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2009年12月25日

身延街道、興津筋

序文
底本は、『静岡県歴史の道 身延街道』(静岡県教育委員会)98年と、『山梨県歴史の道 調査報告書第七集 河内路・西郡路』(山梨県教育委員会)を用いた。これを基準として説明していく。底本による調査は79年に実施され、静岡県側は再調査を97年頃行ったようだ。これらの本が往時の身延街道と現状を周知させたことは意義深い。そのため基準としての底本として用いる。しかしその後の現状改変や調査研究の進展により、書き換えられるべきことが出てきていることも、後に具体的に述べるつもりである。底本に記載されていることはなるべく述べないようにしたので、本文を読む際、底本も傍らにあった方が理解できる。
 また実際に当地に出掛け街道歩きを楽しむのならば、上記の底本と付属地図の他、ゼンリンの住宅地図で街道筋周辺の掲載部分をコピーして持って行くと便利である。底本自体はそれぞれの県立や地域の公立図書館にある。「O-1」等の番号は底本に即し参照のためそのまま用いた。番号の無いものは私が改めて掲載したものである。私の調査は90年代末と09年11月である。

・興津起点(静岡県静岡市清水区興津中町273)O-1~8
東海道から興津の身延街道への分岐点は、旧国道1号線(江戸時代の東海道、興津宿)のJR興津駅前交差点を東に1つ目の信号交差点で、理容店としずおか信用金庫店に挟まれた地点である。石塔類が立ち起点の看板表示もある。O-10もかつてはここにあった。もっと東に現在の国道52号線の起点があり、そちらが現在の甲州(山梨県)を結ぶ身延街道といえる。さて街道の起点に戻り街道を北上する。左右に魚屋、酒屋等、レトロな昭和を感じる商店街が続く。この街道は明治初期に整備されたらしく道幅を江戸期のものより広げ、場所によっては別の場所にバイパス化したようだ。起点付近は江戸期と同一ルートのようだがしばらく北上すると江戸期の古道と離れる所も出てくる。
・宗像神社(清水区興津中町554)
 起点より北上、東側2つ目の分岐道、興津小学校の校門の向こうに神社が見える。小学校を素通りして行ける。当神社が奥津宮といわれ興津の名の起こりであり、ここの森は漁師の目印であり、動植物をはぐくむ森なので、女体の森といわれる。
 JRの踏切を越える。O-10がその後昭和29年までここにあった。進んで東側1つ目分岐道の先に神社がある。
・祖霊神社(興津中町510)
 鳥居とお堂がある。向こうに自動車学校の用地が見える。
 さらに北上し、東名高速道ガード下をくぐる。この付近で街道は江戸期の道から明治期の道になるようだ。江戸期の道はガードをくぐってすぐ東に向かう高架側道に右折し1つ目ないしは2つ目の細い道を左折し北上する。車1台しか通れないこの細い道こそが江戸期の街道である。 
・庚申塔(清水区八木間町355)O-9
 三叉路に庚申塔がある。右(東)への道は薩埵集落に向かい、本来北上する街道は無い。おそらく北側の家の境目を北上したと思われる。1区画北に行くとちょうど北上する道が復活する。ただし直線すぎるので区画整理で改変された道と解釈する。北上すると国52号に合流し、道を渡った先に江戸期の街道は無い。近代の区画整理で消滅した。
 明治期の街道に戻り、新幹線ガードの3区画手前に法泉寺入口が見える。
・題目塔(八木間町574)O-10
 本堂前左手にある。かつて身延道起点にあり、踏切傍らに移され現在ここが安住地である。
 明治期の街道を北上すると新幹線ガードをくぐりすぐに国52号に合流し、古い道はなくなる。国52号を北上し、右(東)2~3つ目の路地を右折し東進する。すぐに公園と三島神社が見える。
・三島神社(谷津町一丁目543-1
 この神社前を北に行く道が江戸期の街道である。ここより南下する道は無く、ここから復活し北上できる。かつてこの付近にO-11の石塔類があったようだ。ここから北上しまた国52号に合流し向かいのパチンコ店側に渡る。
街道は店の北側を山に向かい北上するが、一旦O-11の石塔類を安置している蓮性寺に向かう。パチンコ店の南側をまっすぐ西進する。途中妙正尊堂のお堂と七面山の常夜灯を通過し寺に至る。
・題目塔(八木間町574)O-11
 蓮性寺本堂裏の墓地の中に古い石塔を祀ってある。底本では3つとなっているが、題目塔らしきは4つ祀られている。どうも寺にもともとあった物または別箇所から運ばれた物と合祀されたらしい。
・馬頭観音像(谷津町二丁目178)O-12
 4基あり磨耗していて内容は判別しにくいが、よく残してあるものだ。今後も保存を望む。もともとここにあったかは不明。たぶん合祀移転されてきたのだろう。
 道を北上する。山際に道がつくと横山城の看板と石塔類がある。
・秋葉山常夜灯、馬頭観音像(谷津町二丁目383)O-13,14
 横山城跡への入口に立つ。
 街道は左へ曲がり山の西すそを巻いて小島への峠に向かう。
・横山城(城山) O-15
 武田信玄の部下、穴山梅雪が治めた。山の南方の屋敷地やみかん畑がかつての館跡と推定される。09年11月現在本丸へ登ろうとしたが藪であきらめた。10年以上前はもっと道がきれいだったが…。
 街道は城の入口前を左へ曲がり山の西すそを巻いて小島への峠に向かう。
・千願寺参詣供養塔(谷津町二丁目)O-16
 ちょうど城山の真西の街道沿いに立つ。付近には真新しい「馬頭観音」と文字書きされた石塔が立つ。ここを過ぎると小島への峠下降点も近い。
 小島への峠下降点からは小島の町が見えるが、街道は藪の中で、通行危険で困難と看板表示されている。10年ほど前少々の藪だったが通過できたことを思うとさらに悪化している。今回あきらめた。真下は小島に入った所のガソリンスタンドとコンビニである。国52号を通り小島に進む。コンビニを過ぎた所に先ほどの峠への小島からの登山路出入口がある。そこに小島の説明看板と石塔類がある。
・徳本上人供養塔(小島町14-2)O-17
 街道はここから平坦となり、石塔3基と身延道の石道標が立つ。小島についての説明看板もあり役だつ。
 しばらく国52号を通る。
・龍津寺(小島町135)
 国52号沿いにある。小島藩藩主の墓もあるというがどれだか分からない。
 再び国52号を北に向かい、橋を渡り国52号を右折する。数軒めのクリーニング屋の向かいの家の前に石塔がある。
・馬頭観音像(小島町310)O-18
 風化がさらにひどくなり底本ではいくらか判読できていた文字も不能だが、よくぞ保存してあるものだ。
・猿田彦大神(小島町434)
 家の前、街道沿いに向けて石塔が立つ。新しそうである。
 街道はまた国52号と交差し西の山に向かう。
・題目塔(小島町473)O-19
 善立寺門前に立ち、この地域によく見られる谷口法悦一族の建立である。手前に「身延山道」の石道標もある。09,11/8
・酒瓶神社(小島町362)サカベジンジャ
 街道から少しそれるが紹介する。善立寺前を左に向かう。陣屋や藩主の守り神といわれる。09,11/15
・小島陣屋(小島町434)
 酒瓶神社より奥に進む。かつての小島藩1万石の陣屋跡の石垣が残る。説明看板が複数あり分かりやすい。かつて石垣周辺は一面の茶畑で国52号線からも石垣が見えたが、現在石垣手前まで家が立ち並び周辺から石垣は見えない。
 善立寺前に戻り街道を進む。
・藤の木観音(小島町598)
 街道横階段上にある。
・小島(小島町~但沼町)O-20
 往時の街道が残存している貴重な部分。家が途切れ薄暗い林の中で山際の細い道だが自転車でも通れる。但沼で再び町家に入る。このまま下れば国52号線に一旦合流し国52号東側の興津川渡渉点に至る。左折すると東寿院に至り寺の門前で下る道がふるみちと称される。
・題目道標、秋葉常夜灯、観音堂(東寿院境内、但沼町867)O-21、22、23
 もとは国52号沿い薬局横の溝の橋となっていた。「みのぶみち、これよりみぎ」と表示されている。09年ほとんど解読できないがよく保存されている。
 常夜灯は「享和元年、当邑路下若者中建立」
 観音堂(閻魔堂)はもと但沼字石原にあり身延参詣者の宿泊に供された。
・万霊塔、庚申塔(但沼町569)O-24
 東寿院よりふるみちといわれる道を下るとここに出る。古い興津川の渡渉点である。後の国52号東側に移った。渡渉や旅の安全、水難者供養のための石塔類が安置される。ここから興津川への下る道はないと底本に記される。しかしあらためて作り直されたのかもしれないが川まで下る細い道が現存する。ふるみちのルートもよく保存されている。
・三界水陸万霊塔、馬頭観音像(但沼町1170)O-25
 国52号東側の興津川渡渉点である。石塔類が安置される。ここから即下れる道はないが、向かい側の小島公民館側には鉄製階段で上り下りできるようになっている。このルートが正確なものとは限らないだろうが、はずれでもなかろう。
・道祖神(舎人親王社境内、但沼町810)O-37
 国52号東側の興津川渡渉点近くの人家の裏。かつて坂本の分岐点にあったが盗難に遭い現在地に安置される。確かに立派過ぎる見事な石像レリーフである。石像の前にあらためて祠が祀られ石像が後に追いやられている。
・興津川渡渉地(但沼町1170)O-26
 国52号線唯幣橋西のふるみちで渡渉すると小島中グラウンドへ上がりJA清水を通り国52号線付近へ出たと推定される。唯幣橋東から渡渉すると小島公民館西から国52号線付近へ出るルートと小島公民館東から小河内川に沿い国52号線付近に出るルートがあったと思われる。
・地蔵、石塔(小河内3916-12)
 JA清水小島加工場手前に新しい地蔵と古い石塔がある。元来ここにあったものか不明。
・題目塔(経典読誦題目塔) (小河内3845)O-27
 下町屋バス停JA清水で国52号線を右折するのが旧道である。理容店前向かいに「題目塔」190cmがある。傍らに「妙法無縁法界塔」48cmもある。
・巡礼供養塔 (小河内3700)O-28
 浜石岳に行くルートへ曲がらず道なりに進むと下番古橋に出る。橋のふもと左に「巡礼供養塔」がある。
・庚申塔(小河内3597)O-29
 橋を渡り国52号線に出る3軒右手前の高山商店横の道を登り、一番上のお宅が池ヶ谷弘康氏のお宅である。その裏山を5分登ると「庚申塔」が2基あり1基は復元された物らしい。隣は祠があり「浅間、丸山、金山」を祀る。毎年お祭りするとのこと。
・観音堂(小河内3596)
池ヶ谷弘康氏宅の下で高山商店の上に「観音堂」がある。中は施錠されているので許可を受けないと見られない。堂はだいぶ傷んでいるが柱や梁の欄干には彫りが施されている。本尊は高さ20cmの片膝立ちけっか座位の金色仏像で新調した金色の台座と繻子にかくまわれている。本尊の色がやや褪せていて古いことが分かる。周りに「正徳」期の大日如来の石像があり、壁に天保期の木版「法楽」が墨書されている。鰐口も古そうだが銘がない。屋根はトタン葺きだが中は萱葺きだそうだ。堂外に3基石塔があり、1基は天保期の「西国三十三箇所供養塔」らしい。他2基は解読不能。毎月お祭りするとの由。
・石塔(小河内3536)
 旧道から国52号線に合流し番古バス停を過ぎ50mも行くと道右脇に3基祀られている。もともとここにあったというより合祀移転されたものだろう。「交通安全供養塔、供養塔」で近代の物である。
・題目碑(蓮華寺門前、小河内2442)O-30
 高230cmで一際大きい。確かに2箇所折れて補修されている。底本には他に「道祖神62cmがある」とされるが、どうも石道標「身延道」のことと思われる。09,11/15
・舟場(小河内舟場)O-34
 トンネル手前左に急に下る。本来川床まで下りまた上がったのだろうが、そこまでは下がらない近代初期に付け替えた道だろう。近代初期の道の証拠として「曲点」石標識が残っている。09,11/23
・庚申塔(小河内字屋敷925)O-31
 消防小屋付近の墓地裏の小高い丘上に4基立つ。
・石塔(旅人供養塔) (小河内字屋敷)O-32
 不明
・馬頭観音像(小河内字屋敷)O-33
 不明
・宮沢薬師灯篭(小河内字屋敷946)O-35
 もとは薬師堂と身延道の分岐にあったが現在薬師堂に移転。薬師堂はここより2km奥で滝の上にある。途中0.5kmには静清庵自然歩道浜石岳登山分岐点があり、「大日如来」石塔と「水神塔」が立つ。
 薬師堂は山の中の滝場の上にある。国土地理院2万5千分の1地形図で見ると、かつては清水区由比町桜野や槍野ウツギノとも浜石岳北方の尾根を越えた山道でつながっていた。廃村池田とも尻喰い坂を通りつながっていた。かつての山中は周辺の村々と網目のようにつながっていたようだ。
10年ほど前桜野の年寄りに、「少年時父に連れられ山道を入って行って、山の中の神社のお祭りに行ったことがある。そのとき飴玉をもらい感激した。」という話を聴いたことがある。菓子が珍しい時代に1個の飴玉に感動する少年、それを感慨深げに話す年寄り、生涯に残る思い出なのだ。そしてどこの神社なのかを話し合ったが、逢坂や坂本のような麓には行っていないそうで、具体的にはどこの山中なのかさっぱり分からなかった。かつて山中に神社の社があったが、のち麓に移転されたのか、それとも神社と思ったのはどこかのお堂、例えばこの山中の宮沢薬師なのかもしれないと思う。桜野からの距離と標高差から片道1時間半程度でちょうどよいのではなかろうか。おそらく今は廃道だろう。
・題目碑(小河内字坂本474)O-36
 宮沢薬師堂参詣道(静清庵自然歩道浜石岳登山道)の1本北側の道で両線は人家によりつながっていないが、かつてはつながっていたのだろう。坂本集落の北端に設置されたのだろう。
・道祖神(舎人親王社境内、但沼町810)O-37、かつては(小河内坂本)
 現在地は国52号東側の但沼興津川渡渉点近くの人家の裏だが、かつては国52号と坂本の奥の山道に入る分岐で橋を渡った所の、山の尾根に通ずる道の、山への取り付き点にあったと推定する。ここには現在も朽ち果てた石塔1基が祀られている。立派な道祖神はかつてここに祀られていたのだろう。
この山に登る尾根道こそが古い身延道で、古い道は国52号東側の尾根付近または中腹に上り上倉バス停付近の国52号線東側砂防ダムへの取り付き道路辺りに下り、上倉集落内を通り、関屋峠を通過し逢坂の集落を通ったと思われる。
・馬頭観音像(小河内字上倉37‐1)O-38
 上倉アゲクラの上倉邦雄氏宅前に安置される。
・関屋峠(小河内字上倉と逢坂の間)O-39
 上倉集落から逢坂集落を抜ける細い峠道で、地元の人に関屋峠で道を尋ねても分からないが、上倉と逢坂の間の道と尋ねると分かる。由緒のある峠道なので看板標識設置及び保護が望まれる。晴れていると上倉から峠に近付くと切通しの向こうに白い物が見える。近付くと富士の高嶺の白雪であることが分かる。こんなにも富士山が正面にしかも山頂から裾野に向かって開けていくのを眺められるのは珍しい場所である。まさに展望1等地である。歩行時間わずか5分である。底本の表紙グラビアの富士山写真もここで撮影していることが分かる。
・馬頭観音碑(小河内字逢坂7)O-40,41
 関屋峠の逢坂側にある。2基と3基が安置される。峠らしい風情だが、実はすぐ下に逢坂の人家がある。
・勝軍地蔵(小河内字逢坂7)O-42
 関屋峠と国52号の間の尾根上にある。峠を少し逢坂側に下った所から小祠に行ける。「愛宕山大権現」の説明看板があり、かつてここに寺とお堂、そして和尚がいたことが分かる。その跡地にこの地蔵は立つ。
 逢坂の集落中腹から宍原スポーツ広場の山裾を巡り平山の木戸坂に至るのが古道と考えられる。
・宍原平山集落古道(小河内字平山680)O-43
 09年11月23日、第2東名高速道路及び周辺工事のため「木戸坂」を国52号から通行できず、一旦国52号を下り迂回して木戸坂を上っていった。関屋峠についで平山、宍原、長峰三里は古色が残る街道筋である。
・馬頭観音像(宍原字平山680)O-44
木戸坂付近で清掃している老女に所在を問うと、「川向こうの道が身延路ですぐそこにある」とのこと。川向こうの農道に行くとすぐ4基の馬頭観音がある。底本では5基となっているし、老女に問うた場所こそ木戸坂下で、身延路と教えられた道は明らかに農道で、そこに馬頭観音が祀られるのも変だしというわけで、移転合祀は明らかで、しかも身延路も誤って伝えられている。説明看板や標識の設置を望む。移転合祀はやむをえないが、多分破損し破却された1基を取っておいてほしかった。
・天社神碑(宍原字平山437)O-45
 以前は道の真ん中に会ったように思うが、今は薬師堂に向かう道の分岐点のお宅の前に安置される。
・道祖神(宍原字平山428)O-46
 双体道祖神3基が並置される。あまりに絵画的な場所に安置されるので現代の趣向と考えられる。この近辺では珍しい双体道祖神である。
・馬頭観音像(かつての宍原学園入口、宍原字平山)O-47
 不明
・宍原宿(宍原)O-48
 往時をしのばせる。旧道小学校前に周辺観光ガイド地図の看板がある。往時の歴史が色濃く残っていることが分かる。
・秋葉灯篭(宍原1171)O-50
 青木稔氏宅庭にある。塀の隅から覗くことができる。
・問屋鈴木家(宍原1277)O-49
 往時をしのばせる塀作りがよい。本陣であった。
・武田五輪塔(宍原1264)
 問屋鈴木家の向かいの交番横の路地を入り、その先を右折し山の畑に上っていくと見晴らしのよい所に安置されている。武田勝頼対徳川家康の前哨戦である宍原砦の戦で戦死した武田方兵士四十数名を祀る。地蔵2基もある。ここにはかつて寺もあったようだ。
・天王社、馬頭観音像
 馬頭観音らしきが祀られている。元来からこの場所にあるのかは分からない。
・庚申塔(鹿田神社鳥居脇、宍原1372)O-51
 摩滅しているが保存されている。
・三十三観音像(宍原)O-52
 「西国三十三箇所観音像」の標識に従い農道へ左折する。この道が身延道である。50mで観音堂跡がある。階段を上ると見事に保存されているのが見える。
・廻国供養塔(宍原)O-53
 観音堂跡、
・観音供養塔(宍原)O-54
 観音堂跡、
・馬頭観音碑(宍原)O-55
 観音堂跡、
・六地蔵(宍原)O-56
 観音堂跡を50m過ぎた小高い尾根上を越える所で、風光明媚である。O-56から58まで隣接して立つ。よく保存されている。その左隣に水準点もある。真下を見れば旧道「甲駿街道」(宍原町内を通る道)、その向こうに国52号と見えるが、ここに水準点があるということは、他の主要道がなかったこと、こここそが主要道だったということだろう。
・廻国行脚供養塔(宍原)O-57
 よく保存されているものだ。
・観音像(宍原)O-58
 摩滅していて内容不明だが、よく保存されているものだ。
この道は国52号を眼下に見つつ山の中腹を水平に進んでいく。しかし途中竹やぶになり身延路は寸断される。いったん国52号に降りて再度「長峯三里」の標識がある所から上る。
・題目道標(長峯三里登り口、宍原) O-60
 「長峯三里」の標識がある所から農道を上っていくと、農作業小屋前に立つ。摩滅して刻字が読み取れない。底本によれば長峯三里道と内房への道との分岐にあるとのことだが、現在、内房への道が分からないので分岐かどうか不明。長峯三里道はここから先急勾配になって山の茶畑を登る農道である。 
・長峯三里(清水区宍原~富沢境川) O-59
 宍原宿から万沢宿まで三里なので長峯三里というが、地図上で測ると8km少しほどで二里と少しである。ただ山道で要する時間は三里に相当するだろう。
 本ルート上の主要部が宍原北方の尾根道で境川までの4km区間である。ほぼ国52号の西の山の尾根に沿って北上していく。半ば廃道化している部分もあるが、古形態をよく残している。宍原から旧道を通り桜峠に通ずる茶畑への農道を通る。長峯三里への標識もある。茶畑から杉檜の植林地に入ると昔の道の形態が分かる。雑草や倒木による障害はあるが、古道は残存している。途中、左に後山への分岐がある。後山方向に少し下ると石仏がある。道を戻り北上を続けると、県道宍原塩出線(国52号、宍原汚水処理施設と丸徳商事処分地から後山や古住田に出る舗装路)に出る。ここの部分だけ古道が消失するが、エスケープ路としては最適である。この付近に車を置いてハイキングするのによい。再び北の尾根に上ると古道が現れる。死人のタオと呼ばれるところである。左に古住田への分岐がある。これまた少し下ると石仏がある。しばらくすると最高標高地点390mの「鞍打場」に出る。かつての峠、休憩場所で、大型の題目塔がある。鞍打場を過ぎ北上を続けると右の山中ヤマナカ方向に分岐する道がある。もう少し北上すると左の古住田に分岐する道もある。ここから下り1.5kmで境川に出る。ただ道は悪く廃道で付近の歩きやすそうな所を選び人工的な切通しを目印に進む。道の普請(設計・施工)は尾根に忠実ではなく尾根をはずしなるべく高低差を少なくするよう配慮されていて、全道巻き道といってよい。廃道で歩きにくいことを除けば高低差が意外と少ない。
 O-60の題目道標より茶畑の農道を上り、茶畑上端に着くとその先に登山道があり、「長峯三里」の標識がある。ここから歩くしかない本当の身延路となる。
09、11/28現在の状態は入口先50mに林業用作業道が切り開かれ、ちょうど身延路とつかず離れずで500mほどの区間が寸断されている。初めて通る人ではこの先の道が分からないだろう。ヒントは作業道を奥に詰めその先の草薮に人工的な切通しか、登山道らしき地面を探すか、または左頭上に杉檜に混じり電信柱と電線が山奥に通っているのが見える。この電線はこの先の長峯三里、桜峠付近で後山集落に向かうのでとりあえず電線を追っていけば身延路の桜峠・後山分岐点に合流する。作業道付近に標識設置が望まれる。作業道奥からほんの100~200mで身延路の桜峠・後山分岐点に至る。標識があり、道もしっかりしていて迷うことはない。電線はこの少し手前で後山に向かい道より先に左折していく。
身延路を左折し後山に向かい下ると50mで見晴らしのよい茶畑に出て眼下に後山集落が見える。茶畑が切れて竹薮になる所の木の付近で右の斜面に地蔵がはめ込まれている。この手前に「享和二年の馬頭観音」があるはずだが見つけられなかった。なお後山への道にも作業用標識がいくつも立っていて将来的にはここまで作業道が伸びるものと思われる。ということは身延路は桜峠・後山分岐点まで消失するのだろう。
身延路を後山分岐点まで戻り、北の境川方面を目指す。それほど高低差がなく息が切れない。距離750mで身延路は、高さ10m下のアスファルト道路の県道宍原塩出線が通過するため寸断する。右に県道に下る道がある。この50m区間が草薮である。県道向かいに「長峯三里」の標識があるので取り付く。ここも50m区間が草薮の急坂である。上りきると平坦で道が開け歩きやすい。県道付近の草刈が望まれる。距離500mで古住田への分岐に至る。古住田へ200m歩きづらい道を進んでいくと急に道が下降しだす辺りに「安永七年の馬頭観音」がある。分岐に戻り身延路を北上する。すぐに「死人のタオ」に出る。どうも墓場という意味らしいし、以前は暗かったが、今回最も草刈が行き届いている箇所で明るく開け歩きやすかった。しばらくすると「鞍打ち場」に出る。ここが道の上り下りの境目であり、一種の峠である。織田徳川連合軍が甲州の武田軍を追って、ここで休憩したことからの、名の由来が書かれた説明看板がある。「文久三年の題目塔」もある。道は緩やかに下り道幅もやや広い。
今歩いている身延路が江戸末期か明治早期の道と考えられる。理由は明治20年代の地図では現在の国52号付近に甲駿街道が作られているので、甲駿街道が作られる以前に使われていた最終形態が今の長峯三里の身延路のはずである。
身延路は尾根のやや下をなるべく水平に巻いて通り高低差をなくしている。道の上の尾根斜面を見ると2段、3段の平坦な横筋が見られる箇所がある。この横筋は、今の長峯三里身延路より上方に部分的に残っている道の跡であり、おそらく江戸末期より古い道なのだろう。新たに道普請し新道が下方に作られる度に上方の古道が部分的に残されてきたのだろう。まさに道のダウン・ムーブメントの証拠品だろう。
鞍打ち場を過ぎると先ほどの題目塔に似ている、やたらと大きい丸みがかった石が散乱している。道上の斜面にも大石がいくつも顔を覗かせている。ここで地震に遭うとやばそうだ。しばらくすると右折路があるが、先は廃道だろう。かつて山中集落につながっていたのだろう。その先には左折路がある。古住田へ向かう道だろう。これも廃道かもしれない。道は緩やかに下っていく。10年ほど前は切通し道に間伐材がいくつも捨てられ雑草もあり、切通しを通過できず、その上の歩きやすそうな所を通る高巻きをしたのだが、今回は間伐材がなく、部分的に草刈もされていて、切通しに忠実に歩けた。コケと落ち葉だらけのコンクリート舗装の道に出て下っていくと県道と境川に出る。以前は「甲駿田舎の里山荘」があったが、今は建物がない。私有地で立ち入り禁止という看板があったが、それでは長峯三里を通行できず困る。
・題目塔(境川、宍原) O-61
 かつて甲駿田舎の里山荘のあった所の真下が、境川と国52号、杉山や古住田に向かう県道の合流点である。ここの空き地に石塔4基が立つ。境川の大石上にも1基立つ。この空き地の30m奥には石階段があり上ると墓地である。かつてここに旅籠屋甲州屋、両国屋があったのでその関係者の墓だろう。石塔を立てたのも旅籠屋である。今は誰もいない所だがかつては集落だったのだろう。この付近には小葉山集落(今は廃屋のみ、金山神社がある)もある。かつては賑わったのだろう。
  


Posted by 兵藤庄左衛門 at 19:10Comments(0)古街道