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2011年10月22日

富士山表口村山登山道(村山古道)

1.松岡筋(富士市松岡~富士宮浅間大社~村山浅間神社) 
2.吉原筋(富士市鈴川~吉原宿~村山浅間神社) 
3.村山筋(村山浅間神社~中宮八幡堂跡~富士宮口新六合目~山頂) 

 以上3つのコースに分けて説明していく。
1.西から来た人は富士川を渡ったあと北に方向を変え、富士宮浅間大社(大宮)に参詣した後、村山浅間神社に向かった。
2.東から来た人は吉原宿から村山浅間神社に向かった。その前に田子の浦の水につかり、海岸の石を1個、富士塚に供えたという。大宮側からは大宮に寄らず登っていくので幾度も禁制の触れを出している。(おそらく有名無実)
3.以上1と2のコースが村山浅間神社で合流し、ここから本格的な登山がはじまった。というわけで本当は1と2のコースがあったというべきだが、ここでは便宜的に3つに分けた。これらの道を「道者(ドウシャ)道」という。
 復活した村山古道は部分的に道というより野渓や廃道であるが、歴史文化財として指定し保存すべきである。
 登山道区間は数年がかりで2006年に地元有志と畠堀操八氏はじめ登山仲間等の大変な努力によって再発見され整備され通行可能になった。まだ整備されきったわけではなくやっと人が通れる状態である。
 *(付近)というのは、村山古道と直接関連がなくとも、通過する地域に関する地理歴史情報を提供する項目である。

1.松岡筋(富士市松岡~富士宮浅間大社~村山浅間神社) 
 この区間は「富士山・村山古道を歩く」畠堀操八にも記述がなく、大まかなルート図が「富士山村山口登山道跡調査報告書」にあっただけで、私が推論してコースを立てたので正確ではないでしょう。しかしとにかくこの区間に切り込めたことが収穫でしょう。あとは後続の調査研究で直されればよいでしょう。
・水神社、石道標「冨士山道」 (富士市松岡)  
 東海道筋の富士川渡船場横にある。東海道に関する標識や看板があり歴史散策の地。昔は橋がなく松岡と岩淵の間は船で渡っていた。富士川本流がここを通るようになったのは近世以後で、神社北背後の雁堤(カリガネツヅミ)ができたことで、今の富士市街への流れをカットできたからである。石道標「冨士山道」が安置されている。昔はもっと東の分岐点にあったがここに移された。富士山道はここから東海道(県道、旧国道1号)を東進する。
しかし一旦南下し別の歴史物を見に行く。
・(付近)帰郷堤(キキョウツヅミ)、三重稲荷利神社(松岡四丁河原西、富士川堤防東岸) 
 水神社前の信号を南に向かい狭い道を富士川緑地方向に400m行くと、小さな神社と看板がある。ここの堤防の名と御利益豊富な神社の謂われが記入されている。この地が水害に悩まされていたことが分かる。
・石道標、秋葉山常夜灯(松岡) 
 あらためて水神社前を800m東進する。
東海道の標識と看板がある。本当はここまで来ると来過ぎで、もう1本50m手前の道を北に曲がる。
・雁堤(カリガネツヅミ)、護所(人柱)神社(松岡) 
 150m北進し道が合流分岐する手前左(西)の堤防上に護所(人柱)神社がある。上ってみれば堤防が見渡せ、晴れていれば富士山もよく見える。日本三代急流の一つ富士川の激流を止めるために水をソフトに受け止める工夫が、この雁堤(カリガネツヅミ)である。またこの工事を成功させるため人柱の犠牲があったことが記されている。歴史的事実かどうかは証明されないようだ。しかし幾度も失敗を重ねての困難な工事であったことが分かる。ここから2km北の山際突端の河原に一番ダシ、二番ダシ、三番ダシという真っ先に水を受け止める堤防に行くこともできる。祠が祀られている。雑草だらけかもしれず、歩くと遠い。
・石仏、石塔(松岡) 
 道がいくつも分岐するが、水路脇の北東に進む道を選び北進する。北の岩本山右(東)中腹を目指す。岐流橋を渡ると水路は左に離れる。道なりに直進する。
 途中石仏(馬頭観音、供養塔かと思われるが丸石を載せ地蔵のよう)や石塔(実相寺の題目塔で参詣道を示す)に出会う。
・稲荷神社、山神社(松岡) 
護所神社から北進1kmで、東名高速ガード下左に2つの神社が隣接してある。
・上堀橋(岩本) 
 東名高速ガード下から600mで道は直進不能で左右に曲がる。ここからどちらが古道か迷うので両方紹介する。
・右折し150mで左折すると橋を渡り、岩本山に登る道が正面にある。正面の上り道(車で登れる旧道)ではなく更に右の狭い道が古道らしい。上っていくと石仏がある。
・左折し上堀橋を渡ったらすぐ右折し川沿いを上っていく。150mで右折ルートと合流し、北東方向への住宅地の中の狭い道を上り、石仏に出会う。
 古道を登ると広い新道と車で登れる旧道とに合流する。本当の古道は旧道側の左に入ってすぐ山上に上る狭い道かもしれない。また永源寺西の山に登る道かもしれない。車で通れる道のようなので車で通行するのが手っ取り早い。明治20年代の地図ではほぼ新道に沿って道がついているので、新道を北上すればよいようだ。旧道も新道も最終的には山本で合流する。
 旧道未調査。
・(付近) 岩本山実相寺、永源寺、八面神社、琴平神社、岩本山公園 
岩本山実相寺… 
永源寺… 
八面神社…巨樹 
琴平神社… 
岩本山公園… 
・第六天神社(富士宮市山本)  
 ちょうど富士市岩本と富士宮市山本の境界線で新道と旧道は合流する。その先150m左(西)に神社がある。
・(付近)山本勘助所縁の地(山本)  
 山本勘助は武田信玄の軍師として知られる。出生地には異説(愛知県豊川市、豊橋市、豊田市)はあるが、この地、山本が有力である。その後三河で養子になったという。ただ初出の『甲陽軍艦』からして後世のものなのでどこまで信じていいのか。同時代の文書で「山本菅助」名がいくつか発見されているが、なぜ「菅」なのか、出生地の証明はとなると?である。
第六天神社を新道北40mで勘助史蹟の標識があり、双体道祖神もある。右折(東)し下っていくと勘助坂標識がある。勘助が子供の頃この坂で遊んだという。
第六天神社を北200mで右折(東)し500m下っていくと勘助母の墓、その先に勘助子孫の吉野家がある。長屋門は見事である。
・石仏(山本か黒田) 
馬頭観音と他一基。新道沿いにある。
・石仏、石塔(黒田) 
 新道に戻り北進する。明星山入口(旧星陵高前)交差点バス停より200m先左(西)石塔類(単体道祖神、甲子神、馬頭観音、大日)がある。標識もあるので分かりやすい。昔はここから明星山に登ったようだ。
 この先250mで黒田小学校に達し道は右カーブし富士宮市中心街に向かう。おそらくここにも昔は道標があったのだろうが、まったくそういう雰囲気はない。
・題目塔(黒田) 
 本光寺参道を示す。古い題目塔と新造の寺の名を示す石塔がある。
・題目塔、双体道祖神(田中町) 
 金谷橋で潤井川を渡ると左にある。
・常泉寺(東町) 
 門前石塔類。
・平等寺(東町) 
 山門、石塔類、鐘楼。
・大頂寺(東町) 
 虚空蔵堂(かつて富士山頂にあった仏像が廃仏毀釈で麓に預けられさらにこの寺に寄贈された。) 仏像がすべて破壊されたのではなく、このようにひそかに降ろされ寺に預けられたものもあるようだ。六地蔵。
・宗心寺(東町) 
 門前石塔類。
 大頂寺方向へ西進し浅間大社まで行く。
・富士山本宮浅間大社(宮町)  
 湧玉池で禊をするのが正式であるが、触れればよいでしょう。背後が山でここが窪地となっているので、湧水するようだ。夏でも冷たく澄んだ水で水量が多い。この水が湧き出すからここに神社があり、町が発展したのだろう。
本殿(国重文)、信玄櫻、御神幸道道標、鳥居、石灯籠、赤心隊石碑、火山弾、鉾立石、桜の馬場。富士山頂8合目より上は当神社所有。全国の浅間神社の総本山。石碑「天然記念物 湧玉池」。
・福石神社(元城町) 
 湧玉池のある浅間大社東側道向かいにある。この神社前を東進する。道端の角に双体道祖神がある。
・萬松院(元城町) 
 大宮小学校を過ぎると北に寺が見える。門前に石仏も祀られている。
 平等寺裏を過ぎた所で左折し北進する。
・山神社(若の宮町)  
 北進200m左に鳥居。
・石仏(舞々木町、市営舞々木墓地)  
 北進1.1kmで市営墓地を通過し、道沿いに新造の大黒のような布袋のような石仏。(無論古い村山古道とは直接関係ないですが、現代の村山古道周辺での石造物状況を知るためのよい参考資料でしょう。又後世への参考資料にしたいからです。例えば百年後にこの通りの石造物を調べたい人がいた場合、この資料はほぼ残らないでしょうが、万一にでも残存して、この平成期に作られた石造物を調べていて、ここに存在したことを証明する記事があれば、2011年に確かに存在したと証明できるではありませんか。これらの記述は遠い後世における歴史資料にしたいので載せています。)
・石道標「右 富士山道」(舞々木町)  
 墓地より北進300m、Y字路に石道標。
・石仏、「富士登山 満行供養塔」(大岩)   
 石道標より北進250mで舞々木橋を渡り今の広い道を北進せず、その1本左の川沿いの狭い道を北へ上がる。これが旧道と思われる。すぐ左に石仏がある。
「富士登山 満行供養塔」、地蔵、六地蔵、供養塔があり、富士登山との関連性を物語っている。北進してすぐ新道と合流。
・重林寺、石仏(大岩)  
 北進200mで広い道と合流。右に石仏(地蔵、題目塔)、その向こうに寺と門前の石塔類がある。
・大岩堤自然歩道、ビオトープ大岩(大岩)  
 北東進400m。右に以上のタイトルの歩道入口表示があった。未調査。大岩堤という池がありビオトープになっているようだ。(無論古い村山古道とは直接関係ないですが、大岩周辺の当たり前の自然環境がいかなるものだったのか知るにはよい参考資料でしょう。)
 北東進600mで古い街道は二又という交差点に向かうため左斜めに上って行く(北進)。
・二又石塔(粟倉)  
700m行って二又で右折を2回連続行い、東進する。ここに新造の石塔がある。昔から要衝の地だからかここで遠回りだが曲がっていく。
ドウシャ道は妙心寺入口で左折し狭い舗装路を北東に登っていく。
・妙心寺、石仏(粟倉)  
 当地に移転したばかりの寺のようだ。妙心寺門前で左折し狭い舗装路を北東に登っていく。道端途中石仏が祀られている。道なりに上に行く要領で進むとよい。
・粟倉観音堂、石仏、石塔・墓石?(粟倉)   
 旧国道469号線(新国道は別で今は県道か市道)沿い、富士根北公民館より北東へ400m左、堂内に石仏三体。敷地に10体の石仏石塔を祀り、懇切丁寧な説明版もある。
 ここからさらに北東150mの交差点角に石塔か江戸時代中期頃の墓石かと思われるものが祀られているが、詳細?。
・「山辻の石畳」、「道者道ドウシャミチ」案内板(粟倉、村山)  
 妙心寺から人家を過ぎ配水池のある所の右に「山辻の石畳」の標識がある。コンクリ舗装路はこの先行き止まりである。右の「山辻の石畳」を歩く。地元の子供たちが石を埋めるなど整備して10年とたっていないがもはや廃道である。300m倒木・雑草・浮石・蜘蛛の巣のめちゃくちゃな中やっと通り過ぎると旧国道の舗装路、そのすぐ先に階段があり、上ると現国道469号線である。階段下に「道者道ドウシャミチ」案内板がある。階段を上り、国道をまたげば西見付への寸断された旧道である。元は幅一間(1.8m)の石畳道だったのだろう。石畳にしたのは後世だろう。ここが西見付に至る道者道で住民の主要生活道路だったのだろう。
ここにいるだけで廃道の古道、使われなくなり汚れていく狭い旧国道469号線の舗装路、車がビュンビュン走り抜ける広い現国道469号線の3つの道の栄枯盛衰を一目で見られる。それにしても石畳道はどうにかできないのだろうか。歴史文化財の価値は十分である。
・道者ドウシャ道の近道はないのか?
 先ほど二又まで行って曲がってきた。正式にはそれがルートだろうが、明らかに遠回りである。歩くドウシャの中には近道する者はなかっただろうか。
私の勝手な推定路2パターン。
1.妙心寺前交差点から南西の丘向こうの墓地へ、墓地の南下の氏神神社前に出て、旧国469号へ西で合流しさらに南下の粟倉南町、舟久保町、粟倉境の五差路に合流する。
2.妙心寺前交差点から南西の真下に下りる道を進み下粟倉のT字路にぶつかり直進できないので、右折(西)し舟久保町の新興住宅地(もはや古道はないだろう)を何とか抜けて旧国469号へ出る。途中複数の石仏に出会える。
・西見付(村山)  
 石仏、西の番所と木戸の跡である。 
・村山浅間神社(村山)  
 もとは神仏混合の修験道による興法寺であり、大日堂にその名残をとどめる。明治の廃仏毀釈により神社となる。もとは神主ではなく山伏の僧侶により運営されていたのだ。巨樹も多い。石仏も多い。護摩壇。水垢離跡。詳細は「富士山・村山古道を歩く」畠堀操八:著を参照。 
 
この松岡筋に関しては岩本山山麓の山本を通らず東端の龍巌淵を通り天間から杉田へそして石原に向かうルートがあったようだ。


2.吉原筋(富士市鈴川~吉原宿~村山浅間神社)   
 このコースについては以下の3.村山筋同様、村山古道コースマップ(畠堀操八:著) ¥1000が必要です。しかもそれを持っていても初めてなのに下るということをやると、道迷いします。それは私です。初めて挑戦したとき富士市松岡に車を置き、自転車で岩本、山本、富士宮浅間大社、粟倉、村山浅間神社まで上り、そこから横沢、石原、大渕、伝法、吉原宿、鈴川へ下りました。下りは楽だと思いきや、いくつかの目印が探せず、付近で3人に聞いて市の境界線の「道しるべの5左村山道」の石道標を見つけ、又、迷った所(石原の「左の急坂を上る」)の坂上まで上り直すはめになるなど、相当体力と時間、気力をそぎました。それは登山道区間でなお顕著ですが、あくまでも上ることを念頭に作られているので、コースを知らず下ると目印を発見できません。人里なので迷うと思ってなかった私がバカです。特に分かりにくいのが、横沢から石原、次郎長町にかけてでしょう。「道しるべ6」から「左の急坂を上る」の上りきった所、「自販機の向こうを右へ」の辺りです。「道しるべの5左村山道」または「道しるべの4左村山道」を発見できればそこからはコースマップを見直せば正しいルートにすぐ復帰できます。付近の住民に「村山古道はどこ?」と聞いてもまったく通用しません。コースマップの写真を見せて「ここに行きたい」という方がよいでしょう。ちなみに自転車で鈴川に達し、さらに松岡まで戻ったら7時間かかりました。このときは粟倉の「山辻の石畳道」は歩いてなかったのですけど。 
記事は下った道を上りに再構成しました。 
*一部吉原宿辺りで近世東海道を通過するため、東海道のガイドブックを参照してもらってもよいです。

・浅間宮、富士塚(富士市鈴川)   
 富士登山をする者が海水で水垢離した後海岸の石を一つ置いていったものが積み重なって塚になったという。別説には、津波後の施し米のお礼として積み上げた。北条・武田・今川が対峙したときの天の香久山砦の跡。などの説もある。 
鳥居前を直進して突き当たると石碑「皇太子殿下御散策之蹟」があり、左に元吉原中学校がある。戻るなら左折だが、海に行くなら右折する。
 ここから海水に触れるには堤防の出入り口を越し、左折(東)していくとテトラポッドが切れて砂浜が少し見える。反対に西へ行くと田子の浦港の岸壁で立入不可となるのでむだである。 
・閻魔堂、地蔵堂、石塔、黒露の墓(鈴川)  
閻魔堂…閻魔像、地蔵
地蔵堂…地蔵
石塔…17基、観音、六地蔵、燈籠、
黒露の墓…黒露は江戸時代中期の俳人。
地蔵堂前の階段が古くは海に出る道で、南進して一度曲がって先の皇太子碑に出ればよい。
・木之元神社、古東海道(鈴川)  
 戻りは地蔵堂から東進60mで右の路地に入ると古東海道であり、木之元神社前に出る。御神水の碑、六角井戸、神木がある。神社上側の道を行く。近世東海道に出るにはその先を左折し広い道に出るが、おそらく古東海道は右折した路地のように少し高いところを東進していたのだろう。近世東海道側へ進む。広い道に出たらすぐにある踏切を越え線路に沿い西進し、JR吉原駅前で北西進していく。*(ここからは近世東海道に出たので、近世東海道のガイドブックと同一内容になる。) 河合橋を渡り国道1号線と新幹線のガードを斜め左に横断する。その先に静かな街並みがある。左富士神社のある中吉原宿跡である。
・(付近)阿字神社、妙法寺、富士と港の見える公園、三本松、毘沙門天妙法寺(鈴川)  
阿字神社…近世以前の東海道は田子の浦を船で渡っていた。そのとき東岸側で安全祈願をした所の名残である。相当古い神社と考えられるが、これだけ海に近い所にあるためか古い物はない。(多分地震や津波で遺物は残りにくい) 里宮の裏の奥宮横に見付の井戸(ばば井戸)や見付宿跡説明板がある。かつていけにえの場所だったことがわかる。付近に仏舎利塔がある。
妙法寺…題目塔、石塔、日蓮像、ガンジー像、
富士と港の見える公園…現代の公園、展望台があり眺めは抜群。トイレや駐車場数台分ある。
三本松…元吉原中学校向かいにある。何の謂れか?
毘沙門天妙法寺…だるま市で有名、近世東海道筋にあるので歩くとちょっと遠い。
・中吉原宿跡、左富士神社(依田橋町)~近世東海道~  
 先ほどの鈴川や毘沙門天の辺りが元吉原宿であるが、津波で破壊され、この左富士神社から西の辺りに移転した。しかしここも津波で破壊され今の吉原本町の吉原宿に再々度移転した。(中吉原宿をはじめ元吉原宿、吉原宿の資料は富士市立博物館にある。)
 *ここ以後しばらく近世東海道ルートなのでもっと詳しく知りたい方は東海道吉原宿近辺のガイドブックを読んでください。
・左富士(依田橋町)  
 東海道を東から西に行けば富士山は右に見えるのだが、この地だけは左に見えるので「左富士」と称され珍しがられた。東海道が一旦北北東を向くからである。左富士神社先の交差点に史蹟看板があり、松が植えられている。左富士の浮世絵レリーフもある。
・石仏(依田橋町)   
左富士史蹟を過ぎて北進すると左に祠が見える。
・平家越し(新橋町)  
 橋を渡る所にある。平家が富士川沿いに陣取り羽音を源氏の攻撃かと驚き逃げ出したという伝説の地である。平家は羽音だけに驚いたのではなく、その前から源氏の陽動作戦で疑心暗鬼になっていたという説もある。ここはいまでは富士川ではないが、雁堤設定以前はここまで富士川が幾本かに分流して流れていたようだ。
・吉原宿、東木戸(吉原宝町)   
近世に三度も宿替えをした宿場の最終地、現在も繁華街。
吉原本町駅…レトロな電車が走っていてマニアに受けるそうだ。
百地蔵尊…吉原本町駅目の前 
鯛屋旅館…旅籠や、 
下本陣跡…コンドウ薬局、上本陣…富士見会館、 
脇本陣跡…ノグチカメラ、おもちゃのキムラ、オオイカメラ、岳南堂菓子舗、 
問屋跡…メガネヤナセ、 
長さん小路…この地で小青年期を過ごしたドリフターズいかりや長助を記念した通り。 
・妙祥寺前題目塔、宿場の鍵の手(中央町一丁目)  
 ここで宿場通りは左折し妙祥寺に南下する。そこに題目塔がある。ここでまた右折し南西に向かう。
・(付近)日吉浅間神社、富知六所浅間神社  
・日吉浅間神社…東泉院ははじめ浄土院といい、頼尊に属した僧によって創建。元は吉原公園にあり、移転を繰り返し現在地となる。西隣は六所氏屋敷跡地でさらに西に吉原公園となる。六所氏は近在の有力者で神社移転を行ったのも六所氏である。旧東海道の吉原宿から北進し出すとすぐ左に「旧順天堂田中歯科医院診療所兼主屋」(国登録有形文化財)の洋館と和館がある。その先の川を渡った所に「大日如来」がある。正面の「上和田子安地蔵尊」の左に神社がある。 
富知六所浅間神社…大楠、東泉院の別当が管掌。楠(県指定天然記念物) 、火山弾。付近にカンカン堂がある。
 
・西木戸跡(中央町三丁目)~近世東海道~   
 ここで近世東海道から離れ右折し北西進する。
・馬頭観音、道祖神(伝法)  
県道富士インター線の富士インター南の長者町西交差点より50m南の道路東側にある。新造のようだ。文字碑。付近の地下道入口花壇に道祖神2体(文字碑)がある。
 ここから先の道路を横断し酒のアルコの北裏に北西進する。
・(付近)伊勢塚古墳(伝法)  
 付近の玄龍寺には「伊勢塚古墳」(円墳)がある。墓地上の丘にお堂があり眺めがよい。周辺は環濠で南側が広がった独自の形だったようだが、墓地に改変され様子は分からない。古墳があることでこの付近が古くから開けた地であることを証左している。
・広見公園、富士市立博物館(伝法)   
 この公園の南西角を掠めて北西進する。公園内に富士市立博物館があり、村山古道や村山修験、富士山、吉原宿、東海道、富士市の歴史関連の資料があるので、一見の価値がある。屋外には古民家や遺跡が展示されている。
・石道標 道しるべ1「東三ツ倉 左むら山道」(大渕)  
 伝法沢川西岸沿い道は西側に工場や倉庫、東側に住宅地を見つつ北進して交差点に至る。
石道標に刻まれた「三ツ倉」は東南500mの現在、法蔵寺周辺の中野・三ツ倉町を指す。なおこの石道標は仁藤春耕の作製したものと考えられている。
 主要地方道一色・久沢線に出て、左折し80m右折し左斜め北進する。まもなく第二東名富士インター線の高架橋を渡る。畑と住宅地の混在地を抜けて行く。
・釈迦堂(大渕・穴原町)  
 石塔類5基。釈迦堂橋を渡って北西進する。
・(付近)不動穴、八幡穴(大渕、久沢)  
 釈迦堂より北東500m不動穴。西1km八幡穴。どちらも溶岩風穴。多分立ち入り禁止。この村山古道は風穴類に立ち寄らないとみられるので偶然近くを通っただけだろう。別の登山道の精進口登山道はわざと風穴を通るようになっている。洞窟で修行せよということである。またこの近辺には天満宮や八幡宮等神社も多く昔の風景が残っている。
・婦夫地蔵(大渕・穴原町)   
 釈迦堂橋を過ぎて100mほど右道端にある。500m北西進する。
・石道標 道しるべ2「左むら山道」(大渕・境町)  
 畑地内に石垣を築いたちょっとした墓地の交差点角にある。題目塔。
・三社氏神社(大渕・大峯町)   
 250m北西進すると交差点。県道富士・富士宮・由比線に出て左にコンビニ店、道向こうに神社がある。古道沿い最後のコンビニ店。
・石道標 道しるべ3「左むら山道」(大渕・大富町)  
 交差点より北進300m・この道が富士市と富士宮市の境界線となり、これから境界線沿いに北上していく。しばらく北上するとラーメンみゆき食堂がある。このあと古道沿いには食堂はない。
・石仏(大渕・大富町)  
 右に馬頭観音らしきが2基。あるいは童子の地蔵か。別の左に石塔「右 杉田 左吉原」らしきがある。
・石道標 道しるべ4「左村山道」(大渕・大富町)   
 題目塔。
・石道標 道しるべ5「左村山道」、道祖神(大渕・次郎長町)   
 北進900m。道の反対側に石道標「右ぼんぶ川 左よし原」もある。もはや刻字を読み取れない。参考資料があるから読める。村山道はこの境界線の道をさらに450m北西進する。
 個人的な話だが村山浅間から自転車で下ってきて石原の急下り坂を発見できず、三人に市の境界線を聞き、三人目の次郎長町のコンビニ店(山田商店)の方から聞いてやっとこの場所に来られて正しいルートに復帰できた。ここからまた石原の急坂に戻った。コンビニ店から下るとき、ちょうど次郎長を顕彰する白髭神社前を通ったはずだがそんなことかまっていられなかった。この道しるべから北に外れて650mでコンビニ店がある。その途中に白髭神社(次郎長碑)もある。
・自販機の向こうを右へ(大渕・次郎長町)   
昔ここにも石道標があったが付近の畑に埋められたそうだ。右折する。狭い道だが舗装されているしかつての主要道で村山道である。交差点に出ると両市の看板が出ていて境界線であることが分かる。その先で鞍骨橋で日沢を渡り、境界線からしばらく離れる。道なりに上っていくと右の畑に背中を向けた石仏がある。
・石仏(富士宮市粟倉・石原) 
 背中を向け(東)畑を向いている。馬頭観音、地蔵。すぐに広い道に出て左折(西) 100m弱で右に石仏、左に電波塔と三角点のある丘がある。
・石仏(富士宮市粟倉・石原) 
 馬頭観音、家型道祖神2基、石柱:石道標?「左よし(原) 右ぼんぶ(川)」が道路に面している。南の丘上には三角点がある。50m東には丸石の石塔「甲子」と家型道祖神が祀られている。道はここで右折する。
 さっきから出てくる「吉原、ぼんぶ川」を示す石道標は下る人のためであり、村山道を示す道標の反対に置かれるとよいのだろう。
・左の急坂を上る(富士宮市粟倉・石原)  
 狭い舗装路を道なりに250m上っていくとそのまま道なりに上っていく道とすぐ左横に急勾配で上る狭い道がある。この滑り止め用円形型押しのあるコンクリート製急上り坂を登り、上で合流したら右方向に上っていく。あとは道なりに上っていく。途中右や左に分岐する道があるが、とにかく道なりに上っていく。
 個人的にはこの急坂の上で急坂を発見できず別の道を下ってしまい、その後紆余曲折した。
・石道標 道しるべ6「左村山道」のレリーフ(横沢)  
 人家が出てくるとX字型四つ角がある。その正面に壁にレリーフされた道しるべが見える。左先を進む。かつてのバス通りに出る所に石道標?らしきがある。
・石塔?石道標か?(横沢) 
道が分岐する所に何かの目印になる石が安置されているがまったく判読不能。さらに北に100m進む。
・石道標 道しるべ7「左むら山道」 (村山・横沢)  
 旧横沢バス停跡(バス廃止)に出る。「道しるべ7 左むら山道」四角い石道標があり、標識もある。
 村山道は左に直角に曲がり、家一軒ない寂しい道を上って行く。このときは台風直撃すぐ後だったので倒木で車通行不可。自転車なので担いで越す。
・東見付、末代上人の墓(村山)  
 すぐ左に牛舎があり、もう少し広い舗装路に出る。目の前に標識がある。石仏、東の番所と木戸の跡である。すぐ近くに別の馬頭観音もある。またこのすぐ上の墓地に開祖:末代上人の墓もある。
 この先は村山浅間神社だ。神社門前の山本商店が最後の店で、神社への問い合わせ先で、この村山古道復活活動の有志でもある。

3.村山筋(村山浅間神社~中宮八幡堂跡~富士宮口新六合目~山頂)  

村山古道登山区間(距離、時間、標高)コースタイム案内  
*注意点 
¥1000で売られているコースマップ(畠堀操八:著)は絶対必要です。あと磁石かGPSハンディナビを持参してください。もしくは村山古道を通過した経験者が必要です。できれば「富士山・村山古道を歩く」畠堀操八:著の本を読んでいくか、持参すると迷ったとき役に立つでしょう。
 上ったことがないのにいきなり下るとテーピングを発見できず幾度も道迷いをします。私は山の村から札打場、発心門にかけて下ったのですが、3回道迷いし引き返しては正しいルートを探す手間ひまがかかりました。上る分には最低限のテーピングはありますが、下る方向に見やすいテーピングはありません。下る人への考慮はありません。別種類のテーピングは至る所あるので間違わないよう、正しいテーピングを追うようにしてください。(11年9月には幅3cm赤いテープが正しいルートを示していたが、今後変わるでしょう。)迷うと深さ3~5mのV字谷の野渓にはまりますが、こんな深い所は必ず迂回道にテーピングがあるので、深い野渓にはまったら間違いかもと思い引き返してください。迷いやすい所は五辻から発心門、林道富士裾野線交差点及び北井久保林道交差点、札打場、天照教社までの区間です。この区間どうしても迷ったまま元へ戻れなければ、その野渓を高巻くなどして身の安全を確保しつつ下山すれば、林道に必ず出るはずです。周囲はすべて植林地ですので見通しがきき作業道も一杯付いていますので、作業道を下っても林道へ出るでしょう。ただその作業道や踏み跡、涸れ沢が錯綜していて道迷いしやすいのですが。
なお他に野渓化した所は山の村から二番目の馬頭観音までの1kmですが、ここはすぐ横を迂回するなど(草や倒木で歩きにくいですが)すればよいでしょう。天照教社から少し上も野渓化していますが、すぐ横を迂回できます。
村山古道も他の山の中の古道同様、野渓化を免れません。野渓を歩くと割り切りましょう。先ほど挙げた所が標高の低い植林地内で道迷いしやすい悲惨なコース部分です。中宮八幡堂付近は家族連れ子供向けのハイキングコースに絶好です。それより上も歩きよい登山道に整備されつつあります。
なお天照教社より上には一切の村山古道を示す文字標識はなく(11年9月)テーピングと地図・磁石を頼りに歩きました。例外は高鉢駐車場を示す標識と宝永遊歩道の標識はありました。そして宝永遊歩道付近で突然多数のハイカーと行きかいました。それまでまったく人に会わない登山道でしたから驚きました。向こうのハイカーも変な所から人が出てきたので驚いてました。このとき村山古道を歩いていたのは私一人だったようです。村山古道で動けなくなっても誰も通らないでしょう。まったく静かなコースで誰もいません。あとこんなに静かなコースは、精進口登山道、大沢崩れ左右の登山道ぐらいでしょう。
*村山古道は富士宮口新六合目で富士宮口登山道となるというより、歴史的にはその逆でしょうが、今は富士宮口といいます。そこで六合目より上は一般の富士登山ガイドブックを参照してください。ちなみに山頂には破壊された石仏がいくつもあるようです。廃仏毀釈による破壊についても「富士山・村山古道を歩く」畠堀操八:著を参照してください。なお破壊されず難を逃れた物もあるようです。
 コースタイムの距離はキルビメーターで測りましたが、どうも実際より30%ほど短い気がします。実際歩くと表示距離より30%増しにして下さい。つまり表示1.5kmなら2kmです。時間はややゆっくりめにしたつもりですので、健脚者はもっと速く、初心者はもっとゆっくりかもしれません。休憩時間は入れませんし、道迷いの時間も含んでいません。
 村山古道は日沢に沿うように道がつけられています。普段は涸れ沢ですが、雨が降ると濁流が流れます。ちょうど山の村の富士市と富士宮市の境界標識がある川です。11年9月17日、下界は雨がやんでいるのに山の村は土砂降りで緑陰広場横の日沢も深さ20cmの濁流でした。翌日は沢には水一滴もありませんでした。9月23日に行くと沢は涸れていましたが、2日前に台風15号直撃を受け、山の村すぐ下の吉原林道と交差する箇所が破壊され通行不能でした。緑陰広場横の日沢の枯葉の堆積から深さ50cmの濁流が流れたと推定されます。駿河湾の湿った空気が富士山麓南面の地に当たり村山周辺にすさまじい降雨量となって降るためのようです。地元ではベタベタだかベトベトと言うようです。その雨水が片っ端から地面をえぐるため、道も広場もガタガタになります。村山古道の野渓化やむなしです。雨のあとどの道の状態も悪化します。通行不能もありえます。樹木にしても地面が溶岩でやせているのか風が強いのか、倒木になり道をふさぐのは日常茶飯事かもしれません。下界は降って無くても当地で土砂降りのとき、沢や野渓化した道は通行不能でしょう。

・コースタイム
富士宮口新六合目、宝永山荘、H2490m           ←→宝永第一火口手前
↓↑      0.5km 30分 ↑↓ 20分               ↓↑
富士宮口五合目←→  宝永遊歩道分岐点、H2350m     ←→宝永第二火口手前
         (二合目、三合目石室跡…石垣、便所穴跡)
0.7km 40分 ↑↓ 30分 一合目小屋跡ともう一つ平坦地がある。
一ノ木戸跡(石段、石垣、やかん) H2150m 
0.6km 30分 ↑↓ 20分 
横渡(日沢を渡る)  H2000m 
0.6km 30分 ↑↓ 20分 
笹垢離跡(石仏)  H1870m 
  0.3km 10分↑↓ 7分 
岩屋不動への分岐点、H1800m   ←0.7km、30分→ 岩屋不動跡、H1870m 
0.5km 20分 ↑↓ 15分 
高鉢駐車場←→ 「高鉢駐車場~御殿庭コース散策道」分岐点、H1720m ←→御殿庭 
        0.7km 25分 ↓↑ 20分  
富士山スカイライン152号線(180号線分岐~富士山五合目)「10.8km」標識、H1600m 
1.5km 50分 ↑↓ 40分 
富士山スカイライン180号線(山宮~御殿場)「7.8km」標識、H1340m  
1km 30分 ↑↓ 20分 
中宮八幡堂跡、     H1250m 
2km 50分 ↑↓ 40分 
富士山麓山の村(緑陰広場)、 H1090m 
1km 30分 ↑↓ 20分  
天照教社、      H1000m 
1km 30分 ↑↓ 20分 
林道富士裾野線交差点、 H740m 
2km 50分 ↑↓ 40分  上ってすぐに札打場ケヤキがある。
北井久保林道交差点、 H800m 
  1km 30分 ↑↓ 20分 途中、発心門跡を通過するが単なる平坦地で痕跡なし。
五辻(林道から登山道へ)、 H650m 
0.5km 15分 ↑↓ 10分 
最初の馬頭観音(チェーンが張られこの先自動車通行不可)、 H590m 
  1.5km 45分 ↑↓ 30分徒歩  
村山浅間神社、標高H490m 

・解説
・ 村山浅間神社西横から部分的に石畳道があり、途切れたところは集落内の舗装された生活道路を通行するので安心して通れる。村山集落の北に向かい最後の人家:鯛津氏宅(この村山古道復活活動の地元有志)を過ぎると寂しい道になる。
・ チェーンが張られた林道の横に最初の馬頭観音がある。車を置くなら左折してもう50mも奥に行けば平坦な所がある。よくよく見るとこの平坦な所やこの下の涸れ沢が本来の村山道ではないかという気がする。林道歩きは500mで終わり登山道に取り付く。
・ 五辻から登山道区間に入ると途端にV字谷のような野渓化した道に出くわす。そしてそれを迂回するかのようにすぐ横に別の切通しが通っていくのが分かる。それがしょっちゅうであり、これは他の古道でもよくある例である。ただ県内の他の古道よりえぐれ方が激しいのは、さすが富士山という高山にして溶岩の山で降雨量の多い地であるためだろう。もはやファミリー向けハイキングコースではない。
・ 発心門の辺りはなんとなく平坦な植林地である。かつては礎石があったらしいが今は痕跡もない。発心門推定地に標識があるといいですね。このあとコースは上へ上らず、ひたすら横へ水平移動し、林道へ出てそこから又上り、札打場ケヤキに至る。それにしてもなぜここで上らず水平移動するのか? 日沢との関連か? 札打場ケヤキに行きたいのか? 札打場を過ぎるとまたいくつも野渓のような道を通過する。天照教社に近づくと道がよくなってくる。
・ 天照教社前で舗装された林道に出て標識も多い。11年9月村山古道の文字標識はこれより上にはなかった。ここからしばらく野渓のような道もあるが平坦に近くすぐ横を迂回しやすい。山の村に近づくと平坦な森林散策路となる。一旦吉原林道を横断して山の村敷地に入る。吊り橋の下は金属パイプもくぐるため狭いが道はよい。このあとすぐ道はえぐれたオーバーハングの下となる。昔は左に上ったようだが今は無理なので、右から上る。そのように標識やロープが張られている。進むとすぐ山の村の車道と緑陰広場に出る。休憩によい。 
・ 山の村緑陰広場で交差する箇所には11年9月にはまったく標識はなく、ガイドマップを持っている人にしか分からないようになっている。下りはいきなりオーバーハングの崖を避けて上り下りするところがあり、注意書きと黄色いロープがある。緑陰広場の右奥からの上りは野渓が1km続き、このままでは家族や子供用のハイキングコースにはなりにくい。2番目の馬頭観音より先は森の散策コースになり快適に大淵林道を横断し涸れた日沢も越えて、中宮八幡堂跡を目指せる。中宮八幡堂跡付近は地元の人が使うのできれいな道でありハイキングコースになる。富士山スカイライン「7.8km」標識までは道迷いなく快適に歩けると思われる。
・ 「7.8km」標識近くに登山道は開けているがテーピングがあるだけで、何の道かは知っている人にしか分からない。ここからもしばらく歩きやすい道だが周辺のコケだらけなのを見ても分かるとおり、夏は湿度が高く蒸し暑い。緑のコケの絨毯はしっとりした日本庭園のようで美しい。「10.8km」標識手前に一箇所岩むき出しの急坂があるが慎重に通過すればよいでしょう。これも野渓化ですね。
・ 「10.8km」標識近くのテーピングの切り開けから入山。高鉢駐車場分岐点では文字標識がある。これより上の古道では宝永遊歩道までエスケープ不能となる。この先ちょいとした人工的広場があり、「大樅」という修験場跡がある。この先へつりになっているところがあるので注意。
・ 岩屋不動への道はくたびれ果てた白テープとかすかな踏み跡を頼りにたどり、渓谷辺りで黄色いロープがいくつも張られていてやっと分かった次第。一応「危険なので注意して参拝してください」との注意書き。洞窟というほどではないが、岩の割れ目の暗黒世界が拝める。なかなかの巨岩の涸れ滝世界。山岳修験に似つかわしく行者が修行するにはよい所でしょう。
・ 笹垢離跡の石仏はかつて3体、ガイドブックでは4体、そしてこのときは5体だったと思う。? だんだん地中から出土してくるのでしょうか。晴れていれば絶景。ちょいと草と倒木は多いが野渓よりまし。
・ 横渡も晴れていれば絶景で、涸れ沢の日沢も安心して渡れるが、テーピングが失われるときつかろう。
・ 一ノ木戸跡にあるやかんは薄手で近代以後の産物と思われる。おそらく昭和期のものか。ただ畠堀操八氏が言うようにこのまま安置すべきだろう。村山古道自体が文化財であり保存できるとよいという意識で通行しよう。その後一合目小屋跡ともう一箇所小さな平坦地がある。この付近倒木が多いが切断され踏み跡がたどれるようになっている。
・ 二合目、三合目石室跡の石垣や便所穴跡は宝永遊歩道のすぐ近くであるがそこを通る誰もが気付かないようだ。まあその方がよいだろう。二合目と三合目の石室はすぐ近くだが、この辺りがかつての森林限界だったため、すぐ近くに2つ建てざるをえなかったのか? 
・ 岩室跡より上では樹木が低く明るくなる。すぐに樹木がなくなり、ガラガラの溶岩石帯になる。テーピングではなく、石に付けられた水色マーキングをたどる。晴れていると絶景で振り返れば愛鷹山から海まで見え、この上の6合目山荘も見える。そこで富士宮口登山道と合流する。

・推論  
笹垢離跡(石仏)H1870mは特段、道の状況が変わるわけでもない坂の途中に唐突にある感じがする。普通石仏等を祀り垢離を行う場所はそれなりの雰囲気のある所なので不思議な気がする。その手前に岩屋不動への分岐点、H1800mがあり、木馬道をたどって岩屋不動跡、H1870mへ達するのだが、岩屋不動跡、H1870mと同じ標高なのだ。多分昔はこの二箇所が同一標高のまま平坦な道で結ばれていたのではなかろうか。あるいは同一標高の笹垢離で禊をすれば岩屋不動まで行かなくとも同じご利益があるとでも考えたのだろうか。  

・参考資料
・「富士山・村山古道を歩く」畠堀操八:著、風濤社、’06
・「富士山村山口登山道跡調査報告書」富士宮市立郷土資料館、’93
・「本山修験宗聖護院富士山入峯修行復活 富士山表口登山道全図 富士山村山古道を歩く」畠堀操八、NPO法人シニア大樂山樂カレッジ、’09、¥1000


  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:38Comments(0)