜は望郷とともに私の好きな言葉である。村越化石。村越化石顕彰会。
・新:諸畜霊同魂碑:平成三年、・庭園:茶室庭園はこじんまりしているが素晴らしい。
・椿園、
 なお玉露の里の諸蓄霊碑のある所に馬頭観音があると複数の方に言われたが、諸蓄霊碑しか見当たらないので、最近馬頭を移転して諸蓄霊碑を安置したのかもしれない。
 ・吊橋、
 玉露の里入口の橋から県道を100m北上すると、右に神社がある。
○六社神社(新舟1018) 
 ・社名碑:昭和六十年、・手洗石:昭和二十七年、・石鳥居:明治四十二年、・手洗石、・石鳥居:破片、・自然石:多、・石段、・大木:多、・常夜燈2:昭和六十三年、・常夜燈2:天保十一年、・忠魂碑:昭和二十七年、・板碑:忠魂碑参道、・狛犬2、・献燈4、・板碑2、「狛犬1対、「平和と鎮魂の標」
 ・説明版:朝比奈大龍勢:県指定無形文化財:朝比奈大龍勢は六社神社の例祭に合わせ、祭神に豊作への感謝と地域の安全・発展を祈願して奉納される花火の一種です。その呼び名は花火が轟音を響かせながら真っ赤な火の尾を引いて空に上がっていく様子が「昇天する龍の姿」に似ていることから付けられたと云われる。龍勢の起源については「戦国時代の狼煙説」と「江戸時代の猟師鉄砲試射説」とがあるが、はっきりしない。昭和53年に「朝比奈龍勢保存会」が作られ、今は13の龍勢連が加盟して各連ごとに秘伝の技術がある。隔年の10月に打ち上げられ、各連がその技術を競い合う。県内では草薙でも打ち上げられ、全国では4カ所しか行われない大変珍しい花火である。


 神社から200m北上する。
○祠:・地蔵3、・馬頭1、・丸石5、・層塔(五重)(新舟233₋2) 
 地区の石塔類を合祀したようだ。
 200m北上する。右の路地の1軒奥に常夜燈がある。
○秋葉山常夜燈:火袋辺り:昭和五十一年、竿部分:文化元子年1804(新舟175₋1)  
 常夜燈の火袋部分は修復され昭和の年号が刻され、竿部分は古く文化の年号が刻まれている。こうやってでも保存していることがうれしい。

 県道の左側には榎橋が架かり朝比奈川を渡れる。渡ってすぐ左折し川に沿って150m南下すると祠がある。
○新舟西宮恵比寿神社(新舟522⁻1) 
 また榎橋に戻り左折(西)し笹川を目指す。400m進むと右(北)に行く道があり、石碑がある。岩瀧不動尊参道である。
○岩瀧山不動尊
・石碑:岩瀧不動尊参道
 参道を450m進むと標識があり、右の崖下に滝があることが分かる。
・不動男女の滝 
 滝入口から奥に100m進む。
・岩瀧不動尊:
・岩穴ののぞき地蔵、・献燈:平成九年、・手洗石:昭和十七年、・献燈:昭和四十三年、・例祭日:10月28日、2月28日、 
参道を戻り参道入口を目指す。今度は笹川を目指し450m進む。橋の袂に石塔がある。
○祠:・庚申塔:見聞言サルレリーフ:寛政?、・献燈:昭和四十三年、
200m進むと駐車場があり、笹川集落の中心部に達する。
・石祠
 駐車場に説明看板がある。
・笹川集落の歴史
・説明:言い伝えによると、笹川八十八石ハイキングコースをビク石に上っていく途中に南向き傾斜面で日当たりのよい平坦な場所を「落人の段」と呼んでおり落人の忍び住むには、絶好の場所がある。ここに文治元1185年源平合戦において平家が滅亡し、平家の落人がここに住み着いたのが笹川の始まりであるといわれる。また集落の入口付近に「上の山」という山があり朝比奈川のほとんどの集落と遠くは岡部本町から焼津方面まで見渡すことができる場所があり、ここの山の背を掘割り追手を見張る場所としたと言い伝えられている。やがて時がたち世の移り変わりとともに家族も増え、落人の段から順次安住の地を求めてこの笹川の盆地に居住し笹川集落を形成した。また昔からの書紀によると駿河の国志太郡笹川村新舟とあるように笹川空さらに新舟にと住み着いたと考えられる。
・水玉神社と十四地蔵尊の由来
 ・説明:昔、笹川集落へホウエンさん(祈祷師のことを村人はこう呼んでいた)が、落ち延びて、この地に住み着いた人たちのために15の玉を下さった。これを氏神様として祈っていた。氏神にお参りする人々は清水の流れる堀の沢で手を清め口をすすぎ家内安全と集落の安泰発展を祈って心のよりどころとしていた。いつ頃か不明だが、突然の地震か大雨かその原因は不明だが、大きな山崩れがあり氏神である15の玉神様は埋まり何日も土砂の掘り返しを繰り返し続けたが、14の玉神様を見付けられなかった。幸い埋まらずに1体が見つけられ、この1体を水玉神社として、また見つけることができなかった玉神様は十四地蔵尊として祀られた。
 駐車場のすぐ先の分岐点に石道標がある。
・石道標:瀬戸谷村十八瀬ニ通ズ 葉梨村上大澤ニ通ズ 御大典記念 昭和三年十一月新舟発起人     
 瀬戸谷十八瀬へはちょうどビク石登山道を指し示し、ビク石から瀬戸谷に下ればよい。上大澤へは笹川集落の水玉神社奥を尾根に取り付き山越えすると上大澤である。こちらは今となっては山道があるやらないやら。
 この分岐点から左上の神社方向を目指す。
○水玉神社(新舟、笹川828) 
 ・石段、・献燈2、・手洗石:文化十一、・十五玉伝説:上記、
○駿河一國百地蔵尊第十九番笹川十四地蔵尊、勝覚法師(新舟、笹川738)  
 ・石祠、・観音、・手洗石、・献燈、・献燈:昭和四十三年、・十四地蔵、
・祠:勝覚法師:地蔵5:説明:勝覚法師は地元の農家の出身で取りたてて学問を納めたわけではないが、地元民の為功徳を施し、地元民の尊敬を集めた人であったようだ。没後も信仰を集め、勝覚法師として祀られるようになったようだ。 
先ほどの石道標の分岐点に戻り、ビク石方向を目指す。150m進むと右の沢向うの茶工場隣に石塔がある。墓石である。
・墓石:享和三亥七月一日早世一葉童女:1803年 
更に奥へ500m目指すと舗装路の終点となる。現在はここからビク石登山道であり、笹川十八石である。昔は集落尾張の家の裏山から山に取り付き尾根に出てビク石を目指したようだが、十八石を通過し手から尾根に取り付くコースになったようだ。
○笹川十八石
・表石、手洗石、赤石、三の石、ナメクジ石、ホコ石、むすび石、五色石、ラクダ石、メガネ石、こうもり石、座禅石、想像石、見上げ石、象石、がま石、コラサー石、出船入船石、こもたたき石、
・ビク石登山道:古道:笹川から笹川十八石を経てビク石山頂へ、そしてビク石から瀬戸の谷へ下れるルートである。現在はハイキングコースとして利用されている。一部は古道のままではなく道が付け替えられているようだが、およそ古道が現在でも利用されて保存されている好例であり、最も古道が残っている部分である。途中地蔵があるようだ。今回未調査。

 また来た道を戻り榎橋を渡り県道に戻る。100m県道を北上する。右奥に寺院がある。県道からの参道入口に墓石や石塔がある。
○石塔、墓石(新舟137₋1) 
 ・如来:墓石?、・萬霊塔、・墓石3:~信女、・墓石:~童子、・観音:墓石?、
○善能院(新舟271)  
 ・寺名碑:昭和六十三年、・如来、・観音、・地蔵、・観音?、・庚申供養塔、・祠:六地蔵、・薬師堂、・禁葷酒:寛政十二、・手洗石:、・臼、
 寺の裏山は朝日山城ハイキングコースで墓地で配水場でもある。裏山を100m進むと墓地手前に祠がある。
○祠:不動明王:天明元年(新舟271) 
 ・五輪塔、・献燈、・石塔、・丸石:二段重ね、
 県道を200m北上すると朝比奈川に架かる石上橋を渡り宮島の石上集落になる。更に県道を奥に目指す。石上橋から300m進むと左折し上に上っていく小道がある。50m上って右の小屋の先の奥に祠がある。
○祠:マラ地蔵(宮島、小丹原456⁻12)
 ・祠:マラ地蔵:一石に6組(多分男女で一組)の双体道祖神をレリーフ、横に男根石か?、丸石、8月7日の旧七夕に読経、この地域では七夕は8月7日、宮島小丹原457⁻8:前島氏奥さん談、
 県道に戻る。県道沿いに石碑がある。
○板碑:記念碑(宮島、小丹原522⁻6)
 記念碑から県道を400m進む。左に石碑があり、奥に大木が見える。
○大山祇神社(宮島、小丹原419⁻9)
 ・石道標:大山祇神社:県道沿い、・石鳥居:昭和三年、手洗石、・巨木3~5、・巨木切株、・大木5~6、
 県道に戻り30mで宮島橋であり渡ると宮島の板取集落である。橋を渡ってすぐの右家に祠があり、もう1軒先にもある。
○祠:神、・祠:石塔:紀伊国川中島八兵衛:明治四十四年(宮島、板取760)、
川中島八兵衛石塔は志太郡榛原郡に偏在していて、今の藤枝市、牧之原市、焼津市、島田市周辺に分布しているようだ。詳細は『大井川町史下巻』に書かれている。これは朝比奈街道沿いの最も奥にある物ではなかろうか。
県道を150m進むと左折し朝比奈川沿いに進む道を行くと朝比奈川を渡る田島沢橋があり、渡ると、左が民宿朝比奈で右が城山不動尊方向である。右に100m向かうと田島沢に架かる橋を渡る。沢に沿ってすぐ左折し、800m奥を目指す。
○成田山城山不動尊
・祠:姫祀り、
舗装林道沿いに祠がある。ここから沢に架かる橋を渡って城山に上る。15~20分登り山の中腹の平坦地に不動尊が祀られている。
・石碑:城山観世音菩薩、・羅星庵、・祠・祠:石塔、・献燈2:平成十八年、・祠:地蔵:小多数、・地蔵、・新:自然石大石&不動明王像、・新:献燈2、・新:祠4、・新:平家の石塚、・新:地蔵、・新:源氏の石塚、
○城山:宮島城跡:△377.1m 
不動尊は城山中腹の標高200m前後と思われる。この山は名の通り中世山城跡であり、宮島城といい、山頂は標高377.1mである。不動尊より上に上る道らしきはないようだが、ここから上れると山頂は近いようだ。他ルートとしては新舟の榎橋近くの新舟330:村越氏宅裏から道があるようだが、村越氏の話では途中から藪になり道は不明確だろうとのこと。また宮島の石上343村越氏宅横からも道があるようだが、付近住民によると道はないらしい。また岩瀧不動尊お堂の裏から上ればとも考えられるが、お堂の裏に道はない。せっかく中世山城があるのに行く道がないのはもったいない話だ。道を付けるとよいのだが。

また元来た朝比奈川沿いの県道に戻る。県道を300m北へ進むと寺院の参道入口になる。
○清養寺:
 ・寺名碑:昭和五十三年、・奉納西國三拾三所供養:文政七、・奉納西國秩父當國観世音菩薩:文政九、・善光寺詣供養塔:明治十五年、・三界萬霊等:昭和五十□□、・馬頭:明治二十一年、・馬頭:明治廿年、・観音堂、・小坊主地蔵、・四角石の碑、・水子地蔵、・六地蔵、・石、・庚申塔:昭和□四□、・庚申塔:見聞言ザルレリーフ、・丸石、・秋葉山常夜燈:文政九、
 寺参道入口にはまた石道標があり、そこから寺参道の南とは逆に北へ行く山道歩道がある。
○石道標:朝比奈街道 南藁科村ニ通ズ 御大典記念昭和二 宮島
 多分小園地蔵前を通過し、西又または野田沢峠越えで静岡市藁科地区へ出る道を示していたようだ。確かに現在でも小園地蔵前から自動車で西又や野田沢越えで藁科に出られる。
○古道:清養寺←→小園地蔵:距離500m、標高差50m
この山道歩道は距離500m、標高差50mを歩いて西又への道への途中の小園の地蔵がある所に出られる道である。十数年前に歩いたときはもっと道が綺麗だった。今回は歩いていないが、出入口の二カ所を見た所でも状態が劣化していると感じた。この朝比奈街道中、最も現在の街道から近い所で古道の状態を保った道が500mほどの距離で残存していると拝見する。この古道部分を失えばもはや朝比奈街道の古道は絶滅に近いだろう。この道は何とかして保存してもらえないだろうか。今回この朝比奈街道を調べブログへアップしたのも、この古道部分がどうなったか気になったので、調べたようなもので、保存を呼びかけたかったからである。もはや朝比奈街道の古道部分は消滅寸前である。

県道を150m進むと柚ノ木橋があり渡り、更に300m進むと小園橋がある。橋手前の公民館に常夜燈がある。
○秋葉山常夜燈:自然石、・丸石(宮島、小園91⁻1) 
 小園橋を渡る。県道は左折するが、西又への道で集落奥に向かう道を100m進むと左にお堂がある。
○芙蓉庵(宮島小園1393)  
 ・瑠璃光山芙蓉庵薬師堂、・寺名碑:瑠璃光山:2m:文政四、・観音、・奉百番観世音菩薩、・如来、・石塔、・台座等、・○○奉供養(美良)青面金剛大菩薩:嘉永元戊申八月、・庚申供養塔:明和四丁、・自然石、・手洗石、
 集落奥への道を更に100m沢沿いに奥に進む。右に橋があり鳥居が見える。
○日吉神社(宮島、小園1383) 
・石垣、・木鳥居、・石祠、・大木5~6、
 神社前の狭い農道を奥に詰めていく。

 ・古道:小園の日吉神社横農道から玉取沢への道:両方とも取付きは農道で人家がある。途中から鎌道のようだが、現在でもしっかりあるかどうかは未確認。
 現在はもっと西の朝比奈川本流沿いの近又、谷倉に県道が通過しているが、昔は本流沿いに道を作りにくく、東の小園と玉取沢を結ぶ峠越え道を主要街道にして利用したのだろう。


 西又へ進む県道静岡朝比奈藤枝線へ戻り、西又方面へ800m進む。石塔や祠がある。
○小園の延命地蔵尊
・説明:この地蔵尊は地元では「峠のお地蔵さん」と呼ばれ、昔から多くの人たちに親しまれてきた。いつ頃ここに祀られたか不明だが、駿河の国百地蔵の18番札所の延命地蔵尊として、今もなお多くの参拝者が訪れる。向かって右側の地蔵が初代のもので左の地蔵は昭和5年に建立され毎年9月13日には老師により法要が営まれる。そして百地蔵にはそれぞれ歌が詠まれている。「ひとすじ(一筋)に も(漏)らさで すく(掬)ふ ぐわん(願)なれば すく(救)いたまえや 南無地蔵尊」 この他岡部町内には16番「坂下の延命地蔵尊」、17番「光泰寺の地蔵菩薩」、19番「新舟の十四地蔵尊」がある。平成16年。
・祠:駿河一國百地蔵尊第十八番:地蔵4:昭和五年、昭和四十五年、・石塔、・手洗石、・秩父三拾四所供養塔:文化十年、
地蔵の裏から峠下に下って清養寺前に出る山道がある。古道で距離500m、標高差50mである。

~西又~
県道を50m進むと右に下っていく道もある。直進すると西又で、右へは岡部のリサイクル工場を経て野田沢や殿方面に行く道である。西又へ進む。
 1.3㎞進むと小さい境橋があって藤枝市と静岡市の境界線になる。静岡市には一転すぐ右の工場に燈籠がある。
・自然石燈籠(静岡市西又1955) 
 県道を600m進むと西又集落の中心的四つ辻に出る。
 2軒手前に戻り石段を上ると神社がある。
○八幡神社(静岡市西又1977) 
 ・自然石2:二段重ね、・石段、・社殿、・祠、・サワガニ:石段に棲息、
また四辻に行き左折(北)し100m進むと右に西又公民館がある。この道向かいの左に堂がある。
○堂:三十三観音(静岡市西又2053) 
 ・欠番:1,3,22,33番の4体で、29体があり、見事なものである。
○弓折峠(静岡市西又と玉取沢の閒) 
 公民館前の道を奥に1㎞進むと自動車は進めなくなるが、300m歩いて峠に行く道がある。
 峠は1990年頃は茶畑だったが2002年には植林地になっていた。そして弓折峠からダイラボウに上る登山道もあったが現在はどうなっているか不明だ。
 弓折峠は西又と玉取沢を結ぶ峠道である。以前2回上ったが特に遺物類はなかった。

 また西又の四辻に戻り南に50m進む。堂がある。
○地蔵堂:地蔵(静岡市西又2050) 
 ・庚申塔:天保九年戊戌十一月吉日、・観音:文政元寅年十二月吉日、・善光寺供養:明治二十二年、庚申供養塔:安永八年、・○庚申塔:昭和五十五年、
 県道に戻り静岡市街方面へ進むと西又峠を越える。特に遺物類はなくダイラボウ登山口標識がある。県道のこの先は藁科である。
 *西又の33観音、地蔵堂、八幡神社について教えて下さった西又1977:斉藤氏奥さんに感謝いたします。


~宮島、小園に戻る~
 小園橋袂から県道相俣岡部線を朝比奈川に沿って遡上する。
 芙蓉庵前から山際集落に沿って西に向かい県道に合流するのが旧道である。特に遺物類は見当たらなかった。小園橋から900mで近又橋に至る。手前右にどうも清水があるらしいが分からなかった。
○「ごとうの清水」
 未発見。
 橋手前のお宅にも丸石があった。
・丸石(玉取、近又30⁻1):松野氏宅  
 橋を渡る手前を右折し川に沿って進み、その奥の川の支流にどうも滝があるらしいが未発見。
○「近又三日滝」(玉取、近又51⁻2) 
 未発見。
 近又橋を渡る。正面に寺院が見える。
○西楽寺(玉取、近又116⁻1) 
 ・石段、・石塔、・献燈の竿部分、・常夜燈、・祠:地蔵、・庚申塔:明和六己年、
○青羽根への古道(玉取、近又116⁻1) 
 寺は山の尾根に取り付いた一段高い所に築かれており、その斜面の左側を青羽根への古道が通っている。その道は現在の青羽根への自動車道より一段高い所にあり、古道の下に新道が見える。ただし古道はこの裏の隣家:玉取153:入野氏宅で一旦おしまいのようだ。
 
寺の手前に保育園があり、園庭に像がある。
・二宮金次郎像:マキを背負い読書(玉取、近又121⁻1) 
 二宮金次郎のかつての学校での代表的な像であるが、残っているものは限定的なようだ。このまま保存する価値は十分だろう。

 メイン街道は橋を渡って右だが、ここは直進して青羽根を目指す。
~青羽根~~
 青羽根集落直前の自動車道沿いに石仏がある。
○馬頭観音2:明治十二年、-(青羽根、入口)  
 元は古道沿いにあったのだろうが、自動車道の集落入口に祀り直したのだろう。
集落に入り道を上がっていくと常夜燈がある。
○常夜燈:奉請秋葉大権現 天明五 青羽根村(青羽根716⁻1) 
 150m上っていくと板碑がある。
○石塔類(青羽根772)  
・板碑:久志之光、・新:献燈、・手洗石、・石柱2
 さらに100m上っていくと石仏がある。
○石仏:地蔵、小五輪塔2(青羽根754) 
 50m上り神社やハイキングコースがある方へ進む。
○新四国八十八カ所観音堂(青羽根997) 
 ・観音堂:八十八観音、・?庚申塔、・馬頭2:顔破損、-、・庚申供養塔:宝暦七年、・手洗石:天保十三、・観音:聖観世音第二十一番、
 30m進んで右のパノラマハイキングコースの道を100m進む。神社がある。
○大井神社(青羽根981)  
 ・説明:駿河国益津郡朝比奈青羽根村に居住していた佛弟子の藤原朝臣永泰の寄進に依り建立。応仁元年亥年10月25日、願主藤原二良右衛門に依り建立、大工松山子宣。宝暦六年丙子8月、再建、神官諏訪丹波守、大工藤枝宿仁兵衛により建てられる。元治元年甲子8月27日再建。昭和12年再建。
 ・説明:青羽根地区は寿永四1185年、平家滅亡で、氏族存続を願いこの地に隠れ住んだ人たちの集落といわれる。仲本、村上、京、羽山、永井二家、清水の七家が集落の起源で青羽根七人衆と云われ、現在でもその子孫が家系を継承している。この大井神社は集落の護り神として青羽根村に居住していた仏弟子の藤原朝臣永泰の寄進により、応仁元1467年願主の藤原二郎衛門によって修造され、今でもその時の棟札が保存されている。その後3回ほど修造され、現在の建物は昭和12年に修造されたものである。また御神木の大杉は推定樹齢700年以上、根回り8m、樹高28mで市指定天然記念物である。志太の朝比奈村誌より。平成16年。
・木鳥居、・献燈2:安永五、・石祠2、・手洗石:大正元年、・献燈2:平成二十二年、・和合の樹、・大スギ:根回り8m、目通り5.4m、樹高28m、根張り25m
○パノラマハイキングコースにあるもの
・長塚石、・マンガン鉱山跡:採掘洞窟:すでに落盤で崩壊、・長塚峠、・麦地峠、
 青羽根と市之瀬の境界尾根の峠に進む。かつての旧岡部町と旧藤枝市の境界線であった峠である。かつて「コスモス峠」という標識を見たことがあるが、正式名とは思えない。なんという峠名であろうか? 石仏もある。
○峠:?コスモス峠:青羽根と市之瀬の間
 ・石仏3:馬頭1、地蔵1、?1、
 この尾根の南は藤枝市の市民の森△464mとなり、手前に駿河峰△489.9mがあり、市民の森の南にはビク石山△526mがある。

~~~
青羽根を終了して、県道の近又に戻る。玉取沢方向を目指す。600m進むと右に石塔がある。
○石塔類(玉取、近又351⁻1) 
 ・庚申塔□永五□歳、・常夜燈:自然石、・?馬頭、・手洗石:内側ひょうたん型、・丸石、・花生け台2、

~谷倉~~
 250m進むと落合橋に達し、谷倉集落となる。県道相俣岡部線は直進だが、左折し谷倉沢に沿って500m進むと右に寺院がある。
○梅窓寺(玉取、谷倉1328) 
 ・地蔵、・石段、・○庚申塔:大正三年、・献燈、・六地蔵+観音:座、・石塔、・西國三十三処當國三十三処、・奉供養西國三拾三所観世音菩薩、・丸石4、・丸石:お供え餅風三重、・へそ石、・石祠、・手洗石:文化十四、
 さらに30m進むと左に祠がある。
○祠:神、・献燈2:昭和四年、・手洗石(玉取、谷倉160⁻1) 
 70m進むと左に橋があり、その向こうにかつて畑地があったようだが荒れかかっているようだ。地元の人の話だと畑に八幡神社の祠が祀られているそうだが、探したが見つからなかった。
○?祠:八幡神社(玉取、谷倉1265₋2) 
 未発見。
 さらに奥に150m進むと右に石塔類がある。
○石塔類(玉取、谷倉1170⁻4) 
 ・庚申塔:大正三年、・庚申塔:明治八年、・常夜燈:自然石、
 この奥は谷倉沢渓谷と呼ばれるようだ。結構奥まで人家があるようだが、古道遺物類は人家がある範囲内では見つからなかった。
 
~~~
落合橋まで戻る。
谷倉集落でも各家に丸石がある。
県道を200m進む。左は地域活性化センターであり、石造物がある。
○石造物(玉取、谷倉1476⁻1) 
 ・秋葉山常夜燈:天保九:2.5m、・丸石3、・自然石:多、・新:地蔵2:頭でかくかわいい、・たまいし様、たまゆら、
 この裏に神社がある。
○神明神社(玉取、谷倉1512) 
 ・石段、・石鳥居、・石垣、・スギの大木、・他大木、
 県道に戻り150m進む。
○石塔類
 ・祠:地蔵、・庚申塔、・献燈:自然石と金属加工の燭台、
600m進むと沢口橋手前で玉取沢右折する。

~玉取沢へ~~
180m進むと右に石塔類がある。
○石塔類
 ・○庚申塔、・献燈、・花生け台2、
 なおも奥に350m進む。
○天狗の手洗い鉢(玉取沢1907) 
 ・場所がはっきりしないが?多分沢崎氏宅の裏に手洗石が置かれていたようだ。
 ・説明版:昔法印さんを慕っていた天狗がいた。夜になると天狗は法印さんの墓に植えた大きな松の木の杖に来ては、毎晩のように太鼓を鳴らしたり、笛を吹いたりして、大変にぎやかに過ごしていた。しかしいつの間にか庄園どんの爺さん以外には声や音は聞こえても天狗の姿は見えなくなった。あまりの不思議さに近所の人たちが「そんなバカなことがあるか。」と言いあっていた。それを耳にした天狗は「それなら証に珍しいものを持ってきてやるか」と爺さんを一緒に雲に乗せて連れて行き、京都から一夜のうちに持ち帰ったのが、この手洗い鉢だという。朝比奈第一小学校編「あさひな」より、平成16年。
 この玉取沢から南に入っていき峠越えすると南の小園へ抜ける古道があるようだ。ゼンリン住宅地図では細線で記入されているので道型は残存しているかもしれないが未確認。
 玉取沢を東奥に詰めると自動車では行き止まりだが、歩いて西又へ抜ける弓折れ峠に至る。
○弓折峠
 ・西又の項目で前述している。付加すると、この山道はいまだに自動車道ではなく古道形態を残存していると言える。
~~~
 県道相俣岡部線の沢口橋に戻る。
400m進むと山中(富厚里)への分岐点で、すぐ先の橋は境橋で藤枝市(旧岡部町、旧志太郡)と静岡市(旧安倍郡)の境界線である。朝比奈川を詰めると静岡市になるというのは何だか変な気がするが、志太郡と安倍郡の境なのだ。ここに石道標がある。
○石道標:御大典記念 朝比奈街道 南岡部町方面 北小布杉三野ヲ経テ川根ニ通ズ 東山中峠ヲ経テ藁科ニ通ズ 
 ~~~
分岐点から右折(東)し600m山中集落、静岡市街方面へ進む。山中集落のお茶工場隣の山中集会所の横に石塔類がある。
○石塔(静岡市小布杉、山中2613) 
 ・観音、・庚申:見聞言ザルレリーフ、・石塔、・一石三観音、・観音、・石塔、・地蔵、・新:献燈、・石仏、
 300m進むと右上に鳥居がある。
○神社(静岡市小布杉、山中2346) 
 ・金属鳥居、・本殿、
 このすぐ上の御宅横からかつては中学生の通学路になっていた古道が峠まであった。
○古道:古い通学路(静岡市小布杉、山中2672) 
 40年程前までは中学生の通学路としても使われていたが、新道:自動車道が整備されて使われなくなったし、自動車道の下で沢沿いで、かなり崩壊したと思われるが、残存していれば価値ある古道と言える。富厚里峠から富厚里側に1㎞下るまでも古道があった。
 山中の神社から自動車道で1.1㎞で峠である。
○富厚里峠(山中峠) 
 ・祠:地蔵4、小地蔵12、・手洗石:大正三年、・奉納西國三拾三所巡拝供養塔:大正十四年、・開通記念碑:昭和四十六年、

 峠の山中側少し手前に林道が分岐しダイラボウまで行くことができる。ダイラボウ山頂すぐ横の林道頂点には石碑がある。
・開通記念碑:平成16年3月
・ダイラボウ山頂: 
 ・説明:昔「大らぼう」という大男がいた。富士山をつくると言って琵琶湖の土を大きなもっこに入れて運んだ。大男は富厚里山の上から水見色の高山へと一跨ぎに歩いた。その時の足跡があるので「だいらぼう」と名付けられた。木枯らしの森と下流の舟山はその時もっこからこぼれ落ちてできたものだという。中藁科小学校郷土研究クラブ。
 ~~~
 山中と小布杉との分岐点のある境橋まで戻る。ちょうど藤枝市:志太郡と静岡市:安倍郡の境界線で境橋となっている。境橋から上流を目指す。朝比奈川の左岸:東側の道を上っていく。道のある川東側が静岡市で川西側が藤枝市である。川が境界線である。
 境橋から300m上っていくと右に石塔がある。
○石塔類(静岡市小布杉1591⁻3) 
 ・庚申塔、・庚申:安永三、・観音、
 また300m上っていくと左に祠がある。
○祠:地蔵(静岡市小布杉1661) 、
 さらに200~25m上っていくと右に石仏がある。
○地蔵(静岡市小布杉1697) 
 また400~450m上っていくと、静岡市立中藁科小学校小布杉分校がある。その手前に堂や祠がある。
○堂:弘法大師、祠:六地蔵、観音4(静岡市小布杉1756) 、
 ・堂:弘法大師、祠:六地蔵、観音4:當國三十三所供養塔、・奉納當國三拾三所供養塔:文化五辰十月吉日、・秩父三十四番観世音菩薩、・手洗石、
 分校裏手右(南)の斜面中腹にに平戸神社があるが、地元の人に行き方を聞かないと分からない。県道沿いの茶畑からも行けるようだが標識がないので分からない。
○平戸神社(静岡市小布杉1062) 
 ・本殿拝殿、・石垣、・金属鳥居、
 分校から700m奥に詰めるとY字路に至る。右は富沢方面で左は三ツ野(三ヶ野)である。ここに石塔類がある。
○石塔類(静岡市小布杉1185) 
 ・丸石、・西國三拾三所、・善光寺供養塔:明治、・庚申塔:明治四十一年、・庚申塔:レリーフ:文化九壬申年:1812、・庚申塔:昭和五十五年、・金属献燈:平成六年、・石塔、・當國三十三所、
○石道標(静岡市小布杉1697) 
 ・石道標:御大典紀念 朝比奈街道 南岡部町方面 右富沢相俣川根方面 左三野ヲ経テ舟ヶ久保?
 左の三野へ1.3㎞進む。右に神社がある。
○白髭神社(静岡市小布杉、三野300) 
 ・木鳥居、・手洗石、・石段、・献燈2:昭和十年、・大木1、・大岩多数:神社裏:まるで磐座のようだ、
 250m奥に進む。右に寺院がある。
○梅林寺バイリンジ(静岡市小布杉、三野319) 
 ・観音、・西國、・西國三拾三所供養塔:天保二、・観音、・西國供養塔、・當國三拾三所供養塔、・善光寺如来:文化、・奉納西國三十三所供養塔、・「善光寺」(観音)文政元、・善光寺如来當國三十三所:文久元酉、・庚申塔:昭和五十五年、
 これより奥に詰めると道がなくなるが、30年ほど前、この奥から歩いて大鈴山の南尾根の林道に出て大鈴山に上ったことがある。さらにそこから清笹峠へ歩いて抜けられた。その先の笹間峠までも歩けた。ちょうど前記の石道標のように清笹峠を経れば舟ヶ久保や笹間へ出られたはずだ。

・発電所貯水槽跡:
~~~
 さて三野と富沢方面への分岐点のY字路まで戻る。今度は右の富沢方面道を進む。600m進むと小布杉最後の人家前(小布杉1303₋2:森氏宅)を通過する。更に250m進むと富沢へは右の道となり左は行き止まり林道になる。この左の行き止まり林道は後で紹介する。右の富沢方面へ進む。この道は林道富沢小布杉線となっている。行き止まり林道側が県道相俣岡部線である。1㎞進むと峠に到達する。ここに祠がある。
○祠:地蔵類(静岡市小布杉) 
 ・祠:峠の地蔵尊:大正九、・祠:交通観音、・猪獣類諸霊位塔、・開通記念碑2:昭和六十一年、大久保山横峰林道:平成三年、
○峠:小布杉と相俣の間:未開通県道、一本杉、石仏2(静岡市小布杉) 
 この峠から北東への尾根を歩いて300m、標高差30mで富沢の頭に至る山頂から真西に標高差50m、距離250m歩くと、小布杉と相俣の間の峠に至る。
一般的には未開通県道と云われる。というのも昔は人が歩く道でも県道として認定されていたが、その後自動車道として整備されず、別ルートで自動車道が開通し、峠付近は廃道になってしまったからである。
 小布杉側からの古道は推定されるに、先ほどの人家の(小布杉1303₋2:森氏宅)前から沢沿いに茶畑を詰め、植林地を上り、先ほどの行き止まり林道に出て、林道横の雑草だらけの崖をよじ登っていくことになるようだが、すでに20年前にも道跡は分からない。20年前には行き止まり林道を600mほど詰めて、右の林道の2mほどの雑草だらけの崖に取り付いて上ると、山道歩道の古道に出られた。急斜面の切通しの山道を100mも上ると、平坦なこの峠に出られるはずだったが、今は行き止まり林道自体が舗装されていてもぐちゃぐちゃの廃道で何が何だか分からない。また反対側の相俣側の行き止まり林道は舗装されていても廃道化している。それでも舗装路を進むと、舗装が切れて土道になる所が橋であり、この橋を渡って左の沢沿いの右に山道がかつてはついていたが、4月末にはうっそうと雑草が茂り行く手を阻んでいた。探索するなら冬場でしょう。かつても冬に上ったはずだ。ただ沢沿いに上りだし、しばらくして沢を左に渡るはずなのだが、これも標識なく迷い迷いだったはずで、20年以上経った今となっては、もっと悲惨だろうと思う。それでもこの峠道を紹介するのは、この山道が朝比奈街道の周辺部を含めて、数少ない古道残存部と考えられるからである。今となっては朝比奈街道中、わずかに残った貴重な古道である。もはや朝比奈街道の古道が全滅寸前な中で文化財級である。
 この峠にはい石仏等がある。
・地蔵2:・朝比奈□□□三元恵十土 安永二□午八月日 村□□□□□□、・明治四十三年七月大森昇一連之 
 30年前、20年前ともにこの峠の地蔵は小さいものが1体だけだったはずで、2体あるということは、それ以後増えたということである。今回周辺入口は廃道だが、この峠を見る限り5年前あるいは10年前には近くの小布杉分校の遠足コースだったようで、壊れかけた手作り標識が設置されていた。
 峠の東に不気味な枝ぶりの巨木が目についた。
・一本杉:地蔵の25m東、
 付近の壊れた標識からすると「一本杉」というようだ。
 なお一本杉のさらに東30m地点に切通しがあり、峠のようだ。


☆朝比奈街道沿いの古道について 
 朝比奈街道の古道残存部はメインルートではすでに消滅しているが、枝道の支線部分で残存している。といってもわずかばかりである。それは以下である。
1 羽佐間の古道:伏見氏宅前のわずか数メートルだけであるが、朝比奈川まで下れる道を整備し直すと玉露の里までつながるというのがよさそうだ。
2 清養寺から小園地蔵の閒:一応メインルートすぐ横から出ていて西又や野田沢、小園の分岐点の地蔵に出られて歴史を彷彿とさせる。保存価値が高い。
3 弓折峠の道:西又と玉取沢を結んでいる。
4 小布杉と相俣の峠道:未開通県道、小布杉側と相俣側どちらの林道の取付点も廃道同然で入りにくい。草刈と標識設置が望まれる。地蔵2体と一本杉が峠らしさを醸し出す。
5 古道:桂島の観音下から葉梨の北方への山道。
国土地理院地形図では点線記入されているが現在あるかどうかは未確認。北方と桂島境の峠手前500mは一部農道ルートのようだ。
6 ビク石登山道:古道:笹川から笹川十八石を経てビク石山頂へ、そしてビク石から瀬戸の谷へ下れるルートである。現在はハイキングコースとして利用されている。一部は古道のままではなく道が付け替えられているようだが、およそ古道が現在でも利用されて保存されている好例であり、最も古道が残っている部分である。
 朝比奈街道中最も利用され今後も保存されるだろう最高に保存度の高い古道である。
7 古道:小園の神社横農道から玉取沢への道:両方とも取付きは農道で人家がある。途中から鎌道のようだが、現在でもしっかりあるかどうかは未確認。
 現在はもっと西の朝比奈川本流沿いの近又、谷倉に県道が通過しているが、昔は本流沿いに道を作りにくく、東の小園と玉取沢を結ぶ峠越え道を主要街道にして利用したのだろう。
8 古道そのものは拡幅されてないが、焼津市越後島から藤枝市下当間、横内、仮宿周辺にはまだ古道の趣を残す風情が残っている。

 もはや以上の部分ぐらいしか朝比奈街道のメインルートではないにしても支線の古道が残存していない。消滅は時間の問題だろう。
 古道沿いの石塔類に関しては豊富である。各集落が積極的に合祀して残してきたのだろう。素晴らしいほど豊富な馬頭観音、庚申塔、馬蹄石、丸石、常夜燈、地蔵が残されている。ただし刻字に関しては読めないものが多くなっている。どんどん劣化していると言える。これでは石が早々にボロボロになりそうだ。おそらく酸性雨、急激な降水量、PM2.5、異常高温な真夏日の多さといった人為的で急激な気候変動が石塔を痛めつけるのだろう。

・あとがき
 朝比奈川沿いに石仏が多いことは30年前から通りかかるたびに思っていた。20年ほど前、佐野敏郎氏の本「古道の石仏」を見て、いつか朝比奈川沿いの石仏をこのようにまとめたいという思いを抱いたことが、今回曲がりなりにも実現できてほっとした。しかし石仏の刻字はかなり読めなくなっていて、もっと早くやるべきだったという後悔もある。
 朝比奈川沿いは石仏と古道でもっと観光化できるだろう。

○付録 
・参拝の仕方 
神社に貼られていた「参拝の仕方」を紹介する。
本当は地域性などで統一された方法や回数はないはずだが、昨今有名神社のやり方が全国的にマニュアルとして幅を利かせているようだ。どうもそのやり方のようだ。 
 参拝の仕方:
1 拝殿の前に立ち、最初に軽く会釈をする。
2 賽銭を奉納し、鈴を鳴らす。
3 祭神に向かい2回深く拝礼をする。(二礼)
4 次に両手の指先を合わせる。続いて右指先を少しずらして2回拍手をする。(二拍手)
右指先を元に戻し、左右の手のひらを合わせて祈願する。
5 祈願が済んだら両手を下げ、深く拝礼する。(一礼)
  最後に軽く会釈をして下がる。
*この拝礼は一般的なもので、神社により異なる場合がある。出雲大社は4拍手だそうだ。

・六地蔵:wikipediaより 
 地蔵菩薩を6体祀ったもので、仏教の六道輪廻の思想から来る。全ての命は六種の世界に生まれ変わりを繰り返すというものである。
1 地獄道:檀陀地蔵(金剛願地蔵)、
2 餓鬼道:宝珠地蔵(金剛宝地蔵)、
3 畜生道:宝印地蔵(金剛悲地蔵)、
4 修羅道:持地地蔵(金剛幢地蔵)、
5 人道:除蓋障地蔵(放光王地蔵)、
6 天道:日光地蔵(預天賀地蔵)
の順になるが、名称は一定しない。持物と呼称も統一されていない。


・参考文献 
 ・「定本 静岡県の街道」郷土出版社 ‘96、
・「ゼンリン住宅地図」
・「2万5千分の1地形図」国土地理院、昭和50~平成10年代
・「2万分の1地形図」陸地測量部、明治20年代
・「静岡県 県別マップル道路地図」昭文社、’00
 ・「東海道 静岡県歴史の道」静岡県教育委員会、平成6年
 ・「日本石仏事典 第二版」庚申懇話会編、昭和55年
 ・「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会、昭和56年

  


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2015年01月17日

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Posted by 兵藤庄左衛門 at 01:03Comments(0)兵藤庄左衛門、総合案内