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2010年01月17日

身延街道、人との出会い旅

・失物地蔵(山梨県南部町福士坂下) 、09,12月下旬、午前
 福士平の八幡諏訪神社を過ぎて、修善寺参道を過ぎたが、失物地蔵(六面幢、六面地蔵)が見えない。そこで近所の望月秀次郎氏宅に聞きに行った。そしたら一緒についてきてくれて、探してくれた。だが、もと置かれていたはずの、平らな窪みはあるので、あったはずだが、今はない。付近は草や木を刈ってきれいにしてあった。そこで修理かなんかで、一旦取り外したものと解釈した。
・真篠(山梨県南部町真篠)、09,12月下旬、午後
身延街道調査のため、真篠に行き、真篠砦を見てから、砦横の身延道を原戸まで歩いてまた砦の駐車場に戻るときであった。駐車場へ戻る道の途中は畑で、路上で車を止め収穫している地元農家の人たちがいた。ちょうど農家仲間同士で世間話に花が咲いていたところを通りかかった。「どこから来た?」と問われ、「静岡から」と答えると、「よく静岡からも来るだよ。」「この砦は手付かずでよく残っていて、阻障などよくできてるだよ。」等、ふるさと自慢を、聞いて楽しい時間を過ごしたら、「白菜持ってけ、大根もどうだ、持ってけ」となった。大根までは申し訳ないので、とりあえず、白菜をもらったが、これが、大振りで、帰ってから使いで豊富で、おいしくて、ただでもらうには、申し訳なかった。ずいぶんおいしくいただけた。砦のこともたくさん話していただけた。
・南部横宿道祖神(山梨県南部町南部横宿)、09,12月下旬、午後
 妙浄寺参道前、南部横宿の丸石道祖神の写真を撮っていたら、その付近で車を駐車した地元のおじさんたちに話しかけられ、ふるさと自慢を楽しく聞く。皆さんふるさとに愛着があるんですね。道祖神は正月のどんど焼きのとき、幟を立てるとか、この地域のお祭りはいついつで、にぎやかにやるだよ等、皆さんそれは楽しそうに話してくださいます。
・南部町中野六本松、09、12月下旬
 六本松の場所だろうということで、テキストの地図にポイントされていた中野宿の萬屋
酒店辺りで、南東に曲がり、題目塔を過ぎ、さらに南東に行き、2軒聞くと、ここではなく、中野下バス停付近らしい。そこで聞くと、あの家に聞くといいと指されたのが、交差点角の屋号「六本松」の若尾正氏であった。聞きに行くと懇切丁寧に現地まで来てくれて事細かに話してくださった。「もう私しか知らないし、私で終わりだろう」と、熱心に話していた。また母か祖母が老人ホーム裏の旧道を登って嫁に来たとも言っていた。旧道の下は渡船場だったのだ。先ほどの題目塔は六本松から運んだ物と父か祖父に聞いたそうだ。それにしても今となっては貴重な生き証言を聞けたものだ。
・身延町横根中桜清水、10、1月16日
 桜清水前の清水屋敷跡となっているお宅で、「古い身延道」を聞いたら、亀久保方向への旧道舗装路を教えてくれた。あらためて聞くと、寺(実教寺)の和尚さんがいいとのことだったので、寺へ行くと、あいにく不在で、下の渡辺さんを紹介されて行ったのだが、これまたあいにく不在で、隣の洋風な家を訪ねると、品のいい婦人が出てきて、隣のおばあちゃんにも連絡を取ってくれたが、もうあいにく古い道はないだろうとのことだったが、ご婦人が、御殿山のこと(地元で祀っていて1年に1度お祭りに行く山で、相又との境の山で、向こうは相又パークになるそうだ)や、峰が窪からの旧道を教えてくれた。桜清水を南に少し下ったところの、道祖神でそこから踏み跡をたどるのが旧道だそうで、道祖神を見て、古い切通しを辿って行くと、さて驚き、自動車道の上の方に、13基もの石塔類がざくざくで宝の山となった。
・身延町相又坂本、10、1/16
 2軒聞いて不在で、3軒目に聞けた。榧の木の現物を教えてくれた。桜の木の隣の、石塔のある木のことだった。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 16:47Comments(0)古道

2010年01月17日

身延街道(山梨県万沢~身延山)

  序文
テキストは、『静岡県歴史の道 身延街道』(静岡県教育委員会)98年と、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)を用いた。これを基準として説明していく。テキストによる調査は79年に実施され、静岡県側は再調査を97年頃行ったようだ。これらの本が往時の身延街道と現状を周知させたことは意義深い。そのため基準としてのテキストとして用いる。しかしその後の現状改変や調査研究の進展により、書き換えられるべきことが出てきていることも、後に具体的に述べるつもりである。テキストに記載されていることはなるべく述べないようにしたので、本文を読む際、テキストも傍らにあった方が理解できる。
『静岡県歴史の道 身延街道』には、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』内の身延山から万沢までの記述を順序を逆にして掲載しているので、テキストはどちらか一方があればよい。掲載順次は、『静岡県歴史の道 身延街道』に準じて、静岡県境から身延山に向けて掲載する。
 また実際に当地に出掛け街道歩きを楽しむのならば、上記のテキストと付属地図の他、ゼンリンの住宅地図で街道筋周辺の掲載部分をコピーして持って行くと便利である。(地図は図書館で全面コピーできず、著作権の関係で半分以下にされるので、必要な部分に絞ること。)テキスト自体はそれぞれの県立や地域の公立図書館にある。「Y-1」等の番号はテキストに即し参照のためそのまま用いた。番号の無いものは私が改めて掲載したものである。私の調査は90年代末と09年12月~10年1月である。
 なお実際現地を探索するのならば、標識等がなく分かりづらいので、周辺住民に道を尋ねるしかない。
 山中の古い道を通りたければ、廃道化しているので藪に入る覚悟は必要で、それなりの服装になる。季節は草木が枯れ蜘蛛の巣が減り、やぶ蚊や蛇がいなくなる晩秋から春までがよい。私は国土地理院2万5千分の1地図と方位磁針も持参している。通りたくなければ古い道の出入口だけ見て舗装路を迂回すればよい。
 身延道の山梨県側は山梨県教育委員会の調査メンバーにより調査されているのだが、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』を読むと、事前の文献調査を行った後、現地には自動車を使い廻り、掲載写真の中には明らかに車から降りず車内から撮影した写真まであり、ほとんど歩かざるをえない土地には行っていないと思われる。そのため少なからず抜け落ちている事項がある。よほど現地調査の予算がなかったか、日程がとれず、足早に自動車で通り一遍主な地点を回っただけになっている。その内容をまた静岡県教委のテキストもそのまま掲載しているので、抜け落ちている点はそのままである。ただし基礎的な文献研究及び地図上のルート確定などは地の利があり、よく研究されている面がある。また身延道に直接関与しない、郷土史全体からの観点で掲載されている事項もあるが、私は個人的に未調査にした部分もある。ただしこのテキストにより、身延道の現状がまとまった形で報告された意義は深い。

・白鳥の砦(山梨県南部町万沢)Y-1
白鳥山自体がかつて物見のある砦だった。1569年武田信玄が駿河侵攻の際に作ったという。現在公園になっていて山頂まで車で行けるし、麓からの登山コースもある。山頂公園には標識等もあるので観察しやすい。
・白鳥天神社(南部町万沢)Y-2
 小葉山の県道沿いに見える。
・金山神社(南部町万沢)Y-3
 小葉山の廃屋集落内にあり、社叢は町指定天然記念物で、門前は身延道で狭いながらも江戸時代にでもタイムスリップしたかのように往時の面影を残しており、門前の身延道も含めて町指定景勝地にでもしたほうがよい。きわめて貴重な景観である。行き方であるが、県道沿いの家の裏に歩いて入っていくか、国52号線から歩いて上れるスロープを登っていくかである。
・境川の馬頭観音(南部町万沢)Y-4
 「興津筋O-61」、「岩淵筋I-69」に同じ。かつて甲駿田舎の里山荘のあった所の真下が、境川と国52号、杉山や古住田に向かう県道の合流点である。ここの空き地に石塔4基が立つ。境川の大石上にも1基立つ。この空き地の30m奥には石階段があり上ると墓地である。かつてここに旅籠屋甲州屋、両国屋があったのでその関係者の墓だろう。石塔を立てたのも旅籠屋である。今は誰もいない所だがかつては集落だったのだろう。この付近には小葉山集落(今は廃屋のみ、金山神社がある)もある。かつては賑わったのだろう。
・境川の供養塔群(南部町万沢)Y-5
 上記同。
・万沢の題目塔(南部町万沢)Y-6
 上記の場所に合祀されたようだ。もとは国52号の小葉山出口のもう少し北だったようだ。10年前、国52号沿いの境川分岐から万沢トンネルの間に2基ばかり馬頭観音があったように思うのだが、洞門が作られる等して見られなくなった。国52号を北上する。
・小葉山の一里塚(南部町万沢)Y-7
 屋敷平の分岐点付近にかつて木柱があり、戦後も横倒しになっていたようだが、見たことがなく消失した。
・万沢の身延道、残存部
 さらに国52号を北上し、万沢トンネル前で右上に上る道に進む。一旦峠のような所を上り越すとすぐ左に分岐する道があり、左に「随緑カントリークラブ← センチュリー富士コース 恋人の聖地← 白鳥山森林公園←」の看板で、右横には「甲府←→静岡」の交通標識がある。このゴルフ場や公園の看板裏の左(西コース)と右(東コース)にそれぞれかつての身延道の廃道切通しが北に向かって延びている。杉檜植林地内のごみや草木が繁っている中を進むと林道に一旦出る。
この林道は明治初期に作られ、国52号万沢トンネル北口近くから南に下がりトンネル北口真下のガード下から国52号西側を北に進み、次の水準点近くで橋上から万沢に至る県道に合流するルートである。明治期の身延道である。
 話をまた近世身延道に戻す。林道に出た身延道は林道を横断して下る。右(西コース)は高圧鉄塔の下から下って行き、空き地になっている所で終点となり、林道に吸収される。片道500m。
左(西コース)は林道を横断して下ってすぐ下の林道に吸収されて終点となる。この道は途中西の尾根に向かって上って行く分岐道があり、先ほどのゴルフ場や公園に行く道がヘアピンカーブで進路を180度変える所まで上って行って吸収される道になっている。片道400m。分岐道100m。
 吸収されたあと林道左下の沢沿い田畑の畦道になっている所を身延道は通っていたものと思われる。今は藪になっているが田畑の横を通って水準点のある所に出る。
・水準点
 駿河方面から万沢宿に入る身延道の南端にある。ここより南は藪になっていて道らしくないが、山と平地の境目の田畑の畦道になっていたはずの道である。この狭い藪寸前の舗装されていない小道のはずれになぜ水準点があるのかであるが、水準点は近代初期から主要街道に付けられ出していた。今なら国52号や県道、あるいはせめて自動車の通れる町道に付けられるべきだろうが、ここにあるということは、ここが一番の主要道だったということだろう。つまり近代初期において身延道本道の証拠と考えられる。
・馬頭観音22基一括合祀 
先ほどの林道が県道に合流する寸前、または水準点のある狭い道が見える所に馬頭が22基もまとめて祀られている。近辺に馬頭が見られない意味が分かる。しかし何で又馬頭だけを一括合祀したのか。この場所は明治期の身延道万沢側出口で近世の街道にもつながっているからここに移転したのか。
・万沢の道祖神(南部町万沢)Y-8
 身延道沿い万沢宿手前にあり、甲州に多い丸石道祖神と横に下部を欠いた石道標を祀る。「☞ 右□□ 道□□ 左ハ□□ 安□□」。おそらく身延道、万沢宿、駿州を示していたのだろう。
・万沢の口留番所(南部町万沢)Y-9
 橋を渡ると万沢宿で、目の前にガソリンスタンドがあり、その隣の住宅に説明看板がある。1582年徳川家康が通過している。吉田家が関守を勤め、現在の住宅及びGSも吉田家である。 
・万沢宿場(南部町万沢)Y-10 
 1580年の文書では内房、萬澤、南部の宿を継いで行った。後に内房から宍原に変わった。往時は賑わい、由比からも夜間に人足により魚が届けられるなど物資の集散が頻繁だったと思われる。昭和初期の身延線開通後さびれ、今は商店街というほどでもない半分住宅街になっている景観に宿場の栄枯盛衰を見る。
・広福寺(南部町万沢)Y-11
 山門や石塔(廻国塔、巡拝塔)がある。宿場の道が天神堂の台地にあがる所に位置する。
 県道を横断して身延道を進むと左側壁上に朽ちた石塔がある。もはや何物なのか不明である。
・天神堂遺跡(南部町万沢)Y-12 
 万沢小学校校庭拡張工事中に発見された。周囲は茶畑等の畑地の台地である。先土器時代の遺跡である。
・顕本寺前の五百遠忌碑(南部町万沢)Y-13
 寺の前に立つ。
・顕本寺入口の題目塔(南部町万沢)Y-14
 身延道を北上していくと万沢小を過ぎた辺りで左(西)に立つ。顕本寺参道であることを示し、向こうに寺が見える。この石塔は題目塔とも庚申塔とも見える。
・顕本寺(南部町万沢)Y-15
 お葉付きイチョウ(県指定天然記念物)があり、周囲も含め石塔類が多い。
・七面堂
 顕本寺墓地横で身延道が天神堂の台地から下る地点の付近にあり、石塔がある。古くからこの位置にあるのかは不明。この身延道は舗装され近道歩道として利用されているようだ。
・河内戸の渡船場(南部町万沢)Y-16
 十島との間で渡船していた。今の万栄橋下のようだ。万沢宿から本光寺や富士浅間神社に行く道を通って渡船場に行ったと思われる。万栄橋袂には新しい水神、題目塔、石祠道祖神がある。国52号、万栄橋交差点には石仏(地蔵か如来)1基がある。
・越渡の道祖神(南部町万沢)Y-17
 万沢の台地から身延道をつたって降りていくと県道に出てさらに越渡で国52号と合流する。そこに蓮久寺とその手前に道祖神がある。石祠で「道祖神 至誠如神」。
・蓮久寺(南部町万沢)Y-18
 寺というよりお堂がぽつんとあり、題目塔、五百遠忌碑の石塔がある。
万沢越戸の蓮久寺から西行まではほぼ河原と山すその境目を道が通っていたものと思われる。
 西行集落手前で越渡集落終わり頃の、遠藤宅裏の山際に小さな神社がある。この神社の鳥居の前か後の平坦な幅1.5m余、長さ10mの部分が、古い身延道の残存部と思われる。
・西行の渡船場(南部町万沢)Y-19
 西行峠手前の集落を流れ富士川に注ぐ川がある。この河口付近に渡船場があったと推定したい。現在、日本軽金属富士川第二堰堤となっている、その少し下流の堤防が2つに切れている辺りだろうが、推定できる物証はない。
・西行集落の石塔、西行峠への上り口
 西行の集落や畑地の中を身延道は通ると思われる。きっと山際の高い所を通っていたのだろう。西行公民館の北の畑に割れた石の道祖神らしきがある。次の角に石祠道祖神がある。この角を西に曲がり数軒行くと、五百五十回遠忌碑があり、上におと、かつて西行峠に安置されていたという西行地蔵?が祠に安置されている。
 ここから近代初期の甲駿街道ルートとしては、川向こうの遠藤秀雄氏宅に向かい、そこから斜面に取り付き、斜めに西行峠に上ったと思われる。
 また近世の西行峠上り口は、川向こうの遠藤氏宅に向かわず、もう150m直進して道が4つに分岐する所を右(北)の西行峠の山に向かう道を進む。山際に近付くと切通し道の廃道になる。右に墓地とやや新しいような石塔「奉参詣壱千ヶ寺供養塔 乃至法界 平等利益」がある。この上に西行峠や増野に上る自動車道が通っているようだが、草木が繁り視界不良である。
 西行集落には古めかしい墓地が多く、それを見るだけでも一見の価値はあるかもしれない。
・西行坂(南部町万沢)Y-20
 現在西行峠(坂)には車でも上れる道があり、西行集落からの旧道を破壊している。峠には石塔や石仏があり、他にも現代の石碑群がある。「盆中の富士」といって二つの山に挟まれた中に富士がある景色が絶景だそうである。伝説では西行が来たことになっているが、史実ではないようである。現在峠は公園で児童遊具や茶室用建物がある。
・西行峠の甲駿街道
 甲駿街道下山口が目の前にあるが、これは近世末ないし近代初期の道で山と河原の境目を行く近代の道につながっていく。道幅一間(1.8m)で坂がきつくなく作られている。国土地理院2万5千分の1地形図では、下ると国52号の歩道に出ることになっているが、現実は違っているようだ。道は最初のうち、標高差20mほど下っていくが、あとは等高線に沿い水平移動していく。200mも進むと一旦沢で道が崩落しているところに出る。すぐ下を通行して上に戻れるので怖くはない。ただその下の方を見るともう1本山道らしきが見えるので、地形図の下に下りきる経路はこれかなと思えるが不明。はっきり見える先ほどの続きの道(甲駿街道)をさらに進むと、斜面崩落防止用のネットに石が詰まっている所を通る。ここだけ道ではないが、まあ通れるので大丈夫である。また道になり狭いところもあるが平坦である。そのうち道幅だけでなく周囲も平坦な所が目立ち、かつて畑地かと思われるところを通ると、石垣がある所も通過する。そして不意に切久保の大曲のカーブ上に出る。増野から下って来た自動車道が切久保手前で大きく曲がる所に、甲駿街道は出る。もう1つ下のカーブには「右ハ山道 □□□□」の石道標がある所である。真下に切久保集落が見える。距離1km。
 この道は時期によって草だらけの廃道になることがあるが、09年12月には草刈がしっかり行われていた。また電線がずっと通っているので、それを目印に迷うことはない。
・増野の身延道、道祖神石祠、常夜燈(南部町増野)
 甲駿街道より古い身延道は、西行峠の茶室建物裏の高い所の左(南)側に狭い山道が延びている。アップダウンはあまりなくほぼ平行移動し増野の畑地や集落に出られる。この集落や畑地より低い所に西行峠上り口から延びる自動車道(林道)が通っていて、増野集落入口辺りに道祖神石祠と常夜燈が祀られている。おそらく移転してここにあるのだろう。現在自動車道で増野と切久保境の鞍部(峠、乗越、コル)を越えられるが、古い身延道は集落上端を通り七面神社上方も通り鞍部に到達したと思われる。
・切久保の身延道、石塔類(南部町切久保)
増野との境の鞍部から切久保一軒目の家に向かい下っていくコンクリート舗装された幅1間の道があり、身延道と推定される。切久保一軒目の家前で先ほどの自動車道といったん重なるが、この後も二つの道は付かず離れず切久保集落に下りきっていく。
・石道標(南部町切久保)
先ほどの自動車道を下っていくと、左道端に石道標がある。その背後上に古い切通しの道がついている。「右ハ山道 □□□□」、剥落であとは読めない。古い切通しの道を上ると150mで茶畑と佐野氏のお宅前に出る。
・石仏(南部町切久保)
 自動車道を下りきる手前右に3基ある。無論移転合祀であろう。「明治三十二季 馬頭観世音 十月大吉□□□」。地蔵:刻字不明。「明治四十二年 馬頭観世音 十月日」
 切久保集落に下りきる大きいカーブの尾根先端から増野方向に身延道はついていたようだ。地元老婆が大きいカーブの尾根先端が西行峠からの道だといっていた。さて切久保集落からどうやって身延道は北上するかといえば、切久保集落から東の国52号に出る所、北の丘に上る登山道がある。すぐに幅1m程の道になり丘上に出る。ここに石塔物がある。ただし昔から国52号に面した河原沿いから古い道が上っていくのは水難を考えると妙なので近世末から近代初期の甲駿街道ルートと思われる。ではもっと古い道はというと、国52号に出るのと反対に丘すそを左に進み墓石のある辺りから竹林を上ったと推定される。竹林周辺は畑地だったのか平坦な段々になっていて道は不明である。 
・丸石道祖神、常夜燈(南部町切久保)
「道祖神 安政三 □□□正月吉日」。「献燈 切久保中 南正大吉日 □永二丙辰」。丘に上りきった所の守り神と目印になる。さらに前方に進むと天白神社前で自動車道に重なる。
・天白神社、切久保から向島への身延道(南部町切久保)
 ちょうど切久保の丘上の真ん中で、ここから向島に向かって身延道は下っていくので目印や休憩場所になっただろう。自動車道は山の上に向かいカーブして上っていくが、古い身延道は竹林の斜面下を覗き込むと幅1mの踏み跡を見出せる。隣には墓石群もあった。どうも墓石を回り込むようにかつて道はついていたようだ。踏み跡を歩くとすぐ幅1間の道であることが分かる。石ころだらけだがかつては大八車も通れる緩やかな道だったろう。下りきる手前に首のない馬頭観音らしきがある。向島の手塚氏宅前で坂を降り切り自動車道に合流する。自動車道を進み上福士川橋に達する。左手前に地区集会所があり、祠が祀られている。渡り切った右に石塔がある。
 話を一旦切久保の丘上の天白神社前に戻す。ここから身延道本道とは違うが、自動車道で、町屋方向に架かる福士川橋に向かい尾根を下る道があり、その尾根伝いに降りる古い切通し道が残存している。福士川橋手前まで降りて左折し向島を目指すと、1軒目の家の手前右に馬頭観音が祀られている。ここから先は切久保天白神社からの身延道に合流し、上福士川橋に至る。
・石塔「橋供養 郷中 元治元年」(南部町町屋)
 昔から上福士川橋辺りが渡河地点で橋が架かっていたと思われる。祠や石塔があるということは渡河するのも大変だったのだろう。道をまっすぐ進み県道に出る。ここから右折してもよいが、少し左に折れながら山際の旧道らしきに出て右折するのがベストだろう。また県道に出てかつての内田氏宅跡の所を左折し斜面を上っていく。ちなみに内田氏宅跡には天使像等があり目立つので目印になる。この方はアーティストだったのだろうか。(09年12月)すぐ目の前に石塔3基が見える。
・石塔、町屋から峰への身延道(南部町町屋)
石塔、馬頭観音、「大念佛院」がある。もともとここにあるのかは不明だが、この付近のものだろう。この道は今自動車で上れるように改良されているが、かつての身延道である。途中で歩いて上れる身延道が自動車道の上についているので、そちらに上るとすぐ、丘の上で道祖神や馬頭観音が出迎えてくれる。
・道祖神、馬頭観音、4基(南部町峰)
身延道をたどり、町屋の上の峰という集落入口に着くとある。坂の上と下にそれぞれ石造物があり、古い名残を残している。このまま峯集落を道なりに直進していく。集落中央辺りの三叉路で石造物がある。
・道祖神、常夜燈、峰から弘円寺への身延道(南部町峰)
集落中心部で守り神の役と三叉路の道標とを併せ持つのだろう。ただし昔からこの位置なのかは不明。さらに道なりに進むと戦前の兵士の墓となんだか分からない崩れかかった石塔がある。ここで古い身延道はこの墓や石塔裏の家(坂本氏宅、東峰建設、望月氏宅)の裏に細い道を残している。途中石段にもなり約100mで赤い鉄橋を渡り弘円寺門前になる。
・峰のお堂や石塔類等の石造物群(南部町峰)
一旦弘円寺から話を、町屋の内田氏宅跡や「大念佛院」の石塔前の自動車道に戻す。この自動車道を上っていき丘を上りきり、眼下に町屋の福寿院や墓地が見え高圧鉄塔を過ぎた辺りに、お堂と6基の供養塔がある。ここを過ぎなお直進すると峰集落中央辺りで、峰公民館隣にお堂と3基の常夜燈がある。さらに直進すると先ほどの戦前の兵士の墓と崩れかかった石塔がある所に出る。これで弘円寺門前に話を戻す。
・最恩寺(南部町福士)Y-21
 *街道から離れているので未調査。
 村内最古の寺院で文化財もある名刹。
・弘円寺(南部町福士)Y-22
 弘円寺は江戸期中期建立で日蓮宗である。門前まで来た身延道は坂を下り山すそに沿って北上したようだが、今は道がない。おそらく今の川沿い付近を進んだと思われる。一旦下りきって石碑群前を通る。
・弘円寺入口の石碑群(南部町福士)Y-23
 参道入口に並ぶさまは圧巻である。かつて栄えた寺院であることが分かる。題目塔、遠忌碑等多数。参道を出て町道を北上しすぐ左折し左の山際の一番手前の家を目指す。この家の前の道が身延道と思われる。北上しT字路に当たると右に丸石道祖神がある。
・平の道祖神(一)(南部町福士)Y-24
 村の守り神兼道標の役割があったのだろう。ここで一旦左折しすぐ又右折し北上する。
・平の道祖神(二)(南部町福士)Y-25
 集会所の手前十字路脇に甲州に多い丸石道祖神がある。四角い台座石の上に丸石を置く形は駿河ではまったく見られないので珍しいが、甲州では数多く当たり前の光景である。
・平の道祖神(三)(南部町福士)Y-26
 石祠がない。付近には木造の祠らしきと、少し離れた所に真新しい双体道祖神が祀られている。どうも双体道祖神に付け直すことが流行しているようだ。
・八幡一宮諏訪神社(南部町福士)
 天然記念物の樹木もある神社。
・失物地蔵usemono(南部町福士)Y-27
 先の神社を90m過ぎた街道左手(西)の一段高い山斜面上の藪の中にあり、見つけにくい。別の板碑も近くにあるので、それがヒントになる。六地蔵幢touで失ったものが願を掛けると戻ってくるといわれての名だが、付近の人でも謂れは知られていず、失物地蔵と言っても通じず、六面地蔵または六面幢で通じる。この地蔵の横を山に上っていく古い切通し道があり、かつて真篠や近くの寺院の修善寺へ行く道と思われるので、身延道と真篠道の分岐にあったといえる。
 なお09年12月下旬、すぐ近所の望月氏とも探したが、台座があったとおぼしき地点に崩れていない平らなへこみを見つけたので最近まであったはずだが、そのとき現物は存在しなかった。周辺の藪が刈り払われていたし、誰かが盗難したとも思えないので、修理か安置し直すために一旦取り払ったものと推測する。また再安置されることを願う。
・身延道についての一考察
 10年前、この付近で野良仕事をしている老婆に話を聞くと、かつての身延道は今の山際と田畑の間の道より一段高い所を通っていたそうだ。だからその又一段上の見つけにくい所に失物地蔵があるわけだ。昔の道からなら見つけやすい位置だが、一段低くなった今の道からは見つけにくいのだ。今自動車道になっている山際の道はかつて田畑だったのだ。そして平野部は富士川まで一面家もない田畑や河原が続いていたそうだ。
 今の道より一段高い所を身延道が通っていたり、町屋を通らず峰の高い所や、西行峠から増野、切久保の高い所をわざわざ通すように、富士川や支流の氾濫原である平地を通れなかった証拠である。富士川の水量は昔に比べれば格段に少ないはずで、支流も含め数多くの砂防ダムや堤防建設により水量ごと押さえ込んでの今の川の姿であり、昔はこんなものではない怒れば恐ろしい日本三大急流の富士川だったのだ。
失物地蔵から200m北上すると川を渡り東海自然歩道の標識がある。その標識に従い北西に上っていくと、真篠集落に出る。自然歩道は南に進むが、身延道は北に上り地区集会所になっている、かつての栄樹庵の裏に進むが、今は裏から通れないので表を通って墓地横から古い身延道に入る。目の前の山はかつての山城、真篠砦である。身延道は城のすぐ下を通ったというより、道のすぐ上に監視のためもある城を築いたというべきか。ここで真篠砦を説明する。
・真篠砦
 16世紀中期に武田信玄の命により作られた。原大隈守が城を守った。甲斐駿河国境に近く直下を身延道が通るなど守備の必要性のある城だったと思われる。現在本丸等の曲輪や土塁、阻障(幾筋も溝を掘り敵が通りにくくする)がかなり残り、文化財として貴重と思われるが、城の出入り口のみ標識があるだけで、素人ではどこをどう歩いていいかも分からない状態で、ルート設定や標識設置が望まれる。本丸跡には2つの石祠道祖神がある。また身延道の上に阻障がある。
・真篠から原戸の身延道
 真篠地区集会所の栄樹庵の裏に石塔類がある。石塔類の裏の山林と寺の境目がかつての身延道でもっと道幅が広かった(1間=1.8m)と思われる。墓地横から身延道に入る。斜面下に神社の屋根や墓地が見える。竹林と杉檜植林地の中の薄暗い道を進む。斜面上は真篠砦の阻障があるなど古い雰囲気がよく残存している。真篠と原戸の境の鞍部に至る。ここまで平坦な幅広の道だった。鞍部には石垣と道祖神(木祠、2基)、常夜燈(「天保六 真篠」、2基)が祀られている。村境の守り神であろう。ここから下り道になり、150m植林地を進む。途中山腹へ平行移動していく道と原戸へ下る身延道が分岐する。ここに横倒しになっている「南無観世音菩薩」の文字塔がある。分岐の目印だろう。ここから50m下り沢の手前で直角カーブする所に土砂や倒れた樹木の根っ子がある。10年前通ったときは、確かここにも石塔があったと思うのだが、数年後及び09年12月に通ったときも見られない。土砂崩れで石塔が埋まったものと思われる。残念。ここから下は石垣の段々が見られ、かつての畑地か住宅跡と思われる。道は部分的にコンクリ修復されていて、今でも使われているようだ。途中3箇所沢を渡るが、水量が少ない時期だからだろうが、沢に付近の石を置けば足を濡らすことなく渡れる。沢の前後が少し道が削れているがというより、繰り返し修繕してきたからだろうが、おおむね安心して通れる道で、3つ沢を渡ると石垣の段々のある所を過ぎ、車で通れる原戸側の自動車道に出る。09年12月には途中1箇所、コンクリ舗装の下の土砂が削れてオーバーハングし、車進入禁止になっていた。樹木の中を抜けて明るくなると。原戸の集落である。
 それにしてもよく古道が修繕を繰り返しつつもそのまま残存していたものだ。今すぐにでも真篠砦とともに文化遺産として登録してよい道である。
・聴法寺、石塔類、題目塔、常夜燈(南部町楮根原戸)
 原戸集落内を道なりに直進すると、日蓮宗聴法寺門前に至り、古色をよく残した景観である。石塔類豊富で並んでいるさまは壮観で、先ほどまでの真篠から原戸への古い身延道の余韻もあって、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。門前を下った先、集落出入口のガソリンスタンド(GS)裏に、題目塔2基(「文明四」、「明治」)、常夜燈1基(「明治十四」)もある。ここで道を下りきりGS表に出れば国52号であるが、その手前に山際を左の竹之花方向に進む道がある。この道が古道そのものか否かは不明だが、おそらく山際を進んだのは確かだろう。道は左の山際の畑地横を進むものと、右の竹之花に向かう道に分岐する。一旦右の竹之花に向かい橋を渡ると、Y字路に目新しい双体道祖神がある。
・竹之花の道祖神(南部町楮根竹之花)Y-28
 「石祠」とテキストにはなっているが、石祠は見当たらず、目新しい双体道祖神しかない。「平の道祖神(三)Y-26」で記述したように、双体道祖神化が進んでいるようだ。隣や裏に朽ち果てた古い石も残しておいてほしい。Y字路から先の右は国52号に合流し、左は竹之花の常夜燈の前に出る。
これも古い身延道ルートの一つと思われるが、先ほどの左山際畑地ルートに戻り、歩を進める。今は畑地より一段低い道になっているが、昔は山際の一段高い所を通っていたものと推測する。山際と川が接近する所に橋がある。おそらくもっとも古い古道はこの辺りで渡河したものと思われる。渡河した後、右折し先ほどの常夜燈の前に進む。
・常夜燈(南部町楮根竹之花)
 常夜燈は道標になっていたと思われ、常夜燈の裏に人一人しか通れない狭い歩道がある。おそらく身延道と思われる。楮根川を歩道の橋で渡り、畑を抜けて正行寺参道に出て、国52号との交差点の「正行寺入口の石造物群Y-29」に出てもよいが、おそらく畑を出て一旦左折し2軒先を右折するのが、まだ古道に近いと思われる。このまま直進できないが道なりに進むと、道がカギの手のように曲がる所に、丸石道祖神なのか、家の門の飾りの丸石なのかが祀られている。カギの手を曲がると国52号に合流する。しばらくして左の志村氏宅前を通るのが古道らしいと思うが、今道はない。大和峠まで国52号を通る。左右に近代の旧道の一部が残存している。
・正行寺入口の石造物群(南部町楮根竹之花)Y-29
 「五百五十遠忌碑」が見当たらない。
 題目塔と石祠がある。
・大和峠の身替地蔵(南部町大和字廻沢)Y-30
 国52号線の峠最高地点南脇に祀られている。他に供養塔2基もある。背後に上ると、石垣が幾重にもあり、かつては畑地や住宅の跡と推定される。また少し52号を下ると南脇のコンクリート側壁の向こうに近世の坂道らしき跡が数十m見える。
・大和峠の道標(南部町大和字池の久保)Y-31
 国52号大和峠を過ぎると右に大和川の谷があり、右に下る自動車道がある。これが身延道かというと、この周囲に家はないが、国52号に戻りもう1本先の右(北)に入る道の周囲は家があるので、こちらが古い道と思われる。「ゼンリン住宅地図93年版」では、はじめの右に下る道の記入がないのも証拠である。ただし「大和峠の道標Y -31」は新しい自動車道沿いに立てられている。おそらく移転したのだろう。題目塔で台石に「大和峠」と書かれているそうだが、よく分からない。ここは新しい自動車道だが、この先30mで古い身延道の自動車道に合流する。
・大和の道祖神(南部町大和字清水沢)Y -32
 さらに200m下ると左に石塔類がある。石祠、自然石の碑2基、常夜燈、丸石、力石が祀られている。内容からして移転合祀されたものだろう。(79年)テキストでは道路改良工事の際約1m 移動したとある。
 もう100m下ると人家の向こうの丘上に熊野神社が見える。ただ身延道に直接面しているわけではないので省く。さらに200m進むと左に鳥居が見え駒形神社がある。
・駒形神社(南部町大和字上ノ田)Y -33 テキストでは大和・塩沢両村の鎮守で大社だったという。町指定文化財。
 180m進むと塩沢川に至り橋があるが、30m右(東)向こうにも橋がある。古い身延道に沿うつもりなら右の狭い橋を渡り、直進していく。120mで広い今の県道(南部宿場前に至る近代の身延道、ちなみに南部宿から離れて通る国52号は現代の身延道といえる)の五差路に出て右に警察署がある。右折して広い県道を行くのも近代の身延道としてよいし、近世の身延道を通るなら右から2番目の狭い道を直進してもよい。狭い古い身延道の名残の道を行っても戸栗川橋手前で広い県道に出る。この狭い道沿いに遺物は見当たらないが、古めかしさの残るレトロな道だ。県道沿いも昭和の雰囲気の残る道であり、山梨県には近世身延道以外にも明治・大正・昭和の雰囲気の味わえる道が多く残っている。おそらく今後その手のマニアによって再発見されていくことだろう。街道見学愛好者にとっては将来有望な地域だ。
・戸栗川の渡し(南部町南部字町裏・南田)Y -34
 かつては渡船したが、その名残はない。左丘上に神社がある。
・内船八幡神社(南部町内船字船戸)Y -35
 *街道から離れているので未調査。
 地域を代表する古くからの神社。
・内船寺(南部町内船字寺廻り)Y -36
 *街道から離れているので未調査。
 13世紀建立の古寺で名刹。
・南部宿(南部町南部字西町)Y -37
 橋を渡ると、南部宿である。武田信玄在世中にすでにあったことが分かっていて、中世には存在したと見られる。近世の宿場を残す物は表通りには見当たらない。ちょいと古めかしい昭和の田舎町商店街という雰囲気である。宿場の県道メインストリートは近世末にはこの道だったのだろうが、中世には1本西の狭い道が街道と推定され、古い遺物もそこに多い。
・諏訪神社(南部町南部字追平)Y -38
 甲斐源氏の祖新羅三郎義光が1095年に創建した。
・浄光寺(南部町南部字上の山)Y -39
 臨済宗。中腹から境内に移転した南部氏一族の五輪塔、宝篋印塔の墓石がある。
・南部宿文書(南部町南部字外田、朝夷一郎氏蔵)Y -40
 朝夷氏蔵、中世末の南部宿に関する文書。武田信玄や穴山氏等の文書である。
・南部横宿の道祖神(南部町南部字西町)Y -41
 妙浄寺と宿場町をつなぐ道と中世の道の交差点付近にある。隣にあったはずの力石はなかった。今でもドンド焼きの時お祀りするそうだ。
・妙浄寺(南部町南部字北沢)Y -42
 今は日蓮宗でかつては真言宗、新羅三郎義光の創立。境内には「花釣瓶井」という伝説の井戸があり、日蓮がこの井戸水で村人の病を直したといわれる。他にも題目塔等がある。
参道を降りて「南部横宿の道祖神Y -41」に至る直前の中世の道沿いに3基の大きな供養塔(四百五十回遠忌碑、五百五十回遠忌碑、題目塔)がある。
・南部城山(南部町南部字北沢)Y -43
 山頂近辺に続く尾根沿いには人為的に削られた段がいくつか見られるので郭跡と見られる。上り始める所だけは道があるが、標識やルート表示はないし、山頂付近で道もなく、踏み跡をたどることになる。初心者ではさっぱり分からないだろう。
・城山烽火台跡(南部町南部字北沢)Y -44
城山頂上の窪地で付近には土堤や川原石があり、南に倉跡の窪地もあるといわれるが、分からなかった。頂上近辺は道も分からず完全な植林地になっている。保存活用するなら標識やルート表示が必要である。といって自治体に予算があるとも思えないので、南部町の郷土史愛好家が町内の歴史遺産に標識や案内表示を設置したらいかがだろうか。
頂上付近に馬頭観音「安政五年」があった。
・新羅神社(南部町南部字北沢)Y -45
 12世紀末南部三郎光行の創立、新羅三郎源義光を祀る。
・南部氏館趾(南部町南部字老瀬)Y-46
 法務局の裏で市川氏宅に「空井戸跡」と南部氏の説明看板がある。ここを中心に館があったようだ。北は富士川がぶつかる崖で東も川となり、南は一段低く南部宿が広がり、西は身延道が通り、その向こうに南部城山がそびえる。館跡は北の崖上の一段高い微高地にあり水害、防備にとって有利と思われる。南部氏といえば後岩手県に南部藩を築いたように大部分は東北に移住したが、一族の一部は残していったようだ。しかしこの館がいつまで使われたか不明らしい。付近北崖沿いに、石祠道祖神、題目塔、道祖神があり、東の堤防に「富士川舟運」説明版がある。法務局前・南部バス停のある宿場メインストリートに戻り、180m北上すると、中世の道とも合流する。ここが南部宿北端である。100m北上すると南部町医療センターがあり、付近は河川敷になり、こんな所を古道は通らないだろうと思える。テキスト付属マップでは今の河川敷自動車道よりもっと右の川に近い河川敷コースと左の山際コースの2本の道があったことを示唆している。しかしこんな河川敷をよく通れたものだと思っていると証拠のように安倍紙業入口に船寄せの松説明版がある。
・円蔵院の船寄せの松(南部町南部字御崎原)Y-47
 写真付説明版によると推定年齢500年の黒松の巨木で県指定天然記念物だったが、マツクイムシ被害により85年伐採された。謂れは2説あり、富士川舟運の舟が松を見ようと寄ったためとも、大水のときこの松に舟を寄せつないだためともいう。写真で見ると見事にしだれた松で周囲の木の2倍はあることが分かる。すぐ隣に2代目らしい小さな松が植えられている。どうもこの松周辺を通れたようだ。50m北上すると稲荷神社に上る石段が見え、左に自然石を祀りいかにも参道入口という趣の道がある。この道を上ると、円蔵院がある。
・円蔵院(南部町南部字御崎原)Y -48
 臨済宗で16世紀中ごろ穴山信友草創による。穴山信友の墓、仏涅槃図や信友画像の県指定文化財がある。境内前の石造物:石祠道祖神、石幢、供養塔、石灯籠、石仏等あり。
・円蔵院から中野の身延道(南部町南部字御崎原、中野)
 付属地図ではこの辺りで河川敷を北上し中野の「峡南養護老人ホーム慈生園」の東に出るように記入されている。河川敷を歩いたのだろうか。(中野の屋号「六本松」の若尾正氏の話)「慈生園の南東に下る古い道があり、渡船場につながっていた。母か祖母は渡船してその道を上がって嫁に来たと言っていた。また今はないが山道もあったようだ。」そこでこれは渡船によるルートと考えられる。ではどの辺で乗船したのだろうか。船寄せの松より北で船山川橋までの間だろうか。そして中野側の乗船場は慈生園南東下の砂利採取場付近であろう。
 では山道はどこを通ったのだろうか。もう私の勝手な憶測だが、円蔵院の西に下り今の御崎橋付近またはもっと上流の向田橋までに川を渡り、本郷か若宮を北上し清水原か慈眼寺辺りを上って中野に出たのだろうか。
・穴山信懸の墓(南部町南部字御崎原)Y-49
 *街道から離れているので未調査。
 信懸は梅雪の曽祖父で、墓は廃寺建忠寺北裏手山腹となっている。地図からすると若宮の若宮八幡宮参道付近のようだ。山道ルートならこの辺りを通ったかもしれない。
・六本松の一里塚(南部町中野字六本松)Y -50
 渡船で中野に着き幅1間の身延道を岡に上ると今の慈生園の駐車場に出る。そこから北上する道は慈生園横を舗装された自動車道となる。この道の慈生園反対側に畑と慈生園で建立した目新しい供養塔さらに古めかしい墓石が見える。(中野の屋号「六本松」の若尾正氏の話)「昭和17年、船の材料にするとのことで畑と慈生園供養塔の中間にあった松を伐採した。」とのことで、この慈生園供養塔付近を六本松の一里塚としていいようだ。そしてこの裏に墓石が多数あり、その向こうにも2箇所、計3箇所に墓石がまとまっている。テキストでは馬頭観音等石造物11基とされているが、馬頭らしきは判断つかず、どれも墓石に見える。新しい物で江戸後期か中期で、中には宝篋印塔や五輪塔といった中世末頃の壊れかかった物もある。松は1株で6幹に分かれていて六本松と称された。ここから甲駿の両府へ各14里、鰍沢・岩淵へ各9里で中央なので中野という村名になったのだろうといわれている。
 この場所は付属地図では若干ずれている。付属地図はずれや誤りがそれなりにあり参考にはなるが、ある程度のずれを修正しつつ判断する必要がある。この地図編集は誤りを覚悟の上で79年時点で分かる範囲内で推定した、その時点での最新推定研究の所産といえる。そしてこの地図があることでかなり具体的に現地を探ることを容易にした功績は大きい。ただし今となっては作り直したほうがいいとも言える。
中野で数人に聞き若尾氏にたどり着けたことがよかった。
 さてここから北上し150mで若尾氏宅前で中野のメインストリートに出る。100m進むと橋を渡り、右に地区集会所があり、石祠道祖神がある。さらにその先に水準点題目塔群が安置されている。(中野の屋号「六本松」の若尾正氏の話)では「あの題目塔は六本松から運んだものだと父か祖父にいわれた。」そうである。中野宿の家並みを過ぎ国52号に合流する手前左に馬頭観音「文化十四年」がある。
・中野の道祖神(南部町中野字根岸入)Y -51
 かつては中野宿中央の街道沿いにあったそうだが、今は中野神社の参道階段入口左にある。丸石(径15cm)と石棒(高70cm、幅25cm)がある。
・松岳院(南部町中野字宮内)Y -52
 臨済宗。穴山氏の乙若丸の開基で、夭折したので冥福の為創立したという。五輪塔がある。
 中野を出た身延道は、峰の窪付近を通り、国52号と付かず離れずにやや山上を通って横根中に至ったと思われる。
・桜清水(身延町横根中)Y -53
 横根中には、今は国52号から上る自動車道で行くことになる。峰の窪方向から自動車で上っていく道沿いで国52号の真上に神社(石灯籠2基、石祠道祖神、堂)がある。その神社付近に自動車道の切通しで寸断される、かつて歩いて上った切通し道が集落に向かって上っていく。自動車道を1本またいだ上に馬頭観音がある。ちょうど村の入口だからだろう。
・横根中の石塔
 南無馬頭観世音菩薩、12基(「文政十幸」、昭和期の物が多い)、「畜産 昭和十二年」1基、計13基が合祀されている。
 もう少し上に50m上ると石祠道祖神「大正八年」があり、ここから自動車道に向かって合流し、舗装路を100m歩けば、桜清水に着く。
 桜清水は、日蓮宗実教寺門前にある。日蓮伝説:日蓮が身延へ入山する際ここで休憩し泉の水を飲んだ後、桜の杖を立てたら桜の木になったという。何代目かの桜の木はすでに枯れたようで幹だけが残っている。泉は井戸になっていて、後はお堂がある。横は実教寺参道で題目塔が幾つか立ち見事な景観を作っている。実教寺にも題目塔がある。
 桜清水の標識は文字が消えていて、ここが桜清水か地元の人に確認するしかなかった。説明版がほしい。道の反対側には清水家屋敷跡という石碑がある。ここが身延道であろう。すぐ見える所に次の物Y -54がある。
・横根の道祖神(身延町横根中)Y -54
 桜清水の近くにある。この辺りが村中心部のようである。石祠で眺めの良い所に祀られている。後に江戸中期から後期の墓石2基も祀られている。
 この桜清水付近から榧の木峠を目指す、かつての身延道があったと推定されるが、現状は不明。
・榧の木kayanokiトンネル付近の馬頭観音
 国52号榧の木トンネル手前左に旧道トンネル入口及び谷津・清子方面に行く道がある。馬頭観音がある。この馬頭観音は一時ピンクの塗料を全身に塗られ完全にピンクの塊と化していたが、やっと馬頭観音の姿を見せるようになった。この道は近代以後の道なので、山腹にあった近世身延道から馬頭は下ろされたのだろう。ここから山の斜面を眺めると、切り立った沢が見えるなど、昔この山腹を通っていたと思われる身延道は崩壊しているかもとは思われる。舗装路を500m進むと道より一段高い所に馬頭観音2基が祀られている。ここからも相又坂本に行く榧の木峠を通れる道があったはずで、竹藪をかいくぐれば榧の木峠の身延道に合流する。竹藪の道は近代の道かと思われる。合流地点では横根中方面に向かう古い近世身延道と相又坂本へ行く近世身延道に分かれている。相又坂本を目指すと鞍部に題目塔がある。
・榧の木峠から横根中(桜清水)へ行く近世身延道
 順序は逆になるが、ここから横根中(桜清水)方向へ山道(おそらく近世身延道の成れの果て)を通った説明をする。先ほど説明したように、題目塔のある榧の木峠から東に進むと、亀久保方向へ下山する竹藪だらけの電線巡視路と、山の標高に合わせ水平に横根中(桜清水)方向へ進む道に分岐する。その横根中への山道を通る。最初道幅は1m近くあり、上り下りはなく、およそ水平移動していく。1箇所、木橋が通されていて林業用作業道として使われているようだ。長さ5mほど道が崩壊している箇所があったが、すぐ下を通って向こうに渡れる。分岐点から500m進むと,真下30~50mに亀久保・清子に行く舗装道路が見える。もう少しでトンネル入口付近だろう。この辺りで斜面はきつくなり、杉檜の植林地はガレてきて、道もおぼつかなくなる。ところどころ道幅はあるが、崩れがひどくなってくる。歩きづらく立ち行かなくなるので、致し方ないので、来た道を引き返さざるをえない。
 榧の木トンネル付近に近付くと、地形図を見ると分かるが、等高線間隔がつまり、きつい斜面であることが分かるし、トンネル付近の舗装路から、上の斜面を見上げると、切り立った沢も見えて、この辺りで古い身延道は崩壊しきっているものと推測される。
・榧の木峠(身延町横根中となっているが、相又坂本だろう)Y -55
 ここから榧の木峠を説明する。テキストでは横根中とされているが、相又坂本から300mの距離で、相又坂本とすべきだろう。峠には題目塔がある。さらに北の尾根に向かう山道もついているが、どこまであるかは知らない。峠近辺は平坦な段々が多く、かつて畑地だったのかと思われるが、今は荒れて淋しい杉檜植林地だ。近くには高圧鉄塔もある。
 題目塔「南無妙法蓮華経 道長山唯勝寺 元禄十一年戌寅六月十三日 谷口□□□□ 當寺三代正学律師日性」。
 峠を北西に300m下ると、相又坂本集落に出る。10年前の方がまだ道はきれいだったが、今はさらに荒れている。
・カヤノキ(身延町横根中)Y-56
 幅1.2mの峠道を下ると坂本入口前で動物除けネットと入口があるので自分で開け閉めして入る。題目塔のある下りだす所から300mで坂本の集落に出る。集落1軒目の家の手前の石塔類がある所に二代目の榧の木とやらがある。日蓮伝説で日蓮が杖を刺したら木になったということらしい。榧の木の付近に石祠道祖神、石塔類もある。  
・相又坂本の道祖神(身延町相又)Y-57
 集落1軒目の家の前の道が身延道で集落内を通り過ぎ、集落はずれで下の自動車道に出る所にY-57がある。石祠と石灯籠「天保十二年」がある。坂本北端の守り神のようだ。自動車道を少し進むと左に下って行く道があり、横に石塔が祀られている。しかしこの石塔は、形からして江戸後期の墓石である。何かの供養塔なのか、墓なのか刻字が読めない。そしてこの道は相又川に到達すると、そこで不自然に断ち切られている。つまりかつて橋があったが、今はないということで、明らかに古い身延道のルートを示している。この辺りで渡河し対岸の上村に出て相又上に進み、そこからまた相又川を渡り相又下の正慶寺前に進む。
・正慶寺(身延町相又)Y-58
 1290年創立で、日蓮入部の際、ここで粟飯を供したという伝説があり、粟飯寺ともいう。石造物豊富で門前の題目塔、宗祖腰掛石、石祠、寺横の石塔類群多数がある。伝説があるのなら周知を図り寺の宣伝も兼ね、伝説内容や寺の縁起を記した説明版を立てたらどうでしょうか。寺の前に橋があり渡る。昔もこの辺りで身延道は渡河したようだ。国52号を500m北上すると身延南小学校前に至り、そこを左折(西)し自動車道で次のY-59に至る。ただ昔の道は小学校裏山際を回り山際集落を通り川際のY-59に出たようだ。
・相又針山の道祖神(身延町相又)Y-59
 石祠「天明五癸巳」で、これから渡河することと村西端の守り神だったようだ。今は大城川を橋を渡って対岸へ出る。右折(東)し100mで左田畑に数段の石垣が見られ、ちょうど道の高さに水平に山際を進む石垣段も見られる。これが古い身延道である。
・小田の道祖神(身延町小田船原)Y-60
 石垣段を見つつ自動車道を進むと一段高い石垣上に石祠が祀られている。橋を渡り対岸の小田村の入口を示す守り神だろう。石祠前の身延道は石垣で囲まれ幅90cm程である。もとはもっと広かったのだろうが、隣に自動車道になる広い道が作られ、身延道の方は田畑の畦道として幅を縮小されたのだろう。それにしても破壊されずよく残存しているものだ。さらに自動車道に沿い古い身延道を見つつ東進する。自動車道は平地に沿って下っていくが、身延道は等高線に沿って水平移動していくのがよく分かる。身延道は数軒の集落内を通過し、その先の山林内に消えていくが、おそらく山林内に旧道は残存しているものと思われる。
・馬頭観音(身延町小田船原)Y-61
 自動車道で国52号に交差する所(大城入口)の右に高山工業所があり、左向かいは崖となっている。崖の右に階段が付いているので5m上ると幅1mの古い身延道が見え、その一段上に自然石に馬頭観音の文字を彫った物が見える。古い身延道は多分先ほどの山林内に続くと思われる。ここから小田船原方向へは国52号のコンクリート側壁として削られてしまっていて消失している。だがこの馬頭観音前まではよく残存したものだ。
 ここから国52号に出て、古い道はないので小田洞門の左側壁の5m上にかつての道があったはずだと思いながら進む。
・小田の道祖神(身延町小田船原)Y-62
 先ほどの交差点から500m北上すると小田船原の善行寺参道入口が左(西)にある。善行寺は700m参道を上った所にある。国52号より5m高い所に集落の道があり、おそらく先ほどの馬頭観音前の身延道からつながってきていた道の名残だろう。国52号に面した参道入口に石塔類7基が立つ。無論移転合祀されてきたのだろう。
国52号より上に旧道がかつてはあったはずだと思いながら、国52号を400m進むと船原の妙正寺参道前に到達する。
・船原の道祖神(身延町小田船原)Y-63
 参道を100mも上ると妙正寺に出る。この寺前の道が身延道で、善行寺参道の途中からここへ山林内を通ってつながってきたはずである。石塔類が並ぶ。石祠「道祖神」、石灯籠、題目塔「天保、天明、寛政、慶応、元禄」等、多数が並ぶ。左隣(南)の家の前か後の道が身延道として善行寺参道の途中につながっていただろう。この地を一里塚とも呼ぶそうだ。
 北へは国52号へ降りていく道以外に、国52号より一段高い家や畑に進む道があり、身延道であろう。その先は山林となるが、残存部はあるだろう。国52号から身延山への県道?へ進む。この辺りで一段高い家と畑がなくなり左側壁が絶壁となってくるので、その手前で昔の道は今の道の辺りに合流してきたのだろう。この辺りから自動車道はそのまま身延道である。身延山入口交差点で左に身延山惣門が見える。

・鏡円坊(身延町梅平) I-64
*(身延山久遠寺関係の僧坊については、街道研究との関係が薄いと判断し未調査にした。)
・身延山惣門(身延町小田船原)Y-65
 1665年建立で、国52号の左(西)にそびえ、身延に着いたことをじっかんさせる。この内に門前町が形成され、山間部を通って来た者にはまるで別天地の繁華街である。
・Y -66、Y-67、僧坊関係
*(身延山久遠寺関係の僧坊については、街道研究との関係が薄いと判断し未調査にした。)
・南谷の道標(身延町身延)Y-68
道路右手上に祀られる。二つに分割されている。割れたのか。「左かふ福道當国鰍沢□之吉」、他に石塔「地神」もある。かふ福は甲府の意である。
ここは南谷と称されるようで、西谷に至る前に東谷への分岐がある。東谷への分岐道を通るのが、近世身延道の延長で、韮崎や甲府に行く西河内路とも駿洲街道とも甲駿街道ともいわれるものである。先ほどの石道標は東谷分岐に元はあったのだろうか。
・Y-69~Y-92、僧坊関係
*(身延山久遠寺関係の僧坊については、街道研究との関係が薄いと判断し未調査にした。)
・日蓮上人草庵跡(身延町身延) Y-93
 西谷に草庵跡が残っている。1274年から1282年まで草庵で生活した。ここより上には高座石といって日蓮が説法をした岩が残っている。
・身延山久遠寺(身延町身延) Y-94
 日蓮宗総本山、1274年、日蓮が西谷に草庵を造ったのが始まりという。1475年に現在地に寺院が完成したという。江戸時代に参詣で賑わった。幾度も火災に遭っているが、再建され、文化財も多い。

 いったん身延山に着いたがその先を補足したい。しかし2000年か01年に甲府市の山梨県教委を訪ね、テキストの全面コピーを許可してもらい、山梨県立図書館でコピーしたものを自宅内で再発見できずにいるので、今のところどうしようもない。いったんしまいこむともう二度と出せないのはよくある話だが、今回のように困ってしまう。こういう文章打ち込むだけでも一苦労で保管資料の整理をまったくする余裕がない。そこで思い出せる範囲でチョコチョコと…。内容は確証もてません。今後再調査できたら書き直しますが、ちょっと再調査する余裕があるやらないやらで…。
・東谷から一里松、杉山を経て下山手前で国52号に合流する身延道
 東谷へ分岐しても商店街は続き、その次に僧坊が列を成す。本堂近道や身延山大学への道をやり過ごしさらに僧坊を過ぎていくと、田舎道となるというか、ここまでもかなり急勾配七曲の坂道である。今の自動車道は七曲に作るが、徒歩や馬を前提にして作られた古い道はこの付近のどこかに残存しているのだろう。おそらく僧坊の境界線や僧坊同士の連絡道になっているだろう。
 僧坊が切れてきた頃、また僧坊があるのだが、身延道の目印になるものなので紹介する。「清正公堂」、町指定文化財。文化年間に作られた物を、文政年間に再建した物である。
 一里松には、かつて数本の大松がそびえていたという。
 杉山には、「姥子の石造物群」があり、五百五十遠忌碑「天保二年」等の石造物多数がある。近くに日蓮が湧き出させたという伝説の泉が大杉の根元にあり、休憩場所だったようである。
 「産児神さんごじ」といって、安産を祈願して柄杓の底をぬいて奉納する風習があり、付近の祠に祀られている。
 他にも古道、遺物、いくつも見られたと思う。そして国52号に合流するのだが、近世や中世の道もここにいたっていたかは分からない。ただ近代初期の甲駿街道はここだったろう。また合流地点のすぐ東の川側に境宮住吉神社があるのでこの辺りは水難に遭いにくい地点だったのだろう。そして合流する所に駿洲街道の記念石碑が立つ。

  


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2010年01月17日

御穂神社参道(静岡市清水区三保半島)

・御穂神社参道(静岡市清水区三保半島)
 塚間の渡し(塚間郵便局西北西500m)に建て直された石鳥居と常夜灯がある。史蹟紹介看板もあり分かりやすい。ここから東へ旧道を通って御穂神社に至るのが参詣道である。東方面から来る人は興津辺りで船で渡ったのだ。
 西から来る人はというと、駒越の久能道を「二十三夜観音」の所で曲がり、駒越小、キリスト教会を通り京宝院前で今の国道150号線を渡り、今の県道三保街道ではなく、狭い旧道で「瀬織戸神社」前に出る。
その直前に「折戸の渡し跡」の看板が出ている。昔船で渡る三保への西の入り口だったのだ。ここから道なりに2.5kmで御穂神社である。「瀬織戸神社」はやや小高い所にあり、どの程度の津波を防げたのだろうか。古い石造物「供養等」がある。年号は摩滅して判読不能。全体の様子から江戸末期の物ではなかろうか。この近辺で見られる石造物の中では古いものだろう。
というか三保半島には古い石造物、木造物がさして見当たらない。御穂神社の東方面、宮方の微高地に縄文遺跡があり、古くから微高地に人が住んでいたことは証明されるが、付近の神社仏閣で江戸期の物すらあまりない。
 「瀬織戸神社」をあとにして旧道を御穂神社へ、周辺は少しレトロな昭和の風景だ。旧道から話がそれるが、清水南高周辺に神社の祠跡や松並木沿いに目印になるいくつかの「○本松の跡」がある。御穂神社500m 手前で旧道が二手に分かれる。そこに「里程標」があり、御穂神社を指し示している。
 御穂神社にもさして古い物が見当たらない。「御穂神社」で見つけた古い物としては、門前の常夜燈で「天保七年」1836と「弘化三年」1846の2種であった。常夜燈近くの庭の境には古い常夜燈の笠の部分がいくつもおかれていて、もっと古そうだが、笠だけでは年代が分からない。あとは日華事変等戦時中の板碑があった。
 ここから真崎方面を目指す。スーパーの前に表面が摩滅しきった石道標らしきがある。妙福寺は近在では大きい寺で、古めかしい物がある。
 今後神社仏閣墓地でどのくらい古い物があるか年代を調べたらおもしろそうだ。
・神社(伯良、佐久、藤五郎、御穂、瀬織戸、)
・寺(妙福寺、)
・墓地(塚間、折戸、妙福寺の北)
・その他(自治会館、公園、史跡)

  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 14:34Comments(0)古道