さぽろぐ

文化・芸能・学術  |

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2014年03月22日

静岡市市街地内、静岡駅北西部

○静岡市市街地内、静岡駅北西部 
                         調査 ’13 11~12月を含む版 
  まだ未調査地や不十分な個所が多いですが、いったん公開します。将来のんびりと改訂していきます。
・用語説明 
・国、県、市=国、県、市指定、・有、無=有形、無形、・登=登録、・文=文化財、・天=天然記念物、・重=重要、・民=民俗、・石=石製、・家=家型、・新=近代から現代にかけて作られた新しいものと推定されるもの、・古=新しくなく古そうなもの、・欠:破損欠落しているもの、・馬頭=馬頭観世音菩薩、・コンクリ=コンクリート製、(2)=2基、
・古い用語説明 
廿=20、廿の縦線3本=30、等=塔、歳‣天‣月日=年、
美良または羊良=養(美や羊ではなく羊の下は大であり美ではなく横線3本である。狼という字に似ているが、その字がパソコンで出てこない。そういった字は多く他の現代的な字に切り替えたり注を施す)、クイズ:ちなみに養がなぜ美(横線3本)や羊(下は大)と良なのかはちょっと考えるとすぐ分かります。このように漢字の部分を上下左右に組み替えることは石塔への刻字ではよくあります。彫る時の字のバランスを考慮した石工さんたちの工夫です。ちなみにある石工さんはこういう字をお寺さんの字と言っていましたが寺院で使う字ではありません。この前見た字では政を上に正、下に政の正抜きの字を彫ったものを見ました。
*「石仏事典」類を参照してください。年号や干支もこれで分かります。
・住所について 
なお住所は正確に分からないものは多く、隣や付近の住居の番地号を用いているものが多い。

○静岡市市街地内、静岡駅北西部 

・宝台院(常盤町2丁目13‐2)  
 ・宝台院ほうだいいん、金米山宝台院:説明版:宝台院は、徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母西郷の局サイゴウノツボネ(お愛の方)の菩提寺である。西郷の局は27歳で家康に仕え、翌天正7年(1579)4月、家康の第3子秀忠を生んだ。家康38歳の時である。この頃家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦に明け暮れたもっとも苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字通り糟糠ソウコウの妻であったということができる。天正14年12月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。家康の陰の立役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りと共に浜松時代の疲れが出て、天正17年5月19日、38歳の短い生涯を終わった。後年、将軍職に就いた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊を慰めた。以来、徳川300年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。
  寺宝:白本尊如来像:重要文化財、他多数。静岡市。
 ・徳川慶喜公謹慎之地:宝台院と徳川慶喜公:説明版:明治元年七月、第十五代将軍慶喜公、御謹慎の身となり、同月十九日水戸を出発して銚子港に到着し、同月二十一日蟠龍艦に乗船し、同月二十三日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険なことだったからでしょう。この時目付の中台信太郎(のち駿府藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下五十名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警護体制を必要としていました。一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが慶喜公の駿府移住は秘密裏に行われ町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その五日後の二十八日のことでした。尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあってこの町を熟知しており、徳川第二代将軍秀忠公の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜公が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。以来、精神誠意慎をされ翌明治二年九月二十八日、謹慎が解け十月五日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約一年余りを当山で起居されました。この謹慎の部屋は十畳と六畳の二室で、十畳の間を居間、六畳の間を次の間として使用し、当時渋沢栄一や勝海舟と面会されたのもこの六畳間でした。明治元年八月十五日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したということです。家達公は七間町三丁目を曲がり、御輿で大手門より入城されましたが、当時まだ七歳というお年でした。現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。静岡市。
 ・西郷の局供養塔、・キリシタン灯篭、・百度石、・尺八碑:明治二十三年、・板碑:燈臺寄附連名:明治三十二年、・板碑:潮田良一之碑:昭和二十二年、・板碑:俳諧師かしく坊の辞世、・新:延命地蔵尊:駿河一国百地蔵尊第三十一番、祠:稲荷大明神、・新:西国九番札所:観世音菩薩安置成田山不動尊、手洗石:長野縣信濃国諏訪郡冨士見□、・狛犬2、・地蔵、・観音、・不動明王、・新:地蔵2、・石:三○:?石垣用石、・新:狛犬2:大正十三年、・新:観音:レリーフ、・石碑:アソカ幼稚園園歌:平成二十一年、
 ・家康の身代わり観音:阿弥陀如来立像のこと、かつては像に傷がついていたが現代に修理したため傷は消失した。家康は本像を合戦に持って行き安置しており、自分の近くに置いた像に矢が刺さり身代わりになったと考えたというが、伝説なのか史実なのかは不明。しかも傷がなくなったそうなので、いかなる傷だったのかもなおさら不明。
ちなみに静岡市葵区、宝台院のホームページを調べると、徳川家康関係の宝物(阿弥陀如来立像、家康公の自画像、真の太刀、家康公筆「安元御賀記手習」)、三代将軍家光公筆「遠山月」二代将軍秀忠の生母・西郷の局の墓、徳川慶喜公謹慎之地、かくし坊の辞世があり、その中にキリシタン灯篭もある。説明文:「キリシタン灯篭:茶人として有名な古田織部が制作し駿府城へ奉納、徳川家康公の侍女・ジュリアおたあが信拝したという灯篭です。この灯篭は城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移されました。」とある。
 ジュリアおたあをウィキペディアで調べると生涯概略の他、文章末に「~なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、そのキリシタン灯篭は、現在は宝台院に移されている。」と書かれている。
 これらはいかなることでしょう。日本最初のキリシタン灯篭発見が宝台院で1923(対象12)年とすると、ジュリアおたあ信拝説はそれ以後と思われますが、いったいどういう証拠があるのでしょうか。分かりません。
 *私見での「キリシタン灯篭の疑問点と保存」については別項目を参照してください。文章が長くなるのでここでは割愛します。

・鎮火稲荷神社(本通5丁目1‐5)  
 ・稲荷(2):昭和廿三年、・鳥居:コンクリ、

・津島神社(梅屋町4‐1)  
 ・鳥居:コンクリ、・狛犬(2):昭和54年、
 ・説明版:津島神社:祭神:当神社の御祭神:素戔嗚尊は日本神話の中で伊弉諾尊、イザナミノミコトの御子で天照大神の□神に当たられ、荒々しい剛直な性格の神で、天照大神を天の岩戸に~~させ給われ、高天原から地上に追放されました。出雲で八岐のおろちを退治されて奇稲田姫と結婚され大蛇の尾から出た天叢雲剣~~し献上されました。また新羅に渡られ船材の樹木を持ち帰り~植林の道を教えられたと伝えられております。また、大国主命は素戔嗚尊の御愛婿であられ、出雲の地で親子二代に亘って国土の経営、産業開発にお力をいたされ、災厄と疫病を除く御徳と受福の神様として世に知られております。神話では暴風神、英雄神、農業神として語られ、氷川神社、八坂神社、熊野大社などの御祭神でもあります。
天王さん:津島神社は古くは津島牛頭天王社と言い、今日でも一般に「お天王さん」と尊称されております。これは日本には上古から民俗宗教としての祖神信仰がありましたが、仏教が伝来して次第に日本化して、その結果崇神、崇仏思想が接近し、後年明治政府が神仏分離令を発布するまで、神宮寺、寺院鎮守など神社とお寺が同居していたことと関係があるように思われますが、インドの祇園精舎の守護神であるとか、新羅の牛頭山に留まっていた素戔嗚尊の御神霊を勧請してお祀りしたとか諸説があってはっきりしません。
由緒:神社年鑑によれば天明5年(1785)創建、明治11年公称を許可とあります。古老からの言い伝えで、昔疫病が流行り疫病除けの神として勧請したと言われておりますが、歴史年表を見ると。天明3年の頃には、「7月浅間山噴火、死者2万人に及ぶ。この年未曽有の凶作、奥羽の死者数十万人に達する」 天明4年は「この年夏、秋、米価騰□して諸民飢餓し、秋よりは疫病流行して死者が多い。」 天明5年「奥州三春、凶作、琉球凶作」 天明6年「江戸開府以来の大水で死者、家屋破損が多い。この年大凶作、収穫三分の一」などとあり、疫病除けの神として素戔嗚尊を勧請したものであろうと推測されます。
沿革:天明5年 創建、明治11年 公称許可、昭和9年 本殿、拝殿、社務所等造営、昭和15年1月15日静岡大火にて焼失、昭和15年仮社殿造営、昭和30年 空襲の罹災を免れる。その後現在地に移転。昭和44年 新社殿造営、現在に至る。平成11年6月吉日。

・八朔神社(本通2丁目1‐3)  
 ・木鳥居、・手洗石、

・静岡神明宮(屋形町13) 
 ・石鳥居:大正十五年、・常夜灯(2):大正十五年、・石柵:大正十二年、・狛犬:大正十四年、・神社名碑:昭和八年、・道路開鑿碑:明治四拾年、

・東本願寺静岡別院(屋形町10) 
 ・新:堂、・新:木石堂、

・大林寺(安西4丁目93)  
 ・梶原景季と景嘉の墓:五輪塔:土水火風空、・祠:白山妙理大権現、・祠、・山門:仁王像(阿吽)、裏に風神と雷神像、・新:水子地蔵、・新:六地蔵、・石燈籠、・観音、・中世末墓石、江戸初期墓石(2)、観音風墓石(2)、・青面金剛供養塔:天明二、・法華千部塔:文政二、
 ・説明版:縁起:古記録によると当山は今から約800年前、鎌倉時代初期当國庵原郡高部村大内にあり、大淋寺(天台宗)といい大林寺殿贈四品榮昌福寿桑道場妙開大禅定門、姓平氏葛原親王第十四代梶原信濃守従四位少将景義四男刑部少輔朝景卿建仁元辛酉(1201)年5月3日卒を最初の開基としている。文永元(1264)年12月18日仏殿を今の柚木町に建立している(駿河記)。時移り戦国争乱期、北条早雲殿(1459)の命により、武田、今川の動静を探るため旧東海道の見張所としての城塞の寺を現在の場所に草創したのである。七堂伽藍は一万の大軍を収容でき、山門が柚木町の堤上にあり、その下に尼寺と墓地があった。寺格は法地寺中5反6畝3歩安西内新田、除地5反3畝3歩安西外新田、雑地10反あり(駿河志料)。
 その後曹洞宗通幻派最乗寺門下総世寺末となり同寺五世天祐宗根和尚に嗣法する鳥道長鯨和尚天文12(1532)年癸卯12月10日寂を開山としている。三世好山宗禅和尚は慶長年間(1596)徳川家康より法門の聴聞あり。四世明室温察和尚(1624)は梶原源太景季、景嘉の墳墓を改築し、六世揚山和尚(1704)は末寺龍津の中興で、七世大鳳和尚(1688)貞享3年梵鐘鋳造の功をなし良富院の開山となる。九世槐國萬貞和尚(1716)は最勝、定林に歴住し海松、円城、雨林の3か所の開山であり、卍山道白禅師の法嗣で、徳川吉宗の釣命により、官刹長崎の皎台寺に転住し、大同庵、金泉寺を開き語録二巻を著している。十世古岳日峻、十四世一了玄画和尚も皎台寺に当寺から普住した。特に日峻は書物に参同契測海があり、海門及び月舟宗胡、独庵玄光、(辟と水で上下)山の高泉、黒瀧の潮音、槐國と共に参じた中世稀にみる高僧である。二十九世祖鳳光禅和尚は洗耳寺に歴住し明治40年七堂を再建したが、昭和20年6月19日戦火により焼失している。昭和34年三十一世光雄和尚が本堂、位牌堂、庫裏を再築している。尚開基より光雄和尚まで5回兵火に遭っている。また寺の所在は大内→安西→柚木→安西(正保元(1644)年町奉行落合氏により)に戻っている(寛政寺記及び駿河記)  昭和60年12月18日 大林寺 三十一世大鑑光雄記 
 ・説明版:大林寺墓塔群:○梶原源太景季・景嘉の墓:源頼家(1182)の母政子の父北条時政の家来家来梶原景時(1200)が滅ぼされ、その門葉景嘉が駿河殿(徳川忠長1602)に仕え寛永9年(1632)壬申1月21日歿した。本府古図の安西4丁目南にその姓名がある。大内梶原堂の条によれば太田美濃守入道資正二男が梶原の養子となり源太政景といった。景嘉はこの後葉である。(駿河志料他)
○落合能登守小平次道次の墓(1652):長篠城攻防戦の勇者鳥居強右衛門の磔に感動した落合佐平次道久は、自分の指物に磔の図を描いて出陣し、家康に見出され、後に徳川頼宜に従って駿河衆となり、養子の道次は江戸幕府に出府し駿河奉行として由比正雪を召し捕り功あり。寛永17年より承応元年まで13年奉行として活躍した。慶安5年8月9日寂。
○安鶴の墓(1872):『諸国畸人傳』(石川淳)『駿府の安鶴』(江崎惇)により全国的に有名。
○舟川斎寺西源正勝の墓:幕府旗本天神真陽流柔術指南医士。
○小沢久七の墓:長崎で勉強し漆器界の発展に尽力した。
○小出東嶂の墓(1823~1889)画家福田半香の弟子であり書画に通じ明治6年静岡新聞を刊行す。
協力者:~略~、昭和60年12月18日、大林寺31世大鑑光雄代
・延命地蔵堂(安西5丁目114)  
 ・堂、・秋葉山常夜灯、
 ここから川根筋に抜ける川根(秋葉)街道の起点と考えられている。
*「川根(秋葉)街道」については、『古街道を行く』鈴木茂伸(静岡新聞社)をご覧ください。ただこの本すでに絶版ですので、静岡県内図書館にあるので検索するか、静岡県内の古本屋にもないので、古本屋にリクエストしていって取り扱ってもらえるとよいでしょう。

・柳町水神社(柳町135)  
 ・木鳥居、・手洗石、・社、

・曙稲荷神社(若松町15)  
 ・石柵:昭和十年、・石鳥居:昭和十年、・石燈籠(2):昭和十年、・石燈籠(2):昭和四十年、・稲荷(2)、・稲荷(2)、・祠、・手洗石、

・八雲神社(北番町84)  
 ・神社名碑:昭和四十六年、・八雲神社碑、・新:狛犬(2)、・石鳥居:明治三十四年、・手洗石、・石燈籠(2):明治三十年、・北番町公園碑:昭和46年、・石塔:庚申、・石塔?、・石塔?:文政六癸未年、・若松町制四十周年:昭和三十九年、
 ・八雲神社御由緒:鎮座地:静岡市□番町八雲~、祭神:~~~、祭□:例祭、~~~~、創立年月日:口伝によれば応永3年創立と伝承。
 往古は牛頭天王という。当国総社浅間神社に祀られていたが、戦禍に遭い別当職が簑に納め安倍郡大岩村に遷し大岩村村民の氏神として祭祀を引き継ぎたり。その後寛永の頃駿府城北番詰所の番士この地に居住し牛頭天王を崇敬し為に寛永3年大岩村よりこの地に勧請し宝永3年真言宗建穂寺末寺別当牛頭山宝積寺中興願成院智寂法印氏神として祭祀を承継す。明治3年神仏混淆廃止令により八雲神社と改称、同8年2月村社に列格、同43年6月18日神饌幣帛供進指定を受く。敗戦により国家の庇護を離れ、神社本庁設立に伴い、静岡県神社庁所属となり、氏子により祭祀を継承、現在に至る。350年を記念して建立。~以下略~

・桜森稲荷神社(土太夫町7)  
 ・鳥居:コンクリ、・新:燈籠、・古:燈籠、・手洗石、・石:家:道祖神、

・二十六番札所、水月院(安西1丁目24)  
十一面観音菩薩、
 ・説明版:水月堂御縁起:水月堂(通称おはつかさん)は静岡市安西1丁目南裏に位置し十一面観世音菩薩を安置し、新選府辺観音霊場(新西国)三十三か所巡礼札所中第26番にして本尊は鎌倉初期の名匠運慶の作と伝えられ国宝的存在でありました。しかし戦災(昭和20年6月20日)で焼失してしまいました。元亀年間、今を去ること400有余(405)年前、安倍郡籠鼻(今の井宮町西北部)の圓皆寺(現在は廃寺)の住僧宗文の創建で今川家の臣福島淡路守の夫人然正院智現妙本大姉の開基と伝えられています。毎月20日を以て御縁日と定め毎年3月には僧侶も招き特別大法要を続けております。 平成18年3月20日、水月堂奉賛会 

・住吉神社(一番町25) 
 ・手洗石:奉献願主府内(絞?)仲間、常夜灯:昭和六年、・石鳥居:昭和五十年、・石燈籠(2):住吉大神宮御宝前 文化十年と大正四年、・石碑:神饌幣帛供進指定中津神社 昭和十六年、
 中津神社とは何? 昭和16年号なので静岡空襲か大火で消失し、戦後住吉神社と併合され、たのか?

・顕光院(研屋町45)  
 ・馬頭(3):馬頭観音建立由来碑:昭和13年1(6)月15日正午過ぎ新富町、~~~不明
 *撮影した写真不鮮明で判読困難、再度やり直す気がないのでこのままです。ごめんなさい。
   おそらく内容は静岡大火と静岡空襲による戦火の災害供養のため馬頭観音を設置したと言いたいようです。
 ・地蔵、・南無阿弥陀仏:昭和二十六年、・地蔵(3)、・板碑:大正九年、・新:六地蔵、・三界萬霊等、・無縁堂、・平和観音堂、・庚申:文化四、・庚申:寛政二、・新観音、・新:灯篭(3)、・新:駿河一国百地蔵第一番開運成就地蔵尊、・奉納弘法大師四国八十八所 国々諸々神社供養 秩父三十三所 一国三十三所 坂東三十三所 文政四、

・くがたか橋の碑(追手町12)  
 かつての外堀沿いの橋の欄干だったのか。

・石塔(城内町1‐2)静岡聖母幼稚園前 
全く刻字等有無不明

・石碑:青葉小(追手町4) 
廃校になった青葉小学校の記念碑。
・校址碑:静岡第二尋常小學校 明治34年新設、静岡城内東小學校 大正2年 校名変更、静岡城内東尋常高等小學校 大正13年 校名変更、静岡城内東尋常小學校 昭和8年 校名変更、城内東國民學校 昭和16年校名変更 昭和20年9月5日廃校、青葉小学校 昭和29年4月設立、平成19年3月閉校、
 ・石碑:城濠用水 土地改良区記念碑(追手町4)  
 ・説明版:城濠用水由来:城濠の誕生は慶長12年
   ~写真不鮮明で判読あきらめ~
     昭和53年5月、城濠用水土地改良区
 ・石碑:葵文庫跡(追手町4)  
 ・説明石碑:由来:葵文庫は大正8年静岡に縁の深い徳川家の記念事業として計画され、同14年3月28日徳川家の家紋を館名としてこの地に開館した。その特色は、江戸幕府旧蔵書の一部である「葵文庫」と3代県令関口隆吉収集にかかる「久能文庫」にあった。以来県立葵文庫は県民の図書館として、また全国的にも貴重書の宝庫として注目されその発展をみた。昭和44年市内谷田に新館が建設され、静岡県立中央図書館として移転すると、葵文庫は新たに静岡市立図書館として再出発した。しかし施設の老朽化により、昭和59年市内大岩に新築移転したため、県民に親しまれた建物は取り壊された。~~~不明
 *撮影した写真に石碑終盤の文字が写っていなかったので不明としました。撮影し直すなりもう一度見に行って判読するなりの気にならないので一旦終了します。ごめんなさい。

・駿府城(駿府城公園) 
 ・説明版:駿府城は外堀、中堀、内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城です。本丸を中心に回字形に本丸、二の丸、三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層内部七階)の天守閣がありましたが、寛永十二年(1635)に焼失しています。駿府城が城郭としてその姿を見せるのは天正十三年(1585)に徳川家康が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べると一回り小さいと考えられますが、詳細は不明です。この後江戸幕府を開いた家康が慶長十二年(1607)将軍を退き、駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張、修築しました。当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。  平成8年3月 静岡市

・巽櫓(駿府城公園)内堀沿い たつみやぐら
 巽櫓は駿府城二の丸の南東に位置する木造矩折三層二重の建物です。この巽櫓は寛永十二年(1635)城下から出た火によって延焼焼失し、寛永十五年に新たに建設されたといわれています。巽とは十二支で表した方位で辰と巳の間、即ち南東の方角をいいます。また櫓とは、一、武器を納めておくため、一、四方を展望するために設けた高楼、の役割をしたものです。巽櫓の復元は、「駿府城内外覚書」や「駿府御城惣指図」の資料をもとにしており、3年の歳月をかけ、平成元年3月に完成しました。 静岡市

・東御門(駿府城公園)ひがしごもん   
 東御門は駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南・西の多門櫓で構成される枡形門です。東御門の前が安藤帯刀タテワキの屋敷だったことから「帯刀前御門」また、台所奉行の松下淨慶にちなんで「淨慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。東御門は寛永十二年(1635)に天守閣、御殿、巽櫓等と共に焼失し、同十五年に再建されました。復元工事は、この寛永年間の再建時の姿をめざし、復元したものです。 平成八年三月 静岡市

・坤櫓(駿府城公園)内堀沿い ひつじさるやぐら
 木造二層三階。家康築城時に武器庫として利用される。寛永12年(1635)の火災で焼失。2014年4月に復元工事完了し1階は公開される。2階は非公開。

・駿府城公園内:発掘された石垣、公園内地面下には戦国期の今川館跡遺跡 
 駿府城は古くは今川館があったと推定される。その後徳川家康により隠居城となり、一時は大名が治めたこともあるが、長くは代官の行政所となり一部を使用したようだ。使わない部分はかなり荒廃した箇所もあるようだ。江戸時代中期以降は狐が住んでいたほど荒れていたようだ。明治期に内堀を埋立て軍隊駐屯地になった。今は公園。発掘で徳川期の石垣や使用道具類、今川氏館跡等が出土している。しかも焼かれた物が出土している。武田氏により滅ぼされ今川館は焼失したと思われるが、そのとき焼かれた物かどうかは不明。
 天守閣は家康が建造したが女中の不手際で失火焼失、再建されたがまた焼失。代官時代には天守閣はなかったようだ。またそれ以外の建物や施設も代官時代に使用が縮小していったようだ。
  現在みられる駿府城外側の石垣は近代以降、幾たびも修復されているので全てが江戸時代のものというわけではない。ただ一部残存しているのも確かで、家康が築城する際には全国の大名を動員したので、石垣に各大名のしるしがつけられているものがある。また各時代により石垣の積み方に特徴が出ている。
*石垣の積み方についてはネットや図書で検索してください。

・家康お手植えの蜜柑ミカンの木、
・家康銅像、

・東海道中膝栗毛弥次喜多像(追手町)内堀沿い 
・説明版:十返舎一九と「東海道中膝栗毛」: 「東海道中膝栗毛」の作者十返舎一九(1765~1831)は、ここ駿河の府中(静岡市)出身で江戸文学における戯作者の第一人者であり、日本最初の本格的な職業作家といえます。1765年駿府町奉行同心、重田与八郎の長男として両替町で生まれました。本名は重田貞一、幼名を市九といいます。1783年大阪へ行き、一時は近松余七の名で浄瑠璃作家としても活躍しましたが、その後士分を捨て1794年再び庶民文化華やかな江戸に戻って戯作に道に専念し、多くの黄表紙や洒落本などを書きました。
 「東海道中膝栗毛」は1802年初編(初編は「浮世道中膝栗毛」のち改題)以降毎年一編ずつ8年にわたって書き続け、1809年全8編を完結しました。この膝栗毛は爆発的人気を呼び、休む間もなく「続膝栗毛」の執筆にとりかかり、1822年の最終編までに実に21年間に及ぶ長旅の物語として空前の大ロングセラーとなりました。
 物語は江戸神田の八丁堀に住む府中生まれの弥次郎兵衛(左の像)と、元役者で江尻(現清水市)出身の喜多八(右の像)という無邪気でひょうきんな主人公二人が江戸を出発して東海道を西へ向かい伊勢を経て京都、大坂へと滑稽な旅を続ける道中記で、今でも弥次喜多道中といえば楽しい旅の代名詞となっています。
 当地の名物として安倍川餅やとろろ汁も登場。また府中では夜は弥勒手前の安倍川町(二丁町といった)の遊郭へ出かけたり、鞠子(現丸子)では、とびこんだ茶屋の夫婦喧嘩に巻き込まれ、名物とろろ汁を食べるどころか早々に退散したといった話が語られています。
一九は1831年没、享年67歳。墓所は東陽院(現東京都中央区勝どき)にあります。ここ府中は江戸から44里24町45間(約175㎞)19番目の宿です。
2002年2月、静岡市

・甘夏みかんの木(追手町)内堀沿い  

・わさび像「わさび漬発祥の地」(追手町)内堀沿い 
・説明版:わさびは370年前わが国で初めて安倍川上流有東木で栽培された。わさび漬けは今から200余年前駿府のわさび商人によってはじめて考案され幾多の人に受け継がれて改良進歩した。特に明治以後交通機関の発達により長足の発展を遂げたのである。ここに明治百年を期し先覚者の偉業を偲び感謝の誠を捧げて、この碑を建つ。昭和43年5月23日、静岡県山葵漬工業協同組合
・このわさびの像はコンクリ製で芋虫に似ていて一種のゆるキャラっぽい。あるいはシュールというべきか。宇都宮市に餃子像があるのならば静岡市にはわさび像です。

・現代アート像:指人形(追手町)内堀沿い 
 指人形 The fingerdoll 制作:細谷泰玆 Yasuji Hosoya 1983年 

・石碑:静岡学問所跡(追手町)内堀沿い  
・説明版:静岡学問所は明治維新後駿府に移ってきた徳川家(府中藩)により、藩の人材育成を目的として駿府城四ツ足御門にあった元定番屋敷内(現静岡地方合同庁舎付近)に明治元(1868)年府中学問所として創設されました。学問所には翌2年駿府が静岡に改められたことにより静岡学問所となりましたが、明治5年8月学制の施行とともに閉鎖されました。この学問所には向学心に燃える者は身分を問わず入学が許可され向山黄村、津田真一郎(真道)、中村正直(敬宇)、外山捨八(正一)など当代一流の学者により国学、漢学とともにイギリス、フランス、オランダ、ドイツの洋学も教授されました。またアメリカ人教授E.W.クラークは専門の理化学の他哲学や法学なども教えました。廃校後洋学系の教授の多くは明治政府に登用され開成学校(現東京大学の母体)の教授など学界や官界で活躍しました。静岡学問所の歴史は短期間でしたが、日本の近代教育の先駆けをなし、明治初期の中等、高等教育の最高水準の学府でありました。   静岡市教育委員会、平成元年12月

・石碑:戸田茂睡生誕之地(追手町100)とだもすい  
 1629~1706年、江戸時代前期の歌学者。父は徳川忠長(徳川3代将軍家光の弟、駿府城主、改易され謹慎の後自害)の付け人で、駿府城内で生まれた。

・駿府城四足御門跡(追手町)よつあしごもん  
・説明版:駿府城南辺の西寄りの箇所に設けられた出入口で、東側の大手御門オオテゴモンと並び、東海道筋から城へ入る重要な出入口の一つです。三の丸堀を土橋で渡って、左手へ直角に曲がり渡櫓門ワタリヤグラモンから城内へ入る構造になっていました。 静岡市教育委員会 

・大手‣追手門(追手町)  
・説明版:駿府城大手御門:駿府城内に入る正面出入り口です。三の丸堀を土橋で渡って、右手へ直角に曲がり渡櫓門ワタリヤグラモンから城内へ入る構造になっていました。歩道には渡櫓門の柱礎石の位置が記されています。 静岡市教育委員会

・石垣修復説明版(追手町)  
・説明版:駿府公園二の丸堀(中堀)石垣災害復旧工事完了のお知らせ:平成21年8月11日駿河湾で発生した震度6弱の地震により、駿府公園二の丸堀(中堀)の石垣が崩落しました。平成22年1月6日工事着手、平成23年3月15日工事完了、石垣の構造を説明した「石垣モデル」が駿府公園内、富士見芝生広場に設けてありますのでぜひ一度ご覧ください。静岡市。
 崩落前と崩落直後、復旧後の3つの写真が並置されているので、見た目では一目で分かるようになっている。なお石垣は見えない内部構造も重要なので石垣モデルを見てください。

・静岡県庁本館(追手町9)  
登録有形文化財、

・静岡市役所本館ドーム(追手町5)  
登録有形文化財、

・教導石(追手町)県庁市役所前バス停  
・説明版:静岡市指定有形文化財(歴史資料) 教導石きょうどうせき、指定年月日:昭和59年7月17日、所在地:静岡市追手町、所有者:静岡市、「教導石」は、明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」との趣旨に賛同をした各界各層の人たちの善意をもって明治19(1885)年7月に建立されました。正面の「教導石」の文字は、旧幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の筆になり、本市の明治時代の数少ない歴史遺産の一つとなっています。碑の正面上部には、静岡の里程元票(札の辻)から県内各地、及び東京の日本橋や京都三条大橋までの距離を刻んであります。教導石建立の趣旨に従って碑の右側面を「尋ル方」とし、住民の相談事や何か知りたいこと、また苦情等がある人はその内容を貼り付けておくと、物事をよく知っている人や心ある人が左側面の「教ル方」に答えを寄せる、というものでした。尋ね事などのほか、店の開業広告、発明品や演説会の広告から遺失物や迷子をさがす広告なども掲示してよいことになっていました。全体の高さ:207㎝、台石の幅:107㎝、本体:高さ:177㎝、正面幅:44㎝、側面幅:38㎝、静岡市‣静岡市教育委員会 
・正面:「教導石、里程(?田谷、略を上下に書く)表、駿河國沼津宿拾五里拾町余、同吉原宿拾里拾九町余、 同大宮町拾壹里拾六町、同興津宿四里拾貮町余、同清水町三里六町余、同根古屋村貮里拾九町余、同藤枝宿五里拾町余、遠江國静波町拾里貮拾九兆余、同相良町拾貮里貮拾町余、同掛川宿拾貮里拾七町余、同森町村拾六里三町余、同横須賀町拾六里三拾町」
右:「尋ル方、静岡里程元票 各地距離、東京日本橋四拾六里拾町余、神奈川縣廰三拾九里廿六町余、山梨縣廰貮拾七里拾七町、伊豆相模國堺貮拾里壹町余、伊豆國下田町三拾五里拾五町、同熱海村貮拾三里四町余、同修善寺村拾壹里二拾町、同韮山町拾九里三町余、同三島宿拾六里三拾町余」
*撮影写真不鮮明で判読困難、やり直す気がないので間違ったままですが掲載します。
左:「教ル方、同見附宿拾六里貮拾七町、同中泉村拾七里九町余、同掛塚村拾九里拾壹町、同濱松宿貮拾里拾七町余、同二俣村廿壹里廿七町余、同気賀村廿四里拾八町余、同新居宿廿四里二拾町余、遠江三河國堺廿六里(十十十)五町余、愛知縣廰四拾八里拾七町余、西京三条大橋八拾四里拾四町」 
・街道研究としては近代の石道標の価値がある。

・札の辻(呉服町1丁目と2丁目の境)伊勢丹前  
 静岡市街の中心地は呉服町で、旧東海道も呉服町の札の辻を通過し本通り乃至は新通りに向かい直進するか曲がる交差点であり、高札等のお触書も建てられた府中宿中心の場所である。

・国・登・静岡銀行本店(旧三十五銀行)(呉服町1-10 )
国登録有形文化財、第22-0010号、この建造物は貴重な国民的財産です、文化庁。
景観重要建造物、静岡銀行本店(旧静岡三十五銀行本店) 静岡市葵区呉服町、指定第3号、平成23年9月30日、静岡市。

・静岡天満宮(中町1‐3)  
・石鳥居:昭和三十一年、・神社名碑:昭和五十二年、・手洗石、・牛像、・石碑:川中天神伝説之地、黒い直径15~20㎝溶岩多数(富士山溶岩か?)、
・稲荷社祠:、・説明版:静岡天満宮末社、静銀稲荷社、御由緒:御祭神:稲荷大神、昭和20年終戦後、進駐軍が静岡に入り、大企業に立入調査を行った折、(株)静岡銀行の守護神として、社内に祀っておりました稲荷社を、直ちに撤去廃棄すべしと命ぜられ、銀行側は検討の結果、御神体を隣接する静岡天満宮(当時は天満天神社)に保管祭祀を依頼し、神社側もこれに応じて静岡天満宮末社「静銀稲荷社」として現在の場所に鎮座奉斎したのです。以来初午祭には静銀本店営業部の責任者が参拝する習わしとなったのです。御神祠:この御神祠は明治初年から昭和3年まで静岡天満宮(当時は天満天神社)の御本殿として鎮座しておりましたが、昭和4年新たに御本殿を造営するにあたり市内宮本町山下家に譲渡し同家にて同家の守護神として奉斎されていました。しかし同家の事情により、この神祠を処分することになりましたので、昭和54年2月同家より静岡天満宮の地に還御しました。これと同時に従来静岡天満宮の本殿に合祀しておりました、静銀稲荷社の御神体をこの神祠に奉斎して、今日に及んでいるのです。(昭和4年竣工の御本殿は、昭和20年6月戦災にて焼失)
・景行社祠:、・説明版:静岡天満宮攝社景行社御由緒:昌泰4年(901)1月25日菅原道真公が、無き罪により大宰府に流された。翌々日公の子息達も夫々別々の地に流され、次男景行も駿河権介に左降され、この駿河の地に流され、ここ駿河の国府に居住した。この国府は現在の静岡天満宮を中心とした一帯の地域である。その後景行の記録が定かでなく、今日に至ったので、道真公を祀る静岡天満宮を崇敬する有志が景行を祀ろうということになった。その折り、大阪市天王寺区の一行者(鎌原氏)や清水区三保の行者(日蓮宗)に「景行を祀れ」との道真公の託宣があったとのことで、平成元年春に景行社を創祀したのである。(平成20年6月25日再記)
・銅鐸:説明版:県指定文化財、奈良県北葛城郡上牧村観音山から出土したもので、銅製で耳がなくたすき形の模様がある。高さ19.7㎝、底の長径15.1㎝、短径11.5㎝、保管:登呂考古館、明治百年紀念、静岡県文化財保存協会、

・尼ヶ崎稲荷神社(中町37‐1) 
・石柵、・手洗石:昭和六十年、・石燈籠(2):平成十九年、・稲荷(2)、
・説明版:尼ヶ崎稲荷神社の由来:元尼崎又右衛門という富商邸内にありました。家康に召されて駿府に移り、はじめ本通り五丁目に宅地を賜りそこを十軒町と言ったが、慶長14年四ツ足御門町(現中町)に替地を賜ったと言われています。尚金座町稲荷神社(後藤稲荷神社)がこのすぐ裏手にあり慶長の頃、駿府上魚町(現金座町日銀)で小判を鋳造した後藤庄三郎光次邸があった所でもあります。又銀座町は現在の東京銀座にお移されております。
・説明版:四ツ足御門と中町の由来:四ツ足御門町の町名は非常に地位の高い町名でありました。今の中町の所から駿府城に入ったあたりに駿府城の四ツ足御門がありましたので、この町名となったのです。さらにこれを遡れば、その昔、大化の改新に伴い今の長谷町付近に国府が置かれた頃、この中町付近に国庁の四ツ足御門があったからという説があります。その説によれば四ツ足の名は千数百年の歴史を飾る由緒ある町名であります。現在、中町という町名になったのは、四ツ足といえば獣類に通じ快い町名とは聞こえないということで、大正4年11月10日「静岡市の中心」ということで中町と改称されたのであります。  平成23年3月15日 春季大祭 

・上魚町碑(金座町1)かみうおちょう 
・説明版:上魚町は徳川家康の大御所時代には、中央の通りを挟んで南側を後藤庄三郎光次が拝領し、光次が江戸に移るまではここを金座として「駿河小判」と呼ばれる金貨を鋳造していました。また北側は駿府城築城の作事方中井正清が拝領していました。「駿国雑誌」によれば、家康の在城の時、下魚町から魚商人を移住させたとされ、町の南側には魚問屋、北側には青物問屋が軒を連ね、さながら「流通センター」のような役割を果たしていました。元禄5(1692)年の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の上魚町は、南側が家数38軒、人数203人、北側が家数4軒、人数70人でした。上魚町は昭和3年に金座町となりましたが、それ以後も「かみんだな(上の店)」と呼ばれていました。

・金座稲荷神社(金座町49)  
・手洗石:昭和六十二年、・常夜灯:昭和六十二年、・金座碑:昭和三十年:
日本銀行静岡支店からこの金座神社界隈はかつての金座で小判等を鋳造していた。
・説明版:お金の神様、金座稲荷神社御由緒、創建:慶長11(1606)年、御祭神:稲荷大神、秋葉大神、当神社は後藤庄三郎光次が徳川家康公の命を奉じ駿府、上魚町(現在の金座町)に金座を開設し小判の鋳造を始めるに際し金座の守護神として御二柱を祀ったのが起源であります。以来400年、上魚町の産土神として祀られ、その霊験洵にあらたかなる為、「お金の神、金運の神様」として広く崇敬を集め、通称「後藤稲荷」として親しまれてまいりました。その後幾多の変遷を経て、昭和62年5月23日、当所へ遷座致しました。尚金座町という町名は、歴史的事実にもとづいた町名としては全国で唯一のものであります。昭和63年11月吉日、金座稲荷神社。

・戸塚歯科医院跡(本通1丁目3‐2)  
かつて戸塚氏は郷土史家として静岡近辺の野仏や民間習俗の研究で知られていた。氏の本は私にとっても貴重な資料である。

・奥津宮神社(車町26) 
・新:石灯篭、・庚申供養塔:文政三庚辰年、・石鳥居:昭和二十六年、・石柵:平成四年、・欠:庚申:安政七、・欠:庚申供養塔:文政五壬午年、・観音堂、・欠:奉寄進石燈:寛文(?政)九年
・石碑:説明:奥津彦神社、静岡市葵区車町26鎮座、祭神:火産霊神、奥津彦神、奥津媛神。由緒:神社の創立年月不明。社伝に駿河国の守護今川範国の子今川了俊深くこの神々を崇敬して邸内に奉祀してあったが、その子今川仲秋に政治の要諦を教えると共に「よくこの神を信仰せよ」と御神体を授ける。仲秋はよく父の教えを守り身を慎み祭祀を怠けたらず善政を行いやがて立身して遠江守護、尾張守護等を歴任した。仲秋は一の世を去るに臨みてその家臣に命じて御神体をこの地に祀らしめ三宝荒神社と称したと伝えられている。三宝荒神社は明治元年の神仏分離令に依り奥津彦神社と改称された。又三宝荒神社の別当用触山守源寺は昔から駿府の会所に使用され町々へのお触れ通達はここから出したので用触山の名がつけられた。御神徳:火の神様である炊事キッチンの守り神である。火の神信仰は火難を免れ病難を防ぐ。祭日:2月28日、9月28日、12月28日

・願勝寺(車町50) 
・新:双体道祖神 
・金剛院(八千代町17) 
・石:家:道祖神 

・秋葉山常夜灯(馬場町)  
中町交差点に市・有民・中町秋葉山常夜灯、上部は木造で彫りが見事、下部は石造、・赤鳥居:コンクリート製、

・山田長政像(宮ケ崎町100)  
馬場町は伝山田長政屋敷跡といわれる。

・二瀬川神社(馬場町65) 
・石灯籠(2基):明治四年、・手洗石:古そうで年号等もありそうだが見えない位置に安置されていて判読不能。
・説明版:二瀬川神社、静岡市葵区馬場町65番地、祭神名:保食神うけもちの神、多紀理比賣神たぎりひめの神、例祭日:9月15日、社殿工作物:本殿3.3平方m、拝殿6.6平方m、境内地:132平方m、氏子戸数297戸、神職名:宮司:鈴木巌夫、禰宜:鈴木哲夫、責任役員名:小川保、鍋田治夫、由緒:創建年月不詳、昭和20年6月の戦災により焼失、昭和25年9月都市計画区画整理により現在地に移転し、以前120坪の地が40坪に削減され、その境内地に町内会館を建設したため実質は更に三分の一となって、極めて不遇な道を経過した神社といえる。静岡県神社庁神社等級規定13等級社である。年間スケジュール:祭旦祭:1月1日、初午祭:2月2の午の日(二の午祭)、夏祭:5月15日、例祭:9月15日、神輿清祓祭:例祭前後の土曜又は日曜日、

・報土寺(宮ケ崎町110) 
・石塔:新:南無阿弥陀仏、・新:六地蔵(杉村隆風)、・新:無縁萬霊之塔、
・石碑:新:養国寺慰霊之碑 平成十九年、説明版:報土寺の末寺で安翁山丹龍院養国寺という浄土宗の寺が本通7丁目74番地にありました。開基は寛正6年(1466)で開山は松漣社貞誉王山上人還阿和尚であります。その後は報土寺の末寺となり歴代の当山住職が兼務住職となり、本通りの人たちと供に養国寺を護持してきましたが、昭和20年6月19日の静岡大空襲により堂宇すべて廃墟と期しました。その後、報土寺が戦後復興を進めていく中、昭和27年、養国寺は本寺である報土寺に合併されることとなりました。開基よりおよそ550年、養国寺の歴代住職をはじめ信徒の方々、本通り7丁目の方々、その他養国寺の護持の為にご協力を頂いた多くの善男善女の方々に心より御礼申し上げ、ここに慰霊の碑を建立致します。
平成19年8月、報土寺住職 泰誉博隆
・石碑:新:南無阿弥陀仏 大正十余年、説明版:経に曰く至心信楽即得往生~~~以下略~~~
  ~~~大正十余年
・新:冷泉為和の歌碑:冷泉為和の歌碑についての由来:報土寺の本堂前に戦国時代宮廷歌壇の第一人者冷泉為和の歌碑が建てられた。為和は歌聖藤原定家の直系冷泉家第7代の当主である。当時応仁の乱(1467~77)後の荒廃した京都を逃れて駿府に流寓した公家殿上人はかなりの数にのぼっていた。権大納言冷泉為和もそうした中の一人であった。その為和が駿府滞在中我が報土寺において歌会を催すこと9回、11首の和歌を詠んでいる。それは、「今川為和集」の中に歴然としるされている。報土寺境内にある歌碑に彫られた和歌はその中の天文12年(1543)5月2日の歌会の折りのもので、
      松契還年
    代々かけて 軒のかわらに むす苔も 緑あらそふ 松の気だかさ (為和)
 この歌の題の「還年」は長寿をいうので軒の瓦が苔むすといえば1年や2年のことではない。何代という長い年月を栄え続けてきた証で、それと競うように枝を伸ばした松の緑の気品のある美しさを讃えて長寿を祝う歌とした手腕はさすがである。(文責 長倉智恵雄)

・一加番稲荷神社(鷹匠1丁目8) 
・石鳥居:昭和三十七年五月、・石稲荷2:昭和五十一年、石柵:昭和五十八年、・手洗石:昭和五十六年、・コンクリ石塔:昭和壬子二月、・石碑:神社名:新、
・説明版:当神社の御祭神は、保食大神ウケモモノオオカミ、御別名を豊宇気比売神トヨウケヒメノカミ、また食稲霊神ウカノタマノカミと申し上げ、稲、五穀の御霊神と尊まれ、衣食住の神、商売繁盛、厄除開運、無病息災、延命長寿の守護神として広く信仰されている神である。
当社鎮座の由来は寛永八年(1631)駿府城主駿河大納言忠長卿(二代将軍秀忠公の第3子)が三代将軍家光(兄)の勘気を受けて甲斐に蟄居の後は、幕府は駿河を直轄領とし、城主を置かず重臣の内から駿府城代を任命して庶政を綜理せしめ、城代を輔けて城外の守衛に当たらせるために在番一年の役として加番を勤番させることとし、紺屋町に一加番屋敷を設けた。(これを紺屋町加番或は町口加番屋敷という)初代一加番に信州飯田城主五万五千石脇坂淡路守安元が寛永九年(1632)12月に仰せ付けられ着任した。この加番開設にあたり3200余坪の屋敷内の浄地を選び社殿を建て寛永十年(1633)山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請し、駿府一加番の守護神として鎮斎したのが当神社の創祀と伝えられている。慶安四年(1651)由井正雪の乱があり、一加番は府城に近い横内御門前(現在の鷹匠一丁目)に移され、これに伴い当稲荷神社も新屋敷内に遷宮された。斯くて創祀以来文久元年(1861)に至る迄約230年間歴代の加番は折々に鳥居、燈籠等を献納し、年々の祭祀を厳修して、崇敬の誠をつくしてきた。
明治維新に至り加番屋敷廃邸後は、鷹匠町一丁目の産土神として、明治11年政府より存置が許可されて、一般市民の崇敬の神社となった。昭和20年6月戦災により社殿、工作物悉く焼失した。戦後氏子の奉賛により復興し、地域の区画も整理されて面目を一新し、当神社の信仰は市の内外に広まるに至った。
祭典:例祭5月5日、歳旦祭:1月1日、節分会:2月3日、秋祭:11月25日。 
 昭和63年5月 奉納:松浦元男

・二加番稲荷神社(西草深町4) 
もとは駿府城の警護用番所でもっと敷地も広く馬場等もあったが、今はそこの祠があった部分のみに神社がある。周辺は住宅地でキリスト教会やNHKビルがある。そこもかつては敷地内だったはず。
・村本喜代作先生明徳碑文:翁は西草深町520世帯の町内会長として20年にわたる長き間、社会公共のため奉仕せられた功績は甚大である。当二加番稲荷神社は戦災により灰燼化し瓦礫の中に樹木を植え社殿を再建し自ら責任役員となり神社を中心に民福をはかり明朗な社会環境造成に盡くす。又政教社雨声会を起し政治経済文学史話等の講演を行うこと実に250余回、其の間先生の薫陶を受けた方の中には名政治家も現はる。ここに村本喜代作先生を後世に伝えるため西草深町内会神社総代会雨声会の有志相謀り明徳碑を建立する。昭和55年3月、~以下略~
・手洗石:文化(五)九年(戌辰)壬申歳、・神社名石碑:昭和四十三年、・石灯籠:天保十五甲辰、・石鳥居:昭和四十六年、・石柵:昭和四十八年、・?石灯籠の一部:元文四巳未、・?石塔:崩れて成れの果て、
・説明版:二加番稲荷神社:祭神三社:豊受毘賣命トヨウケヒメノミコト穀物の神 商業あきないの神、猿田彦命サルタヒコノミコトお祓いの神、天鈿女命アメノウヅメノミコト神楽の創始芸能の神、由緒:駿府城は寛永8年以後は城主を置かず「城代」によって統治され、城外守衛のため「加番」という役が置かれた。当所は二加番屋敷の跡で、その守護神として稲荷神社が祀られた。当社を鷹森稲荷と称されたのは、この附近を流れた安倍川のほとりに鷹が集った森があった故という。一加番(鷹匠1丁目)三加番にも夫々稲荷神社が奉祭されている。明治維新後は西草深町の産土神として遠近より崇敬されて今日に至った。加番屋敷には馬場、的場、火の見櫓などがあり、その略図を裏面に記した。歳旦祭 1月1日 春祭 初午 春分の日 秋祭 秋分の日 
・裏面:二加番屋敷略図:外堀に面した現在はNHK静岡放送局から付近一帯の住宅地も含む広大な屋敷であることが分かる。外堀側77間(138.6m)、奥行き42間(75.6m)、面積10478.16平方m、3175坪。

・三加番稲荷神社(東草深町11) 
・石碑:神社名:昭和三十八年九月、・石柵:平成九年、・石鳥居:安政六巳未二月初午、旗指石:奉献安藤杢(木の下は工ではなく立つ)之助源有(有るの下は月ではなく且つ)剛、・手洗石:安政(正の下に久)□□□二月、・手洗石:?、・石塔:寄進~~~、・石(埋)、・礎石2?、・石燈籠2:、・倒れた石燈籠:稲荷大明神 廣舟(止の下は舟) 文化三丙寅三月初午、
・説明版:祭神:保食大神ウケモチノオオカミ、祭日:春祭:春分の日、秋祭:秋分の日、由緒:寛永八年(1631)に駿府城主徳川忠長が将軍の勘気に触れ蟄居を命ぜられての後は駿河国は幕府の直轄領となり、駿府城には城主を置かず城代定番が勤める番城となり定番の下に小大名または旗本の中から加番を勤番せしめ城外の警備に当たらしめた。慶安四年(1651)に由井正雪の反乱があっての後は、従来の一、二加番に加えて三加番が増設され、東草深にその屋敷を設けると共に邸内の守護神として、この三加番稲荷神社を鎮祭した。代々の加番は深く崇敬して毎年二月初午に盛大な祭典を行い、また石燈籠鳥居等も数多く奉納された。
明治維新に至り加番屋敷廃邸後は、東草深三ヶ町の鎮守となり、明治11年3月政府公認の神社として存置を許可された。後に水落町二丁目も氏子に加わり一般町家、遠近の人々から深く信仰されるに至った。
御神徳:保食大神は伊勢の外宮に奉祀する豊受大神と御同神で人間生活に一番必要な食糧と衣料をお恵み下さる神である。古歌に「朝夕の箸とるごとに保食の神の恵みを思え世の人とあう」また福徳円満の神、商売繁盛の神として最も信仰される神である。

・草深界隈の古い洋館類、キリスト教会等(西草深町、東草深町)  
‘13現在、(西草深町15番)西草深眼科(かつての中島医院)が洋館の趣をとどめている。他にもあったのだがだいぶ減少した。教会も現代建築のビルに改築され古式ゆかしさは消失した。
静岡英和女学院(西草深町8)はねむの木学園創設者:宮城まり子出身校である。
クラシック音楽愛好家には一時期全国的に知られていたのが青島ホール(西草深町16‐3) である。

・西草深公園(西草深町27) 
・説明版:西草深と徳川慶喜公:草深町は駿府九十六ヶ町の一つで、現在の西草深公園の東側に、二筋の通りに面して一画を占めていました。明治6年(1873)に一帯の武家屋敷を含めて西草深町となり、昭和44年に御器屋町ゴキヤチョウなどを併せて現在に至っています。駿府城に近い草深町の近辺には慶安4年(1651)に駿府城の警護や城下の治安維持にあたった加番の一つ二加番や与力、同心などの武家屋敷が配置されていました。草深地区には江戸時代初期に徳川家康公に仕えた儒者、林羅山の屋敷があり、また明治維新期には静岡学問所頭ガクモンジョガシラであった向山黄村ムコウヤマコウソンをはじめとする学問所の著名な学者が多数居住していました。西草深公園には浅間神社の社家シャケの屋敷があり、明治2年(1869)6月に静岡藩主となった徳川家達イエサト公が社家新宮兵部シングウヒョウブの屋敷に移り住みました。                                       
 徳川幕府第15代将軍徳川慶喜公は、大政奉還の後、慶應4年(1868)2月から謹慎生活に入り、同年7月に駿府の宝台院に移り住みました。宝台院での謹慎生活が解かれた慶喜公は、明治2年(1869)に紺屋町コウヤマチの元駿府代官屋敷に移り、更に明治21年には西草深町に屋敷を構えましたが、東京に戻る明治30年まで政治の世界を離れ、一市民として過ごしました。静岡での慶喜公は、狩りや写真を好み、油絵をたしなみ、明治10年代から自転車を購入して市内を乗り回って市民の話題になるなど、多種多様な趣味と共に西洋的な生活を謳歌した当時の最先端を行く文化人でもありました。中でも静岡で修得した写真撮影の技術から生まれた作品は、各地の風景、生活ぶりを伝える貴重な歴史資料ともなっています。慶喜公が、東京に戻った後の徳川邸は葵ホテルとなり、更に明治37年には日露戦争の捕虜収容所の一つとして使われましたが、同38年に施設内から出火し焼失してしまいました。
・説明版:万葉歌碑:焼津邊 吾去鹿歯 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之兒等羽裳
 春日蔵首老   焼き津辺にわが行きしかば駿河なる安倍の市道に逢いし児らはも
  万葉集は日本最古の歌集で奈良時代
    ~~~不明、
     昭和36年
  *写真不鮮明で判読困難
  以下は、インターネット検索「万葉集巻3、れんだいこ」より引用
 「万葉集、巻3、No.284、春日蔵首老かすがのくらびとおゆ、作歌
 焼き津辺=静岡県焼津市辺り、阿倍=静岡市安倍、安倍川の安倍、市道=イチジ、市場が開かれていた道、焼津方面に赴いた際、安倍の市で出会った娘たちを思い出して懐かしがっている歌。これを男女が市に集まって乱舞した、いわゆる歌垣の際の思い出ととってもよかろうが、そうとらなくても単純に美しく楽しげだった娘らを思い出しての歌として一向に差支えない。」
 私見:この短歌から静岡市(安倍の市)がすでに奈良時代に賑わっていたことが分かる。

・石鳥居 
 浅間神社前、麻機街道と長谷通りの分岐点

・浅間神社(静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102-1) 
・交番裏の賤機山を上るとすぐ賤機山古墳がある。もう少し上に麓山神社がある。さらに上に一本松・5世紀の古墳がある。さらに上ると浅間山山頂(△140m)で舗装路はなくなり、あとは山道となる。その先に空堀(地獄谷)があり、さらに先に賤機山城址(△173m)と光明地蔵となる。 
浅間神社境内遺跡跡。国・重文・浅間神社社殿。石造物でも石灯籠等、市内最古級のものが多い。
 国・登・遍界山不去来庵本堂。

・西蔵寺(片羽町79) 
・三界萬霊等、・庚申塔、・地蔵、・新:観音、・手洗い石、・新:灯篭、

・元三大師延命地蔵(安倍町23) 
・地蔵: 

・瑞光寺(安西1丁目100‐1)  
・石塔:文正夂(政)十三年庚寅八月、・?観音:元文五庚申、・板碑:山梨易司翁彰功碑 大正八年、・板碑:佐久間翁叟先生碑、・新:有縁無縁三界萬霊、・お花塚 石州流生花家元~~昭和十三年、・如来(4):片足膝立ち座位、・地蔵(4)、・地蔵、・同一様式の観音約80基(三十三所観音3つ分で不足分は消失か、いくつかには二十六番等の番号が読み取れる)、
*文政の政を正夂と刻字してあるのか?

・然正院(安西1丁目103)  
・新:六地蔵、・新:水子供養塔(2)、

・末広中(末広町) 
かつて高等女学校があった。 

・神明宮(神明町54)  
・木鳥居、・常夜灯(2):昭和十五年、・石柵:昭和十五年、・狛犬(2):昭和十五年、・神社名碑:平成二年、


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 20:28Comments(0)古街道

2014年03月22日

キリシタン燈籠疑問説、しかし保存してほしい

・キリシタン灯籠説について疑問を呈したいが、その灯籠は文化財として大切に保存してほしい     
                                 2014 2/8
 キリシタン灯籠は織部型灯籠の竿部分に描かれたキリスト者または十字架を隠れキリシタンが信仰していたという。ただこの説は大正時代から昭和初期にブームを起こしたもので、なぜ禁教を解かれた明治期に全く存在が知られなかったか不思議です。
 例えば京都桂離宮には7つ存在するという。これらは桂離宮を作った者の知り合いのキリスト者を供養するために作ったという。まあそれはそれで、キリスト教信仰者への供養があったのかもしれないという説もあるとうかがっておきましょう。
 日本全国にはかなりの数のキリシタン灯籠があるらしい。ためしにネットで調べただけでも次々出てくる。桂離宮もそうだ。いったいいくつあるのだろう。数百単位ではなく、もしかすると千単位あるのかもしれない。これだけ作られたなら相当な数の隠れキリシタンがいたはずです。または本人が信仰者でなくとも、信仰者を供養する人が後を絶たなかったことになります。信仰の自由が認められた現代日本でのキリスト教徒は人口の0.6%だそうだ。ましてや江戸時代の禁教化の中でどれだけの信者がいたのだろうか。その人たちが明治期、いや大正期に入って、あの灯篭を先祖伝来拝んできたとでもいう話が起こったのなら肯定しますが、そのような信者側からの報告はないようで、以下の話を見つけました。
*ネットサイト「街道ひとり歩る記-楽しんでこそ人生!!」より、(そのまま引用)
以下は、日本キリスト教大辞典「織部灯篭とキリシタン宗門」松田毅一より
「~大正12(1923)年頃からで、静岡の某氏が宝台院の一基の下部に人物像があることに注目して、同地の教会のフランス人司祭に見せたところ、カトリックの聖人像で、服装はローマの法服であると認定したと言う。」
 以下は簡単にまとめて引用します。
「これ以後キリシタン灯籠ブームが起きたらしい。昭和23(1948)年に西村貞は「キリシタンと茶道」で織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めた。しかし今日に至るも立証したものはいない。古田織部もキリシタンではない。灯篭のデザインは中世以前からの仏教関係の古い石造文化財の影響を受けている。記入されている記号は供養塔、墓標、庚申塔に刻まれているものが刻印されているようだ。」以上といったところです。
日本のキリスト教関係者が否定するのだから、日本の隠れキリシタン、または近代のキリスト教徒もキリシタン灯篭を信仰の対象にしていないようです。ということはキリシタン灯篭を発見しては騒いでいた人たちは、まったくキリスト教とは関係ない人たちだったのかな、なんとなくデザインがキリスト教っぽいからということですか? 隠れキリシタンが信仰していたという話は、いったい誰が言い出したのでしょうか? 分かりませんが、なぜその当人は地元のキリスト教徒を調査しなかったのでしょうか。キリシタン灯篭を、信仰してきたという信者またはその子孫の話を見つけられない限り、肯定しようがありません。といって、100%否定しきることもできませんので、否定傾向にあるあいまいな不明なままです。なお隠れキリシタンが伝えてきた信仰対象物はあるようですが、灯篭とは全く関係ないようです。
キャッチコピー「信者もいないのにキリシタン灯篭とはこれいかに?」
ただ別の視点で考えると、歴史学や考古学って、けっこうあいまいに進むんだなあと思います。以前、考古学においてゴッドハンド神の手と称される天才民間考古学者が一躍注目を浴び、彼の手による発掘でいくつもの石器遺跡が文化財として認定されましたが、いんちきだったことがわかり、あっさり、いくつもの指定遺跡が解除されるという、嘘みたいな本当の話がありました。また欧州では100年ほど前の話かなもっと前かもしれませんが、類人猿や原人の人骨を巡ってのいんちきか生物学的一大発見か争われ、いんちきだったことが証明されるという大失態があったそうです。
 そうそう私がこの文章を書いたわけは、単に否定したいからではなく、その後のことを悲しく思うからです。
 私がブログで静岡市の「安倍街道」を書いてアップさせたのですが、その中で「井宮町、瑞龍寺のキリシタン灯篭」の項目でキリシタン灯篭を否定する旨まで記入しました。ただこの「安倍街道」記事の内容は不十分で中途半端なまま、いつか調べるための調査地点や概要程度の下書きのままアップしてありました。そこで今回安倍街道を再調査し、ブログ内容の充実を図ることにしました。そこで2013年12月に瑞龍寺に再度行ったらば悲しくなりました。 
寺の前には、井宮や寺についてのハイキングコース標識、案内看板があり、瑞龍寺では3つ紹介されていました。1、旭(朝日)姫の墓、2、時雨塚の碑、3、キリシタン灯篭、です。1,2の2つについては説明版と矢印の行き先表示がありましたが、3は矢印が見つからないので、自力で、キリシタン灯篭を探しました。
多分これがキリシタン灯篭だったはずのものに行き当たりました。説明版もありません。しかし灯篭は各部がずれていて一部破損している始末。
 私がこの灯篭を矢面に立たせて否定したからこんな姿になったのかもしれないと思うと、悲しかったです。私としてはキリシタン灯篭説には疑問を呈し半ば否定したいですが、破壊したり撤去してほしいと言ったつもりはありません。キリシタン灯篭といわれているものは今まで通り説明版もつけて大切に保存されるべきです。説明版に一言最後に否定説もある旨を記入すればよいでしょう。全国にある指定文化財になっているものは、今後の歴史学界の動向を注目し、あまりに否定説が強まれば、検討対象にして、指定解除されればよいでしょう。ただし解除されたから、粗末に扱われ破損撤去されることは悲しいことです。その後も所有者等が大切に保存に努めてもらいたいし、かつてキリシタン灯篭と呼ばれていた織部型灯篭だという説明板ぐらいつけておくとよいでしょう。それはそれで歴史観光資料としての価値があるでしょう。
なお隠れキリシタンが実在していた長崎県の各地方には、彼らが信仰対象物にしていたものが残っているようです。長崎県にも織部型灯篭はあると思うのですが、この形式の灯篭を信仰対象物にしていたというものはないようです。
 ちなみにマリア観音も否定されるでしょう。静岡市内では用宗の用舟城跡の観音堂にマリア観音がありますが、隠れキリシタンの信者の子孫の証言といったものはあるのでしょうか。地域住民の観音様信仰はあるのでしょうが、キリスト教関係の信仰として明治時代以前からあるという口承等がなければ否定に傾くでしょう。新聞報道された内容では、地元民から観音信仰はあって日常お参りしているがマリア信仰といったものは聞いたことがないという話だそうです。マリア観音と断定?または推定した方々は、マリアとして信仰している人たちを探したのでしょうか?これもキリスト教徒とは関係なくても、地域の文化財で民間信仰の対象物として末永く大切に保存されることを望みます。説明板もついているとありがたいです。なお長崎県には隠れキリシタンが信仰していたマリア観音が実在しているそうですが、こちらは隠れキリシタンの存在は確実で、きっと信者や子孫の口承等もあるのでしょう。
 キリシタン灯篭を認定するには、織部型灯篭のデザインだけではなく、地域周辺にかつて存在していたはずの隠れキリシタンの存在を突き止め、その子孫からの口承証言等を取らねばならないはずです。それがないことに驚きます。
 ちなみに静岡市葵区、宝台院のホームページを調べると、徳川家康関係の宝物(阿弥陀如来立像、家康公の自画像、真の太刀、家康公筆「安元御賀記手習」)、三代将軍家光公筆「遠山月」二代将軍秀忠の生母・西郷の局の墓、徳川慶喜公謹慎之地、かくし坊の辞世があり、その中にキリシタン灯篭もある。説明文:「キリシタン灯篭:茶人として有名な古田織部が制作し駿府城へ奉納、徳川家康公の侍女・ジュリアおたあが信拝したという灯篭です。この灯篭は城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移されました。」とある。
 ジュリアおたあをウィキペディアで調べると生涯概略の他、文章末に「~なお、駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、そのキリシタン灯篭は、現在は宝台院に移されている。」と書かれている。
 これらはいかなることでしょう。日本最初のキリシタン灯篭発見が1923(大正12)年とすると、ジュリアおたあ信拝説はそれ以後と思われますが、いったいどういう証拠があるのでしょうか。分かりません。ただジュリアおたあや宝台院の業績は素晴らしいものと思いますので、そこは肯定します。また宝台院の織部型灯篭も価値あるものと思います。それが本当にキリシタンが信仰対象にしたものか証拠を出してほしいのです。それはキリシタン燈籠説を出した人たちの責任であって、宝台院やジュリアおたあ、瑞龍寺や織部型燈籠の責任ではないのですが。



  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:32Comments(0)批評、歴史・地理・紀行